シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「ママ、それなあに?」
ブルーがキョトンと見詰めたもの。
学校から帰って、丁度おやつを食べ終わる頃。ダイニングに母がやって来た。小さな布製の袋を持って。淡いピンクの布袋。母の手のひらに収まるくらいの、薄く透き通って見える布地の。
「お友達に頂いたのよ。乳香ですって」
中身はこんなの、と母が開けた袋。中にもう一つ透明な袋、密閉出来ると一目で分かる。透けて見える袋に幾つも入った、不規則な形の小さな塊。乳白色の。オレンジ色を帯びたものやら、薄い緑をおびたものやら。
「乳香って…?」
それはいったい何だろう、と眺めた塊。食べるものではなさそうだけれど。
「お香よ、木から採れる樹脂なの。ずうっと昔は教会で焚いていたらしいわよ」
とても大きな香炉に入れてね、天井から吊るして振っていた教会もあったんですって。
手に持てるサイズの香炉を振りながら、神父さんが歩いていた教会とか。
「ふうん…? 教会で使ったくらいだったら、いい匂いなの?」
ゴツゴツに見える塊だけれど…。見た目もあんまり綺麗じゃないけど。
「そうねえ、キャンディーを叩き潰したみたいな感じね」
ママはお香だと聞いてから見たし、お家に行ったら素敵な匂いがしていたから…。
不思議な形のお香なのね、と思ったけれども、知らなかったら変な塊かもしれないわね。
でもね、ちょっと触ってみれば分かるわ。
手を出して、とコロンと手のひらに塊が一つ。
(えーっと…?)
特に匂いはしないんだけど、と指先でつまむと粉っぽい感じがする表面。樹脂のくせに。
(ツルッとしてない…)
そういえば、松脂は滑り止めだと聞いたことがある。野球をやっている友達から。
(これも滑り止め…)
指先に粉がついちゃった、と白い粉がくっついた指を何の気なしに擦り合わせたら。
(えっ…?)
ふわりと漂った木の香り。粉がついていた指先から。
いきなり鼻腔をくすぐった香り。まるでログハウスに入ったように。そうでなければ、深い森の奥に足を踏み入れたように。
(…乳香の匂い?)
これがそうなの、と塊を鼻先に持って行っても、匂いはしない。さっき一瞬、掠めただけ。
勘違いかとキョロキョロ見回していたら、母がクスッと小さく笑った。
「森の匂いがしたんでしょ、ブルー?」
でも、今は匂いは消えちゃったんでしょ、ママにも分かるわ、そうだったから。
それが乳香の匂いなの。…だけど、匂いをゆっくり楽しみたいなら、焚かなくちゃ駄目。
置いておくだけでは、匂いは消えてしまうのよ。
乳香はこうして使うものなの、と母が持って来た小さな香炉。たまに微かな煙が昇っている所に出会うもの。玄関を入った所に置いてあったり、リビングだったり。煙の香りは日によって違う。
母は香炉の蓋を開けて炭に火を点けた。暫く経ったら、その上に幾つか置かれた乳香。
どうなるのかな、とワクワクしながら見ている内に。
「わあ…!」
凄い、と声を上げてしまった。樹脂の塊から白い煙が昇った途端に、さっきの香り。
ダイニングごとログハウスの中に引越したようで、おまけに深い森の中。外へ出たなら、大きな木々がぐるりと周りを囲んでいそうな。見渡す限りの針葉樹の森。
(…ヒノキみたい…?)
一番身近な香りで言うなら、きっとヒノキの匂いだろう。ログハウスも森も、ヒノキの香り。
ほんの小さな塊の何処に、部屋一杯に広がるヒノキの香りがギュッと詰まっていたのだろうか。
「ね、素敵でしょう? 森の中をお散歩しているみたいで」
ママもビックリしちゃったのよ。お家を作り替えたのかしら、と思ったくらい。
ちょっといいでしょ、森林浴の気分になれて。
「ホントだね!」
ぼくは森まで、滅多に出掛けて行けないけれど…。ログハウスだって、ほんのちょっぴり。
だけど、家ごと引越したみたい。森の中に住んでて、ログハウスみたい…!
