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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

忘れた約束

(んーと…)
 やっぱり浮けない、とブルーが見上げたクローゼット。
 学校から帰って、おやつを食べた後で。二階の自分の部屋に戻って。
 クローゼットの上の方、鉛筆で微かに引いてある線。前の自分の背丈の高さに。ハーレイと再会してから間もない頃に、自分で書いた。これが目標、と。
 床から丁度、百七十センチ。チビの自分が其処まで育てば、前の自分とそっくり同じ姿になる。
 ソルジャー・ブルーだった頃の姿に。ハーレイとキスが出来る背丈に。
 けれど、クローゼットに書いた印は遠いまま。いつもこうして見上げるだけ。届かないよ、と。
 少しも近付いてくれない印。百五十センチから、一ミリさえも伸びない背丈。
 それに…。
(…あの高さにだって、届かないよ…)
 届かないのは背丈ではなくて、自分の頭がある高さ。こうして見上げるだけしか出来ない。
 あそこに印を書き入れた日には、あの高さまで浮けたのに。サイオンを使って、ふうわりと。
 前の自分の視点で見たなら、この部屋はどう見えるのか。床の位置やら、棚の高さやら、色々と眺めて遊んでいた。前とそっくり同じに育てばこう見える筈、と。
 浮き上がったり、床に下りたり、何度も繰り返し遊んでいたのに…。
 今はちっとも浮かない身体。どんなに印を見上げていても。



 駄目だ、と今日もついた溜息。ぼくは少しも浮けないみたい、と。
 タイプ・ブルーとは名前ばかりで、サイオンの扱いが不器用な自分。両親も呆れてしまうほど。瞬間移動は夢のまた夢、空も飛べない。床から浮くことだって出来ない。
(あの日は前のぼくだった?)
 クローゼットに書いた印の高さに浮いていた日は。浮いたり下りたり、楽しんだ日は。
 きっと気分が高揚していて、無意識の内にやっていたこと。
 そういうつもりは無かったけれども、前の自分の記憶か経験、そういったものを引き出して。
 遠く遥かな時の彼方でやっていたことを、そのまま写して。
(…今のぼくのサイオン、不器用だけど…)
 あの日は確かに浮いて遊んだ。前の自分の視点はこう、と。努力しなくても出来たこと。
 それから、メギドの悪夢を見た日に、ハーレイの家まで飛んで行った自分。無意識の内に、瞬間移動で。ハーレイが眠っていたベッドまで。
 だから自分にも、潜在的には…。
(力、あるよね?)
 サイオンは生まれつき不器用だけれど。自分の意志では、まるで使えはしないけど。
 それでも力は持っているから、使えることもあるのだろう。
 前の自分が身体の中に戻った時には、きっと上手に。
 たったの二回しか、経験してはいないけれども。…クローゼットに印を書いていた日と、悪夢の後に瞬間移動で飛んで行った日と。



 二つだけしか無い経験。前の自分が自由自在に使ったサイオン、それを自分も使えた日。
(前のぼくさえ戻って来たら…)
 浮くどころか空へ飛び立てるのに、と床を蹴っても浮かない身体。クローゼットに書いた印は、ほんの一瞬、近付いただけ。身体ごと床に戻ってしまった。
 ジャンプの限界、今の自分はこれしか出来ない。エイッと飛び上がることだけしか。
(こうやって勢いをつけておいたら…)
 力の限りに飛び上がったなら、前の自分なら天井を突き抜けてゆけるだろう。凄い速さで。
 今の自分がそれをやったら、酷く叱られそうだけど。「天井と屋根を壊すなんて」と。
 けれど要らない、壊す心配。天井も屋根も破れはしない。自分は飛んでゆけないのだから。
(…ホントに絶対、出来ないんだから…)
 飛んでみたくても絶対に無理、と思った所で気が付いた。前のぼくだって、やっていない、と。飛び上がることは簡単だったけれど、真上には飛んでいなかった。
 シャングリラからは瞬間移動で出ていたから。雲海に潜む白い鯨を浮上させたら危険だから。
 でも…。



