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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

落とした食器

「あっ…!」
 ブルーが上げた小さな悲鳴。床に落とした紅茶のカップ。手からスルリと滑って行って。
 ハーレイと部屋で過ごしていた時、起こってしまった不幸な事故。紅茶を飲み終え、ソーサ―にカップを戻そうとしたら滑った手。
 慌てて屈み込んだ床。コロンと転がっているカップ。
「おい、大丈夫か?」
 ハーレイが訊くから、「うん」と答えた。
「もう飲んじゃった後だから…。零れていないよ、カップの中身」
 良かった、紅茶を零さずに済んで。服とか床が濡れてしまったら大変だもの。
「いや、大丈夫かって訊いているのはカップだ」
 割れちまっていないか、落ちたはずみに。
「カップって…。ハーレイの心配、そっちなの?」
 ぼくの服とか、どうでもいいんだ…。カップを心配するだなんて。
 酷い、と唇を尖らせながらも、俄かに心配になって来たカップ。母のお気に入りの一つ、白地に緑で繊細な模様が描かれたもの。
 割れていないか、目で確かめてみて、それから手でも。滑らかな磁器に傷は無かった。
 ホッとしてカップをソーサーに置くと、自分も元の椅子に戻った。ハーレイの向かい側の椅子。



 もう一度しげしげとカップを眺めて、改めて紅茶を注いでみて。
 何処からも漏れて来ないようだ、と確認してからホウッとついた安堵の吐息。
「大丈夫だった…。割れていないよ」
 見えないヒビが入っているってこともあるから、ちょっぴり心配だったけど…。
 紅茶を入れても漏れて来ないし、もう大丈夫。
「そりゃ良かった。カップが無事でなによりだ」
 俺も濡れ衣を着なくて済むしな、めでたし、めでたしって所だ、うん。
「濡れ衣って…。なに、それ?」
 なんでハーレイが濡れ衣を着るの、なんの濡れ衣?
「決まってるだろう、お前の身代わりというヤツだ」
 もしもカップが割れていたなら、俺が代わりに犯人になる、とハーレイがくれた頼もしい言葉。
 俺はウッカリ者になってしまうが、お前と違ってそれほど叱られないだろう、と。
「そっか…。ハーレイ、お客さんだしね」
 お客さんには怒らないよね、ママのお気に入りが真っ二つに割れてしまっても。
 ママは悲しくなるんだろうけど、片付けながらハーレイの心配をするんだろうし…。「お洋服は濡れていませんか?」だとか。
「そういうこった」
 何かと言えば押し掛けて来るような俺でも、客には違いないからな。
 お母さんだって叱れやしないさ、お前だったら派手に叱られそうな真似をしちまっても。



 いつか本当に割っちまうことがあったら代わってやるぞ、と胸を叩いたハーレイだけれど。
「待てよ…?」
 身代わりなあ…。俺がお前の代わりにか…。
「どうかしたの?」
 ハーレイが顎に手を当てているから、何か考え事なのだろうか?
「…身代わりだ。前にもこういうのがあったような…」
 俺がお前の身代わりに叱られてやるって話。…前にもしていたような気がする。
「ぼく、落っことした?」
 前にもカップを落としていたかな、割れなかっただけで?
 ハーレイが身代わり、やってくれなくても済んだってだけで…?
 やっちゃったかな、と尋ねるまでもなく、何度かやっているかもしれない。ハーレイと会えば、いつもはしゃいでしまうから。注意力散漫というヤツだから。
(…うーん…)
 あったっけ、と頭に浮かんだ落っことしたお皿。昼食の時に。サラダの器も落とした記憶。
 他にも色々、次々と思い出す自分の失敗。カップもお皿も、何度も落とした。
 幸い、割れてはいなかっただけで。
 ハーレイに身代わりを頼まなくても、母に叱られずに終わっただけで。



