シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(ふうむ…)
流石に少し伸びすぎだな、と眺めた生垣。ハーレイの家をぐるりと囲んでいる緑。
庭木の手入れは植木屋に任せているのだけれども、生垣は自分で刈ることもあった。伸び始めた頃合いでハサミを持ち出し、この高さと幅で、と切り揃える作業。
どの枝を切るか、どれを残すか、考えながらの作業は楽しい。生垣が透けてしまわないように、それでいてスッキリ見えるようにと切る枝を選ぶ。どのくらい切るかも、枝に合わせて。
休日に刈るのが好きだったのだが、刈り終わった生垣は満足感と達成感とをくれるのだが。
この春から事情が変わってしまった。小さなブルーの守り役になって。
週末は特に用事が無ければ、ブルーの家へ。其処で一日を過ごして帰る。夕食も御馳走になってくるから、帰宅する頃にはとっぷりと暮れて、生垣は闇の中だった。
朝も生垣を刈っているほどの時間は無いから、その脇を通って出てゆくだけ。早い話が…。
(…お留守なんだ)
生垣の世話が、と苦笑いした。放り出してあると言ってもいい。
植木鋏にはとんと御無沙汰、もう長いこと手にしていない。生垣を刈ってやってはいない。
ブルーと再会した五月の三日は青葉の季節で、それから夏へと生垣はぐんぐん伸びたのに。庭のどの木も枝を伸ばして、新しい葉を茂らせたのに。
だから夏休みに一度だけ植木屋に頼んで刈って貰った、生垣だけを。伸びすぎたからと、綺麗に刈っておいて欲しいと頼んで出掛けた。ブルーの家へと。
帰って来たら生垣は見事に刈り揃えられていたけれど。伸びる前の姿になっていたけれど、夏は終わりではなかったから。枝はまだまだ伸びていったから、この始末。
他の庭木の手入れのためにと植木屋を頼む時期はまだ先のことで、生垣だけを刈って貰うほどの伸び方でもないし…。
(たまには手入れしてやるか)
そんな気分になった土曜日の朝、早く目が覚めて出て来た庭。新聞と牛乳とを取りに。どちらも門扉の所に届くし、新聞は小脇に抱えたけれど。牛乳の瓶は手に持ったけれど、そこで生垣。
ふと目を遣った生垣のあちこち、突き出している今年育った枝。元気の良さが一目で分かる枝。
以前だったら、こうなる前にハサミを持ち出していたのだけれど。きちんと揃った緑を見るのが好きだったけれど、もう本当に御無沙汰だったから。
(…好きなんだがなあ…)
刈り揃えた生垣を見るのも好きなら、植木の刈り込みをすることも。
生垣ばかりか、庭じゅうの木を自分で刈り込みたいほどに。梯子を持ち出し、遥か上の方の枝も刈りたいくらいに。
隣町の家に住んでいた頃、父に仕込まれた庭木の手入れ。
「植木屋さんは毎日は来てくれないしな?」と言っていた父。それぞれの木に適した時期があるから、自分で出来る範囲の手入れをしてやれば庭木は元気に育つと、いい木になると。
花や実を沢山つけてくれるし、庭木は手をかけてやってこそだと。
父と一緒に垣根を刈ったり、もっと大きな庭木を刈ったり。楽しかったし、遣り甲斐もあった。
そういう風に育って来たから、この家に来ても生垣は自分で刈っていたわけで…。
なのにお留守にしていた生垣、放りっ放しになっていた緑。
目に留まったのも何かの縁というものだろう、と生垣の手入れを思い立った。今日は早く起きた分だけ時間に余裕があるから、少しだけ。生垣から顔を突き出している枝を切っておこうと。
新聞と牛乳を持って入って、植木用のハサミを手にして戻った。片手で持てる小さなもの。花を生けるのに使うようなハサミ、細い枝を切るのに適したハサミ。
(伸び過ぎたヤツだけ切るなら、こいつだ)
生垣全体を刈るのだったら、両手で扱うハサミだけれど。木で出来た握りを左右の手で持って、端から刈ってゆくのだけれど。
それをするだけの時間は無いから、明らかに伸び過ぎと分かる枝だけを落としてゆく。ハサミでチョキンと、伸びた分だけ。生垣からピョコンと突き出した分だけ。
爽やかな秋晴れの朝の空の下、チョンチョンと切って回っていて。
生垣に沿って歩きながらチョキンと枝を落としては、また次の枝を…、と進んでいて。
(おっ…!)