驚いてしまった、乳香の煙に連れて行かれた森の奥。一歩も動きはしなかったのに。
魔法の煙に包まれたように、深い針葉樹の森を旅した。香炉から煙が立ち昇る間は、塊が溶けて無くなるまでは。
魔法のランプに思えた香炉。普段から母が使っているのに、それを見ている筈なのに。
素敵な旅をさせてくれた母に「ありがとう」と言って、二階にある自分の部屋に戻ったら…。
(まだ森の匂い…?)
乳香の煙はもう消えたのに、と見回したけれど、確かにさっきの香りがする。煙が此処まで来ていただろうか、部屋の扉は閉まっていたのに。
(何処かの隙間から入って来たとか…?)
煙だしね、と勉強机の前に座ると、匂いも一緒について来た。自分の動きに合わせたように。
何故、と後ろを振り向いたはずみに分かった香りの理由。
(ぼくの服…)
服に香りが残っていた。もしかしたら、髪にも残っているかもしれない。
森の中にいるような気がした乳香の匂い。針葉樹の森の奥へと入って行ったら、漂う匂い。
(あんなに小さな塊なのに…)
しっかりと香りが残るものらしい。煙みたいに儚くは消えてしまわずに。
それに、樹脂から森の奥の香り。森の匂いをギュッと閉じ込めたままで固まった樹脂。
(きっと、深い森の奥で採れるんだよね)
乳香という樹脂の塊は。乳白色の、不規則でゴツゴツした塊は。
そうに違いない、と服に残った香りから森を思い浮かべる。乳香の故郷の森の姿を。
きっと深くて広い森だと、何処まで行っても出られないくらいに大きな森、と。
幼い頃から、両親と何度か出掛けた森。ログハウスに泊まったことだってあった。乳香の香りがしていた木の家。天井も壁も全部木の家、木目の模様が面白かった。
(動物が隠れていたりして…)
板に描かれた自然の模様。其処に隠れた絵を探していた、天井や壁を眺め回して。ログハウスの外の壁にも動物は隠れていたのだけれども、森の中には本物の動物。
(遊びに来ないか、待っていたっけ…)
夜になったら、お伽話みたいにランタンを提げた森の生き物たちが訪ねて来るかと。太陽が輝く昼の間は、森を駆けてゆく鹿やキツネが見えはしないかと。
楽しかった思い出が沢山の森。生まれつき身体が弱かったから、長い滞在は無理だったけれど。
(シャングリラだと、森は無かったんだよ)
前の自分が暮らした船。楽園という名の白い鯨がいくら大きくても、流石に森は乗せられない。
乳香が運んだ森の匂いは、今のぼくしか知らない匂い、と思ったけれど。
服に残った微かな香りを、スウッと深く吸い込んだけれど。
(…ぼく、知ってた…?)
前の自分の記憶にもあった、と思った香り。知っている、と反応を返した遠い遠い記憶。
何故、と首を傾げたけれども、長く潜んだ雲海の星。アルテメシアには人工の森があったから。前の自分は其処へ何度も降りていたから、その時に覚えた香りだろう。
ミュウと判断された子供を救い出す準備をしていた時やら、色々な用事で潜んだ森。
(シャングリラだったわけがないもの…)
船に森など無かったから。
木材にするための木は何本か植えていたけれど、伐採する時はお祭り騒ぎになったほど。普段は見られない珍しい光景、それを見ようと大勢の仲間が集まって来て。
たった一本の木を切るだけのことで、皆が賑やかに騒いでいた船。本物の森では有り得ない話。森に行ったら、木は何本でもあるのだから。
一本切っても、どれが減ったか分からないほどに。切り株でようやく気付くくらいに。
シャングリラと森は全然違う、と考えたけれど。
(…でも、あった…?)
ああいう森の香りが船に。針葉樹の森の爽やかな香り、乳香の煙にそっくりな香り。
それをシャングリラで吸い込んだような、そんな気がしてたまらない。森は無かった筈なのに。木の香りだって、あれほどに強く船に漂ってはいなかったろうに。
(…伐採した時は、匂いがしたけど…)
直ぐに何処かへ消えてしまった。材木にするために運び出されて、それきりだから。
森の匂いだと、深く吸い込むチャンス自体も滅多に無かった。木を伐採した時だけの香り。
(ひょっとして、香水みたいなもの…?)