 考えただけでも情けなくなる、ウッカリ者が落としてしまったカップやお皿。
 ハーレイが言うのも、その中の一つだろうと思ったけれど。
「違うな、そういうのじゃなくて…」
 もっと別の…、と記憶を探っているらしいハーレイ。
「じゃあ、いつ?」
 此処じゃなくって、庭のテーブル?
 あそこでも何か落っことしたかも、芝生だから割れていないってだけで。
「それも違うようだ。…此処でも庭でもなくてだな…」
 しかしお前と一緒だったわけで、俺がお前の身代わりだとすると…。
 そうだ、今よりずっと昔だ。…シャングリラだ。
「えっ…?」
 シャングリラって…。それって、前のハーレイとぼく…。
 あんな所でハーレイが身代わりだったわけ?
 前のぼくが何かを割ってしまって、ハーレイが身代わりになったとか…?



 シャングリラで前の自分の身代わりになったか、なろうとしたらしい前のハーレイ。
 とても考えられないけれども、初めの頃ならあっただろうか。まだ青の間が無かった頃ならば。皆と食事をしていた頃なら、食器を落として割ることだって…。
「…ぼく、食堂で割っちゃった?」
 さっきみたいに落としてしまって、カップを割ったとか、お皿だとか…。
「そいつも大いにありそうなんだが、それは身代わりが必要か?」
 食堂なんだぞ、大勢が集まって食ってるんだし…。ウッカリ事故は日常じゃないか。
「他のみんなも割ってたね…」
 毎日ってほどのことでもないけど、一つも割れずに一ヶ月なんかは無かったかな?
 そういう記録は取らなかったから、割れなかった月も混じっていたかもしれないけれど。
「他のヤツらが割っていたのは間違いないが…」
 そんなことより、あそこの食器はお前が揃えた食器だろうが。
 お前が食器を奪って来たんだ、他のヤツらじゃなくってな。物資は全部、前のお前が揃えてた。
 割っちまっても、元はお前が手に入れたヤツだ。身代わりを立てて謝らなくてもいいってな。



 白い鯨になるよりも前のシャングリラ。元は人類の物だった船。
 最初から船にあった食器は、日が経つにつれて割れたり欠けたりしていったから。
 食堂のテーブルには、不揃いな食器が並ぶようになった。新しく手に入れた物資の中から、取り替えて補充していた食器。一つ割れれば、代わりの物を。欠けて使えなくなっても同じ。
 物資の中に人数分の揃いの食器があるわけがなくて、模様も大きさもまちまちだった。
「それにだ、俺が管理をしていたからなあ、あの船の食器」
 お前が割っても問題無いだろ、俺の所に取りに来るのはお前なんだから。
 他のヤツなら、おっかなびっくり来ていたとしても、お前は俺の友達なんだし。
「そうだね…。ハーレイの一番古い友達」
 友達だったら、そんなに酷くは叱られないし…。バツが悪いってだけだよね、ちょっと。
 ウッカリしてた、ってバレちゃうんだから。落っことして割ってしまったことが。
 恥ずかしいってだけのことかな、と遠い記憶を辿ってみた。初めの頃のシャングリラ。
 食器を割ったら備品倉庫へ謝りに行って、管理人のハーレイに新しい食器を出して貰う。それを食堂の係に渡して、割れた食器は代替わり。
 そういう決まりがいつしか出来た。
 だから、前の自分が割ってしまって、代わりの食器を貰いに倉庫へ出掛けても…。
「俺が適当に選ぶだけだし、お前が謝らなくてもな?」
 お前が手に入れた食器なんだから、堂々と持って行けばいいんだ。
 他のヤツだったら、俺も注意をすることもあったが、お前は別だ。お前が揃えた食器なんだぞ。
 幾つ割ろうが、代わりの食器を奪いに行くのはお前なんだし。
「それはそうかも…」
 割って足りなくなった時には、食器を奪えばいいだけだから…。
 前のぼくなら、簡単に奪って来られたんだから、謝る必要、無かったかもね…。



