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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

赤信号の幸せ

(…ちょっと飛んでるみたいだよね)
 ほんの少し、とブルーはバスの窓から外を眺めた。
 学校からの帰り、乗ったいつもの路線バス。外がよく見えるお気に入りの席。大抵そこに座るのだけれど、普段は気にしていなかった。景色の方に夢中になって。
 普通の車よりも車高の高いバス、人も車も窓よりも下に見えるから。窓から覗いたブルーよりも下を通ってゆくから、飛んでいるようだと思ったバスからの眺め。そう見える視点。
 人の背丈よりもほんの少し上、そのくらいの高さを飛んでいる自分。バスの座席に軽く腰掛け、流れるように飛んでゆく自分。
 今の自分に空を飛ぶ力は無いのだけれども、バスに乗ったままで飛んでいた。地面よりも上を、人の頭よりも高い所を。
(ホントに空を飛んでるみたい…)
 気持ちいいな、と流れる景色を楽しんでいたら、ガクンと止まってしまったバス。何故、と前を見れば信号が赤。途切れてしまった空の旅。せっかく気持ち良く飛んでいたのに。



(信号だなんて…)
 そんなのに引っ掛かるなんて、と残念な気分で動かなくなった景色を見詰めた。前の自分ならば自由自在に飛べたのに、と。
 このバスで飛んだ気持ちになる高さよりも、もっと高い空を。本物の空を。
 雲よりも高い青い空の上を、信号に引っ掛かりもしないで。
 遮られることなく飛べた空の旅、何処へでも飛んで出掛けてゆけた。白いシャングリラから遠く離れて、思いのままに空を駆けることが出来た。
 そんなことは滅多にしなかったけれど。船の仲間たちが自由に出られはしない世界を一人きりで飛んで楽しむことなど、ソルジャーのすべきことではないから。
(でも、たまに…)
 ミュウの未来を考える内に、苦しくなってしまった時とか。
 そういった時には空へ飛び出した、自由に飛んでゆける世界へ。白いシャングリラが潜む雲海を抜けて、ただ遠くへと空を駆けていた。
 フィシスを見付けたのもそんな時だった、空を飛ぶだけでは後ろめたくて、せめて情報収集だけでも、と入り込んだ施設の奥深くで。
 地球を抱く少女を見付け出した後は、自分に何かと言い訳をしては空を飛んでいた。フィシスの許へと、地球を抱く少女に会いにゆこうと。



 前の自分が飛んでいた空、遮るものなど無かった空。
 バスは再び走り出したけれど、景色が流れ始めたけれど。
(車って、不便…)
 空を飛ぶよりずっと不便、とバスを止まらせた信号機に心で溜息をついた。せっかく飛んでいた旅を邪魔された、あの信号機に。飛んでいる気分に水を差された、赤信号に。
(本当に空を飛んでるんなら、信号なんか関係無いのに…)
 地面の上にはなんと無粋なものが聳えているのだろう。赤、青、黄色と色が揃った信号機。車の流れを止めてしまって、飛んでいる気分を台無しにする。色を赤へと変えるだけのことで。
(空には信号、無いんだけどな…)
 止まらなくてもいいんだけどな、と考えながらも空の旅。バスの窓がある高さの空を。
 今の時代は、市街地では空を飛べないけれど。
 信号機が無くても出てはいない許可、市街地の上を生身の身体で飛んでゆくこと。空を飛ぶなら指定された場所、其処でレジャーとして飛べるだけ。そういうルール。
 だから空を飛ぶ力がある人も、町の中ではこういう不自由をするのだけれど。移動する時は車やバスで、信号に引っ掛かるのだけれど。



 つらつらと考えながら飛んでゆく内に、近付いて来た家の近くのバス停。
 降りる合図のボタンを押して、バス停に停まったバスから地面にストンと降り立って。
(たったこれだけ…)
 ほんの少し、と見送った走り去るバスの床の高さ。バス停で降りただけの高さで空を旅していた気分。人の背丈よりも少しだけ上を、バスで上がった視点の分だけ。
 それでも満足だったけれども、前の自分ならもっと高く、と空を見上げた瞬間に。
 青く高く澄んだ空を仰いだ途端に、身体を貫いていった衝撃。



