シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(わあ…!)
とっても綺麗、とブルーが見付けた天使の写真。学校から帰って、おやつの時間に。
ダイニングの広いテーブルの上で広げた新聞、その中に天使。もちろん、本物ではないけれど。
SD体制が始まるよりも遠い昔に描かれたという天使の絵。
足首まである衣を纏って、背に白い翼。幼い子供を守るように立つ、天の御使い。
(優しそうな顔…)
天使に性別は無いと言うけれど、まるで聖母のような笑み。子供に向けられた慈母の表情。
(守護天使…)
そんな説明がついていた。この幼子を見守る天使。
絵の中の天使だけに限らず、人には誰でも守護天使がいるものなのだ、とも。
生まれた時から命が終わる時まで、側にいる天使。それが守護天使で、人の数だけ、神が地上に遣わすという。誰の側にも天使が一人。
この絵に描かれた子供さながら、守りの天使がついていると。
遠い昔の絵画の天使は、それは優しそうで、清らかで。
天上のものだと一目で分かる。宇宙とは違った、別の空から舞い降りた天使。人を守るために。
(…ぼくにもいるの?)
守護天使が、とキョロキョロ周りを見回したけれど、姿が見えるわけがない。自分の目にも映るものなら、とうの昔に出会ってしまって、顔見知りになっているだろうから。
たとえ言葉は交わせなくても、自分の側にはいつも天使が立っているのだと気付くから。
(…友達だって、天使がいるって言わないものね…)
見えている人はいないのだろう。守護天使が守ってくれていたとしても。
多分、選ばれた人にだけしか見えない存在、きっと天使はそういうもの。目には見えない。
(この絵を描いた人は天使に会えたのかな?)
会えたのだろう、と考えてしまうほど、絵の中の天使は美しかった。どんな人をモデルに選んで描いても、本物の天使を見たことがなければ、この表情は描けないだろうと。人ならざる者が持つ聖性だって。
(…だけど、ぼくには見えないみたい…)
自分の周りに天使はいないし、いるかどうかも分からない。気配さえしない。
それに今では大勢の神様。
SD体制の時代が終わって、消されていた神たちが戻って来た世界。太陽の神も、月の神様も。他にも沢山、色々な神が。
人の姿をした神だけではなくて、ハーレイの財布に入っている銭亀だっている。長寿のお守り、それからお金が増えるようにと財布に入れておく小さな亀。
隣町に住むハーレイの両親の家には、無事カエルもいると教わった。出掛けた人が無事に家まで帰れるようにと、玄関に座るカエルの置き物。それも神様。
今の時代は、数え切れないほどの神様がいるらしい。神様同士は仲良くしていて、喧嘩したりは決してしないと聞いている。
財布に銭亀を入れていたって、亀と守護天使は取っ組み合いの喧嘩はしない。口喧嘩だって。
今はそういう時代なのだけれど、生憎と見えない守護天使。ダイニングの家具が目に入るだけ。
いると言われても証拠などは無くて、本当はいないかもしれない。
(…でも…)
前の自分たちが生きた時代も、消えなかった神。
人は人工子宮から生まれ、血が繋がった本物の家族が無かった歪んだ時代。機械が統治し、人が機械に従った時代にも神だけはいた。
統治しやすいよう、多様な文化も様々な神も消し去っていたのがSD体制。それでも人から神というものを取り上げたりはしなかった。一人だけに絞ってしまったけれど。
SD体制の時代にも残った、唯一の神。クリスマスの日に馬小屋で生まれて、人間の犯した罪を背負って十字架についたと伝わる神の子。
その神の使いが天使だと言うなら、背に翼を持った者だと言うなら。
(…やっぱり、ちゃんといるのかな?)