 食器を割った前の自分の身代わりなどを務めなくても、ハーレイ自身が食器の係。割った仲間が詫びる相手はハーレイだったし、身代わりを立てるまでもない。
 それに食器は前の自分が奪った物資。謝らなくても、新しいのを一つ持ってゆくだけ。こういう食器も奪ったっけ、と眺めながら。
 そうなってくると、ハーレイが身代わりになったというのは…。
「いつのことなの、ぼくは覚えていないんだけど…?」
 ハーレイに身代わり、頼んだことなんかあったっけ…?
「さてなあ、シャングリラだったことは確かなんだが…」
 今じゃないってことは間違いないがだ、どうにもハッキリしなくてなあ…。
 お前が割って、俺が身代わりに立つんだろ?
 管理人をやってた時代だと有り得ないんだし、いったい、いつの話なんだか…。
「…キャプテンになった後のことかな?」
 倉庫の係も変わったんだから、ぼくも謝りにくかったかも…。ハーレイだった頃と違って。
「俺がソルジャーの身代わりだってか?」
 まだリーダーだった時代にしたって、そいつはちょっと…。
 キャプテンがわざわざ倉庫まで行って、お前の身代わりにペコペコ頭を下げるのは…。
 …待てよ、そいつか?
 リーダーだったか、ソルジャーだかの身代わりで俺は謝ったのか…?
「それだった?」
 ぼくの身代わり、それで合ってた…?
「ちょっと待ってくれ」
 そうじゃないか、って頭に引っ掛かるんだが、上手い具合に出て来なくて、だ…。
 前のお前はソルジャーだったか、リーダーだったか、どっちなんだか…。



 俺がキャプテンで、お前がリーダーかソルジャーで…、とハーレイは遠い記憶を探って。
 なかなか思い出せないもんだ、と紅茶のカップに触れた途端に。
「…分かった、ソルジャーの身代わりなんだ…!」
 思い出したぞ、俺はソルジャーだったお前の代わりに謝ったんだ。
「ソルジャーって…。それに身代わりって、どうしてハーレイがそうなるわけ?」
 キャプテンなのに、と仰天した。
 船では最高責任者だったキャプテン・ハーレイ。割れた食器の補充くらいは簡単な筈。係の者に指示を出すだけで、新しい食器が直ぐに出て来たことだろう。
 おまけに前の自分はソルジャー。船で一番偉い立場に祭り上げられ、正直な所、途惑っていた。
 そのソルジャーが食器を割っても、誰も咎めはしなかったろうに。
 キャプテンが身代わりで謝らなくても、何事も無かったかのように新しい食器が食堂に届く。
 次はこれを、と不揃いな食器が送り込まれたか、白い鯨なら揃いの食器か。
 白い鯨になった後には、食器も船で作っていたから。



 船で食器を作れる時代になったら、ますます必要無さそうな身代わり。
 前の自分は青の間の主で、こけおどしだった大きすぎる部屋に住んでいたから。
 その前の時代は、不揃いな食器を次々と奪っていた自分。身代わりは多分、まるで要らない。
 けれどハーレイは、「間違いない」と自信に溢れた答えを返した。
「俺はソルジャーの身代わりだったぞ、お前がオロオロしていたからな」
 そうなって来たら、今と同じで身代わりになるしかないだろうが。
 今の時点じゃ、お前は食器を割っていないし、俺は身代わりにはなっていないが。
「オロオロしてたって…。ぼくが?」
 前のぼく…。ソルジャーだった頃のぼくだったの?
「そうなんだが? …お前、覚えていないようだな」
 割っちまった、と真っ青だったぞ。今日と同じだ、紅茶のカップだ。
「え…?」
 紅茶のカップって…。こういうカップ?
 それを落として、割って、真っ青…?



