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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

大切な挨拶

(いた…!)
 あの子だ、とブルーが名を呼んだ猫。学校の帰りにバス停から家まで歩く途中で、庭にいるのを見付けたから。白と黒のブチ猫、名前はムタ。
 人懐っこい猫で、呼ばれると歩いて来てくれる。生垣の側まで。手を振る間にやって来たから、もう嬉しくて立ち話。「元気にしてた?」とか、「今、学校から帰ったんだよ」とか。
 もちろん猫は喋らないけれど、「ミャア」と鳴いたり、喉をゴロゴロ鳴らしたり。今日の報告もしていたら…。
「ブルー君、今、帰りかい?」
「あっ…!」
 掛けられた声に驚いた。気付かなかった家の住人。この家の御主人、庭木の陰からヒョッコリと顔を覗かせた。「こんにちは」と。
 「ごめんなさい!」と頭を下げて、慌てて挨拶。「こんにちは」と御主人と同じ言葉を返して。
 失敗しちゃった、と真っ赤になった頬。猫と話している間中、御主人は庭にいたのだろう。
(凄く失礼…)
 猫に挨拶していただなんて。おまけに楽しく話まで。先に挨拶するべき御主人を放って、挨拶もしないで猫とお喋り。
 大失敗だよ、と肩を落としていたら、御主人は猫をヒョイと抱き上げて。
「気にしなくていいよ、ブルー君」
 うちの子を可愛がってくれているのが分かるしね。この子も嬉しそうにしてただろう?
「でも…。ご挨拶…」
「ムタの方が先でいいんだよ。この子は私より偉いからね」
「えっ?」
 どういう意味、と目を丸くしたら、御主人は猫を撫でながら。
「そのつもりらしいよ、本人はね。…いや、猫だから本猫かな?」
 一番偉いのはムタってことだね、この家ではね。本当だよ。



 この家の誰よりも偉いんだ、と撫でた御主人に「ミャア!」と鳴いた猫。「下ろしてよ」という意味らしい。「この通りだから」と下ろして貰った猫は、悠然と向こうへ行ってしまった。
 御主人よりも奥さんよりも、娘さんたちよりも偉いムタ。家を代表するのは猫の「ムタさん」。だからこれからもムタを優先でどうぞ、と御主人は言ってくれたのだけれど。
(恥かいちゃった…)
 御主人を抜かして、猫に挨拶したなんて。そのまま話をしていただなんて。
(挨拶、とっても大切なのに…)
 顔見知りの人に会ったら「こんにちは」だし、「行ってらっしゃい」と声を掛けられた時には、「行って来ます」と元気に返事。「おかえり」だったら、「ただいま」で…。
 小さい頃から頑張っていたのに、大失敗をしてしまった。顔が真っ赤になったくらいに。
(…猫に挨拶…)
 それだって、大事だとは思う。あそこに猫しかいなかったなら。猫のムタさん、白と黒のブチの毛皮が見えたら、やっぱり挨拶。
(猫だって、ご近所さんだもの…)
 挨拶しないで通り過ぎるより、一声かけていく方がいい。「こんにちは」と。
 けれど、猫への挨拶だって、人間同士の挨拶の延長。家の人がいたなら、そちらが優先。挨拶はそういうものだから。人間だったら、ちゃんと言葉か返るのだから。



 ホントに失敗、とトボトボ帰って行った家。今日は大恥、と。
 気分を切り替えるにはこれが一番、と着替えてダイニングに出掛けたおやつ。美味しいケーキと紅茶で気分転換、元気が出たよ、とテーブルにあった新聞を広げて読み始めたら。
(山登り…)
 絶壁を登る登山ではなくて、その辺りの山から始める登山。自信がついたら山小屋に泊まって、高い山へと。もっと自信がついたらテントを張って…、といった記事。
 身体の弱い自分とは縁が無いのが登山で、それでも楽しそうだから。「登ってみたいな」という気持ちになってくるから面白い。
 興味津々で読み進めてゆくと、山での挨拶が書かれていた。登山者同士で交わす挨拶。山登りの途中で擦れ違う人と、「こんにちは」と。
 疲れていたって、するのがマナー。会釈だけでも。
(うーん…)
 このタイミングで挨拶の話、と今日の失敗を思い返して唸っていたら、通り掛かった母。
「どうしたの?」
 新聞に何か、難しい話でも載ってるの?
「そうじゃないけど…。ただの山登りの記事なんだけど…」
 でも、挨拶が大事なんだって。山に登るなら、知らない人でも会ったら挨拶しましょう、って。
 その挨拶、ぼく、失敗しちゃった…。山じゃないけど。



