シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「…どうしても駄目?」
ママ、と縋るような目でブルーは母を見上げたけれど。ベッドの中から、顔だけ出して。
お願い、と目と言葉とで訴えたけれど、母は見下ろして「駄目ね」と睨んだ。
「今日で三日目でしょ。まだ熱が下がらないじゃない」
約束だから、と母の口調は変わらない。いつもは優しい母だけれども、今は学校の先生のよう。宿題をしないでやって来た子に、「休み時間にやりなさい」と言い渡す時の。
(…ママ、酷い…)
一昨日の夜から出ていた熱。微熱だけれど、喉が痛むから間違いなく風邪。金柑の甘煮を食べて治そうと頑張っていたのに、下がらない熱。ちゃんと薬も飲んでいたのに。
熱が下がってくれないせいで、今から注射に連れて行かれる。家から近い病院まで。痛い注射は大嫌いなのに。出来れば打たずに済ませたいのに。
ベッドの側から動かない母に、もう一度だけ頼んでみた。
「ママと約束したけれど…。注射、嫌いなの、知ってるでしょ?」
もう一日だけ。明日まで待ってよ、熱が下がるかもしれないから…。
「いい加減にしなさい、今日まで待ってあげたんだから」
注射をしたら、直ぐに下がるの。風邪だってアッと言う間に治るわ。
第一、熱が下がらなかったら、ハーレイ先生にも御迷惑でしょ。
毎日がスープ作りじゃない、と言われたらそう。仕事の帰りに寄ってくれるハーレイ。寝込んでしまった自分のために、野菜スープを作ってやろうと。
何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけでコトコト煮込んだ素朴なスープ。その味が今も好きだった。前の自分が好んだ味が。
ハーレイが作る、野菜スープのシャングリラ風。今はそういう名前がついた、病気になった時の定番。熱を出して学校を休んだ日から、ハーレイは毎日来てくれていて…。
(今日が木曜…)
野菜スープは今までに何回作って貰ったっけ、と指を折りかけたら、母が顔を覗き込んで来た。
「注射が嫌なのはいいけれど…。治らないままで土曜日がいいの?」
ハーレイ先生が来て下さっても、ベッドから出られないままね。
お茶もお菓子も、テーブルじゃ駄目。ブルーはベッドの中で食べるの。
「それは嫌だよ!」
せっかくハーレイが来てくれるのに、と声を上げたら、「注射に行くわね?」と念を押された。迎えのタクシーを呼んでおくから、着替えて下りていらっしゃい、と。
(…治らなかったら、ベッドの中…)
ハーレイと過ごせる素敵な時間が、きっと台無し。テーブルを挟んでのお茶もお菓子も、向かい合わせで食べる昼食も、すっかり駄目になってしまうから。
両親も一緒に囲む夕食も、仲間外れになるだろう自分。ハーレイはダイニングで両親と食べて、病気の自分は部屋でポツンと独りぼっち。
(野菜スープのシャングリラ風は、部屋に届けて貰えても…)
ハーレイが側で食べさせてくれても、夕食のテーブルにはいられない。寝ていなさい、と両親に叱られるから。パジャマ姿で下りて行っても、追い返されてしまうから。
悲しい土曜日を迎えるのは嫌。注射はとても嫌いだけれども、寂しい土曜日は来て欲しくない。母の言葉は正しいのだから、仕方なく起きて着替えた服。病院に出掛けてゆくために。
階段を下りて下に行ったら、支度を整えて待っていた母。タクシーも直ぐにやって来た。病院は家から近いけれども、歩いてゆくには遠すぎる。
(注射…)
このタクシーに乗って行ったら注射、と泣きそうな気持ちで向かった病院。待合室が大勢の人で混み合っていたらいいのに、と。痛い注射を打たれる時を、少しでも先延ばしにしたいから。
けれど、着いてみたら少なかった人。「注射は嫌だ」と泣き叫びそうな子供もいなくて、じきに回って来た順番。母は診察室の中まで付いて来た。「注射は無しで」と勝手に断らないように。
顔馴染みの医師は、とても温厚な人なのだけれど…。
「注射を打っておきましょう。なあに、このくらい直ぐに治りますよ」
一本打って、家で大人しく寝ていれば、と出て来た注射器。
(やっぱり…!)
嫌だ、と逃げ出したい気分。まるで小さな子供みたいに、泣けたらどんなにいいだろう。目からポロポロ涙を零して、大暴れして。
幼い頃から、注射が嫌いで苦手だった自分。他の子たちは大きくなったら我慢するのに、自分はどうしても駄目だった。一向に慣れはしなかった。
その上、今では前よりも怖くて苦手な注射。前の自分の記憶が戻って来たせいで。
(注射されたら…)
酷い目に遭わされるんだから、と前の自分が悲鳴を上げる。注射は嫌、と。
此処から逃げて帰りたいのに、看護師がまくり上げる袖。消毒されて、医師が手にした注射器。大嫌いな針がブスリと刺さって、とびきり痛くて、前の自分と一緒に悲鳴。
十四歳にもなって、叫ぶ子供もいないだろうに。医師も看護師も笑っているのに。
散々な目に遭ったけれども、なんとか終わった注射の刑。処方された飲み薬を母が受け取って、呼んで貰ったタクシーで家に帰ったら…。
(ちょっとマシかな?)
そう思えた身体。服からパジャマに着替える時に、出掛ける前よりも楽な気がした。ほんの少し身体が軽くなったような、そういう感じ。
ベッドに入って、暫くしたらスウと眠って。昼食は母に運んで貰って、薬を飲んでまた眠って。
夕方にはすっかり下がっていた熱。今朝までの熱が嘘だったように。
これなら明日は学校に行けそう、と思っていたのに、ホットミルクを持って来てくれた母は…。
「熱が下がって良かったわね。でも、明日も学校は休むのよ?」
先生がそう仰ってたから。無理をしないで、家でゆっくりするように、って。
「えーっ!」
そんな、と懸命に抗議したけれど、三日も続いていた微熱。ただでも虚弱な身体なのだし、熱が下がって直ぐに動いたら、ぶり返すこともあるだろう。医師が心配している通りに。
幼い頃から診てくれている医師の見立ては間違っていない。明日も休むのが治す早道。
熱は無くても、家で大人しく。疲れたら直ぐに眠れるように、自分の部屋で。
頭では分かっているのだけれど。だから渋々頷いたけれど、母が出て行ったら零れた涙。
せっかく注射に耐えたのに。嫌な注射を我慢したのは、学校に行けばハーレイに会えると思ったからなのに。…ハーレイが仕事をしている昼間も、挨拶をしたり、姿をチラと見掛けたり。
(…ハーレイ先生って呼ばなきゃ駄目でも、ハーレイはハーレイ…)
家で一人で寝ているよりは、ハーレイに会えるチャンスが幾つも転がっている学校。廊下とか、朝のグラウンドとか。そっちの方が断然いいのに、明日も欠席。
今日は木曜で明日は金曜、学校に行けないままで週末。ハーレイと一日一緒にいられるけれど、それまでの時間を損した気分。今日と、それから明日の分とを。
(…明日も学校で、ハーレイに会えない…)
昼の間は絶対会えない、と悲しんでいたら、聞こえたチャイム。この時間ならきっとハーレイ。仕事の帰りに、野菜スープを作りに来てくれたのだろう。
少ししてから、扉をノックする音。扉が開くと、ハーレイの姿。母は一緒に来ていない。お茶やお菓子を運んで来たって、自分はベッドの住人だから。テーブルに着けはしないから。
昨日も一昨日も、ハーレイのお茶は部屋に届きはしなかった。きっと野菜スープを煮込む間に、母が「どうぞ」と出すのだろう。ケーキなんかも添えたりして。
今日もそうだ、と視線をやったら、「起きてたか?」と微笑むハーレイ。
「熱が出てたの、下がったんだってな。注射に行って。…偉いぞ、お前」
お前、注射は嫌いなのにな、と大きな手で撫でて貰えた頭。俺がいなくてもよく頑張った、と。
「え…?」
ハーレイがいなくても、って…。どういう意味なの、いつもハーレイ、いないじゃない。
ぼくが病院に注射に行く時、ハーレイはついて来ないでしょ?
病院に行くなら、付き添いは母。大きな病院だったら両親。病院に連れて行くのは家族。それが家族の役目なのだし、ハーレイに代わりを頼みはしない。家族同様の付き合いでも。
ハーレイは何を言うのだろう、とベッドの中で首を傾げていたら…。
「いや、今日はお前が注射に行ったと、お母さんから聞かされたら、だ…」
思い出しちまった、昔のことを。…前のお前のことを一つな。
「昔のことって…。その話、ぼくに聞かせてくれるの?」
「それはかまわないが…。俺のスープがお留守になっちまう」
野菜スープを作るんだったら、キッチンに行かんと無理だからな。此処じゃ作れん。
昔話をしている間に、晩飯の時間になっちまったら…。今日のお前は野菜スープは無しだ。
スープ無しでも気にしないんなら、昔話をしてやるが。
「いいよ、ハーレイの野菜スープは無しでも」
この風邪、食欲は落ちてないから…。あのスープしか欲しくないようなヤツじゃないから。
でも、ママに頼みに行かなくていいの?
