シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(ほほう…)
この地域でも流行るかもな、とハーレイが眺めた新聞記事。ブルーの家には寄れなかった日に、夕食の後で広げた新聞。ダイニングのテーブルで、のんびりと。
明日は土曜日で仕事は休み。午前中からブルーの家へと、出掛けてゆくだけなのだから。
(銀のスプーンなあ…)
遠い昔にはイギリスという島国があった地域の習慣。
元々は本物のイギリスのもので、SD体制が始まるよりも遥かな昔に生まれたという。その後は多様な文化と一緒にマザー・システムに消し去られたか、地球の滅びで消えていったか。
いずれにしても無かった習慣、それを復活させたもの。今ではすっかり定着していて、其処では人気。子供が生まれたら銀のスプーンを贈ること。一生、裕福であるように、と。
(昔は素材が違ったのか…)
同じイギリスでも、人間が地球しか知らなかった時代。その頃は銀ではなかったスプーン。銀のスプーンもあったけれども、銀とは違った素材が殆ど。
生まれた子供は洗礼式でスプーンを贈られるけれど、親や親族の懐具合で決まった素材。裕福な者なら銀だけれども、そうでなければ鉄やら、木やら。
ごく限られた子供だけしか、銀のスプーンは貰えなかった。財産のある家に生まれた子しか。
「銀のスプーンを咥えて生まれる」という言葉があったほどらしい。裕福な家に生まれること。
それだけに、余計に有難味があった銀で出来たスプーン。
なんとか買うことが出来そうだ、と考えた親は、自分の子供に銀のスプーンを贈っていた。今はこれしか買ってやれなくても、将来は豊かに暮らして欲しいと。そうなるようにと思いをこめて。
自分たちの食費を切り詰めてでも、子供のために銀のスプーンを。
その習慣が息づいているらしい、今のイギリス。正確に言うなら、昔はイギリスがあった場所。
子供が生まれたら銀のスプーンで、専用のスプーンも売られるくらい。子供用にデザインされた使いやすいものが。
(今の時代なら、普通なんだろうな)
生まれた子供に銀のスプーンを贈ること。イギリスでは、多分。
子供のために産着を用意するのと同じくらいに、ごくごく普通に買ってやるもの。子供用のや、親の好みで選んだものやら、デザインはそれぞれ違ったとしても、銀のスプーンを子供に一本。
遠い昔の頃と違って、銀はとびきり高価なものではないのだから。
安くはなくても、切り詰めなくとも買える値段にはなっている。スプーンを一本くらいなら。
(俺がブルーに貰った羽根ペン…)
誕生日に贈って貰った白い羽根ペン、あれの値段で充分に買える。銀のスプーンを一本ならば。小さなブルーのお小遣いでは買えないけれども、自分だったら買えた羽根ペン。
(使いこなせるかどうかってペンを、気軽にポンと買える値段じゃないんだが…)
子供のためのスプーンとなったら、きっと自分だって迷わずに買う。羽根ペンだったら、自分の趣味の代物だけに悩むけれども、子供のためなら悩まない。惜しみはしない。
この地域でも銀のスプーンだ、と流行り始めたら買うだろう。生まれた子供には、幸せな未来を与えてやりたいものだから。銀のスプーンがそれを運んでくれるなら。
(だが、俺の家では出番が無いなあ…)
イギリス生まれの銀のスプーンが、この地域で流行り始めても。
洗礼式というのは無くても、子供が生まれたら銀のスプーンを贈ろうと、あちらこちらで。
どんなに流行っていたとしたって、自分の家には子供は生まれて来ないから。父が買ってくれた家に子供部屋はあっても、いつか結婚するブルーは子供を産めないから…。
こいつは無理だ、と苦笑いした銀のスプーンを贈る習慣。素敵だけれども、自分とはまるで縁が無い。銀のスプーンを買ってやりたい子供は、けして生まれて来ないから。
