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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

結婚したなら

(えっ…?)
 とんでもない、とブルーが目を丸くした新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 何気なく見たら「新婚旅行」という文字が目に入ったから、読むことにした。SD体制が始まる前の、遠く遥かな昔のイギリス。その時代の貴族の新婚旅行についての記事。
 広い領地に豪華な邸宅、特権階級だった貴族たち。きっと素敵な旅行だろうと思ったのに。
(お嫁さん、いきなり仕事なの…?)
 そう書かれていたから、驚いた。貴族だったら、仕事なんかは無さそうだから。大勢の使用人がいる筈なのだし、家事は一切しなくていい。まして新婚旅行ともなれば、本当に遊び暮らすだけ。そういうイメージで読み始めたのに…。
(…なんだか違う…)
 全然違う、と仰天させられた遠い昔の新婚旅行。
 後の時代には事情が変わって、夫婦だけで長い旅行に出掛けるようになったけれども。その前の時代は全く違った。長い旅には違いなくても、その行き先。
(…他所の家だなんて…)
 親戚や友人の屋敷を丸ごと空けて貰って、其処に滞在したという。貴族どころか、王族だって。
 家はもちろん、馬車も使用人もそのまま借りる。屋敷の持ち主は他の所へ移っているから…。
(…着いた日の、御飯…)
 そのくらいは用意されているかもしれないけれど。次の日からは、下手をしたら着いた日の夕食辺りから、使用人に出さねばならない指示。「これを用意して下さいね」と。
 食べたい食事を、食べたい時間に。お茶を飲みたくても、そのように。



 いきなり家事の一切合切、それの指図が花嫁の仕事。自分で用意をしなくて済むだけ、使用人がしてくれるというだけ。
(…御飯も、掃除も…)
 洗濯だって、指示をしないと上手く回らない貴族の生活。放っておいたら、自分の望み通りには何一つして貰えない。屋敷を貸してくれた人のやり方でしか動かないだろう使用人たち。
 この時間に食事をしたいと思うのだったら、時間を指示して、メニューまで。
 そうしなかったら、何が出たって言えない文句。下手をすれば無いかもしれない食事。その上、自分の生活ばかりではなくて…。
(お茶会に、食事の会まで開くの?)
 そんなものまで開催するらしい。近くで暮らしている貴族や名士なんかを招いて。
 主催するのは初めてなのに。使用人たちとも顔を合わせたばかりで、屋敷だってまるで把握してしないだろうに。どういう部屋があるのかも。用意出来るだろう食材なども。
(なのに、こなして初めて一人前…?)
 酷いとしか思えないけれど。苛められているような感じだけれど。
 当時の貴族には当たり前のことで、誰からも文句は出なかったらしい。そういうものだと思っていたから、新婚旅行が初仕事の場所。夫はともかく、花嫁の方は。
(…今の時代は違うよね?)
 貴族なんかはとっくにいないし、その貴族だって「これは酷い」と思い始めたから、夫婦だけで長い旅行に出掛けるようになったのだろう。
 花嫁が初日から仕事をしなくても済むように。新婚旅行を楽しめるように。
 きっと素敵なホテルに泊まって、色々な場所を旅して回って。



