忍者ブログ

シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

初めての風邪

「クシャン!」
 風邪かな、と小さなブルーが竦めた首。学校から家に帰った途端に出たクシャミ。自分の部屋で制服を脱いで着替えていたら、いきなりクシャンと。
(風邪、引いちゃった…?)
 帰り道に少し冷たかった風。バス停から家まで歩く途中で。ほんの僅かな時間だけれども、肌に冷たく感じた風で身体を冷やしてしまったろうか?
(出てたのは顔と手だけでも…)
 身体も冷えたのかもしれない。冷たいな、と感じた空気が肌を伝って、服の下まで。
 きちんとウガイも済ませたとはいえ、心配な風邪。生まれつき弱いブルーの身体は、油断したら風邪を引くのだから。
(明日は土曜日なのに…)
 ハーレイと一緒に過ごせる日。風邪を引いたらそれが台無し、お茶も食事も楽しめない。楽しい休日が駄目になったら大変だから、と着替えを済ませたら一直線にキッチンへ。おやつにするならダイニングだけれど、とにかくキッチン。其処の食料品の棚。
(ハーレイの金柑…)
 これだ、と手に取ったガラス瓶。中に詰まった金柑の甘煮、隣町に住むハーレイの母がコトコト煮込んで作ったもの。「風邪の予防にいいんだぞ」とハーレイがくれた頼もしい金柑。
(三個ほど…)
 食べておかなくちゃ、と小さな器に取り出した。風邪を引きそうな時はこれが一番、と。
 その様子を母が見ていたお蔭で、シロエ風のホットミルクも貰えた。「今日はこれでしょ?」とケーキと一緒に出て来たミルク。
(風邪に効くんだよね?)
 これもハーレイに教えて貰った、セキ・レイ・シロエの好物だったという飲み物。歴史に名前を残した少年、シロエが注文していたミルク。マヌカの蜂蜜とシナモンが入ったホットミルク。



 金柑の甘煮を三個と、シロエ風のホットミルク。おやつのケーキも美味しかったから、温まった身体。けれど二階の部屋に戻ったら、窓の向こうで風の音。きっとさっきより冷えるだろう風。
(あんまり寒くならないといいな…)
 夜中に冷えると、メギドの悪夢を見てしまうから。そうならないよう、ハーレイに貰った右手を包むサポーターをはめて眠るのだけれど、忘れてしまうこともある。今は幸せな毎日だから。
(ウッカリ忘れてしまうんだよね…)
 今の自分の小さな右手。それが今より大きかった頃に、どんな思いをしたのかを。時の彼方で、ハーレイの温もりを失くした自分。右手が凍えてとても冷たいと、泣きながら死んだ前の自分。
 悲しい記憶を秘めた右の手、普段は忘れているけれど。メギドのことも、右手が凍えたことも。
(ハーレイが来てくれると温かいのに…)
 心も身体も温かくなる。声を聞いただけで心が弾むし、温かく幸せにほどける心。大きな身体に抱き付いたならば、優しく温かいハーレイの温もり。
 ハーレイの膝の上に座って甘えて、あれこれ話をしたいのに。心も身体も温めたいのに。
(来なかった…)
 今日は仕事で遅いみたい、と零れた溜息。ハーレイが来てくれる時間は過ぎてしまったから。



 寂しい気持ちで本を読んでいたら、夕食前にまたクシャミが出た。もう少ししたら母が呼ぶ声が聞こえるだろう頃合いで。クシャンと、一つ。
(ホントに風邪かも…)
 部屋は暖かくしてあるのだから、冷えたせいではなさそうなクシャミ。俄かに覚えた心細さ。
 今のクシャミが本当に風邪で、明日の土曜日が駄目になったらどうしよう、と。
(ハーレイは来てくれるだろうけど…)
 お見舞いに来てくれるだろうとは思うけれども、たったそれだけ。風邪でベッドの住人だったら楽しさ半減、全滅と言ってもいいかもしれない。二人でお茶を飲めはしないし、食事も出来ない。ハーレイは「寝てろ」と言うに決まっているから、向かい合わせで座れはしない。
 同じ風邪でも平日だったら、事情はまるで違うのに。大抵はハーレイが仕事帰りに来てくれる。前の自分が大好きだった、素朴な野菜スープを作りに。
 何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけで煮込んだスープ。前の自分の病人食。同じスープを作って貰って、食べる間に昔語りを聞かせて貰ったり。
 平日に風邪で寝込んだのなら、幸せな時間を味わうことが出来るけれども、休日の風邪は素敵な時間を減らすだけ。ベッドから起きることも出来ずに、一日が終わってしまうのだから。
 せっかくハーレイが来てくれるのに。午前中から訪ねて来てくれて、夕食の後のお茶まで一緒。それが吹き飛ぶ風邪は嫌だ、と頭を振った。
(金柑も食べたし、シロエ風のミルクも…)
 だから大丈夫、と思いたいのに、さっき出たクシャミ。二度目だなんて、と怖くなるクシャミ。



