シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
カテゴリー「ハレブル」の記事一覧
(お嫁さん…!)
花嫁さんだ、とドキンと跳ねたブルーの心臓。学校から帰って、おやつの時間に。
読んでいた新聞、其処に見付けた花嫁の横顔。髪を結い上げて頭にティアラ。真っ白なレースのベールも被って。
(えーっと…?)
キョロキョロと見回したダイニング。いるのは自分一人だけ。母はキッチンで、暫くは来ない。これはチャンス、と記事に集中することにした。おやつよりも気になる、花嫁の記事。
(ふふっ…)
思った通りに素敵な中身。婚約から始まる、結婚式までの準備が色々書かれていて。
新居を探す時のポイントや、用意するべき家具だとか。なんともワクワクする内容。自分一人で考えていても、詳しいことなど分からないから。
(ぼくだと、住む家は決まっているし…)
結婚したら、ハーレイの家に住もうと決めている。前はこの家とどっちにしようか、ちょっぴり悩みもしたけれど。
(結婚式で着る、ドレスも色々…)
真っ白にするか、華やかな色のドレスも着てみるか。白無垢もあるし、試着だけでも大変そう。第一、ドレスか白無垢なのかも決めていないから悩ましい。
結婚式の式場だって、と共感させられる、結婚式までに決めるあれこれ。思った以上に、花嫁になる前は忙しいらしい。人によっては美に磨きをかけ、習い事にも熱を入れたり。
そうなんだ、と読み進めていった記事の結びは…。
(マリッジブルーに気を付けて?)
なにそれ、と思った知らない言葉。初めて目にした「マリッジブルー」。
とても気になる言葉だけれども、母に尋ねるわけにはいかない。きっと変な顔をされるから。
(そんな言葉、何処で聞いてきたの、って…)
訊き返されたら困ってしまう。まさか、この記事で読んだなどとは言えないし…。
(前のぼくが知っていればいいけど…)
知っているかも、と期待をかけたソルジャー・ブルー。三世紀以上も生きた間に、一度くらいは耳にしているかもしれない。あるいはライブラリーの本で見たとか、そんな具合に。
前の自分の記憶を手繰るなら、続きは部屋で。ダイニングで考え込むよりも。
おやつの残りを綺麗に食べ終え、キッチンの母にお皿やカップを返して部屋に戻った。気になる言葉を心の中で繰り返しながら、けれど顔には出さないで。
(マリッジブルー…)
どんなのだろう、と勉強机の前に座って、さっきの続き。今の自分が知らない言葉。
マリッジブルーと言うほどなのだし、結婚式までの流れを追った花嫁向けの記事だったから…。
(結婚は分かるけど、ブルーって?)
マリッジは結婚、其処まではいい。続く「ブルー」が全くの謎。
自分の名前でないことは分かる。今の時代も大英雄の、ソルジャー・ブルーではないことも。
ブルーは色の名前だけれども、それのことでもないだろう。花嫁の衣装は純白なのだし、青色の出番は無さそうな感じ。「青いドレスを着たい」という場合は別として。
(他にブルーっていうものは…)
何か無いかな、と指を折ってみても、まるで分からない。ブルーはブルーで、青い色としか。
前の自分の遠い記憶を手繰っていっても、やはり無かった。マリッジブルーという言葉は。
(うーん…)
結婚しなかった前の自分。恋さえ秘密のままで終わって、結婚式を挙げてはいない。ハーレイと二人で地球に着いたら、と漠然と夢を見ていただけで。
(結婚式のことなんか…)
思い描けはしなかった。もちろん準備をするわけがないし、下調べさえもしていない。具体的な話を詰めるより前に、寿命の終わりが来てしまったから。
(地球まで辿り着けなかったら、結婚どころじゃないものね…)
ハーレイと二人きりで暮らすことは出来ず、死の瞬間までソルジャーとキャプテン。恋に落ちたことは誰にも言えずに、黙って死んでゆくしかない。
そうなることが分かってしまえば、夢さえも見られない結婚。
白いシャングリラで幸せそうな恋人たちを目にする度に、羨ましいと思っただけ。二人で生きてゆける彼らが、いつか地球まで行けるのだろうカップルたちが。
そんな日々では、結婚式について調べようとは思わない。自分とは縁が無いものなのだし、深く知るほど、悲しみが増してゆくだけだから。…「ぼくには無理だ」と。
そのせいで知らなかったのだろうか、マリッジブルーという言葉。
結婚式を挙げるつもりで調べていたなら、誰もが出くわすものかもしれない。本の中やら、白いシャングリラのデータベースの情報やらで。
(ぼくは知らないけど…)
前のハーレイも縁が無さそうな言葉だけれども、今のハーレイ。青い地球の上に生まれ変わったハーレイだったら、この言葉も知っているのだろうか?
なんと言っても大人なのだし、三十八年も生きている。友人たちの結婚式にも呼ばれたりして、沢山持っていそうな知識。それに自分との結婚のことも、心に留めてくれているから。
(ハーレイが来たら訊いてみたいけど、こんなの、メモに…)
書き留めて机に置いてはおけない。「マリッジブルー」などと記したメモは。
部屋の掃除は自分でしているけれども、母だって部屋に入ってくる。洗濯物を届けに来るとか、他にも色々。それも自分が学校に出掛けて留守の間に。
(机の上だと、ママが見ちゃうよ…)
だから駄目だ、と諦めた机。分かりやすくても、母に見付かるような場所には置けないメモ。
そうは思っても、引き出しの中に仕舞っておいたら、そのまま忘れてしまいそう。開けた時には思い出せても、肝心のハーレイが来ている時には、頭の端っこを掠めもせずに。
(メモの隠し場所…)
それさえあったら書いておくのに、使えそうな場所が閃かない。部屋のあちこちに視線を配って見回してみても、ただの一つも。
この調子だと、今日、ハーレイが来てくれなかったら、マリッジブルーという言葉は…。
(忘れてしまって、永遠の謎…?)
何のことだったかも分からないまま、日が経って記憶の海に沈んで。
それとも結婚を決めた時には、何処かで教えて貰えるだろうか?
(気を付けて、って書いてあったんだから…)
花嫁にとっては、とても大事で気を付けなければいけないこと。そうだとしたら、誰かが教えてくれそうでもある。「マリッジブルーに気を付けて」という注意とセットで。
結婚式に向けての準備の途中で、マリッジブルーの説明をして。
「こういうものに気を付けなさい」と、対処法とかも親切に話してくれたりして。
ちゃんと教えて貰えるかもね、と考えていたら聞こえたチャイム。窓から覗いたら、ハーレイが大きく手を振っていた。門扉の前で。
来てくれたからには訊かなくちゃ、と部屋でテーブルを挟んで向かい合うなり、ぶつけた質問。
「あのね、ハーレイ…。マリッジブルーっていうのを知ってる?」
「なんだって?」
いきなり何を言い出すんだ、とハーレイは怪訝そうな顔。「お前、いったいどうしたんだ?」と鳶色の瞳を丸くして。
「今日の新聞に載ってたんだけど…。ぼくの知らない言葉なんだよ」
前のぼくの記憶を探ってみたって、出て来ないから…。ハーレイなら知っているかと思って…。
花嫁さんの記事に書いてあった、と説明をした。それで初めて知ったのだから。
「結婚式までの流れって…。お前、そんな記事を読んでいたのか」
おやつの時間にダイニングでとは恐れ入ったな、しかも花嫁の写真付きだろ?
よくもまあ…、とハーレイは呆れ返った様子。「お前も大した度胸じゃないか」と。
「大丈夫、ママには見付かっていないから。…ちゃんと、いないの確かめたもの。読む前に」
それでね、その記事の一番最後にあったんだよ。マリッジブルーに気を付けて、って…。
結婚する人なら知っているから、書いてなかっただけなのかな…。ひょっとしたら。
だけど、ぼくは全然知らないし…。前のぼくだって知らないみたいだし…。
マリッジブルーってどういうものなの、結婚する時には当たり前なの?
ハーレイは聞いたことがあるの、と最初の言葉を繰り返した。「知っているの?」と。
「うーむ…。マリッジブルーと来たか…」
チビのお前の口から聞くとは、とハーレイが眉間に寄せた皺。心当たりはあるらしい。
「知ってるんだね、ハーレイは?」
その顔だったら、そうだもの。マリッジブルーを知ってるんでしょ?
「まあな。…今の俺くらいの年になってりゃ、普通は知っているだろう」
花嫁の方の事情にしたって、結婚相手は男だから。…男の方でも耳にするってな、その言葉。
「じゃあ、教えてよ」
ぼくに話しても問題ないなら、マリッジブルーの意味を教えて。
子供の間は早すぎる、って言うんだったら諦めるけど…。ハーレイ、其処は厳しいものね。
チビだからキスもしてくれないし、と上目遣いにチラと睨んだ。「ハーレイのケチ」と、日頃の恨みをこめた視線で。
マリッジブルーはどうなのだろうか、子供の自分は聞けないままに終わるだろうか…?
「知りたいと言うなら、仕方ないな…。チビには言えない話でもないし」
もっとも、お前が満足するかどうかは知らないが。…花嫁の気分の問題だからな、特別な何かが待っているってわけじゃないから。
マリッジブルーというヤツは…、とハーレイが教えてくれたこと。花嫁の気分を指す言葉。
嬉しい筈の結婚式を控えているのに、気分が沈んでしまう花嫁。結婚の日が近付くにつれて。
どういうわけだか、そうなる女性がとても多いから、出来た言葉がマリッジブルー。
マリッジは思った通りに結婚、ブルーの方には「落ち込む」という意味もあるらしい。結婚式に向けて心が弾む代わりに、涙ぐんだりする人も。
「えーっ!? マリッジブルーって、そういうものなの?」
結婚式って、最高に幸せな日だと思うんだけど…。その後もずっと幸せなんだよ、結婚して。
なのに悲しくなるなんて…。何か変だよ、本当にそれで合ってるの?
何か勘違いしていない、と信じられない気分で訊いた。「それって記憶違いじゃないの?」と。
「俺が間違いを教えてるってか? これに関しては、そいつは無いな」
やっぱり本当に知らなかったんだな、マリッジブルー。…チビのお前じゃ仕方がないが…。
耳にするような機会も無いしな、こんなチビだと。
結婚式に招待されても、御馳走しか見ていそうにないし、と痛い所を突かれたけれど。
「前のぼくだって知らないよ! 今のぼくなら、ハーレイに会う前はそうだけど…」
パパやママと結婚式に行った時には、ケーキの方ばかり見てたから。…美味しそう、って。
でも、前のぼくでも知らないんだから、ぼくが知らなくても仕方ないでしょ!
チビのせいだけにしないでよ、と尖らせた唇。前の自分はチビの子供ではなかったから。
「そりゃまあ、前の俺たちが生きてた時代じゃなあ…」
前のお前がいくら知識を増やしていたって、お目にはかかれなかっただろう。
結婚する気でデータベースを探してみてもだ、果たして出会えていたのかどうか…。
あの時代には、マリッジブルーなんかは無かったモンだから。
人類の世界にも無かったんなら、船だけが全てのミュウだって縁が無いってな。
SD体制の時代は今とは違う、とハーレイは説明してくれた。
機械が統治していた世界。大人の社会と子供の社会は、機械が分けてしまっていた。子供たちは十四歳になったら、養父母と別れて新たな生活。それまでの記憶を処理されて。
子供時代の記憶が薄れて、養父母の顔さえ曖昧になる成人検査。その後に教育ステーションへと送られ、やがて見付ける生涯の伴侶。結婚するコースに入ったならば。
結婚が決まれば、幸せ一杯の未来があるだけ。何処で暮らすか、養父母になるのか、一般社会の構成員の道を選ぶのか。そういったことを決めて始める生活。愛する人と結婚して。
順風満帆の結婚生活、それまでの道も希望に溢れた明るい道。マリッジブルーの出番は何処にも無かったという。花嫁は幸せを掴み取るだけで。
「…それじゃどうして、今の時代はマリッジブルーがあるの?」
前のぼくたちが生きた頃より、ずっと素敵な時代なのに。
人類とミュウのことはともかく、機械に記憶を消されるような時代じゃないし…。うんと平和な世界なんだし、幸せの量も桁違いだよ…?
悲しくなる筈がないじゃない、と首を傾げた。今は本当に幸せな時代なのだから。
「素敵な時代だからこそだな。…マリッジブルーになっちまうのは」
SD体制よりも前の時代にも、マリッジブルーはあったんだ。ずっと昔から言われていた。
しかし、機械が治めた時代じゃ、誰もそいつに罹りやしない。失うものが無いからな。
今の時代は、失くしちまうものが増えたんだ。結婚しようという花嫁たちは。
失くしちまったら悲しいだろうが、とハーレイが言うから驚いた。
「え…? 失くすって…。何を失くすの?」
いろんな幸せが手に入るのに、と訊き返した。結婚までの準備だけでも、忙しい中で幾つも掴む幸せ。二人で暮らすための家やら、その家に入れるための家具やら。
「そういったものは手に入るんだが…。幸せ一杯に見えるんだがな…」
よく考えてみろよ、結婚したら何処で二人で暮らすんだ?
親と一緒の家に住むなら、さほど問題は無いんだが…。大抵は家を出て行くだろうが。
生まれ育った大好きな家や、いつも一緒だった自分の家族。そいつがすっかり消えちまう。
近い所に引越しするなら、思い立った時に会いに行くのも簡単だが…。
人によっては、故郷の星を離れてゆくこともあるんだし…。ワープしなけりゃ行けない場所へ。
家も家族も、時には故郷も。…色々なものを失くす花嫁。
幸せになる代わりに失くしてしまう。愛する人と暮らせるけれども、それまでの日々は何処かへ消える。生まれ育った家での暮らしも、毎日顔を合わせた家族も、全てが過去になってしまって。
「SD体制の時代だったら、その心配は無かったんだが…。本物の家族じゃないからな」
ついでに機械が記憶を処理してしまうわけだし、子供時代に帰りたいとも思わない。
そういう風に育っていたなら、結婚となれば幸せだけしか無かったんだ。失くすものなど持っていないんだから。…育ててくれた親も、懐かしい家も。
ところが今だと、そうはいかない。マリッジブルーになっちまうわけだ、失うことが寂しくて。
だから、お前も気を付けろよ?
俺の嫁さんになるんだからな、と念を押されてもピンと来ない。マリッジブルーになるなんて。
「ぼく…? ぼくは平気だと思うけど…」
ずっと昔から、ハーレイと一緒。今のぼくに生まれてくる前からね。
今の方が寂しいくらいだと思うよ、ハーレイと離れ離れだもの…。せっかく会えても、一緒には暮らせないんだもの。今日もハーレイ、夜になったら帰っちゃうしね。
だけど、結婚した後は一緒。前のぼくたちだった時より、うんと近くにいられるよ。
ソルジャーとキャプテンなんかじゃないしね、部屋も別々じゃないんだから。
そうやってハーレイと暮らしてゆけたら、今よりもずっと幸せでしょ?
マリッジブルーになるわけがないよ、絶対に。結婚する日がまだ来ない、って悲しい気持ちで、カレンダーを見ていることはあっても。
きっとぼくには関係ないよ、と自信たっぷりで言ったのだけれど。マリッジブルーに陥るようなことは有り得ない、と思ったけれど…。
「本当か…? お前、きちんと考えてみたか?」
前のお前なら、結婚しても失うものは何も無かったんだが…。
SD体制の時代に生きていた上に、人類以上に記憶を失くしていたからな。
成人検査よりも前の記憶を、お前は持ってはいなかった。検査にパスした人類だったら、幾らか残っていたのにな。養父母のことも、育った家や故郷も。
そいつをすっかり失くしていたし、その辺りは人類のヤツらと同じだ。
結婚したって何一つ失くしはしないってわけで、未来への夢がたっぷりで。
失くすものと言ったらシャングリラだな、とハーレイが話す白い船。ミュウの箱舟だった船。
いつか地球まで辿り着いたら、二人で降りようと約束していた。ミュウを端から抹殺してゆく、忌まわしい機械が治める時代。それが終わって、箱舟が要らなくなったなら。
平和になったら、ソルジャーとキャプテンの役目も終わるし、恋を明かしても許される。
その時が来たら船を出ようと、地球の上にある小さな家で二人きりの暮らしを始めようと。
ハーレイと二人で生きてゆける代わりに、戻れなくなる白い船。シャングリラが宇宙に旅立って行っても、見送ることしか出来ない二人。
もうソルジャーではないのだから。…キャプテンでもないハーレイと二人、船を降りると決めた以上はもう戻れない。白い鯨が何処へ行こうと。
「シャングリラは失くしちゃうけれど…。青の間なんかは惜しくはないよ」
あんな大袈裟な部屋は要らないし、ハーレイと二人で暮らせるだけの家があれば充分。
シャングリラだって、二人きりでいられる家に比べたら、ずっと値打ちが落ちちゃうもの。
思い出は一杯詰まっているけど、幸せな思い出には、全部ハーレイがいるんだから。
そのハーレイと一緒だったら平気だよね、と微笑んだ。白いシャングリラを失くしたとしても、前の自分は少しも寂しくないのだから。
「前のお前なら、そうだった。お前が言ってる通りにな」
失くす家族や家の記憶は、とっくに失くしちまった後だ。人類のヤツら以上に、跡形も無く。
帰りたいと思う家も無ければ、会いたいと思う親だっていない。
ゼルやブラウたちがシャングリラと一緒に行っちまっても、あいつらは友達だったから…。
機会があったらまた会える、と手を振って別れられただろう。「またいつか」と。
そして何年も会えないままでも、そう寂しくはないんだろうな。俺と暮らしているのなら。
だが、今は…。
お父さんもお母さんもいるだろうが、とハーレイに覗き込まれた瞳。
「今のお前は、記憶を失くしちゃいないんだ」と。
生まれた時からずっと一緒で、血の繋がった本物の両親。SD体制の時代の養父母ではなくて。
この家で両親に守られて育って、結婚して家を離れる時まで、別れは来ない。
けれど、結婚した後は違う。
結婚式を挙げて帰ってゆくのは、この家ではなくてハーレイの家。其処が新しい家になるから。
ハーレイの家は、同じ町の中にあるけれど。ハーレイは歩いてやってくることもあるけれど。
その家は、此処の窓から覗いてみたって、屋根の端さえ見えない所に建っている。何ブロックも離れた場所に。
そんな所に移り住んだら、父と母には、今のようには会えなくなる。一日に何度も顔を合わせて笑い合ったり、食事をしたりも出来ない暮らし。
両親に会いに毎日帰ってゆけはしないし、何かの時に手を借りたいと思っても無理。
「お前が一人で留守番してても、お母さんのおやつは出て来ないんだぞ」
今のお前なら、お母さんが買い物に出掛けていたって、ちゃんとおやつがあるんだが…。
そいつが無くなっちまう上にだ、お前は昼間は独りぼっちだ。
上手く時間を潰せたとしても、待っていたって、俺しか帰って来ないんだし…。
お前の暮らしは変わっちまうぞ、というハーレイの指摘。今の暮らしと、結婚した後の暮らしは全く違うものだ、と。
「ホントだ、今と全然違う…」
ママのおやつが無いのは分かっていたけれど…。ママがいない家に行くんだから。
ハーレイが大好きな、ママのパウンドケーキのレシピを習って、お嫁に行こうと思ったけど…。
頑張ってケーキを焼いてみたって、味見してくれるママがいないんだね。
この家で練習している間は、ママが色々教えてくれて、味のアドバイスもしてくれるのに…。
そのママがいないよ、と気が付いた。「母がいない」という意味に。
今なら何処かに出掛けていたって、直ぐに帰って来てくれる母。そんなに長くは待たなくても。
ほんの少しでも遅くなったら、「ごめんなさいね」と謝られる日も。
父も昼間は仕事だけれども、夜になったら帰って来る。休日は家にいることも多い。庭の芝生を刈り込んでみたり、母の花壇を手伝ったりも。
両親の姿は、いつもあるのが当たり前。家族が揃う朝食と夕食、それ以外にも何度も会って。
夜中にだって、困った時には声を掛ければ起きてくれる両親。「どうしたの?」と母が部屋から顔を覗かせて、父も「どうした?」と出てきてくれて。
その人たちがいなくなる。…ハーレイの家に引越したら。
ハーレイの家と両親の家は全く違うし、家中の部屋を覗いてみたって父も母もいない。二人とも帰って来てはくれなくて、離れてしまって、独りぼっち。何ブロックも離れた場所で。
(でも、ハーレイが…)
いてくれるものね、と思ったけれども、そのハーレイも仕事に出掛けている間は留守。夏休みや春休みなどの時を除けば、週末以外はいつも学校。朝になったら出勤してゆく。
(帰って来るのは、早い時でも今日みたいな時間…)
午後のおやつには間に合わない。ポツンと一人で食べるしかない、三時のおやつ。
この家にいても、おやつを一人で食べている日も多いけど。今日もそうだったし、お蔭で新聞の花嫁の記事を読めたのだけれど。
(…ママはキッチンにいたか、庭に出てたか…)
とにかく家の何処かにはいたし、独りぼっちとは言えないだろう。「ママ、何処?」と呼べば、声が返っただろうから。「此処よ」と、「何か用事なの?」と。
けれど、ハーレイの家での独りぼっちは違う。本当に自分一人で留守番。
(ハーレイは今頃、授業中かな、って…)
時間割の写しを眺めてみても、ハーレイの様子は分からない。どんな教室で、生徒に何を教えているか。授業の途中の雑談の時間で、笑い声が上がっているかどうかも。
(前のぼくなら、ハーレイが船の何処にいたって…)
知りたいと思えば見ることが出来た。青の間から軽く思念で探って、居場所を見付けて。
あの頃のように、覗き見さえも出来ない自分。ハーレイが留守で寂しくなっても、悲しい気分になってしまっても。
(…留守番してたら、悲しい気分になっちゃうんだから…)
独りぼっちで留守番の日々が始まる前にも、そういう予感に包まれていそう。幸せ一杯の結婚と一緒にやってくる孤独、家にポツンと一人きりの日々を想像して。
(考えただけでも、寂しくなってしまっているし…)
そうなる時が近付いて来たら、本当に悲しくなるかもしれない。「もうすぐ独りぼっちだ」と。
昼の間は独りぼっちで、おやつの時間も一人きり。
気晴らしにパウンドケーキを作ろうと思い立っても、「おっ、焼いたのか?」というハーレイの声を聞ける時間はずっと先。仕事が終わって帰って来てから。
「上手く焼けたかな?」と試食するのも一人きりだし、母は味見をしてくれない。端っこの方を二人で食べてみたくても、母はいなくて一人だから。
結婚を控えた花嫁が罹る、マリッジブルー。幸せ一杯の日々が待っているのに、引き換えに何を失うのかを考えて。…それが寂しくて、とても不安で。
マリッジブルーがそういうものなら、今、こうやって考え事をしている自分も…。
「…ぼく、罹っちゃいそう…。ハーレイが言ってる、マリッジブルー…」
パパもママもいなくて独りぼっちで、ハーレイが仕事の間は留守番。
一人きりだよ、って気が付いちゃったら、悲しくてポロポロ泣いちゃうかも…。ハーレイの家に引越した後に。
そうなっちゃうのを想像したって、きっとホントに泣いちゃうから…。
これってマリッジブルーだよね、とハーレイに訊いたら、「間違いないな」という答え。
「やっぱり、そうなっちまうのか…。前のお前じゃないからな」
今のお前なら、本当にマリッジブルーになりかねん。今でもお前は不安そうだし、俺との結婚が決まった後には、本物のマリッジブルーというヤツに。
酷くなったら、「結婚なんかしたくない」と言い出すこともあるらしいから…。
そうならないよう、俺が気を付けてやらないと。
お前がマリッジブルーになっちまった時は、早めの治療を心掛けて。
未来の俺の嫁さんのために頑張らないとな、とハーレイは努力をするらしいけれど、結婚相手に治せるだろうか、マリッジブルーが?
その結婚が不安なのに。…ハーレイとの結婚が、寂しさや悲しさを運んで来るから怖いのに。
「ハーレイが治してくれるって…。どうやって?」
ぼくは結婚したら独りぼっちで、うんと悲しい日が待っていそうで不安なんだよ?
ハーレイに会ったら、もっと不安になりそうだけど…。もうすぐ結婚式の日が来ちゃう、って。
だってそうでしょ、ハーレイがデートに誘いに来るのは、ぼくと結婚するからで…。
そんなハーレイと会っていたって、ぼくは悲しくなる一方で…。
家から出たくなくなりそう、と正直な気持ちを口にした。マリッジブルーになってしまったら、きっと毎日が不安だから。結婚式のことを考えただけで、気分が沈みそうだから。
「俺だって、それは承知してるが…。たまには気晴らしといこうじゃないか」
まだ結婚もしない内から不安になってちゃ、人生、つまらないからな。
心配し過ぎは前のお前の時からの癖だ、もっと大らかに構えないと。今は平和な時代なんだし。
落ち込んでる時はデートに限る、とハーレイは自信満々だった。
「行かない」と言っても、宥めてデート。車で出掛けて、ドライブに食事。
不安な気持ちが消えるようにと、明るい話題を持ち出して。結婚した後の夢も沢山話して、心を軽くするという。「結婚したら素敵な暮らしが始まるんだ」と思えるように。
「頑張ってみても、なかなか治らないから、厄介なのがマリッジブルーらしいんだが…」
俺たちの場合は、普通のカップルとは事情が違う。…幸いなことに。
お前も俺も生まれ変わりで、前の俺たちは結婚できずに終わっちまった。いつか地球まで行けた時には、結婚しようと誓ってたのに。
その俺たちが青い地球まで来られたんだぞ?
前の俺たちが生きた頃には、何処にも無かった青い地球まで。…それも平和な世界にな。
そして俺たちは結婚するんだ、今度こそ誰にも邪魔をされずに。皆に祝福して貰って。
運命ってヤツに引き裂かれちまった、前の俺たちの約束の分まで果たせる結婚式なんだから…。幸せの量が桁違いだよな、他の沢山のカップルとは。
そうじゃないのか、と問われれば、そう。
前の自分たちは、恋したことさえ明かせなかった。本当に最後の最後まで。
けれど今度は恋を明かして、結婚式を挙げて、お揃いの指輪も嵌められる。左手の薬指に嵌める結婚指輪を、白いシャングリラには無かったものを。
「そうだね。前のぼくたちの分まで、一緒に結婚式だっけ…」
ぼくの中には前のぼくがいるし、ハーレイの中には前のハーレイ。
違う身体になっちゃったけれど、新しい別の命だけれど…。でも、魂はおんなじだから…。
今度こそ幸せになれるんだっけね、ハーレイも、ぼくも。
前のぼくが行きたかった地球で結婚して…、と遠く遥かな時の彼方に思いを馳せる。前の自分が諦めざるを得なかった夢。
青い地球まで辿り着くことと、ハーレイと二人で地球で暮らすこと。
それが叶うのが今の自分の結婚式で、結婚したら前の自分が諦めた夢がまた開き始める。地球でやりたいと願ったことを、ハーレイと一緒に実現させてゆくという夢。
ヒマラヤまで青いケシを見に行くとか、五月一日にスズランの花を贈り合うとか。
今の自分の夢も加えてゆくから、幾つもの夢。新婚旅行は宇宙から青い地球を見る旅。
そういう日々を始めるためには、まずはハーレイと結婚すること。
マリッジブルーで寂しいなどと言っていないで、悲しい気持ちになっていないで。今の自分には寂しいことでも、前の自分に比べたら…。
「…パパもママもいなくて、独りぼっちは寂しいけれど…。前のぼくより、ずっとマシだね」
待っていればハーレイが帰って来るから、ぼくは一人じゃないんだもの。
本当に悲しい独りぼっちは、前のぼくが知っているんだから…。
ぼくの右の手、と見詰めた右手。前の生の終わりに冷たく凍えた、悲しい記憶が残った右の手。
「そうだろう? お前が落ち込んじまっていたって、前のお前の悲しさよりかはマシなんだ」
そいつを思い出せとは言わんが、今のお前の幸せってヤツを噛みしめないとな。
どれだけ恵まれて生きているのか、これから先にも、どれだけの幸せが待っているのか。それを思えば、お前のマリッジブルーはだな…。
大したことではないだろうが、と鳶色の瞳がゆっくり瞬く。「じきに治るさ」と。
「うん、いっぺんに治ってしまいそうだね。…前のぼくの分まで、って思ったら」
今のぼくがどんなに寂しがっても、前のぼくには負けるから…。
メギドで独りぼっちになっちゃった時は、寂しいなんて思う余裕も無かったから…。ハーレイの温もりを失くしてしまって、右手がとても冷たくて。
もう二度と会えやしないんだ、って泣きじゃくりながら死ぬしかなくて…。
あの悲しさを思い出したら、マリッジブルーなんか消し飛んじゃうよ。直ぐに治って、元通り。
いつものぼくが戻って来るよ、と断言できる。「寂しいだなんて言ってられないよ」と。
ハーレイの温もりを失くしたことに気付いた、メギドで最期を迎えた時。
右手にハーレイの温もりは無くて、切れてしまったと思った絆。
あれよりも深い悲しみを前の自分は知らない。別れの痛みも、孤独も、それに絶望だって。
今の自分も知るわけがないし、きっと知ることも無いだろう。
マリッジブルーで沈み込んでいても、落ち込んでいても、あの悲しみには及ばないから。
「ほらな。今のお前は幸せなんだし、それをしっかり捕まえないと」
前のお前の夢だった結婚、今度は堂々と出来るんだから。
この家を出るのは寂しいだろうが、嫁に来るんだと言い出したのはお前だし…。
嫁に来るつもりで話を進めているしな、お前ってヤツは、いつだって。
それに…、とハーレイが浮かべた笑み。「俺の家は同じ町にあるしな?」と。
「お前の足では少し遠いが、俺なら歩いて来られる距離だ。たったそれだけしか離れてないぞ」
その気になったら、いつでも会いに行けるんだ。
俺が仕事に出掛けている間に、寂しくなったらバスにでも乗って。
SD体制の時代と違って、お母さんたちのことを忘れちまいはしないしな?