 ビックリした、と目をパチクリとさせてしまった遠い昔の新婚旅行。
 あんな時代じゃなくて良かった、と新聞を閉じて部屋に帰った。今で良かった、と。
 勉強机の前に座って眺めた、ハーレイと写した記念写真。夏休みの一番最後の日に。ハーレイの腕にギュッと抱き付いた自分、二人揃って最高の笑顔。
(ハーレイと新婚旅行に行ったら…)
 さっき読んだ貴族の旅行などとは違って、素敵で楽しいことだろう。使用人に指図しなくても、旅先で全部して貰えるから。食事の支度も、掃除なんかも、その道のプロに任せておけば。
 結婚式を挙げて、それから旅行。
 二人で選んだ場所へ向かって、荷物だけを持って。二人きりで出掛ける初めての旅。
(色々、初めて…)
 ふふっ、と緩んでしまった頬。ちょっぴり赤いかもしれない。
 ホテルに泊まってゆっくりしたなら、二人きりの夜。キスを交わして、それから、それから…。
 きっと初めてのハーレイとの夜になるのだろう。やっと本物の恋人同士になれる夜。
 チビの自分に「キスは駄目だ」と叱るハーレイ。
 前の自分と同じ背丈になるまでは、とキスもしてくれないのがハーレイ。
 あれほどうるさいハーレイなのだし、結婚するまでは許してくれそうな気がしないから。いくら強請っても、誘ったとしても、前の自分たちのような恋人同士になることは。
 本当に甘くて、幸せな夜。心も身体も、きっと幸せ一杯で。
 旅の間中、甘い甘い日々が続くのだろう。朝から夜まで、何度も何度もキスを交わして。



 何処へ行くのかは分からないけれど、宇宙から地球を見に出掛けるという話もあった。宇宙船で地球の周りを回る旅。今の自分は宇宙から青い地球を一度も見ていないから。
(だけど、何処でもかまわないよね)
 ハーレイと二人で初めての旅に行けるなら。二人きりの日々を過ごせるのなら。
 地球を眺める旅でなくても、地球の上での旅で充分。他の地域へ出掛けさえせずに、今の自分が暮らす地域の中の旅でも。
 二人きりで過ごす、甘い旅行を終えてこの町に帰って来たら…。
(ハーレイの家に帰るんだよ)
 今の自分が生まれ育った、この家ではなくてハーレイの家。其処に二人で帰ってゆく。
 きっと初めて泊まる家。
 それまでにも何度も遊びに行ったり、結婚の準備で何度も出入りはするだろうけれど…。相手はキスさえ許してくれないハーレイなのだし、結婚するまでは泊めてくれそうもない。いくら大きく育っていたって、「もう夜だしな?」と車に乗せられて、家へと送り返されて。
 だから、新婚旅行から帰って来た日が、ハーレイの家での初めての夜。そういう予感。
 とても新鮮で特別な夜。
(ホントに色々…)
 本物の恋人同士になっていたって、ハーレイのベッドは初めてだから。
 ハーレイの寝室で夜を過ごすのも、その夜が初めてなのだから。
 新婚旅行の時とは違って、もっと幸せで満ち足りた夜。これからはずっと二人一緒、と。



 次の日の朝は、初めての朝食。ハーレイの家で迎える初めての朝で、二人きりの食事。
(…ホントは一回、食べちゃってるけど…)
 ハーレイの家で朝も迎えているのだけれども、あれは別。メギドの悪夢を見てしまった夜、何も知らずに瞬間移動をしていた自分。ハーレイのベッドに飛び込んだけれど、たったそれだけ。目を覚ましたらハーレイのベッドにいたというだけ、朝食の後は…。
(送り返されちゃったんだよ…!)
 元の家へと、ハーレイの車で。朝食を食べたら、それっきりで。
 そんな風にはならない朝が、新婚旅行から帰った次の日。ゆっくりと起きて、もしかしたら目が覚めた後にも、恋人同士の甘い時間が持てるかも…。
(…前のぼくたちだと、無理だったから…)
 朝になったら、ソルジャーとキャプテン。名残のキスが精一杯。
 シャワーを浴びて制服を着けて、時間通りに朝食だった。係の者がやって来るから。二人きりの食事には違いなくても、決まった時間。キャプテンからの朝の報告、それを聞く食事だったから。
(ちゃんと報告も聞いていたしね…)
 恋人同士の会話はあっても、定刻に始まって終わった食事。ベッドで戯れてはいられなかった。
 けれど、今度はソルジャーでもキャプテンでもない二人。何時に起きてもかまわない。
(お昼まで寝ててもいいんだものね?)
 ベッドで甘えて過ごしていようが、朝から愛を交わしていようが。
 また頬っぺたが熱くなる。それを想像してみただけで。
 幸せに過ごして起きた後には、遅い時間でも朝御飯。ハーレイが作ってくれるのだろう。たった一度だけ、飛んで来てしまったあの日と同じで。
 「お前、オムレツの卵は幾つだ?」などと尋ねてくれて。
 ハーレイはきっとコーヒーを淹れて、其処から始まるだろう一日。トーストの匂いや卵料理や、美味しそうな匂いが漂う中で。



