シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
悲しい音
「今日は面白いものを教えてやろう」
こいつだ、とハーレイが教室の前のボードに書いた文字。「水琴窟」と。
(水の琴…?)
何だろう、と首を傾げたブルー。それに「窟」の字、洞窟の中で奏でるための琴なのだろうか?
洞窟だったら、いい音が響きそうではある。水の琴がいったいどんな琴かは、まるで分からないままだけれども。
古典の授業でお馴染みの雑談、生徒たちの集中力を取り戻すために出される話題。楽しい話や、ためになる話。ハーレイの気分で中身は色々。
前のボードに書かれた三文字、「すいきんくつ」と書き添えられた振り仮名。
「水琴窟は昔の日本の文化だ。江戸時代に出来たと伝わってるな」
こういう仕組みになってるんだ、とハーレイが描いてゆく図解。
土の中に逆さに埋められた甕。底に穴を開けて。甕は空っぽ、水が溜まるように工夫をしてから埋めてゆく。周りに石を詰めていって。
遠い昔の庭の装飾、手水鉢の側にも作られたりした。手水鉢には水が要るから、其処から溢れた水を使って鳴らす音。甕の中に溜まった水と合わせて。
「こうやって甕を埋めておくとだ、甕の中に水が溜まるから…」
其処へ上から水が落ちると、その雫で音がするんだな。甕の中で木霊するように。
その音がとても綺麗だからと、「水琴窟」と呼ぶわけだ。
特別に音も聞かせてやろう、とハーレイが取り出した専用の機械。それが動いたら…。
ピチョーン、と教室に響いた音。澄み切った水の雫の音。
「本物の水琴窟の場合は、こんな大きな音には聞こえないんだが…」
その周りでだけ聞こえればいい、というのが水琴窟なんだ。
小さなものだと、音も小さくなるもんだから…。
音を聴くための竹筒を立てて、その側で耳を澄ませるってこともあったらしいぞ。
この教室の真ん中に水琴窟があったら、端のヤツらには聞こえないかもな。
いい音が鳴っているわけなんだが、途中ですっかり消えてしまって。
昔の日本の文化はそうだろ、華やかなものより控えめな方が人気だったから。
わびさびの世界というヤツで…、と紹介された水琴窟。遠い昔の日本の人たちが好んだ音。
お前たちもそれを暫く楽しんでみろ、と黙ったハーレイ。「一分間ほど静かに聴くように」と。
教室に流れる水琴窟の音。機械が流している音だけれど、水の雫が鳴らす音には違いない。
ピチョーン、コローン、と様々に響く水たちの音色。
(綺麗な音…)
溜まった水に落ちる水滴、それが奏でる澄んだ音。まさに水の琴。
水琴窟とは、本当によくも名付けたもの。それに仕掛けを思い付いたのも凄いと思う。
(日本って凄い…)
遠い昔の小さな島国、独自の文化を誇った国。他の国の人たちが魅せられたほどに。
こんな仕掛けも作ってたんだ、と驚かされた水琴窟。ほんの限られた所までしか届かないのに、その音を愛した日本人。竹筒を通して聴いたくらいに。
いい音だよね、と水琴窟が奏でる音色に聴き入っていたら…。
(え…?)
急に「悲しい」と思った自分。胸の奥から湧き上がって来た深い悲しみ。
とても綺麗な音だというのに、悲しい音のように聞こえる水琴窟。今もいい音がしているのに。
(なんで…?)
どうして悲しい音になるの、と思う間に、ハーレイが「ここまで」と止めた音。消えてしまった悲しい音。水琴窟の音色はもう聞こえない。
「もっとゆっくり聞きたいヤツは、本物を聞きに行くんだな」
この近くで水琴窟があるのは此処と此処だ、と挙げられた場所。水琴窟があるらしい庭園。昔の日本の文化の通りに作られた庭。
(…知らないよね?)
どちらにも自分は行ってはいない。行った記憶がまるで無いから。
それとも、覚えていないくらいに幼い頃に出掛けて…。
(遊ぼうとしてて、何か落っことしたとか?)
大事なおやつを水琴窟の側の地面に落とすとか。キャンディーとか、ソフトクリームとか。
地面に落として、食べられなくなってしまったのなら…。
悲しい音になりもするよね、と思った水琴窟の音。
大切なおやつが駄目になったのに、響き続ける水の音。おやつを落っことす前に自分が流した、水の雫を受け止めて。ピチョーン、コローン、と澄み切った音で。
(それって、とっても悲しいよね…?)
どんなにいい音がしていても。澄んだ水の琴が鳴り続けても。
水琴窟を鳴らそうとしたら、おやつを落としたのだから。小さな柄杓で水を掬って流した時に、落っことしてしまった大事なおやつ。…もう食べられない、駄目になったおやつ。
(ぼくのおやつは駄目になったのに、水琴窟は鳴っているんだから…)
きっとそれだ、と考えた音。「悲しい音だ」と思った理由。
まるで覚えていないけれども、小さかった頃に何かあったんだ、と。…水琴窟の側で。
そう納得して、戻った授業。ハーレイも「続きをやるぞ」とボードの文字を消したから。
授業の続きが始まったらもう、忘れてしまった水琴窟。悲しい音に聞こえたことも。
けれど、学校が終わって帰った家。
ダイニングでおやつを食べていた時に、思い出した水琴窟のこと。悲しい音に聞こえた水音。
(やっぱり、原因、おやつだよね…?)
小さな子供が悲しくなるなら、そのくらいしか思い付かない。水琴窟の側には水があるけれど、大切なオモチャを其処に落としはしないだろう。
(パパかママが預かってくれそうだから…)
オモチャだったら、落とさないように。幼い自分も素直に「お願い」と渡していそう。水の中に落ちたら、濡れてしまうということくらいは分かるから。
(でも、おやつだと…)
大丈夫、と言い張りそうなのが幼い子供。「落っことすわよ?」と言われても。
ソフトクリームを預けようとはまず思わないし、「預けたりしたら、食べられちゃう」と思っていそう。相手は優しい両親でも。
まして頬張っていたキャンディーだったら、預けようさえない代物。
(棒つきだったら、預けることも出来るけど…)
口に含んだキャンディーは無理。それを落としてしまっただろうか、水琴窟の側の地面に。水を流そうと屈んだはずみに、うっかり、ポトンと。
どう考えても、原因はおやつだろうから。きっとそうだという気がするから、通りかかった母を呼び止めて尋ねてみた。
「ママ、水琴窟っていうのを知ってる?」
地面の中に甕が埋まっていて、上から水を流したら音がするんだよ。中で響いて。
この辺りだと、此処と此処にあるって聞いたんだけど…、と伝えた場所。日本式だという庭園。
「知っているわよ、パパと行ったわ」
いい音がするのよ、水琴窟は。遠くまでは響かないけれど、とてもいい音。
「…ぼくは?」
ぼくもママたちと一緒に行ったの、と勢い込んで訊いたのに…。
「ブルーは生まれていなかったわねえ…」
あの頃だとママのお腹の中にも、いなかったんじゃないかしら?
パパとは結婚していたけれど、ブルーはまだだと思うわよ、というのが母の返事だから。
「本当に…?」
ぼくは生まれていなかったなんて、絶対に無いと思うんだけど…。
パパやママたちと行った筈なんだよ、水琴窟のある庭に。
だってね…、と母に話した、古典の時間に起こったこと。悲しい音のように聞こえた水琴窟。
原因は落としたおやつなんだと思う、と説明も。オモチャは預けるだろうから、と。
「あら、そうだった?」
ブルーも連れて行ったのかしらね、ママは覚えていないけど…。
小さな子供を連れて行っても、喜びそうな場所じゃないんだけれど…。あそこの庭は見るだけの場所で、遊べる道具が何も無いから。公園だったら色々あっても、お庭では…。
だから行ってはいないと思うわ、「つまらないよ」って言いそうだもの。
パパの友達を案内するとか、そういうので出掛けたにしても…。
ブルーが其処で泣き出したんなら、きっと忘れはしないわよ。「そうだったわ」って、聞いたら思い出す筈よ。
おやつを落として大変だったとか、泣き止むまでにとても時間がかかったとかね。
ママが忘れるわけがないわ、と母が言うのも一理ある。普段は忘れていたとしたって、水琴窟の側で泣いた筈だと聞かされたら思い出すだろう。
(…ぼく、行ってないの…?)
それじゃ何処で、と考え込んでいたら、「前のブルーの方じゃないの?」と母に問われた。
「ブルーはママのブルーだけれども、その前はソルジャー・ブルーでしょう?」
きっとソルジャー・ブルーだった頃に聞いたのよ。水琴窟の音を、何処かで。
ソルジャー・ブルーなら悲しい思い出も多そうだから、というのが母の推理だけれど。
「…水琴窟って、日本の文化だよ?」
前のぼくが生きてたような時代に、日本の文化は無い筈だから…。機械が消しちゃっていた世界だったから…。
水琴窟なんか、あるわけがないよ。何処を探しても。
「そういえばそうね…。日本の文化は、SD体制の時代には消されていた筈ね…」
でも、似たような音があったんじゃないの?