この季節ならではのものを見付けた、カマキリの卵。来年に孵る予定の卵。
独特の塊が産み付けられてくっついていた。生垣から突き出した枝の一つに、伸び過ぎた枝に。
カマキリは生垣の伸び具合などは、まるで気にしていないから。
卵の塊は伸びた枝の半ば辺りにしっかりとついて、とうに固まってしまっていた。枝を切ったら落とされる辺りに、どう眺めてみても切るしかない辺りに。
けれども、せっかくのカマキリの卵。来年、沢山の小さなカマキリが生まれる卵。
(こいつは切ったら可哀相だな)
切り落として庭に置いておいたら、蟻などに食われてしまうだろう。家の中に仕舞うにも無理がある。いつ孵化するのか分からないのだし、ケースや虫籠に入れてはおけない。
それに何より、自然の中で孵るのが卵にとっても幸せというもの。カマキリの親は色々と考えてこの枝を選んだのだから。
(切っちゃいかん、と…)
この枝は残しておこうと決めた。幸い、生垣の内側でもある。庭の側だから、この枝が一本だけ突き出していても、見た目が悪いわけでもない。
植木屋にも切られないように、と目印をつけることにした。小さな木の板に「カマキリの卵」と「この枝は切らないで下さい」の文字。それを枝へと結び付けた。
(これで良し!)
もう安心だぞ、と心でカマキリの卵に呼び掛け、作業の続き。ハサミでチョンと枝を切っては、また進んでの繰り返し。家をくるりと一周回って、内側も外側も確認して。
(すっきりしたな)
これだけでもかなり違うもんだ、と生垣の姿に大きく頷いた。手入れをしたという感じ。
朝から思わぬ仕事が出来た、と家に入ってハサミを仕舞って、朝食の支度。トーストは分厚く、オムレツには今朝はチーズを入れて。ソーセージはハーブ入りのにしようか、それを多めに。
ひと仕事した後の朝食だから、気持ちいい気分で食べられるだろう。軽くジョギングをしてきた後の食事のように。ジムでひと泳ぎした後の軽食のように。
腹ごしらえして、コーヒーを飲んで後片付け。それが済んだらブルーの家へと。
歩いて出掛ける途中の道で、ついつい目が行く様々な生垣。丈の高いものや、低いものやら。
家の持ち主の好みに合わせて、植えてある木もバラエティー豊か。
自分が朝から少しとはいえ手入れして来たから、生垣をつい眺めてしまう。普段だったら花壇の花や、庭木の方ばかり見ているのに。
(きちんと手入れしてある生垣っていうのは気持ちがいいんだ)
家が愛されていると感じるから。生垣にまで気を配っているのだと分かるから。
(…俺は御無沙汰しちまったけどな)
夏休みに一度刈って貰っただけ、それきり放ってあった生垣。以前だったらせっせと刈り込み、きちんと整えてあったのに。
とはいえ、ブルーに会うためだから。生垣よりかは恋人の方が大切だから、と自分に言い訳。
そのブルーの家にも生垣があって、いつも綺麗にしてあるけれど。
あれは植木屋を呼んでいるのか、それともブルーの父が手入れをするのだろうか?
今日まで気にしていなかったけれど、気になって来た生垣事情。いつ見ても綺麗な生垣の家。
ブルーの家が見えて来たら、今日も生垣は艶やかな緑。冬になっても葉を落とさない木を選んで植えたと分かる生垣。それを眺めながらチャイムを鳴らした。門扉の脇についたチャイムを。
二階のブルーの部屋に通され、テーブルを挟んで向かい合わせに座って。小さなブルーに尋ねてみた。さっき見ていた生垣の方を指差して。
「お前の家の生垣、刈っているのは植木屋さんか?」
いつもきちんと手入れしてあるが、植木屋さんに頼んでいるのか?
