シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(ほう…?)
進水式か、とハーレイが目を留めた新聞記事。土曜日の朝、朝食のテーブルで開いた新聞。
ブルーの家へと出掛けてゆくには早すぎるから、片付けの前にのんびりと。愛用のマグカップにたっぷりと淹れたコーヒー、それをお供に。
観光用の大型客船がデビューするらしい。その船の進水式の記事と写真と。色とりどりの祝いのテープが舞う中、堂々と聳え立つ大きな船体。
(船なあ…)
本物だな、と笑みが零れた。宇宙船とは違って船だ、と。
この写真の船は海へ出てゆく、進水式を経て。青い水が満ちた世界へ船出するから進水式。水の中へと進んでゆく船、蘇った地球の大海原へ。
今の時代は、海ならぬ宇宙へ船出してゆく宇宙船の建造も少なくはない。そちらの場合も、海をゆく船の場合と同じに進水式があると聞いてはいるのだけれど。
暗い宇宙に水など無いのに、進水式でもいいのだろうか?
もっと適切な言い方があっても良さそうなのに、と素朴な疑問が浮かんでくる。どう呼ぶのかを咄嗟には思い付かないけれど。宇宙船の場合の、進水式にあたる言葉は出て来ないけれど。
(俺はサッパリ知らないからなあ…)
前の自分はキャプテンとはいえ、進水式とは縁が無かった。
シャングリラはアルタミラから脱出する時点で既に出来ていたし、後に改造されたというだけ。地球を目指す途中で加わったゼルたちの船も、人類軍が持っていた船を接収して使ったのだから。
つまり建造していない船。三百年以上も宇宙を旅していたのに、ただの一隻も。
(ギブリとかなら…)
小型艇なら作ったけれども、今で言うなら車の感覚。いちいち名前をつけてもいないし、特別な儀式をするという発想自体が無かった。要は動けばいいだけのこと。
キャプテンだった前の自分でさえもその有様だし、今の自分は更に縁が無い。ただの古典の教師などでは、進水式には呼ばれない。親戚や親しい友人が船を建造するならともかく…。
(そっちだって、まるで無いからなあ…)
わざわざ船を建造してまで何かしようという友人はいない。それに親戚も。
自分とは無縁の世界だけれども、幸い、記事には進水式についても詳しく書かれているようで。
(観光の目玉の船だからだな…)
ホテル並みの設備を備えた大型客船、これから様々な所へ出掛けてゆくのだろう。青く輝く海を旅して、クルーズを楽しむ人々を乗せて。
こういう新しい船が出来た、と目を引くようになっている記事。ブルーと二人で乗ってゆくには些か早すぎるけれど、進水式には興味があるから。
(読んでおくとするか)
あれはどういうものなのだ、と進水式の解説を読み始めたら。
前の自分とは縁が無かった式典の内容を追って行ったら、馴染みのテープが入った薬玉の他に、ウイスキーのボトル。あるいはシャンパン、この地域ならではの日本酒までが。
とにかく酒の入ったボトルで、進水式にはつきものだという。
(ボトルだと?)