香水だったら、合成することも出来ただろう。
そういう香りが好きな仲間が多かったなら。森の香りが欲しいと希望が出されたならば。
(…匂い、知らないと駄目なんだけど…)
でないと希望も出せないけれど、と首を捻った前の自分の微かな記憶。
アルテメシアで森に降りていた自分はともかく、他の仲間とは縁遠い香り。木を切った時に漂う匂いは普段は船には無いものだけれど、それが気に入られていたのだろうか。
森の匂いは、心が落ち着くものだから。
木を切った時の香りがいつでもあったならば、と希望が出されて、森の匂いを作ったろうか…?
シャングリラに森の匂いはあったのかな、と遠い記憶を探っていたら聞こえたチャイム。
仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、疑問をぶつけることにした。キャプテンを務めたハーレイだったら、そうしたことにも詳しい筈。
あの香りが船にあったとしたなら、どんな経緯で生まれたのか。何処で使われた香りなのかも、間違いなく知っているだろうから。
「あのね、ハーレイ…。シャングリラに森の匂いって、あった?」
森の匂いがしてたのかな、って…。あの船の中で。
「はあ? 森の匂いって、お前…。考える必要も無いだろうが」
あるわけがないぞ、そんな匂いは。
森の匂いとか言い出す以前に、シャングリラに森は無かったんだし。
「そうだよね…。やっぱり、あるわけないよね…」
ぼく、勘違いをしていたみたい。…今のぼくと、ごっちゃになっちゃったかも…。
「森の匂いがどうかしたのか?」
お前、森にでも行って来たのか、俺は話を聞いちゃいないが。…いつ出掛けたんだ?
「えっと…。森に行ってたわけじゃなくって…」
そうじゃないけど森の匂いで、なんて言ったらいいんだろう…?
シャングリラにこういう匂いがあったかも、っていう気がして来ちゃって…。
なんと説明すべきだろうか、と服を嗅いでみたら、袖に残っていた匂い。
言葉にするより早そうだから、とハーレイの前に差し出した腕。
「この匂いだよ、ぼくの袖の匂い」
ちょっぴり袖に残っているから、分かると思う。…どう?
「ほう…。ヒノキみたいな匂いがするな」
なんの匂いだ、木屑に袖でも突っ込んだのか?
確かに森の匂いではあるな、お前の袖にくっついてるのは。
「乳香だって。…ママが貰って来たんだよ」
それを香炉で焚いて貰ったら、ぼくの服までこういう匂いになっちゃった…。
「なるほど、乳香だったのか」
「知ってるの?」
「もちろんだ。有名な香料なんだしな」
だが、嗅いだのは初めてだ。…もっと甘いんだと思っていたなあ、菓子みたいに。
森の匂いだとは知らなかったぞ、百聞は一見に如かずってか。
「本物、見てみる?」
ちゃんと焚いたら、もっと凄いんだよ。部屋ごと森になっちゃったみたい。
服にも匂いがくっつくほどだし、ホントのホントに凄いんだから…!
「本物って…。かまわないのか?」
「ママに頼めば大丈夫だよ」
ハーレイも本物を知りたいみたい、ってお願いしたら香炉を貸してくれるよ。
乳香だって分けてくれると思うよ、ちょっと行ってくる!
ママー!
トントンと階段を駆け下りて行って、借りて来た香炉と、貰った乳香が何粒か。
母に教えて貰った通りに、炭にそうっと火を点けて…。
「この上に乳香、乗っけるんだよ」
乳白色の粒を置いて間もなく、昇り始めた乳香の煙。ふうわりと部屋に広がる匂い。何もかもが木に変わったように。部屋ごと森に引越したように。
「こいつは凄いな…。森そのものだな」
でなきゃアレだな、森の中に建ってるログハウスに入った時の匂いだ。
「でしょ? ぼくもログハウスだと思っちゃったよ、ママが香炉で焚いてくれた時に」
それでね、この匂いなんだけど…。
ぼく、シャングリラで嗅いだような気がして仕方なくって…。こういう感じの森の匂いを。
「この匂いをか?」
おいおい、森そのものの匂いじゃないか。…どう考えても、森の匂いだ。
シャングリラに森なんかは無かったわけでだ、ログハウスだって…。
そんな建物は作っちゃいないぞ、木材用の木を育ててはいたが、あれは需要があったからで…。
余った分で俺が木彫りを作ってはいても、ログハウスを建てるほどには余っていない。
伐採した木は端から加工で、匂いなんかはアッと言う間に消えちまっていたぞ、船からな。
こんな匂いがシャングリラにあったわけがない、と香炉を見ていたハーレイだけれど。
鳶色の瞳が、煙になってゆく乳香の粒をじっと見詰めていたのだけれど…。
「待てよ、アレか?」
ハーレイがそう呟いたから。
「あった? …こういう匂いの香水とかが」
香水しか思い付かないけれども、シャングリラで合成していたわけ…?