水琴窟にそっくりな音がするものだとか、水琴窟そのものがあっただとか…。
シャングリラにはユニークな人たちが多かったんでしょ、と微笑んだ母。
「ママは直接会っていないけれど、ブルーから色々聞いているわ」と。その中の誰かが水琴窟を作っていたかもしれないわよね、と。
「…シャングリラに水琴窟があったっていうの?」
それなら、悲しい音に聞こえちゃうこともあったかも…。
普段は「素敵な音だ」と思っていたって、悲しい気分で聞いていた日もありそうだから。
凄いね、ママ。…ママの推理は当たっていそう。水琴窟とか、そっくりな音がする何か…。
「どういたしまして。参考になったなら良かったわ」
後は頑張って思い出してね、シャングリラにあった水琴窟の音。
だけど、ママには話してくれなくてもかまわないわよ。…悲しい思い出みたいだから。
思い出したら、きっとブルーは悲しくなるもの。
おやつを落としたどころじゃないわよ、ソルジャー・ブルーの方ならね。
もしも悲しくなってしまったら、おやつでも食べに来なさいな。
特別に何か食べさせてあげるわ、晩御飯が入らなくならない程度に。…少しだけね。
いつまでも一人でしょげていちゃ駄目よ、と母に念を押されて戻った二階の自分の部屋。悲しい音を思い出したら、元気が出るように貰えるおやつ。…本当に元気が無くなったなら。
これで悲しい音も安心、と勉強机の前に座った。「音の正体を追い掛けよう」と。
水琴窟そのものか、水琴窟にそっくりな音がする何か。…シャングリラにあったらしいもの。
(ヒルマンかな…?)
そういう仕掛けを作ったとしたら、可能性が高いのがヒルマン。それに仕掛けがあった船なら、間違いなく白いシャングリラ。改造を終えて白い鯨になった船。
(水琴窟…)
今日のハーレイの雑談で教わった、綺麗な音がする仕組み。底に穴を開けた甕を地面に埋めて、中に溜まった水の上に落ちる雫の音を響かせる。
仕組みそのものは単純なのだし、日本風の甕が無くても壺で代用出来るだろう。水琴窟に使える壺が無ければ、白い鯨で作れた筈。「こういう壺を一つ」と専門の係に注文すれば。
ヒルマンならば好きそうなものが水琴窟。遠い昔の資料を見付けて、作ってみようと考えたって不思議ではない。思い付くだけなら、エラだって。
(…エラだと、自分で穴を掘ったりしないだろうから…)
きっとヒルマンに話を持ち掛け、船の仲間の力を借りる。「こういう仕掛けを作りたい」と。
船の仲間たちも、ああいう綺麗な音がするなら、大喜びで協力するだろう。穴を掘るのも、壺を埋めるのも、水を引いてくる作業なども。
(作るんだったら、公園だよね…?)
公園には木を植えていたのだし、充分な深さに敷かれていた土。大きな壺でも埋められる。水も当然、供給されるし、其処から引いてくればいいだけ。
小川が流れる公園だったら、その直ぐ側に作っておいたら水を引く手間が省けたろう。
(だけど、悲しい音…)
公園だったら、楽しい音になりそうなもの。悲しい音になるよりは。
気分が沈んでいた時だって、公園に行けば元気な子供たちがいた。はしゃぎ回る子供たちの中に混ぜて貰って、遊ぶ間に癒えていた心。
水琴窟の音が悲しく聞こえていたって、じきに素敵な楽しい音色に変わっただろう。子供たちと一緒に水を掬って、雫の音を聞いていたなら。水の琴で遊んでいたのなら。
好奇心の塊のような子供たち。水琴窟が公園にあれば、きっと鳴らして遊ぶ筈。水を掬う順番で喧嘩になったり、それは賑やかに騒ぎながら。
(…水琴窟の音、聞こえなくなってしまいそうだよ…)
大きな音はしないとハーレイの授業で聞いたし、子供たちの声にかき消されて。水の雫が奏でる音より、子供たちがはしゃぐ声の方がずっと大きくて…、と思った所で気が付いた。
その子供たちの音だったんだ、と。水琴窟の音が悲しい音になるのは、子供たちの記憶に繋がる音だったから。…とても悲しくて、寂しく響いた水の雫の音だったから…。
(ぼくたちが助けた子供だけしか…)
シャングリラには来られなかった。白い箱舟には乗り込めなかった。
養父母たちに通報されたりした子供たち。「この子は変だ」と、ユニバーサルに。直ちに始まるミュウかどうかを調べる調査。場合によっては、その場で処分された子供も。
前の自分も、救助班の者たちも頑張ったけれど、助け損ねた子も多かった。悲鳴が届いた時には手遅れ、それがその子の最期の思念。「助けて」だとか、「パパ、ママ!」だとか。
(他のみんなには聞こえなくても、前のぼくには…)
子供たちの最期の声が聞こえた。銃口を向けられ、助けを求めた子供たち。自分を通報したのが養父母たちとも知らずに、「パパ、ママ!」と。泣き叫ぶように、「助けて」と。
それきり消えてしまった思念。…その子の命は潰えたから。
飛び出して行っても、もう亡骸しか残ってはいない幼い子供。シャングリラに乗れずに終わってしまった、無垢な魂。もしも自分が気付いていたなら、救い出すことが出来ただろうに。
(…青の間から思念で探っていても…)
見付け出せないミュウの子は多い。
サイオンが強い子供だったら「あの子はミュウだ」と分かるけれども、サイオンが弱い子供だと無理。シャングリラから探るだけでは、気配も感じないのだから。
(外に出た時に気を付けてたって…)
やはり見落とす子供たち。
微弱なサイオンを持つだけだったら、それを掴むのは難しい。育英都市に送り込んでいた潜入班でも、強い子供しか見付けられない。どんなに注意して気を配っていても。
救い出せずに、思念だけが胸を貫いていった子供たち。白いシャングリラに乗れなかった子。
そういう子たちを亡くした夜に、あの水音を聞いたのだった。水琴窟の音色に似た音を。
青の間にあった貯水槽。深い海の底を思わせるような部屋に満々と湛えられた水。悲しい気分になった時には、その貯水槽に続く階段を下りていた。部屋の奥から。
普段は係の者くらいしか下りない階段。それを下りていって、一番下の段に座って…。
(水を掬って…)
階段に腰掛けて、手に掬った水。貯水槽から。
水面に屈み込むのではなくて、サイオンを使って、両手に一杯。
サイオンで両手に満たした後には、その力を解いてしまうのが常。サイオンを使わずに手の中に留めようとしたって、水は溜まっていてはくれない。どんなに隙間なく指を重ねても、手のひらを強くくっつけ合っても。
どう頑張っても、手の中から滴り落ちてゆく水。指の隙間から、くっつけ合った手の間から。
滲み出しては水滴になって、貯水槽へと零れ落ちる水。救い損ねたミュウの子供の命のように。
両手一杯に水を満たしても、其処から水は漏れてゆく。一滴、また一滴と雫になって。
滴り落ちては水面に当たって、青の間の闇に澄んだ水音を響かせて。
(…ミュウの子供を、上手く救出できたって…)
首尾よく救って白いシャングリラに連れて来たって、その子供は運が良かっただけ。
間に合わずに救えなかった子供の方が多くて、この水のように滴り落ちる。シャングリラという名の箱舟に乗れずに、小さな命が消えてしまって。
(アルテメシアでさえ、そうなんだから…)
白いシャングリラが雲海に潜む、幸運な星がアルテメシア。ミュウの箱舟が浮かんでいる星。
其処にある二つの育英都市。アタラクシアとエネルゲイアに運んで来られたミュウの子供なら、助かる術もあるけれど。…白いシャングリラに救われるチャンスを持っているけれど。
(どの子供が何処に運ばれるかは…)
機械の判断次第なのだし、ミュウの子供が皆、アルテメシアに来るわけがない。何処の星でも、育英都市があるのならミュウの子供がいる筈。ミュウの箱舟は其処に無いのに、誰も救いに来てはくれないのに。…処分される時の最期の思念も、此処に届きはしないのに。
今日、殺されてしまった子供。助け出すことが出来ないままで。最期の思念だけを残して。
けれど、その子は「助かるチャンス」を持ってはいた。雲海の中にミュウの箱舟が潜む星だし、運が良ければ助かった子供。白いシャングリラに来られた子供。
それが出来ずに死んだ子供は可哀想だけれど、他の星でもミュウの子供は殺されている。助かるチャンスさえ貰えないままで、ミュウの箱舟が無い星で。
(他の星にも、ミュウの子供が此処と同じようにいるのなら…)
自分が、白いシャングリラが救える子供はほんの一部で、この手に一杯に満たした水のように、両手に一杯分のミュウの子供がいるというなら…。
(救い損ねて、落ちてった命…)
