シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(あっ、可愛い!)
服の中から猫が覗いてるよ、とブルーが見詰めた新聞の写真。学校から帰って、ダイニングで。おやつの用意を待っている間に広げた新聞。自慢のペットの紹介コーナー。
飼い主が着ている服の胸元、可愛らしい猫が顔を覗かせている。クルンとした目で。
(ぼくも、服の中に猫…)
入れてみたいな、と羨ましくなるのは、写真の猫が真っ白だから。顔だけしか覗かせていない猫だし、身体はブチかもしれないけれど…。
(真っ白なら、ミーシャ…)
ハーレイが子供時代に一緒に暮らしていたミーシャ。隣町の家でハーレイの母が飼っていた猫。前に写真を見せて貰ったから、それ以来、真っ白な猫を見る度に「ミーシャだ」と思う。
(ハーレイだって、こんな風に入れてたかもね?)
真っ白なミーシャを服の中に入れて、ちょっと散歩に出掛けてゆくとか。だから自分も真似してみたい。ただでも猫は可愛らしいから、写真で見ればなおのこと。
ほんのちょっぴり入れてみたいな、と眺めていたら。
「ブルー、熱いから気を付けるのよ?」
母が置いて行ってくれたホットミルク。おやつのケーキのお皿の隣に。マヌカの蜂蜜が入った、シロエ風のシナモンミルクだけれど。
猫の写真に夢中だったから、なんとも思わずに手を伸ばして…。
(熱っ…!)
見事に火傷してしまった舌。冷ましてもいないホットミルクは熱すぎた。慌てて舌を口の外へと出してみたって、それで冷やせるわけがない。
(火傷しちゃった…)
酷い目に遭った、と後悔しても既に手遅れ。舌はヒリヒリ、腫れているかと思うほど。
通り掛かった母も「だから言ったでしょ」と呆れ顔だけれど、もう遅い。ホットミルクの残りは冷まして飲んだ。すっかり冷たくなるくらいまで。
やっちゃった、と肩を落とすしかない火傷。ウッカリしていたのが悪いよね、とは思っても…。
(今日はしみるかも…)
熱い料理や、香辛料とかが。それに痛い、と帰った部屋。まだ痛いような気がする舌。鏡で舌を眺めたけれども、よく分からない火傷した場所。でも残っている舌の違和感。
ピリピリするよ、と自分の失敗を嘆いていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが来てくれた所まではいいけれど。
母が運んで来た、お茶とお菓子と。紅茶のカップやポットをテーブルに並べてゆきながら…。
「はい、どうぞ。ブルーはちゃんと冷まして飲むのよ」
「ママ…!」
「火傷したでしょ、気を付けて」
同じ目に遭うのは嫌でしょう、と母は微笑んで出て行った。「ごゆっくりどうぞ」と。
(ママったら…!)
ハーレイに聞かれた赤っ恥。何処から聞いても、熱い飲み物で舌を火傷した話。あんまりだ、と頬が真っ赤に染まったけれども、湯気を立てている紅茶のカップが怖い。立ち昇る湯気が。
しっかり冷まして飲まないと、と用心してしまう熱い紅茶。ただでも舌を火傷した後だし、また火傷したら大変だ、と。
フウフウと紅茶に息を吹きかけていたら、鳶色の瞳に覗き込まれた。
「こりゃまた、ずいぶん冷ますんだな…。火傷、そんなに酷いのか?」
いったい何でやったか知らんが、痛くて紅茶も飲めないほどか?
「ううん、そこまで酷くないけど…。でも、火傷したら嫌だしね」
さっきの火傷の上から火傷。きっと痛いよ、今度こそ紅茶も飲めなくなってしまいそうだし。
「そりゃそうだ。用心するのに越したことはない」
火傷しちまったら、紅茶どころか、せっかくのケーキも台無しだからな。舌が痛くて。
だが、お前…。弱くなったな、いいことだ。
「え?」
弱くなったって…。何の話?