どんな顔だったか、家は何処だったか、お前はいつでも鮮やかに思い出せるってわけだ。会いに行こうと思えば行けるし、実に素晴らしい時代じゃないか。
結婚しようが、何年経とうが、お前の家は此処にある。お母さんたちも此処で待っててくれて、いつでも迎えてくれるんだから。
寂しがってる暇があったら、家に帰るためのバスの路線でも考えておけ、と笑われた。
まだ結婚もしない内から、あれこれ頭を悩ませないで。寂しい独りぼっちの時間を思って、涙を溢れさせないで。
「うん…。寂しい気持ちになってしまったら、そうするよ」
ハーレイの家から此処に来るには、どのバスに乗れば良かったっけ、って考える。何分くらいで着くバスだったか、途中のバス停の名前は何か。
本当にそんなに遠くないものね、他の星に行くんじゃないんだから…。
パパもママも家に帰れば会えるし、寂しくなったら会いに帰ればいいんだから…。
家の場所も、パパとママの顔も覚えているもの、と今の自分の幸せを思う。きっと一生、忘れることは無い両親。自分が生まれ育った家。何歳になろうと、何百年と生きようと。
(…でも、前のぼくは覚えていなかったんだよ…)
前の自分は、十四歳の誕生日まで育ててくれた養父母を忘れた。成人検査で忘れたものか、後の過酷な人体実験がそうさせたのか。それさえも今は分からない。
SD体制の時代の仕組みからして、成人検査を受けた直後は覚えていた可能性もある。おぼろにぼやけた顔になっても、「これがパパとママ」と思える人を。
けれどアルタミラの檻にいる間に、何もかも忘れて消えてしまった。両親の顔も、育った家も。
あの時代には、成人検査をパスした子供たちさえ、ごく曖昧な記憶しか持っていなかった。誰が自分を育てていたのか、どういう家で育ったのかも。
そういう時代を生きて死んでいった、前の自分に比べたら…。
とても贅沢な悩みなのだ、と気付かされたマリッジブルーというもの。
独りぼっちが寂しいだとか、両親のいない家で暮らすのが悲しいだとか。両親のことも、育った家の場所も、記憶はとても鮮やかなのに。…望みさえすれば会いに行けるのに。
「ねえ、ハーレイ…。今の時代の花嫁さんたちは仕方ないけど…」
ぼくがマリッジブルーに罹ったなんて言っていたなら、とても我儘で贅沢だよね。
パパもママもちゃんと覚えているのに、会いたい時には会いに行けるのに…。
寂しくなるから結婚するのが不安だなんて、とコツンと叩いた自分の額。前の自分の悲しすぎる記憶を思い出したら、贅沢はとても言えないから。…我儘なことも。
「分かったか? 前のお前の頃に比べりゃ、今のお前は幸せ者だということが」
しかしだ、マリッジブルーになっちまうお前も今だからこそで…。
前のお前なら、そんな風には決してならない。…失くしちまうものが無かったからな。
マリッジブルーは今のお前の特権なんだし、今ならではの花嫁の気分を味わっちゃどうだ?
うんと我儘なマリッジブルーになれる贅沢、それを存分に楽しむのもいいと思うがな…?
なってみるのもいいかもしれん、と言われたけれども、マリッジブルーになったら辛い。寂しい気持ちに包まれるのだし、楽しみな筈の結婚式の日が近付いて来たら落ち込むらしいし…。
「楽しんでみろって…。ぼくは落ち込んでるんだよ?」
ハーレイと結婚するのが不安で、とても寂しくて…。パパとママの家にいようかな、って…。
もう結婚は断ろうかな、って思ってるかもしれないのに…?
それでどうやって楽しむの、とハーレイの顔を睨んでやった。楽しめる筈が無さそうだから。
「普通はそうかもしれないが…。浮上した時の気分が最高だろうが、お前の場合は」
前のお前のことを思い出して、今がどれほど幸せなのかに気付いたら。
俺としては味わって欲しいんだがなあ、落ち込んだ気分から一気に天国気分ってヤツを。
お前の気分が浮上する度に、そりゃあ素晴らしい笑顔が見られそうだから。
「早くハーレイと結婚したいな」と言いそうだしなあ、落ち込んでたお前は消えちまって。
そいつを是非とも見たいもんだ、とハーレイは半ば本気のようだから…。
「罹ってもいいの、マリッジブルー…?」
治すのはとても厄介なんでしょ、普通の人が罹ったら…。ぼくだと治せそうだけど。
ホントに治ってしまいそうだけど、治るまでは、涙がポロポロ零れていたりもするんだよ…?
もうハーレイとは結婚しない、と家から一歩も出たがらないかも、と最悪のケースを挙げてみたけれど。…ハーレイがデートに誘いに来たって、部屋に閉じこもりそうだと話したけれど。
「そういうことなら、お前は部屋で踏ん張っていろ」
俺はお前の部屋の前に座って、せっせと話し掛けてやるから。…お前が浮上しそうなことを。
その内に扉がそうっと開くんだ、「やっぱり、ちょっと出掛けたいかも」と。
そしたらお前を外に連れ出して、とびきりの笑顔に戻してやる。最高の気分で過ごせるように。早く結婚したい気持ちで、ワクワクと家に帰れるように。
お前のマリッジブルーを治せる俺の特権、俺だって楽しみたいからなあ…。
結婚が決まったら是非、罹ってくれ、とハーレイがパチンと瞑った片目。「よろしく頼む」と。
「マリッジブルーのお前も素敵に違いないぞ」と、「本当に今ならではだから」と。
ハーレイには期待されているけれど、マリッジブルーに罹った時には、落ち込む自分。楽しみに指折り数えた結婚式の日、それが不安に思えてきて。…寂しい気持ちで一杯になって。
今の自分は、色々と失くすらしいから。
両親と暮らす今の家やら、いつも自分を見守ってくれる両親がいてくれる生活やら。
前の自分なら、何も失くさなかったのに。…白いシャングリラを失うだけで、手に入れる幸せの方が遥かに多かったのに。
(だけど、今だって、ハーレイが…)
結婚した後は、とても幸せにしてくれるのだし、両親も家も消えてしまいはしない。
会いたくなったら会いにゆけるし、バスに乗ったら一人で遊びに行ける家。ハーレイが出掛けて留守の間に、寂しい気持ちになったなら。…母のおやつが食べたくなったら。
(たまにはバスで家に帰って、ママと一緒にパウンドケーキ…)
ハーレイの大好物のケーキを作って、持って帰るのもいいかもしれない。「ママと焼いたよ」と綺麗に包んで、リボンをかけてみたりもして。
(大丈夫だよね、マリッジブルーになっちゃったって…?)
きっとハーレイが慰めてくれるし、治してくれるに違いない。不安な気持ちになったって。
「結婚しない」と言い出すようなマリッジブルーも、きっと怖くはないだろう。
落ち込んだって、ハーレイがいてくれるから。
ハーレイが笑顔に戻してくれて、幸せな気分で結婚式の日を二人で待てる筈なのだから…。
マリッジブルー・了
※前のブルーの記憶には無かった、マリッジブルー。SD体制の時代は無かったのです。
平和な今の時代ならでは、ブルーも罹ってしまいそう。でも、きっとハーレイが治療する筈。
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花嫁さんだ、とドキンと跳ねたブルーの心臓。学校から帰って、おやつの時間に。
読んでいた新聞、其処に見付けた花嫁の横顔。髪を結い上げて頭にティアラ。真っ白なレースのベールも被って。
(えーっと…?)
キョロキョロと見回したダイニング。いるのは自分一人だけ。母はキッチンで、暫くは来ない。これはチャンス、と記事に集中することにした。おやつよりも気になる、花嫁の記事。
(ふふっ…)
思った通りに素敵な中身。婚約から始まる、結婚式までの準備が色々書かれていて。
新居を探す時のポイントや、用意するべき家具だとか。なんともワクワクする内容。自分一人で考えていても、詳しいことなど分からないから。
(ぼくだと、住む家は決まっているし…)
結婚したら、ハーレイの家に住もうと決めている。前はこの家とどっちにしようか、ちょっぴり悩みもしたけれど。
(結婚式で着る、ドレスも色々…)
真っ白にするか、華やかな色のドレスも着てみるか。白無垢もあるし、試着だけでも大変そう。第一、ドレスか白無垢なのかも決めていないから悩ましい。
結婚式の式場だって、と共感させられる、結婚式までに決めるあれこれ。思った以上に、花嫁になる前は忙しいらしい。人によっては美に磨きをかけ、習い事にも熱を入れたり。
そうなんだ、と読み進めていった記事の結びは…。
(マリッジブルーに気を付けて?)
なにそれ、と思った知らない言葉。初めて目にした「マリッジブルー」。
とても気になる言葉だけれども、母に尋ねるわけにはいかない。きっと変な顔をされるから。
(そんな言葉、何処で聞いてきたの、って…)
訊き返されたら困ってしまう。まさか、この記事で読んだなどとは言えないし…。
(前のぼくが知っていればいいけど…)
知っているかも、と期待をかけたソルジャー・ブルー。三世紀以上も生きた間に、一度くらいは耳にしているかもしれない。あるいはライブラリーの本で見たとか、そんな具合に。
前の自分の記憶を手繰るなら、続きは部屋で。ダイニングで考え込むよりも。
おやつの残りを綺麗に食べ終え、キッチンの母にお皿やカップを返して部屋に戻った。気になる言葉を心の中で繰り返しながら、けれど顔には出さないで。
(マリッジブルー…)
どんなのだろう、と勉強机の前に座って、さっきの続き。今の自分が知らない言葉。
マリッジブルーと言うほどなのだし、結婚式までの流れを追った花嫁向けの記事だったから…。
(結婚は分かるけど、ブルーって?)
マリッジは結婚、其処まではいい。続く「ブルー」が全くの謎。
自分の名前でないことは分かる。今の時代も大英雄の、ソルジャー・ブルーではないことも。
ブルーは色の名前だけれども、それのことでもないだろう。花嫁の衣装は純白なのだし、青色の出番は無さそうな感じ。「青いドレスを着たい」という場合は別として。
(他にブルーっていうものは…)
何か無いかな、と指を折ってみても、まるで分からない。ブルーはブルーで、青い色としか。
前の自分の遠い記憶を手繰っていっても、やはり無かった。マリッジブルーという言葉は。
(うーん…)
結婚しなかった前の自分。恋さえ秘密のままで終わって、結婚式を挙げてはいない。ハーレイと二人で地球に着いたら、と漠然と夢を見ていただけで。
(結婚式のことなんか…)
思い描けはしなかった。もちろん準備をするわけがないし、下調べさえもしていない。具体的な話を詰めるより前に、寿命の終わりが来てしまったから。
(地球まで辿り着けなかったら、結婚どころじゃないものね…)
ハーレイと二人きりで暮らすことは出来ず、死の瞬間までソルジャーとキャプテン。恋に落ちたことは誰にも言えずに、黙って死んでゆくしかない。
そうなることが分かってしまえば、夢さえも見られない結婚。
白いシャングリラで幸せそうな恋人たちを目にする度に、羨ましいと思っただけ。二人で生きてゆける彼らが、いつか地球まで行けるのだろうカップルたちが。
そんな日々では、結婚式について調べようとは思わない。自分とは縁が無いものなのだし、深く知るほど、悲しみが増してゆくだけだから。…「ぼくには無理だ」と。
そのせいで知らなかったのだろうか、マリッジブルーという言葉。
結婚式を挙げるつもりで調べていたなら、誰もが出くわすものかもしれない。本の中やら、白いシャングリラのデータベースの情報やらで。
(ぼくは知らないけど…)
前のハーレイも縁が無さそうな言葉だけれども、今のハーレイ。青い地球の上に生まれ変わったハーレイだったら、この言葉も知っているのだろうか?
なんと言っても大人なのだし、三十八年も生きている。友人たちの結婚式にも呼ばれたりして、沢山持っていそうな知識。それに自分との結婚のことも、心に留めてくれているから。
(ハーレイが来たら訊いてみたいけど、こんなの、メモに…)
書き留めて机に置いてはおけない。「マリッジブルー」などと記したメモは。
部屋の掃除は自分でしているけれども、母だって部屋に入ってくる。洗濯物を届けに来るとか、他にも色々。それも自分が学校に出掛けて留守の間に。
(机の上だと、ママが見ちゃうよ…)
だから駄目だ、と諦めた机。分かりやすくても、母に見付かるような場所には置けないメモ。
そうは思っても、引き出しの中に仕舞っておいたら、そのまま忘れてしまいそう。開けた時には思い出せても、肝心のハーレイが来ている時には、頭の端っこを掠めもせずに。
(メモの隠し場所…)
それさえあったら書いておくのに、使えそうな場所が閃かない。部屋のあちこちに視線を配って見回してみても、ただの一つも。
この調子だと、今日、ハーレイが来てくれなかったら、マリッジブルーという言葉は…。
(忘れてしまって、永遠の謎…?)
何のことだったかも分からないまま、日が経って記憶の海に沈んで。
それとも結婚を決めた時には、何処かで教えて貰えるだろうか?
(気を付けて、って書いてあったんだから…)
花嫁にとっては、とても大事で気を付けなければいけないこと。そうだとしたら、誰かが教えてくれそうでもある。「マリッジブルーに気を付けて」という注意とセットで。
結婚式に向けての準備の途中で、マリッジブルーの説明をして。
「こういうものに気を付けなさい」と、対処法とかも親切に話してくれたりして。
ちゃんと教えて貰えるかもね、と考えていたら聞こえたチャイム。窓から覗いたら、ハーレイが大きく手を振っていた。門扉の前で。
来てくれたからには訊かなくちゃ、と部屋でテーブルを挟んで向かい合うなり、ぶつけた質問。
「あのね、ハーレイ…。マリッジブルーっていうのを知ってる?」
「なんだって?」
いきなり何を言い出すんだ、とハーレイは怪訝そうな顔。「お前、いったいどうしたんだ?」と鳶色の瞳を丸くして。
「今日の新聞に載ってたんだけど…。ぼくの知らない言葉なんだよ」
前のぼくの記憶を探ってみたって、出て来ないから…。ハーレイなら知っているかと思って…。
花嫁さんの記事に書いてあった、と説明をした。それで初めて知ったのだから。
「結婚式までの流れって…。お前、そんな記事を読んでいたのか」
おやつの時間にダイニングでとは恐れ入ったな、しかも花嫁の写真付きだろ?
よくもまあ…、とハーレイは呆れ返った様子。「お前も大した度胸じゃないか」と。
「大丈夫、ママには見付かっていないから。…ちゃんと、いないの確かめたもの。読む前に」
それでね、その記事の一番最後にあったんだよ。マリッジブルーに気を付けて、って…。
結婚する人なら知っているから、書いてなかっただけなのかな…。ひょっとしたら。
だけど、ぼくは全然知らないし…。前のぼくだって知らないみたいだし…。
マリッジブルーってどういうものなの、結婚する時には当たり前なの?
ハーレイは聞いたことがあるの、と最初の言葉を繰り返した。「知っているの?」と。
「うーむ…。マリッジブルーと来たか…」
チビのお前の口から聞くとは、とハーレイが眉間に寄せた皺。心当たりはあるらしい。
「知ってるんだね、ハーレイは?」
その顔だったら、そうだもの。マリッジブルーを知ってるんでしょ?
「まあな。…今の俺くらいの年になってりゃ、普通は知っているだろう」
花嫁の方の事情にしたって、結婚相手は男だから。…男の方でも耳にするってな、その言葉。
「じゃあ、教えてよ」
ぼくに話しても問題ないなら、マリッジブルーの意味を教えて。
子供の間は早すぎる、って言うんだったら諦めるけど…。ハーレイ、其処は厳しいものね。
チビだからキスもしてくれないし、と上目遣いにチラと睨んだ。「ハーレイのケチ」と、日頃の恨みをこめた視線で。
マリッジブルーはどうなのだろうか、子供の自分は聞けないままに終わるだろうか…?
「知りたいと言うなら、仕方ないな…。チビには言えない話でもないし」
もっとも、お前が満足するかどうかは知らないが。…花嫁の気分の問題だからな、特別な何かが待っているってわけじゃないから。
マリッジブルーというヤツは…、とハーレイが教えてくれたこと。花嫁の気分を指す言葉。
嬉しい筈の結婚式を控えているのに、気分が沈んでしまう花嫁。結婚の日が近付くにつれて。
どういうわけだか、そうなる女性がとても多いから、出来た言葉がマリッジブルー。
マリッジは思った通りに結婚、ブルーの方には「落ち込む」という意味もあるらしい。結婚式に向けて心が弾む代わりに、涙ぐんだりする人も。
「えーっ!? マリッジブルーって、そういうものなの?」
結婚式って、最高に幸せな日だと思うんだけど…。その後もずっと幸せなんだよ、結婚して。
なのに悲しくなるなんて…。何か変だよ、本当にそれで合ってるの?
何か勘違いしていない、と信じられない気分で訊いた。「それって記憶違いじゃないの?」と。
「俺が間違いを教えてるってか? これに関しては、そいつは無いな」
やっぱり本当に知らなかったんだな、マリッジブルー。…チビのお前じゃ仕方がないが…。
耳にするような機会も無いしな、こんなチビだと。
結婚式に招待されても、御馳走しか見ていそうにないし、と痛い所を突かれたけれど。
「前のぼくだって知らないよ! 今のぼくなら、ハーレイに会う前はそうだけど…」
パパやママと結婚式に行った時には、ケーキの方ばかり見てたから。…美味しそう、って。
でも、前のぼくでも知らないんだから、ぼくが知らなくても仕方ないでしょ!
チビのせいだけにしないでよ、と尖らせた唇。前の自分はチビの子供ではなかったから。
「そりゃまあ、前の俺たちが生きてた時代じゃなあ…」
前のお前がいくら知識を増やしていたって、お目にはかかれなかっただろう。
結婚する気でデータベースを探してみてもだ、果たして出会えていたのかどうか…。
あの時代には、マリッジブルーなんかは無かったモンだから。
人類の世界にも無かったんなら、船だけが全てのミュウだって縁が無いってな。
SD体制の時代は今とは違う、とハーレイは説明してくれた。
機械が統治していた世界。大人の社会と子供の社会は、機械が分けてしまっていた。子供たちは十四歳になったら、養父母と別れて新たな生活。それまでの記憶を処理されて。
子供時代の記憶が薄れて、養父母の顔さえ曖昧になる成人検査。その後に教育ステーションへと送られ、やがて見付ける生涯の伴侶。結婚するコースに入ったならば。
結婚が決まれば、幸せ一杯の未来があるだけ。何処で暮らすか、養父母になるのか、一般社会の構成員の道を選ぶのか。そういったことを決めて始める生活。愛する人と結婚して。
順風満帆の結婚生活、それまでの道も希望に溢れた明るい道。マリッジブルーの出番は何処にも無かったという。花嫁は幸せを掴み取るだけで。
「…それじゃどうして、今の時代はマリッジブルーがあるの?」
前のぼくたちが生きた頃より、ずっと素敵な時代なのに。
人類とミュウのことはともかく、機械に記憶を消されるような時代じゃないし…。うんと平和な世界なんだし、幸せの量も桁違いだよ…?
悲しくなる筈がないじゃない、と首を傾げた。今は本当に幸せな時代なのだから。
「素敵な時代だからこそだな。…マリッジブルーになっちまうのは」
SD体制よりも前の時代にも、マリッジブルーはあったんだ。ずっと昔から言われていた。
しかし、機械が治めた時代じゃ、誰もそいつに罹りやしない。失うものが無いからな。
今の時代は、失くしちまうものが増えたんだ。結婚しようという花嫁たちは。
失くしちまったら悲しいだろうが、とハーレイが言うから驚いた。
「え…? 失くすって…。何を失くすの?」
いろんな幸せが手に入るのに、と訊き返した。結婚までの準備だけでも、忙しい中で幾つも掴む幸せ。二人で暮らすための家やら、その家に入れるための家具やら。
「そういったものは手に入るんだが…。幸せ一杯に見えるんだがな…」
よく考えてみろよ、結婚したら何処で二人で暮らすんだ?
親と一緒の家に住むなら、さほど問題は無いんだが…。大抵は家を出て行くだろうが。
生まれ育った大好きな家や、いつも一緒だった自分の家族。そいつがすっかり消えちまう。
近い所に引越しするなら、思い立った時に会いに行くのも簡単だが…。
人によっては、故郷の星を離れてゆくこともあるんだし…。ワープしなけりゃ行けない場所へ。
家も家族も、時には故郷も。…色々なものを失くす花嫁。
幸せになる代わりに失くしてしまう。愛する人と暮らせるけれども、それまでの日々は何処かへ消える。生まれ育った家での暮らしも、毎日顔を合わせた家族も、全てが過去になってしまって。
「SD体制の時代だったら、その心配は無かったんだが…。本物の家族じゃないからな」
ついでに機械が記憶を処理してしまうわけだし、子供時代に帰りたいとも思わない。
そういう風に育っていたなら、結婚となれば幸せだけしか無かったんだ。失くすものなど持っていないんだから。…育ててくれた親も、懐かしい家も。
ところが今だと、そうはいかない。マリッジブルーになっちまうわけだ、失うことが寂しくて。
だから、お前も気を付けろよ?
俺の嫁さんになるんだからな、と念を押されてもピンと来ない。マリッジブルーになるなんて。
「ぼく…? ぼくは平気だと思うけど…」
ずっと昔から、ハーレイと一緒。今のぼくに生まれてくる前からね。
今の方が寂しいくらいだと思うよ、ハーレイと離れ離れだもの…。せっかく会えても、一緒には暮らせないんだもの。今日もハーレイ、夜になったら帰っちゃうしね。
だけど、結婚した後は一緒。前のぼくたちだった時より、うんと近くにいられるよ。
ソルジャーとキャプテンなんかじゃないしね、部屋も別々じゃないんだから。
そうやってハーレイと暮らしてゆけたら、今よりもずっと幸せでしょ?
マリッジブルーになるわけがないよ、絶対に。結婚する日がまだ来ない、って悲しい気持ちで、カレンダーを見ていることはあっても。
きっとぼくには関係ないよ、と自信たっぷりで言ったのだけれど。マリッジブルーに陥るようなことは有り得ない、と思ったけれど…。
「本当か…? お前、きちんと考えてみたか?」
前のお前なら、結婚しても失うものは何も無かったんだが…。
SD体制の時代に生きていた上に、人類以上に記憶を失くしていたからな。
成人検査よりも前の記憶を、お前は持ってはいなかった。検査にパスした人類だったら、幾らか残っていたのにな。養父母のことも、育った家や故郷も。
そいつをすっかり失くしていたし、その辺りは人類のヤツらと同じだ。
結婚したって何一つ失くしはしないってわけで、未来への夢がたっぷりで。
失くすものと言ったらシャングリラだな、とハーレイが話す白い船。ミュウの箱舟だった船。
いつか地球まで辿り着いたら、二人で降りようと約束していた。ミュウを端から抹殺してゆく、忌まわしい機械が治める時代。それが終わって、箱舟が要らなくなったなら。
平和になったら、ソルジャーとキャプテンの役目も終わるし、恋を明かしても許される。
その時が来たら船を出ようと、地球の上にある小さな家で二人きりの暮らしを始めようと。
ハーレイと二人で生きてゆける代わりに、戻れなくなる白い船。シャングリラが宇宙に旅立って行っても、見送ることしか出来ない二人。
もうソルジャーではないのだから。…キャプテンでもないハーレイと二人、船を降りると決めた以上はもう戻れない。白い鯨が何処へ行こうと。
「シャングリラは失くしちゃうけれど…。青の間なんかは惜しくはないよ」
あんな大袈裟な部屋は要らないし、ハーレイと二人で暮らせるだけの家があれば充分。
シャングリラだって、二人きりでいられる家に比べたら、ずっと値打ちが落ちちゃうもの。
思い出は一杯詰まっているけど、幸せな思い出には、全部ハーレイがいるんだから。
そのハーレイと一緒だったら平気だよね、と微笑んだ。白いシャングリラを失くしたとしても、前の自分は少しも寂しくないのだから。
「前のお前なら、そうだった。お前が言ってる通りにな」
失くす家族や家の記憶は、とっくに失くしちまった後だ。人類のヤツら以上に、跡形も無く。
帰りたいと思う家も無ければ、会いたいと思う親だっていない。
ゼルやブラウたちがシャングリラと一緒に行っちまっても、あいつらは友達だったから…。
機会があったらまた会える、と手を振って別れられただろう。「またいつか」と。
そして何年も会えないままでも、そう寂しくはないんだろうな。俺と暮らしているのなら。
だが、今は…。
お父さんもお母さんもいるだろうが、とハーレイに覗き込まれた瞳。
「今のお前は、記憶を失くしちゃいないんだ」と。
生まれた時からずっと一緒で、血の繋がった本物の両親。SD体制の時代の養父母ではなくて。
この家で両親に守られて育って、結婚して家を離れる時まで、別れは来ない。
けれど、結婚した後は違う。
結婚式を挙げて帰ってゆくのは、この家ではなくてハーレイの家。其処が新しい家になるから。
ハーレイの家は、同じ町の中にあるけれど。ハーレイは歩いてやってくることもあるけれど。
その家は、此処の窓から覗いてみたって、屋根の端さえ見えない所に建っている。何ブロックも離れた場所に。
そんな所に移り住んだら、父と母には、今のようには会えなくなる。一日に何度も顔を合わせて笑い合ったり、食事をしたりも出来ない暮らし。
両親に会いに毎日帰ってゆけはしないし、何かの時に手を借りたいと思っても無理。
「お前が一人で留守番してても、お母さんのおやつは出て来ないんだぞ」
今のお前なら、お母さんが買い物に出掛けていたって、ちゃんとおやつがあるんだが…。
そいつが無くなっちまう上にだ、お前は昼間は独りぼっちだ。
上手く時間を潰せたとしても、待っていたって、俺しか帰って来ないんだし…。
お前の暮らしは変わっちまうぞ、というハーレイの指摘。今の暮らしと、結婚した後の暮らしは全く違うものだ、と。
「ホントだ、今と全然違う…」
ママのおやつが無いのは分かっていたけれど…。ママがいない家に行くんだから。
ハーレイが大好きな、ママのパウンドケーキのレシピを習って、お嫁に行こうと思ったけど…。
頑張ってケーキを焼いてみたって、味見してくれるママがいないんだね。
この家で練習している間は、ママが色々教えてくれて、味のアドバイスもしてくれるのに…。
そのママがいないよ、と気が付いた。「母がいない」という意味に。
今なら何処かに出掛けていたって、直ぐに帰って来てくれる母。そんなに長くは待たなくても。
ほんの少しでも遅くなったら、「ごめんなさいね」と謝られる日も。
父も昼間は仕事だけれども、夜になったら帰って来る。休日は家にいることも多い。庭の芝生を刈り込んでみたり、母の花壇を手伝ったりも。
両親の姿は、いつもあるのが当たり前。家族が揃う朝食と夕食、それ以外にも何度も会って。
夜中にだって、困った時には声を掛ければ起きてくれる両親。「どうしたの?」と母が部屋から顔を覗かせて、父も「どうした?」と出てきてくれて。
その人たちがいなくなる。…ハーレイの家に引越したら。
ハーレイの家と両親の家は全く違うし、家中の部屋を覗いてみたって父も母もいない。二人とも帰って来てはくれなくて、離れてしまって、独りぼっち。何ブロックも離れた場所で。
(でも、ハーレイが…)
いてくれるものね、と思ったけれども、そのハーレイも仕事に出掛けている間は留守。夏休みや春休みなどの時を除けば、週末以外はいつも学校。朝になったら出勤してゆく。
(帰って来るのは、早い時でも今日みたいな時間…)
午後のおやつには間に合わない。ポツンと一人で食べるしかない、三時のおやつ。
この家にいても、おやつを一人で食べている日も多いけど。今日もそうだったし、お蔭で新聞の花嫁の記事を読めたのだけれど。
(…ママはキッチンにいたか、庭に出てたか…)
とにかく家の何処かにはいたし、独りぼっちとは言えないだろう。「ママ、何処?」と呼べば、声が返っただろうから。「此処よ」と、「何か用事なの?」と。
けれど、ハーレイの家での独りぼっちは違う。本当に自分一人で留守番。
(ハーレイは今頃、授業中かな、って…)
時間割の写しを眺めてみても、ハーレイの様子は分からない。どんな教室で、生徒に何を教えているか。授業の途中の雑談の時間で、笑い声が上がっているかどうかも。
(前のぼくなら、ハーレイが船の何処にいたって…)
知りたいと思えば見ることが出来た。青の間から軽く思念で探って、居場所を見付けて。
あの頃のように、覗き見さえも出来ない自分。ハーレイが留守で寂しくなっても、悲しい気分になってしまっても。
(…留守番してたら、悲しい気分になっちゃうんだから…)
独りぼっちで留守番の日々が始まる前にも、そういう予感に包まれていそう。幸せ一杯の結婚と一緒にやってくる孤独、家にポツンと一人きりの日々を想像して。
(考えただけでも、寂しくなってしまっているし…)
そうなる時が近付いて来たら、本当に悲しくなるかもしれない。「もうすぐ独りぼっちだ」と。
昼の間は独りぼっちで、おやつの時間も一人きり。
気晴らしにパウンドケーキを作ろうと思い立っても、「おっ、焼いたのか?」というハーレイの声を聞ける時間はずっと先。仕事が終わって帰って来てから。
「上手く焼けたかな?」と試食するのも一人きりだし、母は味見をしてくれない。端っこの方を二人で食べてみたくても、母はいなくて一人だから。
結婚を控えた花嫁が罹る、マリッジブルー。幸せ一杯の日々が待っているのに、引き換えに何を失うのかを考えて。…それが寂しくて、とても不安で。
マリッジブルーがそういうものなら、今、こうやって考え事をしている自分も…。
「…ぼく、罹っちゃいそう…。ハーレイが言ってる、マリッジブルー…」
パパもママもいなくて独りぼっちで、ハーレイが仕事の間は留守番。
一人きりだよ、って気が付いちゃったら、悲しくてポロポロ泣いちゃうかも…。ハーレイの家に引越した後に。
そうなっちゃうのを想像したって、きっとホントに泣いちゃうから…。
これってマリッジブルーだよね、とハーレイに訊いたら、「間違いないな」という答え。
「やっぱり、そうなっちまうのか…。前のお前じゃないからな」
今のお前なら、本当にマリッジブルーになりかねん。今でもお前は不安そうだし、俺との結婚が決まった後には、本物のマリッジブルーというヤツに。
酷くなったら、「結婚なんかしたくない」と言い出すこともあるらしいから…。
そうならないよう、俺が気を付けてやらないと。
お前がマリッジブルーになっちまった時は、早めの治療を心掛けて。
未来の俺の嫁さんのために頑張らないとな、とハーレイは努力をするらしいけれど、結婚相手に治せるだろうか、マリッジブルーが?
その結婚が不安なのに。…ハーレイとの結婚が、寂しさや悲しさを運んで来るから怖いのに。
「ハーレイが治してくれるって…。どうやって?」
ぼくは結婚したら独りぼっちで、うんと悲しい日が待っていそうで不安なんだよ?
ハーレイに会ったら、もっと不安になりそうだけど…。もうすぐ結婚式の日が来ちゃう、って。
だってそうでしょ、ハーレイがデートに誘いに来るのは、ぼくと結婚するからで…。
そんなハーレイと会っていたって、ぼくは悲しくなる一方で…。
家から出たくなくなりそう、と正直な気持ちを口にした。マリッジブルーになってしまったら、きっと毎日が不安だから。結婚式のことを考えただけで、気分が沈みそうだから。
「俺だって、それは承知してるが…。たまには気晴らしといこうじゃないか」
まだ結婚もしない内から不安になってちゃ、人生、つまらないからな。
心配し過ぎは前のお前の時からの癖だ、もっと大らかに構えないと。今は平和な時代なんだし。
落ち込んでる時はデートに限る、とハーレイは自信満々だった。
「行かない」と言っても、宥めてデート。車で出掛けて、ドライブに食事。
不安な気持ちが消えるようにと、明るい話題を持ち出して。結婚した後の夢も沢山話して、心を軽くするという。「結婚したら素敵な暮らしが始まるんだ」と思えるように。
「頑張ってみても、なかなか治らないから、厄介なのがマリッジブルーらしいんだが…」
俺たちの場合は、普通のカップルとは事情が違う。…幸いなことに。
お前も俺も生まれ変わりで、前の俺たちは結婚できずに終わっちまった。いつか地球まで行けた時には、結婚しようと誓ってたのに。
その俺たちが青い地球まで来られたんだぞ?
