シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(えーっと…)
どれにしようか、とブルーはズラリと並んだ見本を眺めた。
喉が乾いた昼休み。食堂のお茶もいいのだけれども、たまには自動販売機、と。
食堂の中、壁際に置かれた自動販売機。カップに注がれてくるタイプではなくて、缶やボトルが出て来るタイプ。熱い缶やら冷たい缶やら、そこは好みで選んで買える。
食堂の給茶機のほうじ茶だったら無料だけれど。水も無料で、紅茶やコーヒーはお金さえ払えば買えるけれども、そうした飲み物では物足りないという生徒のための自動販売機。
何種類かの紅茶とコーヒー、それから様々な種類のジュース。リンゴにオレンジ、野菜ジュースだって。どれを買おうかと直ぐに選べない、カラフルな缶やボトルたち。
(どれも美味しそう…)
お目当てのジュースを決めていたわけではなかったから。缶やボトルの果物の絵やら、見た目の色やらで悩んでしまう。オレンジジュースを買うにしたって、果肉の入った粒入りを買うか、果汁だけを詰めたジュースを買うか。
(んーと…)
まずはお金、とコインを入れて、また悩んで。リンゴにしようか、それともオレンジジュースにするかと眺めている内に、ふと目に留まった真っ赤なジュース。宝石のように澄んだ赤。どうやらベリーのジュースらしくて、ビタミン豊富だと書いてあるから。赤い色もとても気に入ったから。
これにしよう、とボタンを押したら、出て来たジュース。ボトルに入ったベリーのジュース。
ゴトン、と落ちて来たそれを自動販売機からヒョイと取り出す、当たり前の風景なのだけど。
滅多に買わない自動販売機でも、学校生活の中では馴染みの光景なのだけれども。
ジュースのボトルを手にした途端に、その赤い色が遠い記憶を連れて来た。前の自分の瞳の赤。その赤がいいと、ミュウのお守りだと、シャングリラの仲間たちの制服についていた石。
あの色なのだ、と思ったら。同じ赤だと、あの石のような色のジュースだと思ったら…。
(選んで買えた…!)
たちまち一変した景色。目の前の自動販売機。
沢山並んだジュースの中から、あれこれ迷って選んで買えた。これ、とボタンを押すだけで。
誰にも注文しなくても良くて、ほんの気まぐれな思い付きだけで。リンゴかオレンジを買おうと眺めていたのに、こっちがいいと方向転換、まるで関係無いベリーのジュース。
(シャングリラだったら出来ないよ、これ…)
どれにしようかと迷いは出来ても、ジュースを注いでくれる厨房のスタッフを前に延々と悩めば迷惑になるし、決めてからしか頼めない。ましてジュースが注がれ始めてから別のジュースが目に留まったって、そちらにしたいと変えられはしない。あまりに我儘すぎるから。
ところが、今の自分ときたら。
自動販売機の前で悩んで、コインを入れてもまだ悩んで。最初に思っていたジュースとはまるで違ったジュースを買った。こっちがいいと、これにしたいと、ボタンをチョンと押すだけで。
(なんだか凄い…)
とてつもない自由を手にした気がした、自動販売機でジュースを買ったというだけなのに。
喉を潤すための飲み物を買いにやって来ただけなのに。
(前のぼくには凄い贅沢…)
どれを飲もうかと好きなだけ悩んで、挙句の果てに思い付きだけで方向転換、これに惹かれたと選択肢の中に無かった飲み物、ベリーのジュース。リンゴかオレンジを買うつもりが。
もしもシャングリラでやっていたなら、どれほどの迷惑をかけるだろう。前の自分がジュースを飲もうと食堂に出掛けて、リンゴかオレンジかと悩み始めたら。
(…きっと、係がグラスを持ったままで待ってるんだよ)
注文が決まれば直ぐに注げるよう、ジュース用のグラスを用意して待つ。やって来たのが自分でなくても、他の仲間であったとしても。
(やっと決まって、これって言って…)
リンゴかオレンジ、どちらかに決めて、それを伝えて。係が注ぎ始めた途端に、それとは違ったジュースに目を留め、「あっちがいい」と言おうものなら、もう迷惑としか言いようがなくて。
(…ジュースは貰えると思うけど…)
目的のジュースは飲めるだろうけれど、注ぎかけていたジュースはどうなるだろう?