「んーと…。植木屋さんも来るけど、たまにパパが刈るよ」
ハーレイが来ていた日には、やってなかったかな?
気が向いたら大きなハサミで端から刈っていくけど、ちょっぴり伸びたのはママが切ってる。
切るって言っても全部をじゃなくて、はみ出してるって言うのかな…。生垣から枝がヒョコッと出たりするでしょ、ああいうのをね。小さなハサミでチョキンと切ったらおしまいな分。
「お前は生垣、切らないのか?」
お父さんと一緒にやってみないのか、生垣の手入れ。
「やったことないけど…。ハーレイ、やるの?」
ハーレイの家にも生垣があったけど、あれはハーレイが刈ってるの?
「ああ。今年は御無沙汰しちまっているが、去年までは真面目に刈ってたんだぞ」
伸びて来たな、と思ったら休みの日に丸ごと全部を。
植木屋さんに頼んでもいいんだが、俺は生垣を刈るのが好きでな。生垣に限らず、庭木は端から手入れをしたいタイプだ、親父にしっかり仕込まれたからな。
庭じゅうの木を自分で切りたいくらいだが、と話してやった。木にはそれぞれ切るのに丁度いい時期があるから、それに合わせて手入れが出来たらいいんだが、と。
「なかなか、そうもいかんがな…。暇が出来たら、他にもやりたいことが出来るし」
植木屋の真似事をしているよりかは、道場に行って指導とか…。ジムで泳ぐとか、ドライブするとか、誘惑ってヤツも多いもんでな。
ついでに今はお前とのデートに夢中だからなあ、生垣もお留守にしちまっていた。今朝、やっと気が付いて伸びた枝だけ切って来たんだ、俺としたことが…。
道具さえあったら、高い木の枝でも切れるのが自慢だったんだがな。
「高い枝って…。ハーレイ、そんなのも自分で切れるの?」
ぼくのパパは生垣くらいしか切れないけれども、ハーレイ、出来るの?
「出来るさ、プロ並みとまではいかないが…」
そこまで出来たら、別の仕事が出来そうだ。古典の教師をやっていない時は植木屋とかな。
俺のは所詮、庭仕事の延長線ってヤツだが、そこそこの腕は持ってるぞ?
生垣を刈るのも、けっこう上手いと植木屋さんに褒めて貰ったしな。
その生垣を放っておいたのが俺なんだが、と前置きしてから。
たまに庭仕事をすると面白い発見もあるんだぞ、と片目を瞑った。今日も見付けた、と。
「生垣の伸びた枝だけ切っておこうと、朝からハサミを持ち出したんだが…」
ちょっとしたものだ、今の季節ならではの発見だな。
「なに?」
いいものがあったの、ハーレイの家の生垣か庭に?
「カマキリの卵だ。生垣にあった」
「えーっ!」
いいな、とブルーが叫んだから。
「カマキリの卵、見たことないか?」
「あんまり…。カマキリは庭にいるんだけれど…」
だから庭にもある筈だけど、と話すブルーがカマキリの卵を見付けた頃には、大抵は空。中身の卵は孵ってしまって、カマキリが生まれてしまった後。
空っぽになった卵に出会うことが多くて、たまに中身の入った卵にも出会うけれども。孵化する頃にまた見に来よう、と思って忘れて、出掛けて行ったら孵った後。小さなカマキリはとうの昔に庭の何処かへ行ってしまって、一匹も残っていないのだという。
「カマキリの赤ちゃん、孵る所を見たいんだけど…」
虫籠に入れておいたら可哀相だしね、カマキリの卵。
いつ孵るのか分からないから、学校に行ってる間とかだと大変なことになっちゃうし…。虫籠の外に出られなくって、お腹が空いて死んじゃうだとか。
「それは賢明な判断だったな、お前が虫籠に入れなかったこと」
俺もカマキリの卵、そのまま残して来てやったんだ。本当だったら切る枝なんだが…。生垣から外へ伸びちまった枝で、切り落とそうとしたんだが…。
そいつにカマキリの卵がついてた、切ったら一緒に落ちちまう場所に。
切って落としたら蟻とかが食うし、虫籠に入れたら、お前が言ったのと同じコースを辿りそうな気がするからなあ…。
いい具合に庭の内側の枝についていたから、枝は切らないことにした。植木屋さんが入った時に切らないようにと札もつけたさ、カマキリの卵があるから切らないで下さい、と。
このくらいの札だ、と枝に結んだ札の大きさを手で作ったら。
ブルーは「それなら植木屋さんも気付いてくれるね」と笑顔になった。
「カマキリ、きっと喜ぶよ。大事な卵を守ってくれてありがとう、って」
「うむ。カマキリの卵は、まさに命懸けの卵だからなあ…」
「え?」
命懸けってどういうことなの、カマキリの卵、ただ産んであるっていうわけではないの?
