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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

下りた階段

(え…?)
 何、とブルーは足を止めた。思わず握った階段の手摺。
 学校から戻って二階の部屋へと上がる途中で、何の前触れもなく覚えた違和感。
(なんなの…?)
 どうしたのだろう、と考えたけれど、分からない。躓いたり滑ったりしたわけではなくて、足を傷めたわけでもなくて。爪先でトンと階段を軽く蹴ってみたけれど、足に異常は無さそうで。
 どちらかと言えば、気分の問題。
 階段を上りたくない気分で、このまま立ち止まってしまいたいような…。
(身体の具合…?)
 体調が悪くなる前触れかもしれない、今は体力を使いたくないと。階段を上るより静かに座っていた方がいいと、此処で腰掛けている方がいいと訴える身体。
 それくらいしか思い付かない理由。きっとそうだという気もするけれど。
(…でも、こんな所に座っていても…)
 階段は座り心地のいい椅子とは違うし、身体も冷やしてしまいそうだから。却って悪化しそうな体調、同じ座るなら自分の部屋まで行った方がいい。椅子もベッドもある部屋まで。
(部屋で一休み…)
 暫く大人しくしていよう、と残りの階段をゆっくり上った。
 まだ違和感を覚えたままで。上りたくないと思う気持ちを抱えたままで。



 階段の上まで上り切ったら、違和感は綺麗に無くなったから。
 二階の廊下に着いた途端に消えてしまったから、原因は間違いなく階段だったわけで。
(やっぱり、身体…)
 身体が悲鳴を上げたのかもしれない、此処で休憩していたいと。階段など上りたくないと。
 そうだとしたら、それは嬉しくない兆候で。
 今の間にきちんと落ち着かせないと、寝込んでしまう結果を招かないとも限らない。気付かずに溜めてしまった疲労は、突然、爆発するものだから。夜にはなんともなかった身体が、次の朝には全く言うことを聞いてくれなくて、ベッドから出られないことも多いから。
(体育の授業が悪かった…?)
 さほど日射しも強くなかったし、たまには普通の子と同じように…、と挑んだサッカー。木陰で休む代わりに走った、足が速くはないけれど。ボールも上手く蹴れないけれど。
 それでも楽しかったサッカー、夢中になって過ごした時間。体育の先生に「少し休みなさい」と注意されるまで走り回った、太陽の下で。
 あのサッカーのせいかもしれない、自分では分からないけれど。体調を崩すほどの負担をかけたつもりは少しも無いのだけれども、疲れる理由があったとしたならサッカーくらい。
 気を付けなくては、これ以上、疲れないように。身体に負担をかけないように。



 部屋で制服を脱いで着替えて、椅子に座って一休み。今すぐにだって動けるけれども、さっきの違和感が心配だから。知らずに疲れを溜めていそうだから、念のために。
 時計を眺めて、五分ほど椅子で時間を過ごして、おやつを食べにまた一階へ。階段を下りて。
(気を付けなくちゃ…)
 ふらついたりしたら大変だもの、と手摺を握って慎重に。一足、一足、踏み締めながら。
 幸い、下りる時には何も起こらず、一階に着いたら、もう安心で。
(…栄養補給…)
 おやつは食事ではないけれど。栄養バランスの取れたものとは違うけれども、それでも幾らかの栄養は摂れる。甘い砂糖は疲れが取れるし、小麦粉やクリームもエネルギーに変わる。紅茶だって身体に水分をくれる、知らない間に抜けてしまった水分を補給してくれる。
(おやつを食べたら、きっと良くなるよ)
 サッカーで使った分のエネルギーと、身体から抜けた水分と。それが少しは戻るだろうから。
 おやつも馬鹿に出来ないのだから、と頬張ったケーキをしっかりと噛んだ、噛めば消化が早まるから。エネルギーに変わるまでの時間が短くなるから。
 紅茶もおかわりをして水分補給をしようと努めた、自覚は無くても水分不足かもしれないから。



 栄養なのだ、と意識しながら食べ終えたおやつ。身体に効いてくれるだろうと。
 キッチンの母に空になったお皿やカップを返して、「御馳走様」と部屋を目指した。あの階段を上って二階へ。今度はきっと大丈夫、と思うけれども、ゆっくり、ゆっくり。
 そうしたら…。



(あ…!)
 不意に蘇って来た記憶。
 こうして階段を上った、何処かで。
こんな風にゆっくりと階段を上った、確かに自分が。
 遠く遥かな記憶の彼方で、今の自分とは違う自分が。ソルジャー・ブルーだった前の自分が。
(何処で…?)
 いったい何処で上ったのだろう、今と同じに階段などを。
 家に帰って直ぐに上った時に感じた違和感、「上りたくない」という気分。あの時の気分は前の自分のものだった。上りたくない気持ちを抱えて上った、白いシャングリラの中の何処かで。
 それが何処だか思い出せない、一足、一足、上ってみても。
 あの階段が何処にあったか、どうして「上りたくない」と思いながら上っていたのかも。



 思い出せないまま、階段の上まで着いたから。
 上りたくない気分が
前の自分のものだったのなら、体調不良を心配しなくても良さそうだから。部屋に戻って本棚から出した写真集。白いシャングリラの姿を収めた豪華版。
 ハーレイとお揃いのそれを勉強机の上で広げて、パラパラとページをめくってみて。
(階段…)
 シャングリラの中で階段といえば、思い付くのは非常階段くらいなもの。巨大な白い鯨の中では階段は不向きな移動手段で、別の階層へ行くなら専用の乗り物を使うのが普通。
 それに段差の代わりにスロープ、足が不自由な仲間もいたから。車椅子でも移動しやすいよう、緩やかなスロープが設けられていた。
 シャングリラは階段の多い船ではなかった、目に付く所に階段は殆ど無かった筈で。
 例外は天体の間と公園くらいで、その階段は写真集にも載っているけれど。
(何処なんだろう…)
 前の自分が上っていた階段。
 上りたくない気分を抱えて上った階段は何処にあったろう…?



 天体の間の階段は違う気がする、この美しい部屋ではないと。
 公園にあった階段も違う、皆の憩いの場だった公園、そこの階段でもないと。
 けれども自分は、前の自分は確かに上った、「上りたくない」という気持ちを抱えて。それでも階段を上るしかなくて、たった一人で上っていた。
(ぼくが一人だと…)
 余計に場所が限られてくる。白い鯨でソルジャーが何処かへ行くとなったら、大抵は誰かが付き従った。ハーレイや、他の仲間やら。
 一人で歩いてゆく時といえば私的な外出、行き先はフィシスの所だったり、公園だったり。
 そうした時には心は弾んでいるものだったし、階段を上りたくない気分になるとは思えなくて。
 いったい何処で一人だったかと、青の間に階段は無かった筈だし、と考えていて…。
(違う…!)
 思い出した、と遠い記憶の中からぽっかりと浮かび上がって来た階段。
 青の間にあった、階段が一つ。あの部屋はスロープが印象的だったけれど、それとは全く違った場所に。スロープの代わりの非常階段などとは違って、まるで違った目的のために。



 青の間を常に満たしていた水、それを湛えた貯水槽。其処へと下りるための階段が一つ、部屋の一番奥の所にひっそりと在った。
 貯水槽のメンテナンス用の階段、係の者しか使わなかった階段だけれど。実用本位で飾りなども無くて、二人も並べば一杯になりそうなほどの幅しか無かったけれど。
(あれを下りてた…) 
 前の自分が。
 青の間の一番奥に出掛けて、貯水槽へと続く階段を。
 誰もいない時に、ただ一人きりで。
 メンテナンスや貯水槽の視察をするのではなくて、隠れたい時に。深い悲しみに心を満たされ、泣きたい気持ちに囚われた時に。
 青の間のベッドや椅子でも泣いたけれども、それだけではとても足りない時には階段を下りた。自分しか抱えられない悲しみ、自分であるがゆえの悲しみ。
 それが心を塞いだ時には、あの階段を下りていた。此処なら自分一人きりだと、誰も来ないと。誰も自分を見付けはしないし、閉じ籠もっていても許されそうだと。



(ぼくの寿命が尽きてしまうって…)
 それが分かってから、何度あの階段を下りただろう。何度、その下に隠れただろう。
 一番下の段に座って、俯いて泣いた。
 其処から見える暗い水面を、静まり返った水の面を見下ろして泣いた。
 焦がれ続けた地球には行けない、辿り着けずに死んでしまうと。自分の命はもうすぐ終わると、それを止める術などありはしないと。
 自分の命が尽きてしまうことも悲しいけれども、ミュウの未来はどうなるのか。シャングリラは何処へ向かうというのか、自分が死んでしまったならば。
 後継者としてジョミーを見出した後も、本当にそれで上手くいくのかと、幼すぎるソルジャーに皆が従ってくれるだろうかと尽きなかった悩み。自分の寿命がもっとあれば、と。
(みんなの前ではとても言えない…)
 自分の心が揺れているなど、悲しみに満ちているなどと。
 皆の前では弱さを見せるわけにはいかない、船に不安が広がるから。けして悲しみを知られてはならない、自分の心の中だけに留めておかなければ。
 だから階段を下りて、隠れて。部屋付きの係の気配がしたら上った、長老たちが来た時にも。
 階段を上り、何気ない風で、さも奥にいたと言わんばかりに出て行った。
 いつもと変わらない表情に戻り、悲しみも涙も拭い去って。



 階段を上ってゆく時に「強い自分」に切り替えていたから、誰も気付きはしなかった。青の間の奥で前の自分が泣いていたことも、階段を下りていたことも。
 気付いていた人間はたった一人だけ、その一人だけしか知らなかった。
(…前のハーレイだけ…)
 青の間を訪ねて来たのがハーレイの時だけは上がらなかった。階段を上ってゆかなかった。一番下の段に座って、水面を見下ろして動かずにいたら、上から下りて来たハーレイ。
 「やはり此処でしたか」とだけ、声を掛けて。
 そうして隣に腰を下ろした、何も訊かずに。黙って側に寄り沿ってくれた。
 ハーレイが階段を下りて来る度、二人、何度も、何度も座った、あの階段に。水を覗いて座っていた。狭い階段に二人並んで。



 ハーレイと二人で座る時には、要らなかった言葉。思念もまるで必要無かった。
 言わずとも、わざわざ伝えなくとも、ハーレイは分かってくれていたから。悲しみに満たされてしまった心を、どうしようもない悲しみのことを。
 ただ寄り添っていてくれたハーレイ、その温もりだけで充分だった。一人ではないと、悲しみを分かち合ってくれる恋人が直ぐ側にいると、そう思うだけで。考えるだけで。
 溢れ出しそうな悲しみをハーレイにぶつけてしまわなくても、ハーレイは全て受け止めてくれているのだからと。
 黙って二人で座り続けて、時にはハーレイに抱き締めて貰って、キスを一つ。
 それだけで良かった、何の言葉も慰めも要りはしなかった。
 ハーレイがいてくれるだけで。隣に座っていてくれるだけで、二人で水面を見ているだけで。
 そうして心が落ち着いた後で、立ち上がって階段を上っていった。元の部屋へと。
 ハーレイは後から上って来た。
 二度と下りる気にならないようにと、笑顔を向けて。
 けして言葉にはしなかったけれど、「大丈夫ですよ」と、「私がお側におりますから」と。



(あの階段…)
 青の間の奥にあった階段、前の自分が下りた階段。
 それを上る時の気持ちを思い出したのだった、あの違和感は。今の自分の家だけれども、階段を上る途中だったから。何のはずみか蘇った記憶、こうして階段を上っていた、と。
 上りたくない気分の時の自分の心。
 まだ悲しみは癒えていないのに、ソルジャーの顔で上に戻らねばならない時の。
(ハーレイが来た時は…)
 階段の一番下の段に二人、並んで座って過ごした時は。
 上る時には悲しくなかった、胸も痛くはなりはしなくて、晴れやかな気分で上っていった。上に戻ろうと、部屋にゆこうと。もう大丈夫だと、こんな所にいなくても、と。
 階段を下へと下りてゆく時は悲しかったのに、辛かったのに。
 自分の居場所は其処にしか無いと、其処に隠れて涙するより他に道は無いと思っていたのに。



 ハーレイが来てくれるだけで悲しみが癒えていった階段。
 黙って二人で座っているだけで、何もしないで二人で水面を見ているだけで。
(ハーレイ、覚えているのかな…?)
 あの階段のことを。前の自分と並んで座った、青の間の奥の階段のことを。
 自分はすっかり忘れていたから、ハーレイも忘れてしまったろうか。あそこに階段が一つあったことも、二人並んで腰掛けたことも。一番下の段に座って、暗い水面を見ていたことも。
 どうなんだろう、と考えていたら、来客を知らせるチャイムが鳴って。
 仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、訊こうと思った。階段のことを。



 母がお茶とお菓子を置いて行ってくれたテーブルを挟んで、向かい合わせ。
 直ぐに訊いてもいいのだけれども、もったいないような気もするから。あの階段に二人で座った思い出はとても大切だから。
 少し回り道をしようと思った、ハーレイが覚えていないなら。自分と同じに忘れたのなら、他の階段の話からだ、と。だから…。
「ハーレイ、階段、覚えてる?」
 シャングリラにあった階段のこと。ハーレイは今でも覚えている…?
「怪談だと?」
 幽霊の話は記憶に無いが、と首を捻っているハーレイ。幽霊でなければ何だったろう、と。怖い話は無かったように思うが、妖怪の類でも出ただろうかと。
「そうじゃなくって…!」
 階段が違うよ、上ったり下りたりする階段!
 シャングリラの階段、忘れちゃった…?
「そっちの方か…。その階段もあまり無かったぞ」
 天体の間と公園の他には、階段らしい階段は作っていなかった筈だが…?
「うん、非常階段くらいしかね」
 あれにも一つも写っていない、と勉強机の上に置かれたシャングリラの写真集を指差した。
 でも階段はあったんだよ、と。天体の間と公園の他にも、とても大切な階段が一つ、と。



「大切な階段って…。そんなの、あったか?」
 あの船は基本はスロープだったぞ、乗り物が使えなくなった時にも足の悪いヤツらが不自由なく移動出来るようにな。非常階段は作業用のヤツで、作業員くらいしか使わなかったが…。
 キャプテンの俺が知らない階段、シャングリラには無いと思うがな?
「あったよ、とても大事な階段」
 君との思い出の階段なんだよ、ぼくには宝物みたいな階段。
「…何処にだ?」
「青の間」
 あそこにあった、と口にしてみたら、息を飲んだハーレイ。
 吸い込んだ息の音が聞こえたくらいに、鳶色の瞳が大きく見開かれたほどに。
 きっとハーレイは思い当たったに違いないから。あの階段だと気付いたろうから。



「覚えてた?」
 ぼくが言ってる階段のこと。青の間の奥にあった階段。
「…今、思い出した」
 忘れちまっていたが、青の間と言われたら思い出した。あそこの奥に階段があって…。
 お前が泣いてた、とハーレイの顔が辛そうに歪む。
 あの階段ではいつもお前が泣いていたんだ、と。
「泣いていないよ」
 ハーレイが隣に座ってくれてた時には、ぼくは泣いたりしなかったよ。一人きりの時には泣いていたけど、ハーレイと二人の時には泣いていないよ。
「確かに泣いてはいなかったが…。泣き顔をしてはいなかったんだが…」
 お前の心が泣いていたんだ、とても悲しいと。悲しくて辛くて、どうしようもないと。
「…そうかもね…」
 ハーレイには伝わっていただろうしね、ぼくの心が。
 声にも思念にもしてはいなくても、ハーレイは分かってくれてたし…。
 ハーレイが「泣いていた」って言うなら、ぼくはいつでもあの階段で泣いていたんだろうね…。



 寿命が尽きると知るより前にも、辛かった時や悲しい時。
 あの階段をよく下りていた。誰にも言えない、ぶつけられない思いを抱えて。
 一番下の段に座って俯いていたら、水面を見詰めてじっとしていたら。
 部屋付きの係も長老たちも来ない時には、ハーレイが何度も付き合ってくれた。まるで最初から知っていたように、階段を下りてゆくのを何処かから見て、急いでやって来たかのように。
 そう、ハーレイはあの階段に自分が下りてゆくことを、下りそうな時を見抜いていた。そうだと気付いて部屋に来てくれた、階段を下りて来てくれた。
 黙って隣に座るためだけに、二人並んで水面を眺めるためだけに。
 アルタミラから一緒だった仲間を病気で亡くした日の夜も。
 救い出せなかったミュウの子供がいた時も。
 一人きりで泣いていた前の自分の隣に、気付けばハーレイの姿があった。涙は止まって、二人で並んで腰掛けていた。あの階段の一番下の段に、黙って水面を見下ろしながら。



「お前、いつでもあの階段で…」
 一人で下りては泣いていたんだ、誰にも打ち明けようともせずに。
 全部一人で抱え込んじまって、あそこに座って一人きりで。俺が行くまで、ずっと一人で…。
「部屋でも泣いていたけどね?」
 ハーレイの前ではいつも泣いていたよ、何度も泣いてしまっていたよ。
 泣いていいんだって分かっていたから、ハーレイの前では泣いていたよ。
 …あの階段を下りていた時は、ハーレイが側にいなかった時。悲しくて辛くて我慢出来なくて、でもハーレイはいなくって…。
 そういう時に下りて泣いてたんだよ、あそこなら誰も来ないから。
 誰か来たなら直ぐに分かるし、急いで上れば気付かれないし…。
 前のぼくの秘密の隠れ場所だったよ、あの階段の一番下は。
 そしてハーレイとの思い出の場所。あそこでハーレイと並んで座って、水を眺めて…。そういう思い出、数え切れないほどあったのに…。ハーレイと何度も座ったのに…。



 今日まで忘れてしまっていた、と打ち明けたら。
 どうして思い出さなかったのだろう、と自分の記憶に出来ていた穴を嘆いたら…。
「忘れていたっていいんじゃないか?」
 少なくとも俺は責めはしないな、お前が忘れちまっていたこと。
 俺も忘れていたっていうのもあるがだ、お前が綺麗に忘れていたのが嬉しくもあるな、階段ごと抜け落ちちまっていたのが。
「…なんで?」
 薄情だとは思わないわけ、ハーレイはいつも付き合って座ってくれていたのに…。
 黙って隣にいてくれたのに、それをすっかり忘れてたんだよ、ぼくときたら。
「それでいいんだ、何も覚えていないくらいで丁度いいだろ」
 あの階段でのお前の思い出、悲しかったことや辛かったことしか無いんだろうが。
 一人きりで泣くしかないって時しか下りてないんだ、前のお前は、あの階段を。悲しい時だけの隠れ場所なんかを後生大事に覚えておく必要は無いってな。
 悲しいことは忘れちまうに限るさ、生まれ変わってまで抱え込んで覚えておかなくても。
 前のお前が泣いた記憶まで、しっかり抱えていなくてもいい。忘れていいんだ、そんなのはな。



 水に流すと言うだろうが、とハーレイが片目を瞑ってみせる。
 前のお前の悲しみは全部、水が持って行ってくれたんだろう、と。
 階段の一番下に座っていつも見ていた、青の間の水が。
「…そうなのかな?」
 あの水が持って行ってくれたから忘れちゃってたのかな、階段のこと。あの階段を下りていったことも、ハーレイと二人で座ってたことも。
「そう思っておけ、あの水も役に立ったんだと」
 前のお前には散々苦情を言われたが…。こんなデカイ貯水槽つきの部屋なんて、と何度も文句を言われたもんだが、あの水が役に立ったってな。
 前のお前が生きてる間は何の役にも立たなかったが、死んじまった後に出番が来たんだ。
 あの階段と、階段で泣いてたお前の悲しみ。全部纏めて持ってっちまった、文字通り水に流して綺麗サッパリ消したってことだ。
「うん…」
 そうだったのかもね、あの水はホントに何の役にも立たなかったけど…。
 前のぼくのサイオンが水と相性が良かったから、って増幅装置なんだと思われてたけど…。
 本当はただの演出でしかなくて、ソルジャーの部屋らしく見せるための仕掛けみたいなもので。
 あの水には何の意味も無いんだから、って思っていたけど、水だったから水に流せたのかな…?



 こけおどしだった青の間の水。何の役目も果たさなかった貯水槽。
 メンテナンス用の階段まで設けられていたのに、あの水はそこに在ったというだけ。広い部屋を満たしていたというだけ。
 けれど、あの水は悲しみを持って行ってくれたのだろうか?
 前の自分が一人で抱えた、あの水を見ながら涙していた悲しみを流してくれたのだろうか…?
「多分な」
 俺が勝手にそう思うだけだが、そのくらいの役には立たんとな?
 最後まで無駄だと言われ続けて終わるよりかは、前のお前の悲しみや涙。そいつを抱えて消えてこそだろ、水なんだからな。
「そっか…」
 本当にそうかもしれないね。
 ずうっと前のぼくの側にあった水だし、ホントに最後に役に立ったかもしれないね。前のぼくが死んだら、あの水が見ていた悲しい記憶を水に流してくれたのかもね…。



 悲しかった時や、辛かった時。一人で抱えて泣くしかない時。
 何度となく下りた階段だけれど、一番下に独り座って水を見ていた場所なのだけれど。
 十五年もの長い眠りから覚めて、たった一人でメギドへ向かって飛び立つ前。青の間で過ごしていた筈だけれど、階段を下りた記憶は無い。水を眺めていた記憶も。
 ハーレイにそれを話したら…。
「…その記憶。水が持って行ってくれたんじゃないか?」
「え…?」
 どういう意味なの、ぼくは階段を下りたっていうの?
 下りていたことをすっかり忘れてるだけで、本当はあそこに座っていたの…?
「そうじゃないかという気がするな。…お前が下りていたんだとしたら」
 もしもお前が、あの時、下りていたのなら。
 あの階段を下りて座っていたなら、どれほど泣いていたことか…。
 お前は全てを知っていたんだしな、もうすぐ死ぬことも、俺が追い掛けてはいけないことも。
 もちろん地球だって見られないままで、たった一人で死んじまうんだ。
 そういったことを一人で抱えて、お前があそこで泣いていたなら。
 お前の隣に俺は座りに行けなかったし、お前は本当に独りぼっちで泣いて、泣きじゃくって…。
 どのくらい泣いていたかは知らんが、俺が下りて行ってやれなかった分まで、代わりに水が見ていただろう。泣いていたお前を、お前の抱えた悲しみと涙を。
 そいつを最後に全部あの水が持って行って水に流した、だからお前は覚えていない。今のお前に生まれ変わる時に、その記憶を持っては来なかったんだな。



 本当を言えば、下りていないのが一番なんだが、と言われたけれど。
 下りたかもしれない、あんな時だから。
 三百年以上もの長い時を生きて、青の間が出来てからも長い長い時を其処で過ごして、その間に何度あの階段を下りたことだろう。
 辛かった時に、悲しい時に。たった一人で階段を下りて、水面を眺めて座った自分。
 その人生がもうすぐ終わるという時、それも一人きりで死んでゆくのだと悟っていた時、下りてゆかない筈がない。
 辛く苦しい心を抱えて。ハーレイとの別れを思って張り裂けそうな心を抱いて、あの階段を。
 きっと自分は階段を下りた、一番下の段に座っていた。水面を見詰めて、一人きりで。
 この階段でも独りなのだと、ハーレイは忙しくて持ち場を離れられないからと。
 そうしてどのくらい座っていたのか、あの水を一人、眺めていたのか。
 立ち上がった自分は階段を上り、ブリッジへ向かったのだろう。最後の言葉をハーレイに託して飛び立つために。永遠の別れを告げにゆくために。



 けれど、何処にも無い記憶。
 確かに階段を下りただろうに、欠片すらも見当たらない記憶。ほんの僅かな痕跡さえも。
「…ぼく、本当に忘れちゃったのかな?」
 あの階段を下りていたのに、下りていたこと、すっかり忘れてしまったのかな…?
 水が何もかも流してしまって、下りた記憶も、あそこで泣いてた時の記憶も…。
「それだと俺は嬉しいがな」
 お前が下りていたんだったら、その記憶が無いのが俺は嬉しい。悲しい記憶はもう要らんしな。
 メギドで凍えちまった右手の分だけで充分だろうが、それ以上は無い方がいい。
 お前の記憶を消しちまったのが水だとしたなら、あの部屋は最後にお前の役に立ったんだ。青の間はただのこけおどしだったが、水の方は前のお前を守った。
 最後に階段に座ったお前は独りぼっちで、俺はいなくて。
 その俺の代わりに水が頑張った、お前が泣いてた記憶ごとすっかり流しちまってな。
「…ハーレイの代わりに水だったの?」
 ハーレイが隣に座ってくれる代わりに、水が綺麗に消してくれたの、前のぼくの記憶。
 最後にとっても悲しかったのを、思い出せないように流しちゃったの…?
「お前が忘れたんだとしたらな」
 あの階段を最後に下りていったのに、何も覚えていないなら。
 欠片も思い出せずにいるなら、あの水が流してくれたってことだな、悲しかった記憶。



 もう思い出さなくてもかまわないから、と手招きされて、ハーレイの膝の上に座らされて。
 強い両腕で抱き締められた。広い胸へと抱き込まれて。
 あの階段のことは忘れておけ、と。
 思い出しても悲しいだけだ、と。
「いいな、あの階段には悲しい記憶しか無いんだからな」
 前のお前は泣く時だけしか下りちゃいないし、あんな階段のことは忘れておくのが一番だ。
 間違ってもメギドへ行く前の記憶を探すんじゃないぞ、あの階段を下りたかどうかなんてな。
「でも、階段…。ハーレイのことは思い出したよ」
 ハーレイが一緒に座ってくれていたってこと。ぼくの隣に、いつも黙って。
 二人で並んで水を見てたよ、あの思い出はとても大切なんだよ。
「おいおい、お前は泣いてたんだぞ?」
 俺が隣に座ってた時も、お前の心は泣いていたんだ。だから俺は黙って座っていたのに…。
 前のお前の悲しい記憶とセットの思い出だろうに、それでも大切なのか、お前は?
「大切だよ。…だって、ハーレイから優しい思い出を貰ったもの」
 黙って隣に座っててくれて、ぼくが落ち着くまで側にいてくれて。
 階段を上ろうっていう気分になるまで、何も言わずについててくれたよ。
 だから、あの階段は大切なんだよ、ハーレイと一緒に座った階段。二人で座った階段だもの…。



 いつも階段を下りて来てくれた、優しいハーレイ。並んで座ってくれたハーレイ。
 そのハーレイが思い出すなと言うのだから。思い出さなくていいと言うのだから。
 メギドへと向かう前のことはもう、考えない方がいいのだろう。
 あの日、階段を下りたのかどうか、其処に座っていたのかどうかは。
 青の間の水が持って行って流してくれた悲しみ、それはもう思い出さない方がいいのだろう。
 遠く遥かな昔の悲しみは流れ、こうして地球に来たのだから。
 青い地球の上に生まれ変わって、幸せに生きてゆけるのだから。
 ハーレイと二人、手を繋ぎ合って、何処までも二人。
 もう階段には悲しみを抱えて座らなくてもいいのだから。
 いつか二人で座る時には、幸せの中で。
 階段に並んで腰を下ろして、お弁当だとか、ソフトクリームだとか。
 きっとそういう風になるから、二人で並んで座る階段は幸せな場所に変わるのだから…。




            下りた階段・了

※青の間の奥にあった、貯水槽へと下りる階段。前のブルーが泣くための場所だったのです。
 けれどメギドに向かう前には、下りた記憶が全く無いまま。水が悲しみを消したのかも。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










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