見えていないだけで、自分の側にも守護天使が。
この絵に描かれた子供と同じに、優しく微笑む天使が側にいるかもしれない、今だって。
周りを歩いているかもしれない、床を踏む音さえ立てもしないで。
翼を背負った天の御使い。高い空から、宇宙とはまるで違った空から舞い降りる天使。
前にハーレイと庭から仰いだ天使の梯子。雲間から射す光の梯子を天使は行き来するという。
(ハーレイ、ぼくなら天使みたいに飛ぶだろうって…)
「さぞかし綺麗に飛ぶんだろうな」とハーレイは言っていたけれど。
今の自分は空を飛べないと知らなかったから、そういう言葉が出て来たけれど。
もしも前の自分と同じように空を飛べたとしたって、本物の天使が飛ぶ姿にはきっと敵わない。
自分には翼が無いのだから。
天使の背にある純白の翼、それを自分は持たないから。
(前のぼくみたいに空を飛べても…)
背中には無い、真っ白な翼。空を舞うための大きな翼。
サイオニック・ドリームを使って作り出しても、幻の翼に過ぎない代物。ただの幻影。
(空を飛んでる姿だったら、天使の勝ち…)
天使の翼は本物だから。
鳥と同じに空を飛べるし、それを使って天使の梯子を行き来することが出来るのだから。
翼を広げて飛んでゆく天使。
新聞に載っている絵の守護天使は足で地面に立っているけれど、空を飛んでいる天使の絵だって沢山見て来た。雲間を舞ったり、天から地上に舞い降りようとする所だったり。
(綺麗だよね…)
この絵の天使が飛んでゆく姿も、容易に想像出来るから。どんな風かと悩まなくても、白い翼を広げた姿が目に浮かぶから。
ハーレイが夢を見たのも分かる。
今の自分が天使のように空を舞うのを見たいと、天使の梯子を昇る姿を見てみたいと。
(絶対、無理…)
ハーレイに見せてあげたくなったし、努力しようと決心してはいるけれど。
いつか二人でプールに行ける時が来たなら、水の中で浮くコツをハーレイに習って、空気の中を飛んでいた頃の感覚を掴んで、空を目指そうとは思うけれども。
そうやって空を飛べたとしたって、翼まではきっと作れない。今の自分の力では、とても。
不器用すぎる自分のサイオン、なんとか翼を作れたとしても…。
(きっとヘンテコになっちゃうんだよ)
純白の翼は生えているだけで、空を飛んでも全く動きもしないとか。
空の世界で溺れかかっていそうな感じで、バタバタと無様に羽ばたくだとか。
だからハーレイには諦めて貰うしかないだろう。この絵に描かれた天使のような自分の姿は。
翼を広げて舞い上がる姿は、見せられないに決まっているから。
前の自分がシャングリラの外を飛んだ時と同じに、翼など無い姿が限界。
飛んでゆく速度は加減出来ても、背中に翼を生やせはしない。
(前のぼくでも、やってないしね?)
自由自在に飛べたけれども、天使の真似などしていない。
サイオニック・ドリームも操れたけれど、天使の翼を生やしてなんか…、と思ったけれど。
(…あれ?)
天使の真似、という言葉が心の端っこに引っ掛かった。
一度も考えたこともないのに、その筈なのに。
純白の翼を背中に広げて飛んだ記憶は全く無いのに、何故か引っ掛かる「天使の真似」。
もしかしたら、自分はやったのだろうか?
生まれ変わってくる時に記憶を落っことしただけで、天使を気取っていたのだろうか?
遠い昔に、白い鯨で。
楽園という名の白い船から、翼を広げて飛び立ったろうか…?
