シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(わあ…!)
白くてフワフワ、とブルーが覗き込んだ庭。学校の帰りに、バス停から家まで歩く途中で。
生垣越しに白い花を咲かせた植木鉢を見付けて、何の花かと見たのだけれど。白い花とは違った正体。ふんわり膨らんだ綿の実だった、花が咲いた後に実った実が弾けた真っ白な綿。
幾つもの白い綿を咲かせた、綿の木の鉢。木ではないかもしれないけれど。
(あんなの、あった…?)
前からあったら、気付いていそうな場所にある鉢。花の間は綿だと気付かず、眺めて通り過ぎた可能性も低くはない。名前を知らない花は沢山あるのだから。
(家の人がいたら、訊いたりすることもあるけれど…)
なんの花なの、と興味津々で。見た目が変わった花だったならば、訊こうと機会を狙いもする。けれど、綺麗なだけの花なら「何の花?」と首を傾げて終わったりもするし、この綿だって…。
(そう思っていたかもしれないけれど…)
流石に綿の実が弾け始めたら、目を引きそうな綿の鉢植え。「綿が咲いてる」と。
こんなに沢山、白い綿の実が咲く前に。幾つも幾つも弾ける前に。
なのに知らない、綿の鉢植え。学校に行く日はいつも通るのに、そうでない日も通るのに。
綿の鉢なんてあったかな、と立ち止まったまま覗いていたら。
「おや、もう気が付いてくれたのかい?」
嬉しいね、と出て来た、この家の御主人。小さい頃から知っている人。
「えーっと…。この鉢、前からあった?」
ちっとも気付いてなかったけれど、と尋ねたら「まさか」と返った笑み。
「ブルー君が多分、第一号だよ。発見者のね」
この鉢は今日貰ったんだ、と教えて貰った。それもお昼を過ぎてから。御主人の知り合いが家で育てた鉢の一つをくれたのだという。上手く行けば年を越せるから、と。
「ふうん…。それじゃ、やっぱり綿の木なの?」
来年も咲くなら、木なのかな、これ…?
「さあねえ…。そう何年もは無理なんだろうし、草じゃないかな。年を越す草もあるからね」
この綿も上手く冬を越せれば面白いんだけどね、と話す御主人。綿の花はタチアオイの花に少し似ていて、一日の間に色が変わってゆくらしい。咲いた時には薄いクリーム色だけれども、翌朝になったら萎んでピンク。そういう花。
色が変わる花が咲き終わったら、日に日に膨らみ始める実。緑色の実が熟して茶色くなったら、ポンと弾けて綿の実が咲く。真っ白な綿が。
二度も楽しめるのが綿の鉢植え、本物の花と綿で出来た花と。
「じゃあ、来年は花が見られるの?」
「失敗しないで上手に育てられればね」
せっかくだから一つ持って行くかい、と訊かれた綿の実。最初の発見者にプレゼントだよ、と。
もちろん貰うことにした。綿の実なんかを触ったことは一度も無いから。
どうぞ、とハサミでチョキンと切って貰った綿の花。本当は花とは違って、綿の実。
フワフワの綿の実を持って家に帰ったら、母が「あら?」と驚いた。
「綿の実、何処で頂いたの?」
それとも学校で育ててたかしら?
「ううん、帰りに貰ったんだよ。ぼくが発見者第一号だって」
だから貰えた、と得意になって説明して。大切に部屋に持って帰って机の上に飾っておいた。
綿の実はすっかり乾いているから、もう水などは要らないから。花が終わった後の実が弾けて、中の種を落とそうとしているのが真っ白な綿だから。
おやつを食べにダイニングに出掛けて、また戻って来た机の前。コロンと綿の実が一個。
(これもホントに花みたいだよ)
色を変えるという綿の花の話を聞いて来たから、これは実なのだと思うけれども。茶色く乾いてしまっているから、正真正銘、実なのだけれど。
綿の木にはフワフワの綿が咲くのだと教えられたら、納得しそうな感じもする。側まで出掛けて子細に観察しない限りは、実だとは気付かないままで。
(ハーレイにも見せてあげたいな…)
本物の綿の実は初めて見たから、珍しいものには違いない。栽培している畑に行ったら、一面にあるとは思うけれども、住宅街には無さそうな花。
ハーレイは今日は来てくれるだろうか、貰ったその日に自慢したいのに。
見せたい人がやって来るかは学校次第で、会議があったら駄目なことが多い。他にもハーレイの仕事は色々、柔道部の指導が長引いた時も来られないから、気掛かりな今日。
(来てくれるかな…)
駄目な日なのかな、と本を読みながらも、ついつい目が行く白い綿の実。真っ白な綿を咲かせた不思議な実。四つにパカリと割れたらしくて、綿が詰まった部屋が四個くっつき合っている。
(この中に、種…)
何処から見たって、肝心の種は見えないけれど。綿にすっぽり包まれていて。
(…こんな種でも、ちゃんと自然に育つんだよね?)
