シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
その日は朝からシトシトと雨。今の季節に相応しい秋雨、それほど強くはない雨脚。
けれども傘は必要だから、とブルーが差して出掛けた雨傘。弱い身体に雨は大敵、濡れた所から冷えてしまって風邪を引くから。
夏の最中でも危ないというのに、今は秋。濡れないようにと雨傘を差して学校へ。
バスに乗るまでにすれ違った人は、誰でも傘を差していた。バスの中でも、畳んだ傘を手にした人ばかり。ところが、学校から近いバス停で降りたら、そうではなくて。
自分は傘を広げたというのに、学校へ向かう生徒たちの中には…。
(差してない人…)
何人か混ざった、傘を差していない生徒たち。シールドで雨を防いでいるから、淡い黄色や緑の光に包まれて。
もれなく男子で、シールドと自分の度胸に自信のある生徒。颯爽と歩いてゆく彼ら。
学校からは「雨の日は傘を差すように」と何度も指導されているのに。サイオンは使わず、人間らしく、と。人間が全てミュウになっている、今の時代の約束事。
(でも、チェックしているわけじゃないし…)
校則違反とまでは言われない。傘の代わりにシールドでも。
教師とすれ違ったら、「傘は?」と軽く睨まれる程度。だから彼らは傘を差さずに堂々と登校、睨まれた時には「忘れました」と悪びれもせずに言い訳をして。
(…前のぼくなら…)
傘を差さない方でいられた。メギドの炎も受け止めたシールド、土砂降りだって軽く防げる。
今の自分も、器用だったら出来た筈。度胸はともかく、前と同じにタイプ・ブルーだから。
傘を差さない生徒たちの中には見えない、青い光を帯びたシールド。本当だったら、彼らよりもずっと見事なシールドを張れる筈なのに…。
(…不器用だしね…)
まるで使えない、今の自分が持つサイオン。名前ばかりのタイプ・ブルー。
溜息をついて傘を畳んで、校舎に入った。こんな日は不器用さを思い知らされるよね、と。
朝の溜息はもう忘れていた、三時間目のハーレイの授業。
雨はまだシトシトと窓の向こうで降っているけれど、突然、ハーレイが教科書を置いて。
「このクラスにもイギリス紳士がいるようだな」
お前とお前、と指差された男子。他にも何人かいるかもな、と。
(イギリス紳士…?)
ブルーもキョトンとしたのだけれども、クラスの生徒もポカンとした顔。ハーレイが「お前」と指した生徒は、この地域の生まれの筈だから。つまりは日本で、イギリスなどとは無関係。
けれど、ハーレイはかまわず続けた。
「俺が見掛けたのは、お前たちだ。…イギリス生まれか?」
立派なイギリス紳士だったが、イギリスから引越して来たのか、うん…?
「違います!」
何故、と慌てる男子が二人。多分、生粋の日本生まれで、日本育ちだろう二人。
日本という国は今は無いけれど、この辺りには昔、日本があったから。その名を貰って、あえて呼ぶなら日本になるのがこの地域。
其処で育った筈の彼らが、どうしてイギリス生まれになるのか。意味が全く分からない。周りのクラスメイトも同様、ザワザワと囁く声が広がる。
ハーレイが言った、イギリス紳士とは何だろう?
