シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「ぼくは猫でもいいんだけどな…」
ブルーはポツリと呟いた。
今日は土曜日、本当だったらハーレイと一緒に過ごせる休日。けれどハーレイに仕事がある時はブルーの家のチャイムは鳴らない。今日がその日だと分かってはいても、ついつい窓から表の庭と門扉を眺めてしまう。もしかしたら、と。
ハーレイが来られないことを知っていたから、朝から全く調子が出ない。休日は普段以上に張り切ってしている掃除も気分が乗らず、ブルーにしては珍しく机の上に読みかけの本が雑然と載っていたりする。
(……ホントに猫なら良かったのにな……)
前にハーレイが見せてくれた写真の真っ白な猫。昔、ハーレイの母が可愛がっていた猫で、名前はミーシャ。よくハーレイのベッドにもぐり込んで来たというミーシャがブルーは心底羨ましかった。ミーシャはハーレイの膝の上も好きで、甘えん坊で…。
(…ぼくも猫だったらハーレイの家に居られるのに…)
ミーシャはとても人懐っこい猫で、来客の時も客間に出入りし、おやつを貰っていたと聞く。もしもブルーが猫だったならば、今日はハーレイの家に居て…。
(ハーレイの膝に乗っかっていたら撫でて貰えて、おやつが貰えて…)
本当に猫になりたかったな、とブルーは窓の外の庭と門扉を寂しさを堪えて見下ろした。
今日はハーレイの家に同級生たちが大勢遊びに行っている。ハーレイが指導する柔道部の生徒が招かれ、賑やかに食事をしている筈だ。ブルーは両親と食べたのだけれど、これがいつもの土曜日だったら昼食の席にはハーレイが居る。ブルーの部屋で二人で食べることもあるし…。
(…ハーレイの家に居たかったなあ…)
猫でもいいから、と何処までもミーシャが羨ましい。
実際にはミーシャはハーレイの猫では無かったのだし、ハーレイは今の家でペットを飼ってはいない。しかし、ブルーが猫だったならハーレイは飼ってくれるだろう。
(…猫に生まれてたらハーレイと一緒に居られたよね?)
家に来るなと言われもしないし、ベッドの中にもぐり込んでも叱られない。ハーレイの大きな身体に甘え放題、好きな時にピッタリくっついて…。
「……猫になれたらいいのにな……」
そしてハーレイの家で暮らしたいな、とブルーは小さな溜息をつく。いつもハーレイの側に居られて、可愛がって貰える真っ白な猫。名前もミーシャでかまわない。ハーレイと一緒に暮らせるのならば猫で充分、それで幸せ。
そう思い込むと止まらない。もしも本当に猫だったなら……。
次の日、ハーレイは「昨日は来られなくてすまなかったな」と、何の変哲もないクッキーの詰め合わせを手土産にブルーを訪ねて来てくれた。母が淹れた紅茶とセットでテーブルに置かれたクッキーをハーレイが「美味いんだぞ」と言いながら自分も手に取る。
「俺の家の近くに店があるんだ。クソガキどもが遊びに来る時の定番でな」
「…そうなの?」
意外な言葉にブルーの瞳がまん丸になった。
確かに美味しいクッキーだけれど、ハーレイが指導しているクラブは柔道部。今までに勤めた他の学校でも柔道か水泳だったと聞いているから、クソガキとやらは運動をやる生徒ばかりだ。ブルーが貰った詰め合わせなぞはアッと言う間に無くなりそうで…。
「ははっ、説明不足だったか。…お前の分が特別なんだ。きちんと詰めてあっただろう? あれが本来の商品なんだが、大食らいのガキどもに食わせる分にはお徳用ってヤツで充分だ」
割れたり欠けたりしたクッキーばかりを詰めた袋があるのだ、とハーレイは説明してくれた。
「そいつの一番でかいヤツをな、幾つか買っておくんだが…。あいつらにかかれば一時間もせずに食い尽くされて空っぽだ。お前とは似ても似つかんヤツらさ」
「ふうん…」
ハーレイが手で作ってみせた徳用袋の大きさはブルーの想像を超えていた。何人がハーレイの家に行ったのかは分からないけれど、ブルーだったら食べ尽くすまでに何日かかるか分からない。
「驚いたか? いやもう、本当にあいつらときたら…。俺の懐は寂しくなるし、お前に会いには来られないしで散々だったさ、昨日はな。…お前も寂しかったと思うが…」
