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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

無料の水

(今日は暑いな…)
 夏ほどじゃないが、とハーレイは青い空を仰いだ。
 秋にしては珍しく汗ばむ陽気。今の季節はこういう日もある、晴れて気温がぐんぐん上がる日。
 研修だからとスーツをキッチリ着込んで来たから、余計に暑く感じるのだろう。上着を脱いでも腕に抱えるしかない状態では、あまり脱ぎたい気持ちにならない。だらしないように思えるから。
(…別に脱いだってかまわないんだが…)
 誰に見られるわけでもないし、そういう格好の男性も歩いているのだけれど。上着を抱えて歩く姿もさして珍しくはない日だけれども、これは自分の性分だから。
(仕方ないってな)
 今、この場所に居ることも含めて、自分の性格、自分の考え。
 スーツの上着を脱がずにいるのも、この方向へと向かっているのも。



 午前中だけで終わった研修。昼食の時間を前にして解散だった。
 研修の日には学校に行かなくても別にいいのだけれど。大抵の教師は一日休むし、今日の会場で会った顔馴染みたちも午後は休暇だと話していた。何処かでゆっくり食事しないかと。
 けれども誘いを断った自分、彼らと別れて歩き出した自分。
(俺の性分…)
 学校に行けばブルーの顔を見られるだろうし、柔道部にも顔を出したいし。
 食事くらいは付き合っても良かったかと思わないでもないけれど。教師仲間と旧交を温め、その後で学校に行くという選択肢もあったな、と歩いて来た方を振り返ったけれど。
 仲間たちが行こうとしていた店は候補が複数挙がっていたから、今から戻っても何処の店なのか分からないまま引き返すことになるだろう。最初に覗いた店で運良く出会えたら別だけれども。
(…多分、無駄足になっちまうしな…)
 幾つも店を覗く気にはなれない、そこまでせずとも会える機会はまたやって来る。研修に行けば顔を合わせるし、食事は次の時でいい。わざわざ戻って彼らの姿を探さなくても。



 ともあれ今は、まずは昼食。学校まで歩いてゆくつもりだから、途中の何処かで。
 のんびり歩いても一時間もかかりはしない距離。今日は休んでもかまわない日で、学校の方でも休むと思っている日なのだし、急ぐ必要は全く無かった。ゆっくり食べても、休憩していても。
 何処にしようか、と見回しながら歩いてゆく内に…。
(おっ!)
 美味そうだ、と鼻が反応した店。流れて来た匂いに釣られて入った、ごくごく普通の定食屋。
 一人で座れるテーブルを見付けて腰を落ち着けたら、店主が注文を取りに来た。さっきの匂いを思い浮かべてアジフライ定食、それを注文しておいて。



(水を一杯…)
 冷たいのを、とカウンターの端まで取りに出掛けた。注文した料理はテーブルに届くけれども、水は自分で取りに行く仕組みのようだから。テーブルまでは届かないから。
 ガラスのコップに注いで来た水を一気に飲み干し、もう一杯、とまたカウンターへ。外の暑さがまだ抜けないから、冷たい水の気分だから。
 テーブルに戻って、コップの水を口に含んで。
(うむ、美味い!)
 美味い水だ、と嬉しくなった。
 さっきは気付かなかったけれども、一息に飲んでしまったけれど。暑かったからと冷たさだけを味わったけれど、いい味だと分かる二杯目の水。
 もしや、と入れて来た氷を口の中で溶かしてみれば、これまた美味しい。



(こいつはいいな…)
 つい三杯目を貰って来た所へ、注文の品が届いたから。揚げ立てのアジフライがドカンと載った皿に味噌汁、御飯などを店主が運んで来たから、「美味しい水ですね」と声を掛けた。
 おかわりさせて頂いていますと、もう三杯目になるんですが、と。
「それはそれは…。お分かりになりますか?」
「ええ、もちろん。…一杯目は気付きませんでしたがね」
 暑かったもので一気に飲んでしまって、と白状した。実にもったいないことをしました、と。
「いえいえ、気付いて頂けただけでも嬉しいですよ」
 置いておいた甲斐がありますしね、と破顔した店主。
 水は毎朝、汲みに出掛けて行くのだという。まだ暗い内に、店の準備を始める前に。