気になってしまった、天使の真似。守護天使の絵が載った新聞を閉じても、おやつを食べても、心から消えてくれない言葉。引っ掛かったままで抜けてゆかない言葉。
ケーキをすっかり食べ終えた後も、紅茶を飲んでも、消えずに心に留まったまま。
空になったお皿やカップをキッチンの母に返しに行っても、階段を上って部屋に戻っても。
(天使の真似…)
どうしてこんなに引っ掛かるのか、と勉強机の前に座って頬杖をついた。遠い記憶を、きちんと探ってみなければ、と。
(…背中に翼…)
前の自分なら出来ただろう。幻の翼を見事に作り出せただろう。
いとも容易く、サイオニック・ドリームで一瞬の内に。
まるで本物の天使さながら、自然に羽ばたくだろう翼を。空を飛んでゆく鳥たちを真似て。
でも…。
(…やってないと思う…)
本当にそんな記憶は無いから。
生まれ変わって来た時に落として来たのだとしたら、心に引っ掛かることも無いだろうから。
今は持たない記憶だったら、きっと反応することもない。
成人検査と人体実験で記憶をすっかり失くしてしまった、前の自分がそうだったように。
シャングリラの中で何を見ようと、何を食べようとも、引っ掛かってはこなかった。心を掠めることは無かった。これが気になる、と見詰め直すことはただの一度も。
それがあるから、天使の真似事をやった記憶を失くしていたなら反応しないと断言出来る。
なのに一向に消えてはくれない、「天使の真似」という言葉。
やった記憶が無いのだったら、とうに心から抜け落ちている筈なのに。
抜け落ちる前に、引っ掛かりもせずに通り過ぎてゆくだけなのに。
(なんで…?)
やっていない筈の天使の真似。翼を生やした天使の真似事。
けれども心から消える代わりに、ますます気になる一方だから。天使の真似という言葉の響きが引っ掛かるから、遠い記憶を手繰っていたら。
きっと何かがある筈なのだと、遠く遥かな時の彼方へ記憶の旅を続けていたら…。
(子供たち…!)
あの子たちだ、と蘇って来た幾つもの顔。前の自分がアルテメシアから救い出した子たち。
幼かった子たちに取り囲まれて、口々に訊かれたのだった。
天使は本当にいるのかと。
神が遣わすという天の使いは存在するのかと、自分たちを助けてくれなかったけれど、と。
ミュウと発覚して、ユニバーサルに追われた子供たち。天使は彼らを救わなかった。
「…それは、天使も忙しいから…」
あちこちで仕事があるんだから、と答えたけれど。
「でも、ヒルマン先生が言ってたよ。守護天使、って」
人間には必ず天使がついているんでしょ?
生まれた時から守ってくれるのが守護天使だから、いつでも側にいるものだ、って…。
どんな時でもついてるんだし、それが守護天使のお仕事で…。
他のお仕事で何処かへ行ったり、忙しくなったりはしないと思う…。
本当はソルジャーが天使なんでしょ、と無垢な瞳を輝かせていた子供たち。
ソルジャーがみんなの守護天使でしょ、と。
空も飛べるし、自分たちを助けてシャングリラに連れて来てくれた、と。
本当は背中に翼があるんだと、この船に乗っている仲間たち全部の守護天使だ、と。
「ぼくには翼は生えていないよ、見れば分かるだろう?」
背中にあるのはマントだけだよ、それしか見えないと思うんだけれど…。
「隠してるだけでしょ、ソルジャーは?」
本当はちゃんと生えているのに、隠してるんでしょ?
見せて欲しいな、ちょっとでいいから。
天使の翼を見せて欲しいよ、と前の自分にせがんだ子たち。
ソルジャーの背中の天使の翼、と。
(…前のぼく、どうしたんだっけ?)
子供たちが見たいと願った翼。隠しているのだと思い込んでいた天使の翼。
頼まれたのなら見せてもいいのに、サイオニック・ドリームを使えば見せられたのに。
見せる代わりに、断った自分。
ぼくは天使じゃないんだから、と。
背中に翼は生えていないと、前の自分は断った。無いものは見せてあげられないよ、と。
(…子供たちの夢…)
無邪気な子たちの夢を壊してしまった自分。天使の翼を見せる代わりに。
幼い子たちの願いくらいは叶えてやっても良かったのに、と前の自分のケチっぷりに呆れ返ったけれど。子供たちの夢を壊すなんて、と酷い自分を責めたくなってしまったけれど。
(違う…!)
