シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(…こいつがいいんだ)
実に美味いんだ、とハーレイはアーモンドをつまんでいた。
いわゆるローストアーモンド。香ばしくローストされたアーモンドと絶妙な塩味のハーモニー。幾つでも食べられそうな気がする、流石にそれはしないけれども。器に入れて持って来た分だけ、それでおしまいにするつもりだけれど。
ブルーの家には寄れなかった日の夜、書斎の机で傾けるウイスキーのお供にアーモンド。
ウイスキーも深酒する気などはなくて、グラスに一杯と決めていた。深酒をしては酒の美味さが台無し、ゆっくり、じっくり味わいたいなら量は控えておくのがいい。
だからグラスに一杯分だけ、今日の気分はそんな所で。
普段だったらコーヒーだけれど、たまにはウイスキーもいい。夜のひと時、寛ぎの時に。
酒のお供にと選んだアーモンド。
冷蔵庫の中にはチーズもあったし、ナッツにしたってミックスナッツがあったけれども。色々なナッツを詰め合わせた缶、それが置いてはあったのだけれど。
今夜の気分はアーモンドだった、ローストアーモンドだけを選びたかった。
(なにしろ、これしか無かったからなあ…)
家に無かったという意味ではなく、帰り道に寄った食料品店に無かったという意味でもなくて。
前の自分の記憶に引かれた、今夜はアーモンドで飲んでみたいと。
白いシャングリラで暮らしていた頃、キャプテン・ハーレイだった頃。
人類の船から奪うのをやめて自給自足の生活に入った白い鯨では、バラエティー豊かなナッツは無かった。カシューナッツもピスタチオも無くて、マカダミアナッツも、ペカンナッツも。
白い鯨になったシャングリラで食べたナッツはアーモンドくらい、塩味をきかせたアーモンド。それにしようと遠い記憶がざわめいたから、今夜はローストアーモンドで。
白い鯨を懐かしむには丁度いいから、前の自分を思い出しながら飲みたい夜には。
前の自分の記憶と言っても、辛く悲しい記憶ではなくて。
前のブルーを喪った後の心塞がれた時代ではなくて、それよりも前の平和な時代。前のブルーが元気だった頃、シャングリラに希望が満ちていた頃。
地球の座標は掴めなくとも、アルテメシアの雲海から外へは出られなくとも、いつかは地球へと夢を見ていた、いつか地球へと旅立つのだと。
ミュウと人類とが手を取り合うのか、戦いになるか、それは誰にも読めなかったけれど。確かな未来は見えなかったけれど、それでも地球へと。
道は開ける筈だと信じた、前のブルーも、前の自分たちも。
そのためにも今を生きなければと、未来を作ってゆかなければと楽園という名の船を維持した、ミュウの楽園であるようにと。
外の世界には出られなくても、地面の上には降りられなくても、満ち足りた日々を船で過ごしてゆけるようにと。
船での暮らしを豊かにするため、選ばれたナッツがアーモンド。
何にするかと何度も会議を重ねたけれども、使い道の多さと花の美しさでアーモンドにしようということになった。同じ植えるならアーモンドがいいと、美しい花を咲かせるそうだからと。
(本当に綺麗だったんだ…)
あの花が、と白いシャングリラを思い出す。アーモンドが植わっていた船を。
桜のようだったアーモンドの花。桜によく似た花を咲かせた、淡い桃色の花を幾つも、幾つも。花の時期には木が桃色の雲のようになった、桜そっくりの花に覆われて。
桜にとても似ていたけれども、サクランボよりも早く咲いた花。
人工的に作り出された船の四季に合わせて、冬から春へと向かう頃に。芽吹きの春へと移りゆく季節に先駆けて咲いた、アーモンドの花は。
(今だと梅が咲く頃だよな)
白やら紅やら、冬は終わりだと花開く梅。早い梅なら雪の中でも開き始める、咲き始める。
今の自分たちが住んでいる地域、遠い昔には日本という名の小さな島国が在った辺り。日本では梅が好まれたというから、文化の復活と共に梅も戻った、あちこちに植えられ身近な存在。
