シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「ママ、お土産だ」
ただいま、と帰って来た父の手に薔薇の花束。真紅の薔薇が何本くらいあるのだろうか。それは大きな、リボンまでついた立派な花束を抱えている父。子供のように楽しそうな笑顔で。
ブルーもたまたま部屋から下りて来た所だったから、何事なのかとビックリしたけれど。
母の方はもっと驚いたようで、目をパチパチと瞬かせて。
「…今日は記念日だったかしら?」
ごめんなさい、私、忘れているかも…。ごくごく普通の夕食なのよ、今日も。
「記念日っていう感じだろう?」
ほら、と父が手渡した薔薇の花束。両手で受け取った母は途惑いながら。
「何の日だったの、本当に思い出せないんだけれど…」
こんなに素敵な花束を貰う資格が無いわね、私ったら。だって、忘れているんだもの。
「いや、記念日っぽいというだけでだな…」
そういった風に束ねて貰って、リボン付きでと頼んだんだ。記念日じゃないさ。
帰りに花屋が目に付いたからな、たまにはプレゼントもいいだろうと…。
いつもママには世話になっているし、料理だって、うんと美味しいからな。
「あらまあ…。それで花束のお土産なの?」
凄く大きいわよ、この花束。三十本どころではないでしょ、薔薇。
「安かったからな」
仕入れすぎたのか、たまたま安い時期だったのか…。
店の表に書いてあったのさ、特売だって。それで入って買ったってわけだ。
買わなきゃ損ってモンだろう。どの薔薇も安かったんだから。
本当に薔薇が特売だったかどうか、それは父にしか分からないけれど。
プレゼントして驚かせようと定価で買って帰ったのかもしれないけれども、笑っている父。特売だったから豪華に五十本だと、同じ薔薇なら華やかな真紅がいいだろうと。
大喜びで花束を抱え、香りをたっぷり吸い込んだ後はリボンを解いて生けてゆく母。
薔薇たちが映える大きな花瓶に手際よく入れて、飾ったリビング。ダイニングの大きなテーブルにも一輪、特に美しく見えそうなものを選び出して。
「記念日でもないのに花束だなんて、嬉しいものね。ありがとう」
これだけ沢山貰ってしまうと、今日は特別って気分になるわ。まるでお姫様になったみたいよ。
「そうだろう?」
だから買ったのさ、日頃の感謝の気持ちをこめて。
安売りっていうのに気付いたからには、ドカンと買って帰らないとな。うんと豪華に。
薔薇が一輪あるというだけで、いつもより華やかだった夕食のテーブル。
ハーレイの姿は無かったけれども、笑顔が溢れていた食卓。
少女のようにはしゃいでいた母、父もサプライズが上手く行ったと満足そうに薔薇を見ていた。テーブルに飾られた真紅の薔薇を。
ダイニングのテーブルには、母が育てた薔薇が飾られる日もあるけれど。庭の花たちもハサミで切られて生けられるけれど、あれだけの花束の中から選ばれた薔薇は特別に見える。
今、地上にある真紅の薔薇たちの女王。それがテーブルに誇らかに咲いているかのように。
(…パパ、凄いのを買って来たよね…)
五十本の薔薇の花束なんて、とパチクリと何度もした瞬き。記念日でもないのに特大の花束。
薔薇の香りはリビングに満ちて、ダイニングに飾られた一輪からも漂っていて。
家の空気までが薔薇の香りに染まったかのようで、それは素敵な父の贈り物。五十本の薔薇。
母が庭で育てている薔薇たちでは、あそこまで惜しげもなくは切れない。そんなに沢山の薔薇を切ったら、庭に一輪も残らないから。残ったとしても、哀れな姿になるだろう薔薇の木。
庭に薔薇の花が咲いていたって、特別すぎるプレゼント。
艶やかに部屋を彩る薔薇たち、漂う香りと、喜ぶ母と。
夕食の後は部屋でのんびりしてから、入ったお風呂。パジャマに着替えてベッドの端っこに腰を下ろしたら、また思い出した薔薇の花束。「お土産だ」と母に渡していた父。香り高かった真紅の薔薇たち、見事な薔薇が五十本も。
(流石に二階までは…)
あの薔薇たちの匂いも届かないかな、と思ったけれど。薔薇の香りを含んだ空気は一階だけかと考えたけれど、気付いた間違い。
両親の部屋にも一輪飾ってあるのだった。母が嬉しそうに運んで行っていた、「これはお部屋に飾っておくわね」と。両親の部屋の扉を開けたら、薔薇の香りがするのだろう。部屋の何処かに、真紅の薔薇。五十本の中から選ばれた薔薇。
(あれだけあったら…)
上手に分ければ、家のあちこちに飾れるだろう。
リビングの花瓶にドッサリ生けても、他にも幾つもの使い道。ダイニングのテーブルと、両親の部屋に一輪ずつ飾ってあるように。一輪ずつでも華やかな薔薇。
(…ぼくの部屋には無いけどね?)