手のひらから滴り落ちる水。サイオンでそれを防がないなら、何処からか漏れて滲み出して。
青の間の闇に木霊する水滴の音。子供の命が落ちて行ったように、最期の思念が届いたように。
自分は悲鳴を聞いたけれども、最期の思念が自分の所に届いた子供は、ごく僅かだけ。
落ちて行った水の雫の分だけ、水面を震わせた音の分だけ。
アルテメシアで殺された子しか、シャングリラに思念は届かないから。彼らの悲鳴が胸を貫きはしないから。
(本当は、もっと沢山の命…)
それが喪われているのだろう。宇宙は広くて、育英都市も多いのだから。
いったい幾つ拾い損ねたことだろう。零れ落ちようとするミュウの子供の命を、銃を向けられ、泣き叫ぶ子供たちの命を。「助けて」と、「パパ、ママ!」と泣いた子たちの命を。
それらを拾い損ねた自分は、これからも拾い損ねるのだろう。ミュウの箱舟は此処に在るだけ、他の星の子を救う術など無いのだから。
(…助けられない命、一杯…)
そう思ったら、落ちてゆく水の音が悲しい。滴る音が、零れる雫が、救い出せずに消えていった子供の命のようで。「此処にいるよ」と、「此処にいたよ」と訴えるようで。
(…助けてあげられなくて、ごめんね…)
本当にごめん、と心で詫び続けながら、掬った水が全部落ちるまで、滴る音を聞いていた。
出来るだけ手から零さないよう、指を、手のひらを強く合わせて。
それでも零れてゆく水の音を、澄んだ水音を、まるで水琴窟の音を聞くかのように。
思い出した、と分かった音の正体。水琴窟に似ていた音。前の自分が聞いていた音。
(悲しい音だと思うわけだよ…)
あの音と同じだったなら、と胸の奥から湧き上がる悲しみ。「救えなかった」と。
ソルジャー・ブルーが、白いシャングリラが、救い損ねた大勢のミュウの子供たち。彼らの命が消えてゆく音、それが滴り落ちる水音。
前の自分の両手の中から、青の間の貯水槽へと落ちて響かせていた水の音。澄んだ水音は悲しい音で、確かに水琴窟に似ていた。…音の響きだけは美しかったから。
(忘れてたのに…)
青い地球の上に生まれ変わって、新しい命と身体を貰って、すっかり忘れ去っていたこと。前の自分が救えなかった沢山の命。深い悲しみの中で何度となく聞いた、滴り落ちる水の音のこと。
(…今頃になって思い出すなんて…)
ハーレイのせいだ、と噛んだ唇。母から「悲しくなったら、おやつをあげるわ」と優しい言葉を貰ったけれども、救い損ねた子供たちは、おやつも貰えなかった。
(おやつどころか、大好きなママに通報されちゃった子も…)
ホントに大勢いた筈だもの、と分かっているから、おやつを貰える気分ではない。幸せに生きる今の自分が、おやつを貰いに行くなんて…。
(あの子供たちに悪いんだから…)
申し訳なくて、とても出来ない。「ママ、おやつ!」と駆けてゆくなんて。悲しい気分になってしまったから、おやつが欲しいと頼むだなんて。
(今のぼくのママは、本物のママで…)
産んで育ててくれた母。前の自分が生きた時代の「ママ」より遥かに素晴らしい「ママ」。
そういう母を持っているのに、それで満足しないだなんて。「おやつをちょうだい」と強請りに行くなんて、ただの子どもの我儘でしかない。
悲しい気分になっていたって、殺されるわけではないのだから。…誰も殺しに来はしないから。
(そんな我儘、言えないよ…)
ママにおねだりなんて出来ない、とギュッと握る手。前の生の終わりに凍えた右の手。
こうして生きていられるだけでも幸運だから、と。
あの子供たちよりずっと幸せで、とても優しい「本物のママ」もいるんだから、と。
我慢しなくちゃ、と思うけれども、消えてくれない悲しい気持ち。水琴窟の音で蘇った記憶。
ハーレイがあれを聞かせるからだ、と八つ当たりしたい気分の所へ聞こえたチャイム。水琴窟の話を持ち出したハーレイが訪ねて来たものだから、向かい合うなりぶつけてやった。
仕事帰りの恋人に。テーブルを挟んで向かいに座ったハーレイに。
「ハーレイ、今日の水琴窟の音…」
「いい音だったろ?」
音のいいのを選んだんだぞ、と返った笑顔。こちらが文句を言う前に。本物はもっと素敵な音がするから、とハーレイは勘違いをしているらしい。「水琴窟に興味を持って貰えたようだ」と。
「いい音だなんて…。あんなの、ちっとも素敵じゃないから!」
本物なんか、どうでもいいよ。ぼくは聞きたいとも思わないもの…!
水琴窟なんか大嫌いだ、とハーレイにぶつけた自分の気持ち。あれは悲しい音なのだから。
「なんだ、どうした?」
いきなり何を怒っているんだ、あの音、嫌いだったのか?
オバケでも出そうな音に聞こえたか、洞窟の中だと似たような音もするもんだから…。
気味が悪いと思ったのか、とハーレイはまるで分っていない。今の自分ではないというのに。
「オバケじゃないよ、ぼくには悲しい音だったんだよ!」
最初は綺麗だと思っていたけど、急に悲しくなっちゃって…。
そしたら思い出しちゃったんだよ、水琴窟の音は、ぼくには悲しい音なんだ、って…!
「おいおい、何があったんだ?」
水琴窟に悲しい思い出だなんて、お前、いったい何をしたんだ?
キャンディーでも落としちまったのか、とハーレイが連想したことも今の自分と同じ。水琴窟で遊ぼうとして、何かを落とした子供時代。もちろん、今の自分の思い出のこと。
落っことしたものはキャンディーなのか、とハーレイは気の毒そうな顔。「そりゃ悪かった」と謝ってくれて、「お前、本物、知ってたのか」とも。
小さかった頃に遊びに出掛けて、とても悲しい目に遭ったんだな、と。
今のハーレイの勘違い。自分も似たようなことをしたから、仕方ないとは思うけれども、とても収まらない苛立ち。ハーレイのせいで悲しい思い出が蘇ったことは確かだから。
「悪かった」と謝られたって、謝る相手が違うから。
水琴窟の音が悲しいのは、自分ではなくてソルジャー・ブルーの記憶のせい。ハーレイが誰かに謝るとしたら、前の自分の方なのだから。
「ぼくは知らないってば、本物の水琴窟なんか…!」
水琴窟って言葉も知らなかったし、音を聞いたのも今日が初めて。
あの音が悲しいのは前のぼくだよ、前のぼくの記憶が「悲しい音だ」と思わせるんだよ…!
「…前のお前だと?」
ヒルマン、あんなのを作っていたか?
思い付くだけなら、エラってこともありそうだが…。シャングリラにあったか、水琴窟…?
キャプテンの俺は覚えていないが、と勘違いを続けているハーレイ。「何処の公園だ?」などと訊くから、本当に許せない気分。悲しい音をぼくに聞かせたくせに、と。
「公園じゃなくて…!」
青の間にあった貯水槽だよ、前のぼく、あそこで聞いてたんだよ…!
覚えているでしょ、前のぼくが貯水槽の側まで下りていたのは、どういう気分の時だったか。
部屋の奥にあった点検用の階段だけど、と付け加えた。「一番下に座ってた時」と。
「貯水槽に下りる階段か…。あったな、奥に」
悲しい時にはよく下りていたな、前のお前は。…姿が見えないと思ったら、あそこに座っていたもんだ。階段の一番下の所に。
俺も何度も一緒に座っていたっけな。お前の気分が落ち着くまで。…階段を上がって、上に戻る気になってくれるまで。
あそこで水音、聞いていたのか?
悲しい気分の時に聞いたら、悲しい音にもなっちまうよなあ…。普段は普通の音に聞こえても。
おまけにあそこは、音ってヤツがよく響くしな、とハーレイは自然に落ちる水滴の音だと思っているようだから。実際、たまに水音は響いていたものだから…。
何処かからポタリと滴り落ちて。水琴窟が鳴らす水音のように、澄んだ音色で。
その水音とは違うのに。…自然に滴る音だったならば、悲しい音にはならないのに…。
そうは思っても、前のハーレイも知らなかったこと。あそこで両手一杯の水を掬っていた時は、いつでも一人だったから。…ハーレイは隣にいなかったから。
八つ当たりしても仕方ない、と今のハーレイに語ることにした。悲しい音の正体を。
「…普通に落ちてた水じゃないんだよ、前のぼくがわざと鳴らしてた」
両手に一杯の水を掬って、その水が全部落ちていくまで…。指の間から落ちて無くなるまで。
頑張って零さないようにしてても、いつかは全部、落ちてしまうから。
何処かから少しずつ零れてしまって…、と明かした水音。悲しく響いていた水が滴る音。
「なんだって?」
前のお前が鳴らしてた、って…。手のひらの水が無くなるまでか?
ずいぶん時間がかかりそうだが、そうすることに意味があったのか…?
なんでまた…、と怪訝そうな顔のハーレイ。「わざと悲しい水音を立てていたなんて」と。
「いつもやってたわけじゃなくって、ミュウの子供を救い損なった時…」
救出するのが間に合わなくて、前のぼくにだけ最期の思念が届いた時とか。
そういう時にね、両手に一杯の水を掬ってみるんだよ。…あそこの階段の下に座って。
宇宙に生まれるミュウの子供は、きっとこのくらいいる筈だ、って…。
アルテメシアの他にも育英都市はあるから、其処でも育っていた筈だもの。ミュウの子供が。
その子供たちは助かるチャンスも持っていなくて、ぼくが救えるのはほんの一部だけ。
アルテメシアで見付かったミュウの子供だけでしょ、それも救助が間に合わないと無理。
両手に一杯の水の分だけミュウの子供が生まれていたって、全部は助けられないんだよ。ぼくの手から落ちて零れていくのが殆どだから…。
手のひらから水の雫が落ちていったら、子供の命が消えてくみたいで…。
最期の思念が届くみたいに、水の音が響いてくるんだよ。…水琴窟の音みたいにね。
綺麗だけれど、悲しい音、と零した溜息。「だから悲しい音なんだよ」と。
「うーむ…。前のお前がそういうことをなあ…」
そいつは俺も知らなかったぞ、出くわしたことが無かったから。
お前が手のひらに水を掬って落としているのを、俺は一度も見なかったから。
そうか、悲しい音だったのか…。水琴窟の音、前のお前にとっては。
綺麗な音だと思ったんだが、お前には悲しい音だったんだな…。
すまん、と謝ってくれたハーレイ。「気付かなかった俺が悪かった」と。
いい音だからと教室の生徒に聴かせていたのに、悲しい思いをさせちまったか、と。
「前のお前の悲しい記憶を呼び起こすとは思わなかったんだ。…全く知らなかったから」
水琴窟は日本の文化で、前の俺たちが生きた時代には無かったからな。
お前も喜んでくれるだろうと思っていたのに、逆になっちまうなんて、俺が迂闊だった。
どうすりゃいいかな、お詫びってヤツ。
悲しい思いをさせたらしいし、お前に謝りたいんだが…。
「お詫びだったら、今、聞いたよ?」
ぼくも八つ当たりしちゃっていたから、もう充分。ハーレイは悪くないんだもの。…前のぼくが一人でやってたことまで、ハーレイ、分かるわけないもんね…。
だからいいよ、と自分の方でも謝った。「八つ当たりしちゃって、ごめんね」と。
「いや…。お前の気持ちも分からんではない。前のお前のことなら分かっているからな」
どれほど辛い思いをしてたか、今の俺にも分かるんだ。水音がどんなに悲しく聞こえたのかも。
なのに、そいつと同じ音をだ、いい音のつもりで聴かせたからなあ…。
その埋め合わせに、何かお詫びをしてやりたいと思うわけだが…。
何かあったらいいんだがな、とハーレイが顎に手を当てるから、ここぞとばかりに強請ることにした。母におやつを強請りに行くのは気が引けたけれど、ハーレイならばいいだろう、と。
前の自分もハーレイと恋人同士だったから。…ハーレイには甘えていたのだから。
「じゃあ、お詫びに本物の水琴窟に連れて行ってよ」
ハーレイ、授業で言っていたでしょ、「本物の音を聞きに行くなら此処だ」って場所を二つ。
片方でいいから、ぼくを連れてって欲しいんだけど…。先生と生徒でかまわないから、水琴窟の勉強をしに。
本物の水琴窟の音を聞いたら、きっと悲しくなくなるから。今はいい音があるんだね、って。
庭で素敵な音がするよ、って嬉しくなると思うから…。
「そいつが一番の早道なんだろうとは思うが、先生と生徒と言ってもなあ…」
クラスの全員を連れて行くなら問題は無いが、お前と俺の二人きりだろう?
それじゃデートになっちまうから、連れては行けん。…お前とデートはまだ出来ないから。
本物の水琴窟は駄目だし…、とハーレイは暫く考え込んで、「そうだ」と何かを思い付いた顔。いいアイデアでもあるのだろうか、と鳶色の瞳を見詰めたら…。
「なあ、ブルー。…俺の歌で我慢してくれないか?」
「歌?」
キョトンと見開いてしまった瞳。お詫びはともかく、どうして歌になるのだろう?
「水琴窟は水が奏でる音だからなあ、名前の通りに水の琴だし」
音楽みたいだと思ったわけだな、昔の日本人たちは。それで名前が水琴窟だ。
俺は琴なんか弾けやしないし、代わりに何か聴かせてやろう。…俺の下手くそな歌で良ければ。
何か聴きたい歌はあるか、という申し出。ハーレイが歌ってくれるらしい。水琴窟が鳴らす音の代わりに、大好きでたまらない声で。
(ハーレイが歌ってくれるんだったら、スカボローフェアがいいのかな…?)
前の自分たちの思い出の恋歌、スカボローフェア。
縫い目も針跡も無い亜麻のシャツを作った、ソルジャー・ブルー。そういうシャツを作ることが出来たら、本物の恋人だと歌う恋歌だから。…前の自分もハーレイの歌を聴いたから。
(…前のハーレイ、あのシャツを大事に持っててくれて…)
前の自分がいなくなった後も、ずっと大切にしていてくれた。何度もそっと撫で続けて。
スカボローフェアは懐かしい恋歌、それを聞きたい気もするけれども、「ゆりかごの歌」も素敵だろうか。眠り続ける前の自分に、ハーレイが歌ってくれた子守歌。赤いナスカで。
初めての自然出産児だったトォニィのために、探し出された古い歌。前の自分は眠りの中でも、ハーレイの歌を聴いていた。今の自分も「ゆりかごの歌」が一番好きな歌だったほどに。
(前のぼくのママの歌かと思っていたら、ハーレイが歌っていたんだっけ…)
そう聞かされた日に、ハーレイが庭で歌ってくれた。恥ずかしそうに「ゆりかごの歌」を。庭で一番大きな木の下、白いテーブルと椅子の所で。
(頼むんだったら、ゆりかごの歌かな…)
前の自分の悲しい思い出、水琴窟が奏でる音に似ていた音は、救えなかった子供たちの命を思う音だったから。
大勢のミュウの子供たち。おやつも強請れず、養父母たちに通報されたことも知らずに、彼らを呼びながら死んでいった子たち。「助けて」と、「パパ、ママ!」と最期の思念で。
あの子供たちのことを思い出したのだから、聴くのなら子守歌がいい。「ゆりかごの歌」なら、子供たちも喜びそうだから。…きっと喜んでくれるから。
それをリクエストして歌って貰って、ハーレイの歌声に聴き入った後で…。
「ありがとう、ハーレイ。…素敵な歌を歌ってくれて」
ゆりかごの歌は、今は人気の子守歌だけど…。あの子供たちも、地球に着けたかな?
前のぼくたちが助けられなかった、大勢のミュウの子供たち。…殺されちゃった子供たちも。
青い地球まで来られたかな、と尋ねてみたら。
「きっと着いたさ、俺たちよりもずっと先にな」
前と同じに育つ身体だとか、そんな贅沢は言わないだろうし…。うんと早くに。
本物のお母さんに産んで貰って、ゆりかごの歌を聴いて育って、水琴窟だって覗き込んで。
この地域に生まれた子供だったら、水琴窟にも行ったんじゃないか?
おやつを落っことして泣いたりしてな、とハーレイは笑う。「小さな子供にはありがちだ」と。
「水琴窟…。そうだといいな、小さな子供の遊び場じゃないらしいけど…」
ママが「お庭を見に行くだけで、遊び道具は何も無いわよ?」って言ってたけれど…。
水琴窟に行った子供もいるかな、日本に生まれて来た子だったら…?
「間違いなく行ったと思うがな?」
前のお前が聞いてたんだろ、水琴窟に似た音を。…子供たちのことを考えながら。
神様はちゃんと、前のお前の祈りを聞いてて下さった筈だと思うから…。日本に生まれた子供はもれなく水琴窟だな、「いい音がする」と水を掬って鳴らして遊んで。
お前もいつか本物の水琴窟に連れてってやる、とハーレイは約束してくれたから。
前の自分と同じ背丈に育った時には、水琴窟のある庭までデートに出掛けてゆこう。
ハーレイと二人で水琴窟の音を聴きに行ってみよう、今は悲しくない音を。
ミュウの子供たちはもう死なないから、水の音は悲しく響かないから。今は平和な世界だから。
(水琴窟…)
悲しい音だと思ったけれども、今のハーレイと一緒に音を聴けたらいい。
今は幸せな音がするねと、うんと素敵な水の音が、と。
前の自分の悲しい音が、幸せな音に変わればいい。今の時代だから聴ける、素敵な音に。
水の雫たちが奏で続ける、澄んだ響きの琴の音色に…。
悲しい音・了
※ハーレイが古典の授業で流した水琴窟の音。けれどブルーは、悲しい音だと感じたのです。
それはソルジャー・ブルーの記憶。救い損ねたミュウの子供たちを思いながら聞いた水の音。
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こいつだ、とハーレイが教室の前のボードに書いた文字。「水琴窟」と。
(水の琴…?)
何だろう、と首を傾げたブルー。それに「窟」の字、洞窟の中で奏でるための琴なのだろうか?
洞窟だったら、いい音が響きそうではある。水の琴がいったいどんな琴かは、まるで分からないままだけれども。
古典の授業でお馴染みの雑談、生徒たちの集中力を取り戻すために出される話題。楽しい話や、ためになる話。ハーレイの気分で中身は色々。
前のボードに書かれた三文字、「すいきんくつ」と書き添えられた振り仮名。
「水琴窟は昔の日本の文化だ。江戸時代に出来たと伝わってるな」
こういう仕組みになってるんだ、とハーレイが描いてゆく図解。
土の中に逆さに埋められた甕。底に穴を開けて。甕は空っぽ、水が溜まるように工夫をしてから埋めてゆく。周りに石を詰めていって。
遠い昔の庭の装飾、手水鉢の側にも作られたりした。手水鉢には水が要るから、其処から溢れた水を使って鳴らす音。甕の中に溜まった水と合わせて。
「こうやって甕を埋めておくとだ、甕の中に水が溜まるから…」
其処へ上から水が落ちると、その雫で音がするんだな。甕の中で木霊するように。
その音がとても綺麗だからと、「水琴窟」と呼ぶわけだ。
特別に音も聞かせてやろう、とハーレイが取り出した専用の機械。それが動いたら…。
ピチョーン、と教室に響いた音。澄み切った水の雫の音。
「本物の水琴窟の場合は、こんな大きな音には聞こえないんだが…」
その周りでだけ聞こえればいい、というのが水琴窟なんだ。
小さなものだと、音も小さくなるもんだから…。
音を聴くための竹筒を立てて、その側で耳を澄ませるってこともあったらしいぞ。
この教室の真ん中に水琴窟があったら、端のヤツらには聞こえないかもな。
いい音が鳴っているわけなんだが、途中ですっかり消えてしまって。
昔の日本の文化はそうだろ、華やかなものより控えめな方が人気だったから。
わびさびの世界というヤツで…、と紹介された水琴窟。遠い昔の日本の人たちが好んだ音。
お前たちもそれを暫く楽しんでみろ、と黙ったハーレイ。「一分間ほど静かに聴くように」と。
教室に流れる水琴窟の音。機械が流している音だけれど、水の雫が鳴らす音には違いない。
ピチョーン、コローン、と様々に響く水たちの音色。
(綺麗な音…)
溜まった水に落ちる水滴、それが奏でる澄んだ音。まさに水の琴。
水琴窟とは、本当によくも名付けたもの。それに仕掛けを思い付いたのも凄いと思う。
(日本って凄い…)
遠い昔の小さな島国、独自の文化を誇った国。他の国の人たちが魅せられたほどに。
こんな仕掛けも作ってたんだ、と驚かされた水琴窟。ほんの限られた所までしか届かないのに、その音を愛した日本人。竹筒を通して聴いたくらいに。
いい音だよね、と水琴窟が奏でる音色に聴き入っていたら…。
(え…?)
急に「悲しい」と思った自分。胸の奥から湧き上がって来た深い悲しみ。
とても綺麗な音だというのに、悲しい音のように聞こえる水琴窟。今もいい音がしているのに。
(なんで…?)
どうして悲しい音になるの、と思う間に、ハーレイが「ここまで」と止めた音。消えてしまった悲しい音。水琴窟の音色はもう聞こえない。
「もっとゆっくり聞きたいヤツは、本物を聞きに行くんだな」
この近くで水琴窟があるのは此処と此処だ、と挙げられた場所。水琴窟があるらしい庭園。昔の日本の文化の通りに作られた庭。
(…知らないよね?)
どちらにも自分は行ってはいない。行った記憶がまるで無いから。
それとも、覚えていないくらいに幼い頃に出掛けて…。
(遊ぼうとしてて、何か落っことしたとか?)
大事なおやつを水琴窟の側の地面に落とすとか。キャンディーとか、ソフトクリームとか。
地面に落として、食べられなくなってしまったのなら…。
悲しい音になりもするよね、と思った水琴窟の音。
大切なおやつが駄目になったのに、響き続ける水の音。おやつを落っことす前に自分が流した、水の雫を受け止めて。ピチョーン、コローン、と澄み切った音で。
(それって、とっても悲しいよね…?)
どんなにいい音がしていても。澄んだ水の琴が鳴り続けても。
水琴窟を鳴らそうとしたら、おやつを落としたのだから。小さな柄杓で水を掬って流した時に、落っことしてしまった大事なおやつ。…もう食べられない、駄目になったおやつ。
(ぼくのおやつは駄目になったのに、水琴窟は鳴っているんだから…)
きっとそれだ、と考えた音。「悲しい音だ」と思った理由。
まるで覚えていないけれども、小さかった頃に何かあったんだ、と。…水琴窟の側で。
そう納得して、戻った授業。ハーレイも「続きをやるぞ」とボードの文字を消したから。
授業の続きが始まったらもう、忘れてしまった水琴窟。悲しい音に聞こえたことも。
けれど、学校が終わって帰った家。
ダイニングでおやつを食べていた時に、思い出した水琴窟のこと。悲しい音に聞こえた水音。
(やっぱり、原因、おやつだよね…?)
小さな子供が悲しくなるなら、そのくらいしか思い付かない。水琴窟の側には水があるけれど、大切なオモチャを其処に落としはしないだろう。
(パパかママが預かってくれそうだから…)
オモチャだったら、落とさないように。幼い自分も素直に「お願い」と渡していそう。水の中に落ちたら、濡れてしまうということくらいは分かるから。
(でも、おやつだと…)
大丈夫、と言い張りそうなのが幼い子供。「落っことすわよ?」と言われても。
ソフトクリームを預けようとはまず思わないし、「預けたりしたら、食べられちゃう」と思っていそう。相手は優しい両親でも。
まして頬張っていたキャンディーだったら、預けようさえない代物。
(棒つきだったら、預けることも出来るけど…)
口に含んだキャンディーは無理。それを落としてしまっただろうか、水琴窟の側の地面に。水を流そうと屈んだはずみに、うっかり、ポトンと。
どう考えても、原因はおやつだろうから。きっとそうだという気がするから、通りかかった母を呼び止めて尋ねてみた。
「ママ、水琴窟っていうのを知ってる?」
地面の中に甕が埋まっていて、上から水を流したら音がするんだよ。中で響いて。
この辺りだと、此処と此処にあるって聞いたんだけど…、と伝えた場所。日本式だという庭園。
「知っているわよ、パパと行ったわ」
いい音がするのよ、水琴窟は。遠くまでは響かないけれど、とてもいい音。
「…ぼくは?」
ぼくもママたちと一緒に行ったの、と勢い込んで訊いたのに…。
「ブルーは生まれていなかったわねえ…」
あの頃だとママのお腹の中にも、いなかったんじゃないかしら?
パパとは結婚していたけれど、ブルーはまだだと思うわよ、というのが母の返事だから。
「本当に…?」
ぼくは生まれていなかったなんて、絶対に無いと思うんだけど…。
パパやママたちと行った筈なんだよ、水琴窟のある庭に。
だってね…、と母に話した、古典の時間に起こったこと。悲しい音のように聞こえた水琴窟。
原因は落としたおやつなんだと思う、と説明も。オモチャは預けるだろうから、と。
「あら、そうだった?」
ブルーも連れて行ったのかしらね、ママは覚えていないけど…。
小さな子供を連れて行っても、喜びそうな場所じゃないんだけれど…。あそこの庭は見るだけの場所で、遊べる道具が何も無いから。公園だったら色々あっても、お庭では…。
だから行ってはいないと思うわ、「つまらないよ」って言いそうだもの。
パパの友達を案内するとか、そういうので出掛けたにしても…。
ブルーが其処で泣き出したんなら、きっと忘れはしないわよ。「そうだったわ」って、聞いたら思い出す筈よ。
おやつを落として大変だったとか、泣き止むまでにとても時間がかかったとかね。
ママが忘れるわけがないわ、と母が言うのも一理ある。普段は忘れていたとしたって、水琴窟の側で泣いた筈だと聞かされたら思い出すだろう。
(…ぼく、行ってないの…?)
それじゃ何処で、と考え込んでいたら、「前のブルーの方じゃないの?」と母に問われた。
「ブルーはママのブルーだけれども、その前はソルジャー・ブルーでしょう?」
きっとソルジャー・ブルーだった頃に聞いたのよ。水琴窟の音を、何処かで。
ソルジャー・ブルーなら悲しい思い出も多そうだから、というのが母の推理だけれど。
「…水琴窟って、日本の文化だよ?」
前のぼくが生きてたような時代に、日本の文化は無い筈だから…。機械が消しちゃっていた世界だったから…。
水琴窟なんか、あるわけがないよ。何処を探しても。
「そういえばそうね…。日本の文化は、SD体制の時代には消されていた筈ね…」
でも、似たような音があったんじゃないの?
