シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「今日は、少し範囲から外れるが…」
たまにはこういう話もいいだろう、とハーレイが教卓の上に置いたもの。
鮮やかな黄色の実を付けた枝で、葉は艶やかに濃い緑。ミカンにも似た小さな果実。その直径は三センチくらいといった所か。
家から持参したその枝を前に、ハーレイはぐるりとブルーのクラスを見渡した。
「こいつは何だか知っているか?」
サッと手を挙げた男子生徒。こういった時には必ず出て来る、クラスのムードメーカーの彼。
「ミカンです!」
自信満々で答えた、彼だったけれど。「残念だったな」と片目を瞑るハーレイ。
「柑橘類には違いないのだが…。ミカンではなくて橘ってヤツだ」
「橘ですか!?」
ワッと湧き立つクラスメイトたち。橘なるものは古典の教科書に出て来るけれども、本物の実に出会える機会は少ない。植物園に行けばあるのだろうが。
「遥かな昔には、ときじくのかぐのこのみ、とも言った」
こう書くのだ、と教室の前のボードに大きく伸びやかな文字。「時じくの香の木の実」と。
「ずうっと昔の、この地域…。日本って島国で信じられていた理想郷があってな」
常世の国、と呼ばれていた。
其処に蓬莱山という山がある。その蓬莱山で採れる木の実が「時じくの香の木の実」なんだな。
不老不死の薬になると言われて、それを探しに出掛けて行った人もいるんだ。
苦労した末に見付け出して持って帰った木の実が橘だった、という話だ。
へえ…、と聞き入っているクラスメイトたちと、皆の視線を集める橘の実と枝。
ハーレイは「右近の橘ってヤツもこれだぞ」などと語って、誰もが興味津々だけれど。
不老不死の薬だという橘の黄色に夢中だけれども、ブルーの思いは少し違った。
(…時じくの香の木の実…)
それに、その実が採れる常世の国。
どちらも初めて耳にした言葉。知らなかった、自分が住んでいる地域の遥かな昔の古い伝説。
時じくの香の木の実も、常世の国も今日まで知らなかったけれど、理想郷という響き。
その言葉になら覚えがあった。
(…シャングリラだ…)
忘れられない、懐かしい言葉。
前の生でハーレイと共に暮らした白い船。
あの船の名だ、と思い出す。白い鯨を、ミュウたちの楽園だった船の名前を。
(…シャングリラ…)
帰宅した後も、頭から離れない言葉。
ブルーが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
理想郷と名付けられていた船と、今日のハーレイの授業で聞いた常世の国と。
シャングリラと同じ意味合いを持った、常世の国。
こんな日にハーレイが来てくれたなら…、と勉強机に頬杖をついて考えていたら、来客を告げるチャイムの音。
(ハーレイ!?)
パッと駆け寄った窓の下の方で、庭を隔てた門扉の向こうで見慣れた人影が手を振っていた。
ハーレイをブルーの部屋へと案内して来た母がお茶とお菓子を置いて行ってくれて。
いつもの窓辺のテーブルで二人、向かい合わせに座って直ぐにハーレイの口から出た言葉。
「どうだった、今日の俺の授業は?」
ブルーは「あっ!」と息を飲む。
「…ハーレイ、もしかして狙ってた?」
わざわざぼくに訊くってことは、あの授業、ぼくを狙っていたの?
理想郷だぞ、何かを思い出さないか、って…?
「まあ、そんなトコだ。もっとも、半ば偶然の産物だがな」
親父から連絡があったんだ。
橘の実をくれるという人があるから、授業で使うんだったら届けに行くぞ、と。
せっかくの機会だ、お前の家に寄れそうな日を選んで授業をすることにした。
だから親父が来たのは昨日さ、俺が帰ったら鍵を開けてちゃっかりリビングに居たな。
「一足お先にお邪魔してるぞ」って、俺の菓子まで食ってたわけだが…。
あの親父には敵わないな。
キッチンもしっかり使われていたって始末だ、「ついでに魚も釣って来たから」と。
「あははっ、ハーレイのお父さんらしいね」
「そうか? まあ、美味かったが…。親父の料理も」
お前にも食わせてやりたかったが、そういうわけにもいかんしな?
