シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(えーっと…?)
何だろう、とブルーは目を丸くした。
昼休みの時間、ランチ仲間と来た食堂。順番待ちで並んでいる目の前で起こった出来事。行列の先頭までは数人、じきに順番が来るのだけれど。注文した品を渡して貰えるけれど。
列の一番前、「弓道部です!」と元気よく叫んだ男子に渡されたトレイ。その上に載った大きな丼、それを見るなり丸くなった目。
(カツ丼…?)
御飯の上にたっぷりと卵、火が通ったそれでとじられたカツ。一面の卵と、それからカツと。
どう見てもカツ丼、何処から見たってカツ丼でしかないけれど。カツ丼の匂いもするけれど。
(…無いよね、カツ丼?)
学校の食堂には無いメニュー。注文しようという生徒が少ないからか、丼物はまるで無かった。考えてみれば女子は丼物を頼まないだろうし、男子だけのためのメニューは必要無い。
ライスカレーやオムライスなどはメニューにあっても、丼物は無いし、見たこともない。
なのにカツ丼、それを載せたトレイを颯爽と運んでゆく男子。
しかも注文の時にカツ丼とは言っていなかった男子、たった一言、「弓道部です」とだけ。
(…なんで弓道部でカツ丼になるの?)
それも不思議だし、メニューに無いカツ丼が貰えた理由も分からない。行列が進んで自分の番になるまで考えたけれど、やっぱり分からないカツ丼の謎。
いつものランチセットを頼んで、出て来るまでの間に確認したメニューにもカツ丼は無かった。
(…無い筈なのに…)
けれど確かに自分は見たのだ、カツ丼のトレイを貰った生徒を。
美味しそうな匂いも、卵でとじられたカツも、大きな丼も白昼夢などではなかった筈で。
「ねえ、さっき…」
カツ丼を持った生徒がいたよね、とランチ仲間とテーブルに着いてから訊いてみた。勘違いではないと思うのだけど、と。
「ああ、見た、見た! いたぜ、カツ丼を持ってったヤツ」
「何だったんだろうな、あのカツ丼…。食堂のメニューにカツ丼、無いよな?」
ランチ仲間も同じ疑問を持っていたから。
「…注文した時、なんて言ったか覚えてる?」
「いや、俺は…。別の方を見てたし」
他の友人も聞いていないと言うから、自分が目にしたあの光景を話してやった。カツ丼を貰った男子生徒は「弓道部です」としか言わなかったと、何の注文もしていないのだと。
「え? 注文しないでカツ丼なのかよ?」
「弓道部って、それ、どういう意味だよ?」
何かの暗号なのだろうか、と皆で考え込んだけれども、分からない。カツ丼の方も、この学校の食堂で見たという記憶が誰にも無かった。なのにカツ丼、弓道部の男子が貰ったカツ丼。
(こんな時のハーレイ…)
ハーレイなら知っていそうだけれど、と食堂をぐるりと見回したけれど、いなかった。柔道部の生徒とたまにランチを食べているくせに、こういう時に限っていない。
そして少し離れたテーブルに見付けた柔道部の生徒たちは普通のランチ。運動部の生徒に人気の大盛りランチで、カツ丼の姿は影も形も見当たらない。
(…カツ丼、弓道部だけだったの?)
柔道部員もカツ丼を食べていたなら、今日はそういう日なのだろうと納得だけれど。運動部員は誰でももれなくカツ丼の日だと、何か特別な行事なのだと考えるけれど。
(…弓道部だけ…?)
しかも弓道部も、部員はそこそこいる筈なのに。さっきの男子生徒の他にもカツ丼を食べている姿を目にしそうなのに、そういうわけでもなかったから。
(弓道部だと誰でもカツ丼…じゃない…とか?)