「火傷だ、火傷。今の話だと、それしか無いだろ?」
「舌の火傷…?」
キョトンと見開いてしまった瞳。多分、ハーレイが話しているのは、前の自分のこと。遠い昔に生きたソルジャー・ブルー。けれど、舌に火傷をしていたろうか…?
「舌に火傷もしてたんだろうが、前のお前は我慢強かったから…。弱くなったな、と」
たかが舌の火傷くらいで大騒ぎだなんて、弱くなったと思うじゃないか。
前のお前なら、火傷の内にも入らなかったんだろうしな。舌なんかは。
「…火傷、したっけ…?」
今でもハーレイが覚えているような火傷、前のぼく、してた…?
「忘れちまったか…。そりゃあ酷いのをやっちまったが…」
火傷と聞いたら思い出したが、お前、覚えちゃいないのか?
両手に火傷、と言われたけれども、思い出せない。そんな火傷をしただろうか?
第一、両手には常に手袋。火傷などをするわけがない。あの手袋は特別な素材だったし、特殊な素材になる前の時代も、ある程度の熱なら防げた筈。
「えっと…。前のぼくの手、火傷しなかったと思うけど…」
いつも手袋をはめていたもの。夜まで外しはしなかったんだし、両手に火傷はしない筈だよ。
「手袋って…。本当にすっかり忘れたんだな、痕も残らなかったから…」
綺麗に治っちまったお蔭で、火傷したことまで忘れたってか。
「それ、いつの話?」
もしかして、手袋、はめてなかった?
手袋をはめるよりも前の話で、ぼくはホントに火傷したわけ?
「嘘をつくわけがないだろう。お前は手袋をしていなかったな、俺が厨房にいた頃なんだし」
俺も今まで忘れていたが…。火傷しちまったという話を聞くまで。
ついでに、用心しているお前を見るまで、俺だって忘れちまってた。
火傷して以来、お前、用心していたからな。
また同じことをやらないようにと、おっかなびっくりといった感じで。
お蔭で俺は思い出したが、という話を聞いても戻らない記憶。
前の自分は、どうして火傷をしたのだろう。事故に遭ったのなら、今でも覚えていそうなのに。
分からないや、と首を傾げるしかなくて、一向に思い出せなくて。
「火傷って…。何処で?」
ちっとも覚えていないんだけれど、前のぼくは何処で火傷をしたの?
「俺の目の前だ、厨房だな。いわゆる不幸な事故ってヤツだ」
お前、ヒョイと両手で持ち上げちまったんだ。熱くなってたオーブンの天板を。
「熱い天板って…。そんなの、持たないと思うけど?」
小さな子供だったら危ないけれども、今のぼくだって持たないよ。火傷するもの。
前のぼくだって、オーブンの仕組みは分かっていたし…。触ろうとしない筈なんだけど?
「事故だと言ったぞ、それも不幸な」
オーブンから出して上の料理をどけちまったら、分からんだろうが、見た目には。
真っ赤に焼けた鉄じゃないんだし、その天板が熱いかどうかは。
手を近付けたら、熱が伝わって来るから分かりはするが…。
最初から用心しているからこそ、確認しようとするわけで…。それが無ければまず分からん。
触っちまって火傷してから、「熱かったのか」と気付くのがオチだ。
前のお前もそのクチだったんだ、よく聞けよ…?