「湧き水でしたか…! 美味い筈ですね」
 地面の中を通って来た地下水は格別の味がするものだから。この味はそれか、と納得した。湧き水は何処で飲んでも美味しい。山の中でも、井戸の水でも。
「朝は競争になっていますよ。…私が汲んで帰る頃には」
 夜が明けたら散歩を兼ねて汲みに来る人も多いので、と店主が語る水争いならぬ長蛇の列。水を汲もうと人がズラリと並ぶのだという、思い思いの容器を手にして。
 美味しい水が湧くと評判の町外れにある小さな公園、本来は公園で一休みする人に提供しようと掘られた井戸から湧き出す水。蛇口などは無くて、流れ出すまま、ただ滾々と。
 水を溜めておくために設けられた大きな石の器を満たした後は、公園へ流れてゆくらしい。細い水路を巡って流れて、やがては外へと。
 水を汲みに来た人たちがいくら汲んでも尽きない水。水路が涸れてはしまわない水。
 其処の噂は耳にしていた。なるほど美味い、と思わぬ出会いに感謝する。食事をしようと入った店で噂の水が飲めるとは、と。



「この水でコーヒーを淹れると、またいいんですよ」
 朝の一杯はこれで淹れます、と話す店主はコーヒー好きらしい。仕込みの前にコーヒーを一杯、汲んで来た水で淹れるというから。
「そうでしょうねえ…! 美味い水で淹れると格別でしょうね」
 羨ましいです、と頷くと「お客さんもコーヒー党ですか?」と返って来て。
 客が一段落していたこともあって、暫し話し込んだ。美味しい湧き水を汲みに出掛けたら出会う日の出や、朝一番の水で淹れるコーヒーの美味さやら。
 店主は毎朝、たっぷりと汲んで来るらしい。店に置く分と、自分が飲む分。
 それだけ汲んでも水は尽きなくて、夜明けと共にやって来る人たちの分まで充分にあって、まだ公園へと流れてゆく。尽きることのない豊富な湧き水。
 店主が暗い内から行くのは、沢山汲むせいで他の人たちを待たせないようにとの気遣いだった。自分が飲む分だけならかまわないけれど、店に置くには大きな容器が必要だから。それにたっぷり汲んで来ないと、店の分の飲み水には足りないから。
「店をやってて、自分だけが美味い水を飲むというのも悪いですしねえ…」
 お客さんにもお出ししないと、と人のいい笑みを浮かべる店主。
 気付く人は滅多にいないけれども、それでも美味しい飲み水を用意しておきたいと。



 「お好きでしたら、いくらでもどうぞ」と店主が言ってくれたから。
 アジフライ定食を平らげた後にも有難く貰った、もう一杯、と。アジフライ定食も鼻が釣られただけのことはあって、なかなかの味で。アジフライはもちろん、味噌汁もまた美味かった。御飯もあの水で炊いているのかと考えたほどに美味しかったし…。
(まさか飯までは炊いてないとは思うんだがなあ…)
 いくら店主が早起きで水場に出掛けて行っても、御飯を炊くほどの量を汲むとなったら大仕事。流石にそこまではしないと思うし、そうなると御飯の美味しさは店主の腕だろう。御飯を炊くのに使う機械も、使い方次第で味が変わるから。微妙な水加減や浸す時間や、そういったもので。
(この店に入って当たりだったな)
 料理も御飯も美味しかった上に、評判の湧き水が飲み放題。食後の一杯とばかりに水のコップを傾けながら一休み。
 学校には急ぐわけではないから、此処でゆっくりしていてもいい。店内の客も減ってくる時間、慌てて席を空ける必要も無さそうだから。



(美味いんだ、これが)
 この水が美味い、と喉を潤す。店主が朝から汲んで来た水。美味しいと評判が高い湧き水。
 メニューにコーヒーが無いのが惜しい。定食屋だから当然と言えば当然だけれど、コーヒーなら喫茶店なのだけれど。
 これほど美味しい水があるなら、コーヒーも飲んでみたかった。メニューにあったら、迷いなく注文してみるだろうに。アジフライ定食の後にコーヒー、淹れ立ての味を試してみるのに。
 なんとも美味しい水だから。何の手も加えていないというのに、まろやかな味の水だから。
(しかも水だけならタダなんだ…)
 何杯飲んでも、おかわりをしても、氷を好きなだけ貰っても。
 この美味しさならば売ってもいいのに、店主の手間賃や運搬のための費用を足しても、そういう値段でメニューに載せても、誰も文句は言わないだろうに。
 飲んでみれば分かる、美味しい水だと。一味違うと、いい水なのだと。