前の俺たちが生きた頃には、何処にも無かった青い地球まで。…それも平和な世界にな。
そして俺たちは結婚するんだ、今度こそ誰にも邪魔をされずに。皆に祝福して貰って。
運命ってヤツに引き裂かれちまった、前の俺たちの約束の分まで果たせる結婚式なんだから…。幸せの量が桁違いだよな、他の沢山のカップルとは。
そうじゃないのか、と問われれば、そう。
前の自分たちは、恋したことさえ明かせなかった。本当に最後の最後まで。
けれど今度は恋を明かして、結婚式を挙げて、お揃いの指輪も嵌められる。左手の薬指に嵌める結婚指輪を、白いシャングリラには無かったものを。
「そうだね。前のぼくたちの分まで、一緒に結婚式だっけ…」
ぼくの中には前のぼくがいるし、ハーレイの中には前のハーレイ。
違う身体になっちゃったけれど、新しい別の命だけれど…。でも、魂はおんなじだから…。
今度こそ幸せになれるんだっけね、ハーレイも、ぼくも。
前のぼくが行きたかった地球で結婚して…、と遠く遥かな時の彼方に思いを馳せる。前の自分が諦めざるを得なかった夢。
青い地球まで辿り着くことと、ハーレイと二人で地球で暮らすこと。
それが叶うのが今の自分の結婚式で、結婚したら前の自分が諦めた夢がまた開き始める。地球でやりたいと願ったことを、ハーレイと一緒に実現させてゆくという夢。
ヒマラヤまで青いケシを見に行くとか、五月一日にスズランの花を贈り合うとか。
今の自分の夢も加えてゆくから、幾つもの夢。新婚旅行は宇宙から青い地球を見る旅。
そういう日々を始めるためには、まずはハーレイと結婚すること。
マリッジブルーで寂しいなどと言っていないで、悲しい気持ちになっていないで。今の自分には寂しいことでも、前の自分に比べたら…。
「…パパもママもいなくて、独りぼっちは寂しいけれど…。前のぼくより、ずっとマシだね」
待っていればハーレイが帰って来るから、ぼくは一人じゃないんだもの。
本当に悲しい独りぼっちは、前のぼくが知っているんだから…。
ぼくの右の手、と見詰めた右手。前の生の終わりに冷たく凍えた、悲しい記憶が残った右の手。
「そうだろう? お前が落ち込んじまっていたって、前のお前の悲しさよりかはマシなんだ」
そいつを思い出せとは言わんが、今のお前の幸せってヤツを噛みしめないとな。
どれだけ恵まれて生きているのか、これから先にも、どれだけの幸せが待っているのか。それを思えば、お前のマリッジブルーはだな…。
大したことではないだろうが、と鳶色の瞳がゆっくり瞬く。「じきに治るさ」と。
「うん、いっぺんに治ってしまいそうだね。…前のぼくの分まで、って思ったら」
今のぼくがどんなに寂しがっても、前のぼくには負けるから…。
メギドで独りぼっちになっちゃった時は、寂しいなんて思う余裕も無かったから…。ハーレイの温もりを失くしてしまって、右手がとても冷たくて。
もう二度と会えやしないんだ、って泣きじゃくりながら死ぬしかなくて…。
あの悲しさを思い出したら、マリッジブルーなんか消し飛んじゃうよ。直ぐに治って、元通り。
いつものぼくが戻って来るよ、と断言できる。「寂しいだなんて言ってられないよ」と。
ハーレイの温もりを失くしたことに気付いた、メギドで最期を迎えた時。
右手にハーレイの温もりは無くて、切れてしまったと思った絆。
あれよりも深い悲しみを前の自分は知らない。別れの痛みも、孤独も、それに絶望だって。
今の自分も知るわけがないし、きっと知ることも無いだろう。
マリッジブルーで沈み込んでいても、落ち込んでいても、あの悲しみには及ばないから。
「ほらな。今のお前は幸せなんだし、それをしっかり捕まえないと」
前のお前の夢だった結婚、今度は堂々と出来るんだから。
この家を出るのは寂しいだろうが、嫁に来るんだと言い出したのはお前だし…。
嫁に来るつもりで話を進めているしな、お前ってヤツは、いつだって。
それに…、とハーレイが浮かべた笑み。「俺の家は同じ町にあるしな?」と。
「お前の足では少し遠いが、俺なら歩いて来られる距離だ。たったそれだけしか離れてないぞ」
その気になったら、いつでも会いに行けるんだ。
俺が仕事に出掛けている間に、寂しくなったらバスにでも乗って。
SD体制の時代と違って、お母さんたちのことを忘れちまいはしないしな?
どんな顔だったか、家は何処だったか、お前はいつでも鮮やかに思い出せるってわけだ。会いに行こうと思えば行けるし、実に素晴らしい時代じゃないか。
結婚しようが、何年経とうが、お前の家は此処にある。お母さんたちも此処で待っててくれて、いつでも迎えてくれるんだから。
寂しがってる暇があったら、家に帰るためのバスの路線でも考えておけ、と笑われた。
まだ結婚もしない内から、あれこれ頭を悩ませないで。寂しい独りぼっちの時間を思って、涙を溢れさせないで。
「うん…。寂しい気持ちになってしまったら、そうするよ」
ハーレイの家から此処に来るには、どのバスに乗れば良かったっけ、って考える。何分くらいで着くバスだったか、途中のバス停の名前は何か。
本当にそんなに遠くないものね、他の星に行くんじゃないんだから…。
パパもママも家に帰れば会えるし、寂しくなったら会いに帰ればいいんだから…。
家の場所も、パパとママの顔も覚えているもの、と今の自分の幸せを思う。きっと一生、忘れることは無い両親。自分が生まれ育った家。何歳になろうと、何百年と生きようと。
(…でも、前のぼくは覚えていなかったんだよ…)
前の自分は、十四歳の誕生日まで育ててくれた養父母を忘れた。成人検査で忘れたものか、後の過酷な人体実験がそうさせたのか。それさえも今は分からない。
SD体制の時代の仕組みからして、成人検査を受けた直後は覚えていた可能性もある。おぼろにぼやけた顔になっても、「これがパパとママ」と思える人を。
けれどアルタミラの檻にいる間に、何もかも忘れて消えてしまった。両親の顔も、育った家も。
あの時代には、成人検査をパスした子供たちさえ、ごく曖昧な記憶しか持っていなかった。誰が自分を育てていたのか、どういう家で育ったのかも。
そういう時代を生きて死んでいった、前の自分に比べたら…。
とても贅沢な悩みなのだ、と気付かされたマリッジブルーというもの。
独りぼっちが寂しいだとか、両親のいない家で暮らすのが悲しいだとか。両親のことも、育った家の場所も、記憶はとても鮮やかなのに。…望みさえすれば会いに行けるのに。
「ねえ、ハーレイ…。今の時代の花嫁さんたちは仕方ないけど…」
ぼくがマリッジブルーに罹ったなんて言っていたなら、とても我儘で贅沢だよね。
パパもママもちゃんと覚えているのに、会いたい時には会いに行けるのに…。
寂しくなるから結婚するのが不安だなんて、とコツンと叩いた自分の額。前の自分の悲しすぎる記憶を思い出したら、贅沢はとても言えないから。…我儘なことも。
「分かったか? 前のお前の頃に比べりゃ、今のお前は幸せ者だということが」
しかしだ、マリッジブルーになっちまうお前も今だからこそで…。
前のお前なら、そんな風には決してならない。…失くしちまうものが無かったからな。
マリッジブルーは今のお前の特権なんだし、今ならではの花嫁の気分を味わっちゃどうだ?
うんと我儘なマリッジブルーになれる贅沢、それを存分に楽しむのもいいと思うがな…?
なってみるのもいいかもしれん、と言われたけれども、マリッジブルーになったら辛い。寂しい気持ちに包まれるのだし、楽しみな筈の結婚式の日が近付いて来たら落ち込むらしいし…。
「楽しんでみろって…。ぼくは落ち込んでるんだよ?」
ハーレイと結婚するのが不安で、とても寂しくて…。パパとママの家にいようかな、って…。
もう結婚は断ろうかな、って思ってるかもしれないのに…?
それでどうやって楽しむの、とハーレイの顔を睨んでやった。楽しめる筈が無さそうだから。
「普通はそうかもしれないが…。浮上した時の気分が最高だろうが、お前の場合は」
前のお前のことを思い出して、今がどれほど幸せなのかに気付いたら。
俺としては味わって欲しいんだがなあ、落ち込んだ気分から一気に天国気分ってヤツを。
お前の気分が浮上する度に、そりゃあ素晴らしい笑顔が見られそうだから。
「早くハーレイと結婚したいな」と言いそうだしなあ、落ち込んでたお前は消えちまって。
そいつを是非とも見たいもんだ、とハーレイは半ば本気のようだから…。
「罹ってもいいの、マリッジブルー…?」
治すのはとても厄介なんでしょ、普通の人が罹ったら…。ぼくだと治せそうだけど。
ホントに治ってしまいそうだけど、治るまでは、涙がポロポロ零れていたりもするんだよ…?
もうハーレイとは結婚しない、と家から一歩も出たがらないかも、と最悪のケースを挙げてみたけれど。…ハーレイがデートに誘いに来たって、部屋に閉じこもりそうだと話したけれど。
「そういうことなら、お前は部屋で踏ん張っていろ」
俺はお前の部屋の前に座って、せっせと話し掛けてやるから。…お前が浮上しそうなことを。
その内に扉がそうっと開くんだ、「やっぱり、ちょっと出掛けたいかも」と。
そしたらお前を外に連れ出して、とびきりの笑顔に戻してやる。最高の気分で過ごせるように。早く結婚したい気持ちで、ワクワクと家に帰れるように。
お前のマリッジブルーを治せる俺の特権、俺だって楽しみたいからなあ…。
結婚が決まったら是非、罹ってくれ、とハーレイがパチンと瞑った片目。「よろしく頼む」と。
「マリッジブルーのお前も素敵に違いないぞ」と、「本当に今ならではだから」と。
ハーレイには期待されているけれど、マリッジブルーに罹った時には、落ち込む自分。楽しみに指折り数えた結婚式の日、それが不安に思えてきて。…寂しい気持ちで一杯になって。
今の自分は、色々と失くすらしいから。
両親と暮らす今の家やら、いつも自分を見守ってくれる両親がいてくれる生活やら。
前の自分なら、何も失くさなかったのに。…白いシャングリラを失うだけで、手に入れる幸せの方が遥かに多かったのに。
(だけど、今だって、ハーレイが…)
結婚した後は、とても幸せにしてくれるのだし、両親も家も消えてしまいはしない。
会いたくなったら会いにゆけるし、バスに乗ったら一人で遊びに行ける家。ハーレイが出掛けて留守の間に、寂しい気持ちになったなら。…母のおやつが食べたくなったら。
(たまにはバスで家に帰って、ママと一緒にパウンドケーキ…)
ハーレイの大好物のケーキを作って、持って帰るのもいいかもしれない。「ママと焼いたよ」と綺麗に包んで、リボンをかけてみたりもして。
(大丈夫だよね、マリッジブルーになっちゃったって…?)
きっとハーレイが慰めてくれるし、治してくれるに違いない。不安な気持ちになったって。
「結婚しない」と言い出すようなマリッジブルーも、きっと怖くはないだろう。
落ち込んだって、ハーレイがいてくれるから。
ハーレイが笑顔に戻してくれて、幸せな気分で結婚式の日を二人で待てる筈なのだから…。
マリッジブルー・了
※前のブルーの記憶には無かった、マリッジブルー。SD体制の時代は無かったのです。
平和な今の時代ならでは、ブルーも罹ってしまいそう。でも、きっとハーレイが治療する筈。
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(えっと…)
今日のおやつ、とブルーが頬張っていたパウンドケーキ。学校から帰って、ダイニングで。
母の手作り、オレンジがたっぷり。ケーキの上にも、生地の中にも。口の中に広がるオレンジの味。爽やかな酸味と、それに甘さと。
美味しいよね、と食べている間に気付いたこと。パウンドケーキが好きな恋人。
(ハーレイの好きなパウンドケーキは…)
やっぱり母の手作りだけれど、オレンジとは違ってプレーンなもの。本当に基本の材料だけの。
小麦粉と砂糖と、バターと卵。どれも一ポンドずつ使って焼くから「パウンド」ケーキ。それがハーレイの大好物で、母が作るのが大切な所。
どうしたわけだか、母が焼いたら「おふくろの味」になるらしい。隣町で暮らすハーレイの母が作るパウンドケーキと、そっくり同じ味わいに。
同じ材料とレシピで焼いても、ハーレイには再現できない味。何度焼いても、頑張ってみても。
その味のケーキを作れるのが母で、すっかり魅せられているハーレイ。「美味いんだよな」と。
(オレンジの味のパウンドケーキも、好きみたいだけど…)
そちらの方は、おふくろの味だと聞いてはいない。「お母さんのケーキは美味いな」としか。
ハーレイの「おふくろの味」になるのは、プレーンなパウンドケーキだけ。小麦粉と砂糖、卵とバターで焼き上げたシンプルなもの。
(オレンジが少し入っただけでも、味が変わって来ちゃうから…)
同じパウンドケーキにしたって、ハーレイの「おふくろの味」にはなれない。美味しいケーキになれるだけ。
それを思うと、お菓子というのは面白い。ほんの少しの材料だけで、違う味わいになるケーキ。
しかもプレーンなパウンドケーキを焼いてみたって、作り手で味が変わるだなんて。
(ぼくもパウンドケーキ、上手く焼けるようになりますように…)
それが自分の未来の夢。
今の自分はチビの子供で、料理は調理実習くらい。母と一緒にお菓子作りもしていない。
だから知らない、母のパウンドケーキのレシピ。作る所をしっかり見学したことも無いし、まだ分からないケーキの秘密。
どうすれば母と同じに焼けるか、ハーレイが好きな「おふくろの味」に出来上がるのか。
前にハーレイから聞いたこと。「作り手の癖かもしれないな」と。
パウンドケーキの材料を同じに計っていたって、レシピが同じだったって…。
(作る人の癖が出るんだろう、って…)
材料を混ぜてゆく時だとか、混ぜ合わせる時間やタイミングなどや。ハーレイの母が持っている癖と、母の癖とが同じなら…。
(おんなじ味のパウンドケーキになるものね?)
いつかはそれをマスターしたい。母に習って、レシピもきちんと教わって。
今は「教えて」と言えないけれども、ハーレイとの結婚が決まった後なら、もう堂々と頼んでもいい。「ハーレイはこれが好きなんだから」と、「ママの作り方のコツを教えて」と。
そうして頼んで、修業を始めるパウンドケーキ。ハーレイが好きなプレーンなもの。おふくろの味と同じケーキを作れるようになったなら…。
次は他の味のパウンドケーキにチャレンジ、そちらの方も上手く出来たら褒めて貰えるだろう。「この味のケーキも美味いじゃないか」と、「おふくろの味にも負けていないぞ」と。
(ぼくが作るケーキの味はこれ、っていうのが出来たら嬉しいよね…)
今日のようなオレンジ風味でもいいし、バナナやナッツを入れてもいいし、チョコレートでも。
プレーンはハーレイの「おふくろの味」が最高だから、それ以外の味のパウンドケーキ。食べたハーレイが「ブルーのだな」と思ってくれれば、きっと幸せ。
何処かで同じ味のケーキを口にした時に。「こいつはブルーのケーキじゃないか」と。
それを食べたら、家に帰って話して欲しい。「今日はお前のと同じケーキを食ったんだぞ」と。楽しそうな顔で、「お前が焼いて持って来たのかと思っちまった」という報告。
(ママのケーキで、そう言ってたもんね…)
あまりにも良く似ていたらしくて、「おふくろがコッソリ持って来たのかと思ったぞ」と笑ったハーレイ。そんなことなど有り得ないのに、そう思うくらいに似ていた味。
それと同じに、「ブルーの味」のパウンドケーキを作れたらいい。
ハーレイのお気に入りのケーキで、自分にしか焼けないパウンドケーキ。料理上手なハーレイが「たまには俺も焼いてみるかな」と挑戦したって、同じ味にはならないケーキ。
「どうなってるんだ?」とレシピを確かめてみても、ハーレイが何度頑張ってみても。
作り手の癖が出てくるケーキは、きっと出来上がりが違うから。同じレシピで焼き上げたって。
(ふふっ…)
そんなケーキを焼ける日が来たら素敵だよね、と戻った二階の自分の部屋。
勉強机の前に座って、未来への夢を膨らませる。「ブルーの味」は何のケーキになるのか、と。プレーンなパウンドケーキだったら「おふくろの味」で、母の味。
違う風味のパウンドケーキが「ブルーの味」になるのだけれども、どの味だろうと。
(…オレンジとか?)
直ぐに浮かんだのが、さっき食べたばかりのオレンジ風味。生地にもオレンジ、ケーキの上にも薄くスライスしたオレンジを幾つも並べて焼き上げたもの。
あれもいいかな、と考えたけれど、オレンジの個性で変わるだろうか?
たまに食料品店に行くと、いろんな種類のオレンジが並ぶ。母が買って来るオレンジの種類も、その日の気分で変わるようだし…。
(うーん…)
酸味の強いオレンジだとか、果肉の色が赤いものとか。使ったオレンジの種類次第で、ケーキの風味も変わりそう。生地の中にも混ぜ込むのだから。
(このオレンジだ、って買って来たって…)
同じ味とは限らないオレンジ、幾つも買ったら酸っぱいものやら、甘いものやら。自然が作ったオレンジの個性、同じ枝に実った兄弟の実でも。
(選んだ実で味が変わっちゃいそう…)
オレンジの味は色々だしね、と考えていたら掠めた思い。「オレンジだった」と。
夏ミカンに少し似ているオレンジ。皮の色が濃いのがオレンジの方で、隣同士に並んでいたら、きっと分かると思うけれども…。
(…オレンジの木…)
沢山の実をつけるオレンジは、白いシャングリラにも植えていた。
花の季節にはいい香りがするから、農場だけでなくて公園にも。船の中で作り出した四季でも、初夏に幾つも咲いていた花。それが終われば青い実がつく。
(最初は小さな緑色の実で…)
やがて色づき、食べ頃になったら係の者たちが収穫した。子供たちも手伝いに出掛けたりして、手の届く場所の実を手を一杯に伸ばして取って。
あって良かった、と前の自分が思ったオレンジ。果樹は幾つもあったけれども、その中でも。
白い鯨が出来た頃には、他の果実と同じ認識。「今年も沢山実っている」と見ていた程度だったオレンジ。けれど事情はガラリと変わった。前の自分の命の終わりが見えて来た頃に。
(オレンジスカッシュ…)
レモンではなくて、オレンジを使った酸っぱい飲み物。それが好きだったのがジョミー。
前の自分が次のソルジャーに選んだ少年、成人検査を妨害して。…リオに命じて、シャングリラまで連れて来させて。
何かと逆らってばかりだった彼は、船に馴染もうとしなかった。「ぼくはミュウじゃない」と、頑なに。ソルジャー候補になった後には、「この船にもあるんだ」と笑顔になった好きな飲み物。
オレンジスカッシュが大好きだったと、「ママが作ってくれてたんだよ」と。
(…オレンジスカッシュは、オレンジを搾るだけだし…)
搾った果汁にソーダ水を加えて、後は好みでレモンや砂糖。誰が作っても、それほど味に違いは出ないことだろう。甘みが強いか、酸っぱいかといった僅かな違いがあるだけで。
ジョミーの母が作っていたのも、オレンジの個性で味が変わったに違いない。「酸っぱいよ」と砂糖を加えた日だとか、「もっとソーダ!」と足していた日とか。
だからシャングリラのオレンジスカッシュも、ジョミーには懐かしい味だったろう。母の味とは違うものだと思いはしないで、「家でも飲んだ」と食堂で見たら注文して。
けれど…。
(ジョミーにだって、お母さんの味…)
きっとあっただろう、今のハーレイに「おふくろの味」があるように。
母が焼くプレーンなパウンドケーキがとてもお気に入りで、「俺のおふくろのと同じ味だ」と、いつも喜んでいるように。
それと同じに、ジョミーにも何かあったのかもしれない。「おふくろの味」というものが。
(前のぼくたちは、記憶をすっかり失くしてて…)
成人検査と、繰り返された過酷な人体実験が奪い去った子供時代の記憶。何もかもを。
養父母がいたことも、生まれ育った家があったことも、全て忘れた前の自分。ハーレイたちも。
何も覚えていなかったのだし、「おふくろの味」は存在しない。母親の記憶が無いのでは。
アルテメシアで船に迎えた子供たちからも、特に聞いてはいないけれども…。
(ジョミーにもあった…?)
舌が覚えていた「おふくろの味」。ジョミーを育てた母が作った料理の味。
オレンジスカッシュを懐かしんだジョミーは、母の料理やお菓子の記憶を失くさないまま。全て心に残したままで、白いシャングリラに連れて来られた。成人検査は妨害されたのだから。
(小さい間に船に来た子は、おふくろの味って思うくらいには…)
味覚が完成されていないし、見た目が同じ料理が出たなら、それだけで満足したのだろう。この船でも家と同じ料理が食べられる、と。味の違いには気も留めないで。
(だけど、ジョミーは…)
目覚めの日の朝まで養父母と過ごして、朝食も一緒に食べて別れた。その上、記憶を消されてはいない。あの朝に食べた最後の食事も、鮮やかに覚えていたのだろう。
(おふくろの味も、きっと幾つもあったんだよね…?)
今のハーレイだとパウンドケーキがそうだけれども、ほんの一例。他にも「おふくろの味」だと思う料理はある筈、食べた途端に「これだ!」と舌に蘇る記憶。
十四年間を養父母と暮らしたジョミーも、同じだったに違いない。シャングリラで懐かしく思う料理を口に入れても、「ママの味だ」と思えずに過ごしていただけで。
(同じ味の料理があったんだったら、ぼくやリオには…)
話しただろうと思うから。「ぼくのママのと同じ味がしたよ」と、「あれが大好き!」と。
次から食堂で見かけた時には、迷わずに注文する料理。「ママのを食べているみたいだよ」と、最高の笑顔で頬張って。
そういう話を知らないからには、無かったらしい「おふくろの味」。白いシャングリラの食堂に行っても、懐かしいものはオレンジスカッシュだけ。オレンジを搾ってソーダを加えただけの。
(おふくろの味の料理は、何処にも無くって…)
食べたいと思っても違った味。ジョミーの母のとは違う味付け、見た目は同じ料理でも。
これを家でも食べていたのだ、と選んでトレイに載せてみたって、口に運んだら覚える違和感。一口目で「違う」と舌が訴えるか、食べてゆく間に気付くのか。
(今のぼくだって、ママのと違うお料理だったら…)
食べる内に「違う」と気が付く筈。直ぐにはそうだと分からなくても、「いつものじゃない」と感じ取って。母の料理と重ねてみたなら、何処かが違う味なのだから。
幸いなことに、今の自分は「母の料理」を食べるのが基本。もちろん、ケーキなどのお菓子も。
お蔭で他のを口にしたって、特に何とも思いはしない。学校の食堂で食べるランチも、外出した時に両親と入る、レストランで出てくる料理でも。
(学校のランチも、レストランのも、其処で作った味ってだけで…)
美味しかったらそれでいい。母の料理と違っていたって、その料理はそれで満足の味。こういう味になってるんだ、とスプーンやフォークで食べた後には「美味しかった」と「御馳走様」で。
母の料理は家でいつでも食べられるのだし、こだわる理由は何も無いから。家とは違った味わいだって、料理はちゃんと美味しいのだから。
(…ママの料理に慣れていたって、違う味でも美味しいし…)
味が違うと考えもせずに、食べているのが食堂のランチ。昼休みにはランチ仲間と一緒に注文、賑やかなお喋りの方に夢中で。「ママの味じゃない」と気付きもせずに。
けれども、母の作る料理を二度と食べられないのなら。…食べたくても家に帰れないなら、今の自分も探すだろう。「ママのと同じ味のがいいよ」と、「同じ味がするお店は無いの?」と。
(ジョミーは、そうなっちゃったんだ…)
成人検査でミュウと判断され、帰れなくなってしまった家。二度と会えなくなった両親。
もっとも、SD体制の時代だったら、ミュウでなくてもそうなのだけれど。目覚めの日を迎えた子供を待つのは記憶の消去で、もう戻れない養父母の家。「おふくろの味」は食べられない。
(それでも、機械が忘れさせるから…)
教育ステーションに向かう子たちは、おふくろの味を覚えてはいない。里心など持たないように記憶を処理され、過去を振り返りはしないから。
普通の人生を送っていたなら、何の問題も無かったジョミー。SD体制の時代の子に相応しく、養父母の記憶は薄れてしまって。
ところがジョミーは、記憶を一切失くすことなくシャングリラに来た。養父母のことも、育った家も、くっきりと心に刻まれたままで。
(おふくろの味だって、忘れてなくて…)
「オレンジスカッシュがある」と喜んだほどだし、他の料理や菓子の記憶も消えてはいない。
だとしたら、どんなに寂しかったろうか、あの船で。
母の料理と同じものだ、とトレイに載せても、「おふくろの味」などしなかった船で。
ようやく気付いたジョミーの気持ち。「家に帰りたい」と前の自分に訴えたジョミー。
(前のぼく、ジョミーに恨まれてた…?)
白いシャングリラに連れて来たことを、二度と両親には会えないようにしたことを。成人検査が何であろうと、ジョミーにとっては些細なこと。結果が全て。
(記憶を消されたら、どうなっちゃうかは…)
具体的には知らないのだから、漠然とした恐怖があっただけ。「記憶を消されそうになった」と覚えていたって、消された結果は分からない。どの程度まで記憶を失くすか、どうなるのかは。
(ジョミーのママが作った料理の味とかも…)
忘れてしまう結果になっていたなど、あの時のジョミーが知るわけがない。もっと後になって、ソルジャー候補としての勉強が始まるまでは。…人類の社会の本当の仕組みを教わるまでは。
そんな調子だから、シャングリラに連れて来られたジョミーは、今の幸せな自分と違って…。
(お母さんたちがいる家には帰れなくって、おふくろの味も食べられなくて…)
それきりになってしまったのだった。
育ててくれた養父母の記憶や、育った家や食べた料理の鮮明な記憶を抱いたままで。
今の自分がそうであるように、十四歳の誕生日を迎えた後にも、何一つ記憶を失くすことなく。
覚えているのに帰れない家、会えない両親。食べることが出来ない「おふくろの味」。どうして全てを失ったのかと、さぞ悔しかったことだろう。悲しくて辛くて、どうしようもなくて。
(…前のぼくのせいだ、って思うよね…)
そういう立場に追い込まれたのは、成人検査を妨害されたからなのだ、と。邪魔をしたミュウの長が悪いと、「ぼくはミュウとは違うのに」と。
ジョミーにとっては余計なお世話で、パスしたかった成人検査。どういう結果をもたらす検査か知らなかったら、単なる通過儀礼だから。
(前のぼくが邪魔をしたからだ、って…)
最初は確かに恨まれていた。弱り果てた身体で無理をしてまで、ジョミーを救い出したのに。
残り少ない寿命を自ら削ると承知で、テラズ・ナンバー・ファイブと対峙し、成人検査を無事に中断させたのに。
けれど、ジョミーは怒っただけ。「ぼくの未来を滅茶苦茶にした」と。
ミュウの船になど来たくなかったと、「何もかもソルジャー・ブルーのせいだ」と。
白いシャングリラに迎えられた後も、船に馴染もうとしなかったジョミー。何日経っても、ただ怒るだけで。…やり場のない怒りを、誰彼かまわずぶつけるだけで。
(キムとも喧嘩していたし…)
青の間に初めてやって来た時も、「家に帰せ」と怒鳴られたほど。ミュウとしての自覚はまるで持たずに、「家に帰れば元通りの日々が戻ってくる」と信じたままで。
成人検査を終えた子供は、養父母の許にはいられないのに。ミュウでなくても記憶を消されて、教育ステーションへと旅立つのに。
ジョミーが通っていた学校でも、「目覚めの日」の後に歩む進路を教えただろうに、何もかもを自分に都合よく解釈していたジョミー。「家に帰れば元の暮らしが始まる」と。
そんなことなど有り得ないのが人類の社会。ジョミーが家に帰ってみたって、養父母の家からは消された痕跡。「ジョミー」という子が、その家にいたという証。
ジョミーの持ち物も、ジョミーの写真も、ユニバーサルの職員たちが処分して。成人検査をパスしていった子たちと同じに、「そういう子供がいた」ことを示す一切を。
(家に帰れば、それが分かって目が覚めるだろう、って…)
そう考えて、ジョミーを家に帰したけれど。リオをつけて帰してやったけれども、前の自分は、あの時のジョミーの「帰りたい気持ち」まで汲み取ったろうか?
どうして家に帰りたがるのか、それほどまでに家を恋しがるのか。
ただ帰りたいだけなのだろう、と「目を覚まさせる」ために帰した自分。帰れる家など、もはや何処にも無いと分かれば戻るだろう、と。
ジョミーが帰っていった家には、何も残っていないと承知していたから。ユニバーサルから派遣された職員、彼らが作業を終えた後。ジョミーの痕跡が残る全てを処分して。
(お母さんたちは、作業の間は子育てを終えた特別休暇で…)
家を留守にして出掛けていたから、本当に「空っぽ」になった家。それを見たなら、ジョミーも諦めるしか道はない筈。「自分の居場所は此処ではない」と、「家は何処にも無いんだから」と。
(それが分かれば、家に帰りたいと思う気持ちも…)
ジョミーの中から消える筈だ、と考えたのが前の自分。そうするためにジョミーを家に帰した。
けれど分かっていたのだろうか、ジョミーの気持ちを本当の意味で…?
両親を、家を恋しがった心を。「帰りたい」と願った、ジョミーの強い思いのことを…?