今の自分は見慣れているから、アーモンドの花の時期には梅だと分かる。
シャングリラには無かった梅の花が開いて、香しい香りが辺りに漂う。春告草の名前どおりに、春の兆しを振り撒くように。
アーモンドの実は食べられるけれど、前の自分たちも食べたけれども。
今も香ばしいローストアーモンドをつまみにしているけれども、梅の花と言えば。
(梅干しも悪くはないんだ、これが)
日本風の酒を飲むなら、梅干しもいける。梅肉を使った和え物なども合う、たまに作ってみたりする。長芋を和えたり、豆腐に添えたり。
(つまみでなくても…)
梅の実の使い道はアーモンドと同じに色々とあった、梅干しにして食べる他にも。梅シロップに梅酒、それを作った梅を使って料理も出来るし菓子も作れる。
梅干しにしても、おにぎりに入れたり、梅肉を使う料理も沢山。
つまりはアーモンドと同じに役立つ梅の実、梅も花だけを愛でる木ではなかった。
シャングリラに梅は無かったけれども、あれば役立ったに違いない。花を咲かせた後の実までが充分に利用できるのだから。
アーモンドか梅か、どちらなのかと訊かれたら。
花が美しく、実まで使えるアーモンドと梅、どちらを取るかと尋ねられたら。
(今なら梅か…)
シャングリラに植えるというわけではなく、自分の好みで決めていいのなら梅を選びたい。
梅干しや梅肉などはともかく、実をつける前に開く花。まだ寒い内に咲き始める花。
その情緒で梅に軍配が上がる、アーモンドよりも梅の花だと。
せっかくの日本、かつて日本が在った地域で暮らすのだから、梅がいい。遠い昔の人々が愛した文化を楽しむ地域に生まれたのだし、同じ花ならやはり梅が欲しい。
春の足音を運ぶ梅の花、春告草とも呼ばれる花。
自分が教える古典の中にも幾つも出て来る、梅の花も、それを詠み込んだ歌も。
けれどアーモンドではそうはいかない、アーモンドでは古典の世界にならない。
今の時代も公園などにはアーモンドが植わっているけれど。早咲きの桜かと勘違いされることもあるのだけれども、ただそれだけで終わる花。
アーモンドの花が咲き誇る場所で古典の世界に浸れはしないし、梅の花とはまるで異なる。
(だが、花と言えば…)
花という言葉が指していた花。花と言えばこれだ、と誰もに通じた花の正体。
梅から桜に変わったのだったか、遥かな昔の日本では。
日本で最初に作られた都、その頃には花は梅だった。歌に詠まれた花という言葉は梅の花だけを指し、他の花ならば別の名で呼ばれた。「花」とだけあれば、その花は梅。
けれども都が別の場所へと移された後に、其処で都が栄える内に。
花は桜に変わってしまった、歌の中でも、書き記された日記や物語でも。花と言えば桜、梅ではなくて。誰も梅とは思わなくなった、花という言葉を耳にした時に。
(しかも、それだけではなくてだな…)
最高の権力を誇った天皇、その住まいの前に植えられた花まで梅から桜に変身を遂げた。以前は梅が植わっていたのが、桜の木に。対で植えられた橘の方は変わらないまま、梅だけが桜の木へと変わった。誰もおかしいと思いはしなくて、ごくごく自然に、いつの間にやら。
そうして花は桜に変わった、梅は「花」から「梅の花」へと変わって桜にその座を譲った。
なんとも不思議な話ではある、桜にサクランボは実らないのに。
サクランボが実る桜はまた別のもので、遠い昔の日本で愛された桜の花とは違うのに。
梅の木だったら実をつけ、それを食べることが出来る、日本で好まれた梅干しなどに加工して。
それに比べて桜はといえば、ただ花が咲くというだけのこと。サクランボは実らず、花が咲いた後には散ってゆくだけ、また次の年に花を咲かせるまでその場所に根を張っているというだけ。
梅と違って役に立ちはせず、手入れが必要というだけの桜。
せっせと手入れをしてみた所で翌年の春に花が咲くだけ、何の役にも立たないのに。