 そう考えてみたのだけれども、様々な店を思い浮かべてみれば、水は無料が基本のもの。大抵の店はタダで出してくれる、テーブルまで運んで来てくれても。空になったらおかわりも出来るし、気の利いた店なら空になる前に注ぎに来てくれる。
 食料品店などに出掛けたら、ボトルに詰まった水も売られているけれど。
 飲食店で水となったら、普通は無料。気取った店だとボトル入りの水は如何ですかと有料の水を勧められるけれど、それを断ったら無料の水になるというだけ。水を買わない客向けに置いてある平凡な水がタダでグラスに注がれて来るし、水が飲めないわけではない。
 つまりは何処でも水はタダのもの、無料でいくらでも飲めるもの。
 この店のような美味しい水をとこだわらなければ、平凡な水でいいのなら。
 平凡な水と言っても侮れはしない、けして消毒薬などの匂いはしないし、喉ごしもいい。飲んでガッカリさせられたりはしない、美味しいと驚かないだけで。いい水だと思わないだけで。
 美味しい水と比べなかったら、水は水。平凡な水でも充分いける。冷やして飲んだらスッキリとするし、沸かして飲んだらホッとするもの。



(昔は苦労したもんだがなあ…)
 ずっと昔は、と前の自分が生きた頃へと思いを馳せた。シャングリラへ、白い鯨へと。
 人類のものだった船をシャングリラと名付けて、暗い宇宙を旅していた頃。白い鯨ではなかった頃には、水の浄化システムや循環システムの系統も限られていたものだから。
 メンテナンスをするとなったら、それに備えて水の備蓄が必要だった。飲料水の供給が停止する間も、水を飲まずにはいられないから。終了するまで飲み水無しではいられないから。
 飲料水が底を尽かないよう、メンテナンスの前には備蓄を充分に。メンテナンスは迅速に。
 キャプテンとして何度も指示を下した、きちんと準備をしておくようにと。メンテナンスをする作業員たちは、出来るだけ早く仕事を終えるようにと。
 白い鯨になった後には、青の間があったほどだから。常に大量の水を湛えた、あの部屋を設けたほどの船だから、浄化システムも循環システムも予備の系統があったけれども。
 それでもチェックは欠かせなかったし、メンテナンスも不可欠だった。飲料水が無くては人間は生きてゆけないから。自給自足の船の中では、飲料水はまさに命の綱だったから。
 そうやって懸命に水を作って、前の自分たちは生きていた。いつか水の星へ、地球へ行こうと。
 地表の七割を海が占めるという水の星、地球。水のせいで青く見える星へと、青い地球へと。
 あの頃の自分たちが生きたシャングリラの中を思えば…。



(…今は凄くないか!?)
 凄すぎる生活をしてはいないか、とコップの中の水を見詰めた。美味しいと何杯も飲んだ水。
 これに限らず、前の自分たちが憧れた青い地球の水が飲み放題だった、何処へ行っても。何処の店でも水は無料で、気取った店でさえ無料の水を用意している。水の代金は何処でも要らない。
(この水だって…)
 美味い水だと分かる味なのに、店主は値段をつけてはいない。元の湧き水がタダだからだろう、汲みに行くのに必要だった費用や手間さえ水の値段に転嫁してはいない。
 それに、平凡な水ともなれば。
 有料の水を勧められるような店でもタダで出してくれる水は水道の水で、蛇口を捻れば出て来るけれど。水道さえあれば飲めるけれども、これまた悪くはない味だった。おまけに平凡でも地球の水。地球に降った雨や湧き水から生まれてくるのが水道の水。
 前の自分たちが焦がれ続けた青い地球の水は、今は何処でもタダで出るもの。
 お好きにどうぞと、好きなだけどうぞと無料でおかわりが貰えるもの。
 青い地球で生まれた水なのに。地球が作り出した水だというのに、今ではそれが無料の時代。
 何処で頼んでも、水をくれと言っても、地球の水がタダで「どうぞ」と注がれる世界。あるいは自分で注ぎ放題、湧き水を汲みに出掛けたとしても、それまたタダで。
 前の自分がこれを聞いたら、どんな顔をしたというのだろう?
 まるで想像すらもしなかっただろう、地球の水がタダで飲み放題の素晴らしい世界などは。



