シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(余っちまったな…)
こいつだけが、とハーレイが袋から出したハンバーガー。
ブルーの家には寄れなかった日、家に帰って。着替えを済ませて、ダイニングのテーブルの上にポンと置いてあった袋の中から。きちんと包装されたハンバーガーが一つ。特に変わった中身ではなくて、ごくごく普通のハンバーガー。
学校に行けば、授業の前に柔道部の朝練の指導がある。走り込みなどに自分も付き合って身体を動かす、そういう方針。指導する者がのんびり見ているだけでは、部員たちも力が入らないから。
(それに、俺だって身体を動かしたいしな?)
早く起きた日は出掛ける前に軽くジョギングするほどの運動好き。逃したくない、自分も身体を動かせるチャンス。放課後は柔道部を本格的に指導するから、運動の量は毎日、充分。
会議で柔道部に行けそうにない日は、朝から存分に動いておく。
だから帰りにブルーの家へ出掛けて行っても、運動不足になったりしないし、なまらない身体。ジムに出掛けて泳いだりして、常に鍛えてある身体。
朝からキビキビ運動する上、放課後も身体を動かす毎日。昼食だけでは腹が減るから、と出勤の途中で買ってゆくパン。近所の馴染みのパン屋で買ったり、食料品店で買ってみたりと。
その日の気分でサンドイッチや、調理パンなど色々なパン。新作があったら買い込むけれども、特に定番があるわけでもない。好き嫌いが無いから、どんなパンでも食べられる。
今日は柔道部の教え子たちにも御馳走しようと多めに買った。放課後の方のクラブ活動、それを途中で抜けなければならないと分かっていたから。一時間ほど経った所で、会議のために。
最後まで指導してやれない詫びだ、と差し入れに買って行ったのに。部員たちの頭数を勘定して買ってやったのに…。
(今日に限って、休みやがって…)
家の都合ということだけれど、きっとサボリだと踏んでいる。
三人も足りなかったから。部活以外で見掛けた時にも、いつも一緒にいる仲良し組が。
(怒りはしないが…)
遊びたい盛りの年頃なのだし、出掛けたくなる日もあるだろう。それに練習をサボって損をしたことにも気付かないのが彼らの年齢。重ねた稽古の分だけ力がつくと知るには、まだ早い。
サボリで損をしているのは彼ら、だから自分は怒りはしない。いずれ自分で気付くがいいと。
咎める気持ちは起こらないけれど、「余っちまったじゃないか」と眺めるハンバーガー。袋から出されて、テーブルの上にポツンと一個。
差し入れに持って行った幾つものパン、この一個だけが残ってしまった。ハンバーガーは他にもあったものだから、選ばれなかった不運な一個。たまたま手に取って貰えなかっただけ。
(仕方ないがな…)
食べ盛りの教え子たちが揃ってはいても、元が多めに買ってあったパン。一人で幾つも欲しがる生徒もいるわけなのだし、おかわり用にと。
そこへ三人も休んだのでは、こうなることもあるだろう。選ばれ損ねたハンバーガー。
残った理由はハンバーガーのせいなどではない。ほんの偶然、教え子たちの気分でそうなった。もう一個、と思った生徒がハンバーガーを選んでいたなら、他のが残った筈だから。
あるいは最初にハンバーガーを選ぶ生徒が多かったならば、やはり残っていないから。
少し不運なハンバーガー。冷めても美味しい、人気の高いものなのに。
(晩飯に食うか…)
夕食の支度を始める前に、このまま齧ってもいいのだけれど。
それでは残ったハンバーガーが可哀相だし、きちんと味わってやろうと思った。買ってしまった責任を取って、美味しく食べてやらなければ。
ちょっとお洒落に皿に載せれば、これも一品になるのだから。
手際よく夕食を作ってテーブルに並べ、ハンバーガーを温め直した。出来立ての風味を出すにはこのくらい、と様子を見ながら。
温まったそれを皿に盛り付け、椅子に腰掛けて…。
(ナイフとフォークの出番だってな!)
そうして食べれば、ハンバーガーでも立派な一品。手で持つ代わりにナイフとフォーク。
たまにこういう洒落た店がある。ハンバーガーを注文したなら、ナイフとフォークを添えて出す店。それを使って切り分けながら食べるのもいいし、食べやすく切って手に持ってもいい。
マナーにうるさくない店だったら、二つに切ってから齧り付くのもオツなもの。
(いつかはブルーと…)
そういう店に行くのもいいな、とナイフで切ったハンバーガー。
今日はフォークを使って食べよう、と手は使わないで頬張っていたら。
こうして食べれば随分違うと、同じハンバーガーとも思えないな、と笑みを浮かべてフォークで口へと運んでいたら…。
(…ん?)
