シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(えーっと…)
お別れの曲、とブルーは耳を傾けた。
学校からの帰り道。路線バスを降りて家へと歩いていた時、微かに流れて来たメロディ。上手い具合に風に乗ったか、「蛍の光」が聞こえて来た。遠いけれども、この曲は確かに蛍の光。
歩く途中で下の学校の大きな子たちを見かけたから。今日は学校が終わる時間が早いのだろう、普段よりも。
蛍の光は下校を促すメロディ、遊んでいる子もクラブ活動に打ち込む子たちも、学校を出るよう知らせるメロディ。学校から子供の姿が消える合図で、完全下校の時間に流れる曲。
いつもだったら、もう少し後の時間だから。
バスを降りて家まで歩く間に聞こえてはこない蛍の光。下の学校で今も流れている曲。
ふと学校が懐かしくなった、制服ではなかった下の学校。今のようにバスに乗るのではなくて、歩いて通っていた学校。弱い身体でも歩いて行ける場所にあった学校、こうして下校の時間の曲が風に乗ってふわりと届く学校。
遠い微かな蛍の光。学校とはお別れの時間ですよ、と流れるメロディ。
(ぼくは滅多に…)
聞きはしなかった、学校の中で蛍の光は。
身体が弱くてクラブ活動はしていなかったし、遊ぶにしたって一度家まで帰ってから。遅くまで残って遊ぶ代わりに友達を呼んだり、友達の家に出掛けて行ったり。
蛍の光が流れる時間まで学校にいた日はそれほど無かった、ごくごくたまに居残る程度で。年に数回あったかどうかで、学校でしか出来ない美術製作などを仕上げるために残っただけで。
教室でせっせと頑張っていたら、描いた絵を塗ったり、粘土細工を作っていたなら、チャイムの後に蛍の光。「帰りましょう」と先生の声で放送も入った、学校の門が閉まりますよと。
最後の生徒が門を出るまで流れ続ける蛍の光。
それを聴きながら帰った覚えは殆ど無くて、学校の外で聞いていた。今のように遠く聞いた日もあれば、学校から近い友達の家で「鳴っているね」と耳を澄ませていたことも。
学校で聞いた記憶が殆ど無いから、お別れの曲と言うよりは。
完全下校の曲と言うよりは、蛍の光は…。
(卒業式の曲…)
下の学校を卒業する時に歌われる曲。卒業する生徒も、まだ学校に残る学年の生徒も共に歌った蛍の光。卒業式のためにと練習を重ね、その日が来たなら講堂に響いた皆の歌声。
十四歳の誕生日を迎えるよりも前に、あの曲に送られて卒業した。長く通った下の学校を。
バスに乗らなくても通えた学校、制服などは無かった学校。
少し寂しい気もしたけれども、上の学校が待っているから。今までとはまるで違った学校生活が待っているから、ドキドキしないわけでもなかった。
(制服のお兄ちゃんになるんだものね)
下の学校の子供から見れば眩しい制服、上の学校の生徒の証拠。それを着たなら一人前とまではいかないものの、大人への階段を一歩上ったという印。
その制服に加えて、給食ではなくて食堂でのランチや、お弁当や。
授業をする先生も科目ごとに変わるし、何もかもがきっと違って見える。同じ学校でも仕組みが変わって、新しいことが待っている筈。
そう思ったから、蛍の光を懸命に歌った、下の学校への別れの曲を。
泣きじゃくっていた生徒も少なくなかったけれども、自分の瞳に涙は無かった。寂しい気持ちはあったけれども、こうして別れていった先では、新しい出会いがあるだろうから。
長年馴染んだ学校から上の学校へ。蛍の光の大合唱に送られ、自分も歌って。
そしてハーレイとバッタリ出会った、今の学校で。
ハーレイは年度初めよりも少し遅れてやって来たから、入学して直ぐではなかったけれど。上の学校にも馴染み始めた、五月の三日のことだったけれど。