産むのがとっても大変だったり、命懸けだったりする卵なの…?
「さてなあ、雌の方はどうだか、俺も詳しくはないんだが…」
あの手の生き物は卵を産んだら力尽きるってことも多いし、雌も命懸けかもしれないが…。
俺が言うのは雄の方だな、カマキリの雄。
卵を産むための手伝いに行って、そのまま死んじまうことがあるんだ。
雌に食われてしまってな、と言えばブルーの目は真ん丸で。
「食べられちゃうって…。どうして、雌に食べられちゃうの?」
同じカマキリだよ、それに卵のお父さんでしょ?
なのに食べられてしまうだなんて…。信じられないよ、なんでそうなるの?
「卵を産むのに凄い力が要るそうだ。力を使えば腹が減るだろ、そのせいなんだ」
腹が減ったと、食い物は無いかと見回したら目の前に食い物がいるって寸法らしい。カマキリは肉を食うものだからな、雄が食い物に見えちまうんだ。
いいものがいたと、獲物がいると捕まえて食っちまうってわけだな、雄のカマキリを。
だからだ、まさに命懸けなのさ、カマキリの卵。
雌はともかく、雄はバリバリ食われちまって、後に卵が残るってことで。
「…可哀相…」
カマキリの卵のお父さんなのに、と小さなブルーは同情しきりで。
いくら卵を産むのに力が必要でも、雌に食べられてしまうだなんて、と顔を曇らせるから。
「本望だろうさ、雄の方はな」
食われても自分の子孫は残るし、何よりも雌のために立派に役立ったんだぞ?
自分が食われて、卵を産むための栄養になる。もう最高の愛だ、命懸けの愛ってヤツだな、雌のためのな。
俺もお前に食われるのなら、本望だ。お前が何かをするための栄養になるのなら。
「食べないよ!」
ぼくはハーレイを食べたりしないよ、いくらお腹が減ったとしても!
どんなに栄養が欲しくったって、ハーレイを食べるようなことはしないよ!
それくらいならぼくがハーレイに食べられる方がずっといい、と健気なブルー。
ハーレイの栄養になるのならいいと、ぼくは喜んで食べられるから、と。
「…ホントだよ? ハーレイの役に立つならいいよ」
食べられちゃっても、ぼくの命が無くなっても。
それでハーレイが何か出来るのなら、ハーレイの役に立つんだったら、食べられてもいいよ。
「…前のお前、まさしくそれだよなあ…」
俺がお前を直接バリバリ食っちまったってわけではないが…。俺が食ってはいないんだが…。
前のお前の命を犠牲に、シャングリラは無事に逃げ延びたんだ。そのシャングリラに乗っていた俺は、前のお前を食っちまったも同然だ。自分が生き延びるためにだけな。
…俺にそういうつもりが無くても、客観的に見ればそういうことだ。
ミュウの未来という名の卵を、あのシャングリラを運んでゆくために前のお前を食っちまった。必要だからと、そうしないと前へ進めないからと。
「…そうかもね…」
カマキリの卵みたいなものだったかもね、シャングリラ。
あの船を未来へ、地球へ運ぶのに必要だった栄養が前のぼくなら、そうなるね。カマキリの雄。前のぼくを食べなきゃ未来へ進めない船が、シャングリラだったかもしれないね。
…だけどいいんだ、ぼくが食べられる方だったんだから。
ぼくがハーレイの餌になったんだし、ぼくはちっとも悲しくはないよ。ハーレイがあの船を運ぶための栄養、それになれたのなら幸せだから。
…生きるしかなかったハーレイは辛かったかもしれないけれども、ぼくは幸せ。
それが逆だったらとても辛かった、とブルーが赤い瞳を揺らすから。
前の自分がハーレイの命を食べる方なら、耐えられはしないと訴えるから。
「おい、逆って…。前のお前が俺を栄養にして生き延びるって…」
そんな状況、起こり得るか?
