シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(アップルパイかな?)
学校から帰ったら、そういう匂い。ブルーに届いた甘い甘い香り、母が得意なアップルパイ。
きっとそうだ、と心が弾んだ。ハーレイの大好物のパウンドケーキも好きだけれども、お菓子はどれも大好きだから。食べると心に幸せが満ちる、母の手作り。
パイもケーキも種類は色々、なのに何故だか心が躍る。アップルパイだ、と。
(美味しいんだよね、アップルパイ…)
今日はアップルパイを食べたい気分だったのだろう。自分では気付いていなかったけれど、匂いだけで嬉しくなるのなら。上手い具合に重なったらしい、食べたいお菓子と母が作ったお菓子。
アイスクリームも添えてくれるといいな、と考えながら部屋で制服を脱いで、着替えを済ませてダイニングに下りて行ったら、おやつを用意してくれた母。予想通りにアップルパイ。
「今日のアップルパイはね、ママも初めて作ったのよ」
どうぞ召し上がれ、と渡されたお皿。アップルパイが一切れ、ごくごく普通の。
「…いつものアップルパイに見えるけど…?」
「見た目はね」
食べてみて、と母に促されてフォークを入れて。頬張ってみたら、香ばしいパイ皮と優しい味のリンゴのハーモニー。サックリした皮と、しっとりと甘い中のリンゴと。
「美味しい!」
ホントに違うね、ママが作るのも美味しいけれど…。これは特別に美味しいみたい。
「そうでしょう?」
ママもね、お友達の家で御馳走になるまで知らなかったわ、この味は。
だから早速聞いて来たのよ、これはどうやって作るのかしら、って。
母が教わって来たアップルパイの作り方。教会のバザーで売られるアップルパイのためのレシピだという。人気の高いアップルパイで、並べれば直ぐに売り切れるくらい。
味の秘訣は中身のリンゴ。普通のアップルパイと違って、リンゴのジャムから作り始める。その時に出て来た煮汁を取り分けておいて、パイを焼く時に三度も塗るのが美味しさの秘密。
ジャムとして食べても充分に美味しいリンゴのジャムと、何度も塗られたリンゴの煮汁。
卵黄と牛乳で作る上塗り液とは別に、煮汁を三回。
「SD体制が始まるよりも、ずうっと昔のレシピなんですって」
修道院のシスターが作っていたらしいわよ。今とは違って、教会がずっと厳しかった時代に。
外で売るためのお菓子は作れても、シスターは修道院の外には出られなかったんですって。
「ふうん…?」
なんだか凄いね、今は教会、普通だけれど…。前のぼくの頃から、そうだったけど。
外に出られないから、お菓子の研究をしていたのかな?
「どうなのかしら…。ママもそこまでは聞かなかったけれど…」
でもね、特別だっていうのは分かるわ、この作り方が。
アップルパイを作る時にね、リンゴジャムを使うことはあるのよ。リンゴを煮ている時間が無い時に中に詰めちゃおう、って。瓶から出したら使えるものね。
だけど、リンゴのジャムから作るレシピは滅多に無いわ。リンゴを煮た方がずっと早いもの。
それにジャムから作る時でも、リンゴの煮汁を上に塗ったりするほどの手間はかけないし…。
三回も塗るのよ、オーブンを五分ごとに開けてね。
上塗り液さえ塗っておいたら、充分、綺麗に焼き上がるのに。
お菓子作りが好きな母でも、特別だと思う作り方。
美味しさの秘密を聞いたからには、興味津々で食べたアップルパイ。とても美味しい、と。
お皿がすっかり空になっても、まだ名残惜しい気がするから。
「ママ、おかわり!」
もっと食べたいよ、このアップルパイ。ホントに美味しいパイなんだもの。
「お腹、一杯になっちゃわない?」
晩御飯が入らなくなってしまうわよ、食べ過ぎちゃったら。これはおやつよ、食事じゃなくて。
「少しだけだよ、今度はゆっくり食べてみたいから」
美味しすぎて夢中で食べちゃったから、今度は慌てて食べずに、ゆっくり。
「はいはい、ブルーも味の研究がしたくなったのね」
あんまり食べると後で困るから、少しだけよ?