あいつと食ったか、と不意に頭を掠めた記憶。
小さなブルーとハンバーガーを、と。
いつか行きたいデートではなくて、二人で食べたような気がする。こんな風に、と。
皿に載せられたハンバーガー。添えられていたナイフとフォークで。
(ハンバーガーを買って行ってはいない筈だが…)
ブルーへの土産に買ってはいない。わざわざ買って持って行くほど珍しくもないものだから。
前の自分たちが生きた時代の思い出も無いし、ハンバーガーを土産にする理由が無い。
(土産に持って行かなきゃ出ないぞ、ハンバーガーは)
料理が得意なブルーの母。ブルーの好物ならばともかく、そんな話を聞いてはいない。大好物で食べたがるなら別だけれども、そうでなければハンバーガーなど出て来ないだろう。
凝った中身のハンバーガーも多いとはいえ、来客向けではない料理だから。
それが売り物の専門店にでも行かない限りは、洒落た料理とは呼べない代物。
だから一度も食べてはいないと思うのだけれど、何故か食べたと記憶がざわめく。
ブルーと一緒に、ハンバーガーを。
今と同じにナイフとフォークで、少し気取った食べ方で。
(いったい何処で食べたんだ…?)
小さなブルーの家で食べてはいないのだったら、可能性があるのはシャングリラ。前のブルーと暮らしていた船、前の自分が舵を握ったシャングリラしか有り得ない。
(しかしだな…)
シャングリラにはハンバーガーなどは無かった筈で、ナイフとフォーク付きともなれば尚更。
無い筈の食べ物を皿に盛り付け、ナイフとフォークで食べたことなど…。
(どう考えても、あったわけが…)
ないじゃないか、と正した勘違い。何かと混同したのだろうと。
今の自分も三十八年も生きているのだし、積み重ねて来た記憶のどれか。ブルーくらいの年頃の教え子たちと食べに出掛けたとか、そういったものと。
対外試合の帰りに食事に行くことも少なくないから、ハンバーガーをリクエストされたことでもあるのだろう。豪華版のが食べたいと。
きっとそうだ、とハンバーガーをナイフで切ろうとした途端。
(違う…!)
シャングリラだった、と鮮やかに蘇って来た遠い遠い記憶。
あの船でハンバーガーを食べたと、こうやってナイフとフォークで切って、と。
忘れ果てていた前の自分の思い出。キャプテン・ハーレイが食べたハンバーガー。
事の起こりはファーストフードを巡る雑談、白いシャングリラが出来上がってから。自給自足で生きてゆく船、白い鯨の生活が軌道に乗ってから。
長老と呼ばれたヒルマンたち四人と、前の自分とブルーが集まった会議。終わった後も会議室で雑談していた所からして、定例の会議だったのだろう。
どうしたわけだか、ファーストフードの話になった。通貨さえも無いシャングリラでは出来ない買い食い、街角で買って食べたりするのがファーストフード。ヒルマンが仕入れて来た知識。
「フィッシュ・アンド・チップス?」
なんだいそれは、と尋ねたブラウ。名前からして魚のように思えるけれど、と。
「白身魚のフライと、ジャガイモを揚げたものとがセットになっていたようだよ」
魚は主にタラだったらしい、と答えたヒルマン。
SD体制が始まるよりも遥かな昔の地球のイギリス、その国の路上で売られていたもの。買うと新聞紙や専用の紙に包んで渡され、熱々のフライを歩きながら、もしくは座って食べた。きちんとした場所に座るのではなく、公園のベンチなどの手軽な場所で。
早い話が、気の向いた時に、気の向くままに食べていいのがファーストフード。
小腹が空いたと思ったら買って、その場で食べてもかまわないもの。
フィッシュ・アンド・チップスが好まれた頃より後の時代は、ハンバーガーが取って代わった。地球の上にあった大抵の国に広がったというハンバーガー。お国柄に合わせて味付けを変えて。
「ハンバーガーねえ…」
どんな感じの食べ物なんだい、とブラウは興味津々で。
「平たく言えば、専用のパンにハンバーグを挟んだものなんだがね…」
今の時代もあるようだよ。遠い昔と似たような見た目の、ハンバーガーという食べ物がね。
人類の世界に行ったならば、と笑ったヒルマン。
雲海の下のアルテメシアに降りれば売られているだろうと。
ただし、ハンバーガーを食べる時にはナイフとフォーク。行儀よく皿の上で切って、と。
「ナイフとフォークじゃと?」
歩きながら食べる話はどうなったんじゃ、と髭を引っ張ったゼル。
それではテーブルが無いと食べられそうにないし、ファーストフードらしくないんじゃが、と。
「今の時代に合うと思うかね? その食べ方が」
マザー・システムが許しそうかね、何処でも此処でも、気の向くままに食べることなど。
社会の秩序とやらが乱れてしまって、良くないと言われそうだがね?
