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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

動物の病院
(あれ…?)
 なあに、とブルーが澄ませた耳。学校の帰り、バス停から家へと歩き始めて直ぐに。
 バス通りを走る車の音はもう聞こえないけれど、代わりに耳に届いた声。住宅街の先の方から。
(猫だ…)
 声の持ち主は猫だと思う。子猫ではなくて大人の猫。
 けれど尋常ではない鳴き声。お馴染みの「ミャア」や「ニャア」とは違って、「助けて」という悲鳴に聞こえる。喧嘩しているようでもなくて、猫の鳴き声は一匹分。
(どっち…?)
 あれは何処から聞こえてくるの、と歩くと近くなって来た声。明らかに悲鳴。猫の身に起こっている何か。助けを求めて、精一杯の声で鳴き続けている。
(何処かに身体が挟まっちゃった?)
 前に友達から聞いた。垣根の間を通り抜けようとして、柵に挟まってしまった猫。挟まった猫は怯えてしまって、助け出すのが大変だったという。手を差し出したら、噛もうとするから。
(挟まったかな…?)
 この辺りの家は大抵、生垣。緑の木々を茂らせた中に、柵が入っている家も多い。生垣だけではペットが庭から外へ出掛けて、帰って来なくなることもあるものだから。
 そういう柵がついている垣根、それを通って入ろうとした他所の家の猫が挟まることも、まるで無いとは言えないだろう。通れるつもりで身体を入れたら、挟まってしまったお尻とか。
(それとも、犬…?)
 吠える声は聞こえて来ないけれども、犬に追い詰められているかもしれない。
 犬を放している家の庭に、知らずにヒョイと入り込んで。犬と出会って逃げ出す前に、逃げ場を失くしてしまった猫。
 驚いてパニック状態だったら、其処に垣根があったとしたって、別の方へと逃げそうだから。
 大慌てで側の木に駆け登るだとか、犬は入れそうにない隙間に向かって飛び込むだとか。
(ちゃんと逃げ込めたらいいけれど…)
 壁際に追い詰められていたなら、猫の力ではどうしようもない。その家の人が留守だった時は、犬を押さえてくれる人などいないのだから。



 垣根に挟まったか、犬に追われているか。どちらにしたって、とても困っているだろう猫。
(こっちの方…)
 悲鳴が聞こえてくる方向は、帰り道からは外れるけれども、助けに行った方がいいだろう。今も悲鳴は続いているから、次の角を曲がって、猫を助けに。
(落ち着かなくちゃ…)
 走ったら駄目、と足音もあまり立てないように気を付ける。挟まっている猫を驚かせたら、前に友達から聞いたのと同じことになる筈。助けようと手を差し伸べたって、噛もうとする猫。
 それでは助け出すのは無理だし、挟まったのではなくて犬がいるのなら…。
(犬がビックリして、猫をガブッと…)
 噛むかもしれない、犬は本来、ハンターだから。「うるさい猫のせいで何かが来る」と、二度と悲鳴を上げられないよう、猫を仕留めてしまう犬。
 そうなったのでは本末転倒、助けに出掛ける意味がない。とはいえ、相手が犬だったなら…。
(ぼくで何とか出来ればいいけど…)
 犬を宥めて、その間に猫を逃がすとか。家の人が留守なら、ご近所の人に助けを求めるだとか。自分は犬と馴染みがなくても、近所の人なら犬と仲良し。「こら!」と止めてもくれるだろう。
 どうやって猫を助けようか、と考えながらも「此処だよね?」と角を曲がったら。
(え…?)
 猫の悲鳴は確かだけれども、その叫び声はキャリーの中から。猫を運んでやる専用のケース。
 キャリーを抱えて家の前にいる、顔馴染みの其処の御主人と奥さん、それから車。
(…どうしちゃったの?)
 キャリーの中から悲鳴だなんて、とポカンと道に立ち尽くしていたら、気付いた二人。
「こらっ、ネネちゃん!」
 恥ずかしいだろう、とキャリーに向かって叱る御主人。「とうとう人が来ちゃったぞ」と。
 静かにしなさい、と御主人がキャリーに声を掛けても、一向に止まらない悲鳴。「助けて!」と中で叫んでいる猫。「此処から出して」と、「誰か助けて」と。



 猫に助けを求められても、側にいるのは飼い主たち。柵に挟まったわけではなくて、猛犬だっていはしない。自分の出番はまるで無いのに、猫の悲鳴は止まらないまま。
「えっと…。ネネちゃん?」
 どうなっちゃったの、と近付いて行った。御主人たちにも挨拶をして。
「ブルー君、ビックリさせちゃってごめんよ」
 あっちの方まで聞こえたんだね、と御主人がポンと叩いたキャリー。「声が凄いから」と。
「ううん、安心したけれど…。ネネちゃん、キャリーの中だから」
 助けなくちゃ、って思っていたし…。きっと酷い目に遭ってるんだ、って。
「あらまあ…。やっぱりそうだったのね」
 ネネちゃん、心配かけちゃ駄目でしょ、と奥さんも猫を叱っている。「ご迷惑だわ」と。
 御主人は申し訳なさそうな顔で、「動物病院に行く所なんだよ」と話してくれた。足にトゲでも刺さったらしくて、引き摺って歩いていたネネちゃん。御主人たちが足を調べても、素人の目ではよく分からない。それで病院に連れて行こうとしたのに…。
「キャリーには入ってくれたんだけどね、いつものお出掛けで慣れているから」
「でもね…。車まで来たら、気付かれちゃったの」
 お出掛けではないらしいことにね、と奥さんがついている溜息。
 御主人が車を出した所で、ネネちゃんは外の様子に気付いた。お出掛けの時は用意するバッグ、それが何処にも無いことに。
「これなんだけどね…。後から慌てて取りに戻っても、手遅れだったよ」
 いつもは持っているものだから、と御主人が指差す小さなバッグ。奥さんが手に提げている。
「おやつ入りなのよ、ウッカリしてたわ」
 これさえあったら、ネネちゃんは御機嫌なんだけど…。外でおやつが貰えるから。
 欲しくなったら、「ちょうだい」って言えば、バッグから出してあげるのよ。
 だから、病院に連れて行く時も、お出掛けのふりでバッグなのに…。
 今日は持つのを忘れていたの、と奥さんも御主人も困り顔。キャリーの中から今も聞こえてくる悲鳴。「誰か助けて」と、「此処から出して」と。



 動物病院が大嫌いなネネちゃん。痛い注射をされたりするから。
 おやつ入りのバッグに騙されて何度も連れて行かれて、ますます嫌いになった病院。お出掛けのつもりで家を出たのに、着いたら苦手な病院だから。お医者さんに注射されたりもして。
 すっかり懲りて行きたくないのに、今日は気付いた「バッグが無い」こと。おやつ入りバッグが見当たらないなら、行き先は動物病院だけ。それで始まった、この騒ぎ。
「どうするの?」
 ネネちゃん、凄く嫌がってるよ、とキャリーの中を覗いてみたら、猫の毛は全部逆立っていた。尻尾もパンパンに膨れてしまって、「行かない」と叫び続けるネネちゃん。
「連れて行くしかないからねえ…。でないと足を診て貰えないし」
 恥ずかしいんだけどね、この騒ぎだから。…病院の人たちは慣れっこでもね。
 ブルー君まで来ちゃうほどだし、もっと大勢の人に迷惑をかけてしまわない内に行かないと。
 車に乗せればマシになるから、とキャリーと一緒に乗り込んだ御主人。おやつ入りバッグを手にした奥さんも。
 ドアがバタンと閉まっても…。
(ネネちゃん…)
 微かに聞こえる、この世の終わりのような鳴き声。車の窓の向こうから。
 窓はピッタリ閉まっているけれど、もしも開いたら、凄い悲鳴が届くのだろう。「助けて」と、「誰か此処から出して」と。車に乗ってしまった以上は、病院に行くしかないのだから。
 けれど御主人がかけたエンジン、車はそのまま走って行った。病院嫌いのネネちゃんを乗せて。
(なんだか凄い…)
 誰か助けて、と絶叫しながら動物病院に向かったネネちゃん。キャリーの中で毛を逆立てて。
 助けてくれる人は、その病院で待っているのに。
 動物病院に到着したなら、足を診てくれるお医者さん。トゲだって直ぐに抜いて貰えて、抜いた後には消毒なども。
 病院に行けば、痛かった足が治るのに。引き摺らなくても、楽々と歩けるようになるのに。
 きっと今までにも、色々と治して貰ったのだろう動物病院。怪我も、病気も。
 病院は助けてくれる場所なのに、ネネちゃんはまるで分かっていない。「助けて」とキャリーの中で悲鳴で、そのまま運ばれて行ったのだから。



 動物だから仕方ないかな、と走り去る車を見送った後で帰った家。
 制服を脱いでおやつを食べて、二階の自分の部屋に戻って考えてみるネネちゃんのこと。今頃はとうに病院に着いて、トゲだって抜いて貰っただろう。家に帰っているかもしれない。
 大嫌いな病院はもうおしまい、と御機嫌で歩いていそうなネネちゃん。悲鳴を上げていたことも忘れて、もう痛くない足でトコトコと。
(ちゃんと言葉が通じたら…)
 人間の言葉が分かったならば、ネネちゃんも大騒ぎしたりしないで病院に行くことだろう。足を治して貰える所、と教えて貰って、キャリーに入って。
(足が痛いままで歩いているより、治った方がいいもんね?)
 けれど、猫には通じないのが人間の言葉。思念波だって。
 おじさんたちも大変だよね、と思っていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、早速報告することにした。お茶とお菓子が置かれたテーブルを間に挟んで。
「あのね、ハーレイ…。今日の帰りに凄かったんだよ」
「凄かったって…。何がだ?」
 何かいいことあったのか、と瞬く鳶色の瞳。「素敵なものでも貰ったのか?」と。
「違うよ、凄い悲鳴が聞こえて…。猫が「助けて」って鳴いていたから、行ったんだけど…」
 猫はキャリーの中だったんだよ、動物病院が大嫌いな猫。
 足が痛いのに、大騒ぎしてた。病院なんかに行きたくないのに、車に乗せられそうになって。
 それでも、乗せて行っちゃったけど…。でないと足は治らないから。
 人間の言葉、猫にも分かればいいのにね。
 病院に行けば足を治して貰えるんだ、って分かっていたなら、騒がないでしょ?
 不便だよね、と言ったのだけれど。「猫にも思念波とかが通じたら…」と考えを伝えたけれど。
「お前なあ…。人間の言葉が通じたとしても、駄目なものは駄目だろ」
 その猫は駄目だと思うがなあ…。それだけ叫んでいたんだったら。
「なんで?」
「簡単なことだ。お前、注射に行きたいのか?」
 病院に行けば注射なんだろ、あれで病気は良くなるんだが…。
 お前、喜んで病院に行くのか、注射を打たれると分かっていても…?



 どうなんだ、と覗き込まれた瞳。「お前、病院に行きたいか?」と。
「あ…!」
 そうだったっけ、と気が付いた。ネネちゃんは注射が嫌いだけれども、自分も同じで大嫌い。
 恐らくは、前の自分のせいで。アルタミラで酷い目に遭わされた注射、その恐ろしさを何処かで覚えていたせいで。…記憶が戻るずっと前から。幼い子供だった頃から、苦手な注射。
 それを打たれると分かっているから、病院は嫌い。行けば治療をして貰えると知ってはいても。
「ほらな、お前も嫌いだろうが。…病院と注射」
 猫のこと、言えた義理じゃないよな、お前だって。「助けて」と叫ばないだけで。
 つまり言葉が通じたとしても、駄目なものは駄目ということだ。病院も、それに注射もな。
 それで治ると説明したって、お前も猫も嫌がるだけだ。
 一度嫌いになっちまったら無理ってもんだ、と猫と同列にされてしまった。病院が嫌いで騒いでいた猫、車に乗っても叫び続けていたネネちゃんと。
「ぼくは違うよ、病院に行って嫌いになったわけじゃないから…!」
 アルタミラのせいで嫌いなんだってば、注射。…前のぼくだって嫌いだったし…!
 注射は抜きで、って頼んでいたよ、と前の自分の注射嫌いを指摘した。寝込んでいたって注射を拒否したソルジャー・ブルー。「それは嫌いだ」と、ノルディにプイと背中を向けて。
「それはそうだが…。前のお前も苦手だったし、今のお前もそれを覚えていたんだろうが…」
 お前、散々な目に遭ったらしいしな、アルタミラでは。…注射のせいで。
 しかし、アルタミラか…。あそこは確かに、地獄みたいな場所だったんだが…。
 アルタミラなあ…、とハーレイが顎に手をやるから。何か考えている風に見えるから…。
「どうかした?」
 何か気になることでもあったの、アルタミラで?
 嫌なことでも思い出したの、と問い掛けた。前のハーレイも、檻に入れられていた実験動物。
「いや…。動物病院ってヤツは、あったんだろうと思ってな」
「動物病院?」
 何処に、と丸くした瞳。
 あったも何も、ネネちゃんだったら動物病院に行ったから。ハーレイが育った隣町にも、動物のための病院は幾つもあるだろうから。



 いったい何処の話だろう、と不思議に思った動物病院。何処の星にもあると思うし、宇宙空間に浮かぶステーションにも、併設されていそうな感じ。客船が立ち寄るステーションなら。
(ペットと一緒に旅行する人、いるもんね?)
 旅の途中でペットの具合が悪くなったら、動物病院に行くだろう。そういう時に備えて、病院。遠い星へ飛ぶ大型客船だったら、獣医さんも乗っているかもしれない。
(動物の病院、何処にでもあると思うけど…)
 それとも基地か何かの話だろうか。資源採掘用などの基地でも、其処でペットを飼っているなら動物病院が無いとは言えない。基地と聞いたら、まるで無縁に聞こえるけれど。
 ハーレイが言うのは、そうした場所かと考えたのに…。
「動物病院があった所か? …アルタミラだ」
 アルテメシアにもあっただろうな、ペットを飼う人間がいたならば。…あの時代でも、きっと。
 首都惑星だったノアとなったら、もう確実にあっただろう。大切なペットを治療するために。
 しかしだ、前の俺たちには…。
 病院なんかあったのか、と問い掛けられた。「ミュウを診てくれる病院だ」と。
「…ミュウの病院?」
 頭に浮かんだメディカル・ルーム。白いシャングリラには立派な設備が整っていた。
 白い鯨に改造する前も、医務室という名でノルディが治療していたもの。手術も立派にこなしたノルディ。独学ながらも、ミュウの時代の医療の基礎を築いたほど。今も名前が残る医師。
 けれどハーレイは「ノルディは別にしておけよ?」と言葉を続けた。
「シャングリラの医務室やメディカル・ルームは、数に入れるな」
 あそこ以外で、ミュウの治療をしてくれる病院はあったのか?
 ジョミーが人類に戦争を仕掛けるよりも前の時代に、宇宙の何処かに。
「あるわけないでしょ、ミュウの病院だよ?」
 人類がミュウを治療するわけないじゃない。…ミュウが落とした星となったら別だけど。
 そうなったらミュウが支配者なんだし、病院に来たら治療しないと…。
 薬が欲しい、って言われた時には、ちゃんと薬も処方して。
 だけど、そうなる前は違うよ。ミュウを見付けたら殺してしまうか、実験動物にしたんだから。



 病院なんかは要らないよね、と前の自分が生きた時代を思い出す。殺すか、実験動物にするか。人類がミュウにやっていたことは、その二つだけ。
「其処なんだ、俺が引っ掛かったのは」
 前の俺たちは実験動物だったわけだが…。アルタミラで檻に押し込められてな。
 いいか、動物だぞ、「実験」という言葉はつくが。…ミュウも動物の内だったんだ。
 おまけに見た目は人類そっくり、それだけじゃ誰も区別がつかん。サイオンの有無でしか、判断出来なかっただろうが。…人類にも、マザー・システムにも。
 それほど人類に似ていたのに、だ…。ミュウの病院は無かっただろう?
「無かったけど…」
 あれだけミュウを嫌ってたんだし、治療しようと思うわけがないよ。
 実験で死んでしまったとしても、厄介なのが一人減ってくれたと考えるだけ。…あの時代なら。
 そうじゃないの、とハーレイの瞳を見詰めたけれども、「その人類だ」と返したハーレイ。
「前の俺たちを、せっせと傷めつけてた人類。…アルタミラでな」
 あいつらがペットを飼っていたなら、どうしたと思う?
 ペットが病気になった時には。…実験を終えて家に帰ったら、ペットの具合が悪かったら。
「病院でしょ?」
 急いで病院に行ったと思うよ、手遅れになったら大変だもの。
 病院が開いてる時間だったら、もう大急ぎ。…閉まっちゃってても、連絡しそう。この時間でも診て貰えませんか、って。…駄目なら、家でも出来そうな手当てを教えて下さい、って。
「お前の意見もそうなるか…。俺もそうだと思うんだ」
 次の日に研究所に遅刻したって、まずはペットの治療だろうと。
 もしも入院が必要だったら、直ぐに入院させただろうな。そして仕事が終わった後には、病院へ見舞いに出掛けてゆくんだ。「良くなったか?」と。
 ミュウってヤツはだ、ペット以下だとは思っていたが…。
 そいつは前から気が付いていたが、病院も無かったと来たもんだ。
 動物だったら、動物病院に行けば診察して貰えたのに…。無論、治療も受けられた。
 だが、俺たちは駄目だったんだ。同じ動物でも、ミュウというだけで。



 治療されていた実験体は少ないぞ、と言われなくても分かること。
 ミュウは実験動物だったし、ペットと違って治療などして貰えない。どんなに具合が悪くても。放っておいたら死んでしまうと、誰の目にも分かるような時でも。
(…前のぼくは治療されていたけど…)
 それが例外だっただけ。
 前の自分は一人しかいないタイプ・ブルーで、もしも実験で死んでしまえば、二度と得られない様々なデータ。他のミュウでは、タイプ・ブルーのデータを取れはしないから。
 唯一の貴重な実験動物。ただ一人きりのタイプ・ブルー。
 それを殺してしまわないよう、研究者たちは治療し続けた。手荒に扱い、足蹴にしても。過酷な人体実験をされて、半ば死体と化した時でも。
(これで死ぬんだ、って何度思っても…)
 再び目覚めた檻の中。まだ続くのだと思い知らされた地獄。
 生きていてもいいことは何も起こらないから、心も身体も成長を止めた。生きる望みも、希望も失くして。未来への夢も、自分自身への励ましさえも。
 そうやって、息をしていただけ。研究者たちに生かされただけ。
 成人検査よりも前の記憶も失くしてしまって、何もかもどうでも良かった日々。狭い檻の中で、ただうずくまるだけ。檻から外へ出ることさえも、夢に見たりはしなかった。
(同じ檻でも、ハーレイたちは…)
 生き延びようとしていたのに。いつか必ず其処を出ようと、その日まで生きて生き抜くのだと。
 まるで希望が見えない日々でも、未来を見詰めたハーレイたち。「いつか、きっと」と。
 だからアルタミラがメギドの炎に滅ぼされた時、子供だったのは前の自分だけ。
 ハーレイたちは檻の中でも育ち続けて、大人の身体を持っていたから。宿る心も、当然、大人。
 彼らに助けられなかったら、前の自分は燃えるアルタミラで命尽きたに違いない。
 閉じ込められていたシェルターはサイオンで破壊出来ても、するべきことが分からないから。
 逃げるべきだと気付きもしないで、座り込んだままでいただろうから。
(ハーレイが助け起こしてくれて…)
 他の仲間たちを助けなければ、と促されたから、やっと分かった為すべきこと。
 それくらいに子供だったのが自分、前のハーレイたちとは違って。



 アルタミラがメギドに焼かれた時には、とうに青年だったハーレイ。
 タイプ・グリーンの身では、実験で何が起こったとしても、治療はされなかっただろうに。前の自分が受けていたような、本格的な治療などは。
「…前のハーレイも、治療はされていないんだよね?」
 アルタミラにはミュウの病院は無かったんだし、あの頃はノルディも檻の中だし…。
「前のお前みたいに、丁寧な治療じゃなかったな」
 死んじまっても代わりはいるから、せいぜい飲み薬って所だったぞ。餌と一緒に突っ込まれて。
 自分で飲み込む力が無ければ、其処で終わりというわけだ。
 お前だったら、意識が無くても身体中に管を繋いでいたろうが…。必要だったら酸素もな。
 しかし、俺たちはそうじゃなかった。運が良ければ生き延びるだろう、って扱いだ。
 そいつを飲め、って顎をしゃくっておしまいだから。…餌を突っ込みに来た時に。
「それは治療と言わないの?」
 薬を飲ませていたんだったら、治療みたいな気もするけれど…。
 自分で飲まなきゃ駄目なんだったら、やっぱり治療じゃないのかな…?
「違っただろうな。積極的に生かすためではなかったから」
 無理やりにでも喉に薬を突っ込んでたなら、荒っぽくても治療だろうが…。薬は正しく飲ませたわけだし、治そうという意図はある。俺たちが派手にむせていたって。
 だがな、ヤツらはそうしなかった。「飲んでおけ」と檻に突っ込んだだけだ、薬と水を。
 這いずってでも自分で飲めるようなら、勝手に治ると思ったわけだな。
 データを取っていたかもしれんぞ、「此処までやっても治るようだ」というデータ。
 意外にしぶとい、と嘲笑いながら、下等動物のミュウのデータを。
「それって酷い…」
 本当にデータを取っていたなら、と顔を曇らせたけれど、ハーレイは「有り得るぞ」と答えた。
「俺のデータを見てはいないが、似たようなデータならあった」
 テラズ・ナンバー・ファイブが抱え込んでた、アルタミラのミュウの記録の中にな。
 殺す目的でしていた実験もあるし、もう本当に動物以下だ。
 ヤツらが家で飼ってたペットは、具合が悪けりゃ病院に連れて行ったんだから。



 死ぬか生きるかの病気でなくても、ちょっとした怪我で病院だろう、とハーレイは顔を顰めた。
 「お前が帰りに見た猫みたいに、トゲが刺さっただけでもな」と。
「俺たちだったら、トゲどころかモリが刺さっていたって、ヤツらは放っておいただろうが…」
 あれだけの怪我だといつ死ぬだろう、とデータを取ったと思うんだが…。
 ペットの怪我となったら別だな、小さなトゲでも大騒ぎだ。病院に連れて行かないと、と。
「病院…。前のぼくだって、ちゃんと連れて行ってくれていたなら、もうちょっと…」
 あまり病院らしくなくても、治療用の部屋に…。
「どうした?」
 いったい何がどうなるんだ、とハーレイが訊くから、「注射だよ」と零した溜息。
「前のぼく、注射嫌いにならなかったかな、って…」
 壁とベッドしか無いような部屋でも、檻とあんまり変わらなくても、治療用の場所。
 前のぼくが半分死にかけていても、其処に運んで、意識がある間に注射して…。
 「これで治る」って言ってくれてたら、治る注射もあるんだってことが分かったよ。…それきり意識を失くしたとしても、次に気が付いたら檻の中でも。
 治る注射をしてくれたんだ、って知っていたなら、注射も少しは好きになれそう。
 ネネちゃんみたいに騒がないよ、と病院嫌いの猫の名前を挙げたのだけれど。
「何を期待しているんだ、お前。…人類ってヤツに」
 人類がそうしてくれていたなら、アルタミラは星ごと滅ぼされていないぞ。
 後の時代のミュウにしたって、端から殺しちゃいないってな。人類が情けを持っていたなら。
「そうだよね…。人類にとっては、ミュウは殺してもいいもので…」
 殺しちゃうのが正しい道で、殺さないなら実験動物。…病院も無しで、治療も無しで。
 だけど悲しいよ、ペット以下だなんて…。
 飼ってるペットが病気になったら、大急ぎで病院に連れて行くのに…。
 見た目が人類にそっくりのミュウは、治療もしないで死ぬまで放っておかれたなんて…。
 自分で薬を飲めなかったら、それっきり。
 ちょっと起こして飲ませてくれたら、沢山のミュウが、きっと死なずに済んだのに…。



 前のハーレイたちは薬を飲んだけれども、そうして命を繋いだけれど。
 それほどの強さを持たなかった者は、檻の中で死んでいったのだろう。「飲め」と突っ込まれた薬を飲んだら、生き延びることが出来たのに。…飲みたいと思いもしたのだろうに。
「…ねえ、ハーレイ…。檻に突っ込まれたっていう薬…」
 飲みたくても飲めなかったミュウもいるよね、もう起き上がる力も無くて。
 あれが欲しい、って水を見ながら死んでった仲間…。薬だってことも分かってたのに…。
「そりゃいただろうな、一人や二人ではない筈だ」
 実験の後で檻に放り込まれて、「飲め」と突っ込んでいくんだから。
 俺だって「薬だ」とピンと来たから、迷いもしないで飲んだってわけで…。何処の檻でも、意識さえあれば気付いただろう。「あれで治る」と。
 そうは思っても、身体が動いてくれるかどうかは、また別だから…。
 あれさえ飲めたら、と思う間に意識を失くして、そのままになった仲間たちの数は多いだろう。
 さっきお前が言ったみたいに、ちょいと起こして飲ませてくれたら、命を拾えていたのにな?
 それをしないで放っておくって酷いことをだ、平気な顔でやっていたのが人類だ。
 もっとも、マザー・システムが無ければ、そうはならなかったかもしれないが。
 前にも言ったが、記憶処理が不可能だったなら…な。
「記憶処理…。可哀相だ、って思う人が出て来るってことだね」
 ミュウの扱いに疑問を持つ人。…これでいいのか、って考える人。
 マザー・システムは、そういう思考を消してしまうことが出来たけど…。記憶を処理して。
 これは危険だ、って判断したなら、その考えは消してしまって、それでおしまい。
 記憶の処理を続けていたから、ミュウを可哀相だと考える人は出て来ないまま…。
 そう思っても、次の朝には消えてるものね、とハーレイの意見に頷いた。ミュウにも治療をしてやるべきだ、と誰かがチラと考え付いても、機械が思考を消していた社会。そういう時代。
「うむ。マザー・システムさえ、あそこに存在していなかったら…」
 ミュウの扱いは酷すぎないか、と一度思ったら、後は疑問が膨らむだけだ。
 どうも変だ、と気になって来たら、他の人類にも「どう思う?」と訊いてゆくんだろうし…。
 その内に考えが変わるわけだな、ミュウの扱いを改善してゆく方向へ。
 最初は治療を始めることから。…無闇に殺すのをやめちまったら、次は殺さない方向へとな。



 マザー・システムさえ無かったならば、人類はミュウを生かしただろう、とハーレイは語る。
 ミュウが初めて現れた頃には忌み嫌っても、やがて考えが変わっていって。
 最初は実験動物の治療、無闇に殺さないように。生かしておくことが普通になったら、ミュウを殺そうという考え自体が薄らいでいって。
「動物の病院にしたってそうだな。今じゃ何処にでもあるんだが…」
 ペットを連れての旅も多いし、中継基地になるステーションには動物病院がセットなんだが…。
 その動物の病院ってヤツが、昔は無かったもんだから。…宇宙の何処を探してもな。
「え…?」
 動物の病院、アルタミラにもあっただろう、って、ハーレイ、言っていたじゃない。
 アルテメシアにもきっとあった筈で、ノアにあったのは確実だ、って…。
 ちゃんとあったよ、動物病院。…前のぼくは覗いていないけれども、きっと沢山…。
 無かったなんてことはないでしょ、とハーレイの間違いを指摘したのに。
「前の俺たちの頃じゃない。…もっと昔だ、地球が滅びるよりも遥かに前の時代だ」
 人間が地球しか知らなかった頃で、それほど豊かじゃなかった時代。食べていくのが精一杯で。
 その時代には、ペットはごくごく一部の人しか飼ってはいなかったんだ。本当のペットは。
 犬は猟をしたり家の番をするのが仕事だったし、猫はネズミを捕るのが仕事。
 人間様が生きるので精一杯なら、動物のための病院なんかがあるわけがない。今みたいなのは。
 牛とか馬とか、財産と呼べる動物のための医者は存在したらしいがな。
 とにかく人間が生きなきゃならんし、増えすぎたペットは殺しちまうのも普通だったから…。
 こんなに沢山飼えやしない、と生まれたら直ぐに捨てちまってな。
「…そんな…」
 動物の赤ちゃんを捨てたっていうの、お母さんがいないと死んじゃうのに…。
 自分で餌を捕れないどころか、ミルクしか飲めないのが赤ちゃんなのに…。
 可哀相すぎるよ、と驚いたけれど、本当にあったことらしい。ネズミ退治用に飼っていた猫が、子供を産みすぎてしまったら。…番犬の犬も同じこと。
 生まれた子供を欲しがる人がいない時やら、人間の食べ物を確保するのも危うい時には、小さな命が犠牲になった。沢山の犬や猫を飼うだけの余裕を、人間は持っていなかったから。



 海に流されたり、山に捨てられたりした命。「とても育ててゆけない」と。
 それを責める人はいなかった。そうすることが正しかったし、皆、当然だと思っていた。明日は自分が同じ選択を迫られるかもしれないから。
「そういう時代もあったというのに、動物病院が普通になったんだ」
 人間の生活に余裕が出来たら、ペットも家族の一員ってな。…今と同じで。
 子猫や子犬が生まれすぎても、もう捨てたりはしなかったそうだ。貰ってくれる人を探したり、頑張って自分で飼ってみたりと。
 病気になったら、もちろん病院。夜も寝ないで看病する人も少なくなかった。
 それをしていたのは人類なんだぞ、ずっと昔の。
 本来、人類も優しかったんだ。ミュウと変わらないくらいにな。
 動物の痛みもきちんと分かっていたんだから、というハーレイの話は当たっている。前の自分が生きた頃にも、人類は優しい生き物だった。…ミュウ以外には。
「そうだね…。人類だって、基本は優しかったよね…」
 ジョミーのお父さんやお母さんみたいな人たちもいたし、他の人たちも優しかった筈。
 軍人以外は人殺しなんかしていなかったし、保安部隊が殺していたのもミュウだけだから。
 前のぼくたちは酷い目に遭ったけれども、SD体制が崩壊した後は…。
 ミュウは敵だって言い出す人は一人もいなくて、殺そうとする人も出て来なくって…。
「何処の星でも、何の騒ぎも起こらなかったというからな」
 マザー・システムを破壊しよう、と立ち上がった人類は大勢いたと伝わってるが…。
 ミュウに向かって牙を剥くヤツはいなかったらしい。どう見ても、同じ人間だからな。
 キースの野郎の大演説が無くても、きっと結果は同じだっただろう。
 前の俺たちが落としていった星でも、何処もそうだったから。
 アルテメシアも、他の星もノアも、ミュウを遠巻きに見るヤツはいても、それだけだ。
 怖がっちまうのは仕方ないよな、慣れない生き物は誰だって怖い。
 大人しい犬でも、うんとデカイのが散歩していたら泣き出す子だっているんだし…。
 それと同じだ、慣れるまでは「怖い」と思っちまうのが本能だから。