前の自分には無かった記憶。子供時代の記憶を全て失くして、養父母も家も、欠片さえも残さず頭の中から消えた後。成人検査よりも前の記憶は、何も無いまま。
子供には養父母がつくということ、十四歳の誕生日までは養父母の家で育てられること。知識は持っていたのだけれども、無かった実感。…両親とは何か、家とはどういう場所なのか。
アルテメシアの雲海の中に潜む前から、データベースや本で知ってはいた。両親のことや、家というもの。子供は其処で育ってゆくと。
雲海の星に隠れ住んでからは、もっと詳しい情報を得た。親子連れで遊びに出掛ける姿や、家がある場所や。…知ったつもりになっていた「家族」。養父母と子供が共に暮らす家。
(十四歳になるまで、一緒に暮らして…)
後は目覚めの日が来て別れるだけ、と思っていたのが養父母と子供。親に懐く子も、前の自分は知っていたのに…。
(…本当は分かっていなかったかも…)
今の自分なら分かるけれども、前の自分には掴めなかった感情。養父母と引き離される悲しみ、それがどれほどのものなのか。…幼い子供でも、親を慕って泣いていたりもしたのだから…。
(もっと大きくなってたジョミーは、お母さんたちのこと…)
忘れ難くて、帰りたかったことだろう。養父母と暮らしていた家へと。
成人検査で記憶を消されていない以上は、日が経つごとに辛くなるだけ。家に帰りたい気持ちが強くなってゆくだけ。
(もしも、今のぼくが…)
ジョミーがそうなってしまったように、見知らぬ誰かに攫われたなら。
「今日から此処で暮らすように」と、まるで知らない遠い所に連れてゆかれて、閉じ込められてしまったならば。
(ハーレイのことは抜きにしたって、パパもママもいなくて…)
自分の部屋に帰れはしないし、もちろん家にも帰れない。攫われてしまったのだから。
「家に帰して」と泣き叫んだって、聞いてはくれない悪人たち。善人のように振舞っていても、誰もが悪人。家に帰してくれはしないし、新しい暮らしに馴染むようにと強いるだけ。
(ママのケーキが食べたくっても…)
違うケーキを差し出される。「これも美味しいケーキだから」と。
そんなの嫌だ、と思った暮らし。両親と無理やり引き離されて、二度と帰れはしない家。とても耐えられはしない毎日、両親が、家が恋しくて。
母が作ったのと同じ料理やケーキが出たなら、きっと涙が零れてしまう。食べながらポロポロと零れ落ちる涙。「ママが作ったケーキじゃないよ」と、「ママのはこんな味じゃなかった」と。
(今のぼくだと、そうなっちゃって…)
同じ境遇に置かれていたのが、シャングリラに連れて来られたジョミー。
本物の両親とは違ったけれども、親を慕う気持ちは同じだったろう。記憶を消されずに船に来た以上は、攫われたのと変わらない。成人検査のことを抜きにして考えたなら。
(…ジョミーに悪いことをしちゃった…)
前の自分が「親」の記憶を持ってはいなかったせいで。「家」のことも忘れていたせいで。
それがどれほど大切なものか、まるで分かっていなかった。帰りたがったジョミーの気持ちさえ逆に利用したほど、酷かった自分。
(ぼくが攫われて、やっとの思いで逃げ出して…)
懐かしい家に帰り着いたら、全てが消えているなんて。…部屋も両親も、何もかもが全部。
考えただけで、足元が崩れて落ちてゆきそう。世界がそっくり壊れてしまって、虚無の闇の底へ飲まれてしまうみたいに。
(…ぼくだったら泣いて、泣きじゃくって…)
自分を攫った悪人たちの所へ戻ろうだなんて、きっと夢にも思いはしない。そうする代わりに、両親を探すことだろう。ふらふらと町を彷徨い歩いて、「パパ、ママ、何処…?」と。
疲れ果てたら家に戻って、何も無い床で眠るのだろう。「朝になったら、元通りかも」と。
一晩眠って目を覚ましたなら、消えているかもしれない悪夢。朝の光が恐ろしい夢を払い除け、前の通りの一日が始まる。両親が戻って、朝食の匂いがダイニングの方から漂って来て。
(そうなるよね、って思って、信じて…)
何と言われても、悪人たちが暮らす場所には戻らない。
「此処にいたなら殺されますよ」と諫められても、けして縦には振らない首。
「そんなの嘘だ」と、「パパもママも帰って来るんだから」と。
二人が戻るまで待っていなきゃ、と言い張る自分が目に浮かぶよう。それが駄目なら、頑張って探しに行くんだから、と。
やっと分かった、ジョミーの行動。リオを振り回して、ユニバーサルの者たちに捕まった理由。
あんな状況で、両親を、家を、諦められる筈がない。ようやく家に戻れたからには、元の通りに生きてゆきたいと願うだろう。ミュウの船になど戻ることなく、両親の側で。
(だって、攫われたんだから…。今のぼくと少しも変わらない年で…)
あの時のジョミーは、目覚めの日に全てを失った。十四歳の誕生日を迎えた日に。
それを思えば、今の自分の方が半年くらいは年上。誕生日はとうに過ぎた後なのに、ジョミーと同じに振舞いそうな子供。「家に帰して」と泣いて騒いで、帰った後にも諦めないで。
(今のぼくでも、絶対、捕まっちゃうんだよ…)
リオの言うことを聞きもしないで、ユニバーサルの保安部隊に包囲されて。…前の自分が踏んでいたように、シャングリラに戻ってゆく代わりに。
(帰るわけなんか無いんだから…)
もっと分かってあげれば良かった。ジョミーがどんな気持ちでいたのか、帰りたいと願い続けていたか。…理解しようにも、前の自分には無理だったけれど。
(子供時代のことは、何も覚えていなかったから…)
ジョミーの気持ちは分からないものね、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、ハーレイ…。ジョミーはぼくを恨んでたかな?」
とても恨んで憎んでたのかな、前のぼくのこと…。
「はあ? 恨むって…」
なんでまた、とハーレイは怪訝そうな顔。「いったい、いつの話なんだ?」と。恨んでいたならソルジャーを継いでいるわけがないと、「ソルジャー候補にもなりはしないぞ」と。
「それよりも前の話だよ。…一番最初に船に来た時」
前のぼくが成人検査を妨害したけど、リオだって救出に向かわせたけど…。
無理やり連れて来ちゃったようなものでしょ、ジョミーは来る気は無かったんだから。
成人検査をちゃんとパスして、教育ステーションに行くつもりだったし…。
それを攫って連れて来たのが前のぼくだよ、リオに任せて救出させて。
救出って言ったら聞こえはいいけど、ミュウの自覚が無かったジョミーには迷惑だよね…。
おふくろの味も無かったような船だし、いいことは何も無いんだから…。
あんな船なんか、ジョミーにとっては楽園どころか地獄だよね、と呟いた。
シャングリラの名前は「楽園」だけれど、ジョミーから見れば楽園の欠片も無かった船、と。
「…そう思わない? 最初の時から楽園じゃなくて、その後だって…」
ソルジャー候補になってからだって、ジョミーには悲しいだけの船だよ。…シャングリラは。
「穏やかじゃないな、悲しいだとか、地獄だとか。…前の俺たちの自慢の船を捕まえて」
お前は何が言いたいんだ?
さっき妙なことを言っていたよな、おふくろの味も無かったような船だった、と。
何処から「おふくろの味」が出るんだ、前の俺たちが生きた時代に「おふくろの味」なんていうヤツはだな…。宇宙の何処を探したって、だ…。
存在しなかった筈なんだが、と鳶色の瞳が瞬きをする。「俺には意味が分からないんだが」と。
「そうだけど…。オレンジスカッシュ、覚えてる…?」
オレンジを搾って、ソーダを合わせた飲み物。ジョミーはあれが好きだったでしょ?
シャングリラにオレンジを植えてて良かったと思ったよ、欲しい時に好きなだけ飲めるから。
植えても直ぐには育たないものね、と話したオレンジ。充分な数の実をつける木に育つまでには何年もかかるものだから。
「オレンジスカッシュか…。そういや、ジョミーの好物だったな」
よく食堂で頼んでるのを見たが、確かにオレンジの木が必要だ。いつでも好きに飲みたいなら。
それで、そのオレンジがどうかしたのか?
それともオレンジスカッシュの方か、とハーレイが訊くから、「オレンジスカッシュだけど」と答えを返した。ジョミーが養父母の家で暮らした頃に好んだ、懐かしい味の飲み物だから。
「オレンジスカッシュは、ジョミーがお父さんとお母さんの家で飲んでたヤツで…」
これがとっても好きだったんだ、って前のぼくにも話してくれたよ。眠ってしまう前の頃にね。
シャングリラにもオレンジスカッシュがあって良かった、って嬉しそうな顔で。
だけど、オレンジスカッシュの他にもあったと思う。ジョミーが好きだった、いろんな食べ物。
今のハーレイ、ぼくのママが作るパウンドケーキが大好きでしょ?
おふくろの味のケーキなんだ、って何度も言っているじゃない。おんなじ味がするんだ、って。
あのケーキみたいに、ジョミーが知ってた「おふくろの味」。
お母さんの料理やお菓子の味が幾つもあった筈なのに、その味、ぼくが取り上げちゃった…。
前のぼくがね、と俯いた。「きっとジョミーは、とっても悲しかったよね」と。
成人検査で記憶を奪われなかったジョミーだからこそ、覚えていただろう「おふくろの味」。
SD体制が敷かれた時代は、誰もが忘れてしまったもの。成人検査の日を境にして。
成人検査をパス出来なかった前の自分たちも、すっかり失くしていた記憶。養父母の顔も、家も故郷も、子供時代に持っていた記憶は全部。
自分自身に記憶が無いから、両親や家を恋しがっていたジョミーの気持ちは分からない。どんな思いでそれを求めるのか、どうして家に帰りたがるのか。
シャングリラにいた古参のミュウたちは誰もが記憶を失くしていたし、若い世代は幼かった頃に船に来たから理解できないジョミーの気持ち。両親も家も、記憶がおぼろになってしまって。
そんな具合だから、周りはジョミーを分かってくれない者ばかり。
帰りたいと強く願う気持ちも、両親を慕い続ける心も。
「…今のぼくなら分かるんだけど…。パパもママも、ちゃんといてくれるしね」
生まれた時から、この家で大きくなったから…。攫われたりしたら、きっと泣いちゃう。ぼくの命が危ないから、って言われたとしても、「そんなの嘘だ」って。
嘘に決まってるから家に帰して、って泣いて騒いで、ジョミーみたいに帰っちゃうんだよ。
でも、前のぼくには分からなくって…。
ジョミーを家に帰した理由も、ハーレイが知っている通り。帰してあげよう、って親切に思ったわけじゃなくって、全部、計算。
何も無い家に帰ってみたって、思い知らされるだけだから。…この家にはもう帰れない、って。
そしたらジョミーは帰って来るよ、って考えてたから、リオに家まで送らせたけど…。
それで帰って来るわけがないよね、今のぼくなら帰らないもの。…パパとママが帰って来るまで家で待つとか、何処にいるのか探しに行くとか…。
ホントに分かっていなかったよ、と零れた溜息。両親を、家を、忘れてはいなかったジョミーの気持ちを理解できなかった前の自分。
「俺も分かっちゃいなかったなあ…」
前の俺にも、ジョミーの気持ちはまるで分かっちゃいなかった。…前のお前と同じでな。
ミュウの世界に馴染めないから、逃げ出したんだとばかり思っていたが…。
そうじゃなかったかもしれないな。…今のお前が思う通りに。
今の俺なら分かる気がする、とハーレイも頷いたジョミーの気持ち。シャングリラを飛び出し、家に帰ろうと無謀なことをしたけれど…。
「俺もお前と同じだな。おふくろが作ってくれる料理や、育った家が突然消えちまったら…」
いや、消えたんじゃなくて、家も料理もちゃんとあるのに、戻れないってことになったなら…。
強引に取り上げられてしまったわけだし、それをやったヤツを恨みたくもなる。
許すもんか、と憎んで恨んで、脱走することだって考えそうだ。
何処かに閉じ込められたんならな…、と今のハーレイだって逃げ出すらしい。自分を攫った悪人どもが暮らす場所から、脱走という手を使ってでも。
「やっぱり…? ハーレイだって逃げるんだ…」
ぼくだと「帰して」って泣くしかないけど、ハーレイは脱走するんだね?
シャングリラからだと、脱走するのはとても大変そうだけど…。雲の海の中を飛んでいるから。
小型艇を操縦できる腕前が無いと無理そうだよ、と白いシャングリラを思い浮かべた。白い鯨を思わせる船は雲海の中に潜んでいたから、生身では逃げ出せそうにない。…空を飛べないなら。
「まったくだ。そう簡単には逃がしちゃくれんな、あの船からは」
それでも逃げようと頑張ってみるさ、スプーンで掘るとはいかないだろうが…。
掘ってみたって雲の海では、逃げ道なんぞは無いからな。…俺の場合は。
空を飛べるんなら、スプーンを使ってみる手もあるが、とハーレイが言うからキョトンとした。
「スプーンって…?」
それって何なの、スプーンってどういう道具のこと…?
脱走するのに役に立つの、と尋ねたスプーン。自分が知っているスプーンと言ったら、スープやシチューを掬うもの。プリンを食べたり、アイスクリームも。他のスプーンのことは知らない。
「俺が言ってるのは、そのスプーンだが?」
飯だの菓子だのを食おうって時に使うスプーンで、それ以外に使い道は無い。
だがな、そういう脱獄方法があったらしいぞ、ずっと昔は。
人間が地球しか知らなかった頃には、監獄だって地面の上にあるもんだから…。
食事のために持ってるスプーンで、せっせと床を掘っていくんだ。毎日、毎日、少しずつな。
掘ったら土がゴミになるだろ、そいつはズボンの中に隠して捨てに行く。労働とかで、土のある場所に出られる時に。…でないとバレてしまうからなあ、穴を掘ってるのが。
穴を掘るための道具ではない、小さなスプーン。食事用にと渡されたそれ。
頼りないスプーンで床を掘っては、掘った分の土をコッソリと捨てていた囚人。スプーン一本で頑張り続けて、何年もかかって監獄の外へ出てゆくためのトンネルを掘る。
この床からこう掘っていったら塀の向こうだ、と努力を重ねた脱獄犯。あちこちの国で、様々な理由で囚われの身になっていた囚人。
彼らはスプーンで掘って掘り続けて、ついには自由を手に入れたけれど。監獄の塀の向こうへと逃げ出して行ったけれども、ジョミーには最後まで無かった自由。
シャングリラに連れ戻された後には、ソルジャー候補で、やがてはソルジャー。
「…ハーレイだったら、スプーンで掘ってでも逃げるのに…」
なんとか逃げる方法は無いだろうか、って頑張って穴を掘るらしいのに…。
今のぼくだって、「家に帰して」って泣いて大騒ぎをすると思うのに、ジョミー、可哀相…。
家に帰ろうとして連れ戻された後は、もう逃げたりは出来なかったよ。…シャングリラから。
ジョミーのお父さんとお母さんは元気に生きていたのに…。会えないで、家にも帰らないまま。
そのままでジョミーは地球で死んじゃったよ、お母さんたちのこと、忘れてないのに…。
生きていたなら、またお母さんたちに会えて、おふくろの味も食べられたのに…。
ジョミーが好きだった料理やお菓子…、と瞳からポロリと零れた涙。
両親を忘れなかったジョミーは、どんなにか、食べたかったことだろう。子供だった頃に食べた料理を、おふくろの味を。…オレンジスカッシュとは違う本物を。
きっと最後までジョミーは忘れていなかったんだ、と思うと涙が止まらない。前の自分は少しも気付いていなかったけれど、今の自分には分かるから。
ジョミーが会いたかった両親のことも、帰りたいと思った家がどんなに大切かも。
「こら、泣くな。…泣くんじゃない」
今のお前が泣くことはないんだ、とうに過ぎちまったことだから。…メギドと同じで。
お前が悲しむ気持ちも分かるが、そいつがジョミーの運命というヤツだったんだ。人間の力ではどうしようもない、歴史の流れがそうさせた。
…ジョミーに其処を歩かせたってな、前のお前をメギドに飛ばせてしまったように。
それに、あの時代じゃ仕方ない。
SD体制の時代だからなあ、おふくろの味は食べられないのが、当たり前で普通だったんだ。
成人検査で記憶を消されちまうんだから、とハーレイがフウと零した溜息。「酷い時代だ」と。
「前の俺たちほどではなくても、誰の記憶も曖昧だった。…子供時代に関しては」
懸命に逆らっていたシロエでさえもだ、両親の顔はおぼろだったと言うからなあ…。
シナモンミルクにマヌカ多め、と覚えていたって、味の方までハッキリ覚えていたかは謎だ。
そういう飲み物が好きだったんだ、という記憶はあっても、家で飲んでた味はどうだか…。
そんな時代に、ジョミーは両親も家も覚えたままでいられた。…おふくろの味も、忘れないで。
普通は忘れちまう所を、覚えていられただけでも良かった。この味だった、とピンと来るのを、俺たちの船では食えないままでいたとしたって。
ジョミーは幸せだったと思うぞ、前のお前のお蔭で記憶を失わずに済んで。
お前が妨害しなかったならば、全部忘れていたんだからな、とハーレイは前の自分の肩を持ってくれるけれども、そうなのだろうか。…ジョミーは幸せだっただろうか…?
「…そうなのかな…?」
お母さんたちのことを覚えていたって、おふくろの味は食べられなくて…。
そういう話を誰かにしたって、誰も分かってくれなくて…。
辛い思いをしなかったのかな、ソルジャー候補にされて閉じ込められちゃった後には…?
もう船からは二度と逃げられなかったんだよ、とジョミーの瞳を思い出す。明るい若葉の緑色。いつも明るく煌めいていた瞳、けれどナスカが滅びた後には冷たく凍っていたという瞳。
「きっと分かってくれていたさ。…自分は幸せ者なんだ、とな」
あんな時代に、育ててくれた両親のことや、育った家を忘れずにいられた幸せな子供。
それが自分だと、ジョミーは分かっていた筈だ。…他のヤツらには分からなくても、自分でな。
でなきゃ地球まで行っていないぞ、途中で船から逃げちまって。
ソルジャー候補として鍛えられた後には、もう充分にサイオンが強くなっていたから…。
まだシャングリラがアルテメシアに隠れていた間に、脱走してな。
今度こそ家に帰るんだからと、それこそスプーン一本ででも。
部屋の床から穴を掘ってゆけば、いつかは外に出られるからな、とハーレイがおどける。正規の出口を使わずに船から脱出するなら、スプーンも役に立ちそうだぞ、と。
「ジョミーなら、そうかもしれないね!」
普通のスプーンをサイオンで硬くして、少しずつ掘って。…穴が掘れたら、空を飛んでって。
そうやって逃げて行ったかもね、と愉快な気分。ジョミーならばスプーンで、シャングリラから逃げてゆけそうだから。
けれどジョミーは脱走しないで、白いシャングリラに留まった。前の自分に言われるままに。
ソルジャー候補として頑張った後は、ソルジャー・シンとして皆を導いて。
前の自分がいなくなってから、人類軍との戦いの末に、最初に落としたアルテメシア。
かつて追われた雲海の星は、ジョミーが生まれ育った星。両親が今もいる可能性が高い星。
調べさせたならば、きっと分かっただろう。両親が健在であることが。
けれどジョミーは「調べろ」とさえも言いはしなくて、偶然会えた筈のチャンスも退けた。白い鯨を追っていたスウェナ・ダールトン、アルテメシアでの幼馴染。
ジョミーの両親と親交があった彼女が、「会ってゆかないか」と誘っていたというのに。
直接、ジョミーの両親に会えと言いはしないで、彼らの養女に紹介するという形で。
「…ジョミー、お母さんたちに会わないままになっちゃった…」
アルテメシアに戻った後なら、また会えたのに…。おふくろの味も、食べられたのに…。
お母さんなら、きっと覚えていた筈だから。…ジョミーが好きだった料理のことも。
それなのに、ジョミー…。
前のぼくが、みんなを頼んだせいで…。ミュウのみんなの未来のことを…。
息抜きをしても良かったのに、と項垂れた。アルテメシアを落とした時なら、会いに行くことも出来た両親。丸一日は一緒にいられなくても、昼食か夕食を懐かしい家で食べることは出来た。
「ジョミーはこれが好きだったわね」と、母が作ってくれた料理を。…おふくろの味を。
「いいや、それもお前のせいじゃない。ジョミーが自分で決めたんだ」
前のお前がいなくなった後は、ああいう風にしようと選んだ。
ジョミー自身が、あの生き方を。
誰に言われたわけでもないのに、自分で心を凍らせちまって。それこそ氷みたいにな。
俺の意見も聞きやしなかった、とハーレイが眉を顰めているのは、降伏して来た救命艇までも、爆破させていたことだろう。人類軍の船だというだけのことで。
救命艇は武装していないのに。…彼らに攻撃の意図などはなくて、助けを求めただけなのに。
そんな船さえ沈めさせたほどに、感情を殺して生きていたジョミー。
彼が自分で選んだとはいえ、その生き方でジョミーは幸せだったのだろうか…?
「ねえ、ハーレイ…。ジョミーは幸せだったと思う…?」
いくら自分で決めたにしたって、感情なんか見せない生き方。それ、辛くない…?
悲しい時には悲しいものだし、泣きたい時だってありそうなのに…。
氷みたいな目をしているのは辛そうだよ、と顔を曇らせた。その頃のジョミーは、今の時代まで残る写真でしか知らないけれど。
「俺にもジョミーの心の中までは分からんが…。決して読ませはしなかったからな」
しかし、俺よりはきっとマシだったろう。俺はお前を失くしちまって、独りぼっちだったが…。
未来の希望ってヤツも無かったが、ジョミーは違う。…俺と同じ目で地球を見ちゃいなかった。
ジョミーが見ていた地球は約束の場所で、希望の地だった。還り着くべき、母なる星。
もしも辿り着いて、平和な時代を手に入れていたら。死なずに生きていたのなら…。
キャプテンだった俺がお前を追い掛けて逝っちまっても、ジョミーには笑顔が戻っただろう。
暫くの間はシャングリラ中が喪に服したとしても、それが済んだら。
俺の喪なんぞたかが知れてる、とハーレイは笑う。「ほんの数日間だろう」と。それが終われば普段通りに戻る船。ジョミーも涙を流した後には、太陽のようだった笑みを取り戻して。
「ジョミーが昔のジョミーみたいに、明るく笑う筈だったんなら…」
お母さんたちにも、会おうとしてた?
シャングリラが地球まで無事に辿り着いて、SD体制が終わったら。…平和になったら。
またシャングリラでアルテメシアを目指して戻って、お母さんたちの家を探して。
会いに行こうとしていたのかな、と尋ねてみたら、「そうだろうな」と返った答え。
「ジョミーが忘れていないからには、きっと消息を調べさせただろう。…落ち着いた後に」
もっとも、アルテメシアに戻っていたなら、無駄足なんだが…。
ジョミーの両親はコルディッツに行ってしまっていたしな、育てていた小さな娘と一緒に。
運が良ければ、シャングリラで会えていたんだろうに…。上手くいかんな、人生ってヤツは。
ジョミーが名簿を確かめていれば…、とハーレイが言うコルディッツで救ったミュウたち。強制収容所に入れられた彼らの名簿の中に、人類が二人混じっていた。かつてのジョミーの両親が。
「やっぱり、ぼくのせいだ…」
ジョミーがお母さんの作る料理を、二度と食べられなかったのは。
心を凍らせてしまってなければ、名簿だってきっと、見た筈なのに…。
前のぼくが頼んじゃったからだよ、と胸が締め付けられるよう。ミュウの未来を託さなければ、もっと余裕があっただろうジョミー。同じように地球を目指したとしても。
「気にするな。お前のせいじゃないんだから」
ジョミーが自分で決めたことだし、あいつは満足していただろう。…そんな気がする。
傍から見たなら辛そうに見えても、悲しいように思える最期だとしても。
そしてだな…。
さっさと生まれ変わっているんじゃないのか、死んじまった後は。
すっかり平和になった世界に、あいつが最初に言い出した自然出産で。
俺たちよりも遥かに早く地球に生まれて、本物の家族と一緒に暮らして、おふくろの味だ。成人検査なんかはもう無い時代に、お母さんの料理をたらふく食ってな。
おふくろの味を堪能してたに違いないぞ、というのがハーレイの読み。ジョミーはとうに地球に生まれて、おふくろの味で育ったのだ、と。
「そうなったかな…?」
食べられないままで終わった分まで、おふくろの味を食べられたかな…。
オレンジスカッシュしか無かった船の分まで、ジョミーが食べたかった何かを…?
「お前に聖痕を下さった神様なんだぞ、ちゃんとジョミーにも御褒美があるさ」
生まれ変わりの記憶は無かったとしても、ジョミーらしく元気に、幸せに生きて。
「そうだよね…!」
ぼくたちが御褒美を貰えるんだもの、ジョミーも貰った筈だよね。うんと素敵なのを…。
お母さんが作ったお菓子やお料理、好きなだけ食べて大きくなって…。
大人になってもおふくろの味、と浮かべた笑み。ジョミーならそんな大人だよね、と考えて。
きっとジョミーも地球に生まれて、また食べられたことだろう。おふくろの味を。
前の人生とは違う料理やお菓子に変わっていたって、「これが好き」と笑顔になれる味。
今のハーレイにおふくろの味のパウンドケーキがあるように、きっとジョミーにも。
そうであって欲しい、と心から思う。ジョミーも神様に御褒美を貰って、おふくろの味、と。
今の自分は幸せだから。今は誰もが幸せに暮らせる平和な時代で、蘇っている青い地球。
それを作ってくれたジョミーも、幸せになっていて欲しい。
前のジョミーが両親を、家を恋しがった理由が、自分にもやっと今頃になって分かったから…。
ジョミーの気持ち・了
※シャングリラに迎えられた直後に、家に帰ったジョミーですけど、何故、帰ったのか。
前のブルーには、想像もつかなかった理由なのかもしれません。両親を覚えていたのが原因。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
今日のおやつ、とブルーが頬張っていたパウンドケーキ。学校から帰って、ダイニングで。
母の手作り、オレンジがたっぷり。ケーキの上にも、生地の中にも。口の中に広がるオレンジの味。爽やかな酸味と、それに甘さと。
美味しいよね、と食べている間に気付いたこと。パウンドケーキが好きな恋人。
(ハーレイの好きなパウンドケーキは…)
やっぱり母の手作りだけれど、オレンジとは違ってプレーンなもの。本当に基本の材料だけの。
小麦粉と砂糖と、バターと卵。どれも一ポンドずつ使って焼くから「パウンド」ケーキ。それがハーレイの大好物で、母が作るのが大切な所。
どうしたわけだか、母が焼いたら「おふくろの味」になるらしい。隣町で暮らすハーレイの母が作るパウンドケーキと、そっくり同じ味わいに。
同じ材料とレシピで焼いても、ハーレイには再現できない味。何度焼いても、頑張ってみても。
その味のケーキを作れるのが母で、すっかり魅せられているハーレイ。「美味いんだよな」と。
(オレンジの味のパウンドケーキも、好きみたいだけど…)
そちらの方は、おふくろの味だと聞いてはいない。「お母さんのケーキは美味いな」としか。
ハーレイの「おふくろの味」になるのは、プレーンなパウンドケーキだけ。小麦粉と砂糖、卵とバターで焼き上げたシンプルなもの。
(オレンジが少し入っただけでも、味が変わって来ちゃうから…)
同じパウンドケーキにしたって、ハーレイの「おふくろの味」にはなれない。美味しいケーキになれるだけ。
それを思うと、お菓子というのは面白い。ほんの少しの材料だけで、違う味わいになるケーキ。
しかもプレーンなパウンドケーキを焼いてみたって、作り手で味が変わるだなんて。
(ぼくもパウンドケーキ、上手く焼けるようになりますように…)
それが自分の未来の夢。
今の自分はチビの子供で、料理は調理実習くらい。母と一緒にお菓子作りもしていない。
だから知らない、母のパウンドケーキのレシピ。作る所をしっかり見学したことも無いし、まだ分からないケーキの秘密。
どうすれば母と同じに焼けるか、ハーレイが好きな「おふくろの味」に出来上がるのか。
前にハーレイから聞いたこと。「作り手の癖かもしれないな」と。
パウンドケーキの材料を同じに計っていたって、レシピが同じだったって…。
(作る人の癖が出るんだろう、って…)
材料を混ぜてゆく時だとか、混ぜ合わせる時間やタイミングなどや。ハーレイの母が持っている癖と、母の癖とが同じなら…。
(おんなじ味のパウンドケーキになるものね?)
いつかはそれをマスターしたい。母に習って、レシピもきちんと教わって。
今は「教えて」と言えないけれども、ハーレイとの結婚が決まった後なら、もう堂々と頼んでもいい。「ハーレイはこれが好きなんだから」と、「ママの作り方のコツを教えて」と。
そうして頼んで、修業を始めるパウンドケーキ。ハーレイが好きなプレーンなもの。おふくろの味と同じケーキを作れるようになったなら…。
次は他の味のパウンドケーキにチャレンジ、そちらの方も上手く出来たら褒めて貰えるだろう。「この味のケーキも美味いじゃないか」と、「おふくろの味にも負けていないぞ」と。
(ぼくが作るケーキの味はこれ、っていうのが出来たら嬉しいよね…)
今日のようなオレンジ風味でもいいし、バナナやナッツを入れてもいいし、チョコレートでも。
プレーンはハーレイの「おふくろの味」が最高だから、それ以外の味のパウンドケーキ。食べたハーレイが「ブルーのだな」と思ってくれれば、きっと幸せ。
何処かで同じ味のケーキを口にした時に。「こいつはブルーのケーキじゃないか」と。
それを食べたら、家に帰って話して欲しい。「今日はお前のと同じケーキを食ったんだぞ」と。楽しそうな顔で、「お前が焼いて持って来たのかと思っちまった」という報告。
(ママのケーキで、そう言ってたもんね…)
あまりにも良く似ていたらしくて、「おふくろがコッソリ持って来たのかと思ったぞ」と笑ったハーレイ。そんなことなど有り得ないのに、そう思うくらいに似ていた味。
それと同じに、「ブルーの味」のパウンドケーキを作れたらいい。
ハーレイのお気に入りのケーキで、自分にしか焼けないパウンドケーキ。料理上手なハーレイが「たまには俺も焼いてみるかな」と挑戦したって、同じ味にはならないケーキ。
「どうなってるんだ?」とレシピを確かめてみても、ハーレイが何度頑張ってみても。
作り手の癖が出てくるケーキは、きっと出来上がりが違うから。同じレシピで焼き上げたって。
(ふふっ…)
そんなケーキを焼ける日が来たら素敵だよね、と戻った二階の自分の部屋。
勉強机の前に座って、未来への夢を膨らませる。「ブルーの味」は何のケーキになるのか、と。プレーンなパウンドケーキだったら「おふくろの味」で、母の味。
違う風味のパウンドケーキが「ブルーの味」になるのだけれども、どの味だろうと。
(…オレンジとか?)
直ぐに浮かんだのが、さっき食べたばかりのオレンジ風味。生地にもオレンジ、ケーキの上にも薄くスライスしたオレンジを幾つも並べて焼き上げたもの。
あれもいいかな、と考えたけれど、オレンジの個性で変わるだろうか?