始まったハーレイの昔話。厨房で料理の試作をしていた時のこと。
出来上がったオーブン料理を取り出し、天板ごとドンと置いたテーブル。熱い天板を置いても、焦げない頑丈なテーブルだから。
それから料理の器を天板の脇へ。大きめの耐熱容器を使っていたから、汚れなかった天板。
「まずは料理を出すもんだろ? オーブンから出して来たんだから」
天板の片付けはその後だ。俺が料理の器を出した所へ、お前が覗きにやって来て、だ…。
手伝うつもりで、出しっ放しの天板をオーブンに片付けようと…。
よく手伝ってくれていたしな、俺の片付け。
「思い出した…!」
熱いなんて知らなかったから…。綺麗だったし、洗ってあるんだと思い込んじゃって…。
早く片付けた方がいいよね、って。
「ぼくがやるよ」と、いつもの調子で持った天板。オーブンの中に戻しておこうと。
ハーレイが「おい!」と止めた時には、もう掴んでいた。両方の手で。
思ってもみなかった熱い天板。一瞬の内に焼かれた肌。
あまりの熱さに放り出したけれど、その前にしっかり掴んでいたから。熱いとも知らずに焼けた天板を掴んだのだから、たまらない。
両手は真っ赤になってしまって、呆然とするしかなかった自分。火傷したんだ、と。
「ブルー!」と大声を上げたハーレイ。まるでハーレイが火傷したかのように。
「見せてみろ」と言うから、差し出した両手。「火傷しちゃった」と。すっかり真っ赤になっていた手を、無残に色を変えてしまった手を。
ハーレイは見るなり声を失い、「来い!」と洗い場に引っ張ってゆかれて、冷たい水を蛇口から浴びせられた。両手が痺れてしまいそうなほどに、それは冷たいのをザーザーと。
その間にハーレイが用意していた、氷や、濡らしたタオルやら。
冷えて感覚が無くなった手を、氷入りの濡れタオルでグルグル巻かれて…。
厨房での応急手当はそこまで。火傷の薬は置いてあるらしいけれど、酷い火傷には役立たない。ちょっと赤くなった程度の火傷用。
だからハーレイは、前の自分をノルディの所へ連れて行った。「行くぞ」と大慌てで、火傷した両手を冷やしながら。
ノルディが常駐していた部屋に駆け込むなり、「診てやってくれ!」と叫んだハーレイ。両手に酷い火傷をしたと、熱い天板を素手で持っちまった、と。
氷入りのタオルをノルディがほどいて、始めた治療。消毒したり、薬を塗ったり。
前の自分はそれを見ていただけだったけれど、ハーレイの方は心配そうに覗き込みながら。
「どうだ、治りそうか? ブルーの火傷」
俺がウッカリしてたんだ。あんな熱いのを置きっ放しにしてただなんて…。
ちゃんと治してやってくれ、と頼まれたノルディは治療の手を休めずに。
「こいつは暫くかかるだろうな。治るのは治るが、その後だ」
痕が残らないといいんだが…。酷い火ぶくれになっているから。
かなり深くまで火傷していたら、痕が残るということもある。火傷自体は治ってもな。
「…痕が残ったらどうなるんだ?」
ブルーの手に火傷の痕なんて…。それは消えるのか、時間が経ったら?
「深い火傷なら、消えないだろうな。…今の船ではどうしようもない」
痕を消すには、皮膚の移植が必要になる。だが、この船では移植手術は出来ない。
もっと設備が整わないと無理だ、それから医療スタッフも。
そこまで深い火傷でなくても、きちんと治療しないと痕が残るぞ。引き攣れたような。
痕を消すには皮膚移植しか無くて、そっちは今は無理ってことだ。
全力を尽くすが、今の段階で出来る治療には限りがある。後はブルーの運次第だな。
治るといいが…、と包帯で巻かれてしまった両手。飲み薬まで処方された。痛み止めに、感染症予防の薬。それから痕が残りにくくするための飲み薬も。
けれど、両手を火傷したから、手では持てない。サイオンで受け取ろうとしたら、横から褐色の手が掴んだ薬の袋。「俺が持つから」と。
ハーレイは部屋まで薬を運んでくれて、部屋に入るなり謝った。
「すまん、ブルー…。酷い火傷をさせちまって」
俺がサッサと片付けていたら、お前、火傷なんかしなかったのに。
痛いだろう、と包帯に包まれた両手を痛々しそうに見るから、「大丈夫だよ」と返した答え。
「平気だってば、このくらい。…ちょっと痛いけど」
だけど、そんなに痛いってことも…。手だけなんだから。それも手のひらだけ。
火傷だって、それほど酷くはないし…。ぼくは平気だよ、心配しないで。
「酷くはないって…。酷いだろうが!」
ノルディも心配していたじゃないか、痕が残らなければいいんだが、と。
それだけ火傷が酷いってことだ、平気な筈がないだろう!
