シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
※葵アルト様の無料配布本からの再録です。
『…ハーレイ』
入っても、いいかい…?
遠慮がちに問うてくる思念にハーレイは手を止め、穏やかな笑みを浮かべて振り返った。夜勤の
クルーに引き継ぎを済ませ、ブリッジから自室に戻って来たのは一時間ほど前のことだ。
扉を開く代わりにほんの僅かに空気を揺らし、部屋の中に人影が現れる。そんな風に彼の部屋を
訪れる者は一人しかいない。
「どうなさいました? ブルー」
ほぼ書き終えた航宙日誌を閉じて羽ペンを所定の位置に戻せば、来客は静かに部屋を横切り、
奥まったソファに腰を下ろした。
「…少し飲みたい気分なんだ。君さえ良ければ……だけど」
ああ、とハーレイは破顔して頷く。来客はソルジャーと呼ばれ、最強のサイオンをその身に
宿すが、華奢な身体は丈夫ではない。そのせいか酒にも強くはなくて、僅かな量で酔い、眠って
しまう。それでも彼はハーレイの部屋で共にグラスを傾けることが好きだった。
アルタミラからの命懸けの脱出を経て辿り着いた惑星、アルテメシア。その雲海に潜み、改造を
重ねた彼らミュウの船、シャングリラ。白く優美な船体に人類の目から逃れるためのステルス・
デバイスを備え、居住空間として安定するまで長く続いた緊張の日々。
人類との遭遇に誰もが怯えていた頃、酒に酔える余裕などあるわけもなく。戦闘能力を有する
唯一のミュウゆえに皆の長、ソルジャーとなったブルーに気を抜ける時間は一秒とて無く…。
そんな時代を経てきたからこそ、あまり飲めない身体であっても、ブルーは酒を酌み交わせる
ひと時が好きだ。
量を過ごせば正体を失くしてしまう甘美なそれを、望んだ時に口に出来る世界を彼らは確かに
手に入れた。宇宙船という、限られ、閉じた空間の中であっても。
二人分のグラスを棚から出してテーブルに並べ、黄金色のブランデーを注ぎ入れる。ブルーの
グラスには、ほんの少しだけ。自分のグラスには充分な量を。
それはいつの間にか決まった約束事で、ブルーのグラスには薄めるための水も欠かせない。
贅沢な時間を共有するための手順どおりに、ハーレイは水割りを作ろうとしたが。
「…今日はそのままで」
ブルーの声がそれを止めた。
「このままで? あなたには強すぎると思うのですが…。これは果実酒ではないのですよ?」
酒の種類にも疎いブルーの表情を窺いながら、ハーレイはボトルを揺すってみせた。果実酒
ならばブルーも普通に飲めるが、ブランデーは水で割らないと無理だ。
けれどブルーは頑なに「そのままがいい」と繰り返す。
「あなたがそこまで仰るのなら。…良くないことでもありましたか?」
酔い潰れたい気分なのかもしれない、と気遣いつつもグラスを差し出せば、否と答えが返って
来た。
「その逆…かな? いつ来ても此処は落ち着ける」
「気分が高ぶってらっしゃるのですか?」
「…そう…かもしれない」
ブルーは濃さを保ったブランデーのグラスを手に取り、目の高さまで掲げてみて。
「この部屋では色が鮮やかだ。これは何色と呼ぶんだろうね?」
「………。青の間の灯りはお嫌いですか?」
「そんなことはないよ。ぼくの瞳は光にあまり強くない。あのくらいの明るさにしておかないと
目に良くない、とドクターも言うし」
でも、と赤い瞳が照明を映して微かに揺れる。
「この部屋の灯りも好きなんだ。全てが自然な色をしている。此処で過ごせる時間も好きだよ」
「…お好きなのは灯りと部屋だけ…ですか?」
「まさか」
笑みを湛えたブルーの目尻がほんのりと赤い。まだグラスには唇も付けていないのに。
今夜の酒は強すぎるから、ブルーはすぐに酔うだろう。酔いが回ると眠ってしまうブルー。
眠りの淵に沈んだ彼に己のベッドを貸す前に…、とハーレイの中で頭を擡げるものがある。
この部屋をブルーが訪れる時は、それもまたお決まりの約束事で。まだ一口も飲んでいない
から、と拒まれることもないだろう…とハーレイは笑みを深くする。
「…ブルー…」
細い肩に腕を回そうとした時、不意に問われた。
「私有財産について、どう思う?」
あまりにも雰囲気にそぐわぬ言葉に、ハーレイは暫し固まった。
「…ごめん」
クスクスと悪戯っ子のような笑いを漏らして、ブルーがハーレイの額に触れる。
「皺。…普段よりも少し、深くなってる。ぼくのせいかな?」
「何の前触れもなく面妖な事を仰るから…。一体何をお考えです? この船の中で手に入る物は
限られますが、そんな世界でも……皆が個人的な物を持っているのは御存知でしょうに」
「とてもささやかな物だけどね。…一般のミュウだとブランデーでも合成品だ」
「………それは…」
苦いものを飲み込んだような気持ちになった。
自分とブルーの前にあるのはシャングリラで合成したものではなく、醸造と蒸留とを経て熟成
されたブランデー。物資調達のために人類社会に潜入した部隊が奪取してきた戦利品だ。
高級な品、珍しい品が手に入った時はソルジャー、長老、各セクションの責任者たち…といった
順序で分配される。それがシャングリラでの秩序で、決まりごとだった。
船長のハーレイに本物のブランデーが届けられるのは自然なことだが、他の仲間が合成品を
飲んでいるのに自分だけが…。果たしてそれで良いのだろうか?
