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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

ミツバチの蝋燭

(んーと…?)
 学校から帰って、ダイニングのテーブルでおやつの時間。
 ブルーの鼻をくすぐった香り、甘くて美味しそうな匂いがしたのだけれど。
(…ケーキ?)
 甘いものなら、目の前のケーキ。さっきから食べているケーキ。
 けれども生クリームで飾られたケーキの匂いとは違う気がする、この匂いは。嗅いでみたって、やっぱり違う。同じ甘さでもケーキではなくて、どちらかと言えば…。



(ホットミルク…)
 シロエ風のミルクが近いと思った。ハーレイに教わったお気に入りの飲み物、身体が温まる甘いホットミルク。
 前の自分が生きていた頃、マザー・システムに逆らい続けて散った少年、セキ・レイ・シロエ。彼が好んで飲んでいたから、シロエ風だと伝わる飲み物。
 シナモンミルクにマヌカ多めで、それがシロエの注文だった。マヌカの蜂蜜を多めに、と。
 ハーレイから聞いて母に作って貰った時には、マヌカで失敗したけれど。癖のあるマヌカを母が買って来て、薬っぽい味だとハーレイに苦情を言ったけれども、今では甘いマヌカの蜂蜜。
 その蜂蜜がたっぷり入ったホットミルクに近いと感じる、美味しそうな香り。
 ダイニングの何処からか、ふうわりと届いた甘そうな匂い。



(なんで?)
 香りをよくよく考えてみれば、どうやら蜂蜜を思わせるそれ。甘くてトロリとした金色。
 おやつのケーキに蜂蜜は使われていそうにもないし、テーブルの上にも蜂蜜は無くて。甘い蜜を中に閉じ込めた瓶も、器に移した蜂蜜も欠片も見当たらなくて。
(でも、甘い…)
 蜂蜜の香り、あるいは蜂蜜に似た何か。消えずに漂い続ける香り。甘い甘い香り。
 何処、と見回しても分からない。それっぽいものを見付けられない。
 甘い香りを放ちそうなものはケーキの他には一つも無い。
 今日は紅茶を飲んでいるから、シロエ風のホットミルクも無いし…。
 なのに蜂蜜、何処からか甘い蜂蜜の匂い。



 キョロキョロと何度も目で探す内に、母がダイニングに入って来たから。
「ママ!」
 蜂蜜は何処、と訊いてみた。
 甘い匂いがしているけれども、蜂蜜は何処にあるのかと。
「ああ、蜂蜜…。それなら、これよ」
 此処よ、と母が棚から取って来た白い小さな紙袋。何も書かれていない袋で、簡素な袋。素朴と言ったらいいのだろうか、甘いお菓子には似合わない。普通は凝った袋なのに、と見ていたら。
 母が開けた袋の中からフワッと蜂蜜そのものの匂い、出て来た黄色い小さな蝋燭。
 まるで蜂蜜を固めたかのような黄色い蝋燭、ランプに入れるのに良さそうなサイズ。蝋燭で灯すタイプのランプ用に、と母が買ったりしているサイズ。
 その蝋燭から甘い甘い匂い、蜂蜜の匂い。
 お菓子ではなくて蝋燭なのに。火を灯す芯がついているから、蝋燭の形のお菓子ではない。
 それなのに甘い香りの蝋燭、幼い子供なら齧ってしまいそうな匂いの蝋燭。



「なあに、それ?」
 蜂蜜の匂いがしてるけれども、お菓子じゃなくって蝋燭だよね?
 食べるものじゃないよね、その蝋燭…?
「これはね、ミツバチの蝋燭よ」
「えっ?」
 ミツバチの蝋燭と言われてもピンと来ないし、キョトンと目を丸くして眺めていたら。
 知らないでしょう、と母が教えてくれた。「本当にミツバチの蝋燭なのよ」と。
 ミツバチが巣を作る巣材の蜜蝋、蜂蜜を採る時には壊されてしまうミツバチの巣。その巣に熱を加えて溶かすと蜜蝋が出来て、甘い香りの蝋になる。
 蜜蝋は新しい巣を作るためにとミツバチに与えてやるのだけれども、同じ蜜蝋から作れる蝋燭、母の友人が作ったらしい。
「養蜂場へ行ったんですって、蜂蜜を買いに」
 そしたら蜜蝋も売られていたから、一緒に買って来たらしいのよ。蝋燭作りがお勧めです、って養蜂場の人が言ってたらしいわ。