それでクッキーを買って来たのだ、とハーレイは言った。
「俺がどういう菓子や食事を用意してたか、お前が随分気にしていそうな気がしてな。菓子はこいつで食事はピザだ。宅配ピザだが、遠慮なく高いのを注文しまくって食われちまった」
苦笑するハーレイを見ていると光景が目に浮かぶようだ。自分もその場で見ていたかった、と思ったはずみに昨日の考えが蘇る。もしも自分が猫だったなら……。
「ねえ、ハーレイ」
「なんだ?」
「ぼくが猫ならハーレイは飼ってくれたよね?」
「……猫?」
唐突すぎる問いにハーレイは鳶色の瞳を大きく見開き、何度もパチパチと瞬きをした。
「…それでお前は猫になりたい、と」
ブルーの懸命な訴えを聞き終えたハーレイの手がブルーの髪をクシャリと撫でる。
「なるほど、手触りは悪くない毛皮だな。ミーシャは真っ白で可愛かったが、銀色の猫もいいかもしれん。…しかしだ、お前、猫は言葉を喋れんぞ?」
「サイオンがあるよ。…ぼくが猫に生まれてハーレイに会ったら、ナキネズミみたいに喋れるよ」
「……ふうむ……」
喋る猫か、とハーレイの目が細くなった。
「それは考えもしなかった。…そういうお前に出会っていたなら、俺は喜んで飼ったと思うが…。名前もきちんと『ブルー』と付けてやったと思うが、お前、本当に猫でいいのか?」
「ハーレイと一緒に暮らせるんなら猫でいい。…今みたいに離れ離れで暮らさなくてもいいもの」
ブルーは心の底からそう思った。
前の生ではソルジャーとキャプテン、恋人同士なことさえも秘密。それでも夜は必ず会えたし、会わずに過ごした日などは無い。
けれど今では家は別々、学校に行けば教師と生徒で、恋人として会える時間は休日だけ。いつも一緒に過ごせるのならば、本当に猫でもかまわない。ハーレイに飼って貰って沢山甘えて、夜はベッドにもぐり込んで…。
「……お前が猫か…。どんな姿のお前に会っても俺はお前を好きにはなるが……」
困ったな、とハーレイの眉間の皺が深くなる。
「お前が猫に生まれていたなら、俺はまたお前を失くすことになる」
「なんで? ぼくは何処にも行かないよ」
ハーレイが帰って来るまで家で待つよ、とブルーは無邪気に微笑んだ。
「仕事の間はちゃんと待ってる。…だけどクラブの生徒を呼んだ時にはハーレイの側に居てもいいよね、膝の上とか」
「…お前に何処かへ行く気が無くても、お前は俺を置いてっちまうさ。猫なんだからな」
ミーシャは二十年ほどしか家に居なかった、とハーレイは深い溜息をついた。
「それでも長生きした方だ。俺が生まれる前から家に居て、死んじまったのはいつだったかな…。お前も猫に生まれていたなら、二十年ほどしか生きられないんだ」
「えっ……」
それは考えてもみなかった。猫の寿命は人間よりも遙かに短い。人間が皆ミュウとなった今、外見で年齢は分からないけれど、平均寿命は三百歳を超えている。もしもブルーが猫だったなら…。
「…生まれたての時にハーレイに会って、飼って貰っても二十年なんだ…」
たったそれだけで寿命が尽きておしまいだなんて、ブルーは思いもしなかった。今の生でハーレイと出会った十四歳の時まで会えないのならば、寿命の残りは六年しかない。
「お前、目先のことに夢中で何も考えていなかったな?」
ハーレイに指摘されてシュンと俯く。自分が猫に生まれていたなら、どんなに頑張って長生きしたってハーレイを置いて逝かねばならない。それもたったの二十年で。
「……ごめんなさい…。猫になりたいって言うのはやめる」
「是非そうしてくれ。お前を失くすのは二度と御免だ」
今度は先に逝かせて貰う、というハーレイの台詞にギョッとする。
「ハーレイ…。今、なんて?」
「俺が先だと言ったんだよ。順番からしたらそうなるだろう? 俺の方がかなり年上だしな」
「やだよ、そんなの! 冗談でもそんなの言わないでよ!」
ブルーはハーレイに殴りかからんばかりの勢いで飛び付き、大きな身体に抱き付いた。
「ハーレイがいなくなるなんて嫌だ! 独りぼっちになるなんて嫌だ!」
死んじゃ嫌だ、と涙交じりにハーレイの胸をポカポカと叩く。
「離れ離れになってもいいから、死なないで! ぼくも絶対に死なないから!」
