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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カナリヤの歌

(歌を忘れたカナリヤ…)
 小さなブルーが広げた新聞、其処に載っていた童謡の記事。とても懐かしい歌のタイトル。幼い頃に歌っていた。多分、幼稚園で教わった歌。
 学校から帰って、今はおやつの時間だけれど。ふうん、と覗き込んだ記事。あの歌はこんな歌詞だったっけ、と。
(歌を忘れたカナリヤは、後ろの山に捨てましょか…)
 藪に埋めるとか、柳の鞭で打つだとか。酷い提案ばかりが続くけれども、最後には…。
(象牙の舟に銀の櫂…)
 月夜の海に浮かべてやれば、忘れた歌を思い出す、と優しい言葉で終わっている歌。カナリヤはきっと、元のように歌い始めるのだろう。月夜の海に浮かぶ舟の上で。美しい声で。
 捨てられも、埋められもしなかったから。鞭で打たれもしなかったから。
(…酷いことをされたら、絶対に思い出せないよ…)
 歌の種類は色々だけれど、鳥たちの歌は楽しい歌。悲しい時に歌いはしないし、悲しさが増せば余計に思い出せないだろう。忘れてしまった歌のことを。
 象牙の舟に銀の櫂。…カナリヤのための小さな舟。
 月が綺麗な夜の海にそれで漕ぎ出してゆけば、歌いたい気持ちが戻って来そう。月の光に、銀の櫂はきっと映えるから。象牙の舟も、月の舟のように見えるだろうから。
 月を映して揺れる波の上、何処までも漕いでゆけたなら。夢のような旅が出来たなら。
(…気が付いたら、きっと歌ってるんだよ…)
 舟を漕ぎながら、いつの間にか。…澄んだ歌声で、波間に響く美しい歌を。
 忘れた筈の歌を思い出して、それを歌って、カナリヤは舟を漕ぐのだろう。小鳥の力でも操れる舟を。軽い象牙で出来ている舟を、銀の櫂で楽しく操りながら。
 そうして、いつか飛び立つのだろう。一緒に歌った仲間たちの許へ、もう一度歌を歌うために。象牙の舟はもう要らないから、自分の翼で飛んで戻ってゆくために。



 きっとそういう歌なんだよ、と歌詞を読みながら思ったカナリヤ。綺麗な歌声で知られた小鳥。それなのに歌を忘れたなんて可哀相、と。カナリヤは歌が好きなのに。
 童謡だけれど、少し悲しい歌。歌を忘れてしまったカナリヤ。
 読み進めたら、歌が生まれた背景のことが記されていた。作詞した、西条八十という名前の人。
 その人がまだ幼かった頃、クリスマスの夜に行った教会。華やかに明かりが灯された中で、彼の頭上の明かりが一つだけポツンと消えていたという。理由は分からないけれど。
 クリスマスを祝う沢山の灯の中、一つだけ灯らない明かり。辺りを照らせない明かり。
 子供心に、輝くことが出来ない明かりが可哀相で、そして寂しげで。
 様々な鳥たちが揃って楽しげに囀っている中、たった一羽だけ、囀ることを忘れた小鳥のような気持ちがしたのだという。歌を忘れた小鳥が一羽、と。
 その夜のことを思い出しながら、作詞した歌が『歌を忘れたカナリヤ』だった。
 煌々と灯るクリスマスの夜の明かりたち。幾つもの明かりが煌めいているのに、たった一つだけ光ることを忘れてしまった明かり…。
(…明かりなのに、光れないなんて…)
 消えていたという明かりは寂しかっただろう。他の明かりたちは、揃って光っているのだから。一年に一度の聖夜を祝って、教会を華やかに照らし出すために。
 歌を作った人の気持ちが分かる気がする。…大人になっても、それを忘れずにいたことも。
 遠い昔の日本の出来事、まだ人間が地球しか知らなかった頃に作られた歌。
 今の自分も歌ったけれども、あの歌の歌詞が生まれる前には、光ることを忘れた明かりが一つ。歌を忘れたカナリヤのように、光ることを忘れてしまった明かり。
 作詞家の心に残ったほどに、明かりは寂しげだったのだろう。歌を忘れた小鳥のようで。
 其処から歌が生まれたほどに。歌を忘れたカナリヤの歌が。