好きな時に好きな所で食べてもいい社会ならば、成人検査も必要ないんじゃないのかね。社会のルールを叩き込むのがマザー・システムで、我々は弾き出されたのだよ?
「言われてみれば、その通りだねえ…」
なんでもかんでも、型にはめなきゃ気に入らないのがマザー・システムってヤツだったっけ。
たかが食べ物のことにしたって、人間が自由にしていい世界はお気に召さない仕組みなんだね。
あたしは嫌だね、そんな世界は。
息が詰まるったらありやしないよ、食べる自由も無いだなんてね。
とんでもないよ、と肩を竦めていたブラウ。
実際の所は、ハンバーガーを食べる自由が無かったわけではないけれど。食べたくなったら店に行けばいいし、人類たちはハンバーガーの味を充分に満喫出来たのだけれど。
そうは言っても、ファーストフードだった時代のように何処でも食べていいわけではない。道を歩きながら齧る代わりに、皿に載せられたものをナイフとフォークで行儀よく。
たまには手に持ってガブリと齧る子供もいるだろうけれど、あくまで店の中でだけ。店の外では出来ない食べ方、マナー違反になってしまうから。
時代の流れが変えてしまった、ハンバーガーの食べ方なるもの。
昔と同じに存在するのに、ファーストフードと呼ばれていた頃の面影を失くしたハンバーガー。
ヒルマンが言うには、SD体制の時代でなくても、食べる作法は時代に合わせて変化した。
ハンバーガーの話とは違うけれども、皿という食器が普及する前は、人間はパンを皿の代わりに使ったらしい。料理はパンに盛り付けて出され、最後はパンまで食べておしまい。
ナイフやフォークが無かった時代は、王侯貴族も料理は手づかみ。その食べ方が普通なのだし、マナー違反では決してなかった。後の時代の人間が見たら、信じられないと驚くだけで。あれでも王様なのだろうかと呆れるだけで。
そんな具合だから、ハンバーガーの食べ方にしても、SD体制に入る前からナイフとフォークで食べる方法はあったという。ファーストフードとは少し違ったハンバーガー。特別な具材を使ったものとか、手で食べるには些か大きすぎたハンバーガーだとか。
マザー・システムが編み出した食べ方ではない、ナイフとフォーク。
それに限定されたというだけ、歩きながら自由に食べる代わりに。
雑談の種だったファーストフードから、ハンバーガーへと変わった話題。
遠い昔に地球の上で広がり、今も食べられているハンバーガー。食べ方が少々変わった程度で、ハンバーガー自体はさほど変わっていないと言うから。今でも人気らしいから。
「あたしたちも食べていたのかねえ?」
記憶をすっかり失くしちまって、ハンバーガーって聞いてもピンと来なかったけれど…。
今も人類が食べてるんなら、あたしたちだって、成人検査の前には食べていたんだろうか…?
「そう思うがね?」
我々が子供だった頃にもハンバーガーはあった筈だし、きっと食べてもいただろう。残念ながら記憶を失くして、何も覚えていないだけでね。
「ふうむ…。そうなると、一度、ハンバーガーを食べてみたいもんじゃのう…」
食べた所で、記憶は戻って来ないんじゃろうが…。食べた筈だと聞かされるとのう…。
どんな味だか気になるわい、とゼルが言い出し、ブラウも食べたそうだったから。
二人の表情を見ていたブルーが「作れるのかい?」と口を開いた。
「専用のパンと、ハンバーグだと言っていたけれど…。それはシャングリラで作れそうかい?」
作れるのなら、作ってみるのも悪くはないと思うんだけどね?