 気のせいだよね、と不安を打ち消しながら食べた夕食。ハーレイの席が空いたテーブル。両親と囲んだ夕食だけれど、食べ終えた後に出たクシャミ。それも立て続けに三回も。
「あらあら…。やっぱり風邪なんじゃないの?」
 今日はお風呂は入らない方が、と母の心配そうな顔。「その方がいいわ」と。
「やだ!」
 お風呂は入る、と主張した。物心ついた頃から、こういう時でも入るのがお風呂。熱があっても入りたいほど、お風呂に入るのが大好きだから。
 ソルジャー・ブルーだった頃から、そう。無理をしてでも入っていた。暖かなバスタブのお湯に浸かるのが好きで、幸せな時間だったから。
 今の自分が幼い頃からお風呂好きなのも、そのせいだろう。文字通り寝込んでしまわない限り、お風呂は入ると決めている自分。母は「本当にお風呂好きだわねえ…」と溜息をついて。
「じゃあ、入ってもいいけれど…。温まったら、直ぐに寝るのよ」
 それから、早めに入ること。食べて直ぐだと消化に悪いし、もう少ししたら。
「はーい!」
 一時間ほどしたら入るよ、それでいいでしょ?
 お風呂が済んだら本も読まないで、ちゃんとベッドに入るから!



 約束を守って入ったお風呂。パジャマを着て部屋に戻った後には、急いでベッドに潜り込んだ。風邪を引いてはたまらないから、暖かい間に寝るのが一番、と。
 なのに、夜中にぽっかり覚めた目。見上げた暗い部屋の天井。
 サポーターをつけるのを忘れた割には、メギドの悪夢は見ていない。他の怖い夢も。けれども、目覚めてしまった自分。どうしてだろう、と考えてみたら。
(喉がちょっぴり…)
 痒いような、くすぐったいような感じ。放っておいたら痛みへと変わる、風邪の前兆。
(ハーレイのお母さんの、金柑の甘煮…)
 あれを食べなきゃ、と思っているのに、今度は睡魔。金柑を食べに行かせるものか、と包み込む眠気。それに捕まったら駄目なのに。風邪の悪魔の思う壺なのに。
(…金柑…)
 起きて金柑、と考える自分と、「寝ていればいい」と誘う声と。どちらがいいのか、迷っている間に捕まった睡魔。ウトウトと目を瞑ってしまって、そのまま落ちた眠りの淵。
 眠りは心地良かったけれども、暖かくて幸せだったけれども…。



 次に目覚めたら朝になっていて、起きるなり「クシャン!」と出て来たクシャミ。風邪の悪魔に捕まった。クシャミが何度も出て来る上に、少し熱い身体。喉にも痛み。
 このくらい、と起き上がろうとしていた所へ、運悪く通り掛かった母に聞かれたクシャミ。扉を開けて入って来た母は、見るなり「風邪ね」と見破った。
「今日は起きないで寝ていなさい」
 今なら熱も高くないから、大人しく寝てれば治る筈よ。朝御飯は持って来てあげるから。
 薬も飲むのよ、嫌がらないで。
「でも、ママ…! 今日はハーレイが…!」
 来てくれるんだよ、土曜日だから。
 このくらいの風邪なら大丈夫だから、ハーレイには風邪って言わないで…!
 来てくれなかったら大変だもの、どうせぼくは風邪で寝てるんだから、って…!
「心配しなくても、来て下さるわよ」
 普通の日でも、風邪を引いたら来て下さるでしょ、お仕事が忙しくない時は。大丈夫よ。
 一応、連絡はしておくけれど、と出て行った母。
 ハーレイ先生にも都合があるだろうから、風邪を引いたことは伝えなければ、と。