花が人の目を楽しませるだけで、それ以上のことは何も無いのに。
なのに梅から桜へと変わった、遠い昔の日本では。
実をつけ、役立つ梅の木から桜に変わった、「花」という言葉も、天皇の住まいを飾った花も。
(きっと日本は…)
平和だったのだろう、梅を桜に変えられるくらいに。
花の後には実をつける梅を、実などつけない桜に変えてしまえるほどに。
花を愛でられればいいと思える時代だったのだ、きっと。桜へと変わっていった時代は。
役に立つ梅の木を桜に植え替え、花という言葉も梅から桜へ変えた時代は。
(シャングリラでは無理だ…)
あの船にあったアーモンドを桜に植え替えるのは。
いくら平和な時代であっても、本当の意味での平和は無かった。戦闘が無かっただけの時代で、人類は変わらずミュウの存在を認めないままで。
シャングリラが雲海の中に潜んでいたから平和だっただけ、その存在を人類が知らなかったから何も起こらなかっただけ。
物資を補給しに宙港へ降りたり、輸送船を頼むことなど出来はしなくて、全てを船内で賄うしかなくて。自給自足の日々だった船では、アーモンドの木は必需品だった。
そのアーモンドを桜に替えても、誰も喜ばない、役に立たない。
アーモンドの実は採れなくなってしまい、桜の木ではサクランボも実りはしない。春になったら花が咲くだけ、ただそれだけの桜の木。
どんなに見事に咲いたところで、ほんの一時期、咲き誇った後は散ってゆくだけ。
いったい誰が喜ぶだろうか、そんな役立たずの桜の木を。同じような花が咲くアーモンドの木を抜いてしまって、代わりに桜を植えたとしても。
(…それとも、それも喜ばれたか?)
桜の花の美しさはやはり格別だから。
咲き初めから散ってゆくまでの間、刻々と変わる花の表情、それはアーモンドとは違うから。
遥かな昔の日本の人々が愛し、魅せられた花だけはあると今の自分は知っているから。
あのシャングリラにも桜があれば愛されたろうか、と思ったけれど。
駄目だと直ぐに思い直した、そんな心の余裕は無かった。
ただ愛でるために桜を植えようと、育ててみようとアーモンドの木と取り替えるだけの余裕などありはしなかった。桜は役に立たないのだから、サクランボも実らないのだから。
(やはりシャングリラではアーモンドなのか…)
桜と似たような花は咲くけれど、風情が違うアーモンド。花の季節も桜とは違う、桜よりも早い梅の季節に咲いて散ってゆくアーモンド。
そのアーモンドを植えておくのがギリギリ、実がなるからこそのアーモンドの木。ローストしてナッツの味を楽しんだり、粉にして菓子に使ってみたりと。
実をつけ、それが食べられるから許された薄桃色のアーモンドの花。けして愛でるためにある花ではなかった、桜の花とはまるで違って。
サクランボにしてもそうだった。桜に似た花を咲かせてはいても、花よりも実が大切だった木。アーモンドのようには長持ちしない実、贅沢だったサクランボ。赤く瑞々しいサクランボの実は、船での暮らしに欠かせないものではなかったから。
とはいえ季節を知らせる果物、愛されていたサクランボ。今年も採れたと、甘く美味しく実ってくれたと。
これが桜ではそうはいかない、花の後にはサクランボは無くて、花だけだから。
きっと誰にも顧みられず、役に立たない木が植わっていると思われただろう桜の木。
(…余裕の無い船だな、本当に…)
心の余裕がまるで無いな、と溜息をついた。
公園に薔薇はあったのだけれど、薔薇こそ何の役にも立たない観賞用の花だけれども。それでも薔薇は桜ほどに場所を取りはしないし、四季咲きだったから花は一年中。花の持ちも良くて桜とは違う、見る間に散ってしまいはしない。
その薔薇を使って薔薇のジャムまで作られていたのに、シャングリラの中に桜は無かった。
一面の桜並木は無かった、白い鯨の何処を探しても。
(そいつを作るならアーモンドなんだ…)