ハーレイ先生がいらっしゃっても大丈夫な程度ね、ブルーだけお菓子が無いと嫌でしょう?
だからこれだけ、と母が小さめに切ってお皿に載せてくれたアップルパイ。
本当に小さなサイズだけれども、おかわりのパイは無事に貰えた。
母がダイニングから出て行った後に、じっくりと眺めたアップルパイ。
見た目は普通のアップルパイと変わらないのに、美味しくて手間のかかったパイ。それに教会のバザー用のパイ、遠い昔に修道院のシスターたちが作ったレシピ。
(神様のアップルパイなんだ…)
聖痕をくれた神様のパイ、と嬉しくなったパイとの出会い。神様のアップルパイに会えた、と。
特別なパイをもっと知りたくて、思い立ったのがパイの分解。
リンゴの煮汁が塗られた皮と、中のリンゴジャムを別々に味わってみるのも良さそうだから。
少しお行儀が悪いけれども、皮を剥がして齧ってみたら、確かにほんのりリンゴの味。ジャムの煮汁を塗ってあるから、皮もリンゴの味なのだろう。
中のリンゴジャムは透き通った金色、ジャムとして食べても美味しいだろうに、アップルパイに詰めてある。わざわざ作ったジャムだというのに、それをお菓子に惜しみなく。
沢山の手間がかかっていることと、その美味しさが分かった分解。別々に食べた、皮と中身と。
(分解してみて良かったよね!)
ママにおかわりを貰えたからだよ、とジャムをフォークで口へと運んだ。イチョウ切りになった薄いリンゴは、これだけでも手間がかかると分かる。リンゴを小さく切るのだから。
アップルパイに入れるリンゴなら、もっと大きく切ってもいいのに、と頬張ったジャム。金色になるまで煮てあるリンゴ。
そうしたら…。
(あれ…?)
何処かで食べたような気がした。こういうアップルパイの中身を。
アップルパイ用に煮たリンゴではなくて、リンゴで作ったジャムが詰まったアップルパイ。
けれども、何処で食べたのだろう。こういう味がする中身、と考え込んだ所へ、折よく母が通り掛かったから、呼び止めて訊いた。
「ママ、リンゴジャムのアップルパイを作ったことはある?」
時間が無い時はジャムを使うって言っていたけど、ママも作った?
「作らないわよ、アップルパイにはいつもリンゴを煮ているもの。…でも、どうして?」
「…これ、食べたような気がするから…」
パイの中身だけ食べたんだけれど、こういう味のリンゴが詰まったアップルパイ。
普通に煮てあるリンゴじゃなくって、リンゴのジャム。
「シャングリラじゃないの?」
ブルーにはソルジャー・ブルーの記憶があるでしょ、その頃に食べていなかった?
シャングリラにもリンゴはあったんでしょうし、アップルパイもあったでしょ?
「んーと…。リンゴは育てていたけれど…」
あの船のパイじゃないと思うよ、教会のアップルパイのレシピなんかは無かっただろうし。
時間が無い時に作るリンゴジャムのレシピも、シャングリラだと意味が無いんだもの。
厨房には決まった係がいたから、時間不足は有り得ないんだよ。出来上がりまでの時間を考えて作るんだもの、アップルパイだって同じだと思う。
今日は時間が足りないから、ってジャムを詰めることなんか無い筈なんだよ。
アップルパイが運んで来た謎。何処かで食べたと思った味。
おかわりのパイを食べ終わっても、ついに答えは出なかった。空になったお皿や紅茶のカップを母に返して、部屋に戻って。
勉強机の前に座って、頬杖をついて考える。あの味に何処で出会っただろう?