いったい何に使うのだろう、と首を捻ったら、酒のボトルは船首にぶつけて割るものだった。
事の起こりはSD体制が始まるよりも遠い昔のイギリスでの話、進水式では赤ワインのボトルを船に投げ付けて割ったという。最初は男性がやっていたけれど、後に女性の役目とされた。
(割れなかったら縁起が悪いのか…)
ぶつけられたボトルが見事に割れなかった船は、縁起が良くないとされてしまうらしい。ケチがついてしまう、その船の旅路。
(そいつは女性も大変だな…)
失敗出来んぞ、と思ったけれども、失敗した人もあったろう。そういった船に本当に悪いことが起こったかどうかは、この記事もさほど触れてはいない。縁起でもないから、成功例がメイン。
ボトルを結び付けた綱が船首に当たるようにと支えの綱を切り離すケースや、文字通りに投げてぶつけるケースや。
(投げて割ったら、クリーニング代が貰えるのか…)
これは愉快だ、と頬が緩んだ。ボトルを直接ぶつけられる場所から投げたのだったら、ボトルが見事に割れた途端に酒が女性の服にかかるから。御祝儀として女性が貰えるクリーニング代。
ガラスの破片は飛んで来ないらしい、そうならないよう網の袋で覆われたボトル。
飛んで来るのは船に当たった酒の雫で、ウイスキーだったり、シャンパンだったり。
前の自分たちが生きたSD体制の時代には無かった習わし、船首にボトルを投げて割ること。
船は名付けたらそれで終わりで、人類軍の旗艦といえども特別な儀式は無かったらしい。主要な者たちが完成した船を見て回るだけで、軍事式典と同列のもの。
ところが今では宇宙船でもまずは命名式、それが終わったら進水式。
(ふうむ…)
幕を外して船名を披露する命名式と、ボトルを投げ付けて割る進水式。宇宙船でも名前は同じに進水式だった、水の中ではなくて空へゆくのに。宇宙へと船出してゆくのに。
その宇宙船にも、ボトルを投げ付けるのが今の時代の習慣だという。ウイスキーやらシャンパン入りのボトルをぶつけて割るのが。
SD体制が崩壊した後、復活して来た遠い昔の進水式。船の前途を祝うボトルで、やはり女性が投げるもの。宇宙船のための進水式でも。
(血の繋がった本当の家族が暮らす世界になったからだろうな)
進水式が復活したのは、多分、そのせいなのだろう。
次の世代へと考える感覚が世界に戻って来たから。自分の代だけで終わりではないと、受け継ぐ者たちが大勢いるのだと誰もが考えるようになったから。
船を造ったら、その船と、それを使う者たちの上に幸あれと。
幸福な前途が待っているよう、思いをこめて投げ付けるボトル。見事に割れてくれるようにと。
今だからこそだ、と浮かんだ笑み。
前の自分が生きた時代には、「次の世代」という感覚は…。
(俺たちしか持っていなかったってな)
ミュウという種族を絶やすまい、と誰もが祈り続けた船。箱舟だった白いシャングリラ。
アルタミラから脱出した直後は、生きてゆくだけで精一杯だった船だけれども、アルテメシアの雲海に隠れ住んでからは次の世代を育て続けた。救出して来たミュウの子供たちを。
赤いナスカでは本当の意味での子供たちも出来た、自然出産児だったトォニィたち。次の時代を生きる者たち、人工子宮ではなくて母の胎内から生まれた子たち。
正真正銘の「次の世代」を生み出したのが前の自分たちだった、ミュウの未来を。
けれど、その自分たちが乗っていた白いシャングリラには…。
(進水式なんかは無かったんだ…)
歴史を変えた船だったのに。今の時代も、白いシャングリラは憧れの宇宙船なのに。
白い鯨が時の流れに連れ去られてから長く経った今も、一番人気の宇宙船。遊園地に行けば白い鯨を模した遊具があって当たり前、写真集もグッズも模型もある船。
なのに進水式は無かった、船は最初からあったから。
メギドの炎で燃え上がった地獄、アルタミラにポツンと置き去りにされていた人類の船。たった一隻だったけれども、あったお蔭で皆の命が助かった。それに乗って脱出することが出来た。
今も忘れない、コンスティテューションという名前だった船。命を救ってくれた船。
(あれがシャングリラになった時にも…)
人類が名付けた名前よりも、と改名されたシャングリラ。理想郷の意味を持つ名前。
その名前は皆で決めたとはいえ、命名式などはしなかった。船のあちこちに取り付けられていたコンスティテューションという名前のプレート、その上にペタリと紙を貼っただけで。
誇らしげに「シャングリラ」と記された紙が、お祭り騒ぎで貼られただけで。
せっかく名前をつけたというのに、行われなかった命名式。あの船がシャングリラになった時。
(白い鯨に改造した後も…)
儀式の類は無かったのだった、既に名前はあった船。何かをしようと思い付きさえしなかった。改造が済んで使えるようになった部分から、順に使っていっただけ。
全てが完成した後には…。
(ブルーが青の間に移って終わりか?)