そりゃあ、もちろん、何かのはずみで俺を見捨てなきゃいけない場面も無いとは言えんが…。
「違うよ、ハーレイはキャプテンだったんだもの…」
キャプテンは船に何かあった時、最後まで船に残らなければいけなかったでしょ?
船のみんなが一人残らず脱出するまで、船の中に誰もいなくなるまで。
キャプテンはそれまで逃げられないけど、何があっても乗っている人を残して行けないけれど。
前のぼくはソルジャーだったから…。
もしもシャングリラに何か起こったら、ぼくはみんなを連れて脱出しないといけない立場。順番なんかはどうでもいいから、一人でも多く、一人でも早く。
そうやってぼくが逃げてゆく間も、ハーレイは船に最後まで残っているんだよ。ぼくがどんなに助けたくても、ハーレイを先には助けられない。他のみんなが優先だから。
…最後の一人まで、無事に脱出できればいいけど…。ちゃんと逃げられればいいんだけれど。
ハーレイを助け出すまでシャングリラが持たなかったら、それでおしまい。
ぼくはハーレイの命を犠牲にして生き延びることになるんだよ。他のみんなも。
…キャプテンのお蔭で助かった、って、みんなは感謝するんだろうけど…。
ハーレイを忘れないんだろうけど、そうなったら、ぼくは…。
どうやって生きて行ったらいいのか、何を支えにすればいいのか。
いくらハーレイが納得してても、何度も「逃げろ」と言ってたとしても、きっと駄目だった。
泣いてばかりで前が見えなくて、ちっとも進めやしないんだよ…。
そんなことを考えたことがあるから、と呟いたブルー。
自分がハーレイのために死ぬならかまわないけれど、逆は嫌だと。考えたくもないと。
そういう悲劇が起こらなくて良かった、と小さなブルーが繰り返すから。
「…その話…。前のお前が考えてたのか?」
前のお前から聞いたことはないが、実は何度か考えたのか…?
「ううん、今のぼく。…前のぼくは考えていないと思う」
シャングリラで何か事故が起きても、逃げる先は何処にも無かったもの。
前のぼくはナスカに入植した時には眠ってたんだし、逃げる場所なんか無いと思ってた。事故が起きたら、船ごとおしまい。…そんな風にいつも思っていたから…。
でもね…。
何処かでキャプテンの責務を聞いたのだという。
船に最後まで残るものだと、最後の一人が脱出してからキャプテンが脱出するのだと。
今の時代は決まりが変わって、最後までは残らなくてもいいのだけれど。
乗客がタイプ・ブルーだったら、普通だったら生き延びられないような事故でも生還することが出来るから。そういう乗客が他の乗客を先に脱出させていることも有り得るから。
だからキャプテンは最後まで残らなくても許される時代。下手に残ればキャプテンだけが犠牲になって、脱出させねばと見守っていた乗客たちが最後の瞬間に逃げ延びることが起こり得るから。
タイプ・ブルーのキャプテンならばともかく、そうでないキャプテンは逃げていい。
状況を見定め、逃げてもかまわないと判断したら。逃げるべきだと考えたら。
そういう風に時代の流れは変わったけれども、白いシャングリラがあった時代は…。
「…前のぼくたちの頃は違ったよね。今の時代とは」
キャプテンは最後まで船に残るもので、ハーレイもそれを知っていたでしょ?