 養蜂場のお土産の蜜蝋、それで手作りした蝋燭。
 置いてあるだけでも甘い匂いが漂うけれども、火を灯しても蜂蜜の香りが素敵らしくて。
「せっかくだから試してみる?」
 どんな匂いか、ブルーも嗅いでみたいでしょう?
 蜂蜜は何処に置いてあるの、ってママに訊いてたくらいだものね。
「うんっ!」
 ミツバチの蝋燭、初めて見たよ。巣から蝋燭が作れるなんて…。
 巣まで蜂蜜の匂いがするなんて、ぼく、考えてもみなかったよ。巣は蜂蜜が詰まってるんだし、匂いも同じになるんだろうけど…。
 蝋燭はどんな匂いがするかな、やっぱり蜂蜜の匂いなのかな…?



 母が火を灯してくれた蝋燭。ミツバチの巣から出来た蝋燭。
 ゆらゆらと揺れる焔は蜂蜜の匂いを連れて来た。溶けてゆく蝋の甘い香りを、ミツバチが集めた蜂蜜の匂いを。
 甘い匂いを満喫してから、二階の自分の部屋に戻って。
(美味しそうだったな…)
 甘くて美味しそうな匂いだった、と勉強机の前に座って思い出す。
 火を灯しても蜂蜜の香り、灯す前から蜂蜜の香りがした蝋燭。ミツバチの巣から作った蝋燭。
 今の時代も蝋燭は色々あるけれど。
 凝った形をしているものやら、絵がついたものや、それは色々とあるのだけれど。
 そういう蝋燭とは少し違って、特別な感じがする蝋燭。ミツバチの蝋燭。



(匂いも、色も…)
 店で売っている蝋燭とは違う、とミツバチの蝋燭を思い浮かべた。
 甘い蜂蜜の匂いが漂う蝋燭、火を灯す前から蜂蜜の香り。まるで蜂蜜を固めたみたいに。
 色も蜂蜜を思わせる色で、黄金色にも見えた蝋燭。金色に輝いてはいないけれども、荘厳な金。蝋燭の光で金細工を見たら、ほのかな暗がりでそれを見たなら、あんな風ではないだろうかと。
 甘い香りに厳かな黄金、自然の素材で出来た蝋燭。
 人の手が加えてあると言っても、それは蝋燭の形にしただけ。蜜蝋はミツバチが作るのだから。
 自然の中から生まれた蝋燭、天からの授かり物のような蝋燭。
(素敵だよね…)
 甘い香りも黄金の色も、人が作ったものではないから。
 あんなに甘くて美味しそうなのに、蜂蜜の色を湛えているのに、自然が作った蝋燭だから。
 本当に素敵でホントに特別、と思った途端に。



(あ…!)
 あの蝋燭は特別だった、と掠めた記憶。遠い遠い記憶。
 前の自分の。ソルジャー・ブルーだった自分の。
(…神様の蝋燭…)
 白いシャングリラではそうだった。
 甘い蜂蜜の香りが漂う金色の蝋燭は、神に祈りを捧げた蝋燭。祈りの時に灯す蝋燭。
 あれはミツバチの蝋燭だった、と遠い記憶が蘇って来た。
 前の自分もミツバチの蝋燭を知っていた。甘い香りも、あの金色も。
 蜜蝋で出来た蝋燭を灯した、さっき母と灯していたように。
 蜂蜜の香りが漂う蝋燭の焔を見詰めて祈った、きっと何処かにいるだろう神に。



 白いシャングリラにもあったミツバチの蝋燭、蜜蝋で出来た金色の蝋燭。
 それは偶然から生まれて来たもの、蝋燭を作ろうとしていたわけでは全くなかった。
 始まりはミツバチを飼い始めたこと、自給自足の生活の日々の助け手として花粉を運んでくれるミツバチの巣箱をシャングリラに置いた。
 居住区に散らばる小さな公園でも生きられるように改良されたミツバチ、テラフォーミング用に人類が改良していたミツバチ。それを奪って巣箱を幾つも。
 そうして蜂蜜を採ろうとしていて、巣から蜜蝋が採れると分かった。蜂蜜を採るために壊す巣を溶かせば、蜜蝋というものが出来るらしいと。