そうだったような気がする、確か。
皆を導く立場のソルジャー、そのソルジャーの威厳を高めるためにと作った青の間。演出だった青の間の構造、本当は必要なかった広さや水を湛えた貯水槽。
前のブルーは嫌がったけれど、出来てしまえば移るしかない。ソルジャーの引越しが締め括りになっていたのだと思う、白い鯨への大改造は。
今の平和な時代だったら、盛大に祝っていたのだろうに。本当にお祭りだっただろうに。
(隠れ住んでた船ではなあ…)
人類の船に見付からないよう、隠れ続けたシャングリラ。
改造が終わっても、祝う余裕などは何処にも無かった。新しい船を使いこなしてゆくのが肝心、自給自足の生活も軌道に乗せねばならない。
すべきことは山のようにあったし、祝いよりも先に生きてゆかねばならないのだから。
(だが、あの時代に進水式があったなら、だ…)
今のように進水式というものがあったら、白い鯨になったシャングリラにボトルくらいは投げただろう。生まれ変わったようなものだし、進水式をしてやらねば、と。
それも特別に高級な酒のボトルをぶつけて。
あの頃なら、まだ酒は合成品ではなかったから。前のブルーが奪った物資が積まれていたから、酒だってあった。その中でも一番上等なものを選んでいたろう、シャングリラのために。これから皆で生きてゆく船、白い鯨の前途を祝って。
ボトルは女性が投げるというから、シャングリラなら…。
(エラか、ブラウか…)
多分、どちらかが投げたのだろう。船を代表する女性はあの二人だから。
新聞記事には、SD体制が始まるよりも遠い昔に進水式に出た女王陛下も載っていた。九十歳に手が届きそうな高齢の女王陛下でも、新しく出来た空母のためにとボトルをぶつけていたという。流石に投げてはいなかったけれど。ボトルを船へとぶつけるボタンを押したのだけれど。
女王陛下がぶつけたボトルは見事に割れた。女王陛下の名前を冠した空母の船首で。
(…こいつは面白い話が出来るぞ)
白いシャングリラにボトルを投げ付けるブラウかエラ。
今日の話題に丁度いいな、と小さなブルーを思い浮かべた。
ブルーが守った白い船。自分が舵を握っていた船。あのシャングリラが出来上がった時、こんな儀式をやっていたなら…、と。
新聞をゆっくりと読んだお蔭で生まれた話題。シャングリラには無かった進水式。
今日の最初の話はこれだ、とブルーの家へと出掛けて行った。ブルーの部屋でテーブルを挟んで向かい合いながら、小さなブルーに尋ねてみる。
「進水式を知ってるか?」
新しい船を造った時には、進水式をするんだが…。普通の船でも、宇宙船でも。
前の俺たちが生きた頃には無かったんだが、今は復活して来たわけだな。SD体制の時代よりもずっと昔に、地球で生まれたヤツなんだが。
「うん、映像なら見たことがあるよ」
それに写真も。綺麗なテープが一杯だったよ、船が出来上がったことのお祝いでしょ?
「そうか、知っていたか。だったら、ボトルの方はどうなんだ?」
「…ボトル?」
なんなの、ボトルって?
それって進水式に使うの、ぼくはそんなの知らないよ…?
テープは沢山あったけれど、とブルーが首を傾げているから。
「ボトルだ、酒のな。…中身の酒は、どんな酒でもいいそうだ」
ウィスキーとか、シャンパンだとか。この地域だと日本酒ってこともあるらしい。
船だけじゃなくて、宇宙船の時にも使うらしいぞ。進水式という言葉も、酒のボトルも。
「…お酒なの?」
船とか宇宙船の進水式でお酒って…。それって、人間が飲むわけじゃなくて?
進水式に出た人たちが乾杯するんじゃないの…?