(確かに食べてた筈なんだけど…)
舌があの味を覚えていたから。アップルパイの中身はリンゴのジャム、と。
友達の家で出たのだろうか、と思ったけれども、ごくごく普通のアップルパイの記憶しか無い。ジャムとは違って、甘く煮たリンゴを詰めてあるパイ。
そうなってくると、母が言ったようにシャングリラしか残らないのだけれど。
(でも、シャングリラだと…)
アップルパイは必ず中身のリンゴを甘く煮て作っていただろう。
どんなに急いでいたとしたって、係はきちんといたのだから。リンゴを煮るより早く出来ると、ジャムを詰めたりはしなかったろう。
たかがアップルパイといえども、係にとっては仕上げることが仕事なのだから。
急いで作らねばならないとしても、手抜きはきっと考えない。ジャムを詰めたら早く作れる、と気付いたとしても、けして実行したりはしない。
その方が美味しく出来るというなら別だけれども、そういうレシピは船に無かっただろうから。
アップルパイのリンゴは専用に煮るもの、そう考えていそうだから。
けれど、もしかしたら、誰かが考え付いたのだろうか、リンゴのジャムで作るレシピを?
何かのはずみにふと思い付いて、作ってみたら美味しかったとか…?
そういったこともあるかもしれない。
白いシャングリラで仲間たちと暮らした時間は長くて、アップルパイの研究だって出来た筈。
神様のアップルパイのレシピを作ったシスターたちと同じに、外へは出られなかった船。研究のための時間は充分にあった、遠い昔の修道院のように閉ざされた世界だったのだから。
(…ハーレイだったら、知ってるのかな?)
キャプテンになる前は、厨房にいた前のハーレイ。
料理は得意だったのだから、アップルパイの味が変われば興味を持って訊きに行きそうだ。何か新しい工夫をしたかと、どういうレシピで作ったのかと。
ハーレイが来れば謎が解けるかも、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが尋ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり問い掛けた。
「ハーレイ、アップルパイは作れる?」
「もちろんだ」
「だったら、前のハーレイは?」
「前の俺だと?」
なんでまた、とハーレイは怪訝そうな顔。どうして前の俺でアップルパイだ、と。
「あのね…。シャングリラのアップルパイのレシピを知りたいんだよ」
ハーレイなら知っているかと思って…。厨房にいたから、レシピなんかも詳しそうだし。
「レシピはともかく、アップルパイというのは、なんのためにだ?」
お前が作ってみようと言うのか、シャングリラにあったアップルパイを?
「えーっとね…。そうじゃなくって…」
ぼくが作ろうっていうんじゃなくって、アップルパイの味が気になるんだよ。
シャングリラのアップルパイはどういう味だったかな、って。
切っ掛けは今日のおやつのアップルパイ、と質問の理由を説明した。
特別なパイを作って貰ったら、何処かで食べたような気がする味だったのだ、と。
「ほほう…。教会のアップルパイとは珍しいな」
しかもSD体制が始まるよりも前の時代のレシピか、本物の修道院で生まれた味なんだな。
どんなレシピだ、俺も大いに興味があるが。
これでも古典の教師だからなあ、遠い昔の文化ってヤツが好きなのは知っているだろう?
前の俺だってレトロな羽根ペンを使っていたんだ、こいつは血かもしれないな。
「秘密はリンゴのジャムなんだよ」
アップルパイの中身がリンゴのジャムでね、ジャムだけでも凄く美味しかったよ。
ママが、時間が足りない人はリンゴのジャムを使って作ることもあるって言ったけど…。
普通はリンゴを甘く煮るでしょ、アップルパイ用に。
だから、リンゴのジャムが詰まったアップルパイなんかを食べた覚えは無い筈なのに…。
何処かで食べたって思ったんだよ、中のジャムだけ食べてた時に。
「なるほどな…。お前、覚えていたのか」
リンゴのジャムのアップルパイを。…前のお前が食ってたことを。
「えっ?」
ぼく、シャングリラで食べてたの、あれを?
ハーレイが言うなら間違いないけど、ホントのホントにシャングリラで…?
甘く煮てあるリンゴの代わりに、リンゴジャムを詰めたアップルパイ。美味しいアップルパイにしようと、わざわざジャムから煮てゆくレシピ。
白いシャングリラにもあったのだろうか、あの特別なパイのレシピが?