元の容器に戻せはしないし、誰かが飲むしかないのだろう。それを入れようとしていたグラスも一個余計に洗うことになって、たった一人の気まぐれのために厨房の手間が二重、三重。
だからシャングリラで出来はしなかった、あれこれ迷えはしなかった。
前の自分も、他の仲間も、ズラリと並んだジュースを前にして好きなだけ迷えはしなかった。
これと決めてから変える気まぐれなどは論外、そんな自由は何処にも無かった。閉ざされた船の中では仲間に迷惑をかけないことが大切、船の常識だったから。
(いっぱい悩んで、最後は気まぐれ…)
なんと自由な世界だろうか、と自動販売機をしみじみと眺め、更なる幸せに気が付いた。
さっきチャリンと放り込んだコイン、ジュースを買うために投げ入れたコイン。財布から出して入れた一枚、ジュースを買うのにピッタリのコイン。
(…ジュース、コインで買えちゃった…!)
今の自分には当たり前すぎて、不思議でも何でもないけれど。自動販売機はそういう仕組みで、コインを入れれば商品がポンと出て来るけれど。
(前のぼくだと、コインなんかは…)
ジュースを買うのに使いはしないし、第一、シャングリラにコインは無かった。
自動販売機だって何処にも無かった、コインの無い世界に自動販売機があるわけがない。人類の世界にはあったけれども、人類は使っていた筈だけれど。
(使ったことない…)
前の自分は自動販売機はおろか、コインも使ったことが無かった。たった一枚、ジュースを買うだけの値段のコインも。
シャングリラにコインは無かったから。あの白い船にコインは必要無かったから。
アルテメシアに落ち着いてからは、新しい仲間の救出を手掛ける潜入班が出来たけれども。船を離れて地上で暮らすこともあった彼らだけれども、彼らもコインは使わなかった。
マザー・システムが管理する通貨は、何かと足が付きやすいから。何処から来たのか、ルートを特定しやすいから。
そうならないよう、潜入班はデータを誤魔化し、様々な物資を入手していた。地上で暮らすのに必要なものや、場合によっては家を丸ごと。
データはサイオンで改ざんしたから、ある意味、サイオンの通貨とも言える。目には見えない、幻のコインや紙幣たち。昔話の中に出て来るキツネなどが使う葉っぱのお金と似たようなもの。
とはいえ、一応、コインを使ったと言えるかもしれない潜入班の仲間たち。
潜入活動が長引いた時は、自動販売機でジュースを買ったりしたかもしれない。目には見えないコインを一枚チャリンと投げ入れ、ボタンを押して。人類がそうしていたように。
(でも、ぼくは…)
使ったことがなかったお金。たった一枚のコインでさえも。
前のハーレイはアルテメシアを陥落させた後に人類の世界の通貨を手に入れ、仲間たちに配ったらしいけれども。
前の自分が奪った物資に紛れていた通貨を捨てずに保管していたハーレイ。それらが高い値段で人類に売れて、前のハーレイは奪うことなく沢山の通貨を見事に手にした。
ジョミーが供出にこだわったお蔭で通貨の出番はまるで無かったから、仲間たちが自由に使えたお金。ミュウの支配下に入った星での息抜きの時間に、食事や、あるいは買い物などで。
仲間たちはきっと、自動販売機にも出会っただろう。コインを入れてみたことだろう。その前で何を買おうか悩んで、ボタンを押していたのだろう。
さっき自分がやっていたように、あれこれ悩んで、コインを入れた後にも迷って。
そう、地球へと向かった仲間たちは使っただろうコインと、好きなだけ悩んでジュースが買える自動販売機。コインを一枚放り込むだけで、ポンとジュースが出て来る機械。
けれども、前の自分は一度も使わなかった。コインも、自動販売機も。
(前のぼくには無かった幸せ…)
コインを使えることも幸せ、誰にも迷惑をかけることなく好きなだけ悩んでジュースを買えるというのも幸せの証。