 御主人がいるのに、猫に挨拶しちゃったんだよ、と失敗談を打ち明けた。あそこの家、と。
「ぼくって、ホントに駄目みたい…。ムタを見付けて、夢中になって…」
 ちっとも周りを見ていなかったから、ホントのホントに大失敗だよ。
「あら、失敗は誰にでもあるわよ。そういうのはね」
「ママもやったの?」
 家の人、ちゃんと其処にいるのに、猫に挨拶。
「そうよ、何回もやってるわよ。ご近所でもやったし、お友達の家でも」
 出掛けて行って、お留守かしら、と勘違いしちゃって…。
 それだけならいいけど、猫とか犬にお話しちゃうの。「今日はお留守番?」ってね。
「ママでもやるんだ…。そんな失敗」
「パパもやってると思うわよ?」
 チャイムを鳴らして返事が無ければ、お留守なのかと思うじゃない。
 お庭の方かも、って眺めた時にね、猫とかがいたら、やっちゃうわよ。「お留守なの?」って。
 ママでもやるから大丈夫、と太鼓判を押して貰った。
 人がいることに気付いた時に挨拶出来れば、それで充分。「ごめんなさい」と、気付かなかったことを謝って。
 挨拶は人間関係の基本なのだし、挨拶する気持ちが大切だから、と。
「ホント?」
「ええ、本当よ。それにね、ムタさんの家の御主人はね…」
 猫にも挨拶してくれる人が大好きなのよ。あの御主人に挨拶をしたら、次はムタさん。そういう順番になってるみたいよ、猫好きだから。
「猫に挨拶って…。ママも?」
「何度もしたわよ、「こんにちは」ってね」
 だから、ムタさんの方が先でも本当に大喜びなの。「挨拶して貰えて良かったね」って。



 またやったって大歓迎して貰えるわよ、と母に教えて貰ったけれど。ムタの御主人が言っていた言葉は、どうやら本当らしいけれども。
 部屋に帰ったら、やっぱり溜息。結果はどうあれ、失敗したことには違いないから。
(山では、疲れていたって挨拶…)
 向こうから人がやって来た時は。「こんにちは」と元気に声が出せなくても、会釈すること。
 そういえば、ハーレイはジョギング中に手を振ると言っていた。誰か手を振ってくれた時には。手を振るのは多分、子供だろうに、手を振り返して走ってゆくハーレイ。
 山と同じで、ジョギングしている真っ最中でも、挨拶を返しているわけで…。
(ぼくって駄目かも…)
 走っていたって、周りが見えているハーレイ。子供にもきちんと挨拶をする。なのに、のんびり歩いていた自分は家の御主人を見落としてしまって、猫に挨拶。そのまま猫と話まで。
 注意力散漫だから失敗しちゃって恥をかくんだ、と考えていた所へ、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたまではいいのだけれど。
(きちんと挨拶…)
 今日くらいはハーレイにも挨拶しなきゃ、と引き締めた心。ちゃんと挨拶、と。
 猫で失敗した分まで。御主人抜きで猫に挨拶していた分まで、ハーレイに挨拶、と思ったのに。
 母の案内でハーレイが現れた途端に、「ハーレイ!」と呼び掛けてしまった自分。
 挨拶なんかは綺麗に忘れて、いつものように。「来てくれたの?」と。