「いいんだよ、それで」
ハーレイの感情が零れていたのか、ブルーが柔らかなテノールで言った。
「キャプテンの責任はとても重いし、他のミュウでは務まらない。危険手当だとでも思えばいい」
「危険手当…ですか? ならば、あなたの分はどうなります?」
仲間の危機に飛び出してゆくのはブルーだったが、物資の優先配分量が特に多いということは
無い。それを口にすると、ブルーは少し困ったように。
「ぼくには青の間で充分だよ。…たった一人の人が住むのに、あの部屋は大きすぎないかい?」
「あれはあなたのサイオンなどを考慮して作られた特別な部屋で…! 必要な広さと言うの
です!」
「…そうなのかな? だったら、ぼくが…」
特別な何かを個人的に所有したいと言ったら、それは欲張りだと思うかい?
そう尋ねられて否とは言える筈もない。
ブルーはこの船とミュウたちをたった一人で守り戦い、導いてゆく孤高のソルジャー。他の者
とは比較にならない重責を担う彼なのだから、普通のミュウたちには望めない何かを独占したとて
許されるだろう。
それともブルーが私的に所有したい物とは、船長の意向を確かめなくてはならない程に危険な
物質なのだろうか? そのような物を欲しがるブルーとはとても思えないのだが、何か理由が
あるのかもしれない…。
無意識に眉間に皺を寄せていたらしく、ブルーが「皺!」と指でなぞった。
「心配しなくても、そんな危ない物じゃない。ぼくの我儘のためにシャングリラや皆を危険に晒す
ような真似はしないよ。でもね…」
個人が所有できるようなレベルの物じゃないかも。
そう呟いたブルーの掌の上に何処からかフッと現れたものがテーブルにコロンと転がり落ちる。
ブランデーの色を湛えた透明で温かそうな塊。掌にすっぽりと収まるほどの、卵を思わせる
滑らかな形。
「どうしても我慢できなくってね…」
持って来ちゃった、とブルーはそれを愛おしそうに撫でた。
ブランデーが固まって出来上がったような不思議な物体。まろやかで飴玉と見紛うほどだが、
しかし手に取ると驚くほどに軽い。石の一種かと思った自分はどうやら間違っていたようだ。
「この色だよ、ハーレイ」
白い手が伸びてグラスを塊の隣に並べた。透き通ったガラスの器の中でブランデーが微かに
波立つ。液体と、つややかな塊と。どちらもが部屋の自然な灯りを映して、柔らかな色合いを
その中に宿す。
「もしかして……これは」
琥珀ですか…?