あるいは時間が足りないからと、誰かが慌てて作ったろうか。リンゴのジャムを詰め込んで。
「ハーレイ、それって、どういうレシピ?」
厨房の誰かが研究してたの、アップルパイの美味しい作り方を?
それとも、時間が足りなかった時に、リンゴのジャムを詰めちゃったわけ…?
手抜きだけれども、特に文句は来なかったから、ってリンゴジャムのレシピもあったとか…?
「どちらかと言えば、手抜きの方だな」
それから、そいつを食っていた時期を間違えちゃいかん。厨房のヤツらは無関係だ。
前のお前が食ってたリンゴジャムが詰まったアップルパイはだ、俺が作っていたんだからな。
もちろん白い鯨になる前のことだ、俺がキャプテンになるよりも前だ。
「前のハーレイが作ってた、って…。ハーレイ、手抜きをしてたわけ?」
アップルパイ用にリンゴを甘く煮るのは面倒だ、ってリンゴのジャムを詰めちゃってたの?
「いや、違う。そこも間違えてはいかん所だ」
いいか、あの頃の船じゃ、菓子はそうそう作れるものではなくてだな…。
基本は奪ってくるものだったぞ、菓子の類も。前のお前が。
…もっとも、前の俺は許しはしなかったんだがな、菓子だけ奪いに行くというのは。
菓子が食えなくても死にはしないし、贅沢なんかはしなくていいと。
だからだ、菓子はお前が奪った物資に混ざっていれば食べるという勘定だ。
焼き菓子があったらそれを食ったし、チョコレートだったら、チョコレート。
シャングリラはそういう船だったろうが、俺が厨房にいた頃にはな。
美味しい菓子を船で作るのは、贅沢だった頃のシャングリラ。限られた物資で暮らしていた船。
倉庫の食料が不足する前に、前の自分が奪いに出掛けた。人類の輸送船を狙って。
船の中で菓子を作りたくても、白い鯨とは違った事情。手に入った食材だけが全てで、待っても船では何も育たない。リンゴも、甘く煮るための砂糖が生まれるサトウキビも。
「あの頃のシャングリラで、アップルパイなんかを作ってられるか?」
お前がリンゴを沢山奪って帰って来たとしても、そこでアップルパイにはならんぞ。
リンゴはパイにするよりも前に、貴重な果物というヤツだ。
新鮮な間に皮を剥いて食べる、そいつが一番大切だってな。船でリンゴは採れないんだから。
「それもそうだね、果物は人気があったしね」
食事と一緒に果物が出たら、みんな、とっても喜んでたし…。
アップルパイを作れる余裕が無いなら、リンゴはそのまま切って出すよね。
「分かったか? 前の俺が作ったのは保存食なんだ」
アップルパなんていう洒落たモノじゃなくて、ただのリンゴの保存食だ。
「保存食?」
それってなんなの、非常食とは違うよね?
保存食って言ったら、缶詰だとか、瓶詰だとか…。リンゴの缶詰、あったっけ?
リンゴジュースなら知ってるけれども、リンゴの缶詰…?
あれかな、甘く煮てあるヤツ…。リンゴのコンポートみたいなのが詰まった缶詰。
たまに見掛けるリンゴの缶詰。母は買っては来ないけれども、友達の家で御馳走になった。缶を開けたら出て来る甘いリンゴを使ったおやつ。フルーツポンチや、かき氷のトッピングなども。
そういったものしか思い浮かばない、リンゴを使った保存食。リンゴの缶詰、と。
前のハーレイはリンゴを甘く煮て缶詰を作っていたのだろうか?
そんな記憶は無いのだけれど、と首を傾げていたら、「忘れちまったか?」と笑みを含んだ声。
「缶詰じゃなくて、瓶詰だな。…前の俺がリンゴで作っていたのは」
リンゴが山ほどあった時には、保存しておこうとジャムにしたもんだ。
ジャムはパンには欠かせないしな、あっても困りはしないだろうが。
だからリンゴがドカンと手に入ったなら、せっせと作って瓶に詰めていたが…?