たったそれだけで幸せになれる、コインを一枚入れて自動販売機が使えるだけで。選べる幸せ、買える幸せ、なんと自由で幸せな世界なのだろう。自動販売機が使える世界。そこに生まれて来た自分。青い地球の上に生まれ変わって、コインをチャリンと投げ入れた自分。
(ぼくって、幸せ…)
うっとりと自動販売機を見詰めていたら。
真っ赤なベリーのジュースのボトルを手にして、暫し感慨に浸っていたら。
「おーい、ブルー!」
何してんだよ、とランチ仲間が呼んでいる声。食堂のテーブルで待っている友人たち。その声でハッと我に返って、ジュースのボトルを握って駆け出した。
待たせてごめんと、すぐに行くよ、と。
それきりすっかり忘れてしまった、自動販売機で感じた幸せのこと。
学校が終わって家に帰って、おやつの時間に母が淹れてくれたお茶、熱い紅茶。湯気が立ち昇るカップを持ったら思い出した、自動販売機。
あれにも紅茶が入っていた。コインを入れればゴトンと出て来る紅茶の缶が。ミルクティーも、レモンティーも、熱いのも、冷たいのも揃っていた自動販売機。
紅茶は家でも飲めるけれども、自動販売機にズラリと並んでいた飲み物は…。
(家では飲めないヤツも沢山…)
買って来ないと無い飲み物が幾つもあった。お茶のように簡単には出来ない飲み物。
自分が買った真っ赤なベリーのジュースも家では出来ない、確か五種類のベリーを煮込んだものだったから。ビタミンが壊れないようサッと煮込んで作ったジュースが詰まったボトル。
(ママも作れるとは思うけど…)
それだけのベリーを集めたのなら、ジュースよりもお菓子の方がいい。断然、お菓子。
だから自動販売機のジュースもいいと思うし、好きに選べるのがまた嬉しい。
でも…。
(お茶は淹れるのが一番だよね)
熱いお湯とポットがあったら淹れられる紅茶、コーヒーだって熱いお湯を沸かせば淹れられる。自動販売機で買うのも悪くはないのだけれども、きっと淹れるのが一番美味しい。
(学校のだって…)
自動販売機にある紅茶やコーヒーは、食堂で飲めない生徒が買ってゆくのだろう。グラウンドで活動しているクラブの生徒や、帰り道に喉が渇きそうな生徒。
食堂で淹れてくれる紅茶やコーヒーも、値段は同じなのだから。自動販売機と同じ値段を払えばカップに入って出て来るのだから、食堂で飲むならそっちになる筈。淹れ立ての味を選ぶ筈。
それを思えば、自動販売機は無くて淹れるしかなかったシャングリラは。
食堂でも、それに休憩室でも、紅茶やコーヒーは淹れるしかなかったあの白い船は…。
(幸せだったのかな?)
シャングリラではお茶は淹れるものだった、自動販売機で買えはしなかった。
好きな時にコインで買えない代わりに、淹れ立ての味が楽しめた。その場で飲むなら、冷めない間に飲むのだったら、紅茶もコーヒーも淹れ立てだったシャングリラ。
香り高くはない紅茶でも、代用品だったコーヒーでも。
(…美味しかったとは思うんだよ…)
いつも淹れ立てを楽しめたのだし、シャングリラは幸せな船だったろうか。
それとも自動販売機が置かれた船だった方が、皆は幸せだったのだろうか。
自動販売機が置いてあったら、誰かに淹れて貰わなくても紅茶もコーヒーも買うことが出来た。他の飲み物も入れておいたら、その前で楽しく悩んで買えた。
紅茶を買うつもりでコインを入れても、オレンジジュースにしようだとか。リンゴかオレンジか迷った挙句に、やっぱり紅茶だと方向転換、ボタンを押しても誰一人として困りはしない。
厨房のスタッフに余計な仕事が増えはしないし、買った本人は大満足だし、幸せそうだと思えてしまう。そんなシャングリラも、自動販売機があるシャングリラも。
あの白い船に、自動販売機は無くて幸せだったのか。あった方が幸せだったのか。
(どっち…?)
分からないや、と紅茶を飲み干し、キッチンの母に空のカップとおやつのお皿を返しに行って。部屋に戻って勉強机の前に座って、また考えた。どちらが幸せだっただろうか、と。
(…自動販売機…)
あった方が良かっただろうか、と悩んでいたら聞こえたチャイムの音。窓から覗くと、手を振るハーレイ。応えて大きく手を振り返して、ハーレイに訊いてみようと思った。
自動販売機をどう考えるか、シャングリラにあれば良かったろうか、と。
ハーレイと部屋でテーブルを挟んで、向かい合わせで腰掛けて。熱い紅茶のカップを傾けながら鳶色の瞳を見上げて尋ねた。
「ねえ、ハーレイ。自動販売機は好き?」
「はあ?」
なんのことだ、とハーレイは怪訝そうだから。「自動販売機だよ」と繰り返した。学校の食堂に置いてあるような自動販売機だと、コインを入れれば欲しいものが買える機械だと。
「自動販売機は選べるんだよ、いろんなものが。ジュースにしようか、紅茶がいいか、って」
いっぱい迷えて、ボタンを押すまで悩めるんだよ、どれにしようか、って。
それに、自動販売機はコインを入れれば買えるけど…。
シャングリラには無かった自由なんだよ、あれこれ悩んで飲み物を選ぶのも、コインで買うっていうことも。
シャングリラでは飲み物は自分で淹れるか、淹れて貰うか、ジュースだったら食堂とかだし…。紅茶にします、って注文してからジュースに変えたら迷惑がかかるし、色々迷ってられないよ。
コインはお金を使わない船には要らなかったし、逆に言ったら使える自由が無かったわけで…。
自動販売機で買えるってことは幸せだよね、って思ったんだよ。
「そりゃまあ…。なあ?」
今の俺たちならではの自由だ、自動販売機で買える生活。
わざわざ誰かに頼まなくても、コインを入れれば好きな時に自由に買えるからなあ…。
「やっぱり、ハーレイもそう思う?」
自動販売機、人類の世界にはあったんだから…。シャングリラにも導入しとけば良かったかな?
仕組み自体は簡単だろうし、ゼルに頼めば作れたよね、きっと。
「なんで導入すれば良かったと思うんだ?」
「いつでも飲み物、好きなだけ悩んで選べるし…。悩んでいたって、誰にも迷惑かけないし」
それにコインを使った気分になれるよ、シャングリラにお金は無かったけれど。
買い物をしたって気分になれるよ、自動販売機を置いておくだけで。飲み物だけでも、買い物の気分。ちょっぴり自由を味わった気分。
「ふうむ…。シャングリラで金は使わないんだし、オモチャのコインか?」
そいつを皆に配っておくのか、これで飲み物が手に入ります、と。
「うん」
本物のお金を転用したっていいけれど…。前のハーレイが保管していた、人類のお金。
あれを使って買えるようにしたら、ホントに買い物気分になるよね。
「なるほど、そいつは画期的だな」
保管しておくだけより、金も生きるか…。自動販売機に入れられるようなコインだけだが。
「でしょ?」
ちょっと素敵だと思うんだけどな、自動販売機で人類のお金を使って買い物。
もう本当に自由の欠片を手に入れた気分がしたんじゃないかな…。
本物のお金を使うというのは、今、思い付いたばかりだけれど、と白状した。
自動販売機があった方がいいかどうかは考えたけれど、使うお金は何も考えてはいなかったと。
「もしも自動販売機があったら、きっと便利で楽しかったと思うけど…」
でも…。紅茶やコーヒーは淹れ立ての方が美味しいよね、って思うから…。
シャングリラだと、紅茶もコーヒーも、味はともかく、ちゃんと淹れ立てだったから…。
自動販売機が置いてある船より、淹れ立てのお茶の船の方が幸せだったかな、って…。
ハーレイはどう思う、自動販売機で選んで買える幸せと、淹れ立てのお茶の幸せだったら?
「そうだな、淹れ立ての方が美味いというのもあるしだ、それよりも前に…」
人との関わり方ってヤツだな、シャングリラじゃそっちが問題だ。
「えっ?」
なんなの、人との関わり方って…。どういう意味のことなの、ハーレイ?
「そのままの意味さ。他の仲間との関わり方だ」
今の俺たちは友達や知り合いとワイワイやれるし、自動販売機も便利なんだが…。
シャングリラみたいに閉じた世界でそいつはなあ…。
コインを入れてボタン一つで、ポンと飲み物が出て来るのはなあ…。
あまり褒められたものではない、と話すハーレイ。
閉じた世界だった白いシャングリラは、人との関わりが欠かせない世界だったのだから、と。
「いいか、飲み物を自分で淹れる時ならともかく、そうじゃない時は…」
他の誰かに頼むんだったら、「お願いします」と声を掛けてだ、それに返事が返ってくる。
これは立派なコミュニケーションというヤツだろうが、お茶を一杯飲むだけにしても。こいつは大きい、日頃からそうした関係を重ねてゆくというのは。
頼んだ方も、頼まれる方も、相手を気遣いながらの作業になるだろう?
お前が言ってた、下手に悩んだら迷惑をかけてしまうだろう、というのもそうだ。自分の我儘で煩わせちゃ駄目だ、と思うからこそ、そういう考えになるんだな。
自動販売機はそいつを解決してはくれるが、他の人との関わりが一つ無くなっちまう。飲み物で繋がっていられた所の糸をプツリと切っちまうのさ。
「そっか…」
自動販売機、楽しくて便利だと思ったけれど…。便利さだけでは駄目なんだ…。
「シャングリラはな」
ああいう閉じた世界じゃ駄目だ。
どんな形であれ、他の仲間とのコミュニケーションを大切にしておかないとな。
食堂で飲み物を注文する方と、用意する方と。たったそれだけでも仲間と触れ合う機会になる。顔を合わせて言葉を交わして、それが切っ掛けで次の機会も生まれる。
船の通路で出会った時には挨拶するだろ、お互いにな。「いつも紅茶を頼んでますよね」なんてことから会話が生まれて、そのまま暫く一緒に歩いて行くとかな…。
人と人とのコミュニケーションが大切だったシャングリラ。
閉じた世界だった船だからこそ、他の仲間との触れ合いの機会は少しでも多く。
自動販売機は便利だけれども、触れ合う機会を一つ潰してしまうのだ、とハーレイは言った。
今の世界ならば心配しなくていいことだけれど、自動販売機は便利だけれど。
ならば、どちらが幸せだったのだろう?
淹れ立ての紅茶やコーヒーはあっても、悩んで選んだりは出来なかったシャングリラか、選んで買える自動販売機がある今か。
どうなのだろう、とハーレイに問いを投げ掛けてみたら。
「もちろん、今さ」
今に決まっているだろうが。…シャングリラの中でしか生きられなかった時代よりも。
「やっぱり?」
そこはそうなの、ハーレイも今だという気がするの?
お願いします、って飲み物を頼まなくっちゃいけなかった頃より、自動販売機で選べる世界?
「そうなるな。それも自由の形ってヤツだろ、お前が食堂で気付いた通りに」
何を買おうか迷った挙句に、いきなり注文を変えちまっても、自動販売機は文句を言わん。
ついでにシャングリラでは出番の無かった金も使える、コインを入れたら飲み物が買える。
前の俺たちが生きてた時代も、人類の世界には自動販売機があったしなあ…。
それを俺たちも自由に使える時代が来たってわけだし、今の方が幸せな時代ってことだ。
だが…、と片目を瞑るハーレイ。
お茶は淹れるのが一番だ、と。自動販売機で買うお茶よりも、と。
「そいつが美味いし、同じコーヒーなら自動販売機で買ったヤツよりも淹れ立てだ、ってな」
「そこはシャングリラの方の勝ちなの?」
シャングリラだといつも淹れ立てだったし、シャングリラの勝ち?
「いや、今だ」
「今って…。今だと自動販売機のコーヒーもあるんだけれど…」
コーヒーはいつでも淹れ立てじゃなくて、自動販売機で買ったコーヒーもあるけれど?
ハーレイだって、柔道部の練習場所で飲むんだったら、自動販売機のコーヒーじゃないの?
「確かにそうではあるんだが…。自動販売機のコーヒーにも何度も出会うわけだが…」
その代わり、淹れ立てに出会った時。
シャングリラの頃より、うんと美味いのが飲めるだろうが。
代用品なんかじゃないコーヒーだぞ、キャロブのコーヒーとは違うんだ。本物のコーヒー豆から淹れたコーヒー、そいつが飲める。しかも地球で採れたコーヒー豆なんだぞ?
紅茶にしたって地球の紅茶で、シャングリラのとは香りからして違うってな。
同じ飲むならコーヒーも紅茶も地球の淹れ立てだ、とハーレイが言うから。
「そうだね、本物のコーヒーと美味しい紅茶だものね」
おまけに地球で育ったコーヒーの木とか、お茶の木とか…。同じ淹れ立てでも、シャングリラのとは違ってくるよね、味も香りも。
「うむ。ついでに、その素晴らしい淹れ立てをいつでも、好きな時に飲める自由もあるしな」
「好きな時って…。仕事中でも?」
「そいつは無理だが、そこはシャングリラでも同じだろ?」
ブリッジで仕事の真っ最中にだ、ちょっとコーヒーというわけにはいかん。休憩時間にならんと飲めんし、今の仕事もそれは同じだ。だがな…。
時間の余裕がうんと違うさ、と語るハーレイ。
同じ休憩時間や自由時間でも、シャングリラでは無かった心の余裕。あったつもりでも、今から思えばまるで無かった心の余裕。
明日に備えて眠らなければとか、一休みしようと考えた時の時間の重さが全く違うと。
今ならば明日に待っているものは普通の仕事で、一休みするのも学校の仕事やクラブの指導。
けれども前のハーレイだったら、次の日もキャプテンの仕事ばかりで、判断を誤れば仲間の命が危うくなる。シャングリラが潜む雲海の流れを読み誤ったら、人類に船の存在を知られたら。
そんな綱渡りのような日々の中では、淹れ立てのコーヒーでも心の底から楽しめはしない。前の自分は楽しんでいるつもりだったのだろうが、今の自分からすればそうではないと。
同じ境遇に放り込まれたら、心配でとても眠れはしないし、休めもしない。
淹れ立てのコーヒーの味も分からないくらいに気が張りつめてしまい、休憩した気分になれないだろうと。
「ああいう時代に比べたら、だ…。好きな時にコーヒーを飲める自由は比較にならんぞ」
もう本当に自由な時間だ、何をするのも俺の自由だ。
コーヒー片手にのんびり新聞を読んでいようが、そのままウッカリ眠っちまおうが、何の心配も要らない世界だ。仲間の命も預かってないし…。
だからコーヒーの美味さからして違ってくるのさ、心に余裕があるんだからな。
こいつは美味いと、淹れ立てなんだと、ゆっくり楽しむ余裕ってヤツが。
そういう時代に淹れ立てのコーヒー、これは最高に贅沢なことだと思わないか?
「そうかもね…」
前のぼくはハーレイほどには色々と心配していなかったと思うけど…。
いざとなったらシャングリラごとサイオンで包んで宇宙に逃がすとか、やり方はちゃんとあったわけだし、ハーレイよりかは気楽だったと思うけど…。
だけど、ミュウの未来とかを考えないわけにはいかなかったし、紅茶、今ほど美味しく飲んではいなかったかも…。心配事が全く無かったわけじゃないんだから。
「ほらな、お前も同じだろうが。淹れ立ての美味さも、断然、今の時代ってことさ」
しかしだ、たまには自動販売機もいい。あれはあれの良さがあるもんだ。
「えっ?」
それって、選べる幸せのこと?
ぼくが色々悩んだみたいに、迷っちゃうほど沢山あるのがハーレイも好き?