まさか人間が種を取り出して蒔いてくれるまで、待つようなことはないだろう。それでは滅びてしまうから。自分で種を落とせないなら、人の手を借りるしかないのなら。
自然は凄い、と考えてしまう。フワフワの綿にもきっと役目があるのだろう。中に詰まった種を守るとか、そういった大切な役割が。
(それを横取りするのが人間…)
綿を採ろうと、栽培して。中の種など捨ててしまって、フワフワの綿だけを持ってゆく。これは使えると、たっぷりと。畑一面に弾けた綿の実、それを端から。
綿の木が頑張って作った種は地面に落ちて芽を出す代わりに、多分、ゴミ扱いだろう。
ちょっと酷い、と思ったけれども、人間の都合で育てるものなら山ほどあるから…。
(考えすぎたら、お肉も野菜も食べられないしね?)
この考えはやめておこう、と綿の実を楽しむことにした。フワフワの綿が植物から生まれてくる不思議。モコモコの羊とかなら分かるけれども、綿の木は鉢に植わっていたのに。
面白いよね、と真っ白な綿を指でつついたり、見当たらない種は何処にあるかと考えたり。本は放って眺めていたら、来客を知らせるチャイムが鳴った。この時間なら間違いなくハーレイ。
(やった…!)
綿の実を見て貰えるよ、と大喜びで部屋で待ち受けて、テーブルを挟んで腰掛けた。ハーレイは気付いてくれるだろうか、と綿の実は勉強机の上に置いたままで。
「おっ、綿の実か?」
直ぐに見付けてくれたハーレイ。もしかしたら、心が零れていたかもしれないけれど。ワクワクしている時にはありがちなことで、心の欠片がポロポロ零れているらしいから。
「貰ったんだよ、学校の帰りに」
その家の人も、貰ったばかりなんだって。綿の木が植わっている鉢を。
ぼくが発見者第一号だったから、綿の実、一つ貰えたんだよ。
「ほほう…。それで俺に自慢したかった、と」
得意そうな心が零れていたから、何かと思えば綿の実だったと来たもんだ。確かに滅多に見ないものだし、気持ちは分かる。お前も本物は初めてだろう?
「うん、写真でしか見たことないよ」
だから嬉しくなっちゃって…。不思議な実だよね、綿が採れるなんて。動物だったらフワフワの毛皮は普通だけれども、綿の木に毛皮はついていないし、植物なのに…。
「まあな、変わった植物ではある」
それでだ、綿の実を貰ったんなら…。お前、糸紡ぎはしないのか?
「糸紡ぎ?」
なにそれ、なんで糸紡ぎになるの?
「こいつから糸が取れるだろうが」
お前の言ってるフワフワの動物の毛と同じでだ、綿の実も糸になるんだぞ?
この実だけだと、ほんの少ししか取れそうにないが、立派な糸に。
綿から取ったのが木綿なんだから、と言われてみれば、その通り。
フワフワの姿で「綿だ」とばかり思ったけれども、綿が栽培される主な理由は、糸に仕上げる方だろう。それで織り上げる木綿の布やら、そういったもの。
そこまでは考えていなかった。この実から糸が取れるだなんて。
「ハーレイ、やったことあるの?」
糸紡ぎなんかを直ぐに思い付くくらいなんだし、ハーレイもやった?
