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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

幸せの涙

(今日は、ハーレイ…)
 多分、来られない、とブルーがついた小さな溜息。学校から帰って、おやつの時間に。
 母が焼いてくれたケーキはとても美味しいけれど。シロエ風のホットミルクもホッとする甘さが優しいけれども、いつものように弾んだ気持ちにならない。自然と綻んではくれない顔。
(ハーレイは会議…)
 そう聞かされていた、数日前から。長引きそうな会議だから、と。
 会議にも色々な種類があって、時間通りに終わるものやら、早めに終わることが多いものやら。逆に長引くのが常のものまで、今日の会議はそのタイプ。時間通りにはまず終わらない。
(…早めに終わって来てくれたこともあるけれど…)
 駄目だった時の方が圧倒的に多いから。ハーレイの予告通りに会議は長引くものだから。仕事の帰りに寄ってはくれない、今日はハーレイが来てくれない日。
 もちろん、毎日来てくれるわけがないけれど。来てくれない日も多いけれども、最初から駄目と分かっているのと、そうでないのとは違うから。
 普段だったら、おやつを食べる間もときめく心。今日はハーレイに会えるだろうか、と。
 けれども、今日は弾まない心。ハーレイは来てはくれないのだから。



 望みがゼロではないけれど。もしかしたら、会議が早く終わるかもしれないけれど。
(期待しちゃ駄目…)
 来てくれるかも、などと考えてはいけない、何度もそれで悲しい思いをしているから。やっぱり来てはくれなかったと、肩を落としたことが何度も何度もあったから。
 ともすれば沈んでしまいそうな気持ち。暗くなってしまいそうな瞳と顔付き。
 こんな日に限って、母が「今日は学校、楽しかった?」と自分用の紅茶のカップを手にして来たテーブル。母はハーレイの予定を聞いてはいないし、聞いていたって「夕食を何にしようかしら」などと考える程度。会議が早く終わったとしたら、どんなメニューが喜ばれるだろうと。
(ママはなんにも知らないしね…)
 ハーレイの予定も、ハーレイが息子の恋人なことも。
 だから本当の気持ちを隠して、懸命に明るく振舞った。「それでね…」と友達の話などもして。今日も学校は楽しかったと、授業も分かりやすかったよ、と。



 母と話をしていた間は良かったけれど。
 笑って気分も紛れたのだけれど、その反動で余計に沈んでしまった気持ち。「御馳走様」と母と別れて、自分の部屋に戻った途端に。
 今日はハーレイは来ないのだった、とテーブルと椅子を眺めて溜息。ハーレイが来たら、二人で使うテーブルと椅子。二つある椅子の片方はハーレイの指定席。
 その指定席に座る恋人に会えないのだ、と思うと零れる溜息、テーブルと椅子に背中を向けた。見たら溜息が漏れるから。あのテーブルと椅子の出番が無い日、と心が沈んでしまうから。
(これじゃ駄目…)
 きっとハーレイも喜ばない、と勉強机の前に座って、視線を遣った机の上。温かみのある飴色の木のフォトフレームの中、ハーレイの笑顔。夏休みの最後の日に二人で写した記念写真。
 庭で一番大きな木の下、好きでたまらないハーレイの笑顔。左腕に抱き付いた自分も笑顔。
(うん、この顔…!)
 この顔が好き、と頬を緩めた。ハーレイの笑顔が一番好き、と。
 誰よりも好きな恋人の笑顔、いつも自分に向けてくれる笑顔。それが写真の中にあるから。
 励まされた気分で本を広げた、昨夜から読んでいる本を。
 続きを読もうと、ハーレイも写真の中から笑顔で見守ってくれているし、と。