「そういえば…。ハーレイがジャムを煮詰めていたのを思い出したよ」
大きなお鍋でリンゴのジャム。金色になるまで、焦がさないように何度も混ぜて。
…あのジャムでアップルパイだったの?
せっかくジャムが出来たんだから、ってアップルパイを作っていたわけ…?
「お前用にだけな」
前のお前にしか作っていない。…リンゴのジャムのアップルパイは。
「ぼくにだけ?」
他のみんなの分は無しなの、リンゴのジャムは沢山あったと思うんだけど…。
「全員の分を作れる余裕は無い船だった、と言っただろうが」
それでも、お前の分だけは作ってやりたかったんだ。
お前、いつも奪って来てくれてたしな、色々なものを。食料も他の物資もだ。お前がいなけりゃ何も手に入りはしなかった。奪いに出掛けるだけの力は、お前にしか無かったんだから。
…だったら、少しは礼をしないとな、頑張ってくれるお前のために。
何か出来ないかと考えていた時に、アップルパイに出会ったんだよなあ…。
ハーレイとアップルパイとの出会いは、前の自分が奪った物資。コンテナの中にアップルパイが幾つも混ざっていたから、皆で分けて食べた。いつものように。
アップルパイが混ざっていたことは前にも何度もあったのだけれど、その時はリンゴもドッサリ入っていたのがヒントになった、と語るハーレイ。
「またリンゴジャムを作らないとな、と考えながら食っていたのが良かったんだろうな」
こいつの中身はリンゴジャムでもいいんじゃないか、と閃いたわけだ。アップルパイで。
それでデータベースで調べてみたらだ、リンゴジャムを使うレシピがあった。アップルパイにはリンゴのジャムを詰めてもいい、と。
それが分かったら、もう作るしかないだろう。アップルパイは美味いんだから。
しかしだ、一人分だけのパイ生地を作るというのもなあ…。
だから待ったさ、パイ生地を使った料理を作る時が来るまで。そのために作ったパイ生地の端を少し貰っておいても、問題は何も無いからな。どうせ端っこは余るんだし。
余ったパイ生地をくっつけて使うのは俺の自由だ、オーブンの隅っこに入れて焼くのも。上手く形を作って合わせて、中にリンゴのジャムを詰めればアップルパイの出来上がりってな。
前のお前が食べる分だけ、本当に少しだけだったが。
「思い出した…!」
ハーレイが作ってくれてたんだよ、前のぼく用のアップルパイを。
あの味だったよ、ママが作ったアップルパイの中身のジャムは。
何処かで食べたって思うわけだよ、ハーレイのアップルパイだったんだから。
あのアップルパイ、前のぼくはいつも、幸せ一杯で食べていたから…。
他のみんなに悪いよね、って気持ちもしたけど、ハーレイが作ってくれたのが凄く嬉しくて…。
「他のヤツらは気にするな」って言ってくれたから、いいのかな、って。
ハーレイがわざわざ作ってくれたお菓子なんだし、食べちゃってもかまわないんだよね、って。
前のハーレイに「お前だけだぞ」と厨房に呼ばれて、何度も食べたアップルパイ。
今日のおやつに食べていたような、アップルパイの形ではなかったけれど。
四角かったり、細長かったり、その時々で色々な形。余ったパイ生地の形や大きさで決まった、前のハーレイが作ったアップルパイの形。
「あのアップルパイ、いつでもリンゴのジャムだったものね…」
中身はリンゴのジャムなんだぞ、ってハーレイが教えてくれたっけ。
本物のアップルパイでも、リンゴのジャムで作ることがあるから、って。
…ママのアップルパイとおんなじ味になっちゃうわけだよ、中身がリンゴのジャムなんだもの。
「お前が言ってた、アップルパイのレシピなんだが…」
リンゴジャムの煮汁を仕上げに塗るって話だったよな。三回だったか?
前の俺がお前用に作ったアップルパイにも、煮汁が塗ってあったんだが…。
「煮汁って…。そんなのも取っておいたわけ?」
ジャムを作った後に残していたわけ、煮汁まで?
何かのお料理に使おうと思って取っておいたの、ハーレイは?