残念な気もする銀のスプーン。記事に添えられたスプーンの写真が洒落ているだけに、なんとも惜しい。銀の細工が似合いそうなブルー、前のブルーは銀細工のようにも思えたから。
今のブルーはチビだけれども、前のブルーは気高く美しかった。銀色に輝く月の光のように。
(スプーンを贈って、プロポーズって地域もあるんだがなあ…)
あれもイギリスと呼ばれる地域に含まれる場所。ウェールズだったか、其処のラブスプーン。
遠い昔には、メッセージをこめて手作りしていた木彫りのスプーンで、プロポーズの時に贈っていた。自分が作った愛のスプーンを。
そっちだったら、と思うけれども、ラブスプーンは木彫り。銀ではないから、プロポーズの時に銀のスプーンは使えない。いくらブルーに似合いそうでも、銀のスプーンを贈る習慣は、あくまで子供のためのもの。
(前の俺は、あいつに木彫りのスプーンってヤツを、だ…)
作ってプレゼントしてやった。木彫りの趣味を始めた時に。
けれど、プロポーズのためのラブスプーンなどは知らなかったから、単なるスプーン。こういうスプーンを作ったから、と贈っただけ。木の温もりがきっと素敵だろうと。
スプーンを貰ったブルーの方でも、やはり知らなかったラブスプーン。「ありがとう」と貰って使っていただけ。青の間で食事する時に。
「君の作品にしては役に立つよ」などと笑いながら。
芸術的な木彫りの出来はサッパリだけども、実用品なら素晴らしいのを作れるよね、と。
実際、前の自分が作った木彫りのスプーンは人気があった。注文されて幾つも彫ったし、大勢の仲間が持っていた。芸術作品の注文の方は、少しも増えてはくれなかったけれど。
失礼なヤツらが揃ってたんだ、と時が流れた今になっても言いたい気分。俺の芸術が分からないヤツしかいなかったんだと、スプーンなんぞは誰だって彫れそうなものなのに、と。
キャプテン・ハーレイに来た注文は
木彫りのスプーンやフォークばかりで、ブツブツ言いながら彫っていた。またかと、今度もスプーンの注文だったかと。
(でもって、あの船に銀のスプーンは…)
無かったんだよな、と思い返してみるシャングリラ。前の自分が生きていた船。
自給自足で暮らしてゆける白い鯨に改造した後、シャングリラは文字通りミュウの箱舟だった。あの船があれば生きてゆけたし、船の中だけで一つの世界。自分たちの力で生きられた船。
そのシャングリラに、御大層なソルジャー専用の食器はあっても…。
(銀のスプーンは一本も…)
船に乗ってはいなかった。
ミュウの紋章が描かれたソルジャー専用の食器セットに、銀のスプーンは入らなかった。専用の食器があれば充分、銀で出来たスプーンまでは要らない。
箱舟の中では、贅沢品など要らないから。生きてゆくのに必要のないものだから。
(手入れするのも大変だしな?)
銀で出来たスプーンは磨かないと変色してしまうから、実用品には不向きなスプーン。手入れが必要なだけで贅沢、余計な手間がかかる代物。
遠い昔の貴族だったら、使用人たちに手入れさせればいいけれど。
誰もが幸せに暮らす今なら、手の空いた時に自分で磨けばいいのだけれど。
シャングリラには向かん、と思った銀のスプーン。贅沢品な上に、手間までかかる、と。
白い鯨になった後にも、それよりも前も、船では何でも実用的な物が一番。使いやすくて手間のかからない物が一番、贅沢は誰も考えなかった。ソルジャー専用の食器があった程度で。
(ブルーが奪った物資にしたって…)
人類の輸送船から奪った物資で生きていた時代。備品倉庫に新しい食器を運び込んだら、エラが端から裏返してみてはマークを調べていたけれど。食器の素性を確認してはいたけれど…。