手間がかかるなら、一度きりでもいいだろう。
ゼルとブラウは食べたいわけだし、この船に来た子供たちには思い出の味になるのだし…。
作ってみる価値はありそうだけどね、ハンバーガー。
出来るものなら作ってみよう、と他ならぬソルジャーの提案だから。
食べたかったゼルとブラウは賛成、ヒルマンもエラも反対を唱えはしなかった。前の自分も。
何より、子供たちが喜びそうな企画。
ヒルマンが調べたデータを参考にして厨房のスタッフたちが頑張り、ハンバーガーは完成した。船の仲間たちの数に合わせて、山のような数のハンバーガーが。
せっかくだからと、普段は青の間で食べるソルジャーまでが一緒の食事。視察よろしく、食堂を見渡せる場所のテーブルに着いて、同席したのは前の自分だけ。
そうして出されたハンバーガー。今の時代に合わせて皿に載せられ、ナイフとフォークを添えた形で。記憶を失くしていない子供たちには、それがハンバーガーの食べ方だから。
ハンバーガーを覚えていた子供たちは皆、歓声を上げて喜んだ。シャングリラでハンバーガーを食べられるなんて夢にも思っていなかった、と。
食べた記憶を全く持たない仲間たちも…。
「へえ…。俺たちは昔、こういうのを食っていたっていうのか…!」
何処にでもあるって言うんだったら、間違いなく食べた筈だよなあ…。
「そうだよな、思い出せないけどな」
何度も食べていたんだろうなあ、十四年間は普通に生きていたんだし…。
なのに全く覚えてないって、機械ってヤツは酷いもんだな。記憶を奪ってしまうなんてな。
思い出せないのが残念だ、と誰もが見ていたハンバーガー。食べる前にと、じっくりと。
そこへヒルマンが、「遠い昔には手で食べていたものだった」と始めた説明。
SD体制の時代に入ってナイフとフォークに決まったけれども、元々は手に持って食べたもの。その時代にもナイフとフォークで食べたとはいえ、主流は手だ、と。
それを耳にした仲間たちは皆、ハンバーガーを手に取った。断然こうだ、と。
食べ方は忘れてしまったのだし、マザー・システムが決めたマナーなど知ったことではないと。手に持った方が食べやすそうだと、サンドイッチのようなものなのだし、と。
ナイフとフォークで食べる子供たちを他所に、ハンバーガーに齧り付いていた仲間たち。
大きく口を開けて「美味しい」と顔を綻ばせるのを、前のブルーも見ていたけれど…。
おもむろにナイフとフォークを手にしたブルー。ハンバーガーを手に取る代わりに。
何故、と驚いたものだから。
「…それでお召し上がりになるのですか?」
皆、手に持って食べているというのに、どうしてナイフとフォークなどを…。
あなたはマザー・システムを他の者たち以上に、酷く憎んでおいででしょうに。
「それは確かにそうなんだけれど…」
マザー・システムに従うつもりは無いんだけれども、この手袋じゃね…。
食べても問題無いんだろうけど、普通のサンドイッチと違って、中のソースが…。
これがくっついたら、どうするんだい?
拭くものを取りに行ったら済むことだけれど、ぼくが自分で行けるとでも?