 新聞を閉じて、食べ終えたケーキのお皿などをキッチンの母に返して。
 二階の自分の部屋に帰って、勉強机の前に座って歌ってみた。さっき読んで来た懐かしい歌を。
「歌を忘れたカナリヤは…」
 後ろの山に捨てましょか…、と続いてゆく歌。象牙の舟で、月夜の海に漕ぎ出すまで。銀の櫂で舟を漕いでゆくまで。
 歌を忘れてしまったカナリヤ。仲間たちが綺麗な声で歌っている中、囀ることを忘れた小鳥。
 作詞家が灯らない明かりにそれを見たという、可哀相な鳥。
 小鳥は歌うものなのに。…歌うことが好きで、歌で気持ちを伝えるのに。
(人間だって、楽しい時には歌いたくなるのに…)
 歌わなくても特に困らない、人間だって歌うのに。歌いたい気分になるものなのに。歌の他には気持ちを伝える術の無い鳥、それが歌えなかったなら。
 歌を忘れてしまったならば、どんなに悲しくて寂しいだろう。
 歌おうとしても、出て来ない歌。囀ろうとしても、囀れない小鳥。
(…忘れた歌、思い出せるよね…?)
 象牙の舟に銀の櫂。月夜の海に浮かんだならば。
 月の光が照らす海の上を、綺麗な小舟で漕いで行ったら。
 歌を思い出して、歌い出して。…自分の翼で飛んで戻って、仲間たちと一緒に歌って欲しい。
 忘れたままでは悲しすぎるから、カナリヤが可哀相だから。
 人間でさえも歌を歌うのに、カナリヤが歌えないなんて。…カナリヤは歌が大好きなのに。



 きっと歌えるようになるよ、とカナリヤを乗せた小舟を思った。月夜の海に浮かんだ舟を。銀の櫂でカナリヤが漕いでゆく舟、象牙で出来た軽い舟。
 月明かりの下で旅をする内に、歌だってきっと思い出せる、と。
 楽しい気持ちになった時には、人間だって歌うのだから。カナリヤもきっと歌い出す筈。象牙の舟を漕いでゆく内に、銀の櫂で舟を操る内に。
 自分は舟を漕いだことは一度も無いのだけれども、月夜の海は素敵だろうから。月明かりの海へ旅に出たなら、いつの間にか歌い出しそうだから。
 月の光と降るような星と、象牙の舟に銀の櫂。きっと楽しくて、歌うのだろう。どんな歌かは、気分次第で。…月の歌やら、船の歌やら…、と考えたけれど。
(あれ…?)
 もしかしたら、と気付いたこと。象牙の舟を漕ぎながら自然に歌い出す歌。
 今の自分は幾つも歌を知っているけれど、ソルジャー・ブルーだった前の自分。遠く遥かな時の彼方で、共に旅をした仲間たち。
 前の自分たちは、歌を忘れていなかったろうか…?
 月夜の海をゆく象牙の舟。銀の櫂で漕ぐ軽やかな舟。その舟の上で歌い出そうにも、歌える歌はあっただろうか?
 月の歌やら、船の歌やら。他にも歌いたくなる歌の数々を、前の自分は知っていただろうか?
 もちろん幾つも知っていたけれど、ソルジャー・ブルーも歌を歌っていたけれど。
 アルタミラから脱出した直後の、前の自分は…。



(歌なんか、覚えている筈が…)
 なかったのだった、記憶を失くしたのだから。
 成人検査で目覚めの日までの記憶を奪われ、その後に続いた人体実験。ミュウと判断された前の自分は、人間扱いされなかった。人間ではなくて実験動物、人格など認められない存在。
 容赦なく過酷な実験をされて、普通だったら曖昧ながらも残る筈の記憶も全て失くした。何処で生まれて、何処で育ったか、両親の名は何と言ったのか。友達の名前は何だったのか。
 そういったことさえ忘れてしまって、白紙になってしまった記憶。
 辛うじて記憶に残っていたのは、成人検査の前後だけ。検査の順番を待っていた部屋、その壁に映った自分の姿。金色の髪に青い瞳の、アルビノではなかった本来の姿。…成人検査でミュウへと変化し、それも失くしてしまったけれど。色素まで失ったのだけれども。
 アルビノになった前の自分に向けられた銃。問答無用で撃った兵士たち、それから後はもう人間ではなくなった。ただの実験動物だった。
 歌の記憶を何処で失くしたか、いつまで歌を覚えていたのか。…それさえも何も覚えていない。
 歌というものがあったことさえ、前の自分は忘れてしまった。かつて歌った筈の歌たち、学校や家で覚えた歌。どれも記憶から抜け落ちていって、何も残りはしなかった。
(…歌を忘れていなかったって…)
 あんな所では、歌いたくなどならないだろう。押し込められていた狭い檻の中、其処だけが前の自分の世界。餌と水とが突っ込まれるだけ、他には何も無かった檻。
 生かされていたというだけの自分、夢も希望も未来も失くして。育つことさえ止めてしまって、楽しいことなど何も無かった。
 今日も明日も、どうでも良かった世界。本当にただ生きていただけ。
 それでは歌など歌うわけがない、歌いたい気持ちも起こらない。鼻歌でさえも。
 歌わない内に歌を忘れたのか、歌の記憶も失ったのか。…とにかく歌が無かった世界。自分では気付いていなかったけれど。歌を忘れてしまったことに。