親父からの土産は橘の実だけで勘弁してくれ。
ほら、とハーレイは荷物の中から橘の実を一つ取り出した。
「なにしろ授業で使うっていう名目だしな?」
他の先生たちも使いたいと言うし、持ってったヤツは枝ごと学校のものになっちまったが…。
こいつは持って行く前にもいでおいたんだ、一つ足りなくても誰も気にせん。
「…ぼくにくれるの?」
「もちろんさ。そのために親父に頼んだんだからな」
親父はシャングリラのことは何も知らんし、お前のための授業用だとしか思っていないが…。
お前が興味を持ってくれたら嬉しいな、と笑って渡してくれたんだが…。
「これ、食べられるの?」
ブルーはテーブルの真ん中に置かれた果実を眺めた。
ミカンの原種か何かだろうか、と思ってしまうほどの小さな木の実。
名前こそ「時じくの香の木の実」と立派だけれども、食べられる部分が少なそうな実。
「食えるらしいぞ?」
俺も食ったことは無いんだが、とハーレイの指が橘の実をチョンとつついた。
父の友人の家の庭で沢山採れるそうだと、皮や絞り汁で菓子やジャムなどが作れるらしい、と。
「ついでに昔のこの地域では、だ。橘は菓子の神様とも関係が…な」
「お菓子の神様?」
「授業で話した、こいつを探しに蓬莱山を目指した人さ」
うんと苦労して、これを見付けて。
帰って来てみたら、探しに行ってくれと頼んだ主人は亡くなってしまった後だった。
主人と言っても天皇だから、日本って島国の王様だな。
王様は死んでしまっていたから、その人もショックで泣きながら死んでしまったんだが…。
橘の実は王様のお墓に半分、もう半分はお妃様に。
その時代には菓子と言ったら木の実だったからな、橘は珍しい菓子ということになる。
それを持ち帰った人ってトコから、その人がお菓子の神様になったって話だ。
「ふうん…」
なんだか可哀相だね、お菓子の神様。
頑張って不老不死の木の実を探して来たのに、間に合わなかったなんて。
「まあな」
挙句に自分も死んじまいました、では神様になっても悲しいよな。
…前のお前も悲しいわけだが…。
今や英雄だが、前の俺たちとシャングリラを守って独りぼっちで死んじまったし…。
「ぼくは間に合ったからいいんだよ」
メギドを沈めて、ちゃんと間に合った。みんなを守れた。
お菓子の神様と違って間に合ったんだからそれでいいんだ、シャングリラを守れたんだから。
でも、シャングリラの名前…。
常世の国は候補に入っていなかったよね。
「聞かなかったな」
それに、桃源郷っていうのも無かったっけな。
「…桃源郷?」
「シャングリラは西洋で生まれた理想郷だが、桃源郷は東洋生まれなのさ」
遠い昔の地球の、東洋と西洋。
今、俺たちが住んでる地域は東洋だよな?
其処じゃ理想郷と言えば桃源郷って考える人が多かったそうだ。
「…前のぼくたち、やっぱり知識が足りなかったかな?」
常世の国も、桃源郷もスッポリ抜け落ちていただなんて。
「いや、ヒルマンとエラなら探せただろう」
そのための時間が足りなかっただけだ。データベースを端から端まで漁る時間が。
「そっか…」
時間不足はそうかもしれない、とブルーは過去へと思いを馳せた。
前の自分が生きていた頃、まだシャングリラがそういう名前ではなかった頃へと。
アルタミラから脱出した後、皆の心が落ち着くにつれて話題に上り始めたもの。
それは船のあちこちに埋められ、取り付けられたプレート。
コンスティテューションと記された、それ。
船の名前を示すプレート。ついでに建造年月日なども。
どういった意味の名前だろうか、と調べた結果、SD体制よりも遥かな昔に同じ名を持つ有名な船があった事実と、コンスティテューションは「憲法」の意味だということが分かったけれど。
どちらも、どうもしっくり来ない。
自分たちの船に似合う名前だとは思えない。
同じ名前ならもっといいのが良かったのにと、もっといい名が良かったのに、と。
コンスティテューションと書かれたプレートを目にする度に、誰もが考えること。
どうしてこういう名前なのかと、別の名前が良かったのに、と。
「せっかく俺たちの船になったんだ。名前を変えればいいんじゃないか?」
「そうだな、うんと立派なのがいいな」
言い出した者が誰だったのかも分からなくなるほど、アッと言う間に広がった話。
名前を変えてしまえばいいと、自分たちの船らしい名前にしよう、と。
そういった話が食堂で、通路で、休憩室で交わされ、いつしか壮大なものへと変わった。
この船をミュウの楽園にするのだと、それに相応しい名前がいい、と。
けれども、何がいいのだろう?