「そうですね…」
あなた自身がお出掛けになったら、厨房の者たちが恐縮してしまうのは確かですね。
かと言って、私が代わりに取りに行っても、結果は同じことですし…。ソルジャーへの気配りが足りなかったと慌てる姿が見えるようです。
持って来てくれと頼んだとしても、やはり謝られてしまうのでしょうね…。
ブルーが言うことは正しかった。ソルジャーの正装の一部の手袋、それは人前では外さない。
素手でハンバーガーを持つことは出来ず、ソースがついても舐め取れもしない。他の仲間たちは指の汚れも気にしないけれど、ブルーの場合はそうはいかない。
汚れたからと拭きに行ったら、ナイフとフォークしか用意しなかった者たちが謝るから。
食事が済んでも早々に席を立てはしないし、洗いに行くことも出来ないから。
それでナイフとフォークなのか、と納得せざるを得なかった。マザー・システムが人間に強いた食べ方なのだと分かってはいても、手袋のせいで手で食べる道を選べないのかと。
「…ハーレイも手で食べないのかい?」
君は手袋をしていないのに、とブルーは目を丸くしたのだけれど。
ソースがついたら舐めてくれてもかまわないのに、と言ってくれたのだけれど。
「あなたにお付き合いさせて頂きますよ」
子供たちはともかく、大人たちは皆、手で食べている者ばかりですし…。
一人くらいはソルジャーと同じに、ナイフとフォークで食べる者がいないと寂しいでしょう。
手で食べたならばどんな具合か、あなただけがお分かりになれないのでは…。
私も分からないままにしておくことにしますよ、キャプテンですから。
我慢するのは慣れていますからね、あなたと同じで、このシャングリラでの立場のせいで。
長老として皆を束ねる立場のゼルもブラウも、ハンバーガーを手で食べていたのに。
ヒルマンも手に持って齧り付いていたし、日頃は礼儀作法にうるさいエラでさえも迷いなく手を使っていたのに、ナイフとフォークで食べていたブルー。
「この手袋では仕方ないから」と、けれども、それを顔には出さずに。
自分の流儀はこうだとばかりに、涼やかな顔でハンバーガーを口へと運んだ。自分には似合いの食べ方だからと言うように。この食べ方が気に入っていると、これが好きだと。
あまりにも自然に食べていたから、誰一人として気付かなかった。ブルーがナイフとフォークを使っていたことに、手を使ってはいなかったことに。
それに付き合った前の自分。ブルーと同じに、ナイフとフォークで食べたハンバーガー。
二人揃ってナイフとフォークを使っていたから、余計に目立たなかったのだろう。食事の後にも誰からも訊かれはしなかった。
ナイフとフォークで食べたのは何故かと、手を使わなかったことに理由はあるのかと。
誰もが思い込んでいた。ハンバーガーは皆、手で食べていたと。
その習慣が無い、ナイフとフォークで育った子供たち以外は、皆、手だったと。
(そうだったっけなあ…)
白い鯨にハンバーガーはあったのだった、と思い出した。
多分、あの時だけだろう。あれよりも後に作ったとしても、定番のメニューになってはいない。前の自分の記憶には無いし、あっても今は思い出せない程度の代物。
けれども、白いシャングリラの思い出が詰まった食べ物。一度きりしか出なかったとしても。
前のブルーが本当の意味では味わい損ねた、皆が手で食べたハンバーガー。
常にはめていた手袋のせいで、ナイフとフォークで食べるしかなかったハンバーガー。
前の自分はブルーに付き合えるだけで幸せだったし、ナイフとフォークで良かったけれど。損をしたとは微塵も思っていなかったけれど、ブルーの方はどうだったのか。
(…あいつだって、きっと…)
ソルジャーとしての自分を厳しく律していたから、恐らく苦ではなかっただろう。
厨房で働く仲間たちの心を思い遣っての、自然と選んだ道だったろう。
そうは言っても、前のブルーは食べ損なった。皆が喜んで手で食べていたハンバーガーを。
(…今のあいつは、何度も手に持って食べてるんだろうが…)
思い出したからには、ハンバーガーを手で食べられる時代だと教えてやりたい。
ナイフとフォークで食べた時代はとうに終わって、ブルーの手にも今は手袋は無いのだと。
今の時代はハンバーガーは手で食べるもので、洒落た店でだけナイフとフォーク。
週末にブルーの家に出掛ける時には、持って行ってやろう、ハンバーガーを。
柔道部員の教え子たちに差し入れてやっても残るくらいに、当たり前になった食べ物を。
そう決めたことを、土曜日になっても覚えていたから。
忘れずに心のメモにあったから、ブルーの家へと歩いて出掛ける途中にハンバーガーが美味しい店に立ち寄った。色々な種類があるのだけれども、一番ありふれたハンバーガーを。
白いシャングリラで食べたハンバーガー、それと同じにシンプルなものを。
二つ買って袋に入れて貰って、生垣に囲まれたブルーの家に着いて。
門扉を開けに来てくれたブルーの母に、ハンバーガー入りの袋を渡して頼んだ。
「これを昼御飯に出して頂けますか?」
お手数をおかけしますが、お皿に移して、ナイフとフォークを付けて頂いて。
「ええ、もちろん。でも…」
ブルーはこのままでも食べられますわよ、普段はそうしていますもの。
家で作りはしませんけれども、お友達と一緒に買って食べたりしている時は。
「いえ、それが…。シャングリラの思い出なんですよ」
ナイフとフォークで食べるというのが大切なんです、ハンバーガーを。
「え…?」
シャングリラではナイフとフォークでしたの、ハンバーガーを食べる時には…?