水琴窟にそっくりな音がするものだとか、水琴窟そのものがあっただとか…。
シャングリラにはユニークな人たちが多かったんでしょ、と微笑んだ母。
「ママは直接会っていないけれど、ブルーから色々聞いているわ」と。その中の誰かが水琴窟を作っていたかもしれないわよね、と。
「…シャングリラに水琴窟があったっていうの?」
それなら、悲しい音に聞こえちゃうこともあったかも…。
普段は「素敵な音だ」と思っていたって、悲しい気分で聞いていた日もありそうだから。
凄いね、ママ。…ママの推理は当たっていそう。水琴窟とか、そっくりな音がする何か…。
「どういたしまして。参考になったなら良かったわ」
後は頑張って思い出してね、シャングリラにあった水琴窟の音。
だけど、ママには話してくれなくてもかまわないわよ。…悲しい思い出みたいだから。
思い出したら、きっとブルーは悲しくなるもの。
おやつを落としたどころじゃないわよ、ソルジャー・ブルーの方ならね。
もしも悲しくなってしまったら、おやつでも食べに来なさいな。
特別に何か食べさせてあげるわ、晩御飯が入らなくならない程度に。…少しだけね。
いつまでも一人でしょげていちゃ駄目よ、と母に念を押されて戻った二階の自分の部屋。悲しい音を思い出したら、元気が出るように貰えるおやつ。…本当に元気が無くなったなら。
これで悲しい音も安心、と勉強机の前に座った。「音の正体を追い掛けよう」と。
水琴窟そのものか、水琴窟にそっくりな音がする何か。…シャングリラにあったらしいもの。
(ヒルマンかな…?)
そういう仕掛けを作ったとしたら、可能性が高いのがヒルマン。それに仕掛けがあった船なら、間違いなく白いシャングリラ。改造を終えて白い鯨になった船。
(水琴窟…)
今日のハーレイの雑談で教わった、綺麗な音がする仕組み。底に穴を開けた甕を地面に埋めて、中に溜まった水の上に落ちる雫の音を響かせる。
仕組みそのものは単純なのだし、日本風の甕が無くても壺で代用出来るだろう。水琴窟に使える壺が無ければ、白い鯨で作れた筈。「こういう壺を一つ」と専門の係に注文すれば。
ヒルマンならば好きそうなものが水琴窟。遠い昔の資料を見付けて、作ってみようと考えたって不思議ではない。思い付くだけなら、エラだって。
(…エラだと、自分で穴を掘ったりしないだろうから…)
きっとヒルマンに話を持ち掛け、船の仲間の力を借りる。「こういう仕掛けを作りたい」と。
船の仲間たちも、ああいう綺麗な音がするなら、大喜びで協力するだろう。穴を掘るのも、壺を埋めるのも、水を引いてくる作業なども。
(作るんだったら、公園だよね…?)
公園には木を植えていたのだし、充分な深さに敷かれていた土。大きな壺でも埋められる。水も当然、供給されるし、其処から引いてくればいいだけ。
小川が流れる公園だったら、その直ぐ側に作っておいたら水を引く手間が省けたろう。
(だけど、悲しい音…)
公園だったら、楽しい音になりそうなもの。悲しい音になるよりは。
気分が沈んでいた時だって、公園に行けば元気な子供たちがいた。はしゃぎ回る子供たちの中に混ぜて貰って、遊ぶ間に癒えていた心。
水琴窟の音が悲しく聞こえていたって、じきに素敵な楽しい音色に変わっただろう。子供たちと一緒に水を掬って、雫の音を聞いていたなら。水の琴で遊んでいたのなら。
好奇心の塊のような子供たち。水琴窟が公園にあれば、きっと鳴らして遊ぶ筈。水を掬う順番で喧嘩になったり、それは賑やかに騒ぎながら。
(…水琴窟の音、聞こえなくなってしまいそうだよ…)
大きな音はしないとハーレイの授業で聞いたし、子供たちの声にかき消されて。水の雫が奏でる音より、子供たちがはしゃぐ声の方がずっと大きくて…、と思った所で気が付いた。
その子供たちの音だったんだ、と。水琴窟の音が悲しい音になるのは、子供たちの記憶に繋がる音だったから。…とても悲しくて、寂しく響いた水の雫の音だったから…。
(ぼくたちが助けた子供だけしか…)
シャングリラには来られなかった。白い箱舟には乗り込めなかった。
養父母たちに通報されたりした子供たち。「この子は変だ」と、ユニバーサルに。直ちに始まるミュウかどうかを調べる調査。場合によっては、その場で処分された子供も。
前の自分も、救助班の者たちも頑張ったけれど、助け損ねた子も多かった。悲鳴が届いた時には手遅れ、それがその子の最期の思念。「助けて」だとか、「パパ、ママ!」だとか。
(他のみんなには聞こえなくても、前のぼくには…)
子供たちの最期の声が聞こえた。銃口を向けられ、助けを求めた子供たち。自分を通報したのが養父母たちとも知らずに、「パパ、ママ!」と。泣き叫ぶように、「助けて」と。
それきり消えてしまった思念。…その子の命は潰えたから。
飛び出して行っても、もう亡骸しか残ってはいない幼い子供。シャングリラに乗れずに終わってしまった、無垢な魂。もしも自分が気付いていたなら、救い出すことが出来ただろうに。
(…青の間から思念で探っていても…)
見付け出せないミュウの子は多い。
サイオンが強い子供だったら「あの子はミュウだ」と分かるけれども、サイオンが弱い子供だと無理。シャングリラから探るだけでは、気配も感じないのだから。
(外に出た時に気を付けてたって…)
やはり見落とす子供たち。
微弱なサイオンを持つだけだったら、それを掴むのは難しい。育英都市に送り込んでいた潜入班でも、強い子供しか見付けられない。どんなに注意して気を配っていても。
救い出せずに、思念だけが胸を貫いていった子供たち。白いシャングリラに乗れなかった子。
そういう子たちを亡くした夜に、あの水音を聞いたのだった。水琴窟の音色に似た音を。
青の間にあった貯水槽。深い海の底を思わせるような部屋に満々と湛えられた水。悲しい気分になった時には、その貯水槽に続く階段を下りていた。部屋の奥から。
普段は係の者くらいしか下りない階段。それを下りていって、一番下の段に座って…。
(水を掬って…)
階段に腰掛けて、手に掬った水。貯水槽から。
水面に屈み込むのではなくて、サイオンを使って、両手に一杯。
サイオンで両手に満たした後には、その力を解いてしまうのが常。サイオンを使わずに手の中に留めようとしたって、水は溜まっていてはくれない。どんなに隙間なく指を重ねても、手のひらを強くくっつけ合っても。
どう頑張っても、手の中から滴り落ちてゆく水。指の隙間から、くっつけ合った手の間から。
滲み出しては水滴になって、貯水槽へと零れ落ちる水。救い損ねたミュウの子供の命のように。
両手一杯に水を満たしても、其処から水は漏れてゆく。一滴、また一滴と雫になって。
滴り落ちては水面に当たって、青の間の闇に澄んだ水音を響かせて。
(…ミュウの子供を、上手く救出できたって…)
首尾よく救って白いシャングリラに連れて来たって、その子供は運が良かっただけ。
間に合わずに救えなかった子供の方が多くて、この水のように滴り落ちる。シャングリラという名の箱舟に乗れずに、小さな命が消えてしまって。
(アルテメシアでさえ、そうなんだから…)
白いシャングリラが雲海に潜む、幸運な星がアルテメシア。ミュウの箱舟が浮かんでいる星。
其処にある二つの育英都市。アタラクシアとエネルゲイアに運んで来られたミュウの子供なら、助かる術もあるけれど。…白いシャングリラに救われるチャンスを持っているけれど。
(どの子供が何処に運ばれるかは…)
機械の判断次第なのだし、ミュウの子供が皆、アルテメシアに来るわけがない。何処の星でも、育英都市があるのならミュウの子供がいる筈。ミュウの箱舟は其処に無いのに、誰も救いに来てはくれないのに。…処分される時の最期の思念も、此処に届きはしないのに。
今日、殺されてしまった子供。助け出すことが出来ないままで。最期の思念だけを残して。
けれど、その子は「助かるチャンス」を持ってはいた。雲海の中にミュウの箱舟が潜む星だし、運が良ければ助かった子供。白いシャングリラに来られた子供。
それが出来ずに死んだ子供は可哀想だけれど、他の星でもミュウの子供は殺されている。助かるチャンスさえ貰えないままで、ミュウの箱舟が無い星で。
(他の星にも、ミュウの子供が此処と同じようにいるのなら…)
自分が、白いシャングリラが救える子供はほんの一部で、この手に一杯に満たした水のように、両手に一杯分のミュウの子供がいるというなら…。
(救い損ねて、落ちてった命…)