見渡す限りとまではいかなくても、ズラリと並んだ花の雲を船で見たければ。桜並木を思わせる景色を眺めたければ、似た花をつけるアーモンド。
だから桜並木のような景色は見られたと思う、アーモンドの木は一本だけではなかったから。
花の季節に其処へ行ったなら、桜によく似たアーモンドの花が薄桃色の雲を纏い付かせて立っていたろう、さながら早咲きの桜の如くに。
花見をしてはいないけれども。
誰も花見をしようとは言わず、アーモンドの花は静かに咲いては散ったのだけれど。
(日本だと花見なんだがなあ…)
今の時代も桜が咲いたら花見に出掛ける人たちは多い。心浮き立つ春の光景。
遠い昔に日本だった頃は、もっと優雅に桜を愛でていたという。池に浮かべた船から眺めたり、桜が咲いたと館で宴を開いてみたり。
桜を詠んだ歌も色々とあって、古典の授業の時間だけでは教え切れない、時間が足りない。
(世の中に絶えて桜のなかりせば…)
そんな歌まで詠まれた時代。
この世の中に桜というものが無かったならば、のどかな気持ちで春を過ごせるのに、と。
今日は咲くかと、明日の桜はどんな具合かと、心騒がせていた人々の心を詠んだ歌。桜のお蔭で気もそぞろだと、どうにも落ち着かない季節が春だと。
(平和だな…)
桜ひとつで、たかが桜の花くらいのことで大騒ぎしていた遠い遠い昔。
桜が無ければ春はのどかな気分だろうに、と歌に詠まれたほど、桜にかまけていられた時代。
理想郷だ、と思わないでもない。
桜の他には心騒がせるものが無いなど、まさにシャングリラだと、理想郷だと。
事実、平和な時代だったと文献にはある、戦乱も無くて華やかな文化が花開いたと。
(だが、人間が生きてゆくには…)
大変な時代だっただろう。
一部の貴族たちを除けば、家も食料も果たして足りていたのかどうか。今とは違って疫病などもあった、薬も満足に無かっただろうに。
桜が無ければ、と詠んだ貴族たちも、疫病ともなれば逃れられない。
(桜に変わる前の梅の時代は…)
もっと大変だっただろう。
疫病どころか戦乱があった、日本人同士で争い合った。権力者も次々に移り変わった、とうとう都も変わってしまった。長く都があった地を捨て、別の場所へと。
そうして都を移した先で平和が続いて、梅は桜に取って代わられた、桜の時代がやって来た。
花と言えば桜、梅ではなくて。
天皇が住まう建物の前にも、梅の代わりに桜を植えた。対になる橘はそのまま変わらず植わっていたのに、梅の方だけが桜の木に。
花を愛でることしか出来ない桜に、実などつけない役立たずの木に。
平和だったからこそ桜になったか、と考えずにはいられない。人間の役に立つかどうかよりも、美しい花が咲くものを、と。花を愛でられればそれで充分、そういう時代だったのだろうと。
本当の所はそんな理由ではなかっただろうと思うけれども。
中国から来た梅よりも日本の桜を重んじる風に変わっただけだと知っているけれど、前の自分の頃を思えば、桜を平和だと思ってしまう。役に立つ梅より桜なのか、と。
白いシャングリラでは役に立たない桜を植えても駄目だったから。似たような花のアーモンドを育て、実を採らなくてはならなかったから。
アーモンドから桜に植え替えることなど出来はしなかった、役立たずの桜は植えられない。自給自足の船の中では。どんなに花が美しかろうと、アーモンドは桜に替えられなかった。
けれど…。
(シャングリラだって…)
時を経てゆけば、桜の船になっただろうか。
役に立つアーモンドを植える代わりに、桜を育てられただろうか。
平和な時代がやって来たなら、花を愛でるための木を植えられるような時代になったなら。
遥かな遠い昔の日本で、梅が桜に変わったように。役に立つ木から花だけの木へと、アーモンドから桜の木へと、いつしか変わっていったのだろうか。
前の自分たちが生きた時代が終わって、トォニィたちの時代になったら。