「蜜蝋は次の巣材になるのだがね」
 ミツバチのために与えてやれば、と言ったヒルマン。
 蜜蝋はミツバチの身体の中から出来るものだけれど、既に出来上がった蜜蝋があれば、巣作りの助けになるようだ、と。
 ミツバチは蜜蝋で新しい巣を作り直して、また蜂蜜を溜めてゆく。蜂蜜が溜まれば、人間が巣を壊して蜂蜜を採る。その巣からまた蜜蝋が出来て…、という繰り返し。
 けれども蜜蝋を貰わなくとも、ミツバチは自分で巣を作れるから。蜜蝋を全て返す必要はないというから、ヒルマンとエラが調べた結果。
「蜜蝋からは蝋燭なども作れるそうです」
 エラが蜜蝋の使い道を挙げた。蝋燭の他にもハンドクリームやリップクリームなど、様々な物に使えるらしいと。
「へえ…! ミツバチの巣から蝋燭なんかが出来るのかい?」
 面白いじゃないか、と言い出したブラウ。
 ミツバチと蝋燭はまるで結び付かない気がするけれども、面白そうだと。蜂蜜を採るなら、その蝋燭を作ってみよう、と。



 そうして生まれた金色の蝋燭。
 蜂蜜を集めるために開けた巣箱の、壊してしまった巣から生まれて来た蝋燭。
 ヒルマンがミツバチの管理係と一緒に蜜蝋を作り、その蜜蝋からエラが手作りした蝋燭。試しに作ってみた金色。
 長老たちが集まった席で披露されたそれは、甘い匂いがして美味しそうだった。蜂蜜の香り。
 ゼルにブラウに、ヒルマンにエラ。ハーレイとブルー、その六人で囲んで火を灯してみて。
「美味しそうな匂いだねえ…」
 本当に本物の蜂蜜みたいだ、とブラウが漏らした感想。美味しそうだと。
「どう見ても食えんようじゃがな」
 蝋燭じゃし、とゼルが返したけれど。
「そういうわけでもないようだがね」
 ヒルマンの言葉は、「この蝋燭は食べられる」という風にも受け取れたから。
「食べられるのかい、これは?」
 前の自分が問い掛けてみれば、「神様がね」と笑顔のヒルマン。
「え…?」
 それはどういう意味なんだい?
 神様が蝋燭を食べるというのかい、神様はこれを食べるのかい…?



 いったいどうやって食べるのだろう、と意味を掴みかねた前の生の自分。
 聖書には書かれていないようだけれど、神は蝋燭を好んで食べるというのだろうか、と。
 そう、文字通りに「食べる」ものだと考えた。口に運んで味わうのだと。
 ゼルもブラウも、ハーレイもそう考えたけれど、ヒルマンとエラの答えはそうではなかった。
 神は蝋燭の甘い香りを好むもの。
 遠い昔に教会で焚かれた乳香などの煙と同じで、この蝋燭の香りも神への捧げ物なのだ、と。



 SD体制が始まるよりも遠い遥かな昔の地球。中世と呼ばれていた時代。
 蜜蝋で出来た金色の蝋燭は神に捧げる貴重品だった。
 蝋燭の材料は蜜蝋の他にも色々とあって、牛脂などの動物の脂が一般的だったけれど。そうした蝋燭は神は好まない、それは良い香りがしないから。教会を天上の香りで満たしはしないから。
 教会で灯すなら蜜蝋の蝋燭、蜂蜜の香りがする蝋燭。
 蜂蜜自体が貴重だった時代、甘い菓子など庶民の口には入らなかったような時代に蜜蝋の蝋燭は高価な蝋燭、教会で神に捧げる蝋燭。
 時が流れて、獣脂ではなくパラフィンの蝋燭が普及した後も、教会でもパラフィンの蝋燭を使うようになっても、蝋燭が主役を務める儀式の時には蜜蝋の蝋燭が使われた。
 神が好むという蝋燭が、甘い香りのする蝋燭が。