「残念ながら、全く違うようだな」
酒を飲むヤツがいるんだとしたら、人間じゃなくて船の方だ。
宇宙船や船が酒を飲むんだ、美味い酒をな。
船首に瓶ごとぶつけて割るものらしい、と話してやった。仕入れたばかりの進水式の知識を。
ボトルをぶつける儀式が始まったと言われる十八世紀には、赤ワインだった酒。ボトルを投げる役目を女性に決めたのが、十九世紀の初めのイギリス皇太子だ、と。
「ついでに、ボトルが上手く割れなかったら駄目なんだそうだ」
縁起の悪い船になっちまうらしい、その船は。…女性は責任重大だぞ。
事実かどうかは分からないそうだが、前のお前がこだわっていたタイタニック号。救命ボートの数が足りなくて大惨事になってしまったから、ってシャングリラに救命艇を欲しがっていたろ?
あのタイタニックの進水式では、ぶつけたボトルが一回目で割れなかったって話もある。
そんな話が今の時代まで伝わるくらいに大切なわけだ、ボトルを上手く割るってことはな。
「そうなんだ…。ホントに責任重大なんだね、任せられた人は」
だけど、シャングリラでもやりたかったよ、そういうのを。
最初の間は進水式どころじゃなかったけれども、白い鯨になった時なら…。
あの頃だったら、船のみんなも心に余裕が出来てたし…。
シャングリラって名前をつけた頃より、ずっと立派な素敵な船が出来たんだし。
…やりたかったな、進水式。
前のぼくたちが生きてた頃には無かったものなら、仕方ないけど…。
そうは思うけど、惜しかったな…。
シャングリラは前のぼくたちの世界の全てで、本当に箱舟だったんだから。
思った通りに、「シャングリラでやりたかった」と言い出したブルー。今までにブルーが映像や写真で見ていたような進水式ならば、色とりどりのテープが舞うというだけだから。パーティーで鳴らすクラッカーと見た目は変わらないから、何とも思わなかったのだろう。
ただのお祭り、薬玉を割って騒ぐようなもの。船が大きい分、大掛かりなだけ。
自分も今日までそう思っていたから、ボトルを船首にぶつける儀式は知らなかったから。
「やっぱり、お前もそう思うか?」
シャングリラでもやってやりたかった、って。
白い鯨が完成した時、ボトルをぶつけてやるべきだった、と思うよなあ…。
今じゃそういうことをするんだ、と知っちまったら。
あの時代でもデータベースを調べていればだ、見付かった可能性はあったのにな。
「そうだね、SD体制よりも前の時代のデータも沢山残っていたし…」
シャングリラの名前も、ずうっと昔の小説に出て来た架空の地名をつけてたんだし…。
進水式とか、ボトルをぶつけて割るものだとかも、上手くいったら分かってたのかも…。
「運が良ければ、分かっていた可能性も充分あるよな」
ヒルマンとエラに任せておいたら、ちゃんと見付けて来たかもしれん。
ただなあ…。前の俺に進水式って発想が無かっただけにだ、「調べてくれ」とは頼めなかった。
進水式って言葉自体は、本とかで知ってはいた筈なんだが…。
シャングリラは最初から出来上がってた船で、一から造った船じゃないしな。
「…ぼくも同じだよ、それに関しては」
前のハーレイと同じで本で読んではいたんだと思う、タイタニックも知っていたんだから。
だけど、シャングリラに進水式をしてあげなくちゃ、っていう考えが無かったよ。
ぼくたちが造った船じゃなかったから、そのせいかな…。
元からあった船を大きく改造しただけで、新しく造ったわけじゃないから。
失敗だった、と小さなブルーは肩を竦めた。ぼくたちの箱舟だったのに、と。
「…白い鯨になったお蔭で、本物の箱舟になってくれたのに…」
シャングリラの中だけで生きていけたし、新しい仲間も乗せられるようになったのに…。
そんな立派な船が出来たのに、進水式をしなかったなんて…。
