シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
転んだ時には
(あっ…!)
嘘、とブルーが崩したバランス。学校からの帰り、バス停から家まで歩く途中で。
不意に、もつれてしまった足。自分で自分の足を引っ掛けたか、それとも歩幅が狂ったものか。止める暇も無くて、気付けば転んでいた道路。それは見事に、ペシャンと、ドサリと。
(転んじゃった…)
自分の目と同じ高さに道路。向こうの方へと伸びているのが良く分かる。両脇に並ぶ家だって。大慌てで手をついて起き上がったけれど、立ち上がって膝の埃を払ったけれど。
(こんな所で…)
転ぶなんて、と文字通り顔から火が出そう。多分、真っ赤に染まっている顔。もしかしたら耳の先っぽまで。誰が見たって「何か失敗したんだな」と分かるくらいに。
余所見しながら歩いたせい。生垣の向こうに見えている庭、何があるのかとキョロキョロして。花壇の花やら、駆け回っているペットたち。そういったものを探していて。
お蔭で転んで、しかも道路には何も無い。足を引っ掛けそうな段差も、石ころだって。
道路に何か落ちていたなら、それのせいだと言えるのに。自分のせいでも、知らないふり。
けれど出来ない、その言い訳。道路には何も無いのだから。
(…転んだの、誰も見ていないよね?)
少し鼓動が落ち着いて来たら、気になったものは目撃者。何処かの庭で見ていた人とか、窓から偶然、見た人だとか。
(…誰もいない筈…)
庭にも窓にも見えない人影。サッと引っ込んだりもしなかったから、きっと目撃者はいない。
転んだ所を見られなくて良かった、と平気なふりで家へと歩き始めたけれど。転ぶ前と同じに、庭や生垣を眺めながらの道なのだけれど。
いつもより少し速くなる足。
現場から早く離れたくて。とても恥ずかしい思いをした場所、其処を急いで立ち去りたくて。
家に帰り着いて、制服を脱いで、おやつを食べにダイニングに行っても、まだ頭から離れない。道路で転んでしまったこと。何も無いのに、ペッシャンと。
(格好悪い…)
あれじゃ子供、と消えてくれない恥ずかしさ。学校の制服を着ていただけに、なお恥ずかしい。下の学校の子供だったら、制服は着ていないから。制服だけで、今の学校だと分かるから。
(…下の学校なら、まだマシなのに…)
あそこで同じに転んでいたって、自分よりは子供。誰が見たって、下の学校に通っている子。
ところが自分は、そうはいかない。制服が「下の学校の子じゃないですよ」と知らせるから。
(転ぶなんて、ホントにカッコ悪すぎ…)
幸い怪我はしなかったから、母にはなんとかバレずに済んだ。制服のズボンが守ってくれた膝。ついてしまった手も、擦り剥いたりはしなかった。
転んだはずみに怪我をしていたら、必要になるのが薬箱。コッソリ手当てをしようとしたって、母に見付かって訊かれてしまう。「どうしたの?」と。
(雨の日だったら、まだマシなのに…)
制服は濡れて汚れるけれども、「滑った」と言い訳出来るから。
本当は余所見で転んでいたって、雨の日の道路は滑りやすいもの。母はもちろん、誰かが現場を目撃したって、「滑ったんだな」と思ってくれる。
何も無いのに、転んだなどとは気付かずに。「可哀相に」と同情しても貰える筈。
(でも、誰も見ていなかったんだし…)
制服も汚れはしなかったのだし、もうバレない。帰り道で転んでいたことは。母にも、ご近所の人たちにも。
目撃者はゼロで、薬箱のお世話にもならなかったから。
(良かったよね…)
転んでたのがバレなくて、と戻った二階の自分の部屋。おやつを美味しく食べ終えた後で。
何も無い所で転ぶだなんて、もう本当に子供のよう。それも自分より遥かに小さい、下の学校にさえ行っていない子。幼稚園児とか、もっと幼い子とか。
(小さい頃ならいいんだけれど…)
道で見事に転んでいたって、大勢の人が現場を目撃していたとしたって。
幼かった頃なら、よく転んでは泣いていた。家の庭でも、さっきのような道路でも。母と一緒に遊びに出掛けた公園でだって。
今よりもずっと小さな身体は、バランスを取るのが下手くそなもの。何かのはずみに、コロンと転がる道路や芝生。そうなったらもう、それだけでビックリするのが子供。
おまけに痛いし、ただワンワンと泣くしかない。ほんのちょっぴり、膝が赤くなっただけの怪我でも。血が滲むだけで、流れ出してはいなくても。
転んでしまって、立ち上がれもしないで、その場で「痛いよ」と泣きじゃくっていたら…。
(いろんな人が…)
小さかった自分を助けてくれた。母の他にも、通り掛かった人たちが。
「大丈夫?」とキャンディーをくれた人だって。「痛いのが消えるお薬をどうぞ」と。
擦り剥いてしまった膝や、赤くなった手。怪我をしていた所には…。
(子供絆創膏…)
可愛い絵が描かれた、子供の目には素敵な絆創膏。それをバッグやポケットから出して、傷口に貼ってくれた人もいた。「ちょっとしみるけど…」と消毒用の布とかで埃を拭ってくれた後で。
ああいう用意をしていた人たち、自分の子供用でなければ、お孫さん用だったのだろう。小さな子供が転んだ時には、直ぐに必要なものだから。
(ママだって、持っていたんだけど…)
不思議なことに、知らない誰かが手当てしてくれたら、遥かに良く効くような気がした。魔法をかけて貰えたようで。
「痛いのが消えるお薬だから」と、貰ったキャンディーだって、そう。
同じキャンディーを母に貰うより、ずっと素敵で良く効く薬。子供絆創膏の絵だって、頼もしく思えて嬉しかった。まだズキズキと痛んでいても、涙がポロポロ零れていても。
魔法みたい、と子供心に思ったこと。貰ったキャンディーや、貼って貰った子供絆創膏。
きっと心が弾んでいたから、効くように思ったのだろう。知らない人たちが「大丈夫?」と心配してくれて、優しく慰めてくれたから。…泣きじゃくっているだけのチビの子供を。
(今のぼくが道で転んでいたって…)
キャンディーなんかは貰えない。可愛らしい子供絆創膏も。
今の学校の制服を着ているような大きな子供は、どちらも貰えはしなくって…。
(大丈夫かい、って…)
生垣越しに顔を出すだろう、現場を見ていたご近所の御主人。
後はせいぜい、薬箱くらい。「傷の手当てをして行かないと」と家に入れて貰って、擦り剥いた膝や手とかの手当て。傷薬と普通の絆創膏で。
(運が良かったら…)
おやつも出るかもしれないけれど。「食べて行くかい?」と、奥さんの自慢のケーキとか。
それもいいよね、と想像を繰り広げていた、転んだ後の自分の姿。キャンディーや子供絆創膏の代わりに、薬箱と、運が良ければおやつ。
ちょっぴり素敵な光景だけれど、そういう夢を描いてしまうのだから…。
(ぼくって、子供…)
転んだのが恥ずかしくて逃げ出したけれど、かまって欲しくもあるらしい。
幼かった頃はそうだったように、もしも誰かが見ていたならば。自分を心配してくれたなら。
(顔は恥ずかしくて真っ赤でも…)
薬箱を断って帰りはしないで、きっと入ってしまうだろう家。御主人の後ろにくっついて。
傷薬と普通の絆創膏でも、傷の手当てをして貰えたら、とても嬉しい。その後でおやつを出して貰ったなら、すっかり御機嫌。
(美味しいね、ってニコニコ笑って…)
自分が転んだことも忘れて、御主人や奥さんと話していそう。ペットを飼っている家だったら、一緒に遊んだりもして。
そうなりそう、と思った今の自分が転んだ後。もう幼いとは言えないけれども、中身はそっくりそのまま子供。キャンディーがおやつに、子供絆創膏が普通の絆創膏に変わるだけ。期待している掛けられる声、「大丈夫かい?」と。
転んだことは、とても恥ずかしいのに。幼かった頃の自分みたいに、泣きじゃくったりはしない筈なのに。
(小さい頃から変わってないよ…)
大きくなったのは身体だけ。中身は幼かった頃と同じで、転んだらかまって欲しがる子供。薬箱から出て来るだろう絆創膏と傷薬。それで満足、おやつがあったら、もっと嬉しい大きな子供。
こんな調子だから、ハーレイに「チビ」と言われるのだろう。
キスだって駄目で子供扱い、「前のお前と同じ背丈に育つまでは」とお預けのキス。
そうなるのも仕方ないのかも、と自分の姿を顧みてみる。今もやっぱり、転んだ時にはかまって欲しい子供らしいから。
(うーん…)
転んだ現場に居合わせたのがハーレイだったら、どうなるのだろう?