その気になったら貰えただろうに、欲しいかどうかも訊かれなかった。薔薇は沢山あったのに。
欲しかったとも、残念だとも思いはしないけれども、仲間外れになってしまった。この部屋には薔薇が一輪も無くて、薔薇の香りも漂いはしない。
(…子供だし、それに男の子だし…)
多分、普通は訊かないと思う。「薔薇の花、部屋に持って行く?」とは。
それに欲しがりもしないだろう。男の子の場合は、薔薇の花など。
(ピアノとかの発表会に出て、貰ったとしても…)
興味など無いのが男の子だろう、貰った花束の中身には。薔薇であろうと、他の花だろうと。
花束を貰って得意満面でも、たったそれだけ。花の香りや美しさよりも、鼻高々な気分が大切。花束を抱えて記念写真を撮った後には、母親に生けて貰っておしまい。
花束の形を失った花は、男の子の目を楽しませたりはしないだろう。美しく香り高く咲こうが、部屋を豊かに彩ろうが。
花瓶に花があるというだけ、男の子にとっては、それだけのこと。
チラリと眺めることはあっても、花よりも遊びや食べることに夢中。花束を貰った時の嬉しさは覚えていたって、中身の花にはもはや見向きもしないのだろう。
すっかり忘れ去られていそうな、花束だった花たちの末路。元は花束だった花たち。
(ぼくが貰っても、そうなっちゃいそう…)
習い事は何もしていないけれど、もしも発表会などに出掛けて、貰ったとしたら。バイオリンやピアノや、フルートなどの発表会。上手く出来たと、見に来てくれた人に花束を貰ったら。
きっとそうだ、と思ったけれど。
花束を貰う値打ちが無いのが今の自分で、そのせいで薔薇も部屋に一輪も無いのだけれど。
(パパのお土産…)
自分の部屋にも充分飾れる量の花束、五十本もの真紅の薔薇。それを抱えて帰って来た父。
花束を貰って、「記念日だったかしら」と尋ねていた母。記念日には花束がつきものだから。
早い話が、誕生日や何かの記念日だったら…。
(花束、貰えるものなんだよね?)
今はまだ貰う値打ちも無さそうな子供だけれども、いつか大きくなったなら。
ハーレイと結婚して二人で暮らし始めたならば、きっと貰えることだろう。
母が父から貰っているように、誕生日や記念日の度に花束。
その頃には値打ちも分かる筈だし、大喜びで部屋に飾るのだろう。幾つもに分けて、リビングや他の部屋などに。薔薇でなくても、どんな花でも。
待ち遠しいと思えてしまう、自分が花束を貰える日。ハーレイが花束を贈ってくれる日。仕事の帰りに買って帰って、「ほら」と渡してくれるのだろう日。
誕生日や何かの記念日の度に。薔薇はもちろん、ハーレイが贈りたいと思ってくれた花を幾つも束ねた花束。
(前のぼくは花束、貰ってないけど…)
ハーレイとは長く一緒に暮らしていたのに、恋人同士だったのに、ただの一度も。
それにハーレイ以外の誰かも、花束をくれはしなかった。ただの一つも。
前の自分が贈られた花は、子供たちに貰った白いクローバーを編んだ花冠だけ。シャングリラの公園に咲いたクローバー、それを集めて編まれた冠。
花冠は幾つも貰ったけれども、他には貰わなかった花。誰からも贈られなかった花束。
白いシャングリラでは誰もが敬意を表したソルジャー。
なのに花束を貰ってはいない、恋人だったハーレイからも、仲間たちからも。
(エーデルワイスは…)
白い鯨に咲いていた、純白のエーデルワイス。子供たちに高山植物を教えるためにとヒルマンが作ったロックガーデン、其処で開いた「高貴な白」の名前を持つ花。
皆が摘むことを禁じられたそれを、ソルジャーだけは「摘んでもいい」と言われたけれど。
青の間に飾るために摘んで帰ってもいいと許可されたけれど、プレゼントしては貰っていない。ただの一輪も、あの船にいた誰からも。
(前のぼく、断っちゃったしね?)