「俺はやってはいないんだが…。おふくろが挑戦していたぞ」
糸を紡ぐ所からやってみたい、と糸車まで家にあったっけなあ…。何処で手に入れたのかは俺も知らんが、今でも家に置いてる筈だぞ。誰かに譲ったという話は聞かんし。
「そうなの?」
だったら、この実からでも糸が取れるんだね、木綿の糸が。
「うむ。…ただし、このままでは無理だがな」
実から外したら、直ぐに取れそうな感じに見えるが、そうじゃなかった。
種を取り出してから、綿をほぐしてやらないと駄目だ。ブラシみたいな道具で梳いてやったり、綿打ち弓ってヤツで打ったり。紡ぎやすくなるように綿を打つんだ、それが欠かせん。
もっとも、綺麗な糸を紡ぐんでなければ、梳くだけでも出来るって話だが…。
どちらにしたって、あの実だけだと沢山の糸は取れないな。
糸紡ぎをやってみたいと言うなら止めはしないが、今のままの方が見栄えはするぞ。
「フワフワしていて綺麗だもんね」
糸にしちゃったら、ほんのちょっぴりになるんだろうし…。
あのまま持っておくのがいいよね、せっかく貰ったんだから。
糸紡ぎに興味はあったけれども、この実をほぐして糸にしてみても僅かな量に違いない。綺麗な綿の実、花のような実を壊すよりかは、このままの方が素敵だろう、と勉強机から持って来た。
ハーレイに「ほらね」と見せて自慢して、フワフワの綿を触っていたら。
指の先で柔らかな綿を感じていたら…。
(あれ…?)
何処かで綿を触った記憶。
こんな風に、ふんわりした綿を。温もりが優しい綿の塊を。
「どうしたんだ?」
いきなり首を傾げちまって、何を考え込んでいるんだ、お前…?
「んーと…。前にもこういうのを触ったかな、って」
なんだか、そういう気がするんだよ。綿の実、前に何処かで触ったことがあるような…。
「学校か?」
下の学校で育てていたんじゃないのか、お前じゃなくても他の学年の生徒だとか。
花壇や畑に植わっていたなら、触るだけなら叱られたりはしないだろうし…。
小さい頃なら好奇心ってヤツも強いからなあ、お前、触りに行ったんじゃないか?
「そうかも…。でもね、下の学校の頃より前みたい…」
もっと前だよ、触っていたなら。
幼稚園かな、先生たちが植えていたのかな?
綿が採れたらクリスマスツリーの飾りに出来るし、育ててたかも…。
それをちょっぴり触っていたかな、フワフワだよ、って。
ホントにずいぶん昔だから、と返した途端に掠めた記憶。
綿を触っていた指先からスイと蘇った、遠い遠い時の彼方の記憶。こうして綿を触った自分。
「そっか、シャングリラだ…!」
前のぼくだよ、こうやって綿を触ってたのは。あの船で綿の実、触っていたよ。
「なんだって?」
シャングリラだって言われても…。綿の畑なんかは無かったわけで…。
「ううん、そういう作物じゃなくて…」
何かを作るために育てていたんじゃなくって、何か出来たらいいね、ってヤツ。
沢山採れたら何か作れるかもしれない、っていうヤツだったよ、シャングリラの綿は。
毎年、ヒルマンが育ててたんだよ、子供たちのために。
「そうか、あったっけな、綿の畑も…!」
本格的に栽培しようってヤツじゃなかったからなあ、すっかり忘れちまってた。
シャングリラで育てていた作物の出来は、全部キャプテンの俺に報告が来ていたが…。個人的なヤツだと除外されるし、あの綿もそいつと同じ扱いだったんだ。
不作だろうが豊作だろうが、シャングリラでの生活に影響するわけじゃない。不作だったら他の手段を考えないと、っていう方向にも行かないからな。
…そのせいで綺麗に忘れたわけだな、俺の管轄じゃないってことで。
そこそこの広さはあった畑なのに、個人的な持ち物だったプランターと同列で考えていたか…。役割はあって無かったようなものだからなあ、あの綿の畑。
シャングリラでは合成されていた繊維。制服の生地も、リネン類なども、合成された繊維の糸を織り上げたもの。
全員の分を賄えるだけの自然の繊維は作れないから。限られた空間だけが全ての宇宙船では。
充分なスペースと労力が無いと、そういったものは作れないから。
だから繊維は合成するもの。それがシャングリラのやり方だったし、人類の世界の方にしたって天然素材の布が溢れていたわけではない。当たり前のように存在していた化学繊維。
その情報をデータベースから引き出して使い、同じような生地を作っていた。服も、リネンも。