手のひらから滴り落ちる水。サイオンでそれを防がないなら、何処からか漏れて滲み出して。
青の間の闇に木霊する水滴の音。子供の命が落ちて行ったように、最期の思念が届いたように。
自分は悲鳴を聞いたけれども、最期の思念が自分の所に届いた子供は、ごく僅かだけ。
落ちて行った水の雫の分だけ、水面を震わせた音の分だけ。
アルテメシアで殺された子しか、シャングリラに思念は届かないから。彼らの悲鳴が胸を貫きはしないから。
(本当は、もっと沢山の命…)
それが喪われているのだろう。宇宙は広くて、育英都市も多いのだから。
いったい幾つ拾い損ねたことだろう。零れ落ちようとするミュウの子供の命を、銃を向けられ、泣き叫ぶ子供たちの命を。「助けて」と、「パパ、ママ!」と泣いた子たちの命を。
それらを拾い損ねた自分は、これからも拾い損ねるのだろう。ミュウの箱舟は此処に在るだけ、他の星の子を救う術など無いのだから。
(…助けられない命、一杯…)
そう思ったら、落ちてゆく水の音が悲しい。滴る音が、零れる雫が、救い出せずに消えていった子供の命のようで。「此処にいるよ」と、「此処にいたよ」と訴えるようで。
(…助けてあげられなくて、ごめんね…)
本当にごめん、と心で詫び続けながら、掬った水が全部落ちるまで、滴る音を聞いていた。
出来るだけ手から零さないよう、指を、手のひらを強く合わせて。
それでも零れてゆく水の音を、澄んだ水音を、まるで水琴窟の音を聞くかのように。
思い出した、と分かった音の正体。水琴窟に似ていた音。前の自分が聞いていた音。
(悲しい音だと思うわけだよ…)
あの音と同じだったなら、と胸の奥から湧き上がる悲しみ。「救えなかった」と。
ソルジャー・ブルーが、白いシャングリラが、救い損ねた大勢のミュウの子供たち。彼らの命が消えてゆく音、それが滴り落ちる水音。
前の自分の両手の中から、青の間の貯水槽へと落ちて響かせていた水の音。澄んだ水音は悲しい音で、確かに水琴窟に似ていた。…音の響きだけは美しかったから。
(忘れてたのに…)
青い地球の上に生まれ変わって、新しい命と身体を貰って、すっかり忘れ去っていたこと。前の自分が救えなかった沢山の命。深い悲しみの中で何度となく聞いた、滴り落ちる水の音のこと。
(…今頃になって思い出すなんて…)
ハーレイのせいだ、と噛んだ唇。母から「悲しくなったら、おやつをあげるわ」と優しい言葉を貰ったけれども、救い損ねた子供たちは、おやつも貰えなかった。
(おやつどころか、大好きなママに通報されちゃった子も…)
ホントに大勢いた筈だもの、と分かっているから、おやつを貰える気分ではない。幸せに生きる今の自分が、おやつを貰いに行くなんて…。
(あの子供たちに悪いんだから…)
申し訳なくて、とても出来ない。「ママ、おやつ!」と駆けてゆくなんて。悲しい気分になってしまったから、おやつが欲しいと頼むだなんて。
(今のぼくのママは、本物のママで…)
産んで育ててくれた母。前の自分が生きた時代の「ママ」より遥かに素晴らしい「ママ」。
そういう母を持っているのに、それで満足しないだなんて。「おやつをちょうだい」と強請りに行くなんて、ただの子どもの我儘でしかない。
悲しい気分になっていたって、殺されるわけではないのだから。…誰も殺しに来はしないから。
(そんな我儘、言えないよ…)
ママにおねだりなんて出来ない、とギュッと握る手。前の生の終わりに凍えた右の手。
こうして生きていられるだけでも幸運だから、と。
あの子供たちよりずっと幸せで、とても優しい「本物のママ」もいるんだから、と。
我慢しなくちゃ、と思うけれども、消えてくれない悲しい気持ち。水琴窟の音で蘇った記憶。
ハーレイがあれを聞かせるからだ、と八つ当たりしたい気分の所へ聞こえたチャイム。水琴窟の話を持ち出したハーレイが訪ねて来たものだから、向かい合うなりぶつけてやった。
仕事帰りの恋人に。テーブルを挟んで向かいに座ったハーレイに。
「ハーレイ、今日の水琴窟の音…」
「いい音だったろ?」
音のいいのを選んだんだぞ、と返った笑顔。こちらが文句を言う前に。本物はもっと素敵な音がするから、とハーレイは勘違いをしているらしい。「水琴窟に興味を持って貰えたようだ」と。
「いい音だなんて…。あんなの、ちっとも素敵じゃないから!」
本物なんか、どうでもいいよ。ぼくは聞きたいとも思わないもの…!
水琴窟なんか大嫌いだ、とハーレイにぶつけた自分の気持ち。あれは悲しい音なのだから。
「なんだ、どうした?」
いきなり何を怒っているんだ、あの音、嫌いだったのか?
オバケでも出そうな音に聞こえたか、洞窟の中だと似たような音もするもんだから…。
気味が悪いと思ったのか、とハーレイはまるで分っていない。今の自分ではないというのに。
「オバケじゃないよ、ぼくには悲しい音だったんだよ!」
最初は綺麗だと思っていたけど、急に悲しくなっちゃって…。
そしたら思い出しちゃったんだよ、水琴窟の音は、ぼくには悲しい音なんだ、って…!
「おいおい、何があったんだ?」
水琴窟に悲しい思い出だなんて、お前、いったい何をしたんだ?
キャンディーでも落としちまったのか、とハーレイが連想したことも今の自分と同じ。水琴窟で遊ぼうとして、何かを落とした子供時代。もちろん、今の自分の思い出のこと。
落っことしたものはキャンディーなのか、とハーレイは気の毒そうな顔。「そりゃ悪かった」と謝ってくれて、「お前、本物、知ってたのか」とも。
小さかった頃に遊びに出掛けて、とても悲しい目に遭ったんだな、と。
今のハーレイの勘違い。自分も似たようなことをしたから、仕方ないとは思うけれども、とても収まらない苛立ち。ハーレイのせいで悲しい思い出が蘇ったことは確かだから。
「悪かった」と謝られたって、謝る相手が違うから。
水琴窟の音が悲しいのは、自分ではなくてソルジャー・ブルーの記憶のせい。ハーレイが誰かに謝るとしたら、前の自分の方なのだから。
「ぼくは知らないってば、本物の水琴窟なんか…!」
水琴窟って言葉も知らなかったし、音を聞いたのも今日が初めて。
あの音が悲しいのは前のぼくだよ、前のぼくの記憶が「悲しい音だ」と思わせるんだよ…!
「…前のお前だと?」
ヒルマン、あんなのを作っていたか?
思い付くだけなら、エラってこともありそうだが…。シャングリラにあったか、水琴窟…?
キャプテンの俺は覚えていないが、と勘違いを続けているハーレイ。「何処の公園だ?」などと訊くから、本当に許せない気分。悲しい音をぼくに聞かせたくせに、と。
「公園じゃなくて…!」
青の間にあった貯水槽だよ、前のぼく、あそこで聞いてたんだよ…!
覚えているでしょ、前のぼくが貯水槽の側まで下りていたのは、どういう気分の時だったか。
部屋の奥にあった点検用の階段だけど、と付け加えた。「一番下に座ってた時」と。
「貯水槽に下りる階段か…。あったな、奥に」
悲しい時にはよく下りていたな、前のお前は。…姿が見えないと思ったら、あそこに座っていたもんだ。階段の一番下の所に。
俺も何度も一緒に座っていたっけな。お前の気分が落ち着くまで。…階段を上がって、上に戻る気になってくれるまで。
あそこで水音、聞いていたのか?
悲しい気分の時に聞いたら、悲しい音にもなっちまうよなあ…。普段は普通の音に聞こえても。
おまけにあそこは、音ってヤツがよく響くしな、とハーレイは自然に落ちる水滴の音だと思っているようだから。実際、たまに水音は響いていたものだから…。
何処かからポタリと滴り落ちて。水琴窟が鳴らす水音のように、澄んだ音色で。
その水音とは違うのに。…自然に滴る音だったならば、悲しい音にはならないのに…。
そうは思っても、前のハーレイも知らなかったこと。あそこで両手一杯の水を掬っていた時は、いつでも一人だったから。…ハーレイは隣にいなかったから。
八つ当たりしても仕方ない、と今のハーレイに語ることにした。悲しい音の正体を。
「…普通に落ちてた水じゃないんだよ、前のぼくがわざと鳴らしてた」
両手に一杯の水を掬って、その水が全部落ちていくまで…。指の間から落ちて無くなるまで。
頑張って零さないようにしてても、いつかは全部、落ちてしまうから。
何処かから少しずつ零れてしまって…、と明かした水音。悲しく響いていた水が滴る音。
「なんだって?」
前のお前が鳴らしてた、って…。手のひらの水が無くなるまでか?
ずいぶん時間がかかりそうだが、そうすることに意味があったのか…?