ミュウと人類とが共に生きた時代、本当の平和がやって来た時代。シャングリラは宇宙を自由に旅した、何処の星にも降りることが出来た。物資の補給も何処ででも出来た。
アーモンドの木にこだわらなくても、桜に植え替えられただろう。トォニィたちが桜にしたいと望みさえすれば、アーモンドの木を全て桜と取り替えることも。
ところが、木々の交代劇は起こらなかったシャングリラ。
公園も農場もそのままに保たれ、丁寧に世話が続けられた。アーモンドの木も。
(頑なに植え替えなかったんだよな…)
シャングリラのその後はどうなったのか、と調べたデータベースの資料で知った。
前の自分たちが生きた時代に敬意を表して、トォニィたちはシャングリラをそのままの形で残し続けた。青の間やキャプテンの部屋はもちろん、公園の木々も農作物なども。
自給自足の必要性などなくなった後も、アーモンドの木は残り続けた。花を愛でるだけの桜にはならず、最後までアーモンドが植わったままで。
(あの船に、桜…)
前の自分は見られないままで終わったけれども、次の時代に見たかった。
トォニィとシドが引き継いだ後に、そういう平和なシャングリラを。
アーモンドの代わりに桜が咲き誇る白いシャングリラを、平和な時代の桜の船を。
(はてさて、ブルーがこれを聞いたら…)
ブルーはどんな顔をするのだろうか、「桜の船を見たかった」と自分が言ったら。
かつてシャングリラを指揮したキャプテン、その自分が桜を植えたかったと言ったなら。平和な時代になった後には桜の船にして欲しかったと。
(あいつに話してみるとするかな…)
明日は土曜日なのだから。そのせいもあって、ウイスキーと洒落込んでみたのだから。
アーモンドを土産に持って出掛けて、小さなブルーに話してみたい。アーモンドの木を全部桜に替えて欲しかったと、そんなシャングリラが見たかったと。
(…だが、あいつだしな?)
小さなブルーと酒を飲むのは無理だから。つまみにナッツとはいかないから。
ローストアーモンドを持ってゆく代わりにクッキーにしようか、アーモンドの粉を使って焼いたクッキー。柔道部員たちが遊びに来た時は、徳用袋を買いにゆく店の。
アーモンドをつまみにウイスキーを飲んで、眠った翌朝。
桜の船は覚えていたから、ブルーの家へと出掛ける途中でクッキーの店に立ち寄った。徳用袋がドンと置かれているのだけれども、今日はそちらに用事は無い。
(これに憧れてるのも、あいつなんだが…)
ブルーが欲しがる徳用袋。割れたり欠けたりしたクッキーを詰めた袋なのだけれど、柔道部員を家に招いたら出すと話したら、綺麗に揃った詰め合わせよりも魅力的だと思えたらしい。多すぎて食べ切れないというのに、ブルーは徳用袋が憧れ。
けれども、今日はアーモンド。徳用袋の方は無視して、アーモンドクッキーの袋を一つ。二人で食べるのに良さそうな量が入ったものを。
クッキーの袋を入れて貰った紙袋を提げて歩いて、生垣に囲まれたブルーの家に着いて。二階の部屋に案内されて間もなく、ブルーの母がクッキーを盛った器と紅茶を運んで来たものだから。
小さなブルーはクッキーの器をまじまじと眺め、「お土産?」と首を傾げて訊いた。
「まあな。たまにはこういう土産もいいだろ」
「なんでクッキー? これって、いつものお店のでしょ?」
徳用袋が良かったのに、とブルーは唇を尖らせた。ぼくの憧れは徳用袋、と。
しかも一種類だけしか買って来ないとは何事なのか、と不思議がるから。あの店だったら色々なクッキーが揃っているのに、どうして詰め合わせにしなかったのか、と尋ねるから。
「そりゃあ、理由があるってな。これしか買ってこなかったんだし」
「ハーレイのお勧めのクッキーなの?」
これが特別美味しいだとか、今の限定商品だとか。
「そうじゃなくてだ、こいつはアーモンドクッキーで…。そこが大切なポイントなんだ」
アーモンドって所だ、それが大事だ。
「…アーモンド?」
ちっともヒントになっていないよ、アーモンドの何処が大切なの?