そのハーレイと出会うためには、前の学校を卒業しなくては駄目だったから。卒業式で蛍の光を歌わなければ、前の学校を離れなければ決して出会えはしなかったから。
(お別れじゃなくて、始まりの曲だよ)
きっと始まりの曲だった。自分にとっては、お別れの曲でも始まりの曲。
そんな気がする、蛍の光。
あの歌を皆で歌った時から始まったのだと、素敵な時間が流れ始めたに違いないと。
自分の身体に現れた聖痕も、取り戻した前の自分の記憶も、ハーレイとの劇的な再会も、全部。
何もかもが蛍の光で始まり、今の優しい日々があるのだと。
耳を澄ませば、まだ流れている蛍の光。遠く微かに、かつて通った下の学校から。
蛍の光は聞こえ続けた、生垣に囲まれた家に着くまで。門扉を開けて庭に入った辺りで蛍の光のメロディは消えた。もう聞こえなくなってしまったのか、学校の門が閉められたのか。
けれども耳には音が残った、卒業式で歌った蛍の光と重なったままで。
「ただいま」と玄関の扉を開けても、二階の自分の部屋に行っても、流れ続ける蛍の光。本当はもう聞こえないのに、下の学校から風に乗って届いたメロディはとっくに止んでしまったのに。
着替えを済ませて、ダイニングに行って、おやつを食べて。
その間は母と話したりしたし、おやつのケーキも紅茶も美味しかったから。蛍の光のメロディは途切れて、それきり忘れていたけれど。
「御馳走様」とおやつを食べ終え、部屋へ戻ろうと階段を上ったら、また聞こえて来た蛍の光。
帰り道に聞いた下校の合図と、卒業式での皆の歌声とが。
暫く耳にしなかったメロディ、もしかしたら卒業式で歌ったのが最後かもしれない。
何故だかとても懐かしく思えて、部屋に戻って歌ってみた。勉強机の前に座って。
お別れの曲だけれども始まりの曲、と。
この歌で全てが始まったのだし、きっと始まりの曲なのだと。
そうして歌い始めたら…。
(あれ?)
本当に始まりの曲だった気がする、蛍の光。
お別れの曲の筈なのに。完全下校を知らせる合図で、卒業式の歌なのに。
なのに何処かで確かに聞いた。
始まりの曲の蛍の光を、遠い昔に。
(何処で…?)
蛍の光が始まりの曲になるような場所。
何処だったのか、と懸命に考えてみたけれど、分からない。自分が出掛けてゆくような場所で、始まりの曲を耳にすることは滅多に無い。
店にしたって、施設にしたって、開く前から待っていたりはしないから。始まりの合図に流れるメロディが蛍の光だと覚えるほどには、何度も何度も早い時間に出掛けて待ってはいないから。
それなのに聞いた、蛍の光。始まりの曲の蛍の光。
まるで心当たりが無い、蛍の光で始まる何か。記憶を探っても出ては来なくて。
(前のぼく…?)
もしかしたら、と前の自分の記憶も辿ったけれども、やはり無かった蛍の光。
前の自分が生きた時代にあった筈がない、蛍の光。
あの時代に日本の文化などは無くて、蛍の光を歌う卒業式だって無かっただろう。十四歳までの子供を育てた育英都市でも、その後に行く教育ステーションでも、卒業式にはきっと別の曲。
人類たちが卒業式で歌っていたとしても、日本の文化の蛍の光は選ばれない。あったかどうかも定かではない、蛍の光は日本の文化と共に消されて、誰も歌わなかったかもしれない。
(でも、シャングリラは…)
ゆりかごの歌があったほどだから。
今の自分が赤ん坊だった頃、お気に入りだった子守唄。「ゆりかごの歌」という名の優しい歌。
それは日本の歌だったけれど、白いシャングリラでも歌われていた。
SD体制が始まって以来、初めての自然出産で生まれたトォニィのためにと探し出されて、皆が歌ってトォニィやナスカの子たちをあやした。
前のハーレイも覚えてしまって、眠り続ける前の自分に歌ってくれたほどの歌。
シャングリラはそういう船だったのだし、蛍の光もあったのだろうか?