 ハーレイは自信たっぷりだけれど、前の自分は今と違って、サイオンの扱いが上手かった。
 落とした時にもサイオンで落下を止められたのだし、そうそう割ってはいないと思う。
 不幸にも割れてしまったとしても、ソルジャーという偉い立場だったから…、と思った所で。
「ソルジャーの食器…!」
 前のぼくの食器で、その中のカップ…。紅茶用の…。
「思い出したか?」
 俺を身代わりに立てた時のこと。…紅茶のカップで。
「うん、思い出した…」
 前のぼくだけが使えた食器…。あれのカップを割っちゃったんだよ、朝御飯の時に。
 食堂の食器だったら気にしないけれど、ソルジャー用のを…。
 思い出した、と脳裏に鮮明に蘇った事件。
 確かにハーレイを身代わりに立てた。
 紅茶のカップを割ってしまったのは、間違いなく自分だったのに。ハーレイはカップを割ってはいなくて、何の落ち度も無かったのに。



 前の自分が青の間で使った、御大層なソルジャー専用の食器。
 ミュウの紋章が描かれた食器は、前の自分と一緒に食事をする者以外は使えなかった。そういう決まりになっていた食器。ソルジャーの威厳を高めるための小道具の一つ。
 ソルジャー主催の食事会などでは、招待された仲間たちに向かってエラが有難さを説いていた。他の場所では使われないもので、ソルジャー専用の食器なのだ、と。
 けれども、前の自分はソルジャー。普段使いの食器がそれで、いつでもミュウの紋章入り。食堂から何か特別に届けさせない限りは、ソルジャー専用の食器で食べたり、飲んだり。
 その食器で前のハーレイと食べていた朝食。
 不幸な事故はそこで起こった、前の自分が落としてしまった紅茶のカップ。
「…お前、ぼんやりしちまっていて…」
 そのせいだったな、カップが見事に割れちまったのは。…ソルジャー専用の紅茶のカップ。
「だって、ハーレイと過ごした後だよ…?」
 ぼんやりしない方が変だよ、あの頃はまだ慣れていなくて…。
 ハーレイと二人で朝御飯っていうの、とても恥ずかしかったんだよ…!



 朝の食事は、青の間で前のハーレイと二人で食べるもの。
 キャプテンの報告を聞きながら。その日の予定を確認しながら、ソルジャー専用の食器で二人。
 白い鯨が出来上がった後に生まれた習慣。
 シャングリラはとても広くなったし、自給自足の生活になって何もかもを船で賄う世界。食料は充分に足りているのか、船の設備は順調に機能しているか。
 そういった報告は一日の終わりだけでは足りない、と朝食の席が選ばれた。毎朝、キャプテンが報告をすれば良かろうと。そうすればソルジャーの指示も仰げる、と。
 二人分の食事は、厨房のスタッフが運んで来た。青の間の奥のキッチンで仕上げ、ミュウの紋章入りの食器に盛り付けて出す。
 何を食べるかは前の日の内に注文するもの、前の自分とハーレイの食事が重ならないこともよくあった。量はもちろん、内容だって。
 ホットケーキを食べる自分の向かいで、ハーレイがトーストを頬張るだとか。自分の皿には卵の料理で、ハーレイは朝から肉料理を食べていただとか。
 食事しながら、報告も聞いていたけれど。楽しい語らいの時間でもあった、朝の報告。
 ソルジャーとキャプテンの朝食は二人で食べるのが基本、恋人同士になる前から。
 仲の良い友達だった頃から。



 ところが、ハーレイに恋をした後。ハーレイからも恋を打ち明けられた後。
 朝食の席は、恋人同士で過ごせる貴重な時間になった。何処からも邪魔は入らないから。食事を作った厨房のスタッフは、出来上がった後は退室するから。
 報告はきちんと聞いたけれども、甘く幸せな時を過ごした。ハーレイが「では」とキャプテンの貌に切り替え、ブリッジへ出掛けてゆくまでは。
 初めの間はそんな具合で、朝にハーレイが訪ねて来ていた。それまで通りに。
 けれど、恋とは、キスだけで終わりはしないもの。もっと深く、と求め合うもの。
 ハーレイが初めて青の間に泊まり、二人きりの夜を過ごした後には、恥ずかしかった朝食の席。
 初めての夜の翌朝もそうだし、その次の時も。そのまた次に迎えた朝も。
 向かいに座ったハーレイの顔を、まともに見られなかったくらいに。
 顔を見たなら、ベッドでのことを思い出すから。
 ハーレイはキャプテンの制服をカッチリ着込んでいるのに、その下の肌を思い出すから。