「…大丈夫。もっと酷い目に遭っていたから」
火傷どころか、焦げそうなくらい。…燃えて死んじゃいそうなくらいに。
アルタミラでね、とハーレイに話した前の自分。それは本当だったから。ハーレイは息を飲み、前の自分をまじまじと見た。
「焦げそうって…。そんな実験をされていたのか?」
お前の腕にあった注射の痕なら知ってたが…。酷い目に遭ったとも聞いてはいたが…。
火傷するような実験って…。燃えて死にそうな実験だなんて、あの研究者どもがやったのか?
「そう。高温の蒸気が噴き出して来たこともあったし、本物の火が出て来たことだって…」
熱いって叫んでも止めてくれなくて、ぼくが倒れるまで実験してた。
もう駄目だ、って倒れちゃうまで。死んじゃうんだな、って思いながら意識が無くなるまで。
それでも死ななかったけど…。また檻の中で目が覚めるんだけど。
「お前…。そんな目に遭って、よく生きてたな」
俺みたいに頑丈だったらともかく、細っこい身体のチビなのに…。
とても生き残れそうにないのに、お前、それでも生きてたってか。凄いな、お前。
「ぼくもそう思うよ、死ななかったのが不思議」
いつも治療をされていたけど、死んじゃっても不思議じゃないのにね?
きっと色々と調べてたんだよ、実験中も。死なないように、ギリギリの所でやめられるように。
タイプ・ブルーは一人しかいないし、死んでしまったら実験出来なくなるんだもの。
何度も焦げたり火傷してたよ、焦げる時には焦げちゃうんだよ。…ちょっぴりだけど。
でもね…、と髪を指差した自分。今と同じに銀色だった髪。
どんなに熱くても、髪の毛は焦げないんだよね、と。
「ホントだよ? 実験室に鏡は無かったけれども、ちゃんと分かった」
髪の毛は焦げていないってこと。本物の火で焼かれちゃっても。
「焦げないって…。何故だ、そんなに強いのか、髪は?」
お前の髪の毛、こうして触っても柔らかいんだが…。
それは見かけだけで、本当は火傷した手よりも丈夫に出来てるってか?
髪の毛なんかは直ぐに焦げるぞ、現に俺だって焦がしちまったことが何回か…。実験じゃなくて料理中のことで、景気よく火を使った時なんかに。
「丈夫なのかどうかは分からないけど…。そういえば、顔も焦げてなかったよ」
顔も火傷はしてないと思う。ぼくの意識があった間は。
ハーレイ、ビックリしてるみたいだし…。顔とか髪の毛、焦げた方が良かった?
その方が普通で良かったのかな、熱くても少しも焦げないよりは。
「いや、そんなお前は可哀相でとても見ていられない…。髪や顔まで焦げるだなんて」
想像だってしたくはないし、焦げなかったと聞いたらホッとした。無事だったんだ、と。
…しかし、火傷はしたんだな?
顔と髪の毛が無事だっただけで、その他の手とか足とかは?
「何度もね。…何度も焦げたし、火傷も一杯」
今日みたいに手のひらだけじゃなくって、身体中に。
最初の間は火傷しなくても、力が抜けて来ちゃったら駄目…。
あの頃の自分はシールドという言葉を知らなかったけれど、無事だったのはそれのお蔭だろう。無意識の内にシールドを張って、自分の身体を守ろうとした。
髪の毛や顔が焦げなかった理由は、恐らくは頭部だったから。サイオンを秘めた脳が入っている部分。なんとしても脳を守らなければ、と懸命に死守していた頭部。意識しなくても。
だから倒れてしまった後にも、顔も髪も焦げはしなかった。火傷は一度も負わなかった。
そう話しても、前のハーレイは怖い顔をして腕組みで。
「やはりあいつら、許し難いな」
お前みたいなチビに、火だの蒸気だのと…。倒れちまうまで実験だなんて、俺は許せん。
火傷だらけだった上に、焦げただと?