高級品だと分かった時にも、遠慮なく順に使っていった。皿が一枚割れてしまったら、代わりに一枚、新しい皿を。丁度いいサイズのものを一枚。
たとえパルテノン御用達の逸品だろうが、どんどん使った。それが必要だったから。備品倉庫はそのためにあって、皿が割れたら、新しい皿を出してゆくだけ。
(…ということは、銀のスプーンも…)
物資の中に紛れていたなら、きっと使われたのだろう。直ぐに錆びると愚痴を言われながらも、食堂で。凝った細工の銀のスプーンでも、他のスプーンと全く同じに。
きっとそうだな、とクックッと笑う。銀であろうが、おかまいなしに使った船。
しかし生憎と、銀のスプーンには出会わなかった。前の自分が生きた船では、最後まで。
無かったっけな、と新聞記事の銀のスプーンを眺める。今ではこうして「流行りそうだな」と、銀のスプーンを見ているのに。これは写真だとはいえ、実物だってきっと買えるのに。
気軽に買えはしない値段でも、必要ならば。自分の子供に買ってやるとか、その気になれば。
けれど、シャングリラには無かった銀で出来たスプーン。遠い昔は貴族たちのための贅沢品。
(俺たちの船は、贅沢品とは縁が無かった船なんだ…)
ソルジャー専用の食器はともかく、その他のもの。銀器も無ければ、貴金属だって。
エラが見付けたパルテノン御用達の食器たちだって、使われた末に割れて船から消えていった。白い鯨が出来上がった後に、エラが何度も悔しがっていた。「今、あったなら」と。
(医療機器まで奪ってたのに…)
ノルディの注文でブルーが奪って、立派なメディカル・ルームが出来た。船で作り出せる時代が来るまで、船にあったのは全て奪った物。食材だろうが、衣料品だろうが。
何もかもを人類の船から奪って生きていたのに、何故か無かった贅沢品。銀のスプーンも、金で出来た物も、ほんの小さな宝石さえも。
誰も注文しなかったせいもあるのだろうか。「これが欲しい」と、医療機器のリストをブルーに渡したノルディのように。リストを受け取ったブルーは「分かった」と直ぐに奪って来たから。
注文したなら、ブルーなら手に入れられただろう。銀の食器を一揃いでも。
けれども、それを誰も頼みはしなかった。生活必需品ではないから、誰一人として。
分かっちゃいるが、と頭の中では理解出来ているシャングリラの事情。生きてゆくために必要なものがあれば充分だった船。白い鯨になるよりも前も、自給自足の船になった後も。
(そうは言っても、貧しい船だな)
昔は親の懐具合で素材が変わった、洗礼式の日に子供に贈るスプーン。子供の幸せを願って贈るスプーンだけれども、銀のスプーンは難しかった。高価だったから。
それでも銀のスプーンを子供に贈ってやろうと、努力した親は多かったろう。どうか幸せにと、裕福な一生を送って欲しいと、倹約して銀のスプーンを一本。子供のために。
遠い昔のイギリスで願いを託されたスプーン、貧しくても買ってやりたいと。銀のスプーンをと多くの親が願っていたろう、そのスプーンさえも無かった船。銀のスプーンは一本さえも。
銀のスプーンは無かったけれども、白いシャングリラは楽園だった。
貧しい船でもミュウの箱舟、銀のスプーンが無かった船でも。
(前の俺たちには、それが似合いだ)
銀のスプーンなどは持っていなくても、まずは命を繋いでゆくこと。生きてゆくこと。ミュウは見付かったら処分されるか、研究施設に送られるか。
そうなる前に助け出すのが箱舟の役目、ミュウの仲間を一人でも多く救うこと。
あの船に銀のスプーンは要らない。人類に認めて貰えないのでは、裕福になっても意味が無い。船の中だけが世界の全てで、其処で生きるしかないのでは。
閉ざされた船だけで生きるしかないなら、裕福な暮らしに何の価値があると言うのだろう。外に出られはしないのだから、まるで囚人。其処で贅沢をしても意味など全く無いのだから。