 新婚旅行から帰って来たって、ハーレイの休暇が続く間は、本当に蜂蜜のような日々。甘い甘い時を二人で過ごして、ハネムーンの続きの幸せな日々。
 でも…。
(終わったら、仕事…)
 今頃になって気付いた現実。ハーレイの休暇はいつか終わって、仕事にゆく。学校へと。
 自分はポツンと残されるのだった、家に一人で。ハーレイを仕事に送り出して。
 結婚式や新婚旅行や、楽しかった日々が終わったら。ハーレイの休暇が済んでしまったら。
(…ゴールじゃなかった…)
 ずっと幸せな甘いことばかりが続くんじゃなかった、と零れた溜息。
 ハーレイとの結婚が目標だけれど、結婚式はゴールではなくて、始まりだった。二人で暮らしてゆくことの。ハーレイと一緒に生きてゆく日々の。
 ずっとその日を夢に見ている、色々なことも始まるけれど。旅行も食事も、日帰りではない長いドライブだって出来るのだけれど。
(独りぼっち…)
 ハーレイと一緒に暮らしていたって、仕事にはついて行けないから。
 朝、ハーレイを送り出したら、一人で家にいるしかない。時間を潰せることを見付けて。掃除や洗濯をするにしたって、きっと一日もかかりはしないし、他に時間を潰せる何か。
 そういう何かが見付からないなら…。
(ぼくも仕事に出掛けるとか…?)
 仕事はあまり、向いていそうにないけれど。
 ハーレイにも、そう言われたけれど。家にいる方が似合いそうだと。



 やりたい仕事は思い付かないし、前の自分はソルジャーだった。まるで役には立たない経験。
 今のハーレイもキャプテンだった頃とは全く違う仕事だけれども、ハーレイの場合は…。
(元々、違う仕事の経験者だったんだよ!)
 厨房からブリッジに転職したのが前のハーレイ。料理とキャプテンは違いすぎる仕事。それでも苦もなくこなしていたから、古典の教師という今の仕事も天職の一つなのだろう。
 それに比べて自分ときたら、出来そうな仕事も思い付かない。家にいるしか無さそうな自分。
(どうなるの、ぼく…?)
 ハーレイが仕事で留守の間は、何をしていればいいのだろう?
 母のように料理を頑張ってみるとか、お菓子作りや、庭仕事や。お菓子作りなら…。
(ハーレイの好きなパウンドケーキ…)
 大好物だと聞いているから、マスターしようと思っているケーキ。ハーレイの母が作るケーキと同じ味のを、それが焼ける母に教わって。
 見事に焼けたら、ハーレイの笑顔が見られそうだけれど。
 そう毎日は作れないだろう。同じお菓子しか出ない日々だと、ハーレイが飽きてしまうから。
 他にも色々なお菓子や料理を作るためには…。
(お嫁さんの学校…)
 料理やお菓子の作り方を教えてくれる学校に行くのが、多分、一番。
 行こうと思ったこともあるけれど、男の子向けのコースは無い。残念なことに、対象はあくまで女性ばかりで、男性が行くならプロの料理人を目指す学校。
 お嫁さんの学校と違って毎日授業で、通う期間も長すぎる。とても行ってはいられない。
 そうなってくると…。



(現場で勉強…?)
 さっき新聞で読んだばかりの、イギリス貴族の花嫁のように。
 新婚旅行に行った途端にぶっつけ本番、食事のメニューも家の中のことも、何から何まで一人でやるしかなかった花嫁。自分が指示を出さないことには、食事も出ては来ないのだから。
(きっと色々、失敗だって…)
 起こっていたに違いない。慣れない間は、きっと沢山。そうやって経験を積んだのだろう。
(使用人を使うか、自分でやるかの違いだけ…)
 イギリス貴族の花嫁も自分も、初心者という点は全く同じ。現場で勉強するしかない。料理も、他の色々なことも。
(前のぼくだって、やっていないし…)
 青の間の掃除をしていた程度。係にばかり任せていては悪いから、と出来る範囲で。
 けれど、料理や洗濯などはしていなかった。
 アルタミラからの脱出直後は、ゴチャゴチャだった船の中を整理したりもしたけれど。気付けば物資を奪うのが仕事、他の雑事は誰かがやってくれていた。
 ソルジャーと呼ばれるようになれば尚更、青の間を貰った後には部屋付きの係が何人も。
 そういう風に暮らしていたから、前の自分も家事については初心者同然。
 今の自分はチビの子供で、やっぱり掃除だけしか出来ない。ハーレイと十八歳で結婚するなら、家事を勉強する暇も無い。今の学校を卒業したら、直ぐに十八歳だから。



 どうやら本当に現場で勉強するしかない家事。料理も洗濯も、その他のことも。
(…ぼく、上手く出来る…?)
 母のように上手く出来るだろうか、家事というものを。ハーレイが留守にしている間に。仕事に出掛けている間に。掃除はともかく、料理や洗濯。
 上手く出来なくても、ハーレイは怒りはしないだろうけど。派手に失敗していたとしても、怒る代わりに「大丈夫か?」と逆に慰めてくれそうだけれど。
(怒る…?)
 ふと引っ掛かった、その言葉。きっと怒らない、と思ったハーレイ。
 そのハーレイには叱られたことが滅多にない。今の自分も、前の自分も。
(キスは駄目だ、って…)
 怖い顔をして睨まれはしても、その程度。コツンと額を小突かれるだとか、軽い拳が降ってくる程度。子供だからというだけではないだろう。前の自分も、怒ったハーレイは殆ど知らない。
 怒る時には理由があったし、前の自分も納得していた。だから…。
(喧嘩だって…)
 記憶にある限り、酷い喧嘩はしていない。
 ハーレイはいつでも折れてくれたし、自分も我儘ではなかったから。
 互いの立場を思い遣っては、仲直りするのが常だった。ハーレイが「少し言葉が過ぎました」と謝って来たり、前の自分が「ぼくが悪かったよ」と謝ったり。
 ハーレイが本気で怒り出す前に、終わってしまっていた喧嘩。白いシャングリラで暮らしていた頃、ハーレイは怒りはしなかった。怒ったとしても、酷い喧嘩は起こらなかった。



 怒った所を滅多に見てはいないハーレイ。前の自分と過ごしたハーレイ。
(でも、今のぼく…)
 今のハーレイも穏やかだけれど、問題は今の自分の方。平和な時代に育った自分。優しい両親と一緒に暮らして、愛されて育って来たものだから。
(…独りぼっちに慣れていないし…)
 ハーレイと二人で暮らし始めたら、「帰りが遅い」と怒ってしまうかもしれない。仕事なのだと分かってはいても、寂しくて。独りぼっちで過ごす時間が長すぎて。
 ハーレイは少しも悪くないのに、まるでハーレイが悪いかのように。
 遅くなる日が続いたら。…遅いのだったら、ハーレイはその分、長く仕事をしたのだろうに。
 ただの我儘、前の自分なら決して言いはしなかったこと。怒るどころか、気遣っていた。そんな時間まで仕事をしていたハーレイを。「遅かったけれど、大丈夫かい?」と。
 けれど、今の自分に言えるだろうか?
 自分の寂しさばかりをぶつけて、ハーレイのことは考えそうもない。前の自分の頃と違って。
(ハーレイと旅行に行く時だって…)
 思い通りに運ばなかったら、不満を零してしまいそうな自分。少し予定が狂っただけで。
 ハーレイは何も悪くないのに、「こんなの、酷い!」と。早い話が八つ当たり。
 そうなったとしても、ハーレイは笑っていそうだけれど。
 「俺のせいではないんだがな?」と余裕たっぷり、気分転換になりそうな話題なんかも。きっと怒りで返しはしなくて、軽く受け流して微笑んでくれて。