人類の世界に引けを取らなかった、シャングリラで作られた合成の繊維。
けれど、そのシャングリラでヒルマンが綿を育てていた。子供たちの教材にするために。
「あの綿なあ…。最初は綿とは言わなかったな、ヒルマンは」
蚕を飼おうと言ったんだった。…同じやるなら絹が面白いと。
「虫が吐く糸から出来るんだものね、絹は」
綿と同じで、とっても不思議。ヒルマンが教材に使いたかった気持ちは分かるよ。
餌にする桑が要るから駄目だってことになっちゃったけど…。
余計な虫まで飼えんわい、ってゼルも反対してたしね。
蝶がいなかったシャングリラ。花が咲いても、蝶が舞うことは一度も無かった。
自給自足で生きてゆく船に、蝶の役目は無かったから。人の心を和ませることしか出来ない蝶。それを飼うだけの余裕は無いから、蝶は不要と判断された。
つまり、余計な虫は飼えなかったシャングリラ。蚕も大量の絹が採れないのなら余計な虫。餌の桑まで必要になって、手間がかかってしまう虫。
「もしも蚕を飼っていたらだ、ミツバチの他にも虫がいる船になったんだがなあ…」
ついでに蚕は蛾になるわけだし、蝶の親戚みたいなもので…。
蝶のように綺麗な虫じゃなくても、ミツバチだけしかいない船よりマシだったかもしれないぞ。
生き物の影があるっていうのは悪くないしな、蛾だとしてもな。
「でも、蛾になるよりも前の芋虫がね…」
エラが乗り気じゃなかったんだよ、生理的に受け付けないとか言って。
凄い量の桑を食べるらしいから、っていうのが表向きの理由だったけど…。ハーレイも何処かで聞いてた筈だよ、エラがブラウに愚痴を零すトコ。「飼うことに決まったらどうしよう」って。
「…そういうのもあったな、エラの愚痴なあ…」
俺やヒルマンには言って来なかったが、ブラウには何度も零していたな。「芋虫なんて」と。
しかしだ、ブラウは「別にいいんじゃないのかい?」って笑うばかりで全く話にならなくて…。
仕方ないからゼルを味方につけたんだよなあ、「芋虫だから」とは言いもしないで。
とにかく無駄だと、一匹だけでも桑の葉がこんなに必要になる、と。
芋虫が苦手だったエラ。成人検査よりも前の記憶は失くしていたのに、酷く嫌っていた芋虫。
蚕も芋虫には違いなかったから、「蚕を飼おう」というヒルマンの計画は頓挫した。長老の内の二人が反対となれば、子供たちの教材にするためだけに蚕は飼えない。
ヒルマンは考え直さざるを得ず、蚕の代わりに持ち出したのが綿。蚕と違って餌が要らない、と強調して来た綿花の長所。
「ヒルマン、蚕で懲りてたのかなあ…。綿には餌が要らないから、って」
そこが一番いい所だよ、なんて言っていたけど、畑のスペースはちゃっかり持って行ったよね。
「蚕を飼ったら、これよりも広い桑畑が必要になるわけだから」ってデータまで出して。
「策士だったな、エラとゼルの主張を逆手に取っちまってな」
これだけの綿を植えたとしたって、蚕用の桑なら何匹分で…、と言われたら誰も文句は言えん。
農場の空きスペースを使うわけだし、反対する理由は何処にも無いし…。
お蔭で立派な綿の畑が出来ちまったってな、あの船の中に。
キャプテンの俺でも忘れていたほど、報告不要の畑ってヤツが。個人所有のプランターだの植木鉢だのと同列にしては、やたら広いのがドッカンとな。
ヒルマンが手に入れた、教材用の綿畑。世話をしていたのは農場担当の仲間だけれども、指揮はヒルマンが執っていたから、世話係は自分だと名乗っていた。責任者も自分なのだから、と。
何本もの綿が植えられた畑、ヒルマンは子供たちを連れて行っては解説していた。これの栽培は紀元前五千年まで遡るのだと、想像もつかない遠い昔から人間は綿を育てていたと。
花が咲いて実がなり、その実が熟して弾けた後には子供たちの出番。フワフワの綿の実を摘んだ子供たち、遊びを兼ねての綿の収穫。
「ぼくも子供たちと一緒に摘んでたよ、綿を」
それで覚えていたみたい…。こんな手触りだったんだ、って。
ぼくはすっかり忘れていたのに、ぼくの手がちゃんと覚えていたよ。前のぼくの身体はメギドと一緒に消えちゃったのに…。今の身体は別の身体なのに、綿の手触りはこうだった、って。
「ふうむ…。俺も何度か触ってはいたが…」
農場に視察に出掛けた時に、こう、ふんわりと弾けていたりするだろう?