 タダになってしまった地球の水。無料で出るのが当たり前の水。
 何も思わないままでそれを飲んでいた、今日まで知らずに過ごしていた。店に入っても、自分の家でも、ゴクゴクと水を飲んでいた。
 前の自分が目指した地球の水とも気付かず、どれほど貴重な水だったのかも考えないままで。
 あの時代に青い地球があったら、どれほどの値段がついていたかも考えないで。
 そう、地球の水はとてつもない貴重品だった。前の自分の立場から見れば。



(今更気付いたとは遅すぎるぞ!)
 なんてこった、と思わず天井を仰いでしまった。雨を降らせる空がある方を。
 今日は汗ばむほどの陽気で、雨など降りはしないけど。その空を雲が覆い尽くしたら雨が降る。雨は地上を潤し、流れて、しみ込んで再び戻って来る。湧き水になって。
 大地にしみ込まずに流れて行った水も、また雲になって雨が降り注いだりする。
 地球はそうして水を作って、それを飲んでいるのが自分たち。水はタダだと、水道の水はタダのものだと、蛇口を捻って、コップに満たして。
 それが贅沢だと今頃気付いた、凄い贅沢をしていたのだと。



(…泳いでいてウッカリ飲んじまった水も…)
 海の水も、湖の水も、川の水も。プールに満々と湛えられた水も、もれなく地球の水だった。
 ウッカリ水を飲んでしまったような幼い頃には、それと気付いていなかったけれど。
 塩辛かったと顔を顰めたり、鼻にも入ったと激しく噎せたり、ロクな記憶が無かった水。誤って飲んでしまった水。
 それさえも贅沢な思い出なのだと、今頃になって気が付いた。
 前の自分の記憶が戻ってから随分経つのに、夏は海にも行ったのに。柔道部の生徒たちを連れて出掛けた広く青い海、地球の海だとは思ったけれども、水には気を留めていなかった。
 水は当たり前に身の回りにあるし、いつでも飲めるものだから。無料で飲める飲み物だから。
 なんという贅沢をしているのだろうか、今の自分は。
 地球の水を好きな時に好きなだけ飲んで、しかも代金は必要無いのが基本の生活だったとは…。



(これは是非ともブルーに話してやらんとな?)
 今日はブルーの家に行こうと決めていたけれど、思わぬ土産話が出来た。きっと小さなブルーも気付いてはいまい、地球の水を好きなだけ飲むことが出来る贅沢に。無料で飲める素晴らしさに。
(この店に入ったお蔭だな)
 店主が汲んで来た美味い水が無ければ、今も気付いていなかったろう。いい店に出会えたと感謝しながら勘定を済ませ、出ようとしたら店主に呼び止められた。
「お客さん、ウチの水を褒めて下さったんで…」
 これでコーヒーでも飲んで下さい、と店主が差し出した水。ボトルにたっぷり。
「…いいんですか、こんなに頂いても?」
「ええ。分かって下さる方には差し上げたくなるじゃないですか」
 ご遠慮なく、と笑顔を向けられたから、有難く貰って店を出た。午後の日射しを受けたボトルがキラリと光って、中で煌めく美味しい水。店主が朝から汲んで来た水。
(最高の土産だ…!)
 ブルーの家に持って行くには、水の話をしてやるには。
 いいものを貰った、と足取りも軽く歩いてゆく。水のボトルをしっかりと持って。