「前の俺たちだ。シャングリラでナッツと呼べるようなの、アーモンドくらいだっただろ?」
栗の木なんかもあったりはしたが、栗はナッツと言っていいのか…。
ナッツの内には入るんだろうが、あれはデカすぎて木の実っていう感じだったしな。
本当はアーモンドを丸ごと持って来たかったが…、と苦笑した。
しかしそれでは酒のつまみだと、紅茶には全く似合わないからクッキーなのだと。
「…それは分かるけど、アーモンドを持って来た理由が分からないよ」
まだ分からない、とブルーが赤い瞳を瞬かせるから。
「思い出したからさ、シャングリラにあったアーモンドの木をな」
少し昔を懐かしむか、と昨夜はアーモンドをつまみに飲んでたんだが…。
最初の間は食べていたことを思い出していたが、途中から花の方へと行った。アーモンドの花、桜の花に似ているだろうが。
それで、シャングリラでは桜なんかを植える余裕は無かったな、と思ってな…。
似たような花でも実をつけるアーモンドしか植えていられなくて、実をつけないような桜の木は駄目で。ついでに、花が咲いて実をつける木なら梅があるわけだが、それも無かった。
まあ、あの時代は梅の実を食べる文化は無いしな、梅を植えようとは思わんだろうが…。
そこでだ、今、俺たちが暮らしてる地域。
此処は昔は日本だったろ、日本じゃ梅から桜に変わっていったんだ。花と言ったらこの花だ、と決まっていた花が梅から桜に。
「ふうん? …変わっちゃったんだ?」
「ずっと昔に、梅から桜へコロリとな。そうなった理由はちゃんとあるんだが…」
俺はウッカリ考えちまった、食える梅より、花だけの桜に変わっちまったとは平和だな、と。
人間の役には立ちそうもない木を大事にするとは、よほど平和な時代だったに違いない、とな。
だから…、とブルーの瞳を覗き込んだ。
「俺たちのシャングリラもそうしたかった、と思っちまったんだ」
梅じゃなくってアーモンドだったが、あれを桜に替えたかったと。
それでアーモンドを持って来たわけだ、この実が無くても桜の船にしたかったな、と。
「…それって、いつに?」
アーモンドの木は大切だったよ、みんなで考えて植えたんだから。
それを桜に植え替えるなんて、船中が反対しそうだけれど…。桜には実がならないんだもの。
サクランボの木にするならともかく、ただの桜は難しそうだよ。
「うむ。…だから、俺たちの時代には無理だった。俺が言うのは、もっと後のことだ」
つまり、トォニィとシドの時代のシャングリラだな。
あの時代にはもう、アーモンドの木は必要無かった。欲しけりゃ補給出来たんだからな。
そういう平和な時代だったし、アーモンドの代わりに桜を植えて欲しかった。平和な時代らしく桜の船になっていたらな、と思ったんだが…。
お前は、それをどう思う?
アーモンドの代わりに桜が植わったシャングリラ。平和で良さそうだと思わないか?
「…そのシャングリラ、見てみたかったかも…」
前のぼくは死んでしまっていたけど、もしも見られるなら見たかったよ。
アーモンドの代わりに桜が一杯、春になったら桜の花が咲くシャングリラを。
「そうだろう? 俺も見てみたかったんだ」
死んじまっていても、そんなシャングリラなら是非見たかった。平和になったと、いい船だと。
だが、あいつらは前の俺たちが植えた木とかを、変えようとしなかったんだよなあ…。
大切に思っていてくれたからこそだが、桜の船は見たかったよなあ…。
アーモンドの木は桜に変わらないまま、他の木もそのまま、白いシャングリラは飛び続けた。
最後のソルジャーになったトォニィを乗せて、キャプテン・シドが舵を握って。
広い宇宙をあちこち旅して、トォニィが決めた長い旅の終わり。
もうシャングリラは役目を終えたと、この先の時代にシャングリラはもう必要無いと。
そしてシャングリラは解体されて、時の彼方に消えたから。宇宙から消えてしまったから。
「ねえ、ハーレイ…。シャングリラ、最後に桜の船にしてあげたかったね」
アーモンドの代わりに桜の木を乗せて、平和な時代らしく飛ばせてあげたかったね…。
「俺もそう思う。ほんの数年だけでもな」
解体が決まってからも何年かは飛んでいたんだ、色々な星がシャングリラを招待したからな。
そういう所へ出掛けてゆくなら、桜の船でも良かったんだ。
前の俺たちが植えておいた木にこだわらなくても、平和な時代に相応しい木にしてくれれば。
引退の時には桜を乗せて飛んで欲しかった。
アーモンドの木の代わりに桜を、花を愛でるだけの桜の木を。
そうはならなかった船だけれども、シャングリラは最後までアーモンドと共に飛んだけれども。
小さなブルーも、桜の船を見たかったと言う。桜の船にしてやりたかったと。
「シャングリラに桜…。トォニィは桜、知ってたのかな?」
何処かで桜の木を見ていたかな、アーモンドの木よりも素敵だと思って見てたかな?
