シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(口髭用のカップ…?)
変な物がある、とブルーが覗き込んだ新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
口髭のある人が使った専用のカップなのだと書かれていた。カラー写真を何枚もつけて。人間が地球しか知らなかった時代に、そういうカップが誕生した、と。
(ムスタッシュカップ…)
それが口髭用のカップの名前。ムスタッシュはそのまま、口髭の意味。名前からして口髭専用、遠い昔の地球で生まれた。千八百六十年代、いわゆる十九世紀。
イギリスという国が栄えた時代で、其処は紅茶が好まれた国。その国で暮らす紳士のためにと、発明されたのがムスタッシュカップ。
(口髭を濡らさずに飲めるティーカップ…)
ふうん、と読んでいった記事。発明した人はハービー・アダムス、今も名前が伝わるほどだし、相当に流行ったのだろう。口髭用だというカップは。
(髭マークつき…)
このタイプだったら、ムスタッシュカップを知らない人でも口髭用だと分かるかもね、と眺めた写真。カップの内側に橋を渡すように、最初からついている口髭置き。
カップと同じ素材で出来ているそれは、色々なデザインがあるのだけれど。形も模様もカップによって違うけれども、ユニークなのが髭の絵つき。「ここに乗せて下さい」という印。
(口髭、紅茶に入りそうだものね…)
カップの紅茶を飲もうとしたら、中にポチャンと。口髭ガードだという専用の橋が無かったら。その上に髭を置かなかったら。
大人気だったというムスタッシュカップ。それを反映して、ティーカップからマグカップまで、色々なカップについている橋。口髭を乗っけておくための。
面白いね、と読み進めたら、ムスタッシュカップが生まれた理由。口髭を乗せる橋が歓迎された理由は、紅茶で濡れるからではなくて…。
(髭の形が崩れちゃうんだ…)
紅茶の湯気で溶けてしまうというワックス。紳士たちが髭を固めておくのに使ったもの。当時の紳士は髭好きが多くて、大流行だったのがピンと捻り上げるタイプ。
これがそうです、と載っている古い写真の人物の髭が…。
(……ゼル……)
そうとしか見えない、立派な口髭。遠く遥かな時の彼方で、ゼルが生やしていた口髭。カイゼル髭と呼ぶらしい。写真の人物や、ゼルの口髭は。
(この形の髭が大流行…)
大勢の人がゼルのような髭を蓄えた時代。そうは言っても、自慢の髭が崩れないよう、カップの形を改造だなんて、凄すぎる。橋を一本渡すだけでも、ひと手間かかる製造過程。
発明した人も凄いけれども、イギリス紳士の紅茶への情熱も、きっと凄かったのだろう。専用のカップを用意してまで、飲みたかった紅茶。
(口髭があるお客さんが来たら、出してたのかな…?)
しげしげと見詰めたカップの写真。カップ本体の形も模様も実に様々、口髭用の橋が無ければ、普通のカップになりそうなもの。繊細な花柄のカップも沢山。
髭の種類も幾つもあったと書かれているけれど、そちらがメインの記事ではないから。
(ゼルの髭しか載っていないや…)
口髭を生やした人の写真は、カイゼル髭の一枚だけ。
きっと口髭の代表選手、と納得した。ヒルマンだったら頬髭もあったし、口髭よりも頬髭の方が目立っていたという記憶。ムスタッシュカップの記事に添えるには、不向きなのだろう。
(だって、口髭用だしね?)
口髭がトレードマークの人でなくっちゃ、と考えた。ヒルマンよりかはゼルの方、と。
おかしなカップがあったみたい、と何度も眺めたムスタッシュカップ。口髭がある人の御用達。必要は発明の母だけれども、何も此処までしなくても、と。
なんとも傑作なカップだった、と部屋に帰っても忘れられない。口髭を乗せる橋つきのカップ。とはいえ、自分には全く関係ない話。今の自分はチビの子供だし、前の自分も…。
(髭なんか生えなかったから…)
滑らかだった前の自分の顔。口髭も顎髭も生えはしなくて、産毛だけ。口髭が無ければ、出番が無いのがムスタッシュカップ。欲しいと思ったことさえも無い。髭も、口髭専用カップも。
(それに、髭…)
前のハーレイも生やしていなかった。二人で何度もお茶を飲んだけれど、ハーレイも口髭専用のカップに用は無いから、青の間には要らないムスタッシュカップ。
(そういうカップは無かったけれど、髭の人だって…)
専用カップが必要なほどの人数じゃないよ、と思い浮かべたシャングリラ。前の自分が暮らしていた船。あのシャングリラで髭を生やしていた人といえば…。
(ゼルとヒルマン…)
他にいたっけ、と首を傾げたけれども、どうにも思い出せない顔。船の仲間は覚えているのに。生まれ変わった今になっても、全員の名前を言えるほどなのに。
(だけど、髭の人…)
ゼルとヒルマン、あの二人しか浮かんで来ない。前の自分が知っている顔は二つだけ。
もっとも、アルテメシアを脱出した後、誰か生やしたかもしれないけれど。赤いナスカに降りた頃には、他にいたかもしれないけれど。
前の自分の記憶にある髭は、ゼルとヒルマンの二人だけ。彼らしか生やしていなかった髭。他に一人もいなかったのは、年齢のせいもあるかもしれない。
(若いと、あんまり似合わないものね…)
本当の年齢はともかくとして、外見は若かった仲間たち。アルタミラからの脱出組も。若い間に年を取るのをやめてしまったから、船の仲間は青年ばかり。
(んーと…)
この顔も駄目であの顔も駄目、と色々な仲間の顔に描いてみた髭。頭の中で。誰の顔にも、髭は似合わなかったから…。
(長老並みに年を取らないと…)
髭を生やしても駄目なんだよ、と考えた。きっと似合いはしないのだと。
けれど、その辺の事情は聞いてはいない。ゼルとヒルマン、あの二人が髭を生やしていた理由。前のハーレイからは聞かなかったし、多分、ゼルたちからだって。
今の自分が忘れたのではなかったら。記憶から消えたわけではないなら。
(聞いてないけど、ゼルはカイゼル髭…)
そういう名前の髭だったんだね、と今の自分が仕入れた知識。さっき新聞で読んだカイゼル髭。それを固めるワックスが湯気で溶けないようにと、発明されたのがムスタッシュカップ。
(カイゼルカップって名前じゃないから…)
他にも口髭の名前は幾つもあったのだろう。大流行したのがカイゼル髭だっただけで。
(あの頃だったら、ゼルは流行の最先端だよ)
だってカイゼル髭なんだもの、とゼルのピンとした口髭を思った。カイゼル髭、と。
(…ゼルがカイゼル髭…)
髭の名前にゼルの名前が入ってるよ、とクスッと笑ったのだけれども…。
クイと心に引っ掛かったもの。ゼルが生やしていたカイゼル髭。
(ちょっと待って…!)
それだ、と蘇って来た記憶。遠く遥かな時の彼方で、ゼルの顔にあったカイゼル髭。ゼルの顔にあれが生まれた理由。ゼルだからカイゼル髭だっけ、と。
(最初は長老のみんなに共通の話で…)
前の自分を補佐してくれた、長老たち。それにキャプテンだったハーレイ。
仲間たちが外見の年齢を止めてゆく中、彼らはそのまま年を取り続けた。前の自分は、とっくに年を取るのを止めていたのに。
「あたしたちには、威厳ってヤツが必要なんだよ。なにしろ、あんたが若いんだから」
周りがしっかりしていないとね、と年を重ねていったブラウたち。外見から自然に生まれてくる重み、それも役立つ筈なのだから、と。
そうして時が流れてゆく中、髭を伸ばすと言い出したゼル。長老たちが集まった席で。
「顎髭がいいと思うんじゃがな。こんな具合に」
こうじゃ、とゼルが顎の下に手で描いてみせたイメージ。十センチくらいはあっただろうか。
「私も伸ばそうと思っていてね。髭は貫禄がありそうだから」
やってみようと検討中だ、とヒルマンも髭を伸ばすつもりで、たちまち顔を顰めたエラ。
「髭だなんて…。それも二人で伸ばすだなんて。あなたたちの立場が分かっていますか?」
無精髭という言葉があるほどですから、髭は賛成できません。
貫禄を出そうと言うのだったら、年齢を重ねてゆくだけでいいと思いますが?