顔と髪の毛が焦げてなくても、他の部分が火傷だったら痛いなんてモンじゃないだろうが。
今日の火傷だって酷いというのに、お前、平気だと言うんだから…。
もっと酷い目に遭っていたから、それに比べたら酷くはないと。
研究者どもめ、こんなに小さいお前に無茶をしやがって…!
「実験は酷かったかもしれないけれど…。ぼくも酷い目に遭っちゃったけど…」
だけど治療は上手だったよ、どんな時でも。
ぼくの身体に傷は無いでしょ、注射の痕も消えちゃったから…。
火傷とかの痕は残っていないよ、上手に治療していたんだよ。それも実験かもしれないけれど。
「うーむ…。確かに傷痕は無いな、お前が言わなきゃ分からなかったほどに」
火傷の痕なんか残っちゃいないし、聞かなかったら俺は知らないままかもしれん。
顔と髪の毛以外は焦げちまったとか、火傷だらけになってただとか。
そんな目に遭っていたなんて…、と痛ましそうな顔になったハーレイ。
せっかく地獄から逃げ出したのだし、その火傷の痕、残らないといいな、と。
「ぼくはいいけど? 残っちゃっても」
別に困らないよ、痕くらいなら。…何かをするのに困るわけじゃないし、見た目だけだもの。
それに手のひらだから、他の人だって滅多に見ないものね。
「お前はいいかもしれないが…。俺は困るな」
お前が火傷しちまったのは、俺のせいだし。…痕が残ったら、辛いだろうな。
「そうなの?」
「俺がきちんと気を付けていたら、火傷なんかは…」
天板は直ぐに片付けるだとか、お前が厨房に入って来た時点で「危ないぞ」と声を掛けるとか。
俺はどっちもしなかったんだし、明らかに俺のミスってヤツだ。
今でも充分、申し訳ないのに、その上、痕まで残っちまったら…。
見る度に辛い、とハーレイが唇を噛むものだから。
「じゃあ、頑張って治すことにするよ」
ハーレイのためにも、痕なんか残らないように。
ぼくが両手に火傷したこと、ハーレイも忘れてしまうくらいに。
「治すって…。お前、そんなことまで出来るのか?」
サイオンを使って痕を消すとか、傷の治りを良くするだとか。
「ううん、そういう使い方をするのは無理そうだから…」
ノルディの治療にきちんと通うよ、そうするのが大切みたいだから。痕を残さないように治療をするには、診て貰うのが良さそうだから。
サボッたりしないで治療するよ、と宣言したのが前の自分。ハーレイのために、と。
ハーレイは「俺のせいだ」と悔やんでいたけれど、火傷の原因は自分にだってあったのだから。
厨房がどういう所なのかを、よく考えもしないで入って行った。
オーブン料理を作っていたなら、天板が熱いのは当然なのに。天板の横に置かれた料理にチラと視線を向けていたなら、出来立てなのだと分かったろうに。
(…作り立ての料理が置いてあったら、天板だって…)
まだオーブンから出されたばかりで、熱い筈。厨房で料理を作っていたなら誰でも分かる。前の自分も何度も覗きに行っていたのに、分かったつもりになっていただけ。厨房という場所を。
(ぼくが自分で作らないから、気が付かなくて…)
ハーレイに迷惑をかけてしまった、と反省しきりだった両手の火傷。
試作中の料理が出来上がったのに、放り出させてしまった自分。ハーレイは大慌てでノルディの所まで連れて行ってくれたし、診察の後は部屋まで送ってくれた上に話し込んだから…。
(…料理だって、すっかり冷めちゃったよね…)
もしかしたら、同じのを作り直したかもしれない。出来立ての味が分からないから、最初から。
作り直す間にも、ハーレイはきっと心を痛め続けただろう。「俺が用心していれば」と。
オーブンで加熱するのが終わって、出す時にはもっと。
「何故、天板を直ぐに仕舞わなかった」と、「ブルーが来たのに気付かなかった」と。
ハーレイは少しも悪くないのに。