そうは思っても、蛍の光は完全下校を告げるメロディで、卒業式で歌われる歌。
シャングリラには完全下校などは無くて、卒業式もありはしなかった。蛍の光に相応しい場面が全く無かった、あれは別れの曲なのだから。
(お別れの曲の筈なんだけど…)
そう思うのに、記憶は違うと答えて来る。蛍の光は始まりの曲だと。
前の自分がそう思ったのか、それとも今の自分の記憶か。
判然としない、蛍の光。
何処で聞いたか思い出せない、始まりの曲の蛍の光。
あれはシャングリラか、そうでないのか。
シャングリラで耳にしていたとしても、別れの曲が何故、始まりの曲になってしまうのか。
まるで分からない、手掛かりすらも掴めはしない。
それでも蛍の光は始まりの合図、そうだと唱え続ける記憶。その正体も分からないのに、何処で聞いたか、誰が聞いたか、それすらも自分には掴めないのに。
(なんで始まりの曲になるわけ…?)
理由はサッパリ分からないけれど、今の自分が聞いたというのでなければ、シャングリラ。前の自分が始まりの曲だと考えたらしい蛍の光。
(…あったかどうかも謎なんだけど…)
あのシャングリラに蛍の光、と遠い遠い記憶を手繰っていたら、チャイムが鳴った。門扉の脇にあるチャイム。窓に駆け寄ってみたら、手を振るハーレイ。
これは訊かねば、とハーレイに向かって手を振り返した。ハーレイならば、きっと答えてくれるだろう。シャングリラに蛍の光があったかどうかも、それが始まりの曲かどうかも。
間もなくハーレイが部屋に来たから、お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合わせで尋ねてみた。さっきからの疑問を解いて貰おうと、あの記憶は何に繋がるのかと。
「ハーレイ、蛍の光を覚えてる?」
えっと、本物の蛍じゃなくって、歌なんだけれど…。蛍の光。
「ついさっき聞いたばかりだが?」
俺が出て来る時に流れていたがな、蛍の光。
あれがどうかしたか、と怪訝そうな顔。蛍の光は今の学校でも流されるらしい、下校の合図に。そういえば、友達がそんな話をしていた。あれが流れたら自主練習も切り上げなんだ、と悔しそうだった運動部員。今日はいつもより調子がいい、と上々の気分でも蛍の光で終わらされると。
「蛍の光…。やっぱり、お別れの曲だよね?」
今日はここまでにしておきましょう、って下校の合図に使ってみるとか、卒業式で歌うとか。
「うむ、学校では定番だな」
俺が今までに行った学校、何処でも蛍の光だったし…。下校の合図も、卒業式もな。
「そうだよねえ…。でもね、ぼくには始まりの曲なんだよ」
お別れの曲でも、始まりの曲。今日の帰りに下の学校のを聞いたらそうだと気が付いたんだよ。
「ほう…?」
別れの曲がどうして始まりの曲になるっていうんだ、新説か?
お前ならではの凄い発想か、子供の頭は柔軟だからな。
「違うってば!」
ぼくの説には違いないけど、凄くもないし変でもないよ。だって、あの曲…。
蛍の光でハーレイに会えた、と披露した。
下の学校と蛍の光を歌って別れて、その後に入った今の学校。其処でハーレイと再会したから、別れの後に始まりが来たと。あの曲は始まりの曲になった、と。
そう説明して、訊いてみた。あれはシャングリラにあったろうか、と。
「…シャングリラだと?」
蛍の光がシャングリラにあったと言うのか、お前は?