ハーレイはキャプテンだったんだから。
「まあな。…まるで知らなかったというわけではないな」
心得としては頭に叩き込んであった、キャプテンというのはそういうものだと。
船に乗っている全員の命を預かっているのがキャプテンなんだ、と。
「…じゃあ、もしも。…そうなっていたら、ハーレイ、どうした?」
シャングリラから逃げ出さなくちゃ、ってことになっていたら、前のぼくがみんなを船の外へと脱出させ始めたら。
逃げる場所があったかどうかはともかく、逃げなくちゃ、って事故が起こっていたら…。
「もちろん残る。…最後の一人が逃げるのを確認するまでな」
俺が逃げるなら、その後だ。…逃げるチャンスがいくらあっても、俺は逃げずに残らないとな。
「やっぱり…!」
前のハーレイ、最後まで残るつもりだったんだ…。
シャングリラが今にも沈みそうでも、逃げ出せる通路が確保出来ていても、最後まで。
最後の一人が逃げてなければ、ハーレイ、船から逃げないんだ…。
それでもぼくはシャングリラに残れないんだね、とブルーが言うから。
どんなに自分が残りたくても、仲間たちを連れて脱出するしかないんだね、と確認するから。
「当たり前だろ、前のお前はソルジャーなんだ」
お前がいなくちゃ、脱出したヤツらはどうなるんだ?
どうやって生きて行けばいいのか、誰を頼りにしたらいいのか。…ソルジャーがいれば何も心配しなくていいがな、そのソルジャーがいないと駄目だ。
だから、お前は誰よりも先に船から逃げていなくちゃならん。何処かの星に降りるにしたって、新しいシャングリラを造り上げて地球を目指すにしたって。
もしもお前が残ろうとしたら、俺は追い出す。早く行け、と。
「…そうならなくて良かった…」
ハーレイの命を貰って生き延びる方でなくてよかった…。
シャングリラのために命を失くすの、前のぼくの方でホントによかった…。
ハーレイの栄養になる方で良かった、と大真面目なブルー。
ぼくはそれでいいと、その方がいいと。
命懸けで未来を築くのだったら、自分が命を失くす方。カマキリの雄の立場になるのは、自分の方でなければ嫌だと。
「…ハーレイを食べて生き延びるなんて、ぼくは絶対、嫌だからね!」
前のぼくがカマキリの雄でいいんだ、ハーレイの栄養になったんだから。
シャングリラを地球まで運ぶための栄養、ミュウの未来のための栄養。…メギドで独りぼっちになっちゃったけれど、ハーレイを栄養にして生きるよりかは、よっぽどマシだよ…!
「そう言われてもなあ…。お互い、自分の立場ってヤツがあったからなあ…」
前のお前がカマキリの雄みたいなことになっちまったが、俺だった可能性もゼロではない。俺がキャプテンとしての覚悟を決めてた以上は、まるで無かったとも言い切れないな。
…とはいえ、前の俺たちの時代は終わっちまったし、今更、どうこう言ってもなあ…。
それに、食われないで済むカマキリの雄もいるんだからな。
「ホント?」
卵のために、って食べられちゃうって決まっているわけではないの、ハーレイ?
カマキリの卵、全部が全部、命懸けの卵ってことではないの…?