ソルジャーだからと、特別扱いされたいとは思っていなかったから。
仲間たちが摘むことの出来ないエーデルワイスを、青の間にだけ飾るつもりも無かったから。
自ら摘むことを断った以上、贈ってくれる者もいないだろう。ソルジャーの部屋に飾るためにと手折ってまでは。
それに、シャングリラと呼ばれていた船。ミュウの箱舟だった船。
白い鯨になった後には、花の絶えない船だったけれど。
ブリッジの見える大きな公園も、居住区に鏤められていた憩いの場所にも、様々な草花や木々の花たちが幾つも咲いていたのだけれど。
(あの花、切って来て、船のあちこちに…)
飾られていたのだった、皆の心を和ませるために。休憩室やら、多くの仲間が訪れる部屋に。
墓碑公園の白い墓碑にも、花はいつでも手向けられていた。きちんと花輪に編まれたものやら、訪れた仲間が摘んで来た花が。
そんな具合に、白いシャングリラから花が消えることは一度も無かったけれど。
(…でも、花屋さんは無かったんだよ…)
通貨や店が存在しなかったことを抜きにしたって、花屋は作れなかっただろう。あの船で暮らす誰もが毎日、好きなだけの花を買って帰れはしなかったろう。
花の絶えない船といえども、それほどの量の花は無かった。思い付いた時に、欲しいだけの花を個人が抱えて部屋に帰れはしなかった船。
今の自分の父が「土産だ」と買って来たような五十本の薔薇など、皆が欲しがっても揃わない。一人分なら揃ったとしても、皆の分にはとても足りない。シャングリラ中の薔薇を切ったって。
花はあっても、数に限りがあった船。皆が好きなだけ花を貰えはしなかった船。
それを誰もが分かっていたから、白いシャングリラに花束を贈る習慣などは無かった。
記念日を祝うための花束も、個人的なプレゼントとしての花束も、何も。
父が薔薇の花を買って来た店。「安かったから」と、母への土産に真紅の薔薇を五十本も。
仕事の帰りにフラリと立ち寄り、父は抱えて帰ったけれど。
(…シャングリラからは縁の遠いお店?)
父が寄った、花屋という店は。好きなだけの花をドンと買い込み、花束を作って貰える店は。
花はあっても、花屋は無理だったシャングリラ。それだけの花が揃わなかった白い船。
美しい花たちの姿や香りは皆の心を和ませたけれど、生きてゆくのに欠かせないというものとは違う。花が無くても死にはしないし、飢えに苦しむことだって無い。
あれば心を潤すけれども、無いからといって乾いて死んでしまいもしない。白い鯨になるよりも前は、花が何処にでもあるような船ではなかったのだから。
生活に欠かせないものではないから、けして大量には無かった花。皆の癒しになる分だけ。
(花の係だって…)
公園を手入れしていた者たちだけで、花を飾ることを専門にしていた係は一人もいなかった。
シャングリラに飾られていた花の係は、公園担当の者たちが兼ねて、その時々に盛りの花たちを幾つか切っては飾っていただけ。自分が担当していた場所に。
皆が愛でる花さえ、そうだったから。専門の係が必要なかった船だから。
個人用の花など用立てられる船ではなかった、贈り物用の花束などは。
五十本もの真紅の薔薇の花束を個人用にと作れはしなくて、他の花でも事情は同じ。一人分なら工面出来ても、全員の分は無理だった船。花屋など開けるわけがなかったシャングリラ。
(…それでハーレイも…)
花を贈ってくれなかったのだろうか、前の自分に?