 時代だよな、とハーレイは言った。時代が来ないと、何も変わってくれないのだと。
「人類の優しさがミュウの方に向く、そういう時代。…そいつが来ないと駄目だったんだ」
 前のお前は地球に行こうと頑張ったわけだが、そんなお前が生まれて来なけりゃ駄目だった。
 ミュウ因子はSD体制が始まる前からあったし、お前が時代の変わり目なんだ。
 たった一人のタイプ・ブルーで、人類にとっては脅威だったが…。
 其処から全てが変わったんだな、地球の未来も、人類が進む方向も。
 今じゃ学校で定番になってる、「ソルジャー・ブルーに感謝しましょう」って言葉の通りに。
「褒めすぎだよ、それ…」
 前のぼくは何もしてないよ。
 SD体制を倒した英雄はジョミーとキースで、グランド・マザーを壊したのだって、あの二人。
 ぼくは地球にも行けていないし、ナスカでも眠っていたってだけで…。
 トォニィたちが生まれた自然出産も、ぼくは計画さえも知らずに寝ていたんだから。
 ホントに何もしていないのに…、と自分でも情けない気分。ソルジャー・ブルーの功績とされる物事は全部、ジョミーたちがやったことだから。
「そうは言うがだ、メギド、沈めてくれただろうが」
 あそこでメギドが沈まなければ、シャングリラの方が沈められてた。…ミュウの時代は、ずっと後まで来やしない。それは誰もが認めることだし、前のお前が始まりなんだ。今の時代の。
 ついでに今のチビのお前も、ちゃんと勇気はある筈だぞ。前のお前には敵わんが。
 悲鳴を上げてた猫を助けようとしたんだろう?
「うん…。出来ないかも、って思ったけれど…」
 柵に挟まっていたんだったら、噛まれちゃっても助けてあげられそうだけど…。
 犬に追い掛けられていたなら、ぼくだと助けられないかも…。
 小さな犬なら、ぼくでも止められそうだけど…。「こらっ!」って叱れそうだけど…。
 うんと大きな猛犬だったら、ぼくも怖くて無理だもの。



 とても助けに入れないよ、と腰抜けっぷりを明かしたけれども、ハーレイは笑いはしなかった。
 「それでも、お前、頑張っただろ?」と。
「お前の力じゃ無理と分かっても、そのまま真っ直ぐ逃げて帰りはしないだろうが」
 近所の家を端から回って、助けてくれる人を呼びに行くとか…。
 でなきゃ、犬の注意を逸らしてやろうと、何か方法を考えるとか。
「そうだと思う…。犬だった時は、誰か呼ぼうと思ってたから」
 近所の人なら、きっと犬とも顔馴染みだもの。叱ってくれたら、大人しくなると思うから…。
 そうしよう、って行ってみたのに、助ける必要、無かったけど。
 ネネちゃんはキャリーの中で鳴いてて、おじさんたちが困っていただけで…。
「病院は嫌だ、と鳴いているんじゃなあ…」
 お前は助けちゃ駄目なんだよなあ、その猫を。…どんなに悲鳴を上げていたって。
 ちゃんと病院に行かないことには、足に刺さったトゲを抜いては貰えないんだし…。
 いつまで経っても足が痛くて、引き摺ってるしかないんだから。
 それにしても平和な時代になったな、猫の悲鳴でソルジャー・ブルーの出番になるのか。
 何もかもお前のお蔭だってな、前のお前だった頃のソルジャー・ブルーの。
「褒めすぎだってば…!」
 前のぼくは何にもしていないよ、って言ったじゃない…!
 全部ジョミーたちがやったことだし、前のぼくはホントに何も関係無いんだから…!



 違うんだから、とハーレイに向かって訴えたけれど。自分でもそうだと思うけれども。
(時代なのかな…?)
 前の自分が生まれたこと。…あの時代に生を享けたこと。
 ミュウを診てくれる病院さえも無かった時代に、地球に行こうと大きすぎる夢を描いたこと。
 其処から全てが始まったのなら、それも時代の流れだろう。前の自分に力があったか、ミュウの時代を築く礎になったかどうかは、ともかくとして。
 そうして今のチビの自分は、前の自分だった頃のようには、頑張らなくてもいいようだから…。
(今のぼくなら、猫を助けに行く程度…)
 弱虫だけれど、それでいいよね、と浮かべた笑み。
 今はミュウにも病院があるし、動物用の病院ではなくて、人間用の立派な病院。
 前の自分が生きた頃より、うんと平和な時代に生きているのだから。
 ハーレイと青い地球に生まれて、幸せに生きてゆけるのだから…。




            動物の病院・了


※診察して貰える病院さえも無かった、SD体制の時代のミュウ。動物病院はあったのに。
 けれど動物病院だって、ずっと昔は無かったのです。その時が来ないと、変えられない世界。
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