「らしいぞ、餌が充分に足りていた時は、雄を食わなくてもいいそうだ」
卵を産んでも腹が減らなければ、目の前の餌を食おうということにはならないし…。
雄が獲物に見えはしないし、雌は卵を無事に産み終わって、雄も食われないで済むってことだ。
「だったら、そっち…!」
そういうカマキリの卵がいいよ。
命懸けの卵なんかじゃなくって、ハーレイもぼくも、卵の栄養の心配をしなくて良くて…。
自分の命を栄養にして生き延びて、って言わなくても済むのが一番だもの。
今のぼくたちはそっちだよね、と微笑むブルー。
シャングリラやミュウの未来というカマキリの卵のために命は要らないと、命という名の栄養を使わなくてもいいと。
幸せが一杯な今の時代は未来への栄養に飢えてはいなくて、命の犠牲は要らない時代。命懸けの卵は要らない時代。
「そうでしょ、ハーレイ? ぼくはメギドに行かなくていいし、ハーレイだって…」
キャプテンだから、ってシャングリラに残らなくてもいいんだもの。
ぼくもハーレイも、カマキリの雄だったとしても、食べられない時代が今なんだよ。もう栄養は要らないんだから、食べる必要も無いし、食べられる必要も無いんだものね。
「…そうだな、そういう時代だったな」
「でしょ? 今のぼくたちがカマキリの卵を持ってるとしても…」
うんと幸せな卵なんだよ、未来が入っているだけの卵。
命なんかは懸かっていなくて、懸ける必要も無い卵。雄の命は要らないんだよ、同じカマキリの卵だとしても、幸せな卵なんだから。
いつか幸せが一杯、一杯、中から生まれて来るんだよ。
ミュウの未来が生まれる代わりに、シャングリラの代わりに、ぼくたちの未来。そういう幸せの卵なんだよ、もしも卵を持っているなら。
ハーレイの家のカマキリの卵も幸せだといいな、とブルーが庭に目を遣るから。
カマキリの雄が無事に逃げ延びた卵だったらいいんだけどな、と視線を戻して見上げるから。
「そういう卵だと思いたいなあ…」
まさかこういう話になるとは思わなかったし、幸せな卵だといいんだがな。
…そういや、カマキリの卵で教えてやろうと思ったんだった。こんな話になっちまう前は。
「何を?」
「今年の冬の雪の深ささ」
カマキリが卵を産んだ高さで、その年の冬の雪の深さが分かるんだそうだ。雪が積もっても卵が埋まらないように、産む場所を選ぶという話だぞ。
そいつを話そうと思っていたのに、何処で話がずれちまったやら…。
「ハーレイが見付けたカマキリの卵、どのくらいの高さだった?」
どんな高さの枝についていたの、その卵は?
「このくらいだな」
ここさ、と床からの高さを手で示したら。
「凄い、大雪!」
その高さまで雪が積もるんだね、大雪だよ。ぼく、そんな大雪、見たことがないよ…!
「こらこら、この高さまで積もるわけじゃない」
あくまで目安だ、この辺りのカマキリの卵の高さに比べてどうか、ということさ。
いつもの年より高いか、低いか。そういう話だ、埋まりそうな大雪が降るとは限らないな。
雪が沢山積もりそうな年は高い所に産むというだけだ、と
聞かされてガッカリしているブルー。
大雪が降るんだと思ったのにと、ドッサリ積もると思ったのに、と。
けれども、その高さの枝に産んであったカマキリの卵。
前の自分たちの姿を重ねた卵には、興味津々らしいから。とても気になるようだから。
「俺も気を付けて見ておこう。札も付けたし…」
来年、無事に孵ったら教えてやるさ。小さなカマキリが生まれて来たらな。
「うん、お願い!」
ハーレイが家にいる時に孵ったらいいな、カマキリの赤ちゃん。
カマキリのお父さんも、ちゃんと食べられずに逃げられていたら嬉しいんだけどな…。
「前の俺たちと重ねちまったからなあ、俺もそいつを祈るばかりだ」
カマキリの卵には訊きようもないが、命懸けの卵でないことをな…。
幸せな卵だといいんだがな、と小さなブルーと頷き合った。
カマキリの雄の命が懸かっていない卵、雄の犠牲が無かった卵。
そういう卵であって欲しい、と二人、祈らずにはいられない。
幸せが一杯の青い地球だから、カマキリの雄でも、食われたりせずに幸せに。
そして幸せな卵から沢山の幸せなカマキリが孵るといい。
何の犠牲も必要無かったカマキリの卵、そこから幸せ一杯の未来。
沢山の小さなカマキリたちの未来も、自分たちのように幸せ一杯であるようにと…。
カマキリの卵・了
※カマキリの産卵の時に、雌に食べられてしまう雄。それと同じに消えた、前のブルーの命。
それでもハーレイが消えるより良かった、と言うのがブルー。厳しい時代だったのです。
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