ついつい触ってしまっていたなあ、動物でもないのに毛が生えてやがる、と。
しかし、お前ほどには馴染みが無かったらしい。こいつを触ってもピンと来ないし…。あの時のアレだと思いもしないし、前の俺とは付き合いがどうやら浅かったようだ。
…待てよ、前のお前と綿との付き合いと言えば…。
お前、紡いでいなかったか?
「えっ?」
紡ぐって…。何を?
「綿に決まっているだろうが。ヒルマンたちは、最終的には糸を紡いでいたんだぞ」
綿の実を摘んで終わりじゃなかった、糸にするまでが勉強の時間だったんだ。
覚えていないか、ヒルマンたちの糸紡ぎ。
シャングリラには糸を紡ぐための糸車も乗っていたんだが…、と聞かされて蘇ってきた記憶。
白い鯨にあった糸車、器用だったゼルが資料を見ながら作ったもの。温かみのある木材で。その糸車で糸を紡いだ、ヒルマンや子供たちに教えて貰って。
ソルジャーはとても暇だったから。子供たちの遊び相手を仕事にしていたくらいだから。
「…忘れちゃってた、ハーレイが綿の畑を忘れていたのとおんなじで…」
綿が採れたら、糸紡ぎをするのを見に行ってたのに。
子供たちに誘われて、教えて貰って、ぼくも糸紡ぎをしてたのに…。
「お前、けっこう上手かった筈だぞ、糸を紡ぐの」
裁縫の腕はサッパリだったが、どういうわけだか、糸は上手に紡ぐんだ。そうやって紡いだ糸を使うのは下手くそなくせに。
ブラウが対抗意識を燃やしていたなあ、「あたしだって、やれば出来るんだよ」とな。
「そうだっけね…。ブラウも紡ぎに来てたんだっけ」
ちょっと貸しな、って取られちゃうんだよ、糸車。
子供たちが紡いでいる時だったら取らないけれども、ぼくやヒルマンがやってた時には。
白いシャングリラの綿畑と、木で出来た糸車と。合成ではない木綿の糸を紡ぎ出していた糸車。
興味を抱いた仲間たちも多くて、糸紡ぎの競争をやったこともあった。
綿が豊作だった年にやった競争、紡ぐ速さを競った競争。速さはもちろん、糸の出来栄えも。
すっかり忘れていたのだけれども、大勢の仲間が参加していた。
「ハーレイ、糸紡ぎの競争のことを覚えてる?」
どれだけ速く紡げるかっていうのと、紡いだ糸が綺麗かどうかで大勢で勝負したんだけれど…。
あの競争、誰が勝ったのか、ハーレイ、覚えていない…?
「…忘れちまったが、俺じゃないことは確かだな」
俺だけは数から外しておけ。それ以外の誰かが勝者ってことで。
「外しておけって…。ハーレイも競争していたの?」
糸紡ぎをしてたの、あの時に…?