 母が連絡をしようと思う気持ちは、よく分かる。たまにハーレイがくれるお土産、お菓子などの食べ物ばかりだけれど。…買って来ようと思っているなら、今日だと無駄になるだろうから。
 風邪で寝込んだ病人には向かない食べ物やお菓子、それを買ったら大変だから。
 けれど、ハーレイには風邪を引いたと伝わるわけで、寝ていることも知られてしまう。いつもの調子で訪ねて来たって、自分はベッドの住人なのだと。
(ぼくが寝ているから、来ないなんてこと、きっとないよね…?)
 ジムや道場に出掛けてしまって、午後からしか来てくれないだとか。それが心配。ハーレイにも行きたい場所はあるだろうし、やりたいことも多い筈だから。
(…ひょっとして、夜に来てくれるだけ…?)
 平日のように、野菜スープを作るためだけに。他の時間はハーレイ自身のために使って。
 そうなってしまったらどうしよう、と気掛かりな所へ母が届けてくれた朝食。トレイに乗せて。小さめのホットケーキが一枚、それにシロエ風のホットミルク。
 栄養をつけないと治らないから、と頑張って食べて、嫌いな薬も飲んだ。「起きちゃ駄目よ」と母に念を押されて、大人しく横になったけれども。
(…ハーレイ、ちゃんと来てくれる…?)
 もう少ししたら、休日にハーレイが来る時間。今日はどうだか分からないけれど。車で何処かに出掛けてしまって、夜まで来ないかもしれないけれど…。



 時計を見たら悲しくなるから、壁の時計に背を向けた。枕元の目覚まし時計は見えはしないし、これで時間は分からない。ハーレイが来てくれる筈の時間がとっくに過ぎてしまっていても。
(…来てくれないなら、時計なんかは見えなくていいよ…)
 それに身体が熱っぽい、と瞳を閉じてウトウトし始めて。…どのくらい眠っていたのだろうか、不意に温かな声が聞こえた。
「おい、大丈夫か?」
 寝ちまってるのか、それならそれでかまわないんだがな。
「…ハーレイ…?」
 聞きたくてたまらなかった声。目を開けてみたら、ベッドの側に座っていたハーレイ。いつもの指定席の椅子を運んで来て、すぐ側に。
「すまんな、起こしちまったか?」
 寝てたのにな、とハーレイが申し訳なさそうな顔をするから、「ううん」と返した。
「ちょっとウトウトしていただけ…。ハーレイ、来てくれないかと思って」
 もし来なかったら、とても寂しいから…。時計を見たくなくて、目を瞑ってた…。
「ふうむ…。俺が来たのに気付かなかったし、寝てたんだろうが…。起こしちまったな」
 でもまあ、今は大丈夫か。
 風邪を引いても、薬も病院も、何でもあるし。…ちょっとばかり目を覚ましちまっても。
「え…?」
 どういう意味なの、何でもあるって…?
 もしかして前のぼくのことなの、ハーレイ、何か思い出したの…?
「まあな。…お前、しょっちゅう風邪を引くのに、なんだって今まで忘れてたんだか…」
 ついでに、思い出す切っ掛けっていうのも要らないらしいな、場合によっては。
 風邪だと聞いたら思い出すなら、とうの昔に思い出してた筈だからなあ…。



 お前はちゃんと寝ていろよ、と額に当てられた大きな手。普段は温かいと思う手なのに、今日はひんやり心地良い。きっと熱があるせいだろう。
 ハーレイは指で前髪を優しく梳いてくれてから、そっと手を離して。
「覚えてるか? お前の初めての風邪」
「風邪…?」
「昔話さ、シャングリラのな」
 いや、そんな名前さえ無かった頃か…。あれはコンスティテューションだっけな、人類がつけた名前ってヤツは。
 そいつで暮らしていた頃の話だ、まだ暮らしとも言えなかったか…。ゴチャゴチャしてて。
 いいか、眠くなったら眠っちまえよ、頑張って起きていないでな。
 寝るのも風邪の薬の内だ、とハーレイが言うから、素直にコクリと頷いたけれど。
「…眠くなったら寝るから、聞かせて。ハーレイの話」
 前のぼくの初めての風邪の話って、どんなのだったの…?
 やっぱり熱を出しちゃったのかな、喉が痛くてクシャミもしてた?
 教えて、どんな風だったのか…。
「どんな風も何も、風邪だったが? 今みたいにな」
 流行っていたってわけでもないのに、前のお前が引いちまったんだ。
 きっと気が緩んじまったせいってヤツだな、そういう時には風邪に罹りやすくなるもんだ。
 アルタミラから無事に脱出して、船のみんながホッとしていた頃だしな。



 まだ船の中は綺麗に片付いてはいなかったが、という言葉を聞いたら思い出した。脱出してから間もない船で、前の自分が引いてしまった風邪のことを。
 人類がアルタミラの宙港に捨てて行った船。物資を沢山積んでいた船は、急な脱出には不向きと判断されたのだろう。乗員は他の船に乗り換えて逃げて、置き去りにされた宇宙船。
 コンスティテューション号はそういう船で、ミュウにとっては命を救ってくれた船。これからは此処で生きてゆこうと、希望を与えてくれた船。どうやら追手も来ないようだから。
 今と同じに綺麗好きだった前の自分は、通路などに雑然と置かれた荷物を片付けようと考えた。移動しやすい船になるだろうし、広いスペースも取れるようになる。きっと快適な船になるから、とにかく整理整頓を、と。
 やり始めたらハーレイが手伝ってくれて、次第に他の仲間たちも加わっていった。そんな日々の中、クシャン、と一つ出たクシャミが切っ掛け。風邪の兆候。
 前の自分は全く気付かず、その日も片付けを続けたけれど。荷物を倉庫に運び込んだり、空いた所を掃除したりと。



 片付けや掃除は埃が舞うから、埃のせいだと思ったクシャミ。他の仲間も、ブワッと埃が舞った時などに何度もクシャミをしていたから。
 けれど、その日の夜になったら、だるかった身体。何故だか手足が重く感じた。片付けが済んで夕食の時間を迎えた頃には。
(椅子に座ってても、だるかったんだよ…)
 普段だったら、座った時には一休み。ホッとする筈の椅子だというのに、座っているのに必要な力。身体がふらつかないように。ウッカリ滑り落ちないように。
 なんとか食べ終えて自分の部屋に帰ろうと歩き出したら、ハーレイに声を掛けられた。食堂から通路に出て直ぐの場所で。
「おい、どうした?」
 食事、嫌いなメニューだったか?
 ちゃんと食べてはいたようだが…。ああいう味のは好きじゃなかったとか。
「違うよ、今日のも美味しかったよ」
 なんでもないよ、食べ終わるまでに少し時間がかかっただけで。
「…なんでもないって…。そういう風には見えないぞ、お前」
 元気が無い、と覗き込まれた瞳。今と同じに穏やかな光を湛えた鳶色の瞳で。
 何かあったかと、いつもと様子が違うんだが、と。
「なんだかだるい…。それだけだよ」
 ちょっと身体がだるくって…。椅子に座っていたら、落っこちそうな感じになっちゃって…。
「働きすぎか?」
 お前、小さいのに、頑張って荷物を運ぶから…。疲れてしまっているんじゃないのか、あちこち掃除もして回るしな?
「そんなことはないと思うけど…」
 ちゃんと休憩だってしてるし、働きすぎにはならないよ。でも、重い荷物を持ちすぎたかな?
 サイオン無しでも持てるかも、って試していた分、疲れたかもね。



 一晩寝たら治っちゃうよ、とハーレイと別れて戻った部屋。暫くベッドに転がっていたら、手も足も軽くなったから。「今の間に」とシャワーを浴びに出掛けて行った。埃を落として、すっきりした気分で寝たかったから。
(うん、平気…)
 熱いシャワーで温まったら、だるかったことなど嘘のよう。やっぱり疲れただけだったんだ、と眠る時に着る服に着替えて、ベッドに入った。ぐっすり眠れば、きっと明日には元通りだから。
 もう大丈夫、と眠りに落ちて、どのくらい経った頃だったろうか。
(暑い…?)
 じっとりと汗ばんだ肌で目が覚めた。空調が誤作動したのだろうか、室温が高くなるように。
(ぼくじゃ、修理は出来ないし…)
 下手に止めたら、宇宙船の部屋は寒くなることを知っている。それを利用した倉庫があるから。暑くなる壊れ方をしていたとしても、スイッチを切れば冷蔵庫のようになるだろう部屋。
(明日になったら、ゼルに頼んで…)
 誤作動にせよ、壊れたにせよ、自分ではどうにも出来ない空調。ゼルは機械に強いそうだから、直ぐに直してくれるだろう。それまでの我慢。
(シールドを張るほどじゃないよね、こんなの)
 アルタミラで何度もやられた人体実験。鉄さえ溶けそうな高温だとか、何もかも凍りそうな低温だとか。それは酷い目に遭っていたから、汗ばむ程度の暑さでサイオンは使いたくない。
(こんなのを被っていなければ…)
 暑くないよ、と上掛けを剥いだら、一瞬、ひんやりしたのだけれど。気持ち良かったのは僅かな時間で、今度は寒くなってきた。歯がガチガチと鳴り出すほどに。
 慌てて上掛けを被り直したら、やっぱり暑いような気がする。身体が熱の塊になったみたいに。
(暑いんだよね?)
 これが邪魔、と剥がした上掛け。空調もおかしいようだけれども。
 上掛けを剥がすのを待っていたように、いきなり寒くなったから。適温だった時間は少しだけ。



(この部屋、暑いの? それとも寒いの…?)
 何度も上掛けを被っては剥いで、剥いでは被って。暑さと寒さに襲われ続けて、すっかり疲れてしまった身体。なんとも酷い空調だけれど、朝まで我慢するしかない。
 あまりに疲れてしまっていたから、もうシールドも考え付きはしなくて。
(暑い方だと汗をかくから…)
 きっと寒い方がまだマシだよね、と上掛け無しで寝ることにした。身体を丸く縮めていたなら、暖かくなるような気もするから。凍死するほどの寒さなどではないのだから。
 そうして眠って、ふと気が付いたら、動かすことさえ辛かった身体。鉛のように重たい手足。
 何かが変だ、と思うより前に酷い寒気が襲って来た。外からではなくて、身体の中から。空調が壊れていたのではなくて、寒さの元は自分の身体だと今頃になって気付いた始末。
(どうしよう…)
 多分、身体の具合が悪い。頭も重いように思うし、恐らく病気なのだろう。人体実験で酷い目に遭わされた後には、よくあったこと。身体が重くて動かないのも、ガタガタ震え出すことも。
 けれども、自分で治したことなどは無い。ただの一度も。
 そういう時には、アルタミラでは人類が治療していたから。次の実験をするために。
 たった一人しかいないタイプ・ブルーは、死なせたらもう実験出来ない。新しいデータを二度と取れない、タイプ・ブルーに関しては。
 だから研究者たちは治療をさせた。死んでしまわないよう、適切な処置を。医学を修めた白衣の者たち、彼らが専用の部屋に運び込んでは、何度も何度も治療し続けた。
(だけど、治し方…)
 ぼくは知らない、と嘆くしかない。自分の身体の面倒でさえも、見られなかったのが檻だから。あの檻の中で、ただ生かされていただけだから。
 治療される時は専用の部屋で、白衣の者たちがしていた処置。それが終われば檻に戻され、餌と水とで飼われていた。必要に応じて水に薬が入れられたけれど、自分にとってはあくまで飲み水。薬の味がしていただけで、どう効いたのかもよく分からない。
 まるで知らない、自分の身体の治し方。こういう時にはどうすればいいのか、手掛かりさえも。



 何をすればいいのか、どうすべきなのか。本当に何も思い付かないから、どうしようもなくて。朝になったらしいことは分かっても、起きられないままでベッドの上。
 なんとか手繰り寄せた上掛けを頭から被って、ブルブル震えているしかなかった。寒さは少しも減らないけれど。上掛けを強く巻き付けていても、凍えてしまいそうだけど。
 そうやって一人震え続けて、ベッドの上で丸まっていたら…。
「ブルー?」
 どうしたんだ、とハーレイの声が降って来た。部屋まで見に来てくれたハーレイ。朝食を食べに来なかったから、と心配して。
「…ハーレイ…?」
 上掛けから顔を覗かせてみたら、見慣れた大きな身体があった。屈み込むように。
 そう、今のハーレイがベッドの側にいるように。あの時は、椅子は無かったけれど。ハーレイは遠い日を今も忘れていなくて。
「驚いたんだぞ。お前の部屋を覗きに行ったら、ベッドでブルブル震えていて」
 ちゃんと上掛けは被ってるんだし、部屋だって暖かかったのにな。
「だって、寒かった…」
 冷凍庫に入ったみたいだったよ、寒くて凍えてしまいそうで。手も足も、とても冷たくて…。
「そう言うから、俺が触ってみたら熱いんだ」
 冷たいどころか火傷しそうに。…そこまで熱くはなかったんだろうが、そう思えたな。
 お前が冷たいと言ったもんだから、俺もそのつもりで触ってみたし。



 前のハーレイの手が触った額。寒さが和らいだ気がした手。暖かくなった、とホッとしたのに、聞こえた声は逆だった。「冷たい」ではなくて、「熱いじゃないか」。
 何故、と思わず見開いた瞳。今もこんなに寒いのに、と震えながらハーレイを見上げたら…。
「こりゃ、風邪だな。熱があるから寒いんだ」
 身体はうんと熱いんだがなあ、自分じゃ分からないんだな。だから寒くて震えてしまう。
「風邪…?」
 なんなの、ぼくはどうなっちゃったの…?
「風邪は風邪だな、そういう病気だ。お前、クシャミもしてるだろうが」
 喉だってきっと痛い筈だぞ、どうなんだ?
「うん、少し…。それに身体が重くて起きられないよ」
「だろうな、これだけ熱があればな。誰だってそうなっちまう」
 昨日の夜から、お前、だるいと言ってたし…。あの時からもう風邪だったんだ。
 しかし、どうすりゃいいんだか…。俺も風邪としか分からないしな。
 治し方は全く知らないんだ、と済まなそうな顔をしたハーレイ。俺じゃ駄目だ、と。
 今から思えば不思議な話。今のハーレイならばともかく、前のハーレイが風邪と見破ったこと。
「…ハーレイ、よく風邪なんか知ってたね」
 あの頃はまだ、みんな記憶が曖昧で…。知らないことも沢山あって、そっちが普通だったのに。
 前のぼくだって、身体の具合が悪いことしか自分じゃ分からなかったのに…。
「お前の他にも友達、いたしな」
 一番古い友達は前のお前だったが、他にも大勢いたろうが。
 お前と違ってチビじゃなかったから、友達を作りやすかったんだ。向こうも話しやすいしな。
 前のお前も馴染みのヤツなら、ヒルマンだとか。



 そのヒルマンを呼びに走ってくれたハーレイ。「ちょっと待ってろ」と。
 ヒルマンは調べ物が得意な男で、思わぬ怪我や病気の時には頼りになった。船に最初からあった薬や包帯、そういったものを調べ尽くしていたから。
 まだ来ていなかったノルディの時代。応急手当も、その後の治療もヒルマンがやっていた時代。
 ハーレイが連れて来たヒルマンは、熱を測ったり、口を開けさせて覗き込んだりして。
「風邪だね、これは。治すためには栄養と、薬と…。後は睡眠だよ」
 食べられそうなものをしっかりと食べて、よく眠るように、と言われたのに。
 薬も幾つか処方して貰って、我慢してきちんと飲み込んだのに…。
「思い出したよ、ぼく、アルタミラの夢が怖くって…」
 薬を飲んだら思い出すんだよ、アルタミラで飲まされていた薬のことを。
 毒は飲まされていなかったけれど、薬の味は実験のことを思い出すから…。治療される時に薬を飲んだし、薬入りの水も飲まされたから。
「ああ、あの頃のお前はな」
 今のお前がメギドの悪夢を見るのと同じで、アルタミラの夢を見ちまっていた。
 具合が悪くなった時には、身体が思い出すんだろう。酷い実験で苦しかったと、今と似たような目に遭わされたと。
 そこへ薬を飲んでたわけだし、余計に思い出しちまうよなあ…。アルタミラで飲まされてた時はどうだったのかを、お前の意識がある時にも。



 眠らなければと思っていたのに、熱にうかされると襲ってくる悪夢。研究者たちが来て、入れと命じる強化ガラスのケース。高温の蒸気が噴き出して来たり、液体窒素が注ぎ込まれたり。
 身体が熱いと高温実験の夢で、寒気がする時は低温実験。他の実験の夢も幾つも繋がって来た。頭の中を掻き乱される心理探査や、身体に負荷をかける実験。
 その度に悲鳴を上げて目が覚め、少しも眠った気分がしない。眠れば地獄に連れ戻されるから。ヒルマンは「眠るように」と言ったのに。そうしないと多分、治らないのに。
 それでも眠るのは怖い、と震えていた所へ、ハーレイが様子を見に来てくれた。「昼飯だぞ」と消化の良さそうなスープの器をトレイに乗せて。
 「食べられそうか?」と訊かれたスープは飲めたけれども、問題は薬。飲み込んだら、舌と口に一気に蘇ってくる忌まわしい記憶。アルタミラの地獄で飲んだ味だ、と。
 この味がまた悪夢を連れて来るだろうから、ハーレイに向かって「眠れないよ」と訴えた。夢を見るから怖くて無理だ、と。眠っても直ぐに目覚めてしまうと、自分の悲鳴で目が覚めると。
「お前、眠れないと言うもんだから…」
 俺が仕事を抜けて来たんだ、食事のトレイを返しに行ってな。仕事と言っても、片付けて掃除をするだけだったが。…あの頃はまだ、厨房の係じゃなかったし。
「そうだね、ぼくと一緒に片付けてただけ…」
 だからハーレイが抜けても平気。誰も困りはしなかったものね、代わりの人はいるんだから。
「頼むと言うだけで良かったからなあ、料理の途中やキャプテンってわけじゃないからな」
 直ぐに抜けられたさ、お前の看病をすると言ったら。お前、あの船じゃチビだったしな。