 今日は休んでもいい学校に着くと、同僚たちに「真面目ですねえ」と笑われたけれど。ブルーの姿を窓越しにチラリと見たから満足、来て良かったと笑みが零れた。制服のブルー。
 書類の整理などをしながら放課後まで居て、柔道部の指導をしてからブルーの家へと。いつもの愛車は自分の家に置いて来たから、これまた歩いて、水の入ったボトルを持って。
 見慣れた生垣に囲まれた家。門扉の脇のチャイムを鳴らすと、二階の窓からブルーが手を振る。応えて大きく手を振り返して、迎えに出て来たブルーの母にボトルを渡した。
 「美味しい水なので、このままで飲む分も出して頂けますか」と。
 ブルーと自分と、それぞれコップに一杯分。残りは沸かしてお茶を淹れてくれればと、いつもの紅茶でいいですから、と。
 そして…。



「なんで水なの?」
 キョトンと瞳を見開いたブルー。紅茶とお菓子は分かるけれども、どうして水、と。
 透明なガラスのコップに一杯ずつの水は確かに、普段だったら無いもので。ポットの紅茶が濃くなりすぎた時に使う差し湯なら、専用の器に入れるものだし、水ではなくて沸かした湯だし…。
 ブルーの疑問はもっともだけれど、今日の主役はこの水だから。
「まあ飲んでみろ」
 砂糖を入れて飲むんじゃないぞ。そのまま飲むんだ、水のままでな。
「ふうん…?」
 コクリと一口、飲んだブルーは目を丸くして。それから一口、もう一口…、と味わってから。
 頬を緩めてコップを指差し、「美味しいね」と、また一口。
 美味しい水だと、特別なのかと訊かれたから。
「そうだろう…!」
 美味い水だろ、だからこのまま飲んで欲しいと思ってな。
 お母さんにそうお願いしたのさ、このままコップで出して下さい、と。



 ただの水とは違うんだぞ、と話して聞かせた。評判の美味しい湧き水なのだ、と。
「町外れの小さな公園の水だ、公園に来た人が飲めるようにと井戸があるんだが…」
 その井戸の水さ、大勢の人が汲みに行くらしいが、それでも水は水路にまで溢れてゆくそうだ。俺も噂は知っていたものの、本物にはお目にかかっていなくってな…。
 今日、昼飯を食いに入った店の水がその水だったんだ。店のご主人が夜が明ける前に出掛けて、自分用と店で使う分とを汲んで来るらしい。
 美味いですね、と話し掛けたら、「分かりますか?」と喜ばれてなあ…。
 土産にこいつを貰ったってわけだ、コーヒーでも飲んで下さい、とな。
「凄いね、貰って来たんだ、この水…」
 お店のおじさん、嬉しかったんだね、ハーレイに味を分かって貰えて。
「らしいな、ご自慢の水のようだし」
 他の人たちの邪魔にならないよう、暗い内から出掛けて汲むんだと言ってたぞ。朝早くから大勢やって来るらしくて、長蛇の列とも言ってたなあ…。
 そいつを店で出しているんだ、俺みたいな客が勝手に好きなだけ飲めるように。同じ水で作った氷まで置いて、お好きにどうぞという感じだな。
「そうなんだ…。頑張って汲んで来たのに、そういうことは書いてないんだね?」
 飲んだお客さんが気付かなかったら、普通の水とおんなじなんだね…。
 ちょっとビックリ、こんなに美味しいお水なんだし、紙に書いて貼っておけばいいのに。



 もっとアピールしても良さそうなのに、とブルーが言うから。
 美味しい水を汲んで来たなら、そういう水だと書いておけば喜ばれそうなのに、と不思議そうに首を傾げているから。
「…そうしないトコが、あのご主人の人柄っていうヤツなんだろうな」
 美味しい水を一人占めじゃなくって、お客さんにも飲んで欲しいんだろう。人を呼び込むための水じゃないんだ、いわゆるサービスってヤツなんだろうが…。
 お蔭で俺も気が付いた。この水、地球の水なんだぞ?
「え?」
 それはそうでしょ、此処は地球だし…。地球の湧き水なら地球の水でしょ?
「むろん、そういうことになるんだが…。その地球の水。前の俺たちには貴重品だぞ?」
 ボトルに詰めて、とんでもない値段で売られていたって不思議じゃなかった。
 誰もが行きたいと願っていた星だ、人類の聖地と言われた地球だ。
 その地球の水を汲んで来ました、ってことになったら、どんな値段になってたと思う?
 …もっとも、あの頃の地球は死の星だったし、水を売るどころじゃなかったんだがな。
 その地球が見事に復活して来て、今じゃ何処でも地球の水ってヤツが飲み放題だ。高いどころかタダになっちまって、店でも家でも好きなだけ飲める。
 俺も初めて気付いたんだがな、この水をくれた店のお蔭で。
「本当だ…!」
 お水、何処でもくっついてくるね、レストランでも喫茶店でも。
 なんにも注文しない内から、お水のコップが出て来るものね。お水が減ったら入れてくれるし、お水のお金は要らないし…。
 当たり前だと思ってたけど、あのお水、全部、地球の水だね…!