どうにも謎だ、と首を捻った。
これは覚えておかなければ。ランチ仲間の話題はとっくにカツ丼から離れているけれど。まるで無関係な話になっているけれど、カツ丼が気になって仕方ないから。
(ハーレイだったら知っている筈…)
いつか訊こう、と疑問を頭に叩き込んだ。今日は無理でも、いつか訊こうと。
そんなわけだから、家に帰ってもカツ丼は忘れていなかった。
着替えを済ませてダイニングでおやつを食べる間も、頭から離れてゆかないカツ丼。母が焼いたケーキを頬張りながらも、カツをとじていた卵が浮かぶという有様。ケーキもカツ丼も卵が入る。黄色い卵が、どちらにだって。
(…カツ丼も嫌いじゃないんだけれど…)
好き嫌いは無いし、カツも卵も嫌いなわけではないけれど。カツ丼になると増えるボリューム、同じカツでも量がドカンと増えた気がする。それをとじている卵だって。
たっぷりのつゆが悪いのだろうか、とにかくカツ丼は美味しいけれども多すぎる量。カツだけで食べるなら大丈夫そうに見える量でも食べ切れない。いつだって残してしまうカツ丼。母が少なく盛ってくれても、小さな器に入れてくれても。
(今日、見たような丼だったら…)
とても自分は食べ切れはしない。どう頑張っても半分が限界、三分の一で丁度いいくらい。
そういったことを考えていたら、母がダイニングに入って来たから。
「ママ、カツ丼って何だと思う?」
今日、学校でこんなのを見たんだ、と話したけれど。
似たような出来事を見はしなかったかと、心当たりが何か無いかと尋ねたけれども、母も答えを知らなかった。学生時代はブルーと同じで食堂でランチだったけれども、見たことがないと。
(カツ丼、やっぱりママにも謎だよ…)
あのカツ丼は何だったのか、と部屋に戻った後も気になる。父ならば知っているのだろうか?
それとも父も見たことがなくて、「なんだそれは?」と母と同じ顔をするのだろうか。
まさかカツ丼で悩む日が来るとは思わなかった、と考え込んでいたらチャイムが鳴った。窓から覗くと、門扉の向こうで手を振るハーレイ。これは訊かねば、カツ丼のことを。
(ハーレイだったら分かる筈だよ)
分からなくても、ハーレイは教師なのだから。あの学校で教えているわけなのだし、食堂の人に尋ねることも出来るだろう。カツ丼の謎を解き明かしに行ってくれるだろう。
こんなに気になるカツ丼の謎。ハーレイならばきっと、と期待が高まっていたものだから…。
ハーレイと部屋で向かい合うなり、テーブルを挟んで座るなり、訊いた。
「カツ丼、知ってる?」
「好物だが?」
「そうじゃなくって!」
自分の訊き方がまずかった、と反省したのもほんの一瞬、謝る代わりに説明をした。食堂で目にした不思議な光景、謎のカツ丼。
それが出て来たと、ハーレイは食堂にいなかったけれど、と。
「弓道部です、って言ったらカツ丼なんだよ」
カツ丼のトレイを貰ってたんだよ、食堂のメニューにカツ丼、無いのに…。
弓道部の生徒はもっと大勢いると思うのに、みんなカツ丼でもなかったみたいで…。
「ああ、それか…!」
その日だったか、とハーレイは気付いたようだから。
何故、弓道部でカツ丼なのかを、きちんと知っているようだから。
「何なの、カツ丼?」
あのカツ丼は何だって言うの、どうして弓道部だって名乗るだけでカツ丼だったわけ?
「スペシャルメニューというヤツだな」
普段は食堂に無いだろ、カツ丼。もう本当に特別なメニューだ、スペシャルなんだ。
「スペシャルメニューって…。何がスペシャル?」
「お前たちは全く知らないだろうが、明日、弓道部は大会なのさ」
あちこちの学校から強い選手を集めて競技会だな、そいつがあるんだ。
それに備えてスペシャルメニューだ、カツ丼なわけだ。
何処かの体育館で開催されるらしい、弓道部員が腕を競うための競技会。強い選手だけを集めた大会、それに何人かが出場するのだと聞かされた。
カツ丼の生徒は出場選手だと、だからスペシャルメニューなのだと。
「…なんでスペシャルメニューでカツ丼?」
栄養をつけて出て下さい、って言うんだったら、大盛りランチになりそうだけど…。
大盛りランチにメッセージカードがつくとか、デザートがつくなら分かるんだけど…。
「分からないか? カツ丼なんだぞ」
カツ丼だ、カツ丼。そいつでピンと来ないもんかな、カツ丼なんだが…。
語呂合わせさ、と片目を瞑ったハーレイ。
カツ丼なのだから、その名も「勝つ」。勝つためのメニューがカツ丼だ、と。
「…そんな理由でカツ丼だったの?」
言葉遊びみたいに聞こえるけれども、食堂でちゃんと出るんだし…。
スペシャルメニューになってるって言うし、食堂の人も、頼んだ生徒も大真面目なの?