「それはもちろんだが、美味そうなヤツに限ったわけでもないんだぞ、そこは」
とんでもなさそうな飲み物にだって気軽に挑戦出来るだろう、と言われてみれば。
自動販売機に並ぶ飲み物の中には、どんな味だか想像もつかない変わり種だってあるわけで。
そういうものでも、コインを一枚チャリンと入れれば、おっかなびっくり試せるわけで…。
「…それはそうかも…」
ぼくの友達、たまに変なのを買ってるよ。美味しくなかった、って文句を言ってる。
でもね、懲りずにまた買うんだよ。別の変なのが新登場したら、コインを入れて。
「その、変なヤツ。…シャングリラには無かった贅沢だぞ、これは」
新作の飲み物を作るにしたって、みんなの口に合わないようなものは出来んしなあ…。
こういう飲み物を作ってみました、と遊び半分みたいなヤツを出せはしないぞ。
「変な飲み物、食べ物で遊んでいるような気もするけどね…」
贅沢だけれど、ちょっぴり食べ物に失礼かな、って。…前のぼくたちからすれば。
「少しくらいは許されるだろうさ、そういう遊びも」
食い物に不自由してないからこそ出来る遊びだ、笑って許してやろうじゃないか。前の俺たちが考えもしなかった遊びなんだぞ、今の時代だからこそだ。
平和な時代になったんだからな、と心の広さを見せられて納得したのだけれど。
ハーレイは凄いと、流石は大人だと思ったけれども、その後があった。
「いいか、現に俺なんかは変なのをだな…」
見付け次第、端から試したもんだ、と学生時代の武勇伝。
変な飲み物などには目もくれなかったブルーには真似の出来ないこと。美味しそうなジュースはどれだろうか、と今日も悩んでいたのだから。
「…ハーレイ、それ…。今でも飲める?」
食堂の自動販売機にあるよ、変な飲み物。えーっと、今のは何だったっけ…?
「おいおい、俺はこの年だしな?」
三十八歳にもなって、この外見でだ…。そういう変なの、買うヤツはいないと思うんだが?
「ぼくはこれからなんだけど…」
ハーレイが変なのを飲んでた年頃、ぼくはこれからなんだけど…。
ぼくが飲もうか悩んでいたって、ハーレイ、付き合ってはくれないの?
「そう来たか…」
お前が飲みたい気分になると言うんだな、変なのを?
俺が変なのを飲んでいたような年になったら、今度はお前が。
それなら付き合ってやるとするか、と苦笑いしながら約束して貰えたから。
いつかハーレイと結婚したなら、たまには自動販売機もチェック。
変な飲み物を発見した時は、どんな味なのか試してみよう。コインを一枚、チャリンと入れて。
「えーっと…。変な飲み物、ハズレだった時は口直しだよね…」
美味しかったらかまわないけど、この味はちょっと、って思った時は。
「安心しろ。そういう時には、俺が美味い茶を淹れてやる」
紅茶でもいいし、緑茶でもいいぞ。お前の気分に合わせてやるさ。
「じゃあ、ぼくはコーヒーを淹れてあげるね」
ぼくはコーヒーは苦手だけれど、と笑顔で言った。
ハーレイのために淹れてあげるよ、と。
「そいつはいいな。お前が淹れてくれるコーヒーだったら、きっと美味いに決まっているし」
自動販売機のとは比べ物にならない美味いコーヒー、そいつで口直しが出来るってわけか。
「やっぱり、お茶は淹れるのが一番だよね」
シャングリラは幸せな船だったんだよね、自動販売機は無かったけれど。
選んで買ったり出来なかったけど、いつも淹れ立てのお茶が飲めたんだし…。
前のぼくたちだって、きっと幸せ。淹れ立てのお茶を何度も二人で飲んだんだから。
青の間で二人で飲んでいたお茶、前のブルーが淹れていた紅茶。
ハーレイはコーヒーが好きだったけれど、ブルーに合わせて飲んでいた紅茶。
幸せだったと思うけれども、今は時代が違うから。
二人揃って生まれ変わって、平和な地球に来たのだから。
自動販売機で買える幸せ、選べる幸せ、それも二人で満喫したい。
変な飲み物を発見したから買ってみよう、とコインを入れて。
たとえハズレの味がしたって、淹れ立てのお茶で直ぐに口直しが出来るのだから。
二人で暮らす家で、お互い、相手のために美味しい紅茶やコーヒーを淹れて…。
自動販売機・了
※シャングリラには無かった自動販売機。あったら楽しそうでも、あの船には不向き。
けれど今では、自動販売機も悪くない世界の住人なのです。たまには選んでコインを1枚。
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