「どうだかなあ…」
それはなんとも分からんなあ…。桜を植えてた星も多いとは思うんだが。
しかしだ、トォニィが桜を知っていたとしても、日本の文化の移り変わりまでは知らないぞ。
梅から桜だと知りはしないし、知っていたって、俺のような考え方になったかどうか…。
アーモンドを桜に植え替えようとは思い付かなかったろう、恐らくな。
シャングリラが引退の時に花一杯で飛んでいたとしたって、桜じゃなくて別の花だろうなあ…。
「うん、でも…。お疲れ様、って花だらけだよね」
きっと宇宙のあちこちの星から、沢山のお花。
それを一杯に乗せて貰って、シャングリラは飛んで行ったと思うよ。
ブリッジだってきっと花で一杯で、舵の周りまで花が飾ってあったと思うよ…。
ミュウの歴史の始まりの船だったシャングリラ。
どんな引退式だったのか、詳しくは伝わっていないけれども、花は溢れていただろう。
シャングリラの労をねぎらう花たち、「ありがとう」と感謝の気持ちがこもった花たち。
その花たちを乗せてシャングリラは飛んで、植えられていた木はシャングリラの森に移された。始まりの星のアルテメシアに作られた記念公園に。アーモンドの木も、其処に引越したろう。
桜の木には植え替えられずに、最後までシャングリラと一緒に飛んで。
他の木たちと共に引越して、シャングリラの森で咲き続けたろう。春が来る度に花を咲かせて、桜とは違って実をつけ続けて。
そしてシャングリラは宇宙から消えた、白い鯨はいなくなった。
「…なくなっちまったなあ、シャングリラ…」
今じゃシャングリラ・リングしか残ってないなあ、シャングリラの名残。
モニュメントとかと違って、俺たちでも触れそうなものとなるとな。
「シャングリラの一部だった金属で作ってくれるんだよね、シャングリラ・リング」
結婚指輪を申し込んだら、抽選でちゃんと当たったら。
それにシャングリラの記憶、あるかな?
シャングリラ・リングを作って貰えたら、シャングリラの記憶を見られるのかな…?
「さてなあ…。そういった話は俺も知らんが…」
見えたって話に出会っちゃいないし、そいつは何とも分からないが…。
貰ってみないことには謎だな、シャングリラ・リングにシャングリラの記憶があるかどうかは。
分からないな、とは言ったけれども。
白いシャングリラで共に暮らした自分たちだったら、もしかしたら。
シャングリラ・リングを嵌めて眠れば見られるかもしれない、シャングリラの記憶を夢の中で。
そう口にしたら、小さなブルーは赤い瞳を輝かせて。
「ちょっと見たいね、シャングリラの記憶」
最後まで幸せだっただろうけど、幸せ一杯の引退飛行を。
トォニィとキャプテン・シドを乗っけて、沢山の花を一杯に乗せて。
「俺も見たいな、シャングリラには散々苦労をさせたからなあ…」
地球に行くために苦労をかけたし、引退の時には幸せであって欲しいもんだ。
いつかお前と見られるといいな、そういう幸せなシャングリラをな…。
シャングリラにあったアーモンドの木。
桜の木には植え替えられずに、そのままになってしまった木。
白いシャングリラを桜の船にはしてやれなかったけれど、それは叶わなかったけれども。
花一杯の幸せなシャングリラを見たい、役目を終えて旅立つ時の。
前の自分は見られずに終わった、シャングリラの幸せに満ちた旅路を。
叶うものならブルーと二人で、その夢を見たい。
いつか幸せに抱き合って眠る夢の世界で、一杯の花に囲まれて旅立つシャングリラを…。
アーモンドと桜・了
※シャングリラに植えられていたアーモンドの木。愛でるためではなくて、実を食べるために。
平和になった時代だったら、桜の木でも良かった船。ブルーとハーレイの夢の船です。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv