シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
5月2日は朝から青空の広がるいい天気でした。会長さんのマンション前に集合した私たちを迎えに来てくれたのはシド先生。マイクロバスで専用の空港に行き、シャトルに乗ってシャングリラ号へ。雲ひとつない空に浮かぶ巨大な船が普通の人には見えない上に人工衛星からも探せないだなんて、何度聞いてもビックリです。
「さあ、着いたぞ」
シャトルが格納庫に入るとシド先生がやって来ました。シド先生の肩書きはシャングリラ号の主任操舵士だと耳にしています。前にシャングリラ号に乗った時には姿を見かけなかったんですけど、今回はシド先生も乗り込むのだとか。シャトルの飛行中は操縦室の方に行っていたのでした。
「えっと、君たちの部屋割は…ブルー、いや…ソルジャーが決めているんだが」
「ブルーでいいよ、この子たちの前ではさ。ついておいで、案内するから」
会長さんは先頭に立ってタラップを降り、格納庫を出て居住区へ。進路相談会の時は相部屋でしたが、今回は一人一部屋でした。会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」は青の間です。とりあえず部屋に荷物を置いて会長さんと一緒にリニアに乗って…通路を歩いてブリッジに行くと出航準備の真っ最中。シド先生が舵を握り、船長服の教頭先生や見慣れないマントつきの服のブラウ先生やゼル先生が…。
「やあ。来たよ、ハーレイ」
いつの間にかソルジャーの衣装を身に着けていた会長さんが教頭先生に微笑みかけます。
「いつもお仕事ご苦労様。君の几帳面さには頭が下がるよ、予定を早めてまで船のチェックに励むなんてさ」
「…い、いや……」
「ぼくが来ると仕事にならないんだって? マザー農場でも噂になってた」
「そ、そんなことは…」
教頭先生は頬を赤らめましたが、会長さんは見なかったふり。
「仕事熱心なキャプテンがいると心強いね。お蔭でぼくものんびりできるし…。それじゃ行こうか。…ハーレイ」
「分かった。…シャングリラ、発進!」
何処へ、とも聞かない内にシャングリラ号は上昇してゆき、大気圏を出て地球がみるみる遠くなります。続いてワープ。緑色に発光する時空間を超えて二十光年離れた宇宙へ。この辺りがシャングリラ号の定位置なのだ、と会長さんが教えてくれました。
「特に意味はないんだけどね、あえて言うなら景色かな。展望室から眺めた時に絵になるんだ。恒星の散らばり具合が星座みたいに見えるんだよ。どうせならお馴染みの夜空に似ている場所がいいだろう?」
連れて行って貰った展望室。ここは前にも来ていますけど、星座には気付きませんでした。会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」が星を指差して繋いでいきます。
「あっちに見えるのがオリオン座。そのすぐ隣に北斗七星」
「七夕様もあるんだよ! ほら、こっちの星と向こうのヤツで」
なるほど、天の川っぽい星雲なんかもありました。季節感はメチャクチャながらもアルテメシアの夜空によく似ています。天の川は市街地からでは灯りが多くて見えないのですが。
「ね、こういう理由でここが定位置。さてと、この次は何処へ行きたい? 君たちのリクエストで乗った船だよ」
「「「………」」」
シャングリラ号の全体図は頭に入ってますけど、咄嗟には思い付きませんでした。私たちは乗ってみたかっただけで、見学希望ではないのです。宇宙に出られればそれで十分。みんなで顔を見合わせていると…。
「特に無いなら機関部の方へ行ってみようか。ゼルがいるから楽しいよ」
さっさと歩き出す会長さん。ゼル先生といえば昔『パルテノンの夜の帝王』と呼ばれ、今はバイク乗りとして『過激なる爆撃手』の名を持つそうですが…どういう意味で楽しいのでしょう? まあ、ブリッジで教頭先生にちょっかいを出されるよりはマシであろう、と思っておくのが無難でしょうね。
進路相談会で乗り込んだ時には入れなかった機関部の奥。ゼル先生の聖域だという区域へ会長さんは遠慮なくズカズカ踏み込みました。遥か手前に『関係者以外立ち入り禁止』の表示が出ていて、会長さんの前の扉には『立ち入り禁止区域』と警告文が書かれていますが…。
「問題ないよ、入ったら被曝するとかそんな危険はないからさ。ここは機関部の連中の溜まり場なんだ」
会長さんがパネルを操作し、扉が開くと…確かに中はごくごく普通の部屋でした。ちょっとした料理が作れそうなキッチンに居心地の良さそうなソファやテーブル、仮眠用らしきベッドまで。要するに居住空間なのです。キッチンでは今まさにゼル先生が料理の真っ最中で…。
「なんじゃ、ブルー! わしは忙しいんじゃぞ、分かるじゃろうが!」
「うん、分かる。クレープは火加減が命だからね」
「なら黙っとれ!!!」
忙しいんじゃ、とゼル先生はフライパンを4つも並べて一度にクレープを焼いています。学食の隠しメニューで『ゼル特製』と銘打ったカヌレと胡桃のタルトを食べたことがありましたけど、フライパン4つでクレープ作りとは『幻の料理長』と渾名がつくのも当然かと。う~ん、何枚焼くんでしょうか? お皿には既に沢山載っているのに…。
「…さてと。次は冷蔵庫で冷ましてからじゃな」
その前にまずは粗熱を取って、と焼き上げた大量のクレープを団扇で扇ぎ始めたゼル先生。
「で、何の用じゃ? ミルクレープなら食わせてやれんぞ、これは機関部のヤツらのおやつじゃからな」
「別におやつを強請りに来たわけじゃ…。ぶるぅの方が腕は上だし」
「ふんっ! 分かっとるわい、わざわざ嫌味を言いに来たのか?」
ムッとした顔のゼル先生を会長さんは片手で軽く制して。
「違うよ、船霊様の話を聞きに」
「「「フナダマサマ!?」」」
聞き覚えがある言葉に私たちが声を上げると、会長さんが。
「そう、船霊様。…マザー農場でテラズ様の話が出たから思い出したんだ。あそこにテラズ様があったのと同じでシャングリラ号にも船霊様があるかと思ってハーレイに調査をさせたんだけど…。どうなんだい、ゼル」
「………。何を祀ろうとわしの勝手じゃ」
「機関部はゼルの管轄だからね。…でもさ、ハーレイの報告が本当だったら見たいじゃないか、船霊様。センスの悪いお札の代わりに祀ったんだろ? このシャングリラ号のお守りとして」
「……ううむ……」
ゼル先生はクレープの山にラップをかけて冷蔵庫に入れ、椅子に座って腕組みをします。船霊様とは何のことなのか、私たちも思い出しました。新しく船を建造した時、航海の安全を祈って祀る人形やお札。テラズ様はマザー農場の宿泊棟の棟上げで祀られた人形でしたが、このシャングリラ号にも怪しいモノが…?
「…テラズ様の話は聞いておる。わしは自分のファン魂を押し付けたりはしとらんぞ」
「テラズ様は別格だよ。あそこまで行ったらいっそ見事だ。芸術と呼んでもいいかもしれない。でもシャングリラ号の船霊様は芸術品じゃないだろう?」
「御神体じゃ!」
「そうだろうけどモノを確認しておきたい。…そしたら黙って引き下がるからさ」
案内して、と会長さんはゼル先生を促します。ゼル先生が渋っていると紫のマントを翻して…。
「ダメならいいよ、ソルジャーとしての権限でやる。今、乗り組んでいる全員を集めて船霊様の見学会を盛大に開催するまでだ。…ううん、見学会じゃちょっと聞こえが悪いかな。参拝の会ということで集めよう。二礼二拍手、一礼が基本でいいのかい、ゼル?」
「な、な……なんという…。いかん、それだけはいかん! ご、御利益が…せっかくの御利益が…!」
「…御利益だって? 御神体によっては見せたらダメってこともあるけど、君が祀った…」
「わ、分かった、わしが悪かった! 案内するからしゃべらんでくれ」
この奥じゃ、とゼル先生は部屋の隅にある小さな扉を示しました。
「非常用の通路でな…。緊急時にはここからメインエンジンに駆け付けられる。機関部所属の者しか通らん場所じゃし、船霊様にはちょうどいいかと」
扉を開けて会長さんを手招きしているゼル先生。私たちは当然のように留守番だろうと思ったのですが…。
「何してるのさ、みんなおいでよ。ぶるぅも本物を見たいよね?」
「かみお~ん♪」
大喜びですっ飛んで行く「そるじゃぁ・ぶるぅ」。ゼル先生の横をすり抜け、通路の奥へと走って行きます。きっと教頭先生の報告を知っていたのでしょう。でも私たちは? まるで無関係の私たちは…?
「いいから、いいから。…ソルジャー・ブルーのお友達だよ? 大抵の無理は通るものさ。そうだよね、ゼル?」
「…うう……」
ゼル先生は諦めたらしく、渋々ながらも頷きました。私たちは会長さんとゼル先生の後に続いて扉の向こうへ。先に入った「そるじゃぁ・ぶるぅ」の小さな姿がかなり遠くに…。機関部って本当に広いんですねえ。
シャングリラ号の心臓とも言える機関部の通路を歩いて行くと「そるじゃぁ・ぶるぅ」が立ち止まっていました。
「ねえねえ、あれがそうだよね?」
見上げる先には周囲に全く溶け込んでいない木製の祠。建造当時から百年以上も経っているので黒っぽくなり古びてもいますが、シャングリラ号には不似合いです。全面ガラスの高層ビルの壁面に神棚が据えられていたらこうであろう、といった感じの違和感が…。ゼル先生は祠に深く頭を下げるとパンパンと柏手を打ちました。
「…本当に開けんといかんのか? わしは…どうも気が進まんが…」
「平気、平気。ぼくは修行を積んでるからね、神様への礼も弁えてるさ。でも開けるのはゼルに任せるよ。あ、その前に…一応、これ」
ありあわせだけど、と会長さんが宙に取り出したのは艶やかな緑の枝でした。それを「そるじゃぁ・ぶるぅ」に持たせて、今度は真っ白な和紙と鋏を出すとチョキチョキと…。
「玉串か…」
キース君が会長さんの手元を覗き込み、私たちに解説してくれます。玉串というのは神様にお参りする時の必須アイテムの一つだそうで、榊の枝と紙で作るのだとか。会長さんは切り目を入れた和紙を手際よく折って御幣を作り、さっきの枝に取り付けて…。
「これでよし」
何か作法があるのでしょうか、玉串を恭しく拝んでクルリと時計回りに廻すと祠の下のスペースに置いて柏手に礼。もう一つ同じ玉串を作り、ゼル先生に手渡して…ゼル先生が同じく礼。
「さあ、きちんと礼は尽くしたよ? 開けてもらおうか」
「…………」
ゼル先生が祠の扉をキイッと開いた次の瞬間、固唾を飲んで見守っていた私たちの目は点でした。入っていたのはお札ではなく、もちろんテラズ様でもなくて…真っ黒な色の招き猫。左の前足を上げ、右前足に持った小判に『千客万来』と書かれています。シャングリラ号って…船霊様が招き猫って、この船は客商売の船でしたか…?
「…その…。そのぅ、なんというのか…」
モゴモゴと言い訳を始めるゼル先生。
「若い者は知らんじゃろうが、黒い猫は福猫なんじゃ。魔除けと幸運の象徴じゃな。じゃから、黒い招き猫には魔除け厄除けの意味があってのう…。ついでに言うと左足で招いとる猫は金と違って人を呼ぶ。わしらの仲間が増えることを祈って特注したんじゃ」
「…特注品ねえ…」
呆れた声の会長さん。ゼル先生は肩身が狭そうに真っ白な髭を引っ張りながら。
「本当じゃぞ! これは名工が作った猫じゃ。船霊様と言えば女性と決まっておるから、ちゃんと雌猫になっておる。中に立派な鏡も納めて御神体としてお祀りして…」
「…どうして犬じゃ駄目だったのさ?」
ゼルは犬派だろ、と会長さんが突っ込みます。そういえば会長さんのサイオン中継で見せて貰ったゼル先生の家の庭には大きな犬が二頭も飼われていましたっけ。
「それとこれとは話が別じゃ! 招き猫は縁起物なんじゃ。犬の像では話にならん。…とにかく、船霊様をお祀りしてから百年以上も経っておるのにシャングリラ号は無事故なんじゃし、わしは断じて譲らんぞ!」
撤去反対、と座り込みを始めんばかりのゼル先生。会長さんは苦笑しながら祠の扉をキィッと閉めて…。
「百年も経てば御利益の方も本物だろうさ。テラズ様の例もあるしね、あっちは付喪神になっちゃったけど…。ゼルが責任を持ってお世話するなら招き猫でもぼくは構わない。ただ、センスがいいかと聞かれれば…お札の方がマシだと言わせてもらおうかな」
「じゃが、わしが撤去したお札は交通安全のお札じゃぞ! この船しか飛んでおらんというのに交通安全もクソもあるまい! 魔除け厄除け、これが一番じゃ!」
ゼル先生はパンパンと柏手を打ち、祠に向かって深く頭を下げました。
「こら、お前たちもお参りせんかい! シャングリラ号に乗ったからにはお世話になっておるのじゃからな」
「「「はーい…」」」
何が悲しくて招き猫に…という思いを殺して私たちは会長さんに言われるままに二礼二拍手一礼です。この調子ではゼル先生の家の床の間には金運の招き猫が飾ってあるに違いない、という気がしました。シャングリラ号に招き猫。…余計なことを知っちゃったかも…。
通路を引き返して部屋に戻るとゼル先生は生クリームを泡立て、冷蔵庫からクレープを出してジャムとクリームを塗っては重ねていきます。私たちには食べさせないと言われているのに、会長さんは何故居座っているのでしょう? 第一、もうすぐお昼御飯の時間じゃないかと思うんですけど…。
「ねえ、ゼル」
黙々と作業しているゼル先生に会長さんが声をかけました。
「この子たちは船霊様を見ちゃったんだ。…まさか正体が招き猫とは知らないクルーも多いだろう? 機関部の連中には常識だろうし、口止めもしているんだろうけど……この子たちは? ぼくはソルジャーとして情けないからしゃべらないけど、ジョミーやキースはどうだろうねえ」
「…なんじゃと?」
ゼル先生が振り返ります。
「しゃべらないって保証は無いね、と言ったんだよ。ぶるぅがしゃべっても子供だから信じる者は少ない。でも、この子たちは子供といえども大きめだしさ。…特別生として仲間と触れ合う機会もあるし、口止めした方がいいんじゃないかと」
「…クレープか? やむを得ん、少し待っておれ。機関部のヤツらには別のおやつを作るとしよう」
「ううん、そうじゃなくて。…別の好奇心を満たしてあげれば船霊様のことは忘れるよ、きっと」
「好奇心?」
怪訝そうなゼル先生。私たちも同様でした。あの招き猫を帳消しにするほど気になる何かってありましたっけ? シャングリラ号に来られただけで満足なのに、興味をそそられる対象なんかは全く思い付きません。みんなで首を傾げていると、会長さんがクスッと小さく笑いました。
「ふふ、君たちが知りたいものは自分でもきっと分かってないさ。でもこう言えば分かるかい? …長老だけが持っているもの。ぼくの手作りで限定品。だけどハーレイは持ってない」
「「「…???」」」
ますます意味が分かりません。長老の先生方は謎が多くて全貌が掴めていないのです。ゼル先生が着ているマントつきの衣装が長老のシャングリラ号での制服らしいのは分かりますけど、同じ長老でも教頭先生は船長だからか全くデザインが違ってますし…。ん? 長老だけの限定品で教頭先生は持ってないって……この衣装?
「あ、違う、違う。…なんでそっちの方に行くかな…」
誰もが同じことを考えたらしく、会長さんは衣装ではないと否定しました。
「ぼくも裁縫は出来るけどさ…。ソルジャーが部下の衣装を縫うのかい? デザインっていうなら分かるけどね。…まあ、たまに似たようなことをするから間違うのかな? ハーレイの人魚の尻尾とか」
「「「人魚の尻尾!?」」」
ショッキングピンクの人魚の尻尾。教頭先生が会長さんに着けさせられて写真を撮られた悪趣味な尻尾は会長さんの発案です。特注品だと聞いてましたが、この言い方ではデザインしたのは間違いなく会長さんでしょう。乙女ちっくなヒラヒラ尾びれも、ショッキングピンクという似合わない色も。
「…人魚の尻尾で思い出すことはないのかい? 君たちも撮影会に頑張って協力しただろう。その成果を全部は見ていない…と思うんだけどね、ぼくとしては」
「…成果…?」
鸚鵡返しに言うジョミー君。私も首を捻りました。撮影会で撮った写真はジルナイトとやらで出来た人魚像になり、花祭りで悪戯に使われています。ドクター・ノルディが絡んだ事件もありましたけど、他にも何かあるのでしょうか? 会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」は瞬間移動で神出鬼没、どんなことでも出来そうですが…。
「そうか、やっぱり忘れちゃったか」
クスクスクス…と笑いを零し、会長さんはゼル先生に向き直りました。
「ゼル、船霊様を口止めするなら最適のヤツがあるみたいだよ。…持って来てるだろう、人魚姫の本。あれを回覧させればいいのさ」
「「「人魚姫!?」」」
ここに至って私たちはようやく思い出したのでした。花祭りの時に会長さんが長老の先生方に手渡していた包みの中身。特製の人魚姫絵本と聞かされたアレを、ゼル先生がここに持って来ていると…? でも写真集なら会長さんの家で見ましたけれど…まだ何か?
「…わしは根に持つタイプなんじゃ」
ミルクレープを完成させたゼル先生はラップをかけて冷蔵庫に入れ、私たちにはマフィンを配ってくれました。昨日の内に作っておいて持ち込んだものらしいです。
「アルトとrの進路相談会で受けた侮辱は忘れておらん。パルテノンの夜の帝王と呼ばれたわしが……いや、今の言葉は忘れてくれ。とにかく若い頃にはモテたわしがじゃ、まるで注目されんとは…。ブルーがモテるのは当然じゃから許せるんじゃが、ハーレイが注目を浴びたというのが納得できん」
寂しい独身男のくせに、とゼル先生は毒づいています。
「エラとブラウはアルトたちの年頃にはよくある気の迷いじゃと言うんじゃがな…。それにしてもじゃ、ハーレイのヤツめ、わざわざ写真まで渡しおって! 裏側に携帯の番号を書いとったんではないじゃろうな」
「それはないよ。…ハーレイに浮気の度胸は無いし、元々ぼくしか見えていないし」
ぼく一筋の大馬鹿だから、と会長さんが嘲笑するとゼル先生は「違いない」と頷いて。
「まあ、モテるつもりは無かったのかもしれんがのう…。モテ期じゃったのは間違いないんじゃ。それが許せん。あれがきっかけで女性クルーがファンクラブを作ったという噂も聞いた。…自然解散したらしいがのう」
「そりゃそうだよ。元々ぼくのファンクラブのメンバーだったのが流れただけだし、時間が経ったら正気に返るのは常識だろ?」
自信満々の会長さん。…自分も直後は自信喪失していたくせに、今はすっかり元通りです。アルトちゃんたちの寮にも忍んで行っているのでしょう。ゼル先生はそこまで回復していない様子。
「…わしのファンクラブは消滅してから長いからのう…。もっと髪の毛に気を付けておくべきじゃった。精力だけではどうにもこうにも…。いや! いやいやいや、わしは何にも言ってはおらんぞ」
咳払いをして誤魔化してますが、ゼル先生は今もパルテノン辺りで活躍なさってらっしゃるに違いありません。わざとらしい咳をしながらゼル先生が部屋の奥から取ってきたのは紙袋。
「…人魚姫じゃ」
ほれ、とゼル先生は紙袋から淡いピンクの表紙の本を出しました。大きさと厚さは子供向けの絵本にピッタリですけど、この本が…会長さん特製の人魚姫絵本…? 見せてもらった写真集とは別物です。
「わしがこれをシャングリラ号に持ってきたのはな…。ハーレイの目につかん所でコッソリ回して恥をかかせてやるためなんじゃ! まずは機関部の連中からじゃと思っておったが、その前に披露するのも良かろう。いいな、これを見せてやるから船霊様のことは口外無用じゃ」
「「「………」」」
それは甘美な誘惑でした。シャングリラ号の船霊様が黒い招き猫だと知ってしまったことを黙っておくのは簡単です。話したいとも思いませんし、話したかったら私たち七人グループと会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」の内輪で済ませばいいだけのこと。口止め料なんか要らないのですが、でも…絵本はちょっと見たいかも…。見たら後悔するかもですけど、好奇心をくすぐられるのは確かです。
「こんなチャンスは二度とはないよ」
会長さんが囁きました。
「この本は本当に限定品で逸品なんだ。ぼくもぶるぅも持ってない。時間が無かったからではなくて、気持ち悪いモノを家に置きたくなかったからね。ブラウとエラとヒルマンも同じ本を持ってはいるけど、特別生に見せてくれるかどうか…。次のチャンスがあったとしても五十年くらい先じゃないかな」
五十年!!! 今、目の前に出された絵本に次に会えるのは五十年先。もしかしたらそれまでに処分されちゃって見られないかもしれません。私たちはゴクリと生唾を飲み、ゼル先生はそれを見逃したりはしませんでした。
褐色の肌とショッキングピンクの尻尾を持った人魚姫のロマンティックな恋と冒険のドキドキ絵本。正確には背景などを合成して作られた写真に文章が添えられた代物でしたが、爆笑した挙句に涙が出るほど笑い転げて転がって…。会長さんのセンスに感嘆しながら私たちはゼル先生に何度もお礼を言いました。
「いやいや、わしもスカッとしたわい! これに比べたら招き猫なぞ屁でもなかろう?」
「そうですね…。こんな絵本になっていたなんて夢にも思いませんでした」
シロエ君がゼル先生とガッチリと握手しています。いつぞやの爆弾解体以来、シロエ君はゼル先生に可愛がられているのでした。私たちは船霊様を目撃したことを誰にも話さないと誓い、ゼル先生の聖域を後に機関部の外へ。
「…ね、ゼルの所に行って良かっただろう? 楽しいよって予告したよね」
会長さんは得意そうです。船霊様を見せたかったのか、人魚姫絵本が目当てだったのかは謎ですけれど、面白かったのは確かでした。船霊様はともかく、ゼル先生があんな絵本を持ちこんだからには、教頭先生には受難の旅になりそうです。まあ、本人が気付かないなら問題ないかもしれませんけど。
「ハーレイはおめでたいから気が付かないよ、あれを回覧されていてもね。流石にブリッジで読もうって人はいないし、陰でコッソリ回っていくのさ。…ぼくも作った甲斐があった」
ここまで尾を引く事件になるとは全然思ってなかったけれど、と言っている割に罪の意識は無さそうです。それから私たちは食堂に行って昼食を食べ、午後は公園や家畜飼育部、農場なんかを遊び回って、サイオンキャノンもちょっと撃たせてもらったり。シャングリラ号に来て良かったな、と誰もが笑顔全開です。
「…でね、明日はぼくたちが摘んできたヨモギで草餅を作ろうと思うんだ」
全員参加の餅つき大会、と会長さんがニコニコ顔で口にしたのは夕食に行った食堂でした。
「みんなにはちゃんと知らせてあるし、楽しみにしている人も多いようだよ。どうせだからパーッと派手にやっちゃいたいよね、景品なんかもつけたりしてさ」
「「「景品?」」」
「そう、景品。一等賞は何がいいかな…」
シャングリラ号の中で用意出来る物でスペシャルな物、と会長さんの瞳が輝いています。まさかゼル先生から例の絵本を巻き上げてきて景品に……なんて極悪なことはしないでしょうが、絶対ないとは言い切れません。そうでなくても食堂のあちこちでヒソヒソ話をしている人が…。その人たちの視線は決まってブリッジの方角に向いてるのです。どうか景品が普通の品物でありますように、と私たちは心から祈りました。…でも、あの絵本、凄かったな…。