 そのハーレイと、テーブルを挟んで向かい合わせに腰掛けて。お茶のカップに手を伸ばしたら、気が付いた。挨拶を忘れていたことに。
「やっちゃった…」
 ぼくってホントに駄目みたい…。また失敗…。
「失敗って、何をだ?」
 ハーレイは怪訝そうだけれども、失敗は失敗。いつも通りでも大失敗だから。
「挨拶、忘れた…」
 ちゃんとハーレイに挨拶しなきゃ、って思ってたのに。
「挨拶って…。普通だったろ?」
 忘れてないだろ、お前、いつもと変わらなかったぞ。嬉しそうだったし。
「いらっしゃい、って言おうとしていたんだよ」
 ハーレイ、お客様だから…。お客様には「いらっしゃい」でしょ?
「おいおい、なんだか気味が悪いな。お客様も何も、今更だろうが」
 そんな挨拶、お前から聞いたことなんか一度も無いと思うが…。
 いきなりどうした、何かあったのか?
 俺に「いらっしゃい」と他人行儀な挨拶をするほど、お前が変になっちまうことが。
「あのね…」
 挨拶で失敗しちゃったんだよ、今日の帰りに。
 バスを降りてから歩いてた時に、とっても可愛い猫に会ったから…。



 その家の御主人に気付かないまま、猫に挨拶して話しちゃってた、と白状した。大失敗、と。
「…いいんだよ、って言って貰ったけど、ホントに失敗…」
 だから挨拶のやり直し、ってハーレイに言おうとしてたのに…。「いらっしゃい」って。
「なんだ、そういうことだったのか。猫に挨拶しちまった、と」
 愉快じゃないか、子供なんだし、大丈夫さ。そうでなくても、御主人、猫が大好きなんだろ?
 猫に挨拶が歓迎だったら、お前は失敗してないんだから。
「でも…。注意してたら、失敗しないよ」
 挨拶、とっても大切なのに…。小さい頃から、ちゃんと挨拶してるのに。
「気持ちは分かるが、そこまで恥だと思わなくても…」
 第一、お前はよくやっていると思うぞ、俺は。
「…何を?」
「挨拶だ、挨拶。今は挨拶の話だろうが」
 お前は立派に挨拶してる。今日は失敗したかもしれんが。
「えーっと…。学校でハーレイにしてる挨拶?」
 先生なんだもの、挨拶するよ。他の先生だって、会ったら、きちんと。
「その挨拶の方も大したもんだが…。それよりも前に、だ…」
 お前、元々、される方だろ?
 挨拶ってヤツを。
「される方って…。何の話なの?」
 ぼくは挨拶をする方で…。クラブなんかも入ってないから、誰も挨拶してくれないよ?
 挨拶した時のお返しだとか、後はご近所さんだとか…。先に気付いてくれた時だけ。
「前のお前だ、今じゃなくてな」
 挨拶される方だったろうが、いつだって。ソルジャーから先に挨拶はしない。
 シャングリラじゃ、そういう決まりだったと思うがな…?
「そうだっけ…!」
 忘れちゃっていたよ、そんなこと。…今の今まで、ホントに全部。



 あったんだっけ、と蘇った記憶。遠く遥かな時の彼方で、確かにあった決まりごと。
 白い鯨が出来るよりも前、ソルジャーの肩書きがついた途端に、エラが勝手に決めてしまった。船の中でソルジャーに出会ったならば、必ず先に挨拶すること、と。
 ソルジャーが挨拶するよりも前に。敬意を表して、挨拶の言葉。
「お前、あの決まりに慣れなくて…」
 ソルジャーって呼び名の方もそうだが、いきなり特別扱いだしな?
 挨拶は必ず向こうから、って決められたって上手くいかないんだよなあ…。
「うん。ぼくの方が先に挨拶しちゃうんだよ」
 だって、それまで、そうだったから…。一番のチビで、子供だったんだから。中身だけはね。
 いくら大きくなっていたって、他のみんなの方が上だよ。ぼくが挨拶しなくっちゃ。
 そうしていたのに、エラが決まりを作っちゃって…。
 ぼくが挨拶しちゃった時には、エラが側にいたら直されるんだよ。「それでは駄目です」って。
 ソルジャーなんだから、相手に挨拶させるべきだ、って。
「そうだったんだよなあ、エラは礼儀作法ってヤツにうるさかったし」
 お前は本当に困っちまって、仲間たちも途惑っていたっけなあ…。調子が狂って。
 あの決まりが出来てしまうよりも前は、お前、みんなに挨拶してたし…。今のお前みたいに。
 もっとも、俺はそれほど困らなかったが。ああいう決まりを作られてもな。
「なんで?」
 ハーレイもエラに直されてたと思うんだけど…。「やり直して下さい」って、何回も。
「そいつは俺の言葉の方だ。敬語になっていなかったからな、最初の頃は」
 言葉遣いが間違っている、と直されただけで、挨拶の方は言われていないぞ。
 「よう!」とやったら失礼な言葉遣いってことで失敗するがだ、元から俺が挨拶してたろ。
 お前を見掛けたら、俺の方が先に。
「そういえば…。ハーレイ、気付くの、とっても早かったもんね」
 ぼくが通路を曲がった途端に、「よう!」って手を振ってくれたっけ。
 ぼくは大抵、振り返す方。…ハーレイが先に気付いちゃうから。



