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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

フィシスの生まれ
(お父さんとお母さんに、感謝しましょう…)
 ふうん、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 子供向けの記事で、教訓も兼ねた、ちょっとしたコラム。歴史なんかも絡めてみて。
(ずっと昔は…)
 お父さんもお母さんもいませんでした、と書いてある。誰も持たなかった、血が繋がった本物の両親。温かい家庭を与えてくれる、優しい人たち。
 SD体制が敷かれた時代は、その両親はいなかった。養父母が育てていたというだけで、一緒に暮らせる期間も限られていた時代。十四歳になったらお別れ、二度と会うことは出来なかった。
 それが今では本物の両親、いつでも側にいてくれるのだし、感謝の心を忘れずに。
 両親と暮らせる家があることにも、毎日、食事が出来ることにも。
(当たり前だよね…)
 感謝の心を持つということ。こうして記事にされなくても。学校の先生に言われなくても。
 幼い頃から感謝していた、今の自分の優しい両親。他の子供より、ずっと弱くて手がかかる子を育ててくれた。すぐ熱を出して、色々な予定が狂っても。両親まで出掛けられなくなっても。
(旅行に行っても、ホテルでぼくの世話ばっかりとか…)
 遊びに出掛けた先で「疲れちゃった…」と動けなくなって、大慌てて帰ってくるだとか。両親にかけた迷惑の数は、覚えているだけでも数え切れないほど。他にもきっと山のよう。
 それでも困った顔もしないで、笑顔で接してくれた両親。息子が不安にならないようにと、手をしっかりと握ってくれたりもして。
 だから大好きだった両親。どんな時でも幸せだったし、感謝で一杯。「ありがとう」と言いたい気持ちで一杯、熱が下がらなくてベッドにいても。
 子供心に、いつも持っていた感謝の気持ち。「ぼくが幸せなのは、パパとママのお蔭」と。



 ごくごく自然に心に生まれた、両親への感謝。あまり口にはしていないけれど。
 昔みたいに幼くはないし、「パパ、ママ、大好き!」と抱き付くのは少し気恥ずかしいから。
(だけど、前のぼくの記憶が戻っちゃったら…)
 前よりも一層、両親に感謝するようになった。両親がいてくれるという幸せに。前の自分は子供時代の記憶をすっかり失くしたけれども、あの時代ならば、記事にある通り。
 子供は人工子宮から生まれて、親は養父母。機械が選んで「この家の子に」と渡した時代。愛を注いいで育ててくれても、十四歳になったらお別れ。成人検査で引き離されて。
(前のぼくみたいに、全部忘れてしまわなくても…)
 薄れたという養父母の記憶。自分が育った家のことさえ、機械に消されて曖昧だった。
 けれど今では、十四歳でも義務教育の期間中。両親の家で暮らすのが普通。SD体制の頃の教育ステーション時代を引き継いだらしい、四年間を今の学校で過ごす。義務教育だから。
 その間も育ててくれる両親、お別れの時は来はしない。上の学校に行っても同じで、家から遠い学校でなければ、そのまま家から通い続ける。一人暮らしをしてみたい子は別だけれども。
(ぼくはお嫁に行くんだけれど…)
 上の学校に通う代わりに、ハーレイの家へお嫁に行く。まだ両親には話していないのだけれど。チビの自分が言い出したならば、厄介なことになりそうだから。
 それでも心に決めていること。結婚できる十八歳になったら、進学しないでお嫁さん。
 その道を選んで家を離れても、両親は今と全く同じに自分を愛してくれるのだろう。お嫁に行く日も、朝から二人であれこれと気を配ってくれて。体調はどうか、疲れてしまいはしないかと。
 結婚式の会場にだって、両親と一緒に出掛けてゆく。ドキドキと胸を弾ませながら。
(お嫁に行っちゃった後も、この家に呼んでくれたりして…)
 可愛がってくれそうなのが両親。ハーレイも一緒に家で食事だとか、色々と。ハーレイが仕事で留守になるなら、その間も家に呼んでくれそう。お互いの家は、それほど離れていないのだから。
(何ブロックも離れていたって、バスに乗ったら来られるものね?)
 一人で来たら、母が迎えてくれるのだろう。お昼御飯や、美味しいおやつを用意して。
 きっといつまでも、両親と一緒。結婚して家を離れても。…この家の子ではなくなっても。
 優しくて温かい父と母には、ずっと感謝の気持ちで心が一杯の筈。同じ屋根の下で暮らす時代が終わった後にも、ハーレイの家で暮らし始めても。



 そうだよね、と胸にじんわり温かな思い。今の自分の両親のこと。
(言われなくても、感謝だから…)
 ぼくは普通の子よりも感謝、と新聞を閉じて、戻った二階の自分の部屋。キッチンの母に、空のカップやお皿を返して。「御馳走様」と。その言葉にも感謝が一杯。
(ケーキはママが焼いてくれたし、紅茶も淹れてくれたんだから…)
 感謝をこめて「御馳走様」で、今日はいつもより感謝が沢山。さっきの新聞記事のお蔭で。母に伝えていないというだけ、やっぱりちょっぴり恥ずかしいから。
 前の自分の記憶がある分、有難く思う両親のこと。いてくれることと、引き離されずに、ずっと一緒にいられること。別々の家で暮らし始めても、いつでも会えるのが今の両親。
(それにママだって、本物のママ…)
 今の自分をお腹で育てて産んでくれたし、それを考えただけで幸せ。人工子宮で育って生まれた前の自分よりも、遥かにずっと。
 生まれる前から、母のお腹にいた自分。温かな羊水の中に浮かんで、色々な夢を見たのだろう。胎児が見る夢は謎だけれども、きっと暖かくて幸せな夢。いつだって母と一緒だから。
(人工子宮なんかは、機械だから…)
 母のお腹とは全く違う。冷たい機械と繋がっている、ガラスケースのようなもの。そんな中では夢を見たって、幸せかどうか分からない。母の代わりに機械に繋がり、命を繋いでいたのだから。
(見る夢の中身、違うのかもね…)
 同じ人間の胎児でも。母の胎内で育つ子供と、人工子宮で育つ子とでは。
 そういう研究は無かったけれども、トォニィはきっと、誇らしかったことだろう。赤いナスカで皆に祝福されてその生を享けた、SD体制始まって以来の初めての自然出産児。
 カリナのお腹の中で育って、父のユウイもいたのだから。血の繋がった両親が。
 ミュウの世界に成人検査は無かったけれども、それまでは無かった「親」というもの。ミュウと判断され、処分される所を救われた子たちは養育部門の者が育てた。皆、平等に。
 誰もに公平に注がれた愛情、それは本物の親とは違う。いくら「別れ」が来なくても。十四歳を迎えた後にも、白いシャングリラで共に暮らしてゆけるにしても。
 養父母さえもいなかった世界に、現れた本物の父と母。トォニィの両親。その後に赤いナスカで生まれた子たちも、皆、両親を持っていた。人工子宮など知りもしないで。



 あの子供たちこそが本物の子供。SD体制の時代の最後に、母親のお腹から生まれた子たち。
 機械は全く関与しないで自然に生まれて来たんだから、と思った所で、心を掠めていったもの。本物の子供だった彼らとは逆に、機械が作った生命のこと。
(フィシスと、キース…)
 前の自分は、どちらにも会った。フィシスは前の自分が白いシャングリラに迎え入れた少女で、キースはミュウを滅ぼすために来た者。
 まるで違うように見えるけれども、二人とも生まれは全く同じ。機械が無から作った生命。幼い頃に前の自分が攫ったフィシスも、メンバーズとしてナスカに来たキースも。
(マザー・システムが、やってた実験…)
 人類の理想的な指導者、それを自ら作り出そうと。優れた者を作るためには、優れた因子を探し出すより、優れた因子を作った方が効率がいい、と考えたのがマザー・システム。
 三十億もの塩基対を繋ぎ、DNAという鎖を紡ぐ。そうすれば「ヒト」が出来上がるから。より優れた者を作りたければ、そのように「作れば」いいのだから。
 神の領域に踏み込んだ機械。無から生命を、ヒトを作って育てればいいと。
 そして作られたフィシスとキース。「生まれた」者はあの二人だけ。他は途中で処分されたか、何処まで育つか調べた末に標本にしたか。どれも「外では」生きていない。
 彼らを育てた強化ガラスの水槽の外では、一瞬さえも。生まれた場所も、死んでいった場所も、同じガラスの「ゆりかご」の中。人工羊水の中に漂い、其処で繋いでいた命。
 フィシスは成功例として「外」の世界に出されたものの、実は失敗作だった。盲目だったのとは無関係に。…視力が無くとも、優れた者ならいるのだから。
(それで水槽の外に出したけど…)
 研究者たちは直ぐに気付いた。フィシスが「ミュウ」であることに。彼らが全く知らない間に、前の自分がサイオンを与えてミュウにしたフィシス。
(ミュウは抹殺しなきゃ駄目だから…)
 フィシスは失敗作と判断されて、処分が決まった。とはいえ、それは事故のようなもの。
 ミュウでさえなければ、フィシスは優れた指導者になった筈だ、と考えた機械。それを踏まえて次の人間を作ろうと。フィシスの遺伝子データをベースに、新しい命を無から作り出そうと。
 そうやって作り出されたキース。実験の場を宇宙に移して、E-1077の奥深くで。



 機械が無から作った二人。対とも、親子とも言えたフィシスとキース。彼らを作ったDNAには同じ要素があったから。…キースはフィシスを元にして作り出されたから。
 そのキースは後に自分の生まれを知ったけれども、フィシスの場合は…。
(誰も教えなかったから…)
 知らないままで生き続けた。白いシャングリラで、青い地球を抱くミュウの女神として。
 前の自分は攫う時にフィシスの記憶を消したし、船の仲間にも語らなかった。フィシスが無から作られたことも、本来はミュウではなかったことも。
 船の仲間を欺いてまでも、欲しいと思ったフィシスの地球。機械がフィシスに与えた映像。青い地球に向かう旅の記憶は、前の自分を魅了したから。
 悩み、迷って、ハーレイにだけ打ち明けた。地球を抱く少女に魅せられたことと、その正体を。
 ハーレイが「船に迎えればいい」と言ってくれたから、連れて来たフィシス。サイオンを与えてミュウにした後、処分される彼女を救うふりをして。
(本当は、ぼくのせいだったのにね…)
 フィシスが失敗作になってしまったのも、処分される運命だったのも。…前の自分がフィシスをミュウにしなかったならば、人類の指導者としての道を歩んだ筈なのだから。
 けれどフィシスは知らなかったし、ユニバーサルでの記憶も消した。船の仲間も知らない真実、本当のことは前のハーレイが知っていただけ。
(フィシス、自分でもみんなと全く同じつもりで…)
 生まれについては、疑いさえもしなかったろう。前の自分が教えた嘘を信じて。
 ユニバーサルで生まれたミュウとは言っても、人工子宮から生まれたのだと。普通の人間と全く同じに、ガラスケースで育ったと。…人工羊水の中で胎児として。
(胎児より、ずっと大きくなるまで水槽の中に浮かんでたのに…)
 そうとは知らずに育ったフィシス。白いシャングリラに来る少し前まで、水槽の中にいたなどと誰が思うだろう…?
 だからフィシスは素直に信じた。前の自分が話した嘘を。
 本当だったら養父母の許で育つ所を、何かの都合でユニバーサルで生まれて育ったのだと。
 けれど途中でミュウだと分かって、悲しい過去を背負ったのだと。幼い少女が持ち続けるには、あまりにも悲しすぎる過去。それで記憶を消されたのだと、自分もそれを望んだのだと。



 フィシスが信じ続けた過去は、偽物の過去。本物の過去は前の自分が消した。
 本当のことが船の仲間に知られないよう、跡形もなく。…フィシスが本物のミュウになるよう、あの船で生きてゆけるよう。
(…そのせいで、何も知らないままで…)
 その過去を消した前の自分がいなくなるまで、フィシスは夢にも思わなかった。自分の生まれが他の人間とは、まるで全く違うことなど。…無から作られた生命だとは、知らずに生きた。
(前のぼくがメギドで死んでしまって…)
 薄れ始めたフィシスのサイオン。それを与えた者が消えたら、新しく分けては貰えないから。
 フィシスは予知能力を失くして、どれほど心細かったろう。どんなに途惑っていたことだろう。其処に追い打ちをかけたトォニィ。「あのメンバーズと同じ匂いがする」と指摘して。
(…フィシス、後になって…)
 SD体制が倒れ、地球が燃え上がった後で、自分は誰かを皆に語った。
 白いシャングリラで地球を離れた仲間たち。生き残ったミュウの仲間たちを前に、涙ながらに。
 ずっと長い間、船の仲間を騙していたと。自分は本当は人でさえもないと、機械が無から作った生命だったと。…それがミュウのふりをしていただけ。ソルジャー・ブルーから貰ったサイオン、それを使っていただけなのだと。
 誰もフィシスを責めなかったけれど、逆に慰めたと伝わるけれど。
(其処までのことは、調べたら分かることなんだけど…)
 その後のフィシスがどう生きたかも。カナリヤの子たちを立派に育てて、幼稚園を作って回ったフィシス。今の時代は「フィシス先生」、幼稚園に行けば真っ白な像があるほど。
 今の自分も幼い頃には、フィシス先生の像が好きだった。膝の上に登って、ウサギの小屋などを眺めるのが。小屋の前が混んで近付けなければ、其処が空くまでフィシス先生の膝の上。
 フィシスは幸せに生きたけれども、そうなるまでのフィシス。
 船の仲間たちに全てを打ち明け、「本当の自分」を受け入れて貰える日が来るまでのフィシス。
(辛かったよね…)
 それにどんなにショックだったことか、自分の生まれに気付いた時は。
 ユニバーサルで生まれたミュウだというのは、嘘なのだと。本当は無から作られたもので、他の仲間とも、人類とも違う存在なのだと知った時には。



 フィシスがどうして真実を知ったか、それは今でも分からない。少なくともチビの自分には。
(…フィシス先生のことで、ちょっぴり調べただけだから…)
 調べ方が足りないだけかもしれないけれども、謎のままだということもある。フィシスには辛い話なのだし、他の者たちも無理に尋ねはしなかったろう。
 自分が誰かを明かしたフィシスを、仲間たちは許したのだから。…改めてミュウの船に迎えて、一緒に旅をしていたのだから。
 フィシスを仲間と認めたのなら、きっとそれ以上は尋ねない。トォニィだって、もう酷いことを言いはしなかったろう。ソルジャーの称号を継いだ以上は、船の仲間を気遣うもの。
 たとえフィシスがナスカの悲劇の原因の一つだったとしても。…その上、ミュウではなかったとしても、白いシャングリラの仲間には違いないのだから。
 そういう風に暮らしていたなら、フィシスは誰にも話さずにいたのかもしれない。本当のことに気付いた理由も、その時に受けた衝撃のことも。
(…キースが来たから、薄々、変だと思い始めて…)
 前の自分も詳しいことは知らないけれども、フィシスはキースに惹き付けられた。同じ生まれの人間のせいか、あるいは符号を感じ取ったか。
 ジョミーたちがキースを調べていた時、フィシスのそれと全く同じ地球を見たから。フィシスがその身に抱く青い地球、其処への旅と同じ映像を皆が目にしたから。
(…そんなのがキースの中にあったら、気になるよね…)
 キースはいったい何者なのか、どうして同じ映像なのかと。…あの映像は何か、フィシスは全く知らなかったのだから。機械が無から作る生命、それに共通の映像だなんて。
(…前のぼくだって知らなかったけどね、キースに継がれていたなんて…)
 それにキースが作られたことも。…フィシスが失敗作になった後にも、あの実験が宇宙に移って続けられていたということも。
 だからフィシスも何も知らずに、近付いてしまったキースの牢獄。惹かれるままに、自分なりに答えを得ようとして。…自分とキースの共通点は何なのかと。
 けれど、あの頃にはキースも知らなかった自分の正体。無から生まれた生命だとは。
 フィシスは答えを得られないまま、逆に情報を奪われた。シャングリラから逃れるための道筋、どう行けば船を出られるのかを。



 地球に至るまでの長い年月、フィシスが自分を責め続けたこと。キースに自分が漏らした情報、そのせいで起こったナスカの悲劇。
 キースが船から逃げなかったら、悲劇は起こらなかったから。トォニィが牢獄を破壊したって、道順がまるで分からなければ、キースは取り押さえられた筈。格納庫に辿り着く前に。
(…あれはホントに不幸な事故で…)
 不可抗力だったとは思うけれども、フィシスが皆に話していたなら、結果は違っていただろう。牢獄には監視の者がつけられ、万一に備えて格納庫にも配備されたろう警備の者たち。逃亡を防ぐ手立てはあった。…フィシスが正直に話していれば。
(嘘をついてでも、みんなに話していてくれればね…)
 キースに近付いた理由は何かを、誤魔化してでも。それとも、あれも歴史の必然だろうか。前の自分が目覚めたように、フィシスがキースに近付いたことも。…皆に黙っていたことも。
 後に心の傷になるほど、フィシスを後悔させたキースとの出会い。牢獄を覆うガラス越しに手を重ねたこと。キースから何かを得ようとして。
 けれどフィシスは答えを得られず、キースも持ってはいなかった答え。自分たちの生まれ。
 フィシスは手掛かりさえも掴めないまま、白いシャングリラに残された。逃げたキースが戻った時には、メギドの炎を連れて来たから。…前の自分はメギドを沈めて死んだから。
 サイオンを与えた自分が死んだら、薄れて消えてゆくフィシスのサイオン。心細い日々を過ごす間に、きっとフィシスは…。
(自分の記憶の中を探って…)
 答えを見付け出そうとした。自分はいったい何者なのか、どうしてキースに惹かれたのか。
 多分、トォニィの言葉が切っ掛けになって、記憶が戻ったのだろう。
 「あのメンバーズと同じ匂いがする」という冷たい言葉。「ミュウではない」と切り捨てるかのような、残酷だけれど真実を突いていた言葉。
 そう言われたら、過去を探りたくもなる。ただでもサイオンが薄れ始めて、不安なのだから。
 予知能力の次は何を失くすか、恐ろしくてたまらなかった筈。「自分はミュウだ」という証拠が欲しくて、フィシスは過去へと遡ったろう。
 前の自分が消してしまった、「ユニバーサルでの悲しい記憶」を追って。



 そうやって記憶を辿っていったら、見付かるだろう「ソルジャー・ブルーとの出会い」。それがフィシスの最初の記憶だろうから。…機械が与える知識とは違う、「ヒト」との出会い。
(研究者たちとも違うものね…?)
 彼らはフィシスを水槽越しに観察していただけ。たまにガラスを叩いたりして。
 けれども、前の自分は違った。フィシスが夢見る地球に魅せられ、触れたくなった幼い少女。
 ガラス越しでもかまわないから、と中の少女に呼び掛けた。「こっちへ」と「手を重ねて」と。応えるかのように微笑んだフィシス。…人魚のようにゆらりと揺れて、ガラスの側に来た少女。
(あれが、フィシスと前のぼくとの出会い…)
 フィシスがそれを思い出したら、ほんの一瞬の記憶にしたって、色々なことが掴めた筈。
 前の自分と出会った時には、「間にガラスがあった」こと。「周りには水があった」事実も。
(ガラスと水に気付いたら…)
 分かるだろう、フィシスがいた環境。其処が「人工子宮ではなかった」こと。水の中なら、人工子宮と人工羊水だろうけれども、其処は胎児がいるべき所。自我さえも無い生命が。
 なのにフィシスは、もう胎児ではなくなっていた。幼かったとはいえ、少女と呼ぶのが相応しい姿。とうに人工子宮から出て、養父母たちの許で養育されているべき筈の。
 フィシスでなくとも、おかしいと気付く自分の生まれ。胎児ではないのに、どうして人工羊水の中にいるのか。何故「生まれては」いないのか。
(それでも、マザー・システムの実験までは…)
 幼かったフィシスには分からないのだし、キースからも情報は得られないまま。
 シャングリラが燃える地球を後にし、フィシスが自分の生まれを語った時には、キースの正体はまだ明らかになっていなかった筈。もう少し時が経つまでは。
 だからフィシスは本当のことを知りようもないのに、それをシャングリラで話したとなったら、きっとフィシスは…。
(他の水槽にあったサンプル…)
 その存在を思い出したのだろう。水槽の記憶を追ってゆく内に。
 成長したフィシスにそっくりだった、目を開けていた標本を。虚ろな目をして死んでいた女性、あれに気付けば「自分だ」と分かる。「同じようなモノが幾つもあった」と。
 そういう標本が幾つもあるなら、きっと自分は「作られたモノ」に違いないと。



 フィシスはか弱い女性だったけれど、予知能力があったほどだし勘は鋭い。自分の正体に纏わる情報、それを得たなら見抜いただろう。同じ標本が幾つもあっても、クローンではないと。
(…クローンだったら、あんな大掛かりな実験を…)
 するわけがないし、水槽で育てる必要も無い。様々なピースを組み立ててゆけば、いずれ答えは自ずと出てくる。「無から作られた生命」だと。「機械が自分を作ったのだ」と。
(…そんな形で知るなんて…)
 自分はいったい何者なのかを、恐ろしい形で悟ること。
 フィシスはそれに耐えたけれども、自分だったら耐えられない。自分とそっくり同じ顔をした、標本を思い出すなんて。…自分の「死体」を目の前に突き付けられるだなんて。
 いくら記憶の中だとはいえ、血が凍るような思いだろう。死体になった自分を見るのは。自分と同じ顔の死体が、すぐ側でこちらを見ているなどは。
(…今のぼくなら、怖くて泣いちゃう…)
 自分が誰かを思い出す前に、「自分の死体」の記憶だけで。しかも標本になった死体で、自然な死とは異なるもの。何の感情も無い表情でも、もうそれだけで恐ろしい。
 彼らは「目を開けている」のだから。その虚ろな目がギョロリと動いて、こちらを見そうなほどなのだから。…「お前も私と同じモノだ」と。
 そんな記憶と向き合ったフィシス。前の自分でさえ、あの標本からは目を背けたのに。
 アルタミラの地獄を見て来た自分でさえも、直視は出来なかったのに。…水槽の中の夢の少女と同じ姿の標本たち。もっと幼い標本もあれば、これから育ってゆくだろう筈の姿も。
(…なんて悪趣味なことをするんだろう、って…)
 標本を残す必要があるにしたって、別の所に置けばいい。今「生きている」少女の目にまで映る所に置かなくても。…水槽の中から見回したならば、目に入る場所に並べなくても。
(そう思ったから、いつも…)
 水槽の中のフィシスを訪ねる時には、自分が立つべき位置を選んだ。あの忌まわしい標本たちと自分が、フィシスの視界に一緒に入らないように。見えない瞳が標本を捉えないように。
 それほどに避けた、フィシスの「死体」。幾つも並べられた標本。
 フィシスがあれを思い出した上に、恐怖を誰にも話せないまま、「自分は何か」に気付いて怯え続けたなんて。ミュウではなくて「無から作られた生命」、それを悟って苦しんだなんて。



(前のぼく、酷いことをしちゃった…)
 恐ろしい思いをさせてしまったフィシス。…前の自分の我儘だけで、攫って船に迎えたのに。
 前の自分がミュウにしなければ、フィシスは盲目の指導者として後世に名を残した筈。ミュウを容赦なく殺し、追い詰める敵だったとしても。あるいはキースのような人類が、何十年か早く世に出ていたか。…SD体制を前の自分と一緒に滅ぼす存在として。
 その道をフィシスは歩めなかった。前の自分が青い地球が欲しくて、横から掠め取ったから。
 フィシスの未来を閉ざしてしまって、「処分」される方に進ませたから。
 自分の望みを叶えるために手に入れたならば、責任を持つべきだった。フィシスが歩む人生に。途中で自分がいなくなるなら、なおのこと。
(それに、前のぼくが死んじゃったら…)
 フィシスは力を失うのに。…ミュウの証のサイオンを失くして、船の仲間が頼りにしている予知能力も消えてしまうのに。
(サイオンが消えたミュウの話は知らなかったけど…)
 きっとフィシスなら乗り越えられる、と勝手に思っていた自分。フィシスの意見も聞かないで。
 どうしてフィシスに「本当のこと」を話してやらなかったのだろう。前の自分が死んだ後には、どんな未来が待っているのかも。
 真実を知って衝撃を受けるフィシスを、慰めてやれただろう間に。前の自分がしたことを詫び、これからフィシスが歩むべき道を示してやれただろう間に。
(…ぼくに余裕が無かったから…)
 赤いナスカが見える宇宙で目覚めた時には、命の終わりが見えていた。…予知が出来なくても、予兆なら分かる。「何かが起こる」と、「此処で自分の命は尽きる」と。
 命の終わりが近いのだから、迫り来るハーレイとの別れ。
 十五年もの長い眠りから覚めて、ようやく出会えた愛おしい人。けれどシャングリラの中は混乱していて、二人きりの時間は持てないまま。多忙を極めていたキャプテン。
 このまま別れるしかないのか、と悲しみに心を覆われていたから、気が回らなかったフィシスのこと。天体の間を訪ねて行っても、どうするべきかを考えなかった。
 自分が船へと連れて来たくせに。自分が死んだらサイオンが消えるのも、知っていたくせに。
 フィシスは不安を口にしたのに、死神のカードを燃やしただけ。曖昧な言葉を口にしながら。



 怯えるフィシスに、「君にかけられた呪いを解く時が来たようだ」と告げたのだけれど。
 遠回しすぎて、あれで通じるわけがない。「呪い」は前の自分のサイオンだなんて。長い年月、フィシスを縛っていた呪い。それが解けたら、何が起こるというのかも。
 呪いが解けて「サイオンを失くした」後のフィシスが、「自分の足で歩いてくれれば」と願ったけれども、それは自分への言い訳だろう。フィシスに何も教えはしないで、去る自分への。
(…前のぼくって、残酷すぎたよ…)
 フィシスの生まれを、自分の口からフィシスに話さなかったこと。
 機械が無から作った生命、神が全く関与しない命。そう生まれたのは、フィシスの責任などではないというのに。…フィシスには何の責任も無くて、ただ「生まれて来た」だけなのに。
 そういう生まれのフィシスを自分が「望んだ」のなら、機械から奪い取ったなら。
 責任を取るべきなのは自分で、フィシスの苦痛を和らげるべき。「君のせいじゃない」と、全て機械がやったことだし、「君は生まれて来ただけだよ」と。
 それに、そうして生まれたフィシスを「欲しがった」のが自分だから。…船の仲間たちを騙してまでも、ミュウにして「連れて来た」のだから。
(…前のぼく一人だけにしたって…)
 欲しがる人間がいたのだったら、フィシスの命に意味はある。無から生まれた生命でも。機械が作ったものであっても、「望まれて」生きているのだから。
 それをフィシスに話してやったら、どれほど喜んでくれただろう。自分の生まれを知って衝撃を受けた後でも、きっと笑みさえ浮かべていたに違いない。「生まれて来られて幸せでした」と。
 もしも標本にされていたなら、それこそ「役に立たないモノ」。
 前の自分に青い地球の姿を見せられもせずに、ガラスケースの中に浮かぶだけ。虚ろな顔で。
 そうはならずに生きられたのだし、フィシスは涙も流したろうか。シャングリラで生きた年月を思って、「此処に来られて幸せです」と。
 フィシスの生まれを教えた後には、サイオンがいずれ消えてゆくことも、一緒に話しておくべきだった。「今すぐじゃないよ」と、優しい嘘をつきながら。
 前の自分の寿命の残りが少なかったことは、船の誰もが知っていたこと。ずっと前から。
 ジョミーを船に迎える前から皆が覚悟をしていたことだし、不審がられはしなかったろう。その時が来たら何が起こるか、フィシスに聞かせておいたとしても。



 メギドへと飛んで行ってしまう前に、出来ることなら幾つでもあった。…フィシスのために。
 前の自分の我儘だけで、攫ったフィシス。歩んでゆくべき道を狂わせ、台無しにしたフィシスの人生。もしも自分がミュウにしなければ、輝かしい未来があったのに。機械が無から作った生命、盲目の女性としてであっても、立派に人類を導けたろうに。
 そちらの道を歩んでいたなら、ジョミーとキースがそうだったように、前の自分と敵対した後、友になれたかもしれないのに。
 けれど、自分がそれを奪った。フィシスの身から、自分勝手な我儘で。
 そうやって船に連れて来たなら、その責任を取るべきだった。サイオンを失くした後は、仲間とどう生きるべきか。それを誤魔化すか、理由は不明だと皆に話して、同情の中で生きてゆくか。
(サイオンを失くしちゃったんなら…)
 船の仲間たちは心配しつつも、フィシスの面倒を見てくれただろう。予知能力で皆を導いて来た功労者だけに、それこそ引退生活という形でも。
 フィシスの生まれを知らないままなら、皆はきちんと世話してくれる。サイオンの力で得ていた視力を失ったならば、誰かが側で支えてやって。身の回りの世話をする係も増やして。
 きちんとフィシスに話しておいたら、その方法も可能だった筈。フィシスは皆に嘘をつくことになるのだけれども、それが一番いい方法。原因不明で失くしたサイオン、そういうミュウだと偽ること。生まれのことは明かさないで。
(前のぼくが、そう教えておけば…)
 最善の策だと話しておいたら、フィシスは素直に従ったろう。それがソルジャー・ブルーの意志なら、良心の呵責は押し込めておいて。「これがブルーの望みだから」と。
 そうすればフィシスは、後に苦しみはしなかった筈。
 自分のサイオンが何故消えたのかを、どうしてキースに惹かれたのかを、自分で探って恐ろしい答えを得るよりは。…水槽の中で暮らしていた頃の記憶を頼りに、全てを思い出すよりは。
(…前のぼくと出会った記憶はいいんだけれど…)
 自分そっくりの標本が「生まれ」の手掛かりだなんて。
 虚ろな目をして並んだ標本、あれをフィシスが思い出したなんて。
 きっとフィシスは悲鳴を上げたことだろう。…前の自分でさえ、目を背けていた光景だから。
 ガラスケースの中に並ぶ標本、それをフィシスが目にしないように、気を配り続けたのだから。



 前の自分がフィシスに歩ませた、残酷な道。…黙ってメギドへ飛んで行ったせいで。
(…ぼくって駄目だ…)
 フィシスに味わわせた、酷い運命。前の自分がいなくなった後で。前の自分だけを慕い続けて、青い地球を見せてくれていたフィシス。心優しい、ミュウたちの女神。
 船の誰もが注目する立場にフィシスを立たせて、それなのに船に置き去りにした。機械が無から作った彼女を、ミュウでさえもなかった哀れなフィシスを。
 しかも「自分はヒトでさえもない」と、フィシス自身に悟らせたなんて。…サイオンを失くして心細い中で、水槽の記憶とおぞましい標本たちの群れから気付かせたなんて。
(自分は誰かを、みんなに話せるようになるまで…)
 どれほどフィシスは辛かったことか、苦しかったことか。白いシャングリラに、頼れになる者は誰もいなかったから。…前の自分がいなくなったら、もう誰も。
 フィシスの生まれ以外のことなら、皆が相談に乗れるのに。…「サイオンを失くしたミュウ」のフィシスなら、誰でも味方になってくれるのに。
 けれど、一人もいなかった味方。周りは全て敵のようなもの。フィシスの本当の生まれを知った途端に、手のひらを返すように背を向けるだろう。
 人類どころか、「機械が無から作った生命」なのだから。理想的な人類の支配者として、機械が作った者なのだから。
(ハーレイは知っていたのにね…)
 フィシスの生まれも、前の自分がどうやって船に連れて来たかも。
 船の仲間たちを裏切ることになるのを承知で、サイオンを与えてミュウにしたフィシス。それをハーレイは知っていた。ハーレイにだけは全てを話して、その上でフィシスを迎えたから。
 そのことをフィシスに話しておいたら、ハーレイが支えになっただろうに、と思ったけれど。
 前の自分がいなくなった後は、ハーレイがフィシスの相談相手になった筈だと考えたけれど…。
(…ハーレイがフィシスの相談相手…)
 そうなるのならば、フィシスは何度もハーレイの許を訪ねただろう。困りごとが出来た時にも、良心の呵責に耐えかねた時も。「…話を聞いて頂けますか?」と。
 もちろんハーレイはフィシスを迎えて、きちんと向き合って話を聞いて…。



 ふと目の前に浮かんだ光景。キャプテンの部屋を訪ねるフィシス。…ハーレイの仕事が終わった後に。航宙日誌を書いているだろう、そういう時間に。
 チリッと微かに痛んだ胸。「その椅子は、ぼくの椅子なんだよ」と。
 ハーレイがフィシスに勧める椅子は、前の自分が座っていた椅子。キャプテンの部屋を訪ねて、机の側で。航宙日誌を綴るハーレイを見守っていたり、二人、色々な話をしたり。
 其処に自分がいなくなった後、フィシスが座る。…キャプテンの部屋を訪ねて行って。
 「どうぞ」と椅子を引いて貰って、紅茶なども淹れて貰ったりして。
 もう其処に自分は座れないのに。死んでしまって、ハーレイが勧める椅子に座れはしないのに。
(…そのせいで、前のぼく、黙っていたの…?)
 まるで自覚は無かったけれども、フィシスへの嫉妬。白いシャングリラに残ったフィシス。前の自分が飛び去った後で、命の焔が燃え尽きた後で。
 自分がいなくなった後にも、ハーレイと同じ船でフィシスは生きてゆくから、「渡さない」と。
 いくらフィシスが辛い思いをするにしたって、ハーレイに慰めさせてたまるものか、と。
 それで黙って飛び去ったろうか、メギドへと…?
 天体の間でフィシスと話した時には、自分の命が何処で尽きるか、場所までは掴めていなかったけれど。漠然と「死ぬのだ」と思っただけで。
 それでも死には違いないから、フィシスにハーレイは渡せない。自分のための椅子をフィシスに譲れはしない。…ハーレイは自分の恋人なのだし、死んだ後なら、なお譲れない。
 自分が戻ってゆけない場所に、代わりにフィシスがいるなんて。
 ハーレイの優しい慰めの言葉、それを貰うのがフィシスだなんて。
(そうだったわけ…?)
 嫉妬で黙っていたってこと、と前の自分がしでかしたことに愕然とした。
 自分の我儘でフィシスを攫って連れて来たくせに、最後は嫉妬で突き放すなんて。…フィシスの力になれそうな人を、近付けないようにしたなんて。
 「ハーレイだったら相談に乗ってくれるからね」と言いもしないで、飛び去った自分。
 そのハーレイは自分の恋人なのだし、フィシスに渡してたまるものか、と。



 ますます酷い、と呆れ返った、前の自分がフィシスにやったこと。あまりにも自分勝手で我儘、まるで小さな子供のよう。…今の自分はチビだけれども。
 ホントに酷すぎ、と思っていたらチャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり、打ち明けた。
「あのね、前のぼく、酷かったんだよ…」
「はあ?」
 いきなり何を言い出すんだ、と怪訝そうな顔をしたハーレイ。「何の話だ?」と。
「フィシスのこと…。どういう生まれか話さないままで、船に放って行っちゃった…」
 キースと同じで、機械が無から作った生命。…それがフィシスで、ミュウでもなくて…。
 前のぼくの我儘で攫わなかったら、フィシス、普通に生きていけたと思うのに…。
 ホントのことを黙ったままで行っちゃったんだよ、と話した前の自分のこと。フィシスに明かす機会と時間はあったというのに、それをしないで行ってしまった、と。
「あれはお前なりの配慮だったろ?」
 フィシスが一人で歩けるようにと、お前はわざと突き放したんだ。いなくなっちまう前のお前に頼っていたんじゃ、フィシスは前には進めないから。…お前無しでは。
 違うのか、とハーレイも信じ込んでいる前の自分の言い訳。前にそういう話をしたから。
「…そう思ってたけど、違ったみたい。今のぼくも、そのつもりだったんだけど…」
 よく考えたら違ってたかも…。前のぼく、フィシスに嫉妬していて、そのせいで…。
「嫉妬だって? お前がか?」
 なんでまた、とハーレイは驚くけれども、さっき自分が感じた痛み。胸にチリッと。あの痛みは多分、本当に嫉妬。…前の自分がきっと感じただろうもの。
「うん、嫉妬…。フィシスの生まれを話すんだったら、ハーレイのことも話さなきゃ…」
 前のハーレイだけは知っていたでしょ、フィシスが何処で生まれたか。…正体だって。
 だからフィシスに言わないと…。ハーレイは全部知っているから、力になってくれるよ、って。
 前のぼく、それを言うのが嫌だったのかも…。ぼくに自覚は無かったけれど…。
 ハーレイをフィシスに盗られちゃう、って。ぼくはハーレイの側に、いられなくなるのに…。
「なるほどなあ…」
 俺が相談役になるなら、そうなるか…。フィシスの居場所は、俺の側だな。お前じゃなくて。



 分からんでもない、と頷いたハーレイ。
「それまでだったら、フィシスの居場所は前のお前の隣だったが…。それが変わる、と」
 お前がいなくなっちまったら、フィシスは独りぼっちだし…。サイオンだって消えちまうし…。
 もしもフィシスを託されたんなら、前のお前の分まで懸命に世話しただろう。
 あれこれと手を尽くして回って、フィシスが傷つかないように。
 サイオンが消えた件はもちろん、前のお前ならこうしただろう、って色々とな。
 それがキャプテンの務めでもあるし…、とハーレイは否定しなかった。フィシスの世話を焼くということを。相談役としても、ソルジャー・ブルーに代わる保護者としても。
「やっぱりね…。今のぼくが思った通りだよ。前のハーレイがフィシスにしてあげること」
 ハーレイならそうだと思っていたから、前のぼく…。わざと黙っていたのかも…。
 ホントに酷すぎ、ちゃんと話してあげないで…。前のぼくがフィシスをミュウにしたのに。
 フィシス、自分がどういう生まれか、一人で気付いて、うんと苦しんでいたんだろうに…。
 酷すぎだよね、とハーレイに話した標本のことや、フィシスが感じたろう恐怖。そういった道に追い込んでしまった前の自分は酷かった、と。自分勝手で我儘すぎた、と。
「そうだったのかもしれないが…。フィシスも辛い思いをしたかもしれないが…」
 前のお前は、フィシスよりもずっと辛かった。…違うのか?
 俺と離れてしまうと知ってて、メギドへ飛んで行ったんだ。挙句に独りぼっちになって…。
 右手に持ってた俺の温もりを失くしちまって、泣きじゃくりながら死んだんだろう?
 それを思えば、フィシスはきちんと生きてた分だけ、マシだったさ。命を持っていたんだから。
 最後はフィシス先生なんだぞ、大勢の幼稚園児たちと一緒に幸せに生きていたわけで…。
 辛い思いを乗り越えた後にはハッピーエンドの人生だった、とハーレイが言ってくれるから。
「…ぼくのこと、許してくれるかな…?」
 我儘でフィシスの人生をメチャメチャにしちゃった、ぼくを。…おまけに最後は嫉妬して…。
 つまらない嫉妬なんかのせいで、フィシスのための相談相手を教えてあげずに行っちゃった…。
「許してくれるさ、フィシスならな」
 前のお前の側に長くいたのがフィシスだろうが、きっと笑って許してくれる。
 お前の恋人が実は俺だったんだ、と聞かされようが、そのせいで俺が相談相手になれないままで終わっちまおうが。…なんと言っても、ミュウの女神だったフィシスなんだから。



 心配しなくても大丈夫だ、と慰めてくれるハーレイの温かな声。穏やかな光を湛えた瞳。
 その優しさに心が丸ごと包まれる。まるで抱き締められているかのように。
(やっぱりハーレイは、うんと優しくて…)
 ぼくのことを誰よりも分かってくれる、と思うと、前の自分が渡せなかったのも納得できる。
 残されて苦しむだろうフィシスに、相談役としてのハーレイを。
(ハーレイは、ぼくのハーレイだもの…)
 誰にも渡さないんだよ、と今の自分も欲張りな気持ち。前の自分とそっくり同じに。
 今のハーレイも、誰にも渡してしまったりはしない。譲りもしないし、貸したりもしない。
 いつまでも何処までも、ハーレイと一緒。
 誰かに「ケチ」と言われても。
 みんなの憧れの「ハーレイ先生」を、いつか結婚して、一人で独占してしまっても…。



           フィシスの生まれ・了


※前のブルーが、フィシスに何も話さないまま、メギドへ飛んでしまった理由は、嫉妬。
 自分がいなくなった後、ハーレイをフィシスに盗られないように。前のブルーの最後の我儘。
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