指された男子は、どちらかと言えばヤンチャな方。紳士というより、悪ガキなのに。
「お前たち、傘を差さずに来ただろうが」
俺は見てたぞ、お前たちが傘を差さずに歩いていたのを。
それでイギリス紳士だと言ったんだ、と始まった雑談。ハーレイの授業のお楽しみ。ためになる話や、笑い話や、クラス中が熱心に聞き入る時間。
(傘のお話…)
遠い昔のヨーロッパ。まだ人間が地球しか知らなかった頃。
其処では傘と言ったら日傘で、女性が差して歩くもの。強い日射しを遮るために。
少し経ったら、雨を避けるのにも使うようになった。傘があったら防げる雨。
それでも傘は女性の持ち物、男性は雨傘などは差さない。彼らには馬車があったから。馬車には屋根がついているから、乗り込めば決して濡れたりはしない。何処へ行くにも快適な馬車。
もし雨傘を差していたなら、馬車が持てないと皆に知らせるようなもの。
いくら立派な身なりをしたって、服を整えるのが精一杯。馬車が買えるお金はありません、と。馬車を持つには、かなりの費用が必要だから。馬はもちろん、御者を雇って他にも色々。
馬車は紳士のステイタスシンボル、持てないことは恥ずかしい。雨傘を差して馬車が無いのだと知られるよりかは、濡れて歩いた方がマシ。馬車の迎えがまだ来なくて、と。
そういう時代に登場したのが、ジョナス・ハンウェイなる人物。十八世紀の半ばの人。
立派なイギリス紳士だったというのに、彼は雨傘に惚れ込んだ。旅をした先で、雨傘の便利さに気付いたから。是非ともこれを広めるべきだ、と考えた彼。
それには自分が差さなければ、と笑われながらも雨の日には傘。特別に誂えた立派な雨傘。
紳士が集うクラブにも雨傘を差して出掛けて、ひたすら重ね続けた努力。
お蔭で傘はイギリス紳士のシンボルになって、誰もが競って持つようになった。自分の傘を。
ただし…。
「やっぱりその後も差さなかったそうだ、イギリス紳士は」
傘は持ってるだけなんだ、というオマケがついた。持つだけで差さないイギリス紳士。
雨が降ったら、帽子で粋に避けるもの。彼らはお洒落な帽子を被って出歩いたから。
傘はステッキと同じで紳士の持ち物、高価な雨傘はステイタスシンボル。こんなに立派な雨傘を作らせました、と周りに知らせるためのもの。充分な財産を持っています、と。
そうやって生まれた雨傘だから、傘の柄はステッキのように曲がっているらしい。昔も今も。
立派な傘を持っているのに、差そうとしなかったイギリス紳士。傘は持ち物だったから。
「傘を差さないヤツらはそれだ」と笑ったハーレイ。
シールドを張って雨を防いで、傘を差してはいなかった生徒。
「差さないにしても、傘を持ったら立派なイギリス紳士になれるぞ」と。
ドッと笑いに包まれた教室。それでハーレイはイギリス紳士と言ったのか、と。
(ふうん…?)
雨の日に傘を差していなければ、イギリス紳士。
面白かった、と大満足だった雑談の時間。今日も素敵な話が聞けた。雨傘について。
雨は帰る時にもシトシト、校舎から出るのに傘を広げた。
帰ってゆく生徒の中に混じったイギリス紳士。シールドで雨を防いで歩く男子たち、ハーレイに教わったばかりのイギリス紳士が何人か。傘を差さずに悠然と。
イギリス紳士だ、と眺めながらも自分は傘の中だけれど。濡れないように広げているけれど。
紳士のための雨傘が生まれる前の時代は、傘は女性のための持ち物。
馬車が無いのだと思われないよう、紳士は傘を持たずに歩いた。雨の中でも。それを思うと…。
(ぼくって、駄目かも…)
傘を差さないと歩けないタイプ・ブルーだから。不器用なせいで張れないシールド。
お洒落に傘を抱えて歩けはしなくて、イギリス紳士は気取れない。傘を畳めば、濡れるだけ。
(…ハーレイだとシールド、張れるのにね?)
前のハーレイも、今のハーレイも、防御に優れたタイプ・グリーン。自分のように不器用というわけでもないから、今のハーレイもシールドは上手く張れる筈。
きっとハーレイなら、イギリス紳士のクチだったろう。隣町の家で育ったハーレイ。
子供時代はヤンチャだったと聞いているから、雨の日も傘を差さずに登校。
その光景が目に浮かぶようで、クスッと零してしまった笑い。
ぼくはイギリス紳士になれないけれども、ハーレイはきっとイギリス紳士、と。
家に帰ってもシトシトと雨。イギリス紳士な子供時代のハーレイが駆けてゆきそうな。
今日はハーレイは来てくれるだろうか。仕事帰りの、大人のハーレイ。
来て欲しいな、と部屋で何度も窓を見ていたら、チャイムが鳴った。窓に駆け寄り、見下ろした庭と門扉の向こう。大きな雨傘を広げたハーレイ、当たり前のように差しているけれど…。
(要らないんだよね?)
