シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(おっと…)
今日は無いのか、とハーレイが覗き込んだパン屋の棚。
ブルーの家には寄れなかった日、買い出しとばかりに来たのだけれど。田舎パンも、食パンも、バゲットなどもすっかり売り切れてしまった後。いわゆる食事パンが無い。
(…調理パンならあるんだが…)
サンドイッチや、ピザソースを塗って焼いたパンやら。甘い菓子パンも色々あるのに、何故だか食事パンだけが売り切れ。考えてみれば毎日食べるパンとも言えるし、もっと早い内に買ってゆく人が多いのかもしれない。昼の間に買い物に出掛けて、ついでにパンも、と。
(出遅れちまったか…)
レストラン部門も併設しているパン屋は、店で焼いているのが売りだから。逆に言ったら商品の売れ行き、それを見ながら追加で焼いたり、焼かなかったりもするだろう。ほんの少しだけズレたタイミング。半時間ほど早く来たなら…。
(どれかはあったと思うんだ)
それに閉店にはまだ早い時間、あと一時間、もしかしたら半時間経った頃に来たなら、目当てのパンの中の一つが棚に並ぶ可能性はある。今日の間に完売しなくても、明日の午前中に充分売れる食パンやバゲット、そういったものが。
とにかく、少々、悪かった運。どう見回しても棚に見当たらない食事パン。
こんなことなら買って来ればよかった、いつもの食料品店で。さっき買い出しに寄って来たから買おうと思えばついでに買えた。あの店でもパンは焼いているのだし、目的のものを。
(あの店のパンも美味いんだが…)
けして悪くはない味わい。食料品を並べた棚の列とは別の一角、独立した店かと勘違いしそうなパンのコーナー。焼き上がる頃になったらオーブンからの匂いがふわりと漂う。
其処で買うこともあるのだけれども、今、「パンが無い…」と立ち尽くしている店。この店だと窯が違うのだろうか、それとも熟練の職人の腕か。同じパンでも…。
(グンと美味いと思うんだ…)
食パンも田舎パンも、バゲットも。だから、時間のある日はこちらで買いたい。わざわざ回ってくるだけの価値はある味、そのためにやって来たというのに。
欲しいパンは無くて、棚は空っぽ。調理パンや菓子パンは揃っているのに。
(…戻るか?)
さっきの食料品店に、と思ったけれども、その店までの距離。歩いて戻るなら五分も要らない、苦にもならない僅かな距離。そう、歩くのなら散歩がてらと言える距離。
ところが仕事の帰りだったから、車なるものを連れていた。前の自分のマントの緑をした愛車。それがパン屋の駐車場にいるし、食料品店に戻るのだったら車も一緒に。
エンジンをかける手間はともかく、駐車場から出て、また別の店の駐車場まで。パンを買ったら車に戻って、またエンジンをかけて家に帰るわけで…。
たかがパンのために面倒だろう、と考えた。歩くならともかく、車付きでは、と。
(まあいいさ)
確か家にも残っていたしな、と食料品店には戻らずに帰宅してみたら。買い込んで来た食料品を冷蔵庫や棚などに仕舞っていったら、ようやく分かったパン事情。
あると思った筈のパンが無かった、食パンが一切れあっただけ。朝には分厚いトーストを二枚、でなければバゲットや田舎パンで同じくらいの量を食べるのがお決まりなのに。
どうしたことか、と足りなすぎる量の食パンの袋を眺めていて…。
(そういえば…)
今朝は多めに食べたのだった。分厚く切ったトーストを三枚、マーマレードとバターをたっぷり塗って。オムレツやソーセージやサラダと一緒に。
早く目が覚めたから出掛けたジョギング、出勤したら柔道部の朝練があるものだから。しっかり食べねば、とジョギングした分、トーストを一枚追加していた。あれさえ無ければ食パンの残りは記憶どおりで、明日の朝の分まであっただろうに。
(やっちまったな…)
面倒がらずに買いに戻っておくべきだった、と思うけれども。今から歩いて出掛けていくという手もあるけれど。
(着替えたいしな?)
スーツ姿で住宅街を散歩したって楽しくない。同じ歩くなら、断然、普段着。
それに着替えをしている間に、パン屋の方では新しいパンが焼き上がって棚に並ぶことだろう。食パンかバゲット、田舎パンといった類の食事パン。焼き立てを買いにいけばいい。
頭の中で手順を決めて、スーツを脱いで着替えたけれど。重い上着やズボンの代わりに家で着るラフな服を身に纏ったら、今度はゆっくりしたい気分で。
のびのびと好きに過ごせる我が家。やっと戻って来たというのに、パンのためにだけ出掛けるというのも些か面倒になって来た。「お座り下さい」と置かれた椅子やらソファを眺めたら。
(パンを買いに行く時間があったらだな…)
コーヒーを淹れて新聞も少し読めるだろう。夕食の支度を始める前に。
同じだけの時間をどう使うかなら、そちらの方が有意義だろうと思うから。熱いコーヒー片手に広げる新聞、その方が遥かに贅沢な時間に決まっているから。
(…明日の朝は飯だな)
パンが足りない分は白米で補うべし、と決断を下した。米なら研いでセットしておけば、明日の朝には炊き立てのものが食べられる。御飯茶碗に好きなだけよそって、パンの代わりに存分に。
オムレツにもサラダにもソーセージにも、パンと決まってはいないのだから。
前の自分が生きた時代はともかく、今の地球。今の自分が暮らす地域では、食事のお供に御飯が出るのは当たり前。前の自分ならパンがつくものと思い込んでいた料理などでも、御飯とセットで食べる家の方が多いのだから。魚のムニエルにも、ステーキなどにも御飯というのがこの地域。
(日本の文化というヤツだな)
気取ったフランス風のコース料理でも、頼めばパンからライスに変わる。白い御飯に。
そんな具合だから、明日の朝食にトーストと御飯を一緒に並べても、誰も笑いはしないだろう。「朝からしっかり食べるんですね」と、「御飯は腹持ちがいいですからね」と。
夕食用の御飯を多めに炊くより、明日の朝に炊き立てを食べるのがいい。そう思ったから、要る分だけ炊いて食べた夕食。買って来た魚などを料理する間に御飯は炊けたし、のんびりと。
片付けを終えたら、書斎でコーヒー。愛用の大きなマグカップに淹れて、運んで行って。
パンの件は失敗だったけれども、お蔭で二度目のコーヒータイム。普段だったら、帰宅してから二回も取れはしないのに。
(怪我の功名か…)
こんな日だっていいもんだ、と机の上のフォトフレームの中、小さなブルーに笑い掛ける。俺としたことが、ちょっと失敗しちまったぞ、と。
(明日の分のパンを切らしちまった。…お前だったら、あれで充分足りるだろうがな)
俺のトーストの一枚分はお前の分だと二枚だよな、と可笑しくなった。食が細いブルーの小さな胃袋、分厚いトーストはとても入らない。朝一番から食べられはしない。
小さなブルーに自分の失敗談を話してやったら、次は引き出しの中の前のブルーの写真集。前のブルーが寂しくないよう、自分の日記を上掛け代わりに被せてやっている写真集、『追憶』。
それを取り出し、表紙に刷られた前のブルーと向き合った。こっちにも報告すべきだな、と。
(おい、失敗をしちまったぞ?)
厨房にいた頃だったら大惨事だな、と心でブルーに語り掛けた。明日の朝食用のパンを切らしてしまったんだと、シャングリラだったら大騒ぎだ、と。
「でもまあ、なんとかなるもんだ。前の俺とは一味違うといった所か」
今は米の飯がある時代だからな、と声に出してみる。心で語るのもいいのだけれども、声にした方がブルーと話している気がするから。
「何度も教えてやっただろう? 米の飯ってヤツ」
明日の朝はそいつを炊いて食うんだ、パンが足りない分だけな。
米ってヤツは実に便利なもんだぞ、俺が弁当を作る時にも米の出番だ。そのままでも美味いし、炊き込み御飯にしたっていいし…。
味がついた飯の作り方も色々あるんだぞ、と知らないだろう前のブルーに教えてやった。炊けた御飯でも味はつけられると、具だって後から入れられるのだと。
「そうさ、パンが無ければ御飯を食べればいいじゃない、というわけだ」
元々のヤツでは御飯じゃなくてだ、菓子なんだがな、この台詞。
高貴なお姫様が仰ったそうだ、「パンが無ければお菓子を食べればいいのに」とな。
その応用だな、俺は明日の朝はパンの代わりに御飯なんだ。
悪くないだろ、と言ってやったら、ブルーがクスッと笑った気がした、「君らしいよ」と。
「ハーレイはやっぱり料理好きだね」と、「パンが無ければ御飯なんだね」と。
なんとも自然に心に届いたブルーの声。前のブルーの懐かしい声。
(おいおいおい…)
打てば響くように返ったブルーの声だけれども、いくらなんでも前のブルーは言わないだろう。お菓子の部分を御飯に入れ替え、ポンと投げ返してはくれないだろう。
(…俺の勝手な夢なんだな)
シャングリラでは一度も言っていない筈の、あの台詞。「パンが無ければ…」と始まる、有名な言葉。御飯どころか、菓子の方でさえ口に出したことは無いだろう。
第一、知らなかったと思う。前の自分はあの言葉を。
今ならではの知識で薀蓄、それを語っても前のブルーが瞬時に反応する筈がない、と自分勝手な想像に苦笑したけれど。あまりに都合が良すぎるだろうと、酷いものだと思ったけれど。
(…待てよ?)
何故だか心に引っ掛かる。「パンが無ければお菓子を食べればいいのに」という遠い遥かな昔の姫君の言葉、広く知られた有名な言葉とシャングリラ。
それが重なるように思えた、何故か。
あの船に高貴な姫君などはおらず、世間知らずの極みの言葉も無かったろうに。
シャングリラの食料は無駄にするなど許されないもの、不足することもまた許されない。あんな言葉が出て来る余地など、あの船には無かった筈なのに。
けれども、何処かで耳にしたように思えてくるから、なんとも不思議でならないから。
(誰か言ったか…?)
まさか俺ではない筈なんだが、と遠い記憶を探ってみて。自分ではないと確信したものの、まだスッキリとしないから。
何度も何度も繰り返してみた、頭の中で。あの言葉を。パンが無ければお菓子なのだがと、あの船では有り得ない状況の筈なんだが…、と。
そうこうする内、「菓子だ」と掴んだ記憶の手掛かり。パンではなくて菓子の方だと、あの船で菓子を巡る何かが…、と。遥かな時の彼方の記憶。シャングリラと菓子。
たった一つの小さな手掛かり、それを懸命に手繰り寄せていたら…。
(そうか…!)
あれだ、と蘇って来た、厨房にいた頃に起こった事件。
事の起こりは前のブルーが人類の輸送船から奪った食料、あの有名な言葉はその時に生まれた。
いや、言葉自体は遠い昔からあったわけだし、再発見されたと言うべきか…。
ある日、ブルーが奪って来た食料をコンテナから運び出してみたら。
アルタミラを脱出した直後に起こったジャガイモ地獄を彷彿とさせる代物が中に詰まっていた。かつて何度も起こってしまった食料の偏り、それがジャガイモ地獄やキャベツ地獄。ジャガイモは山のようにあるのに他の食材が殆ど無いとか、そういう事態。
前のブルーが手当たり次第に奪った頃には、よく起こっていた。今ではブルーも選んで奪うし、ジャガイモ地獄は過去のものになってしまっていたのに。
(…焼き菓子地獄だったんだ…)
他の食料は足りていたのに、どういうわけだか無かったパン。代わりにドッサリ、マドレーヌやフィナンシェといった焼き菓子の山。
小麦粉は混ざっていたのだけれども、パンを焼けるだけの量は無かった。料理に使えば無くなるだろう量、そのくらいしか無かった小麦粉。
「ごめん…。ぼくが間違えちゃったんだ」
コンテナの中身を読み誤った、と謝ったブルー。
お菓子ではなくて、パンの類だと思って奪って来たんだけれど、と。
一日分すらも無かったパン。船で焼こうにも、足りない小麦粉。パンの備蓄はまだあるけれど、あと数日で切れるから。焼くにしたって材料不足だから、ブルーが奪いに出たわけで…。
もう一度奪いに行ってくる、とブルーが出ようとするものだから。
前の自分が慌てて引き留めた、「俺が何とかしてみるから」と。パンが足りないくらいのことでブルーを危険に晒せはしない。ブルーにとっては容易いことでも、そう甘えてはいられない。
とはいえ、菓子の山ではどうにもならないのが現状。フィナンシェもマドレーヌも、甘い菓子でしかなくてパンには化けない。
菓子は菓子だし…、と倉庫に運んだ菓子の山を前に悩んでいたら。
「別にいいんじゃないのかね?」
ヒルマンがフラリとやって来た。ブラウもゼルも、それにエラも。何事なのか、とその顔ぶれに驚いたけれど、ブルーの姿で納得した。ブルーが呼びに行ったのだろう。パンならぬ菓子を奪ってしまった責任を感じて、「ハーレイを助けてあげてよ」と。
「こりゃまた見事なお菓子の山だねえ…」
お菓子だらけだよ、とブラウが呆れつつもヒルマンに「ほら、出番だよ」と声を掛けたら。
「この菓子だがね…。悩まなくても、このままで出せばいいんじゃないかと思うがね」
有名な言葉もあることだし、とヒルマンは「こうだ」と披露した。
曰く、「パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない」。
「ちょっと、ヒルマン…! あんたのアイデアって、それだったのかい?」
そりゃね、お菓子も食べ物だけどさ…。パンが無ければお菓子だってことになるのかい?
あんたが名案があるって言うから、あたしも期待していたのにさ…!
ブラウはもちろん、皆が唖然としたのだけれども、エラも「有名な言葉なのですよ」と頷いた。
ヒルマンが言うには、SD体制が始まるよりも遥かな遠い昔のこと。
高貴な生まれで世間知らずのお姫様が言った、飢えに苦しむ民衆に「パンが無いなら、お菓子を食べればいいでしょう」と。
彼女の周りに飢えなどは無くて、パンもお菓子もあったから。どうしてパンが無いと駄目なのか不思議でならないと、お腹が減るならお菓子を食べておけばいいのに、と。
「酷いもんだねえ…。まるで人類みたいじゃないか」
あいつらだったら言ってくれそうだよ、あたしたちに向かってその台詞をね。
「いや、餌でないだけマシじゃないか?」
菓子なんだから、と笑ったゼル。人類が言うなら、そこは「餌」だと。
間違いない、と笑いが弾けて、ヒルマンが始めた補足の説明。その言葉を言ったと伝わる姫君はフランス革命で民衆に処刑されたけれど、別の人の言葉だという説もあると。
「彼女の叔母の一人だとも言うね、前のフランス王の娘の」
「ありゃまあ…。それじゃ、濡れ衣だっていうのかい?」
それも酷いね、とブラウが頭を振ったら、「もっと面白い話もありますよ」と微笑んだエラ。
その言葉の主は処刑された王妃だけれども、お菓子は普通のお菓子ではなかったのだという話。
「クグロフというお菓子だそうです、お姫様の生まれ故郷のお菓子で…」
パンに似たお菓子だったのですよ。形はパンとは違うのですが…。決まった形があるのですが。
でも、食べた感じは甘いパンのようで、そのせいでああいう言葉になった、と。
パンが無ければクグロフを食べておけばいいのに、どうしてそうしないのだろうと。
もっとも、パンも食べられないような飢えの中では、クグロフも作れなかったでしょうが。
本当の意味で「お菓子」と言ったわけではなかったかもしれない、遠い昔のお姫様。彼女なりにパンが無い現実を考えた末に、「クグロフがある」と提案した甘いパン風の菓子。
別の説では、本当に世間知らずな王様の娘、お姫様の叔母の言葉だとも。
今となっては誰が言ったか、どういう意味かも分からないけれど、パンが無くてお菓子ばかりの船にはピッタリの言葉だったから。
飢えているなら笑い事では済まないけれども、パンが無いというだけだから。
「これは使える」ということになった、その日の内にヒルマンが食堂で皆に伝えてくれた。船の食料は充分だけれど、パンだけが無い。パンだけのためにブルーに再調達を頼めはしないし、暫く我慢をして欲しいと。
「…そんなわけでね、一つ言葉をプレゼントしよう。こういう時に似合いの言葉を」
パンが無ければ、お菓子を食べればいいじゃない。…そう言ったお姫様がいたそうだよ。
だから、高貴なお姫様になったつもりで、パンの代わりにお菓子だね。
さっきも言ったような事情で、パンは当分、無いそうだから。
誰からも文句は出なかった。
ヒルマンは「パンが無ければ…」の背景もきちんと説明したから、パンの代わりにお菓子がある分、ずっとマシだと仲間たちはストンと納得した。
本当だったら、そういう言葉が飛び出す時には代わりのお菓子も無いのだから。食べ物さえ無い飢えに見舞われ、お菓子どころではないのだから。
ヒルマンのお蔭で、実際にパンが無くなった後。焼き菓子が食事に添えられる日々がやって来た時、皆は不満を漏らす代わりに面白がった。
「お姫様気分も悪くないよな、パンが無ければ菓子なんだからな」
「男でお姫様はないだろうけどな…。畜生、俺も女だったら良かったのか?」
女性はもれなくお姫様だ、と羨ましがったりした仲間たち。
飢えこそ経験していないけれど、アルタミラで餌と水しか無かった時代を知っているから、皆が笑っておしまいになった。パンが無くても。お菓子が代わりに置かれていても。
それどころか逆に大人気だった、菓子で食べる食事。
(何の工夫も要らなかったんだっけな)
焼き菓子の山に前の自分は「どうしたらいいのか」と頭を抱えていたのに、思いもよらない方へ転がった焼き菓子地獄。「パンが無ければお菓子を食べればいいのに」という言葉によって。
菓子はそのまま出せばよかった、パンを出すようにパン皿に載せて。
今日の料理に合いそうな焼き菓子はどれかと、組み合わせを少し考えただけ。見た目や風味や、そういったもので。フィナンシェもマドレーヌも、ダックワーズも。
どんな料理にも菓子をつけて出した、チキンだろうが、魚だろうが。ムニエルだろうが、ソテーだろうが、ローストだろうが。
食堂で出される菓子つきの食事、今日はどういう組み合わせだろうかと楽しんでいた仲間たち。
パンの代わりに今日もお菓子だと、お姫様だと笑い合って。
(前のあいつも…)
添えられた菓子を頬張りながら、嬉しそうに笑っていたのだった。
「ヒルマンのお蔭で助かったよ」と、「ハーレイも、ぼくも助かったよね」と。
焼き菓子地獄は天国になった、遠い昔のお姫様の言葉の力を借りて。パンが無ければお菓子だと思った、飢えを知らなかったお姫様。
(懐かしいなあ…)
あの思い出を話してやろうか、小さなブルーに。
明日は幸い、土曜日だから。パンの代わりにお菓子を食べていた船の話を。
次の日、食パンは一切れしか無かったのだから、朝食のテーブルにそれと御飯。炊き立てのを。他はいつものオムレツにソーセージ、サラダも添えて。
(パンが無ければ御飯を食べればいいってな!)
上等じゃないか、と笑いながら食べた、御飯は菓子より遥かに美味いと。白い御飯は甘い菓子と違って自己主張しないから、オムレツにもソーセージにも、サラダにも合う。なにより炊き立て、ホカホカと湯気が立つのが菓子との違い。まるで焼き立てパンのよう。
今は便利なものがあるな、と感心しながら頬張った。前の自分が生きた頃には、パンが無ければ菓子だったのに、と。
あの時、菓子の代わりにパスタが山ほど詰まっていたなら、パスタだったかもしれないけれど。
けれどパスタも、御飯ほどには万能と言えない食べ物だから。どんな料理にもパスタがあればと言い切れる人は多分、少ないだろうから。
やはり食事には菓子より御飯、と美味しく食べていて、ふと思い付いた。
(そうだ、あいつに…)
菓子を買って行こう、昼食用に。
同じ思い出話をするなら、あの頃の食事に近いのがいい。ブルーの母が昼食に何を出そうとも、パンでも御飯でもなくて、焼き菓子を添えて。
そしてブルーに尋ねてみよう。「お前、こいつを覚えているか?」と。
朝食を済ませて、ブルーの家へと向かう途中で寄った焼き菓子の店。どれにしようかとケースを覗いて、見付けたフィナンシェ。それにマドレーヌ。
(有難いことに、そっくりだってな)
焼き菓子地獄の記憶の菓子と瓜二つのフィナンシェとマドレーヌだから。ブルーの分と、自分の分とを考えながら買った。これをお供に食事をするならこのくらい、と。
菓子を詰めて貰った紙袋を提げて、ブルーの家まで歩いて行って。門扉を開けてくれたブルーの母に、その紙袋を手渡した。
「すみません。今日の昼食、料理は何でもかまいませんから…」
御飯やパンをつける代わりに、これをつけて出して頂けますか?
この通り、フィナンシェとマドレーヌしか入っていないのですが…。
「え? 御飯の代わりにお菓子ですか?」
お昼御飯はチキンのソテーのつもりでしたし、御飯でもパンでも合いますけれど…。
パンを御希望でしたらともかく、お菓子というのは何ですの…?
「シャングリラの思い出なんですよ」
ブルー君の失敗談と言っていいのか、悪いのか…。私がキャプテンになるよりも前の話ですね。
奪って来てくれた食料の中にパンが全く無かったんです。船で焼こうにも、小麦粉も無くて…。
代わりに焼き菓子が山ほど入っていました、その時の解決策だったんです。
ヒルマンがこう言ってくれたんですよ。「パンが無ければ、お菓子を食べればいいじゃない」。
御存知でしょうか、SD体制が始まるよりも遠い昔の姫君の言葉だそうですが。
「えーっと…。マリー・アントワネットでしたかしら、フランスの王妃様ですわね?」
聞いたことがありますわ、その言葉。
でも…。お菓子も無かったと思いますわよ、その言葉が生まれた時代には。
シャングリラにはお菓子があったんですのね、それなら思い出にもなりますわよね。お菓子さえ無い状況だったら、思い出どころじゃありませんもの。
例の言葉をブルーの母は知っていたから、面白そうに引き受けてくれた。
「お昼御飯はチキンのソテーに、フィナンシェとマドレーヌをお出ししますわ」と。
案内されたブルーの部屋では、ブルーが「お土産は?」と待ち侘びていたのだけれど。お土産は食べ物と決まっているから、お菓子だと思ったらしいのだけど。
「…あれ? ママのお菓子…」
ハーレイが持って来たお土産、お菓子じゃないの?
ママに袋を渡しているのがちゃんと見えたよ、お土産、持って来てくれた筈なのに…。
「まあ、待て。アレの出番は昼飯なんだ」
それまで楽しみに待つんだな。わざわざ買いに行って来たんだから。
「ホント!?」
お店で見付けたわけじゃなくって、ハーレイ、買いに行ってくれたんだ?
それってとっても期待出来そう、美味しいんだよね?
「うむ。俺も気に入りの店のではある」
柔道部のガキどもに御馳走するには上等すぎるし、あいつらには買ってやらないが…。
他ならぬお前のためだからなあ、うんと奮発してやったぞ。
「ありがとう、ハーレイ!」
何が出るのかな、お昼御飯が楽しみだよ。ハーレイのお気に入りのお店のだなんて…!
(…嘘は言っちゃいないぞ)
まるで嘘ってわけじゃないんだ、と心の中でだけクックッと笑う。
あの店の焼き菓子は材料がいいから、なかなかに美味しいと評判だしな、と。
そして迎えた昼食の時間。ブルーの母が「お待たせしました」と運んで来たチキンのソテーと、スープとサラダはいいのだけれど。
お茶椀に盛られた御飯は無くて、パン皿にパンは載っていなくて。バゲットやトーストの姿など無くて、代わりに焼き菓子。フィナンシェとマドレーヌ、それがブルーのパン皿の上に一個ずつ。ハーレイのパン皿には二個つずつ置かれて、おかわり用にと盛られた籠も。
「ごゆっくりどうぞ」とブルーの母が去って行った後、ブルーは目を丸くして焼き菓子を眺め、それからチキンのソテーなどを見て。
「…なにこれ?」
ハーレイのお土産、もしかして、これ?
お昼御飯だけど、フィナンシェとマドレーヌを買って来たわけ…?
「そうなるな。俺はチキンを買って来ちゃいないし、スープもサラダの野菜もだ」
この焼き菓子を買って来たってわけだが、忘れちまったか?
食事には何も、御飯と決まったわけではないし…。パンと決まったわけでもないし。
思い込みというヤツはいかんぞ、もっと頭を柔らかくしろ。
パンが無ければ、どうするんだっけな?
今は御飯もあるわけなんだが、その御飯ってヤツが無かった時代。
前の俺たちはどうしてたっけな、パンを食べようにも、そいつが何処にも無かった時は…?
アレだ、と片目を瞑ってみせた。有名な言葉なんだが、と。
「パンが無ければ、お菓子を食べればいいじゃない。…覚えていないか?」
ずうっと昔のお姫様の言葉だ、前の俺たちにヒルマンが教えてくれた。それにエラもな。
前の俺がだ、パンが何処にも無いと悩んでた時に、出して貰った助け舟だ。
ヒルマンとエラを連れて来てくれたのは、お前だったが。
「…思い出した…!」
前のぼくだよ、パンはきちんと入っているつもりで食料を奪って帰ったのに…。
パンだと思った中身はお菓子で、こういう焼き菓子ばっかりで。
小麦粉もパンを沢山焼けるほどには入っていなくて、ハーレイが困ってたんだっけ…。
「俺が何とかする」って言ってくれたけど、ハーレイにもいい方法は何も見付からなくて。
それでヒルマンたちに相談したっけ、「パンが無いけど、どうしたらいい?」って。
あの時にヒルマンが考えてくれた言い訳がそれだよ、パンが無ければお菓子ってヤツ。
こういうお菓子が食堂で出てたよ、普通のお料理とセットになって。
前のぼくの失敗、とブルーが肩を竦めているから。
やってしまったくせに忘れちゃってた、と申し訳なさそうにしているから。
「なあに、お前が気に病む必要は無いってな」
前のお前が奪わなければ、菓子だって手に入らないままで飢えるしかない船だったろうが。
白い鯨に改造するまでは、シャングリラはそういう船だった。
あの時だって、菓子があったら上等だ。ジャガイモ地獄とかに比べりゃ、食材の方は揃ってた。一緒に食うためのパンが無いだけで、料理は色々出来たんだからな。
「でも、失敗…。みんなは面白がってくれていたけど…」
ヒルマンが知恵を出してくれなきゃ、あんな風に上手くいったかどうか…。
パンが無いぞ、って文句を言う人、まるで無かったとは言えないかも…。
「そいつだけは無いな、パンの出来に文句を言うヤツはいたって、パンそのものは」
あるだけ有難いと思って食ってただろうさ、パンの代わりに焼き菓子でもな。
お姫様気分とはいかなかったろうが、それでも文句を言うヤツはいない。前のお前がいなけりゃ飯も食えずに死ぬしかないんだし、パンを寄越せとは誰も言わんな。
…それにだ、俺も昨日に失敗したんだ。
「何を?」
失敗って、ハーレイ、何をやったの?
