シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
その朝ベッドで目覚めたブルーは、なんとなく身体が重かった。病の兆候というわけではなかったけれども、前世と同じで虚弱体質なブルーにとっては体調不良の前兆である。
(…えっと……)
額に手を当ててみたが、熱くはなかった。念のためにと体温計で測ってみても熱はない。
(…昨日の体育、無理し過ぎたかな?)
クラスメイトたちにとっては大したことはない普通の授業。グラウンドを軽く何周か走って、それからサッカー。
以前のブルーならグラウンドを走る時には周回遅れは当たり前。サッカーだって疲れてくれば挙手して日陰で休んだものだが、最近は少し事情が違う。
年度初めに少し遅れて赴任してきた古典の教師、ハーレイに出会って全ては変わった。
彼に会うまで思い出しもしなかったブルーの前世。其処でブルーはミュウの長であり、ハーレイはミュウたちの船を指揮するキャプテン。
そればかりではなく、ブルーとハーレイは身体も心も固く結ばれた恋人同士で、生まれ変わって出会った瞬間、互いの記憶が蘇ると共に前世での想いも蘇り……。
しかし晴れて恋人同士となってハッピーエンドとはいかなかったのが今の生。
ブルーはハーレイの教え子な上に、十四歳になったばかりの少年だった。ハーレイはキスすら許してはくれず、学校に行けば教師と生徒。休日の度に逢瀬を重ねてはいても、それもブルーの家でのみ。ハーレイが一人で暮らす家にはブルーは招いて貰えなかった。
一度だけ招かれたことはあるのだが、その時のブルーの表情とやらが年相応では無かったとかで、それ以降は呼んで貰えない。なのにハーレイが顧問を務めるクラブの生徒たちは自由に遊びに行けるのだ。羨ましくてたまらないのだけれども、クラブはよりにもよって柔道部で。
(走り込みとかもしているもんね…。ぼくも人並みに運動出来たら、入部くらいは出来るかな?)
柔道は無理でも下っ端の部員くらいならば、と思い詰めたブルーは体育を頑張ってみようとした。普段だったら息が切れ始めた時点で歩く所を無理をして走り、サッカーも。
ボールを追うのが精一杯のくせに、一人前にプレーするべく駆け回った結果が今朝のこれだ。
(…どうしよう……)
今は大丈夫でも、登校してから気分が悪くなるかもしれない。早退は学校というものに行き始めて以来、数え切れないほど経験がある。もちろん欠席することだって。
この春から通い始めた学校でも何度か休んでいたし、早退もした。ハーレイと出会って記憶が蘇った時の救急搬送と様子見の欠席を除外しても、だ。
(休んだ方がいいのかな?)
今日の授業は…、と考え始めてハッと気付いた。二時間目に古典の授業がある。それは平日にハーレイの姿を眺めていられる幸せな時間。「先生」としか呼べないけれども、当てて貰えればドキドキするし、前に出て黒板に書くことになれば手の届く距離にハーレイが居る。それに…。
(質問をしたら、名前を呼んで貰えるしね。呼び捨てじゃなくて「ブルー君」だけど)
貴重な時間を身体が少し重い程度で見逃す手はないというものだろう。
ハーレイの顔と姿を見られて、声もついてくる捨て難い授業。想像しただけで鼓動が早くなるのが分かるし、身体の具合が悪いことなんて前の生では何度もあった。文字通り命の灯が消えそうな時であってもシャングリラから飛び立ってジョミーを追い掛け、メギドで最期を迎えた時も…。
「うん、このくらいは大丈夫!」
ブルーは「えいっ!」と掛け声をかけて起き上がった。
戦いに出掛けるわけではないし、行き先は通い慣れたいつもの学校。ベッドから下りる時に足元が少しふらついたものの、制服を着たらシャキッとしたし…。
朝食を食べて、背が早く伸びるようにと祈りをこめてミルクも飲んで、「行ってきまーす!」と母に手を振って家を出た。二時間目の授業ではハーレイに会える。それを心待ちにしつつ、「学校へ行く途中で会えたらいいな」などと心を躍らせながら。
しかしブルーの朝の予感は当たってしまった。
一時間目の終わり近くから酷い眠気に捕まってしまい、気を緩めると生欠伸が出る。身体が弱っている時によくあることで、放っておけば倒れて寝込む羽目になるという自覚はあるのだけれど。
(……あとちょっと……)
せめてハーレイの授業を終えてから、と欲を出したのがまずかった。体調不良のサインとも言える欠伸を噛み殺し、二時間目の授業開始のベルと共に現れたハーレイの指示で教科書を開き。
「では、次の箇所を。…音読したい者は手を挙げなさい」
ハーレイの声が耳に心地よく響き、ブルーは言葉の意味を考えもせずに手を挙げた。ハーレイが口にする言葉は何でも嬉しい。決まり文句の「沢山食べろ」でも、キスは駄目だと叱られる時も。
ゆえに朦朧としていたブルーは「手を挙げなさい」という部分だけを聞いて手を挙げてしまい、間の悪いことに他に挙手した生徒はおらず。
「よし。ブルー君、其処を音読して」
「はい!」
ハーレイに何か頼まれたのだ、と立ち上がろうとしたブルーの視界がスウッと暗くなり、足元の床がグルンと回って…。
「どうした、ブルー!」
駆け寄って来るハーレイの声さえも遠い。床に倒れた自分を抱え起こすハーレイに「…大丈夫」と弱々しい返事を返すのが精一杯で、気付けば保健係のクラスメイトに付き添われて保健室に居た。
やっぱり無理をするんじゃなかった、と後悔しても既に手遅れ。
もうすぐ報せを受けた母が迎えに駆け付けて来るし、ハーレイも酷く驚いた上に迷惑を被ったことだろう。中断させてしまった授業。せめて数分でありますように、とブルーは涙を滲ませた。
母と一緒にタクシーで帰り、それからは自室のベッドの上。
かかりつけの医師は「疲れすぎですから、三日間ほど安静に」と残酷な診断をしてくれた。
たったの三日間、でも三日間。その間にハーレイの古典の授業がもう一度ある。それに何より、三日の間はキッチリ平日。
ハーレイが平日にブルーの家を訪ねて来ることなど滅多に無いし、来てくれたとしても滞在時間は僅かだけ。ましてブルーが欠席となれば、来てくれる可能性はゼロかもしれない。
(…ぼくのバカ…)
最初から休んでおけば良かった、とブルーは悔し涙に暮れた。
ハーレイに迷惑と余計な心配をかけてしまった上、明日から三日間は学校で姿さえ見られない。
もしも欠席していたならば、どうしているかと家へ見舞いに来てくれたかも…。なのにブルーが学校で倒れた理由は単なる疲労で、医師の診断書も行っている筈だ。
(…疲れすぎだなんて、誰も心配してくれないよ…。寝ているだけで治るんだもの)
いっそ風邪とか、腹痛だとか。
発熱も痛いのも嫌だったけれど、そっちの方がまだマシだった。少なくとも心配して貰えるし、ハーレイだって学校の帰りに見舞いに寄ってくれたかもしれない。
(……ぼくってバカだ……)
身体を鍛えてハーレイに会える機会を増やすどころか、逆効果。柔道部に入って堂々とハーレイの家に出入りする夢は空しく潰えて、三日間もベッドの住人だなんて……。
ともすれば溢れ出しそうになる、弱い身体への恨み言。
けれど、この身体こそがブルーの唯一の財産だった。
前世でのように人類軍の攻撃からシャングリラごとハーレイを守れるわけでなく、ハーレイがキャプテンとして預かる船の行く手を指し示す「導くもの」たるソルジャーでもなく。
今のブルーは両親に守られ、育まれているだけの十四歳の子供。
そんなブルーが自分を大切に想ってくれるハーレイに対して返せるものは、前世とそっくり同じに生まれた顔形とその姿だけ。前の生でハーレイが愛した姿を、些か幼すぎるとはいえ、彼の瞳に映せることだけが「ハーレイにしてあげられること」。