 前のハーレイはそうだった。シャングリラの中で出会った時には、距離があっても振ってくれた手。挨拶の声が届かないほどでも、「此処だ」と、「俺だ」と。
 いつも嬉しくて、精一杯に振り返した手。「ぼくだよ」と、「じきにそっちに行くよ」と。
 けれど、そのハーレイとさえ開いてゆく距離。ソルジャーという肩書きのせいで。
 自分からは先に出来ない挨拶。相手が挨拶してくるまでは。
 今日はハーレイを先に見付けた、と思った時にも手を振れはしない。ハーレイも前のように手を振ってはくれない。それはエラの言う「挨拶」の内には含まれないから。
 ソルジャーに挨拶するなら、会釈。親しみをこめて手を振ることは許されなかった。
 ずっと後になって、幼い子たちが船に来た時は、許されたけれど。子供たちはソルジャーに手を振りたがるから、幼い子供の特権で。
 その子供たちも、大きくなったら手は振らない。ソルジャーの方からも、もう手は振れない。
 幼い子供とは違うのだから、あちらが挨拶するのを待つ。
 挨拶されたら、ようやく自分も話すことが出来た。挨拶にしても、「元気にしているかい?」と大人の仲間入りを果たした気分を尋ねるにしても。



 厄介だったシャングリラの規則。ソルジャーが先に挨拶出来ない決まり。
「なんで、あんな決まりが出来ちゃったのかな…」
 挨拶なんか、どっちが先でもいいじゃない。そりゃあ、今でも、少しは決まりがあるけれど…。
 御主人よりも先に猫に挨拶するのは、失敗だけど。
「決まりの由来は俺も知らんが、エラだからなあ…」
 昔の王族の習慣あたりが出処になっているんじゃないか?
 挨拶ってヤツとは少し違うが、身分が下の人間からは話し掛けられないって決まりがな…。
 前の俺は全く知らなかったが、今の俺の薀蓄の一つってわけで、雑談のネタにすることもある。
 まずは言葉をかけて貰って、それからでないと話せない。そんなルールがあったんだそうだ。
 シャングリラでは、其処まで出来ないし…。
 ちょっと捻って、「挨拶してからでないと話せない」って風にしたかもしれんぞ。
 挨拶抜きでは喋れんからなあ、ソルジャーとはな?
 まず挨拶だと、それから喋れと、偉さを強調していたかもなあ…。
「なに、それ…。自分からは話し掛けられないって…」
 身分が下だと待ってるだけなの、偉い人の方が先に喋ってくれるのを…?
「そうだったらしい。実際、徹底していたようだぞ」
 この決まりのせいで、外交問題になりかかったという事件まであった。
 一言も言葉を貰えないから、と怒り出した人間が現れちまって。
「えーっ!?」
 外交問題って、お喋りのせいで?
 どうしたらそういうことになっちゃうの、いったい何が問題だったの…?