 その習慣は消えてしまって、もう人類の社会にも残っていないという。
 蜜蝋の蝋燭を好んだ神は今でも存在するのに、シンボルの十字架もあるというのに。
「地球が滅びてしまったからねえ…」
 神様も贅沢を言ってはいられないんだねえ、とブラウが深い溜息をつけば、エラも頷いた。
「蜜蝋の蝋燭どころではなかったようです」
 地球はミツバチが自然に生きられる環境を失い、蜜が採れる花も育たなくなって…。
 急速に衰えてゆく地球を救うためにと、人類は地球を離れました。SD体制を作り上げて。
 そんな激動の時代の中では、とても教会どころでは…。
 祈る人がいても、蜜蝋の蝋燭を作る余裕は無かったでしょう。
 それが神への捧げ物だったと覚えていた人たちも死んでしまって、蜜蝋の蝋燭が何であったかは忘れ去られてしまいました。
 人類の社会に蜜蝋の蝋燭はあるのですけれど、香りを楽しむもののようです。蜂蜜の匂いがする蝋燭だと、自分の心を楽しませるために灯して暮らしているそうですよ。



 人類が忘れてしまった蝋燭。神に捧げていた蝋燭。
 けれども、今でも神はいるから。
 シャングリラの中に教会は設けていないけれども、人類の社会にも純粋に祈りの場である教会は一つも無いのが現状だけれど。結婚式などのために存在するのが教会、それを維持する人間たちも信仰ではなくて仕事をしているだけなのだけれど。
 それでも祈るなら神はいたから。
 蜜蝋の蝋燭を好んだという神は今でもいるのだから。



「この蝋燭…。神様の蝋燭にしておこうか」
 せっかくだから、と言ってみたものの、シャングリラの中には無い教会。
 その教会から作るとなったら難しいし、と考え直しかかっていたら。
「いいと思うね」
 祈りたい人が使うというのはどうだね、とヒルマンが言った。
 神に祈りを捧げたい時は、蜜蝋の蝋燭を使えばいいと。
 蜂蜜を採ったら蜜蝋が出来るし、蜜蝋の蝋燭はこれから先も作ってゆける。白いシャングリラの中で幾つも、幾つも、蜂蜜の香りの蝋燭を。
 祈る時にはそれを一本、甘い香りの蝋燭を灯して祈ればいいと。
「いいねえ、蝋燭を灯すだけなら自分の部屋で自由に祈れそうだよ」
 とっておきの蝋燭なんです、と神様にアピールしながらね、とブラウがパチンと片目を瞑れば、ゼルも乗り気で頷いた。
「ふうむ…。自分の部屋で祈れるとなったら、個人的なことでも遠慮は要らんのう…」
 特別な蝋燭を灯していようが、自分の部屋の中なんじゃしな。
 もう遠慮なく頼み事が出来るというもんじゃ。つまらんことでも、誰も笑いはせんからのう…。



 これは使えそうだ、と皆で頷き合った蝋燭。
 シャングリラにも蝋燭はあったけれども、それとは違った特別な感じがする蝋燭。
 遠い昔には神に捧げたらしい蝋燭、その上、人類が忘れた習慣。
 蜜蝋の蝋燭は神への捧げ物だったことを人類はすっかり忘れてしまった、滅びへと向かう地球を救うのに精一杯で。
 地球は救えたようだけれども、蜜蝋の蝋燭を捧げる祈りは戻らなかった。教会はあっても人生の節目の結婚式だの、クリスマスだのといった行事をするための場所。蜜蝋の蝋燭を灯す儀式はもう行われてはいないから。
 その蝋燭を灯して祈れば、ミュウの祈りが届くかもしれない、甘い匂いに乗って神の許へと。
 蜜蝋の蝋燭を好んでいた神は、今も何処かにいるのだから。



「じゃあ、神様の蝋燭ということにしよう」
 そう宣言した、前の自分。ミュウの長だったソルジャー・ブルー。
 反対する者はいなかった。長老たちの中にも、白いシャングリラの仲間たちの中にも。
 エラが試作した蜜蝋の蝋燭の甘い香りと、ヒルマンが伝えて回った蜜蝋の蝋燭と神との繋がり、それらは皆の心を捉えた。この蝋燭は他の蝋燭とは全く違うと、祈りに相応しい蝋燭だと。