(逆…!)
 逆だったのだ、と初めて気付いた。
 自由なのは前の自分ではなくて、空を飛べない自分の方。バスの窓の高さで空を旅して、信号に旅の邪魔をされたと溜息を零した自分の方。
 前の自分は空を自在に飛べたけれども、本当の意味で自由に飛んではいなかった。空の上を高く駆けていたけれど、降りる地面を持たなかった。
 何処まで飛ぼうと、何処へゆこうと、戻る先は白いシャングリラ。雲海の中に浮かんでいた船。
 たとえ地面に降り立ったとしても、森の中で切り株に腰掛けていても、いつまでも留まることは出来ない。ミュウの居場所は地面には無くて、白いシャングリラの中だったから。
 地面から飛び立ち、其処へと戻ってゆくしか無かった。また空を駆けて、その空の上に浮かんだ船へと。雲海の中に潜む船へと。



 前の自分が飛んでいた空に、邪魔をする信号は無かったけれど。
 赤信号に行く手を阻まれることは無かったけれども、居場所の無かった地面の上にはその信号があったのだった。人類が暮らす町の中には、車が流れていた道路には。
(信号機のルールは今とおんなじ…)
 青なら進めて、赤ならば止まる。車も人もそれは共通。
 知識としては知っていたけれど。アタラクシアやエネルゲイアの上を飛ぶ時は、車も道路も見ていたけれど。
 従いたくても従えなかった信号機。ミュウのためには無かった信号、無かった地面。車も道路も人類のもので、走りたくても走れなかった地面。バスや車でも、自分の足でも。



(地面だって、うんと遠かったんだよ…)
 シャングリラから直接地面に降り立つことは不可能だった。高い高い空を飛んでいたから。
 さっき自分がバスからストンと降りたような具合で降りることは、けして。
 トンと降りるだけで地面に立てはしなくて、前の自分の力をもってしても出来なかったこと。
 遥かな下にある地面との距離は縮まらないから、物理的に無理なことだから。
 地面に着くまで空を飛んでゆくか、瞬間移動で一気に降りるか。前のブルーでさえ二つに一つ。
 ましてシャングリラの仲間たちには、タイプ・ブルーではなかった皆には…。
(絶対に無理…)
 降りたいと望んでも降りられなかった、地面などには。人類のものだった地面の上には。
 新しい仲間を救出するための潜入班にならない限りは、踏みしめることさえ出来なかった地面。赤信号に引っ掛かったと嘆きたくても夢のまた夢、信号機の立つ地面がミュウには無かった。
 潜入班なら信号も地面もあったけれども、交通ルールにも従ったけれど。
 監視システムに怪しまれぬよう、人類と同じに地上で暮らしもしていたけれど…。



(前のぼくの自由と同じで仮のものだよ…)
 空を駆けてシャングリラから地面に降りても、潜入班として降りたとしても。
 留まることは出来はしなくて、帰ってゆく先はシャングリラ。地面など無い空にある船。雲海の外には出られない船、降りる地面を持たなかった船。
 そういう時代に生きた自分と比べてみれば…。
(今はとっても…)
 幸せなんだ、と今頃になって気が付いた。
 赤信号に引っ掛かったと残念に思ったあの信号機も、それがある地面を路線バスに乗って走れることも。当たり前のようにある交通ルールも、それに従って走れることも。



 しみじみと幸せを噛み締めながら家に帰って、おやつを食べて。
 二階の自分の部屋に戻って、また考える。
 今はどれほど幸せなのかと、空を飛んでいた前の自分よりも、どれほど幸せなのだろうかと。
(ぼくは車に乗れないけれど…)
 運転免許を取れる年ではないけれど。
 ハーレイのように自分で車を運転出来たら、もっと幸せな気分だろうか。
 地面の上を走れる車。信号に従って走れる車。
 それも地球の上で、前の自分たちが焦がれ続けた青い地球の上で。