 失言だったら外交問題になっても当然だけれど、喋らないことが何故問題になるのだろう?
 沈黙は金と言うほどなのだし、黙っておけば良さそうな感じ。そう思ったのに…。
「ところが、そいつが違うんだ。…この場合はな」
 フランスって国があったことなら知ってるだろ?
 其処に別の国からお輿入れしたお姫様。そのお姫様が問題だった。
 王様の孫のお嫁さんになったわけだが、王様のお妃はもういなくって…。その子供たちも、もういなかった。孫が皇太子で、そのお妃の身分が一番高いってな。女性の中では。
 しかし王様には、大事な女性がいたわけで…。我儘は何でも聞いてやりたいってトコだ。
 お姫様が来るまでは、それで良かった。だが、お姫様が来たら、女性の身分は下になってだ…。元の身分も低かったからと、お姫様は口も利かないってな。
「…それじゃ、外交問題って…」
 お姫様の国とフランスとの間の問題?
 その女の人が怒っちゃって…?
「分かってるじゃないか。なにしろ、面子が丸潰れだしな」
 まるで王妃様のように振舞ってたのに、お姫様のお蔭で台無しだ。身分は下だ、と馬鹿にされているわけなんだから。
 王様も怒るし、それは大変で…。結局、お姫様の方が折れたんだ。
 たった一言、挨拶すれば丸く収まるというわけでな。
 もっとも、その挨拶が実現するまでが、山あり谷ありと言うべきか…。色々な人間が間に入って邪魔をするから、そう簡単にはいかなかったらしい。
 挨拶一つでその有様だぞ、国と国とが喧嘩を始めてしまいそうなほどに。



 とんでもない決まりがあったもんだ、とハーレイが軽く広げてみせた手。「実話だしな?」と。
「それだけ大騒ぎをやらかした末に、お姫様はなんて言ったと思う?」
 今まですみませんでした、と謝ったんなら、俺たちにだって理解できるが…。
 そうじゃないんだ、「今日は大勢の人で賑やかですね」と言ったらしいぞ。詫びの言葉は欠片も無しで。だが、それだけで済んじまった。ちゃんと言葉は掛けたんだから。
「…ごめんなさい、って言うんじゃないんだ…」
 外交問題になっていたって、たったそれだけ…?
「うむ。お姫様から言葉を貰えばいいわけだからな。中身はどうでもいいってことだ」
 怒っていた女性は大満足だし、王様も大いに満足したって話だぞ。
 決まりはきちんと守られたわけで、お姫様は女性を丁重に扱ったということになって。
「その話、エラが好きそうだね…」
 ソルジャーが「どうぞ」って言わない間は、誰も話し掛けちゃ駄目だとか…。
 どんなに話をしてみたくっても、門前払いになっちゃうだとか。
「そうだろう? 俺もそういう気がしてな…」
 俺は「挨拶はソルジャーよりも先に」ってヤツの、由来を全く覚えちゃいないが…。
 前の俺が知っていたのかどうかも謎だが、この辺りが元になったんじゃないか?
 シャングリラって船の事情に合わせて、アレンジして。
 とにかくソルジャーを偉く見せようと、「挨拶はソルジャーよりも先に」と徹底させて。



 エラはソルジャーの威厳にこだわってたしな、と苦笑いを浮かべているハーレイ。
 「お前には気の毒な決まりだったが、フランスよりかはマシだろうが」と。
「本当にあれが元だったのかは分からんが…。そのまま使われていたら大変だぞ?」
 ただでもお前は、みんなと喋りたかったのに…。気軽に話し掛けて欲しかったのに。
 お前の方から「話していいよ」と言わない限りは、誰も喋ってくれないんじゃなあ…?
 その点、挨拶するだけだったら、そいつが済んだら喋れるんだし…。
 挨拶は向こうが先にするっていう決まりだったし、お前は話し掛けては貰えたわけだ。やたらと丁寧な敬語だろうが、何だろうが。
「あの挨拶…。ぼくに会ったら、挨拶は相手の方から、ってヤツ…」
 緊急事態は除外します、ってエラは決めちゃってたけれど…。
 当たり前だよね、そうしておくこと。
 シャングリラがどうなるか分からない時に、挨拶なんかを待っていられないよ。
 誰でもいいから声を掛けるし、「手伝って」って頼みもするんだから。
「そんな時まで、いちいち挨拶しないよなあ?」
 俺の敬語も、最初の頃なら吹っ飛びそうだぞ。
 アルテメシアから逃げ出そうって時には、とっくに癖になっていたからヘマはしなかったが…。
 お前が「ワープしよう」と言い出した時も、ちゃんと敬語で応じてたがな。
 …待てよ、あの時、お前に挨拶してないか…。
 お前から思念が飛んで来たから、誰も挨拶しなかったっけな、画面に映し出されたお前に。
 緊急事態ってヤツだからなあ、エラも忘れていたんだろうが…。
 いくらエラでも、挨拶がどうのと言っていられる状況なんかじゃなかったんだし。