どう名付ければいいと言うのだろう?
成人検査と続く実験とで記憶を奪い去られてはいても、残った記憶というものはある。
誰の記憶にもある楽園。天国とは少し違った、楽園。
それが素敵だと思うのだけれど、しかし、「楽園」という名は洒落てはいない。
意味は最高なのだけれども、船の名前には似合わない。
もっと何か…、と誰もが思う。
楽園らしくて、それでいて船の名前に相応しい何か。
そういった時に頼りにされる者たちは、もう決まっていた。
元々の知識の量が多かったものか、船で一番の物知りと評判の高いヒルマン。
それから、几帳面で記憶力にも優れていたエラ。
この二人と、彼らと仲の良いゼルとブラウといった辺りに、相談事は大抵、持ち込まれるもの。
もちろん彼らの友人であったハーレイ、それにブルーの耳にも入る。
休憩室で揃ってお茶を飲みながら、ヒルマンが「ふうむ…」と首を捻って。
「確か、理想郷というのがあったな」
「どういうヤツだい?」
ブラウの問いに、ヒルマンは「理想だよ」と穏やかな笑みを浮かべた。
「そのままの意味だよ、まさに理想の世界のことだ」
「楽園よりいいんじゃないのかしら?」
エラが応じたけれども、ゼルが不満そうに。
「だが、洒落てないぞ」
楽園と大して変わらないような気がするんだが。
言葉をそのまま付けたって感じだ。
「…それもそうだねえ…」
もうちょっと他の言葉ってヤツはないのかねえ…、とブラウも頻りと首を捻るから。
「調べてみよう」とヒルマンがエラに協力を求め、二人はデータベースに詰まった情報を相手に戦いを挑むことが決まった。
この船に相応しい名前。
楽園そのもので、それでいて洒落た言葉を探しに。
戦場に向かった二人が引っ提げて戻った、船の名前の候補たち。
それは三つで、それぞれに意味と由来とがあった。
まずはユートピア、理想郷を指す言葉だけれども、とある作家の創作だという。
次にアルカディア、これは地球でも古い部類の古代ギリシャで語られていた理想郷。
そしてシャングリラ、同じく理想郷を指すが、これも作家の創作だった。
「どうかね、こんな所なのだが」
ヒルマンが書いて並べた名前を、ブラウが「ふうん…」と覗き込みながら。
「こりゃまた、どれも派手な意味だねえ…」
理想郷と来たよ、三つとも。よくも探して来たもんだよ。
「コンスティテューションよりかは呼びやすそうだな」
ゼルの呟きに、ブラウがフンと鼻で笑った。
「あんなの、誰も呼んじゃいないよ」
とりあえず「船」で通じるからね。
船って言ったらコレしか無いんだ、舌を噛みそうな名前なんかで呼びやしないよ。
ヒルマンとエラが探し出して来た、三つの候補。
ユートピアにアルカディア、それにシャングリラ。
飛び抜けて呼びやすいものがあれば簡単に決まっただろうが、生憎どれも似たようなもの。
一見、決め難く思えたけれども、アルカディアに人気が集まった。
作家の創作に過ぎないものより、地球に古くから伝わるという理想郷、アルカディア。
それがいい、という声が高まる中、念のためにとヒルマンたちが調べてみれば。
古代ギリシャではなく、後の世のギリシャ。
人が乗り物で空を飛ぶようになった時代のギリシャに、アルカディアと呼ばれた地域があった。
けれど、田園地帯はともかく、緑が少ない岩だらけの山に囲まれた場所。
乾燥した気候のせいだったらしく、半ば禿げた岩山は理想郷のイメージに似合わない。
ちょっと違う、と落ちてゆく人気。
本物がこれなら、作家の創作の方がマシだろうか、と。
残った二つの理想郷。
どちらも架空の、作家が捻り出した名前の理想郷。
ユートピア、それにシャングリラ。
この二つに違いはあるのだろうか、とヒルマンとエラは更に調べてみたのだけれど。
ユートピアは架空の国家の名前で、理想郷なのに管理社会らしい。
町と田舎の住民を計画的に入れ替えていたりするくらいに。
おまけに私有財産は持てず、誰もに課された勤労義務。
「管理社会はなんだか嫌だねえ…」
あたしはちょっと、とブラウが頭を振った。ヒルマンが皆を集めて発表していた食堂で。
「そいつはなんだかSD体制みたいだよ。シャングリラの方はどうなんだい?」
「…シャングリラは場所が限定されるのだがね…」
地球のチベットと呼ばれる地域。
其処にあるとされて、「シャンの山の峠」の意味だね、シャングリラは。
そのシャングリラに住む人々は、皆、長生きで、老いる速度が非常に遅いのだそうだ。
「へえ…! なんだか俺たちみたいだな!」
「おまけに場所が決まっているのか、ユートピアより夢があるよな、あるかもしれない、って」
シャングリラがいいな、と昂揚する空気。
管理社会なユートピアよりもシャングリラがいいと、夢があると。
しかもシャングリラにはミュウを思わせる人々が住むという。
おまけに地球のこの辺りにある、と匂わせる名前に誰もが心惹かれた。
「シャンの山の峠」。
チベットとやらの其処を探し当てれば、シャングリラに辿り着けるのだから。
いつか行きたい、青い水の星。
其処に在る筈の理想郷がいいと、此処に在ると示す名前がいい、と。
シャングリラを希望する者たちが一気に増えた所へ、新たに入って来た情報。
管理社会だと皆が嫌ったユートピアだが、それは後世、理想郷の代名詞になっていたという。
元々の創作を読みもしなかった人々の間で、イメージだけが独り歩きをしてしまって。
忘れ去られた創作の中身。管理社会という実態。
ユートピアと言えば理想郷だと、その響きだけで多くの人々を惹き付けた名前。
そういった情報を聞いてしまうと、ユートピアがいいと宗旨替えをする者たちが何人も出た。
ユートピアならば架空の場所で、名前の由来も「何処にも無い良い場所」という造語。
チベットの奥地と決まってしまったシャングリラよりも、そちらの方が夢があるのだ、と。
皆の意見はもはや纏まらず、シャングリラ派が多数とはいえ、ユートピア派も無視できない。
日が経てば逆転するのかもしれず、あるいはシャングリラに落ち着くのかも…。
まるでどうなるかが分からない中、ブルーはヒルマンたちが集まった部屋で尋ねられた。
いつもブルーを何かと気にかけてくれる、褐色の肌のハーレイに。
「ブルー、お前はどうなんだ?」
シャングリラとユートピア、お前はどっちが好みなんだ?
「どっちでもいいよ」
「だが…。お前の一言で多分、決まるぞ」
「なんで?」
どうして、とブルーは首を傾げた。
自分の意見で何故決まるのかと、どうして決まってしまうのかと。
「お前だからさ。…分からないか?」
俺も含めて、この船のヤツら。
お前がいなけりゃ、誰も生きていけん。誰一人として生きられないんだ、食えもしないしな。
だから、お前の一言で決まる。希望があるなら言った方がいいぞ。
「そうだよ、どっちがいいんだい?」
遠慮しないで言っちまいな、とブラウにも勧められたけれども。
「どっちでも…」
ぼくはどっちでも構わないよ。
ユートピアでも、シャングリラでも。
この船が理想郷になるなら、どんな名前でもいいと思うな…。
ブルーは本当にどちらでも良いと思っていた。
理想郷という意味だけで気に入っていたし、船のみんなが呼びたい方を選べばいい、と。
「…ブルーが特に希望しないなら、やはり投票で選ぶかね?」
期限を設けて、というヒルマンの提案に、ブラウたちも揃って賛成で。
ユートピアにするか、シャングリラか。
それとも最初に人気を集めたアルカディアか。
三つの候補から自由に選ぶ、ということになって、投票用紙が配られた。もちろん無記名、船の名だけを書いて食堂に置かれた箱へと投じる仕組み。
蓋を開けてみればユートピア派はごくごく少数、圧倒的多数でシャングリラ。
そうして船の名はシャングリラに決まり、一番最初に行われたこと。
「もうこのプレートは要らないんだよな?」
「この船は今日から、シャングリラだしな!」
船内に鏤められたコンスティテューションと書かれたプレート。
プレートは端から紙が貼られて、コンスティテューションの名が隠された。
代わりに書かれた、手書きの文字の「シャングリラ」。
半ばお祭り騒ぎの熱狂の中で、全てのプレートに誇らしげな文字で「シャングリラ」の名。
この船の名前はシャングリラだと、自分たちの理想郷なのだと。
プレートが正式に書き替えられるまでは、船のあちこちに手書きの文字。
紙をペタリと貼り付けただけの、それでも皆の思いがこもった「シャングリラ」の名が…。
「お前、あの時、どっちを書いた?」
どっちだった、とハーレイが橘の実を前にしてブルーに訊く。
お前はどちらを選んだのか、と。
「…ハーレイは?」
そう言うハーレイはどっちを書いたの、ユートピアだったか、シャングリラか。
ぼくも気になるよ、どっちだったの?
…前のぼくたちの時に訊けば良かったね、今頃じゃなくて。
「その発想は無かったな。投票はあくまで秘密ってな」
訊けば教えてくれたんだろうが…。
で、どっちだ?
「…シャングリラ」
ぼくはシャングリラと書いて入れたよ、食堂の箱に。
「奇遇だな、俺もシャングリラだ」
どうせだったら、実在するかもしれない場所というのに賭けたかったのさ。
地球が滅びてチベットどころじゃなくなっただけに、シャングリラだって消えただろうが…。
それでもそういう場所が在った、と思えば希望が湧きそうじゃないか。
何処にも存在しないなんていうユートピアより、辿り着く目標になりそうだってな。
「ぼくもおんなじ気持ちだったよ、どちらか一つを選ぶんならね」
地球に着いたら、ずっと昔には「シャンの山の峠」だった場所が何処かにあるんだ。
シャングリラは作家の作り話でも、チベットって場所はあったんだから。
同じ幻なら、実在しそうな方がいい。
その可能性が高そうな方がいいよね、ってシャングリラを選んで書いたんだよ。
「…お前、どっちでもいいと言っていたくせに」
ハーレイが深い溜息をつくから、ブルーは微笑む。
「それもホントだよ?」
みんなが選びたい方で良かった。
ぼくの意見で決めるんじゃなくて、自由に選んで欲しかったんだよ。
だって、あの頃のぼくはソルジャーどころか、リーダーですらも無かったしね?
物資を奪う力があるってだけのチビだよ、そんなぼくが決めてどうするの?
みんなが乗る船の名前なんだよ、やっぱりみんなで決めなくっちゃね。
「なるほどなあ…。お前もチビなりに考えていた、と」
そして今だったら選択肢が二つほど増えるようだが。
「桃源郷は似合わないと思うよ、白い鯨には」
「うむ。常世の国もな」
どっちも合わんな、シャングリラには。
あの船は桃源郷でも常世の国でもなくてシャングリラだという、そんな気がする。
「シャングリラって名前で良かったんだよね?」
前のぼくたちが乗っていた船。
最初はコンスティテューション号だった船…。
「ああ。キャプテンの俺が言うのも何だが、シャングリラ以外に考えられんな」
だが、俺たちはシャングリラに乗って、シャングリラがある筈の地球を目指して…。