 けれど、やっぱり…。
 沈みそうになる心を奮い立たせて向き合った本の中身は、さっぱり頭に入って来ない。ページをめくって先に進んでも、文字を目で追っているだけのこと。何ページか読んだら、さっきの所まで戻る羽目になった。読み落としてしまっていた部分。これでは話が繋がらない。
(ぼくって駄目だ…)
 ハーレイも見てくれているのに、とフォトフレームの写真を眺めた。
 とびきりの笑顔で写ったハーレイ。見るだけで幸せになれそうな笑顔。そのハーレイの左腕には自分がギュッと抱き付いている。両腕でギュッと、それは嬉しそうに。
 写した時の気持ちが心に蘇る写真、思いがけなくハーレイと写せた記念写真。それまでは写真は一枚きりしか持っていなかった、今のハーレイが写った写真は。ほんの小さなモノクロのしか。
 再会して直ぐに記念写真を撮りそびれたから、ハーレイの写真はまるで無かった。学校で貰った転任教師の着任を知らせるものだけしか。学校便りの五月号しか。
 それを何度も何度も眺めて、宝物にして。今もきちんと大切に持っているけれど。
 ハーレイの方でも写真が欲しいと思ったらしくて、夏休みの記念に撮ろうと言われた。それなら自然でいいじゃないか、と。
 カメラを持って来てくれた上に、お揃いのフォトフレームまで買って来てくれて。
 庭で一番大きな木の下、母がシャッターを切ってくれた写真。ハーレイと二人で写した写真。



(写真の中のぼくは、幸せなのに…)
 最高に幸せだった夏の日、ハーレイの左腕に抱き付いてカメラに笑顔を向けた日。
 あの日は幸せだったのに。とても幸せで、ハーレイも側にいてくれたのに。
 ぼくは違う、と零れ落ちそうになった涙。
 独りぼっちだと、今日はハーレイは来ないんだから、と。
 ポロリと涙が本に落ちた途端。いけない、と慌てて拭き取った途端。
(違う…!)
 もっと悲しい独りぼっちを知っている。今の自分よりも、ずっと悲しい独りぼっちを。
 前の自分が迎えた最期。
 たった一人でメギドまで飛んで、周りに仲間は誰もいなくて。ハーレイからも遠く離れて、もう本当に一人きりで。
 それでも自分は一人ではないと、これさえあればと右の手に持っていた温もり。ハーレイの腕に触れた手が感じて覚えた温もり、それを抱き締めて逝くつもりだった。ハーレイの腕の温もりを。
 なのに失くした、撃たれた痛みで。
 銃弾が身体に撃ち込まれる度に温もりは薄れて、最後に右の瞳を撃たれて。視界が真っ赤に塗り潰された後に、もう温もりは残らなかった。ほんの僅かな欠片さえも。
 冷たく凍えてしまった右手。ハーレイの温もりを失くした右の手。
 独りぼっちになってしまったと泣きながら死んだ、もうハーレイには会えないのだと。温もりはもう消えてしまったと、右の手が冷たいと泣きじゃくりながら。



 あの時の孤独に比べたら。絶望的な独りぼっちでの死に比べたら、今は…。
(ずっと幸せ…)
 独りぼっちとはとても言えない、ハーレイとは会えないだけなのだから。今日は会えなくても、別の日がある。また会えるのだし、何度でも会える。
 二度と会えないわけではなくて。
 前の自分がそうなったように、たった一人で、独りぼっちで死んでゆくのではなくて、これから先もハーレイに会える。今日は駄目でも、また別の日に。何度も、何度も、何度だって。
(ぼくはハーレイに会えるんだから…)
 こんな所で泣いたら駄目だ、と自分自身を叱り付けた。
 前のぼくより、ずっと幸せなんだから、と。独りぼっちじゃないんだから、と。
 今は部屋で独りぼっちだけれども、写真の中からハーレイが見ていてくれるのだし…。
 大好きな笑顔のハーレイの写真。見るだけで幸せになれそうな笑顔。
 それがあるから、一人きりの部屋でもハーレイの笑顔を見ることが出来て…。



(写真…?)
 ハッと気付いて覗き込んだ写真。飴色をしたフォトフレーム。
 勉強机の上に飾って、毎日見ている写真だけれど。「おやすみなさい」と写真の中のハーレイに挨拶したりもするけれど。
 前の自分は持っていなかった、写真を飾ってはいなかった。誰よりも愛した恋人の写真を。飾るどころか持っていなかった、こんな風に一人の時に眺めるための写真の一枚すらも。
(前のぼくは、いつでも本物のハーレイを見られたから…)
 今と違って自由自在に操れたサイオン、ハーレイが広いシャングリラの何処にいようと、望めば姿を垣間見られた。笑顔ではなくて厳しい顔の時も、忙しそうな時もあったけれども。
 それでも姿は見られたのだし、もう充分に満足だった。ハーレイは今はあそこにいる、と。
(…それに、写真は…)
 飾りたいと思ったとしても、飾れなかった。恋人同士だったことは秘密だったし、青の間に飾るわけにはいかない。誰が目にするか分からないから。
(サイオンで隠しておくにしたって…)
 二人で写した写真が無かった、今の自分が持っているような意味での二人きりの写真は。
 同じ写真に収まってはいても、ソルジャーの貌とキャプテンの貌。
 二人一緒の、自分たちのための記念写真は写せなかった。撮ろうとも思っていなかったけれど。それが欲しいとさえ思わなかったほど、隠すのが当たり前の恋だったから。



 ハーレイの写真を持っていなかった上に、二人一緒の記念写真も無くて。
 それを撮りたいとも、飾りたいとも思わないままに、前の自分は生きて死んでいった。右の手が冷たいと泣きじゃくりながら、本当に独りぼっちのままで。
 なのに…。
(ぼく、ホントに幸せになっちゃたんだ…) 
 独りぼっちで暗い宇宙で死んでいった筈が、ハーレイと二人で青い地球の上に生まれ変わって。
 また巡り会えて、今では独りぼっちではなくて、一人の時でも写真が一緒。
 今日のように寂しくてたまらない日も、ハーレイの写真が目の前にある。机の上からハーレイが笑顔で見ていてくれる。「元気出せよ?」と言わんばかりに。
 そのハーレイの左腕には、自分がくっついているけれど。両腕でギュッと抱き付いている自分が羨ましくてたまらないけれど、その瞬間を自分も確かに過ごした。夏休みの一番最後の日に。
 庭で一番大きな木の下、幸せな時間を切り取った写真。
 ハーレイと二人、母が構えたカメラに向かって最高の笑顔。シャッターが切られる度に笑って、もっと素敵な笑顔にしようと、最高の記念写真にしようとカメラに向かって。



 写真を撮った日、幸せだった自分。今も一人ではない自分。
 ハーレイは写真の中で笑顔で、それを見ている自分がいて。本物のハーレイは会議中でも、今は会えないというだけのことで。
 けして自分は一人ではない、独りぼっちになってはいない。前の自分とはまるで違って。たった一人で死ぬしかなかった、前の自分の悲しみに満ちた最期と違って。
 それを思えば、今の自分は…。
(ぼくって、幸せ…)
 前よりもずっと幸せなんだ、と思ったらポロリと零れた涙。瞳から溢れて、机に落ちた。
 えっ、とビックリしたけれど。
 泣くつもりなどは無かったのに、と慌てたけれども、溢れ出した涙は止まらない。さっき零した涙とは違って、幸せの涙。幸せすぎて溢れ始めた涙。
 次から次へと蘇る思い出、泣いているのは自分ではなくて前の自分の方かもしれない。
 白いシャングリラで前のハーレイと二人で過ごした幸せな日々。愛して、愛されて、満ち足りた時を重ね続けて、長い時を生きた。二人一緒に。
 幾つも、幾つもの幸せの記憶、それを思うと涙が溢れる。あの幸せな日々が帰って来たと。またハーレイと生きてゆけると、もっと幸せに生きてゆけると。
 前の自分が今も大切にしている幸せの記憶は、あの頃は誰にも言えなかったけれど。白い鯨では誰にも言わずに、秘めておくしか無かったけれど。
 今度は誰に話してもいい。今の自分の幸せのことは、誰に話してもかまわない。
 こんなに幸せなことがあったと、幸せなのだと、他の誰かに話したい気持ちになったなら。
 今はまだ誰にも話せないけれど、いつかハーレイと結婚したなら。
 教師と教え子という仲でなくなったら、堂々と手を繋いで歩ける恋人同士になったなら。



 そうだ、と其処で気が付いた。
 前の自分には出来なかったこと。今の自分には当然のことで、もう決まっている未来のこと。
(ハーレイと結婚出来るんだ…)
 いつか自分が大きくなったら、結婚出来る十八歳を迎えたら。
 前の自分たちの恋は最後まで誰にも言えなかったけれど、今度は皆に祝福されて結婚式。二人で結婚指輪を交わして、互いの左手の薬指に。
 結婚指輪が左手にあれば、薬指に光っていたならば。誰でも一目で分かってくれる。恋人同士の二人なのだと、結婚して幸せに二人で暮らしているのだと。
(…前のぼくたちは、誰にも言えなかったのに…)
 ソルジャーとキャプテンという立場にいたから、明かすわけにはいかなかった。いつか地球まで辿り着いたら、お互いの立場から自由になれたら、と夢を描いていただけで。そんな日が来たら、この恋を明かしてもいいのだろうと。
(だけど、そんな日は来なくって…)
 前の自分の寿命が尽きると分かった時に潰えた夢。叶いはしないと諦めた夢。
 けれど、今度は夢とは違う。夢のように儚く消えはしなくて、いつか必ず訪れる未来。今はまだいつとも分からないだけで、その日は何処かで待っている。この先の未来の時間の何処かで。
 おまけに、ハーレイと結婚することを知っていてくれる人たちが、隣町に二人。
 庭に夏ミカンの大きな木がある家に住んでいる、ハーレイの両親が自分たちの結婚を待っていてくれる。新しい子供が一人増えたと、自分のことを新しい家族だと思ってくれて。
(まだ結婚もしていないのに…)
 もう子供だと言って貰えて、マーマレードの瓶まで貰った。庭の夏ミカンの実でハーレイの母が作ったマーマレードの大きな瓶を。
 金柑の甘煮を詰めた瓶も貰った、庭で採れた金柑の実をハーレイの母が甘く煮たものを。風邪の予防に食べるといいと、喉の痛みにもよく効くからと。



 なんと幸せなのだろう。もう結婚が決まっている上に、それを知っている人までが二人。
 まだ十四歳にしかならない自分を、新しい家族だと言ってくれる人が、もう二人も。
 今度はハーレイと結婚出来るし、その日は必ずやって来るから。
(幸せすぎるよ…)
 頬をポロポロと伝い落ちる涙。幸せの温かい涙。
 今日はハーレイが来てくれなくても、会議で来られない日でも。今日が駄目でも、また次の日。明日が駄目でも、またその次に。
 順送りに駄目な日が続いていっても、週末に会える。いつまでも会えずに終わりはしない。
(今日が駄目でも、次があるんだ…)
 シャングリラで暮らした頃と違って、確実に来ると分かっている明日。沈んだ太陽は青い地球の反対側を照らしに行っただけで、次の日の朝には昇って来るから。明けない夜は無いのだから。
 今の平和な時代の地球では、明日が無くなることはない。
 白いシャングリラが世界の全てだった頃には、明日が来るとは誰にも言い切れなかったけれど。
 夜の間に人類軍の船に見付かって沈められれば終わりなのだし、そうでなくても空を飛んでいる宇宙船では万一ということもあるのだから。事故が起こっても緊急着陸出来はしないし、脱出先もありはしないのだから。
 前の自分たちには来ると言い切れなかった明日。無くなるかもしれなかった明日。
 それを今ではいつまでも待てる、明日が駄目ならその次の日に、と。
 ハーレイに会える日を待ち続けられる、今日が駄目ならその次の日にと、また次の日にと。



(ホントに幸せ…)
 明日が無くなったりはしないし、いつかハーレイと結婚出来る。消えない明日が幾つも続いて、その先の何処かで結婚式の日が待っている。自分とハーレイが其処へ着くのを。
 それにハーレイと二人で来られた、青い地球の上に。
 前の自分が辿り着けずに終わってしまった青い星の上に、あの時代には無かった青い地球に。
(…ハーレイと地球で結婚なんだよ…)
 結婚して、地球で二人で暮らす。同じ家に住んで、いつもハーレイと二人。
 ハーレイと暮らせる幸せな未来も、前の自分が焦がれ続けた青い水の星も、何もかも自分は手に入れられる。何もしなくても、幸せが手の中に降ってくる。
 前の自分が夢見た以上に。
 こうなればいいと思い描いた夢よりもずっと、大きな幸せが今の小さな自分の身体を包み込む。
 まだ育ってはいないのに。
 まだ小さいのに、約束されている幸せな未来。いつかは必ず来ると決まっている、明日の続きの何処かの明日。ハーレイと結婚式を挙げる日。



 もう止まらない、幾つもの涙。頬にポロポロと零れ続ける幸せの涙。
 涙の粒が幾つも幾つも、勝手に零れ落ちてくる。前の自分がメギドで泣きじゃくった以上の数の涙が、後から後から溢れる涙が。
(メギドだったら、もうとっくに…)
 前の自分は死んでしまっていただろう。これほどの涙を流すよりも前に。
 ハーレイの温もりを失くしてしまったと、もう会えないのだと泣きじゃくりながら、前の自分は死んでいったけれど。涙の中で死んだけれども、これだけの時間を泣いてはいない。こんなに長く泣き続けてはいない、長く感じていただけで。
 時間にすればほんの一瞬、長かったとしても一分か二分。
 前の自分は覚えていないし、第一、時計など見てもいないのだけれど。メギドが爆発して沈んだ時間も、今の自分はまるで知らないのだけれど。
(でも、こんなには…)
 泣いてはいないし、時間も無かった。
 それなのに、今は幸せな自分が泣き続けている。悲しみではなくて、幸せのせいで。今の自分がどれほどの幸せに包まれているか、それに気付いてしまったせいで。



 溢れて止まらない幸せの涙。頬を濡らし続ける温かな涙。
 それを流れるままにしていたら、耳に届いたチャイムの音。門扉の脇にあるチャイム。
(ハーレイ!?)
 まさか、と窓に駆け寄ってみれば、門扉の向こうで手を振るハーレイ。会議は終わったと、俺は間に合ったと知らせるように。今日の会議は長引くのが常で、終わる筈が無いと思っていたのに。
 ハーレイの方でも、そう思ったから今日は会議だと聞かされたのに。
 今日は会えないと思っていたから涙が零れて、その涙から今の温かな涙が生まれて、泣き続けて今まで泣いていたのに。
(…ハーレイが来てくれるだなんて…)
 いったい自分は、どれほど幸せなのだろう。
 今日の続きを待っていなくても、もうハーレイが来てくれた。今の自分には明日の続きも、そのまた続きも、いくらでも明日があるというのに。
 それを待てるのも幸せなのだと幸せの涙を流していたのに、明日を待たなくてもいいなんて。
 ハーレイが来てくれて、もう待たなくてもいいなんて。
(…いけない、涙…!)
 泣いてちゃ駄目、と溢れそうになる涙をグイと拭って、涙の跡も分からないよう綺麗に拭いた。壁の鏡を覗き込んで。目元が赤くなっていないか、それもきちんと確認して。



 ようやく止まった幸せの涙。泣いていたことに気付かれないよう、しっかりと止めて、ニイッと笑顔も鏡で作った、悪戯っ子の笑みの形に。普通の笑顔だと、また幸せで泣きそうだから。幸せの涙が溢れそうだから、悪ガキ風に。酷い悪戯でも仕掛けたように。
(これでよし、っと…!)
 ぼくの笑顔じゃないみたい、と自分でも吹き出しそうな顔。お蔭で涙も引っ込んだ。こんな顔は一度もしたことがないと、どんな悪さをしでかしたのかと考えただけで。物凄い悪戯小僧になった自分を少し想像してみただけで。
(…ママの花壇が丸坊主とか?)
 それをやったらこんな顔、とププッと笑って、可笑しくなって。もう大丈夫、といつもの自分の顔に戻ってハーレイを待った。いつものぼくだ、と。



 そうやって準備万端整えたけれど。
 ハーレイも母も泣いていたことには全く気付かず、テーブルの上にお茶とお菓子が揃ったまではいいのだけれども、向かい合わせで座ったら。ハーレイが指定席の椅子に腰を下ろしたら。
 ついつい見てしまう、ハーレイの顔。写真のハーレイの笑顔もとても素敵だけれども、本物にはやはり敵わない。ハーレイがとびきりの笑顔でなくても、ごくごく普通の顔付きでも。
(幸せだよね…)
 今日もハーレイが来てくれたし、と恋人の顔を見てばかりだから。いつも以上にじっと見詰めてしまうものだから、とうとうハーレイが自分の顔を指差した。
「俺の顔に何かついてるか?」
 ケーキの欠片でもくっついてるのか、どの辺りだ?
「ううん、そうじゃなくて…。幸せだな、って」
「はあ?」
 何が幸せなんだ、お前は。俺の顔ばかり見て、いったい何があると言うんだ?
「えーっと…。ハーレイ、今日は来られないかも、って聞いていたから…」
 今日は会えなくて一人だよね、って思ってて…。独りぼっちだ、って悲しくなって。
 でもね、よくよく考えてみたら、独りぼっちじゃなかったんだよ。ハーレイは会議に行っているだけで、今日は駄目でもいつか来てくれるし…。ハーレイの写真も飾ってあるし。
 独りぼっちっていうのは、前のぼくが死んじゃった時みたいなので、あの時に比べたら、ぼくは独りぼっちでもなんでもなくて…。一人で家にいるっていうだけ、じきに一人じゃなくなるしね。いつかハーレイは来てくれるんだし、そしたら一人じゃなくなるでしょ?
 ぼくはとっても幸せなんだよ、今のぼくは。



 前のぼくと違って今は幸せ、と話したら。
 うんと幸せになったんだから、と付け加えたら、ポロリと零れてしまった涙。温かな涙。
 しっかりと止めた筈だったのに。悪戯小僧の顔まで作って止めたのに。
「おい…?」
 どうしたんだ、お前。目が痛むってわけじゃなさそうだが…?
「えっとね…。ぼく、ハーレイが来る前に…」
 泣いてたんだよ、幸せすぎて。今のぼくはとっても幸せなんだ、って気が付いて。
 そしたら涙が止まらなくなって、ハーレイが来たから頑張って止めて…。
 鏡の前でこんな顔までやって止めたのに、また止まらなくなっちゃった…。
 ね、この顔をしても無理なんだよ。ママの花壇を丸坊主にしたらこんなのかな、って思っても。凄い悪戯小僧になったつもりでニイッてやっても、もう駄目みたい…。



 また止まらなくなってしまった涙。次から次へと溢れて零れる幸せの涙。
 ハーレイが目の前にいるだけで。今の自分は幸せなのだと考えるだけで、もう止まらない。
 さっきはピタリと止めてくれた筈の、悪戯小僧の顔を作っても。ニイッと笑っても、ハーレイはそれを笑うどころか、優しく笑んでくれるから。「そういう顔は初めて見たな」と、子供らしくていい表情だと褒めてくれるから。
「チビらしくていいぞ、そんな顔をしているお前もな」
 普通じゃやらない顔なんだろうが、俺はそういう顔も好きだぞ。元気一杯に見えるしな。
「…笑わないの? ハーレイ、笑ってくれればいいのに…」
 ぼく、自分でも吹き出したのに…。
 ハーレイが笑ってくれなかったら、涙、ちっとも止まりやしないよ。
 ますます幸せになっちゃうから。ぼくが幸せだと、どんどん涙が出て来ちゃうから…。
「なるほどなあ…。幸せの涙が止まらないってか」
 お前のあの顔、俺がウッカリ褒めちまったから、必殺技も効かなくなったと。
「うん。あの顔をしたら止まってたのに…」
 酷い顔だよね、って鏡を見てたら、止められたのに。
 ハーレイ、あの顔、褒めるんだもの。ぼくを幸せにしちゃうんだもの。
 そうでなくても、ハーレイが来るまで、ぼくはポロポロ泣いちゃってたのに…。
 今のぼくには明日も、その次も、その次もあって。
 今日はハーレイに会えなくっても、またいつか会えて。
 そうやってずっと先へ行ったら、何処かに結婚式の日もあるんだよね、って思ったら…。
 前のぼくだと結婚式は夢だったのに、今度は夢じゃないんだよね、って思ったら…。



「ふうむ…。あれこれ考えるほど涙が止まらない、と」
 どんどん幸せになってしまって、涙が出るって言うんだな?
 やっとのことで止めたというのに、また止まらなくなっちまった、と。
「そう。…ホントのホントに止まらないんだよ」
 見れば分かるでしょ、さっきからちっとも止まってくれないんだから。こんな顔をしても。
 褒めちゃ駄目だよ、ぼくの涙、もっと酷くなるから…!
「…そう言うのなら、褒めないが…」
 笑えと言うなら笑いもするがな、今からそんな調子だと…。
 お前、これから先に何回泣くやら。この俺のせいで。
「え?」
 これから先って…。今日じゃなくって、もっと別の日?
「そういう意味だが?」
 俺はお前を幸せにすると言っているだろ、いつでもな。今度こそお前を幸せにしてやるんだと。
 いいか、そのためには、結婚して一緒に暮らすわけだが…。その前に、だ。
 まずはプロポーズをしなきゃいかんな、俺と結婚してくれと。
 それから婚約、こいつはプロポーズとは別の日になるぞ。お前のお父さんたちのお許しが無いと婚約するのは無理だしな?
 お前、どっちも泣きそうじゃないか。
 幸せすぎて泣くんだったら、プロポーズの時も、婚約の時も。
 結婚式までに二回は泣いて、結婚式でも泣くだろ、お前?
 その後も、俺と二人で暮らす家に着くなり泣いちまうのは確実で…。
 俺は何回お前を泣かせりゃいいんだ、うん…?
 結婚した後も、何かといったらお前がポロポロ泣き出しそうだが…?
「何度でもいいよ」
 ぼくは何回泣かされてもいいよ、何度涙が止まらないようになっちゃっても。
 ハーレイがぼくを泣かせるんなら、ぼくは何回泣いたっていいよ。



 幸せすぎて泣くのなら…、と止まらない涙。後から後から溢れ続ける温かな涙。
 こんなに幸せな涙だったら、泣き続けてもいいと思ったのに。このままでいいと思ったのに。
「しかしだ、今は止めなきゃな?」
 そいつを止めんとマズイじゃないか。俺がお前を泣かせたんだし、苛めたのかと思われちまう。
 晩飯までに止めておかんと…、と手招きされて膝に乗せられて、抱き締められて。
 「止まりそうか?」と抱き込まれたままで尋ねられたら、またまた涙が溢れ出すから。
 「駄目みたい…」とグイと顔を上げた、「止まらないよ」と。
 そうしたら…。
「分かった、今日はオマケしてやる。俺が泣かせたのは間違いないしな」
 額でも頬でも無いんだが、と唇で優しく吸い取られた涙。メギドで撃たれた右の瞳から。
 「どうだ?」と、「止まったか?」と訊かれたけれども、余計に溢れてしまうから。幸せの涙が止まらないから、キッと睨み付けた。
「これで止まるわけないじゃない!」
 幸せになるほど止まらないんだよ、止まらないのはハーレイのせいだよ!
「だったら、左目はオマケは無しでだ、ハンカチだな」
 俺のハンカチでゴシゴシしてやる、逃げるなよ?
「酷い…!」
 なんで左目はハンカチになるわけ、右目との差がありすぎだよ!
 ハンカチで痛くする気なんでしょ、そしたら不幸になりそうだから…!



 せめてハーレイの指で拭き取ってよ、と強請ったら。
 指で優しく拭われた涙。「これでいいか?」と。
 もちろん、それで涙が止まるわけがない。ますます溢れて、零れるばかりで。
 ハーレイが「ほらな」と指で頬を弾く、「ハンカチの方がゴシゴシ痛くて止まりそうだが」と。
「今からこんなに泣いていたんじゃ、本当にこの先、何度お前は泣くやらなあ…」
 俺は何回、お前を泣かせちまうんだか。…苛めているってわけじゃないのに。
「何度でもだよ」
 何十回でも、何百回でも。ハーレイは何度でもぼくを泣かすよ、今日みたいに。
 きっと涙が止まらなくなるよ、ぼくが大きくなった後でも。
 だって、ハーレイと暮らすんだから。
 結婚して、うんと幸せに二人で暮らしていくんだから…。



 きっと何回も何回も泣くよ、と涙は溢れて止まらない。
 頬を転がり落ちる涙が。温かな幸せの涙の粒が。
 まるで全く止まらないけれど、止まりそうな気配も見えないけれど。
 今は幸せに泣かせて貰おう、未来の幸せを思いながら。
 プロポーズに婚約に結婚式に、と幸せの数を数えながら。
 きっとハーレイなら、ちゃんと泣き止ませてくれるから。涙を止めてくれるから。
 夕食の支度が出来たと母が来る前に、優しい言葉で、優しく抱き締めてくれる腕で。
 零れる涙ごと幸せで包んで止めてくれるから、それまでは涙が溢れるままで…。




              幸せの涙・了

※ブルーの瞳から溢れた幸せの涙。前の生でメギドで流した涙よりも、ずっと長く、多く。
 止まらなくなった幸せの涙は、これからも何度も流れる筈。今の人生が幸せすぎて。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









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