 そういう日々が続いていた頃、落として割ってしまったのだった。
 朝食の後に飲んでいた紅茶のカップを。
 ハーレイが何気なく「どうなさいました?」と掛けた声にビックリしてしまって。
 褐色の肌をした逞しい恋人、ハーレイの顔に見惚れていたから。両腕で自分を閉じ込め続けた、甘くて熱い優しい恋人。一晩中、あの腕の中にいたのだ、と。
 正面からは恥ずかしくてとても見られないから、チラリ、チラリと視線を投げて。
 どうしても自然に伏せてしまう目、それを上げては眺めた恋人。誰よりも好きだと、二人きりの時間がもっと続いてくれれば、と。
 その最中に掛けられた声で、驚かない方がどうかしている。
 ビクンと跳ね上がってしまった心臓、身体のコントロールを失くした。離してしまったカップの取っ手。驚いたはずみに、指も一緒に跳ね上がったから。
 カップが床で割れてしまうまで、落としたことにも気付かなかった。
 青の間に音が響くまで。ミュウの紋章入りのカップが、床に当たって砕けるまで。



 落ちたカップを受け止めるには、向いていなかった硬い青の間の床。
 幾つかに割れて砕けたカップと、紅茶とが床に散らばった。そうなる音が響いた後に。
「あれなあ…。いつものお前だったら、拾うからなあ、サイオンで…」
 カップも、中身の紅茶の方も。…お前、飛び散る水でも拾えたんだから。
「うん…。普段通りのぼくだったらね」
 ボーッとしてなきゃ拾えたと思う、あの時のカップ。
 今のぼくには無理だけれども、前のぼくなら簡単だもの。…カップ、割れてはいなかったよ。
 紅茶だって床に飛び散る代わりに、カップに戻っていたと思うよ…。
「お前、そういうのが得意だったしなあ…」
 いつもだったら、あそこで割れちゃいないんだ。カップを落としてしまったとしても。
 俺もビックリしちまってたから、代わりに拾ってやれなかったし…。
 カップだけなら俺でも余裕で拾えたんだが、お前があんまりビックリしたんで、俺も、つい…。
 お前と一緒にビックリってヤツで、拾うどころじゃなかったんだよなあ…。



 そうして砕けてしまったカップ。ミュウの紋章入りだったカップ。
 如何にサイオンが強かろうとも、元に戻せはしなかった。くっつけることは出来ない欠片。
(…凄く恥ずかしくて…)
 どうしようもなくて、割れたカップを見ていることしか出来なかった。
 カップを落としてしまった理由も、拾い損ねて割った理由も、考えるほどに恥ずかしいばかり。
 ハーレイに声を掛けられて真っ赤になった筈の頬は、もう真っ青になっていただろう。
 どうすれば、とオロオロしただけの自分。
 割れたカップはくっつかない。元の姿に戻せはしない。
 ただの食堂のカップだったら、少しは救いがあったのに。食堂のカップは仲間たちも気軽に使うカップで、一ヶ月もあれば幾つかは割れるものだから。食堂の係がトレイごと落として、何個ものカップが一度に割れることもあるから。
 なのに、青の間のカップは違う。ソルジャー専用、ミュウの紋章が描かれたカップ。
 ソルジャー主催の食事会だの、お茶会だので使われるカップ。
 仲間たちがそれに招かれる度に、エラが有難さを説いているもの。
 よりにもよって、その有難いカップを割った。
 自分にとっては普段使いでも、仲間たちにとっては違うカップを。
 これほど見事に砕けなくても、ほんの少し欠けてしまっただけでも、仲間たちなら大慌てだろうソルジャー専用。
 それを落として拾い損ねて、元に戻せない欠片になった。
 誰にも言えないような理由で、恥ずかしすぎる理由のせいで。
 甘くて熱い時を過ごした昨夜の秘めごと、それに思いを馳せていたせいで。



