シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
小糠雨
(あれ?)
降ってるの、とブルーが見上げた空。学校の帰り、バス停から家まで歩く途中に。
空は確かに曇り空。バスを降りた時には気付かなかったけれど、頬に微かに感じた水滴。
(小糠雨…)
まるで見えないような雨粒、それが漂い、落ちてくる空。鞄に入れている折り畳み傘を、広げるほどではないけれど。この程度ならば、家に帰るまで大丈夫。本当に霧のようだから。
小糠雨というのは霧雨のことだと、ハーレイの授業で教わった。いつだったかは忘れたけれど。
(授業じゃなくて、雑談だっけ?)
ハーレイの授業で人気の雑談、そっちの中身の方かもしれない。あるいは授業か、記憶は定かでないのだけれども、小糠雨を習ったのは本当。
これがそうか、と思った雨。濡れないくらいに細かい雨粒。
生憎と自分は糠の方を殆ど知らないけれど。精米した時に出来る粉だ、という程度の知識。
(糠を使って、お漬物…)
今はお漬物もある時代。遠い昔の日本の文化を復活させている地域なのだし、色々なのが。糠を使って漬けるお漬物もあるのだけれども、母はキッチンで漬けてはいない。糠漬けなんかは。
つまり家では出番が無い糠、自分とは馴染みが薄すぎる。家で精米する人もいるらしいけれど、それとも縁の無い家だから。
料理上手の母だとはいえ、其処まではしない。精米機を買って、自分の好みで精米なんて。
(ハーレイもそう言っていたかな?)
小糠雨について説明する時、「家に糠のあるヤツ、少ないだろうな」と。
この地域の主食は米だけれども、普通は店で買ってくるだけ。精米されて袋に入っているのを、必要な分だけ買って来て炊く。家族が多いとか、食べ盛りの子供がいるなら配達を頼んだりして。
(お米、とっても重たいもんね…)
小さな袋でもズシリとするから、大きな袋は買い物のついでに持って帰るのは無理だろう。今の自分には馴染み深い米、けれどそこまで。精米までは家ではしなくて、見かけない糠。
ならば、やっぱり雑談だったろうか、ハーレイの授業の小糠雨。授業で話題にしたのだったら、本物の糠を持って来そうなのがハーレイだから。「これが糠だ」と。
雑談かもね、と思う小糠雨。たまたま授業中に降っていたとか、雨が降りそうな空だったとか。大粒ではなくて、こういう雨が。傘が無くても、少しの距離なら濡れずに歩いてゆける雨。
(…雨の名前…)
小糠雨の他にも、今は色々。霧雨はもちろん、村雨だとか時雨だとか。同じ雨でも春なら春雨、秋なら秋雨、そんな具合に。
挙げていったら幾つでもある雨たちの名前。季節の雨やら、雨の降り方を表す言葉。沢山の名は日本ならではだと、こちらは古典の授業で聞いた。遠い昔の日本人たちが名付けた雨。
他の国だと、大抵はただの雨なのに。雨は「雨」とだけで、細かく分かれてはいないのに。
(何処の国でも、いろんな降り方…)
しそうだけどね、と考えながら帰った家。熱帯だったら、叩き付けるように降り出すスコール。渇いた砂漠をしっとりと潤す雨だってきっと、あるのだろうに。
(昔の日本の人たちが繊細だったのかな…?)
移り変わる季節を歌に詠んでいた日本人。花たちも木々も、その上に降って来る雨も。
自然を細かく観察したなら、色々な名前も生まれるだろうか。この雨はこう呼ぶのがいい、と。一人がそれを思い付いたら、歌を通して伝わるだろう。様々な人が見て、それを口にして。
(そういうトコから出来た名前かな…?)
幾つもの雨の名前たち。ダイニングでおやつを食べる間も、小糠雨は降っていたものだから…。
二階の自分の部屋に戻って窓から見たら、しっとりとしている庭の木々の枝。それに葉っぱも。いくら細かい霧のような雨でも、これだけ長く降り続いたら、そこそこの量になってくる。
(今はこうだけど、本降りになったら…)
もしもハーレイが来てくれたならば傘だよね、と思う「本降り」。
仕事の帰りに寄ってくれたら、車を降りるなりハーレイは傘を広げるだろう。傘を差さないと、濡れてしまうから。門扉の所でチャイムを鳴らして待っている間に、ずぶ濡れだから。
その「本降り」も遠い昔の日本で生まれた言葉。本格的に降る雨のこと。
細かい霧雨、小糠雨を降らせる時間はおしまい、と音を立てて空から落ちてくる。もっと激しい雨になったら、土砂降りと呼ばれる時だって。
傘では防ぎ切れない雨が土砂降り、地面で跳ね返って靴などを濡らしたりもする酷い雨。
ハーレイが来た時に土砂降りだったら大変だよね、と思うけれども、様々な雨の名前たち。空の上から落ちてくる雨、それに名前が幾つもある。
(なんだか素敵…)
雨の名前が多いのは日本の文化だけれども、それだけ色々な降り方をするのが地球の雨。空から地上に降り注ぐ時に、小糠雨やら、土砂降りやら。
(前のぼくが暮らしたシャングリラだと…)
雨さえも降りはしなかった。船での暮らしに雨は不要で、それを真似た散水システムも無し。
前の自分が提案してみても、「非効率的だ」と反対された。白いシャングリラの公園に水を撒くシステムは今のが一番だから、と。
長老たちと協議した末、決まったのがランダムな時間に散水すること。それまでは夜間に撒いていたのを、「何日の何時」とも決めないで。
いきなり公園に降り注ぐ水は人気を集めたけれども、あくまで雨の紛い物。本物ではないから、小糠雨が降りはしなかった。土砂降りの雨も。
人工の雨でさえなかったものね、と考えていたら聞こえたチャイム。この時間なら、ハーレイが来たのに決まっている、と駆け寄った窓。
(ハーレイ、傘かな?)
小糠雨でも、雨は雨。きっと傘だ、と庭を隔てた門扉の向こうを見下ろしたのに。
こちらに手を振るハーレイは傘を持ってはいなくて、母が出てゆくのが見えた。門扉を開けに。その母の手に、男物の傘。父が持っている傘の中の一つ。
(パパの傘…)
此処まで声は聞こえないけれど、「どうぞ」と渡しているのだろう。受け取ったハーレイが頭を下げて、その傘をポンと広げたから。母の傘より大きな傘を。
(…ぼく、一階にいれば良かった…)
ダイニングでもリビングでも。キッチンでもいいから、とにかく一階。
其処にいたなら、今のチャイムで出てゆけたから。母の代わりに「ぼくが行くよ」と。
そうしていたら、きっとハーレイと相合傘。母はハーレイの分の傘を手にして行ったけれども、傘を一つだけ持って出掛けて。二人で入れる傘を一本だけ差して。
土砂降りではなくて小糠雨だし、傘は無くてもかまわない程度の霧雨だから。
父が差している傘は大きくて、小糠雨なら二人で一本でも充分。ハーレイを迎えに門扉の所まで出て行ったならば、「濡れるから入って」と言えばいい。濡れないくらいの小糠雨でも。
ハーレイと二人で傘を一本、門扉から玄関までの庭を歩くだけの距離でも相合傘。
チビの自分が傘を持っていたって、ハーレイの背には届かない。傘をハーレイの手に「はい」と渡して、自分は隣に入って歩く。ハーレイと二人、仲良く並んで。
(相合傘、前に一回だけ…)
折り畳みの傘を忘れて登校した時、ハーレイに傘を借りに出掛けた。サイオンが不器用すぎて、シールドではとても防げない雨。学校で借りられる傘も一本も残っていなくて、困り果てて。
「傘を貸して下さい」と職員室へ頼みに行ったら、「ほら」とハーレイが貸してくれた傘。その上、バス停まで送ってくれた。ハーレイが差す傘に入れて貰って、相合傘で。
(貸してくれた傘、バスに乗るまで使わなくって…)
家から近いバス停で降りて、初めて差した。ハーレイの肩は濡れていたのに、気にも留めないでバス停まで送ってくれた。バスに乗る時も傘を差し掛けてくれて。
それが一度きりの相合傘。あれっきり二度と出来ていないから、今日のチャンスを逃したことが残念な気分。「一階にいれば良かったよ」と。
そう思うから、ハーレイが部屋に来てくれてテーブルを挟んで向かい合うなり、口にした。
「ぼくが迎えに行きたかったな…。ママの代わりに」
チャイムが鳴ったら、門扉のトコまで。…一階にいたら行けたのに…。
「はあ?」
なんでお前が迎えに出るんだ、いつだって部屋で待っているだろ。窓から俺に手を振るだけで。
いったいどういう風の吹き回しだ、とハーレイは怪訝そうな顔。「何かあるのか?」と。
「相合傘だよ、ぼくが行ったら出来たでしょ?」
ママが傘を持って迎えに行くのが見えたから…。パパの傘を。
ちょっぴりだけど、雨が降っているもの。
小糠雨でも雨は雨だよ、ハーレイを迎えに出て行くんなら傘を持たなくちゃ。
でもね、ぼくはママとは違うから…。持って行く傘は一本だけ。
二人で差してくればいいでしょ、相合傘で玄関まで。
傘はハーレイが持ってくれればいいものね、と話した相合傘のこと。母の代わりに自分が迎えに行っていたなら、きっと出来た筈の相合傘。門扉の所から玄関まで。
けれど、ハーレイは「無理だと思うが」と外にチラリと目をやった。窓の向こうに。
「まだ降っちゃいるが、こんな雨だと…。お前と相合傘はしないな」
お前が傘を差していたって、俺は並んで歩くだけだ。お前の傘には入らないで。
「入らないって…。なんで?」
雨だよ、ママだってパパの傘を渡しに行ったじゃない…!
ハーレイが傘を持ってないから、濡れないようにパパの大きな傘…。
だから、ぼくでも同じでしょ、と首を傾げた。傘を借りるか、相合傘かの違いだけだよ、と。
「そいつはお前の考え方で、俺にとってはそうじゃないってな」
確かに雨は降ってたんだが、この雨だったら傘は要らないと思ったから持っていなかった。
車には積んでおいたんだがなあ、あの程度なら降ろすまでもない。小糠雨だから。
ついでに、俺が此処から帰る頃には、すっかり止んでいるだろうしな。
酷くなりそうなら傘を持って降りたが、というのがハーレイの返事。傘が要らない小糠雨。
「傘は要らないって…。ハーレイの予報?」
この雨は夜までに止んじゃうから、って傘を車に置いて来たわけ?
「そんなトコだな。天気予報でも、雨だとは言っていなかったから」
今朝見た予報も雨じゃなかったし、車の中で聞いたのもそうだ。…明日の予報も雨じゃない。
こういう雨なら、単なる空の気まぐれだな。ちょっと降らすか、といった具合で。
それで車に傘を置いて来たんだが、お母さんがわざわざ傘を届けに来てくれたから…。
「要りません」なんて言えやしないだろ、お母さんの好意が台無しだ。
有難く借りて差してこそだな、せっかく「どうぞ」と俺に渡してくれたんだから。
お母さんだったから、俺は傘を借りたが…。
もしもお前が一人で迎えに出て来ていたなら、お前の傘は借りないな。
「パパの傘だけど」と別のを渡された時は、「すまんな」と広げて差すんだろうが…。
お前が「入って」と一本きりの傘を差し出したら、俺は決して受け取らないぞ。
「濡れちまうから、お前が一人で差しておけ」って、断るだけで。
お前は傘を差して、俺は隣で傘無しで玄関まで行くってだけだな、というのがハーレイの意見。小糠雨なら傘には入ってくれないらしい。ハーレイ用にと別の傘があれば、差してくれても。
「それ、つまらないよ! なんで入ってくれないわけ?」
どうして相合傘は駄目なの、前に一度だけやったじゃない!
ぼくが折り畳みの傘を忘れて困っていた時に、ハーレイ、バス停まで送ってくれたよ?
あの時は学校の帰りだったのに、と食い下がらずにはいられない。学校だったら出来た相合傘。先生と生徒でも出来たというのに、家だとそれが出来ないなんて、と。
「相合傘なあ…。確かに一度送ってやったが、あれを狙っているのか、お前?」
俺と相合傘がしたくて、今日も迎えに出たかった、と。…一階にいて、俺に気付いたら。
傘を持ってはいないと分かれば、お前の分の傘を一本だけ差して。
俺用の傘は持たないで…、とハーレイが確認するものだから、「うん」と素直に頷いた。
「そうだけど…。駄目?」
今日みたいな雨だと断られちゃうなら、もっと降ってる日じゃないと無理…?
でも、本降りの雨の日だったら、ハーレイ、傘を持ってるよね…。車に置いて来たりしないで。
「当然だろうが、でないと濡れてしまうからな。…ジョギング中なら気にしないんだが」
学校の帰りだと、スーツが駄目になっちまう。シールドするのも、この年だとなあ…。
お前くらいのガキならともかく、大人ってヤツはシールドだけで雨の中を歩きはしないから。
つまり、お前の家では無理だな、俺と相合傘をするのは。
だからと言って、わざと傘を忘れて学校に来るのは許さんぞ。不幸な忘れ物なら許すが。
わざと忘れたなら、傘だけ持たせて放り出すからな、と睨むハーレイ。「送ってやらん」と。
「そんなこと、絶対やらないってば。わざと忘れて行くなんて」
だけど、ぼくだって人間だから…。忘れる時には忘れちゃうんだってば、気を付けていても。
本当だよ、と言ったけれども、「どうなんだか…」とハーレイは疑いの眼差し。
「今日の出来事が切っ掛けになって、やるかもしれんって気がするんだが?」
午後から雨が降りそうです、と予報を聞いて、鞄から傘を出しちまうこと。チャンス到来、と。
もっとも、お前の企みは顔に出るからな…。でなきゃ心の中身がすっかり零れちまうか。
俺には全てお見通しだぞ、と鳶色の瞳で見据えられた。「悪だくみをしても無駄だからな」と。
傘を忘れて学校に行っても、わざとだったら断られるらしい相合傘。ハーレイは傘を「ほら」と渡して、それっきり。相合傘でバス停までは送ってくれない。「わざとだろう?」と睨まれて。
(…嘘をついてもバレちゃうもんね…)
相合傘は無理なんだ、と残念でガックリ落とした肩。家では無理だし、学校でも無理。ウッカリ傘を忘れない限り、二人で入ってゆけない傘。一本の傘で相合傘で歩くこと。
こんな雨でも駄目なんだよね、と眺めた窓の向こうの庭。まだ降っている小糠雨。
「ハーレイ、この雨、小糠雨だよね?」
相合傘とは関係ないけど、前にハーレイが教えてくれたよ。学校で、古典の授業の時に。
細かくて糠みたいに見える雨だから小糠雨…、と指差したガラスの向こう側。霧のような雨。
「おっ、覚えてたか? 小糠雨のこと」
雑談で話しただけだったんだが、よく覚えてたな。授業とは関係無かったのに。
ただの糠の話だったのにな、とハーレイは嬉しそうな顔。「ちゃんと聞いててくれたか」と。
「雑談だって、ハーレイの話ならきちんと聞くよ。他の生徒も雑談の時間は大好きだよ?」
授業の時には居眠ってる子も、雑談の時には起きるんだから。
でもアレ、授業じゃなかったんだ…。小糠雨、授業だったかも、って思ってて…。
ちょっぴり自信が無かったんだよ、と白状したら、「そうだろうな」と返った笑み。
「まるで関係無くはなかった。あの時の授業には雨も出て来ていたから」
授業のついでに脱線しておくことにしたんだ、糠ってヤツを教えてやろうと。
お前たちには馴染みが薄いモンだろ、小糠雨はともかく、糠の方は。
米の飯を食ってりゃ、その前に糠がある筈なんだが、と教室で聞いた話の繰り返し。精米したら出来るのが糠で、白い御飯を食べようとしたら糠は必ず出来るもの。…目にしないだけで。
「授業でもそう言ってたけれど…。糠って何かの役に立つの?」
美味しいお米を食べるためには、くっついていない方がいいから取り除いて糠になるんでしょ?
お米の邪魔者みたいなもので、お店でお米を買って来る時は、もうくっついていないもの。
わざと残したお米もあるけど、普通はくっついていないんだよね…?
白い御飯に糠の部分は無いんでしょ、と忘れてはいない糠のこと。御飯粒が光る御飯の時だと、糠の元になる部分は取り除かれた後だから。
糠の元を纏ったままだと玄米、好き嫌いが分かれてしまう米だとハーレイの授業で聞いたから。
真っ白な御飯にならないらしい米が玄米、お店に並んでいるお米は綺麗に精米したものが殆ど。健康志向で玄米を食べる人はいたって、それ以外で糠が役立つかどうか。
普通はお目にかからないし…、と思った糠。多分、家にも無いだろうから。
そうしたら…。
「授業でも言ったぞ、漬物に使うと。…糠漬けだな」
糠漬けは糠が無いと作れん、他の物じゃ駄目だ。糠で漬けるからこそ、糠漬けなんだし。
そいつを馬鹿にしちゃいけないぞ、とハーレイが言うから驚いた。糠漬けは漬物の一種なのに。
「…糠漬け、そんなに大事なの?」
馬鹿にしちゃ駄目だ、って言うくらいに大切なお漬物なの、糠漬けは…?
お漬物の中の一つじゃないの、と不思議でたまらない糠漬け。お漬物は和風の料理に欠かせないけれど、糠漬けでなくても良さそうな感じ。お漬物なら何でもいいんじゃないの、と思うから。
「今はそうでもないんだが…。漬物ってヤツも色々あるから、好みで選べばいいんだが…」
うんと昔は、漬物とくれば糠漬けだった。そして大切だったんだ。
糠味噌女房って言葉があったくらいに、糠漬けは毎日の生活に欠かせない漬物だったらしいぞ。
「…なにそれ?」
糠漬けはなんとなく分かったけれども、糠味噌女房って何のことなの…?
分かんないよ、とキョトンと見開いた瞳。「女房」なのだし、糠味噌女房は奥さんだろうか?
まるで初耳な言葉だけれど。…糠味噌と言われてもピンと来ないけれども。
「知らんだろうなあ、糠味噌女房は。…古典の授業じゃ、そうそう出番が無いから」
しかし昔の日本って国では、馴染みの言葉だったんだ。糠漬けと同じくらいにな。
糠漬けを作るには、糠床っていうヤツが要る。それに使うのが糠味噌だ。糠に塩と水を加えて、混ぜ合わせて発酵させるんだが…。
ずっと昔は、何処の家にも糠床があった。今みたいに沢山の料理が無いから、おかずは糠漬け。それしか無いって家も珍しくなかったほどだ。おかずは糠漬けだけだ、ってな。
その糠漬けを作る糠味噌、そいつの匂いがしみつくくらいに、長い年月、一緒に暮らす奥さん。
糠味噌女房はそういう女性を指す言葉なんだ、長年連れ添った大事な女性だとな。
ところが、途中で勘違いをして、けなす言葉だと間違えたヤツらも多かった。所帯じみた女性を指しているのが、糠味噌女房なんだとな。
それは間違いだったんだが…、とハーレイが浮かべた苦笑い。「本当は褒め言葉なんだぞ」と。
「匂いがしみつくって辺りで誤解が生まれたんだろうな、所帯じみてると」
だが、実際の所は違う。糠味噌の匂いがしみついたのは何故なのか、という理由が大切なんだ。
糠味噌は毎日世話をしないと、腐って駄目になっちまう。腐ったら糠漬けはもう作れない。
そうならないよう、糠味噌の世話を決して忘れないからこそ、匂いが身体にしみつくわけで…。
手抜きをしない気の利いた女性という意味なんだな、糠味噌女房の本当の意味は。
そんなわけだから、もしも前のお前が、俺の嫁さんだったなら…。
まさに糠味噌女房ってトコだな、長い長い間、ずっと一緒にいたんだから。
糠味噌の世話はしていなかったが、シャングリラを守っていた自慢の嫁さんだ。糠味噌よりも、ずっと大事な俺たちのミュウの箱舟を。
本当に気の利いた嫁さんだった、とハーレイは懐かしそうな顔。前の自分たちが恋をしたことは誰にも話せなかったし、最後まで秘密だったのだけれど。…結婚式も挙げていないのだけれど。
それでも「気の利いた嫁さんだった」と言って貰えるのがソルジャー・ブルー。
今のハーレイが思い出しても、「糠味噌女房だった」という褒め言葉が直ぐに出てくる人。
それに比べて、今の自分はどうだろう?
シャングリラを守って生きるどころか、本物の糠味噌さえも知らない有様。糠味噌を守ることも出来ない、情けない「お嫁さん」になりそうな自分。
「…今のぼくだと、どうなっちゃうの?」
前のぼくは糠味噌女房になれるけれども、今のぼくだと無理みたい…。
シャングリラを守る代わりに糠味噌の方を守ってろ、って言われても…。ぼくは糠味噌、触ったこともないよ。糠だってよく分かってないから、糠味噌、作るのも無理そうだけど…。
お塩と水は分かるんだけど、と項垂れた。肝心の糠の知識が無いから。
「ふうむ…。今度は本物の糠味噌女房になるのも難しそうだ、というわけか」
糠ってヤツは、なかなかの優れものなんだがなあ…。米にとっては邪魔者だが。
真っ白な飯を炊きたかったら、糠の部分は取っちまわないと駄目なんだが…。
そうやって出来た糠の方はだ、漬物を作る他にも使えるんだぞ。
料理をするなら、タケノコのアク抜きに大活躍だ。タケノコを茹でる時に糠を入れるんだな。
糠を入れずにタケノコを茹でても、美味いタケノコにはなってくれんし。
茹でるなら糠を入れてやらんと、とハーレイが教えてくれたタケノコの茹で方。茹でるのに糠が要るのだったら。この家にも糠があるかもしれない。タケノコが出回るシーズンならば。
「そっか、タケノコにも糠なんだ…。ハーレイ、糠に詳しいんだね」
雑談の種にしただけじゃなくて、本物の糠にも詳しそう。…タケノコ、糠で茹でたりするの?
一人暮らしでも茹でているの、と尋ねたら。
「それは流石にやらないなあ…。けっこう手間がかかるもんだし、俺は貰って来る方だ」
おふくろが好きでな、春になったら茹でるから…。そいつの瓶詰を分けて貰って使ってる。
親父が釣りのついでに沢山採って来たのを、茹でては端から保存用の瓶に詰めるんだ。
そのおふくろは、実は糠漬けも得意でな。色々なものを漬け込んでいるぞ、旬の野菜を中心に。
俺にも届けてくれるんだ、とハーレイ自慢の「おふくろの味」。隣町の家で、毎日世話をされているのが糠味噌。美味しい糠漬けが食べられるように。
きちんと世話をしてやらないと、糠味噌は腐ってしまうから。腐ったら糠漬けが作れないから。
ということは、糠漬けが得意なハーレイの母は…。
「ちょっと待ってよ、ハーレイのお母さんが糠漬けが得意だってことは…」
ハーレイのお母さんは糠味噌女房になるの、そういうことなの?
本物の糠味噌女房だよね、と確認したら、「そうなるな」という返事が返って来た
「俺の嫁さんじゃなくて、親父の嫁さんではあるが…。立派に糠味噌女房だろう」
糠味噌を腐らせたこともないしな、俺の記憶にある限り。…糠床はいつも働いてるから。
親父たちの家で活躍中だ、と聞かされた糠床。…美味しい糠漬けが生まれる糠味噌。壺に入っているらしいそれは、ハーレイが幼かった頃から隣町の家にあるそうだから…。
「…ハーレイのお母さんが糠味噌女房だったら、ぼく、どうなるの…?」
ぼくが糠味噌、使えなかったらどうなっちゃうの…?
ハーレイのお嫁さんになっても、糠漬けが作れないままだったら…?
今のままだとそうなっちゃうよ、と心配でたまらない未来のこと。糠さえも縁が無い自分。
糠味噌女房になれやしない、と不安な気持ちがこみ上げてくる。
前の自分は糠味噌女房だったのに。…糠味噌ではなくてシャングリラだけれど、立派に守って、世話を欠かさなかったのに。
今度の自分は駄目かもしれない、と気掛かりな糠味噌女房のこと。今のハーレイに褒めて貰える糠味噌女房、それにはなれないかもしれない、と。
けれどハーレイは気付いていないらしくて、「何の話だ?」と逆に問い返して来た。
「お前がいったいどうなると言うんだ、何の話をしてるんだ、お前…?」
俺にはサッパリ分からないんだが、と思い当たる節が無いらしい。ソルジャー・ブルーを糠味噌女房だったと褒めて、ハーレイの母も糠味噌女房だと語っていたというのに。
それを言う前には、糠味噌女房は褒め言葉だと説明してくれたのに。…理由もきちんと。
だからおずおずと問い掛けた。糠味噌女房になれそうもない今の自分のことを。
「…あのね、今のぼく…。駄目なお嫁さんだ、っていうことになってしまわない…?」
糠漬けなんかは作れそうになくて、シャングリラだって守ってなくて…。
前のぼくなら糠味噌女房になれたけれども、今のぼくだとホントに駄目そう…。
糠漬けが作れないようなお嫁さんだったら、と俯き加減。本当にそうなってしまいそうだから。
「おいおい、糠漬けって…。お前、最初から料理はしないだろうが」
何度もそういう話になったぞ、お前は何もしなくていいと。料理も掃除も、何一つとして。
お前が嫁さんになってくれるだけで俺は幸せだし、お前は何もしなくていいんだ。
前のお前は頑張りすぎたし、今度はのんびりすればいい。家のことなんか、何もしないで。
それに料理は、俺の方が上手なんだから。…前の俺だった時からな。
なんたって厨房出身だぞ、とハーレイが威張るキャプテン・ハーレイ時代。シャングリラの舵を握る前にはフライパンを握っていたわけなのだし、料理は昔から得意だと。前のハーレイが料理をしていた時代も、「お前は見ていただけだろうが」と。
「そうだけど…。前のぼくも料理はしていないけど…」
今のぼくはソルジャー・ブルーじゃないから、いいお嫁さんになれるんだったら、頑張らないと駄目なのかな、って…。
糠味噌女房になるためだったら、糠漬けも作れた方がいいかな、って…。
ちっとも自信が無いけれど、と今も分からない糠漬けのこと。糠味噌の作り方だって。
「お前が糠味噌女房なあ…」
その心意気は大したもんだが、お前、本気なのか?
なにしろ相手は糠味噌なわけで、糠床の世話が日課になるわけなんだが…?
糠味噌の匂いがしみつくのが糠味噌女房だぞ、と鳶色の瞳に覗き込まれた。「本気か?」と。
「お前が糠床の世話をするのか、どうにも似合っていないんだが…」
なんたってアレは臭いからなあ、とハーレイが言うから目を丸くした。糠味噌の匂いとだけしか聞いていないけれども、臭いのだろうか、糠味噌は…?
「えっと…。糠味噌、臭いの?」
ホントに臭いの、何かの例えで臭いって言ってるわけじゃなくって…?
ただの匂いじゃないと言うの、と重ねて訊いたら、「こんな匂いだが?」とハーレイが思念波で送って来たイメージ。プンと鼻をついた独特の匂い。…確かに臭い。
「いいか、こいつを毎日、手で掻き回すのが糠床の世話ってヤツだぞ。…出来るのか?」
蓋を開けては中を掻き回して、いい具合に漬かったヤツを取り出す、と。
糠漬けになった野菜ももちろん臭いからなあ、匂わないよう、糠味噌をきちんと落とすんだ。
そういう作業を毎日やってりゃ、糠味噌臭くもなるだろうが。
糠味噌女房はそういうモンだが、お前、そいつになりたいのか、と尋ねられた。こういう匂いを嗅いだ後でも、まだ頑張って目指すのか、と。
「…ぼく、無理かも…。毎日世話するくらいだったら、って思っていたけど…」
臭いだなんて思わないから、糠漬けも作れた方がいいかな、って…。糠味噌女房、今のぼくでもなれるなら、って…。前のぼくみたいなのは絶対、無理なんだけど…。
この糠味噌も無理みたい、と音を上げざるを得ない糠味噌の匂い。いい香りとは呼べないから。
「ほら見ろ、無理はしなくていい。この俺だって漬けていないぞ、糠漬けは」
臭いからっていうのはともかく、一人分だと面倒だしな。…漬かりすぎちまって。
お前と結婚した後も、おふくろのを貰えばいいだろう。今まで通りに、「分けてくれ」とな。
糠漬け、お前も食べるんだったら、お前の分も。
おふくろは喜んで分けてくれるさ、とハーレイは保証してくれたけれど。ハーレイの母ならば、きっとそうだろうけれど、その糠漬け。
「でも…。糠漬けが上手に作れたら…」
糠床の世話がきちんと出来てて、美味しい糠漬けを漬けられたら褒めて貰えるんでしょ?
ちゃんと糠味噌女房なんだし、ハーレイだって自慢出来るだろうから…。
糠味噌女房のお嫁さん…、と思ったけれど。ハーレイの自慢のお嫁さんになれると、そのために努力するべきだろうと考えたけれど…。
「そりゃまあ…。褒めて貰えるだろうな、おふくろにな」
「え?」
なんでハーレイのお母さんなの、褒めてくれる人…?
