シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
路線バスで恵須出井寺に逆戻りしてしまった私たち。バスの乗客は終点の山頂まで私たちだけで、下車した後は乗り込む人も無かったらしく、アルテメシア行きの最終バスとして空っぽで走り去りました。バス停からは一日修行体験をした本堂と宿坊が見えています。会長さんは真っ直ぐ宿坊を目指し、私たちもそれに続いて…。
「はい、とりあえず休憩しようか。お疲れ様」
会長さんが宿坊の1階ロビーのソファに腰掛け、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が自販機で缶ジュースを買って渡しました。私たちも座るようにと促され、缶コーヒーや好みの缶ジュースを手にして会長さんを取り巻いて。
「休憩って…。案内を頼まなくてもいいのか?」
キース君が『受付』と書かれたカウンターの方を見ています。ホテルで言えばフロントに当たるカウンターの奥には部屋の鍵などが並んでいました。宿坊で慰労会をするんですから、受付を済ませなくては駄目なのでは? けれど会長さんは「必要ないよ」と首を横に振って。
「まだ豪華ゲストが来てないだろう? それにさ、泊まるのは此処じゃないからね」
「「「は?」」」
宿坊でなければ何処に泊まると? 他に泊まれそうな所がありましたっけ? 会長さんはクスクスと笑い、缶ジュースを軽く揺すりながら。
「この宿坊は一般の人でも泊まれるんだよ。高級ホテルのようにはいかないけれど、そこそこ快適な宿泊施設だ。打ち上げパーティーをしたいと言えば宴会用の料理だって出せる。…でもね、それだけじゃ全然面白くない。せっかく恵須出井寺に来ているんだから、その環境を生かさないと」
「…他の宿坊に行こうと言うのか?」
キース君が尋ねました。
「ここには幾つも寺があるしな。宿坊をやってる所もあった筈だ」
「まあね。だけど今夜の宿泊先は特別なんだ。本当だったら一ヵ月以上前までに予約が必要」
「一ヵ月だと?」
「うん。璃慕恩院の老師のコネが無ければゴリ押しするのは無理だったね。楽しみだなぁ、居士林道場」
えっ、道場? 今、ナントカ道場と聞こえたような…?
「おい」
訊き返したのはキース君です。
「コジリンと聞こえたような気がするが…。まさか居士林道場のことじゃないだろうな?」
「知ってたのかい? それは驚き」
博学だねえ、と感心してみせる会長さんにキース君は。
「やっぱり居士林道場か…。あんたは何を考えてるんだ!? 居士林の何処が慰労会で打ち上げパーティーなんだ!」
声を荒げるキース君。なんだか嫌な予感がします。ジョミー君が恐る恐るといった感じでキース君に問い掛けました。
「ね、ねえ…。コジリンって何? 道場ってことは何かするの?」
「何か程度で済めばいいがな…。居士林は漢字で居士…そう、戒名とかの居士に林という字だ。そういう名前の道場があって、泊まりでの修行を受け付けている」
「「「修行!?」」」
愕然とする私たちに向かってキース君は。
「その修行がまた半端ではないと聞かされた。…恵須出井寺の宗門校から俺の大学に来ているヤツが何人かいてな、そいつらが経験者だったんだ。高校の間に全校生徒が行くらしい。地獄の居士林研修と呼んでいたぞ」
「「「……地獄……」」」
えらい所へ来てしまった、と私たちは顔面蒼白でした。そこへ入口の扉が開いて人影が…。
「あっ、ハーレイ! こっち、こっち!」
会長さんが立ち上がって力一杯手を振っています。豪華ゲストとは誰だったのか、この瞬間に分かりました。宿泊用と思しき荷物を提げた教頭先生は笑顔ですけど、居士林道場とやらを果たして御存知なのでしょうか? 地獄と呼ばれる道場なんかで慰労会なんて、どう考えても無理ですってば~!
「ハーレイ、男子の身代わり座禅、頑張ってたね」
会長さんに微笑みかけられ、教頭先生は頬を赤らめて頭を掻きました。
「ああ、いや…。あのくらい別に大したことは…。それよりお前は大丈夫なのか? かなり打たれていただろう?」
「ぼくは慣れてるから平気なのさ。銀青と名乗っていた頃に恵須出井寺でも修行をしたし…。ぼくの修行を追体験したいっていう君の殊勝な気持ちには頭が下がるよ」
「…っつう!」
ポンと肩を叩かれた教頭先生の顔が苦痛に歪み、会長さんは「ごめん」と素直に謝って。
「叩かれまくっていたんだっけね、触っただけでも響いちゃうか…。ちゃんと手当てをしてきたかい?」
「一応、湿布を貼ってある。でないとハンドルも握れんからな」
教頭先生は愛車で来たようです。私たちが最終バスに乗ってきたんですし、車が駄目なら残る手段はタクシーのみ。市街地からかなり離れているので料金も高くなるでしょう。湿布を貼ってもマイカーという教頭先生の気持ちは分からないでもありません。そんな教頭先生がソファに腰掛けようとするのを会長さんが片手で制して。
「のんびりしている時間はないんだ。入所式は午後の3時からだよ」
「「「え?」」」
私たちは一斉に壁の時計を眺めました。針は5時をとっくに回っています。3時って何かの間違いなんじゃあ? けれど会長さんは気にも留めずに。
「3時っていうのは居士林道場の一般規則さ。入所式をして4時半から座禅、6時に夕食。だけど今回は特例として、昼間の一日修行体験の分を座禅にカウントしてもらった。璃慕恩院のコネがあるから無理が利く。…ここから先は知らないけどね」
「うむ。…お前たちも一緒に修行だったな」
頷いている教頭先生。居士林道場の噂を御存知なのかどうかはともかく、修行というのは心得てらっしゃるみたいです。でも私たちまで修行だなんて殺生な…。お泊まり会だと思っていたのに…。会長さんは涙目になる私たちの横をすり抜け、教頭先生に右手を差し出して。
「用意してきてくれたんだよね、研修費用は? 璃慕恩院のコネだとはいえ、出すものは出しておかないと」
「言われたとおりに用意はしたが、ホームページで確認したらゼロが二つも少なかったぞ、一人分が。どうしてこんなにかかるんだ? 永代供養料と変わらんじゃないか」
教頭先生が荷物の中から取り出した金封はとても厚みのあるものでした。会長さんはそれを受け取り、袱紗に包んで。
「特別扱いを頼むからには寄付金を積まなきゃ格好が…ね。璃慕恩院の体面もあるし、このくらいの額は必要なわけ。それじゃ行こうか、修行をしに」
先頭に立って歩き始めた会長さんを追わないわけにはいきません。教頭先生は御機嫌ですけど、私たちは…。
「…どうしよう、本気で修行らしいよ」
宿坊の入口で靴を履きながらジョミー君が嘆きました。
「昼間に叩かれた肩が痛いのにさ! どうして修行になっちゃうわけ? 慰労会は?」
「俺だって派手に痛いんだ。座禅の経験は無かったからな…」
キース君も肩を押さえています。なのに外では「そるじゃぁ・ぶるぅ」が「早く、早く~!」と無邪気に呼んでいますし、逃げ出そうにもバスはとっくに行っちゃいましたし…。トボトボと夕暮れの山道を歩いて辿り着いたのは立派な木造二階建ての建物でした。『居士林』と墨書された看板が見るからに厳しそうな印象です。玄関を入るとお坊さんが待ち構えていて…。
「ようこそいらっしゃいました」
「お世話になるよ。話は行ってると思うんだけど、ぼくがブルーだ」
会長さんが差し出した金封を恭しく受け取り、奥へと消えるお坊さん。その間にふと三和土に置かれた床几を見ると『座るな』という張り紙が。床几って座るものではないんでしょうか? 肘でつつきあって床几を眺める私たちに、会長さんが。
「ああ、それね。…ここでは修行の目的以外で座るってことは許されないんだ。立ちっぱなしになるんじゃないかって? 大丈夫、そんな心配も要らないほどに座禅とか色々あるからさ」
「「「………」」」
人生終わった、と私たちがガックリと肩を落とした時。
「大変お待たせ致しました。皆さん、どうぞお座敷の方へ」
さっきのお坊さんが戻ってきて笑顔で奥へと促しました。
「夕食を御用意しております。あ、そちらの…教頭先生はあちらの方へ。別の者が案内させて頂きます」
教頭先生は若いお坊さんに私たちとは違う方向へと連れて行かれてしまいました。振り返りながら会長さんに声をかけようとしたのですけど、「私語厳禁です」と即座に注意が。これって一体、どういうこと…?
「ふふ、居士林で修行するのはハーレイだけさ。ぼくたちは賓客扱いで普通に宿坊気分って予定だけれど、希望者があれば修行コースに入れてあげるよ」
ニッコリと笑う会長さんに私たちの背筋が凍りました。教頭先生、またも騙されちゃいましたか! 『座るな』なんて書かれた道場でたった一人で地獄の修行体験を…? もしかしたらキース君も体験希望するかもですけど……一般参加者もいるかもですけど、そういう望みは薄そうな気が…。
「えっと、今日の研修者は何人だっけ?」
会長さんが尋ねると、お坊さんは。
「お一人だけでございます。…他になさりたい方が無ければ…ですが」
「だってさ。…どうする、キース? ジョミーは?」
キース君たちは必死の形相で首を横に振り、教頭先生の一人修行が決定しました。私たちが案内された部屋には既に夕食が並んでいます。昼間に一日修行体験をした宿坊の調理人が来ているそうで、グルメ大好き「そるじゃぁ・ぶるぅ」も歓声を上げる本格的な精進料理のラインナップ。煮物に焼き物、揚げ物などなど盛りだくさんな内容ですが…。
「6時だ」
会長さんが腕時計を見て言いました。
「ハーレイの修行が始まるよ。まずは夕食。ちょっと見物しに行こう」
面白いから、と座敷を出てゆく会長さん。食事なんか見て楽しいのかな、と思いましたが、頭を掠めたのは今日の昼食。タクアンで食器を綺麗に洗えと何度も叱られましたっけ…。教頭先生も叱られるとしたら、これは一見の価値ありです。よーし、みんなで見届けなくちゃ!
「ふふ、やってる、やってる」
会長さんが食堂だという大広間を覗き込んで私たちを手招きします。襖一枚分のスペースに頭を並べて眺めた先では教頭先生がたった一人で正座して机に向かっていました。指導役らしきお坊さんが少し離れた所に座ってニコリともせず監視中。教頭先生は両手を合わせて何やらお経を唱えていますが…。
「お経を読むのが正式な作法になるんだよ。ぼくたちがやったのは略式なのさ。一般の信者さんが唱えるんだ」
信仰の篤いお年寄りくらいなものだけど、と会長さん。私たちが唱えた食前の言葉はそんなに長くなかったですし、この食前のお経からして居士林での修行というのは相当ハードなものなのでは…。お経を終えた教頭先生は食事を始めたのですけども、これが一汁三菜です。ご飯とお味噌汁の他には胡麻豆腐と野菜の煮物くらいしか無く、私たちのために用意されていた精進料理とは大違い。しかも…。
「食事中は音を立てないように!」
お坊さんの注意が飛びました。ビクリとしている教頭先生。えっと…音なんかしてましたっけ?
「タクアンを口に入れてただろう?」
笑みを浮かべる会長さん。
「噛む音もダメ、味噌汁を啜る音もダメって昼間の修行で教わったよね? 君たちの時は少々の音は許されたけど、ここではビシビシ指導されるよ。恵須出井寺は厳しいんだ。…ちょっと戻って食事してこようか、温かいものが冷めない内にね」
「わーい!」
お腹ぺこぺこ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が廊下を走ってゆきます。けれど「お静かに」と注意はされませんでした。お座敷に戻って始めた食事も、正座しろとは言われません。お給仕のお坊さんが二人いますが、会長さんと和やかに談笑しています。
「そろそろハーレイの食事が終わる頃かな?」
会長さんの問いに、お坊さんが。
「はい。またお出掛けになるのですか?」
「もちろんさ。楽しいことになりそうだしね。…あ、食事は帰って来てからゆっくり食べるし、気遣い無用」
行くよ、と促されて私たちは再び食堂に向かいました。会長さんが襖を開けて、私たちが狭いスペースに頭を突っ込んで…。あ。教頭先生の食器にお茶が注がれています。そうそう、あのお茶を全部の器に注ぎ分けて、タクアンで綺麗に食器を洗って、元の器に戻すんですよね。それを飲み干したら食事終了。そういえば恐ろしい話を聞かされたような…。
「体験ですから三回までです、って話かい?」
誰の思念が零れていたのか、クスッと笑う会長さん。
「ハーレイの場合は全部の食器が綺麗になるまでお茶をドボドボ注がれるのさ。…ついでに言うと、この道場ではトイレの時間も決まってる。どんなに大量の水分を摂っても、夜中以外は勝手にトイレに行けないんだ」
「「「………」」」
私たちは震え上がりました。季節は既に初夏ですけども、高い山の上は少し冷えます。大量のお茶を飲まされた上にトイレを禁止されるだなんて、それはあまりというものでは…。
「余計な水を飲みたくなければ作法をマスターすればいい。…そう簡単にはいかないけどね」
教頭先生の器には既に6杯目のお茶が注がれていました。お腹がタプタプになってしまうのは時間の問題かもしれません。居士林道場の恐ろしさを思い知った私たちは回れ右をし、お座敷に戻っていったのでした。
精進料理オンリーとはいえ、お代わり自由の夕食は美味しくてボリュームの方もたっぷり。会長さんにはお酒もついて、気分は打ち上げパーティーです。ワイワイ騒いでも叱られませんし、教頭先生のことはすっかり忘れて盛り上がって…。
「けっこう美味しいものなんですね、精進料理」
シロエ君が褒め、サム君が。
「割といけるんだぜ、出汁とかきっちり取ってるし。…なあ、ジョミー?」
「麦飯じゃないから美味しいんだよ! これって普通のご飯だもん!」
璃慕恩院では麦飯なのだとジョミー君が顔を顰めています。修行体験ツアーで放り込まれた時の経験でしょう。今日の修行体験では麦飯は出ていませんでしたが…。
「麦飯は確かに美味くはないな」
キース君が肯定した所で会長さんが割り込みました。
「でも食事には感謝しなくちゃいけないんだよ? ハーレイはたっぷり実感できたと思うんだけどね。今は千日回峰のビデオを見てる。それが終わったらやっとトイレだ。あれだけお茶を飲まされちゃったら我慢するのも辛いよねえ」
千日回峰というのは恵須出井寺の荒行だそうです。千日の間、毎日休まず決められたコースを三十キロも歩くのだとか。真っ暗な中を出発して山道を巡る修行の他に、お堂に九日間籠って断食、水断ち、不眠不休で祈祷するという苦行なんかもあったりして…。
「流石のぼくもアレはちょっとね。サイオンでズルは出来るけれども、千日間も束縛されるのは遠慮したいし」
璃慕恩院の生ぬるい修行で十分、と会長さんは笑っています。恵須出井寺でも修行を積んでいる筈ですが、詳しい話は上手くはぐらかされました。お給仕のお坊さんに興味を持たれると困るから、と短い思念が届いた後で。
「そんなことよりハーレイだよ。お風呂に行こうか、愉快なものが見られるからさ」
えっ、お風呂? 女湯はきっと別ですよね? スウェナちゃんと顔を見合わせていると、会長さんは。
「一応、隣同士になってる。覗けない仕様になっているけど、音声は中継してあげるから。ね、ぶるぅ?」
「中継するの? お風呂から?」
キョトンとしている「そるじゃぁ・ぶるぅ」を連れて会長さんはお座敷を出て行ってしまいました。男子もお風呂に向かうようです。うーん、とにかく行けばいいのかな? お坊さんにお風呂の場所を教えて貰い、着替えなどを持って出掛けてゆくと、確かに男湯の隣が女湯です。
「あらっ、けっこう広いのね」
スウェナちゃんが声を上げました。脱衣場も浴室もスペースゆったり、湯船だって広くて大きくて…シャワーの数もちょっとしたホテルの大浴場並み。厳しい修行をする場所だけに、お風呂くらいは寛げるようになっているのでしょう。シャンプーやボディーソープもありますし…。
「ジョミー、すげえ青あざになってるな」
サム君の声が聞こえてきます。これが音声中継でしょうか?
『そうだよ。中継は必要不可欠なんだ』
会長さんの思念を挟んで男湯の賑わいがひとしきり。ジョミー君とキース君は座禅の時に打たれた肩が青あざになっているようでした。そんな二人を会長さんが「ご苦労様」と労い、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が背中を流している様子。スウェナちゃんと私は「そるじゃぁ・ぶるぅなら女湯でもよかったのに」と話しながら湯船に浸かっていたのですが…。
「「「教頭先生!?」」」
男子の驚く声がしたかと思うと、慌ただしい水音がバシャバシャと。
「すまん、私には時間が無いんだ!」
どいてくれ、と教頭先生の声が響いてドブンと湯船に飛び込む音…? 男湯でいったい何事が…?
「お風呂の時間は10分だしね」
クスクスクス…と会長さんの笑い声。
「しかも行き帰りの時間も合わせて10分間! 守れなかったら寝る前に座禅が待っているんだよ。そうだよね?」
「悪いが、とにかく急ぐんだ! ああっ、もう時間が…」
ドタバタと大騒ぎしながら教頭先生は男湯を飛び出していったみたいです。そして会長さんの声がのんびりと…。
「お風呂が広い理由が分かった? 人数が多くても10分間しか許されないから、シャワーとかも数が必要なんだよ。湯船も一度に大勢浸かれるようにしておかないとね。…ふふ、流石のハーレイも心に余裕がなくなっちゃったか」
ぼくと一緒のお風呂なのに、と会長さんは楽しそう。言われてみればそうでした。教頭先生、会長さんとお風呂に入る日を夢見て広いバスルームを用意してたり、騙されて行った婚前旅行で二人きりの露天風呂に緊張しきってお風呂マナーが滅茶苦茶だったり、お風呂ネタには事欠きません。なのに今回は会長さんに見向きもせずに走り去って行ったらしいです。夢も妄想も綺麗に吹っ飛ぶ居士林道場、恐るべし…。
その夜、私たちは宿坊から運んだという布団でぐっすり休みました。けれど教頭先生を待っていたのは湿気を吸った煎餅蒲団。これも居士林ならではだとか。それでも教頭先生は疲れていたのか、すぐに沈没。私たちも普段ほどには起きていられず、早めに眠って…夜が明ける頃にカンカンという鐘の音で飛び起きたのですが。
『気にしない、気にしない。あれはハーレイ専用だから』
まだ5時だし、と会長さんの思念が流れてきます。
『もっと寝てればいいんだよ。…おやすみ』
眠たそうな思念が途切れて、会長さんは眠ってしまったようでした。そっか、寝ててもかまわないんだ…。私たちは布団を被って寝なおすことにし、起き出したのは7時過ぎ。やはり一回目覚めてしまうと長時間は眠れないみたいです。寝惚け眼を擦りながら顔を洗っていると…。
「そこの隅! 埃が残っています」
鋭い声が響き渡りました。なんだろう、と振り返った先では教頭先生が雑巾がけの真っ最中。お坊さんに叱られながら廊下をせっせと磨いています。うわぁ…朝から早速修行ですか…。キース君が教頭先生の後ろ姿を眺めながら。
「去年の道場を思い出すな…。俺も毎日せっせと掃除をしてたんだ」
「ああ、カナリアさんか」
会長さんが頷いて。
「でもさ、あっちは璃慕恩院の系列だから、掃除はあっても座禅はないよね。ハーレイは5時に起こされて座禅した後、本堂に参拝してから三十分のウォーキング。それも号令つきで殆ど駆け足」
「「「えぇっ!?」」」
とんでもないハードスケジュールです。柔道で鍛えている教頭先生だけに大丈夫だとは思いますけど、座禅に駆け足に掃除ですか…。
「で、朝ご飯はお粥なわけ。お味噌汁とタクアンはつくけどね」
「「「…タクアン…」」」
またタクアンで食器を洗うのか、と私たちは教頭先生が気の毒でたまりませんでした。朝食の後は写経と法話で、それが終わるまでトイレは禁止。こんな道場に放り込まれた教頭先生、今度こそ会長さんに愛想を尽かすのでは…? お粥ではない精進料理の朝食を食べながらコソコソ話していると、会長さんが。
「甘いね。この程度では懲りないよ。それどころか、ぼくとの絆が深くなったと信じ込んでる。同じ修行を体験したから許されるかも、とも思っているし」
許されるとは何を指すのか、私たちには分かっていました。ずっと昔に会長さんを「そるじゃぁ・ぶるぅ」と二人きりで修行に行かせてしまったことです。会長さんが許すとはとても思えませんし、仮に許して貰えたとしても教頭先生が望んでいるような甘い生活は無理そうですけど…。
「もちろん無理に決まっているさ。ハーレイはぼくのオモチャなんだし、オモチャと結婚する気は無いし」
サラリと言い放つ会長さんに、キース君が額を押さえて。
「居士林に連れてきたのも最初からオモチャにするためなのか…。見物だの何だのと言っていたから、そうじゃないかとは思っていたが」
「だってさ、ぼくたちの楽しい校外学習をぶっ潰したんだよ、ハーレイは。提案したのはグレイブだけど、最終的に決定権を握っていたのはハーレイなんだ。…責任は取ってもらわないとね。目には目を、って言うだろう?」
一日修行体験と張り合えるのは居士林道場しかない、と会長さんは言っていますが、雲泥の差があるのでは? 居士林の方は地獄と呼ばれる道場ですよ…?
「いいんだってば。ハーレイは自己満足に浸っているし、ぼくたちは楽しく傍観者だし。…そうそう、昼ご飯が済んだら退所式があって終了なのさ。だから残る修行は写経と法話と昼ご飯! 座禅に比べれば楽なものだよ」
正座は絶対崩せないけど、と聞かされて私たちは「地獄じゃないか」と深い溜息。教頭先生、帰りの車を運転することが出来るのでしょうか? 出来なかったら愛車は一体どうなっちゃうの…?
「お疲れ様、ハーレイ。…どうだった、修行体験は?」
会長さんが教頭先生に声をかけます。此処は本堂に近い四階建ての宿坊のロビーで、私たちは一足先に居士林を出てこちらに移動していたのでした。教頭先生が退所式を終えてやって来たのは2時過ぎのこと。どう見ても顔がやつれていますが…。
「うむ…。お前たちも一緒に修行だとばかり思っていたが、私一人で修行させられたのはいい経験になったと思う。考えてみれば、お前も一人で修行したようなものなのだからな。…厳しい修行を積んだお前を嫁に貰いたいと思う私は、まだまだ修行が必要だろうか?」
げげっ。教頭先生、懲りるどころか、却って気合が入りましたか? 地獄を見て強くなったとか? 会長さんはクッと喉を鳴らして、教頭先生を見詰めると。
「なるほどねえ…。もっと修行をしたいわけだ。じゃあ、気が変わらない内に行ってみようか」
「「「は?」」」
何処へ、と私たちと教頭先生の声が綺麗に重なった所へ会長さんが。
「居士林だよ。あそこは一泊二日コースと二泊三日のコースがあるんだ。都合で二泊三日になるかも、とお願いしといた甲斐があった。幸い、明日は日曜日だし? 二泊三日で頑張るんだね」
そっちは回峰行の体験がつくよ、と会長さんは先に立って歩き出しました。
「入所式は省略できるし、居士林に戻ってまずは座禅だ。でもって今夜は夜中の2時前に起床! おにぎりを2個だけ食べて準備をしたら千日回峰のコースを体験ウォーク」
途中で朝食と休憩を入れつつ30キロ、と涼しい顔の会長さんに教頭先生は青ざめましたが、後悔先に立たずです。そしてキース君が溜息混じりに…。
「地獄の居士林研修に二泊三日コースがあったとはな。まあ、高校生には二泊三日はキツすぎるか…。で、俺たちは街へ戻るのか?」
「もちろんさ。ハーレイを居士林に放り込んだらバス停に行って、恵須出井寺とはお別れだ。あっ、ハーレイ…。君の車はどうするんだい? 千日回峰体験の後でも自分で運転できそうかい?」
難しそうなら瞬間移動で家のガレージまで送ってあげる、との会長さんの申し出に教頭先生は飛び付きました。流石に安全運転できる自信が無いらしいです。会長さんは「了解」とニッコリ笑顔で頷いて…。
「運んでおいたよ、もうガレージに入ってる。でね、今の車の運び賃が…」
タクシーで恵須出井寺と街を何往復も出来そうな値段を告げられ、顔面蒼白の教頭先生。そうでなくても居士林道場に凄い金額を支払ったのに…。
「細かいことは気にしない! それより修行を頑張って。ぼくだって昔、歩いたんだよ。ねえ、ぶるぅ?」
「うん! ブルー、とっても頑張ったもんね。サイオンも殆ど使わなかったし」
修行だもん、とニコニコしている「そるじゃぁ・ぶるぅ」の言葉に教頭先生はグッと拳を握り締めて。
「そうなのか…。ならば私も頑張ってみよう。お前を嫁に貰えるだけの立派な男にならねばな」
やるぞ、と居士林道場目指して歩き始めた教頭先生は会長さんがペロリと舌を出したことに全く気付いていませんでした。修行に燃えているようです。私たちは教頭先生を居士林の玄関まで送り、バス停へと向かったのですが…。
「ふふ、やっぱり見事に引っ掛かったか」
時間どおりにやって来たバスに乗り込んでから会長さんが居士林の方角を振り返って。
「馬鹿だよねえ…。サイオンを殆ど使わないと言っても、タイプ・ブルーはケタが違うよ。ハーレイが全力を出しても出来ないことが少しのサイオンで出来ちゃうんだけど、知らない方が幸せだよね」
今夜は2時前に起床で回峰行、と微笑んでいる会長さん。陥れられた教頭先生、月曜日は無事に学校へ来られるでしょうか? トイレの時間も決められていて、お風呂はたったの10分間で、夜中に起きて30キロも山道を歩く地獄の居士林。会長さんと結婚できる男になりたい、というアヤシイ動機で志すには修行の道は厳しそうです。まあ、でも……校外学習を水族館から恵須出井寺に変えてしまった責任を取って、根性でクリアして下さいね~!