たまに食料品店に行くと、いろんな種類のオレンジが並ぶ。母が買って来るオレンジの種類も、その日の気分で変わるようだし…。
(うーん…)
酸味の強いオレンジだとか、果肉の色が赤いものとか。使ったオレンジの種類次第で、ケーキの風味も変わりそう。生地の中にも混ぜ込むのだから。
(このオレンジだ、って買って来たって…)
同じ味とは限らないオレンジ、幾つも買ったら酸っぱいものやら、甘いものやら。自然が作ったオレンジの個性、同じ枝に実った兄弟の実でも。
(選んだ実で味が変わっちゃいそう…)
オレンジの味は色々だしね、と考えていたら掠めた思い。「オレンジだった」と。
夏ミカンに少し似ているオレンジ。皮の色が濃いのがオレンジの方で、隣同士に並んでいたら、きっと分かると思うけれども…。
(…オレンジの木…)
沢山の実をつけるオレンジは、白いシャングリラにも植えていた。
花の季節にはいい香りがするから、農場だけでなくて公園にも。船の中で作り出した四季でも、初夏に幾つも咲いていた花。それが終われば青い実がつく。
(最初は小さな緑色の実で…)
やがて色づき、食べ頃になったら係の者たちが収穫した。子供たちも手伝いに出掛けたりして、手の届く場所の実を手を一杯に伸ばして取って。
あって良かった、と前の自分が思ったオレンジ。果樹は幾つもあったけれども、その中でも。
白い鯨が出来た頃には、他の果実と同じ認識。「今年も沢山実っている」と見ていた程度だったオレンジ。けれど事情はガラリと変わった。前の自分の命の終わりが見えて来た頃に。
(オレンジスカッシュ…)
レモンではなくて、オレンジを使った酸っぱい飲み物。それが好きだったのがジョミー。
前の自分が次のソルジャーに選んだ少年、成人検査を妨害して。…リオに命じて、シャングリラまで連れて来させて。
何かと逆らってばかりだった彼は、船に馴染もうとしなかった。「ぼくはミュウじゃない」と、頑なに。ソルジャー候補になった後には、「この船にもあるんだ」と笑顔になった好きな飲み物。
オレンジスカッシュが大好きだったと、「ママが作ってくれてたんだよ」と。
(…オレンジスカッシュは、オレンジを搾るだけだし…)
搾った果汁にソーダ水を加えて、後は好みでレモンや砂糖。誰が作っても、それほど味に違いは出ないことだろう。甘みが強いか、酸っぱいかといった僅かな違いがあるだけで。
ジョミーの母が作っていたのも、オレンジの個性で味が変わったに違いない。「酸っぱいよ」と砂糖を加えた日だとか、「もっとソーダ!」と足していた日とか。
だからシャングリラのオレンジスカッシュも、ジョミーには懐かしい味だったろう。母の味とは違うものだと思いはしないで、「家でも飲んだ」と食堂で見たら注文して。
けれど…。
(ジョミーにだって、お母さんの味…)
きっとあっただろう、今のハーレイに「おふくろの味」があるように。
母が焼くプレーンなパウンドケーキがとてもお気に入りで、「俺のおふくろのと同じ味だ」と、いつも喜んでいるように。
それと同じに、ジョミーにも何かあったのかもしれない。「おふくろの味」というものが。
(前のぼくたちは、記憶をすっかり失くしてて…)
成人検査と、繰り返された過酷な人体実験が奪い去った子供時代の記憶。何もかもを。
養父母がいたことも、生まれ育った家があったことも、全て忘れた前の自分。ハーレイたちも。
何も覚えていなかったのだし、「おふくろの味」は存在しない。母親の記憶が無いのでは。
アルテメシアで船に迎えた子供たちからも、特に聞いてはいないけれども…。
(ジョミーにもあった…?)
舌が覚えていた「おふくろの味」。ジョミーを育てた母が作った料理の味。
オレンジスカッシュを懐かしんだジョミーは、母の料理やお菓子の記憶を失くさないまま。全て心に残したままで、白いシャングリラに連れて来られた。成人検査は妨害されたのだから。
(小さい間に船に来た子は、おふくろの味って思うくらいには…)
味覚が完成されていないし、見た目が同じ料理が出たなら、それだけで満足したのだろう。この船でも家と同じ料理が食べられる、と。味の違いには気も留めないで。
(だけど、ジョミーは…)
目覚めの日の朝まで養父母と過ごして、朝食も一緒に食べて別れた。その上、記憶を消されてはいない。あの朝に食べた最後の食事も、鮮やかに覚えていたのだろう。
(おふくろの味も、きっと幾つもあったんだよね…?)
今のハーレイだとパウンドケーキがそうだけれども、ほんの一例。他にも「おふくろの味」だと思う料理はある筈、食べた途端に「これだ!」と舌に蘇る記憶。
十四年間を養父母と暮らしたジョミーも、同じだったに違いない。シャングリラで懐かしく思う料理を口に入れても、「ママの味だ」と思えずに過ごしていただけで。
(同じ味の料理があったんだったら、ぼくやリオには…)
話しただろうと思うから。「ぼくのママのと同じ味がしたよ」と、「あれが大好き!」と。
次から食堂で見かけた時には、迷わずに注文する料理。「ママのを食べているみたいだよ」と、最高の笑顔で頬張って。
そういう話を知らないからには、無かったらしい「おふくろの味」。白いシャングリラの食堂に行っても、懐かしいものはオレンジスカッシュだけ。オレンジを搾ってソーダを加えただけの。
(おふくろの味の料理は、何処にも無くって…)
食べたいと思っても違った味。ジョミーの母のとは違う味付け、見た目は同じ料理でも。
これを家でも食べていたのだ、と選んでトレイに載せてみたって、口に運んだら覚える違和感。一口目で「違う」と舌が訴えるか、食べてゆく間に気付くのか。
(今のぼくだって、ママのと違うお料理だったら…)
食べる内に「違う」と気が付く筈。直ぐにはそうだと分からなくても、「いつものじゃない」と感じ取って。母の料理と重ねてみたなら、何処かが違う味なのだから。
幸いなことに、今の自分は「母の料理」を食べるのが基本。もちろん、ケーキなどのお菓子も。
お蔭で他のを口にしたって、特に何とも思いはしない。学校の食堂で食べるランチも、外出した時に両親と入る、レストランで出てくる料理でも。
(学校のランチも、レストランのも、其処で作った味ってだけで…)
美味しかったらそれでいい。母の料理と違っていたって、その料理はそれで満足の味。こういう味になってるんだ、とスプーンやフォークで食べた後には「美味しかった」と「御馳走様」で。
母の料理は家でいつでも食べられるのだし、こだわる理由は何も無いから。家とは違った味わいだって、料理はちゃんと美味しいのだから。
(…ママの料理に慣れていたって、違う味でも美味しいし…)
味が違うと考えもせずに、食べているのが食堂のランチ。昼休みにはランチ仲間と一緒に注文、賑やかなお喋りの方に夢中で。「ママの味じゃない」と気付きもせずに。
けれども、母の作る料理を二度と食べられないのなら。…食べたくても家に帰れないなら、今の自分も探すだろう。「ママのと同じ味のがいいよ」と、「同じ味がするお店は無いの?」と。
(ジョミーは、そうなっちゃったんだ…)
成人検査でミュウと判断され、帰れなくなってしまった家。二度と会えなくなった両親。
もっとも、SD体制の時代だったら、ミュウでなくてもそうなのだけれど。目覚めの日を迎えた子供を待つのは記憶の消去で、もう戻れない養父母の家。「おふくろの味」は食べられない。
(それでも、機械が忘れさせるから…)
教育ステーションに向かう子たちは、おふくろの味を覚えてはいない。里心など持たないように記憶を処理され、過去を振り返りはしないから。
普通の人生を送っていたなら、何の問題も無かったジョミー。SD体制の時代の子に相応しく、養父母の記憶は薄れてしまって。
ところがジョミーは、記憶を一切失くすことなくシャングリラに来た。養父母のことも、育った家も、くっきりと心に刻まれたままで。
(おふくろの味だって、忘れてなくて…)
「オレンジスカッシュがある」と喜んだほどだし、他の料理や菓子の記憶も消えてはいない。
だとしたら、どんなに寂しかったろうか、あの船で。
母の料理と同じものだ、とトレイに載せても、「おふくろの味」などしなかった船で。
ようやく気付いたジョミーの気持ち。「家に帰りたい」と前の自分に訴えたジョミー。
(前のぼく、ジョミーに恨まれてた…?)
白いシャングリラに連れて来たことを、二度と両親には会えないようにしたことを。成人検査が何であろうと、ジョミーにとっては些細なこと。結果が全て。
(記憶を消されたら、どうなっちゃうかは…)
具体的には知らないのだから、漠然とした恐怖があっただけ。「記憶を消されそうになった」と覚えていたって、消された結果は分からない。どの程度まで記憶を失くすか、どうなるのかは。
(ジョミーのママが作った料理の味とかも…)
忘れてしまう結果になっていたなど、あの時のジョミーが知るわけがない。もっと後になって、ソルジャー候補としての勉強が始まるまでは。…人類の社会の本当の仕組みを教わるまでは。
そんな調子だから、シャングリラに連れて来られたジョミーは、今の幸せな自分と違って…。
(お母さんたちがいる家には帰れなくって、おふくろの味も食べられなくて…)
それきりになってしまったのだった。
育ててくれた養父母の記憶や、育った家や食べた料理の鮮明な記憶を抱いたままで。
今の自分がそうであるように、十四歳の誕生日を迎えた後にも、何一つ記憶を失くすことなく。
覚えているのに帰れない家、会えない両親。食べることが出来ない「おふくろの味」。どうして全てを失ったのかと、さぞ悔しかったことだろう。悲しくて辛くて、どうしようもなくて。
(…前のぼくのせいだ、って思うよね…)
そういう立場に追い込まれたのは、成人検査を妨害されたからなのだ、と。邪魔をしたミュウの長が悪いと、「ぼくはミュウとは違うのに」と。
ジョミーにとっては余計なお世話で、パスしたかった成人検査。どういう結果をもたらす検査か知らなかったら、単なる通過儀礼だから。
(前のぼくが邪魔をしたからだ、って…)
最初は確かに恨まれていた。弱り果てた身体で無理をしてまで、ジョミーを救い出したのに。
残り少ない寿命を自ら削ると承知で、テラズ・ナンバー・ファイブと対峙し、成人検査を無事に中断させたのに。
けれど、ジョミーは怒っただけ。「ぼくの未来を滅茶苦茶にした」と。
ミュウの船になど来たくなかったと、「何もかもソルジャー・ブルーのせいだ」と。
白いシャングリラに迎えられた後も、船に馴染もうとしなかったジョミー。何日経っても、ただ怒るだけで。…やり場のない怒りを、誰彼かまわずぶつけるだけで。
(キムとも喧嘩していたし…)
青の間に初めてやって来た時も、「家に帰せ」と怒鳴られたほど。ミュウとしての自覚はまるで持たずに、「家に帰れば元通りの日々が戻ってくる」と信じたままで。
成人検査を終えた子供は、養父母の許にはいられないのに。ミュウでなくても記憶を消されて、教育ステーションへと旅立つのに。
ジョミーが通っていた学校でも、「目覚めの日」の後に歩む進路を教えただろうに、何もかもを自分に都合よく解釈していたジョミー。「家に帰れば元の暮らしが始まる」と。
そんなことなど有り得ないのが人類の社会。ジョミーが家に帰ってみたって、養父母の家からは消された痕跡。「ジョミー」という子が、その家にいたという証。
ジョミーの持ち物も、ジョミーの写真も、ユニバーサルの職員たちが処分して。成人検査をパスしていった子たちと同じに、「そういう子供がいた」ことを示す一切を。
(家に帰れば、それが分かって目が覚めるだろう、って…)
そう考えて、ジョミーを家に帰したけれど。リオをつけて帰してやったけれども、前の自分は、あの時のジョミーの「帰りたい気持ち」まで汲み取ったろうか?
どうして家に帰りたがるのか、それほどまでに家を恋しがるのか。
ただ帰りたいだけなのだろう、と「目を覚まさせる」ために帰した自分。帰れる家など、もはや何処にも無いと分かれば戻るだろう、と。
ジョミーが帰っていった家には、何も残っていないと承知していたから。ユニバーサルから派遣された職員、彼らが作業を終えた後。ジョミーの痕跡が残る全てを処分して。
(お母さんたちは、作業の間は子育てを終えた特別休暇で…)
家を留守にして出掛けていたから、本当に「空っぽ」になった家。それを見たなら、ジョミーも諦めるしか道はない筈。「自分の居場所は此処ではない」と、「家は何処にも無いんだから」と。
(それが分かれば、家に帰りたいと思う気持ちも…)
ジョミーの中から消える筈だ、と考えたのが前の自分。そうするためにジョミーを家に帰した。
けれど分かっていたのだろうか、ジョミーの気持ちを本当の意味で…?
両親を、家を恋しがった心を。「帰りたい」と願った、ジョミーの強い思いのことを…?
前の自分には無かった記憶。子供時代の記憶を全て失くして、養父母も家も、欠片さえも残さず頭の中から消えた後。成人検査よりも前の記憶は、何も無いまま。
子供には養父母がつくということ、十四歳の誕生日までは養父母の家で育てられること。知識は持っていたのだけれども、無かった実感。…両親とは何か、家とはどういう場所なのか。
アルテメシアの雲海の中に潜む前から、データベースや本で知ってはいた。両親のことや、家というもの。子供は其処で育ってゆくと。
雲海の星に隠れ住んでからは、もっと詳しい情報を得た。親子連れで遊びに出掛ける姿や、家がある場所や。…知ったつもりになっていた「家族」。養父母と子供が共に暮らす家。
(十四歳になるまで、一緒に暮らして…)
後は目覚めの日が来て別れるだけ、と思っていたのが養父母と子供。親に懐く子も、前の自分は知っていたのに…。
(…本当は分かっていなかったかも…)
今の自分なら分かるけれども、前の自分には掴めなかった感情。養父母と引き離される悲しみ、それがどれほどのものなのか。…幼い子供でも、親を慕って泣いていたりもしたのだから…。
(もっと大きくなってたジョミーは、お母さんたちのこと…)
忘れ難くて、帰りたかったことだろう。養父母と暮らしていた家へと。
成人検査で記憶を消されていない以上は、日が経つごとに辛くなるだけ。家に帰りたい気持ちが強くなってゆくだけ。
(もしも、今のぼくが…)
ジョミーがそうなってしまったように、見知らぬ誰かに攫われたなら。
「今日から此処で暮らすように」と、まるで知らない遠い所に連れてゆかれて、閉じ込められてしまったならば。
(ハーレイのことは抜きにしたって、パパもママもいなくて…)
自分の部屋に帰れはしないし、もちろん家にも帰れない。攫われてしまったのだから。
「家に帰して」と泣き叫んだって、聞いてはくれない悪人たち。善人のように振舞っていても、誰もが悪人。家に帰してくれはしないし、新しい暮らしに馴染むようにと強いるだけ。
(ママのケーキが食べたくっても…)
違うケーキを差し出される。「これも美味しいケーキだから」と。
そんなの嫌だ、と思った暮らし。両親と無理やり引き離されて、二度と帰れはしない家。とても耐えられはしない毎日、両親が、家が恋しくて。
母が作ったのと同じ料理やケーキが出たなら、きっと涙が零れてしまう。食べながらポロポロと零れ落ちる涙。「ママが作ったケーキじゃないよ」と、「ママのはこんな味じゃなかった」と。
(今のぼくだと、そうなっちゃって…)
同じ境遇に置かれていたのが、シャングリラに連れて来られたジョミー。
本物の両親とは違ったけれども、親を慕う気持ちは同じだったろう。記憶を消されずに船に来た以上は、攫われたのと変わらない。成人検査のことを抜きにして考えたなら。
(…ジョミーに悪いことをしちゃった…)
前の自分が「親」の記憶を持ってはいなかったせいで。「家」のことも忘れていたせいで。
それがどれほど大切なものか、まるで分かっていなかった。帰りたがったジョミーの気持ちさえ逆に利用したほど、酷かった自分。
(ぼくが攫われて、やっとの思いで逃げ出して…)
懐かしい家に帰り着いたら、全てが消えているなんて。…部屋も両親も、何もかもが全部。
考えただけで、足元が崩れて落ちてゆきそう。世界がそっくり壊れてしまって、虚無の闇の底へ飲まれてしまうみたいに。
(…ぼくだったら泣いて、泣きじゃくって…)
自分を攫った悪人たちの所へ戻ろうだなんて、きっと夢にも思いはしない。そうする代わりに、両親を探すことだろう。ふらふらと町を彷徨い歩いて、「パパ、ママ、何処…?」と。
疲れ果てたら家に戻って、何も無い床で眠るのだろう。「朝になったら、元通りかも」と。
一晩眠って目を覚ましたなら、消えているかもしれない悪夢。朝の光が恐ろしい夢を払い除け、前の通りの一日が始まる。両親が戻って、朝食の匂いがダイニングの方から漂って来て。
(そうなるよね、って思って、信じて…)
何と言われても、悪人たちが暮らす場所には戻らない。
「此処にいたなら殺されますよ」と諫められても、けして縦には振らない首。
「そんなの嘘だ」と、「パパもママも帰って来るんだから」と。
二人が戻るまで待っていなきゃ、と言い張る自分が目に浮かぶよう。それが駄目なら、頑張って探しに行くんだから、と。
やっと分かった、ジョミーの行動。リオを振り回して、ユニバーサルの者たちに捕まった理由。
あんな状況で、両親を、家を、諦められる筈がない。ようやく家に戻れたからには、元の通りに生きてゆきたいと願うだろう。ミュウの船になど戻ることなく、両親の側で。
(だって、攫われたんだから…。今のぼくと少しも変わらない年で…)
あの時のジョミーは、目覚めの日に全てを失った。十四歳の誕生日を迎えた日に。
それを思えば、今の自分の方が半年くらいは年上。誕生日はとうに過ぎた後なのに、ジョミーと同じに振舞いそうな子供。「家に帰して」と泣いて騒いで、帰った後にも諦めないで。
(今のぼくでも、絶対、捕まっちゃうんだよ…)
リオの言うことを聞きもしないで、ユニバーサルの保安部隊に包囲されて。…前の自分が踏んでいたように、シャングリラに戻ってゆく代わりに。
(帰るわけなんか無いんだから…)
もっと分かってあげれば良かった。ジョミーがどんな気持ちでいたのか、帰りたいと願い続けていたか。…理解しようにも、前の自分には無理だったけれど。
(子供時代のことは、何も覚えていなかったから…)
ジョミーの気持ちは分からないものね、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、ハーレイ…。ジョミーはぼくを恨んでたかな?」
とても恨んで憎んでたのかな、前のぼくのこと…。
「はあ? 恨むって…」
なんでまた、とハーレイは怪訝そうな顔。「いったい、いつの話なんだ?」と。恨んでいたならソルジャーを継いでいるわけがないと、「ソルジャー候補にもなりはしないぞ」と。
「それよりも前の話だよ。…一番最初に船に来た時」
前のぼくが成人検査を妨害したけど、リオだって救出に向かわせたけど…。
無理やり連れて来ちゃったようなものでしょ、ジョミーは来る気は無かったんだから。
成人検査をちゃんとパスして、教育ステーションに行くつもりだったし…。
それを攫って連れて来たのが前のぼくだよ、リオに任せて救出させて。
救出って言ったら聞こえはいいけど、ミュウの自覚が無かったジョミーには迷惑だよね…。
おふくろの味も無かったような船だし、いいことは何も無いんだから…。
あんな船なんか、ジョミーにとっては楽園どころか地獄だよね、と呟いた。
シャングリラの名前は「楽園」だけれど、ジョミーから見れば楽園の欠片も無かった船、と。
「…そう思わない? 最初の時から楽園じゃなくて、その後だって…」
ソルジャー候補になってからだって、ジョミーには悲しいだけの船だよ。…シャングリラは。
「穏やかじゃないな、悲しいだとか、地獄だとか。…前の俺たちの自慢の船を捕まえて」
お前は何が言いたいんだ?
さっき妙なことを言っていたよな、おふくろの味も無かったような船だった、と。
何処から「おふくろの味」が出るんだ、前の俺たちが生きた時代に「おふくろの味」なんていうヤツはだな…。宇宙の何処を探したって、だ…。
存在しなかった筈なんだが、と鳶色の瞳が瞬きをする。「俺には意味が分からないんだが」と。
「そうだけど…。オレンジスカッシュ、覚えてる…?」
オレンジを搾って、ソーダを合わせた飲み物。ジョミーはあれが好きだったでしょ?
シャングリラにオレンジを植えてて良かったと思ったよ、欲しい時に好きなだけ飲めるから。
植えても直ぐには育たないものね、と話したオレンジ。充分な数の実をつける木に育つまでには何年もかかるものだから。
「オレンジスカッシュか…。そういや、ジョミーの好物だったな」
よく食堂で頼んでるのを見たが、確かにオレンジの木が必要だ。いつでも好きに飲みたいなら。
それで、そのオレンジがどうかしたのか?
それともオレンジスカッシュの方か、とハーレイが訊くから、「オレンジスカッシュだけど」と答えを返した。ジョミーが養父母の家で暮らした頃に好んだ、懐かしい味の飲み物だから。
「オレンジスカッシュは、ジョミーがお父さんとお母さんの家で飲んでたヤツで…」
これがとっても好きだったんだ、って前のぼくにも話してくれたよ。眠ってしまう前の頃にね。
シャングリラにもオレンジスカッシュがあって良かった、って嬉しそうな顔で。
だけど、オレンジスカッシュの他にもあったと思う。ジョミーが好きだった、いろんな食べ物。
今のハーレイ、ぼくのママが作るパウンドケーキが大好きでしょ?
おふくろの味のケーキなんだ、って何度も言っているじゃない。おんなじ味がするんだ、って。
あのケーキみたいに、ジョミーが知ってた「おふくろの味」。
お母さんの料理やお菓子の味が幾つもあった筈なのに、その味、ぼくが取り上げちゃった…。
前のぼくがね、と俯いた。「きっとジョミーは、とっても悲しかったよね」と。
成人検査で記憶を奪われなかったジョミーだからこそ、覚えていただろう「おふくろの味」。
SD体制が敷かれた時代は、誰もが忘れてしまったもの。成人検査の日を境にして。
成人検査をパス出来なかった前の自分たちも、すっかり失くしていた記憶。養父母の顔も、家も故郷も、子供時代に持っていた記憶は全部。
自分自身に記憶が無いから、両親や家を恋しがっていたジョミーの気持ちは分からない。どんな思いでそれを求めるのか、どうして家に帰りたがるのか。
シャングリラにいた古参のミュウたちは誰もが記憶を失くしていたし、若い世代は幼かった頃に船に来たから理解できないジョミーの気持ち。両親も家も、記憶がおぼろになってしまって。
そんな具合だから、周りはジョミーを分かってくれない者ばかり。
帰りたいと強く願う気持ちも、両親を慕い続ける心も。
「…今のぼくなら分かるんだけど…。パパもママも、ちゃんといてくれるしね」
生まれた時から、この家で大きくなったから…。攫われたりしたら、きっと泣いちゃう。ぼくの命が危ないから、って言われたとしても、「そんなの嘘だ」って。
嘘に決まってるから家に帰して、って泣いて騒いで、ジョミーみたいに帰っちゃうんだよ。
でも、前のぼくには分からなくって…。
ジョミーを家に帰した理由も、ハーレイが知っている通り。帰してあげよう、って親切に思ったわけじゃなくって、全部、計算。
何も無い家に帰ってみたって、思い知らされるだけだから。…この家にはもう帰れない、って。
そしたらジョミーは帰って来るよ、って考えてたから、リオに家まで送らせたけど…。
それで帰って来るわけがないよね、今のぼくなら帰らないもの。…パパとママが帰って来るまで家で待つとか、何処にいるのか探しに行くとか…。
ホントに分かっていなかったよ、と零れた溜息。両親を、家を、忘れてはいなかったジョミーの気持ちを理解できなかった前の自分。
「俺も分かっちゃいなかったなあ…」
前の俺にも、ジョミーの気持ちはまるで分かっちゃいなかった。…前のお前と同じでな。
ミュウの世界に馴染めないから、逃げ出したんだとばかり思っていたが…。
そうじゃなかったかもしれないな。…今のお前が思う通りに。
今の俺なら分かる気がする、とハーレイも頷いたジョミーの気持ち。シャングリラを飛び出し、家に帰ろうと無謀なことをしたけれど…。
「俺もお前と同じだな。おふくろが作ってくれる料理や、育った家が突然消えちまったら…」
いや、消えたんじゃなくて、家も料理もちゃんとあるのに、戻れないってことになったなら…。
強引に取り上げられてしまったわけだし、それをやったヤツを恨みたくもなる。
許すもんか、と憎んで恨んで、脱走することだって考えそうだ。
何処かに閉じ込められたんならな…、と今のハーレイだって逃げ出すらしい。自分を攫った悪人どもが暮らす場所から、脱走という手を使ってでも。
「やっぱり…? ハーレイだって逃げるんだ…」
ぼくだと「帰して」って泣くしかないけど、ハーレイは脱走するんだね?
シャングリラからだと、脱走するのはとても大変そうだけど…。雲の海の中を飛んでいるから。
小型艇を操縦できる腕前が無いと無理そうだよ、と白いシャングリラを思い浮かべた。白い鯨を思わせる船は雲海の中に潜んでいたから、生身では逃げ出せそうにない。…空を飛べないなら。
「まったくだ。そう簡単には逃がしちゃくれんな、あの船からは」
それでも逃げようと頑張ってみるさ、スプーンで掘るとはいかないだろうが…。
掘ってみたって雲の海では、逃げ道なんぞは無いからな。…俺の場合は。
空を飛べるんなら、スプーンを使ってみる手もあるが、とハーレイが言うからキョトンとした。
「スプーンって…?」
それって何なの、スプーンってどういう道具のこと…?
脱走するのに役に立つの、と尋ねたスプーン。自分が知っているスプーンと言ったら、スープやシチューを掬うもの。プリンを食べたり、アイスクリームも。他のスプーンのことは知らない。
「俺が言ってるのは、そのスプーンだが?」
飯だの菓子だのを食おうって時に使うスプーンで、それ以外に使い道は無い。
だがな、そういう脱獄方法があったらしいぞ、ずっと昔は。
人間が地球しか知らなかった頃には、監獄だって地面の上にあるもんだから…。
食事のために持ってるスプーンで、せっせと床を掘っていくんだ。毎日、毎日、少しずつな。
掘ったら土がゴミになるだろ、そいつはズボンの中に隠して捨てに行く。労働とかで、土のある場所に出られる時に。…でないとバレてしまうからなあ、穴を掘ってるのが。
穴を掘るための道具ではない、小さなスプーン。食事用にと渡されたそれ。
頼りないスプーンで床を掘っては、掘った分の土をコッソリと捨てていた囚人。スプーン一本で頑張り続けて、何年もかかって監獄の外へ出てゆくためのトンネルを掘る。
この床からこう掘っていったら塀の向こうだ、と努力を重ねた脱獄犯。あちこちの国で、様々な理由で囚われの身になっていた囚人。
彼らはスプーンで掘って掘り続けて、ついには自由を手に入れたけれど。監獄の塀の向こうへと逃げ出して行ったけれども、ジョミーには最後まで無かった自由。
シャングリラに連れ戻された後には、ソルジャー候補で、やがてはソルジャー。
「…ハーレイだったら、スプーンで掘ってでも逃げるのに…」
なんとか逃げる方法は無いだろうか、って頑張って穴を掘るらしいのに…。
今のぼくだって、「家に帰して」って泣いて大騒ぎをすると思うのに、ジョミー、可哀相…。
家に帰ろうとして連れ戻された後は、もう逃げたりは出来なかったよ。…シャングリラから。
ジョミーのお父さんとお母さんは元気に生きていたのに…。会えないで、家にも帰らないまま。
そのままでジョミーは地球で死んじゃったよ、お母さんたちのこと、忘れてないのに…。
生きていたなら、またお母さんたちに会えて、おふくろの味も食べられたのに…。
ジョミーが好きだった料理やお菓子…、と瞳からポロリと零れた涙。
両親を忘れなかったジョミーは、どんなにか、食べたかったことだろう。子供だった頃に食べた料理を、おふくろの味を。…オレンジスカッシュとは違う本物を。
きっと最後までジョミーは忘れていなかったんだ、と思うと涙が止まらない。前の自分は少しも気付いていなかったけれど、今の自分には分かるから。
ジョミーが会いたかった両親のことも、帰りたいと思った家がどんなに大切かも。
「こら、泣くな。…泣くんじゃない」
今のお前が泣くことはないんだ、とうに過ぎちまったことだから。…メギドと同じで。
お前が悲しむ気持ちも分かるが、そいつがジョミーの運命というヤツだったんだ。人間の力ではどうしようもない、歴史の流れがそうさせた。
…ジョミーに其処を歩かせたってな、前のお前をメギドに飛ばせてしまったように。
それに、あの時代じゃ仕方ない。
SD体制の時代だからなあ、おふくろの味は食べられないのが、当たり前で普通だったんだ。
成人検査で記憶を消されちまうんだから、とハーレイがフウと零した溜息。「酷い時代だ」と。
「前の俺たちほどではなくても、誰の記憶も曖昧だった。…子供時代に関しては」
懸命に逆らっていたシロエでさえもだ、両親の顔はおぼろだったと言うからなあ…。
シナモンミルクにマヌカ多め、と覚えていたって、味の方までハッキリ覚えていたかは謎だ。
そういう飲み物が好きだったんだ、という記憶はあっても、家で飲んでた味はどうだか…。
そんな時代に、ジョミーは両親も家も覚えたままでいられた。…おふくろの味も、忘れないで。
普通は忘れちまう所を、覚えていられただけでも良かった。この味だった、とピンと来るのを、俺たちの船では食えないままでいたとしたって。
ジョミーは幸せだったと思うぞ、前のお前のお蔭で記憶を失わずに済んで。
お前が妨害しなかったならば、全部忘れていたんだからな、とハーレイは前の自分の肩を持ってくれるけれども、そうなのだろうか。…ジョミーは幸せだっただろうか…?
「…そうなのかな…?」
お母さんたちのことを覚えていたって、おふくろの味は食べられなくて…。
そういう話を誰かにしたって、誰も分かってくれなくて…。
辛い思いをしなかったのかな、ソルジャー候補にされて閉じ込められちゃった後には…?
もう船からは二度と逃げられなかったんだよ、とジョミーの瞳を思い出す。明るい若葉の緑色。いつも明るく煌めいていた瞳、けれどナスカが滅びた後には冷たく凍っていたという瞳。
「きっと分かってくれていたさ。…自分は幸せ者なんだ、とな」
あんな時代に、育ててくれた両親のことや、育った家を忘れずにいられた幸せな子供。
それが自分だと、ジョミーは分かっていた筈だ。…他のヤツらには分からなくても、自分でな。
でなきゃ地球まで行っていないぞ、途中で船から逃げちまって。
ソルジャー候補として鍛えられた後には、もう充分にサイオンが強くなっていたから…。
まだシャングリラがアルテメシアに隠れていた間に、脱走してな。
今度こそ家に帰るんだからと、それこそスプーン一本ででも。
部屋の床から穴を掘ってゆけば、いつかは外に出られるからな、とハーレイがおどける。正規の出口を使わずに船から脱出するなら、スプーンも役に立ちそうだぞ、と。
「ジョミーなら、そうかもしれないね!」
普通のスプーンをサイオンで硬くして、少しずつ掘って。…穴が掘れたら、空を飛んでって。
そうやって逃げて行ったかもね、と愉快な気分。ジョミーならばスプーンで、シャングリラから逃げてゆけそうだから。
けれどジョミーは脱走しないで、白いシャングリラに留まった。前の自分に言われるままに。
ソルジャー候補として頑張った後は、ソルジャー・シンとして皆を導いて。
前の自分がいなくなってから、人類軍との戦いの末に、最初に落としたアルテメシア。
かつて追われた雲海の星は、ジョミーが生まれ育った星。両親が今もいる可能性が高い星。
調べさせたならば、きっと分かっただろう。両親が健在であることが。
けれどジョミーは「調べろ」とさえも言いはしなくて、偶然会えた筈のチャンスも退けた。白い鯨を追っていたスウェナ・ダールトン、アルテメシアでの幼馴染。
ジョミーの両親と親交があった彼女が、「会ってゆかないか」と誘っていたというのに。
直接、ジョミーの両親に会えと言いはしないで、彼らの養女に紹介するという形で。
「…ジョミー、お母さんたちに会わないままになっちゃった…」
アルテメシアに戻った後なら、また会えたのに…。おふくろの味も、食べられたのに…。
お母さんなら、きっと覚えていた筈だから。…ジョミーが好きだった料理のことも。
それなのに、ジョミー…。
前のぼくが、みんなを頼んだせいで…。ミュウのみんなの未来のことを…。
息抜きをしても良かったのに、と項垂れた。アルテメシアを落とした時なら、会いに行くことも出来た両親。丸一日は一緒にいられなくても、昼食か夕食を懐かしい家で食べることは出来た。
「ジョミーはこれが好きだったわね」と、母が作ってくれた料理を。…おふくろの味を。
「いいや、それもお前のせいじゃない。ジョミーが自分で決めたんだ」
前のお前がいなくなった後は、ああいう風にしようと選んだ。
ジョミー自身が、あの生き方を。
誰に言われたわけでもないのに、自分で心を凍らせちまって。それこそ氷みたいにな。
俺の意見も聞きやしなかった、とハーレイが眉を顰めているのは、降伏して来た救命艇までも、爆破させていたことだろう。人類軍の船だというだけのことで。
救命艇は武装していないのに。…彼らに攻撃の意図などはなくて、助けを求めただけなのに。
そんな船さえ沈めさせたほどに、感情を殺して生きていたジョミー。
彼が自分で選んだとはいえ、その生き方でジョミーは幸せだったのだろうか…?
「ねえ、ハーレイ…。ジョミーは幸せだったと思う…?」
いくら自分で決めたにしたって、感情なんか見せない生き方。それ、辛くない…?
悲しい時には悲しいものだし、泣きたい時だってありそうなのに…。
氷みたいな目をしているのは辛そうだよ、と顔を曇らせた。その頃のジョミーは、今の時代まで残る写真でしか知らないけれど。
「俺にもジョミーの心の中までは分からんが…。決して読ませはしなかったからな」
しかし、俺よりはきっとマシだったろう。俺はお前を失くしちまって、独りぼっちだったが…。
未来の希望ってヤツも無かったが、ジョミーは違う。…俺と同じ目で地球を見ちゃいなかった。
ジョミーが見ていた地球は約束の場所で、希望の地だった。還り着くべき、母なる星。
もしも辿り着いて、平和な時代を手に入れていたら。死なずに生きていたのなら…。
キャプテンだった俺がお前を追い掛けて逝っちまっても、ジョミーには笑顔が戻っただろう。
暫くの間はシャングリラ中が喪に服したとしても、それが済んだら。
俺の喪なんぞたかが知れてる、とハーレイは笑う。「ほんの数日間だろう」と。それが終われば普段通りに戻る船。ジョミーも涙を流した後には、太陽のようだった笑みを取り戻して。
「ジョミーが昔のジョミーみたいに、明るく笑う筈だったんなら…」
お母さんたちにも、会おうとしてた?
シャングリラが地球まで無事に辿り着いて、SD体制が終わったら。…平和になったら。
またシャングリラでアルテメシアを目指して戻って、お母さんたちの家を探して。
会いに行こうとしていたのかな、と尋ねてみたら、「そうだろうな」と返った答え。
「ジョミーが忘れていないからには、きっと消息を調べさせただろう。…落ち着いた後に」
もっとも、アルテメシアに戻っていたなら、無駄足なんだが…。
ジョミーの両親はコルディッツに行ってしまっていたしな、育てていた小さな娘と一緒に。
運が良ければ、シャングリラで会えていたんだろうに…。上手くいかんな、人生ってヤツは。
ジョミーが名簿を確かめていれば…、とハーレイが言うコルディッツで救ったミュウたち。強制収容所に入れられた彼らの名簿の中に、人類が二人混じっていた。かつてのジョミーの両親が。
「やっぱり、ぼくのせいだ…」
ジョミーがお母さんの作る料理を、二度と食べられなかったのは。
心を凍らせてしまってなければ、名簿だってきっと、見た筈なのに…。
前のぼくが頼んじゃったからだよ、と胸が締め付けられるよう。ミュウの未来を託さなければ、もっと余裕があっただろうジョミー。同じように地球を目指したとしても。
「気にするな。お前のせいじゃないんだから」
ジョミーが自分で決めたことだし、あいつは満足していただろう。…そんな気がする。
傍から見たなら辛そうに見えても、悲しいように思える最期だとしても。
そしてだな…。
さっさと生まれ変わっているんじゃないのか、死んじまった後は。
すっかり平和になった世界に、あいつが最初に言い出した自然出産で。
俺たちよりも遥かに早く地球に生まれて、本物の家族と一緒に暮らして、おふくろの味だ。成人検査なんかはもう無い時代に、お母さんの料理をたらふく食ってな。
おふくろの味を堪能してたに違いないぞ、というのがハーレイの読み。ジョミーはとうに地球に生まれて、おふくろの味で育ったのだ、と。
「そうなったかな…?」
食べられないままで終わった分まで、おふくろの味を食べられたかな…。
オレンジスカッシュしか無かった船の分まで、ジョミーが食べたかった何かを…?
「お前に聖痕を下さった神様なんだぞ、ちゃんとジョミーにも御褒美があるさ」
生まれ変わりの記憶は無かったとしても、ジョミーらしく元気に、幸せに生きて。
「そうだよね…!」
ぼくたちが御褒美を貰えるんだもの、ジョミーも貰った筈だよね。うんと素敵なのを…。
お母さんが作ったお菓子やお料理、好きなだけ食べて大きくなって…。
大人になってもおふくろの味、と浮かべた笑み。ジョミーならそんな大人だよね、と考えて。
きっとジョミーも地球に生まれて、また食べられたことだろう。おふくろの味を。
前の人生とは違う料理やお菓子に変わっていたって、「これが好き」と笑顔になれる味。
今のハーレイにおふくろの味のパウンドケーキがあるように、きっとジョミーにも。
そうであって欲しい、と心から思う。ジョミーも神様に御褒美を貰って、おふくろの味、と。
今の自分は幸せだから。今は誰もが幸せに暮らせる平和な時代で、蘇っている青い地球。
それを作ってくれたジョミーも、幸せになっていて欲しい。
前のジョミーが両親を、家を恋しがった理由が、自分にもやっと今頃になって分かったから…。
ジョミーの気持ち・了
※シャングリラに迎えられた直後に、家に帰ったジョミーですけど、何故、帰ったのか。
前のブルーには、想像もつかなかった理由なのかもしれません。両親を覚えていたのが原因。
(んー…)
まだまだチビだ、とブルーが覗いた鏡。学校から帰って、おやつの後で。
自分の部屋の壁に掛かっている鏡。朝一番には髪に寝癖がついていないか、覗くそれ。鏡の中に映った自分は、やっぱりチビ。いつも通りに。
(背丈が少しも伸びてないから…)
身体は育っていないわけだし、顔立ちが変わるわけがない。昨日までの顔と。
目が大きくて、丸みを帯びている輪郭。何処から見たって子供の顔。大人びた部分は、ちっとも無くて。頬っぺただって柔らかそうで、ほんのりと子供らしい薔薇色。
(前のぼくとは違う顔だよ)
ホントに違う、と見詰める姿。前のぼくは「こうじゃなかった」と。
遠く遥かな時の彼方で、メギドで死んだソルジャー・ブルー。新しい命と身体を貰って、地球の上に生まれ変わってくる前に持っていた姿。それとはあまりに違いすぎる今。
(チビの頃なら、こうだったけど…)
アルタミラの檻で成長を止めていた頃だったら、この姿。成人検査を受けた直後のままだから。
もっとも、鏡は見なかったけれど。こうして鏡を覗き込もうにも、鏡なんかは無かった檻。実験動物を入れる檻には、鏡は要らない。
(実験に連れて行かれた時に…)
磨き抜かれた壁に映るのや、強化ガラスのケースに映った姿をぼんやり見た程度。「ぼくだ」と何の感慨も無く。「まだ生きている」と思う程度で。
アルタミラから脱出した船でも、初期の頃には、そうそう鏡を覗いてはいない。部屋には多分、無かった鏡。あったとしても、さほど興味は無かっただろう。覗いた記憶が無いのだから。
(鏡があったの、バスルームとか…)
顔を洗う時には洗面台の鏡に映っていたし、バスルームにも鏡は確かにあった。それを覗いて、整えていた髪や服装などや。少年の姿だった頃には、たったそれだけ。
(今だと、何度も…)
見るんだけどな、と考える鏡。部屋でも、それに洗面所でも。
鏡の向こうを覗いてはガッカリ、今日みたいに肩を落としてしまう。「育ってないよ」と。
チビの自分が映っているだけ、まるで子供の姿が其処にあるだけだから。
なんとも酷い、と悲しくなってしまう顔。十四歳にしかならない、今の自分の顔立ち。
(少しも変わってくれないんだから…)
今のハーレイと出会った時から、全く変わってくれない姿。一ミリさえも伸びない背丈。身体が育ってくれない以上は、顔立ちだって変わらない。子供っぽい顔でいるしかない。
いつになったら育つのだろうか、前の自分と同じ姿に。ハーレイがキスをくれる背丈に。
前の自分と同じ背丈にならない限りは、ハーレイはキスをしてくれない。キスはいつでも、頬と額にくれるだけ。恋人同士の唇へのキスは貰えない自分。
(育たないとキスも駄目なままだし、ハーレイの家にも遊びに行けないし…)
今のままでは困るんだけど、と思っても鏡に映るのはチビ。毎日のように覗いてみても。少しは育っているだろうかと、期待を抱いて覗き込んでも。
(凄い速さで育つのは無理だろうけれど…)
劇的な変化を遂げるのは無理、と溜息をついて、勉強机の前に座った。鏡から離れて。
どんなに鏡を見詰めていたって、チビの自分が映るだけ。見る間に育っていったりはしない。
(かぐや姫とは違うんだから…)
日毎に育って、アッと言う間に大人の姿に成長するのは無理だと思う。ミュウと言っても普通の人間、月の都のお姫様とは違うから。
成長するなら、前の自分がそうだったように、ごくごく普通のスピードで。
アルタミラから脱出した後、少しずつ背が伸び、子供の顔から大人びた顔に変わったように。
(早く育つといいんだけどな…)
かぐや姫とは違う生まれでも、奇跡みたいに一瞬で育ってくれたら素敵、と夢見る奇跡。
ある朝、起きたら、小さくなっているパジャマ。袖もズボンも短くなって、ボタンだって外れてしまっていて。
(前のぼくの背丈で、ぼくのパジャマを着ようとしたら…)
きっとそういうことになる。小さすぎて身体に合わないパジャマ。
其処から覗いた手足は華奢で細いけれども、「細っこい」子供の手足とは違う。目にした途端に気付くだろう。「前のぼくだ」と、「育ったんだ」と。
起きて鏡を覗きに行ったら、待ち焦がれていた姿が映る。前の自分にそっくりな顔が。
ずっと欲しかった顔と背丈が手に入る奇跡、そういう奇跡があればいいのに。
神様が起こしてくれないかな、と思ってはみても、ただの「我儘なお願い」なだけ。今の姿でも生きてゆくのに困りはしないし、奇跡が起こるわけがない。聖痕とはまるで違うから。
(奇跡は無理だし、かぐや姫とも違うんだし…)
凄い速さで育つことなど、前の自分でさえ無理だったこと。急成長を遂げることなど。見る間に育って、大人の姿を手に入れるなど。
(育たなくちゃ、って思っていなかったから…)
今の自分とは異なる事情。前の自分は、「大人になろう」と急いでなどはいなかった。
もう充分に強かったサイオン。子供の姿でも問題も不自由もありはしなくて、育ちたいと切実に思う理由が無い。「今の姿じゃ駄目なんだ」と成長を急ぐ理由など。
だから、檻の中では長く止めていた成長を再び始めただけで、前の自分は普通に育った。日毎に大きくなりはしないで、ゆっくりと自然なスピードで。
あれだけのサイオンを持っていてさえ、ゆるやかに育って大きくなった。前の自分の背丈まで。
(急に成長するなんて…)
前のぼくでもやっていないよ、と思ったはずみに気が付いた。
一度だけ、やっていたことに。劇的な変化を身体に起こして、すっかり変わってしまった姿。
(成長じゃなくて、変身だけど…)
そう、「変身」という言葉が相応しいだろう。サナギが蝶へと脱皮するように、ミュウへと変化した自分。それまでの「人類」という姿から。ただの平凡な少年から。
(中身がミュウに変わっちゃったら…)
外見まで同じに変化を遂げた。一瞬の内に色素が消し飛び、アルビノになって。
銀色の髪に赤い瞳で、抜けるような肌を持ったアルビノ。前の自分はそういう姿に変化した。
今の時代は、「ソルジャー・ブルー」と言ったらアルビノなのだけど。誰が聞いてもアルビノを思い描くけれども、そうではなかった本来の姿。
(金色の髪で、水色の瞳…)
それが本当の色だったっけ、と思い出す。前の自分が持っていた色。
成人検査よりも前の記憶は失くしたけれども、辛うじて残った最後の記憶。検査を受けに行った施設の待合室で、壁に映っていた姿。
金髪に水色の瞳の少年、前の自分はそれを見ていた。見るともなしに、「ぼくの姿だ」と。
そうだったよね、と蘇って来た前の自分の記憶。急成長を遂げる代わりに、抜け落ちた色素。
ミュウに変化した証のように、アルビノに変わってしまった自分。それまでの色を失って。
(あの姿、何処に行っちゃったんだろ?)
金色の髪と水色の瞳を、今の自分は持ってはいない。青い地球の上に生まれた時から、アルビノだった今の自分。母のお腹から生まれて来た時、既に持ってはいなかった色素。
お蔭で名前が「ブルー」になった。
前の自分と同じ名前でも、何処にも青い色は無い。けれど「ブルー」で、ソルジャー・ブルーに因んだ名前。タイプ・ブルーに生まれた子供で、アルビノだからと名付けられて。
(ソルジャー・ブルーは大英雄だし、パパとママが付けるのも分かるけど…)
今ならではの名前だけれども、前の自分の「本当の姿」は何処に消え失せたのだろう?
青い色を持っていた「ブルー」は。…金色の髪と水色の瞳は?
(失くしちゃったの…?)
この地球の上に生まれてくる時、前の自分の本当の色を。生まれた時から持っていた色を。
今の自分は生まれつきアルビノの子供だったし、それですっかり慣れているけれど。銀色の髪と赤い瞳を持った顔しか知らないけれど。
(…前のぼくなら、この顔の時には違ってた色…)
十四歳になるまでは違う色を持ち、ミュウに変化してアルビノになった。
子供時代の記憶は全く残っていないし、思い出せない本来の姿。幼かった頃はどんな顔立ちで、鏡の向こうに何を見たのか。「ぼくの顔だよ」と眺めていただろう顔。
映っていたのは金色の髪と水色の瞳、それを何処かに落としたろうか…?
今の自分は「知らない」から。そういう色を持った自分を、ほんの僅かな欠片でさえも。
(…前のぼくの記憶がある、っていうだけで…)
ぼくは知らない、と椅子から立って、覗きに出掛けた壁にある鏡。さっき覗いていた鏡。
其処に映った自分の姿に、金色の髪と水色の瞳を重ねようとしても、重ならない。ほんの少しも重なりはしない。どう頑張っても、金色と水色を重ねたくても。
(…そういう色に見えてくれないよ…)
なんと言っても、今の自分が十四年間も見て来た顔だから。銀色の髪も、赤い瞳も。
物心ついた時には、とうにこの色。アルバムの写真も全部そうだし、これが自分の色だから。
あの色のぼくとは別人だよね、と戻った勉強机の前。鏡に映ったチビの自分に背中を向けて。
(本当のぼく…)
何処へ行ったの、と考えてしまう。金色の髪に水色の瞳、それを確かに持っていた自分。
あれは幻だったろうか、と勉強机に頬杖をついて、失くした姿を追ってみる。記憶の中に確かにあるのに、今は持ってはいない色。今の自分が生まれた時には、無かった色。
(鏡を見たって、上手く重ならないくらいだし…)
幻でもいいのかもしれない。時の彼方に消えてしまった、蜃気楼のように儚い幻。
前の自分は三世紀以上も生きたけれども、あの色を身体に持っていたのは十四年だけ。その上、記憶に残っているのは、成人検査の直前に壁に映った姿。他には何も覚えていない。
(長い人生の中の、ほんの一瞬…)
ホントに一瞬だけだったよね、と思う色。それだけでも、まるで幻みたい、と。
おまけに今の自分にとっては、「持っていたことがない姿」。金色の髪も、水色の瞳も。
今の自分が金色と水色を取り戻したなら、両親は驚くことだろう。一人息子に何が起きたかと、目を丸くして。「これはブルーの色じゃない」と、二人とも慌てふためいて。
(…病院に連れて行かれちゃうかもね?)
何かの病気で色が突然変わったろうか、と大きな病院へ。痛いわけでも何でもないのに、両親が揃って付き添って。
そう思うと、なんだか面白い。身体に持っている色が変われば、病院なんて、と。
(前のぼくだと…)
色が抜け落ちたら「ミュウになった」と銃で撃たれたのに、今の自分は病院で診察。今の自分と違った色の髪や瞳に変化したなら。
どちらも同じに色が変わるだけで、自分の中身は変わらないのに。前の自分も、今の自分も。
ミュウに変化した前の自分も、心は変わらなかったというのに、容赦なく銃を向けられた。誰も話を聞いてくれなくて、「何もしない」と訴えた言葉も聞き流されて。
(時代が違うと、ぼくの扱い、変わっちゃうんだ…)
成人検査などは無い時代。それに血が繋がった本物の両親と暮らしている自分。
そんな自分の髪と瞳の色が変わったら、撃たれはしないで、病院へ診察に連れてゆかれる。父が急いで車を出して、母が「大丈夫?」と心配しながら、車の中で手を握ってくれて。
時代と環境、それに境遇。そういったものが違っただけで、自分への扱いも変わるらしい。前の自分と同じように「持っている自分の色」が変わっても、別の色へと変化をしても。
(…だったら、最初は金色の髪に水色の瞳のぼくで…)
その色に生まれた今の自分が、ある日アルビノになったなら、と想像してみる。金色の髪が銀に変わって、水色の瞳は色を失くして血の色の赤。
両親がそれを目にしたならば、やはり大慌てで病院に連れて行かれそう。「大変!」と父の車に乗せられて。母に手をしっかり握り締められて。
きっと大騒ぎになるんだよ、と考えていたら、頭の中に浮かんだこと。今の自分が行った病院。
(そうだ、聖痕…!)
前兆だった右の瞳からの出血。両親は「病院に行かないと」と車を走らせ、ずいぶん心配そうにしていた。瞳には傷が無いと聞いても、出血したのは本当だから。
その後に起きた、学校での本物の聖痕現象。ハーレイと再会を果たした途端に、右の瞳や両方の肩から溢れ出した血。左の脇腹からも流れた鮮血、前の自分がキースに撃たれた傷の通りに。
(凄く痛くて、気絶しちゃって…)
救急搬送された自分。ハーレイが付き添っていてくれたことさえも覚えてはいない。酷い痛みで意識を失くして、目覚めた時には病院のベッド。
それほどの激痛、同時に戻った膨大な記憶。前の自分がミュウに変化した、成人検査の衝撃にも匹敵しそうな感じ。あの時の今の自分のショックは。
(今のぼくは、元からミュウだけど…)
記憶が戻った時のショックで、アルビノに変化したとしたなら、どうだったろう。
金色の髪と水色の瞳を失くしてしまって、銀色の髪と赤い瞳に変わったら。
(ホントに前のぼくとそっくり…)
もう文字通りに、ソルジャー・ブルーの誕生と言っていい光景。
ソルジャー・ブルーが成人検査でアルビノになった話は、今も有名だから。元は金色の髪だったことも、水色の瞳を持っていたことも。
(ぼくが同じに変化しちゃったら、パパもママもビックリで、ぼくもビックリ…)
両親は腰が抜けそうなくらいに驚くだろう。一人息子がアルビノになってしまったら。
自分も驚きそうだけれども、直ぐに納得するのだろうか。前の自分の記憶が戻っているのなら。
色が抜け落ちた姿を鏡で眺めて、目をパチクリとさせそうな自分。「これが、ぼくなの?」と。
病院のベッドに横たわったままで、アルビノになってしまった自分を鏡で見たら。
(ぼくの色は何処へ行っちゃったの、ってビックリするのか、納得か、どっち…?)
これが本当の自分の色だ、と素直に受け入れるだろうか。記憶が戻っているのだったら、何度も見ていた色の筈。自分ではなくて、前の自分が。
(チビの頃には、鏡はそんなに見ていないけど…)
育った後にもアルビノだったし、アルタミラから脱出した後も三百年は馴染んだ姿。今の自分の色を失くしても、素直に納得しそうではある。「この姿だって、ぼくだよね?」と。
けれど、周りはどうだろう。両親はともかく、他の人たちの反応は…、と考えていたら聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、早速、訊いてみることにした。
テーブルを挟んで向かい合わせで、ハーレイだったらどうなるのかと。
「あのね、ハーレイ…。ぼくがアルビノじゃなかったら、どうしてた?」
「はあ?」
どういう意味だ、と怪訝そうなハーレイ。「そいつは、今のお前のことか?」と。
「そう。金色の髪と水色の瞳を持った、ぼくだよ。…前のぼくの色を知っているでしょ?」
成人検査を受ける前にはこうだったよ、って記憶を見せたし、アルテメシアを落とした後には、前のぼくのデータも見てるよね。育った家とか、養父母のデータとかと一緒に。
もしも、今のぼくが金髪で水色の瞳だったら…。そんなぼくでも、ハーレイの記憶は戻ったの?
教室に入って出会った時に、と問い掛けた。まずは其処から訊かないと、と。
「俺の記憶か? 戻るだろうなあ、そんなお前でも聖痕は現れるんだろうから」
どんな瞳と髪の色でも、聖痕は出てくるんだろう。あれは奇跡で、神様が起こしたものだから。
お前と俺とを出会わせるために、きちんと時と場所とを選んで。
人騒がせな場所ではあったが…、とハーレイが浮かべた苦笑。教室のあちこちで上がった悲鳴や叫び声。他のクラスにも騒ぎは飛び火で、救急車までが来たのだから。
「やっぱり記憶は戻るんだ…。ぼくの髪や瞳が違う色でも」
それでね、ちょっと訊きたいんだけど…。
聖痕が身体に出ちゃったショックで、ぼくがアルビノになってしまったら、どう思う?
前のぼくがアルビノに変わったみたいに、今のぼくの色も変わってしまったら…?
成人検査とは違うけれども、ショックは大きかったんだから、と話した聖痕現象。激しい痛みと酷い出血、それに膨大な記憶までが戻って来た瞬間。
「…あれでアルビノに変化したって、おかしくないと思うんだけど…」
元からアルビノだったお蔭で、変化しなかっただけかもね。…もう失くす色は無いんだから。
だけど、金髪で水色の瞳を持ったぼくなら、前と同じに色が抜けそう…。全部、すっかり。
聖痕が身体に出た途端にね、と肩を竦めてみせた。「そうなっていたら、ビックリした?」と。
「驚くなんてモンじゃないんだろうな…。俺の目の前で、お前がアルビノになったなら」
お前が帰って来てくれたんだ、と喜びもするが、きっと度肝を抜かれるんだろう。とんでもない現象を見たわけだしなあ、お前の色素が一瞬の内に消えるんだから。
俺も驚くが、教室中の生徒がパニックじゃないか?
まるでソルジャー・ブルーだからなあ、色素を失くしてアルビノに変化するなんて。
歴史の授業で教わるんだし…、とハーレイが言っている通り。ソルジャー・ブルーについて習う時には、成人検査の所から。「色素を失くしてアルビノになった」と始まる授業。
「そうだよね…。クラスのみんなも、ビックリ仰天…」
ぼくがソルジャー・ブルーみたいになった、って大騒ぎだよね、アルビノに変化しちゃったら。
さっきまでいた金色の髪と水色の瞳を持っていたぼくが、銀髪で赤い瞳になったら…。
気絶しちゃったら、瞳の色は分からないかもしれないけれど…。
どの辺で変化するかによるよね、と瞬きをした。聖痕が現れた瞬間だったら、暫くは瞳も開いていた筈。ハーレイが教室に入って来た時、右の瞳から出血を起こしたのだから。
「聖痕が出るだけじゃないんだな? お前に出会った瞬間の変化」
瞳の色まで変わっちまって、髪の毛の色も変化して…。ついでに大量出血、と。
俺もパニックに陥りそうだが、前の俺の記憶が戻ってくれればストンと納得しそうではある。
お前なんだ、と直ぐに分かるから。…アルビノに変わっちまうのも無理はない、と。
しかしだ…。俺はともかく、お前を運んでゆく先の病院ってヤツが問題だぞ。
救急車を呼んでも、救急隊員が慌てるだろう、とハーレイは頭を振っている。何処へ搬送すればいいのか、彼らが頭を悩ませそうだ、と。
聖痕からの大量出血も大変だけれど、失くした色素。それは出血のせいでは消えない。
原因不明の出血と、消えてしまった色素。運ぶ病院を決めるのに、きっと困るのだろう、と。
受け入れる病院は何処になるんだ、と言われてみれば難しそう。聖痕現象の前兆の時に、診察を受けた大病院。あそこに運ばれるにしても…。
「聖痕だけなら、前に診てくれた先生で決まりなんだけど…」
ぼくがソルジャー・ブルーの生まれ変わりじゃないか、って言ってた先生。目からの出血、あの先生が診てくれていたしね。傷も無いのに血が出るなんて、って色々と調べて。
だから身体中から血が出ていたって、傷は何処にも無いってことが分かれば、あの先生だよ。
最初の間は、怪我の専門家の先生たちが診そうだけれど…。手術が必要なのかも、ってね。
怪我なら急いで手術しなくちゃ、と自分が起こした聖痕現象を思う。両肩と左の脇腹から溢れる鮮血は早く手当てをしないといけない。場所が場所だけに、命が危ういかもしれないから。
実際、救急搬送された時には、そうだったという。輸血や手術の用意をしながら、到着を待った病院の医師たち。けれども患者の服を剥いだら、怪我は無かったものだから…。
(最初に診てくれた、あの先生…)
聖痕現象だと見抜いた医師の出番になった。前兆の時から診ていたわけだし、適任だろうと。
症状が聖痕現象だけなら、あの医師だけでいいのだけれど。他の医師の出番は皆無だけれども、色素を失くした現象の方は、管轄が違うような気がする。引き金は聖痕だとしても。
「お前の色素まで抜けちまったなら、どの先生が診るやらなあ…」
あの先生も診るんだろうが、聖痕よりも厄介なのがアルビノのような気がするぞ。原因は聖痕にしたってな。…あの先生がそれを見抜いてくれても、お前、アルビノなんだから…。
直ぐには退院できないんじゃないか、聖痕だけの時と違って。
入院ってことになっちまうかもな、とハーレイが言うから驚いた。聖痕は直ぐに帰れたのに。
「え? 入院って…」
どうして入院しなきゃ駄目なの、ぼくはアルビノになっただけだよ?
髪の毛と目の色は失くしちゃったけど、他の色に変わってしまっただけで…。
沢山の血が流れ出すよりマシじゃないの、と傾げた首。何故、アルビノだと入院なのかと。
「そのアルビノが厄介だって言っただろうが。…聖痕よりも」
聖痕だったら、お前の身体に傷は一つも無いわけだから…。
何度も繰り返す恐れが無いなら、特に心配要らんだろう。酷い出血さえ起こさないなら。
だが、アルビノだとそうはいかない。お前の体質、すっかり変わっちまったんだし。
聖痕と違って本当に身体に起こった変化だ、とハーレイは指でテーブルをトンと叩いた。
「金色の髪に水色の瞳のお前は、何処にもいなくなったんだから」と。
「聖痕は出血が収まっちまえば、傷なんか一つも無いんだが…。元のお前の肌に戻って」
しかし、アルビノの方は違うぞ。聖痕から出血するのが止んでも、髪や瞳の色は戻って来ない。いつまで待っても色は抜けたままで、戻りそうにないと分かったら…。
其処から先が大変だってな。お前はいきなり、アルビノとして生きてゆくことになるんだから。
まずは、お前が色素を失くしたことで、身体に起こった変化を確かめてやらないと。
そいつが医者の仕事だよな、と言うハーレイにキョトンとした。どうして医者の出番なのかと。
「…なんでお医者さん? 聖痕の方なら分かるけど…」
大怪我をしたみたいに見えるし、ホントに凄い血だったから…。検査も色々してたけど…。
アルビノの方なら、色が変わっただけじゃない。お医者さんが調べて「アルビノです」って診断したら終わりじゃないの?
それだけでしょ、と首を傾げた。実際、今の自分は病院とは無縁。虚弱な身体の方はともかく、アルビノの方では行かない病院。定期検査にも、健康診断にも。
なのに病院がどう関わるのか、本当に不思議に思ったのだけれど。
「さっきも言ったぞ、アルビノの方が厄介だと。…聖痕よりも」
お前の体質は変わっちまって、身体から色素が無くなったんだ。それも一瞬で消し飛んで。
失くしちまった色素の方は、お前の身体を守っていたようなモンだから…。そうなる前には。
アルビノになった身体の負担を補えるだけの、充分なサイオン。そいつがきちんと働いてるかを調べないと。…そこで病院の出番になるってな。
生まれつきのアルビノだった場合は、今の時代は全く問題ないんだが…。
前の俺たちの頃と同じで、サイオンが身体の弱い部分を自然に補ってくれるから。…アルビノに生まれて色素が無いなら、そういう身体に相応しく。
ところが、お前は生まれつきのアルビノじゃないからなあ…。いきなり変化したってだけで。
その上、サイオンが不器用と来た。病院の方でも、不器用なのは把握してるから…。
検査しようとするだろうさ、というハーレイの指摘。アルビノの身体が抱えた弱点、それを補うサイオンが使えているかの検査。
なにしろ突然変化したのだし、タイプ・ブルーでもサイオンを上手く扱えない子供だから。
サイオンを自由に使いこなせるなら、早めに退院できそうだが、とハーレイに言われて、やっと気付いた。今の自分の不器用すぎるサイオン、それが大いに問題なのだと。
「そうなのかも…。今のぼく、ホントに不器用だから…」
生まれた時からアルビノだったし、サイオンで補えてるけれど…。元からこういう身体だから。
だけど途中で変わっちゃったら、サイオンがついていかないかも…。不器用すぎて。
アルビノは光に弱いんだよね、色素が無いから。…目とかが痛くなっちゃうの?