ついでに言うなら、贅沢をする余裕があったかどうかも怪しい。白いシャングリラは自給自足でやっていたから、買い物は必要無かったけれど。通貨さえ無かった世界だけれども、全てを賄ってゆかねばならない。船の中だけで。
(新しい仲間を救出したなら、その分だけ…)
食料が余分に要るようになるし、それに備えての備蓄はもちろん、増産だって。
新しい仲間は、いつやって来るか分からない。計画を立てて救い出す時も、年単位などは一度も無かった。ただ一人だけの例外がジョミー、それ以外の子供は突然ということも多かった。
(緊急事態ってヤツでだな…)
救助班の者たちが飛んでゆくとか、ブルーが救いに出てゆくだとか。
そうした時には、いきなり増える新しい仲間。船に迎えたその瞬間から、一人分の食料が必要になる。朝昼晩と三度の食事に、子供たちが食べる菓子の類も。
そんな具合だから、銀のスプーンを買うくらいならば、同じ値段で買える食べ物。そちらの方がずっと有意義で、生きてゆくには、まずは食べ物。それに衣服も、住むための場所も。
(…何かと物入りな船ではあったな)
あの船の仲間の、世界の全てだった箱舟。白いシャングリラはそういう船。
何もかもを船の中で賄い、雲海を、宇宙を飛んでいたから、銀のスプーンの出番は無い。それを一本作った所で、食料が増えはしないから。生きてゆくのに、けして役立ちはしないから。
あっても意味が無いんだよな、と思った銀のスプーンだけれど。必要も無いと思ったけれども、また目を落とした新聞記事。子供が生まれた時に贈るのが、銀で出来たスプーン。
(ナスカの子たちに贈るべきだったか?)
SD体制が始まって以来、初めての自然出産児たち。本当の意味で「生まれた」子供。
赤いナスカで産声を上げた新しい命、彼らの人生に幸多かれ、と。
彼らだったら、銀のスプーンを貰う資格があっただろう。ミュウの未来を生きる子供で、誰もが誕生を祝った子たち。命は新しく作ってゆける、と。
あの子たちなら、銀のスプーンに相応しかった。幸せに生きてゆけるようにと、裕福な未来をと贈られるスプーン。彼らはミュウの未来そのものだったのだから。
(だが、無いものは仕方ないんだ)
白いシャングリラに銀のスプーンは一本も無くて、船に無い物は贈れない。ナスカで銀が採れはしなかったし、銀のスプーンは作っていない。
ナスカでスプーンと言ったらアレだ、と思い出したのがジョミーのスプーン。
(…誰が作ったのかは聞いていないが…)
あの星に降りた若いミュウの一人が、ナスカの石を削って作ったスプーン。水色のそれを大切に持っていたジョミー。「貰ったんだ」と話していた。それは嬉しそうに。
(ナスカの子たちには、アレが似合いのスプーンだったな…)
赤いナスカの石から生まれた水色のスプーン。銀のスプーンより、その方がずっとよく似合う。
あれを贈れば良かったんだよな、と思うけれども、きっと贈っていないだろう。
銀のスプーンも無かった船。白いシャングリラには、スプーンを贈る習慣さえも無かったから。
話にならん、と新聞を閉じようとしたけれど。銀のスプーンも、赤いナスカの石のスプーンも、子供たちには繋がらない、と頭の中から放り出そうとしたのだけれど。
(待てよ…?)
ふと引っ掛かったスプーンという言葉。子供たちとスプーン。
(何処かで聞いたぞ…)
ジョミーが持っていたスプーンの他にも、ナスカの石で作ったスプーンの話を。それも子供、と遠い記憶を手繰ってゆく。
トォニィが持っていたろうか?
ずいぶんとジョミーを慕っていたから、借りて使っていたのだろうか…?
(…そういう記憶は無いんだが…)
直接見てはいない気がする。スプーンを持っていた子供。ならば何処で、と考え続けて…。
(そうだ、あの時だ…!)