なんでまた…、と怪訝そうな顔のハーレイ。「わざと悲しい水音を立てていたなんて」と。
「いつもやってたわけじゃなくって、ミュウの子供を救い損なった時…」
救出するのが間に合わなくて、前のぼくにだけ最期の思念が届いた時とか。
そういう時にね、両手に一杯の水を掬ってみるんだよ。…あそこの階段の下に座って。
宇宙に生まれるミュウの子供は、きっとこのくらいいる筈だ、って…。
アルテメシアの他にも育英都市はあるから、其処でも育っていた筈だもの。ミュウの子供が。
その子供たちは助かるチャンスも持っていなくて、ぼくが救えるのはほんの一部だけ。
アルテメシアで見付かったミュウの子供だけでしょ、それも救助が間に合わないと無理。
両手に一杯の水の分だけミュウの子供が生まれていたって、全部は助けられないんだよ。ぼくの手から落ちて零れていくのが殆どだから…。
手のひらから水の雫が落ちていったら、子供の命が消えてくみたいで…。
最期の思念が届くみたいに、水の音が響いてくるんだよ。…水琴窟の音みたいにね。
綺麗だけれど、悲しい音、と零した溜息。「だから悲しい音なんだよ」と。
「うーむ…。前のお前がそういうことをなあ…」
そいつは俺も知らなかったぞ、出くわしたことが無かったから。
お前が手のひらに水を掬って落としているのを、俺は一度も見なかったから。
そうか、悲しい音だったのか…。水琴窟の音、前のお前にとっては。
綺麗な音だと思ったんだが、お前には悲しい音だったんだな…。
すまん、と謝ってくれたハーレイ。「気付かなかった俺が悪かった」と。
いい音だからと教室の生徒に聴かせていたのに、悲しい思いをさせちまったか、と。
「前のお前の悲しい記憶を呼び起こすとは思わなかったんだ。…全く知らなかったから」
水琴窟は日本の文化で、前の俺たちが生きた時代には無かったからな。
お前も喜んでくれるだろうと思っていたのに、逆になっちまうなんて、俺が迂闊だった。
どうすりゃいいかな、お詫びってヤツ。
悲しい思いをさせたらしいし、お前に謝りたいんだが…。
「お詫びだったら、今、聞いたよ?」
ぼくも八つ当たりしちゃっていたから、もう充分。ハーレイは悪くないんだもの。…前のぼくが一人でやってたことまで、ハーレイ、分かるわけないもんね…。
だからいいよ、と自分の方でも謝った。「八つ当たりしちゃって、ごめんね」と。
「いや…。お前の気持ちも分からんではない。前のお前のことなら分かっているからな」
どれほど辛い思いをしてたか、今の俺にも分かるんだ。水音がどんなに悲しく聞こえたのかも。
なのに、そいつと同じ音をだ、いい音のつもりで聴かせたからなあ…。
その埋め合わせに、何かお詫びをしてやりたいと思うわけだが…。
何かあったらいいんだがな、とハーレイが顎に手を当てるから、ここぞとばかりに強請ることにした。母におやつを強請りに行くのは気が引けたけれど、ハーレイならばいいだろう、と。
前の自分もハーレイと恋人同士だったから。…ハーレイには甘えていたのだから。
「じゃあ、お詫びに本物の水琴窟に連れて行ってよ」
ハーレイ、授業で言っていたでしょ、「本物の音を聞きに行くなら此処だ」って場所を二つ。
片方でいいから、ぼくを連れてって欲しいんだけど…。先生と生徒でかまわないから、水琴窟の勉強をしに。
本物の水琴窟の音を聞いたら、きっと悲しくなくなるから。今はいい音があるんだね、って。
庭で素敵な音がするよ、って嬉しくなると思うから…。
「そいつが一番の早道なんだろうとは思うが、先生と生徒と言ってもなあ…」
クラスの全員を連れて行くなら問題は無いが、お前と俺の二人きりだろう?
それじゃデートになっちまうから、連れては行けん。…お前とデートはまだ出来ないから。
本物の水琴窟は駄目だし…、とハーレイは暫く考え込んで、「そうだ」と何かを思い付いた顔。いいアイデアでもあるのだろうか、と鳶色の瞳を見詰めたら…。
「なあ、ブルー。…俺の歌で我慢してくれないか?」
「歌?」
キョトンと見開いてしまった瞳。お詫びはともかく、どうして歌になるのだろう?
「水琴窟は水が奏でる音だからなあ、名前の通りに水の琴だし」
音楽みたいだと思ったわけだな、昔の日本人たちは。それで名前が水琴窟だ。
俺は琴なんか弾けやしないし、代わりに何か聴かせてやろう。…俺の下手くそな歌で良ければ。
何か聴きたい歌はあるか、という申し出。ハーレイが歌ってくれるらしい。水琴窟が鳴らす音の代わりに、大好きでたまらない声で。
(ハーレイが歌ってくれるんだったら、スカボローフェアがいいのかな…?)
前の自分たちの思い出の恋歌、スカボローフェア。
縫い目も針跡も無い亜麻のシャツを作った、ソルジャー・ブルー。そういうシャツを作ることが出来たら、本物の恋人だと歌う恋歌だから。…前の自分もハーレイの歌を聴いたから。
(…前のハーレイ、あのシャツを大事に持っててくれて…)
前の自分がいなくなった後も、ずっと大切にしていてくれた。何度もそっと撫で続けて。
スカボローフェアは懐かしい恋歌、それを聞きたい気もするけれども、「ゆりかごの歌」も素敵だろうか。眠り続ける前の自分に、ハーレイが歌ってくれた子守歌。赤いナスカで。
初めての自然出産児だったトォニィのために、探し出された古い歌。前の自分は眠りの中でも、ハーレイの歌を聴いていた。今の自分も「ゆりかごの歌」が一番好きな歌だったほどに。
(前のぼくのママの歌かと思っていたら、ハーレイが歌っていたんだっけ…)
そう聞かされた日に、ハーレイが庭で歌ってくれた。恥ずかしそうに「ゆりかごの歌」を。庭で一番大きな木の下、白いテーブルと椅子の所で。
(頼むんだったら、ゆりかごの歌かな…)
前の自分の悲しい思い出、水琴窟が奏でる音に似ていた音は、救えなかった子供たちの命を思う音だったから。
大勢のミュウの子供たち。おやつも強請れず、養父母たちに通報されたことも知らずに、彼らを呼びながら死んでいった子たち。「助けて」と、「パパ、ママ!」と最期の思念で。
あの子供たちのことを思い出したのだから、聴くのなら子守歌がいい。「ゆりかごの歌」なら、子供たちも喜びそうだから。…きっと喜んでくれるから。
それをリクエストして歌って貰って、ハーレイの歌声に聴き入った後で…。
「ありがとう、ハーレイ。…素敵な歌を歌ってくれて」
ゆりかごの歌は、今は人気の子守歌だけど…。あの子供たちも、地球に着けたかな?
前のぼくたちが助けられなかった、大勢のミュウの子供たち。…殺されちゃった子供たちも。
青い地球まで来られたかな、と尋ねてみたら。
「きっと着いたさ、俺たちよりもずっと先にな」
前と同じに育つ身体だとか、そんな贅沢は言わないだろうし…。うんと早くに。
本物のお母さんに産んで貰って、ゆりかごの歌を聴いて育って、水琴窟だって覗き込んで。
この地域に生まれた子供だったら、水琴窟にも行ったんじゃないか?
おやつを落っことして泣いたりしてな、とハーレイは笑う。「小さな子供にはありがちだ」と。
「水琴窟…。そうだといいな、小さな子供の遊び場じゃないらしいけど…」
ママが「お庭を見に行くだけで、遊び道具は何も無いわよ?」って言ってたけれど…。
水琴窟に行った子供もいるかな、日本に生まれて来た子だったら…?
「間違いなく行ったと思うがな?」
前のお前が聞いてたんだろ、水琴窟に似た音を。…子供たちのことを考えながら。
神様はちゃんと、前のお前の祈りを聞いてて下さった筈だと思うから…。日本に生まれた子供はもれなく水琴窟だな、「いい音がする」と水を掬って鳴らして遊んで。
お前もいつか本物の水琴窟に連れてってやる、とハーレイは約束してくれたから。
前の自分と同じ背丈に育った時には、水琴窟のある庭までデートに出掛けてゆこう。
ハーレイと二人で水琴窟の音を聴きに行ってみよう、今は悲しくない音を。
ミュウの子供たちはもう死なないから、水の音は悲しく響かないから。今は平和な世界だから。
(水琴窟…)
悲しい音だと思ったけれども、今のハーレイと一緒に音を聴けたらいい。
今は幸せな音がするねと、うんと素敵な水の音が、と。
前の自分の悲しい音が、幸せな音に変わればいい。今の時代だから聴ける、素敵な音に。
水の雫たちが奏で続ける、澄んだ響きの琴の音色に…。
悲しい音・了
※ハーレイが古典の授業で流した水琴窟の音。けれどブルーは、悲しい音だと感じたのです。
それはソルジャー・ブルーの記憶。救い損ねたミュウの子供たちを思いながら聞いた水の音。
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