「いや、香水じゃなくて…。そのものってヤツだ」
「えっ?」
それってなんなの、どういう意味なの?
「これがあったと言っているんだ。…乳香がな」
前のお前だ、乳香を奪って来ちまったんだ。
奪おうとして出掛けたわけじゃなくって、他の物資に紛れ込んでた。
覚えていないか、此処で燃えているような粒を沢山、お前は奪って来たわけなんだが。
このくらいの袋一杯に、とハーレイが両手で示した大きさ。褐色の手のひら二つ分くらい。
目を丸くして眺めた瞬間、遠い記憶が蘇って来た。
「そうだっけ…!」
箱を開けたら、布の袋が入ってて…。
袋の中身が全部、乳香。…最初は何だか分からなくって、ハーレイたちと見てたんだっけ…。
シャングリラがまだ、白い鯨になるよりも前。
生きてゆくために必要な物資は、人類の輸送船から奪っていた。前の自分が出掛けて行って。
ある日、コンテナごと奪った沢山の物資に紛れていた箱。それの中身が乳香入りの布袋。
生憎と箱には、何も書かれていなかった。布袋にも、何処かの星らしき名前だけ。
ハーレイは既にキャプテンになっていたから、物資の管理をしていた者から連絡が来た。中身が謎の荷物があったと、廃棄処分にすべきだろうか、と。
そういう連絡が入った時には、前の自分とキャプテンのハーレイ、それにゼルたち四人の出番。荷物の処分をどうするべきかを決定するための最高機関。
限られた物資で生きてゆかねばならない船だし、使える物資は有効活用したいから。
どういう使い道があるのか、それを検討すべきだから。
よほど役立たない物でない限りは、大抵は此処で救済された。使うべき場所を見付け出しては、使い方を指示して、其処へ回して。
そんな具合で、乳香がドッサリ詰まった袋も、会議の席へとやって来たけれど。
「なんだい、これは?」
小石ってわけでもなさそうだけどさ、変な物だねえ…。
初めて見たよ、とブラウが一粒つまみ上げてみて、「変な匂いだ」と指を拭った。指先についた白っぽい粉が妙な匂いで、妙だけれども悪くはないと。
「ふむ…。確かに悪くはない匂いじゃのう」
馴染みのない匂いではあるんじゃが…、とゼルも真似てみて、食べられるのかと質問を投げた。こういった時に強いヒルマン、博識で調べ物の得意な友に。
「さて…。どうなのだろうね?」
匂いと見た目で判断するのは危険だというのが常識なのだし…。
エラと私で調べてみよう。
袋に書かれた文字は手掛かりにならないだろうし、どうしたものか…。
匂いと見た目を頼りにするしか道は無さそうだね、それで候補を絞り込んでから分析する、と。
食べられる物なら厨房に回して、駄目でも何かに使えそうな気はするのだがね。
単なる私の勘なのだが、と乳白色の粒を幾つか手にして調べ物に向かったヒルマンとエラ。
彼らがデータベースで調べた結果は、乳香だった。
もう一度招集された会議の席で、報告された「乳香」という乳白色の粒たちの名前。
「乳香? …香料なのかい、この粒は?」
どおりで匂いがするわけだ、と前の自分もつまんでみた粒。ブラウやゼルがしていたように。
「貴重な香料だったらしいよ、昔はね」
人類が地球しか知らなかった時代は、とても貴重なものだったそうだ。
今は栽培に適した場所も多いらしいが…、とヒルマンが用意していた香炉。物資の中に混ざっていたのを、捨てずに倉庫に入れてあった品。
初めての出番だったのだけれど、香炉の中の炭に火が点き、その上に乳香の粒が置かれたら…。
「いい香りじゃないか、妙な匂いだと思ったけどさ」
なんだか気分がスッキリするよ、とブラウが一番に述べた感想。船の中では嗅いだことのない、不思議な匂い。けれど、爽やかだと思える匂い。
「データベースの情報によると、森の匂いがするそうだよ。…我々とは無縁のものだがね」
この船の中に森などは無いし、森の匂いを覚えてもいない。