野菜スープは今日は作らないから、ぼくの食事はお願いします、って。
「その心配は要らないってな。お母さんから注射の話を聞いた途端に思い出したし…」
昔話を一つ思い出しましてね、と言っておいたんだ。お前の体調がいいようだったら、懐かしい話をしたいんですが、と。
だからだ、俺がキッチンに下りて行かなきゃ作ってくれるさ。俺の代わりに、お前の晩飯。
俺はベッドで寝ているお前に、昔話を聞かせてやっているんだから。
「そっか…。それなら安心だね」
ママだって直ぐに分かってくれるね、ハーレイが下りて行かなかったら。
昔話で忙しいんだ、って晩御飯の支度をしてくれるよね…。
普段だったら、「スープを作りに行くとするかな」と、頃合いを見て下りてゆくのがハーレイ。そうでなければ、先に作って「お前のスープが出来てるぞ」と、トレイを手にして現れるか。
そのハーレイが昔話と言って来たなら、母もその内に気付くだろう。今日は野菜スープの出番は無くて、昔話の日なのだと。ハーレイの仕事は昔話、と。
野菜スープのシャングリラ風は好きだけれども、今は昔話を聞きたい気分。前の自分の。
「ハーレイ、昔話って…。「俺がいなくてもよく頑張った」って、何のこと?」
注射だっていうのは分かるけれども、なんでハーレイ…?
「そいつが俺の昔話だ。前のお前の思い出ってヤツだ」
お前、注射が大嫌いだっただろうが。生まれ変わっても、記憶が戻る前から嫌いだったほどに。
前のお前は、最初から酷い注射嫌いで、今のお前もそれを引き摺ってる。
もっとも、シャングリラは、最初は注射が無かったんだが。
病気になっても、注射を打つってことは無かった。…あの船の初期の頃にはな。
「そういえば…。無かったっけね、いつも薬で」
注射の代わりに、飲み薬が出てたんだったっけ…。
前のぼく、そっちも嫌いだったけど…。薬の味も苦手だったんだけど。
アルタミラの檻で暮らしていた頃、飲み水に何度も薬を入れられてたから…。あの味も嫌い。
注射よりかはマシだけれども、薬も好きにはなれないよ、ぼく。
病気になったら、苦手な薬を飲まされた船。それでも、船に注射は無かった。最初の頃は。
ノルディが医師を始めるまでは、無かった注射。
船に注射器はあったけれども、医師代わりだったヒルマンは使わなかったから。ヒルマンは皆の怪我や病気を診てはいたものの、「素人だしね」が口癖だった。少し知識があるだけだから、と。
博識だったから、医者の代わりをしていただけ。それがヒルマン。
けれど、ノルディの方は違った。仲間の病気や怪我を治そうと、倉庫に薬を貰いに出掛けていたノルディ。備品倉庫の管理をしていたハーレイが、「病気がちなのか」と思ったくらいに。
そんな具合だから、ノルディはいずれ医師になろうと決めていた。病気も怪我も治せる医師に。
腕を磨いて、知識を増やして、ノルディは医師への道を進んだ。
独学の医師で、何の資格も無かったけれども、ハーレイがキャプテンになるよりも前に、皆からドクターと呼ばれたノルディ。病気も怪我も治してくれる、と。
ハーレイは「覚えてるか?」とノルディの思い出を話してくれた。物資を奪いに行くのなら、と薬品などを注文し始めたノルディ。これがあったら早く治せるとか、これが欲しいとか。
「それでだ、前のお前が医療用具を纏めてドカンと奪って来て…」
メディカル・ルームの基礎が出来たら、練習用の人形をお前に注文したんだ、ノルディのヤツ。
注射を練習したいから、と医者とかを養成するステーションで使っていた人形を。
人間相手じゃ何度も練習出来はしないが、人形だったら練習し放題だしな。
失敗したって文句は言わんし、痛そうな顔をするわけじゃなし。…腕に打とうが肩に打とうが。
「やってたっけね、注射の練習…。暇が出来たら」
注射器を持って、人形相手に。この薬品を打つんだったら、此処だ、って。
本とか映像を見ながら練習していて、見ていて、とても怖かったんだよ。
だって、注射の練習だもの…。覚えるためにやっていたんだもの。
前の自分は、あれが怖かったのだった。人形を相手に、注射の練習を繰り返すノルディ。