ハーレイの問いにブルーはコクリと頷いた。
「ぼくも本物を手に取ったのは初めてだ。アタラクシアの博物館に巡回展が来ていてね…。古代の
地球ってテーマの、よくあるアレさ。思念体で覗きに行ったら化石が沢山並んでいたよ。何億年も
昔の植物、魚類、それに恐竜。…その中にこれも並んでいたんだ」
ほら此処に、とブルーは琥珀の一点を示す。
「虫の姿が見えるだろう? 三千万年以上も前の昆虫らしい。まだ人類も現れていない、ずっと
昔の…太古の地球をその翅で自由に飛んでいた虫だ」
「琥珀の中に虫…ですか? そんな化石もあるのですか?」
遙か古代に絶滅した植物の樹脂が琥珀だと聞いた。幹から滴り、長い年月をかけて化石となった
……その昔、遠い地球だけで採れた飴色の宝玉。
人類が地球しか知らなかった頃に愛でられ、宝石と呼ばれた鉱物たちは他の惑星からも産出
される。その価値は地球産か否かで天と地ほどにも異なっていたが、それでも同じ鉱物はある。
けれど琥珀は地球にしか無かった。青い水の星で育まれた太古の森しか、それを産み出せ
なかったから。人類は第二の地球をついに見いだせなかったから。
ゆえに琥珀は遠い昔の動植物の化石たち同様、稀少で、貴重。
育英惑星では子供たちに地球への憧れを抱かせるために化石の展示が行われるが、その思い出で
しか琥珀を知らない人間もまた多かった。
辺境の惑星や軍事基地にでも配属されれば、地球に生きたものたちが姿を変えた石に二度と再会
することもなく、地球に降りる機会すらも与えられずにその生涯を遠く離れた宇宙で終える…。
「見ているだけで済ませるつもりだったんだけどね…」
ブルーは琥珀を指先でつついた。コロコロと軽やかに転がる琥珀に、封じられた虫も一緒に
転がる。
「琥珀が樹脂の化石だというのは知ってるだろう? それが固まるまでの間に虫がくっついて
しまうんだってさ。…そして一緒に化石になる。虫の代わりに木の葉や水滴を中に閉じ込めた
琥珀もあって……。此処を見て」
時を止めた虫の周りに光の泡が散らばっていた。模様なのかと思っていたが、この泡は…。
「地球の空気。地球の水滴。…その両方が入っているんだ、この琥珀には」
だからどうしても触れたかった、とブルーは琥珀を掌に乗せた。
…だって。
この琥珀は地球の空気と水とをその身に抱いているのだから。
思念体で抜け出して見つけた虫入りの琥珀を手に取りたいと願ったブルー。その思いは遙か
空間を隔てたアタラクシアの博物館から無意識の内にそれを拾い上げ、シャングリラへと運んで
しまったらしい。
青の間に居たブルーの手の中に現れた琥珀は、己が宿した地球の欠片を封じ込めた泡に青い
仄かな光を受け止め、弾き、部屋の主を虜にした。地球を覆う大気と水との確かな証がその内に
ある……と。
「この部屋で見ると琥珀色だね、本当に。…青の間の灯りだと違うんだ。やっぱり琥珀はこの
色が似合う」
うっとりと琥珀を眺めるブルーはブランデーのことなど忘れてしまったようだった。
「それを確かめに私の部屋へ? 飲みたい気分とは口実でしたか?」
「いや。ブランデーが本当に琥珀の色をしているのかも気になった。だから水で割らずにその
ままで…、と言っただろう?」
そういえば…、とハーレイはブルーのグラスに目を移す。中身は少しも減ってはいない。
ブランデーの色を琥珀色だと何気なく何度も口にしてきたが、遠い記憶の中の琥珀とブランデー
とを比べたことは無かった気がする。今夜のブルーは好奇心を満たすためだけに来たのだろうか、
と苦笑した時。
「…私有財産についてどう思う、って訊いたよね。ぼくが琥珀をこのまま仕舞い込んで
しまったら…? 二度と人類の手には返さず、シャングリラの皆で共有するというわけでも
なくて……一人占めにしてしまったら…?」
君はぼくを強欲なのだと軽蔑するかな…?
探るような目をして見上げるブルーに、ハーレイの胸が詰まる。
誰よりも地球に焦がれて止まないブルー。あの青い星へ辿り着くために、アルタミラからの長い
年月をソルジャーとして、たった一人で戦い続けてきたブルー。
その彼が手にした琥珀の中に地球の空気と水滴がある。それを人類に返すべきだとは思わない。
ミュウは人類から激しい迫害を受けて久しく、いくらブルーが共存の道を求めるからと言っても、
琥珀くらいは貰ってしまって良いだろう。それが人類の至宝だとしても。
けれど、シャングリラのミュウたちは? 幼い頃に救い出されたミュウは化石を目にしたことが
無い。かつてそれを見たミュウたちにしても、シャングリラの中で地球の記憶を秘めた琥珀に
出会えるとなれば喜ぶ筈だ。ヒルマンに渡せばライブラリーに専用の展示ケースが出来上がり
そうで…。
琥珀にはそれほどの重みがあった。
しかし展示ケースに収めてしまえば、今のように気安くは触れられない。いくらブルーが
ソルジャーであっても………いや、ソルジャーだからこそブルーは琥珀を手にはするまい。
ブルーはこの船のミュウたち全てと同じ立場でありたいと望む。皆が気軽に触れられないなら、
自分も決して手を触れはしない…。
船の隅々まで慈しみの思念を広げ、安らげる場を守りながらも、ブルーはソルジャーとしての
務め以外で特別な扱いを受けることを嫌う。この船に暮らす皆も自分も、等しく一人のミュウ
なのだから…と。
それゆえに琥珀をシャングリラの皆で共有するなら、ブルーは二度と触れないだろう。その
内側に包み込まれた地球の欠片に、どれほど焦がれていたとしても…。
「…私は何も見ませんでした」
ハーレイは琥珀から目を逸らした。
「ですから、それはあなたのものです。個人の私有財産について、キャプテンに処分権限は
ありません。そのまま青の間にお持ち下さい」
「…いいのかい?」
途方もない金額を出しても買えない人類の至宝なんだけど…?
そう念を押すブルーに答えた。
あなたが持つのが相応しいのだと思います。
いつか地球へと辿り着くために。
地球の記憶が刻まれた琥珀は、あなたの希望になるでしょうから…。
飲みたい気分だと言って来た時、ブルーの神経は本当に高ぶっていたのだろう。琥珀を手に
入れたのは恐らく今日。自分一人の身には過ぎた宝を、どうするべきかと考えた末にハーレイの
部屋を訪れた。
もしかすると密かに隠し持つことが出来るかもしれないと、微かな期待を胸に抱いて。
叶うとは思っていなかったろうが、ブルーの地球への想いを知るハーレイには取り上げること
などとても出来ない。独占欲とはおよそ無縁のブルーが、あの琥珀に強く魅せられている。普段は
何を手にしたとしても、皆で分けようと言い出すブルーが。
それほどにブルーを惹き付けたものを、どうして奪うことが出来よう? 第一、ブルーの強い
サイオンが無ければ、琥珀は今もアタラクシアの博物館の展示ケースに陳列されていたわけで…。
つらつらと思いを巡らせていたハーレイの補聴器が音を拾った。
「………レイ、…ハーレイ?」
「ブルー? お帰りになったのでは…?」
青の間に戻った筈のブルーが知らぬ間にハーレイの隣に腰掛けている。先刻、琥珀を大切そうに
両手で包んで、空間の狭間に姿を消したと思ったのだが。
「どうして? 飲みたい気分だと言っただろう? まだ一滴も飲んでいないのに」
「ですが、先ほど…」
「ああ。何処に置こうかと迷ったんだよ。手許にあると嬉しいけれど、青の間ではせっかくの色が
暗く沈んでしまう。…やっぱり自然な光がいい」
テーブルにコトリと琥珀が置かれた。ブランデー色の軽い塊が光を映してコロコロと揺れる。
「これを預かって欲しいんだ。此処なら隠し場所も沢山あるだろう? なにより琥珀の色が
映えるし、君と一緒に飲みたい時にもすぐ手に取って眺められる」
「では……琥珀を肴に飲みますか?」
一人で飲みかけていたブランデーのグラスをブルーのグラスの隣に戻すと、琥珀の持ち主は
「その前に」と琥珀に右手の指先で触れた。
「ブルー…?」
細くしなやかな指が青い焔にも似たサイオンを纏い、ブルーの他には誰も持たない神秘の青が
琥珀の表面を大気圏のように淡く包み込む。それは琥珀の上に暫し留まり、やがてフワリと
其処から離れてハーレイのグラスへ流れ込んだ。
青い光がブランデーに溶け、ゆっくりと底に沈んで琥珀の色へと変わってゆく…。
「…上手くいったようだよ、ハーレイ」
「えっ?」
ほら、とブルーが指差した。
「ブランデーの中を覗いてごらん。…地球の空気が見えるだろう?」
グラスの底に一ミリにも満たない気泡があった。それは見る間に更に細かい粒に分かれて
ブランデーの中を漂い始める。
ゆらゆらと揺れながら昇っていったそれらが消え失せた時、沢山の泡たちが歌う地球の讃歌が
耳に届いた…ような気がした。
琥珀と共に化石になった気泡の中身をブランデーの中に溶かしたのだ、とブルーはハーレイの
グラスを示して微笑んでみせた。
脆い琥珀を損ねることなく、それが真珠を包む母貝の如くに身の内側に抱いた空気をサイオンで
外の世界へと移す。ハーレイには思いもつかなかった技だが、ブルーには造作もないことだった。
そしてある程度の力を持ったミュウなら、誰でも出来るに違いない。生憎、ハーレイは
サイオンを物の移動に用いることは不得手なミュウであったけれども。
「だから一人占めにしたかったんだよ」
誰もが中身を欲しがったなら、すぐに琥珀は空っぽになってしまうだろう? とブルーは呟く。
そうしたら地球の欠片が無くなってしまう。触れるどころか、眺めることさえ出来なくなる。
いつまでも傍に在ってほしいのに……と。
「ぼくは、この中の地球を失くしたくない。でも、触れたいとも思うんだ」
地球を覆っていた太古の大気のほんの小さな粒の一つに。そこから生まれた水の雫に…。
「この次は水滴を抜いてみようか? 地球の水を溶かしたブランデーなんて、きっと最高の贅沢
だよね。地球で暮らせるエリートだけしか地球の水の味は知らないだろうし」
「そうですね。…まさかミュウがその水を手にしているとは、人類も思わないでしょう」
少し愉快な気分になった。ブルーが持ってきてしまった小さな琥珀。掌にすっぽり隠れるほどで
しかないのに、それはどれほど大きな夢の翼を自分たちの背に広げてくれることか…。
「内緒だよ、ハーレイ」
ブルーが声を潜めて囁く。
「この部屋に琥珀が隠されてるのは、ぼくと君だけしか知らない秘密。ぼくが琥珀を盗み出した
ことも」
「いいんですか、そんなに私を信用しても…? 私がこっそり中身を抜くかもしれないのですが」
そんなことをする気は微塵も無いが、つい、からかってみたくなる。…これも琥珀のせいかも
しれない。見ているだけで人を心地よく酔わせる、ブランデーの色に染まった宝玉。
「君には微細なコントロールは無理だろう? 琥珀を壊してしまうのがオチだ」
クスクスクス…と花が綻ぶような笑みをブルーが浮かべる。
「………。私は防御専門ですから」
ハーレイのサイオン・タイプはグリーン。碧色のそれはブルーをも凌ぐ堅固な防御能力を持つ。
「頼もしいね」
知らず苦い顔になっていたハーレイにブルーはそう言い、そのサイオンを愛おしむように語り
掛けた。
コントロールだけが能ではない。守り抜く力も大切なのだ、と…。
「君は番人に打ってつけだ。ぼくの琥珀は君に預ける。何処よりも安全な場所だと思わない
かい?」
そしてね…。
此処ならば……君の側ならば、ぼくは安心出来るから…。
ブルーは地球の空気を溶かし込んだハーレイのグラスにそっと手を添え、香りを吸った。
「これからは何かの記念日ごとに泡の中身を一つだけ抜いて、ブランデーに溶かして飲んで
みよう。今日、溶かしたのは地球の空気。…このブランデーの味はどんなだと思う?」
ぼくにも地球の空気を分けて、と少しだけブランデーが注がれていた自分のグラスを差し出す
ブルー。
ハーレイのグラスから足された酒が元からの分と混じり合うのを待ち侘びたように、ほんの
僅かを口に含んで、時間をかけて味わって……白い喉がコクリと飲み下す。
「…地球の空気の味…なのかな? 少しではよく分からない」
「これだけ全部を飲み干してみても分からないかと思うのですが…」
ハーレイは自分のグラスを掲げる。酒に強い彼のグラスに満たされていたブランデーの量は
多くて、ブルーのグラスに注ぎ分けた今もまだたっぷりと残っていた。
地球の空気を含んだ泡は琥珀色のそれに紛れて、何処に溶けたかも定かではない。
「でも、君の分とぼくの分とを混ぜ合わせれば、泡一つ分は確かにある。全部飲み干せば二人で
泡一つ分を味わったことになるんだけれど…?」
「計算上ではそうなりますね」
「じゃあ、飲んで。…そうすれば君の身体に地球の空気を取り込めるだろう? ついでにこれも」
やっぱり少し強すぎる、とブルーは自分のグラスに残った酒をハーレイの前に押しやった。
「…君が飲んで、その後で……ぼくが一口だけ飲み込んだ分と合わせてみよう。…地球の空気が
どんな味なのか、二人でなら分かるかもしれないから」
どうやって? とは聞くまでもなかった。
ブルーが飲み下した地球の空気と、自分の中にブランデーごと取り込んだものと。
混ぜ合わせる方法は考えるまでもなく、答えは二人の身の内にある。
息を、想いを混ぜ合わせれば……互いを求め合う想いを交わせば、全ては共有できるのだから。
「…ねえ、ハーレイ…」
飲み込んだ地球の空気の欠片を心ゆくまで分かち合った後、ブルーが耳元で囁いた。
甘い余韻に蕩けた声が夢見るように言の葉を紡ぐ。
「記念日ごとに一つずつ。…一つずつ、泡の中身を抜いて…それを二人で味わって。いつか
地球まで辿り着いたら、琥珀を地球の海に還そう。琥珀は海から打ち上げられる宝石だった
そうだから」
「樹脂なのに…ですか?」
ハーレイは太古の地球に息づいていた原始の森を思い浮かべる。其処に水辺はあったの
だろうか…?
「陸からも採れたらしいけれどね。でも、還すなら海がいい。…その頃、泡の中身は何個くらい
残っているんだろう? 百個以上はありそうだけど、記念日は一年に一日くらいに留めておく
のがいいのかな…」
地球への道は遠そうだし…、とブルーは暫し考え込んでから桜色の唇に笑みを湛えた。
「一年に一度だけなら、君の誕生日を記念日にしておきたいな。…ぼくは誕生日を覚えて
ないから」
それに、とブルーの赤い瞳が過ぎ去った日々を懐かしむように細められる。
「ぼくが初めてこの部屋に来たのも、君の誕生日の夜だった。…それまでも何度も来ていた
けれど、泊まりに来たのはあの日が最初で、二人で此処で乾杯して…」
「あの夜のことは忘れるわけもございません。ですが、私があなたを青の間にお訪ねしたのは
別の日でした。あの日の方が……あなたと初めて想いを交わしたあの夜の方が、私たちの
記念日にするのに相応しいのでは…?」
その夜のことをハーレイは今も鮮やかに覚えている。目を閉じずとも、胸の内から溢れ出る
ように湧き上がってくる愛しさと……熱と。
それはブルーも同じだったが、あの夜を共に過ごしたがゆえに、記念日として選びたい日は
譲れなかった。
愛を交わせるのは、想い合う相手があればこそ。
地獄と呼ばれたアルタミラでの奇跡にも似た出会いの時から、ブルーが想うのはただ一人
だけ。共に生きたいと……離れたくないと、その思いだけで未来を拓き、ミュウたちを導いて
此処まで来た…。
「君が生まれた日が大切なんだよ。…君がいたから、生きる望みを持つことが出来た。
アルタミラから今までの長い長い時も、君が一緒にいてくれたから迷わずに前へ進めたんだ。
…だから……」
君の誕生日が、全ての始まり。
君が生まれて来なかったなら、ぼくは今、此処に存在していない…。
ブルーはハーレイの唇を自らの細い指先でなぞり、熱い吐息をそれに重ねた。
ハーレイ。
君が支えていてくれるから、ソルジャーとして立っていられる。
君が抱き締めていてくれるから、ぼくは希望を失くさずにいられる。
行こう、地球へ。
君と二人で、この船を連れて。
地球に着いたら………互いの役目から解き放たれたら、その時は…
二人きりで地球の海辺を歩こう。
他に誰一人いない波打ち際で、琥珀を地球の海に還そう。
その後は、君が行きたいと望む所へ…ぼくを連れて行ってくれるかい…?
ブルー…。
あなたが焦がれる遙かな地球まで、命を懸けて共に行きます。
その日まで、あなたの夢も想いも全て抱き締め、私が守り抜きましょう。
いつか、必ず。
地球の海に二人で琥珀を還す時まで…。
そうしたら、あなたは私一人だけのブルーになってくれますか…?
ハーレイの机の引き出しの奥に仕舞い込まれた虫入りの琥珀。
それを二人で幾度も取り出して眺め、年に一度だけ共に地球を味わう。
地球はまだ遠い。
けれど…。きっと、いつか二人で………。
泡沫の約束・了
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