しかし、森林浴という言葉があったくらいに、人間は森に惹かれるようだ。いい匂いだと感じる気持ちに、記憶は関係無いのだろうね。
我々は本物の森を知らないのに…、感慨深げに言ったヒルマン。森はこういう匂いらしい、と。
「乳香は森で採れるのかい?」
前の自分がそう訊いた。今の自分と全く同じに、豊かな森を思い浮かべて。
まだその頃には、データでしか知らなかった森。何処までも木々が深く茂った光景を。
「いや、元々は砂漠だそうだ」
今も似たようなものだと思うよ、テラフォーミングしても上手くいかない場所も多いし…。
そういった土地で栽培しているのだろうね、荒地のままで放っておくより、農地がいいから。
遠く遥かな昔の地球。乳香は砂漠に生えている木から採集するものだった。樹皮に傷をつけて、滲み出した樹液が固まったものが乳香になる。乳香の木が育つ砂漠は、ごく限られた地域だけ。
「何処ででも採れたものではないから、黄金と同じ値段で取引されたようだね」
なにしろ砂漠で採れるものだし、輸送するにも砂漠を運んでゆくしかない。
砂漠の旅には危険が伴う。珍しい上に、運ぶのも命懸けとなったら、高くなるのも当然だろう。
「そんなに貴重だったのかい?」
黄金と同じ値段だなんて…、と乳香の粒をまじまじと眺めた前の自分。
それほとに高い香料を贅沢に使っていた人間とは、やはり王者の類だろうかと。
ところが、外れてしまった推測。
乳香は人が使うのではなく、神に捧げる香だった。遠い昔に栄えた砂漠の王国、エジプトでも。後の時代の教会でも。
「教会で神に祈る時には、必ず焚いていた時代もあったそうだよ」
その習慣は薄れてしまって、特別な時しか焚かないように変わっていって…。
今では普通の香料の一つになったようだね、香りがいいからと色々なものにブレンドされて。
「こんな塊が神様用だった時代がねえ…」
おまけに金とおんなじ値段だったなんて、冗談だとしか思えないけどね…?
ついでに、この船に教会は無いし…。
乳香とやらは使うしかないね、適当な場所で。
匂いは確かにいいんだから、とブラウが最初に下した判断。前の自分も、ハーレイたちも異議は全く無かったから。
乳香は休憩室などで焚かれた、偶然奪った塊が船にあった間は。
倉庫に幾つか突っ込まれていた、香炉や炭を引っ張り出して。
乳香が物資に紛れていたのは、その一度だけ。
布袋に詰まっていた分が焚かれて無くなってしまった後には、忘れ去られていたのだけれど。
シャングリラが白い鯨に改造されたら、乳香にも転機がやって来た。
「お前も覚えているだろう? 公園とかが出来て、船のあちこちに緑が増えて…」
みんなが花や緑の香りを楽しむ時代になってだな…。
乳香を思い出したヤツらが…、とハーレイが指差す香炉の中身。乳香は燃えて消えてしまって、今は炭しか残っていない。けれども、部屋には森の香りが漂ったまま。
シャングリラの皆もそうだった。
遠い昔に焚いて無くなってしまった乳香。船の何処にも無いというのに、心に残っていた香り。森の匂いがする香だったと、皆は忘れていなかった。まるで残り香があったかのように。
白い鯨に余裕が出来たら、誰からともなく出て来た声。
この船で乳香の木を育ててゆくのは無理だろうかと、あの香りが今、あったなら、と。
森の匂いだと言われた乳香。
今ならば森の緑も想像出来ると、神に捧げる香だった理由も納得出来る、と。
神に祈りを捧げる余裕も充分あるから、乳香の木を育てられたら、と。
乳香を焚いて神に祈れば届きそうだ、と上がった声。
人類にとってはただの香料に過ぎないのならば、この船では乳香を神に捧げてみたいと。
「そうだったっけ…」
人類が神様用に使ってないなら、使おうって…。
蜜蝋の蝋燭と同じ理屈で、ミュウ専用。…お祈り用には乳香だっけね、シャングリラでは。
遠く遥かな昔の地球では、一部の砂漠にしか無かったという乳香の木。