フィシスが立ち会った、生まれた子供の命名式。請われて、赤いナスカに降りて。
あれはハロルドの娘のツェーレン、自分で名乗ったと聞いている。フィシスが名付けた名前ではなくて、「聞かせておくれ」と尋ねた名前。
(戻った後で、フィシスが…)
前の自分に話したこと。ナスカの上で見て来たこと。ジョミーに連れられ、かつて人類が建てた天文台にも行ったらしいけれども、その話の他に…。
「素敵な習慣があるのですね」と微笑んだフィシス。
ジョミーのスプーンと同じでした、と。それをツェーレンは両親に貰ったようですよ、と。
若い世代と古参の者たちの対立が表面化し始めていたから、フィシスは立ち会えずにジョミーと一緒に去ったけれども、読み取ったらしい。盲いた瞳は、見えないものまで見るものだから。
ハロルドたちがツェーレンにそれを贈るのを。水色のスプーンを渡す所を。
(あったのか…!)
銀のスプーンとは違うけれども、生まれた子たちに贈られたスプーン。
今の今まで思い出しさえしなかったけれど、いつの間にやらナスカで出来ていた習慣。あの星で子供が生まれた時には、命名の時にスプーンを贈った。
ジョミーが貰ったスプーンと同じに、ナスカの石で作ったものを。水色のそれを。
(いったい誰が言い出したんだ…?)
子供たちにスプーンを贈ろうと。それもナスカの石のスプーンを。
誰からも聞いてはいないものだから、今となっては全くの謎。けれど、ヒルマンかもしれない。博識だった彼は、子供たちとナスカにいたのだから。
古参の者たちはナスカを嫌っていたというのに、ヒルマンはナスカに降りる時の方が多かった。子供たちの教育係を長く務めたのは彼だけだったし、「これが私の役目だから」と。
トォニィたちをナスカで育てる間に、若い世代の仲間たちとも親しくしていたことだろう。元は教え子だった者たちばかりで、きっと慕われただろうから。
ヒルマンが彼らに銀のスプーンを贈る習慣を話して聞かせて、其処からナスカの石のスプーンに繋がった。そう考えるのが多分、一番、自然な流れ。
若い世代の誰かが思い付くより、ヒルマンが彼らに教える方が。
(ナスカで豊かに生きてゆけるように、か…)
生まれた子供が裕福な一生を送れるように、と贈られたのが銀のスプーンだったら、フィシスが話したスプーンにもきっと、同じ意味。子供たちの幸せを祈って贈られたスプーン。
裕福な一生は難しいけれど、豊かにと。食べ物に不自由しないで生きてゆけるようにと。
(ヒルマンが始めたことなんだろうな…)
前の自分の古くからの友が。「昔の地球には、こういう習慣があってだね…」と皆に聞かせて。
しっかり確認すれば良かった。スプーンの話を耳にした時に。
いつからなのか、誰が言い出したのか。あの時だったら、きっと簡単に分かったろうに。
(俺としたことが…)
失敗だったな、と思うけれども、ナスカは仮の宿だったから。若いミュウたちが考えたような、永住の地ではなかったから。
(あくまで、地球へ向かう途中の…)
休憩の場所で、いつかは離れるべき星。あの星を拠点に定めたとしても、目指すのは地球。
其処へ行かねば、ミュウの未来は手に入らない。自分たちだけが隠れ住んでいても、何も先には進まないから。ミュウは変わらず追われる立場で、発見されたら殺されるだけ。
それを変えるために地球へ行くのが、古くから船にいる者の悲願。前の自分も含めた長老も同じ立ち位置だったから…。
(ナスカの習慣は困るんだ…)
あの星ならではの習慣が出来たら、若い者たちは、ますますナスカに執着するから。自分たちがそれを作り出したと、この星こそが居場所なのだと。
だからフィシスに聞いたスプーンは、航宙日誌にも書いてはいない。ツェーレンの命名式のことしか記していないし、自分でもすっかり忘れ果てていた。
航宙日誌に書いたナスカのスプーンと言ったら、ジョミーのものだけ。ナスカの石から作られたスプーンは、あれの他にもあったのに。
ジョミーのスプーンよりもずっと大切な、祈りのスプーンが存在したのに。
(大発見だぞ!)