(真上に飛んだよ?)
 上に向かって真っ直ぐ飛んだ、と訴える記憶。そうやって高く飛んで行った、と。
 出来る筈がないことなのに。シャングリラから真上に向かって飛び立つことは不可能なのに。
(えーっと…?)
 シャングリラではなかったろうか、と首を傾げた。シャングリラ以外に船と言ったら、小型艇。前の自分が小型艇などで出るだろうか、と考える内に浮かんだギブリ。
(ナスカで、ジョミーと…)
 二人でギブリに乗り込んだ。ナスカに残った仲間たちの説得に行く、と嘘をついて。ハーレイにだけは、本当のことを思念で伝えて。
 シャングリラを離れて直ぐに襲ったメギドの炎。防ごうとギブリから飛んだけれども、あの時も瞬間移動だった。そのまま上に向かって飛んだら、ギブリを壊してしまうから。



 あれも違う、と首を振った記憶。けれども、真上に飛んで行った記憶。
 真っ直ぐに飛んで、もっと高く。ぐんぐんと上へ、遥か上へと。
(何処で…?)
 有り得ない筈の、真上に向かって飛んでゆくこと。白いシャングリラでは出来ないのに。真上に飛べはしないのに。
(…前のぼくが夢の中でやってた…?)
 本当に起こった出来事ではなくて、夢だろうかと思った記憶。そうかもしれない、と遠い記憶を手繰ってみる。とても気持ちのいい夢だったから、それを覚えていたのだろうかと。
 シャングリラから上に飛べたなら、と。何処までも高く飛んで行けたら、と心に刻み付けた夢。
 そうだったかも、と考えた途端、不意に浮かんで来た記憶。
(ジョミー…!)
 思い出した、と得られた答え。真上に向かって飛び立った自分。シャングリラから。
 前の自分が連れて来させたソルジャー候補。成人検査から救ったジョミー。けれど、ジョミーは手に余った。どうしても船に馴染まなかった。
 現実を知れば変わるだろうと、帰したアタラクシアの家。其処に養父母はいなかったから。
 あの時代に一般人として生きていた者は、子供を一人育てるのが義務。それを終えれば、休暇が貰えた。その間にユニバーサルの職員たちが来て、家から子供の痕跡を消す。何もかもを。
 ジョミーが家に帰った時には、全て終わって空っぽだった。両親は長い休暇に出掛けて、彼らの荷物は誤って処分されないようにと他所に預けてあったから。



 何も無い家を見せ付けられたら、ジョミーは戻ると考えたのに。
 そうはならずに、アタラクシアを歩き回ったジョミー。学校へ出掛けて幼馴染にも会った。成人検査を受けた後には、二度と戻らない筈なのに。
 それだけ動けば、ユニバーサルに居場所が知れる。ジョミーは捕まり、深層心理検査を無理やり受けさせられて…。
(…サイオン、爆発しちゃったんだよ…)
 ユニバーサルの建物を破壊し、空に逃げ場を求めたジョミー。闇雲に逃げて、飛び続けて。
 何機もの戦闘機の攻撃を避けて、高く、遠くと飛んで行ったジョミー。
 あの時だった。前の自分がシャングリラから飛び立ったのは。
 逃げるジョミーを連れ戻せるのは、もう自分しかいなかったから。小型艇では追えないから。
 雲海の中から僅かに浮上したシャングリラ。高く聳えるアーチの先端、それが雲から覗く程度の高度まで。
 その上に立って、浮上するのを待っていた自分。
 雲の海から外に出た時、アーチを蹴って真上へと飛んだ。ハーレイが止める声も聞かずに。
 「お待ち下さい、そのお身体では…!」と叫んだハーレイの思念。
 それを振り切り、真っ直ぐに上へ。ジョミーを追って一直線に。