「いや、基本はシロップ扱いでだな…。水で薄めて厨房のヤツらが飲んでたんだが」
そうそう残りはしなかったわけだ、三日も経ったらすっかり飲まれちまってた。
だから、ジャム作りとパイ生地の料理が重なった時だけ塗ってたな。
薄めて飲んだら美味いわけだし、こいつを塗ったらアップルパイも美味くなりそうだ、と。
「そっか…。ハーレイ、煮汁も塗っていたんだ…」
あのアップルパイ、ママのとそっくり同じになってた日もあったんだ?
「流石に三回も塗る所まではやっていないがな」
その発想はまるで無かったな、一回塗れば充分だろうと思っちまってた。
あと二回塗れば、そのものズバリの上等なパイが出来ていたかもしれないのにな…?
惜しいことをした、とハーレイは苦笑しているけれども、リンゴジャムが入ったアップルパイ。
リンゴジャムを作った時の煮汁も塗られていたという、ハーレイが作ったアップルパイ。
前の自分は、今の自分がおやつに食べた特別なパイと同じものを食べていたらしい。
ほんの少しだけ違うけれども、煮汁が塗られた回数が二回足りないだけ。
それ以外の部分はまるで同じで、遠く遥かな時の彼方で前の自分が食べていた。神様のパイだと今の自分が思った、特別なレシピのアップルパイを。
前のハーレイに作って貰って、何度も何度も、リンゴのジャムの小さなパイを。
なんとも不思議で、懐かしい味のアップルパイ。
いつも形はバラバラなもので、パイ生地の端っこで作られたパイ。ハーレイが上手く工夫して。
端を綺麗に捻ってあったり、飾りがついていたこともあった。
パイ生地に入った切れ目の他にも、生地の端っこを貼り付けて小さな飾り。三角だったり、四角だったり、オマケのパイ生地。
「たまに、こういうのもいいだろうが」とハーレイは得意そうだった。ちょっとお洒落な出来になったと、今日のパイ皮にはオマケ付きだ、と。
前の自分が何も知らずに時の彼方で食べたパイ。遠い昔に修道院で生まれたアップルパイと同じレシピで作られたパイ。
それを作っていたハーレイ自身も、そうとは知らなかったのだけれど。リンゴジャムを使ってもアップルパイは作れるものだと、閃いたというだけなのだけれど。
リンゴジャムの煮汁を塗っていたのも、ほんの偶然。美味しそうだからと塗っただけ。
そのアップルパイを作っていたハーレイが厨房を離れた後には、リンゴジャムのアップルパイはもう無かったという。前のハーレイはレシピを残さず、誰も作らなかったから。
「…それじゃ、前のぼくも…」
ハーレイがキャプテンになった後には食べてないわけ、あのアップルパイ?
レシピが残っていなかったんなら、誰も作ってくれないものね…。
「そうなるな。…白い鯨になった後には、アップルパイのレシピは普通だったからな」
リンゴジャムなぞ誰も使わん、それをやったら手抜きだと言われても仕方ない。
ちゃんとリンゴを煮てから作れと、上のヤツから厳しく叱られただろうさ。
リンゴジャムを使って素晴らしく美味いのを作れば別だが、そんな話は聞いちゃいないぞ。
厨房とは縁が切れちまっても、画期的なことをやったヤツがいたなら耳に入ってくるからな。
なにしろ、元が厨房出身だ。昔馴染みのヤツだっているし、情報は色々あったってことだ。
白いシャングリラでは作られなかったらしい、リンゴジャムを使ったアップルパイ。
前のハーレイが編み出したレシピは消えてしまって、誰も作りはしなかった。前の自分も二度と食べられないまま、その味を忘れてしまったのだろう。同じ味のパイを食べるまで。
「…なんだか不思議…。前のハーレイが神様のアップルパイと同じのを作っていたなんて…」
前のぼくがそれを食べていたのも、とっても不思議。
今頃になって、ママがおんなじ味がするパイをおやつに作ってくれたのも…。
「まったくだ。神様の悪戯ってヤツかもしれんな、ちょっと驚かせてやろうとな」
奇跡ばかりじゃないんだぞ、と愉快なサプライズを下さったってこともあるかもしれん。神様は何処にでもいらっしゃるんだと言うからな。
前の俺は神様のアップルパイのレシピだと知らずに盗んじまったのか、拝借したのか…。よくもやったな、と今頃になって頭をコツンと叩いていらっしゃるかもしれないな、うん。
しかし、そういう由緒正しいレシピが存在したとは驚きだ。
あれは手抜きじゃなかったんだな、リンゴジャムで作るアップルパイは。
「今のハーレイは知らなかったわけ?」
リンゴジャムを使うレシピは手抜きなんだと思っていたわけ、前と同じで?