厨房だったら当たり前の作業を、いつもと同じにやっていたというだけなのに。
自分が入って行かなかったら、天板を掴まなかったなら。
火傷したりはしなかったのだし、ハーレイが悔やむことも無かった。辛そうな顔で。
「すまん」と謝ることだって無くて、普段と変わらない時間が流れ続けていた筈。皆に美味しい料理を出そうと、鼻歌交じりに試作しながら。
自分の方でも、「今日の食事は、どんなのかな?」とハーレイの料理を楽しみにして。明らかに新作だと分かる料理が出て来たならば、ワクワクと心躍らせて食べて、喜んだだろう。ハーレイに顔で、言葉で「美味しいよ」と伝えて、それは御機嫌で。
けれども、それを壊してしまった。よりにもよって自分の不注意で。
(…ぼくのせいだよ…)
ハーレイは悪くないんだもの、と思うけれども、きっとハーレイは「違う」と言うから。
「俺のせいだ」と譲らないのに決まっているから、ウッカリ者の自分に出来ることといったら、痕が残らないように治すことだけ。
ただそれだけしか出来はしなくて、他には何も出来ない自分。ハーレイのために。
(ぼくがハーレイを悲しませたのに、たったそれだけ…)
なんとも悔しい、自分の無力さ。火傷の治療しか出来そうにない。それも治して貰うだけ。
ノルディは「運次第だ」と言いはしたけれど、やはり努力はしなければ。彼の指示通りに診察に通って、薬を塗ったり、飲んだりして。
(前のぼく、ホントに頑張ったっけ…)
ハーレイを悲しませたくはないから、火傷を綺麗に治そうと。痕が少しも残らないようにと。
毎日、ノルディの所に通った。包帯の下の手を診て貰っては、言われる通りに塗り薬を塗った。飲み薬も忘れないように。飲み薬は嫌いだったのだけれど、我慢をして。
(だけど、両手に包帯だったから…)
両方の手のひらを火傷したから、何かと不自由で使えない両手。食器も持てない。
サイオンを使えばちゃんと出来るのに、ハーレイが世話をしてくれた。「俺のせいだから」と。
厨房で料理をしていない時は、時間を作って部屋に来てくれて。食事の時間には、食堂で。
「ほら、食べろ」と食べさせて貰った食事。切り分けるのもハーレイだった。食べやすいよう、パンも千切ってくれた。薬を飲む時は水を用意して、薬を一つずつ口に入れてくれて。
着替えも、シャワーも、全部ハーレイの手を借りた。
「お前、両手が使えないんだから」と、朝の着替えから、眠る時まで。
顔を洗うのも、歯磨きもハーレイ。「これでいいか?」と「痛くないよな」と確認しながら。
シャワーの時には、火傷した手に気を付けながら。
(火傷、治療用シートの下だったから…)
ノルディが何度も張り替えてくれた、傷の保護を兼ねた治療用のシート。それに覆われた火傷は見えない。下の火ぶくれが潰れないよう、治してゆくために貼られていたから。
シャワーを浴びる時も、シートは取らない。包帯だけを外して、シートはそのまま。何か所かをテープで留めてあるから、それが外れないようにシャワーを浴びて、また包帯。
ハーレイは「火傷、どうだ?」と訊きはしたけれど、透視したりはしなかった。シートの下を。
覗き見るのが怖かったのか、マナー違反は良くないと考えていたものか。
(…見なくて正解だったんだけどね…)
もしもハーレイが見ようとしたなら、止めただろう。でなければサイオンで弾いていたか。
治るまでの過程で、見るも無残な様相だった時期があったから。火傷した部分から滲み出て来た滲出液。火ぶくれも癒えていなかっただけに、自分でも目を背けたほど。
これはハーレイには見せられない、と何度も思った。きっと苦しませてしまうから。
今から思えば、ハーレイは知っていたかもしれないけれど。ノルディの所へ訊きに出掛けて。
(でも、今頃になって訊くのもね…?)