 まったくもって妙な習慣だった、とハーレイが苦笑している挨拶。ソルジャーに会ったら、先に挨拶するという決まり。
「そうは言っても、お前も自然と慣れてったわけで…」
 挨拶は向こうがしてからだ、って堂々と振舞うようになっていたのに、今じゃコロリと変わっているよな。昔のお前と全く同じに、自分の方から挨拶と来た。
 そっちの方に慣れ過ぎちまって、猫に挨拶しちまうくらいに。
「忘れちゃっていたよ、そんなことは」
 誰かに会ったら、挨拶するのを待ってたなんて。…ぼくの方からは挨拶しないで、偉そうに。
 最初の間は寂しかったけど、慣れてしまったら、そういうものだと思うから…。
 船のみんなも慣れてしまって、自然とそうなっていっちゃったから。…子供たちもね。
 小さい間はぼくの方から挨拶したけど、大きくなったら向こうが先。手だって、ぼくには振ってくれなくなってしまって。
 でも、ナキネズミには、ぼくから挨拶していたから…。船の中でバッタリ会った時には。
「そうだったのか?」
 ナキネズミはお前よりも偉かったわけか、ソルジャーの方が先に挨拶するんだから。
 船のヤツらは、みんな揃ってソルジャーに挨拶していたのに。
「ナキネズミにまでは、エラも礼儀作法を叩き込んではいなかったしね」
 青の間にだって出入り自由だったし、ナキネズミは例外。ぼくと普通に喋っていても。
 ナキネズミが敬語で話すのは聞いたことが無いと思うよ、多分、一度も。
 ふざけて使ったかもしれないけれども、本当の意味での敬語なんかは。
 …そのせいで猫に挨拶しちゃったのかな?
 ぼくから挨拶したっていいんだ、って喜んじゃって、御主人に気が付かないままで。
 猫もナキネズミも動物だもの。
「それはないだろ、今のお前は挨拶好きだし」
 学校で俺を見掛けた時にも、「ハーレイ先生、こんにちは!」だしな。
 今日のがただの失敗ってだけだ、御主人よりも先に猫だったのは。



 ナキネズミのせいにするんじゃないぞ、と額をピンと指で弾かれた。それはお前の失敗だ、と。
「気にしなくてもいいとは思うがな…。実に可愛い失敗じゃないか」
 猫に夢中で、周りが見えていなかったなんて。前のお前なら有り得ないミスだ。
 いくらナキネズミと遊んでいたって、誰か来たなら切り替えたろうが。ソルジャーの貌に。
 ナキネズミに挨拶するにしたって、周りに誰かがいるかどうかは見ていただろう?
「そうだね、サイオンで軽く探ってからだね」
 エラじゃないけど、ソルジャーらしくしていないと駄目だ、っていうのは分かってたから…。
 誰かいるのに気付かないままで、ナキネズミに挨拶はしなかったよ。
 でも、挨拶って大切だよね。礼儀作法は抜きにしたって。
 きちんとするのが大切なことで、ぼく、頑張っていたんだけどな…。今日のは失敗…。
「気にするなって言ってるじゃないか。その御主人もそう言ったんだろう?」
 猫の方が先でかまわない、って。
 それに、その御主人でなくてもだ…。挨拶はお互い、気持ち良く過ごしていくためだろう?
 「こんにちは」と言って、「こんにちは」と返して、笑顔の交換。
 しかし、そいつが出来ない時だってあるんだから。色々な事情というヤツで。
「色々って…。ハーレイはジョギング中でも挨拶するでしょ?」
 それも全然知らない人に。…手を振ってくれた子供には、ちゃんと手を振って。
「そりゃまあ…なあ? 俺を応援してくれるわけだし…」
 振り返すのが礼儀ってモンだろ、そういう時は。
 知り合いに会ったら「こんにちは」と声も掛けて行くがだ、そいつは俺だから出来るんだ。
 同じジョギングでも、お前だったらどうなるんだ?
 お前はジョギングなんかはしないが、体育の授業で走っている時を想像してみろ。学校の外まで走りに行くヤツ、あるだろう?
「ぼくは行かないよ、学校に残って自習してるよ」
「なるほどな…。アレで学校の外に行ったら、手を振ってくれたり、声が掛かるぞ」
 頑張って、と大人からだって。お前、走りながら、声を返したり出来るのか?
「ううん、出来ない…」
「ほら見ろ、時と場合によるんだ」
 挨拶ってヤツも。事情は本当に人それぞれだし、気にしなくてもいいんだ、うん。