 あれだったのか、と思い出した記憶。シャングリラから上へと飛び立った自分。
 クローゼットの印を見上げて、それから勉強机の前に座った。溜息をついて、頬杖もついて。
(…前のぼく、いつも…)
 ハーレイとは別れを惜しめなかったらしい。これが最後だと分かっていても。
 メギドに向かって飛んだ時にも、ジョミーを追い掛けて飛んだ時にも。
 すっかり忘れていたけれど。メギドで迎えた死が悲しすぎて、アルテメシアでも同じだったと、気付かないままでいたけれど。
(…シャングリラを浮上させろ、って…)
 前の自分がそう命じた。ジョミーを追って飛んでゆくには、残しておかねばならないサイオン。少しでも負担を軽くしようと、瞬間移動で出るのをやめた。それだけでかなり違うから。
 「ぼくが出るから」と命じられた時、ハーレイは止めたかった筈。前の自分を。
 行けば命を失くすから。
 残り少なかった前の自分の命の灯、それが消えるのは確実だから。
 けれど、他には無かった道。自分以外の誰にも出来ない、ジョミーを船に連れ戻すこと。
 ハーレイに「出る」と思念で伝えただけで、前の自分は飛ぶしか無かった。
 それが自分の務めだったから。もしもジョミーを失ったならば、シャングリラの未来もミュウの未来も、何もかもが潰えてしまうのだから。



(…前のぼく、飛んで行っちゃった…)
 ハーレイに「さよなら」も言えないままで。「ありがとう」とも伝えないままで。
 白いシャングリラを離れて飛び立ち、ただひたすらにジョミーを追って。上へと、もっと高くと飛んだ。ジョミーが飛んでゆく方へ。
 後継者として選んだジョミー。そのエネルギーの強さに魅せられ、残り僅かな命も忘れて飛んで行ったけれど。笑みさえ浮かべたほどだけれども。
 ジョミーを捕まえ、成人検査の時の記憶を送り込むのが限界だった。それが最後に使えた力。
(あれでおしまい…)
 そうなるだろうと覚悟していた通り。其処で自分の力は尽きた。
 命の焔が消えてゆくのを感じる間もなく、力を失い、落ちて行った身体。アルテメシアの引力のままに、真っ直ぐに下へ。
 薄れ、霞んでゆく意識。ジョミーに詫びて、そしてハーレイに…。
(ごめん、って…)
 闇の中へと落ちてゆく前に、懸命に紡いだ最後の想い。届きはしないと分かっていても。
 ごめん、とハーレイに謝った自分。
 シャングリラにはもう帰れない、と。このまま尽きてしまうだろう命。
 帰れたとしても、ハーレイと話す時間は取れない。船の仲間たちへの遺言、それを伝えるだけで精一杯で。
 さよならも言えないままだった。「ありがとう」とも伝えられずに消えてゆく命。
 誰よりも愛し続けたハーレイ、恋人に別れも告げられずに…。



 悲しみの中で失くした意識。「ごめん」とハーレイに詫びて、そのまま。
 なのに、気付けば身体に戻っていた力。ジョミーに救われ、拾った命。
 自分は青の間に運び込まれて、傷の手当てをされていた。駆け付けたノルディや看護師たちに。
(…ジョミーが「生きて」って…)
 意識は無くても覚えていた。注ぎ込まれた強い思いとエネルギーとを。
 生かしてくれたジョミーのためにと、仲間たちに思念で語り掛けた言葉。生きて戻れたら、こう話そうと考えていた遺言の中身。「ジョミーを指標にして、地球へ向かえ」と。
 もう遺言ではなかったけれど。暫くは生きていられそうだから。
 それでも消耗していた身体は眠りを欲して、語り終えた後には開かなかった瞼。誰がいるのか、確かめたくても。…ハーレイがいないのは分かるけれども、他には誰が、と考えても。
 引き摺り込もうとしている睡魔。抗う力がある筈も無くて。
 このまま眠れば、二度と目覚めは来ないかもしれない。身体は命を繋いだとしても、心は二度と目覚めないまま。
 そう思うけれど、開かない瞳。身体から抜けてゆく力…。