「そういう時代ではあったんですが…。シャングリラでは違いましたね」
皆、手を使って食べていました。私の記憶にあるのは一度だけですが…。
けれど、その時、ブルー君はナイフとフォークでしか食べられなかったんです。
ソルジャー・ブルーの衣装はもちろん御存知でしょうが、あの衣装とセットの手袋のせいで。
「あらまあ…!」
確かに手袋をはめたままでは、ハンバーガーは手では食べられませんわね…。
あの手袋がどういう素材だったかは知りませんけれど、感覚は手と同じだったと聞きますし…。
そんな手袋なら、ハンバーガーのソースもくっつきますわね、弾く代わりに。
ブルーの母は笑顔で快く引き受けてくれた。ナイフとフォークをつけることを。
それからブルーの部屋に行ったら、案の定、お土産を待っていたブルー。二階の窓から見ていて袋に気付いたのだろう。お菓子か何かに違いないと。
「そう慌てるな」と、「昼飯まで待て」と言ってやったら、ブルーは何度も時計を眺めて。
やっと訪れた昼食の時間、温め直されて運ばれて来たハンバーガーが載った皿。頼んだ通りに、ナイフとフォークも添えてあるから。
「えーっと…?」
ハーレイのお土産、ハンバーガーだったってことは分かったけれど…。
なんでナイフとフォークなの?
この大きさなら、ナイフとフォークを使うよりかは、齧った方がいいんじゃないの?
それともハーレイ、お行儀よく食べるのが好きだとか…?
「いいから、そいつで食ってみろ」
ナイフとフォークで食べる方法も知ってるんなら、丁度いい。
あの手の店のヤツとは違うが、こいつも充分、ナイフとフォークで食べられるからな。
「うん…」
ハーレイがそういう風に言うなら、ナイフとフォークに意味があるんだね?
お行儀のことかな、齧った方が食べやすそうな気がするんだけどな…。
絶対に齧った方が早い、とナイフとフォークで切っているブルー。
今の時代は手で食べるのが当たり前になったハンバーガーを。よほど大きいとか、中身が凝ったものを出す店でなければ、ナイフとフォークは使わないものを。
それを一口サイズの大きさに切って、不思議そうに口に運んでいるから。この食べ方にどういう意味があるのかと、しきりに首を傾げているから。
「そうやって食ったら、何かを思い出さないか?」
ナイフとフォークで切って食ってたら、思い出しそうなことは何か無いのか?
「思い出すって…。何を?」
ハンバーガーだよ、シャングリラには無かったと思うんだけど…。
前のハーレイとは食べていないと思うんだけどな、ハンバーガーなんか。
「本当にそうか? …俺もそうだと思い込んでたし、無理もないがな」
お前、今だとナイフとフォークを使わなくてもいいわけで…。
わざわざ面倒なことをしなくても、手に持ってガブリと齧れるんだが?
「…んーと…。手でって…。ナイフとフォークって…」
そっか、前のぼくが食べていたんだ、ナイフとフォークで…!
他のみんなは手で食べてたのに、ぼくは手袋をはめていたから…。
手袋をはめたままで手で食べちゃったら、厨房のみんなに迷惑をかけてしまいそうだ、って…!
思い出した、とブルーは顔を輝かせた。シャングリラにもハンバーガーがあったっけ、と。
「あの時だけかもしれないけれど…。他には思い出せないんだけど…」
ハーレイが付き合ってくれたんだっけね、ナイフとフォークで食べるのに。
ぼく一人だと寂しいだろう、って、ハーレイも手では食べなかったよ。
…ごめんね、ぼくに付き合わせちゃって。
あの時も後で謝ったけれど、思い出したから、今も謝らなくちゃ。
ハーレイだって手で食べたかっただろうに、前のぼくのせいで食べ損なってしまったんだから。
「なあに、そいつは気にしなくてもいいってな」
前の俺もお前に言った筈だぞ、俺はお前と一緒なのが嬉しかったんだ。
食べ損なったとも、損をしたとも思っちゃいないさ、今でもな。
…それでだ、前の俺たちが手では食べ損なったハンバーガーだが…。
今度は遠慮なく手で食えるんだぞ、ナイフとフォークの時代はとっくに過去だってな。
過去の過去へと戻った時代と言うべきなのかもしれんが、今じゃ手に持って食うのが普通だ。
洒落た店にでも行かない限りは、ナイフとフォークはつかないだろうが。
「ホントだね…!」
何処でも手に持って食べるものだよね、ハンバーガー。
それに、お店で買って出て来て、歩きながら食べても叱られないし…。
公園のベンチとかで食べていたって何も言われないし、ハンバーガー、昔に戻ったんだね。
前のぼくたちが生きてた頃より、ずうっと昔に。
ヒルマンが話をしてた通りに、今のハンバーガーはファーストフードになってるものね…!