「悪いか、俺がやってたら」
付き合いってヤツでな、やらざるを得ない立場に追い込まれて…。
初心者どころか初めてだから、と言っても逃がしちゃ貰えなかった。
…俺をそこまで追い込めるヤツだ、誰かは想像出来るだろうが。
生憎と、そいつが勝ったかどうかも覚えていない。前のお前が勝ったかどうかも。
ハーレイも自分も忘れてしまった、糸紡ぎ競争を勝ち抜いた誰か。優勝の栄冠を手にした誰か。
誰だったのだろう、遠いあの日の糸紡ぎの勝者。
ハーレイではなかったというのだったら、前の自分か、ブラウか、熟練のヒルマンか。あるいは前のハーレイを競争に引き摺り込んだ誰か、それとも他の仲間だったか。
そして紡いだ糸はどうなったのだろう?
競争の時の糸の行方も気になるけれども、毎年、毎年、紡がれた糸。綿が採れる度に、白い鯨にあった糸車で子供たちや前の自分が紡いでいた糸…。
「あの糸か? …俺は報告を受けちゃいないが…」
必要不可欠な作物ってわけじゃないしな、そいつから出来た糸も同じだ。私物と同じ扱いだな。
キャプテンに報告する義務は無いし、ヒルマンからも正式に聞いてはいない。…キャプテンへの報告という形ではな。
だが、ヒルマンは俺の飲み友達でもあったわけでだ…。そっちの方なら何回か聞いた。
「今年は染色にも挑戦しようと思ってね」だとか、「ランチョンマットが出来た」だとか。
色々なことに使っていたと思うぞ、服にはなっていない筈だが。
「シャングリラは誰でも制服だったものね…」
おんなじデザインの服を着ている人がいなくても、誰でも制服。
前のぼくでも、ハーレイでも。…フィシスの服だって、ちゃんと制服だったんだものね。
綿から糸を紡いだならば、木綿の布が織れるのだけれど。
シャングリラに木綿の制服は無くて、綿は服にはならなかった。糸に紡がれて、その後のことは前のハーレイにも分からない、糸の行方は、糸から何が出来たのかは。
それでも毎年、育てていた綿。ヒルマンが育てた綿畑。真っ白な綿の実が幾つも、幾つも。
「…あの綿、クリスマスツリーの飾りにもなった?」
クリスマスツリーはあった筈だけど、あの綿、使っていたのかなあ…?
雪の飾りは綿でやるでしょ、クリスマスツリー。
「どうだっけなあ…」
悪いが、俺も覚えちゃいない。…なにしろ、綿はキャプテンへの報告義務が無かったからな。
クリスマスツリーの方もどうだか…。
あった筈だと思うわけだが、何処にあったか、どんなのだったか、サッパリだ。
思い出すべき時じゃないのか、忘れちまったというだけなのか。
どっちにしたって、俺の頭にクリスマスツリーは浮かんで来ないし、雪の飾りも謎ってことだ。
そういう飾りがついてたかどうか、それ自体を覚えていないんだからな。
本物の綿で飾っていたのか、合成品の綿だったのか。…どうにもならんな、この状態じゃ。
ハーレイにも思い出せないというシャングリラの綿の使い道。糸に紡いだ綿の行方も、紡がずに雪の飾りになった綿が幾らかあったかどうかも。
白いシャングリラと一緒に時の彼方に消え去った綿。ヒルマンが育てていた綿畑。
今日、綿の実をくれた人は「上手く育てれば年を越せるよ」と言ったけれども、シャングリラの綿の木は年を越して育っていたろうか?
次の年にも同じ株から花を咲かせて、真っ白な綿の実をつけただろうか…?
「いや、それは無いな」
あの綿畑の綿は一年限りだ。次の年には種蒔きをやって、また一からの出発だってな。
「…言い切れるの?」
あそこはキャプテンの管轄じゃないって言っているのに、言い切っていいの?
ヒルマンが年を越させて育てていた年も、何度かあるかもしれないよ…?