上手くサイオンで補えなかったら…、と目をパチパチと瞬かせた。今の自分はまるで平気だし、空の太陽を見上げたりもする。もちろん、太陽は眩しすぎるけれど。
「そうらしいなあ、サイオンで補えなかった時代は大変だったという話だぞ」
真夏でなくても、サングラスをかけたりしたらしい。でないと光で目をやられるから。
肌の日焼けも酷かったと聞くな、日光で火傷しちまうんだ。肌が真っ赤に焼けてしまってな。
もっとも、前のお前の場合は、まるで気にしちゃいなかったが…。今のお前と全く同じで。
宇宙を旅していた頃はともかく、アルテメシアに落ち着いた後も、平気で外に出ていただろう?
太陽が燦々と照っていようが、目が痛かったとも、日焼けしたとも言いもしないで。
前のお前も、無意識にやっていたんだろうなあ…。生まれつきじゃなくても、変化した時から。
アルタミラの檻に押し込められるよりも前から、もう早速に。
成人検査の機械を壊して、アルビノになった途端にな…、というハーレイの言葉に頷いた。
「そうだと思う。あの部屋も明るかったんだけど…。眩しいって思わなかったから」
ぼくの目の色と髪の毛の色が変わっちゃった、ってビックリしただけで、たったそれだけ…。
眩しくって目がチカチカしたなら、きっと覚えているだろうしね。太陽の光じゃなくっても。
「うむ。その後、直ぐに撃たれたらしいが、目が痛かったなら忘れはしないだろう」
それも変化の一部分だから、「あの時はこういう風になった」と、ずっと後まで。お前の人生、あそこで丸ごと変わっちまって、別の人生になったんだしな。
そういう記憶が無いと言うなら、前のお前は上手にサイオンでカバーしたんだ。色素を失くした瞳の弱さを、変化と同時に実に素早く。
なんと言っても、完璧なタイプ・ブルーだったんだから…。
今の不器用なお前と違って、サイオンを直ぐに使いこなすことが可能だった、と。どういう風に使えばいいのか、アルビノの弱点を補うことも含めてな。
光に弱いというアルビノ。身体がそれに変化したなら、弱くなった部分はサイオンで補う。前のお前はそうだったろう、というのがハーレイの読み。最強のサイオンの持ち主に相応しい能力。
「しかしだ、今の不器用なお前だと…。その方面の力も、駄目な可能性が高いしな?」
元がとことん不器用なんだし、サイオンで上手く補うどころか、ただ途惑ってるだけだとか…。
補えてるにしても、生まれつきのアルビノの場合と違って、足りない部分があるかもしれん。
そういったことがハッキリするまで、病院に留め置きになるんじゃないか?
検査の内容までは知らんが、眩しがらずに見えているのか、肌は日焼けに弱くないかだとか…。色々な項目について調べて、「大丈夫だ」とお墨付きが出るまで入院とかな。
預かっちまった病院の方にも責任ってヤツがあるじゃないか、と大真面目な顔をするハーレイ。急に色素を失くした患者を診察したなら、その患者が普通に暮らせるかどうかを調べねば、と。
アルビノ特有の弱点をサイオンで補えない状態となれば、生活のためのアドバイスも必要。強い日差しは避けるべきだとか、サングラスをかけるようにとか。
検査が済んで結果が出るまで、留め置かれたままになる病院。聖痕現象の方は収まっていても、失くした色素が問題だから。
「それじゃハーレイに会えないじゃない!」
病院から家に帰れないんじゃ、ハーレイに会えないままになっちゃう…。
検査にどのくらいかかるか分からないけど、その間は入院なんだから。家に帰れないで、何度も検査。アルビノでも普通に生きていけるか、お医者さんたちが調べ終わるまで…。
入院してたらハーレイに会えなくなっちゃうじゃない、と困ってしまった。
金色の髪と水色の瞳を持って生まれて、それを失くしたら、前のハーレイが良く知っていた姿が戻ってくるけれど。アルビノの姿になるのだけれども、肝心のハーレイに会えないらしい。暫くの間は家に帰れず、検査入院になりそうだから。
「いや、其処は心配しなくても…。ちゃんと見舞いには行ってやるから」
学校の仕事が終わりさえすれば、自分の時間が取れるんだし…。直ぐに車を走らせて。
行き先がお前の家になるのか、病院なのかの違いだけだな、俺にとっては。
心配するな、とハーレイは微笑むけれども、病院の部屋へ見舞いに来て貰っても…。
「来てくれるのはいいんだけれど…。再会の場所が病院だなんて…」
やっとハーレイに会えたっていうのに、ゆっくり話も出来ないだなんて…!
そんなの嫌だ、と頬を膨らませた。病室なんかで再会したって、二人きりで話せる時間は短い。あの日、ハーレイが来たのは夜だった。学校への報告などにも時間がかかったのだろう。
家だったから夜でも良かったけれども、病院の場合はそうはいかない。面会時間はもう終わっていて、話せたとしても僅かだけ。
(ただいま、ハーレイ、って言えるかどうか…)
母が病室に付き添っていたら、きっと口には出来ない言葉。「帰って来たよ」という言葉も。
ハーレイが家まで来てくれたから、母に頼めた我儘なこと。「暫く二人きりにして」と。
母は「お茶の支度をしてくるわね」と出て行ったけれど、病院の部屋だとどうなるだろう。外の廊下に出るだけだったら、じきに戻って来るのだろうし…。
(ただいま、ってハーレイに言うことは出来ても、抱き合ったりはしてられないよ…)
ハーレイの方でも、ベッドの側に立っているだけで終わりそう。あるいは枕元の椅子に座って、そっと手を握ってくれるだけ。…抱き締める代わりに。
それでは困る。「せっかくの再会が台無しだよ」と文句を言ったら、ハーレイに問い掛けられたこと。「なんでまた、アルビノじゃなかったらなんてことを考えてるんだ?」と。
「俺がお前に出会った時には、お前、アルビノだったじゃないか。…生まれつきの」
途中で変化したってわけじゃないだろ、前と違って。なのに、どうしてこだわるんだか…。
今のお前がアルビノに変化しちまった時は、困ったことになりそうだっていうのにな?
お前もそれは困るんだろうが、と鳶色の瞳に覗き込まれたから、「そうだけど…」と口籠った。
「ぼくも困ってしまうんだけれど、でも、気になってしまったんだよ」
えっとね…。家に帰って鏡を見てたら、前のぼくのことを思い出しちゃって…。
今のぼくだと、生まれた時からアルビノだから、髪も瞳もこういう色。
だけど、前のぼくは成人検査を受ける前には、金色の髪に水色の瞳をしてたわけだし…。
その色、ぼくは欠片も持ってはいないんだよ。小さい時から、ずっとこの色。
ハーレイと二人で青い地球に生まれ変わって来たけど、前のぼくの色は無くなっちゃった。前のぼくが持ってた、金色の髪と水色の瞳は最初から持っていなかったから。
今のぼくはね、前のぼくの色を失くしてしまったみたいだから…。
どんなに鏡を覗いてみたって、金色の髪に水色の瞳の顔は重なって来ないから…。
本当のぼくは何処へ行ったのかな、って…。だって、この色だと別人だもの。
顔立ちは同じでも別のぼくだよ、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。自分でも違うと思う印象。まるでそっくり同じ顔立ちでも、髪と瞳の色が違えば別人になる。
「そう思わない? 双子なんです、って言っても似てない双子…」
双子だったらそっくりだけれど、本物のぼくとアルビノのぼくだと、似ていないってば。
それくらい違って見える筈なのに、今のぼくは最初からアルビノで…。前のぼくは何処に行ってしまったのかな?
金色の髪に水色の瞳のぼくは…、と消えない疑問。今の自分が欠片さえも持っていない色。
「本物って…。本物のお前は、今のお前だろ? 銀色の髪に赤い瞳のアルビノ」
前のお前の記憶はともかく、俺が知ってるお前は、そうだ。…最初からな。
燃えるアルタミラで出会った時には、お前はとっくにアルビノだった。前の俺と一緒に暮らしたお前も、ずっとアルビノのままだったろうが。…色素は戻って来なかったから。
俺は、金色の髪に水色の瞳のお前は知らん。前のお前が見せてくれた記憶の中でしか。
後はテラズ・ナンバー・ファイブが持ってたデータだ、前の俺たちに関するデータ。前のお前の子供時代のデータの中には、そういうお前の写真もあったが…。
お前の記憶の通りだったな、と考えただけで、何の感慨もありはしなかった。本物のお前だ、と思いもしないし、データをきちんと残したいとも思わなかったな。
お前の養父母や、育った家のデータの方には俺も興味があったんだが…。それにお前の誕生日。
そういったことは、いつかお前に教えてやろうと、頭に叩き込んだんだがな。
俺の命が終わった後に…、と笑ったハーレイ。
「逝ってしまった前のお前の所に行ったら、話してやろうと思ってたんだ」と。
そう考えていたハーレイの目には、「本物」に見えなかった金色の髪に水色の瞳の「ブルー」という名の子供の写真。アルビノではない頃の姿は、本物らしく見えなかったと聞かされたから…。
「…こっちの姿が本物なの?」
前のハーレイにはそう見えたって言うの、アルビノの方が本物のぼくの姿なんだ、って…。
「そうなるが? ついでに今の俺が見たって、お前の姿はアルビノでこそだ」
金色の髪と水色の瞳のお前がいたって、ピンと来ないぞ。お前だと分かりはするんだが…。
そういや、こういう色だったよな、と前のお前の記憶やデータを思い出したりするだろうが…。
本物のお前の色じゃないな、と思うだろうなあ…。今のお前はこういう姿になったのか、と。
きっと残念に思うんだぞ、とハーレイはアルビノに軍配を上げた。「それが本物のお前だ」と。
「俺が知ってるお前はそれだし、アルビノのお前が本物だろう」
お前は本物の色を失くしたわけじゃなくてだ、最初から本物のお前の色で生まれて来たんだ。
途中で色が抜けるとなったら大変だしなあ、病院に入院ってことになるかもかもしれないし…。
面倒が無くて良かったじゃないか、と言われたアルビノ。今の自分の生まれつきの色。
「本物のぼくは、アルビノなわけ…? 前のぼくが最初に持ってた方の色じゃなくって…?」
いくら鏡を覗いてみたって、重ならないとは思っていたんだけれど…。
金色の髪も、水色の瞳も、ちっともぼくらしい感じがしなくて…。別人みたい、って。
アルビノの方が本物だったら、重ならなくても不思議じゃないよね。こっちが本物なんだから。前のぼくがちょっぴり持っていた色は、成人検査で消えちゃったし…。
あっちが仮の姿なのかな、と首を捻った。「本物のぼくは、ホントはアルビノ?」と。
「アルビノの方が本物なんだと思うがな? でなきゃ、あの色にはならんだろう」
ミュウに変化すると色素を失くすと言うんだったら、シャングリラはアルビノばかりになるぞ?
俺もアルビノなら、ゼルやブラウもアルビノだ。あの船の仲間はみんなミュウだし…。
爆発的な変化でアルビノになると仮定したって、それだとジョミーが当てはまらない。あいつは前のお前以上に、凄いサイオンを爆発させてミュウになったが…。
アルビノになっちゃいないだろうが、ジョミーと言えば金髪だ。緑の瞳も健在だったぞ。
前のお前しかいなかったよなあ、アルビノのミュウは。…それが「本物」だという証拠だ。あの姿こそが、本物の前のお前の姿だってな。
銀色の髪に赤い瞳のアルビノのお前、とハーレイが押した太鼓判。「あれがお前だ」と。
「うーん…。今のぼく、本物の色を失くしたわけじゃなくって、最初から本物だったわけ…?」
前のぼくが違う姿をしていただけなの、ミュウになる前の間だけ…?
記憶はちっとも残ってないけど、人類の世界で育てられてた十四年間だけが違う姿で…。
「俺はそうだと思ってるんだが? 今のお前が本物の姿をしているんだと」
生まれつきのアルビノで、不器用なサイオンでも弱点をカバー出来てるお前。前の俺が知ってた頃のお前と、そっくり同じ色を持ったお前がな。
第一、今のお前がだ…。金色の髪と水色の瞳に生まれていたら。
名前は「ブルー」になっていたのか、今のお前は前と同じで「ブルー」なんだが…?
其処の所はどうなるんだ、と投げられた問い。「お前の名前はブルーだったか?」と。
「今のお前が持ってる名前は、アルビノだった前のお前の名前なんだが…」
同じアルビノの子供だから、と付けて貰った名前らしいが、そいつはどうなる?
ちゃんと「ブルー」になっていたのか、という質問。金色の髪と水色の瞳に生まれていても。
「どうだろう…?」
そっちでもブルーになっていたかな、瞳の色が水色だから…。水色も青の内だしね。
前のぼくだって、名前は「ブルー」だったもの。きっと水色の瞳からだよ、育ててくれたパパとママが名付けたんだと思う。…前のぼくが忘れてしまった人たち。
今は本物のパパとママだけど、ぼくの名前はどうなったのかな…?
アルビノに生まれていなかったなら…、と考えてみた。金色の髪と水色の瞳だったら、どういう名前が付いたのだろう。両親は何と名付けただろう…?
アルビノではない子供だったら、きっと「ソルジャー・ブルー」の名前を貰いはしない。いくら英雄の名前とはいえ、まるで似ていない子供では。
(身体が弱いのも分かってたんだし、英雄の名前なんか思い付かないよ…)
それでも「ブルー」と名付けたとしたら、瞳の色の水色から。
けれど両親は、別の名前を選んだ可能性もある。瞳の水色にはこだわらないで、自分たちの子に相応しい名前をあれこれ考えて。幾つも幾つも、候補を挙げて。
(アルビノだったから、直ぐにブルーに決まったけれど…)
何日も色々考えた末に、違う名前にしそうな両親。咄嗟には例を思い付かないけれど。
そうなったかも、と考えていたら、「ブルーの名前は貰えそうか?」とハーレイに尋ねられた。
「どうだ、金髪に水色の瞳のお前だった時も、お前は「ブルー」になれそうなのか?」
俺が思うに、かなり難しそうなんだが…。
アルビノのお前が生まれて来たなら、迷わずに「ブルー」だっただろうがな。
誰だって最初に連想するぞ、と言われたソルジャー・ブルーの名前。両親もそうだったお蔭で、今の自分の名前はブルー。でも…。
「…金髪に水色の瞳だったら、違う名前になっちゃいそう…」
水色の瞳で、ブルーにするかもしれないけれど…。前のぼくは多分、そうなんだけど…。
今のぼくだと、パパとママが違う名前にしそう。二人で色々、素敵な名前を考えて…。
両親が可愛い一人息子のために選んだ、今の自分に似合いの名前。ソルジャー・ブルーの名前を貰う代わりに、水色の瞳に因んで「ブルー」と付ける代わりに。
幼い頃から呼ばれていたなら、その名前で馴染んでいそうだけれど。「ブルー」とは違う名前になっても、それが自分の名前だと思っていそうだけれど。
「…ぼくの名前、違うのになってたら…。それって困るよ、ブルーじゃない、ぼく…」
記憶が戻ってくる前だったら、少しも困らないけれど…。どんな名前でも、好きなんだけど。
前のぼくが誰だったのかを思い出した後に、違う名前で呼ばれちゃったら…。
ハーレイにもそっちで呼ばれるんだよね、と途惑うしかない、「ブルー」とは違っている名前。家はともかく、学校でハーレイに呼ばれる時には、別の名前になるのだから。
「俺も困ってしまうぞ、うん。…違う名前のお前だなんて」
お前の家なら、お母さんたちも事情を知っているから、ブルーと呼んでいいんだろうが…。
学校で混乱してしまいそうだ、授業中でも、それ以外の場所で会った時でも。
いつも学校でお前がやってる、「ハーレイ先生」どころじゃないぞ。お前は「先生」と付けさえすればいいわけなんだし、「ハーレイ……先生?」と間が空いても問題ないが…。
俺の場合は、全く違う名前でお前を呼ばんといかん。間違っても「ブルー」と言えやしなくて。
お前は「ブルー」じゃないんだからなあ、他に立派な名前があって。
先生たちもお前の友達もみんな、そっちの名前に慣れているんだから、とハーレイが振っている頭。「ウッカリ呼び間違えちまった時には、俺が注目されちまう」と。
「ホントだね…。誰と間違えてるんだろう、って思われるだけならいいけれど…」
何度も間違えて呼んだりしてたら、ぼくとハーレイの正体がバレてしまうかも…。
ハーレイは見た目がキャプテン・ハーレイだし、ぼくの方だって、アルビノに変わっちゃったりしていたら。…前のぼくだった頃とそっくり同じに、色素を失くしてアルビノだったら…。
そうなっちゃっても、「渾名なんだ」って、誤魔化すことは出来るかもしれないけれど…。
ハーレイはキャプテン・ハーレイにそっくりなんだし、ぼくはアルビノなんだから…。
「ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイごっこで付けたんだ」って、誤魔化して渾名。
なんとか誤魔化せそうだけれども、ハーレイ、ちょっぴり子供っぽいかも…。
ぼくの家で「ブルー」って呼んで遊んでいるならいいけど、学校でも渾名で呼ぶなんて。
廊下とかで会った時ならいいけど、授業中に渾名は、みんなに笑われそうだよね…?
渾名で呼ばれる子もいるけれど、とクスクス笑った。クラスのムードメーカーなんかは、名簿の名前で呼ばれる代わりに渾名のことも多いから。…茶目っ気の多い先生ならば。
ハーレイも渾名を使うけれども、「ソルジャー・ブルーごっこ」の名前はどうかと思う。学校で呼ぶべき名前ではなくて、聖痕を持った自分の守り役の時に使う名前だから。
「まったくだ。…俺がお前を「ブルー」と呼んだら、「また間違えた」と生徒が笑うぞ」
俺の威厳が台無しだよなあ、何度も間違えちまっていたら。
しかし俺には、お前は「ブルー」なんだから…。切り替えようとしても難しいだろう。
そうならないよう、神様は色々と考えた上で、今のお前に本当の姿を最初から下さったんだ。
アルビノの子だから「ブルー」になるよう、途中で色素を失くしてしまって困らないように。
もっとも、お前が金色の髪と水色の瞳に未練があるなら、いつか髪の毛を染めてもいいが。
銀色だから綺麗に染まる筈だぞ、というハーレイの案。今の学校の生徒の間は無理だけれども、卒業してハーレイと暮らし始めたら、髪を染めてもいいらしい。前の自分が持っていた色に。
「金髪に染めるの? 瞳の色は…?」
赤いままだと、前のぼくの色にならないんだけど…。水色でなくちゃ。
「色がついてるレンズを入れれば水色になるぞ。そうしてみたいか?」
前のお前の瞳の水色、レンズで再現できそうだがな…?
そういう色を持ってた頃より、大きく育っちまっているが、とハーレイが持ち出した、瞳の色を変えられるレンズ。今の赤から、前の自分が持っていたあの水色に。
「えーっと…。別人になってしまいそうだけど、ちょっと興味はあるかな、それ…」
今のぼくが知らない色をしたぼく、と瞳を輝かせた。今の自分はその色を持っていないから。
「そういうお前とデートするのも楽しそうだな、前の俺が知らない色だしなあ…」
その色を持った前のお前に、直接会ってはいないから。…その色を知っているってだけで。
機会があったらやってみるか、とハーレイが笑顔を向けてくれるから、いつかやってみようか。
髪を金色に染めて、水色の瞳になるレンズ。そういう色になって、「ねえ、似合う?」と。
銀色の髪に赤い瞳の今の姿も好きだけれども、ソルジャー・ブルーではない自分。
前の自分とは違った色をした、「似ていない自分」になってみるのも悪くない。
金色の髪と水色の瞳に姿を変えた自分になっても、ハーレイなら好きでいてくれるから。
「今日は別人のお前とデートなんだな」と、おどけた顔で腕を差し出してくれそうだから…。
違っていた色・了
※今のブルーは生まれた時からアルビノですけど、前のブルーは、元は金髪で水色の瞳。
今度もその色を持っていたなら、事情が色々、違っていたかもしれません。聖痕で変化とか。
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まだまだチビだ、とブルーが覗いた鏡。学校から帰って、おやつの後で。
自分の部屋の壁に掛かっている鏡。朝一番には髪に寝癖がついていないか、覗くそれ。鏡の中に映った自分は、やっぱりチビ。いつも通りに。
(背丈が少しも伸びてないから…)
身体は育っていないわけだし、顔立ちが変わるわけがない。昨日までの顔と。
目が大きくて、丸みを帯びている輪郭。何処から見たって子供の顔。大人びた部分は、ちっとも無くて。頬っぺただって柔らかそうで、ほんのりと子供らしい薔薇色。
(前のぼくとは違う顔だよ)
ホントに違う、と見詰める姿。前のぼくは「こうじゃなかった」と。
遠く遥かな時の彼方で、メギドで死んだソルジャー・ブルー。新しい命と身体を貰って、地球の上に生まれ変わってくる前に持っていた姿。それとはあまりに違いすぎる今。
(チビの頃なら、こうだったけど…)
アルタミラの檻で成長を止めていた頃だったら、この姿。成人検査を受けた直後のままだから。
もっとも、鏡は見なかったけれど。こうして鏡を覗き込もうにも、鏡なんかは無かった檻。実験動物を入れる檻には、鏡は要らない。
(実験に連れて行かれた時に…)
磨き抜かれた壁に映るのや、強化ガラスのケースに映った姿をぼんやり見た程度。「ぼくだ」と何の感慨も無く。「まだ生きている」と思う程度で。
アルタミラから脱出した船でも、初期の頃には、そうそう鏡を覗いてはいない。部屋には多分、無かった鏡。あったとしても、さほど興味は無かっただろう。覗いた記憶が無いのだから。
(鏡があったの、バスルームとか…)
顔を洗う時には洗面台の鏡に映っていたし、バスルームにも鏡は確かにあった。それを覗いて、整えていた髪や服装などや。少年の姿だった頃には、たったそれだけ。
(今だと、何度も…)
見るんだけどな、と考える鏡。部屋でも、それに洗面所でも。
鏡の向こうを覗いてはガッカリ、今日みたいに肩を落としてしまう。「育ってないよ」と。
チビの自分が映っているだけ、まるで子供の姿が其処にあるだけだから。
なんとも酷い、と悲しくなってしまう顔。十四歳にしかならない、今の自分の顔立ち。
(少しも変わってくれないんだから…)
今のハーレイと出会った時から、全く変わってくれない姿。一ミリさえも伸びない背丈。身体が育ってくれない以上は、顔立ちだって変わらない。子供っぽい顔でいるしかない。
いつになったら育つのだろうか、前の自分と同じ姿に。ハーレイがキスをくれる背丈に。
前の自分と同じ背丈にならない限りは、ハーレイはキスをしてくれない。キスはいつでも、頬と額にくれるだけ。恋人同士の唇へのキスは貰えない自分。
(育たないとキスも駄目なままだし、ハーレイの家にも遊びに行けないし…)
今のままでは困るんだけど、と思っても鏡に映るのはチビ。毎日のように覗いてみても。少しは育っているだろうかと、期待を抱いて覗き込んでも。
(凄い速さで育つのは無理だろうけれど…)
劇的な変化を遂げるのは無理、と溜息をついて、勉強机の前に座った。鏡から離れて。
どんなに鏡を見詰めていたって、チビの自分が映るだけ。見る間に育っていったりはしない。
(かぐや姫とは違うんだから…)
日毎に育って、アッと言う間に大人の姿に成長するのは無理だと思う。ミュウと言っても普通の人間、月の都のお姫様とは違うから。
成長するなら、前の自分がそうだったように、ごくごく普通のスピードで。
アルタミラから脱出した後、少しずつ背が伸び、子供の顔から大人びた顔に変わったように。
(早く育つといいんだけどな…)
かぐや姫とは違う生まれでも、奇跡みたいに一瞬で育ってくれたら素敵、と夢見る奇跡。
ある朝、起きたら、小さくなっているパジャマ。袖もズボンも短くなって、ボタンだって外れてしまっていて。
(前のぼくの背丈で、ぼくのパジャマを着ようとしたら…)
きっとそういうことになる。小さすぎて身体に合わないパジャマ。
其処から覗いた手足は華奢で細いけれども、「細っこい」子供の手足とは違う。目にした途端に気付くだろう。「前のぼくだ」と、「育ったんだ」と。
起きて鏡を覗きに行ったら、待ち焦がれていた姿が映る。前の自分にそっくりな顔が。
ずっと欲しかった顔と背丈が手に入る奇跡、そういう奇跡があればいいのに。
神様が起こしてくれないかな、と思ってはみても、ただの「我儘なお願い」なだけ。今の姿でも生きてゆくのに困りはしないし、奇跡が起こるわけがない。聖痕とはまるで違うから。
(奇跡は無理だし、かぐや姫とも違うんだし…)
凄い速さで育つことなど、前の自分でさえ無理だったこと。急成長を遂げることなど。見る間に育って、大人の姿を手に入れるなど。
(育たなくちゃ、って思っていなかったから…)
今の自分とは異なる事情。前の自分は、「大人になろう」と急いでなどはいなかった。
もう充分に強かったサイオン。子供の姿でも問題も不自由もありはしなくて、育ちたいと切実に思う理由が無い。「今の姿じゃ駄目なんだ」と成長を急ぐ理由など。
だから、檻の中では長く止めていた成長を再び始めただけで、前の自分は普通に育った。日毎に大きくなりはしないで、ゆっくりと自然なスピードで。
あれだけのサイオンを持っていてさえ、ゆるやかに育って大きくなった。前の自分の背丈まで。
(急に成長するなんて…)
前のぼくでもやっていないよ、と思ったはずみに気が付いた。
一度だけ、やっていたことに。劇的な変化を身体に起こして、すっかり変わってしまった姿。
(成長じゃなくて、変身だけど…)
そう、「変身」という言葉が相応しいだろう。サナギが蝶へと脱皮するように、ミュウへと変化した自分。それまでの「人類」という姿から。ただの平凡な少年から。
(中身がミュウに変わっちゃったら…)
外見まで同じに変化を遂げた。一瞬の内に色素が消し飛び、アルビノになって。
銀色の髪に赤い瞳で、抜けるような肌を持ったアルビノ。前の自分はそういう姿に変化した。
今の時代は、「ソルジャー・ブルー」と言ったらアルビノなのだけど。誰が聞いてもアルビノを思い描くけれども、そうではなかった本来の姿。
(金色の髪で、水色の瞳…)
それが本当の色だったっけ、と思い出す。前の自分が持っていた色。
成人検査よりも前の記憶は失くしたけれども、辛うじて残った最後の記憶。検査を受けに行った施設の待合室で、壁に映っていた姿。
金髪に水色の瞳の少年、前の自分はそれを見ていた。見るともなしに、「ぼくの姿だ」と。
そうだったよね、と蘇って来た前の自分の記憶。急成長を遂げる代わりに、抜け落ちた色素。
ミュウに変化した証のように、アルビノに変わってしまった自分。それまでの色を失って。
(あの姿、何処に行っちゃったんだろ?)
金色の髪と水色の瞳を、今の自分は持ってはいない。青い地球の上に生まれた時から、アルビノだった今の自分。母のお腹から生まれて来た時、既に持ってはいなかった色素。
お蔭で名前が「ブルー」になった。
前の自分と同じ名前でも、何処にも青い色は無い。けれど「ブルー」で、ソルジャー・ブルーに因んだ名前。タイプ・ブルーに生まれた子供で、アルビノだからと名付けられて。
(ソルジャー・ブルーは大英雄だし、パパとママが付けるのも分かるけど…)
今ならではの名前だけれども、前の自分の「本当の姿」は何処に消え失せたのだろう?
青い色を持っていた「ブルー」は。…金色の髪と水色の瞳は?
(失くしちゃったの…?)
この地球の上に生まれてくる時、前の自分の本当の色を。生まれた時から持っていた色を。
今の自分は生まれつきアルビノの子供だったし、それですっかり慣れているけれど。銀色の髪と赤い瞳を持った顔しか知らないけれど。
(…前のぼくなら、この顔の時には違ってた色…)
十四歳になるまでは違う色を持ち、ミュウに変化してアルビノになった。
子供時代の記憶は全く残っていないし、思い出せない本来の姿。幼かった頃はどんな顔立ちで、鏡の向こうに何を見たのか。「ぼくの顔だよ」と眺めていただろう顔。
映っていたのは金色の髪と水色の瞳、それを何処かに落としたろうか…?
今の自分は「知らない」から。そういう色を持った自分を、ほんの僅かな欠片でさえも。
(…前のぼくの記憶がある、っていうだけで…)
ぼくは知らない、と椅子から立って、覗きに出掛けた壁にある鏡。さっき覗いていた鏡。
其処に映った自分の姿に、金色の髪と水色の瞳を重ねようとしても、重ならない。ほんの少しも重なりはしない。どう頑張っても、金色と水色を重ねたくても。
(…そういう色に見えてくれないよ…)
なんと言っても、今の自分が十四年間も見て来た顔だから。銀色の髪も、赤い瞳も。
物心ついた時には、とうにこの色。アルバムの写真も全部そうだし、これが自分の色だから。
あの色のぼくとは別人だよね、と戻った勉強机の前。鏡に映ったチビの自分に背中を向けて。
(本当のぼく…)
何処へ行ったの、と考えてしまう。金色の髪に水色の瞳、それを確かに持っていた自分。
あれは幻だったろうか、と勉強机に頬杖をついて、失くした姿を追ってみる。記憶の中に確かにあるのに、今は持ってはいない色。今の自分が生まれた時には、無かった色。
(鏡を見たって、上手く重ならないくらいだし…)
幻でもいいのかもしれない。時の彼方に消えてしまった、蜃気楼のように儚い幻。
前の自分は三世紀以上も生きたけれども、あの色を身体に持っていたのは十四年だけ。その上、記憶に残っているのは、成人検査の直前に壁に映った姿。他には何も覚えていない。
(長い人生の中の、ほんの一瞬…)
ホントに一瞬だけだったよね、と思う色。それだけでも、まるで幻みたい、と。
おまけに今の自分にとっては、「持っていたことがない姿」。金色の髪も、水色の瞳も。
今の自分が金色と水色を取り戻したなら、両親は驚くことだろう。一人息子に何が起きたかと、目を丸くして。「これはブルーの色じゃない」と、二人とも慌てふためいて。
(…病院に連れて行かれちゃうかもね?)