 ハーレイだったら絶対にそう、と考えたけれど。
 前のハーレイと三百年以上も同じ船で生きていたのだから、と思ったけれど。
(もしかしたら…)
 今度は事情が違うのだった、とハタと気付いた二人きりの暮らし。いつか結婚してからの日々。
 同じ家に住むのだし、毎日一緒。喧嘩したって、お互い、同じ家の中。
 もしも自分の我儘が元でハーレイが腹に据えかねていても、距離を置きたいと思っていても…。
(…何処かでバッタリ…)
 会ってしまうとか、会った途端に、またしても自分が何か我儘を言うだとか。
(それでホントに怒っちゃっても…)
 顔を合わせずには暮らせない。同じ家なら必ず出会う。食事まで別には出来ないから。そこまでやったら、もう本当に大喧嘩。そうなるよりも前に…。
(ハーレイ、怒っちゃうんだよ…)
 堪忍袋の緒が切れて。きっと自分が見たこともない怖い顔をして。
 「お前と一緒に飯が食えるか!」とか、「お前の顔なんか見たくもない」とか。
 そんなハーレイは知らないけれど。前の自分は、一度も出会っていないのだけれど。
 酷く怒ったら、ハーレイはどうなってしまうのだろう?
(まさか、叩くとか…?)
 前の自分は叩かれたことは無いのだけれども、今の自分は何度もコツンとやられているから。
 ああいう優しい「コツン」の代わりに、平手打ち。
 大きな手で頬っぺたを引っぱたかれて、「反省しろ!」と怒鳴られるとか。



 思ってもみなかった、ハーレイに叱られて叩かれること。
 今の自分なら起こりかねない、そういう悲劇。ハーレイと暮らし始めたならば。
(…そんな…)
 もし本当にそうなったならば、きっと自分は泣き出すだろう。ハーレイに頬を打たれた途端に。
 自分が悪いと分かっていても。ハーレイが怒るのは当然なのだと思っていても。
 悲しくて、そして辛くて、痛くて。
 どうしてこうなってしまったのだろうと、ハーレイに叩かれるなんて、と。
 前の自分だった頃から、ずっと一緒に生きて来たのに。酷い喧嘩は一度もしなくて、ハーレイが自分を叩くことなど無かったのに、と。
 ポロポロと涙を零しそうな自分。堪え切れずに泣き声だって。
(でも、ハーレイの方がずっと…)
 辛そうな顔になるだろう。悲しそうな顔をしているだろう。
 自分が泣いてしまったら。
 「こいつが悪い」と思っていたって、きっと後悔するのだろう。思わず叩いてしまったことを。どうして叩いてしまったのかと、ハーレイは悔やむに決まっているから。
(我慢しなくちゃ…)
 酷い喧嘩にならないように。我儘ばかりでハーレイを怒らせないように。
 頭を冷やしに庭に出るとか、冷たい水で顔を洗うとか。気分を切り替えて戻れるように。
 ハーレイを悲しませたくはないから。
 幸せ一杯に育った今の自分は、前の自分よりもずっと我儘。
 ハーレイがどんなに譲ってくれても、もっと我儘を言いそうだから。ハーレイが怒り出すまで、遠慮なく。頬を叩かれて泣き出す羽目になってしまうまで、好き放題に。