大きさも形も全く違う船が出来たんだったら、新しく造ったのと同じなのにね。
「まったくだ。…前の俺もウッカリしてたのかもなあ…」
改造している間もエンジンは一度も止まらなかったし、名前もシャングリラのままだったし…。
姿こそ劇的に変わりはしてもだ、同じ船だと何処かで思っていたんだろうな。
そのせいで、改造が終わった後にも「これで終わった」としか考えなくて。
出来上がったからにはもう安心だ、と肩の荷を下ろして、それっきりっていうトコだろう。
白い鯨に「よろしく頼むぞ」とボトルの酒を振舞う代わりに、俺が一杯やったんだろうな。
「やっと終わったな」とゼルたちと一緒に、ささやかな慰労会ってヤツを。
「…だろうね、前のハーレイもお酒が好きだったから…」
それに、シャングリラの改造が済んだら、もう本物のお酒は手に入らなくなるんだから。
最初から分かっていたことなんだから、本物のお酒にさよならのパーティー。
そういうことになっていたんじゃないかな、シャングリラにぶつけてあげる代わりに。
「…どうやら、そいつで当たりのようだぞ」
やたら良心が痛むからなあ、前の俺が美味しく飲んだんだろうさ。飲ませてやるべき白い鯨には御馳走しないで、ゼルたちとな。
…申し訳ないことをしたなあ、シャングリラには。
飲める筈の酒をキャプテンだの機関長だのが飲んでしまって、一滴も貰えなかったんだからな。
本当に悪いことをしちまった、と苦笑するしかないボトル。前の自分が飲んだだろう酒。
白いシャングリラにぶつけてやっていたら、立派な儀式になったのに。
「ミュウの未来をよろしく頼む」と、白い鯨になったシャングリラの船出を祝ってやれたのに。
けれど、今ではもう遅いわけで、シャングリラは時の彼方に消えた。進水式をして貰えずに。
「…俺がゼルたちと飲んじまった酒、シャングリラにぶつけてやるべきだったな…」
合成品じゃなくて本物の酒の、最高のボトルをシャングリラに。
「ぼくもそうしてあげたかったよ。でも…」
ボトル、宇宙で投げるんだよね?
最後の改造は重力の無い宇宙でやったし、星の上じゃないから空気も無いし…。
そんな所でボトルを投げたら、どうなってたかな?
上手く割れなくて、縁起の悪い船になっちゃった…ってことはないよね、シャングリラ…?
「さてなあ…」
割り損なうどころか、思い切り派手に割れそうだがな、と遠い昔の記憶を手繰った。
前の自分が持っていた記憶。キャプテン・ハーレイとして見ていた宇宙。
大気も重力も無い宇宙空間なら、止めようと力をかけない限りは投げた物体は止まらない。
衛星軌道上の人工衛星が何もしなくても飛び続けるのと同じ理屈で、きっとボトルも。
宇宙空間で酒のボトルをシャングリラに向かって投げたなら…。
とんでもないスピードで突っ込みそうだが、と軽く両手を広げてみせた。
投げた時のスピードを少しも失わないまま、真っ直ぐに飛んで行くわけなんだが、と。
「そりゃあ景気よく割れると思うぞ、凄いスピードでブチ当たるんだし」
木端微塵に砕けるんじゃないか、元の形がどうだったのかも分からないほどに。
酒も見事に飛び散っちまって、宇宙空間にフワフワと幾つもの酒の塊がだな…。
デカい塊やら、小さいヤツやら、無重力ならではの眺めってトコだ。
「そういえばそうだね、宇宙空間なら…」
ぼくは普通に飛んでいたから、そういう感覚、すっかり忘れてしまっていたけど…。
スピードがついたら止まらないよね、お酒のボトルだったとしても。
「うむ。だから、シャングリラは縁起のいい船になった筈だと思うんだが…」
上手く割れればいいって言うんだ、そこを見事に木端微塵に砕けるんだからな。
もう最高に縁起のいい進水式ってもんだぞ、俺たちの箱舟にはもってこいの。
「うん。…それで、そのボトルは誰が投げるの?」
進水式のボトルは女の人が投げるものなんでしょ?