覚えたが最後、自分も注射されるだろうと。今は薬で済んでいるけれど、いずれは注射、と。
だから恐怖を分かって欲しくて、前のハーレイを捕まえた。厨房の仕事が終わった後に、部屋へ帰る所を呼び止めて。「ちょっと来て」と、自分の部屋まで引っ張って行って。
「ねえ、ハーレイ…。聞いて欲しいことがあるんだけれど…」
「どうしたんだ?」
何か食べたい料理でもあるのか、と訊かれて、「ううん」と横に振った首。
「ノルディの注射…。毎日、練習してるでしょ?」
ぼくが奪って来た人形で。「今のは痛すぎたかもしれないな」なんて言いながら…。
「ああ、あれか。頼もしいよな、その内に注射一本で治るようになるぞ」
今だと、薬を何回も飲まなきゃいけない病気が。注射ってヤツはよく効くらしい。
ノルディが注射を覚えてくれたら、寝込むヤツらも減るってもんだ。
「そうじゃなくって…。ぼくはノルディが怖いんだよ…!」
今はいいけど、その内に注射を覚えちゃう。そしたら、ぼくにも注射するんだよ。
ぼくは弱くて直ぐに寝込むから、薬の代わりに注射をしそう。
でも、ぼくは注射がとても嫌いで…。注射を覚えようとしてるノルディも怖いんだよ…!
注射は嫌だ、とハーレイに向かって訴えた。本当に怖くてたまらなかったから。注射への恐怖を誰かに聞いて欲しかったから。
「ぼく、アルタミラで酷い目にばかり遭ってたんだよ…! 注射のせいで…!」
研究者たちに何度も何度も注射されてて、その度に酷い目に遭って…!
だから注射は怖いんだってば、研究者じゃなくてノルディでも…!
「注射って…。ノルディの注射も怖いって…」
そういや、俺と初めて出会った頃のお前の腕…。酷かったっけな…。
「注射の痕だらけだったでしょ? どっちの腕も」
見て分かる分だけで、あれだけの数。…消えかかっていたのが、もっと沢山。
とっくに消えてしまった分なら、あんな数では済まないんだから…。百とか千とか、数えられる数じゃなかったんだから…!
ぼくが覚えていない分だって、きっと山ほど。消えちゃった記憶も多い筈だから。
何度打たれたか分からないよ、と身体を震わせた注射の忌まわしい記憶。実験のために打たれた薬物、それに結果を調べるための採血だって。
幾度となく針を刺されていたから、恐ろしかった。苦痛の記憶しか無い注射が。
「おいおい…。治療用だってあった筈だぞ、注射」
嘘みたいに痛みが消えるヤツとか、ぐっすり眠れるヤツだとか。
どれもが酷い注射ばかりじゃないだろ、マシな気分になれる注射もあっただろうが。
「マシな気分って…。苦しい注射の方ばっかりだよ…!」
いつだって痛くて、チクッとして。酷い時だと、針が刺さった時からズキズキ。
そして注射をされた後には、うんと苦しくなるんだよ。身体が辛くて丸くなりたいのに、実験のために手足を固定されてて…。もがくことだって少しも出来ずに、苦しいだけ。
その間にまた注射されるんだよ、薬の追加をするだとか…。
ぼくの身体がどうなっているか、調べるために血を抜くだとか…!
気分が良くなった注射は知らない。そんな注射をされてはいない。ただの一度も。
もしも打たれていたとしたって、記憶の形になってはいない。激しい苦痛でのたうち回る自分に研究者たちが打っていたって、苦しさしか覚えていないのだから。
ハーレイが言う「気分がマシになる注射」をされていたって、苦しみもがいた自分は知らない。
唯一のタイプ・ブルーだった自分は、死なないように治療されたけれども、それだけのこと。
実験でボロボロになった身体が回復したなら、また実験が待っていたから。
苦痛ばかりの毎日の中で、あの狭い檻で目覚めた時。腕に注射の痕が幾つあろうが、まるで関係無いのだから。古い痕なのか、新しい痕か、それさえも。また注射されるだけのこと。
だから知らない、治療用の注射。気分が良くなる注射などは。
「そうなのか…。俺は身体がデカイからなあ、負荷をかける実験の方が多かったし…」
どの程度まで耐えられるのか、という実験だけに、俺の身体を治さないとな?
身体が駄目になっちまったなら、そいつを治して次に備える。腕でも、足でも。
そういう時には注射だったし、俺が打たれた注射は治療用の方が多いんじゃないか?