「キャプテンだからこそ、言い切れるんだ」
綿畑は俺の管轄ではなかったわけだが、子供たちの教育方針の方は報告が上がってくるからな。
教材として育てるからには、種蒔きをするトコからなんだ。
種蒔きで始まって、糸紡ぎで終わる。…それがシャングリラの綿ってヤツだ。
糸を紡ぐ頃には綿畑はもう空っぽだった、とハーレイは証言してくれた。収穫を終えた綿の木は農場の係が全部取り去り、翌年に向けて土作りを始めていた筈だ、と。
「しかし、糸紡ぎか…」
あのシャングリラに糸車があって、前のお前が上手に糸を紡いでいたと来たもんだ。
お前、糸車で指を怪我していなかったか?
「してないよ、怪我なんかするわけがないよ」
前のぼくは手袋をはめていたもの。指を怪我するわけがないでしょ、あの手袋をしていれば。
糸を紡ぐ時だって外していないよ、でも、なんで?
ぼくの失敗、気になるわけ…?
「そうじゃなくてだ、眠り姫だ」
「え…?」
「前のお前が十五年間も眠っちまっていたのは、そのせいかとな」
眠り姫は糸車で指を怪我して眠っちまうし、前のお前もそうだったのか、と思ったんだが…。
「えーっと…。ハーレイ、ぼくにキスしてくれた?」
寝ているぼくに。…十五年も眠り続けたぼくに。
「キスしないわけがないだろうが」
そりゃあ何度も、こっそりとな。…誰も青の間に来ない時に。
「ハーレイがキスしても目が覚めないなら、眠り姫じゃないよ」
王子様のキスで起きない眠り姫なんて、何処にもいないと思うんだけど…。
「確かにな…!」
糸車で怪我をしたんだったら、あれで起きなきゃいかんしなあ…。
別の呪いで眠り続けたわけだな、前のお前は十五年も。
王子様のキスでも目が覚めなかった眠り姫。
白いシャングリラで糸を紡いでいたソルジャー。それは上手に、糸車で。
「…糸紡ぎ、いつまでやっていたっけ?」
「アルテメシアを離れるまでだな。前のお前は充分、起きてた」
だから訊いたんだ、糸車で指を怪我しなかったか、と。…眠っちまう前に。
「ナスカは?」
あそこでは糸紡ぎ、やっていないの?
…ナスカの畑は他の作物を育てるために使っていたから、綿を植えるのは無理だけど…。
シャングリラの方では出来た筈だよ、あの綿畑をまた使い始めたらいいんだから。
「畑はあっても、子供たちがいないだろうが」
子供たちのための教材なんだぞ、綿を育てるのも、糸紡ぎも。
「トォニィたちは?」
「そういう学習を始めるよりも前に、ナスカが燃えちまったんだ」
お前は大きく育ったトォニィたちにも会ってるわけだが、勘違いをするなよ?
トォニィはまだ三歳だったし、糸紡ぎを教わる年じゃないんだ。
「そっか…」
小さかったっけね、育つ前のトォニィ。
今のぼくでも受け止められそうなほどに小さかったし、あれじゃ糸紡ぎは無理だよね…。
もう三年ほど育ってからやっと、種蒔きが出来るくらいだったかも…。
アルテメシアから宇宙へ逃げ出した後は、作られなかった綿畑。紡がれることが無くなった白い綿の実。糸紡ぎの車は何処へ行ったろう?
前の自分が糸を紡いだ糸車は。…ゼルが作った木の糸車は。
「さてなあ…。倉庫の奥にはあったんだろうが…」
俺の管轄外だとはいえ、処分するならヒルマンから報告が来た筈だ。糸車が教材だった以上は、勝手に処分は出来ないわけで…。
しかし倉庫に突っ込む分には、俺に報告なんかは来ない。…何処に突っ込んでいたやらなあ…。
「カナリヤの子たちが紡いだかな?」
倉庫の何処かで糸車を見付けて、何に使うのかを誰かに訊いて。
また綿畑も作り始めて、其処で採れた綿を紡いでたかな…?