抱えるほどの大きな花束はもちろん、ほんの一輪の花さえも。
前の自分は何も貰っていないから。ただの一度も、前のハーレイから花を貰ってはいないから。
(ハーレイ、薔薇が似合わないって言われていたけれど…)
薔薇の花が似合わないと評判だったハーレイだけれど、贈る方なら何も問題は無かっただろう。真紅の薔薇を手にして歩いていたって、プレゼントならば誰も笑いはしなかっただろう。
(…恋人にプレゼントするんだってバレたら、大変だけど…)
ソルジャーの部屋に飾るためだと言ったら、誰もが納得していたと思う。
前の自分は「青の間に飾る花が欲しい」と一度も頼みはしなかったのだし、無欲なソルジャー。皆が摘めなかったエーデルワイスを飾ってもいいと許可が下りても、摘まなかったほど。
そんなソルジャーの部屋に花をと、キャプテン自ら用意していても、誰も疑いはしないだろう。却ってハーレイを褒めたかもしれない、「キャプテンだけあって気が回る」と。皆の気持ちを良く知っていると、ソルジャーの部屋には是非とも花を、と。
ソルジャー用だと言いさえすれば、係の者たちが張り切って揃えそうな花。
「そこの薔薇を一つ」と頼んだとしても、きっと一輪では終わらない。「また咲きますから」と幾つも切って渡しただろう。五十本は無理でも、五本くらいなら。
五本渡して、係はハーレイに「他の公園へもどうぞ」と言ったかもしれない。薔薇が咲いている公園を挙げて、もっと多くの薔薇が揃うと。
白いシャングリラを端から回れば、五十本の薔薇も夢ではなかった。時期さえ良ければ、真紅の薔薇を五十本揃えることだって。
個人用には無理なものでも、ソルジャーの部屋に飾るためなら。
けれども、ハーレイは一度もくれなかった花。五十本の薔薇を贈るどころか、ただの一輪も。
花屋が無かったシャングリラ。そのせいだろうか、仲間たちが花を贈り合ってはいなかった船で暮らしていたから、花を貰えなかったのだろうか?
(…それで貰えなかったわけ?)
白いシャングリラには花屋など無くて、花束を贈り合う恋人たちがいなかったから。
彼らが花を贈れないのに、ソルジャーとキャプテンという立場にいるのをいいことにして、花を贈ってはマズイと思っていたのだろうか、ハーレイは?
その気になったら、真紅の薔薇を五十本でも、ハーレイは用意出来ただろうに。
(…やっぱり、ハーレイ、気を遣ってた…?)
白いシャングリラの仲間たちに。恋人に花を贈りたくても、花屋が無かった船の仲間に。
明日、ハーレイに訊いてみようか、そのせいでくれなかったのか。
薔薇の花束も、エーデルワイスも、ほんの一輪の小さな花も。
明日はハーレイが来る土曜日だから。午前中から、ずっと二人で過ごせるのだから。
一晩眠っても、忘れなかった花のこと。前の自分が貰い損ねた、ハーレイからの花の贈り物。
朝食のテーブルで薔薇の花を見たら、ますます気になり始めたから。もう訊かずにはいられない気分、貰えなかった花の贈り物の謎を解きたくてたまらない。
だからハーレイが訪ねて来るなり、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「…あのね、ハーレイが花をくれなかったの、花屋さんが無かったから?」
そのせいだったの、ぼくにプレゼントしてくれなかったのは?
「はあ? 花って…」
なんでお前に花を贈らなきゃいかんのだ。菓子ならともかく、花はないだろう。
「今のハーレイじゃなくて、前のハーレイだよ」
ぼくに一度も花を贈ってくれなかったよ、花束も、花を一本とかも。
ちゃんと恋人同士だったのに、ハーレイは一度も花を贈ってくれなかったから…。
シャングリラには花屋さんが無かったせいなのかな、って。
他の仲間たちは花のプレゼントを贈れないのに、ソルジャーだから、って特別扱いは出来ないと思っていたのかな、って…。
記念日とかには花を贈るでしょ、恋人に。…そういう花のプレゼントを一度も貰ってないよ。
「おいおい、記念日って…。分かってるのか、前の俺たちには無かったぞ」
記憶をすっかり失くしちまって、誕生日は覚えちゃいなかった。つまり誕生日は存在しない。
ついでに結婚記念日も無いな、前の俺たちは結婚出来ずに終わったんだから。
「…そうだけど…。記念日、確かに無かったけれど…」
そのせいで花をくれなかったの、前のハーレイは?
花を贈れない仲間たちに遠慮したんじゃなくって、ぼくたちに記念日が無かったから…?