 具合が悪けりゃ出来ないしな、とハーレイがパチンと瞑った片目。
 その時々ですればいいのさ、と。挨拶出来る気分の時には、猫が先でも挨拶すれば、と。
「無理して挨拶されてもなあ…。相手だって困っちまうだろうが」
 とても具合の悪そうな人に、「こんにちは」と掠れた声で言われたら。
 「こんにちは」と返すよりも前に、心配になって「大丈夫ですか?」と駆け寄っちまうぞ。
 そういう挨拶は嬉しくないよな、そのくらいなら「すみません」と助けを求められた方が…。
 人間、素直にならんといかん。挨拶は特に、気持ち良く、だな。
「…じゃあ、山は?」
 山だと挨拶はどうなっちゃうの、凄く難しそうだけど…。
「はあ? …山だって?」
 何なんだ、山で挨拶っていうのは何処から出て来た?
 お前、学校の外にも走りに行かないってのに、山登りに行きたくなったのか?
 数えるほどしか行ってないんだろ、山なんか…?
「そうなんだけど…。今日の新聞に載ってたんだよ、山登りの記事が」
 面白いね、って読んでいったら、挨拶のことが書かれてて…。
 山登りの時に誰かと擦れ違ったら、必ず挨拶するのがマナー。疲れていても、って…。
 だから、とっても難しそうだよ、山で挨拶しようとしたら。
 どんなに息が切れていたって、「こんにちは」って言うか、会釈をしないと駄目だし…。
「なんだ、そういう挨拶のことか」
 そいつはいわゆる理想ってヤツだ。山に登るならこうあるべき、とな。
 実際に登ってみれば分かるが、「こんにちは」って元気に言える間しか歩いちゃ駄目だ。本当に山を楽しみたいなら。
 体力に余裕を残しておくのが大事で、決して無理をしちゃいけない。山は普通の道とは違うし、疲れてもバスに乗るってわけにはいかないだろうが。
 麓に下りるとか、山小屋に入るとか、ゴールに辿り着けないと駄目だ。自分の力で。
 挨拶も出来ないほど疲れちまったら、色々とミスが増えてくる。道に迷ったり、足を挫いたり、ロクなことにはならないってな。



 そうならないための心得事だ、と教えて貰った。体力に充分余裕があったら、出来る挨拶。
 山登りは山の気分に左右されるから、余計に必要になる余裕。身体も、心も、と。
「天気が変わりやすいんだ。今の季節だと、高い山なら、いきなり雪になるとかな」
 疲れ切ってしまっていたなら、どうすればいいか分からなくなる。そいつはマズイ。充分余裕を持っていたなら、冷静に判断出来るんだがな。
 ついでに、山での挨拶ってヤツは、相手の様子に気を付けるっていう意味もあるから。
「様子って…?」
「疲れていそうか、まだまだ元気に行けそうなのか。…そんなトコだな」
 助けが要るってこともあるだろ、これから先の道の様子を聞きたいだとか。
 擦れ違うんだから、自分がさっき歩いて来た道に行く人なんだ。実際に歩いた人の話は大切だ。
 お互い黙って擦れ違ったら、呼び止めて訊くのも悪いって気持ちがしちまうが…。
 「こんにちは」と挨拶したなら、「この先の道はどうですか?」と訊きやすいだろうが。
 そういう風に訊かれなくても、無理をしていそうな様子だったら止めないと…。
 次の山小屋までは遠いから、此処から戻った方がいいとか。
 戻るんだったら、荷物を少し持ちましょうかとか、助け合いの心が大切なんだな、山ではな。