「俺も考えたが、あの時代ならエラかブラウだな」
フィシスがいたなら、そこはフィシスの出番なんだが…。
前のお前がミュウの女神だと言ってたんだし、間違いなくフィシスの役目だったろうが…。
白い鯨が出来た時にはフィシスはいないし、エラかブラウしかないだろう。なんと言っても長老だしなあ、誰も文句は言わないってな。
「ブラウ、とっても投げたがりそうだね」
任せときな、ってウインクする顔が浮かんできちゃうよ。
「俺もそう思う。…逆に遠慮をするのがエラだ」
私などに上手く出来るでしょうか、と指名されても尻込みしそうだ、控えめ過ぎて。でもって、ブラウを推薦するんだ、「私よりも上手くやるでしょう」とな。
もしもシャングリラの進水式をやっていたなら、船首にボトルをぶつけるのなら。投げる役目はブラウだったか、それともエラが選ばれたのか。
どちらだったかは分からないけれど、「投げるんだったら宇宙服は無しで」とブルーが微笑む。
「前のぼくが外に連れて出るから、宇宙服なんかは要らないよ」
きちんとシールドしてから出ればね、エラやブラウだって大丈夫。
今のぼくには出来ないけれども、前のぼくなら簡単だもの。シールドの中から投げたボトルも、ちゃんと宇宙を飛んで行く筈だよ。瞬間移動でシールドの外に放り出すから。
「…宇宙服は無し、って…。そうなるのか?」
前のお前なら、確かに簡単なことなんだろうが…。エラやブラウが腰を抜かさないか?
「平気だってば、前のぼくの力は二人とも知っていたんだから」
今のぼくがやるって言ったら、真っ青になって逃げそうだけれど、前のぼくなら平気だと思う。ブラウなんかは、「生身で宇宙とは嬉しいねえ」って大喜びでついて来そうだよ。
それに、見た目を考えてみてよ。
宇宙服を着込んで進水式だなんて、とても無粋だと思わない?
どんなに上等なお酒のボトルを持って出たって、上手にぶつけて割ったって。
「それもそうだな…」
あんな武骨なヤツを着ていちゃ、女性かどうかも分からんなあ…。
背格好以前の問題だからな、宇宙服っていうヤツは。
シャングリラに宇宙服は当然あったし、白い鯨になる前から何度も使われていた。生身で宇宙へ出られる人間は、ブルーだけだったと言ってもいい。
他の者でも短時間ならシールドすることが可能だったけれど、ほんの僅かな時間だけ。それでは危険でとても出られない、船の外へは。だから誰でも必要とした宇宙服。
そうは言っても、船外作業をする者だけしか宇宙服を着たりはしないから。白い鯨への改造中の視察、それに出る時もブルー以外は小型艇に乗るのが普通だったから。
ブラウやエラが宇宙服を着たのは見たことが無い。少なくとも今の記憶には無い。宇宙服という珍しい姿を拝むのも悪くないとは思ったけれども、ブルーが言う通り、女性に見えはしないし…。
「…あいつらが宇宙服を着ていた場合は、進水式が台無しなのか…」
わざわざ女性を選んで役目を任せた意味が無いのか、見た目の問題というヤツで。
「そう思うけど?」
シャングリラの進水式をするんだったら、ちゃんと長老の服でなくっちゃ。
前のぼくはもちろんソルジャーの服だし、エスコートって言うの?
エラでもブラウでも、ボトルを投げられる場所まで連れてってあげるよ、宇宙服は無しで。
「エスコートと来たか…」
今のお前じゃ、チビで話にならないが…。
前のお前が一緒だったら、そりゃあ素晴らしい絵になる進水式になっただろうな。
ソルジャーのエスコートで出てったブラウか、エラがボトルを投げるんだから。
最高の酒が入ったボトルを白い鯨に思い切りぶつけて、見事に粉々に割れるんだからな。
白い鯨の船首にぶつかって砕ける、進水式の成功を知らせるボトル。宇宙に飛び散る最高の酒。
その光景をシャングリラの船内に中継していたならば、お祭り騒ぎだっただろう。
色とりどりのテープが無くても、たった一本のボトルがあれば。
「…ねえ、ハーレイ…。エラたち、調べなかったのかなあ?」
ヒルマンもエラも、データベースで調べ物をするのが大好きだったし、得意だったのに…。
色々なことを知っていたのに、進水式のことは調べていなかったのかな…?
「調べてたのかもしれないが…」
前の俺たちが全く聞いていないだけで、実は調べていたかもしれん。
しかしだ、進水式なんかでお祭り騒ぎをしているよりかは、船の維持だぞ、あの時期だったら。
出来上がったばかりのデカイ船をだ、しっかり維持していかなきゃならん。
そいつが最優先ってもんだろ、現にシャングリラの中を結んでいた乗り物だって何回止まった?
他にもあちこち不具合が出ては、キャプテンの俺までが船中を走り回っていたんだが…。
「それはそうだけど…。大変な時期ではあったんだけど…」
でも、シャングリラの外からボトルをぶつけて割るくらいはね…。
お酒のボトルが当たったくらいで船体に傷はついたりしないよ、頑丈に出来ていたんだから。
その程度の衝撃で計器が狂ったりもしない筈だし、やっても何も問題なんかは…。
みんなが持ち場を離れて見てても、ボトルを一本、船にぶつけたらおしまいなんだよ?
ほんの少しの時間で済むし、と言われてみればその通りで。
前のブルーがエラかブラウとわざとゆっくり移動したとしても、五分もかからないわけで。
それを思うと、やるだけの価値は充分にあった進水式。シャングリラの船首にぶつけるボトル。
前の自分がゼルたちと一緒に「慰労会だ」と称して飲むより、立派な酒の使い道。
白い鯨になったシャングリラでは、本物の酒は手に入らなくなったのだから。それを承知の上で船に積んであった酒の残りを飲んでいたのだから、飲んでしまった中の一本くらいは…。
シャングリラに振舞っておけば良かった、白い鯨に。最高の酒を、進水式で。
「…あいつら、調べ損なったのか?」
データベースで見落としてたのか、進水式と言えば色とりどりのテープなんだ、と写真だけで。
どういうことをするのが進水式なのか、きちんと調べずにいたっていうのか…?
「きっと二人とも、進水式だと思っていなかったんだよ。ヒルマンもエラも」
前のぼくやハーレイと同じで、改造なんだと思っていて。
だから、改造が終わった時には何かしなくちゃ、と考えもしなくて、進水式は調べてなくて…。
そのせいで知らなかったんじゃないかな、ボトルのことを。
調べ損ねたっていうんじゃなくって、最初から調べていないと思う…。
「そうだったのか?」
まるで調べてないって言うのか、エラもヒルマンも、進水式を?
あの調べ物好きが二人揃って、改造なんだと思い込んでて、調べなかったと…?
「そうでないなら、やっていそうだと思うけど?」
ボトルを一本割るだけなんだよ、それでシャングリラの進水式だ、って言えるんだよ?
船のみんなも喜んだだろうし、白い鯨になったお祝いもきちんと出来たんだし…。
「うーむ…。そうかもしれんな、調べていない、と…」
最初から調べていないんだったら、あの二人でも気が付くわけがないしな…。
白い鯨になっちまってから、かなり経ってから何かのはずみに「こんなのがあったか」と知って歯軋りしていたのかもしれないが…。
その場合は自分の胸に収めちまって、わざわざ話しに出ては来ないよな、失敗談を。
今となっては分からない真相。
ヒルマンもエラも遠い時の彼方に消えてしまって、本当のことを訊くことは出来ない。進水式について調べていたのか、調べようとも思わないままで白い鯨の改造が終わってしまったのか。
けれどシャングリラは、ミュウの歴史を作った船だったから。
白い鯨は、ミュウの箱舟だったから。
「やってやりたかったな、SD体制の時代の最初で最後の進水式」
あの時代には誰もやってはいなかったんだし、シャングリラが地球に着いた後には、SD体制は崩壊しちまったんだし。
もしも俺たちがやっていたなら、最初で最後の進水式になったんだがなあ…。
「そうだよね。色とりどりのテープは無くても、ボトルをぶつけるだけだったらね…」
ホントに簡単に出来ちゃったんだよ、そのくらいなら。
本物のお酒はまだ何本も船にあったし、エラかブラウがエイッと一本投げるだけだし…。
前のぼくがシャングリラの外に連れて出掛けて、「此処から投げて」って、投げて貰って。
シールドの向こうに瞬間移動で放り出したら、ボトルは真っ直ぐ飛んで行くしね。
きっと見事に割れただろうボトル。白い鯨の船首に当たって。
色とりどりのテープは無かったとしても、進水式をしてやれただろう。白いシャングリラが海へ出てゆくための。宇宙という名の星が散らばる大海原へと船出するための。
「…シャングリラにお酒、あげたかったな…」
ハーレイたちが飲んでしまうより、シャングリラにお酒。最高に美味しい、お酒を一本。
「飲ませるわけではないかもしれんが…」
俺が読んだ記事には洗礼だとも書いてあったし、酒を振舞うというわけではないかもしれん。
どちらかと言えば、清めの酒って方かもしれんが、実際の所はどうなんだかなあ…。
俺がすっかり飲んじまうよりは、シャングリラに飲ませてやりたかったとは思うがな。
「そうなんだ?」
御馳走するって意味じゃないかもしれないんだ…。
だけど、前のハーレイたちが飲んじゃうよりかは、シャングリラにあげたかったよ、お酒。
あの船はホントに、ぼくたちの大切な船だったから。
シャングリラが無ければ、ぼくたちは地球を目指すことさえ出来なかったんだから…。
アルタミラから助けてくれたのもシャングリラだった、とブルーが懐かしそうにしているから。
時の彼方に消えてしまった白い鯨を赤い瞳で見詰めているから。
「…なあに、進水式をして貰えなくても、あの船は充分、幸せだったさ」
前の俺たちは散々苦労をかけちまったが、地球に着いた後はのんびり暮らしていたろうが。
トォニィたちを乗せて宇宙を旅して、最後は無事に引退したし…。
それに酒なら飲み放題だぞ、今のシャングリラは。
「えっ?」
今ってなんなの、シャングリラはもう何処にもないのに…。
どうしてお酒が飲み放題なの、今だなんて…?
「シャングリラ・リングだ、結婚式で飲み放題だ」
今は結婚指輪になってるだろうが、シャングリラは。
結婚式に酒はつきものだしなあ、それも最高に美味い酒が。
「ああ…!」
ホントだ、今はあちこちでお酒を飲んでるんだね、シャングリラは。
いろんな所の結婚式に呼ばれて、上等なのを。
ボトルをぶつけて貰う代わりに、左手の薬指に嵌めて貰って、グラスに入った美味しいのを…。
白いシャングリラは消えたけれども、その船体の金属から作られるのがシャングリラ・リング。
結婚するカップルがたった一度だけ、申し込むことが出来る結婚指輪。
抽選で当たれば、シャングリラは結婚指輪の形でそのカップルの許へと旅立つ。結婚式で左手の薬指に嵌めて貰って、新しい道を歩み始める。結婚を祝う乾杯の酒をグラスに注いで貰って。
それが今の時代に生まれ変わった、シャングリラの進水式なのだろう。白い鯨から姿を変えて、一対の結婚指輪になって。
シャングリラ・リングが自分たちの手元に来てくれたならば、心をこめて御馳走しよう。
前の生から愛し続けたブルーと結婚する日の酒を。婚礼のためにと用意した美酒を。
ボトルごとぶつけはしないけれども、懐かしい船に乾杯の酒を。
ブルーと二人で船出する日に、かつてやり損ねた白いシャングリラの進水式を…。
進水式のボトル・了
※白いシャングリラでは、行われなかった進水式。お酒のボトルは出番が無いまま。
けれど今では、結婚指輪に生まれ変わったシャングリラ。乾杯の美酒を飲み放題なのです。
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