「いや、思い付きさえしなかった」
前のお前に、花をプレゼントするってことをな。
思い付いていたなら、仲間たちに遠慮はしてないぞ。
…誰にも言えない秘密の恋人同士だったんだ。だったら、そいつを利用したっていいだろう。
ソルジャーの部屋に飾るためにと、キャプテンの権限で花を集めるくらいはな。
前の俺なら実行したぞ、とハーレイは大真面目な顔だから。その顔からして、本当に前の自分に贈るための花をかき集めたのに違いないから。
「…ハーレイが思い付かなかったの、やっぱり花屋さんが無かったせい?」
花束を買えるお店が無かったせいなの、それで花束を用意しようと思わなかったの?
…花束もそうだし、花だって。
売ってるお店が何処にも無いから、花束も花も思い付かないままだった…?
「花屋が無かったからと言うより、問題は習慣ってヤツの方だな」
シャングリラには全く無かっただろうが、花を贈るという習慣が。
白い鯨になるよりも前は、花は殆ど無かった船だぞ。まるで無かったとは言わないが…。
あの船にだって、少しくらいは花が咲く植物もあったわけだが、それだけのことだ。
その上、記憶をすっかり失くしていたのが俺たちだったし、花を贈ろうという発想が無い。
記念日だろうが、なんであろうが、プレゼントに花だと思わないんだな。
そんな俺たちが白い鯨を手に入れたって、花を贈ろうと思い付くか?
元々無かった習慣なんだし、花が手に入る時代になっても、花は花でしかないってな。
「…そういえば、ぼくもフィシスには…」
お菓子なんかを贈りはしたけど、花は一度も…。
「贈ってないだろ?」
お前がフィシスに贈るんだったら、それこそシャングリラ中の花を集めて贈れたのにな?
フィシスの部屋が埋もれちまうほどの花をかき集めたって、誰も文句は言わなかった筈だぞ。
「そう思う…。フィシス用なら、ホントにドッサリ集められそう…」
だけど、思い付きさえしなかったよ、ぼく。
花の香りの香水は色々と作らせたけれど、花を贈るなんてことは、ちっとも…。
フィシスも欲しいって言わなかったし、余計だったかもね。
…きっとフィシスも知らなかったんだね、花の贈り物があるってことを。
ずっと水槽で育てられてて、機械が教えた知識しか無くて、花は貰っていなかったんだよ…。
ミュウの女神と呼んだフィシスにも、花を贈りはしなかった自分。
フィシスは女性だったのに。
父が「土産だ」と、記念日でなくても薔薇の花束を買って帰った母と同じに女性だったのに。
そのフィシスさえも花を一度も貰わなかったなら、男だった自分に花などは…。
花束はもちろん、ほんの一輪の花にしたって、そんな贈り物は…。
「…前のぼく、花のプレゼントを貰えなくって当然だよね…」
フィシスだって貰っていなかったんだし、男だったぼくが貰えるわけがなかったね…。
花屋さんがあるとか無いとか、そういう問題以前の問題…。
「そうでもないぞ。…お前が俺から花を貰い損ねちまった件に関しては」
思い付かなかった俺が悪かったんだ。お前に花を贈るってことを。
…確かに花をプレゼントするって習慣を持ってはいなかったんだが、チャンスならあった。
エーデルワイスでも贈れば良かった、前のお前に。
「え?」
どうしていきなりエーデルワイスが出て来るの?
薔薇とかじゃなくて、エーデルワイス?
あれは花束に出来るほどには咲いてなかったよ、株が増えてからも。
全部摘んでも大きな花束を作れはしないし、他の花の方がいいんじゃないの?