だから手で食べてもかまわないよね、とブルーが訊くから、「もちろんだ」と応えてやって。
面倒なナイフとフォークは放り出しておいて、二人で頬張ったハンバーガー。
ブルーは手袋をはめていない手で、自分は前の自分だった頃と同じに手袋の無い手で。
ナイフとフォークを使わずに食べるハンバーガーの味は格別だけれど。
前の自分たちの記憶がある分、本当に美味しく思えるけれど。
ハンバーガーにナイフとフォークを添えて出す店は、今の時代もちゃんとあるから。こだわった素材で料理とも呼べるハンバーガーを作る洒落た店だって、幾つもあるから。
「前のお前は、仕方なくナイフとフォークで食ってたわけだが…」
今度のお前は、ナイフとフォークで食うのが普通なハンバーガーの店も知ってるようだしな?
いつか食事に連れて行ってやろう、そういう店へも。
俺と二人なら、シャングリラの思い出もちゃんとある分、ハンバーガーの美味さが引き立つぞ。
あの船で食ったヤツより美味いと、これはハンバーガーと呼ぶより料理だよな、と。
「…お店でも手で食べていい?」
ナイフとフォークがついていたって、手で食べちゃってもいいのかな?
パパやママとお店に行った時には、そういうものだと思ってたからナイフとフォークで食べてたけれど…。
前のぼくのことを思い出したら、手で食べたいな、っていう気がするんだけれど…。
「どうだかなあ…」
ナイフで切ってから、手に持つっていう食べ方はあるし、まるで駄目でもないだろう。
手で食べてみてもいいですか、と訊いてからなら、いいんじゃないか?
マナー違反にならない店なら好きにすればいい、と微笑んでやった。
前のお前が食べ損ねた分まで、存分に手で食べればいいさ、と。
「じゃあ、そうする!」
お店だったら、手を拭くものを出してくれるしね、頼まなくても。
前のぼくみたいに遠慮しなくても、お店のサービスにちゃんと入っていそうだもの。
「違いないな。店に入ればサッとテーブルに置かれるからなあ、おしぼりとかが」
手を拭けるものは最初からテーブルの上に出てくるもんだ、と。
ならば、お前が手に持って食べても許される店を探すとするかな、ハンバーガーの店。
うんと美味くて、雰囲気もいい店をゆっくり探しておこう。
お前が両手で持って齧れるくらいに、ボリュームのある店もいいよな、食べ切れなくても。
残しちまったら、俺が綺麗に食ってやるから。
「うんっ!」
いつか行こうね、ハンバーガーのお店。
こういうハンバーガーもいいけど、シャングリラのよりも、ずっと素敵なハンバーガー。
それを二人で手で食べられるお店、いつか二人で行かなくっちゃね…!
前のハーレイだって手では食べ損なったんだから、とブルーは気にしているけれど。
損をした気は、前の自分も今の自分もしていない。
ブルーに合わせてやれたということ、それだけで充分だったから。
前の自分は、幸せな気持ちに包まれて食べていたのだから。
ナイフとフォークを使って食べていた、白いシャングリラのハンバーガー。
今は手で食べるのが普通の時代になったから。
洒落た店でも、手で食べることを、多分、断られはしないから。
いつかブルーが大きくなったら、好きなだけ食べさせてやろう、ハンバーガーを。
もう手袋など要らない手で。手袋をはめていない手で。
前のブルーが焦がれ続けた青い地球の上で、こだわって作られた美味しいハンバーガーを。
きっと幸せの味がする。
ブルーと二人で、手に持ってそれを食べたなら。
前の自分たちが使ったナイフとフォークは、今は要らない時代だから…。
ハンバーガー・了
※シャングリラの食堂で、一度だけ出たハンバーガー。ナイフとフォークを添えた形で。
けれど手で食べた船の仲間たち。前のブルーは出来ませんでしたが、今の時代なら大丈夫。
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