 逆らえないままに眠ってしまって、ぽっかりと目を覚ました夜中。
(ハーレイが…)
 側で見守ってくれていた。ベッドの脇に椅子を運んで来て、一人きりで。…キャプテンの制服をカッチリと着て。
 そのハーレイの額に残った傷の痕。何処で怪我を…、と驚いたけれど。
「お目覚めですか? ブルー」
 ソルジャーとは呼ばなかったハーレイ。それならば、誰もいないのだろう。青の間には。
 他に誰かがいるのだったら、「ブルー」と呼ばれはしないのだから。
「…ノルディは?」
 ぼくの手当てをしに来ていたと思うんだけど…。看護師たちも。
「もう大丈夫だと帰ってゆきましたよ」
 あなたの容体が落ち着いたので…。点滴も刺さっていないでしょう?
 今夜は私がお側におります、と温かな手で包み込まれた手。
 皆にもそう言っておきましたから、と。
「…君が…?」
「はい。正々堂々といられますよ。…これが私の仕事ですから」
 あなたの様子を一晩見るのが、今夜の私の役目なんです。医療スタッフは多忙ですからね。
 …この傷、お気付きになりましたか?
 船が揺れたはずみに、強くぶつけてしまったんです。けれど、これでも掠り傷ですよ。
「…まさか、ハーレイ…」
 シャングリラは見付かってしまったのかい?
 人類に位置を知られてしまって、それで攻撃されたのかい…?
「ご心配には及びません。…キャプテンの私が決めたことです」
 あなたとジョミーを守るためには、それも必要だったかと…。シャングリラを浮上させました。敵の目をこちらに向けさせるために。
 怪我人が何人も出てはいますが、皆、無事です。ミュウにはシールドがありますからね。



 私はウッカリ張り損ねまして…、とハーレイが指した額の傷痕。
「どうやら油断していたようです、咄嗟にシールド出来なかったほどに」
 防御に優れたタイプ・グリーンだから、という慢心があったかもしれません。直撃弾を食らった者でも、軽い火傷や打撲だけだというのがいます。
 船が揺れて転んだ程度で怪我をするなど…。情けないとしか言えませんよ。
 ノルディも「塗っておけ」と薬を投げて寄越しただけです、傷を診てさえくれませんでした。
「…そうだったんだ…。それで船の中が…」
 あちこち落ち着いていなかったんだね、何故そうなのかを確かめるだけの力は無くて…。
 後でみんなに謝らなければ、ぼくたちのせいで危険に晒してしまったのなら。
「それはジョミーの役目でしょう。…船の仲間に詫びて回るなら」
 もっとも、今は次のソルジャーに指名されてしまったわけですからね。ジョミーに「詫びろ」と詰め寄る仲間はいないでしょう。…あなたにそうする仲間がいないのと同じ理屈で。
 大丈夫ですよ、誰も怒っていません。シャングリラは無事に逃げ延びましたし、自信がついたと言っている者もいるくらいです。人類軍が来ても大丈夫だ、と。
「本当に…?」
 君を信じてもいいのかい…?
 酷い怪我をした者は本当にいなくて、シャングリラもちゃんと飛べるのかい…?
「ええ。…現に今でも飛んでいますよ」
 キャプテンの私がブリッジにいなくても、いつも通りに雲の中を。
 アルテメシアから逃げ出さなくても良かったからこそ、シャングリラは雲の中なんですよ。