 赤くなったり、青くなったり、半ばパニックになっていた自分。
 「どうしよう…」としか言葉が出なくて、片付けることさえ出来ない有様。
 部屋付きの掃除係がいたって、バスルームなどは自分で掃除しようとしていた綺麗好きなのに。
 割れたカップを拾い集めて、零れた紅茶を拭き取るくらいは簡単なのに。
「お前、動けもしなかったしなあ…。俺が代わりに掃除したんだ」
 係が来るまで放っておいたら、お前、ますますパニックだろうし…。そうなる前に、と。
 掃除を済ませて、その後、俺が割っちまったってことで身代わりに…。
「…叱られに行ってくれたんだっけね、ぼくの代わりに」
 本当はぼくが割っちゃったのに…。
 ハーレイが割ってしまったんだ、っていうことにしてくれて、叱られてくれて…。
「いや、叱られてはいないがな」
 そう簡単に叱られてたまるか、ああいう時には言い訳ってヤツが大切なんだ。
 嘘も方便っていう言葉があるだろ、俺はそいつを使ったってな。
 データを見ていてぶつけちまった、と謝りに出掛けて行ったんだ。あの食器を保管していた係の所へ、「カップを一つ割ってしまった」と。
 ソルジャーもデータに気を取られていて拾えなかった、と言っておいたぞ。
 係のヤツは嘘をそのまま信じてくれたさ、「キャプテン、それは大変でしたね」と。
 却って心配されたくらいだ、「カップの後始末で支障が出ませんでしたか、お仕事に」とな。
 掃除くらいは係がするから、次からは係を呼んでくれれば、とも言ってたぞ。
 割れた食器も係任せでかまわないからと、どれが割れたか係に伝えてくれさえすれば、と。



 だから、それっきり俺は身代わりに立っちゃいないが…、とハーレイがパチンと瞑った片目。
 その後もカップや皿が割れたりしたのだけれども、二度と謝りに行ってはいない、と。
「お前にもきちんと伝えた筈だぞ、気にするな、って」
 他のヤツらには御大層な食器かもしれんが、お前にとっては普通の食器だったんだから。
 使っていれば割れることもあるし、それで文句が出るんだったら、別のにすればいいだろう。
 エラが余計なことを言わなきゃ、お前は何処で何を食おうが自由でいられたんだしな。
 「ソルジャーは偉い方なのですよ」と旗を振っていたのは、いつでもエラだ。
 お前がカップを割ったくらいで文句を言うなら、普段は普通の食器を使わせてくれ、と言いさえすればエラだって黙る。割れば割るほど、普通の食器に戻せる可能性だって…。
 もっとも、お前は最後まであの食器だったが…。
 幾つ割ろうが、エラは普通の食器に戻しはしなかったがな。
「…そうだっけね…。あのカップが最初で最後だっけね…」
 ハーレイがぼくの身代わりになってくれたのは。
 ぼくの代わりに叱られてくる、って謝りに行ってくれたのは…。
 ビックリしちゃって、割っちゃったぼくが悪いんだけど…。
 ボーッとしていた、ぼくがホントに悪いんだけど…。



 思い出したら、みるみる染まってしまった頬。前の自分の失敗談。
 カップを落として割ったことより、そうなった理由が恥ずかしいから。前のハーレイと過ごした夜に気を取られていて、カップは割れてしまったのだから。
(…だって、ハーレイと本物の恋人同士になったばかりで…)
 朝食の席では、まともに見られなかった恋人の顔。恥ずかしくて顔を上げられなくて。
 そんな日々の中、幾つカップを割ったのだろう。何枚の皿を割ったのだろう。
(…覚えてないけど…)
 数えてさえもいなかったけれど、微かに残っている記憶。
 前のハーレイと夜を過ごして、翌朝、二人で食事をする時。慣れない間は、よく落としていた。紅茶のカップも、トーストの皿やサラダの器も。
 ハーレイに優しく見詰められただけで、落としてしまったカップもあった。ふと顔を上げた時、ハーレイの熱い視線に射抜かれ、手から滑ってしまったカップも。
 多分、カップが一番沢山、割れてしまっていたのだろう。
 次がトーストの皿だったろうか、驚いたはずみに利き手ではない左手が触れて、そのまま床へ。
 考えただけでも恥ずかしくて頬が染まるけれども、あれも幸せな日々だった。
 何度もカップや皿を割っていた、ハーレイと二人で過ごした翌朝。
 いつの間にやら、割らなくなっていたけれど。
 ハーレイがテーブルの下で絡めて来る足、それが嬉しくて微笑む自分に変わったけれど。
 恋は冷めずに、深い絆になったから。
 恥ずかしかった気持ちを通り越したら、よりハーレイと二人きりでいたくなったから。
 カップを落として割ってしまうより、紅茶やコーヒーの味がするキス。
 それを交わして、「また夜に」とハーレイを送り出す幸せな日々がやって来たから…。



 前の自分が落としたカップ。最初はハーレイが身代わりになって詫びに行ってくれた、落として割れてしまったカップ。
 今の自分も落とすのだろうか、ハーレイと暮らし始めたら。
 いつか育って、ハーレイと結婚したならば。
 同じベッドで夜を過ごして、次の日の朝は二人で食事。前の自分がそうだったように。
 係が食事を作りに来るか、自分たちで作って食べるかという違いだけ。
 それと食器に描かれた模様。ミュウの紋章入りの御大層なものか、今の自分たちが選んだ食器を使うかの違い。
 きっとハーレイと二人で相談しながら、選んだ食器なのだろうけれど…。
(…落とすかも…)
 前の自分の時と同じに。
 恥ずかしくて顔を上げられないまま、ハーレイの声に驚いたりして。
 二人で選んだ大切な食器が、落っこちて割れるかもしれない。紅茶のカップも、キツネ色をしたトーストを載せていた皿も。新鮮な野菜のサラダが入った器も、色々なものが。
 前の自分が割った時のように、割れた音で初めて気付く惨劇。
 床に紅茶が飛び散るだとか、トーストやサラダが散らばるだとか。
 サイオンを自由自在に操れた前の自分でさえも割ってしまったカップ。今の不器用な自分は幾つ割るのか、もう心配でたまらない。
 せっかく二人で選んだ食器は、たちまち不揃いになるかもしれない。
 初めの頃のシャングリラの食器がそうだったように、割れた物から取り替えられて。前の自分の頃と違って、奪うのではなくて、新しく買って。
(…ホントに揃わなくなっちゃうかも…)
 幾つも割れたら、同じ品物が買えなくなって。店に出掛けても「在庫切れです」となって、別の模様の食器を買うしか道が無くなるだとか…。



 如何にもありそうな、今の不器用な自分の末路。
 ハーレイと暮らし始めた途端に、二人で選んだ食器をすっかり駄目にしそうな自分。全部端から落として割って。紅茶のカップも、トーストの皿も。
(…ぼくって、駄目かも…)
 きっとハーレイだってガッカリするよ、と項垂れていたら、「おい」と掛けられた恋人の声。
「お前、何を考えているんだ、今度は?」
 真っ赤な顔をしたかと思えば、今はションボリに見えるんだが…?
 前のお前じゃあるまいし。…紅茶のカップを割っちまったと、真っ青でオロオロしていた時の。
「んーと…。ハーレイ、割れない食器を買おうか?」
「はあ?」
 割れない食器って、何の話だ?
 何をするのに割れない食器を買うと言うんだ、俺にはサッパリ分からないんだが…?
「…食器だよ。いつかハーレイと暮らす時には、食器も買うでしょ?」
 ぼく、ハーレイと結婚したら、暫くは割ってしまいそう…。
 前のぼくだった時と同じで、紅茶のカップやお皿を落として。…きっと、幾つも。
 ハーレイと二人で選んだ食器が駄目になっちゃう、揃わなくなって。
 お店に行っても「在庫切れです」って言われてしまって、同じ模様のを買えなくなるとか…。
 それじゃハーレイも困っちゃうでしょ、せっかくの食器が全部台無し。
 だけど、気を付けていたって、ぼく、きっと割ってしまうから…。
 前のぼくでも割っちゃったんだよ、今のぼくだともっと沢山、落っことして割って粉々で…。
 きっとそうなるに決まっているから、割れない食器。
 それを買うのがいいと思うよ、ぼくが落とさなくなるまでは。お皿、不揃いにならないように。
 シャングリラの食堂みたいになってしまったら、ハーレイだってガッカリしない?
 船で食器を作れなかった頃は、お皿もカップも、全部、不揃い…。