 「来てやったぞ」と部屋に戻って来てくれたハーレイ。椅子をベッドの側に運んで来て、座って大きな手を差し出した。「ほら」と、「手を出せ」と。
 上掛けの下から手を出してみたら、その手をそっと包み込んだ手。「俺がいるから」と。
「こうして握っていてやるから。…これなら夢も見ないだろ?」
 此処はアルタミラの檻じゃないんだ、お前は独りぼっちじゃない。酷い実験なんかも無い。
 怖い夢なんか見なくていいんだ、安心して眠っていればいい。俺がお前の側にいるから。
 大丈夫だぞ、と握ってくれた、温かくて大きなハーレイの手。
 ふわりと心が軽くなったようで、瞼を閉じても感じた思念。寄り添ってくれるハーレイの心。
 それきり悪夢は襲って来なくて、やっと眠れた。夢も見ないで、ぐっすりと深く。
 目覚めたら、もう夕食の時間。誰かが届けに来てくれたのだろう、二人分の食事が机にあった。普通の食事がハーレイ用で、もう一つのトレイに病人用のスープ。
 ハーレイは自分の食事を後回しにして、スプーンでスープを食べさせてくれた。「お前、身体が弱っているしな」と、「夢のせいで酷く消耗しちまってるし」と。
 嫌いな薬も、ハーレイが口に入れてくれたら嫌な味が少し和らいだ。これは病気が治る薬、と。
 ハーレイが食事を食べ終える頃には、船の中は夜へと移る頃合い。通路などの明かりが暗くなる時間、夜間に仕事をする者以外は部屋に戻ってベッドで眠る。
「さてと…。そろそろトレイを返しに行かんと」
 厨房の明かりが消えちまうしなあ、朝食の準備をした後は。
 もう帰ろうか、ってトコで仕事を増やしちゃ申し訳ない。俺だって寝なきゃならないし。
「…ハーレイ、帰るの?」
「当たり前だろ、此処は俺の部屋じゃないからな」
 お前の部屋だし、俺のベッドも何も無い。それじゃどうにもならんだろうが。



 人間、夜はきちんと眠らないとな、とハーレイはトレイを手にして出て行った。昼間よりも暗い通路へと。厨房にトレイを返しに出掛けて、それから部屋に戻るのだろう。ハーレイの部屋に。
 ポツンと一人、残された部屋。ハーレイが消し忘れて行ったらしい照明。
(夜は消さなきゃ…)
 個人の部屋の明かりを何時に消すかは、住人の自由。自動で消えたりしない照明。エネルギーを無駄に使わないよう、消さなければと思うけれども。
(…身体、重たい…)
 独りぼっちになったせいなのか、心細くて力が入らない身体。さっき薬を飲んだ筈なのに、また熱が上がるのかもしれない。手足が冷えて来たようだから。
(治ってないんだ…)
 熱が出たら襲ってくる悪夢。昨夜は夢は見なかったけれど、今夜はどうなってしまうのか。熱と寒気に苛まれたなら、明日の朝には今朝よりも酷い状態になっているかもしれない。
(…ぼく、どうなるの…?)
 怖い、と身体を震わせていたら、開いた扉。其処から入って来たハーレイ。
「待たせたな」
「え?」
 ハーレイ、帰ったんじゃなかったの?
 此処はハーレイの部屋じゃない、って言っていたでしょ、どうしたの…?
「シャワーを浴びに行って来たのさ、服も着替えてあるだろうが」
 さっきの服とは違う筈だぞ、覚えてないかもしれないがな。お前、病気でボーッとしてるし。



 今夜は此処でついててやる、とハーレイは手を握ってくれた。ベッドの側の椅子に腰掛けて。
「俺がいるから安心して眠れ。お前、一人じゃ怖いんだろうが」
 一晩中、ろくに眠れなかったら、治るどころじゃないからな。ちゃんと眠って治さないと。
「それじゃハーレイ、眠れないよ」
 椅子に座って寝るなんて…。座ったままなんて、無理だってば。
「俺は頑丈だから、何処でも眠れる」
 アルタミラの檻を考えてみろ。あれに比べりゃ、椅子は充分、立派な寝床だ。
「でも…。椅子とベッドは全然違うよ」
「いいんだ、お前のベッドはお前専用だ。お前には大きいベッドだろうが…」
 二人も寝られる大きさじゃないぞ、どう見たってな。
 それよりは床の方がいい。椅子も悪くないが、床に座って寝る手もある。お前の手を離さないで眠るためには、そっちの方がいいかもな。
 お前のベッドの端っこを借りて、俺の身体を少し乗っけて。
 とにかく、お前は眠ることだ。俺が朝までついててやるから。
 俺が椅子で寝るか、床で寝るかは、俺がゆっくり考えるさ。お前が眠っちまってからな。