 学校でもお水はいつでも飲めるよ、と驚いたブルー。
 水飲み場は学校のあちこちにあるし、お金なんかは要らない仕組み、と。家でも何処でも水道があれば水が出て来て、好きなだけ飲んでいいんだった、と。
「…前のぼくが聞いたら、冗談じゃないかと思いそうだよ」
 地球の水は全部タダなんです、って言われても、きっと信じないよね。地球に住めるような偉い人ならタダで飲めても、そうじゃない人は高い値段で買って飲むんだと思うかも…。
「俺も同じだ、前の俺ならタダだと聞いても信じないな」
 一部のエリートだけの特権だろうと、地球に住めるヤツらはタダなんだな、と思うんだろう。
 前の俺たちが飲もうと言うなら、何が何でも地球に辿り着くか、高い水を奪って飲んでみるか。どっちにしたって、そう簡単には飲めないもので、だ…。
 そんな地球の水を飲み放題っていう今の俺たちは、凄い暮らしをしてるってわけだ。蛇口を捻るだけで地球の水が飲めるし、何処に行っても水はタダだと思って生きてるわけだしな。
 これは凄いと思わないか…?
「うん…」
 お水なんかは普通なんだと思っていたけど…。
 お茶とかになったら特別だけれど、お水はサービスでついてくるものだと思い込んでたけど…。
 それって普通じゃなかったんだね、前のぼくたちには考えられないような贅沢なんだね。
 地球のお水を好きなだけ飲めるっていうのもそうだし、その地球の水がタダだなんて。
「うむ。今日まで気付かずに来たくらいなんだ、それほどにタダだと思ってるわけだ」
 生まれた時から使い放題、飲み放題で育って来たから、そうなっちまった。
 シャングリラの頃には地球の水どころか、飲料水の確保にも気を配っていたというのにな…。



 贅沢な時代になったもんだな、と紅茶のカップを傾けた。ブルーにパチンと目配せしながら。
 この紅茶もその水で淹れて貰ったと、同じ水で淹れた紅茶なのだと。
 ブルーは早速、紅茶のカップを口へと運んで。
「美味しいかも…」
 いつもの紅茶より、ずっと美味しい紅茶かも…。
「それは気のせいかもしれんがな。…俺には水ほどに違いは分からん」
 俺は紅茶は詳しくないしな、お前も前から知っている通り、コーヒーの方が好きだしな?
 それに、この水。あの店のご主人も朝一番にこれでコーヒーなんだと言っていたから、コーヒー向けの水なんじゃないか?
 コーヒーにはピッタリの水かもしれんが、紅茶の方にはどうだかなあ…?



 紅茶も美味しく飲める水とは限らないぞ、と笑ったけれど。
 コーヒーと紅茶では、淹れるのに向いている水の性質が違う部分もあるだろうけれど。
 小さなブルーは「ぼくは美味しいと思うけど…」と紅茶をコクリと飲んで。
「コーヒー向けなのか、紅茶向けかは、汲みに行ってる人たちに訊かないと分からないけど…」
 でも、いいお水には違いないよね、行列が出来るほどの水なんだから。
 そういうお水は、名水って言うんだったっけ?
「ああ、間違いなく名水だな」
 うんと昔なら、それこそ名前がついただろう。この辺りが日本だったような時代なら。
 そりゃあ立派な名前を貰って、その水で仕込んだ酒なんかもきっと出来たんだろうなあ…。
 今の時代だと、ただの公園の水なわけだが。
 公園の名前さえもついていなくて、「あそこの水」って呼ばれるわけだが、確かに美味い。
 いつかは名前がつくのかもなあ、美味いって評判がどんどん広がっていったらな。
 そうなったとしても、相変わらずタダで、好きなだけ汲める水なんだろうが。