この話は誰も知らないからな、と嬉しくなった。航宙日誌に書かなかったから、学者たちだって知りようがない。水色のスプーンを貰ったナスカの子供たちのことは。
明日はブルーに教えてやろう。
こんな素敵な習慣があったと、水色のスプーンだったんだ、と。
忘れないよう、テーブルに広げておいた新聞。翌朝、見るなり思い出したから、ブルーの家へと出掛けて行って。小さなブルーとテーブルを挟んで向かい合うなり、問い掛けた。
「銀のスプーンって、知ってるか?」
スプーンそのものは知ってるだろうが、そいつに纏わる習慣だな。
「なあに?」
銀のスプーンでおまじないとか、願い事をすれば叶うとか…?
「願い事ってことにはなるんだろうなあ…」
前の俺たちが生きてた時代には無かったんだが、ずっと昔の地球のイギリス。其処の習慣だ。
もちろん、今の時代はその習慣も復活してる。
子供が生まれたら、銀のスプーンを贈るんだ。裕福な一生を送れますように、と願いをこめて。
昔は銀が今よりもずっと高価だったから、そうなったらしい。銀のスプーンを持てるくらいに、豊かな生活が出来ますように、と。
「ふうん…。子供のためのプレゼントなんだ…」
生まれたばかりの赤ちゃんの幸せ、それをお祈りしてあげるんだね。銀のスプーンで。
「そういうことだな。うんと幸せになれますように、と」
前の俺たちだった頃には、その習慣は無かった筈なんだが…。
どうやら、そいつがあったらしいぞ。前の俺たちが乗ってた船に。
いや、ナスカにか…。
スプーンを贈ってやる習慣、と話してやったら、ブルーはキョトンと目を丸くして。
「ナスカって…。あの星、銀が採れたの?」
野菜を色々育てた話は聞いているけど、銀の採掘もしてたわけ?
スプーンくらいしか作れなくても、少しくらいは銀が採れたんだ…。
「まさか。…鉱脈なんかは探していないし、第一、あったら人類が捨てていないだろう」
銀が採れるなら、捨てては行かない。人間が住むには不向きな星でも、役に立つからな。
そうじゃなくてだ、ジョミーのスプーンは知っているだろ?
ナスカの石を削って作った水色のスプーン。若いヤツらがジョミーにプレゼントしたヤツだ。
「知ってるよ。今のハーレイから聞いたしね」
ジョミーが大切にしていたスプーンで、お気に入り。ナスカの石で出来ていたから。
「そのスプーンだが…。ジョミーの分だけではなかったらしい」
俺はこの目で見てはいないが、同じスプーンを子供たちにも贈っていたんだ。
ナスカで生まれた子供たちだな、トォニィよりも後に。
ツェーレンの命名式に立ち会ったフィシスから話を聞いた。
生憎とフィシスも、贈る所に立ち会ったわけじゃないんだが…。それでも知ってた。フィシスは見えないものを見るしな、その力で見えていたんだろう。
生まれた子供に名前をつけたら、親がスプーンを贈るんだ。水色の石で出来たスプーンを。
「ハーレイ、それって…」
銀のスプーンと同じだったの、銀の代わりにナスカの石なの?