傘なんか、きっと、本当は。
もう大人だから、「人間らしく」と差しているだけで、シールドすれば要らない雨傘。
きっとそうだという気がするから、ハーレイと部屋で向かい合うなり訊いてみた。
「ねえ、ハーレイもイギリス紳士?」
「はあ?」
いきなりなんだ、何の話だ?
俺はイギリス生まれじゃなくてだ、隣町で生まれて育ったんだが…?
「今日のハーレイの話だってば。…ぼくのクラスでやってた授業」
傘のお話、していたじゃない。傘を差さずに登校した子はイギリス紳士、って。
ハーレイの子供の頃はどうなの、イギリス紳士な子供だったの?
「あれか…。うん、確かにイギリス紳士だったな」
シールドすれば濡れないわけだし、傘を差すなんて面倒じゃないか。
それに学校に行く時は降っていたって、帰る頃には止んでいることもよくあるだろう?
晴れちまっていたら傘を忘れて帰るのがオチだ、忘れないためにも持って行かないのが一番だ。
だが、あの頃の俺はイギリス紳士を知らんしなあ…。
気の利いた言い訳は出来なかった、とハーレイが浮かべた苦笑い。
今なら先生に「傘は?」と睨まれた時は、「イギリス紳士ですから」と胸を張れるんだが、と。
「ハーレイ、やっぱりそうだったんだ…」
イギリス紳士だったのかな、って想像したけど、当たっていたよ。
タイプ・グリーンはシールドを張るのが上手いから…。子供の頃にはやってたよね、って。
さっきは傘を差していたけど、子供だった頃はイギリス紳士、って。
「まあな。…ヤンチャ盛りだ、ついついやりたくなるってもんだ」
もっとも、今から考えてみれば、前の俺のせいってヤツも少しはあるかもしれんがな。
俺がイギリス紳士になっちまった理由。
「えっ?」
前のハーレイって…。なんで、前のハーレイがイギリス紳士?
何処でそんなのやっていたわけ、シャングリラに雨は降らなかったよ…?
公園とかに水撒きする時は、雨に似ていたかもしれないけれど…。水撒きの時間は入らないのが基本だったよ、植物の休憩時間だから。
「シャングリラじゃなくて、ナスカだ、ナスカ」
雨上がりに虹を探していたって話をしたろう、ナスカには雨が降ったんだ。本物の雨が。
しかし、シャングリラに雨傘は一つも無かったからな。
ナスカに着くまで雨の中には出なかったんだし、準備していたわけがない。アルテメシアの雲の中にいるか、でなきゃ宇宙を飛んでいるか。
傘の出番は全く無いから、誰も傘など作らんだろうが。
前の自分は深い眠りに就いていたから見ていないけれど、雨が降ったというナスカ。
淡いラベンダー色の空から、植物たちを育てる恵みの雨が。
それにちなんで、ジョミーがナキネズミに「レイン」と名前をつけた。恵みの雨のレイン、と。
赤いナスカに降り注いだ雨。白いシャングリラに雨傘は乗っていなかったのに。
雨は何度も降ったけれども、何故か作られなかった雨傘。
誰一人として傘を思い付かなくて、雨が降ったらシールドで防ぐものだった。
「前の俺だって、そうだったわけだ。雨が降ってるな、と思った時にはシールドだった」
そいつを覚えていたかもしれんな、自分じゃ気付いていなかったが。
…だから余計にイギリス紳士だ、傘を差さないのが当たり前の暮らしをしてたんだから。