ケチだったからでも、夢を壊そうとしたのでもない、と蘇った記憶。前の自分が考えたこと。
子供たちには、神を信じて欲しかった。
救いの手を差し伸べてくれるという神の存在を、神の使いの守護天使を。
目には見えなくても、人を守ってくれる神。
誰の許にも天使を遣わし、その見返りなど求めない神を。
もしも前の自分が、あそこで翼を見せていたなら。天使の真似をしていたならば。
(ぼくが天使だっていうことになってしまって…)
子供たちは本来いるべき筈の守護天使を顧みなくなる。目に見える天使を信じてしまって、前の自分が守護天使なのだと思い込んで。
それでは救いは何処からも来ない。神の助けは届きはしない。
自分は守護の天使ではなくて、ただの人間なのだから。神の使いではないのだから。
子供たちを、白いシャングリラを守ることは出来ても、たったそれだけ。
世界を救えはしない存在、神の前には小さな命の一つに過ぎないのが自分。
どんなにサイオンが強かろうとも、人の器には大きすぎる力をその身に宿していようとも。
人は人だし、天使ではない。
守護天使に取って代わりは出来ない、神が遣わした本物の天使などではないのだから。
天使の翼を見せる代わりに、「天使はいるよ」と子供たちに教えた前の自分。
見えないけれども、守護天使は誰の側にもついているのだから、と。
守護天使は必ず側にいるから、それを信じてお祈りしなくちゃいけないよ、と。
「はーい!」
「ヒルマン先生もそう言ってたよ!」
でも本当はソルジャーが守護天使なのかと思っちゃった、と取り巻く子たちに「違うよ」と肩を竦めて、苦笑して。「ぼくはソルジャーで、ただの人間」と子供たちの誤りを正してやって。
翼など生えていない証拠に、瞬間移動はしないで歩いて帰った青の間。
深い海の底を思わせる自分の部屋へと帰ったけれども…。
(天使は何処かに…)
いるのだろうか、と溜息を零した前の自分。
守護天使は自分の側にいるのかと、目に見えないというだけだろうか、と。
地獄だったとしか言いようがない、アルタミラの檻で過ごした時代。過酷な人体実験の果てに、育つことさえ放棄した自分。成長を止めて、自分が何歳なのかも忘れて。
あの時代の自分が神に助けを求めたかどうか、もうそれすらも覚えていない。いつの間にやら、祈ることさえ前の自分は忘れ果てていた。どうせ救いは来ないのだから、と。
神を再び思い出したのは、燃えるアルタミラの上だったろう。
ハーレイと二人、燃え上がり崩れゆく地面を走って、幾つものシェルターを開けて回った時。
間に合うようにと、自分たちが行くまで生きていてくれと、確かに何処かで祈っていた。言葉に出してはいなかったけれど、目には見えない神に向かって。
そうして祈りを思い出した後、見失っていた神を再び見出した後。
アルタミラから逃げ出した船で、この船で何度祈ったことか。
白い鯨になるより前から、神に祈りを捧げたことか。
このシャングリラに、ミュウに未来が開けるようにと。救いの手をどうか自分たちに、と。
神がいるなら、守護天使がついているのなら。
どうか、と祈り続けた自分。
船の仲間たちも皆、神に祈っていただろう。ゼルやブラウたちも、前のハーレイも。
白いシャングリラに教会は無くても、祈る心は誰もが持っていたのだから。
けれども、最後まで来なかった助け。差し伸べられなかった、神の子の腕。
天使はシャングリラに舞い降りては来ず、神の子の母も現れなかった。ただの一度も。
代わりに下った地獄の劫火。再び襲ったメギドの炎。
それがシャングリラを、仲間たちを焼いてしまわないよう、前の自分はメギドへと飛んだ。白い鯨を守るためにと、長い年月を共に暮らしたハーレイへの想いも未練も捨てて。
そうやって飛んで、辿り着いたメギド。それを沈めて自分は死んだ。
何の奇跡も起こらないままで。
救いは何処からも来なかったままで。
見えざる神も、守護の天使も、自分を救いはしなかった。
仲間たちを守る盾となって死にゆく前の自分を、たった一人で暗い宇宙に散った自分を。
(前のぼくは…)
最後に神に祈っただろうか、と思ったけれど。
息絶える前に、もう一度神に縋ったろうかと考えたけれど、そんな記憶は何処にも無かった。
青い光が溢れるメギドで、泣きじゃくりながら死んでいった自分。
最後まで持っていたいと願った、右の手にあったハーレイの温もり。それを失くして、死よりも悲しい絶望の中で。
もうハーレイには二度と会えないと、絆が切れてしまったからと。
冷たく凍えてしまった右手。
悲しみの中でミュウの未来を、ハーレイたちの幸せを祈りはしたけれど。
その時に神を思ったかどうか、神に祈っていたのかどうか。
改めて思うと、まるで何処にも無い自信。
何に向かって祈っていたのか、自分でも本当に分からない。
たった一つだけ、確かなこと。
前の自分は何も祈りはしなかった。死にゆく自分のことについては、欠片でさえも。
切れてしまったハーレイとの絆を繋いでくれとも、またハーレイに会えるようにとも。
何も祈らないままで死んでしまった、祈りたいとさえ思わなかった。
深い悲しみと絶望の只中にいては、もうどうしようもなかったから。
神が救ってくれることさえ、想像しようもなかったから。
祈らないままで、神に縋ろうとも思わないままで、前の自分の命は尽きた。
神がいるとも思えない場所で、地獄の劫火を造り出すメギドの制御室で。
(だけど、聖痕…)
前の自分がキースに撃たれた時の傷痕、それが刻まれていた今の自分の身体。
SD体制が始まるよりも遥かな昔に、特別に神に愛された人。神の子が十字架で負わされた傷、神の苦難を思い続けた人の身にだけ、神が与えたと伝わる聖痕。神の子と全く同じ傷痕。
神の子の傷とは違うけれども、今の自分も持っていた。身体には何の痕も無いのに、夥しい血を溢れ出させた幾つもの傷を。前の自分が負った傷と同じ、聖痕現象と診断された不思議な傷を。
傷痕が浮かび上がるのと同時に戻った記憶。
前の自分が持っていた記憶、それにハーレイまでが生まれ変わって戻って来た。
前と全く同じ姿で、この地球の上に。前の自分が焦がれ続けた、ハーレイと目指した青い地球の上に。しかも蘇った青い地球。前の自分が生きた頃には、何処にも無かった青い水の星。
前の自分は、何も祈りはしなかったのに。
地球に行けるとも思わなかったし、ハーレイと再び巡り会えるとも思っていなかったのに。
自分についてはただの一つも、ほんの小さな欠片でさえも、祈りもしないで死んだのに。
祈った覚えは何も無いのに、聖痕を抱いて生まれた自分。
青い地球の上にハーレイと二人、生まれ変わって来た自分。
祈らなかった自分の代わりに、ハーレイが神に祈りを捧げてくれたのだろうか。
目には見えない神が起こした本物の奇跡。聖痕と、それに生まれ変わりと。
これだけの奇跡を起こせるのが神、神がいるから起こった奇跡。
ならばどうして、前の自分たちを神は一度も救ってくれなかったのだろう?
ミュウの未来が開けるようにと、救いの道をと、誰もが祈っていた筈なのに。
前の自分も、ハーレイたちも。白いシャングリラの仲間たちも皆、それを祈っていたろうに。
(…神様、うんとケチだったわけ…?)
奇跡を起こす力を持っているのに、救ってはくれなかった神。
シャングリラに天使は舞い降りないまま、神の手は差し伸べられることなく、仲間たちを乗せた白い箱舟は地球を目指した。
辿り着いた地球でも、神は誰をも救わなかった。
グランド・マザーを倒したジョミーも、ジョミーを探しに地の底へ下りたハーレイたちも。
リオの命さえも無残に奪った、ジョミーを助けに地球へ向かった勇敢なミュウの命さえをも。
神が奇跡を起こしさえすれば、誰の命も地球で潰えはしなかったろうに。
そう出来るだけの充分な力、それが神にはあっただろうに。
起こすべき時に奇跡を起こさず、天使も寄越さなかった神。
ジョミーやリオやハーレイたちにも、守護の天使はいたのだろうに。
なんともケチだと、これでは神などいないのと何も変わりはしない、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから。
これはハーレイにも話さなければ、とテーブルを挟んで向かい合うなり、訊いてみた。
「…あのね、神様、いるんだよね?」
まさか、いないってことはないよね、目には見えないっていうだけだよね…?
「当たり前だろう、でなきゃ俺たちは此処にいないぞ」
こうして二人で座っちゃいないし、お茶も飲めなきゃ、菓子も食えんと思うがな…?
「そうだよね…。でも…」
ハーレイ、変だと思わない?
神様が本当にいるんだったら、何かが変だと思うんだけど…。
前のぼくたちは神様に助けて貰っていない、と今の自分が抱いた疑問を口にした。
何度も神に祈っていたのに、一度も聞いては貰えなかった、と。
「神様もそうだし、守護天使だって…。何の役にも立ってはいないよ」
アルタミラにいた頃も、シャングリラで宇宙に逃げ出した後も。
ナスカはメギドで燃やされちゃったし、前のハーレイたちだって地球で死んじゃったんだし。
「確かにな…。あまり役立ったとは思えんな」
俺も何度も祈ってはいたが、せいぜいシャングリラが無事だった程度…。
後は、お前を取り戻せたことか。
前の俺だった間は叶わなかったが、こうしてお前に会えたんだしな。
「…ハーレイ、祈ってくれていたわけ?」
前のぼくは泣きながら死んでしまって、何のお祈りもしなかったけれど…。
ぼくの代わりに、前のハーレイがちゃんとお祈りしてくれてたんだ…?
「ああ。まさかこうして取り戻せるとは思わなかったが、また会いたいとな」
其処が何処でもかまわないから、もう一度お前に会わせてくれと。
俺をお前のいる所まで連れて行って欲しいと、一日も早く俺の命を終わらせてくれと。
「じゃあ、神様はやっぱり…」
何処かにいるっていうことなんだね、ハーレイがお祈りしていた通りになったのなら。
「いらっしゃる筈だと俺は思うが?」
現にこうして、俺たちは地球で会えたんだ。
しかも前のお前が行きたかった青い地球ってヤツだぞ、前の俺たちが生きた頃には無かった星。
死の星だった地球しか無かった筈だというのに、お前の夢まで叶っただろうが。
これが神様の力でなければ何だと言うんだ、それにお前は聖痕まで持っているんだからな。
神がいるという確かな証拠が今の俺たちだろうが、というハーレイの言葉は正しいと思う。
けれど、それなら前の自分たちには、どうして救いが来なかったのか。
あんなに誰もが祈っていたのに、白いシャングリラの皆が祈りを捧げたろうに。
「…神様、ホントにいるんだったら、助けてくれれば良かったのに…」
前のぼくたちを放っておかずに、シャングリラごと。
…前のぼくは仕方ないとしたって、ハーレイたちまで地球で死んじゃうことになったんだよ?
ジョミーなんかは可哀相だよ、最後まで苦労ばっかりで…。
前のぼくよりずっと短い間だけしか生きられなくって、楽しいことだって、ほんの少しで。
神様が奇跡を起こしてくれていたら、ジョミーも長生き出来たのに…。
「そいつは俺も思いはするが、だ…。神様に見捨てられたようにも思わないではないんだが…」
しかし、そう考えるのは間違いってヤツだ。
奇跡を体験しちまったばかりに、あの時だって、と考えちまう。神様の力なら出来た筈だ、と。
確かに、神様がやろうと思えば出来ただろう。それは間違いないと思うが…。
俺が思うに、時がまだ来ていなかったんだろうな。
「え?」
時ってなんなの、どういう意味…?
「前にも言ったろ、全てのわざには時がある、と」
聖書の言葉だ。…前の俺だった頃は特に印象には残らなかったし、心に留めてもいなかった。
だがな、今ならよく分かるんだ。
生きるに時があり、死ぬるに時があり…。
全ての物事には起こるべきタイミングがあるってことだな、奇跡ってヤツも時が来ないと神様は決して起こしてくれない。
前の俺たちが生きた時代は、そういう時代だったんだ。神様が奇跡を起こさない時代。どんなに祈って祈り続けても、奇跡は起こりやしなかったってな。
その代わりに…、と穏やかな笑みを浮かべるハーレイ。
奇跡を起こす代わりに、神様はミュウの時代が始まるための種を蒔いて下さった、と。
「神様は、今の俺たちが生きてる平和な時代を立派に作って下さったんだ」
今じゃ人間はみんなミュウだろ、前の俺たちが夢見た世界が本当に実現したってわけだ。
しかし、そいつを作るためには、ミュウが生まれて来なけりゃいかん。
沢山のミュウが次から次へと生まれる時代が来ないことには、ミュウの時代も始まらない。
それが前の俺たちが生きた時代だ、始まりの時代。
神様が蒔いた種から大勢のミュウが生まれて、前のお前も、俺もその中の一人だったんだな。
「それはそうかもしれないけれど…。始まりの時代だったけど…」
だけど、神様は一度も助けてくれなかったよ?
神様が種を蒔いたんだったら、あんな酷い目に遭っていたのを助けてくれても良かったのに…。
アルタミラもそうだし、ナスカだって。
…ミュウは二回も全滅しかかったんだよ、神様が助けてくれなかったから…!
酷い、とハーレイに訴えたけれど。
種だけを蒔いて、後は助けずに放っておくなど酷すぎないかと言ったのだけれど。
「…そこも間違えちゃいけないトコだな。神様が考えておられたことを」
神様は、前の俺たちに「自分たちの力で生きろ」と仰ったんだ。
奇跡や救いをアテにしないで、自分たちの力で生き抜いてみろと。
それが出来ないなら、ミュウに未来は無いだろうとな。
「…どうして?」
神様は何でも出来る筈なのに、どうしてミュウを放っておくの?
ほんのちょっぴり、前のぼくたちが祈った分だけ、助けてくれても良さそうなのに…。
「それが勘違いというヤツだ。神様は試しておられたわけだな、ミュウの強さを」
甘やかさないで、自分たちの足で歩いていけと前の俺たちを放っておかれた。
自分の足では歩けないような種族に未来があるか?
神様が力を貸してくれなきゃ、一歩も進めないような弱い種族に。
「無いかもね…」
なんとか先へは進めたとしても、いつか滅びてしまいそう。
人類がミュウを滅ぼしにかからなくっても、あんまり弱いと勝手に滅びてしまうよね。
次の世代が生まれないとか、生まれて来たって弱すぎて育たないだとか…。
トォニィたちみたいに強い子供は生まれて来なくて、先細りになって消えちゃったかもね…。
「そういうことだ。神様は過保護じゃなかったってことだ」
甘やかす代わりに、色々な試練に遭わせたってな。これを頑張って乗り越えろと。
そうやってミュウが生きてゆくために、必要なだけの助けは下さっていたんだろう。
前のお前が持っていたような、とんでもない強さのサイオンとかな。
「そっか…」
まるで助けてくれなかったっていうわけじゃないんだね、前のぼくが気付いてなかっただけで。
前のぼくのサイオンも神様がくれたものだったんなら、神様は役に立ってたね…。
あれが無ければメギドを沈める力だって無くて、ミュウもシャングリラもおしまいだものね…。
前の自分が祈り続けても、何処からも救いは来なかったけれど。
シャングリラに天使は舞い降りては来ず、神の手も差し伸べられなかったけれど。
神があえて自分たちを試していたのだったら、わざと突き放していたのだったら。
「…ねえ、ハーレイ。前のぼくにも天使がついていたのかな?」
誰にでも守護天使がついているって言うけど、前のぼくにもいたのかな…?
前のぼくは一度も会えなかったし、天使がいるって信じられるようなことも起こらなくって…。
ホントにいるのか心配になったくらいだけれども、天使はちゃんとついてたのかな…?
「いたと思うぞ、姿は一度も見えなくてもな」
お前がメギドに飛んで行った時も、天使は一緒に行ったんだろう。
そうしてお前を最後まで守って、ついていたんだと思うがな…。お前が倒れてしまわないよう、隣で支えていたかもしれん。お前は酷く弱っていたのに、あれだけのことが出来たんだから。
「…そうだね、支えてくれてたのかもね…」
ハーレイの温もりを失くしちゃうほど痛かったんだし、気絶していたって不思議じゃないもの。
なのに最後まで頑張れた力、天使が隣で支えてくれてたお蔭かも…。
ぼくは気付いていなかったけれど、ホントはメギドで独りぼっちじゃなかったんだね。
天使が一緒にいてくれたんだね、メギドまで一緒に来てくれたくらいに頼もしい天使。真っ白な翼が煤だらけになっても、汚れちゃっても、ぼくと一緒にいてくれた天使…。
天使の翼や純白の衣に、メギドの中で舞い上がった煤がつくのかどうかは分からないけれど。
前の自分がサイオンで砕いた床や通路の塵を浴びても、天使の翼や衣は真っ白なままで、眩しいくらいに輝いていたかもしれないけれど。
前の自分にも、ついていたらしい守護天使。メギドで命が尽きる時まで。
「…今も守護天使はいるのかな?」
今のぼくにもついているかな、真っ白な翼を持った天使が。
「うむ。きっと前のと同じヤツがな」
天使に向かってヤツって言うのもどうかと思うが、人でもないし…。同じお方じゃ固すぎるし。
前のお前と同じ天使がついていそうな気がするな、俺は。
「ホント?」
前とおんなじ天使がぼくに…?
今だって側についててくれるの、今のぼくは前よりずっと弱虫になっちゃったのに…。
「そんなお前だからこそ、同じ天使でなくっちゃな」
きっと同じだと思っちまうわけだ、お前が幸せになれるのを見届けようとしていそうだな、と。
天使にしたって、きっと気掛かりってヤツだと思うぞ、前のお前がああなったから。
今度こそ幸せになってくれないと、と名乗り出そうだと思うんだよなあ、神様が守護天使を誰にするかを考えてた時に。
私がやります、って誰にも役目を譲ろうとせずに、今度もお前の守護天使をしていそうだぞ。
メギドでも支えてくれる天使だ、守護天使としては最強じゃないか。
それが今度は幸せになれる道へ向かって、お前を支えてくれるってな。
最強の天使が真っ白な翼を大きく広げて、俺たちの結婚式までお前を連れて行ってくれるさ、とハーレイが優しく微笑むから。
間違いなく前と同じ天使がいるに違いない、と言ってくれるから、守護天使は今も見守っていてくれるのだろう。
前の自分をメギドで支えてくれていた天使。力尽きて倒れてしまわないよう、最後まで隣にいてくれた天使。
きっと、その天使が青い地球まで自分を連れて来てくれた。
ハーレイと二人で生きてゆける場所へ、前の自分が焦がれた地球へ。
天使の姿は見られないけれど、自分の目には見えないけれど。
きっと今度こそ、幸せになれる。
最強の天使が結婚式まで導いて行ってくれるのだから。
ハーレイと二人で歩き出す日へ、手を繋ぎ合って共に歩み出す日へと。
前の自分にもついていた天使。真っ白な翼の頼もしい天使が、今も守ってくれるのだから…。
守護天使・了
※シャングリラの頃には、現れなかった守護天使。神の奇跡も起こらないいまま終わった時代。
それでも守護天使は、前のブルーの側にいたのでしょう。同じ天使が、今のブルーにも…。
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