「うむ。…リンゴジャムから作ろうっていう凝ったのがあるとは、夢にも思っていなかった」
しかも煮汁を三回も塗って仕上げるだなんて、もう全くの初耳だ。
おふくろは知っているかもしれんが、俺にまでは伝わって来ていないってな。
「それなら、ママのレシピを教えて貰う?」
ぼくは材料とかを詳しく聞いてないから、ママに作り方、教えて欲しい?
「そうだな、レシピを貰えるんなら、有難く貰って帰るとするかな」
伝統あるレシピというだけでも充分に魅力的なのに、前の俺のレシピと重なるようだし…。
これは教えて貰わないとな、本当はどういうレシピなのかを。
「うんっ!」
ちょっと待っててね、ママに頼んでくる!
晩御飯までに書いておいて、って言ってくるから…!
大急ぎで階段をトントンと下りて、母の所へ走って行った。キッチンにいた母に駆け寄り、息を弾ませて。
「ママ、ハーレイにあのレシピ…!」
アップルパイのレシピを教えてあげてよ、今日のおやつに作ってくれた教会のバザー用のパイ。
ハーレイ、レシピが欲しいんだって。
ぼくも分かったよ、なんでハーレイがレシピを教えて欲しいのか…!
「あらまあ…。それじゃ、謎が解けたの?」
何処かで食べたって言っていたのは、やっぱりシャングリラのアップルパイなの?
「そうだったんだよ、前のぼくが食べてたアップルパイとそっくりだった!」
ホントのホントにそっくりなんだよ、ハーレイもぼくも、とてもビックリしちゃったくらいに。
晩御飯の時に詳しく話すよ、今は時間が惜しいから!
それにパパだって聞きたがるだろうし、ママはもう少し待ってて、お願い!
「ハーレイ先生とお話の続きがしたいんでしょう、急いで走って来たものね」
晩御飯を楽しみにしているわ。…どんなお話が聞けるのかしらね、アップルパイの。
「まだ内緒! でも、ハーレイがレシピを持って帰れるように書いておいてね」
前のハーレイの思い出のレシピだったんだよ、あのアップルパイの作り方…!
「分かったわ。ちゃんとハーレイ先生の席に置いておくわね」
忘れないわよ、レシピはきちんと書いておくから。
慌てて走って階段で足を滑らせないでね、ブルーは自分じゃ止まれないから落っこちるわよ?
落っこちちゃったら、晩御飯どころか病院に行かなきゃいけないんだから。
「はーい!」
じゃあ、また晩御飯の時に呼んでね!
アップルパイの話を聞いたら、ママたちもきっと凄くビックリする筈だから…!
母に手を振って、パタパタと走って上がった階段。もちろん落っこちないように気を付けて。
足を滑らせたら大変だから。サイオンの扱いが下手な自分は、落ちたら怪我をしてしまうから。
それでもやっぱり走ってしまう。早く部屋へと戻りたいから。
部屋の扉をバタンと開けたら、ハーレイにまで「大急ぎだな」と笑われた。子供だけあって落ち着きが無いと、「それでは階段から落ちちまうぞ」と。
「平気だってば、落っこちないよ!」
ぼくの家だもの、慣れているから大丈夫!