 そうだった、と蘇って来た遠い遠い記憶。アルタミラからの脱出直後。
 前の自分は、歌を忘れたカナリヤだった。…長い年月、歌うことなど無かったから。人体実験と狭い檻しか無い世界では、歌いたい気持ちになりはしないから。
 誰であっても、あの環境では歌えない。心がすっかり壊れてしまって、息を引き取るまで歌った者なら誰かいたかもしれないけれど。…歌の世界に逃れた仲間。歌だけを歌い続けた仲間。
 けれど、研究者たちはミュウ同士が決して出会わないように管理していたから。
 壊れてしまった仲間の歌さえ、耳にしたりはしなかった。歌声を聞きはしなかった。実験をする研究者たちは歌いはしないし、実験室に音楽が流されることも無かったから…。
(ぼくだけじゃなくて…)
 みんな忘れていたのだろう。あの狭い檻に閉じ込められて、過酷な実験を繰り返されて。
 様々な他の記憶と一緒に、歌だって。
 世界にはどういう歌があったのか、自分は何を歌ったのか。きっと誰もが忘れていたろう、共に脱出した仲間たちは。…歌のことも、それを歌ったことも。



 その筈なのに、まだシャングリラではなかった船。元は人類のものだった船。
 やっと手に入れた自由な世界で、いつしか歌われ始めた歌。船の仲間は一人残らず、歌を忘れたカナリヤだった筈なのに。…歌を覚えてはいなかったのに。
(…誰が最初に歌っていたわけ?)
 あの船で歌い始めた仲間。歌を歌っていたのは誰か、と遠い記憶を探ってみたら。
(ハーレイ…?)
 厨房を居場所に決めたハーレイ。其処へ行ったら、鼻歌交じりに料理をしていた。フライパンや鍋で料理しながら、楽しそうに歌っていた鼻歌。
 ゼルも歌っていたような気がする。鼻歌はもちろん、機嫌のいい日は歌声だって。自分の腕前を自慢する歌、「俺は凄い」と歌っていたゼル。
 他の者たちも、鼻歌や歌。…色々な歌を歌った仲間。
 メロディも歌詞も、多分、豊富にあった筈。仲間の数だけあったのでは、と思うくらいに。
(…誰が教えたの?)
 歌を忘れたカナリヤばかりが乗っていた筈の、あの船で。歌の先生もいなかった船で。
(…象牙の舟に銀の櫂…)
 月夜の海に漕ぎ出してゆけば、カナリヤは歌を思い出すけれど。
 それと同じで、星の海でも、カナリヤは忘れた歌を取り戻して歌い出すのだろうか?
 象牙の舟と銀の櫂の代わりに、宇宙船でも。…それで星の海を旅してゆけば。



 どうやって歌を思い出したのか、船の仲間たちが歌っていたのか。
 まるで分からないし、記憶にも無い。歌を教えた仲間は誰だったのか、その仲間がいつから歌を取り戻して歌っていたのか。
 誰だったろう、と悩んでいたら、仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから。前のハーレイも確かに歌っていたから、訊くことにした。テーブルを挟んで、向かい合わせで。
「えっと…。ハーレイ、歌を忘れたカナリヤ、知ってる?」
 歌があるでしょ、歌を忘れてしまったカナリヤをどうしようか、っていう子供向けの歌。
 山に捨てちゃおうとか、鞭でぶつとか、酷いんだけど…。そうはならずに、月夜の海に浮かべる舟を貰うんだよ。象牙の舟と銀の櫂とを。
「あるなあ、うんと古い歌だな。…それこそ俺の古典の世界だ」
 古典の授業で教えはしないが、あれがどうかしたか?
「前のぼくたちみたいだと思って…。歌を忘れてしまったカナリヤ」
 歌なんて、みんな忘れてたでしょ?
 成人検査よりも前の記憶は消されちゃったし、歌だって…。ハーレイもそうでしょ?
 歌を忘れたカナリヤと同じで、本当に歌を忘れてしまって。
「まあな。…酷い目に遭わされちまったしなあ…」
 歌なんか覚えているわけがないな、あの状況じゃ。
 …覚えていたって、歌わんだろうが…。歌いたい気持ちが無かったろうしな。
「ぼくもだよ。…だから不思議に思ったんだけど…」
 前のハーレイ、料理しながら楽しそうに鼻歌を歌っていたから…。
 あの歌、いつから歌っていたの?
 アルタミラから逃げ出して直ぐの頃には、歌っていないと思うんだけど…。
「俺の鼻歌?」
 はて…。いつから俺は歌っていたんだ?
 前の俺が料理をしていた時の鼻歌ってヤツだな、いつ頃から歌っていたんだっけなあ…?



 腕組みをして考え込んでしまったハーレイだけれど、やがて「すまん」と頭を掻いた。
「思い出せんな、これというのは…。自覚が無いと言うべきか…」
 気付けば歌っていたってわけだ。料理をしてたら、楽しい気分になるからな。
 でたらめな歌を捻り出しては、こう、フンフンと歌っていたなあ…。その日の気分で。
「…でたらめ?」
「そういうことだが?」
 でたらめな歌しか歌えんだろうが、歌を覚えていないんだから。
 真っ当な歌ってヤツは知らんし、こう適当に…。即興と言ったら聞こえはいいがだ、でたらめな歌を歌っていたんだ。気に入りの節回しが出来た時には、そいつを覚えて何度もな。
 他のヤツらも似たようなモンだ、ゼルの腕自慢の歌だって。作業しながら「俺は凄い」と歌っていただろ、あの歌はゼルのオリジナルだぞ。…元の曲があった替え歌じゃなくて。
「えーっ!?」
 ゼルの歌はゼルのオリジナルって…。あの歌、作詞も作曲もゼルだったの?
 前のハーレイの鼻歌もそうで、思い出した歌じゃなかったわけ…?
「そうなるなあ…。ただし、最初の間だけだが」
 ごくごく初めの間だけだぞ、オリジナルソングというヤツは。
 …そいつが真っ当な歌になった切っ掛け、そういや、前のお前だったか…。
 うん、そうだったな、一番最初の本物の歌は、お前のためにあったんだっけな。



 思い出した、とハーレイはポンと手を打った。前のお前のための歌だ、と。
 まだシャングリラという名前ではなかった船で、皆が適当に歌っていた頃。でたらめな歌が船のあちこちで歌われ、ゼルの歌のようなオリジナルが幾つも出来ていた。仲間の数だけオリジナルの歌があったと言ってもいいくらいに。
 歌声や鼻歌、色々な歌が歌われる中で、歌の効果に気付いたのがヒルマン。自分も含めて、歌を歌いたい気分になる時があるようだ、と。
 作業が順調に進んでいる時や、愉快な気分になった時。機嫌がいいと歌うらしいと、でたらめな歌が飛び出すらしいと。
「なのに、お前は歌わなくて…」
 少しも歌おうとしないんだ。…鼻歌も、でたらめな歌ってヤツも。
「…ぼく?」
 前のぼくは歌を歌わなかったの、みんな色々歌ってたのに…?
 ハーレイの鼻歌も、ゼルの歌もちゃんと覚えているのに、ぼくには歌が無かったわけ…?
「うむ。…完全に忘れちまってたんだな、歌うってことを」
 歌を忘れたカナリヤそのものだったってわけだ、前のお前は。
 楽しい時には歌えばいいのに、それさえもお前は忘れちまってた。…歌えばもっと楽しい気分になるってことを。
 あの頃はヒルマンも其処まで調べちゃいなかったが…。歌の効果に気付いただけだが…。
 人間は昔から、色々な時に歌って来たんだ。辛い仕事をしている時にも、歌えば気持ちがマシになる。農作業だとか、漁だとか…。自分を励ます歌ってヤツだな、楽しい気分で仕事をしようと。
 歌うと作業がはかどるくらいに、歌には凄い力があった。グンと気分が良くなる効果が。
 仕事でさえも楽しくなるんだ、歌うだけで。…楽しい時に歌ってやったら、最高だろうが。



 でたらめな歌を捻り出しては、好きに歌っていた仲間たち。歌えば楽しい気分になると、多分、本能的に気付いて。…気分が良ければ歌を歌って、もっと楽しく。
 けれど、その中に歌を忘れたカナリヤが一羽。
 歌うことさえ忘れてしまった、前の自分がポツンと一人。歌を覚えていなかったから。どういう風に歌えばいいのか、それも忘れてしまっていたから。
 ヒルマンも、ハーレイも心配した。歌わない前の自分のことを。歌おうとしないカナリヤを。
「その内に歌い出すだろう、って思って見てても歌わないんだ。…前のお前は」
 楽しそうにニコニコ笑っていたって、お前は少しも歌いやしない。他のヤツらなら鼻歌の一つも飛び出すだろうに、歌わないんだ。…いくら待っても。
 それで、歌うってトコから教えてやるか、って話になって…。
 しかしだ、そこでゼルの歌だの、俺やヒルマンの鼻歌だのは教えられないだろう?
 同じ教えるなら、でたらめな歌ってヤツじゃなくてだ、本物の歌を教えてやらんと…。
 もうその頃には分かってたしなあ、本物の歌があるってことも。



 船の中には、相変わらずのオリジナルソングしか無かったけれど。本物の歌を覚えるよりかは、好きに歌うのがいいと思われていたけれど。
 歌を忘れたカナリヤに歌を教えてやるなら、でたらめではない本物の歌を。
 そう考えたヒルマンがデータベースに向かったけれども、山のようにあった本物の歌。記憶から消えてしまっていた歌。
「山ほどあって選べないぞ、とヒルマンも頭を抱えちまった」
 お前に教えてやるとなったら、他のヤツらにも教えてやらないとな?
 せっかく本物の歌を教えるんだ、誰だって知りたくなるだろう。…本物の歌はどんな歌かを。
 そうなると、誰もが気に入る歌を選ばなきゃならん。ついでに覚えやすいヤツ。
 ところが、歌は山ほどあるから、メロディも歌詞も多すぎてなあ…。
「それで?」
 何を選んだの、ヒルマンは?
 沢山ありすぎて選べなくても、選ばないと教えられないよね…?
「選ばれた曲か?」
 俺も何度か相談されたが、この際、こいつがいいかってことで…。
 今のお前も知っているだろ、誕生日の歌の定番だからな。…ハッピーバースデートゥーユー。
「ハッピーバースデー!?」
 あれを教えたの、前のぼくに?
 誕生日なんか全く覚えてないのに、バースデーケーキも無かったのに…?
「そいつが一番、素敵だろうが」
 祝い事の歌だぞ、幸せな場面とセットの歌だ。誕生日おめでとう、ってな。
 バースデーケーキも蝋燭も無くても、おめでとうと言われて悪い気分はしないだろうが。
 第一、本当に誕生日なのかもしれないしな?



 アルタミラから脱出した仲間は、誰一人として誕生日を覚えていなかった。とても大切な記念日なのに、自分が生まれた日だというのに。
 ハッピーバースデーと祝いたくても、いつが誕生日か分からない。だから、どの日でも誕生日の可能性がある。一年の中の、どの日であっても。
 ヒルマンとハーレイは、その部分にも目を付けた。「誰でも毎日が誕生日だ」と。
「一月だろうが、五月だろうが、いつでもハッピーバースデーってことに出来るしな?」
 覚えていないんだから、自分がその気になりさえすれば。今日は自分の誕生日だな、と。
 ハッピーバースデーと歌って貰って、怒るようなヤツは誰もいないぞ。本当に誕生日だったかもしれないんだからな。…自分が忘れてしまっただけで。
 そういう歌だし、誰に歌ってやってもいいだろ。相手の名前で、「おめでとう」とな。
 自分が楽しい気分になったら、楽しい気分のお裾分けで。
 それに短いしな、あの歌は。
「短いね…」
 ハッピーバースデーの繰り返しだし、うんと短いし…。
 だから子供でも歌えるんだものね、幼稚園でもよく歌っていたもの。…お誕生日会で。
「いいチョイスだと思うんだがな?」
 今の俺でも、いい歌を選んだという気がするぞ。あの船で最初の真っ当な歌。
 ヒルマンと俺が覚えて歌って、他のヤツらも直ぐに覚えた。船のあちこちで肩を叩き合っては、あの歌を歌うもんだから…。
 前のお前もアッと言う間に、狙い通りに覚えてだな…。
「思い出した!」
 歌ってたんだよ、ハッピーバースデー、って。
 ぼくも歌ったけど、船のみんなも。…ホントに毎日が誕生日みたいに。



 歌を忘れたカナリヤだったという、前の自分。歌わなかった自分のためにと、ヒルマンが探してくれた本物の歌。ハーレイと「これだ」と選んでくれた、誕生日を祝う短い歌。
 ハッピーバースデーと繰り返す歌は、船の仲間たちに愛され、歌われていた。色々な場所で。
 皆が同じ歌を楽しそうに歌っていたから、前の自分も歌ったのだった。それまでのオリジナルの歌と違って、お揃いの歌。誰もが同じ歌を歌うから、楽しそうな歌声に釣られるように。
「…前のぼく、ハーレイたちに歌って貰って…」
 ハーレイとヒルマンと、ゼルもブラウもエラもいたよね…?
 ワッと囲まれて、「おめでとう」って。…ハッピーバースデーって…。
 それでとっても嬉しくなって、ぼくも歌ってあげたくなって…。
「うんうん、お返しに歌ってくれたぞ」
 初めて囲んで歌った時には、キョトンと目を丸くしていたもんだが…。
 船のヤツらがあちこちで歌っていたから、お前も覚えて歌ってくれた。俺たちの名前をちゃんと織り込んで、ヒルマンにもゼルにも、「ハッピーバースデー」と楽しそうにな。
「…あの時、最初にハーレイに歌った気がするよ…」
 ハーレイ、お誕生日おめでとう、って。…ハッピーバースデー、って。
「そういや、そうだな…」
 俺の名前で歌ってくれたな、あの時のお前。…一番最初に歌った時。
 そうだ、確かに俺だった。ヒルマンでもエラでも、ブラウでもなくて…。ゼルでもなくて。
「ハーレイだったよ、なんでだろう?」
 どうしてハーレイの名前で歌ったんだろう、初めて歌を歌ったぼくは…?
「友達だったからじゃないのか?」
 俺の一番古い友達。…前の俺はお前を誰かに紹介する時は、いつもそう言っていたもんだ。俺の一番古い友達なんだ、とな。
 お前の方でもそう思ってたろ、アルタミラで最初に出来た友達。
「うん。…ハーレイと一緒に、シェルターを幾つも開けたんだものね…」
 仲間が閉じ込められていたのを、端から全部。…初めて出来た、ぼくの友達。
 それでハーレイに歌ったんだね、御礼の歌を一番最初に。ハッピーバースデー、って。



 歌うことさえ忘れてしまったカナリヤがようやく覚えた歌。前の自分が初めて歌った、誕生日を祝うための歌。「おめでとう」と、誰かの名前を織り込みながら。
 あの歌を覚えたばかりだった頃は、よくハーレイの名前で歌っていた。ハーレイの姿が見えない時でも、一人きりで部屋にいる時でも。
 楽しい気分になった時には、「ハーレイ」とつけて飽きずに歌った。「おめでとう」と歌を贈る相手がいない時には、いつもハーレイ。幸せな気分で歌い続けた、ハーレイの名前。
「あのね…。ぼく、ハーレイのことが好きだったんだよ、きっと最初から」
 前から何度も言っているけど、やっぱり、そう。
 だって、あの歌…。「おめでとう」って言える相手がいない時には、いつもハーレイの名前。
 ハーレイの名前しか歌わなかったよ、そういう時は。
 だからハーレイ、特別なんだよ。…好きだったから、いつもハーレイの名前で歌ったんだよ…。
「俺の名前か…。実は、俺もだ」
 お前が俺の名前で歌っていたように、俺もお前の名前ばかりを歌っていたな。
 でたらめな歌の時もあったが、あの歌を歌う時にはな…。



 前のハーレイも、「ブルー」と歌っていたという。ハッピーバースデー、と。
 厨房で料理をしながら歌う日もあれば、自分の部屋で歌っていたことも。織り込む名前はいつもブルーで、他の名前は歌わなかった、と。
「ハーレイも、ぼくとおんなじなんだ…。ぼくはハーレイで、ハーレイはブルー…」
 二人で一緒に歌ったっけ…。
 ヒルマンやゼルがいない時とか、二人で何かしていた時とか。
「歌っていたなあ…。俺が料理の試作をしていて、お前が覗きに来た時なんかに」
 お前が歌って、俺が歌って。…逆のこともあったな、ハッピーバースデーと祝い合うんだ。
 今から思えば相聞歌だよなあ、二人で交互に歌うんだから。
「なに、それ?」
「相聞歌は古典の授業でやるだろ。…恋人同士で歌い交わすヤツ」
 有名なトコだと、アレだ、万葉集に出てくる歌だな。額田王と大海人皇子。
 額田王の歌が「茜さす紫野行き標野行き、野守は見ずや、君が袖振る」。
 その歌に、大海人皇子が「紫草のにほへる妹を憎くあらば、人妻ゆえに我恋ひめやも」と返した話は、お前も習っている筈だが…?
「そっか、あれなんだ…。相聞歌です、って教わったっけ…」
 教えてくれた先生、ハーレイじゃなかったんだけど…。前の学校の先生だけど。
 でも、前のぼくたちの歌が相聞歌って…。ハッピーバースデーって歌ってたんだよ、恋の歌とは違うんだけど…?
「お互いに相手のことが好きで歌っていたんだろ?」
 だったら、立派に相聞歌じゃないか。しかも相手の名前まで歌っているんだから。
「そうなのかも…」
 まだ恋だって気付いてなくても、好きだと思って歌っていたなら相聞歌かもね。
 ハッピーバースデーって歌うだけでも、ハーレイのために歌ってたんだし…。ハーレイはぼくに歌い返してくれてたんだし、ハッピーバースデーでも、相聞歌みたいなものだったかもね…。



 相聞歌のように前のハーレイと歌い交わした、誕生日を祝うための歌。ハッピーバースデー、と何度も歌った。ハーレイの名前を歌に織り込んで。
 歌を忘れたカナリヤだった前の自分の、初めての歌。覚えた頃には、あの歌ばかり。でたらめな歌を歌う代わりに、いつも「ハーレイ」と、「ハッピーバースデー」と。
 やがて幾つもの本物の歌が歌われ始めて、姿を消したバースデーソング。
 本物の誕生日を覚えている仲間はいなかったから。…本物の誕生日は誰にも無かったから。
「…ぼく、忘れてたよ、あれが最初の歌だったことを」
 シャングリラで子供たちを育て始めても、誕生日を持ってる子供たちが来ても。
 誕生日にあの歌を歌ってお祝いしてても、「この歌は知ってる」って思っただけで…。ホントにすっかり忘れちゃってた、前のぼくの最初の歌だったことを。
「俺も綺麗に忘れていたなあ、あれが最初の歌だったことも、お前のことも」
 前のお前が、歌を忘れたカナリヤだったってことすら忘れちまってた。
 …前の俺だった頃から忘れていたんだろうなあ、お前は歌えるカナリヤに戻っていたからな。
 歌を忘れていた時代があったことさえ、お前も忘れていたんだろうし。
「…そうだけど…。前のぼくも忘れていたんだけれど…」
 でも、思い出したね、あの歌のこと。…歌を忘れたカナリヤが船にいたことも。
「お互いにな」
 俺もお前も思い出したな、二人で歌っていたことまで。
 誕生日なんか覚えてないのに、何度も何度も、ハッピーバースデー、ってな…。



 前の自分は歌を忘れたカナリヤだった上に、誕生日も覚えていなかった。ハーレイの誕生日も、知らないままで終わってしまった。アルテメシアを制圧してデータを手に入れた時は、前の自分はいなかったから。
 けれども、今は誕生日がある。ハーレイも自分も、本当に本物の誕生日。人工子宮から出された日とは違って、母の胎内から生まれて来た日が。
「…ハーレイの誕生日、過ぎちゃってるよ…」
 せっかく思い出したのに…。あの歌、今なら誕生日に歌ってあげられたのに。
「ちゃんと歌ってくれただろうが。俺の誕生日に」
 お前の家で、誕生日パーティーをして貰ったしな?
 お父さんやお母さんも一緒だったが、お前、あの歌、歌ってくれたぞ。
「そうだっけね…!」
 ママが御馳走とケーキを用意していて、みんなで歌ったんだっけ。おめでとう、って。
 今のハーレイにも歌ったんだっけ、何の歌かを忘れてただけで…。
「次はお前の誕生日だな。…あれを歌うのは」
 お前の誕生日が来たら、今度は俺が歌ってやるさ。
 その頃には由来を忘れてそうだが…。前の俺たちが歌ってたことも、前のお前が歌を忘れていたことも。…あれが最初の歌だった、っていうことなんかも、綺麗サッパリ忘れちまって。
「うん、ぼくも…」
 ハーレイがぼくに歌ってくれても、ニコニコ笑って聞いてるだけになっちゃいそうだよ。
 お返しに歌を歌うどころか、ケーキのことばかり考えてるとか…。



 今の自分には、あまりにも普通の歌だから。バースデーソングの定番だから。
 きっと忘れてしまうのだろう。…あの歌を飽きずに歌い続けた、前の自分がいたことを。
 けれど、まだシャングリラではなかった船で最初に歌われた本物の歌。
 歌を忘れたカナリヤだった前の自分が、初めて歌ったバースデーソング。前のハーレイと何度も歌い交わした相聞歌だから、忘れる前に歌いたい気分。
 象牙の舟に銀の櫂。月夜の海に漕ぎ出したカナリヤが、初めて歌った歌なのだから。
「ねえ、ハーレイ…。あの歌、もう一度、歌ってもいい?」
 今のハーレイに「ハッピーバースデー」って、歌ってあげてもかまわない…?
「おいおい、俺の誕生日は過ぎちまったが?」
 とっくの昔に過ぎちまった上に、パーティーも開いて貰ったんだが…?
「でも、歌いたい気分になっちゃったから…」
 一度だけいいでしょ、ハーレイに歌ってあげたいんだよ。
 前のぼくが歌っていたみたいに。…いつも「ハーレイ」って歌ったみたいに…。
「なるほどなあ…。それなら、俺も歌を返さないといけないわけか」
 お前が見事に歌い終わったら、俺からもハッピーバースデーと歌うべきだが…。
 しかしだ、お前の誕生日はまだで、そこまでのサービスをするのはなあ…。
「ううん、ハーレイは歌わなくてもいいんだよ」
 ぼくの誕生日、まだだから…。ハーレイの歌は、それまで楽しみに取っておくから。
 その頃にはすっかり忘れちゃってても、ハーレイの歌を聞けるだけで、ぼくは充分幸せだもの。



 だから歌うね、とハーレイに向かって歌ったバースデーソング。
 ハッピーバースデー、と前の自分が歌ったように。
 前の自分が飽きることなく、ハーレイの名前で歌った歌を。
 ハーレイと歌い交わした歌を。
 今の自分たちには、本物の誕生日があるけれど。…ハーレイの誕生日にも歌ったけれど。
 それでも、「ハッピーバースデー」と繰り返す歌は、特別な歌。
 前の自分のためにと、前のハーレイたちが探してくれた本物の歌。
(…あの船で最初の、本物の歌…)
 歌を忘れたカナリヤだった、前の自分のために歌われた初めての歌で、特別な歌。
 その歌を今はこんなに幸せな気持ちで、ハーレイだけのために歌うことが出来る。
 蘇った青い地球の上に、二人で生まれ変わって来たから。
 本物の誕生日を持ったハーレイのために、あの歌を歌ってあげられるから。
 象牙の舟に銀の櫂。
 歌を忘れたカナリヤは歌を思い出したし、いつかハーレイと幸せに歌い交わせる時が来るから。
 今度は恋の歌を歌おう、お互いの想いを歌に託して、甘く、優しく。
 この地球の上で、今度こそ二人、いつまでも、何処までも、幸せに生きてゆくのだから…。




              カナリヤの歌・了

※歌を忘れたカナリヤだった、前のブルー。船の仲間たちが歌っていても、歌おうとしないで。
 そんなブルーに歌を教えようと、選ばれた歌。最初の歌はバースデーソングだったのです。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










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