「空振りだったね、前のハーレイ…」
青い地球は何処にも無かったんだものね。
「お前は辿り着けさえしなかったんだよなあ、あんなに地球を夢見ていたのに…」
俺たちを守って、メギドなんかへ飛んじまって。
「空振りしちゃってガッカリするより、良かったような気もするけどね」
「本当か?」
「…今だから思うことだろうけど。青い地球は無かったってことを知っているから…」
あの時のぼくは、地球を見られずに死んでしまうことが悲しかったもの。
一目でいいから見たかった、ってメギドへ飛ぶ前に思ったもの。
だから、死の星だった地球でも。
もしも着けていたら、「此処まで来られた」って泣いて喜んでたかもしれない。
あれが地球だ、って、青くないけど地球に来たんだ、って…。
どうだったろう、とブルーは呟く。
前の自分が死に絶えた地球に辿り着いていたら、喜んだのか、それとも失望したかと。
「さてなあ…?」
俺にもそいつは分かりかねるが、お前は辿り着けたじゃないか。
前のお前が焦がれたとおりの、本物の青い地球までな。
まさに理想郷って感じの地球だぞ、もう人類との戦いだって無いんだからな。
「うん。…だけどシャングリラじゃなくって、常世の国って所なんじゃない?」
「この地域だと、どうやら理想郷はそいつらしいしなあ…」
「でしょ? 時じくの香の木の実もあるしね」
ほら、ちゃんとテーブルの上に乗っかってる。
常世の国の蓬莱山に生えてるんでしょ、これが採れる木。
「橘か…」
ふむ、とハーレイは笑みを深くした。
「晩飯の時にちょっと食ってみるか?」
「どうやって?」
「柚子とかの代わりに使えないこともないだろう」
親父が言うには、けっこう酸っぱいらしいしな。
菓子を作るなら砂糖を多めに入れてやらんと駄目なようだぞ、だからだな…。
料理に少し絞ってやるとか。
「それじゃメニューによるんじゃない?」
今日の晩御飯、柚子とかレモンが合わないメニューかもしれないよ?
…それにパパとママも一緒に食べているんじゃ、シャングリラな気分になれないし…。
食べるんだったら、今、使おうよ。
「どうするつもりだ?」
「この紅茶だよ。レモンティーの代わり」
おかわりはレモンじゃなくって橘で飲もうよ、いいと思わない?
「なるほどな…!」
そいつはいいな、とハーレイが頷き、ブルーはテーブルの橘の実を掴むと立ち上がった。
キッチンで二つに切ってくるから、少しの間だけ待っていて、と。
階段を駆け下り、母が立つキッチンに飛び込んで行って。
「ママ!」
橘の実を載せた右手を差し出した。
「この実、二つに切りたいから、ナイフ!」
時じくの香の木の実なんだよ、ハーレイがぼくにくれたんだ。
これで紅茶を飲んでみたいから、二つに切りたい!
「あらまあ…。珍しいものを頂いたのね?」
「うんっ!」
「まな板、これから使う所だったから。先に切ってあげるわ」
母は橘の実を綺麗に二つに切って分けてくれた。
小さな皿に載せて貰ったそれをブルーは宝物のように大切に持って、部屋へ戻って。
「ハーレイ、これ」
切って貰って来たよ、橘の実。早く絞って飲んでみようよ、レモンティーの代わりに。
「よし。だったら、紅茶のシャングリラ風と洒落込むか」
「常世の国だよ、此処の地域だと」
「そいつを別の言葉で言ったらシャングリラだろうが、理想郷だぞ」
チベットだの由来だのにこだわらなきゃな。
「そういえばそうだね、どっちも理想郷なんだものね」
「うむ。だから、こいつを絞って、と…」
二つに分かれた橘の実を半分ずつ持って、熱い紅茶を満たしたカップに絞ってみて。
香り高い実の香りが移った指でカップを持ち上げ、口に運んだブルーは素直な感想を述べた。
「酸っぱいかも…」
レモンを一枚入れるだけより酸っぱいんだけど…!
「だが、これがシャングリラの味ってな」
時じくの香の木の実だ、理想郷で採れる木の実の味だな。
「ふふっ、そうだね、常世の国でもシャングリラだしね」
それに地球だよ、とハーレイと二人、酸味が増した紅茶のカップを傾ける。
自分たちは地球に辿り着いたと、長い長い時を経て、ついに本物のシャングリラに。
今、自分たちが住んでいる地域では理想郷と言えば常世の国。
そんな名前のシャングリラに二人一緒に辿り着いたと、蘇った青い地球の上で、と…。
理想郷の名前・了
※楽園という名を船につけようと思ったミュウたち。候補は幾つかあったのです。
そして決まったのがシャングリラ。今のブルーたちが暮らす地域だと、常世の国ですね。
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