「そういうことだな、カツ丼は縁起担ぎの食べ物なんだ」
ずうっと昔の、と教えて貰った。
SD体制が始まるよりも遥かな昔に、この地域にあった小さな島国。日本という国。
カツ丼は其処で生まれた食べ物、「勝つ」と縁起を担いだ食べ物。
運動部の世界ではけっこう知られた縁起担ぎで、試合に勝つならカツ丼らしい。
「…それじゃ、柔道部も?」
柔道部です、って言ったらカツ丼、出て来るの?
「もちろんだ。大会に行くとなったらな」
食堂で名乗ればカツ丼が出るさ、大会に出場する生徒には。
「その大会…。今年は無理そう?」
出られそうにないの、強い選手が集まる大会。
「失礼なことを言うなよ、おい」
柔道部のことも知らないくせにだ、無理だと勝手に決めてかかるな。柔道部員が怒り出すぞ。
あいつらは毎日、頑張って練習してるんだしな?
ついでに指導してるのは俺で、その辺の学校の顧問とは一味違うってモンだ。
なかなかいないぞ、プロの誘いが来ていたほどのヤツで学校教師というヤツは。
生徒の方に才能さえあれば、後はそいつの頑張り次第さ。
大会は年が明けてからだと言われた。
出場選手に選ばれそうな生徒も何人かいると。
「じゃあ、ハーレイも…」
大会について行ってしまうの、何処であるのか知らないけれど。
それに大会に向けての練習、いつもより多くなりそうだものね…。ハーレイが仕事の帰りに来てくれる日も、うんと少なくなっちゃうのかな…。
「安心しろ、大会は平日だから」
あいつらが出場するにしたって、平日に俺がいないというだけの話だ。
週末が潰れちまうってことにはならんさ、大会ではな。問題はその前の期間なんだが…。
正式に出場が決まったとなれば、強化月間に入るからなあ、部活の時間が多くなる。平日の練習時間も増えるし、今よりはずっと柔道部についてる時間が長くなる勘定になるんだが…。
まあ、そうなっても、お前の家には出来るだけ寄れるようにするがな、今日みたいに。
「ホント?」
仕事の帰りに寄ってくれるの、週末だけじゃなくて?
ぼくの家で晩御飯を食べてくれるの、強化月間に入っちゃっても?
「そのつもりだが…。とりあえず、お前が優先だしな」
柔道部のヤツらも大切なんだが、それよりお前だ。
同じ教え子で、どちらを取るかと尋ねられたら、もちろんお前の方ってことだ。
ただし…。
俺の中では、という一言がついた。
ハーレイにとってはブルーが優先なのだけれども、学校としては柔道部だろう、と。
大会への出場が決まったとしたら、そちらが優先。ブルーのために時間を割くよりも。
「…だったら、やっぱり…」
ハーレイの時間は減っちゃうんだよね、ぼくの家に寄ったりする時間。
いくらハーレイが頑張ってくれても、今みたいにはいかないよね…。
「そうでもないさ。手伝いを頼むってことも考えてるし」
「手伝いって?」
「そのまんまの意味だな、俺の助手だ」
俺の代わりに柔道部の指導が出来るヤツ。心当たりは幾つもあるから、声は掛けてある。
学校の方にも言ってはあるんだ、俺はお前の守り役だからな?
仕事がお留守になってる間に、お前が聖痕現象を起こしちまったら大変だ。聖痕は傷痕が残りはしないが、大量出血を繰り返した末に寝たきりになっちまった例もあったと聞いてるだろう?