「無精髭とは違うわい! 髭は威厳があるものなんじゃ」
きちんと手入れをしておれば問題ないじゃろうが。
わしの顔じゃぞ、わしだって無精髭は御免じゃ。この顔に似合う髭がいいんじゃ…!
どういう風に伸ばしてゆくかはヒルマンと二人で考えるわい、と言い切ったゼル。伸ばす過程で文句が出て来ないように気を付ける、と。
髭を伸ばしたかった二人は、エラの小言を言葉巧みに躱し続けて…。
「なんだい、顎髭じゃないのかい?」
顎はツルリとしてるじゃないか、とブラウが見詰めたゼルの口髭。顔の両側にピンと張り出して立派だけれども、最初に言っていた顎髭が無いから。綺麗に剃られたツルツルの顎。
「わしは考えを変えたんじゃ。これでいいんじゃ、顎髭は要らん」
ピッタリの髭が見付かったからな、わしはこれからコレにするんじゃ。
得々とゼルが髭を引っ張るから、前の自分も興味を引かれた。ピッタリの髭とは何だろう、と。
「ピッタリの髭って…。その髭なのかい?」
「そうじゃ、カイゼル髭と言うんじゃ!」
似合うじゃろうが、と言われたものの、カイゼル髭。耳に馴染みが無い名前。
「ふうん…? ゼルが生やすから、カイゼルなのかい?」
自分の名前の前にカイとつけるのかな、そのタイプの口髭を生やす時には?
「カイゼルと言ったら、カイザーじゃが?」
そのままの意味じゃな。読み方だったか、発音だったか、それが違うというだけなんじゃ。
「カイザーって…」
ゼルの髭という意味ではなくて、カイザーだって…?
頭を掠めた嫌な思い出。カイザーの方なら、前の自分も知っていた。リーダーからソルジャーに変わった切っ掛け、皆が投票で決めた尊称。候補の中にあったカイザー。
やたら偉そうな代物だったから、忘れられずに覚えていた。カイザーという言葉の意味を。
「カイゼルの意味は、皇帝なのかい…?」
皇帝がカイザーだったと思う、と確かめてみたら。
「そうじゃ! 皇帝の髭じゃから、カイゼル髭と言うんじゃ、これは」
ゼルの話では、遥かな昔の地球にあった国。ドイツ帝国のヴィルヘルム二世、独特の形の口髭を誇っていた皇帝。彼の名にちなんで、同じタイプの口髭にカイゼル髭と名前が付いたらしい。
「皇帝が生やしていた髭だって?」
前の自分も驚いたけれど、ブラウもポカンと口を開けていた。「そりゃ偉そうだ」と。
「皇帝の髭じゃぞ? 由緒正しい髭というヤツじゃ、カイゼル髭は」
上手い具合にわしの名前も入っておるしな、ちゃんと「ゼル」とな。
ソルジャーも勘違いしたほどなんじゃし、これこそがわしに似合いの髭じゃ。顎髭なんぞより、ずっといいわい。カイゼル髭の方が。
素晴らしいじゃろ、と自慢するゼルの姿に、ブラウが「ヒルマン髭は?」と尋ねた。ヒルマンの名前が入っているとか、そういった髭もあるのかい、と。
「いや、私のは…。残念ながら…」
ゼルのようにはいかなかったね、と苦笑するヒルマンは口髭に頬髭。如何にも由緒がありそうな形に見えたけれども、ヒルマンの名前を織り込んだ髭は無かったらしい。
カイゼル髭が流行った時代は、髭も色々あったのに。髭の紳士が多かったのに。
ヒルマン曰く、無精髭という言葉もあるのが髭だけれども。その髭が紳士のお洒落だった時代、そういう時代があったという。髭を伸ばしていた紳士たち。
「古き良き時代というヤツだね。伸ばすと言ったら反対された、ゼルや私にしてみれば」
その頃の髭は、大層優遇されていたから…。専用のカップもあったくらいに。
「カップだって?」