ハーレイのお嫁さんのぼくを褒めるの、どうしてハーレイのお母さんになるの…?
もっと他にも大勢いるでしょ、と思い浮かべたハーレイの友人や知人たち。家に来た人に御馳走したなら、本当に立派な糠味噌女房になれそうなのに…。
「他のヤツらがどう褒めるんだ? 俺の友達は滅多に家に来ないぞ」
普段から出入りするのは親父とおふくろ、もちろん親父も褒めるだろう。「いい嫁さんだ」と。
だがな、他に何度もやって来るのは、俺の教え子たちだから…。
お前、糠漬けを御馳走するのか、柔道部員や水泳部員といった連中に…?
あいつらは確かに食べ盛りだが、と挙げられたハーレイの教え子たち。運動部員で、スポーツに励む男の子たち。
(えーっと…?)
どうだろう、と考えてみなくても分かる。今の自分も、あまり馴染みのない糠漬け。他にも色々あるお漬物も、子供の口に合いはしないだろう。好き嫌いが無い自分はともかく、あれこれ好物を選んで食べたがる子供たちには。
「…ハーレイのクラブの生徒だと…。糠漬け、喜ばれそうな感じじゃないね…」
遠慮なくどうぞ、って沢山出しても、殆ど残ってしまうのかも…。
「当たり前だろうが。バーベキューだの、宅配ピザだのでワイワイやるのが定番なんだぞ?」
そんなメニューに糠漬けが合うのか、同じキュウリならピクルスだろうと思うがな?
糠漬けで出して貰うよりは…、とハーレイが苦笑している通り。きっと運動部員たちが大喜びでつまむ漬物はピクルスの方。同じキュウリでも、糠漬けよりは。
「…ぼくもピクルスだと思う…」
糠漬けを美味しく食べて貰うのは無理そうだよ。
バーベキューとかピザが台無し、ぼくが糠漬けを山ほど運んで行ったらね。
いくらハーレイも自慢の糠漬けでも…、とションボリせざるを得ない糠漬けの末路。臭い糠床でせっせと漬けても、ハーレイの教え子たちには喜ばれない。同じキュウリなら断然、ピクルス。
「そう思うんなら、糠漬けはやめておくんだな」
お前がドッサリ漬けてみたって、来る日も来る日も糠漬けだらけになるだけなんだし…。
毎日続くと飽きるだろうが。少しずつなら、ちょいと楽しみってことにもなるが。
食べたい時にサッと出て来てこそだ、とハーレイが言うから、それも糠味噌女房の条件だろう。長年一緒に暮らしているから、何も言われなくても、好みの物を「これだ」と出せること。
「ハーレイのお母さんはどうやってるの?」
沢山漬けすぎたりはしないんでしょ。普段はお父さんと二人で暮らしているんだから。
「おふくろか? そこは長年やってる達人だから、加減が上手い」
漬かりすぎない内に出しておくのも、次のを漬けるタイミングもな。
だが、お前が同じことをやり始めても、そういうコツを掴むまでには、色々失敗もありそうだ。
もっとも、おふくろに教わって糠漬けを始めると言うんなら…。
何度も失敗したとしたって、上手く漬かれば、おふくろの味になるんだがな。
俺のおふくろの味の糠漬けに…、とハーレイは自信たっぷりだから。
「それ、簡単なの?」
糠漬け、難しそうなのに…。そんなのでハーレイのお母さんの味、ぼくでも出せるの…?
「うむ。下手な料理より簡単だろうな、糠漬けだったら」
糠床は家によって違うし、出来る糠漬けもその家の味になるらしい。
塩と水を混ぜて発酵させると言っただろ?
それぞれの家の菌があるんだ、糠床を発酵させてるヤツが。…それぞれの場所で。
糠床は腐らせなければ子々孫々まで受け継げるという話だからなあ、おふくろの糠床もそうだ。
親父と結婚しようって時に、家から持って来たんだから。
おふくろの家にあった糠床を少し分けて貰って、同じ菌で発酵するようにとな。
「ええっ!?」
だったら、ハーレイのお母さんに糠漬けを習えば、同じ糠床を分けて貰えるわけで…。
ぼくがきちんと世話をしてたら、ハーレイのお母さんとおんなじ糠漬けが作れるんだよね…?
糠床を分けて貰いさえすれば、隣町に住むハーレイの母のと同じ味になるという糠漬け。世話を忘れさえしなければ。きちんと毎日、掻き混ぜたなら。
そうと聞いたら、それを受け継ぐのが「おふくろの味」の早道だろうか。同じ味になる糠床さえあれば、後は世話だけなのだから。漬けるタイミングをしっかり覚えて。
「ぼく、やってみたい!」
ハーレイのお母さんの糠床を分けて貰えば、ぼくの糠漬け、おふくろの味になるんでしょ?
それなら作るよ、ハーレイのために。…頑張って糠味噌女房になるよ。
今度のぼくも、と意気込んだ。白いシャングリラを守る代わりに糠床だよ、と。
「いいのか、おふくろの味と言っても、糠漬け限定になっちまうんだが…?」
お前のお母さんが焼くパウンドケーキだけでいいんだがなあ、俺の場合は。…おふくろの味。
あれと同じ味のをお前が焼いてくれたら、もう最高だと思うわけだが…。
糠床の管理は大変なんだぞ、毎日、掻き混ぜないといけないから。でないと腐っちまうしな。
「ハーレイのお母さん、旅行の時にはどうしているの?」
旅行にも持って行って混ぜるの、まさか其処までしていないよね…?
留守の間は誰かに預けてるとか…、と投げ掛けた問い。でないと駄目になる糠床。なのに…。
「それはだな…。預かった方も大変だろうが」
同じ糠漬け仲間がいるならいいがだ、いない人だっているんだろうし…。
今の時代は秘密兵器があるんだ、糠床を管理してくれる機械。
ダテにSD体制の時代を経ちゃいないようだ、と笑うハーレイ。留守の間は機械の出番だ、と。
「糠床専門の機械だなんて…。それがあるなら簡単じゃない!」
ぼくでも出来るよ、機械が番をしてくれるんなら。…忘れていたって、代わりに管理。
「それは駄目だな、普段から機械に手伝わせるだなんて。そんな糠床は俺は認めん」
毎日自分で掻き混ぜるのが、糠漬け作りの基本なんだ。糠床をしっかり管理すること。
臭くても、手にも身体にも糠味噌の匂いがしみついてもな。
どうするんだ、糠味噌女房、目指すか?
今度こそ本物になると言うなら、おふくろには俺から頼んでやるが…?
いつかお前と結婚した時は、糠床を分けて貰うこと、とハーレイは請け合ってくれたけれども。
「どうしよう…?」
糠床、分けて貰ったんなら、途中で投げ出しちゃ駄目だよね…?
臭いから嫌だって言っても駄目だし、毎日混ぜるのが面倒になってしまっても駄目…。
どうしようかな、と思う糠漬け作り。ハーレイの母に糠床を分けて貰って頑張ること。
難しそうな気もするけれども、せっかくだから挑んでみようか。
白いシャングリラを守り続けた前の自分には、けして出来ないことだったから。糠床などは無い時代だったし、糠味噌女房になりたくてもハーレイと結婚出来なかったから。
「…考えておくよ、糠漬け作り…」
ハーレイと結婚する頃までには、作るかどうかを決めておくから、作るんだったら頼んでね。
お母さんが自分の家から持って来た糠床、ぼくにも分けて貰えるように。
「もちろんだ。…それに、おふくろの糠漬けを食ってから決めてもいいと思うぞ」
俺のおふくろの味を食ってみてから、お前も欲しいと思ったら。…あの味をな。
おっ、小糠雨、止んでしまってるじゃないか。糠味噌の話をしている間に。
木の葉が乾き始めているぞ、とハーレイが指差す窓の外。細かい雨はもう止んだ後。
「ホントだ。ハーレイ、傘を持って来なくて正解だったね」
車に乗せたままで来たこと。…帰りも傘なら、送って行こうと思ってたのに…。相合傘で。
ちょっと残念、と思ったけれども、仕方ない。小糠雨は止んでしまったから。
「当たるだろうが、俺の天気予報」
今日は相合傘は無しだが、いつかはお前と相合傘だな。…小糠雨でも。
「糠味噌女房になっちゃっていても?」
せっせと糠床の世話をしているお嫁さん。…なるかどうかは分かんないけど。
糠床は難しそうだから、と舌を出したら、「まあな」と笑うハーレイ。「無理かもな」とも。
「しかしだ、本当に糠味噌を掻き混ぜているかどうかは、ともかくとして…」
今度こそなってくれてこそだろ、糠味噌女房。…前のお前は、俺の嫁さんになれなかったから。
お前とはいつまでも一緒なんだし、正真正銘、俺の糠味噌女房だってな。
ちゃんと嫁さんになってくれよ、と言うハーレイと指切りしたから、いつまでも一緒。
青く蘇った、この地球の上で。
今度はいつまでも二人一緒に暮らして、糠味噌女房になれたら素敵だと思う。
同じハーレイのお嫁さんになるなら、糠味噌の匂いがしみつくくらいの糠味噌女房。
出来れば本物の糠床を世話して、おふくろの味のパウンドケーキも焼いて。
今のハーレイが喜ぶ「おふくろの味」を、ちゃんと作れる糠味噌女房になれたら、きっと幸せ。
ハーレイとしっかり手を繋ぎ合って、いつまでも何処までも、青い地球の上で二人一緒で…。
小糠雨・了
※前のハーレイの糠味噌女房だった、ソルジャー・ブルー。糠漬けは作っていなくても。
本物の糠味噌女房になりたいブルーですけど、どうなるのでしょう。糠床の世話は大変かも。
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降ってるの、とブルーが見上げた空。学校の帰り、バス停から家まで歩く途中に。
空は確かに曇り空。バスを降りた時には気付かなかったけれど、頬に微かに感じた水滴。
(小糠雨…)
まるで見えないような雨粒、それが漂い、落ちてくる空。鞄に入れている折り畳み傘を、広げるほどではないけれど。この程度ならば、家に帰るまで大丈夫。本当に霧のようだから。
小糠雨というのは霧雨のことだと、ハーレイの授業で教わった。いつだったかは忘れたけれど。
(授業じゃなくて、雑談だっけ?)