「多分な。…前の俺は確認していなかったし、今の俺の推測に過ぎないんだが…」
ヒルマンが教えたんだろう。銀のスプーンを贈った時代があったんだ、と。
しかし、銀のスプーンは何処にも無いから、代わりにナスカの石のスプーン。
そんなトコだと俺は思うぞ。…母体から生まれた子供たちには、幸せになって欲しいからな。
ただし、そいつは航宙日誌にも書かなかったが、と白状したら、惜しがったブルー。そうなった理由は分かるけれども、出来れば書いて欲しかったと。
シャングリラではなくてナスカのことでも、皆を束ねるキャプテンとして、と。
「そのスプーンの記録、ホントに何処にも残っていないの?」
航宙日誌に書いてないなら、学者も研究しないだろうけど…。
誰も知らないような所に、記録、ひっそり残ってるとか…。でなきゃスプーンが残ってるとか。
「ひっそりという記録はともかく、スプーンの実物は残っていないな」
ナスカがああいう有様だったし、消えちまったんだ。ナスカと一緒に。
ハロルドがナスカで死んじまったのは知ってるだろうが、シェルターに残っていたばかりにな。
子供たちは昏睡状態になっていたから、シャングリラに運び込まれていたが…。
トォニィも含めて、子供たちの家はナスカにあった。一人残らず。
其処へ出たのが撤退命令で、スプーンなんぞを持ち出す余裕は無かったんだ。何処の家でも。
シェルターに残ったハロルドにしても、シャングリラに避難した家族にしても。
そんな時だし、宇宙遺産になっちまってる俺の木彫りのナキネズミ。…ウサギってことになってしまったが、あれが今でもあるのが奇跡だ。
ユウイはとっくに死んじまってたし、カリナも死んでしまったから…。
シャングリラに避難することを決めた仲間が、大急ぎであれを持ち出したんだ。カリナの遺品を船に運んでおこうとな。
だから、トォニィの分だけが残った。子供時代の持ち物ってヤツは。
他の子たちの分は何もかも、ナスカと一緒に燃えちまったんだ。
お気に入りのオモチャも、ナスカの石で出来たスプーンも…、と教えてやった。
シャングリラに運び込まれたナスカの子供たちの持ち物は、トォニィの分だけだった、と。
「そっか…。他の子供たちの持ち物は全部、燃えちゃったんだ…」
だったら、ナスカの石で出来てたスプーンのことは、本当に誰も知らないんだね。
前のハーレイが航宙日誌に書かなかったから、今の時代の人たちは、誰も。
「そうなるな。…ひっそりと誰かが書き残してても、世に出る前に消えたんだろう」
シャングリラに乗ってた誰かの日記とか、そういうのの中にあったとしても。
資料として知られるよりも前にだ、何処かに消えていったってことだ。
スプーンを貰ったナスカの子たちは、スプーンのことを覚えていなかった。小さすぎてな。
トォニィはスプーンを貰っていないし、持ち物の中に残っているわけがないだろう?
「…トォニィ、他の子供たちのスプーンを知らないの?」
一番最初に生まれてたんだし、知っていそうな気もするけれど…。
だけど、スプーンの記録が無いなら、トォニィも知らなかったのかな…?
「三歳だからな、ナスカが燃えてしまった時は」
たった三歳の子供なんだぞ、他の子供たちの命名式には立ち会わないな。…ハロルドがわざわざフィシスに頼んだくらいなんだし、立ち会う人間は大人ばかりだ。
三歳じゃ無理だ、とシャングリラにいた自分にも分かる。いくら若い世代の仲間たちが暮らしていた星だったとしても、大人と幼い子供は別だと。
厳粛な式を台無しにしかねない幼い子供は、命名式には呼ばれない。当然、あの石のスプーンを贈る所も見ていない。式には呼ばれていないのだから。
スプーンを贈られた子供の親も「記念の品だ」と仕舞い込んだから、誰も使っていなかった。
最初にスプーンを貰った子供も、ツェーレンたちも。
もしもオモチャに持っていたなら、誰かが覚えていたろうに。それで遊んだ、と。
けれど、命名式の日に贈られただけでは、子供たちの記憶に残りはしない。水色のスプーンは、通り過ぎて行っただけだから。子供たちの側を、ほんの一瞬。
赤いナスカと一緒に消えてしまったスプーンは、書き残す人がいないまま。
せっかく生まれた習慣だったのに、航宙日誌にも記されないまま、時の彼方に消えてしまった。
「…俺が全く書かなかったのも、悪かったのかもしれないが…」
ナスカが燃えてしまった後には、子供は生まれていないからなあ…。
とにかく地球を目指せってことで、戦いばかりで、誰もが子供どころじゃなかった。
あそこで子供が生まれていたなら、誰かがスプーンを贈っていたかもしれないんだが。
「トォニィの時代はどうだったの?」
やっていたかな、もしかしたら…。トォニィは無理でも、大人は覚えていただろうから。
ナスカで大人だった人たち、まだシャングリラに乗っていたしね。
「スプーンの贈り物を覚えていたなら、やってただろうが…」
記録に残ってないからな。
もしあったのなら、今の時代も水色のスプーン、人気だろうと思わないか?