何のカップだい、と前の自分もブラウも不思議に思った。カップと言ったら、紅茶やコーヒーを飲むためのもの。それしか頭に浮かんで来ないし、髭の紳士の専用カップなど想像出来ない。
何の目的でそれが在ったのかも、どんな形のカップなのかも。
「普通のカップと同じように使うカップだよ。発明された国では、紅茶用だったらしいね」
他の国でも作られていたし、形も色々だったから…。コーヒーを飲んでいた紳士もいただろう。
ムスタッシュカップという名前のカップで、ムスタッシュは口髭の意味だった。名前の通りに、口髭用のカップなわけで…。
口髭の形が紅茶の湯気で崩れないよう、それに濡れないようにとも思ったんだろうね。カップの内側に、髭を乗せておくための橋がくっついていたんだよ。最初から。
残念なことに今の時代は無いらしい、と笑ったヒルマン。
ムスタッシュカップはとうの昔に廃れてしまって、現物も残っていないようだという。博物館にあったとしたって、展示される機会も無いのでは、と。展示しても分かって貰えないから。
けれど、ゼルとヒルマンが生やした口髭。
紅茶やコーヒーを飲むには不向きだけれども、ムスタッシュカップが無くても問題無いらしい。湯気で崩れたり、濡れたりするのを防ぎたかったら、サイオンを使えばいいことだから。
わざわざカップを誂えなくても、髭をシールドしておけるから。
(…ムスタッシュカップ、って言っていたっけ…)
時の彼方で、前の自分が聞いただけのカップ。さほど興味が無かったのだろう、どんなカップか改めて尋ねはしなかった。訊いていたなら、「こういうカップで…」と思念で伝えて貰えたのに。
(ああいうカップだったんだ…)
ムスタッシュカップ、と思い浮かべた新聞記事の写真。前の自分が名前だけを聞いた、カップの写真を見てしまった。長い長い時が流れた後で。青い地球の上で。
ゼルとヒルマンは多分、見たことがあっただろう写真。髭が優遇された時代の口髭用のカップ。
(…今のハーレイ、知ってるのかな?)
口髭用にと発明されたムスタッシュカップ。
それに、そのカップが生まれる切っ掛けになった紳士たちの髭。皇帝が生やしたカイゼル髭。
今のハーレイは沢山の知識を持っているから、生まれ変わった後に覚えたかもしれない。こんなカップがあったようだと、このスタイルの髭の呼び名はこう、と。
前のハーレイの記憶が戻る前から、ちゃんと仕入れて。今のハーレイの知識として。
(知ってるかどうか、訊いてみたいな…)
仕事の帰りに寄ってくれたら訊けるんだけど、と思っていたら、チャイムが鳴った。急いで窓の所に行ったら、ハーレイが手を振っている。庭を隔てた門扉の向こうで。
(やった…!)
これで訊ける、と小躍りした。ムスタッシュカップも、カイゼル髭も。
今のハーレイは知っているのか、其処から入って思い出話。シャングリラのことを話そうと。
ワクワクしながらハーレイを迎えて、テーブルを挟んで向かい合わせで腰掛けて。テーブルには母が運んで来てくれた紅茶もあるから、カップをチョンとつついて尋ねた。
「あのね、ハーレイ…。ムスタッシュカップって、知っている?」
紅茶とかを飲むカップだけれど…。ちょっと変わっているカップ。
「口髭用のだろ? こういうカップの内側にだな…」
こんな感じで髭を乗せるための部分がくっついていて、とハーレイが指で描いた形。新聞で見た写真とそっくり、間違いなくムスタッシュカップだったから、念のため。
「今日の新聞、読んで来たの?」
ムスタッシュカップの記事が載っていたけど、家か学校で読んじゃった?
「いや、前にたまたま読んだんだ。あれは新聞ではなかったぞ」
何の本だったか、タイトルは思い出せないんだが…。あのカップが生まれた時代を詳しく書いた本だな、その手の本は多いんだ。人気の高い時代だから。
「それじゃ、写真も載ってたの?」
ムスタッシュカップの写真も見られた?
「見たぞ、何枚か載ってたからな」
写真無しだと、どんなのか想像しにくいだろうが。あんなカップは。
「傑作だよねえ、髭を乗せておくための橋がついてるカップだなんて」
ぼくが見た写真だと、髭の絵が描いてあるのもあったよ。あれだと分かりやすいけど…。
髭の絵は無しで、あのカップだけを見たら悩んでしまいそう。これはなあに、って。
「確かにな。何に使うのか、まず分からんなあ…」
カップだというのは理解できるが、あの橋を何に使うのか。
其処に砂糖を乗せて出すんだ、と言われたらコロリと騙されそうだぞ。
でなきゃスプーンを置く場所だとか…。間違え方は幾らでもありそうだよな。
本当の使い方を知らなきゃ分かるもんか、とハーレイも知っていたムスタッシュカップ。ずっと昔にシャングリラで聞いた、髭の話とは無関係に。
ならば今度は髭を訊かねば、と「カイゼル髭っていうのも知ってる?」と尋ねたら。
「もちろんだ。ムスタッシュカップの時代に流行ったヤツだな、カイゼル髭は」
あれだろ、ゼルが生やしていたような髭。ああいう髭がカイゼル髭だ。
「そっちも本で読んだわけ?」
「さてなあ…。どうだったかなあ、髭用のカップほど印象に残るものでもないし…」
これだ、と直ぐには思い出せんな。小説なんかにも出て来るから。
「そっか…。それでね、ムスタッシュカップなんだけど…」
ヒルマンも話をしていたよ。口髭用のカップなんだ、って。
「はあ? ヒルマンって…」
どうしてムスタッシュカップの話になるんだ、ヒルマンも髭を生やしちゃいたが…。
シャングリラには無かったぞ、ムスタッシュカップ。あったら忘れる筈がないからな。
「えっとね…。そういうカップがあったんだ、っていう話。ずうっと昔は、って」
ヒルマンとゼルが髭を伸ばした時の話だよ。
髭を伸ばしたら貫禄が出るから、って二人で揃って伸ばすことにして…。エラが文句を言っても無視して、あのスタイルになった後。
髭が優遇されてた時代もあったんだ、ってムスタッシュカップの話をしてた。そういうカップを作ったくらいに、髭が流行していた時代。
皇帝だって立派な髭を生やして、その皇帝と同じ髭だからカイゼル髭。皇帝はカイザーで、同じ意味の言葉がカイゼルでしょ?
それが気に入って、ゼルはカイゼル髭にしたんだよ。
顎髭を伸ばすつもりでいたのに、やめてしまって口髭だけ。自分にピッタリの髭だから、って。
皇帝の髭で、ゼルの名前も入っているのがカイゼル髭、とハーレイに話した。それで顎髭よりも口髭、と。
「覚えていない? とっても得意そうだったけど…」
わしにピッタリの髭なんじゃ、って。…ヒルマンの方は、そういう髭は無かったけれど。
なんでああいう髭にしたかは、前のぼくも聞いていないんだけど…。
「あったな、そういう話もな…。思い出したぞ、俺も危ないトコだったんだ」
綺麗サッパリ忘れちまってたが、危機一髪というヤツかもしれんな。
「え? 危ないって…。何が?」
キョトンと瞳を見開いていたら、「分からないか?」とハーレイが指差した自分の顔。
「髭だ、髭。あの二人に呼ばれちまってな…」
自分たちは髭を伸ばすことにしたから、お前も伸ばせ、と言われたんだ。俺が伸ばせば、長老の男は全員が髭ってことになるだろ?
そうなればエラの小言も減りそうだからな、髭は長老のシンボルなんだと言い返せるから。
あいつら、悪知恵を働かせやがって…。俺を巻き込もうと、あの手この手だ。
キャプテンこそ髭を伸ばすべきだと、うんと貫禄が出るからと来た。
「そうだったの!?」
ゼルたち、ハーレイを髭の仲間にしようとしてたんだ…。
二人だったらエラも怒るけど、ハーレイまでってことになったら、確かに怒りにくいかも…。
長老なんです、っていう印が髭なら、ちょっと文句は言えないものね…。
まるで知らなかった、前のハーレイが見舞われた危機。髭を伸ばせと誘った二人。ヒルマンと、ゼルと。「キャプテンこそ髭を伸ばすべきだ」と。
「…ハーレイ、どうやって無事に逃げられたの?」
ゼルはとっても押しが強いし、ヒルマンだって粘り強いよ?
二人揃って押し掛けられたら、とても断りにくそうだけど…。それにハーレイの飲み友達だし。
顔を合わせる度に「髭を伸ばせ」で、しつこく言われそうなんだけど…?
「その通りだ。あいつらは諦めが悪かった。…また来るから、と諦めないんだ」
しかし、諦めて貰わないと…。俺は髭を伸ばしたいとは思わなかったし、いくら誘われても気は変わらない。髭面の俺なんて、自分でも想像出来なかったしな。
だから、ヤツらが言ってくる度、「髭なんか手入れしていられるか」と断ったんだが…。
伸ばした髭を手入れするより、剃った方が早いと言ったんだが。
キャプテンの仕事は多忙なんだし、髭の手入れは時間の無駄だ、と。
そしたら、「ムスタッシュカップはどうだ」と言われた。…あいつらにな。
「ムスタッシュカップって…。なに、それ?」
口髭があるから、ムスタッシュカップを使うんでしょ?
髭は伸ばさないって言っているのに、ムスタッシュカップが何の役に立つの?
「俺が見事に髭を伸ばしたら、そいつの出番になるからな」
レトロな物が好きだろう、と攻めて来たんだ、あいつらは。
髭を伸ばしたら、うんとレトロなムスタッシュカップを使えるぞ、とな。
「ムスタッシュカップって…。あの頃は、シャングリラでカップは作っていなかったよ?」
前のぼくが奪ったカップばかりで、船では作っていなくって…。
それに奪って来るにしたって、ムスタッシュカップが作られてた時代は、ずうっと昔だよ?
ヒルマン、自分で言ってたじゃない。現物は残っていないだろう、って。
「作ってやると言われたんだ!」
宇宙の何処にも存在しないレトロなカップを、俺専用に!
髭を伸ばすなら、ゼルが作ってプレゼントすると、餌をちらつかせに来やがったんだ…!
前のハーレイを髭仲間にしようと企んだらしい、ゼルとヒルマン。二人よりも三人の方が何かと便利で、エラの小言も躱せるから。
けれど、ハーレイは首を縦に振らず、ゼルとヒルマンは考えた。木で出来た机を使っている上、羽根ペンを愛用していたハーレイ。誰が見たってレトロ趣味だから、それを使おうと。
悪党二人が目を付けたのが、ムスタッシュカップ。遥か昔の十九世紀に流行ったカップ。口髭を生やした紳士のためにと生まれたカップで、現物は残っていないだろうから…。
「わしが作ってやろうと思うんじゃが…。髭を伸ばすんなら、上等のムスタッシュカップをな」
どうじゃ、ムスタッシュカップじゃぞ?
ヒルマンが今、話したじゃろうが。本物は多分、残っておらんと。なにしろ十九世紀じゃし…。
しかし、わしなら、本物そっくりのヤツを作ってやれるんじゃ。
髭を伸ばして仲間になるなら、最高のヤツをプレゼントしてやれるんじゃがのう…。
レトロの極みじゃ、とハーレイを引き摺り込もうとしたゼル。一緒に髭を伸ばさないか、と。
ゼルは手先が器用だったから、具体的なプランも披露した。
ハーレイが選んだ好みのカップに、割れて駄目になった食器で作った髭用の橋。そちらも好みの形に仕上げて、外れないようにくっつける。たったそれだけ、けれど宇宙に一個だけのカップ。
ムスタッシュカップは、時の彼方に消えたから。多分、残っていないから。
そういうカップが欲しくないか、とニヤニヤと笑うゼルの隣で、ヒルマンも大きく頷いた。
「いいと思うよ、ムスタッシュカップ。君はコーヒー党なわけだが…」
紅茶に限ったものでもないしね、ムスタッシュカップ。紳士の好みも色々だから。
髭を伸ばして、ブリッジでムスタッシュカップに淹れたコーヒー。
レトロなカップで、大いに威厳が出ると思わないかね。口髭専用のカップなのだよ?
「威厳よりも前に、笑い物だと思うんだが…!」
そいつが本当に洒落たカップなら、廃れる代わりに今も残っている筈だろうが!
流行った当時はそれで良くても、後の時代に笑われたからこそ、消え失せたんだと俺は思うが!
レトロ趣味にも色々あって、とハーレイが必死に打った逃げ。
自分が欲しいと思わない物は、レトロの極みでも価値はゼロだと。ムスタッシュカップは要りもしないと、髭も剃る方が好みだから、と。
「それでもしつこく通って来たがな、あいつらが髭を伸ばしてゆく間には」
こういう顔に憧れないか、と髭面の紳士の顔写真を見せに来るだとか…。
ムスタッシュカップが出来上がったらこんな感じだ、と絵を描いて持って来るだとか。
欲しくないか、と何度も言ったぞ、レトロの極みで宇宙に一つ、と。
「ハーレイ、危なかったんだ…」
髭を伸ばせって言われていたなんて…。ホントに全然知らなかったよ、前のぼく。
ゼルもヒルマンも、ぼくには何も言わなかったし…。ハーレイを誘っているんだってこと。
もしもハーレイが巻き込まれてたら、ゼルたちの仲間にされていたわけ?
「そうなるな。…俺が髭面の紳士もいいな、と惹かれちまうとか、レトロなカップに…」
ゼルが何度も「こんなのはどうじゃ?」と見せに来ていた、手作り予定のムスタッシュカップ。
あれにウッカリ釣られていたら、だ…。
キャプテン・ハーレイも見事な髭面だったんだろうな、あの二人に負けず劣らずの。
「……ハーレイに髭……」
ゼルが生やしていたカイゼル髭とか、ヒルマンみたいな髭だとか…。
ムスタッシュカップに釣られたんなら、口髭は絶対、生やすんだよね…?
でなきゃカップの出番が無いから、ハーレイに口髭…。
ゼルみたいな髭を生やしていたとか、顎髭も伸ばしちゃってたとか…?
向かい側に座ったハーレイの顔をまじまじと眺めて、何度もパチクリ瞬きをした。
ハーレイがゼルたちの勧誘に乗っていたなら、とんでもないことになっていたかもしれない。
(…威厳たっぷりかもしれないけれど…)
口髭を生やしたキャプテン・ハーレイ。もしかしたら、ついでに顎髭だって。
髭を蓄え、ムスタッシュカップでコーヒーを飲んでいるハーレイ。宇宙にたった一つしかない、御自慢のレトロなムスタッシュカップ。口髭を置く橋がついたカップで。
「…前のぼく、それでも恋をしたかな?」
ハーレイが髭面になっちゃっていても。…口髭を生やしたハーレイでも。
「どうだかなあ…。俺はお前に一目惚れだし、お前もそうだという話だし…」
恋をしたのがずっと後なだけで、出会った時から特別だしな?
俺が髭面になっていようがいまいが、お前は俺に惚れたんじゃないか?
ただなあ…。前の俺が口髭を生やしていたらだ、とりあえずキスに邪魔だと思うぞ。
お前が顔を近付けて来たら、どうしても髭が触るわけだし…。
この髭が邪魔だ、と思っちまうのか、髭もいいなと思ってくれるか。邪魔な髭でもな。
「やっぱり、髭は邪魔だよねえ…。ぼくもそう思うよ、キスの時には邪魔かもね、って」
それで、ハーレイ…。キスしてもいい?
「なんだと!?」
どうして其処でキスになるんだ、髭の話をしてるんだろうが!