 こうして作られるようになった蜜蝋の蝋燭、特別な蝋燭だったけれども。
 白いシャングリラのミツバチの蝋燭は、祈りたい時には誰でも貰えたけれど。
(前のぼくはあんまり…)
 祈らなかった、個人的なことは頼まなかった。
 ミツバチの飼育は順調だったし、蝋燭は充分に足りていたのに。神に祈りたい気分になったら、蝋燭の保管場所に出掛けさえすれば、誰でも分けて貰えたのに。
 何を祈るのかも訊かれはしないし、貰いすぎだと言われもしない。係がケースから出して渡すというだけ、「どうぞ」と一本渡されるだけ。
 なのに滅多に灯しはしないで、個人的な祈りも捧げなかった。
 前の自分は皆を導く長でソルジャーだったから。ただのミュウではなかったから。
 たった一人きりのタイプ・ブルーで、白いシャングリラを守っていたから。
 個人的なことを神に頼める立場ではないと、頼んでは駄目だと自分を何度も戒め、けして祈りはしなかった。蜜蝋の蝋燭を灯す時には、それを灯して祈る時には。
 自分の本当の願いは密かに、蝋燭は灯さずに心で祈った。そのくらいは許して貰えるだろうと。
 だから自分の寿命が尽きると分かった時にも、皆を地球へ、と蝋燭を灯した。
 自分は地球まで行けないけれども、皆は地球まで行けるようにと。



 前の自分が蜜蝋の蝋燭を灯して祈ったことは殆ど無かった、特別な蝋燭は滅多に灯さなかった。
 本当の願いは心の中だけ、蝋燭は灯さず、本当に心の中でだけ。
(ハーレイとのことも…)
 一度も祈りはしなかった。
 何処までも共にと、二人一緒にと願ったけれども、それは心の中だけだった。
 蜜蝋の蝋燭を灯しはしなくて、ただの一度も特別な祈りを捧げようとはしなかった。甘い香りの蜜蝋の蝋燭、それを灯しはしなかったのに。神に祈りはしなかったのに。
 ハーレイと二人で生まれ変わって地球に来られた、奇跡のように。
 青い地球の上に、聖痕を抱いて今の自分は生まれて来た。
 それを願った覚えは無いのに、蜜蝋の蝋燭に祈りを捧げはしなかったのに。



(もしかして、ハーレイ…?)
 前の自分は一度も祈りはしなかったけれど、ハーレイが祈りを捧げただろうか。
 甘い香りの蝋燭を灯して祈っただろうか、自分とのことを。
 それならば神にも届いたかもしれない、二人で地球へ、という願いが。
 前のハーレイと前の自分の思いは同じで、何処までも共にと何度も確かめ合っていたから。命が尽きた後も共にと、共に逝こうと抱き合ったほどに。
 前のハーレイは神に祈っていたかもしれない、あの蝋燭を灯して自分の代わりに。
 いつか地球へと、二人で地球へ行けるようにと。



(やっぱり、ハーレイ…?)
 ハーレイが祈ってくれていたから、今の幸せがあるのだろうか。
 蜜蝋の蝋燭を捧げた祈りは、神に届いていたのだろうか。
 それをハーレイに尋ねてみたい、と思っていた所へチャイムが鳴って。ハーレイが仕事の帰りに寄ってくれたから、いつものテーブルで向かい合うなり訊いてみた。
「ねえ、ハーレイ。…神様の蝋燭、覚えてる?」
「はあ?」
 なんだ、そいつは。神様の蝋燭というのは何の話だ?
「えっとね…。ずうっと昔は神様専用だった蝋燭」
 ミツバチの蝋燭で、蜜蝋の蝋燭。ミツバチの巣から作るんだよ。
 母が友達から貰って来たのだ、とミツバチの蝋燭の話を聞かせた。
 蜂蜜の匂いがする蝋燭だと、甘い匂いで、見た目も蜂蜜を固めたような金色なのだ、と。



「シャングリラでも作っていたんだけれど…」
 ハーレイ、覚えていないかなあ?
 神様にお祈りをしたい人は誰でも貰えた蝋燭なんだけど…。ミツバチの蝋燭。
 蜂蜜の匂いがする蝋燭は神様専用だったと言うから、お祈りする時だけ使った蝋燭…。
「ああ、あれなあ…!」
 あったな、そういう蝋燭も。俺は滅多に使わなかったし、すっかり忘れちまっていたなあ…。
 蜂蜜の匂いが美味そうな蝋燭、シャングリラに確かにあったっけな。



 懐かしいな、とハーレイが鳶色の目を細めたから。
 白いシャングリラのミツバチの蝋燭を思い出してくれたようだから。
「…もしかしてハーレイ、祈ってくれた?」
 あの蝋燭を貰って灯して、ちゃんとお祈りしてくれていた…?
「何をだ?」
「ぼくとの未来。…前のぼくとの未来のことだよ」
 いつまでも二人でいられますようにとか、二人で地球へ行けますように、とか。
 そういうお祈りのために、あの蝋燭を灯してくれた?
 神様にお願いしてくれていた…?