 何度も何度も夢に見て来た結婚生活。ハーレイと二人きりの家。
 甘くて幸せな日々が始まるのだと思っていたのに、現実はそうはいかないらしい。さっき読んだ遠い昔の貴族の花嫁も大変だけれど、自分も充分、大変だった。
 料理や家事はなんとかなっても、抑えられそうにない自分の我儘。ハーレイの帰りが遅いからと怒って、大喧嘩になることもありそうで。
 平手打ちなどされてしまったら、ハーレイも自分も悲しいのだから、我慢するしかないだろう。独りぼっちが寂しい時でも、そうは言わずに。ハーレイに我儘をぶつけないで。
(なんだか大変…)
 結婚したらホントに大変そうだ、と考えていたら、そのハーレイが仕事の帰りにやって来た。
 母がお茶とお菓子を運んでくれて、テーブルを挟んで向かい合わせ。二人きりで過ごせる時間。いつもだったら大喜びで、夕食まで楽しくお喋りだけれど。
(…今だから我儘、言えるんだよね?)
 自分はチビで、まだ子供だから。
 ハーレイと一緒に住んではいなくて、我儘を言っても額をコツンと小突かれるだけ。大きな手が伸びて来て「こら」とコツンと。「我儘を言うな」と。
 コツンとやられても、夕食が済んだらハーレイは「またな」と帰って行くから、怒ったとしてもそれっきり。家に帰れば忘れるだろうし、明日になったら元のハーレイ。
 けれど、同じ家で暮らしていたなら、怒った気持ちは溜まるまま。家の中でバッタリ会ったら、我儘を重ねそうなのが自分。
 ハーレイの怒りが爆発するまで、堪忍袋の緒が切れるまで。頬を叩かれてしまうまで。



 お互い、悲しい気持ちをしなくて済むよう、結婚したら我儘は我慢、とハーレイの顔をついつい見詰めてしまったから。
「おい、俺の顔がどうかしたのか?」
 さっきからじっと見ているようだが、何処かに何かくっついてるか?
「んーとね…。我慢しなくっちゃ、って」
 いつもハーレイが、そういう顔でいられるように。ちゃんと我慢、って。
「はあ?」
 我慢って、何を我慢するんだ、お前?
 いつもってことは、今だけのことじゃなさそうなんだが…。どういう我慢だ、お前の我慢。
「今はいいんだよ、一緒に暮らしていないから」
 いつかハーレイと結婚するでしょ、その後の話。我慢しなくちゃ、って。
「なんだそれは? どうしたらそういうことになるんだ、結婚したらって…」
 お前の夢だろ、俺の嫁さんになるというのは。…夢が叶うのに、我慢というのが謎なんだが?
「えっと…。ハーレイと一緒に暮らすことになるから、我慢なんだよ」
 ハーレイを怒らせないように。
 今みたいに我儘ばかり言ってたら、いつか喧嘩になっちゃいそう。
 ハーレイが帰って来るのが遅いから、って文句を言うとか、他にも色々言いそうなんだよ。
 前のぼくなら、ちゃんと我慢が出来たんだけど…。今のぼくは駄目。
 アルタミラとかで苦労をしないで育って来たから、ホントに我儘一杯だもの…。
 きっと言っちゃう、我慢出来なくて我儘ばかり。
 そうならないように、きちんと我慢しなくっちゃ、って思うから…。



 一緒に暮らしていくんだものね、と決意表明したのだけれど。
 ハーレイは「なんだ、そんなことか」と笑みを浮かべた。「気にしないが?」と。
「結婚したって、お前はお前だ。我慢しなくていいんだぞ?」
 今と全く同じでいいんだ、チビの子供でさえなけりゃ。…ちゃんと大きく育っていれば。
 好きなだけ我儘を言えばいいのさ、俺の嫁さんなんだから。
 今よりももっと我儘になっていいと思うぞ、お母さんたちの目も無いからな。
「でも…。ハーレイ、怒ると思うんだけど…」
 うんと仕事が忙しいのに、「早く帰って」って我儘ばっかり言ってたりしたら。
 前のぼくみたいに「疲れていない?」って言うよりも前に、「遅いよ」って文句ばかりなら…。
「ふうむ…。その程度で俺は怒りはしないが?」
 それだけ寂しかったんだな、とギュッと抱き締めてやるってトコだな。遅くなってすまん、と。
「…ホント? 怒って平手打ちとかはしない?」
 ぼくがハーレイを怒らせちゃったら、そういうこともありそうだな、って…。
 だから我慢、って思うんだけど…。
「おいおい、失礼なヤツだな、お前」
 俺がお前を引っぱたいたことが一度でもあったと言うのか、お前は?
 もしも本当に怒ったとしても、前のお前との喧嘩程度だ。
 睨んで終わりだ、ギロリとな。
 それで充分、お前には効くし…。足りなきゃ怒鳴っておけばいい。
 前のお前に怒鳴っちゃいないが、船のヤツらには何度か怒鳴ったこともあるしな。
 ついでに、だ…。
 前の俺だった頃に、俺が誰かを殴った所。…お前、そうそう知りはしないと思うんだがな…?
 三百年以上も生きてたんだが、数えるほどしか手を上げたことは無いのが俺の自慢だ。
 ゼルは別だぞ、あれは喧嘩友達でじゃれ合いだからな。