だから、この身体を恨んではいけない。
弱く生まれてしまったけれども、前世のような補聴器も要らず、死の影が差すこともない。
これ以上を望んではいけないのだと、頭では分かっているのだけれど…。
(…でも……。ハーレイに会えるチャンスまで逃がしちゃうなんて、酷すぎるよ…)
神様はなんて残酷なんだろう、と瞳からポロリと涙が零れる。
元はといえばブルー自身が無理をしたのがいけないのだが、それでも八つ当たりじみた感情を抱く辺りが十四歳の子供たる所以。
かつてのソルジャー・ブルーであったら、全てを己の胸に収めて、ただ涙だけを零したろうに。
三日間もハーレイに会えない悲しみに打ちひしがれるブルーは、陽が落ちて部屋が暗くなっても明かりも点けずにベッドにもぐったままだった。
母が夕食を届けに来てくれたけれど、「食べたくない」と小さな声で答える。
「ブルー、少しは食べないと…。お昼も食べなかったでしょう?」
「…ホントに食べたくないんだもの」
ブルーの言葉に嘘は無かった。具合が悪くて食べられないという状態ではないが、気が乗らない。こんな時には無理に食べても消化が悪く、後で気分が悪くなる。そうなることが分かっていたから「食べたくない」と言ったのだけれど。
「…あら? お客様かしら?」
門扉の横のチャイムが鳴らされ、母が階下に下りてゆく。急いでいたのか食事を乗せたトレイも持って行ってしまったし、これ幸いとブルーがベッドにもぐり込んでから暫く経って…。
「ブルー?」
低い声と共に扉が軽く叩かれた。
父とは違う男性の声。それはブルーが聞きたくて堪らなかったハーレイの声そのもので。
「…ブルー、起きているか? 入るぞ」
カチャリと扉が外側から開いて、大きな人影が入って来た。勝手知ったる部屋とばかりに明かりを点けたハーレイが穏やかに微笑んでいる。その手には、さっき母が持っていたトレイがあって…。
「ブルー、食事だ。…お母さんから聞いたぞ、食べたがらない、とな」
「……だって……」
上掛けの下から顔だけ覗かせたブルーの鼻腔を柔らかで優しい香りが擽る。
この匂い。
母が持って来た食事とは違う、懐かしくて心がじんわりする匂い…。
「どうだ、これでも食べたくないか?」
ほら、とベッドサイドのテーブルに置かれたスープ皿の中身を眺めて、不思議だった気持ちが確信に変わった。
何種類もの野菜を細かく刻んで煮込んだスープ。
遠い昔にシャングリラで共に暮らしていた頃、ブルーが体調を崩した時にハーレイが何度も作ってくれた。大きくて武骨な手をしているのに、驚くほど器用に野菜を刻んで、コトコト煮込んで…。
青の間の小さなキッチンでそれを作っていたハーレイの姿が目に浮かぶようだ。
「…ハーレイ、これ…。ひょっとして、家で作って持って来てくれた?」
「いや、お母さんに頼んでキッチンを借りた。見舞いに寄ったら、お前が食べないと言うんでな。…これなら喉を通るだろう? 野菜スープのシャングリラ風だ」
大して美味くはないんだがな、とハーレイが笑う。
「あの頃は何かと物資が不足していたし…。お前のお母さんが作るスープに慣れたお前には不味いかもしれん。だが、お前が馴染んでいた味だ。…食べてくれると嬉しいんだが」
俺も作るのは久しぶりだ、とハーレイはにこやかな笑みを浮かべた。
「…お前にしか作ってやらなかったし、お前がいなくなった後は二度と作りはすまいと思った。…そして本当に作らなかったな、シャングリラに怪我人が溢れていてもだ」
お前専用のスープなんだ、と差し出されたスプーン。ハーレイが掬ってくれたスープをブルーは素直に口に運んだ。
(……ハーレイのスープだ……)
あの時のスープだ、と幾つもの思い出が蘇る。基本の調味料しか使われていない、素朴なスープ。けれど、その味はブルーが今まで口にしてきた何よりも優しく、心安らぐものだった。
ハーレイが「ほら」と掬って口に入れてくれる懐かしい味。
いつもだったら子供扱いだと抗議したかもしれないけれども、逆らう気持ちは起こらなかった。
一匙掬って、もう一匙。
「もう少しだけ、頑張って食べろ」と促される内に、気付けばスープ皿はすっかり空で。
「ほら見ろ、ちゃんと食えたじゃないか」
頑張ったな、と大きな手で頭をクシャクシャと撫でられ、ブルーは擽ったそうに首を竦めた。
「だって、ハーレイが食べろって…。でなきゃ大きくなれないぞ、って」
「その通りだろうが? 一日食わなきゃ、その分、成長が遅れるんだぞ。お前、いつも大きくなりたいと言ってるじゃないか」
「…うん…。でも……」
ハーレイはそれでかまわないの? とブルーは俯く。
「ぼくは小さいし、今日みたいに直ぐに倒れるし…。ハーレイ、お見舞いに来てくれた上にスープまで作ってくれたけど…。ぼくはハーレイに何もしてあげられないし、クラブにだって…」
「クラブ?」
「うん。…ハーレイが顧問の柔道部。あれに入れたらハーレイの家にも遊びに行けるし、もっと一緒に居られるのに…って…」
本当はぼくが一緒に居たいだけなんだけど、と呟いたブルーに、ハーレイは「そうだったのか」と鳶色の瞳を見開いた。
「…お前が倒れて、疲れすぎだと学校に連絡が来た。昨日の体育の授業で相当に無理をしていたようだ、と担当の先生に聞かされてな…。どうしてそんなことをしたのかと思ったら…」
「…ごめんなさい。鍛えたら身体が丈夫になって、クラブに入れると思ったから…」
シュンと項垂れるブルーの頭をハーレイの手がポンポンと軽く、宥めるように優しく叩いた。
「無茶するな。お前はお前で、小さくて華奢な所がいいんだ」
柔道部なんかに入って鍛えたらムキムキだぞ、とハーレイが笑う。
「そんなお前は嬉しくないな。…俺は昔のお前が好きだ。ああいう姿に育つお前が好きなんだよ。だから小さいままでいい。細っこいままのお前でいいんだ」
「小さいままなのは嫌だってば!」
急いで早く大きくなる! と叫ぶブルーに「なら、食べろ」とお決まりの文句が返ってきた。
疲れすぎて自宅静養になった三日の間、毎日ハーレイが家に来て夕食を共にし、しっかり食べるようにブルーを監視するという。それならば。
「…ハーレイ、あのスープ、また作ってよ」
「あれか? …お前のお母さんがやたらと心配していたんだが…。これを入れたら、とか、こういう味付けもありますよ、とな」
俺の料理の腕を疑われていそうなんだが、と苦笑いするハーレイにブルーは「作って」と強請る。
「大きくなれって言うんだったら作ってよ。あれが付いてたら、何でも食べるよ」
「でっかいステーキ肉でもか?」
「…そ、それは……」
無理! とブルーは悲鳴を上げた。
けれど明日からは三日間ほど、懐かしいスープを食べられる。
食材が豊富で平和な今の地球では「そんな味付けで大丈夫なのか」と母が心配してしまうほどに単純すぎる野菜のスープ。
それでもブルーには遠い昔から馴染んだ味で、ハーレイはブルーだけにしか作らないと言う。
そんなスープを食べられるなんて、恋人だけの特権でなくて何だろう?
たまには倒れてみるのもいいな、とブルーはハーレイの大きな身体に両腕でギュッと抱き付いた。
ねえ、ハーレイ。弱い身体は厄介だけれど、ぼくはこのままでいいんだね?
君がこのままでいいと言うなら、もう我儘は言わないよ。
無理はしないし、柔道部だって諦める。
だから、いつまでも側に居て。
いつか本物の恋人同士になれる時まで、君を待たせてしまうけど…。
その日までに何度、君が作ってくれるあの懐かしい野菜スープを飲むんだろう?
早く大きくなりたいよ。ねえ、ハーレイ……?
懐かしい味・了