「うん…。もしかしたら、って思わないでもないんだよ」
あったとしたなら、始まりの曲。そういう曲だっていう気がするよ。
ハーレイに会えたから始まりの曲だ、って考えていたら、本当に始まりの曲だったような感じがして来て、それが何処だか、いつのことだか分からなくて…。
ひょっとしたら前のぼくなのかも、って思ったけれども、そんな記憶は残ってないし…。
だけどね、今のぼくの記憶なら、もっとハッキリしていそう。何処で聞いたか覚えていそう。
でも、シャングリラに蛍の光があったとしたって、あれはお別れの曲なんだから…。
始まりの曲にはなりそうもないし、ぼくにも分からないんだよ。
お別れの曲が始まりの曲だなんて変だよね、と話したら。
やっぱり記憶違いだろうかと、シャングリラとは何の関係も無くて今の自分の記憶だろうかと、蛍の光に纏わる疑問をぶつけてみたら。
「待てよ…? シャングリラに居た頃に蛍の光なあ…」
考え込んでいるハーレイ。そういう時の癖で、眉間の皺を少し深くして。
「何か思い出した?」
「いや、まだだが…。今の時点じゃ何も言えんが、あの曲は、確か…」
元々は日本の曲ではなくて…、とハーレイは腕組みまでして遠い記憶を探り始めた。その対象が今の記憶か、前の記憶かは分からない。
どちらなのかと、どんな答えが出て来るだろうかとブルーが静かに見守っていると。焦らせては駄目だと待っていると。
「そうだ、オールド・ラング・サインだ」
「え?」
オールド…。ハーレイ、なんて言ったの?
「久しき昔だ、オールド・ラング・サインはそういう意味だ。スコットランドの言葉でな」
スコットランドはお前も分かるな、同じ名前を名乗っている地域があるからな。
蛍の光は日本の曲じゃなくって、スコットランドの民謡だったんだ。
それも単なる民謡とは違う、国歌扱いされていたほどの。
思い出した、とポンと手を打ったハーレイ。
シャングリラに蛍の光はあった、と。
蛍の光ではなくてオールド・ラング・サイン、新年を祝うカウントダウンだ、と。
「ああ…!」
思い出したよ、とブルーも叫んだ。
白いシャングリラに蛍の光はあったのだった。蛍の光ではなかったけれど。
オールド・ラング・サインという名前の歌だったけれど、蛍の光と同じメロディの歌が。
白い鯨になったシャングリラで行われていた、新年を迎えるためのイベント。
その時だけは本物のブドウで作ったワインが乾杯用にと配られた。とっておきだった赤ワイン。それが一人に一杯ずつ。
前のブルーが音頭を取っては、毎年、乾杯していたけれど。
イベントを始めてまだ間もない頃、乾杯の他にも特別なことをしたい、と考え始めたヒルマンとエラ。皆で出来る何か、新年を祝うための何かを、と。
データベースを調べに向かった二人は、古い歌を引っ張り出して来た。SD体制が始まるよりも遥かな昔の地球で親しまれた古い歌。
新年を迎えるカウントダウンの時に歌われたというオールド・ラング・サイン、それが蛍の光の原曲。当時は蛍の光の存在を誰も知らなかったけれど。
元はスコットランドの民謡だったとヒルマンが話しただけだったけれど。
「これを歌おうと思うのだがね」
新年を迎えたら歌ったそうだよ、新しい年が来たのを祝って。
乾杯した後に皆で歌えば、船中の仲間が一つになれる。持ち場を離れられなくても歌は歌える、シャングリラ中に歌が響くのだよ。ブリッジも公園も、機関部などでも。
「いいんじゃないかい? あたしは大いに賛成だね」
賑やかなのは素敵じゃないか、とブラウが頷いた会議の場。長老と呼ばれるヒルマンとゼルと、エラとブラウと。それにキャプテンだったハーレイ、ソルジャーだったブルーの六人。
新年にはオールド・ラング・サインを歌うのがいい、と全員一致で決定した。カウントダウンに使われた歌なら是非歌いたいし、今の人類たちの世界で歌ってはいないようだから。