本物のイギリス紳士とは事情が全く違うが、ナスカじゃ傘は差さないってな。男も女も、大人も子供も。…それを四年もやっていればだ、傘は差さないものだと思ってしまうだろうが。
「…四年もやったら、そうなるかもね…」
雨の日は傘を差しましょう、って注意する先生だって一人もいないんだし…。
ヒルマンやエラがそう言わないなら、雨はシールドで防ぐものだと思っちゃうよね。サイオンを普段の生活に使っちゃ駄目だ、って注意してたの、あの二人だから。
「そのヒルマンとエラも、雨の時はシールドを張っていたからなあ…」
雨傘のことを知らなかったとは思えないがだ、作ろうと言いもしなかった。何故なんだか…。
ひょっとしたら、わざと黙っていたかもしれないな。雨傘のことを。
ナスカには少し寄っただけだ、というのがエラたちの考え方だったんだし…。ナスカに合わせて雨傘を作って渡してしまえば、若いヤツらが勘違いをしかねないからな。
この星にずっと住んでいいんだ、というお許しが出たと。こうして傘まで出来たんだし、と。
実際の所はどうだったのかは分からないがな、と窓の外の雨をチラリと眺めたハーレイ。
前の俺は何も聞いてはいないし、ナスカに雨傘が無かった理由は謎なんだが、と。
「…何故無かったかは俺にも分からん。だが、傘無しで四年間だ」
シールドで雨を防ぐというのは、便利だったんだか、不便だったのか…。
濡れない点では、傘よりもシールドの方が上ではあるが…。せっかくの雨を弾いちまって、雨の恵みが分からないのが不便だと言えば不便だったな。
ゼルはわざわざシールドを解いてみたんだぞ。雨というのはどんなものか、と。
「そっか…。シールドしてたら、雨はシールドの周りを流れるだけだし…」
ちょっと触ってみようとしたって、その手もシールドされちゃうね。
シールドは身体を丸ごと包み込むもので、手とか足だけヒョイと出すのは無理なんだっけ…。
うんと頑張ったら、そういう使い方も出来るものかもしれないけれど。
「前のお前がやってないなら、多分、簡単ではないんだろうな」
自分の身体を守るために張るのがシールドなんだし、はみ出しちまったら話にならん。
爆風だろうが、小雨だろうが、身体をすっぽり守ってこそのシールドだろう。
ナスカに傘があったとしたらだ、ゼルは傘の下から手だけを出せば良かったんだが…。傘の柄を持っていない方の手を、突き出すだけで良かったんだが。
…生憎と傘は無かったからなあ、シールドを解いて身体ごと濡れるしかなかったってな。挙句の果てにツルリと滑って、濡れた地面に尻餅だった。
転んじまった、とブツブツ文句を言ってはいたが…。嬉しそうではあったな、ゼルは。
あの時に傘さえ差していたなら、もっと嬉しそうな顔だったろう。
滑って転びはしないわけだし、ずぶ濡れにもならずに済んだんだから。
傘があったら、ゼルは雨の良さだけを味わえたんだろうな、とハーレイが見ている遠い星。
時の彼方で砕けてしまった、今はもう無い、赤い星、ナスカ。
其処に降った雨を前の自分は見ていない。雨を降らせたラベンダー色の空も。
ハーレイと共有出来ない思い出、それが寂しい気もするけれど。二人で青い地球まで来たから、今を楽しむべきだろう。地球に降る雨を、傘を差すのが当たり前になった今の世界を。
「えーっと、ハーレイ…。ゼルの話だけど…」
きちんと傘を差していたって、滑る時にはツルンと滑るよ?