いつかはそういう時が来るのだと分かってはいるが、それはまだずっと遠くて見えない時の彼方で、まだまだ考えたくもない。なまじ前の生の記憶があるから、ブルーは普通の十四歳の子供よりも遙かに「死」という言葉に敏感で激しく反応する。
それだけは嫌で避けたいもの。出来ることなら世界の中から消し去りたいもの。
「嫌だよ、ハーレイ…。居なくなるなんて言わないでよ…」
赤い瞳から涙が溢れてブルーの頬を伝い、ポロポロと落ちる。ハーレイは「すまん」と一言謝り、ブルーの涙を武骨な指先で優しく拭った。
「…もう言わん。そしてお前の前からも居なくならない。…それでいいんだな?」
「…うん……。会えなくてもいいから、ずっと生きてて。ぼくも生きるから」
「ああ。…お前を置いては逝かないさ。いや、逝けないと言うべきだな」
こんな泣き虫を置いて逝けるか、とハーレイは穏やかな笑みを浮かべた。
「心配でとても死ねそうにない。…だからお前も約束してくれ。二度と俺を置いて逝ったりしない、と。俺はお前を失くしたくない」
「……うん。…うん、ハーレイ……」
だからハーレイも。約束だよ、とブルーは細い指をハーレイの指に絡ませた。
お互いに置いて逝ったりはしない。いつまでも決して離れはしない、と。
こうしてブルーは「猫になってハーレイに飼って貰う」夢を見ることをやめた。
ハーレイの側に居られる生活は素敵だけれども、猫の寿命はあまりに短い。それを思えば今の生での待ち時間など全く大した問題ではなく、四年も経てば義務教育の期間が終わる。そうすれば教師と生徒に分かれてしまった互いの立場は解消されて、恋人同士として付き合える筈。
それにその頃にはブルーの背丈も前の生でのソルジャー・ブルーと同じくらいに伸びるだろう。悲しくてたまらない子供扱いもされなくなって、本物の恋人同士になって…。
「うん、猫になるよりもそっちの方が断然いいよね」
もう少しかな、とブルーはクローゼットの隣に立って自分が付けた印を見上げた。
床から百七十センチの場所に鉛筆で微かに引いた線。それがソルジャー・ブルーの背丈。
「……あと少しだけの我慢だし!」
たったの二十センチだし、と痩せ我慢をする小さなブルーの背丈は百五十センチしか無かった。
ソルジャー・ブルーと変わらない背丈にならない限りはハーレイが言うところの「立派な子供」で、キスすら交わすことも出来ずに離れ離れの生活で……。
それでも猫の短い寿命を使ってハーレイの長い生での一瞬だけを分かち合うより、これから先の長い未来を一緒に過ごす方がいい。ハーレイの家で共に暮らすか、ブルーの家にハーレイが来るか。
(……えーっと……)
パパとママには何て言おう? とブルーの頬が真っ赤に染まった。
本物の恋人同士の関係となれば、前の生での記憶からしてもキスどころではない深いもの。
これからそういうコトを始めるから、と両親の前で宣言できる度胸はブルーには無い。
(………ハーレイに言って貰おうかな?)
猫のぼくを飼うより簡単だよね、と考えるブルーは「大人」というものを分かっていなかった。
本物の恋人同士な関係を自由に持てる大人にとっては、その関係は基礎の基礎だと勘違い。小さな自分は恥ずかしくてとても言えないけれども、大人のハーレイは恥ずかしくないに違いないと。
「うん、ハーレイならきっと大丈夫!」
今だってちゃんと大人だもの、とハーレイの姿を思い浮かべてニッコリ微笑む。
「その時」が来たら、両親への報告はハーレイに頼んでやって貰おう。
猫を飼うには餌だの世話だのと手間がかかるけれど、報告は言葉だけで済むから簡単だろう。
「よろしく、ハーレイ」
声に出してみてブルーは「よし!」と頷いた。
ハーレイと本物の恋人同士になる宣言はハーレイに任せておくのが一番。
なんと言っても立派な大人を何年もやっているのだから。
その宣言が「ブルーを自分の伴侶に欲しい」という申し込みと同じ意味だとブルーが気付くのはいつだろう?
気付いてもハーレイに任せておくのか、それとも自分で宣言するか。
「猫になりたい」と本気で考えたような小さなブルーが其処まで辿り着く日は遙かに遠い。
とりあえず猫になるのはやめたらしいが、ハーレイと共に暮らせる日までの我慢はまだ長い…。
猫でもいいから・了