「…情けないんだが、パンをすっかり切らしちまった」
パンを買いに行ったら売り切れでな…。戻って別の店に行くかと思ったんだが、車だったから、それも面倒だと思っちまって…。
確か家にはまだあった筈だ、と帰ってみたら一切れしか残っていなかった。
俺は毎朝、分厚いトーストを二枚は食いたいタイプだからなあ、一枚じゃ足りん。食パンとか、田舎パンだとか。何にしたって、朝からしっかり食べたいんだ。
…それなのに、たった一切れだぞ?
失敗と言わずに何と言うんだ、パンを買わずに帰ったことを。
しかし、だ…。
今は米の飯がある有難い時代だからな、と語った今朝の自分の食卓。パンが足りない分は御飯を炊いて、オムレツにソーセージにサラダ、と。
「パンが無ければ御飯を食べればいいじゃない、ってトコだろ、今は」
そいつを声に出して言ったら、何処かで聞いたような気がしてなあ…。
今の俺じゃなくて前の俺がだ、元の言葉を知っていたんじゃないか、と記憶を探って、だ。
シャングリラのことを思い出したんだ、パンの代わりに菓子を出してた、と。
…前の俺たちは菓子を食うしかなかったわけだが、今の俺には御飯ってヤツがあったってな。
実にいい時代になったと思わないか?
パンが無い時は米の飯を炊けば、立派にパンの代わりを果たしてくれるんだしな。
これがパスタじゃそうはいかんぞ、何にでも合うとは言い難いじゃないか。
「本当だね…!」
御飯だったら、ホントに何でも合うものね…。
前のぼくたちの頃の食事でも、御飯で充分、食べられるよ。
御飯があるって素敵なことだね、前のぼくたちは御飯なんか食べていなかったのに。
それに今はお菓子も沢山ある時代、とフィナンシェとマドレーヌを見ているブルー。
奪って来なくても店に行けば買えるし、思い付きで食事にも添えられる、と。
「そうでしょ、ハーレイ?」
あの時の食事と同じにしよう、って思ったら買って来られる時代。
ぼくの家まで歩く途中で、美味しいお店にヒョイと入って。
「そうだな、この店の他にも幾つもあるなあ、こういった菓子が買える店」
お互い、あの頃の俺たちに比べりゃ、お姫様だな。
パンも御飯もあるっていうのに、わざわざ菓子と来たもんだ。
無いのなら菓子でも仕方ないがだ、あるに決まっているのをこうして菓子にしちまって。
「うんっ! ハーレイもぼくも、お姫様だね」
パンが無くても、御飯があるし…。パンも御飯も揃っていたって、お菓子もあるし。
今ならハーレイみたいに言えるね、「パンが無ければ御飯を食べればいいじゃない」って。
御飯も無いなら、お菓子を食べればいいのにね、って。
ブルーと二人、焼き菓子をお供にチキンのソテーを頬張った。スープもサラダも。
シャングリラの頃には、本当にパンが無かったから焼き菓子を食べたのに。パンを焼こうにも、小麦粉も足りなかったから。
それに比べて、贅沢になった食料事情。
パンも御飯もあるというのに、思い出のためだけにお菓子を選んでいい時代。
「パンが無ければ、お菓子を食べればいいじゃない」と言った高貴な姫君さながらに。
この幸せな今の時代を、ブルーと一緒に生きて行こう。
青い地球の上で手を繋ぎ合って、パンも御飯も、お菓子も選べる幸せな今を…。
パンが無ければ・了
※シャングリラで起こった、お菓子だらけの日々。ヒルマンの機転で一気に楽しい毎日に。
今ではパンの代わりに御飯で、充実している食糧事情。幸せな青い地球での暮らし。
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