お蔭で治ると知っているわけだ、具合が悪い時には注射、と。
なあに、お前も心配は要らん。
安心して打って貰うといいと思うぞ、ノルディが注射をマスターしたら。
「でも、怖い…!」
ぼくは注射が怖いことしか覚えていないし、打って欲しいと思わないんだけど…!
注射をされるくらいだったら、薬を山ほど飲まされた方がマシなんだけど…!
「今から心配しなくても…。一度打ったら気分も変わるさ」
確かに針はチクッとするがな、じきに気分が良くなるから。
そういうモンだと分かってしまえば、お前も注射の良さに気付くぞ。実に役立つと。
怖いのは最初の一回だけだが、注射をするのはノルディなんだ。研究者たちとは違って仲間だ。
お前が怖いと思っていたって、アッと言う間に済ませてくれるに決まってる。
もう終わりか、と目を丸くするぞ、きっと手早いだろうしな。
怖がらなくても大丈夫さ、とハーレイは肩をポンポンと叩いてくれたのだけれど。直ぐに注射も平気になれる、と繰り返し言ってくれたのだけれど。
(大丈夫だ、って言われても…)
嫌なものは嫌だ、と思った注射。あんな怖いものは絶対嫌だ、と。
それからどのくらい経った頃だったか。ある日、体調を崩してしまった。朝、目覚めたら重たい身体。朝食を食べに行く元気も無いから、ハーレイに部屋まで運んで貰った。
食べ終わった後、ベッドでウトウトしていたら、やって来たノルディ。医療用の鞄を提げて。
多分、ハーレイがノルディに知らせたのだろう。往診に行ってくれるようにと。いつもと同じに診察と問診、それが済んだら再び開けている鞄。きっと中から薬が出て来る。
(…薬も嫌いだったけど…。飲まないと治らないもんね…)
量が少ないといいんだけどな、と眺めていたら、「これで治る」とノルディが取り出した注射。一本打ったら熱も下がるし、身体がグンと楽になるから、と。
そうは言われても、注射は嫌。怖い思いしかしていないのだし、悲鳴を上げた。
「やめてよ、注射は嫌なんだよ!」
痛くて怖いし、それだけはやめて。お願い、我慢して薬を飲むから…!
「薬よりいいぞ、早く治るから。薬だったら三日はかかるが、注射だったら一日ってトコだ」
半日も経たずに気分が良くなる。体力も消耗しないで済むし。
この方がいい、と注射の準備を始めたノルディ。注射器に薬品をセットしてゆく。
「嫌だってば! ぼくはホントに注射が嫌で…!」
やめて、お願い。薬を少なくしてって言ったりしないから…!
薬がドッサリでもかまわないから、注射はしないで…!
涙交じりで叫んでいるのに、ノルディは注射をするつもり。消毒用の綿が入ったケースも出して来たものだから、飲み薬ではとても済みそうにない。
「やめてよ、ホントにお願いだから…! 注射はやめて…!」
お願いだってば、聞こえないの、ノルディ!?
誰か助けて、助けて、ハーレイ…!
声の限りに叫んだ自分。無意識の間に思念波で助けを呼んでいたらしくて、ハーレイが大慌てで飛び込んで来た。部屋の扉を乱暴に開けて、凄い勢いで。
「どうしたんだ、ブルー!?」
なんだ、何があった!?
「ハーレイ…!」
助かった、と思った瞬間。これで注射を打たれずに済むと。
ハーレイの方はノルディの姿に驚いたようで、何事かとキョロキョロしているから。この状況を説明しないと、とノルディの方を指差した。「注射を打つって言うんだよ」と。
薬でいいと言っているのに、注射をする気だ、と叫んだら事情は分かって貰えたけれど。危機も理解してくれたようだけれども、其処までだった。
「なるほど」と大きく頷いたハーレイ。「ついに注射か」と、「嫌なのは分かるが…」と。
「しかしだ、それなら打って貰わないとな」
嫌がっていたんじゃ治らないから。…駄々をこねずに、注射して貰え。
「え? 注射って…」
前に言ったじゃない、ぼくは注射が怖いんだ、って…!
酷い目に遭ったことしかないから、注射は怖くて嫌なんだよ…!
覚えてるでしょ、と懸命に助けを求めているのに、ハーレイの答えはこうだった。
「それを言うなら、俺もお前に言った筈だぞ。一度打ったら気分も変わる、と」
お前は注射の良さを知らないんだ、これで劇的に治るってことを。
そのままじゃ一生、損をするってな。注射だったら直ぐに治るのに、無駄に何日も寝込む羽目になって。それだとお前の身体も辛いし、辛い時間も長引いちまう。早く治すのが一番だ。
やってくれ、ノルディ。こいつの言うことは聞かなくていい。
「そんな…! 酷いよ、ハーレイ!」
ぼくを助けに来てくれたんでしょ、ぼくが呼んだから…!
なのにノルディに味方するなんて、ハーレイ、何かを間違えてない…?
「俺は間違えてはいない筈だぞ。お前の病気を治す手伝いをしてやるんだから」
いいか、我慢して注射して貰うんだ。それがお前の身体のためだし、お前のためだ。
俺は料理の途中だったのを、放り出して駆け付けて来たんだからな。
全力で走った俺の気持ちを無駄にするなよ、お前を助けてやるために。
注射からお前を助け出すのか、病気から助けるかだけの違いだ。同じ助けるなら、病気の方から助け出すのが正しいだろうが。誰に訊いても、そう言うだろうな。
「ハーレイ…!?」
ぼくは注射から助けて欲しいんだけど…!
病気の方はどうでもいいから、ぼくを助けて!
お願い、病気で寝込むくらいは、アルタミラに比べたら何でもないから…!
実験に比べたら病気なんか…、と心の底から思ったのに。熱も辛さも我慢出来ると考えたのに、一蹴された。「お前の知ってる注射とコレとは違うんだ」と。
「気分が良くなる注射ってヤツを覚えておけ」と、ベッドに腰を下ろしたハーレイ。前の自分の願いとは逆に、ノルディに協力するために。
注射から助けてくれるどころか、そのまま押さえ込まれてしまった。強い腕でグイと抱えられた身体。「こっちでいいか」と袖を捲られ、剥き出しにされた細い左腕。
「嫌だよ、やめて!」
助けてって言っているじゃない!
お願い、ぼくを放して、ハーレイ…!
「助けに来たと言っただろうが。こいつで病気が治るんだから」
ノルディ、早いトコやっちまってくれ。下手に暴れたら、余計に熱が出るからな。
こいつは俺が押さえておくから、とハーレイに掴まれた腕は動かせなくて。暴れようにも、足もハーレイの逞しい足に絡め取られて、奪われてしまった身体の自由。
「嫌だ」と涙を零しているのに、ノルディは斟酌しなかった。腕を消毒され、血管の位置を指で探られて、ブスリと打たれた恐ろしい注射。グサリと刺さった注射の針。
痛くて悲鳴を上げたけれども、痛みは多分、チクッとした程度だっただろう。ノルディは何度も練習を重ねて、自信をつけてから注射器を手にした筈だから。
それでも「痛い」と叫んだのが自分。嫌な思い出しか持たない注射は、恐怖で痛く感じるもの。ほんの僅かな痛みであっても、まるで槍でも刺さったかのように。
ノルディが「もう終わったぞ」と針を刺した場所にテープを貼ってくれた後も、まだポロポロと零れていた涙。注射は酷く痛かった上に、ハーレイも助けてくれなかった、と。
とんでもない目に遭った注射だけれども、病気は治った。いつもだったら熱にうかされて過ごす所を、ほんの半日で下がった熱。夕方には楽になっていた身体。
その代わりに見た、アルタミラの悪夢。ベッドで眠っていた筈なのに、気付けば実験室に居た。白衣の研究者たちに取り巻かれていて、打たれる注射。「どのくらい入れる?」と。
(やめて、助けて…!)
そう叫ぶ声は声にならなくて、腕に何度も針が刺される。「もっと多く」と、「次の薬だ」と。薬の量を増やされたならば、もっと苦しくなるというのに。もう充分に苦しいのに。
(お願い、やめて…!)
誰か助けて、と叫んだ声で目が覚めた。実験室でも檻でもなくて、ベッドの上で。
苦痛は少しも残っていないし、もう消えていた熱っぽさ。だるさも、手を動かすのも辛く感じた身体の重さも。
(…ノルディの注射…)
あれが効いたんだ、と眺めた腕。袖を捲ったら、腕に貼られているテープ。
(こんなの、貼って貰っていない…)
アルタミラでは、テープなど貼って貰えなかった。実験動物だったから。患者ではなくて、治療するのも次の実験のためだったから。
実験動物の肌などは守らなくていい。注射を打つ前に消毒したから、感染症の心配は無い。針を刺した痕から血が流れようが、流れ出した血が肌にこびりつこうが。
初めて見た、と指先で撫でてみたテープ。もう剥がしてもいい筈だけれど、そのまま腕に残しておいた。「今の注射は治る注射」と、「怖い注射とは全然違う」と。その印のテープ、と。
そうは思っても、怖かった注射。少しも減らない注射の恐怖。身体は楽になったけれども、怖い気持ちは残ったまま。腕にテープが貼ってあっても、違う注射だと分かってはいても。
やっぱり駄目だ、と横になっていたら、夕食を運んで来てくれたハーレイ。まだ食堂に来るのは無理だろうから、とトレイに乗せて。
「どうだ、身体は楽になったか? 顔色は良くなったみたいだが」
熱は下がったか、と額に当てられた手。「よし」とハーレイが浮かべた笑み。下がったな、と。
「そうみたい…。身体もずいぶん楽になったよ」
朝は手足が重かったけれど、もう大丈夫。だるい感じも無くなったから。
「ほらな、そいつは注射のお蔭だ」
ノルディが言ってた通りだろう? 半日も経たずに気分が良くなる筈だとな。
お前は酷く嫌がっていたが、注射は効くんだ。これでお前も分かっただろうが、注射の良さが。
「でも、怖いってば…!」
怖い気持ちは消えていないよ、注射を打たれる前とおんなじ。今もやっぱり怖いままだよ。
寝てる間に、アルタミラの夢も見ちゃったし…。夢の中で注射を打たれちゃったし。
きっとこれからも、注射される夢を見るんだと思う。ノルディに注射をされちゃったら。
だから嫌だよ、注射だけは。ぼくは飲み薬でいいんだってば…!
「駄目だな、注射の方が早く治るとノルディも言っていたろうが」
お前の弱い身体のためにも、注射で治すべきだってな。すっかり消耗しちまう前に。
アルタミラの怖い夢ってヤツはだ、その内に見なくなるってもんだ。
治る注射だと覚え直したら、嫌な思い出は消えちまうからな。
ハーレイに諭されたのだけれども、どうしても恐怖が消えなかった注射。痛い針が腕にグサリと刺さる注射器。逃げ出したくてたまらないのに、注射の評判が上がる一方だった船。
あれのお蔭で早く治ると、病気の時は注射に限ると。注射は怖いものなのに。
「…なんで、みんなは平気なわけ?」
ぼくはいつでも逃げたくなるのに、みんなは自分で行っちゃうわけ?
ノルディの所へ、「注射を頼む」って。…薬を飲んで、寝ていればいいと思うのに…。
みんな変だよ、とハーレイに零したら、「俺と同じってことなんだろうな」と返った返事。
「注射で治ることだってある、と知っているんだ。…アルタミラの檻にいた頃からな」
もちろん、中には酷い注射を打たれたヤツもいるだろう。お前みたいに。
しかし、そういう目に遭った後は、ちゃんと治療用のを打って貰って、治ったわけだ。そいつを覚えているってことだな、注射でマシな気分になった、と。
その時の気分や、楽になった記憶。そいつを今も忘れてないから、注射がいいと考える。何日も苦しい思いをするより、注射で早く治したいと。
つまりだ、お前ほどの目には遭っていないということだろうな、この船のヤツら。
治療用の注射を打たれた記憶も残らないほど、実験ばかりの日々を過ごしちゃいなかった。
苦しい思いはしたんだろうが、お前よりかはマシだったんだ。…俺も含めて、一人残らず。
それで注射をされても平気で、自分から頼みに行くんだろうな。
誰の記憶にもあった、治る方の注射。身体が楽になる注射。
残念なことに、前の自分にだけは無かった記憶。注射は苦痛を運んで来るもので、いつも苦しみ続けただけ。注射の針を刺される度に。薬を身体に入れられる度に。
アルタミラで打たれた、数え切れない恐ろしい注射。ノルディが打ってくれる注射は、その数に及びはしなかった。
「楽になった」と何度思っても、忌まわしい記憶は消えないまま。注射の後に貼られるテープを何度眺めても、「今の注射は病気が早く治る注射」と思おうとしても。
だから、最後の最後まで…。
「お前、抵抗し続けたんだ。注射を打たれるってことになったら」
ソルジャーになっても、青の間が出来ても、一向に慣れやしなかった。
注射は嫌いで、それは嫌だと文句ばかりで。
「だって、注射はホントに嫌だったから…。どうしても慣れなかったから…」
ノルディが治療にやって来る度、「注射とは違う方法がいい」とゴネたソルジャー。それが前の自分。船の仲間たちは誰も知らなくて、ノルディとハーレイが知っていただけ。
「お蔭で、俺はいつでもお前を宥める役だったんだ。…ノルディに呼ばれて」
他のヤツらに知られないよう、俺に思念を寄越すんだ、あいつ。注射するから、と。
「そうだったっけね…」
いつもハーレイが急いで来てたよ、ノルディが注射をする時には。
ホントに忙しかった時は仕方ないから、ぼくだって我慢してたけど…。でも、嫌なものは嫌。
ハーレイが「これで治るから」って言ってくれなきゃ、アルタミラしか思い出さないし…。
ぼくの寿命が残り少なくなって来た頃にだって、ハーレイ、いつも来てくれたっけね。
注射をされることになったら、ぼくの付き添い。
前の自分にノルディが注射を打とうとする度、付き添うために来ていたハーレイ。流石に身体を押さえ付けることは無かったけれども、「大丈夫ですよ」と何度も掛けてくれた声。これで身体が楽になりますからと、注射が一番効きますからね、と。
「まったく、何回、お前の注射に付き合ったんだか…」
前のお前は、基本は我慢強かったのに…。注射の針の痛みなんかは、きっと痛みの内にも入っていなかったろうに。
「痛さは関係無かったんだよ、本当の痛さがどのくらいかは…!」
もっとグッサリ縫い針とかが刺さっていたって、平気だったと思うけど…。消毒して貰って薬を塗らなきゃ、と思いながら針を抜いただろうけど…。
注射だけはホントに駄目だったんだよ、ノルディに何回注射されても…!
そのせいで今のぼくも駄目だよ、記憶が戻ったら余計に駄目。
三百年以上も嫌いなままで生きてたんだし、注射は今も嫌なんだってば…!
注射なんかは無い世界がいいな、と文句を言ってみたけれど。
前の自分たちが生きた頃からずいぶん経つのに、どうして今もあるんだろう、と注射の存在する世界に苦情を述べたけれども。
「お前なあ…。今の時代もあるってことはだ、やっぱり注射が一番なんだ」
なんと言っても、よく効く薬を身体に直接入れられるんだし…。注射が一番効くのが早い。
ノルディも研究を重ねてはいたが、いつも最後は注射の出番になっただろうが。
前のお前が文句を言うから、極力、打たないようにしてても。
それと同じだ、今の時代も。お前がどんなに注射嫌いでも、今日みたいに打つしかないってな。
「酷い…!」
ぼくはこれからも、ずっと注射を打たれちゃうわけ?
病気になったら病院に行って、注射されるしかないって言うの…?
「うーむ…。俺の家の近所の医者ってヤツもだ、問答無用で打つタイプだが…」
早く治すには注射に限る、と飲み薬よりも前に注射なんだが、庇ってはやる。
お前の注射嫌いってヤツは、俺も充分、知ってるからな。
「よろしくね。ぼくが注射を打たれないように」
ちゃんと頼んでよ、ぼくは注射が苦手なんだから。…飲み薬の方でお願いします、って。
「そりゃまあ…なあ? 俺の大事な嫁さんなんだし、頼んではやるが…」
早く治るのがいいんじゃないかと思うがな?
付き添ってやるから、注射を一本、打って貰うのが一番だろうが。
「分かってるけど…」
駄目なものは駄目。前のぼくだって、最後まで苦手なままだったでしょ…?
ハーレイが聞かせてくれた思い出話。ソルジャー・ブルーも嫌っていた注射。
どうしても打つしかないとなったら、付き添いが呼ばれていたほどに。
ドクター・ノルディが思念を飛ばして、キャプテン・ハーレイを呼び出したほどに。
注射で治ると分かっていたって、苦手なままだった前の自分。本当に最後の最後まで。
今日も注射で治ったけれども、やっぱり注射は嫌だから。早く治ると分かっていたって、注射が嫌いでたまらないから。
(…ハーレイに付き添い、お願いしないと…)
今度も注射を打たれる時には、ハーレイに側にいて貰おう。
いつか大きくなったなら。ハーレイと二人で暮らし始めたら、注射に行く時はハーレイと一緒。
前の自分がそうだったように、温かな声で守って貰おう。
「大丈夫だから」と、「怖くないから」と。
これですっかり良くなるからと、「痛くても我慢するんだぞ」と。
それに今度は、手だって握って貰えるだろう。「俺が一緒だ」と、大きな手で。
今度は結婚するのだから。ハーレイが手を握ってくれていても、誰も咎めはしないのだから…。
嫌だった注射・了
※注射が嫌いだった前のブルー。青の間が出来た後になっても、付き添いが必要だったほど。
生まれ変わっても同じに苦手で、今度も付き添いが要りそうです。注射の時はハーレイ。
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