「それは俺にも分からんが…」
なにしろ死んじまってるからなあ、その頃には俺もとっくの昔に。
カナリヤの子たちを育てていたのはフィシスなんだし、フィシスが糸車を覚えていたら…。
そういう道具で糸紡ぎをしたな、と思い出したら、倉庫で探していたかもしれん。
探せば必ず見付かるだろうし、また糸紡ぎをしていたってことも無いとは言えんな。
記録には何も無い筈だがな、とハーレイは腕組みをしているけれど。
前のハーレイたちが命を捨てて救ったという子供たちにも、糸を紡いで欲しかった。
白いシャングリラで綿を育てて、骨董品とも言える糸車で。前の自分が糸を紡いでいた、ゼルが作った木の糸車で。
「どうなんだかなあ…」
今となってはサッパリ謎だな、カナリヤの子たちが糸車を見たのかどうかもな。
「分からないよね…」
もしも糸紡ぎをしていたとしても、何処にも記録が無いのなら。
あの糸車がどうなったのかも、誰にも調べられないんだね…。
前の自分たちが生きた頃から、気が遠くなるような時が流れて青い地球まで蘇った。
ハーレイと二人、その地球の上に生まれ変わって来たのだけれども、今の時代までは伝わらずに消えた出来事の数も多いから。
何処を探しても、残されていない記録の一つ。白いシャングリラの糸車。
前の自分が糸を紡いでいたということも、その糸車がどうなったかも。
「…ハーレイの家には、今も糸車があるんだよね?」
「おふくろの趣味の道具だったし、それこそ突っ込んであると思うぞ」
また紡ごうか、と思わないとも限らないしな、誰かに譲っていないんだったら家にある筈だ。
「あるんだったら、いつか紡いでみたいな、綿を」
「…俺が不器用なのを笑うつもりか?」
糸紡ぎの腕、俺はお前にまるで敵わなかったわけでだ、今の俺だって練習していないんだし…。
お前と勝負ってことになったら、また負けそうな気がするんだが。
「そうじゃないってば、今のぼくだって初心者なんだよ?」
前のぼくよりサイオンの扱いが不器用なんだし、糸紡ぎだって下手になってるかも…。
でも、シャングリラの思い出だもの。糸車があるならやってみたいよ、糸紡ぎを。
「分かった、お前が親父たちの家まで行けるようになった頃まで覚えていたらな」
そしたら、おふくろに頼んでやろう。
次に行く時は糸紡ぎをするから、糸車を探して欲しいんだが、と。
だが、絶対に指を怪我するなよ、と言われたから。
また十五年も眠られたのではたまらんからな、とハーレイがジロリと睨むから。
「前のぼくだって、指なんか怪我していないよ!」
それに王子様のキスで起きるよ、もしも怪我して眠ったとしても。
糸車の呪いに捕まっちゃっても、ぼくはきちんと目を覚ますから…!
「そうだな、今のお前なら起きてくれそうだな」
前のお前の時と違って、眠り続けて力を残して、メギドを沈める必要なんかは無いんだからな。
「うん、それにハーレイを一人にはしないよ」
独りぼっちにさせたりしないよ、眠りもしないし、メギドなんかにも行かないよ。
だって、ぼくだってハーレイと離れたくなんかないんだもの。
…前のぼくは仕方なかったけれども、今のぼくはずうっと一緒なんだよ、ハーレイと。
死ぬ時も一緒って言ってあるでしょ、だから糸車の呪いも大丈夫だよ。
そう、今度はいつまでも、何処までも一緒。
糸紡ぎの車で指を怪我しても、ハーレイのキスで目が覚める。
そして何処までも、いつまでも幸せに、青い地球の上で手を繋ぎ合って生きてゆく。
だからいつかは糸を紡ごう、隣町の庭に夏ミカンの大きな木がある家に出掛けて。
ハーレイの母が持っているという糸車。
それでハーレイと二人で紡ごう、白いシャングリラで紡いだ思い出の糸を。
真っ白な綿の実から綿を取り出して、糸車にかけて。
ハーレイが勝つか、自分が勝つか。
白いシャングリラでの日々を思い出しては笑い合いながら、紡ぐ速さを競い合いながら…。
綿と糸車・了
※シャングリラで育てられていた綿花。子供たちの教材用で、糸紡ぎまでやっていたくらい。
前のブルーが上手に紡いだ糸。青い地球でも、ハーレイと二人で紡げそうですね。
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