もしも二人で、あそこを並んで歩いていたら。ハーレイの目の前で、道路に転んでしまったら。
(逃げようだなんて、思わなくって…)
急いで立ち上がって逃げる代わりに、助け起こして貰えることを期待していそう。
「大丈夫か?」と差し出される手。とても大きな褐色の手が、こちらに伸ばされることを。その手でしっかり抱え起こして、「怪我してないか?」と訊かれることを。
ハーレイがそう尋ねてくれたら、自分はきっと…。
(痛くないのに、痛いって騒いで…)
抱き上げて運んで貰おうとするか、背中に背負って欲しがるか。
足が痛くて歩けないから、「家まで連れて帰って」と。
逞しい腕と頑丈な身体を持った恋人、好きでたまらないハーレイに世話をして欲しくて。
困った顔をするだろうけれど、断ったりはしない筈の恋人。「自分で歩け」と突き放すことは、きっとハーレイはしないから…。
(抱っこか、おんぶで家まで運んで貰って…)
帰り着いたら、傷の手当てをせがむのだろう。ハーレイが「見せてみろ」と言わなくても。傷の手当てをしなければ、と薬箱を持って来てくれるように、母に頼みに行かなくても。
(ちょっぴり赤くなってるだけでも…)
擦り剥いてはいなくて打ち身だけでも、「うんと痛い」と騒ぎそうな自分。
ハーレイに甘えてみたいから。傷薬も絆創膏も要らない傷でも、優しく手当てして欲しいから。
(そんなの、出来っこないんだけどね…)
二人で外を歩きはしないし、もしも散歩に出掛けたとしても、帰ったら家には母がいる筈。休日だったら父だっているし、二人とも直ぐに気付いてしまう。
(門扉のトコで、ハーレイ、チャイムを鳴らすだろうし…)
歩けない自分を抱いているとか、背負っているなら、門扉を開けてくれる人が必要。怪我をした自分は開けられないから、母か父。それを呼ぼうと鳴らされるチャイム。
父と母と、どちらが出て来たにしても、一人息子はハーレイに運ばれて帰宅。抱っこか、背中に背負われているか、足が痛いのは一目瞭然。
怪我となったら、母が手当てをするだろう。ハーレイに任せておきはしないで。
その母が「大変!」と薬箱を持って来たならば…。
(叱られちゃうよ…)
痛いと訴えている足を調べて、「怪我なんかしていないでしょ」と。
少し擦り剥いていたとしたって、「自分の足で歩ける筈よ」と、ペタリと貼られる絆創膏。
ちゃんと自分の足で歩けるのに、ハーレイに迷惑をかけたこと。それを叱って、お仕置きに…。
(絆創膏を貼った上から、ポンって…)
軽く叩くのだろう母。「このくらい、我慢しなさい」と。
幼い子供だったらともかく、十四歳になっている子供。「甘えん坊って年じゃないわ」と、母に叱られて、ハーレイに謝るように言われる。「我儘を言ってごめんなさい」と。
そんな感じ、と思うけれども、出来るわけがない夢のような話。
ハーレイと並んで外を歩いて、助け起こして貰うこと。今は二人で出掛けはしないし、転ぶことさえ出来ないから。ハーレイの前で道路にペシャンと転ぶことなど、不可能だから。
(ぼくが大きくなってからだと…)
一緒に歩くことは出来るけれども、転んだら今より恥ずかしい。
前の自分と同じ背丈に育っているなら、何処から見たって立派な大人。十八歳でも、子供だとは言えない年頃の筈。そんなに大きく育った大人は、まず転ばない。
(…ホントに足でも滑らせないと…)
転ばないのが一人前の大人で、転んだとしてもサッと立ち上がるもの。転んだ拍子に足を捻って動けないとか、やむを得ない事情が無い限りは。
(でも…)
ハーレイは助けてくれるだろうか、もしも自分が転んだら。二人並んで歩く途中で、ペシャンと転んでしまったなら。
「お前、子供か?」と笑いながらでも。「転ぶような物は落ちてないぞ?」と呆れ顔でも、あの大きな手を差し出して。無様に道路に伸びた自分に、「ほら、掴まれ」と。
(ハーレイ、助けてくれるのかな…?)
どうなのだろう、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり問い掛けた。
「あのね、ハーレイ…。ぼくが転んだら、助けてくれる?」
「はあ?」
転ぶって…。何処で転ぶと言うんだ、体育の時間のグラウンドか?
でなきゃ廊下か、校舎の中とか、渡り廊下とか。…そういう所で、転んだお前を助けろと?
他にも誰かいそうだがな、とハーレイは怪訝そうな顔。「体育の時間なら、先生がいるし…」と首を捻って、「廊下にも友達、誰かいないか?」と。
「俺が助けに行くよりも前に、そっちを頼るべきだと思うが」という意見。「断然、早い」と。
「学校だったら、そうなんだけど…」
ぼくもハーレイが助けに来てくれるまで、待っていたりはしないけど…。
そうじゃなくって、ぼくが転ぶのは…。
「えっとね…」と、今日の帰りに転んだことを打ち明けた。恥ずかしかったことも話して、幼い頃の思い出も。キャンディーに、子供絆創膏。
「今のぼくなら、薬箱が出て来るんだろうけど…。今日みたいに道で転んでたらね」
家で手当てをして行きなさい、って家の中に入れて貰えると思う。もしも誰かが見ていたら。
怪我の手当てが済んだ後には、運が良ければ、おやつも出そう。
そんなことまで考えちゃうぼくは、まだまだ子供なんだけど…。ハーレイが言う通りに、本当にチビ。まだハーレイと一緒に歩けもしないけど…。
いつかデートに出掛けた時にね、ぼくが転んでいたらどうする…?
転んじゃったら助けてくれる、と見詰めた恋人の鳶色の瞳。「ぼくを助けてくれるの?」と。
「そりゃまあ、なあ…?」
助けないわけがないだろう。俺の大事な恋人なんだし、もう嫁さんかもしれないな。
転んだままで放っておきはしないし、俺は大急ぎで助け起こすが…?
「ホント?」
ハーレイ、ちゃんと助けてくれるの、転んでいたら…?
「自分で起きろよ」って言ったりしないで、ぼくを助けて立たせてくれるの…?
「もちろんだ。前も助けてやったじゃないか」
お前が転んじまった時には、きちんとな。お前を放って行ったりはせずに。
「え…?」
転んだって…。それに助けたって、それ、いつの話…?
知らないよ、と驚いて目を丸くした。ハーレイの前で転んだことは無い筈だから。倒れたことはあったけれども、転ぶのとはまるで違うから。
「忘れちまったか?」
覚えてないのか、一番最初に転んでた時は、お前、今と同じでチビだったぞ。
今のお前とそっくり同じに、痩せっぽちでチビの子供だったが…?
「チビ…?」
それって、前のぼくのこと…?
前のぼく、何処かで転んでいたかな、ハーレイと一緒にいた時に…?