ナスカの石で出来ていなくても、水色の石を削ったスプーンが。
「そうだね。トォニィの時代にやっていたなら、水色のスプーン、ありそうだよね…」
アルテラが残した「あなたの笑顔が好き」ってメッセージ、今も人気だし…。
水色のスプーンも、赤ちゃんにあげるプレゼントの定番になりそうだよ。銀のスプーンよりも。
…それに、水色の石のスプーンは、ナスカの石で出来ていないと意味が無いかも…。
あの星の石で作っていたから、幸せのお守りだったのかも…。
「それもあるかもしれないなあ…」
ナスカだったから、幸せに生きてゆけますように、と石を削って作ったかもな。
平和な時代になっちまったら、そんな思いをこめなくっても、幸せに育っていけるんだし…。
わざわざスプーンを作るよりかは、もっと子供の喜びそうなオモチャを選びそうだよな。
ぬいぐるみだとか、ガラガラだとか。
水色のスプーンは時の彼方に消えちまったか、と残念な気持ちもするけれど。
航宙日誌に書き残さなかった前の自分を、「馬鹿め」と責めたい気分だけれど。…自分と同じに惜しがったブルーも、「素敵な贈り物があったんだね」と、とても喜んでくれたから。
「スプーンの話を聞けて嬉しい」と笑顔なのだから、思い出話だけでもいいだろう。
赤いナスカの石で作られた、水色のスプーン。
あの星で生まれたナスカの子たちの、命名式の日に贈られたスプーン。
きっとヒルマンが若いミュウたちに教えたのだろう、銀のスプーンを生まれた子供に贈る習慣。銀のスプーンは無かったけれども、銀の代わりにナスカの石から作られたスプーン。
裕福な一生は難しくても、豊かに生きていけるようにと。食べ物に不自由しないようにと。
その子供たちは、平和な時代を手に入れたから。
ミュウと人類が手を取り合って生きてゆける世界を、彼らは勝ち取ったのだから。
「…効いたんだろうな、あのスプーンはな…」
地球へ行く前に、死んじまった子たちもいたんだが…。
あの子供たちだって、きっと今頃は、幸せになっているんだろうなあ…。
「うん。何処かで幸せに生きているよね、ぼくたちみたいに」
アルテラも、コブも、タージオンも。
きっと幸せに生きてると思う、宇宙の何処かで。…もしかしたら、地球で。
「そうなんだろうな、自分たちが作った平和な時代というヤツをな…」
銀のスプーンを貰ったかもしれんな、今の親から。
イギリスに生まれて、うんと洒落たのを。…水色のスプーンにも負けないのをな…。
銀で出来たスプーンを貰えたかもな、と遠く遥かな時の彼方に思いを馳せる。
前の自分が航宙日誌に書かずに終わった、消えてしまった水色のスプーン。
ナスカの子たちが、知らない間に貰い始めていたスプーン。
あの星の石を削って作った、水色のスプーンは幸せを運んだ。それを貰った子供たちに。
命を落とした子もいたけれども、彼らが築いた平和な時代。
銀のスプーンが運ぶ富よりも、ずっと素晴らしい、誰もが幸せになれる時代を彼らは作った。
誰も不幸にならない時代を。
その時代に今、ブルーと二人で生きている。
青い地球の上に生まれ変わって、水色のスプーンを思い出して。
だから、あの子たちも、きっと幸せなのだろう。
今は本物の銀のスプーンを貰ったりして、宇宙の何処かで、今の家族たちと。
自分とブルーが、いつか家族になるように。
いつまでも、何処までも、手を繋ぎ合って、幸せに生きてゆくように…。
銀のスプーン・了
※ナスカの子供たちに贈られた、水色の石で作ったスプーン。何故だったかは、謎なのです。
記録も無ければ、実物も残っていない贈り物。それが生まれたのは、銀のスプーンからかも。
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