見栄えだって薔薇の方がずっと上だし、エーデルワイスを贈るよりかは。
清楚な花ではあったけれども、花束に向くとは思えないのがエーデルワイス。
他の仲間たちが摘めない花でも、貴重な花でも、花束にするには地味すぎる花。青の間の光には映える白でも、白い花なら他にも色々。香り高い百合の花だって。
それなのに何故、エーデルワイスの名前が出るのか、本当に不思議だったのだけれど。
「…あの花、お前は何度も眺めに行ってただろうが。また咲いたね、と」
お前が好きな花だと分かってたんだし、ヒルマンたちだって摘んでもいいと許可を出してた。
しかし、お前は一度も摘まずに、静かに見ていただけだった。花が咲く度に。
そんなお前に、「摘んでもいいと思いますが」と何度も声を掛けていたのが俺だ。お前の隣で。
そう言う代わりに、俺がプレゼントすれば良かったってわけだ、エーデルワイスを。
ソルジャー用にと摘むんだったら、何の問題も無かったんだから。
お前があの花を好きだったことは誰でも知ってたんだし、俺が代わりに摘んでいたって、文句は出ない。遠慮しがちなソルジャーだからと、みんな納得しただろう。
そうやって摘んだエーデルワイスを大急ぎで青の間に運んで行っても、不思議に思うヤツなんかいない。萎れちまう前に届けなければ駄目なんだしなあ、走っていたってかまわんだろうが。
…俺は届けるべきだったんだ、前のお前にエーデルワイスを。
花束じゃなくて一本だけでも、前のお前が好きだった花を。
「そっか…。それで、エーデルワイス…」
そのプレゼント、欲しかったかも…。
前のハーレイが摘んで来てくれた、エーデルワイスのプレゼント…。
もしもハーレイから、エーデルワイスを貰っていたら。プレゼントされていたのなら。
きっと大切な、忘れられない思い出の花になっただろう。
前の自分がハーレイから貰った、唯一の花の贈り物。
真紅の薔薇とは比べようもない小さな花でも、一輪だけしか無かったとしても。
花束にはなっていない花でも、ほんの一輪だけのエーデルワイスでも。
それが欲しかったと心から思う、今となっては、もう戻れない昔だけれど。白いシャングリラは時の彼方に消えてしまって、エーデルワイスを見ていた前の自分も、もういないけれど。
「…すまん、全く気が付かなくて」
気が利かないヤツだな、前の俺もな。…お前と何度も見ていたのになあ、エーデルワイス。
それに、お前はスズランの花束の話も、何度も俺としていたのにな…。
「スズラン?」
なんなの、スズランの花束って?
前のぼく、スズランが好きだったっけ…?
「忘れちまったか、シャングリラにあった恋人同士の習慣だ」
言い出しっぺはヒルマンだったな、シャングリラで最初のスズランが咲いた時だったか。
SD体制が始まるよりもずうっと昔の地球のフランス、其処では五月一日の花だと。
恋人同士でスズランの花束を贈り合うんだという話が出て、スズランが増えたら定着したぞ。
若い連中が摘んでいたんだ、シャングリラに咲いてたスズランをな。
「あったね、そういう花束が…!」
だけど、ぼくたちが摘めるスズランの花は何処にも無くて…。
若い恋人たちの分しか無くって、ぼくもハーレイも、スズラン、贈れなかったんだっけ…。
五月一日に恋人同士で贈り合う花束、スズランを束ねた小さな花束。
贈りたくても、自分たちの分のスズランを手に入れられなかったから。自分たちの部屋で育てて贈るわけにもいかなかったから、いつか地球で、と約束し合った。
地球に着いたら、スズランの花束を贈り合おうと。
前の自分はハーレイのために探すつもりだった、森に咲く希少なスズランを。ヒルマンに聞いた森のスズラン、栽培されたものより香りが高いという花を。
そんな夢まで見せてくれたのが、若い恋人たちが贈り合っていたスズランの小さな花束。可憐なスズランを摘んで纏めた、小さな小さな白い花束。
あれがシャングリラにあった、たった一つだけの花の贈り物だったのだろうか?
花を贈る習慣が無かった白いシャングリラで、スズランだけが贈り物にされていたろうか?
恋人たちが想いを託した小さな花束、五月一日のスズランだけが。
公園で摘まれて贈り合われた、小さな小さな花束だけが…。
スズランの他にもあっただろうか、とハーレイに尋ねてみたけれど。
花の贈り物は白いシャングリラにもっと幾つもあっただろうか、と訊いたのだけれど。
「どうだかなあ…。アルタミラからの脱出組には、スズランも関係なかったからな」
誰も摘んではいなかった筈だぞ、若いヤツらがやってただけだ。
花を贈ろうって発想自体が無かった世代が俺たちなだけに、その後から来た習慣となると…。
馴染みが薄くて忘れちまった可能性もあるな、あったとしても。
だから他にもあるかもしれん。…特別な時にはコレだった、っていう花の贈り物がな。
「うん…。あったのかもしれないね」
ぼくはスズラン、忘れちゃっていたし…。
今のぼくになってからも思い出したのに、すっかり忘れてしまっていたし…。
ハーレイもぼくも忘れてしまった花の贈り物、スズランの他にもあったのかもね。
「こればっかりは、今はなんとも分からないんだが…。無いとも言い切れないってことだな」
それでだ、お前、スズランの花束か、薔薇とかの花束か、どっちがいい?
「えっ、どっちって…?」
どういう意味なの、どっちがいい、って?
「選ばせてやると言っているんだ、今は花屋があるからな」
スズランも買えるし、薔薇だってドカンと買える時代だということだ。
どっちがいいんだ、いずれお前の好きな方を買ってプレゼントしてやるが…?
「んーと…。くれるんだったら、両方がいいな」
スズランの花束は特別なんだし、五月一日には買って欲しいよ。
だけど、薔薇とかの花束も欲しいんだもの。…両方がいいな、スズランも薔薇も。
ママがパパから貰ってたんだよ、記念日でもないのに薔薇の花束。
綺麗な赤い薔薇の花をね、五十本も買って貰っていたから…。
その花束のせいで気が付いたんだよ、前のぼくは花を貰ってないって。
だからいつかは買って欲しいよ、スズランも、薔薇とかの花束も…。
記念日にはプレゼントして欲しいな、と強請ったら。
スズランの花束の他にも花束のプレゼントが欲しい、と欲張りなお願いをしたら。
「そりゃまあ、なあ?」
選ばせてやると言いはしたがだ、お前は俺の嫁さんになるって勘定で…。
嫁さんとなれば記念日に花束をプレゼントするのは当然だな、うん。
…プロポーズの時にも贈ってやろうか、デカい花束。
五十本どころか、百本の薔薇の花束ってヤツを。
「百本も…?」
ぼく、男なのに、薔薇を百本も贈ってくれるの、プロポーズの時に?
そんなに沢山貰っちゃったら、どんな顔をして持って帰るの、この家まで…?
ハーレイが車で送ってくれるのは分かっているけど、それまでの間。
大きな薔薇の花束を抱えてレストランの中とか、町の中とかを歩いて行くわけ…?
なんだか、とっても恥ずかしいんだけど…。
「ふうむ…。だが、欲しそうな顔をしてるぞ、お前」
茹でダコみたいに真っ赤になろうが、それでも持って歩きたいって顔。
百本の薔薇を抱えて幸せ一杯で、俺と並んで歩きたい、ってな。
「分かっちゃった…?」
恥ずかしいのは本当だけれど、ハーレイからなら欲しいんだよ。
前のぼくが貰い損なった分まで、うんと大きな薔薇の花束。スズランの花束も欲しいけど…。
「よし、任せておけ」
五月一日になったらスズラン、記念日には薔薇とかの花束だな?
でもって、プロポーズの時には、お前が幸せ自慢をしながら歩ける花束。
貰いました、って真っ赤な顔して、それでも得意満面になれる百本の薔薇の花束がいい、と。
気が変わったら言うんだぞ?
もっと薔薇の数を増やして欲しいとか、薔薇よりも他の花が欲しい気分になっただとかな。
望み通りの花束を贈ってプロポーズしよう、とハーレイが片目を瞑るから。
いつかは貰えるらしい花束、スズランの花束も、大きな薔薇の花束も。
前の自分は花の贈り物をハーレイから貰い損なったけれど、今の自分は貰えるから。
スズランの花束も、薔薇の花束も貰えるのだから、その日を楽しみにしていよう。
同じ家で暮らせるようになったら、記念日でなくても、きっとハーレイなら花束をくれる。
昨日の夜に、父が「土産だ」と大きな薔薇の花束を抱えて帰って来たように。
ハーレイもきっと、素敵なプレゼントをくれる。
それを貰ったら、二人でゆっくり過ごす部屋の花瓶にたっぷりと生けて、他の部屋にも。
寝室にも、ダイニングのテーブルの上にも、ハーレイに貰った花を飾ろう。
前の自分は貰い損ねた花だけれども、今はいくらでも花を贈って貰えるから。
沢山の花が花屋に溢れる、青い地球の上に来たのだから。
最初に二人で暮らす家に飾る、幸せな花はなんだろう?
ハーレイが抱えて帰って来てくれる花の束。
立派な薔薇の花束を貰っても、スズランの小さな花の束でも、きっと嬉しい。
ハーレイがくれる花ならば。
前の自分が貰い損ねた、花のプレゼントを貰えるのなら…。
花の贈り物・了
※シャングリラには無かった「花を贈る」という習慣。あったのはスズランの花束だけ。
そのスズランも贈り合えなかった二人ですけど、今度はハーレイから花束が、いつの日か…。
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