お前がそういうことにならないよう、守り役の俺がいるってわけだ。
柔道部が大事な時だから、って放っている間に何かあったら、どう謝ったらいいのやら…。
俺も困るが、学校の方も困るんだ。俺の役目を知っていたくせに、柔道部を優先させていた、と病院の先生から文句を言われたら反論しようがないからな。
俺が守り役を務めるためには、俺の代わりに柔道部を指導してくれるヤツが必要だ。そのための人間を入れていいか、という話はしてある。
どんな肩書きになるかは知らんが、俺の助手を呼ぶことになるんだろうなあ、大会に出るなら。
ブルーが思った以上に大切で責任があるらしい、守り役の仕事。
学校も考えてくれているから、柔道部が大会に行くとなったら、ハーレイの助手がやって来る。守り役の仕事に支障が出ないよう、ハーレイの補佐をする人が。
「そいつが来てくれたら、今まで通りに会えるってことさ」
お前の家に寄らなきゃいかん、と思った時には柔道部の指導はそいつに任せる。
後は頼んだ、と俺は着替えて帰るわけだな、お前と晩飯を食べるためにな。
「それは嬉しいけど…。でも、いいの?」
柔道部の方を放っておいても本当にいいの、大事な大会が控えているのに…。
「俺の後輩に頼むんだからな、問題無いさ」
ちゃんと柔道をやってるヤツらだ、道場で教えているヤツら。
そういうヤツらを呼んで来るんだ、いわばその道のプロってもんだな。選手じゃないだけで。
下手な学校教師が指導するより、ずっといいんだ。
本当は何処の学校でも、そういったヤツらに指導を任せたいって所が本音なんだろうが…。
外からそういう人を呼ぶには、けっこう費用がかかるんだ。だから出来ない。
そんなヤツらを俺の代わりに呼ぼうと言うんだ、学校からは何も文句は出ないさ。
なにしろ費用はタダだからなあ、後輩たちは「喜んでタダでやりますよ」と言ってるわけだし。
「だったら安心…」
柔道部の方も大丈夫そうだし、ぼくもハーレイと今まで通りに会えそうだし。
「な? お前は心配しなくていいんだ、柔道部が大会に行くことになっても」
俺と会えなくなったりはしないさ、きちんと対策は考えたしな。
「その人、今から頼めないの?」
後輩の人たち、今から来てくれたら、もっとハーレイに会えるのに…。
仕事の帰りに寄ってくれる日、今よりも多くなりそうなのに。
「こら、欲張るな!」
いい方法を聞いたから、って調子に乗るなよ、チビのくせに。
後輩たちがタダで来てくれるのは、教え甲斐があるヤツらが決まった期間で何処まで伸びるか、自分の腕を試したいからでもあるわけで…。
まだ大会に出られるかどうか、それも決まってないんじゃなあ…。
出場する生徒が決まっているから、そいつらの力を伸ばそうと来てくれるんだぞ。他のヤツらの指導もしながら、出場するヤツらの面倒を見る。
教え子が優秀な成績を挙げてくれたら嬉しいモンだし、それを目当てのボランティアなんだ。
今からヤツらを呼んでどうする、流石にタダでは来てくれないぞ…?
欲張らなくても今は普通だろ、と叱られた。
週末も会えるし、今日のように仕事の帰りにも。ちゃんと充分に会えていると。
今のペースでブルーに会えるよう、大会の前だけ、後輩たちに助手を頼むのだから、と。
「うん…。ハーレイが考えてくれているなら、カツ丼の日にも応援出来そう」
柔道部です、って言ってカツ丼を持ってく生徒が食堂に来たら、ぼくも応援出来そうだよ。
明日の大会では勝てますように、って。
「そりゃ嬉しいな」
応援ってヤツは力になるしな、お前も応援してくれるんなら頼もしい。
声に出さなくても、思念波でなくても、「勝てますように」と祈ってくれるだけでいいのさ。
そういう祈りがこもったカツ丼を食えば、きっと勝てるに違いないしな。
「あのカツ丼…。あれは食堂の人が考えてるの?」
明日は弓道部の大会だから、ってカツ丼を作ろうと決めたりするの?
「いや、顧問からの申請だな」
ウチの部が明日は大会ですとか、遠征試合に行くんです、とか。
ここでカツ丼、と顧問が思えば、食堂に注文しておくわけだ。
そして生徒の方にも伝える、この日は食堂で名乗るようにと、そうすればカツ丼が貰えると。
柔道部の場合は俺が出すんだ、この日にカツ丼を何人前、という風にな。
クラブの顧問からの申請があれば、食堂で作るというカツ丼。勝つと縁起を担いだカツ丼。
どおりで普段は見ないわけだ、とブルーはようやく理解した。
何処かのクラブがここ一番の勝負に挑む時、出場選手のために作られるカツ丼。今日は弓道部の生徒がカツ丼のトレイを持っていたけれど、年が明けたら柔道部の生徒が持つのだろう。
ハーレイが見込んだ生徒が大会に出場するとなったら、その大会の前日になったなら。
何人くらいがカツ丼のトレイを貰えるのだろうか、と考えていて、ふと思ったこと。
「…ハーレイもカツ丼、食べていたの?」
顧問の先生が頼んでくれたの、明日はカツ丼が出る日だから、って。
それとも、そういう仕組みじゃなかった学校だった…?