オールド・ラング・サイン、スコットランドの言葉で「久しき昔」。
旧友と再会を遂げて思い出話をしつつ酒を酌み交わす、そういった歌詞がついた歌。
皆に広める前にまずは練習しておかなければ、と会議の席で六人で歌った、メロディと歌詞とを覚えるまで。自信を持ってオールド・ラング・サインを歌えるレベルに達するまで。
練習の合間の休み時間に、ヒルマンとエラが歌の背景を話していたのだけれど。
「再会を誓って、誕生日や結婚式などでも歌われたそうだよ」
つまりお祝い事の歌だね、新年を祝う歌でもあるし…。
「船が出港する時にも歌っていたのだそうです、お祝い事とは少し違いますが」
「ふうん…? なんでまた、そこで歌うんだい?」
船を新しく建造したなら分かるけどね、とブラウがエラに問い返したら。
オールド・ラング・サインが誕生した後、スコットランドから新天地へと向かった移民船。その出航の時に歌われたという、また会おうと。
旧友との再会を誓う歌だから、海を渡って旅立つ友に贈るには相応しいと。
それがいつしか広まっていって、移民船でなくとも、船の出航にはオールド・ラング・サイン。
クルーズに出掛ける豪華客船もまた、オールド・ラング・サインに送られて出航して行った。
そんな話から、シャングリラも船だということになって。
「カウントダウンに歌うというのもいいんだけどさ…」
ここ一番、って旅に出る時に歌ってみたいね、そんな機会があるかどうかは分からないけどね。
当分は雲海の中なんだろうし、とブラウがフウと溜息をつけば、ゼルが応じた。
「旅立ちの時か…。地球へ向かって出発する時に良さそうじゃのう」
まだまだ先になりそうなんじゃが、同じ歌うならカウントダウンよりも旅立ちかのう…。
「それはいいね。ぼくもその時に歌いたいような気がするよ」
せっかくだから取っておこうか、とソルジャーだったブルーも賛同した。
カウントダウンで皆で歌うのもいいのだけれども、地球へ向かって船出する時のためにと、その日が来るまで残しておこうと。
「そうですね。私もそれに賛成です」
ハーレイもまた、頷いた。地球へと旅立つ時に歌うのがいいと、その時に皆で歌おうと。
こうしてソルジャーとキャプテンと長老、その六人で決めたのだった。
オールド・ラング・サインは地球に向かうまで取っておこうと、シャングリラが晴れて地球へと出航する日に皆で揃って歌うのがいいと。
けれど、地球までは遠かったから。
あまりに遠くて、そこまでの道も長すぎたから。
座標も掴めないままで歳月がいたずらに流れ、シャングリラは雲海から出ることも無くて。
そうして日々を過ごす間に、忘れたのだった、いつの間にやら。
地球へと旅立つ時に歌おうと決めたオールド・ラング・サインを、蛍の光と同じメロディを。
「…それで始まりの曲だったんだ…」
シャングリラが地球への旅に出るなら、それは始まりの合図だものね。
どういう形で地球へ行くにしても、シャングリラの本当の意味の船出で始まりだものね…。
「お前はそれを覚えていた、と。いや、忘れちまっていたんだが…」
オールド・ラング・サインのメロディは覚えていたんだなあ…。
蛍の光になっちまっていたが、それでも始まりの歌だった、とな。
帰り道で遠く微かに聞こえた蛍の光。
それが遥かな昔の自分たちの夢を運んで来た。地球へ行こうと、その時に歌おうと決めておいた歌を、オールド・ラング・サインに託した夢を。
夢は叶わず、歌はすっかり忘れたけれど。メロディも歌詞も全て忘れてしまったけれど。
「ぼくはいつまで歌っていたかな…」
あの歌をいつまで歌っていたのか、全く覚えていないんだけれど…。
「俺も殆ど記憶に無いな。…思い出せたのは奇跡じゃないかと思うほどにな」
いつか歌うんだと決めていたのに、地球への船出にはオールド・ラング・サインを皆で歌おうと思っていたのに、まったく情けないもんだ。
言い出したヒルマンやエラも忘れたろうなあ、キャプテンだった俺がこの始末じゃな。
酷いもんだ、とハーレイは苦笑したけれど。
今の今まで思い出しさえしなかった、と情けなさそうな口調だけれども、前の自分はハーレイと何度も二人で歌った。
オールド・ラング・サインを、蛍の光と同じメロディを持っていた歌を。
いつか地球へ、と夢見て歌った、この歌を皆で歌いたいと。
地球へと船出するシャングリラで歌おうと、オールド・ラング・サインを歌うのだと。
「…ぼくたち、忘れてしまっていたね」
あんなに何度も歌っていたのに、地球へ旅立つような気持ちでハーレイと一緒に歌ったのに。
「お互い、忘れちまっていたなあ…」
メロディも、歌詞も、歌おうと決めていたことも。
前の俺が本当に地球へと向かった時にも、思い出しさえしなかった。
前のお前を失くしちまって、もう歌どころじゃなかったが…。
ゼルもブラウもエラも歌など忘れちまって、歌おうとも思わなかったんだろう。ヒルマン以外は自分の船を持っていたのに、誰も言い出さなかったからな。
今こそあの歌を歌う時だと、地球に向かってワープするならオールド・ラング・サインを歌って旅立つべきだと、覚えていたなら誰か一人は言ったと思うぞ。
前の自分の寿命が尽きる頃には、もう完全に忘れていたから。
地球へ旅立つ夢はあっても、歌いもしなかったオールド・ラング・サイン。蛍の光のメロディで歌った、地球への旅立ちを祝う歌。
あれは始まりの曲だったのに。地球へ行く日に歌おうと決めた歌だったのに。
「ねえ、ハーレイ…。もしもあの歌、覚えていたなら、歌ったのかな…?」
前のぼくの寿命が尽きてしまって、地球へは行けないって気付いた後に。
本物の地球には辿り着けなくても、気分だけでも地球へ向かって出発しよう、って。
「そうだな、もう一度歌ったかもなあ…」
お前と二人で地球へ行こうと、二人で船出するんだと。
俺はお前が死んじまったら、後を追い掛けてゆくつもりだったし…。
そしたら二人で地球へ行こうと、そういう気持ちでお前と一緒に歌っていたかもしれないな…。
二人で、地球へ、と。
白いシャングリラで旅立つつもりで、地球へと出航するつもりで。
けして行けない青い星でも、辿り着けない青い地球でも。
きっと二人で手を握り合って歌っていたろう、旅立ちの歌を。遠い日に決めた船出の時の歌を、出航する時はこれを歌おうと夢に見ていたオールド・ラング・サインを。
「…お別れの曲になっちゃうけどね…」
ハーレイと二人で歌ってみたって、ぼくは地球には行けないままで寿命が尽きてしまうんだし。
地球に行くどころかハーレイともお別れになってしまうし、お別れの曲で蛍の光。
蛍の光は知らなかったけれど、お別れの曲ならそっちだよね…。
「いや、始まりの曲だったろうさ。次の旅への」
俺はお前を追ってゆくんだと何度も言ったろ、その旅へと出航するための歌だ。
行き先は地球で、俺とお前と、二人きりでシャングリラに乗って。
手を繋ぎ合って旅に出るんだ、誰も知らないシャングリラで。
きっとそういう歌だっただろう、前のお前と出航しようと、二人きりの旅を始めるんだと。
「そうかもね…」
ハーレイと二人で、青い地球まで。
もうすぐ船出の時が来るんだと、何度も何度も歌ったのかもね、二人一緒に地球へ行こうと。
けれど、忘れてしまっていたから。
そういう歌があったことさえ、二人揃って忘れていたから。
歌わずに終わったオールド・ラング・サイン、蛍の光と同じメロディを持った歌。
ハーレイと二人で歌えはしなくて、夢の旅立ちも叶わなかった。
前の自分はハーレイと離れて独りぼっちで死んでしまった、ハーレイの温もりさえも失くして。もう会えないのだと泣きながら死んだ、忌まわしいメギドの制御室で。