ハーレイの古傷を抉るようだから、尋ねないのがいいのだろう。今は、きっと。
酷かった時期もあったのだけれど、治療に通った前の自分の努力は報われた。世話をしてくれたハーレイの努力も。
ようやく包帯が取れて、治療用のシートも薄いものになって、ついには要らなくなって…。
「ほらね、綺麗に治ったでしょ?」
何処を火傷したか、もう分からないよ。今はちょっぴり、まだ赤いけど…。
ノルディが言ったよ、赤みが消えたら元通りだって。痕は残っていないから。
見て、と広げてみせた手のひら。「もう大丈夫」と。
「良かった…。これなら、じきに治るな」
厨房の塗り薬も要らない程度の赤さだ、放っておいても治るって火傷。
本当に良かった、痕が残らなくて。…今の船じゃ、火傷の痕を治す治療は出来ないんだから。
それから更に何日か経って、白い肌が戻って来た手のひら。その手を何度も撫でて確かめては、「元通りだな」と安堵していたハーレイ。「お前の手に痕が残らなくて良かった」と。
今のハーレイも、「本当に心配したんだぞ」と鳶色の瞳でじっと見詰めて。
「あんな火傷でも、お前と来たら、俺の心配をしてたのに…」
俺が後々、気に病まないように、きちんと治すと言ってたくらいに強かったのに。
今のお前だと、舌の火傷で騒ぐらしいな。紅茶か何かで火傷したくせに。
そういう火傷は、知らない間に治っちまうと相場が決まっているモンなのに。
しかしだ、それはいいことだ、うん。
舌の火傷で大騒ぎなのも。
「いいことって…。どうして?」
我慢強い方が、ずっと良くない?
両手に酷い火傷をしたって、泣いたりしないでいる方が…。ハーレイの心配を出来る方が。
「そうは思わんな、今のお前の方がいいに決まってる」
痛い時は痛いと言えるだろ、お前。…前のお前みたいに我慢しないで、素直に「痛い」と。
前のお前が痛くなかったわけがないんだ、今のお前と同じで人間だったんだから。
火傷でも怪我でも、痛いものは痛い。…それなのに、前のお前は酷い目に遭いすぎて、何処かが普通じゃなかったんだな。痛さの基準が違いすぎた。
そんなお前が、今だと舌の火傷で痛がる。
いい世界じゃないか、痛い時は痛いと言えるんだから。
そっちのお前が断然いい、とハーレイが浮かべた穏やかな笑み。「うんと痛がれ」と。
「舌の火傷だって、痛いモンだしな?」
痛けりゃ痛いと
言っていいんだ。恥ずかしいなんて思わずに。
前のお前が我慢強すぎた分まで、今のお前は痛がっていいと思うがな。…俺は。
今度は大いに痛がるといい、とハーレイはパチンと片目を瞑った。前の分まで、と。
「そっか…。前のぼくの分まで、痛がっていいんだ…」
舌が痛いの、我慢しなくていいんだね。今もちょっぴりヒリヒリするけど…。痛いんだけど。
でも、残念。舌の火傷だと、ハーレイに世話して貰えないもの。
「はあ?」
俺が世話するって、どういう意味だ?
なんだってそういう話になるんだ、俺がお前の世話なんていう。
「前のハーレイ、してくれたでしょ?」
ぼくが両手に火傷した時。サイオンで出来るって言っていたのに、治るまでずっと。
あの時みたいに、食べさせて貰うとか、お風呂に入れて貰うとか…。
ハーレイに世話をして欲しいけれど、舌の火傷じゃ無理だよね…?