 そうなっちゃったら大変だから、と大真面目に提案した割れない食器。
 結婚する時はそれを買おうと、今のぼくは前よりもずっとサイオンが不器用なんだから、と。
 そうしたら…。
「俺は、割ったらいいんじゃないかと思うんだが?」
 前のお前も割っていたんだ、お前が割ってもいいだろう。
 うるさく言うようなエラもいないし、端から全部割れちまっても良さそうだがな…?
「なんで?」
 …割れてしまったら揃わなくなるよ、せっかく二人で選んだのに…。
 これがいいな、ってハーレイと決めて、二人で使おうと思って買うのに…。
「揃わなくなったら、また買い直せばいいじゃないか。気に入ったのを」
 食器なんかは、次から次へと新作が出るか、そうでなければロングセラーの定番品だ。
 定番品を買っておいたら、いくら割れても在庫切れだとは言われんだろうし…。
 新作がどんどん出るヤツだったら、また気に入りのが出来るってもんだ。
 だから普通に割れる食器を買っておけ。割れない食器はお子様用だぞ、つまらないじゃないか。
 結婚する時は、お前もチビは卒業だしなあ、お子様用を買ってどうする。
 割れちまってもかまわないから、大人用の食器を揃えないとな。
「そうかも…。割れない食器は、子供用かも…」
 子供用のしか見たことないしね、割れません、って書いてある食器。
 ぼくは少ししか食べられないから、子供用でも平気だけれど…。
 ハーレイだったら、入れた分だと足りないに決まっているものね。いつも沢山食べるんだもの。
「そいつも大いに問題だな、うん」
 もう空っぽになっちまった、と何度もおかわりするのもなあ…。
 落ち着かないから、普通のを買おう。お前が端から割っちまっても、俺は絶対、怒らないから。



 今度も俺が係なんだから、遠慮なく割れ、と言われた食器。
 不揃いな食器だった頃のシャングリラとは違って、今では好きに選べる食器。店に出掛けて。
 ロングセラーなら、いくら割っても在庫切れにはならないらしい。新作が次々出る食器ならば、新しいお気に入りにも出会える。今度はこっち、と。
(…食器、割りたくないんだけれど…)
 せっかく揃えた食器が割れて減っていったら、ガッカリだから。残念な気持ちだろうから。
 けれども、きっと、それも幸せなのだろう。
 ハーレイと二人で選んだ食器が、すっかり割れてしまっても。
 また新しく買わなければ、と店に出掛ける羽目になっても。
 ミュウの紋章入りの食器を使わされていた、前の自分とは違うから。
 食器を落として割ってしまって、頬が真っ赤に染まっていたなら、ハーレイが笑うだけだから。
 「そうか、お前もやっちまったか」と。
 またやったのかと、それを落として割ったってことは、俺のことを考えていたんだろう、と…。




         落とした食器・了

※前のブルーが割ってしまった、ソルジャー専用の食器のカップ。謝罪したのは前のハーレイ。
 サイオンが不器用な今のブルーは、沢山割ってしまいそうですけど、それも幸せな日々。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










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