それに転ぶよ、と話した今の自分の経験。赤いナスカではなくて、青い地球での。
幼かった頃に雨傘を差して、小さな足には可愛い長靴。生垣の葉っぱにカタツムリがいないか、キョロキョロしながら歩いていた道。水たまりを踏んで見事に転んだ。ツルッと滑って。
傘は転んだはずみに吹っ飛び、水たまりの中についた尻餅。
泣きじゃくりながら帰る羽目になった、傘は拾ってもずぶ濡れだから。もうカタツムリを探せはしなくて、家までがとても遠かった記憶。それまでは楽しく歩いていたのに。
家に帰ったら、驚いた母に熱いお風呂に入れられた。「大変!」と服を全部剥がされ、もの凄く熱いシャワーをかけられ、そのままお風呂。
母の勢いにビックリしたから、涙はピタリと止まってしまった。熱いお風呂に浸けられて。
お蔭できっと、風邪は引かずに済んだのだろう。こうして覚えているのだから。
その後で熱を出していたなら、寝込んだショックで全部忘れてしまったろうから…。
小さかった頃の失敗談。傘があってもずぶ濡れになった、ゼルよりも間抜けな幼かった自分。
こうなるんだよ、と披露した話に、ハーレイは穏やかに微笑んでくれた。
「なるほどなあ…。傘があっても、ゼルみたいに滑って転びもする、と」
そうやって派手に転んだお前は、律儀に傘を差してたわけで…。
今のお前はイギリス紳士にはなれないんだよな、シールドを張れやしないんだから。
前に俺の傘を借りて帰っていたし…。折り畳み傘を家に忘れて来ちまって。
「…前のぼくなら、イギリス紳士になれたんだけど…」
ちゃんとシールド出来たんだけど。…雨が降ったら、傘の代わりに。
「だろうな、ナスカで前のお前が起きていればな」
シャングリラで眠ったままでいないで、起きてあの星に降りてたら…。
雨の日だったら、そりゃあ見事なシールドを張っていたんだろうなあ…。青い色のヤツを。
「アルテメシアでやってたよ!」
シャングリラの外に出て行った時に、雨が降ったらシールドだってば。
ハーレイたちが知らないだけだよ、そんなトコまでモニターしていたわけじゃないから…。
ぼくとは思念で連絡がついたし、それで充分だったから。
いちいち報告なんかしないよ、「雨が降って来たからシールド中」なんて、つまらないことは。
前のぼくには当たり前のことで、ちっとも難しくはなくて…。
降って来たな、って思った時にはシールドだったよ、考えただけで張れたんだよ…!
とても上手に張れたんだから、と頬を膨らませた。
今の学校にいるイギリス紳士たちよりずっと上手に、と。
「ホントだってば、前のハーレイたちが一度も見ていないだけ…」
何度も何度も張ってたんだよ、アルテメシアで雨がポツポツ降って来た時は。
「…そいつが出来なくなったってか?」
前のお前はイギリス紳士を気取っていたってわけではないが…。シールドは得意で、雨の時にはシールドだった、と。
それが今では下手くそどころか、シールドの欠片も張れやしない、と言うんだな。
イギリス紳士の真似は出来なくて、雨が降る日は傘が無いと家から出られない、と。
「うん…。今のぼく、ホントに不器用だから…」
ハーレイの子供の頃と違って、イギリス紳士は無理みたい。
今のぼくだってタイプ・ブルーなのに、前のぼくとは月とスッポン。
傘は差さずにカッコ良く、って出来やしないよ、どう頑張っても。
せっかくイギリス紳士の話を聞いても、真似は出来っこないんだよ。雨の日は傘が無いと駄目。
馬車も車も持っていなくて、シールドも無理で、傘を差すしか無いんだから…。
傘は元々、女の人の持ち物だよね、と項垂れた。ハーレイの授業で覚えた知識。
遠い昔のヨーロッパでは傘は日傘で、女の人だけが差したんだから、と。
「…ぼくって、その頃の駄目な男の人みたい…」
ハーレイが言ってた男の人が雨傘を差してせっせと歩いて、紳士のシンボルになるよりも前の。
男の人が傘を差したら、馬車が無いんだって思われた頃の。
…学校のみんなは、ちゃんとシールド張れるのに…。傘を差してる人だって。
だけど、ぼくにはシールドが無くて、なんだか馬車が無いみたい。
みんなは馬車を持っているのに、ぼくだけ馬車が無いんだよ。シールドを張れる力が無いから。
傘を差すしか方法が無いのと、「人間らしく」って傘を差すのは違うんだもの…。
「別にいいじゃないか、今の時代は傘を差すのが普通なんだから」
傘が無かったナスカの頃とは違うんだ。…大抵の人は傘を差してる時代だろうが。
タイプ・ブルーの人でも差してる、それが今では当たり前になっているんだぞ?