 ご心配無く、と説明された仲間たちと船の被害状況は、確かにそれほど酷くなかった。船の方は修理が始まっているし、怪我をした仲間はメディカルルームで治療中。重傷者は皆無。
 良かった、と安堵の息をついたら、「スープをお召し上がりになりますか?」と優しい微笑み。
「野菜スープを用意してあります。夜中ですから、軽いものの方が…」
 他にも何かお召し上がりになるのでしたら、厨房の者たちに連絡致しますが。
「…作っておいてくれたのかい?」
 ぼくがぐっすり寝ている間に、あのスープを…?
「そうですが…。作り立ての方が良かったですか?」
 お目覚めになってから作った方が良かったでしょうか、先に作っておくよりも…?
「ううん、今から作りに行ったら、暫く君は留守なわけだし…」
 スープ作りで時間を取られてしまうよりかは、君が側にいてくれる方がいい。
 今夜はぼくの側にいるのがキャプテンの仕事なんだろう?
 …この部屋で君が正々堂々と夜を過ごせるチャンスは、ぼくも大事にしたいしね…。
 作っておいてくれたスープがいいよ。…温め直すだけのスープの方がね。
「分かりました。…温めて来ます」
 お待ち下さい、直ぐにこちらへお持ちしますから。
 いつもと同じで、野菜を刻んで煮込んだだけのスープなのですけどね。



 特別なことは何もしていませんよ、とスープを温めに奥のキッチンへ向かったハーレイ。
 また食べられるとは思っていなかった、ハーレイが作る野菜のスープ。何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけでコトコト煮込んだスープ。
 それをハーレイが運んで来てくれた。小さめのスープの器に入れて。
「どうぞ、ブルー。…熱いですから、お気を付けて」
 慌てると舌を火傷しますよ、それでは私と変わりません。…額に怪我をした私と同じで、ただの間抜けになりますからね。
「そうだね、気を付けて飲むことにするよ」
 ノルディたちは忙しくしているそうだし、舌の火傷は診てくれそうもないからね。
 君の怪我よりも放っておかれそうだよ、戦闘中の怪我とは違うんだから。
 …気を付けなくちゃ、とスプーンで掬って、息を吹きかけて軽く冷まして。
 口に含んだ湯気の立つスープ。眠っている間に、ハーレイが作っておいてくれた野菜のスープ。
 素朴すぎる味が美味しくて、そして温かくて。
 また食べられた、と零れた涙。
 このシャングリラから飛び立つ時には、もう戻れないと思っていたのに。
 生きて帰って来られはしなくて、ハーレイにも二度と会えないままで。
 きっとそうなる、と決めていた覚悟。自分の命はこれで尽きると。
 けれど、帰って来られた自分。…遺言を遺すためにではなくて、まだ暫くは残された時間。
 まだ生きられると、生きているのだと野菜スープが教えてくれた。
 魂だけでは、きっと味など分からないから。…温かさもきっと、感じないから。



 頬を伝って落ちた涙に、ハーレイが驚いて顔を覗き込んだ。
「どうなさいました?」
 熱すぎましたか、そんなにグラグラ煮立てたわけではなかったのですが…。
「…そうじゃない。舌に火傷はしていないよ。…それは間抜けだと君にも注意されたから」
 ただ、この味が嬉しくて…。また君のスープを飲めるのが信じられなくて…。
 帰って来られたんだ、と思ったら涙が零れてしまっただけ。
 ぼくは死なずに生きているんだ、と実感したらね…。
「…ずいぶんと無茶をなさいましたからね、あなたは」
 私が止めても、少しも聞こうとなさらなくて…。シャングリラを浮上させろと仰っただけで。
 どんな気持ちで私が船を浮上させたか、あなたはお分かりになりますか?
 …浮上させたら、私はあなたを失うのですよ?
 そうなることが分かっているのに、その指示を出すのは私なんです。…キャプテンですから。
「…分かっているよ。…ちゃんと分かっていたけれど…」
 他には道が無かったんだよ、ぼくが出て行くしか道は無かった。誰もジョミーを追えないから。
 …ジョミーのお蔭で、ぼくの命は延びたけれどね。
 でも、それは夢にも思わなかったことだから…。ぼくは死ぬんだと思っていたから…。
 力が尽きて落ちてゆく時、考えていたよ。君に「さよなら」を言いそびれたな、と。
 ごめん、ハーレイ。…さよならも言わずに行ってしまって。
「まったくです」
 私の身にもなって下さい、「さよなら」も言えなかったあなたを送り出した時の。
 送り出すしかなかったのですよ、そうなるのだと分かっていても…。



 生きて戻って来て下さって良かった、と強く抱き締められた胸。
 野菜スープを飲み終えた途端に、逞しい腕に捉えられて。広い胸へと抱き込まれて。
 「あんなことは二度となさらないで下さい」と。
「…よろしいですね? ソルジャーはもう、ジョミーですから」
 ソルジャー候補と呼ばれてはいても、これからはジョミーが戦力なのです。…あなたには新しい役目があります、ジョミーを導いてゆくということ。
 そのためにも決して無理はなさらず、お身体を大切になさらなければいけません。お命を危険に晒すことなど、言語道断というものです。
 ジョミーも失望することでしょう。…あなたが命を無駄になさったら。
「分かっているよ。…ジョミーが生かしてくれたんだからね」
 あの時、ジョミーが「生きて」と願ってくれなかったら、ぼくは戻れはしなかった。ジョミーの強い思いと、願い。…それが命を延ばしてくれた。
 強い思いは力を生むから、ジョミーの願いがエネルギーの塊のように変わってね。
 …本当だったら、ぼくは今頃、死んでしまっていたんだろうに…。
 ジョミーがぼくにくれた命を無駄にしようとは思わない。…無駄にはしないよ、絶対にね。



 それに…、とハーレイの腕の中で続けた言葉。
 君に「さよなら」を言わないままで死んだりしない、と約束した。言えなかったことを悔やんでいたから、これだけは必ず言わなければ、と。
「…約束するよ。ぼくの命が尽きる時には、きっと言うから」
 だから、キャプテンとしてでいいから、ぼくの手を握っていて欲しい。…ぼくの側で。
 手をしっかりと握っていてくれれば、必ず「さよなら」は伝えるから。
 …どんなに弱っていたとしたって、最後に君に。ぼくは最期まで君だけを想い続けるから…。
「ええ、ブルー。…約束します。あなたの手を握ってお見送りしましょう、その時が来たら」
 ですが、ほんの少しの間だけですよ。…お別れするのは。
 直ぐに追い掛けてゆきますから。私も、あなたがいらっしゃる場所へ。
「…君の気持ちは嬉しいけれど…。君と一緒なら、ぼくも幸せだろうけど…」
 そうしたら、ジョミーはどうなるんだい?
 この船でジョミーは独りぼっちだ、ぼくも君も死んでしまったら。
「ジョミーのことなら、なんとでもなります」
 あなたが飛び出して行かれた時にもそう思いました。あなたがお戻りにならなかった時は、私も一緒に行かなければ、と。
 …あなたの寿命が尽きると分かった時から、私は約束しております。ご一緒すると。
 ですから、引き継ぎが済み次第、あなたを追ってゆきます。…長くはお待たせ致しません。



 この船にはシドもいますから、と真顔だったハーレイ。必ず一緒に参りますから、と。
 シドはハーレイの後継者だった。…キャプテン・ハーレイの跡を継げるよう、ハーレイが選んだ次のキャプテン。主任操舵士という役職を作り、ハーレイ自身が任命して。
 そう、シドは前の自分が命尽きた後、ハーレイが後を追えるようにと選び出した者。死んだ後も何処までも共にいようと、必ず追ってゆくからと。
(…そっか…)
 そういう約束だったんだっけ、と思い出した時の彼方でのこと。
 ジョミーを追い掛けて飛んだ自分が生きて戻って、あの日、ハーレイと交わした約束。死ぬ時は必ず「さよなら」を言うと、それを言わずに死にはしないと。
 言いそびれたままで死にゆく自分が悲しかったから、それを忘れていなかったから。ジョミーの力に救われて生きて戻った後も。
 だから必ず言おうと思った。いつかその日が来た時には。
 いつも自分の側にいてくれた愛おしい人に、「さよなら」と。そして「ありがとう」と、想いの全てをハーレイに向けて。
 けれど、自分は約束を破ってしまったのだった。
 あんなに悔やんでいたというのに、それをすっかり忘れてしまって。
 赤いナスカに滅びの危機が迫っていた時、十五年もの長い眠りから目覚めた自分。自分の役目は皆の未来を守ることだと、躊躇いもせずにメギドへと飛んだ。
 約束していた「さよなら」も言わずに、「ジョミーを頼む」とハーレイを船に縛り付けて。