 余程でなければ仲間たちに手を上げたことは無い、と言ったハーレイ。
 パンチ力には自信があったが、それは最後の切り札だから、と。
「…ただの喧嘩で殴ったことは一度も無い。平手打ちでもな」
 ガツンと一発食らわない限り、目が覚めないような大馬鹿者。そういうヤツしか殴らなかった。
 それも散々、手を尽くした後で「これしかない」と思った時だ。
 ゼルにお見舞いしていたパンチも、あいつが老けてしまった後にはやっていないから…。
 お前、本当に殆ど知らない筈だぞ、俺が誰かを殴ったのは。
 …忘れちまったか?
「ううん…。思い出した」
 ハーレイは睨むだけだったんだよね、怒ってた時も。誰かが凄いヘマをやっても。
 呆れたみたいに溜息をついて、腕組みをして睨んでいるだけ。「分からないか?」って。
 「俺がどうして怒っているのか分からないほど、お前は馬鹿か?」って…。
 怒鳴ることだって、ホントに必要な時だけだったよ。…普段は睨んで溜息だけ。
 あれで充分、仲間は震え上がっていたし…。怒らせたんだ、ってペコペコ謝ってたし。
 殴られた人って、ハーレイの指示を守らずに危ないことをした人だよね?
 一つ間違えたら大事故だ、っていうようなことをやった人だけ。
「そういうことだ。…お前も覚えていたか」
 殴られなければ分からないヤツしか殴ってはいない。…殴られたヤツが目を覚ますように。
 もっとも、それが通じなかったヤツもいたんだがなあ、前のお前が寝ちまった後に。
 ナスカでのことだ、あの星で生きると言い張ったハロルドに一発お見舞いしてやった。
 シャングリラにはもう戻らない、と寝言を言っていたからな。
 …だが、ハロルドには通じなかった。見ていた他の若いヤツらにも。
 あの一発で目が覚めていたなら、ナスカの悲劇は起こらなかった。馬鹿は死ぬまで治らない、と昔から言うが、その通りになっちまったんだ。…ハロルドは。
「そうだっけね…」
 ハロルド、ナスカで死んじゃったから…。せっかくハーレイが殴ったのにね。



 前のハーレイが手を上げたことは、確かに殆ど無かったのだった。
 だからこそ睨みと溜息だけで震え上がった仲間たち。「相当に機嫌が悪いようだ」と。
 そんなハーレイが平手打ちなどする筈がない。命を危険に晒したわけではないのだから。
「分かったか? 大丈夫だ、修行を積んである」
 そう簡単には殴らないよう、かれこれ三百年以上もな。…平手打ちでも同じことだ。
 お前が喧嘩を吹っ掛けて来ても、受けて立たない自信もあるし…。
 心配は要らん、結婚したって我儘放題のお前でいいんだ。俺はお前を叩きはしない。
「そっか…。睨むだけなんだね」
 ちょっぴり我儘が酷くても。…睨んで溜息、それだけなんだ…。
「そうそう睨みもしないと思うぞ。お前の我儘にも慣れているからな」
 前のお前も、ソルジャーとしての我儘ってヤツは相当だった。
 俺が止めても、絶対に聞かん。それが必要だと思った時には、止めるだけ無駄というヤツで。
 ジョミーを追い掛けて飛んでっちまうわ、挙句の果てにメギドまで飛んでしまいやがって…。
 あの時でさえ俺は叩いていないぞ、前のお前を。
 メギドはともかく、ジョミーの時なら叩けたんだが…。