前の自分たちが生きた時代には、荒地でも育つ作物とされて、あちこちの星に植えられていた。
もう珍しくはなかった乳香。テラフォーミングの成果が現れなければ、植えられたほどに。
樹脂を採取する乳香の木は、子供たちの教材にもいいとヒルマンも大いに推したから。
居住区に幾つも鏤めてあった公園の一つを、乳香の木に適した環境に整備した。
雌雄は別なのが乳香の木。
それもきちんと考慮しながら、前の自分が奪った苗。人類のための農業施設から。
乳香の木は順調に育って、係の者たちが世話をしていた。樹皮に傷をつけ、樹脂を固めて乳香の粒を採取しながら。乳白色の塊を幾つも幾つも、幹から剥がして集めながら。
本物の乳香の香りがあったシャングリラ。
白いシャングリラになるよりも遥かな昔に焚かれて、後の時代にも焚かれた乳香。白い鯨では、乳香は船で作るもの。乳香の木から樹脂を集めて、シャングリラ生まれの乳香を。
前の自分が覚えていた香りは、それだった。シャングリラにあった、と思った森の匂いは。
「…あの乳香、何処にあったっけ?」
乳香の木が植えてあった場所は、なんとなく思い出せるんだけど…。
あの木から採った乳香は何処に置いてたのかな、倉庫かな…?
「蝋燭と同じだ、係がいたな」
倉庫の物資の管理係の一人がそれだ。専用の係を決めておかんと、直ぐに対応出来ないし…。
乳香を焚きたい気持ちになったら、出掛けて行って頼むんだ。下さい、とな。
そしたら香炉や炭と一緒に渡して貰えた。そいつを部屋に持って帰って、祈ればいい。使い方も教えて貰えたからなあ、こうするんです、と丁寧に。
蝋燭を貰って灯してもいいし、乳香を焚いても良かったわけだ。自分の部屋で祈る時にはな。
「うん…。思い出したよ、前のぼくも焚いていたんだっけ…」
倉庫に出掛けて、係に頼んで。…香炉と乳香を出して貰って。
「俺も一緒にいたっけなあ…」
お前が乳香を焚いていた時は、前の俺も一緒だったんだ。
どういうわけだか、お前、いつでも俺と焚くんだ、わざわざ呼んだり、待っていたりして。
「せっかく貰って来たんだから」って、俺が行くまで焚かずにいたなあ…。
貴重な乳香なんだから、って頑固に言い張り続けてな。
「だってそうでしょ、本当だもの」
昔は金と同じ値段で取引されてた、神様専用のお香なんだよ?
一人占めするより、ハーレイと二人でお祈りした方が神様にも届きやすいかな、って…。
白いシャングリラで採れた乳香。船で育てているとは言っても、山のようには採れない乳香。
ソルジャーが他の仲間たちの分まで、使ってしまっては悪いから。
本当にたまに、貰って焚いた。
青の間で、そっと。
ハーレイと恋人同士になるよりも前から、いつも二人で。
「無事に地球まで行けますように、って祈ったっけね…」
乳香を焚いて、森の匂いが広がったら。…シャングリラで地球まで行けますように、って。
「お前と俺と、二人でな…」
二人一緒に辿り着くんだ、って祈ってたっけな、お前と一緒に。
…恋人同士になるよりも前から、ずっと二人で祈ってたのに…。お前、祈らなくなったんだ。
寿命が尽きると分かった後には、自分のためには。
乳香を貰って来て焚くことはあっても、いつも仲間のためだけだった。
俺と一緒に地球へ行こう、って祈りはしなくて、俺にも「祈らなくてもいい」って…。
「…叶わないことまで、祈っちゃ駄目だと思っていたから…」
神様に二人でお願いするなら、叶えて貰えることでなくっちゃ。
…我儘を言ったら、他のお祈りまで聞いて貰えなくなりそうだもの。
だから、お祈り、やめたんだよ。…前のぼくのためのお祈りは…。
自分のためには祈らなくなった後にも、ハーレイと二人で捧げた祈り。
乳香を貰って、香炉を借りて。…青の間で、二人。森の匂いが漂う中で。
「…最後に焚いたの、いつだったっけ…?」
覚えていないよ、ハーレイは今も覚えてる…?