 今の時代は、地球の水はタダが基本だから。美味しいからといって有料になりはしないから。
 この公園の水もきっと無料のままだろう、と話してやったら。
「毎日、こういう美味しいお水が飲めたらいいね」
 地球のお水っていうだけで幸せだけれど、美味しいお水はもっと幸せ。
「…水道の水でも充分なんだが…」
 前の俺たちからすれば、水道の水でも地球の水となったら格別の水ではあるんだが…。
 そうは言っても、俺たちは今の時代の人間なわけで、贅沢な地球の水に慣れているわけで…。
 欲も出るよな、同じ飲むなら美味い水、と。
 こういう美味いのに出会ってしまうと、もっと飲みたいと思うよなあ…。



 いつか山まで美味い湧き水を汲みに行こうか、と誘ってみた。
 人間が掘った井戸とは違って、地面から自然に湧き出す清水。それが飲める場所もあるからと。
「泉って言葉は知ってるだろう? そういうヤツだな」
 綺麗な水が湧き出してるんだ、親父が汲みに行ったりしてるぞ。美味い水だからな。
「ホント?」
 それじゃコーヒーに合う水なのかな、その泉って?
「さてなあ…。親父からは特に聞いちゃいないが、泉から飲んでもかまわないんだぞ」
 自分でフキの葉でコップを作って。
「…フキの葉?」
 フキって、フキノトウのフキ?
 あれの葉っぱでコップが出来るの?
「そうさ、フキの葉が大きく育った頃ならな」
 デカくて穴の無い葉っぱを選んで、茎ごとポキリと折ってくるんだ。



 そいつの茎を手前にこう折り曲げて…、と父の直伝を示してやったら。
 葉の部分がコップのようになるから、水を汲めるのだと教えてやったら。
「それ、やりたい!」
 やってみたいよ、フキの葉のコップ。それでお水も汲んでみたいし…。
「いつかはな」
 連れてってやろう、あそこの水は美味いんだ。山登りをする価値は充分にあるぞ。
 だが、山登りはお前の身体じゃ大変だろうし、普段は名水にしておくか。
 例の公園の名水を汲みに出掛けて、そいつでコーヒー。
 結婚したなら、朝は名水でコーヒーと洒落込みたいじゃないか。
「そこは紅茶だよ!」
 ぼくはコーヒー、苦手なんだから!
 美味しい水を汲みに出掛けて淹れるんだったら、断然、紅茶!
「俺はコーヒー党なんだが…」
 美味い水で朝から淹れるとなったら、俺はコーヒーにしたいんだがなあ…。
 しかしお前は紅茶なんだな、意見が分かれちまったな。
 まあ、今の所はコーヒーが美味い水ってことでだ、あの公園の水を汲みに行ってコーヒーだな。
 お前はそいつで紅茶にしておけ、今日のも美味いと言ってるんだから。



 それでいいだろ、と言っておいたけれど。ブルーもコクリと頷いたけれど。
 いつかブルーと結婚したなら、コーヒーと紅茶、どちらにも合う水を探しに、汲みに行こうか。色々な水の評判を聞いて、あちこちの水を試してみて。
 そんな結婚生活もいい。
 週末になったら、たまには朝早くから二人で、美味しい水を汲みに。多分、車で。
 そこから始まる朝の食卓、家に戻ったら紅茶にコーヒー。
 まだ暗い内から出掛けて汲んで来た水で、紅茶にもコーヒーにもピッタリの水で。
 きっと幸せの味がするだろう、地球の美味しい水だから。
 前の自分たちには思いもよらない贅沢だったけれど、今は無料の地球の水。
 それで紅茶とコーヒーを淹れて、二人でゆっくり味わう朝。
 ブルーには紅茶、自分はコーヒー。
 いい味がすると、水を汲みに出掛けた甲斐があったと、二人で微笑み交わしながら…。




           無料の水・了

※今では無料で飲めるのが水。飲食店でさえ、タダで提供してくれるほど。飲み放題で。
 シャングリラでは考えられなかった贅沢な暮らし。それに気付くと、水も輝いて見えるほど。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










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