出掛けた先で急に降り出したら、傘を借りるか、雨宿りするか…。大勢の人が集まる場所なら、急な雨だと安い傘が売られて、急いでいる人は買って行く。
そうじゃないのか、シールドしながら大雨の中を突っ走る大人は滅多にいないぞ。シールドして必死に走っていたなら、親切な人が車を停めてくれるってな。「乗りませんか」と。
だから堂々と傘を差してりゃいいんだ、チビでもタイプ・ブルーなんです、という顔をして。
一人前の大人は傘を差さずに歩かないから、今から練習してるんです、とな。
シールドの代わりに傘というのは大人っぽいぞ、とハーレイは教えてくれたのだけれど。
それもそうかも、と思った途端に、そのハーレイが言い出したこと。
「…殆どの地域じゃ、大人は傘を差すものなんだが…。雨が降ったら傘なんだが…」
ずっと昔にイギリスだった辺りの地域は違うらしいな、こだわりってヤツがあるらしい。
文化を復活させたからには、こうでないと、とイギリス紳士を気取る大人が多いんだそうだ。
傘は差さずに持って歩くもので、シールドもしない。
…土砂降りとなったら違うんだろうが、少しくらいの雨なら傘は無しだってな。
「傘を差さない場所は今でもあるんじゃない!」
イギリスだけかもしれなくっても、ナスカの頃と同じで傘は差さない所。
傘を差さないのがお洒落なんでしょ、イギリス紳士の頃みたいに…!
…シールドで避けもしないんだったら、ホントにカッコいいじゃない…!
ぼくはそっちも絶対無理だよ、濡れたら風邪を引くんだから…!
幼かった頃に、雨の日に転んでしまった自分。母に「大変!」と熱いお風呂に入れられた。
弱い身体はあの頃と少しも変わらないから、雨に濡れたら風邪を引く。身体が凍えて、すっかり冷たくなってしまって。
そんな身体では、今もいるらしいイギリス紳士の真似は出来ない。雨が降るのに傘を差さずに、悠々と歩いていられはしない。たとえ霧雨だったとしても。
「…ぼく、カッコ悪い…。傘を差さないと歩けないなんて…」
イギリスだった所に生まれなくって良かったよ。…イギリス紳士になれないから。
此処で良かった、大人になったら傘を差すのがカッコいいんだ、っていう場所に生まれて。
…シールドが張れないと馬車を持っていないような気持ちになるのは、今だけだもの。
一人前の大人になったら、傘はきちんと差すものだしね。
「そうだぞ、今だけ我慢しておけば、傘を差すのがカッコいい年になれるってもんだ」
俺だって今じゃ傘を差すだろ、お前が窓から見ていた通りに。…お前くらいの年の頃には、傘を差さずにイギリス紳士をやってたのにな。
…まあ、日本でもあったらしいんだが…。傘を差さないのがカッコ良かったという話。
今の季節じゃなくて春だが…。冷たい雨ではなかったんだが。
「なに、それ…。春だと傘を差さない文化だったの?」
日本だと春にそれをやるわけ、イギリス紳士と違って日本の紳士は春だけ傘を差さないの…?
なんで春なの、季節は春だと決まっているの…?
「暖かいからじゃないのか、春は」
少しくらいなら濡れてしまっても、風邪を引かない季節だし…。
夏の雨だと、日本だった頃には酷い土砂降りが普通だったから、ずぶ濡れになるし。
それで春ってことなんだろうな、文化ってほどじゃないんだが…。
昔の侍をモデルにして作った、劇の中の台詞だったんだがな。
ハーレイの古典の範疇になるのか、それとも薀蓄の方になるのか。
月形半平太という主人公の侍、その名台詞が「春雨じゃ、濡れて参ろう」というものだった。
連れの舞妓に傘を差し掛けてやる場面で、自分は濡れてもかまわないから、と。
印象深い台詞だったらしくて、言葉だけが一人歩きを始めた。劇を観たことがない人まで使ったほどに。小雨の中を傘無しで歩くような時には、気取って真似て。
「やっぱり、カッコいい人は傘を差さないものじゃない…!」
イギリス紳士だけじゃなくって、日本でも…!