ママに頼んで来たよ、アップルパイのレシピを書いておいて、って。
晩御飯の時に、ハーレイの席にレシピが置いてある筈だよ。ママが約束してくれたから。
「すまんな、後で俺が頼んでも良かったのに」
急がないから、次に来た時に貰うコースでも、俺は全く気にしないんだが…。
「ううん、ぼくはちっともかまわないってば、お使いくらい」
だってハーレイ、いつか作ってくれるんでしょ、ぼくに。
ママに貰ったレシピを使って、あの神様のアップルパイを。
「もちろんだ。そのつもりで貰うんだからな、レシピを」
前の俺のと何処が違うのか、そこをじっくり確認しないと…。
お前は同じ味だと言ったが、たまたまリンゴのジャムだってだけで、分量が違うこともある。
それに特別なレシピらしいし、他にも秘密が隠れているかもしれんしな?
しっかりと読んで、レシピの通りにきちんと作る。
菓子も料理もコツはそれだな、自分のものにしてしまうまでは基本に忠実に作ってこそだ。
レシピ通りに作って覚えて、今度はデカいアップルパイを作ってやるから、と言われたけれど。
好きなだけおかわり出来る大きさで焼き上げてやる、とハーレイは微笑んでくれたけれども。
「大きいのも食べてみたいけど…。最初は前のと同じのがいいよ」
前のハーレイが作ってくれてた、パイ生地の端っこのアップルパイ。
あれくらいのヤツを食べてみたいよ、一番最初は。
「端っこって…。小さいぞ?」
このくらいしか無かったわけだが、前のお前のアップルパイは。
小さすぎだ、とハーレイが片手で示した大きさ。
今の自分の小さな手でさえ、それを乗せたら小さすぎるとしか見えないサイズなのだけど。
「それでいいんだよ、最初のは」
前のハーレイとぼくの思い出のアップルパイは、大きくなんかなかったもの。
いつもパイ生地の端っこばかりで、形も色々だったんだもの…。
「ふうむ…。パイ生地の端っこで作って欲しい、と」
分かった、デカイのを作るついでに小さいのも一つ作ってやろう。
いかにも端っこで作りました、って感じの小さなアップルパイを一つ。余ったパイ生地で飾りも付けてだ、前のお前が食っていたようなヤツにするかな、小さいんだがな。
「ありがとう! それを食べたら、大きい方のパイをおかわりにするよ」
ハーレイに大きく切って貰って、あの味のパイを沢山、沢山。
「おいおい、アップルパイは菓子なんだからな」
そればかり食わずに飯も食べろよ、美味い料理も作ってやるから。
いくら思い出の味か知らんが、まずは食事が大切なんだぞ。
アップルパイばかり食うんじゃないぞ、と釘を刺されてしまったけれど。
いつかハーレイが作ってくれる時が来る。
前のハーレイがそれと知らずに何度も作った、リンゴジャムを使ったアップルパイを。遠い昔に修道院で考え出された、神様のアップルパイとそっくり同じな作り方のパイを。
シャングリラがまだ白い鯨ではなかった時代の、懐かしい思い出のアップルパイ。
神様のアップルパイのレシピでハーレイが作ってくれるパイも、きっとあのパイと同じ味。
そんな予感がするのだけれども、食べられる日はまだ先だから。
ハーレイとキスを交わせるようになるまで、アップルパイもお預けだから。
それまでは母が焼いてくれる度に、リンゴジャムのパイを味わおう。
あの味がすると、前のハーレイが作ってくれたアップルパイと同じパイだと。
そしていつかはハーレイと食べる。
最初は小さなアップルパイ。おかわりの時は大きなアップルパイを切って貰って。
聖痕をくれた神様のアップルパイとそっくりだった、前のハーレイが作っていたパイ。
「不思議だよね」と、「きっと神様の悪戯だよね」と笑い合いながら。
ハーレイと二人で暮らす家できっと何度も何度も、アップルパイを食べるのだろう。
リンゴジャムで作るアップルパイ。前の自分がシャングリラで食べていた、思い出のパイを…。
アップルパイ・了
※前のハーレイがブルーだけに作った、アップルパイ。リンゴのジャムと余ったパイ生地で。
遠い昔の修道院のレシピと、偶然、同じだったのです。今の生で、ゆっくり味わえそう。
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