「ハーレイ、自分でキスって言ったよ。髭があったら邪魔そうだ、って」
今のハーレイにも髭は無いでしょ、だからキス。
邪魔な口髭は生えてないから、キスをするのも簡単だよね、って。
「揚げ足を取るな!」
お前、まだまだ子供だろうが!
チビの間はキスはしないと言った筈だぞ、俺の髭とは別問題だ!
もっと大きく育ってから言え、そういうませた台詞はな…!
コツンと軽く叩かれた頭。「子供は子供らしくしろ」と。
そうなることは分かっていたから、「痛いよ!」と大袈裟に騒いだ後で。「ハーレイのケチ」と睨み付けた後で、この騒動の原因をハーレイにぶつけてみた。
ゼルとヒルマンがハーレイを勧誘していたカップ。餌にしていたムスタッシュカップを。
「えっと…。ハーレイ、ホントにムスタッシュカップは要らないの?」
レトロの極みって言われたらそうだし、ちょっぴり欲しいと思わなかった?
口髭を生やすのとセットでなければ、ゼルの手作りで宇宙に一つ。
そういうカップは欲しくなかったの、ハーレイだけしか持っていないレトロなカップなんだよ?
「別に欲しいとは思わなかったなあ…。いくらレトロでも」
今の俺でも、其処は同じだ。そういうカップの知識は持ってて、復刻品もあるようだがな。
「復刻品って…。ホント?」
あんなカップが売られているわけ、ちゃんと新しく作ったヤツが…?
「イギリスではな。…昔、イギリスだった辺りの地域に行ったら、あるんだそうだ」
もっとも、お前が新聞で見た写真のカップは、古いヤツかもしれないが。…十九世紀の。
データは今も残っているしな、前の俺たちの頃と同じに。
「そうだね、うんと古いデータで、本物はとっくに消えちゃってる物…」
色々あるよね、カップの他にも。本とか、昔の服とか家具とか。
…復刻品のムスタッシュカップがあるんだったら、ゼルたち、あのカップ、欲しいかな?
口髭専用のカップなんだし、お店で売られているんなら。
「あいつらか…。あるなら、買うかもしれないなあ…」
なにしろ自慢の髭だったんだし、俺まで引き摺り込もうとしたし…。
こだわりの口髭を持ってたからには、あのカップも試してみるかもな。
本当に役に立つのかどうかと、興味津々で紅茶を淹れて。…紳士気取りで傾けてみて。
やりそうだよな、とハーレイが笑みを浮かべるカップ。口髭専用のムスタッシュカップ。
シャングリラには無かったカップだけれども、それが思い出を連れて来てくれた。髭の話やら、前のハーレイが髭の危機だった話やら。
ハーレイはレトロな物が好きだし、いつか旅をして、復刻品のカップに出会ったら…。
「ムスタッシュカップ、一つ買ってみる?」
ぼくもハーレイも口髭は無いから、役に立つのか分からないけど…。
普通のカップでお茶を飲むより、邪魔な感じのカップなのかもしれないけれど。
「ふうむ…。土産物に一つ買うってか?」
前の俺は本物を貰い損なったが、今なら土産に買えるわけだし。
「うん! いいでしょ、口髭専用のカップ」
選べるんなら、髭の絵がついてるヤツがいいかも…。
それとも、ゼルが「こんなのはどうだ」って、絵を描いたヤツに似たのがいいかな?
思い出だもの、とハーレイに微笑み掛けた。
前のハーレイは髭を生やさなかったけれども、その思い出に一つ、ムスタッシュカップ。
口髭は二人とも生やさないけれど、旅の記念に買ってみる。
二人で眺めては、「危なかったね」と幸せに笑い合うために。
遠く遥かな時の彼方で、前のハーレイが見舞われた危機。
それを二人で思い出しては、ムスタッシュカップをつついてみよう。
口髭専用に発明されたカップを、ゼルが作ろうとしていたカップの復刻品を…。
口髭用のカップ・了
※ゼルとヒルマンが生やしていた髭。実は、ハーレイも髭仲間にしようとしていたのです。
レトロ趣味なハーレイ用に、ムスタッシュカップを作ってやるから、と。危なかったかも…。
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