ハーレイの授業で人気の雑談、そっちの中身の方かもしれない。あるいは授業か、記憶は定かでないのだけれども、小糠雨を習ったのは本当。
これがそうか、と思った雨。濡れないくらいに細かい雨粒。
生憎と自分は糠の方を殆ど知らないけれど。精米した時に出来る粉だ、という程度の知識。
(糠を使って、お漬物…)
今はお漬物もある時代。遠い昔の日本の文化を復活させている地域なのだし、色々なのが。糠を使って漬けるお漬物もあるのだけれども、母はキッチンで漬けてはいない。糠漬けなんかは。
つまり家では出番が無い糠、自分とは馴染みが薄すぎる。家で精米する人もいるらしいけれど、それとも縁の無い家だから。
料理上手の母だとはいえ、其処まではしない。精米機を買って、自分の好みで精米なんて。
(ハーレイもそう言っていたかな?)
小糠雨について説明する時、「家に糠のあるヤツ、少ないだろうな」と。
この地域の主食は米だけれども、普通は店で買ってくるだけ。精米されて袋に入っているのを、必要な分だけ買って来て炊く。家族が多いとか、食べ盛りの子供がいるなら配達を頼んだりして。
(お米、とっても重たいもんね…)
小さな袋でもズシリとするから、大きな袋は買い物のついでに持って帰るのは無理だろう。今の自分には馴染み深い米、けれどそこまで。精米までは家ではしなくて、見かけない糠。
ならば、やっぱり雑談だったろうか、ハーレイの授業の小糠雨。授業で話題にしたのだったら、本物の糠を持って来そうなのがハーレイだから。「これが糠だ」と。
雑談かもね、と思う小糠雨。たまたま授業中に降っていたとか、雨が降りそうな空だったとか。大粒ではなくて、こういう雨が。傘が無くても、少しの距離なら濡れずに歩いてゆける雨。
(…雨の名前…)
小糠雨の他にも、今は色々。霧雨はもちろん、村雨だとか時雨だとか。同じ雨でも春なら春雨、秋なら秋雨、そんな具合に。
挙げていったら幾つでもある雨たちの名前。季節の雨やら、雨の降り方を表す言葉。沢山の名は日本ならではだと、こちらは古典の授業で聞いた。遠い昔の日本人たちが名付けた雨。
他の国だと、大抵はただの雨なのに。雨は「雨」とだけで、細かく分かれてはいないのに。
(何処の国でも、いろんな降り方…)
しそうだけどね、と考えながら帰った家。熱帯だったら、叩き付けるように降り出すスコール。渇いた砂漠をしっとりと潤す雨だってきっと、あるのだろうに。
(昔の日本の人たちが繊細だったのかな…?)
移り変わる季節を歌に詠んでいた日本人。花たちも木々も、その上に降って来る雨も。
自然を細かく観察したなら、色々な名前も生まれるだろうか。この雨はこう呼ぶのがいい、と。一人がそれを思い付いたら、歌を通して伝わるだろう。様々な人が見て、それを口にして。
(そういうトコから出来た名前かな…?)
幾つもの雨の名前たち。ダイニングでおやつを食べる間も、小糠雨は降っていたものだから…。
二階の自分の部屋に戻って窓から見たら、しっとりとしている庭の木々の枝。それに葉っぱも。いくら細かい霧のような雨でも、これだけ長く降り続いたら、そこそこの量になってくる。
(今はこうだけど、本降りになったら…)
もしもハーレイが来てくれたならば傘だよね、と思う「本降り」。
仕事の帰りに寄ってくれたら、車を降りるなりハーレイは傘を広げるだろう。傘を差さないと、濡れてしまうから。門扉の所でチャイムを鳴らして待っている間に、ずぶ濡れだから。
その「本降り」も遠い昔の日本で生まれた言葉。本格的に降る雨のこと。
細かい霧雨、小糠雨を降らせる時間はおしまい、と音を立てて空から落ちてくる。もっと激しい雨になったら、土砂降りと呼ばれる時だって。
傘では防ぎ切れない雨が土砂降り、地面で跳ね返って靴などを濡らしたりもする酷い雨。
ハーレイが来た時に土砂降りだったら大変だよね、と思うけれども、様々な雨の名前たち。空の上から落ちてくる雨、それに名前が幾つもある。
(なんだか素敵…)
雨の名前が多いのは日本の文化だけれども、それだけ色々な降り方をするのが地球の雨。空から地上に降り注ぐ時に、小糠雨やら、土砂降りやら。
(前のぼくが暮らしたシャングリラだと…)
雨さえも降りはしなかった。船での暮らしに雨は不要で、それを真似た散水システムも無し。
前の自分が提案してみても、「非効率的だ」と反対された。白いシャングリラの公園に水を撒くシステムは今のが一番だから、と。
長老たちと協議した末、決まったのがランダムな時間に散水すること。それまでは夜間に撒いていたのを、「何日の何時」とも決めないで。
いきなり公園に降り注ぐ水は人気を集めたけれども、あくまで雨の紛い物。本物ではないから、小糠雨が降りはしなかった。土砂降りの雨も。
人工の雨でさえなかったものね、と考えていたら聞こえたチャイム。この時間なら、ハーレイが来たのに決まっている、と駆け寄った窓。
(ハーレイ、傘かな?)
小糠雨でも、雨は雨。きっと傘だ、と庭を隔てた門扉の向こうを見下ろしたのに。
こちらに手を振るハーレイは傘を持ってはいなくて、母が出てゆくのが見えた。門扉を開けに。その母の手に、男物の傘。父が持っている傘の中の一つ。
(パパの傘…)
此処まで声は聞こえないけれど、「どうぞ」と渡しているのだろう。受け取ったハーレイが頭を下げて、その傘をポンと広げたから。母の傘より大きな傘を。
(…ぼく、一階にいれば良かった…)
ダイニングでもリビングでも。キッチンでもいいから、とにかく一階。
其処にいたなら、今のチャイムで出てゆけたから。母の代わりに「ぼくが行くよ」と。
そうしていたら、きっとハーレイと相合傘。母はハーレイの分の傘を手にして行ったけれども、傘を一つだけ持って出掛けて。二人で入れる傘を一本だけ差して。
土砂降りではなくて小糠雨だし、傘は無くてもかまわない程度の霧雨だから。
父が差している傘は大きくて、小糠雨なら二人で一本でも充分。ハーレイを迎えに門扉の所まで出て行ったならば、「濡れるから入って」と言えばいい。濡れないくらいの小糠雨でも。
ハーレイと二人で傘を一本、門扉から玄関までの庭を歩くだけの距離でも相合傘。
チビの自分が傘を持っていたって、ハーレイの背には届かない。傘をハーレイの手に「はい」と渡して、自分は隣に入って歩く。ハーレイと二人、仲良く並んで。
(相合傘、前に一回だけ…)
折り畳みの傘を忘れて登校した時、ハーレイに傘を借りに出掛けた。サイオンが不器用すぎて、シールドではとても防げない雨。学校で借りられる傘も一本も残っていなくて、困り果てて。
「傘を貸して下さい」と職員室へ頼みに行ったら、「ほら」とハーレイが貸してくれた傘。その上、バス停まで送ってくれた。ハーレイが差す傘に入れて貰って、相合傘で。
(貸してくれた傘、バスに乗るまで使わなくって…)
家から近いバス停で降りて、初めて差した。ハーレイの肩は濡れていたのに、気にも留めないでバス停まで送ってくれた。バスに乗る時も傘を差し掛けてくれて。
それが一度きりの相合傘。あれっきり二度と出来ていないから、今日のチャンスを逃したことが残念な気分。「一階にいれば良かったよ」と。
そう思うから、ハーレイが部屋に来てくれてテーブルを挟んで向かい合うなり、口にした。
「ぼくが迎えに行きたかったな…。ママの代わりに」
チャイムが鳴ったら、門扉のトコまで。…一階にいたら行けたのに…。
「はあ?」
なんでお前が迎えに出るんだ、いつだって部屋で待っているだろ。窓から俺に手を振るだけで。
いったいどういう風の吹き回しだ、とハーレイは怪訝そうな顔。「何かあるのか?」と。
「相合傘だよ、ぼくが行ったら出来たでしょ?」
ママが傘を持って迎えに行くのが見えたから…。パパの傘を。
ちょっぴりだけど、雨が降っているもの。
小糠雨でも雨は雨だよ、ハーレイを迎えに出て行くんなら傘を持たなくちゃ。
でもね、ぼくはママとは違うから…。持って行く傘は一本だけ。
二人で差してくればいいでしょ、相合傘で玄関まで。
傘はハーレイが持ってくれればいいものね、と話した相合傘のこと。母の代わりに自分が迎えに行っていたなら、きっと出来た筈の相合傘。門扉の所から玄関まで。
けれど、ハーレイは「無理だと思うが」と外にチラリと目をやった。窓の向こうに。
「まだ降っちゃいるが、こんな雨だと…。お前と相合傘はしないな」
お前が傘を差していたって、俺は並んで歩くだけだ。お前の傘には入らないで。
「入らないって…。なんで?」
雨だよ、ママだってパパの傘を渡しに行ったじゃない…!
ハーレイが傘を持ってないから、濡れないようにパパの大きな傘…。
だから、ぼくでも同じでしょ、と首を傾げた。傘を借りるか、相合傘かの違いだけだよ、と。
「そいつはお前の考え方で、俺にとってはそうじゃないってな」
確かに雨は降ってたんだが、この雨だったら傘は要らないと思ったから持っていなかった。
車には積んでおいたんだがなあ、あの程度なら降ろすまでもない。小糠雨だから。
ついでに、俺が此処から帰る頃には、すっかり止んでいるだろうしな。
酷くなりそうなら傘を持って降りたが、というのがハーレイの返事。傘が要らない小糠雨。
「傘は要らないって…。ハーレイの予報?」
この雨は夜までに止んじゃうから、って傘を車に置いて来たわけ?
「そんなトコだな。天気予報でも、雨だとは言っていなかったから」
今朝見た予報も雨じゃなかったし、車の中で聞いたのもそうだ。…明日の予報も雨じゃない。
こういう雨なら、単なる空の気まぐれだな。ちょっと降らすか、といった具合で。
それで車に傘を置いて来たんだが、お母さんがわざわざ傘を届けに来てくれたから…。
「要りません」なんて言えやしないだろ、お母さんの好意が台無しだ。
有難く借りて差してこそだな、せっかく「どうぞ」と俺に渡してくれたんだから。
お母さんだったから、俺は傘を借りたが…。
もしもお前が一人で迎えに出て来ていたなら、お前の傘は借りないな。
「パパの傘だけど」と別のを渡された時は、「すまんな」と広げて差すんだろうが…。
お前が「入って」と一本きりの傘を差し出したら、俺は決して受け取らないぞ。
「濡れちまうから、お前が一人で差しておけ」って、断るだけで。
お前は傘を差して、俺は隣で傘無しで玄関まで行くってだけだな、というのがハーレイの意見。小糠雨なら傘には入ってくれないらしい。ハーレイ用にと別の傘があれば、差してくれても。
「それ、つまらないよ! なんで入ってくれないわけ?」
どうして相合傘は駄目なの、前に一度だけやったじゃない!
ぼくが折り畳みの傘を忘れて困っていた時に、ハーレイ、バス停まで送ってくれたよ?
あの時は学校の帰りだったのに、と食い下がらずにはいられない。学校だったら出来た相合傘。先生と生徒でも出来たというのに、家だとそれが出来ないなんて、と。
「相合傘なあ…。確かに一度送ってやったが、あれを狙っているのか、お前?」
俺と相合傘がしたくて、今日も迎えに出たかった、と。…一階にいて、俺に気付いたら。
傘を持ってはいないと分かれば、お前の分の傘を一本だけ差して。
俺用の傘は持たないで…、とハーレイが確認するものだから、「うん」と素直に頷いた。
「そうだけど…。駄目?」
今日みたいな雨だと断られちゃうなら、もっと降ってる日じゃないと無理…?
でも、本降りの雨の日だったら、ハーレイ、傘を持ってるよね…。車に置いて来たりしないで。
「当然だろうが、でないと濡れてしまうからな。…ジョギング中なら気にしないんだが」
学校の帰りだと、スーツが駄目になっちまう。シールドするのも、この年だとなあ…。
お前くらいのガキならともかく、大人ってヤツはシールドだけで雨の中を歩きはしないから。
つまり、お前の家では無理だな、俺と相合傘をするのは。
だからと言って、わざと傘を忘れて学校に来るのは許さんぞ。不幸な忘れ物なら許すが。
わざと忘れたなら、傘だけ持たせて放り出すからな、と睨むハーレイ。「送ってやらん」と。
「そんなこと、絶対やらないってば。わざと忘れて行くなんて」
だけど、ぼくだって人間だから…。忘れる時には忘れちゃうんだってば、気を付けていても。
本当だよ、と言ったけれども、「どうなんだか…」とハーレイは疑いの眼差し。
「今日の出来事が切っ掛けになって、やるかもしれんって気がするんだが?」
午後から雨が降りそうです、と予報を聞いて、鞄から傘を出しちまうこと。チャンス到来、と。
もっとも、お前の企みは顔に出るからな…。でなきゃ心の中身がすっかり零れちまうか。
俺には全てお見通しだぞ、と鳶色の瞳で見据えられた。「悪だくみをしても無駄だからな」と。
傘を忘れて学校に行っても、わざとだったら断られるらしい相合傘。ハーレイは傘を「ほら」と渡して、それっきり。相合傘でバス停までは送ってくれない。「わざとだろう?」と睨まれて。
(…嘘をついてもバレちゃうもんね…)
相合傘は無理なんだ、と残念でガックリ落とした肩。家では無理だし、学校でも無理。ウッカリ傘を忘れない限り、二人で入ってゆけない傘。一本の傘で相合傘で歩くこと。
こんな雨でも駄目なんだよね、と眺めた窓の向こうの庭。まだ降っている小糠雨。
「ハーレイ、この雨、小糠雨だよね?」
相合傘とは関係ないけど、前にハーレイが教えてくれたよ。学校で、古典の授業の時に。
細かくて糠みたいに見える雨だから小糠雨…、と指差したガラスの向こう側。霧のような雨。
「おっ、覚えてたか? 小糠雨のこと」
雑談で話しただけだったんだが、よく覚えてたな。授業とは関係無かったのに。
ただの糠の話だったのにな、とハーレイは嬉しそうな顔。「ちゃんと聞いててくれたか」と。
「雑談だって、ハーレイの話ならきちんと聞くよ。他の生徒も雑談の時間は大好きだよ?」
授業の時には居眠ってる子も、雑談の時には起きるんだから。
でもアレ、授業じゃなかったんだ…。小糠雨、授業だったかも、って思ってて…。
ちょっぴり自信が無かったんだよ、と白状したら、「そうだろうな」と返った笑み。
「まるで関係無くはなかった。あの時の授業には雨も出て来ていたから」
授業のついでに脱線しておくことにしたんだ、糠ってヤツを教えてやろうと。
お前たちには馴染みが薄いモンだろ、小糠雨はともかく、糠の方は。
米の飯を食ってりゃ、その前に糠がある筈なんだが、と教室で聞いた話の繰り返し。精米したら出来るのが糠で、白い御飯を食べようとしたら糠は必ず出来るもの。…目にしないだけで。
「授業でもそう言ってたけれど…。糠って何かの役に立つの?」
美味しいお米を食べるためには、くっついていない方がいいから取り除いて糠になるんでしょ?
お米の邪魔者みたいなもので、お店でお米を買って来る時は、もうくっついていないもの。
わざと残したお米もあるけど、普通はくっついていないんだよね…?
白い御飯に糠の部分は無いんでしょ、と忘れてはいない糠のこと。御飯粒が光る御飯の時だと、糠の元になる部分は取り除かれた後だから。
糠の元を纏ったままだと玄米、好き嫌いが分かれてしまう米だとハーレイの授業で聞いたから。
真っ白な御飯にならないらしい米が玄米、お店に並んでいるお米は綺麗に精米したものが殆ど。健康志向で玄米を食べる人はいたって、それ以外で糠が役立つかどうか。
普通はお目にかからないし…、と思った糠。多分、家にも無いだろうから。
そうしたら…。
「授業でも言ったぞ、漬物に使うと。…糠漬けだな」
糠漬けは糠が無いと作れん、他の物じゃ駄目だ。糠で漬けるからこそ、糠漬けなんだし。
そいつを馬鹿にしちゃいけないぞ、とハーレイが言うから驚いた。糠漬けは漬物の一種なのに。
「…糠漬け、そんなに大事なの?」
馬鹿にしちゃ駄目だ、って言うくらいに大切なお漬物なの、糠漬けは…?
お漬物の中の一つじゃないの、と不思議でたまらない糠漬け。お漬物は和風の料理に欠かせないけれど、糠漬けでなくても良さそうな感じ。お漬物なら何でもいいんじゃないの、と思うから。
「今はそうでもないんだが…。漬物ってヤツも色々あるから、好みで選べばいいんだが…」
うんと昔は、漬物とくれば糠漬けだった。そして大切だったんだ。
糠味噌女房って言葉があったくらいに、糠漬けは毎日の生活に欠かせない漬物だったらしいぞ。
「…なにそれ?」
糠漬けはなんとなく分かったけれども、糠味噌女房って何のことなの…?
分かんないよ、とキョトンと見開いた瞳。「女房」なのだし、糠味噌女房は奥さんだろうか?
まるで初耳な言葉だけれど。…糠味噌と言われてもピンと来ないけれども。
「知らんだろうなあ、糠味噌女房は。…古典の授業じゃ、そうそう出番が無いから」
しかし昔の日本って国では、馴染みの言葉だったんだ。糠漬けと同じくらいにな。
糠漬けを作るには、糠床っていうヤツが要る。それに使うのが糠味噌だ。糠に塩と水を加えて、混ぜ合わせて発酵させるんだが…。
ずっと昔は、何処の家にも糠床があった。今みたいに沢山の料理が無いから、おかずは糠漬け。それしか無いって家も珍しくなかったほどだ。おかずは糠漬けだけだ、ってな。
その糠漬けを作る糠味噌、そいつの匂いがしみつくくらいに、長い年月、一緒に暮らす奥さん。
糠味噌女房はそういう女性を指す言葉なんだ、長年連れ添った大事な女性だとな。
ところが、途中で勘違いをして、けなす言葉だと間違えたヤツらも多かった。所帯じみた女性を指しているのが、糠味噌女房なんだとな。
それは間違いだったんだが…、とハーレイが浮かべた苦笑い。「本当は褒め言葉なんだぞ」と。
「匂いがしみつくって辺りで誤解が生まれたんだろうな、所帯じみてると」
だが、実際の所は違う。糠味噌の匂いがしみついたのは何故なのか、という理由が大切なんだ。
糠味噌は毎日世話をしないと、腐って駄目になっちまう。腐ったら糠漬けはもう作れない。
そうならないよう、糠味噌の世話を決して忘れないからこそ、匂いが身体にしみつくわけで…。
手抜きをしない気の利いた女性という意味なんだな、糠味噌女房の本当の意味は。
そんなわけだから、もしも前のお前が、俺の嫁さんだったなら…。
まさに糠味噌女房ってトコだな、長い長い間、ずっと一緒にいたんだから。
糠味噌の世話はしていなかったが、シャングリラを守っていた自慢の嫁さんだ。糠味噌よりも、ずっと大事な俺たちのミュウの箱舟を。
本当に気の利いた嫁さんだった、とハーレイは懐かしそうな顔。前の自分たちが恋をしたことは誰にも話せなかったし、最後まで秘密だったのだけれど。…結婚式も挙げていないのだけれど。
それでも「気の利いた嫁さんだった」と言って貰えるのがソルジャー・ブルー。
今のハーレイが思い出しても、「糠味噌女房だった」という褒め言葉が直ぐに出てくる人。
それに比べて、今の自分はどうだろう?
シャングリラを守って生きるどころか、本物の糠味噌さえも知らない有様。糠味噌を守ることも出来ない、情けない「お嫁さん」になりそうな自分。
「…今のぼくだと、どうなっちゃうの?」
前のぼくは糠味噌女房になれるけれども、今のぼくだと無理みたい…。
シャングリラを守る代わりに糠味噌の方を守ってろ、って言われても…。ぼくは糠味噌、触ったこともないよ。糠だってよく分かってないから、糠味噌、作るのも無理そうだけど…。
お塩と水は分かるんだけど、と項垂れた。肝心の糠の知識が無いから。
「ふうむ…。今度は本物の糠味噌女房になるのも難しそうだ、というわけか」
糠ってヤツは、なかなかの優れものなんだがなあ…。米にとっては邪魔者だが。
真っ白な飯を炊きたかったら、糠の部分は取っちまわないと駄目なんだが…。
そうやって出来た糠の方はだ、漬物を作る他にも使えるんだぞ。
料理をするなら、タケノコのアク抜きに大活躍だ。タケノコを茹でる時に糠を入れるんだな。
糠を入れずにタケノコを茹でても、美味いタケノコにはなってくれんし。
茹でるなら糠を入れてやらんと、とハーレイが教えてくれたタケノコの茹で方。茹でるのに糠が要るのだったら。この家にも糠があるかもしれない。タケノコが出回るシーズンならば。
「そっか、タケノコにも糠なんだ…。ハーレイ、糠に詳しいんだね」
雑談の種にしただけじゃなくて、本物の糠にも詳しそう。…タケノコ、糠で茹でたりするの?
一人暮らしでも茹でているの、と尋ねたら。
「それは流石にやらないなあ…。けっこう手間がかかるもんだし、俺は貰って来る方だ」
おふくろが好きでな、春になったら茹でるから…。そいつの瓶詰を分けて貰って使ってる。
親父が釣りのついでに沢山採って来たのを、茹でては端から保存用の瓶に詰めるんだ。
そのおふくろは、実は糠漬けも得意でな。色々なものを漬け込んでいるぞ、旬の野菜を中心に。
俺にも届けてくれるんだ、とハーレイ自慢の「おふくろの味」。隣町の家で、毎日世話をされているのが糠味噌。美味しい糠漬けが食べられるように。
きちんと世話をしてやらないと、糠味噌は腐ってしまうから。腐ったら糠漬けが作れないから。
ということは、糠漬けが得意なハーレイの母は…。
「ちょっと待ってよ、ハーレイのお母さんが糠漬けが得意だってことは…」
ハーレイのお母さんは糠味噌女房になるの、そういうことなの?
本物の糠味噌女房だよね、と確認したら、「そうなるな」という返事が返って来た
「俺の嫁さんじゃなくて、親父の嫁さんではあるが…。立派に糠味噌女房だろう」
糠味噌を腐らせたこともないしな、俺の記憶にある限り。…糠床はいつも働いてるから。
親父たちの家で活躍中だ、と聞かされた糠床。…美味しい糠漬けが生まれる糠味噌。壺に入っているらしいそれは、ハーレイが幼かった頃から隣町の家にあるそうだから…。
「…ハーレイのお母さんが糠味噌女房だったら、ぼく、どうなるの…?」
ぼくが糠味噌、使えなかったらどうなっちゃうの…?
ハーレイのお嫁さんになっても、糠漬けが作れないままだったら…?
今のままだとそうなっちゃうよ、と心配でたまらない未来のこと。糠さえも縁が無い自分。
糠味噌女房になれやしない、と不安な気持ちがこみ上げてくる。
前の自分は糠味噌女房だったのに。…糠味噌ではなくてシャングリラだけれど、立派に守って、世話を欠かさなかったのに。
今度の自分は駄目かもしれない、と気掛かりな糠味噌女房のこと。今のハーレイに褒めて貰える糠味噌女房、それにはなれないかもしれない、と。
けれどハーレイは気付いていないらしくて、「何の話だ?」と逆に問い返して来た。
「お前がいったいどうなると言うんだ、何の話をしてるんだ、お前…?」
俺にはサッパリ分からないんだが、と思い当たる節が無いらしい。ソルジャー・ブルーを糠味噌女房だったと褒めて、ハーレイの母も糠味噌女房だと語っていたというのに。
それを言う前には、糠味噌女房は褒め言葉だと説明してくれたのに。…理由もきちんと。
だからおずおずと問い掛けた。糠味噌女房になれそうもない今の自分のことを。
「…あのね、今のぼく…。駄目なお嫁さんだ、っていうことになってしまわない…?」
糠漬けなんかは作れそうになくて、シャングリラだって守ってなくて…。
前のぼくなら糠味噌女房になれたけれども、今のぼくだとホントに駄目そう…。
糠漬けが作れないようなお嫁さんだったら、と俯き加減。本当にそうなってしまいそうだから。
「おいおい、糠漬けって…。お前、最初から料理はしないだろうが」
何度もそういう話になったぞ、お前は何もしなくていいと。料理も掃除も、何一つとして。
お前が嫁さんになってくれるだけで俺は幸せだし、お前は何もしなくていいんだ。
前のお前は頑張りすぎたし、今度はのんびりすればいい。家のことなんか、何もしないで。
それに料理は、俺の方が上手なんだから。…前の俺だった時からな。
なんたって厨房出身だぞ、とハーレイが威張るキャプテン・ハーレイ時代。シャングリラの舵を握る前にはフライパンを握っていたわけなのだし、料理は昔から得意だと。前のハーレイが料理をしていた時代も、「お前は見ていただけだろうが」と。
「そうだけど…。前のぼくも料理はしていないけど…」
今のぼくはソルジャー・ブルーじゃないから、いいお嫁さんになれるんだったら、頑張らないと駄目なのかな、って…。
糠味噌女房になるためだったら、糠漬けも作れた方がいいかな、って…。
ちっとも自信が無いけれど、と今も分からない糠漬けのこと。糠味噌の作り方だって。
「お前が糠味噌女房なあ…」
その心意気は大したもんだが、お前、本気なのか?
なにしろ相手は糠味噌なわけで、糠床の世話が日課になるわけなんだが…?
糠味噌の匂いがしみつくのが糠味噌女房だぞ、と鳶色の瞳に覗き込まれた。「本気か?」と。
「お前が糠床の世話をするのか、どうにも似合っていないんだが…」
なんたってアレは臭いからなあ、とハーレイが言うから目を丸くした。糠味噌の匂いとだけしか聞いていないけれども、臭いのだろうか、糠味噌は…?
「えっと…。糠味噌、臭いの?」
ホントに臭いの、何かの例えで臭いって言ってるわけじゃなくって…?
ただの匂いじゃないと言うの、と重ねて訊いたら、「こんな匂いだが?」とハーレイが思念波で送って来たイメージ。プンと鼻をついた独特の匂い。…確かに臭い。
「いいか、こいつを毎日、手で掻き回すのが糠床の世話ってヤツだぞ。…出来るのか?」
蓋を開けては中を掻き回して、いい具合に漬かったヤツを取り出す、と。
糠漬けになった野菜ももちろん臭いからなあ、匂わないよう、糠味噌をきちんと落とすんだ。
そういう作業を毎日やってりゃ、糠味噌臭くもなるだろうが。
糠味噌女房はそういうモンだが、お前、そいつになりたいのか、と尋ねられた。こういう匂いを嗅いだ後でも、まだ頑張って目指すのか、と。
「…ぼく、無理かも…。毎日世話するくらいだったら、って思っていたけど…」
臭いだなんて思わないから、糠漬けも作れた方がいいかな、って…。糠味噌女房、今のぼくでもなれるなら、って…。前のぼくみたいなのは絶対、無理なんだけど…。
この糠味噌も無理みたい、と音を上げざるを得ない糠味噌の匂い。いい香りとは呼べないから。
「ほら見ろ、無理はしなくていい。この俺だって漬けていないぞ、糠漬けは」
臭いからっていうのはともかく、一人分だと面倒だしな。…漬かりすぎちまって。
お前と結婚した後も、おふくろのを貰えばいいだろう。今まで通りに、「分けてくれ」とな。
糠漬け、お前も食べるんだったら、お前の分も。
おふくろは喜んで分けてくれるさ、とハーレイは保証してくれたけれど。ハーレイの母ならば、きっとそうだろうけれど、その糠漬け。
「でも…。糠漬けが上手に作れたら…」
糠床の世話がきちんと出来てて、美味しい糠漬けを漬けられたら褒めて貰えるんでしょ?
ちゃんと糠味噌女房なんだし、ハーレイだって自慢出来るだろうから…。
糠味噌女房のお嫁さん…、と思ったけれど。ハーレイの自慢のお嫁さんになれると、そのために努力するべきだろうと考えたけれど…。
「そりゃまあ…。褒めて貰えるだろうな、おふくろにな」
「え?」
なんでハーレイのお母さんなの、褒めてくれる人…?
ハーレイのお嫁さんのぼくを褒めるの、どうしてハーレイのお母さんになるの…?
もっと他にも大勢いるでしょ、と思い浮かべたハーレイの友人や知人たち。家に来た人に御馳走したなら、本当に立派な糠味噌女房になれそうなのに…。
「他のヤツらがどう褒めるんだ? 俺の友達は滅多に家に来ないぞ」
普段から出入りするのは親父とおふくろ、もちろん親父も褒めるだろう。「いい嫁さんだ」と。
だがな、他に何度もやって来るのは、俺の教え子たちだから…。
お前、糠漬けを御馳走するのか、柔道部員や水泳部員といった連中に…?
あいつらは確かに食べ盛りだが、と挙げられたハーレイの教え子たち。運動部員で、スポーツに励む男の子たち。
(えーっと…?)
どうだろう、と考えてみなくても分かる。今の自分も、あまり馴染みのない糠漬け。他にも色々あるお漬物も、子供の口に合いはしないだろう。好き嫌いが無い自分はともかく、あれこれ好物を選んで食べたがる子供たちには。
「…ハーレイのクラブの生徒だと…。糠漬け、喜ばれそうな感じじゃないね…」
遠慮なくどうぞ、って沢山出しても、殆ど残ってしまうのかも…。
「当たり前だろうが。バーベキューだの、宅配ピザだのでワイワイやるのが定番なんだぞ?」
そんなメニューに糠漬けが合うのか、同じキュウリならピクルスだろうと思うがな?
糠漬けで出して貰うよりは…、とハーレイが苦笑している通り。きっと運動部員たちが大喜びでつまむ漬物はピクルスの方。同じキュウリでも、糠漬けよりは。
「…ぼくもピクルスだと思う…」
糠漬けを美味しく食べて貰うのは無理そうだよ。
バーベキューとかピザが台無し、ぼくが糠漬けを山ほど運んで行ったらね。
いくらハーレイも自慢の糠漬けでも…、とションボリせざるを得ない糠漬けの末路。臭い糠床でせっせと漬けても、ハーレイの教え子たちには喜ばれない。同じキュウリなら断然、ピクルス。
「そう思うんなら、糠漬けはやめておくんだな」
お前がドッサリ漬けてみたって、来る日も来る日も糠漬けだらけになるだけなんだし…。
毎日続くと飽きるだろうが。少しずつなら、ちょいと楽しみってことにもなるが。
食べたい時にサッと出て来てこそだ、とハーレイが言うから、それも糠味噌女房の条件だろう。長年一緒に暮らしているから、何も言われなくても、好みの物を「これだ」と出せること。
「ハーレイのお母さんはどうやってるの?」
沢山漬けすぎたりはしないんでしょ。普段はお父さんと二人で暮らしているんだから。
「おふくろか? そこは長年やってる達人だから、加減が上手い」
漬かりすぎない内に出しておくのも、次のを漬けるタイミングもな。
だが、お前が同じことをやり始めても、そういうコツを掴むまでには、色々失敗もありそうだ。
もっとも、おふくろに教わって糠漬けを始めると言うんなら…。
何度も失敗したとしたって、上手く漬かれば、おふくろの味になるんだがな。
俺のおふくろの味の糠漬けに…、とハーレイは自信たっぷりだから。
「それ、簡単なの?」
糠漬け、難しそうなのに…。そんなのでハーレイのお母さんの味、ぼくでも出せるの…?
「うむ。下手な料理より簡単だろうな、糠漬けだったら」
糠床は家によって違うし、出来る糠漬けもその家の味になるらしい。
塩と水を混ぜて発酵させると言っただろ?
それぞれの家の菌があるんだ、糠床を発酵させてるヤツが。…それぞれの場所で。
糠床は腐らせなければ子々孫々まで受け継げるという話だからなあ、おふくろの糠床もそうだ。
親父と結婚しようって時に、家から持って来たんだから。
おふくろの家にあった糠床を少し分けて貰って、同じ菌で発酵するようにとな。
「ええっ!?」
だったら、ハーレイのお母さんに糠漬けを習えば、同じ糠床を分けて貰えるわけで…。
ぼくがきちんと世話をしてたら、ハーレイのお母さんとおんなじ糠漬けが作れるんだよね…?
糠床を分けて貰いさえすれば、隣町に住むハーレイの母のと同じ味になるという糠漬け。世話を忘れさえしなければ。きちんと毎日、掻き混ぜたなら。
そうと聞いたら、それを受け継ぐのが「おふくろの味」の早道だろうか。同じ味になる糠床さえあれば、後は世話だけなのだから。漬けるタイミングをしっかり覚えて。
「ぼく、やってみたい!」
ハーレイのお母さんの糠床を分けて貰えば、ぼくの糠漬け、おふくろの味になるんでしょ?
それなら作るよ、ハーレイのために。…頑張って糠味噌女房になるよ。
今度のぼくも、と意気込んだ。白いシャングリラを守る代わりに糠床だよ、と。
「いいのか、おふくろの味と言っても、糠漬け限定になっちまうんだが…?」
お前のお母さんが焼くパウンドケーキだけでいいんだがなあ、俺の場合は。…おふくろの味。
あれと同じ味のをお前が焼いてくれたら、もう最高だと思うわけだが…。
糠床の管理は大変なんだぞ、毎日、掻き混ぜないといけないから。でないと腐っちまうしな。
「ハーレイのお母さん、旅行の時にはどうしているの?」
旅行にも持って行って混ぜるの、まさか其処までしていないよね…?
留守の間は誰かに預けてるとか…、と投げ掛けた問い。でないと駄目になる糠床。なのに…。
「それはだな…。預かった方も大変だろうが」
同じ糠漬け仲間がいるならいいがだ、いない人だっているんだろうし…。
今の時代は秘密兵器があるんだ、糠床を管理してくれる機械。
ダテにSD体制の時代を経ちゃいないようだ、と笑うハーレイ。留守の間は機械の出番だ、と。
「糠床専門の機械だなんて…。それがあるなら簡単じゃない!」
ぼくでも出来るよ、機械が番をしてくれるんなら。…忘れていたって、代わりに管理。
「それは駄目だな、普段から機械に手伝わせるだなんて。そんな糠床は俺は認めん」
毎日自分で掻き混ぜるのが、糠漬け作りの基本なんだ。糠床をしっかり管理すること。
臭くても、手にも身体にも糠味噌の匂いがしみついてもな。
どうするんだ、糠味噌女房、目指すか?
今度こそ本物になると言うなら、おふくろには俺から頼んでやるが…?
いつかお前と結婚した時は、糠床を分けて貰うこと、とハーレイは請け合ってくれたけれども。
「どうしよう…?」
糠床、分けて貰ったんなら、途中で投げ出しちゃ駄目だよね…?
臭いから嫌だって言っても駄目だし、毎日混ぜるのが面倒になってしまっても駄目…。
どうしようかな、と思う糠漬け作り。ハーレイの母に糠床を分けて貰って頑張ること。
難しそうな気もするけれども、せっかくだから挑んでみようか。
白いシャングリラを守り続けた前の自分には、けして出来ないことだったから。糠床などは無い時代だったし、糠味噌女房になりたくてもハーレイと結婚出来なかったから。
「…考えておくよ、糠漬け作り…」
ハーレイと結婚する頃までには、作るかどうかを決めておくから、作るんだったら頼んでね。
お母さんが自分の家から持って来た糠床、ぼくにも分けて貰えるように。
「もちろんだ。…それに、おふくろの糠漬けを食ってから決めてもいいと思うぞ」
俺のおふくろの味を食ってみてから、お前も欲しいと思ったら。…あの味をな。
おっ、小糠雨、止んでしまってるじゃないか。糠味噌の話をしている間に。
木の葉が乾き始めているぞ、とハーレイが指差す窓の外。細かい雨はもう止んだ後。
「ホントだ。ハーレイ、傘を持って来なくて正解だったね」
車に乗せたままで来たこと。…帰りも傘なら、送って行こうと思ってたのに…。相合傘で。
ちょっと残念、と思ったけれども、仕方ない。小糠雨は止んでしまったから。
「当たるだろうが、俺の天気予報」
今日は相合傘は無しだが、いつかはお前と相合傘だな。…小糠雨でも。
「糠味噌女房になっちゃっていても?」
せっせと糠床の世話をしているお嫁さん。…なるかどうかは分かんないけど。
糠床は難しそうだから、と舌を出したら、「まあな」と笑うハーレイ。「無理かもな」とも。
「しかしだ、本当に糠味噌を掻き混ぜているかどうかは、ともかくとして…」
今度こそなってくれてこそだろ、糠味噌女房。…前のお前は、俺の嫁さんになれなかったから。
お前とはいつまでも一緒なんだし、正真正銘、俺の糠味噌女房だってな。
ちゃんと嫁さんになってくれよ、と言うハーレイと指切りしたから、いつまでも一緒。
青く蘇った、この地球の上で。
今度はいつまでも二人一緒に暮らして、糠味噌女房になれたら素敵だと思う。
同じハーレイのお嫁さんになるなら、糠味噌の匂いがしみつくくらいの糠味噌女房。
出来れば本物の糠床を世話して、おふくろの味のパウンドケーキも焼いて。
今のハーレイが喜ぶ「おふくろの味」を、ちゃんと作れる糠味噌女房になれたら、きっと幸せ。
ハーレイとしっかり手を繋ぎ合って、いつまでも何処までも、青い地球の上で二人一緒で…。
小糠雨・了
※前のハーレイの糠味噌女房だった、ソルジャー・ブルー。糠漬けは作っていなくても。
本物の糠味噌女房になりたいブルーですけど、どうなるのでしょう。糠床の世話は大変かも。
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