紳士じゃなくって侍だけれど、お芝居の登場人物だけど…!
真似をする人が沢山いたなら、カッコいいってことなんだよ。傘を差さずに歩くことが…!
傘を差さなきゃ歩けないぼくは、イギリスでも日本でも駄目なんだってば…!
「今の時代は違うと言ったろ、差す方が普通なんだから」
いい年の大人が傘を差さずにシールドしてたら、そっちの方が変なのが今の時代だぞ?
財布を家に忘れて来たから傘が買えないとか、借りられる場所が無かっただとか…。
何か事情があるんだろう、と誰かが声を掛けるってな。「車に乗って行きませんか」とか、この傘を貸してあげますから、とか。
お前くらいの年の子供がシールドしながら突っ走っていても、そういうことにはならないが…。
面倒だから傘を持たずに出たな、とニヤニヤされるだけなんだが。
だから、お前も堂々とすればいいと言ったぞ、「傘を差して歩く練習中です」と。
「何も知らない大人から見たら、そうなるのかもしれないけれど…」
お行儀のいい子供に見えるかもしれないけれども、ぼくには分かっているんだもの…!
ぼくは傘無しでは歩けないから、傘を差して歩いているだけなんだ、って。
傘を差さないのと、差すしかないのは違うんだよ…!
天と地ほどに違うんだから、と今の境遇を訴えた。
前の自分だった頃は簡単に張れた、降ってくる雨を避けるシールド。それが張れない今の自分。
今日は朝から雨だから、と傘を差して出掛けた学校で出会った、シールドを張った男子たち。
それだけでも充分、今の自分は駄目だと思っていたのに、ハーレイが話したイギリス紳士。傘を差さずに歩くのがお洒落、傘を差したら馬車を持っていないと思われた時代。
「今日のハーレイ、ぼくのクラスにイギリス紳士がいるって話をしたんだもの…」
不器用さを思い知らされちゃったよ、今のぼくの。
イギリス紳士は絶対に無理で、なんだったっけ…。春雨だったら傘を差さない侍の話。そっちも無理だよ、濡れたら風邪を引いちゃうんだから…!
春でも夏でも、ぼくの身体は雨に濡れたら風邪なんだから!
水たまりで転んじゃった時には、たまたま運が良かっただけ。ママが急いで熱いお風呂に入れてくれなきゃ、間違いなく風邪を引いたんだから…!
「ふうむ…。お前としては、傘を差さずに歩ける自分が憧れってことか」
でなきゃ目標にしたいわけだな、そういう自分を。前のお前みたいにシールドが張れて、雨でも傘が要らないのを。
器用になりたいという気持ちは分かる。お前、とことん不器用だしなあ、サイオンが。
しかしだ、傘は大切なんだぞ、イギリス紳士のステイタスシンボルだった傘とは違った所で。
いいか、落ち着いて考えてみろ。
傘が無いと出来ないことがあるんだ、傘が無かったナスカじゃ絶対に出来ないことがな。
…もっとも、あの時代に傘があったとしたって、前のお前と俺とじゃ無理だが…。
ソルジャーとキャプテンだった以上は、やろうって方が無理なんだが。
キャプテンの俺は、ソルジャーに傘を差し掛けるだけで、隣に並べはしないだろうしな。
傘があっても、相合傘とはいかなかったな、前のお前と俺ではな…。
その相合傘が出来る時代が今だ、とハーレイがパチンと瞑った片目。
傘が無いと相合傘は出来ないわけだし、俺としては大いに傘を差したいんだが…、と。
「お前が傘を差さないクチなら、そいつが出来なくなっちまうんだ」
イギリス紳士や、「春雨じゃ、濡れて参ろう」ってヤツを気取るんだったら、相合傘はな…。
お前の場合はどうなんだ?