 前の自分たちが幸せになれるように祈ってくれただろうか、と訊いたのだけれど。
 蜂蜜の香りの蝋燭を灯してくれただろうか、と尋ねたけれど。
「…すまん…」
「え?」
 どうしたの、ハーレイ。すまん、って…。何が?
「…そのままの意味だ。俺はお前に謝ってるんだ」
 前のお前と、俺との未来。俺は祈っちゃいないんだ。
 もちろん祈らないわけはなかった、いつだって祈り続けていたが…。前のお前の幸せも祈ってはいたが、あの蝋燭を灯して祈りはしなかった。
 神様に祈るための蝋燭、俺は一度もお前とのことを頼んじゃいない。
 だから、すまんと言っている。…あの蝋燭は何度も灯したんだが、お前とのことは…。



 祈らなかった、と答えたハーレイ。「すまん」と頭を下げたハーレイ。
 俺はキャプテンだったから、と。
「…あの蝋燭を灯してた時は、シャングリラだとか、仲間たちだとか…」
 そういったことで神様のお世話になりたかった時だな、俺だけの力じゃ心許なくて。
 祈ったからって、問題が解決するとは思っちゃいなかったが…。
 それでも心が軽くなったもんだ、やれるだけのことはやった、とな。
 後は神様にお任せしようと、きっといい方向に導いて下さることだろう、と。運を天に任せるとでもいった所か、後は神様次第なんだ、と。
 …俺はそういう時しか祈っていないが、お前は祈らなかったのか?
 あの蝋燭を灯して俺との未来を一度も祈っちゃいないのか?
 さっきのお前の言い方からして、そんな風に聞こえちまうんだが…?
「うん…。ぼくはソルジャーだったから…」
 ハーレイがキャプテンだったのと同じで、ぼくはソルジャーだったから。
 みんなのことが何よりも先で、あの蝋燭を灯してお祈りするなら、そういうことだけ。
 自分のお祈りは心の中だけ、蝋燭は一度も灯していないよ。
 どんなに神様に頼みたくっても、あの蝋燭は使っちゃ駄目だ、って…。そう思ってた。
 でも…。



 あの蝋燭の祈りのお蔭で地球に来られたのかと思ったから、と打ち明けた。
 人類が忘れてしまった蜜蝋の蝋燭、それで祈りを捧げていたミュウ。白いシャングリラの仲間や前の自分たち。
 神が好んだという甘い香りに乗せた祈りが届いたのかと思った、と。
 けれども自分はあの蝋燭を灯してハーレイとの未来を祈らなかったし、きっとハーレイが祈ってくれたに違いないと考えたのだけれど、と。
「…だから、ハーレイと地球まで来られたのかな、って…」
 ぼくは聖痕まで貰っちゃったし、きっと神様のお蔭だよ、って。
 あの蝋燭でお祈りしたから願いを叶えて貰えたんだと思ったけれども、ハーレイもあれを灯してないなら、蝋燭のお蔭じゃないのかな…?
 神様が奇跡を起こしてくれたの、蝋燭のお蔭だと思ったんだけど…。
「ふうむ…。俺が思うに、そこは逆だろうな」
「逆?」
 逆ってなんなの、あの蝋燭のお蔭じゃないっていう意味?
「いや、あの蝋燭もまるで無関係ではないかもしれん、と思うんだ」
 もしも前の俺たちの願いが神様に届いていたとしたなら、あの蝋燭で祈った分もそうだが…。
 蝋燭を灯して祈る時にも、自分の本当の願い事は一度も祈らなかったこと。
 …そのせいじゃないか?
 本当だったら、一番に祈りたい筈の自分のこと。自分の幸せな未来ってヤツ。
 そいつを一度も祈りはしないで、他のことばかりを祈り続けて…。
 神様にそれが分からないとは思えない。
 最後まで一度も祈らなかったから、御褒美に本当の願いを叶えて貰えたんじゃないか…?