「お前なあ…!」
調子に乗るなよ、俺が優しくしてやったからって…!
痛がってもいいと言いはしたがだ、お前のは舌の火傷だろうが!
大袈裟に「痛い」と騒ぐ分には、いくらでも優しく見守ってやるが…。
そんなヤツの世話までする義理は無いな、舌の火傷は放っておいても治るんだから。
前のお前の時と違って、薬の出番も無いんだからな。
俺は知らん、と突き放されたけれども、きっとハーレイは優しい筈で。
舌の火傷でなかったとしたら、今度も世話をしてくれるだろうと思うから…。
「ねえ、ハーレイ。…またぼくが両手を火傷しちゃったら、世話してくれる?」
前のぼくにやってくれたみたいに、食事の世話とか、着替えだとか。
「火傷しなくても、お前の世話ならいくらでも…な」
もっとも、今はしてやれないが。
お前が両手を火傷しちまったとしても、今は駄目だな。
世話をしてくれる人が、ちゃんといるだろ。お母さんがいるし、お父さんだって。
「…やっぱり駄目?」
パパとママがいるから、ハーレイの出番は無くなっちゃうの?
ぼくの世話はママたちがしてくれるんだし、ハーレイは駄目…?
「当然だろうが、お前はお母さんたちの子供なんだぞ?」
この家でお母さんたちと暮らすチビでだ、面倒を見てくれるのもお母さんたちだ。
お前が此処に住んでる間は、病気になった時の野菜スープが限界ってトコか。
あれなら野菜スープのシャングリラ風だし、俺にしか作れないからな。
お前、あれしか食べない時もあるから、お母さんだって認めてくれるが…。
その他の世話はちょっと無理だな、俺の仕事じゃないんだから。
駄目だ、と軽く睨まれた。「チビの間は野菜スープだけだ」と。子供の間は、世話をしてくれる人たちいるだろうが、と。
「いいか、お母さんたちの役目を俺が取ったら駄目なんだ」
お前を可愛がってくれるお母さんたちだぞ、膨れっ面なんかするんじゃない。本物のお母さんとお父さんなんだ、甘えられる間にしっかり甘えておけ。世話をお願い、と。
その代わり、俺と結婚したら。…舌の火傷でも、ちゃんと面倒を見てやるから。
「ホント?」
舌の火傷でも世話してくれるの、どうやって?
紅茶とかをハーレイが冷ましてくれるの、ぼくの代わりに…?
「違うな、お前が楽しみにしているキスだ」
お前にキスして、「痛いの、痛いの、飛んでけ」とな。
何処が痛いか、お前に訊いて。
痛い所を治してやるってことになるなあ、それで治るだろ?
本当に治るかどうかはともかく、気分だけでも。
「うん、治りそう…!」
きっと治るよ、ハーレイのキスで。
舌を火傷してヒリヒリしてても、火傷して直ぐの痛い時でも…!
約束だよ、とハーレイと小指を絡ませた。いつか治して、と。
舌の火傷は痛いけれども、そういう手当てをして貰えるのなら、してみたい。
いつかハーレイと暮らす家でも、熱いホットミルクや紅茶で火傷。
そして思い切り甘えてみよう。
「キスで治して」と言った後には、「まだ痛いよ」と。
火傷したから、世話をしてよと。
食べさせて貰って、お風呂も、着替えも、と。
前の自分が両手に火傷をしていた時に、ハーレイに世話して貰ったように。
色々と面倒を見て貰ったように、舌の火傷でも甘えてみよう。
あの頃は恋人同士ではなかったけれども、今度は同じ家で暮らしている恋人同士。
もっと沢山、世話をして貰えそうだから。
ハーレイの時間を一人占めして、あれもこれもと強請れそうだから…。
火傷・了
※舌に火傷をしたブルー。痛いのですけど、前のブルーだと、その程度なら平気だったのです。
船で負った火傷を治すのに、懸命に治療に通った日々。前のハーレイとの思い出の一つ。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv