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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

約束のオリーブ

(綺麗…)
 緑色だ、とブルーはテーブルに置かれた瓶を見詰めた。
 学校から帰って、ダイニングでおやつの時間の真っ最中。そのテーブルに置かれていた瓶。
 それほど大きな瓶ではない。すらりと細くてジュースの瓶かと思うほど。でなければシロップ、中身を水やソーダで割って飲むもの、そういう液体に似合いの瓶。
 けれど瓶には無いラベル。なんのラベルも貼られていなくて、剥がした跡さえ見付からなくて。
(綺麗な緑色だけど…)
 濃い緑ではなく、黄緑色といった所か。芽吹いたばかりの若葉の緑をした澄んだ液体、トロリとしているようにも見える。恐らく飲み物なのだろうけれど。
(なあに?)
 こんな飲み物は見たことがない。これを薄めたジュースも知らない。学校に行っている間に母が作って詰めたのだろうか、この瓶に?
 このまま飲むのか、それとも薄めて飲むものなのか。



(どっち…?)
 正体不明、と眺めていたら。どんな味かと想像していたら、母が来たから。
「ママ、これなあに?」
 何の瓶なの、と指差した。緑色の液体が詰まった瓶を。そうしたら…。
「オリーブ油よ。オリーブは知っているでしょう?」
 あの実から採れるの、色々な種類があるんだけれど…。
 これはお友達に頂いたの、と母が手に取り、瓶を少しだけ傾けた。液体は確かに油のようで。
 出来たばかりのオリーブ油。搾ったばかりの新鮮なものを貰ったという。



「これからがオリーブ油のシーズンらしいわよ」
 今年一番に出来たオリーブ油がこれで、オリーブだけしか使っていないの。だから上等。
 お料理に使うオリーブ油と違って、このまま食べられるオリーブ油なのよ。
「ふうん…?」
 オリーブ油を食べるって…。どうするの、ドレッシングとか…?
「違うわ、それも美味しいんだけど…。ホントにこのまま食べるのがいいの」
 パンにつけると美味しいのよ。トーストじゃなくて、バゲットとかにね。
「…パンにつけるの?」
 バターみたいに、と不思議に思ったブルーだけれど。パンに塗るならジャムやバターで、油など思いもしなかったけれど。
 母の話では普通だという。オリーブ油で食べるのが似合いのパンにはオリーブ油だと。
 今まではブルーに合わせてバターやジャムにしていたけれども、食べていた頃もあったのだと。ブルーが小さくてミルクや離乳食しか食べていなかった頃までは。
「パパと二人でよく食べてたのよ、オリーブ油で」
 でも、ブルーみたいな子供の舌にはどうかしら…。好き嫌いとは別の話で、大人の舌とは味覚が違ってくるでしょう?
 食べても美味しくないかもしれないわ、オリーブ油のパン。
 だけどブルーには、今はハーレイ先生が下さるマーマレードがあるしね。お気に入りでしょう、あの夏ミカンのマーマレード。
 ブルーはあっちにしておきなさいな、その方がきっとブルー向けよ。



 ママたちは明日は久しぶりにオリーブ油にしてみるわ、と言われた翌朝、ハーレイがやって来る土曜日の朝。目覚めたブルーがダイニングに行くと、母が焼いたバゲット、それにオリーブ油。
(んーと…)
 ブルーには母がトーストを焼いてくれたけれど、マーマレードを塗ったけれども。
 同じテーブルにいる父と母とは、小さな器にあの緑色のオリーブ油を入れているから。千切ったバゲットにオリーブ油をつけて、それだけで口に運んでいるから。
(ジャムもバターも、なんにも無し…)
 本当にあのオリーブ油だけ。塩も胡椒も振っていないし、ドレッシングですらない油。味付けをしたなら分かるけれども、油だけでパン。まるで想像がつかないから。
「ママ、オリーブ油で食べるバゲットって…。美味しいの?」
 ぼくの舌には合わないかも、って言っていたけど、それ、ママたちには、とっても美味しい?
「もちろんよ。そうでなければ食べていないわ、オリーブ油でね」
 バターやジャムに変えちゃってるわよ、とっくの昔に。どっちも家にあるんですもの。
 気になるのなら試してみる?
 どんな味なのか、食べてみるといいわ。味見だけでも。



 はい、と母が自分のバゲットを一口サイズに千切ってくれた。渡されたそれに母の器のオリーブ油をつけて、頬張ってみたブルーだけれど。
(えーっと…?)
 期待した味とは違った風味。澄んだ緑の味はしなくて、バターとも全く違った味で。
「どう、美味しい?」
 ブルーの舌にはどうかしら。ママとパパには、とても美味しい味なんだけれど…。
「うーん…。ちょっぴり美味しい…のかな?」
 嫌いじゃないけど、想像してたのと違う味。もっと濃い味がするかと思った、油だから。
「おいおい、油の味だと美味くないだろうが、せっかくのパンが」
 油臭いバゲットはパパは勘弁願いたいな。このサラリとした味がいいんだ、オリーブ油は。
 ブルーの年だと、まだ分からないかもしれないがな。
 もう少し大人にならないと…、と父がバゲットにオリーブ油をつけて、母もそうしながら。
「このオリーブ油…。ハーレイ先生にもお出ししましょうか」
 今日のお昼に。バゲットを添えられるメニューにして。
「そうだな、美味いオリーブ油だしな」
 本当に本物の搾り立てだし、きっと喜んで下さるだろう。ブルーの分はバターにして。
「ぼくもオリーブ油でいいよ!」
 オリーブ油で食べるよ、バターじゃなくて。ハーレイと同じのを食べたいよ…!
「あらあら…。ブルーは本当にハーレイ先生が大好きなのねえ…」
 子供らしくバターにしてもいいのに、背伸びするのね。分かったわ、ブルーもオリーブ油ね。



 朝食が済んだら、部屋の掃除で。首を長くして待つ内に訪れたハーレイ。
 ブルーの部屋でお茶とお菓子を楽しみながら過ごした午前中の時間、オリーブ油のことは頭からすっかり消えてしまった。忘れてしまった、ものの見事に。
 母が昼食を運んで来るまで、思い出しもしなかったオリーブ油だけれど。昼食のパスタと一緒にサラダの器とバゲットが二切れ載せられたお皿、それとオリーブ油の小皿。
 白い小皿に緑色をしたオリーブ油。母が「ごゆっくりどうぞ」と去ってゆくと。
「ほほう…。こいつは美味そうだな」
 小皿のオリーブ油に鳶色の目を細めるハーレイ。美味しそうだと緩んだ頬。
「…美味しそう?」
 ハーレイにはそんな風に見えるの、このオリーブ油が?
 ママのお友達がくれたんだけど…。ぼくも今朝、少し食べてみたけど、普通だよ?
 好きでも嫌いでもないって感じで、美味しそうとまでは思わないけれど…。
「そりゃあ、お前はチビだしな?」
 子供の舌には少し早いな、オリーブ油の美味さというヤツは。
 搾り立てだろ、このオリーブ油。見れば分かるさ、新鮮なオリーブ油だってことが。
 早速試してみるとするかな、搾り立ての味。



 褐色の指がバゲットを千切って、小皿のオリーブ油の緑に浸して。
 うん、いける、と頬張るハーレイ。流石は地球だと、搾り立ての地球のオリーブ油だと。
「実に美味いな、シャングリラのよりも断然美味い」
 比べようって方が間違っているが、それでもやっぱり比べちまうな。あの船の味と。
「…シャングリラ?」
 オリーブ油なんかあったっけ?
 それでパンなんか食べていたっけ、シャングリラで…?
「忘れちまったか?」
 オリーブ油で食ってたヤツだっていたぞ、搾り立ての油が出来る頃には。
 こいつでパンを食うのが美味い、とヒルマンが調べて来たんだったか…。オリーブの木を植えたからには有効活用、あれこれ調べた中の一つでパンを食うのにオリーブ油だ。



 オリーブの木は沢山あったろ、と言われてようやく思い出した。
 食用にするための油を採ろうと、農場で何本も育てていた木。一年中、緑の葉をしたオリーブ。秋になったら実る実を採って、それを搾って油を作った。白いシャングリラのオリーブ油。
 合成の油よりも本物を、と作っていたのがオリーブ油だった。
「そうだったっけ…」
 オリーブの木を沢山植えていたんだっけ、農場に。油を採るならオリーブだ、って。
「うむ。お前が苗木を奪って来てな」
 人類の施設からゴッソリ山ほど。船の中でも丈夫に育ってくれそうなのを。
「そう、頑丈そうな木を選んで来たよ」
 シャングリラの中だと、気温くらいしか外と同じには出来ないから…。
 雨も風も太陽の光も自然のようにはしてやれないから、丈夫そうな木を。背の高さよりも太さで選んで、葉っぱの艶だって良さそうなのを。



 シャングリラの農場で豊かに枝を広げて育ったオリーブ。前のブルーが奪った苗木。
 すくすくと育って多くの実をつけ、オリーブ油がたっぷり手に入った木。
「あのオリーブだが…。お前、覚えてるか?」
 ヒルマンが言っていたことを。
 オリーブの木はシャングリラに相応しい木だと何度も言ってたんだが、忘れちまったか?
「ううん、オリーブの木を思い出したら、そっちも一緒に思い出したよ」
 箱舟の木でしょ、オリーブの木は。ノアの箱舟。
「そうだ、お前も思い出したか、箱舟の話」
 まさに箱舟だったからなあ、シャングリラはな。
 前の俺たちをアルタミラの地獄から救い出してくれて、生かしてくれて。
 アルテメシアに辿り着いた後も、人類に追われた仲間を救い出しては乗せて行って…。
 ブリッジも箱舟って呼んでいたっけな、公園の上に浮かんでいたから。
 シャングリラの心臓部でもあった場所だし、誰が呼んだか、箱舟ってな。



 ノアの箱舟。
 遠い遠い遥かな昔に、人類が地球しか知らなかった頃に神が起こしたと伝わる洪水。地上は全て水に覆われ、ありとあらゆる生き物が滅び、人も滅んだ。
 その大洪水から逃れた箱舟、神に選ばれたノアの家族と、地上の生き物の一つがいずつ。箱舟は彼らを乗せて浮かんだ、地上の全てを飲み込んでしまった水の上に。
 四十日と四十夜の間、荒れ狂った水は大地を覆い尽くして、その後にようやく止んだ大雨。神の大雨。百五十日の間、箱舟は水の上を漂い続けて、アララト山の頂に止まったという。
 ノアは船から鳩を放った、何処かに地面がありはしないかと。一面の水から顔を覗かせた土地が無いかと、一羽の鳩を。
 けれども鳩は戻って来た。留まる地面が無かったから。次に放しても、鳩は戻った。
 その次にノアが鳩を放すと、オリーブの葉を咥えて戻った鳩。何処かにオリーブの木がある証。それから更に七日の後に放ってみた鳩は、船に戻って来なかった。



 こうして神の大洪水は終わり、箱舟から降りたノアと家族と動物たち。其処から再び人の歴史が始まり、地球が滅びた日をも乗り越え、宇宙に散った。SD体制を敷いて、あらゆる星に。
 SD体制の時代は二度目の洪水だったのだろうか、神が人類を滅ぼすための。
 それと知らずに生まれて来つつあった新しい種族、ミュウと人類とを入れ替えるための。
 ミュウであった前のブルーたちですらも全く知らなかったけれど、歴史はミュウに味方した。
 進化の必然だったミュウ。
 誰もが気付いていなかっただけで。そうだと知らずに滅ぼそうと足掻いていただけで。
 そんなミュウたちを乗せた箱舟、白い鯨だったシャングリラ。
 いつかはノアの箱舟のように地上に降りようと、降りたいと皆が願っていた。
 ノアが放った鳩が咥えて戻ったオリーブの葉。何処かに地面があると知らせた命の色の葉。
 そういう風に地球へ行こうと願った、オリーブの木が茂る約束の地へ。
 シャングリラが留まれる地球へ行こうと、いつかは鳩がオリーブの葉を咥えて戻るだろうと。
 鳩を放そうにも、シャングリラに鳩はいなかったけれど。
 それでもオリーブの木を植えて、見上げて願った。オリーブが茂る青い地球へ、と。



「そんな場所は何処にも無かったんだがな…」
 前の俺たちが生きた時代に、青い地球なんぞは何処にも無かった。オリーブどころか、何の木も生えちゃいなかった。
 …前の俺たちはそうとも知らずに、地球を目指していたんだが…。
 箱舟に乗って地球へ行こうと、いつかは希望のオリーブの葉を鳩が咥えて戻るだろうと。
「そうだね…。ありもしない場所を目指していたね」
 きっといつかは地球へ行けると、ミュウのぼくたちでも辿り着けると。
 前のぼくもすっかり騙されていたよ、蘇った青い地球があるんだと。フィシスの記憶に刻まれた地球が幻だったなんて思いやしないよ…。
「俺だって頭から信じていたさ。前のお前が憧れてた地球、其処へ必ず行くんだとな」
 お前を乗せて、あのシャングリラで。俺がシャングリラの舵を握って。
 …それなのに、お前は死んでしまって…。
 地球を見もしないで死んでしまって、そんなお前の命を犠牲に辿り着いた地球はあの有様で…。
 お前になんと言ったらいいのか、俺の頭は真っ白だった。あれが地球か、と。
「…ぼくはね、地球に行けなかったことも悲しかったけれど…」
 それは身体が弱り始めた時から、覚悟していたことだったから。もう行けないと諦めてたから。
 地球なんかよりも、ハーレイと別れてしまうことの方が辛かったよ。
 ハーレイよりも先に死んでしまって、約束通りに追い掛けて来ても貰えなくって。
 …そうなることが分かっていたのに、行かなきゃいけなかったから。
 前のぼくしか、シャングリラを守れはしなかったから…。
「…だろうな、前のお前はな…」
 挙句の果てに、メギドで独りで逝っちまって…。
 独りぼっちだと泣きながら死んで、俺は俺で抜け殻になっちまって。それでも地球へ、と必死に進んで、やっと着いたら荒れ果てた地球があっただなんてな…。



 だが、俺たちは辿り着いたな、とハーレイが笑んだ。約束の地へ、と。
「青い地球の上に二人揃って生まれ変わって来たんだし…。それに、オリーブ油」
 鳩は葉を咥えて戻らなかったが、そのオリーブの木の実から出来たオリーブ油だ。
 そいつが食える地球に来たんだ、もう間違いなくオリーブが茂る約束の場所に着いたってな。
「…地球に来たってことは間違いないけど…」
 オリーブ油でオリーブの葉とか木とかは強引じゃない?
 オリーブ油は実から出来るものだよ、葉っぱがオリーブの実を育てるんだし、実の方がオマケ。木から採れた実と、それを育てる葉っぱとだったら、葉っぱの方がずっと大切だよ。
「そうは言うがな、オリーブは本来、油が大切だったんだぞ」
 今みたいに便利な明かりなんかは無かった時代。
 真っ暗な夜を明るくするには、灯を灯すしかないわけで…。最初は焚火で、次が灯明。こういう油を使って灯して、ランプの時代がやって来たのさ。



 前の俺たちはオリーブ油を食っていただけだが…、と言われてみれば。
 ハーレイが話した通りに遠い昔には油は灯明、生活の必需品だった。ごくごく初期なら素焼きの土器がランプだったし、ガラスのランプが出来た時代も明かりを灯すには油が必要。
 オリーブ油もきっと初めの頃には、食べるよりも明かりが主だったろう。それが無ければ暗闇の中で震えているしかないのだから。
「ハーレイ、油は食べるよりも明かりの方だったって…。この辺りでも?」
 この地域でもやっぱりそうなの、食べるよりも明かり?
「お前が言うのは日本のことか?」
 あの島国ではどうだったのか、っていう意味で俺に訊いているのか?
「そう。日本でも明かりの方だったのかな?」
 食べるんじゃなくて、一番に明かり。そういう油の使い方かな?
「まあな。日本でも油は欠かせなかったな、料理ではなくて明かりの方で」
 もちろん、料理もするんだが…。他の国と同じで揚げたりなんかもしていたんだが…。
 そういう具合に使ってはいても、油を買いに出掛けると言ったら明かりだな。
 古典にも色々と出て来るだろうが、蝋燭じゃなくて行灯だとか。
 その油だが…。



 オリーブ油の国とは油が違うな、と教えられた。
 遥かな昔の小さな島国、其処ではオリーブの油ではなくて菜種の油。菜種油だ、と。
「今と違って、オリーブを育てちゃいなかったんだ。その時代の日本の辺りでは」
 気候が今一つ合わなかったか、まだ入って来ていなかった。代わりに菜種の油で明かりだ。油が採れるから菜種のことを油菜と呼んだりもしていたらしいな。
「ふうん…?」
 行灯の絵は知ってるけれども、何の明かりかまでは考えていなかったよ。蝋燭が入っているって聞いても、そうなんだと信じてしまいそう。行灯、菜種の油なんだね。
「そういうことだ。蝋燭よりも便利だったのか、安かったのか…」
 とにかく行灯の中身は油だったが、そいつを猫が舐めるんだぞ。
「え?」
「菜種じゃなくって、魚の油を使ってた所もあったんだ」
 油さえあればいいわけなんだし、菜種だろうが、魚だろうが…。魚の油は鯨だがな。



 日本で使われていた鯨の油。
 それを使って行灯を灯すと、魚の匂いがするわけだから。油の味も鯨で魚風味だから、魚好きの猫が舐めるのだけれど。行灯の油を舐めるけれども…。
「化け猫になるの!?」
「らしいぞ、猫が行灯の油を舐めると」
 尻尾が二つに裂けちまって…、と聞かされた怪談。年を取った猫がなるという妖怪、裂けた尾の猫又。それになる猫は油を舐めるという。行灯の油を。長い舌を伸ばしてペロペロと。
 飼い主のお姫様を食い殺してしまって、お姫様に化けていた猫又などもいたというから。
「ハーレイ、猫又、怖すぎるよ…!」
 行灯なんかを置いておくから、油を舐めて化けちゃうんだよ。行灯に油を入れるから…!
「そうなるなあ…。今の時代は行灯も無いし、猫又も生まれないわけで…」
 俺のおふくろが飼ってたミーシャも、年寄りだったが猫又なんぞにはならなかったな。
 尻尾は死ぬまで一本のままで、二つに裂けたりしなかった。
 行灯の油を舐めるってことが大切な方法だったんだろうな、猫が猫又になるにはな。



 だから行灯の無い他の地域に猫又は一匹もいなかったようだ、と説明されても、本当なのやら、嘘なのやら。とはいえ、日本にだけ居た猫の妖怪、猫又は油を舐めるもの。行灯の油を。
「猫又が舐めるっていう油…。鯨の油でないと駄目なの?」
 他の油だったら猫又は出ないの、魚の匂いがしない油を入れておいたら。
「なるほど、化け猫防止ってか。菜種油なら、舐めなかったかもしれないなあ…」
 オリーブ油でも魚の匂いはしないし、猫又になるのは無理だったかもしれん。
 そうなってくると、猫又になるのに欠かせないものは行灯だけではないってことか。猫が喜んで舐める魚の油も必須だったんだな、鯨の油。
 行灯と鯨の油が揃って初めて猫又が出来るというわけか、うん。



 それは面白い新説だ、と腕組みをして頷くハーレイ。
 鯨の油は有名なもので、遠い昔にはそのために鯨を獲ったという。捕鯨の主な目的の一つ。鯨の油は明かりの他にも機械油や石鹸の材料、様々にあった使い道。
「…鯨から油が採れるんだったら、シャングリラも?」
 白い鯨だから、油が採れそうな感じだよ。宇宙を飛んでる大きな鯨。
「似てたのは形だけなんだが…。鯨というのは悪くはないぞ」
 鯨は捨てる所が無いっていうほど、どこもかしこも人間の役に立ったんだそうだ。
 そういう意味では、シャングリラは最高の鯨だったな。大いに俺たちの役に立ったし、おまけに箱舟だったんだからな。



 いい鯨でも人類軍には獲らせてやらんが…、とハーレイは笑った。
 シャングリラをモビー・ディックと名付けて、追い続けていた人類軍。
 モビー・ディックは、SD体制が始まるよりも前の時代の小説に出て来る白鯨の名前。人類軍の通信を傍受し、それを知った時にはハーレイたちも酷く驚いたという。人類の目にも同じ白い鯨に見えるのかと。シャングリラは白い鯨なのかと。
「ヤツらは必死に追い掛けて来たが、そう簡単には捕まるものか」
 油を採られちゃたまらんからなあ、あのシャングリラはヤツらの獲物じゃないんだからな?
 俺たちの船だ、俺たちのための大事な鯨だ。
 そいつを獲られてしまったんでは、ミュウの未来も無くなるからなあ…。



 懸命に逃げて逃げ切ってやった、と胸を張るハーレイ。
 キャプテンとして指揮し、あるいは自ら舵を握って、人類軍の追撃から。
 前のブルーが長い眠りに就いていた間は逃げて逃げ続けて、その後の時代は逃げるだけの道から反撃へと。モビー・ディックの名前の通りに、人類軍と戦い続けたシャングリラ。
 白い鯨はミュウたちの箱舟だったけれども、ハーレイの話を聞くと戦う鯨でもあったから。
「ねえ、ハーレイ…。シャングリラって、どっちだったんだろう?」
 平和の箱舟か、捕鯨船と戦う鯨か、どっちが本当?
 ハーレイはどっちだったんだと思う、あのシャングリラは…?
「両方だろ。箱舟でもあったし、鯨でもあった」
 どちらの面も持っていたさ、とハーレイは言った。
 前のブルーがソルジャーとして立っていた時代はミュウたちを乗せた平和の箱舟。戦いはせずに雲に隠れて、追われる仲間を救い続けた。
 けれど、ジョミーを助け出すために浮上した後は、文字通り人類に追われる鯨。捕鯨船よろしく追ってくる人類軍の船から逃れ続けて、危うい場面も何度もあった。
 それでも赤いナスカを見付けて入植したりと、箱舟としての機能もまだ充分に残していた。
 ミュウという種族を乗せた箱舟、いざとなったら乗り込んで逃げてゆけるよう。
 そしてナスカが滅んだ後には、戦う鯨。ミュウが滅びぬよう戦い続けて、幾つもの星を落としていった。最初にアルテメシアを手に入れ、地球の座標を見付けて進んで…。



「とうとう地球まで行ったってな」
 捕鯨船には捕まらないまま、逆に何隻も沈め続けて、ヤツらが必死に守った地球まで。
 …前のお前に頼まれた通り、ジョミーを支えて俺はシャングリラを運んで行ったぞ。ヒルマンが話した約束の場所へ、鳩がオリーブの葉を咥えて戻る地球まで。
「オリーブの木は無かったけどね…」
 前のハーレイが着いた頃には死の星だったし、オリーブなんかは…。
 ごめんね、そんな地球へ行かせて。ハーレイ、きっと、とってもガッカリしたんだろうに…。
「そりゃなあ…。ガッカリと言うより悔しかったな」
 前のお前の夢だった地球がこの有様かと、こんなもののためにお前は死んじまったのか、と。
 お前の魂に青い地球を見せてやれるどころか、見せたくもないような星しか無くて…。
 しかしだ、今はあるだろ、本物の青い地球ってヤツが。
 ちゃんとオリーブ油だって採れるような地球が。



 お前が作った、と微笑まれた。
 前のお前がミュウの未来と、この青い地球を、と。
「えっと…。前のぼく、そんなに偉くは…」
「ないって言うんだ、いつも、お前は」
 この地球の上の誰に訊いても、何処の星に住んでるヤツに訊いても、同じ答えが返るだろうに。
 前のお前は偉大だったと、ソルジャー・ブルーが今の世界を作ったんだと。
 それなのに肝心のお前は違うと言ってばかりで、まるで自覚がゼロなんだよなあ…。
「ハーレイだって同じじゃない」
 キャプテン・ハーレイは英雄なんだよ、シャングリラを地球まで運んだ英雄。
 箱舟か鯨か分からないけれど、ハーレイでなければ運べなかった。いくらジョミーやトォニィがいても、シャングリラを丸ごと運んで行くにはキャプテン・ハーレイがいないと無理だよ。
 ハーレイがいたから、乗っていたから、シャングリラは地球まで行けたんだよ。
「そう来たか…。俺は前のお前との約束を守っただけなんだがな」
 ジョミーを頼む、と言われちまったらやるしかないさ。鯨だろうが箱舟だろうが、とにかく俺が運ぶしかない。何がなんでも地球に着くまで、約束の場所に辿り着くまでな。
「ほら、ハーレイだって英雄じゃないって言ってるし!」
 ぼくのことばかりを言えやしないよ、偉くないって言いたがるのは。
「しかし実際、そうだったわけで…」
 俺は偉いと思っていないし、がむしゃらに進んでいたってだけで…。
 俺もお前も、思った以上に偉い人間にされちまったってトコか、死んでる間に。
「うん、多分…」
「仕方ないなあ、死んでる間に起こっちまったことは今更どうしようもないからな」
 まあいいじゃないか、お互い、偉さの自覚が全く無いってことで。
 そんな俺たちには、約束の場所がどうこう言うより、オリーブ油でパンが似合いだってな。
 鳩が咥えて来るオリーブの葉より、オリーブ油なんだ。
「そうかもね」
 大袈裟な約束の場所なんかよりも、小さな幸せ。地球のオリーブ油でぼくは充分幸せ。



 死の星だった地球が青い水の星に戻ったからこそ、オリーブ油。
 地球の大地で育ったオリーブが実をつけ、オリーブ油が搾られて瓶に詰められる。パンにつけて食べられるオリーブ油が。小さなブルーの幼い舌には、さほど美味しくない味だけれど。
「なあ、ブルー。今の地球だと、他にも油は山ほどあるぞ」
 菜種の油はもちろんあるし、紅花に、胡麻に…。
 ハーレイが幾つも挙げたけれども、今の時代は無いというのが鯨の油。遠い昔には油を採ろうと人間は鯨を追っていたのに、捕鯨船まであったのに。
 今は鯨は姿を眺めて楽しむもの。ホエール・ウオッチングが高い人気を誇る生き物。
「いい時代だね。鯨にとっては」
 人間が捕まえにやって来る代わりに、船でのんびり姿を眺めに来るなんて。
「うむ、追われる時代は終わったってな。鯨も白いシャングリラもな」
 すっかり平和な時代ってヤツだ、ミュウも鯨も追われやしない。
 地球だって昔の青い姿に戻って、俺たちの他にも大勢が暮らしているんだからな。



 そうして地球にはオリーブの木。
 遠い昔にシャングリラにもあった、約束の場所を夢見ていた木。鳩が葉を咥えて戻って来る木。
 今の地球には、オリーブの木が一面に茂った海のような畑もあるというから。
「いつか見たいね、海みたいに一面のオリーブ畑」
「そうだな、二人で行ってみるかな」
 オリーブの葉を鳩が咥えて戻った伝説の山っていうヤツに。
 その山があったって場所も悪くはないだろ、地形はすっかり変わっちまったみたいだが…。
 ノアの箱舟が辿り着いた山の跡だってことで、観光地になっているらしいしな。
 一面のオリーブ畑も見られるそうだぞ、あの辺りはオリーブで有名なんだ。
「じゃあ、行こうよ!」
 アララト山だよね、山じゃなくても行ってみたいよ。
 鳩がオリーブの葉を咥えて来た場所、きっと素敵な場所だろうから。



 ハーレイと二人、生まれ変わって来た青い地球。
 いつか行こうと二人で夢見て、叶わずに終わった青い星。
 其処に二人で生まれたからには、箱舟の地へも旅してみよう。
 ノアの箱舟に戻った鳩が咥えていたというオリーブの葉の緑、その葉が一面に茂った場所へ。
 ハーレイと其処へ出掛ける頃には、ブルーも大きく育っているから。
 オリーブ油で食べるパンが美味しいと思える、大人の舌になっているだろうから。
 箱舟の伝説が残っている地で、オリーブ油をつけてパンを食べよう。
 その辺りのものが一番美味しいと名高いらしいオリーブ油。
 地球の太陽を浴びて育ったオリーブの実から採れた油を、ハーレイと二人で味わいながら…。




            約束のオリーブ・了

※シャングリラでも育てられていた、オリーブの木。ノアの箱舟と、ミュウの箱舟とを繋げて。
 その頃には無かった約束の地が、青い地球。生まれ変わって来られた今は、とても幸せ。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv











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