 前の自分が破った約束。ハーレイに「さよなら」と言いもしないで、前の自分は飛び去った。
 ジョミーを追い掛けて飛び立った時に、それを後悔したというのに。二度としないと、死ぬ時は必ず「さよなら」を言うと、ハーレイに約束していたのに。
 約束をきちんと守るどころか、忘れてしまっていたのが自分。それも今日まで。
 ハーレイはどんなに悲しかっただろうか、聞けずに終わった前の自分の別れの言葉。必ず言うと約束したのに、「さよなら」と言いもしなかった自分。
(ぼく、本当に酷いことしちゃった…)
 謝らないと、と机の前で項垂れていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、部屋で向かい合うなり謝った。母が「ごゆっくりどうぞ」と去るのを待って。
「ハーレイ、ごめん…」
 ホントにごめん。ぼく、ハーレイに悪いことしちゃった…。
「はあ?」
 ごめんって…。お前、俺の授業中に何かやっていたのか、机の下で…?
「授業の話じゃないんだけれど…。ぼくは約束、破っちゃったんだよ」
「何の話だ?」
 俺は宿題を出していないと思うんだが…。何の約束を破ったんだ?
「前のぼく…。ハーレイに約束してたのに…」
 ぼくが死ぬ時には、ハーレイに「さよなら」を言うって約束したんだよ。…アルテメシアで。
 ジョミーを追い掛けて飛んで行った時に、ハーレイに「さよなら」を言いそびれちゃって…。
 言えなかったな、って悲しい気持ちで死んじゃう所を、ジョミーに助けられたから…。
 これじゃ駄目だ、ってハーレイに約束したのが「さよなら」。
 死ぬ時は必ず言うことにする、って前のハーレイに約束してた。…もう懲りたから、って。
 だけど、忘れてしまったんだよ。…そういう約束をしていたことを。
 言わないままでメギドに行っちゃったんだよ、ぼくは約束、破っちゃった…。



 おまけに約束のことも忘れちゃってた、と謝った。前の自分がした約束を。
「…今日まで忘れてしまってたんだよ、ハーレイに約束してたのに…」
 さよならを言わずに行ってしまって、今日まで思い出しもしないで…。
 ホントにごめん。…ハーレイ、とっても悲しかったと思うから…。
「いいんだ、お前、帰って来ただろ?」
 帰って来たなら、さよならも何も無いからな。…さよならってヤツは別れる時に言うもんだ。
 ちゃんと帰って来るんだったら、最初から「さよなら」は要らないだろうが。
「え…?」
 それってどういう意味なの、ハーレイ?
 前のぼくは帰って来なかったんだよ、メギドに行っちゃってそれっきりだよ…?
 きちんと「さよなら」を言って行かなきゃ、駄目だったんだと思うんだけど…。
「前のお前はそうなんだろうが…。今のお前さ」
 少々チビだが、お前は帰って来たってな。俺の所へ。…あのまま別れてしまわないで。
 だから「さよなら」を言い損なったと謝らなくてもいいだろうが。
 言う必要は無かったってことだ、こうして帰って来たんだから。ほんの少しだけ、お前が留守をしていたわけだな、俺の前から。
 気にしなくていいんだ、「さよなら」くらい。…お前は帰って来たんだろうが。



 それに謝ってくれたからな、とハーレイは笑顔。もう充分だ、と。
「…そうでなくても、とうに時効だ。前の俺だった頃からな」
 お前も忘れていたってことだが、俺もすっかり忘れていたんだ。…その約束。
 そういう約束をしていたことさえ、綺麗サッパリ忘れちまってた。お前がメギドに飛んで行った時は、もう覚えてはいなかったんだ。
 覚えていたなら、悲しかったかもしれないが…。あの約束はどうなったんだ、と思っていたかもしれないが…。
 何も覚えていなかったんだし、前の俺は何とも思っちゃいない。お前が「さよなら」を言うのを忘れたままで行っちまおうが、それは全く気にしなかった。
 お前がいなくなっちまった、と落ち込んだだけで、「さよなら」はどうでも良かったんだ。
「ホント…?」
 ハーレイ、ホントに忘れちゃっていたの、嘘をついていない?
 …ぼくが悪いと思わないように、覚えていたのに「忘れた」なんて言ってはいない…?
 ぼくのサイオンは不器用だから、ハーレイが嘘をついていたって分からないんだもの。
「安心しろ。…本当のことだ、忘れていたのは」
 あれから色々ありすぎたからな、俺も覚えちゃいられなかった。
 お前が眠ってしまわなければ、きっと忘れはしなかったろうが…。それはお前も同じだな。
 俺はお前が寝ている間も働き続けて、あの約束を忘れちまった。キャプテン稼業は忙しいんだ。
 そしてお前は、ぐっすりと深く眠りすぎてて、俺と同じに忘れちまった、と。
 お互いの顔を見ながら何度も話していたなら、事情は違っていたんだろうがな。
 …お前も俺も忘れちまった約束なんぞは、破ってもいい。どんなに大事な約束だろうと、覚えていなけりゃ意味が無いんだ。
 片方だけが覚えていたって、そいつは空しいだけだろうが。ちゃんと守っても、ちっとも相手に通じていないし、喜んでも貰えないんだから。
 二人揃って忘れたってことは、本当に必要無かったってことだ。お前の「さよなら」。



 だからかまわん、と大きな手でクシャリと撫でられた頭。
 今度は何処までも一緒だろうが、と。
「いつまでも二人一緒なんだし、「さよなら」は要らん」
 あんな約束、今度も必要無いってな。…「さよなら」の出番が無いんだから。
「そうだっけね…」
 今はハーレイが帰って行く時は「さよなら」だけど…。約束していた「さよなら」とは別。
 ただの挨拶の言葉なんだし、会えなくなるわけじゃないんだものね。…死んでしまって。
「そういうこった。…今度は別の約束をしておくべきだな」
 さよならじゃなくて、一生、俺の側から離れない、ってヤツでよろしく頼む。
 今度は守れよ、忘れちまわないで。…俺も今度は忘れないから。
「うん、ハーレイ…。今度は一生、「さよなら」は無し」
 死ぬ時だって一緒なんだもの、「さよなら」はもう要らないよ。
 結婚したら、ずっとハーレイの側にいるから。…前のぼくみたいなことは、絶対しないよ。



 守るからね、とハーレイと小指を絡めて約束をした。
 前の自分が破った約束、それは時効だと言ってくれた優しいハーレイと。
 別れの言葉を伝えるという悲しい約束、そんな約束は今は要らない。
 今度は何処までも、いつまでも一緒。
 「さよなら」の言葉は、ただ挨拶のためにだけ。
 二人一緒に生まれ変わった、青い地球の上でずっと二人で生きてゆくから。
 しっかりと手と手を繋ぎ合わせて、幸せに歩いてゆくのだから…。




           忘れた約束・了

※前のブルーがハーレイと交わした約束。死ぬ前には必ず「さよなら」を言うから、と。
 けれど約束は守られなくて、約束したことも忘れたままだったのです。時効ですけれど。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv











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