俺と一緒に相合傘で歩いてゆくより、傘を差さずにイギリス紳士の方がいいのか?
「そっか、ハーレイと相合傘…!」
傘を差さなきゃ、相合傘は出来ないね…。持ってるだけのイギリス紳士じゃ、相合傘は無理。
春雨だから、って濡れて歩いても、相合傘にはならないよね…。
「その相合傘、やりたいんだろうが」
お前の顔を見ただけで分かる。…イギリス紳士も、月形半平太も、頭の中から吹っ飛んだろう?
俺と二人で相合傘だ、と思った途端に、綺麗に全部。
「うんっ!」
そっちの方がいいに決まっているじゃない…!
ハーレイと二人で傘を差さずに歩けたとしても、ちゃんとシールド出来たとしても…。相合傘の方がずっと素敵で、それをやりたいからシールドしないよ。
二人で一つの傘がいいもの、前のぼくだと無理だったけど…。
ナスカで起きてて、傘があっても、ハーレイと恋人同士だったってことは秘密だったし…。
雨のナスカに降りる時には、ハーレイがぼくに傘を差し掛けてくれるだけ。…そうでなければ、別々の傘を差して歩いていくしかないよね、ソルジャーとキャプテンなんだもの。
二人で一つの傘を差して歩こうとしたら、誰かがサッと傘を渡してくれるんだよ。自分の傘を。
「こちらの傘をお持ち下さい」って、「私はシールドしますから」って。
「ははっ、ナスカでイギリス紳士か、月形半平太の登場なんだな」
誰がそいつをやるんだろうなあ、キムかハロルドか、それともリオか…?
ナスカの頃には、キムもハロルドも、立派な大人になってたからなあ、イギリス紳士を気取っていたって似合ったろうさ。
しかし、俺たちはイギリス紳士や月形半平太が出て来ない方が良かったわけで…。二人で一つの傘を差すのが良かっただろうな、あの頃は出来ない相談だったが。
今の時代は傘だってあるし、相合傘も出来る恋人同士になれるんだから、と微笑むハーレイ。
いつか二人で雨の中を歩ける時が来たなら、二人用のデカイ傘を買うかな、と。
「上等な傘を買おうじゃないか。お前と二人で入れる傘を」
二人で入っても濡れないくらいに大きいのをな。
専門の店に行けば色々な傘が並んでいるから、うんと奮発しようじゃないか。
前の俺たちには無かったものだし、あったとしたって相合傘は出来ない二人だったんだから。
「…ホント?」
これがいいな、って選んだ傘が高い傘でもかまわない…?
急な雨の時に売られる傘なら、うんと沢山買えそうなのでも…?
「当たり前だろうが、俺たちのための相合傘だぞ。ただの傘とは違うんだ」
お前と二人で差す傘なんだし、とびきりの傘を買わないと…。
イギリス紳士の傘にも負けない、お洒落なヤツを。
俺の隣の美人のお前が一層綺麗に見える傘がいいな、お前の姿が引き立つヤツが。
そういう傘を買って二人で差そうじゃないか、と誘われたから。
傘を差さずに歩くようなら、相合傘など出来ないから。
雨が降ったら傘を差さないと歩けないような、不器用な自分もいいだろう。
シールドを張って傘を差さずに歩くことは出来ない、不器用な自分。
イギリス紳士は気取れないけれど、代わりにハーレイと相合傘。
二人で一つの傘に入って、雨の中を二人で歩いてゆこう。
恋を隠していた白いシャングリラには無かった雨傘、それを二人で堂々と差して…。
紳士の雨傘・了
※今のブルーは傘を差すしかありませんけど、シャングリラには存在しなかった雨傘。
ナスカでも使っていなかった傘を、今度は二人で差すのです。雨が降る日に、相合傘で…。
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