 前の自分たちが祈りを捧げた蜜蝋の蝋燭、ミツバチの蝋燭。
 神様に祈る時にはこれだ、と決めていた甘い香りの蝋燭。
 それを灯して祈ったけれども、前のブルーはソルジャーだったし、ハーレイはキャプテンという立場だったから。
 蝋燭を灯して祈る時には皆のことばかり、白いシャングリラのことばかり。
 自分たちの未来を祈りはしなくて、それは心の中でだけ。蝋燭は灯さず、心の中で。
 蝋燭の甘い香りが無ければ、祈りは届きにくいのに。
 神が好んだ甘い香りに乗せない祈りは、届かないかもしれないのに。
 それでも祈りはしなかった。
 ソルジャーだからと、キャプテンだからと、自分を強く戒め続けて。
 祈りのための特別な蝋燭があっても、それに火を灯すことがあっても…。



 前のブルーと前のハーレイ、二人揃って祈らずに終わった本当の願い。
 ミツバチの蝋燭を灯さないまま、心の中だけで祈り続けた自分たちのための幸せな未来。
 それに神様は気付いて下さっていたのだろう、とハーレイの鳶色の瞳が深くなるから。
 あの蝋燭を灯して祈らなかったことも大きいだろう、と言われたから。
「…そっか、祈らなかったから…」
 前のぼくの本当のお祈りのために、あの蝋燭を一度も使いはしなかったから…。
 灯さずに最後まで我慢したから、神様、叶えて下さったんだ…?
 ハーレイと幸せになれますように、って、二人で地球へ行けますように、っていうお祈り…。
「多分な。…あの蝋燭が関係してると言うんだったら、そんなトコだろ」
 俺もお前も、一度も祈りはしなかった。そこを評価して下さったんだな、よく我慢したと。
 本当だったら祈りたいだろうに、最後まで我慢し続けたから…。
 よく頑張ったと、これが御褒美だと、願いを叶えて下さったかもな。
「…それじゃ、今度も祈っちゃ駄目?」
 ハーレイと幸せになりたくっても、ぼくはお祈りしちゃ駄目なのかな…?
「今度はいいだろ、俺もお前も」
 ただの教師と生徒なんだぞ、優先しなくちゃいけない仲間も船も無いしな。
 シャングリラはもう何処にも無いんだ、俺たちの役目は終わったってな。



 もうソルジャーでもキャプテンでもなくなったんだから、と微笑むハーレイ。
 あの蝋燭を自分だけのために灯してもかまわないだろう、と。
「好きなだけ祈っていいと思うぞ、今度はな」
 お前も、俺も。
 神様に届きますように、って蝋燭を灯してもかまわんだろうさ、自分の願い事のためにな。
「それじゃ、ママが持ってたみたいなミツバチの蝋燭…」
 好きな時に灯してかまわないんだね、神様にお祈りするために。
「そういうことだな。…結婚したなら毎日灯すか、あの蝋燭を?」
 養蜂場へ行けば蜜蝋が買えるし、出来上がった蝋燭も売られているかもしれないし…。
 地球のミツバチの蜜蝋で出来た蝋燭だったら、うんと効き目があるだろう。
 そいつを毎日二人で灯して、神様にお祈りしてみるか。
 幸せになれますように、ってな。
「いいかも…!」
 ママの蝋燭、ホントに美味しそうな匂いがしてたし、あれを二人で買いに行こうよ。
 蜜蝋で作るか、ちゃんと蝋燭になっているのが買えるのか…。
 ハーレイと二人で灯す蝋燭、養蜂場まで買いに行こうね…!



 蜂蜜の香りのミツバチの蝋燭、甘い匂いがする蝋燭。
 白いシャングリラでは祈りのために灯した蝋燭、神に祈りを捧げた蝋燭。
 前の自分もハーレイも、本当の願いは一度も祈らずに終わったけれど。
 あの蝋燭を自分のためには、一度も灯しはしなかったけれど。
 今度は灯して、幸せになれるように祈ってみたい。
 前は祈れなかった分まで、ハーレイと二人、うんと欲張りに。
 二人で暮らす家で二人で灯して、うんと幸せになれますように、と…。




         ミツバチの蝋燭・了

※シャングリラで作られていた蜜蝋の蝋燭。神に祈りを捧げる時だけ、皆が灯していたのです。
 前のブルーもハーレイも祈った、自分たちの幸せ以外のこと。お蔭で今では地球の住人。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









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