それから後の記憶は途切れて、何も覚えていないのだけれど。
長い長い時を飛び越えて地球に生まれ変わった、青い地球の上でハーレイに会えた。
蛍の光で下の学校から送り出されて、ハーレイが赴任して来た今の学校に。
シャングリラで歌ったオールド・ラング・サインではなかったけれども、蛍の光は始まりの曲になって響いた、下の学校の卒業式で。
だから…。
「やっぱり、始まりの曲だったんだよ。蛍の光は」
お別れの曲でも、始まりの曲。ちゃんとハーレイに会えたんだから。
…前のぼくは歌い損なっちゃったけど…。
ハーレイと二人で歌えないまま、歌っていたことを忘れちゃったまま、死んじゃったけど…。
覚えていたなら歌いたかったな、ハーレイと二人で地球へ行こう、って。
あの歌でハーレイと二人きりの旅に出掛けたかったよ、いつまでも二人一緒なんだ、って。
「俺もお前と歌いたかったな、あの時、覚えていたならな」
お前と二人で旅に出ようと、出航するんだと、オールド・ラング・サインを二人で。
そいつは叶わなかったわけだが、今、歌うか?
俺たちはこれから船出するんだ、シャングリラじゃなくて人生の船出。
お前と二人で生きる人生、そいつに向かって出航することになるんだからな。
いつかお前が大きくなったら、結婚出来る年になったら。
歌詞は変わってしまったけどな、とハーレイが笑みを浮かべるから。
オールド・ラング・サインか、蛍の光か、どちらで歌う、と訊かれたから。
「蛍の光!」
そっちの方がいいよ、ハーレイと出会えたんだから。
ぼくにとっては始まりの曲で、シャングリラで歌ったオールド・ラング・サインは思い出しさえしなかったんだから。
「俺もそういう気分だな。同じ歌うのなら、蛍の光だ」
それで出会えたようだからな、とハーレイの大きな手が伸びて来て。
キュッと握られた、メギドで凍えてしまった右手。
ハーレイの温もりを失くしてしまって、冷たく凍えてしまった右手。
褐色の手でしっかり包み込まれて、穏やかな笑顔を向けられて。
「これでよし、と…。歌うか、二人で蛍の光」
オールド・ラング・サインと歌詞は全く違うわけだが、始まりの曲を歌おうじゃないか。
別れの曲でも、お前にとっては始まりの曲で、前の俺たちには始まりの曲のメロディだしな。
「うん…。歌い損なった分、今、歌うんだね」
一、二の三で歌ってみようよ。オールド・ラング・サインじゃなくって、蛍の光で。
初めて二人で歌を歌った、今の生では。
ハーレイの声と自分の声が重なる、大合唱とはいかないけれども、二人で歌う蛍の光。
今の自分たちが住んでいる場所では、蛍の光はお別れの曲になっているけれど、元になった曲は始まりの曲。新年や誕生日、結婚式などで歌われた曲。
自分にとっても、蛍の光はお別れの曲であると同時に始まりの曲。
この歌に送られてハーレイと出会った、本当に始まりの曲だった歌。
オールド・ラング・サインは結婚式でも歌われると言うから、気分だけでも…。
(ちょっと早めの結婚式だよ…)
思うくらいは平気だよね、と微笑んだ。
今の自分たちが暮らす地域では、蛍の光はお別れの曲。
結婚式では歌わないけれど。結婚式なら、オールド・ラング・サインだけれど。
それでも二人で歌う間に、心に幸せが満ちてくる。
ハーレイと二人、繰り返し歌う蛍の光。
また出会えたと、共に手を繋いで生きてゆける時が、いつかこの歌から始まるのだと…。
蛍の光・了
※いつか地球へと出航する時、歌おうと決められたオールド・ラング・サイン。蛍の光。
その日はついに来ないままでしたけれど、ハーレイと地球で歌えたのです。新しい歌詞で。
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