 必要があっての挨拶だから、山の挨拶は気にするな、と笑ったハーレイ。
「お前の思っている挨拶ってヤツとは少し違うな、山でやってる挨拶は」
 だから心配しなくていい。山と同じに考えなくても、普通の挨拶には別のルールがあるから。
 挨拶出来る気分の時には、元気に挨拶すればいいんだ。
 お前はとてもよくやっているぞ、学校じゃ、きちんと出来ているしな。どの先生にも挨拶して。
 猫に挨拶しちまったのもだ、挨拶するって習慣があるお蔭だろうが。
 挨拶しようと思ってなければ、猫にまで挨拶しないんだから。
「そっか、良かった…」
 失敗しちゃった、って思ってたけど…。ママが言う通りに平気なんだね。
 ママも猫とか犬に挨拶しちゃう、って…。お留守だと思って、庭を覗いてみた時とかに。
「ほらな、お前のお母さんでもそうなんだ」
 人間、誰だって失敗はある。前のお前も失敗してたろ、挨拶の決まり。
 ソルジャーは後から挨拶なんです、ってエラが決めても、最初の頃には何回も。
 お前、挨拶、好きだったから…。前の俺にも、遠くから手を振り返してたし。
 俺の方が先に見付けていなけりゃ、お前、絶対、手を振りながら走って来ただろうしな。
 ソルジャーになる前の頃だったなら。
「そうだと思う…」
 きっと嬉しくて、手を振りながら走るんだよ。「ハーレイ!」って名前を呼びながら。
 こんにちは、って挨拶するんじゃなくって、「何処へ行くの?」って訊いていそうだけれど。
「何処へ行くの、って訊くのも立派な挨拶だぞ?」
 よく聞くだろうが、「お出掛けですか?」っていうヤツを。あれも挨拶の内なんだから。
 お前ってヤツは、今も昔も挨拶が好きなままなんだな。…ソルジャーだった頃も、ナキネズミに挨拶していたくらいに挨拶好き、と。
 その精神を持っていたなら、チビでも挨拶の達人ってことだ。
 挨拶は大切なコミュニケーションで、そいつが好きでたまらないんだから。



 だが見たかった気もするな、とハーレイが可笑しそうにしている、猫への挨拶。
 今日の自分が大失敗した、御主人よりも先に猫にしていた挨拶。
「お前、さぞかし真っ赤だったんだろうな、御主人に声を掛けられた時は」
 俺にまで挨拶の話をするほど、恥ずかしい気持ちになったようだが…。
 見ていて気持ちが良かったからこそ、御主人は声を掛けたんだぞ?
 黙っていたなら、お前、そのまま気付かないで帰ってしまうんだろうし。
「そうかもだけど…。でも、やっぱり…」
 恥ずかしいってば、人間よりも先に猫に挨拶しちゃうのは!
 ぼくは挨拶に気を付けてる分、ホントのホントに恥ずかしいんだよ…!
 失敗なんて、と頬っぺたがまた赤くなるから、やっぱり次から気を付けよう。
 ハーレイは「大丈夫だ」と言ってくれたけれど、行儀のいい子でいたいから。
 失敗しないで挨拶が出来る、しっかりした子になりたいと思う。
(だって、いつかはハーレイのお父さんたちに…)
 挨拶をする時が来るから、「こんにちは」と。「はじめまして」と。
 隣町の、庭に夏ミカンの大きな木がある家に出掛けて、挨拶をする日。
 その時は失敗したりしないで、きちんと挨拶したいから。
 「まだまだ子供だ」と思われないように、結婚出来る年に相応しいように。
 だから、挨拶を頑張ろう。失敗したって、真っ赤な顔にならずに落ち着いていられるように…。




             大切な挨拶・了


※シャングリラにあった、前のブルーには厄介だった決まり事。先には出来なかった挨拶。
 エラがそう決めた根拠は謎ですけれど、ソルジャーから挨拶出来た相手は、ナキネズミだけ。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv












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