何処だったろう、と考えてみても分からない。チビだったのなら、アルタミラから脱出した頃。
船の通路で転んでいたのか、前のハーレイがいた厨房の床か。
(…厨房の床なら、いつもピカピカ…)
食料を扱う場所だから、と毎日、磨き上げられた床。夕食の後の掃除はもちろん、他の時間にも手が空いた時は、誰かがせっせと磨いていた。野菜くずなどで汚れないように、と。
あそこだったら、滑って転んだこともあるかも、と厨房の床を思い浮かべていたら…。
「お前、アルタミラで転んでいただろうが」
俺と出会って直ぐの頃だな、最初はポカンと一人で座り込んでたが…。
あれは転んだとは言わないだろうし、助け起こした内には入らん。俺が立たせてやったがな。
その後だ、後。
俺と一緒に走ったろうが、というハーレイの言葉で蘇った記憶。
「あっ…!」
思い出したよ、前のハーレイと一緒に走ってたんだっけ…。何度も転んじゃったけど。
他の仲間たちが閉じ込められたシェルター、全部、開けなきゃ駄目だったから。
でないと、みんな死んじゃうもんね、と手繰った前の自分の記憶。ハーレイと走った炎の地獄。
メギドの炎で滅びようとしていたアルタミラ。
空まで真っ赤に染め上げた炎、激しい地震で揺れ動く地面。その上を二人で走っていた。仲間を助け出すために。…幾つものシェルターに閉じ込められて、死を待つだけのミュウの仲間を。
二人で開けて回ったシェルター。鍵を開けたり、扉が歪んで開かない時には壊したりして。
そうやってあちこち走る間に、瓦礫に足を取られて転んだ。
(何処へ行っても、瓦礫だらけで…)
道と呼べそうな場所は殆ど無かった、あの星の上。
辛うじて道路が残っていたって、地震で入った無数の亀裂。段差だらけで、波打った路面。
そんな所を走ったのだから、転ばない方がどうかしている。歩幅が大きいハーレイはともかく、チビだった前の自分の方は。
瓦礫をヒョイと跨げはしなくて、段差も楽に越えては行けない。跨いだつもりでも、引っ掛かる足。越えたつもりでも、越えられなかった段差。
いったい何度転んだことか、と蘇って来たアルタミラの記憶。炎の海を走っていた時。
ドサリと地面に投げ出される度、ハーレイが助け起こしてくれた。「大丈夫か?」と、手を差し出して。がっしりとしていた大きな手。
(あの頃のハーレイは、今より若かったんだけど…)
とうに大人になっていたから、手の大きさは今と変わらない。自分の方も今と同じにチビ。心も身体も成長を止めて、十四歳の頃のままだったから。
(手の大きさ、今と同じなんだよ)
アルタミラで初めて出会った時の、ハーレイの手も、自分の手も。
今の自分の小さな右手を、よく温めてくれるハーレイ。前の生の最後にメギドで凍えた、悲しい記憶を秘めた右手を。そっと、温もりを移すために。
その度に思う、ハーレイの手の温かさと、それに逞しさ。とても頼もしくて、大きな手。
(あれと同じ手だったっけ…)
前の自分が助けて貰った、ハーレイの手も。
アルタミラで何度も転んだけれども、その度に自分を起こしてくれた手。瓦礫に覆われた地面の高さが、目の高さと同じになる度に。転んで地面に身体ごと叩き付けられる度に。
ハーレイはチビだった前の自分を、何度も助け起こしてくれた。手を差し出したり、逞しい腕でグイと抱えて抱き起こしたり。
助けられる度に、訊かれたこと。まだ走れるかと、痛くないかと。
燃える地面は、多分、熱かったから。大気までが炎に炙られて燃えて、息をするのも苦しかった筈。他の仲間を助けるのに夢中で、意識してなどいなかったけれど。
だから、前のハーレイは尋ねてくれたのだろう。前の自分が転んでしまって、助け起こす度に。
走る力は残っているかと、何処か怪我して痛くはないか、と。
(前のぼく、ハーレイに「大丈夫」って…)
そう答えては、二人で走り続けた。燃える星の上を、揺れる地面を。
また転んでも、起こして貰って。
瓦礫に躓いて放り出されても、段差に足を取られても。
身体ごと地面に叩き付けられて、目に入るものは瓦礫や波打つ道路だけになってしまっても。
何度も見えなくなった空。転べば、空は見えないから。忌まわしい炎の色の空さえ。
行く手の景色も消えてしまって、見えるものは地表を覆う物だけ。瓦礫と、それを舐める炎と、深い亀裂や幾つもの段差。
たったそれだけ、他には何も見えたりはしない。目の高さが地面と同じになったら、滅びてゆく星の地面に叩き付けられたなら。
(転んじゃったら、本当に地獄…)
その上を走っている時よりもずっと、無残に見えたアルタミラ。瓦礫と炎と滅びゆく地面、その他には何も無いのだから。空も行く手も、目に入っては来ないのだから。
なんて酷い、と思った景色。この星はもう終わりなのだと、滅びるのだと思い知らされた地面。
それが視界を覆い尽くす度に、転んだのだと嫌でも分かった。
ドサリと地面に突っ伏した自分、見えなくなった目指していた場所。その上にあるだろう空も。
(起きなくちゃ、って…)
早く立ち上がって行かなければ、と思った、仲間たちが閉じ込められたシェルター。
こうして自分が転んでいる間も、星は滅びに向かっているから。絶え間ない地震でシェルターが壊れて、仲間たちの命が奪われるから。
立たなければ、と自分に命じた。「転んでいる暇は無いんだから」と。起きて、立ち上がれと。
けれど、そうして立ち上がる前に…。
(ぼくが自分で起き上がる前に…)
ハーレイの手が目の前にあった。前のハーレイの大きな手が。
自分よりも前を、先を走っていた筈なのに、「ほら」と「掴まれ」と。
いつの間に気付いて戻って来たのか、必ずあったハーレイの手。
前の自分が、地面に叩き付けられる度に。転んでしまって、視界が地獄に覆われる度に。
(ハーレイの手に掴まって、引っ張り起こして貰って…)
またハーレイと走り続けた。
時には、抱え起こされて。「大丈夫か?」と、「痛くないか」と尋ねて貰って。
あそこだった、と鮮やかに戻って来た記憶。
前のハーレイと二人で走って、何度も転んだアルタミラ。炎の地獄で、足を取られて。
「…ハーレイ、起こしてくれていたんだ…」
ぼくがアルタミラで転んじゃったら、戻って来て。…ぼくよりも前を走ってたのに。
何度転んでも、いつもハーレイが助け起こしてくれたよ。
ぼくが自分で立ち上がる前に、ちゃんとハーレイの手があったから…。
「思い出したか?」
前のお前とは、会った時から、不思議なほどに息が合ったモンだから…。
お前が転んだら分かるんだよなあ、俺の背中に目玉はついていなかったんだが。
何か変だぞ、と振り返る度に、お前が転んじまってた。俺の後ろで、地面に叩き付けられて。
その度に走って戻っていたんだ、とても放っておけないからな。
いくらサイオンが強いと言っても、お前、身体はチビなんだから。…それに中身も。
転んだお前を助けていたのは、あれが最初のヤツでだな…。
お前がデカくなった後にも…。
やっぱりお前は転んじまっていたんだが、と指摘された。
もう痩せっぽちのチビではなくて、ソルジャーと呼ばれ始めてからも。キャプテンになっていた前のハーレイを従えての視察の途中で、それは見事に。
「ソルジャーの威厳も何も、あったもんではなかったってな」と笑うハーレイ。
転ぶ度にマントの下敷きだったと、「ソルジャーのマント包みだ」と。
「パイ皮包みなら料理なんだが、マント包みは料理じゃないな」などと、可笑しそうに。
通路で転んだソルジャーの身体は、頭と足の先っぽ以外は、マントにすっぽり包まれていたと。
ハーレイ曰く、「ソルジャーのマント包み」なるもの。
背中に翻っている筈のマントに包まれ、シャングリラの通路に転がるソルジャー。紫のマントが広がる下には、前の自分の身体が入っていたわけで…。
(そうだっけ…!)
ソルジャーのぼくでも転んだんだよ、と「マント包み」で戻った記憶。
今のハーレイが言う「ソルジャーのマント包み」となったら、まるで料理のようだけど。何かのパイ皮包みみたいに、前の自分がお皿に載っていそうだけれど。
(…ハーレイ、今も料理が得意だから…)
そんなのを思い付くんだよね、と思う「ソルジャーのマント包み」。前の自分がシャングリラの通路で転んだ時には、マント包みが出来ていた。頭と足の先っぽ以外は、全部マントの下敷きで。
(ソルジャーのマント包みって…)
それが通路で出来た理由は今日と同じで、原因は余所見。
ハーレイと視察に行くと言っても、目的地が遠い時もある。其処に着くまでに通る通路で、ふと目を引いた色々なもの。「あれは何だろう?」といった具合に、逸れていった視線。
行く手を真っ直ぐ見詰める代わりに、あらぬ方へと向けられた瞳。
そういった時に、崩したバランス。歩幅が僅かに狂ったはずみや、不意にもつれてしまった足。
(余所見してたら、やっちゃうんだよ…)
今の自分よりも大きく育った、ソルジャー・ブルーだった自分でも。
白と銀の上着に紫のマント、そういう洒落た衣装に身体を包んでいても。
(前のぼくなら、転んじゃっても…)
本当はサイオンで支えられた身体。
通路に無様に倒れ込む前に、紫のマントの下敷きになって「マント包み」が出来上がる前に。
それは確かに出来たのだけれど、ハーレイの手が欲しかった。
「大丈夫ですか?」と差し出される手。
転んでしまった前の自分を、しっかりと助け起こしてくれる手。
だから使わなかったサイオン。
このままだったら、転んでしまうと分かっていても。
シャングリラの通路と目の高さとが、じきに同じになってしまうと気が付いていても。
「マント包み、忘れちゃいないだろうな?」と、鳶色の瞳が見据えるから。
「前のお前の得意技でだ、俺は何度も見ていたんだが…?」とも言われたから。
「…覚えてるってば、マント包み…」
そういう名前はついてなくって、ぼくが転んでただけなんだけど…。
マントの下敷きになってしまって、頭と足の先っぽだけしか出てなかったことは本当だけど。
でも、ソルジャーのマント包みだなんて…。
前のぼく、お料理みたいじゃない、と唇を少し尖らせた。「それ、酷くない?」と。
「酷いってことなら、どっちなんだか…。俺か、お前か」
チビのお前の方じゃなくって、マント包みになってた方の、前のお前が問題だってな。
お前、いつでも転んでマント包みになっては、前の俺に助け起こさせるんだ。
周りに誰かいた時だったら、絶対、転びはしなかったがな。
転んじまう前にサイオンでヒョイと支えて、気付かせさえもしなかった。…転びかけたことを。
しかし、俺しかいない時には、マント包みになっちまう。
「起こしてくれ」と言わんばかりに、ものの見事に転んじまって。
酷いというのはアレのことだろ、お前、本当は転ばずにいられたんだから。
俺の他にも誰かいればな…、と軽く睨んで来るハーレイの瞳。「お前も充分、酷いだろう」と。
「だって、それ…。恥ずかしいじゃない!」
仲間たちの前で転ぶだなんて、恥ずかしすぎるよ。…前のぼく、子供じゃないんだから。
今のぼくでも、今日の帰りに転んだ時には、とても恥ずかしかったんだから…!
ソルジャーだった時に転ぶなんて、と反論した。他の仲間が見ている前では、転べない。
「…俺の前ならいいと言うのか?」
転んじまおうが、マント包みになっちまおうが。
今の俺が思い出してみたって、あの格好は無様だとしか思えないんだが…。
「ソルジャーのマント包み」と呼んだら美味そうなんだが、そいつをプラスして考えたって。
マントの中身は前のお前で、前の俺には御馳走だったが、それでもなあ…。
ソルジャーだった方のお前は、俺の御馳走ではないんだから。
恋人同士だったことさえ秘密だ、とハーレイが眉間に寄せている皺。
「そのソルジャーがマント包みになっていたって、前の俺は食えやしなかった」と。
「いいか、よくよく考えてみろよ? …前のお前と、俺とのこと」
俺たちの仲は秘密だったし、ソルジャーのお前の前に立ったら、俺はあくまでキャプテンだ。
いくらお前に恋していたって、それを顔には出せないってな。
なのに遠慮なくマント包みになっていたのが、前のお前というわけで…。
俺に助けろと言っていたんだ、声や思念にもしないでな。…黙ってマント包みになって。
自分じゃ決して起きないと来た、とハーレイは苦情を言うのだけれど。
「だって、ハーレイが側にいたんだよ?」
前のハーレイは、ぼくの特別。恋人同士になる前からでも、ずっと特別。
起こして欲しくもなるじゃない。他の仲間がいないんだったら、転んでしまって。
ぼくが転んだままでいたなら、ハーレイ、助けてくれるんだから。
いつも起こしてくれていたでしょ、と微笑んだ。「ソルジャーのぼくが転んだ時も」と。
「特別なあ…。分かっちゃいたがな、そうだってことは」
前のお前がマント包みになっちまうのは、俺の前だけで、俺に甘えてただけなんだ、と。
今から思えば、子供みたいな我儘なんだが…。
俺に助け起こして貰うためだけに、転んじまってマント包みだなんて。
前のお前は、充分に大人だったんだが…、とハーレイがフウとついた溜息。
「チビのお前と変わらないな」と、「転んだら助けてくれるのか、と訊くお前とな」と。
「…そっか、前のぼくでもおんなじ…」
ハーレイに助けて欲しくて転んで、起こしてくれるの、待っていたっけ…。
前のぼく、マント包みになってた頃には、チビの子供じゃなかったのに。
ちゃんと育ったソルジャーのぼくで、マントまで着けていたのにね…。
それでもマント包みなんだ、と今の自分と重ねてみた。前の自分でもその有様なら、今の自分が転んだ後の夢を描くのも仕方ない。薬箱はともかく、おやつを御馳走になれたらいいな、と。
「前のお前も、俺の前ではデカい子供だ。…ソルジャーでもな」
俺は面倒の見甲斐があったが、他のヤツらには、マント包みは見せられん。
無様なソルジャーの姿もそうだし、俺に甘えてた姿もな。
だから今度も安心して転べ、と言って貰えた。「ちゃんと面倒見てやるから」と。
「お前、もうサイオンでは支えられないしな、転びそうになっても」
不器用すぎて出来やしないだろ、そんな芸当。…今のお前のサイオンでは無理だ。
つまり、何処ででも転ぶしかないが…。
転んじまう時には、街でデートの真っ最中でも、お前は転んじまうんだが。
とはいえ、転んでも、俺がいるんだし…。何も心配要らないってな。
マントが無いから、マント包みは出来ないんだが…、と今度も助けてくれるらしいハーレイ。
けれど、街でデートの真っ最中だと、周りを歩いていそうな人たち。
幼かった頃ならいいのだけれども、前の自分とそっくり同じに育った自分が転ぶとなると…。
「ハーレイ、助け起こしてくれるのは、とても嬉しいんだけど…」
街でデートの最中だなんて、そんな時には転びたくないよ…!
きっと周りには人が一杯だし、転んじゃったら恥ずかしいじゃない…!
今日のぼくでも恥ずかしかった、と言ったのに。目撃者がいなくてホッとしたのが自分なのに。
「なあに、恥ずかしがることは無いってな。もっと真っ赤な顔にしてやるから」
大勢の人が見ている前でだ、お姫様抱っこで歩いてやる。俺の腕でヒョイと抱き上げて。
お前、転んだら足が痛くて、とても歩けやしないだろうが。
「抱っこって…。それって、街の真ん中なんでしょ?」
自分で歩くよ、抱っこなんかをしてくれなくても!
抱っこはやめて、と慌てたけれども、ハーレイは涼しい顔で続けた。
「転んだ時には助けてくれるか、と言っただろ、お前?」
助けてやるって言っているんだ、遠慮しないで任せておけ。お前に「歩け」とは言わないから。
「恥ずかしいってば、街の中では…!」
転ぶよりもずっと恥ずかしいじゃない、抱っこされて歩いているなんて…!
「恋人同士でデートなんだぞ、いいじゃないか。俺もお前を、周りに見せびらかせるしな」
こんな美人が俺のものだ、と自慢しながら歩くんだ。
前の俺だと、そいつは出来なかったしな…。
シャングリラの中でも最高の美人を自慢したくても、ソルジャーとキャプテンだったから。
お前とデートに出掛けられる日が楽しみだな、とハーレイがパチンと瞑った片目。
「ソルジャーのマント包みは無理だが、派手に転べよ」と。
どうやら自分が転んだ時には、抱っこが待っているらしい。ハーレイの逞しい腕で、軽々と抱き上げられて。…二人並んで歩く代わりに、お姫様抱っこでデートの続き。
(なんだか、とっても恥ずかしいけど…)
そういうデートは、今だからこそ出来ること。前の自分たちには出来なかったこと。
マント包みになるのがせいぜい、そういう二人だったから…。
今のハーレイにお姫様抱っこで歩いて貰って、恥ずかしくても、心ではきっと誇らしい。
耳まで赤くなっていたって、幸せだから。
ハーレイに大切にして貰えるのが、嬉しくてたまらないだろうから。
(街の真ん中で、派手に転んじゃっても…)
幸せだろう、未来の自分。前の自分と同じ姿に育った、今よりもずっと大きな自分。
幼い子供でもないというのに、ハーレイの腕に抱かれて運ばれながら。
「恥ずかしいから下ろしてよ!」と言っていたって、きっと幸せに違いない。
もしもハーレイが「そうか?」と素直に下ろしてくれたら、「酷い!」と怒りそうだから。
せっかくの抱っこが逃げてしまったら、「下ろすなんて!」と怒るだろうから…。
転んだ時には・了
※転んだ時にはハーレイに助けて欲しい、と思ったブルー。前の生でも同じだったのです。
本当はサイオンで支えられるのに、ハーレイしかいない時には、ソルジャーのマント包みに。
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嘘、とブルーが崩したバランス。学校からの帰り、バス停から家まで歩く途中で。
不意に、もつれてしまった足。自分で自分の足を引っ掛けたか、それとも歩幅が狂ったものか。止める暇も無くて、気付けば転んでいた道路。それは見事に、ペシャンと、ドサリと。
(転んじゃった…)
自分の目と同じ高さに道路。向こうの方へと伸びているのが良く分かる。両脇に並ぶ家だって。大慌てで手をついて起き上がったけれど、立ち上がって膝の埃を払ったけれど。
(こんな所で…)
転ぶなんて、と文字通り顔から火が出そう。多分、真っ赤に染まっている顔。もしかしたら耳の先っぽまで。誰が見たって「何か失敗したんだな」と分かるくらいに。
余所見しながら歩いたせい。生垣の向こうに見えている庭、何があるのかとキョロキョロして。花壇の花やら、駆け回っているペットたち。そういったものを探していて。
お蔭で転んで、しかも道路には何も無い。足を引っ掛けそうな段差も、石ころだって。
道路に何か落ちていたなら、それのせいだと言えるのに。自分のせいでも、知らないふり。
けれど出来ない、その言い訳。道路には何も無いのだから。
(…転んだの、誰も見ていないよね?)
少し鼓動が落ち着いて来たら、気になったものは目撃者。何処かの庭で見ていた人とか、窓から偶然、見た人だとか。
(…誰もいない筈…)
庭にも窓にも見えない人影。サッと引っ込んだりもしなかったから、きっと目撃者はいない。
転んだ所を見られなくて良かった、と平気なふりで家へと歩き始めたけれど。転ぶ前と同じに、庭や生垣を眺めながらの道なのだけれど。
いつもより少し速くなる足。
現場から早く離れたくて。とても恥ずかしい思いをした場所、其処を急いで立ち去りたくて。
家に帰り着いて、制服を脱いで、おやつを食べにダイニングに行っても、まだ頭から離れない。道路で転んでしまったこと。何も無いのに、ペッシャンと。
(格好悪い…)
あれじゃ子供、と消えてくれない恥ずかしさ。学校の制服を着ていただけに、なお恥ずかしい。下の学校の子供だったら、制服は着ていないから。制服だけで、今の学校だと分かるから。
(…下の学校なら、まだマシなのに…)
あそこで同じに転んでいたって、自分よりは子供。誰が見たって、下の学校に通っている子。
ところが自分は、そうはいかない。制服が「下の学校の子じゃないですよ」と知らせるから。
(転ぶなんて、ホントにカッコ悪すぎ…)
幸い怪我はしなかったから、母にはなんとかバレずに済んだ。制服のズボンが守ってくれた膝。ついてしまった手も、擦り剥いたりはしなかった。
転んだはずみに怪我をしていたら、必要になるのが薬箱。コッソリ手当てをしようとしたって、母に見付かって訊かれてしまう。「どうしたの?」と。
(雨の日だったら、まだマシなのに…)
制服は濡れて汚れるけれども、「滑った」と言い訳出来るから。
本当は余所見で転んでいたって、雨の日の道路は滑りやすいもの。母はもちろん、誰かが現場を目撃したって、「滑ったんだな」と思ってくれる。
何も無いのに、転んだなどとは気付かずに。「可哀相に」と同情しても貰える筈。
(でも、誰も見ていなかったんだし…)
制服も汚れはしなかったのだし、もうバレない。帰り道で転んでいたことは。母にも、ご近所の人たちにも。
目撃者はゼロで、薬箱のお世話にもならなかったから。
(良かったよね…)
転んでたのがバレなくて、と戻った二階の自分の部屋。おやつを美味しく食べ終えた後で。
何も無い所で転ぶだなんて、もう本当に子供のよう。それも自分より遥かに小さい、下の学校にさえ行っていない子。幼稚園児とか、もっと幼い子とか。
(小さい頃ならいいんだけれど…)
道で見事に転んでいたって、大勢の人が現場を目撃していたとしたって。
幼かった頃なら、よく転んでは泣いていた。家の庭でも、さっきのような道路でも。母と一緒に遊びに出掛けた公園でだって。
今よりもずっと小さな身体は、バランスを取るのが下手くそなもの。何かのはずみに、コロンと転がる道路や芝生。そうなったらもう、それだけでビックリするのが子供。
おまけに痛いし、ただワンワンと泣くしかない。ほんのちょっぴり、膝が赤くなっただけの怪我でも。血が滲むだけで、流れ出してはいなくても。
転んでしまって、立ち上がれもしないで、その場で「痛いよ」と泣きじゃくっていたら…。
(いろんな人が…)
小さかった自分を助けてくれた。母の他にも、通り掛かった人たちが。
「大丈夫?」とキャンディーをくれた人だって。「痛いのが消えるお薬をどうぞ」と。
擦り剥いてしまった膝や、赤くなった手。怪我をしていた所には…。
(子供絆創膏…)
可愛い絵が描かれた、子供の目には素敵な絆創膏。それをバッグやポケットから出して、傷口に貼ってくれた人もいた。「ちょっとしみるけど…」と消毒用の布とかで埃を拭ってくれた後で。
ああいう用意をしていた人たち、自分の子供用でなければ、お孫さん用だったのだろう。小さな子供が転んだ時には、直ぐに必要なものだから。
(ママだって、持っていたんだけど…)
不思議なことに、知らない誰かが手当てしてくれたら、遥かに良く効くような気がした。魔法をかけて貰えたようで。
「痛いのが消えるお薬だから」と、貰ったキャンディーだって、そう。
同じキャンディーを母に貰うより、ずっと素敵で良く効く薬。子供絆創膏の絵だって、頼もしく思えて嬉しかった。まだズキズキと痛んでいても、涙がポロポロ零れていても。
魔法みたい、と子供心に思ったこと。貰ったキャンディーや、貼って貰った子供絆創膏。
きっと心が弾んでいたから、効くように思ったのだろう。知らない人たちが「大丈夫?」と心配してくれて、優しく慰めてくれたから。…泣きじゃくっているだけのチビの子供を。
(今のぼくが道で転んでいたって…)
キャンディーなんかは貰えない。可愛らしい子供絆創膏も。
今の学校の制服を着ているような大きな子供は、どちらも貰えはしなくって…。
(大丈夫かい、って…)
生垣越しに顔を出すだろう、現場を見ていたご近所の御主人。
後はせいぜい、薬箱くらい。「傷の手当てをして行かないと」と家に入れて貰って、擦り剥いた膝や手とかの手当て。傷薬と普通の絆創膏で。
(運が良かったら…)
おやつも出るかもしれないけれど。「食べて行くかい?」と、奥さんの自慢のケーキとか。
それもいいよね、と想像を繰り広げていた、転んだ後の自分の姿。キャンディーや子供絆創膏の代わりに、薬箱と、運が良ければおやつ。
ちょっぴり素敵な光景だけれど、そういう夢を描いてしまうのだから…。
(ぼくって、子供…)
転んだのが恥ずかしくて逃げ出したけれど、かまって欲しくもあるらしい。
幼かった頃はそうだったように、もしも誰かが見ていたならば。自分を心配してくれたなら。
(顔は恥ずかしくて真っ赤でも…)
薬箱を断って帰りはしないで、きっと入ってしまうだろう家。御主人の後ろにくっついて。
傷薬と普通の絆創膏でも、傷の手当てをして貰えたら、とても嬉しい。その後でおやつを出して貰ったなら、すっかり御機嫌。
(美味しいね、ってニコニコ笑って…)
自分が転んだことも忘れて、御主人や奥さんと話していそう。ペットを飼っている家だったら、一緒に遊んだりもして。
そうなりそう、と思った今の自分が転んだ後。もう幼いとは言えないけれども、中身はそっくりそのまま子供。キャンディーがおやつに、子供絆創膏が普通の絆創膏に変わるだけ。期待している掛けられる声、「大丈夫かい?」と。
転んだことは、とても恥ずかしいのに。幼かった頃の自分みたいに、泣きじゃくったりはしない筈なのに。
(小さい頃から変わってないよ…)
大きくなったのは身体だけ。中身は幼かった頃と同じで、転んだらかまって欲しがる子供。薬箱から出て来るだろう絆創膏と傷薬。それで満足、おやつがあったら、もっと嬉しい大きな子供。
こんな調子だから、ハーレイに「チビ」と言われるのだろう。
キスだって駄目で子供扱い、「前のお前と同じ背丈に育つまでは」とお預けのキス。
そうなるのも仕方ないのかも、と自分の姿を顧みてみる。今もやっぱり、転んだ時にはかまって欲しい子供らしいから。
(うーん…)
転んだ現場に居合わせたのがハーレイだったら、どうなるのだろう?
もしも二人で、あそこを並んで歩いていたら。ハーレイの目の前で、道路に転んでしまったら。
(逃げようだなんて、思わなくって…)
急いで立ち上がって逃げる代わりに、助け起こして貰えることを期待していそう。
「大丈夫か?」と差し出される手。とても大きな褐色の手が、こちらに伸ばされることを。その手でしっかり抱え起こして、「怪我してないか?」と訊かれることを。
ハーレイがそう尋ねてくれたら、自分はきっと…。
(痛くないのに、痛いって騒いで…)
抱き上げて運んで貰おうとするか、背中に背負って欲しがるか。
足が痛くて歩けないから、「家まで連れて帰って」と。
逞しい腕と頑丈な身体を持った恋人、好きでたまらないハーレイに世話をして欲しくて。
困った顔をするだろうけれど、断ったりはしない筈の恋人。「自分で歩け」と突き放すことは、きっとハーレイはしないから…。
(抱っこか、おんぶで家まで運んで貰って…)
帰り着いたら、傷の手当てをせがむのだろう。ハーレイが「見せてみろ」と言わなくても。傷の手当てをしなければ、と薬箱を持って来てくれるように、母に頼みに行かなくても。
(ちょっぴり赤くなってるだけでも…)
擦り剥いてはいなくて打ち身だけでも、「うんと痛い」と騒ぎそうな自分。
ハーレイに甘えてみたいから。傷薬も絆創膏も要らない傷でも、優しく手当てして欲しいから。
(そんなの、出来っこないんだけどね…)
二人で外を歩きはしないし、もしも散歩に出掛けたとしても、帰ったら家には母がいる筈。休日だったら父だっているし、二人とも直ぐに気付いてしまう。
(門扉のトコで、ハーレイ、チャイムを鳴らすだろうし…)
歩けない自分を抱いているとか、背負っているなら、門扉を開けてくれる人が必要。怪我をした自分は開けられないから、母か父。それを呼ぼうと鳴らされるチャイム。
父と母と、どちらが出て来たにしても、一人息子はハーレイに運ばれて帰宅。抱っこか、背中に背負われているか、足が痛いのは一目瞭然。
怪我となったら、母が手当てをするだろう。ハーレイに任せておきはしないで。
その母が「大変!」と薬箱を持って来たならば…。
(叱られちゃうよ…)
痛いと訴えている足を調べて、「怪我なんかしていないでしょ」と。
少し擦り剥いていたとしたって、「自分の足で歩ける筈よ」と、ペタリと貼られる絆創膏。
ちゃんと自分の足で歩けるのに、ハーレイに迷惑をかけたこと。それを叱って、お仕置きに…。
(絆創膏を貼った上から、ポンって…)
軽く叩くのだろう母。「このくらい、我慢しなさい」と。
幼い子供だったらともかく、十四歳になっている子供。「甘えん坊って年じゃないわ」と、母に叱られて、ハーレイに謝るように言われる。「我儘を言ってごめんなさい」と。
そんな感じ、と思うけれども、出来るわけがない夢のような話。
ハーレイと並んで外を歩いて、助け起こして貰うこと。今は二人で出掛けはしないし、転ぶことさえ出来ないから。ハーレイの前で道路にペシャンと転ぶことなど、不可能だから。
(ぼくが大きくなってからだと…)
一緒に歩くことは出来るけれども、転んだら今より恥ずかしい。
前の自分と同じ背丈に育っているなら、何処から見たって立派な大人。十八歳でも、子供だとは言えない年頃の筈。そんなに大きく育った大人は、まず転ばない。
(…ホントに足でも滑らせないと…)
転ばないのが一人前の大人で、転んだとしてもサッと立ち上がるもの。転んだ拍子に足を捻って動けないとか、やむを得ない事情が無い限りは。
(でも…)
ハーレイは助けてくれるだろうか、もしも自分が転んだら。二人並んで歩く途中で、ペシャンと転んでしまったなら。
「お前、子供か?」と笑いながらでも。「転ぶような物は落ちてないぞ?」と呆れ顔でも、あの大きな手を差し出して。無様に道路に伸びた自分に、「ほら、掴まれ」と。
(ハーレイ、助けてくれるのかな…?)
どうなのだろう、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり問い掛けた。
「あのね、ハーレイ…。ぼくが転んだら、助けてくれる?」
「はあ?」
転ぶって…。何処で転ぶと言うんだ、体育の時間のグラウンドか?
でなきゃ廊下か、校舎の中とか、渡り廊下とか。…そういう所で、転んだお前を助けろと?
他にも誰かいそうだがな、とハーレイは怪訝そうな顔。「体育の時間なら、先生がいるし…」と首を捻って、「廊下にも友達、誰かいないか?」と。
「俺が助けに行くよりも前に、そっちを頼るべきだと思うが」という意見。「断然、早い」と。
「学校だったら、そうなんだけど…」
ぼくもハーレイが助けに来てくれるまで、待っていたりはしないけど…。
そうじゃなくって、ぼくが転ぶのは…。
「えっとね…」と、今日の帰りに転んだことを打ち明けた。恥ずかしかったことも話して、幼い頃の思い出も。キャンディーに、子供絆創膏。
「今のぼくなら、薬箱が出て来るんだろうけど…。今日みたいに道で転んでたらね」
家で手当てをして行きなさい、って家の中に入れて貰えると思う。もしも誰かが見ていたら。
怪我の手当てが済んだ後には、運が良ければ、おやつも出そう。
そんなことまで考えちゃうぼくは、まだまだ子供なんだけど…。ハーレイが言う通りに、本当にチビ。まだハーレイと一緒に歩けもしないけど…。
いつかデートに出掛けた時にね、ぼくが転んでいたらどうする…?
転んじゃったら助けてくれる、と見詰めた恋人の鳶色の瞳。「ぼくを助けてくれるの?」と。
「そりゃまあ、なあ…?」
助けないわけがないだろう。俺の大事な恋人なんだし、もう嫁さんかもしれないな。
転んだままで放っておきはしないし、俺は大急ぎで助け起こすが…?
「ホント?」
ハーレイ、ちゃんと助けてくれるの、転んでいたら…?
「自分で起きろよ」って言ったりしないで、ぼくを助けて立たせてくれるの…?
「もちろんだ。前も助けてやったじゃないか」
お前が転んじまった時には、きちんとな。お前を放って行ったりはせずに。
「え…?」
転んだって…。それに助けたって、それ、いつの話…?
知らないよ、と驚いて目を丸くした。ハーレイの前で転んだことは無い筈だから。倒れたことはあったけれども、転ぶのとはまるで違うから。
「忘れちまったか?」
覚えてないのか、一番最初に転んでた時は、お前、今と同じでチビだったぞ。
今のお前とそっくり同じに、痩せっぽちでチビの子供だったが…?
「チビ…?」
それって、前のぼくのこと…?
前のぼく、何処かで転んでいたかな、ハーレイと一緒にいた時に…?
何処だったろう、と考えてみても分からない。チビだったのなら、アルタミラから脱出した頃。
船の通路で転んでいたのか、前のハーレイがいた厨房の床か。
(…厨房の床なら、いつもピカピカ…)
食料を扱う場所だから、と毎日、磨き上げられた床。夕食の後の掃除はもちろん、他の時間にも手が空いた時は、誰かがせっせと磨いていた。野菜くずなどで汚れないように、と。
あそこだったら、滑って転んだこともあるかも、と厨房の床を思い浮かべていたら…。
「お前、アルタミラで転んでいただろうが」
俺と出会って直ぐの頃だな、最初はポカンと一人で座り込んでたが…。
あれは転んだとは言わないだろうし、助け起こした内には入らん。俺が立たせてやったがな。
その後だ、後。
俺と一緒に走ったろうが、というハーレイの言葉で蘇った記憶。
「あっ…!」
思い出したよ、前のハーレイと一緒に走ってたんだっけ…。何度も転んじゃったけど。
他の仲間たちが閉じ込められたシェルター、全部、開けなきゃ駄目だったから。
でないと、みんな死んじゃうもんね、と手繰った前の自分の記憶。ハーレイと走った炎の地獄。
メギドの炎で滅びようとしていたアルタミラ。
空まで真っ赤に染め上げた炎、激しい地震で揺れ動く地面。その上を二人で走っていた。仲間を助け出すために。…幾つものシェルターに閉じ込められて、死を待つだけのミュウの仲間を。
二人で開けて回ったシェルター。鍵を開けたり、扉が歪んで開かない時には壊したりして。
そうやってあちこち走る間に、瓦礫に足を取られて転んだ。
(何処へ行っても、瓦礫だらけで…)
道と呼べそうな場所は殆ど無かった、あの星の上。
辛うじて道路が残っていたって、地震で入った無数の亀裂。段差だらけで、波打った路面。
そんな所を走ったのだから、転ばない方がどうかしている。歩幅が大きいハーレイはともかく、チビだった前の自分の方は。
瓦礫をヒョイと跨げはしなくて、段差も楽に越えては行けない。跨いだつもりでも、引っ掛かる足。越えたつもりでも、越えられなかった段差。
いったい何度転んだことか、と蘇って来たアルタミラの記憶。炎の海を走っていた時。
ドサリと地面に投げ出される度、ハーレイが助け起こしてくれた。「大丈夫か?」と、手を差し出して。がっしりとしていた大きな手。
(あの頃のハーレイは、今より若かったんだけど…)
とうに大人になっていたから、手の大きさは今と変わらない。自分の方も今と同じにチビ。心も身体も成長を止めて、十四歳の頃のままだったから。
(手の大きさ、今と同じなんだよ)
アルタミラで初めて出会った時の、ハーレイの手も、自分の手も。
今の自分の小さな右手を、よく温めてくれるハーレイ。前の生の最後にメギドで凍えた、悲しい記憶を秘めた右手を。そっと、温もりを移すために。
その度に思う、ハーレイの手の温かさと、それに逞しさ。とても頼もしくて、大きな手。
(あれと同じ手だったっけ…)
前の自分が助けて貰った、ハーレイの手も。
アルタミラで何度も転んだけれども、その度に自分を起こしてくれた手。瓦礫に覆われた地面の高さが、目の高さと同じになる度に。転んで地面に身体ごと叩き付けられる度に。
ハーレイはチビだった前の自分を、何度も助け起こしてくれた。手を差し出したり、逞しい腕でグイと抱えて抱き起こしたり。
助けられる度に、訊かれたこと。まだ走れるかと、痛くないかと。
燃える地面は、多分、熱かったから。大気までが炎に炙られて燃えて、息をするのも苦しかった筈。他の仲間を助けるのに夢中で、意識してなどいなかったけれど。
だから、前のハーレイは尋ねてくれたのだろう。前の自分が転んでしまって、助け起こす度に。
走る力は残っているかと、何処か怪我して痛くはないか、と。
(前のぼく、ハーレイに「大丈夫」って…)
そう答えては、二人で走り続けた。燃える星の上を、揺れる地面を。
また転んでも、起こして貰って。
瓦礫に躓いて放り出されても、段差に足を取られても。
身体ごと地面に叩き付けられて、目に入るものは瓦礫や波打つ道路だけになってしまっても。
何度も見えなくなった空。転べば、空は見えないから。忌まわしい炎の色の空さえ。
行く手の景色も消えてしまって、見えるものは地表を覆う物だけ。瓦礫と、それを舐める炎と、深い亀裂や幾つもの段差。
たったそれだけ、他には何も見えたりはしない。目の高さが地面と同じになったら、滅びてゆく星の地面に叩き付けられたなら。
(転んじゃったら、本当に地獄…)
その上を走っている時よりもずっと、無残に見えたアルタミラ。瓦礫と炎と滅びゆく地面、その他には何も無いのだから。空も行く手も、目に入っては来ないのだから。
なんて酷い、と思った景色。この星はもう終わりなのだと、滅びるのだと思い知らされた地面。
それが視界を覆い尽くす度に、転んだのだと嫌でも分かった。
ドサリと地面に突っ伏した自分、見えなくなった目指していた場所。その上にあるだろう空も。
(起きなくちゃ、って…)
早く立ち上がって行かなければ、と思った、仲間たちが閉じ込められたシェルター。
こうして自分が転んでいる間も、星は滅びに向かっているから。絶え間ない地震でシェルターが壊れて、仲間たちの命が奪われるから。
立たなければ、と自分に命じた。「転んでいる暇は無いんだから」と。起きて、立ち上がれと。
けれど、そうして立ち上がる前に…。
(ぼくが自分で起き上がる前に…)
ハーレイの手が目の前にあった。前のハーレイの大きな手が。
自分よりも前を、先を走っていた筈なのに、「ほら」と「掴まれ」と。
いつの間に気付いて戻って来たのか、必ずあったハーレイの手。
前の自分が、地面に叩き付けられる度に。転んでしまって、視界が地獄に覆われる度に。
(ハーレイの手に掴まって、引っ張り起こして貰って…)
またハーレイと走り続けた。
時には、抱え起こされて。「大丈夫か?」と、「痛くないか」と尋ねて貰って。
あそこだった、と鮮やかに戻って来た記憶。
前のハーレイと二人で走って、何度も転んだアルタミラ。炎の地獄で、足を取られて。
「…ハーレイ、起こしてくれていたんだ…」
ぼくがアルタミラで転んじゃったら、戻って来て。…ぼくよりも前を走ってたのに。
何度転んでも、いつもハーレイが助け起こしてくれたよ。
ぼくが自分で立ち上がる前に、ちゃんとハーレイの手があったから…。
「思い出したか?」
前のお前とは、会った時から、不思議なほどに息が合ったモンだから…。
お前が転んだら分かるんだよなあ、俺の背中に目玉はついていなかったんだが。
何か変だぞ、と振り返る度に、お前が転んじまってた。俺の後ろで、地面に叩き付けられて。
その度に走って戻っていたんだ、とても放っておけないからな。
いくらサイオンが強いと言っても、お前、身体はチビなんだから。…それに中身も。
転んだお前を助けていたのは、あれが最初のヤツでだな…。
お前がデカくなった後にも…。
やっぱりお前は転んじまっていたんだが、と指摘された。
もう痩せっぽちのチビではなくて、ソルジャーと呼ばれ始めてからも。キャプテンになっていた前のハーレイを従えての視察の途中で、それは見事に。
「ソルジャーの威厳も何も、あったもんではなかったってな」と笑うハーレイ。
転ぶ度にマントの下敷きだったと、「ソルジャーのマント包みだ」と。
「パイ皮包みなら料理なんだが、マント包みは料理じゃないな」などと、可笑しそうに。
通路で転んだソルジャーの身体は、頭と足の先っぽ以外は、マントにすっぽり包まれていたと。
ハーレイ曰く、「ソルジャーのマント包み」なるもの。
背中に翻っている筈のマントに包まれ、シャングリラの通路に転がるソルジャー。紫のマントが広がる下には、前の自分の身体が入っていたわけで…。
(そうだっけ…!)
ソルジャーのぼくでも転んだんだよ、と「マント包み」で戻った記憶。
今のハーレイが言う「ソルジャーのマント包み」となったら、まるで料理のようだけど。何かのパイ皮包みみたいに、前の自分がお皿に載っていそうだけれど。
(…ハーレイ、今も料理が得意だから…)
そんなのを思い付くんだよね、と思う「ソルジャーのマント包み」。前の自分がシャングリラの通路で転んだ時には、マント包みが出来ていた。頭と足の先っぽ以外は、全部マントの下敷きで。
(ソルジャーのマント包みって…)
それが通路で出来た理由は今日と同じで、原因は余所見。
ハーレイと視察に行くと言っても、目的地が遠い時もある。其処に着くまでに通る通路で、ふと目を引いた色々なもの。「あれは何だろう?」といった具合に、逸れていった視線。
行く手を真っ直ぐ見詰める代わりに、あらぬ方へと向けられた瞳。
そういった時に、崩したバランス。歩幅が僅かに狂ったはずみや、不意にもつれてしまった足。
(余所見してたら、やっちゃうんだよ…)
今の自分よりも大きく育った、ソルジャー・ブルーだった自分でも。
白と銀の上着に紫のマント、そういう洒落た衣装に身体を包んでいても。
(前のぼくなら、転んじゃっても…)
本当はサイオンで支えられた身体。
通路に無様に倒れ込む前に、紫のマントの下敷きになって「マント包み」が出来上がる前に。
それは確かに出来たのだけれど、ハーレイの手が欲しかった。
「大丈夫ですか?」と差し出される手。
転んでしまった前の自分を、しっかりと助け起こしてくれる手。
だから使わなかったサイオン。
このままだったら、転んでしまうと分かっていても。
シャングリラの通路と目の高さとが、じきに同じになってしまうと気が付いていても。
「マント包み、忘れちゃいないだろうな?」と、鳶色の瞳が見据えるから。
「前のお前の得意技でだ、俺は何度も見ていたんだが…?」とも言われたから。
「…覚えてるってば、マント包み…」
そういう名前はついてなくって、ぼくが転んでただけなんだけど…。
マントの下敷きになってしまって、頭と足の先っぽだけしか出てなかったことは本当だけど。
でも、ソルジャーのマント包みだなんて…。
前のぼく、お料理みたいじゃない、と唇を少し尖らせた。「それ、酷くない?」と。
「酷いってことなら、どっちなんだか…。俺か、お前か」
チビのお前の方じゃなくって、マント包みになってた方の、前のお前が問題だってな。
お前、いつでも転んでマント包みになっては、前の俺に助け起こさせるんだ。
周りに誰かいた時だったら、絶対、転びはしなかったがな。
転んじまう前にサイオンでヒョイと支えて、気付かせさえもしなかった。…転びかけたことを。
しかし、俺しかいない時には、マント包みになっちまう。
「起こしてくれ」と言わんばかりに、ものの見事に転んじまって。
酷いというのはアレのことだろ、お前、本当は転ばずにいられたんだから。
俺の他にも誰かいればな…、と軽く睨んで来るハーレイの瞳。「お前も充分、酷いだろう」と。
「だって、それ…。恥ずかしいじゃない!」
仲間たちの前で転ぶだなんて、恥ずかしすぎるよ。…前のぼく、子供じゃないんだから。
今のぼくでも、今日の帰りに転んだ時には、とても恥ずかしかったんだから…!
ソルジャーだった時に転ぶなんて、と反論した。他の仲間が見ている前では、転べない。
「…俺の前ならいいと言うのか?」
転んじまおうが、マント包みになっちまおうが。
今の俺が思い出してみたって、あの格好は無様だとしか思えないんだが…。
「ソルジャーのマント包み」と呼んだら美味そうなんだが、そいつをプラスして考えたって。
マントの中身は前のお前で、前の俺には御馳走だったが、それでもなあ…。
ソルジャーだった方のお前は、俺の御馳走ではないんだから。
恋人同士だったことさえ秘密だ、とハーレイが眉間に寄せている皺。
「そのソルジャーがマント包みになっていたって、前の俺は食えやしなかった」と。
「いいか、よくよく考えてみろよ? …前のお前と、俺とのこと」
俺たちの仲は秘密だったし、ソルジャーのお前の前に立ったら、俺はあくまでキャプテンだ。
いくらお前に恋していたって、それを顔には出せないってな。
なのに遠慮なくマント包みになっていたのが、前のお前というわけで…。
俺に助けろと言っていたんだ、声や思念にもしないでな。…黙ってマント包みになって。
自分じゃ決して起きないと来た、とハーレイは苦情を言うのだけれど。
「だって、ハーレイが側にいたんだよ?」
前のハーレイは、ぼくの特別。恋人同士になる前からでも、ずっと特別。
起こして欲しくもなるじゃない。他の仲間がいないんだったら、転んでしまって。
ぼくが転んだままでいたなら、ハーレイ、助けてくれるんだから。
いつも起こしてくれていたでしょ、と微笑んだ。「ソルジャーのぼくが転んだ時も」と。
「特別なあ…。分かっちゃいたがな、そうだってことは」
前のお前がマント包みになっちまうのは、俺の前だけで、俺に甘えてただけなんだ、と。
今から思えば、子供みたいな我儘なんだが…。
俺に助け起こして貰うためだけに、転んじまってマント包みだなんて。
前のお前は、充分に大人だったんだが…、とハーレイがフウとついた溜息。
「チビのお前と変わらないな」と、「転んだら助けてくれるのか、と訊くお前とな」と。
「…そっか、前のぼくでもおんなじ…」
ハーレイに助けて欲しくて転んで、起こしてくれるの、待っていたっけ…。
前のぼく、マント包みになってた頃には、チビの子供じゃなかったのに。
ちゃんと育ったソルジャーのぼくで、マントまで着けていたのにね…。
それでもマント包みなんだ、と今の自分と重ねてみた。前の自分でもその有様なら、今の自分が転んだ後の夢を描くのも仕方ない。薬箱はともかく、おやつを御馳走になれたらいいな、と。
「前のお前も、俺の前ではデカい子供だ。…ソルジャーでもな」
俺は面倒の見甲斐があったが、他のヤツらには、マント包みは見せられん。
無様なソルジャーの姿もそうだし、俺に甘えてた姿もな。
だから今度も安心して転べ、と言って貰えた。「ちゃんと面倒見てやるから」と。
「お前、もうサイオンでは支えられないしな、転びそうになっても」
不器用すぎて出来やしないだろ、そんな芸当。…今のお前のサイオンでは無理だ。
つまり、何処ででも転ぶしかないが…。
転んじまう時には、街でデートの真っ最中でも、お前は転んじまうんだが。
とはいえ、転んでも、俺がいるんだし…。何も心配要らないってな。
マントが無いから、マント包みは出来ないんだが…、と今度も助けてくれるらしいハーレイ。
けれど、街でデートの真っ最中だと、周りを歩いていそうな人たち。
幼かった頃ならいいのだけれども、前の自分とそっくり同じに育った自分が転ぶとなると…。
「ハーレイ、助け起こしてくれるのは、とても嬉しいんだけど…」
街でデートの最中だなんて、そんな時には転びたくないよ…!
きっと周りには人が一杯だし、転んじゃったら恥ずかしいじゃない…!
今日のぼくでも恥ずかしかった、と言ったのに。目撃者がいなくてホッとしたのが自分なのに。
「なあに、恥ずかしがることは無いってな。もっと真っ赤な顔にしてやるから」
大勢の人が見ている前でだ、お姫様抱っこで歩いてやる。俺の腕でヒョイと抱き上げて。
お前、転んだら足が痛くて、とても歩けやしないだろうが。
「抱っこって…。それって、街の真ん中なんでしょ?」
自分で歩くよ、抱っこなんかをしてくれなくても!
抱っこはやめて、と慌てたけれども、ハーレイは涼しい顔で続けた。
「転んだ時には助けてくれるか、と言っただろ、お前?」
助けてやるって言っているんだ、遠慮しないで任せておけ。お前に「歩け」とは言わないから。
「恥ずかしいってば、街の中では…!」
転ぶよりもずっと恥ずかしいじゃない、抱っこされて歩いているなんて…!
「恋人同士でデートなんだぞ、いいじゃないか。俺もお前を、周りに見せびらかせるしな」
こんな美人が俺のものだ、と自慢しながら歩くんだ。
前の俺だと、そいつは出来なかったしな…。
シャングリラの中でも最高の美人を自慢したくても、ソルジャーとキャプテンだったから。
お前とデートに出掛けられる日が楽しみだな、とハーレイがパチンと瞑った片目。
「ソルジャーのマント包みは無理だが、派手に転べよ」と。
どうやら自分が転んだ時には、抱っこが待っているらしい。ハーレイの逞しい腕で、軽々と抱き上げられて。…二人並んで歩く代わりに、お姫様抱っこでデートの続き。
(なんだか、とっても恥ずかしいけど…)
そういうデートは、今だからこそ出来ること。前の自分たちには出来なかったこと。
マント包みになるのがせいぜい、そういう二人だったから…。
今のハーレイにお姫様抱っこで歩いて貰って、恥ずかしくても、心ではきっと誇らしい。
耳まで赤くなっていたって、幸せだから。
ハーレイに大切にして貰えるのが、嬉しくてたまらないだろうから。
(街の真ん中で、派手に転んじゃっても…)
幸せだろう、未来の自分。前の自分と同じ姿に育った、今よりもずっと大きな自分。
幼い子供でもないというのに、ハーレイの腕に抱かれて運ばれながら。
「恥ずかしいから下ろしてよ!」と言っていたって、きっと幸せに違いない。
もしもハーレイが「そうか?」と素直に下ろしてくれたら、「酷い!」と怒りそうだから。
せっかくの抱っこが逃げてしまったら、「下ろすなんて!」と怒るだろうから…。
転んだ時には・了
※転んだ時にはハーレイに助けて欲しい、と思ったブルー。前の生でも同じだったのです。
本当はサイオンで支えられるのに、ハーレイしかいない時には、ソルジャーのマント包みに。
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