前のぼくと二人で乳香を焚いて、最後にお祈りしていた日はいつだったのか…。
「うーむ…。それはジョミーじゃないのか?」
お前、ジョミーが生まれた後にだ、何度か焚いていただろう?
次のソルジャーが無事に育つようにと、誕生日とかに…。
…それだ、ジョミーをシャングリラに迎え入れる前に焚いたんだ。
目覚めの日の直前ってわけじゃなかったが、準備を始めて、ナキネズミも船から送り出して…。
そういう頃に、お前が乳香と香炉を用意してだな…。
「…焚いたんだっけね、ハーレイと…」
いつもみたいに、二人一緒に。…炭に火を点けて、乳香を乗せて。
「作戦が上手くいくように、ってな…。ジョミーを無事にシャングリラに迎えられるように」
あれが最後になっちまったなあ、お前と二人で乳香を焚くことは二度と無かった。
…もう一度くらいは焚けるだろうと思ってたのにな、ジョミーの次の誕生日とかに…。
前のハーレイと二人で乳香を焚いて、作戦の成功を祈った自分。
新しいソルジャーになってくれるジョミー、彼を首尾よくユニバーサルから救えるように、と。
けれども、予想以上のジョミーの反発。
シャングリラから家に戻ったジョミーは、暴れ馬のようになってしまった。計算ずくで、家へと帰した筈だったのに。両親がいないと知ったジョミーは、船に戻ると踏んでいたのに。
(…思った以上に、ジョミーは強情…)
シャングリラに戻らず、捕まったジョミー。心理検査に抵抗して目覚め、爆発したサイオン。
遥か上空へと逃げるジョミーを追い掛けて飛んで、前の自分は力を使い果たしてしまった。
乳香を焚いて祈る体力は残ってはおらず、ただ横たわっているしかなかった。
アルテメシアの雲海の中に潜む間に、ジョミーの誕生日が巡って来ても。
ハーレイと二人で焚くための乳香、それを貰いにはもう行けなかった。
力が尽きてしまった身体に、保管してある倉庫までの道は遠すぎたから。
ハーレイに頼んで行って貰うのも、悪いような気がして頼まないままになったから…。
そうだったのか、と見詰めた香炉。とうに乳香は燃え尽きたけれど、森の匂いが残った服。
強い香りを纏った煙が、また新しく染み込んだから。
前のハーレイと二人で焚いていた香り、あの香りが部屋に広がっていった後だから。
「…ハーレイと一緒に乳香を焚いたの、あれ以来だね…」
ちっとも気付いていなかったけれど、あの時以来。
あれが最後で、今日まで焚いていなかったんだよ。…すっかり忘れてしまっていたけど。
「俺も忘れてしまっていたなあ…。お前が香炉を持って来たって」
何年ぶりになるんだろうなあ、こうして二人で焚いたのは。
そうだ、今のお前の人生ってヤツはこれからなんだし、今の、祈ってもいいんじゃないか?
俺たちのために、久しぶりに。
…もう乳香は焚いちまったが、今から祈っても間に合うかもしれん。
「ホントだ…!」
急がなくっちゃ、まだ服とかには匂いが残っているんだから…!
二人でお祈り、今の分で…!
早く、早く、とハーレイを急かして、二人一緒に目を閉じた。
遠く遥かな時の彼方で、二人で行こうと祈った地球。
青い地球には来てしまったけれど、今は新しい人生だから。
自分もハーレイも青い地球の上に生まれ変わったから、幸せを祈ってもいいだろう。
二人で一緒に焚いた乳香、森の香りが微かに残っている内に。
幸せに生きてゆけますようにと、久しぶりに神に祈っても。
いつまでも、何処までも、ハーレイと二人。
この地球で生きてゆけますようにと、いつまでも何処までも、二人、手を繋いで幸せにと…。
乳香の香り・了
※神に捧げる香だった、乳香。白いシャングリラでも乳香の木を植えて、祈る時にはその香を。
前のブルーもハーレイと一緒に何度も祈ったもの。今は青い地球で、幸福を祈れる時代。
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