(きっと幸せ…)
 最高に幸せな気分だと思う、地球の地面の上を車で走れることは。
 前の自分たちとは縁が無かった交通ルールも、赤信号で動けなくなることも。
 そうなのだろうという気がするから、ハーレイに訊いてみたいと思った。この幸せにハーレイは気付いていたかと、車で走れることの幸せさに、と。
(…ハーレイ、今日は来てくれるかな…)
 仕事の帰りに寄ってくれるといいんだけれど、と願っていたら聞こえたチャイム。窓から覗けば手を振るハーレイ、応えて大きく手を振り返した。
 訊いてみることにしよう、早速。ハーレイが部屋に来てくれたなら。



 やがて母の案内で現れたハーレイ。
 お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合わせに座って、まずは帰りの路線バスで見た窓の景色から。飛んでいるようだと思ったあの風景から。
「あのね、今日ね…」
 バスに乗ってたら、飛んでいるような気分になったよ。バスの窓の高さで。
 そしたら、赤信号に引っ掛かっちゃって…。飛んでる気分が台無しになってしまったけれど…。前のぼくなら信号なんかは関係なくって、自由に飛べたと思ったんだけど…。
 でも、とバスから降りた後で気付いた話をした。
 前の自分が飛んだ空より、地面を走れる車の方が幸せだよ、と。
「…はあ?」
 空を飛ぶより車って…。そいつはなんだかおかしくないか?
 お前が引っ掛かったって言う赤信号。空に信号は無いんだからなあ、止まる必要も無いんだぞ?
 鳥だって空で止まっちゃいないし、前のお前だってそうだったろうが。



 空を飛ぶ方が遥かに自由そうだが、とハーレイは不思議そうだから。
 市街地の上は飛行禁止な今と違って、前のブルーの頃ならば自由に飛べたと言うから。
「それなんだけど…。同じように空を飛んでいたのがシャングリラでしょ?」
 シャングリラに信号、あったと思う?
 ハーレイはシャングリラを動かしてたけど、赤信号で止まったりすることはあった?
「無かったな。前のお前や鳥と同じで、空に信号機は無いからな」
 一度も止まったことなんか無いな、アルテメシアの空を飛んでた間はな。
 ナスカじゃ上空に停まっていたがだ、あれも赤信号で止まったわけではないからなあ…。
「交通ルールは?」
 横断歩道の手前の方で止まりましょうとか、そういうルールはシャングリラにあった?
「全く無いな」
 航宙学ってヤツで言えばだ、飛ぶためのルールは存在したが…。
 離着陸の時はライトの点滅をどうするかだとか、その手のヤツはあったんだが…。
 使わなくてはいけなくなったのは、アルテメシアを落としてからだ。人類用だった宙港に降りるためには必要だしなあ、他の船とぶつからないために。
 もっとも、落とした星への離着陸以外はルールは殆ど守ってないな。人類軍との戦いの真っ最中だと、ルールも何もあったもんじゃない。守ったら負けだ、がむしゃらに進むのみってな。



「…ほらね、シャングリラにも信号なんかは無かったでしょ?」
 そういうのが無いと自由みたいに思うけど…。自由なんだと思っちゃうけど、それは間違い。
 本当だったら人類の船と全く同じに、ちゃんとルールを守って着陸とかが出来たんだよ。人類がミュウの存在を許してくれていたなら、シャングリラの着陸を許してくれたなら。
 でも、そういうのは出来なくて…。
 前のぼくだってシャングリラと同じ。自由に空を飛んでいたって、地面が無かった。地面の上に降りてみたって、帰って行く先は空に浮かんだシャングリラで…。
 赤信号で止まりたくっても、交通ルールを守りたくても、させては貰えなかったんだよ。地面は人類が持っているもので、ミュウのものではなかったから。
 だけど、今はね…。



 それを守って走れるんだよ、と説明した。
 前の自分たちが行きたいと願った青い地球の上で、と。
「そうでしょ、ハーレイ? ぼくは路線バスとかパパの車に乗せて貰って走るんだけど…」
 赤信号でちゃんと止まるよ、止まらなくっちゃいけない決まり。考えてみたら、とっても幸せ。
 ハーレイはもっと幸せだと思うな、自分で運転してるんだもの。
 地面を走るための決まりを守って、自分の車で地球の上を走っていけるんだもの。
「なるほどなあ…!」
 そいつは全く気付いてなかった、今日までのお前と同じにな。急いでいる時に赤信号になったら舌打ちしたりもするんだが…。そうか、赤信号で止まれるってことは幸せなんだな。
 今の俺の車はシャングリラよりも幸せってことか、赤信号で止まれる分だけ。
「うん。地面の上を走っているから、赤信号があるんだよ」
 おまけに地球の地面なんだよ、地球の上を走っている道路。そこについてる信号機の赤。
 シャングリラだと道路を走りたくっても、いろんな意味で無理があるよね。宇宙船だったし。
「俺の車がシャングリラよりも幸せだったとは気付かなかったな…」
 同じように俺が動かしていても、大きな違いがあったってことか。
 幸せな車、シャングリラに比べりゃずっと小さくて、ブリッジに置いてもまるでオモチャだ。
 そんなに小さな車のくせして、シャングリラよりも遥かに幸せだったってか…。



 信じられない気持ちだが…、とハーレイは車を思い浮かべているようで。
 ちっぽけだとか、シャングリラの通路を走れそうだとか、その小ささを挙げていたけれど。
「そういや、車は外が見えるな」
「えっ?」
 外って、窓の外のこと? そうなの、ハーレイ?
「うむ、外だ。そこがシャングリラと車の大きな違いだ」
 車だとガラスの向こうに外が見えるだろ、路線バスでも普通の車でも。
 シャングリラにも窓は一応あったが、運転するためにある窓じゃなかった。前の俺がブリッジで見ていた景色はスクリーン越しで、それを頼りに舵を切ってた。後はデータに頼ってな。
 ところが車はそうじゃない。俺の目で窓の向こうを見ながら運転するんだ、車ってヤツは。
 赤信号かどうかを見るのもそうだが、この目で見ないとハンドルも切れやしないってな。
「ホントだね…」
 シャングリラと車じゃ全然違うね、運転してるって実感があるのは車だよね。
 スクリーン越しに外を見るんじゃなくって、運転席のすぐ前に外の景色があるんだものね。
「お前、そこには気付かなかったか…」
 自分で運転してないからなあ、無理もないかもしれないが。
 車の免許を取れる年じゃないし、シャングリラだって前のお前は動かしてないし…。
「それもあるけど、前のぼくは自分で飛んでいたんだもの」
 窓なんか無いよ、飛んで行く時に。ぼくの身体だけで飛び出すんだから。
「そうか、視界は遮られないというわけか」
 外の様子はどうなってるか、と調べなくても、情報は全て直接入って来ていたんだな。
 前のお前の目に映ったもの、それを目指して飛んで行くとか、避けるとか…。
 そういう意味では前のお前はシャングリラよりも自由だった、と。
 俺の車に近かったわけだ、前のお前が飛んで行く時に体感していた景色ってヤツは。



 シャングリラに比べて今の車は…、と続けるハーレイ。
「外を見られるっていうのもそうだが、俺の車だというのも嬉しい点だよなあ…」
 仲間の命を預かっているというわけじゃないし、行き先だって俺の自由に選べるからな。地球へ行かねば、と頑張らなくてもいい時代だし…。何より地球に来ちまってるし。
 その地球の上を好きに走って、道路さえあれば何処へだって行けると来たもんだ。
 あれは俺だけのシャングリラってヤツで、進路も運転も俺次第ってな。
「そうだっけね。ハーレイ、前にも言ってたね」
 ハーレイの車、今度はぼくとハーレイだけのためのシャングリラになる予定なんだ、って。
 当分は今の車だけれども、買い替える時にはシャングリラと同じ白もいいな、って。
「そうさ、俺たちのためだけにあるシャングリラだ、あれは」
 俺の隣にお前を乗せなきゃ、完璧じゃないって勘定だがな。
 二人揃って乗って初めて、本当に本物の俺たちだけのシャングリラになってくれるんだ。
 それまでは俺が一人で乗るしかないわけなんだし、少し寂しいシャングリラだが…。
 前の俺がお前を失くした後と違って、お前はこれから乗り込む予定の車なんだしな?
 いつかお前を乗せる時まで、大切に乗っておかんとなあ…。



 綺麗に洗って手入れもして…、とハーレイは嬉しそうだから。
 前の自分のマントの色をした今の愛車を、ブルーが乗るまできちんと維持しておくと言うから。
「ねえ、ハーレイ。ぼくもハーレイの車、運転出来る?」
 乗せて貰えるようになったら、あの車を。前のハーレイのマントの色をした車。
「お前がか?」
 あれをお前が運転するのか、俺の代わりに運転席に乗り込んでか…?
 運転免許を取るって言うのか、と真顔で訊かれた。
 そんなつもりは無かったんだが、と。
 ブルーが乗るならあくまで助手席、運転席には自分が座るつもりだったが、と。
「…そうだったの?」
 ぼくはあの車を運転しないで乗ってるだけなの、長いドライブに出掛ける時でも?
 遠い所に車で行くなら、交代しながら運転していく人も多い、って聞いているけれど…。
「おいおい、俺の体力を甘く見るんじゃないぞ?」
 長距離だって充分に一人で走らせることが出来るんだがな?
 若い頃からドライブしてるし、何より車はシャングリラと違って休憩する場所が沢山あるんだ。適当な場所を見付けて停まって、飯を食ったり一休みしたり。リフレッシュしたらまた走る、と。
 シャングリラじゃそうはいかなかったぞ、何時間でも舵を握りっ放しで立っていたとかな。
 そういう時代を経験したんだ、長距離ドライブなんぞは遊びだ。
 俺は一生、俺が運転手のつもりでいたんだが…。お前と二人で乗って行く予定のシャングリラ。
 しかし、お前が運転免許を取りたいと言うなら話は別で…。
 あれを運転したいと言うなら、運転席にも座ってくれればいいんだがな。



 運転免許を取りたいのか、と訊かれたから。
 俺と交代でドライブするのが好みなのか、と尋ねられたから。
「…どうだろう…」
 どうなんだろう、と考え込んでしまったブルー。
 運転免許があれば車を動かせるけれど、青い地球の上を車で走って行けるけれども。
 シャングリラがミュウの箱舟だった前の生でも、シャングリラを動かしてはいなかった自分。
 白い鯨をただ守るだけで、舵を握ったことは無かった。
 操舵の練習用のシミュレーターなら扱えたのだし、その気になったら操船も出来ただろうに。
 アルテメシアに落ち着く前なら、遊び半分に動かしてみても文句は出なかっただろうに。
 どういうわけだか、ただの一度もシャングリラを動かさずに終わった自分。乗っていただけで、守っていたというだけのことで。
 そうして今では、車は乗せて貰うものだと思っている自分。
 年齢のせいもあるだろうけれど、父の車もハーレイの車も乗せて貰って当然のもの。ハンドルを握る自分の姿は想像も出来ず、握りたいという気も起こらないから。



「…多分、取らない…」
 運転免許を取りたいな、っていう気持ちはしないし、車を運転したくもないし…。
 今の所は運転免許を取ろうって予定は無いんだけれど…。
「なら、取るな」
 取らなくていいぞ、お前が取りたいと思っているんじゃないならな。
 俺の仕事が無くなっちまうし、運転免許は無い方がいい。
 俺はお前専属のキャプテンってヤツでいたいんだ。俺たちのためだけのシャングリラのな。
 でもって、お前を隣に乗っけて、交通ルールに従ってだな…。
「地球の地面を走るんだね?」
 赤信号ならきちんと止まって、青信号になるまで待って。
「そうなるな。その赤信号とかで止まるヤツだが…」
 そいつが自由の証明なんだ、ってことに気付いたと言うんだったら、文句を言うなよ?
 俺と一緒にドライブしていて、自由の証明に出くわしても。
「自由の証明って…。何に?」
 赤信号なら今日も気付いたし、ぼくは文句は言わないよ。交通ルールがあるのが地面で、そこを走れるなら幸せだもの。
 それとも他にもまだ何かあるの、車が止まるためのルールが?
「ルールと言っていいのかどうか…。そこの所は微妙なんだが…」
 赤信号やら、いろんな交通ルールやら。
 ついでに走っている他の車の状況、そんなので起きる渋滞だな。



 たまに起こるという渋滞。
 ズラリと連なった車の行列、それが殆ど進まなくなる。動かなくなる。待てど暮らせど動かない車、少しずつしか進めない車。
 一度渋滞に入ってしまえば、なかなか抜け出せないらしい。上手い具合に別の道へと出られればいいが、それが出来なければ渋滞が消えるまで待っているだけ、待ち続けるだけ。車の中で。
「昔ほどではないらしいがな…。渋滞ってヤツも」
 ずうっと昔、前の俺たちが生きた頃よりも遥かに昔。
 この辺りが日本って国だった頃は、そりゃあ凄いのがあったらしいぞ、車の渋滞。
「凄いって…。どんなものなの?」
 ぼくは渋滞には出会ったことがないけれど…。昔の渋滞は有名だったの?
「らしいな、ニュースになったというくらいだしな。年に二回ほどあったようだが…」
 生まれ故郷だとか、親が暮らしている家だとか。そこへ行こうって車が大渋滞を起こすんだ。
 そうなると見越して早めに出発した車だって、運が悪けりゃ捕まったらしい。
 懐かしい所へ帰ろうって車が引き起こすからな、帰省ラッシュと呼ばれたそうだ。その車たちが行きと帰りとにズラリ行列、そうなるシーズンが年に二回さ。



 SD体制があった頃よりも遥かな昔、この辺りが日本という小さな島国だった頃。
 お正月とお盆に起こっていたらしい酷い渋滞、その名も帰省ラッシュなるもの。
 捕まったら最後、何時間も車の中に缶詰、降りることも出来なかったと言うのだけれど。一休み出来る場所さえ無かったとハーレイに聞かされたのだけれども。
「…その帰省ラッシュ。それに巻き込まれても幸せだよ、きっと」
 まるでちっとも動かなくても、ぼくは幸せ。怒ったりはしないよ、文句も言わない。
「それもやっぱり地球だからか?」
 地球の地面の上を走って、帰省ラッシュに捕まるからか?
 シャングリラだと絶対に捕まりっこない、地面の上のルールに巻き込まれた結果だからか…?
「うん。帰省ラッシュがあるだけ幸せ」
 ちゃんと地面を走れるからこそ、渋滞なんかがあるんだよ。他の車も走ってるんだよ。
 前のぼくたちみたいに降りる地面が無かったら。…降りられる場所が何処にも無ければ、渋滞に遭うことは無いんだから。
 どんなに酷くて長い渋滞でも、地面の上を走れる幸せと隣り合わせのものなんだよ。
「ふうむ…。お前の言葉は正しいんだが、実に正しい意見なんだが…」
 当時のヤツらには分からんだろうな、ひたすら文句を言ってただろうさ。まだ続くのかと、まだ渋滞は終わらないのかと。
 青い地球の上で暮らして、地面を走って。それが当たり前の時代だったし、きっと分からん。
 自分たちがどれほど幸せだったか、どれほど恵まれていたのかさえもな。



 その時代を生きたヤツらには…、とハーレイが腕組みして頷くから。
 ブルー自身も、今日まで全く気付いていなかった地面を走れる幸せだから。
「ねえ、ハーレイ。…他にもきっと色々あるんだろうね」
 地面の上を走れる他にも、赤信号で止まれる他にも。
「何がだ?」
 交通ルールの幸せってヤツか、地球の地面の上ならではの?
「…交通ルールもそうだけど…。当たり前すぎて気付かない幸せ」
 今のぼくたちには当たり前のことで、でも、前のぼくたちには無かったもので。
 気が付いたらビックリしちゃう幸せ、きっと他にも沢山あるよね。
「ああ、多分な」
 お前が気付くか、俺が気付くか。それとも二人で同時に見付けてアッと驚くか…。
 そういうのが山ほどあるんだろうなあ、まだまだ気付いていないだけでな。



 これから二人で幾つも見付けていこうじゃないか、と微笑まれた。
 人生はうんと長いのだからと、いずれは二人で一緒に暮らしてゆくのだからと。
「はてさて、何処で見付かるやらなあ、そういう幸せ」
 お前とドライブしてる最中にヒョッコリ出会ったりしてな。
 車の窓から見えた景色でハッと気付くとか、休憩しようと降りてみた場所で見付けるだとか。
「そうだね、ドライブしてる時にも何か見付かるかもしれないね」
 前のぼくたちには無かった幸せ、赤信号で止まれる幸せみたいに。
 ぼく、ハーレイと一緒だったら、渋滞しちゃった車の中でも…。
 幸せだよ、と笑顔で言った。
 どんな時でもハーレイと二人、一緒だから。
 二人揃って巻き込まれるなら、遠い昔にあったと言われる凄まじい帰省ラッシュでも。
 何時間も車ごと捕まったままで出られなくても、それでもきっと幸せだよ、と。



「帰省ラッシュって…。いいのか、お前」
 あれは本当に桁外れだったらしいんだが…。もうそれだけで消耗しそうな大渋滞で、到着したらバタリと倒れて寝ちまう人もいたらしいんだが…?
「大変そうなのは分かるけど…。ぼくだと身体が丈夫じゃないから、もっと大変だろうけど…」
 それでも、帰省ラッシュって。
 自分のお父さんたちが住んでる家に出掛けるか、結婚相手のお父さんたちの家に出掛けるか。
 とにかく大切な人たちが暮らしてる家へ、会いに出掛ける時に巻き込まれるものなんでしょ?
 それと、そこからの帰り道。自分が結婚相手と暮らしてる家に帰る時。
 そういう時に出会うものなら、うんと幸せなものじゃない。
 青い地球の上にある大切な家と家との間を移動出来るんだよ、ちゃんと本物の家族の家。
 それだけで充分、幸せじゃない。
 ぼくが帰省ラッシュに巻き込まれるなら、ハーレイの家からぼくの家まで帰る途中か、それとも隣町のハーレイのお父さんたちの家へ行く途中なのか…。
 どっちに向かっているにしたって、きっと幸せ。大切な人に会いに行けるし、大渋滞でもきっと幸せ。着いた途端に倒れちゃっても、ぼくは絶対、幸せだよ。



「お前らしいな、倒れちまっても幸せだという辺りがな」
 そうなったとしたら、俺は行き先に着いた途端にスープ作りだ、野菜スープのシャングリラ風。そいつをお前にせっせと食わせて、帰り道の体力を養ってやらんといかんわけだが…。
 それでもお互い幸せだろうな、帰省ラッシュは今は無いがな。
「うん、分かってる」
 今はちょっぴり渋滞するだけ、それも滅多に無いんでしょ?
 だけど赤信号で止まれる幸せに気が付いたんだし、渋滞だってきっと幸せ。
 ハーレイが運転してくれる隣で、ぼくは幸せ気分なんだよ。
「よしきた、それなら二人であちこちドライブだな」
 俺たちのためのシャングリラで。俺がお前の専属の運転手になって。
「そこはキャプテンでしょ、シャングリラだもの」
 ハーレイしか運転出来ない車を運転するなら、キャプテン。車でもキャプテン・ハーレイだよ。
 ぼくとハーレイしか乗ってなくても、シャングリラでキャプテン・ハーレイなんだよ。
「分かった、俺がキャプテンなんだな」
 しかしだ、お前はソルジャーじゃないぞ?
 今度は俺の嫁さんってだけで、隣にチョコンと乗っかってるだけでいいんだからな。



 何もしなくていいんだからな、とハーレイが笑みを浮かべているから。
 俺のシャングリラで走って行こう、と言ってくれるから。
 いつかハーレイと結婚したなら、二人でドライブに出掛けよう。
 赤信号でも渋滞でもいい、ハーレイの車で味わってみよう、地球の地面の上を走れる幸せを。
 きっと免許は取らないだろうから、ハーレイはいつまでもキャプテン・ハーレイ。
 ブルーだけを乗せて走るシャングリラの頼もしいキャプテン、キャプテン・ハーレイ。
 二人きりのドライブで地球を走って、交通ルールを満喫しよう。
 シャングリラには無かった赤信号だの、出会わなかった小さな渋滞だのを…。




           赤信号の幸せ・了

※赤信号に引っ掛かったら、残念な気持ちになるのが今のブルーですけれど。
 前の生では、赤信号には引っ掛かりようが無かったのです。交通ルールを守れるのは幸せ。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








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