「俺の学校でも同じだったな、運動部向けのスペシャルメニューというヤツだ」
学校でカツ丼を食って帰って、ついでに家では勝利の煮込みだ。
月桂樹の冠の話、してやっただろ?
俺が貰った正真正銘の月桂樹の冠、それの葉っぱで勝利の煮込みだ、と。
月桂樹の枝で作った冠、と言われて鮮やかに思い出した。そうだった、と。
ハーレイがブルーと同じ年頃の生徒たちが通う学校にいた頃、所属していた水泳部。顧問だった先生の奥さんが月桂樹の枝で冠を編んで、大会で優勝した生徒にくれるというから。遠い遠い昔にオリンピックの勝者が貰った冠、それを作ってくれるというから。
ハーレイは頑張って練習を重ね、見事優勝してそれを貰った。本物の月桂樹で出来た冠を。
保存用の加工をしなかったそれは、日に日に乾いていったけれども。乾燥した葉が落ちていったけれども、その葉を使ってハーレイの母が煮込み料理を作った。
シチューにポトフに、それからカレー。月桂樹の冠の葉を入れて煮込む料理は勝利の煮込みで、ここぞという試合や大会の前には、ハーレイはそれを母に注文したという。勝利の煮込みを。
食べれば力がついた気がしたという勝利の煮込み。ハーレイは柔道も水泳も負け知らずだった、勝利の煮込みを食べて挑んで。
勝って勝ち進んで上の学校へと行ったハーレイ、家ではカツ丼の出番は無さそうだから。
「えーっと…。家だと勝利の煮込みってことは、ハーレイの家ではカツ丼は…」
出てなかったの、カツ丼は学校だけで食べていたの?
「むろん、カツ丼も食ってたぞ?」
勝利の煮込みが生まれる前にはカツ丼だったし、勝利の煮込みに入れる月桂樹の葉が無くなった後もカツ丼だったな。勝つにはやっぱりカツ丼じゃないか。
上の学校に進んだ後にはステーキもつけて。
「ステーキって?」
「カツ丼と同じだ、これも語呂合わせだ。ステーキを敵と言い換えるんだ」
ステーキと一緒にカツ丼を食えばだ、敵に勝つという意味になるってわけだな。これを食ったら負ける気がしない、もう最強の組み合わせってことだ。
「ステーキと一緒にカツ丼って…。そんなに入る?」
カツ丼だけでも凄い量なのに、ステーキだなんて…。お腹一杯になりそうだけど…。
「俺の胃袋だぞ、入るに決まっているだろう」
ペロリと平らげて、野菜サラダも食ってたが?
栄養バランスは大切だしなあ、肉を食ったら野菜もしっかり摂らないとな。
そいつはカツ丼だけだった頃から変わらん、カツ丼を食ったら野菜か果物が俺の主義だった。
同じ食うなら、カツ丼だけで済ませちゃいかん、と。
もっとも、カツ丼…。
お前の胃袋にはカツ丼だけでも無理そうだが、と笑われた。
学校の食堂のカツ丼はきっと入らないだろうと、とても食べ切れないだろうと。
「ずっと昔には受験生も食べてたらしいんだがなあ…」
お前じゃ、受験生でも食えそうにないな、カツ丼ってヤツは。
「受験生って?」
何なの、何を受験するの?
「俺が言う時代の受験生と言ったら、学校に入るために試験を受けるんだが?」
入試が大変だった時代の話さ、カツ丼を食って挑むぞってほどに。
「…ぼく、カツ丼を食べたら試験どころか…」
少しの量なら大丈夫だけど、今日、食堂で見たようなヤツ。
あんなのを食べたら、試験会場へ行く前に寝込んでいそうだけれど…。
「そうだろうなあ…。お前の小さな胃袋ではな」
腹一杯になっちまって気分が悪くなるんだろうな、と可笑しそうなハーレイ。
今の小さなブルーはもちろん、前のブルーと同じに育っても残しそうだ、と。
「そうかも…」
育っても、あれだけの量のカツ丼だと…。ちょっと無理かも、食べ切るのは。カツ丼、嫌いじゃないんだけれど…。
「前のお前なら、食うべき場面は山盛りなんだが…」
勝つぞと縁起を担ぐ場面は山ほどあったろ、前のお前には?
「あの頃に無くて良かったよ。カツ丼が…!」
もしもあったら、ハーレイに食べさせられていそう、と苦笑した。
人類から物資を奪いに出掛ける前には必ずカツ丼、と。
「だろうな、俺が厨房にいた頃ならな」
せっせと作って、前のお前に食べさせて。これで勝てると、行って来いと、必ずカツ丼だな。
「キャプテンになった後でもだよ!」
カツ丼なんだと思ってるんだし、厨房で作らせていそうだよ。
ハーレイが自分で作っていた頃のカツ丼、それとおんなじレシピを厨房の係に渡して。
前のぼくが出掛けるとなったら、「ソルジャーにこれを」と言うんでしょ、と訊いてみたら。
厨房に指図して、カツ丼を届けさせるんでしょ、と尋ねてみたら。
「もちろんだとも」
俺が厨房にいないからと言って、カツ丼をやめるわけにはいかん。お前が出るならカツ丼だ。
「ほらね…!」
食べ切れないって悲鳴を上げても、カツ丼が届いてしまうんだよ。
「キャプテンが仰いましたので…」って、厨房のスタッフが運んで来るのか、部屋付きの係か。どっちにしたってカツ丼が届いて、ぼくは食べるしかないんだよ。お腹一杯になっちゃっても…!
酷い目に遭ったに違いない、と前の自分とカツ丼が出会わなかったことに感謝したけれど。
何かと言えばハーレイが「食べろ」とカツ丼を寄越す世界でなくて良かったと思ったけれど。
でも…、と少し考え込んだ。
メギドに行く前はカツ丼だろうか、と。
「ねえ、ハーレイ…。前のぼくがメギドに飛び立つ前にも、カツ丼、くれた?」
「メギドって…。そこでカツ丼って…。お前、あの状態で食えたのか?」
カツ丼なんかを食べられるような体調だったか、とても食えそうにないんだが…?
「…食べられたかどうかは分からないけど、ハーレイが手配してくれた食べ物…」
それを一口でも食べて出掛けたかったな、おまけに勝てるカツ丼なんだよ?
同じメギドに行くにしたって、あそこでカツ丼、欲しかったかも…。
「俺はあの時、お前が出撃するとは思っていなかったが?」
お前がブリッジにやって来るまで、その可能性は微塵も考えちゃいなかったんだが。
「それじゃ、カツ丼は…」
「届くわけがないな、青の間にはな」
俺は手配をしていないんだし、カツ丼が届くわけがない。
いくらお前が食べるつもりでも、一口でもと待っていたとしても、カツ丼は届かないってな。
「…ぼく、カツ丼が届かなかったら…」
ハーレイからのカツ丼が、いくら待っても届かなかったら、メギドには…。
「行けなかったか?」
勝てる気がしなくて行けなかったか、俺が手配したカツ丼が無い寂しさで行けなかったか。
どちらか知らんが、行けずに終わっていたと言うのか、メギドに…?
「…そんな気がする…」
気持ちが挫けてしまったと言うか、決心がつかなかったと言うか。
メギドは本当にここ一番の戦いだったし、そういう時こそカツ丼が無いと、って気がするから。
「なら、本当にカツ丼があれば良かったなあ…」
シャングリラにカツ丼は無かったわけだが、あれば良かったと本気で思うな。
お前が出掛けようって時には、俺がカツ丼を自分で作るか、手配して届けさせたかったなあ…。
そのカツ丼が届かないからと、お前がメギドに行かずに済んだのならな、と言うハーレイ。
たとえ普段はカツ丼を無理やり食べさせるからと恨まれていても、と。
「…どんなに日頃は恨まれていても、カツ丼のせいで腹一杯だとお前に文句を言われていても…」
カツ丼が本当にあれば良かった、お前に食わせておきたかった。
そうしてさえおけば、お前はメギドに行き損なったという可能性が充分あったのならな。
「…カツ丼、あった方が良かったのかな?」
あのシャングリラに、ハーレイのカツ丼。ハーレイが「食べろ」って出して来るカツ丼。
「俺としてはあって欲しかったな」
そいつが存在していたばかりに、お前がメギドに行き損ねようが、地球の未来がどうなろうが。
カツ丼は是非、欲しかった。
前のお前が出掛ける前には必ず食わせて、もう見たくないと言われるくらいに必ずカツ丼。
そういう習慣がありさえすればだ、前のお前の一世一代の大勝負。