 心配しないでぐっすり眠れ、と握ってくれた大きな手。温かくてがっしりしていた手。
(ホントに椅子とか床で寝る気なの…?)
 まさか、と思ったハーレイの言葉。きっと自分が深く眠ったら、部屋に帰ってゆくのだろうと。朝まで覚めないだろう眠りに入ったと見たら、手を離して。
(…それでもいいよ…)
 今だけでも眠れたら充分だから、と目を閉じて、いつの間にか眠ってしまって。
 ふと目覚めたら部屋は暗くて、独りなのだと思ったけれど。
(ハーレイ…)
 直ぐ目の前にあったハーレイの寝顔。眠る前に聞いた言葉通りに、ハーレイは床に座って眠っていた。胸の辺りまでをベッドに乗せて、握っている手は離さないままで。
(…ホントに寝てる…?)
 ハーレイの手を握り返してみたら、キュッと力が返ったけれど。握り返してくれたのだけれど、ハーレイは夢の中らしい。微かに笑みを浮かべただけで、何の言葉も返らないから。
(朝まで一緒にいてくれるんだ…)
 一人じゃないよ、と安心し切って落ちていった眠り。恐ろしい夢は見なかった。
 朝になったら、「起きたのか?」とハーレイの優しい笑顔。「昨日よりずっと顔色がいい」と。
 ハーレイは朝食を取りに行ってくれて、今度は自分で食べられた。嫌いな薬も我慢して飲んだ。その日もハーレイはついていてくれて、眠る時には握ってくれた手。
 次の日には熱が出ることはなくて、そうやって最初の風邪は治った。ハーレイがしっかり握ってくれた手、その手に悪夢を防いで貰って。



「…思い出したよ、前のぼくの風邪…」
 ハーレイに手を握って貰ってたんだよ、一晩中、側にいてくれて…。床で眠って。
「お前のベッドじゃ眠れなかったしな、狭かったし」
 それに、心配だったんだ。…あの時、お前が引いちまった風邪。
 医者はいないし、薬だって船にある分だけで…。無いものは手に入れようがない。医者も薬も。
 こじらせちまったら、どうしようかと…。風邪で死ぬこともあるんだから。
「そうだったの?」
 ハーレイ、あの時、もう知ってたの?
 風邪をこじらせたら、死んじゃうこともあるんだってこと。
「…ヒルマンから話は聞いていたんだ。お前には言わなかったがな」
 熱が上がってゆくようだったら、気を付けないといけないと。衰弱が酷くなったらマズイと。
 しかしだ、病気ってヤツは不安になったら治らないもんだ。治ると信じていないとな。
 だから黙ってついていたんだ、お前が弱らないように。
 「大丈夫だから」と言ってやるのが一番の薬で、お前も安心するだろう?
 俺の心配は知られちゃ駄目だ、と思ってはいても心配だった。お前の熱が下がるまではな。
 俺がお前にしてやれることは、手を握ることしか無かったんだから。
 あれ以上の薬は手に入らないし、医者もいなかったんだから…。
「ごめんね、心配かけちゃって…」
 だけど、今のはただの風邪だよ。薬だってあるし、お医者さんもいるし…。
「まあな。だが、早いトコ治したいだろ?」
 早く治せば、明日の午後には俺と二人でお茶が飲めるかもしれんしな?
 こんなベッドの所じゃなくって、いつもの椅子とテーブルに行って。そのためにも、だ…。



 今日は無理やり起きようとせずに、話を聞きながら寝てることだな、と言われたから。
「ぼくの手、ちゃんと握ってくれる?」
 あの時みたいに、と差し出した手を「もちろんだ」と握ってくれた手。
「こうしてしっかり握っててやるが、スープはどうする?」
 俺がお前の手を握ってたら、野菜スープが作れないんだが…。俺の手、塞がってるからな。
「スープよりもハーレイの手の方がいいから、食事はママに任せるよ」
 朝はママが作った食事を食べたし、お昼も作ってくれると思う。ハーレイの分も。
 今日の風邪、食欲は落ちてないから、ママの食事で大丈夫。
 だからハーレイは手を握っててよ、この手もちゃんと効くんだから。
 前のぼくの風邪、この手に治して貰ったんだから…。
 握っていてね、と強請った手。風邪を治せるハーレイの優しい大きな手。
 たまにはこういう風邪の治療もいいだろう。
 思い出したから、初めての風邪を。前の自分が罹った風邪を。
 まだ野菜スープも無かったけれども、ハーレイが治してくれた風邪。
 あの時のように、ハーレイの手で風邪を治して貰うのも。
 しっかりと手を握って貰って、ウトウトしながら心と身体を休められる幸せなひと時も…。




            初めての風邪・了


※アルタミラから脱出して間もない頃に、前のブルーが罹った風邪。しかも悪夢まで。
 そんなブルーが弱らないよう、側にいたのがハーレイなのです。眠っている間も手を握って。
  ←拍手して下さる方は、こちらからv
   ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










PR
Copyright ©  -- シャン学アーカイブ --  All Rights Reserved

Design by CriCri / Material by 妙の宴 / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]