 お前はベッドで動けなかったし、とピンと指先で弾かれた額。
 それでも俺は叩かなかった、と。
「…ハーレイ、ぼくを叩きたかった?」
 ジョミーの時には我慢していたらしいけど…。メギドの時は。
 命を危険に晒したんだし、前のぼくの頬っぺた、叩きたかった…?
「当然だろうが。…お前が生きて戻っていたらな」
 殴るわけには流石にいかんし、派手に平手打ちを食らわせただろう。パアンと一発。
 なんて危ない真似をしたんだと、そこまでしろとは言っていないと。
 …そうだな、ジョミーの時に叩けば良かったか…。
 あそこで一発叩いていたなら、前のお前も、もう少し命を大切にしたかもしれないな。メギドに飛ぶ前に少し考えて、他に最善の道は無いかと。
 俺がお前を甘やかしちまって、叩かずに放っておいたから…。
 本当に叩いてやりたかった時に、お前は戻って来なかった。…メギドからな。
「…前のぼく、叩かれ損なったんだ…」
 ジョミーの時と、メギドの時と。…合わせて二回。
 知らなかったよ、二回も叩かれ損なったなんて。…今のぼくの心配ばっかりしてて。
 ハーレイはぼくを引っぱたくかも、って。
「なるほど、叩かれ損なった、と…。そういう言い方も出来るのか、あれは」
 だったら、今度は叩いてやろうか?
 前のお前が叩かれたかったように聞こえないこともなかったしな。
 平和な時代じゃ、命の危機も無さそうなんだが…。お望みとあれば、一発くらいは。
 我儘が過ぎた時に一発お見舞いするかな、その頬っぺたに。…もちろん、結婚した後だが。
「遠慮しておく…!」
 叩かれちゃ困るから、我慢しようと思ったんだから…!
 結婚したら我慢が大変だけれど、ハーレイを怒らせて叩かれないよう、頑張らなくちゃ、って!
 叩いて欲しいなんて言っていないよ、痛そうだから…!
 ぼく、叩かれたら、きっと泣いちゃうんだから…!



 叩かないでよ、と悲鳴を上げたのだけれど。
 痛い平手打ちも御免だけれども、前のハーレイが前の自分を叩き損ねたと言うのなら。
 本当に叩きたかった時には、前の自分がもういなかったと言うのなら。
 一度くらいは叩かれてみようか、我儘を言って。
 ハーレイが睨んでも、溜息をついても、ちっとも聞かずに我儘放題。
 前の自分は、どうやらハーレイに叩かれ損なったらしいから。
 メギドから生きて戻っていたなら、ハーレイに頬を派手に叩かれたらしいから。
 我儘を言って、溜息をつかせて、睨ませた後で、頬っぺたを出して。
 「ぼくの頬っぺたを叩いてもいいよ」と、「あの時の分を返していいよ」と。
 ハーレイはきっと、叩きはしないだろうけど。
 きっと笑って許してくれるのだろうけれど、一度くらいは叩かれてもいい。
 幸せな日々を二人で生きてゆくなら、前の自分がハーレイを酷く悲しませた分の一発を。
 きっとペチンと叩かれるだけで、痛くないだろう平手打ち。
 ハーレイは今も、ずっと昔も、変わらずに優しいままだから。
 そのハーレイといつか結婚式を挙げて、二人きりの日々を幸せに生きてゆくのだから…。




          結婚したなら・了

※結婚した後は、色々と我慢しないと、ハーレイを怒らせるかも、と心配になったブルー。
 ハーレイの平手打ちは、前のブルーが二回、食らい損ねたらしいです。一度目で叩けば…。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









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