あのメギドでの戦いは無くて、カツ丼を食い損なったお前が青の間にションボリいたんだしな。カツ丼が届かなかったから沈めに行けなかったと、メギドはどうなったかと肩を落として。
そんな姿を見ることになっても、お前が留まってくれていたなら…、と悔しそうなハーレイ。
カツ丼を食べられなかったブルーが、「勝つ」と背中を押されなかったブルーが、ションボリと青の間に残っていたら…、と。
けれども全ては夢物語で、あの頃はカツ丼が無かった時代。
ハーレイはブルーにカツ丼を一度も作りはしなくて、届けさせることも一度も無かった。勝つと縁起を担ぐカツ丼、それをブルーに食べさせなかった。
前のブルーはカツ丼などは知りもしなくて、たった一人でメギドへと飛んだ。
戦いの場へと赴く前にはカツ丼を食べることも知らずに、勝つと縁起を担ぎさえもせずに。
そうしてブルーがメギドを沈めて、全ては変わった。
人類の世界からミュウの世界へ、死の星だった地球は青い星へと。
青い姿を取り戻した地球に幾つもの文化が戻って、カツ丼も其処に帰って来た。日本という国があった地域に、勝つと縁起を担いで食べるカツ丼が。
だから…。
「ねえ、ハーレイ。今はカツ丼、あるけれど…」
ぼくの家でもママが作るし、お店にだってあるんだけれど…。学校の食堂でも出すらしいけど、そのカツ丼…。スペシャルメニューだっていうカツ丼…。
それを柔道部に出す時が来ても、ぼくを放っておかないでよ、と念を押したら。
柔道部の指導で大変だからと、ろくに会えないようなことにはしないでよ、と頼み込んだら。
「分かっているさ。ちゃんと俺の助手を手配するんだと言ってるだろうが」
柔道部が大会に出ることになったら、お前にも応援して欲しいしな。
食堂でカツ丼を貰ってる柔道部のヤツらを見掛けたら、応援してやって欲しいと思うし…。
お前の恨みを買わないように、お前の相手は今まで通りにしてやるさ。大会だろうが、強化月間だろうが、今と全く変わらんようにな。
…そうだ、カツ丼。お前用のも頼んでやろうか?
「え?」
「前の俺がお前に食わせてやり損なった代わりだ、食堂のカツ丼」
柔道部の生徒じゃないんですけど、って俺の名前を出したら、お前がカツ丼を貰えるように。
お前の胃袋のサイズに合わせて、少なめでな。
「…そんなの、出来るの?」
運動部用のスペシャルメニューなんでしょ、ぼく、運動部に入ってないのに…?
「さてなあ、俺もやってみないと分からんが」
食堂の人に訊いてみないと、どうなるのかは分からないんだが…。
俺はお前の守り役なんだし、特例ってヤツで通りそうな気がするんだよなあ、お前用のカツ丼。
柔道部が大会に出られることになったら訊いてやろう、と言われたから。
特例が駄目でも、結婚したなら特製カツ丼を作ってやるとパチンとウインクされたから。
楽しみになって来たカツ丼。
カツを卵でとじたカツ丼、勝つと縁起を担いだカツ丼。
前の生では無かった食べ物、運動部員の御用達。
もしもシャングリラにあったとしたなら、ハーレイに何度も食べさせられただろうカツ丼、船の外へ出る時は必ず「食べろ」と押し付けられただろうカツ丼。
それを学校の食堂で食べられるのなら、ハーレイの名前を出して受け取って、幸せ気分な少なめサイズ。大きな丼に少なく盛られた、ハーレイが手配をしてくれたカツ丼。
そのカツ丼を食べるのは無理でも、食堂で却下されたとしても。
いつかハーレイと結婚したなら、特製カツ丼が食べられる。
勝つと縁起を担いだカツ丼、ハーレイが何度も食べて作って来たカツ丼。
きっとこだわりの味だろうから、それを二人で味わってみたい。
何に勝とうと思うわけでもないのだけれども、二人でカツ丼。
地球に来られたと、幸せの味だと、ハーレイが作った特製のカツ丼を二人で暮らす家で…。
勝利のカツ丼・了
※今の時代は、大事な勝負の前にはカツ丼。SD体制の時代には無かった食べ物。
もしもあったら、前のブルーはメギドに行っていなかったかも。たかがカツ丼ですけどね。
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