何かの病気で色が突然変わったろうか、と大きな病院へ。痛いわけでも何でもないのに、両親が揃って付き添って。
そう思うと、なんだか面白い。身体に持っている色が変われば、病院なんて、と。
(前のぼくだと…)
色が抜け落ちたら「ミュウになった」と銃で撃たれたのに、今の自分は病院で診察。今の自分と違った色の髪や瞳に変化したなら。
どちらも同じに色が変わるだけで、自分の中身は変わらないのに。前の自分も、今の自分も。
ミュウに変化した前の自分も、心は変わらなかったというのに、容赦なく銃を向けられた。誰も話を聞いてくれなくて、「何もしない」と訴えた言葉も聞き流されて。
(時代が違うと、ぼくの扱い、変わっちゃうんだ…)
成人検査などは無い時代。それに血が繋がった本物の両親と暮らしている自分。
そんな自分の髪と瞳の色が変わったら、撃たれはしないで、病院へ診察に連れてゆかれる。父が急いで車を出して、母が「大丈夫?」と心配しながら、車の中で手を握ってくれて。
時代と環境、それに境遇。そういったものが違っただけで、自分への扱いも変わるらしい。前の自分と同じように「持っている自分の色」が変わっても、別の色へと変化をしても。
(…だったら、最初は金色の髪に水色の瞳のぼくで…)
その色に生まれた今の自分が、ある日アルビノになったなら、と想像してみる。金色の髪が銀に変わって、水色の瞳は色を失くして血の色の赤。
両親がそれを目にしたならば、やはり大慌てで病院に連れて行かれそう。「大変!」と父の車に乗せられて。母に手をしっかり握り締められて。
きっと大騒ぎになるんだよ、と考えていたら、頭の中に浮かんだこと。今の自分が行った病院。
(そうだ、聖痕…!)
前兆だった右の瞳からの出血。両親は「病院に行かないと」と車を走らせ、ずいぶん心配そうにしていた。瞳には傷が無いと聞いても、出血したのは本当だから。
その後に起きた、学校での本物の聖痕現象。ハーレイと再会を果たした途端に、右の瞳や両方の肩から溢れ出した血。左の脇腹からも流れた鮮血、前の自分がキースに撃たれた傷の通りに。
(凄く痛くて、気絶しちゃって…)
救急搬送された自分。ハーレイが付き添っていてくれたことさえも覚えてはいない。酷い痛みで意識を失くして、目覚めた時には病院のベッド。
それほどの激痛、同時に戻った膨大な記憶。前の自分がミュウに変化した、成人検査の衝撃にも匹敵しそうな感じ。あの時の今の自分のショックは。
(今のぼくは、元からミュウだけど…)
記憶が戻った時のショックで、アルビノに変化したとしたなら、どうだったろう。
金色の髪と水色の瞳を失くしてしまって、銀色の髪と赤い瞳に変わったら。
(ホントに前のぼくとそっくり…)
もう文字通りに、ソルジャー・ブルーの誕生と言っていい光景。
ソルジャー・ブルーが成人検査でアルビノになった話は、今も有名だから。元は金色の髪だったことも、水色の瞳を持っていたことも。
(ぼくが同じに変化しちゃったら、パパもママもビックリで、ぼくもビックリ…)
両親は腰が抜けそうなくらいに驚くだろう。一人息子がアルビノになってしまったら。
自分も驚きそうだけれども、直ぐに納得するのだろうか。前の自分の記憶が戻っているのなら。
色が抜け落ちた姿を鏡で眺めて、目をパチクリとさせそうな自分。「これが、ぼくなの?」と。
病院のベッドに横たわったままで、アルビノになってしまった自分を鏡で見たら。
(ぼくの色は何処へ行っちゃったの、ってビックリするのか、納得か、どっち…?)
これが本当の自分の色だ、と素直に受け入れるだろうか。記憶が戻っているのだったら、何度も見ていた色の筈。自分ではなくて、前の自分が。
(チビの頃には、鏡はそんなに見ていないけど…)
育った後にもアルビノだったし、アルタミラから脱出した後も三百年は馴染んだ姿。今の自分の色を失くしても、素直に納得しそうではある。「この姿だって、ぼくだよね?」と。
けれど、周りはどうだろう。両親はともかく、他の人たちの反応は…、と考えていたら聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、早速、訊いてみることにした。
テーブルを挟んで向かい合わせで、ハーレイだったらどうなるのかと。
「あのね、ハーレイ…。ぼくがアルビノじゃなかったら、どうしてた?」
「はあ?」
どういう意味だ、と怪訝そうなハーレイ。「そいつは、今のお前のことか?」と。
「そう。金色の髪と水色の瞳を持った、ぼくだよ。…前のぼくの色を知っているでしょ?」
成人検査を受ける前にはこうだったよ、って記憶を見せたし、アルテメシアを落とした後には、前のぼくのデータも見てるよね。育った家とか、養父母のデータとかと一緒に。
もしも、今のぼくが金髪で水色の瞳だったら…。そんなぼくでも、ハーレイの記憶は戻ったの?
教室に入って出会った時に、と問い掛けた。まずは其処から訊かないと、と。
「俺の記憶か? 戻るだろうなあ、そんなお前でも聖痕は現れるんだろうから」
どんな瞳と髪の色でも、聖痕は出てくるんだろう。あれは奇跡で、神様が起こしたものだから。
お前と俺とを出会わせるために、きちんと時と場所とを選んで。
人騒がせな場所ではあったが…、とハーレイが浮かべた苦笑。教室のあちこちで上がった悲鳴や叫び声。他のクラスにも騒ぎは飛び火で、救急車までが来たのだから。
「やっぱり記憶は戻るんだ…。ぼくの髪や瞳が違う色でも」
それでね、ちょっと訊きたいんだけど…。
聖痕が身体に出ちゃったショックで、ぼくがアルビノになってしまったら、どう思う?
前のぼくがアルビノに変わったみたいに、今のぼくの色も変わってしまったら…?
成人検査とは違うけれども、ショックは大きかったんだから、と話した聖痕現象。激しい痛みと酷い出血、それに膨大な記憶までが戻って来た瞬間。
「…あれでアルビノに変化したって、おかしくないと思うんだけど…」
元からアルビノだったお蔭で、変化しなかっただけかもね。…もう失くす色は無いんだから。
だけど、金髪で水色の瞳を持ったぼくなら、前と同じに色が抜けそう…。全部、すっかり。
聖痕が身体に出た途端にね、と肩を竦めてみせた。「そうなっていたら、ビックリした?」と。
「驚くなんてモンじゃないんだろうな…。俺の目の前で、お前がアルビノになったなら」
お前が帰って来てくれたんだ、と喜びもするが、きっと度肝を抜かれるんだろう。とんでもない現象を見たわけだしなあ、お前の色素が一瞬の内に消えるんだから。
俺も驚くが、教室中の生徒がパニックじゃないか?
まるでソルジャー・ブルーだからなあ、色素を失くしてアルビノに変化するなんて。
歴史の授業で教わるんだし…、とハーレイが言っている通り。ソルジャー・ブルーについて習う時には、成人検査の所から。「色素を失くしてアルビノになった」と始まる授業。
「そうだよね…。クラスのみんなも、ビックリ仰天…」
ぼくがソルジャー・ブルーみたいになった、って大騒ぎだよね、アルビノに変化しちゃったら。
さっきまでいた金色の髪と水色の瞳を持っていたぼくが、銀髪で赤い瞳になったら…。
気絶しちゃったら、瞳の色は分からないかもしれないけれど…。
どの辺で変化するかによるよね、と瞬きをした。聖痕が現れた瞬間だったら、暫くは瞳も開いていた筈。ハーレイが教室に入って来た時、右の瞳から出血を起こしたのだから。
「聖痕が出るだけじゃないんだな? お前に出会った瞬間の変化」
瞳の色まで変わっちまって、髪の毛の色も変化して…。ついでに大量出血、と。
俺もパニックに陥りそうだが、前の俺の記憶が戻ってくれればストンと納得しそうではある。
お前なんだ、と直ぐに分かるから。…アルビノに変わっちまうのも無理はない、と。
しかしだ…。俺はともかく、お前を運んでゆく先の病院ってヤツが問題だぞ。
救急車を呼んでも、救急隊員が慌てるだろう、とハーレイは頭を振っている。何処へ搬送すればいいのか、彼らが頭を悩ませそうだ、と。
聖痕からの大量出血も大変だけれど、失くした色素。それは出血のせいでは消えない。
原因不明の出血と、消えてしまった色素。運ぶ病院を決めるのに、きっと困るのだろう、と。
受け入れる病院は何処になるんだ、と言われてみれば難しそう。聖痕現象の前兆の時に、診察を受けた大病院。あそこに運ばれるにしても…。
「聖痕だけなら、前に診てくれた先生で決まりなんだけど…」
ぼくがソルジャー・ブルーの生まれ変わりじゃないか、って言ってた先生。目からの出血、あの先生が診てくれていたしね。傷も無いのに血が出るなんて、って色々と調べて。
だから身体中から血が出ていたって、傷は何処にも無いってことが分かれば、あの先生だよ。
最初の間は、怪我の専門家の先生たちが診そうだけれど…。手術が必要なのかも、ってね。
怪我なら急いで手術しなくちゃ、と自分が起こした聖痕現象を思う。両肩と左の脇腹から溢れる鮮血は早く手当てをしないといけない。場所が場所だけに、命が危ういかもしれないから。
実際、救急搬送された時には、そうだったという。輸血や手術の用意をしながら、到着を待った病院の医師たち。けれども患者の服を剥いだら、怪我は無かったものだから…。
(最初に診てくれた、あの先生…)
聖痕現象だと見抜いた医師の出番になった。前兆の時から診ていたわけだし、適任だろうと。
症状が聖痕現象だけなら、あの医師だけでいいのだけれど。他の医師の出番は皆無だけれども、色素を失くした現象の方は、管轄が違うような気がする。引き金は聖痕だとしても。
「お前の色素まで抜けちまったなら、どの先生が診るやらなあ…」
あの先生も診るんだろうが、聖痕よりも厄介なのがアルビノのような気がするぞ。原因は聖痕にしたってな。…あの先生がそれを見抜いてくれても、お前、アルビノなんだから…。
直ぐには退院できないんじゃないか、聖痕だけの時と違って。
入院ってことになっちまうかもな、とハーレイが言うから驚いた。聖痕は直ぐに帰れたのに。
「え? 入院って…」
どうして入院しなきゃ駄目なの、ぼくはアルビノになっただけだよ?
髪の毛と目の色は失くしちゃったけど、他の色に変わってしまっただけで…。
沢山の血が流れ出すよりマシじゃないの、と傾げた首。何故、アルビノだと入院なのかと。
「そのアルビノが厄介だって言っただろうが。…聖痕よりも」
聖痕だったら、お前の身体に傷は一つも無いわけだから…。
何度も繰り返す恐れが無いなら、特に心配要らんだろう。酷い出血さえ起こさないなら。
だが、アルビノだとそうはいかない。お前の体質、すっかり変わっちまったんだし。
聖痕と違って本当に身体に起こった変化だ、とハーレイは指でテーブルをトンと叩いた。
「金色の髪に水色の瞳のお前は、何処にもいなくなったんだから」と。
「聖痕は出血が収まっちまえば、傷なんか一つも無いんだが…。元のお前の肌に戻って」
しかし、アルビノの方は違うぞ。聖痕から出血するのが止んでも、髪や瞳の色は戻って来ない。いつまで待っても色は抜けたままで、戻りそうにないと分かったら…。
其処から先が大変だってな。お前はいきなり、アルビノとして生きてゆくことになるんだから。
まずは、お前が色素を失くしたことで、身体に起こった変化を確かめてやらないと。
そいつが医者の仕事だよな、と言うハーレイにキョトンとした。どうして医者の出番なのかと。
「…なんでお医者さん? 聖痕の方なら分かるけど…」
大怪我をしたみたいに見えるし、ホントに凄い血だったから…。検査も色々してたけど…。
アルビノの方なら、色が変わっただけじゃない。お医者さんが調べて「アルビノです」って診断したら終わりじゃないの?
それだけでしょ、と首を傾げた。実際、今の自分は病院とは無縁。虚弱な身体の方はともかく、アルビノの方では行かない病院。定期検査にも、健康診断にも。
なのに病院がどう関わるのか、本当に不思議に思ったのだけれど。
「さっきも言ったぞ、アルビノの方が厄介だと。…聖痕よりも」
お前の体質は変わっちまって、身体から色素が無くなったんだ。それも一瞬で消し飛んで。
失くしちまった色素の方は、お前の身体を守っていたようなモンだから…。そうなる前には。
アルビノになった身体の負担を補えるだけの、充分なサイオン。そいつがきちんと働いてるかを調べないと。…そこで病院の出番になるってな。
生まれつきのアルビノだった場合は、今の時代は全く問題ないんだが…。
前の俺たちの頃と同じで、サイオンが身体の弱い部分を自然に補ってくれるから。…アルビノに生まれて色素が無いなら、そういう身体に相応しく。
ところが、お前は生まれつきのアルビノじゃないからなあ…。いきなり変化したってだけで。
その上、サイオンが不器用と来た。病院の方でも、不器用なのは把握してるから…。
検査しようとするだろうさ、というハーレイの指摘。アルビノの身体が抱えた弱点、それを補うサイオンが使えているかの検査。
なにしろ突然変化したのだし、タイプ・ブルーでもサイオンを上手く扱えない子供だから。
サイオンを自由に使いこなせるなら、早めに退院できそうだが、とハーレイに言われて、やっと気付いた。今の自分の不器用すぎるサイオン、それが大いに問題なのだと。
「そうなのかも…。今のぼく、ホントに不器用だから…」
生まれた時からアルビノだったし、サイオンで補えてるけれど…。元からこういう身体だから。
だけど途中で変わっちゃったら、サイオンがついていかないかも…。不器用すぎて。
アルビノは光に弱いんだよね、色素が無いから。…目とかが痛くなっちゃうの?
上手くサイオンで補えなかったら…、と目をパチパチと瞬かせた。今の自分はまるで平気だし、空の太陽を見上げたりもする。もちろん、太陽は眩しすぎるけれど。
「そうらしいなあ、サイオンで補えなかった時代は大変だったという話だぞ」
真夏でなくても、サングラスをかけたりしたらしい。でないと光で目をやられるから。
肌の日焼けも酷かったと聞くな、日光で火傷しちまうんだ。肌が真っ赤に焼けてしまってな。
もっとも、前のお前の場合は、まるで気にしちゃいなかったが…。今のお前と全く同じで。
宇宙を旅していた頃はともかく、アルテメシアに落ち着いた後も、平気で外に出ていただろう?
太陽が燦々と照っていようが、目が痛かったとも、日焼けしたとも言いもしないで。
前のお前も、無意識にやっていたんだろうなあ…。生まれつきじゃなくても、変化した時から。
アルタミラの檻に押し込められるよりも前から、もう早速に。
成人検査の機械を壊して、アルビノになった途端にな…、というハーレイの言葉に頷いた。
「そうだと思う。あの部屋も明るかったんだけど…。眩しいって思わなかったから」
ぼくの目の色と髪の毛の色が変わっちゃった、ってビックリしただけで、たったそれだけ…。
眩しくって目がチカチカしたなら、きっと覚えているだろうしね。太陽の光じゃなくっても。
「うむ。その後、直ぐに撃たれたらしいが、目が痛かったなら忘れはしないだろう」
それも変化の一部分だから、「あの時はこういう風になった」と、ずっと後まで。お前の人生、あそこで丸ごと変わっちまって、別の人生になったんだしな。
そういう記憶が無いと言うなら、前のお前は上手にサイオンでカバーしたんだ。色素を失くした瞳の弱さを、変化と同時に実に素早く。
なんと言っても、完璧なタイプ・ブルーだったんだから…。
今の不器用なお前と違って、サイオンを直ぐに使いこなすことが可能だった、と。どういう風に使えばいいのか、アルビノの弱点を補うことも含めてな。
光に弱いというアルビノ。身体がそれに変化したなら、弱くなった部分はサイオンで補う。前のお前はそうだったろう、というのがハーレイの読み。最強のサイオンの持ち主に相応しい能力。
「しかしだ、今の不器用なお前だと…。その方面の力も、駄目な可能性が高いしな?」
元がとことん不器用なんだし、サイオンで上手く補うどころか、ただ途惑ってるだけだとか…。
補えてるにしても、生まれつきのアルビノの場合と違って、足りない部分があるかもしれん。
そういったことがハッキリするまで、病院に留め置きになるんじゃないか?
検査の内容までは知らんが、眩しがらずに見えているのか、肌は日焼けに弱くないかだとか…。色々な項目について調べて、「大丈夫だ」とお墨付きが出るまで入院とかな。
預かっちまった病院の方にも責任ってヤツがあるじゃないか、と大真面目な顔をするハーレイ。急に色素を失くした患者を診察したなら、その患者が普通に暮らせるかどうかを調べねば、と。
アルビノ特有の弱点をサイオンで補えない状態となれば、生活のためのアドバイスも必要。強い日差しは避けるべきだとか、サングラスをかけるようにとか。
検査が済んで結果が出るまで、留め置かれたままになる病院。聖痕現象の方は収まっていても、失くした色素が問題だから。
「それじゃハーレイに会えないじゃない!」
病院から家に帰れないんじゃ、ハーレイに会えないままになっちゃう…。
検査にどのくらいかかるか分からないけど、その間は入院なんだから。家に帰れないで、何度も検査。アルビノでも普通に生きていけるか、お医者さんたちが調べ終わるまで…。
入院してたらハーレイに会えなくなっちゃうじゃない、と困ってしまった。
金色の髪と水色の瞳を持って生まれて、それを失くしたら、前のハーレイが良く知っていた姿が戻ってくるけれど。アルビノの姿になるのだけれども、肝心のハーレイに会えないらしい。暫くの間は家に帰れず、検査入院になりそうだから。
「いや、其処は心配しなくても…。ちゃんと見舞いには行ってやるから」
学校の仕事が終わりさえすれば、自分の時間が取れるんだし…。直ぐに車を走らせて。
行き先がお前の家になるのか、病院なのかの違いだけだな、俺にとっては。
心配するな、とハーレイは微笑むけれども、病院の部屋へ見舞いに来て貰っても…。
「来てくれるのはいいんだけれど…。再会の場所が病院だなんて…」
やっとハーレイに会えたっていうのに、ゆっくり話も出来ないだなんて…!
そんなの嫌だ、と頬を膨らませた。病室なんかで再会したって、二人きりで話せる時間は短い。あの日、ハーレイが来たのは夜だった。学校への報告などにも時間がかかったのだろう。
家だったから夜でも良かったけれども、病院の場合はそうはいかない。面会時間はもう終わっていて、話せたとしても僅かだけ。
(ただいま、ハーレイ、って言えるかどうか…)
母が病室に付き添っていたら、きっと口には出来ない言葉。「帰って来たよ」という言葉も。
ハーレイが家まで来てくれたから、母に頼めた我儘なこと。「暫く二人きりにして」と。
母は「お茶の支度をしてくるわね」と出て行ったけれど、病院の部屋だとどうなるだろう。外の廊下に出るだけだったら、じきに戻って来るのだろうし…。
(ただいま、ってハーレイに言うことは出来ても、抱き合ったりはしてられないよ…)
ハーレイの方でも、ベッドの側に立っているだけで終わりそう。あるいは枕元の椅子に座って、そっと手を握ってくれるだけ。…抱き締める代わりに。
それでは困る。「せっかくの再会が台無しだよ」と文句を言ったら、ハーレイに問い掛けられたこと。「なんでまた、アルビノじゃなかったらなんてことを考えてるんだ?」と。
「俺がお前に出会った時には、お前、アルビノだったじゃないか。…生まれつきの」
途中で変化したってわけじゃないだろ、前と違って。なのに、どうしてこだわるんだか…。
今のお前がアルビノに変化しちまった時は、困ったことになりそうだっていうのにな?
お前もそれは困るんだろうが、と鳶色の瞳に覗き込まれたから、「そうだけど…」と口籠った。
「ぼくも困ってしまうんだけれど、でも、気になってしまったんだよ」
えっとね…。家に帰って鏡を見てたら、前のぼくのことを思い出しちゃって…。
今のぼくだと、生まれた時からアルビノだから、髪も瞳もこういう色。
だけど、前のぼくは成人検査を受ける前には、金色の髪に水色の瞳をしてたわけだし…。
その色、ぼくは欠片も持ってはいないんだよ。小さい時から、ずっとこの色。
ハーレイと二人で青い地球に生まれ変わって来たけど、前のぼくの色は無くなっちゃった。前のぼくが持ってた、金色の髪と水色の瞳は最初から持っていなかったから。
今のぼくはね、前のぼくの色を失くしてしまったみたいだから…。
どんなに鏡を覗いてみたって、金色の髪に水色の瞳の顔は重なって来ないから…。
本当のぼくは何処へ行ったのかな、って…。だって、この色だと別人だもの。
顔立ちは同じでも別のぼくだよ、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。自分でも違うと思う印象。まるでそっくり同じ顔立ちでも、髪と瞳の色が違えば別人になる。
「そう思わない? 双子なんです、って言っても似てない双子…」
双子だったらそっくりだけれど、本物のぼくとアルビノのぼくだと、似ていないってば。
それくらい違って見える筈なのに、今のぼくは最初からアルビノで…。前のぼくは何処に行ってしまったのかな?
金色の髪に水色の瞳のぼくは…、と消えない疑問。今の自分が欠片さえも持っていない色。
「本物って…。本物のお前は、今のお前だろ? 銀色の髪に赤い瞳のアルビノ」
前のお前の記憶はともかく、俺が知ってるお前は、そうだ。…最初からな。
燃えるアルタミラで出会った時には、お前はとっくにアルビノだった。前の俺と一緒に暮らしたお前も、ずっとアルビノのままだったろうが。…色素は戻って来なかったから。
俺は、金色の髪に水色の瞳のお前は知らん。前のお前が見せてくれた記憶の中でしか。
後はテラズ・ナンバー・ファイブが持ってたデータだ、前の俺たちに関するデータ。前のお前の子供時代のデータの中には、そういうお前の写真もあったが…。
お前の記憶の通りだったな、と考えただけで、何の感慨もありはしなかった。本物のお前だ、と思いもしないし、データをきちんと残したいとも思わなかったな。
お前の養父母や、育った家のデータの方には俺も興味があったんだが…。それにお前の誕生日。
そういったことは、いつかお前に教えてやろうと、頭に叩き込んだんだがな。
俺の命が終わった後に…、と笑ったハーレイ。
「逝ってしまった前のお前の所に行ったら、話してやろうと思ってたんだ」と。
そう考えていたハーレイの目には、「本物」に見えなかった金色の髪に水色の瞳の「ブルー」という名の子供の写真。アルビノではない頃の姿は、本物らしく見えなかったと聞かされたから…。
「…こっちの姿が本物なの?」
前のハーレイにはそう見えたって言うの、アルビノの方が本物のぼくの姿なんだ、って…。
「そうなるが? ついでに今の俺が見たって、お前の姿はアルビノでこそだ」
金色の髪と水色の瞳のお前がいたって、ピンと来ないぞ。お前だと分かりはするんだが…。
そういや、こういう色だったよな、と前のお前の記憶やデータを思い出したりするだろうが…。
本物のお前の色じゃないな、と思うだろうなあ…。今のお前はこういう姿になったのか、と。
きっと残念に思うんだぞ、とハーレイはアルビノに軍配を上げた。「それが本物のお前だ」と。
「俺が知ってるお前はそれだし、アルビノのお前が本物だろう」
お前は本物の色を失くしたわけじゃなくてだ、最初から本物のお前の色で生まれて来たんだ。
途中で色が抜けるとなったら大変だしなあ、病院に入院ってことになるかもかもしれないし…。
面倒が無くて良かったじゃないか、と言われたアルビノ。今の自分の生まれつきの色。
「本物のぼくは、アルビノなわけ…? 前のぼくが最初に持ってた方の色じゃなくって…?」
いくら鏡を覗いてみたって、重ならないとは思っていたんだけれど…。
金色の髪も、水色の瞳も、ちっともぼくらしい感じがしなくて…。別人みたい、って。
アルビノの方が本物だったら、重ならなくても不思議じゃないよね。こっちが本物なんだから。前のぼくがちょっぴり持っていた色は、成人検査で消えちゃったし…。
あっちが仮の姿なのかな、と首を捻った。「本物のぼくは、ホントはアルビノ?」と。
「アルビノの方が本物なんだと思うがな? でなきゃ、あの色にはならんだろう」
ミュウに変化すると色素を失くすと言うんだったら、シャングリラはアルビノばかりになるぞ?
俺もアルビノなら、ゼルやブラウもアルビノだ。あの船の仲間はみんなミュウだし…。
爆発的な変化でアルビノになると仮定したって、それだとジョミーが当てはまらない。あいつは前のお前以上に、凄いサイオンを爆発させてミュウになったが…。
アルビノになっちゃいないだろうが、ジョミーと言えば金髪だ。緑の瞳も健在だったぞ。
前のお前しかいなかったよなあ、アルビノのミュウは。…それが「本物」だという証拠だ。あの姿こそが、本物の前のお前の姿だってな。
銀色の髪に赤い瞳のアルビノのお前、とハーレイが押した太鼓判。「あれがお前だ」と。
「うーん…。今のぼく、本物の色を失くしたわけじゃなくって、最初から本物だったわけ…?」
前のぼくが違う姿をしていただけなの、ミュウになる前の間だけ…?
記憶はちっとも残ってないけど、人類の世界で育てられてた十四年間だけが違う姿で…。
「俺はそうだと思ってるんだが? 今のお前が本物の姿をしているんだと」
生まれつきのアルビノで、不器用なサイオンでも弱点をカバー出来てるお前。前の俺が知ってた頃のお前と、そっくり同じ色を持ったお前がな。
第一、今のお前がだ…。金色の髪と水色の瞳に生まれていたら。
名前は「ブルー」になっていたのか、今のお前は前と同じで「ブルー」なんだが…?
其処の所はどうなるんだ、と投げられた問い。「お前の名前はブルーだったか?」と。
「今のお前が持ってる名前は、アルビノだった前のお前の名前なんだが…」
同じアルビノの子供だから、と付けて貰った名前らしいが、そいつはどうなる?
ちゃんと「ブルー」になっていたのか、という質問。金色の髪と水色の瞳に生まれていても。
「どうだろう…?」
そっちでもブルーになっていたかな、瞳の色が水色だから…。水色も青の内だしね。
前のぼくだって、名前は「ブルー」だったもの。きっと水色の瞳からだよ、育ててくれたパパとママが名付けたんだと思う。…前のぼくが忘れてしまった人たち。
今は本物のパパとママだけど、ぼくの名前はどうなったのかな…?
アルビノに生まれていなかったなら…、と考えてみた。金色の髪と水色の瞳だったら、どういう名前が付いたのだろう。両親は何と名付けただろう…?
アルビノではない子供だったら、きっと「ソルジャー・ブルー」の名前を貰いはしない。いくら英雄の名前とはいえ、まるで似ていない子供では。
(身体が弱いのも分かってたんだし、英雄の名前なんか思い付かないよ…)
それでも「ブルー」と名付けたとしたら、瞳の色の水色から。
けれど両親は、別の名前を選んだ可能性もある。瞳の水色にはこだわらないで、自分たちの子に相応しい名前をあれこれ考えて。幾つも幾つも、候補を挙げて。
(アルビノだったから、直ぐにブルーに決まったけれど…)
何日も色々考えた末に、違う名前にしそうな両親。咄嗟には例を思い付かないけれど。
そうなったかも、と考えていたら、「ブルーの名前は貰えそうか?」とハーレイに尋ねられた。
「どうだ、金髪に水色の瞳のお前だった時も、お前は「ブルー」になれそうなのか?」
俺が思うに、かなり難しそうなんだが…。
アルビノのお前が生まれて来たなら、迷わずに「ブルー」だっただろうがな。
誰だって最初に連想するぞ、と言われたソルジャー・ブルーの名前。両親もそうだったお蔭で、今の自分の名前はブルー。でも…。
「…金髪に水色の瞳だったら、違う名前になっちゃいそう…」
水色の瞳で、ブルーにするかもしれないけれど…。前のぼくは多分、そうなんだけど…。
今のぼくだと、パパとママが違う名前にしそう。二人で色々、素敵な名前を考えて…。
両親が可愛い一人息子のために選んだ、今の自分に似合いの名前。ソルジャー・ブルーの名前を貰う代わりに、水色の瞳に因んで「ブルー」と付ける代わりに。
幼い頃から呼ばれていたなら、その名前で馴染んでいそうだけれど。「ブルー」とは違う名前になっても、それが自分の名前だと思っていそうだけれど。
「…ぼくの名前、違うのになってたら…。それって困るよ、ブルーじゃない、ぼく…」
記憶が戻ってくる前だったら、少しも困らないけれど…。どんな名前でも、好きなんだけど。
前のぼくが誰だったのかを思い出した後に、違う名前で呼ばれちゃったら…。
ハーレイにもそっちで呼ばれるんだよね、と途惑うしかない、「ブルー」とは違っている名前。家はともかく、学校でハーレイに呼ばれる時には、別の名前になるのだから。
「俺も困ってしまうぞ、うん。…違う名前のお前だなんて」
お前の家なら、お母さんたちも事情を知っているから、ブルーと呼んでいいんだろうが…。
学校で混乱してしまいそうだ、授業中でも、それ以外の場所で会った時でも。
いつも学校でお前がやってる、「ハーレイ先生」どころじゃないぞ。お前は「先生」と付けさえすればいいわけなんだし、「ハーレイ……先生?」と間が空いても問題ないが…。
俺の場合は、全く違う名前でお前を呼ばんといかん。間違っても「ブルー」と言えやしなくて。
お前は「ブルー」じゃないんだからなあ、他に立派な名前があって。
先生たちもお前の友達もみんな、そっちの名前に慣れているんだから、とハーレイが振っている頭。「ウッカリ呼び間違えちまった時には、俺が注目されちまう」と。
「ホントだね…。誰と間違えてるんだろう、って思われるだけならいいけれど…」
何度も間違えて呼んだりしてたら、ぼくとハーレイの正体がバレてしまうかも…。
ハーレイは見た目がキャプテン・ハーレイだし、ぼくの方だって、アルビノに変わっちゃったりしていたら。…前のぼくだった頃とそっくり同じに、色素を失くしてアルビノだったら…。
そうなっちゃっても、「渾名なんだ」って、誤魔化すことは出来るかもしれないけれど…。
ハーレイはキャプテン・ハーレイにそっくりなんだし、ぼくはアルビノなんだから…。
「ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイごっこで付けたんだ」って、誤魔化して渾名。
なんとか誤魔化せそうだけれども、ハーレイ、ちょっぴり子供っぽいかも…。
ぼくの家で「ブルー」って呼んで遊んでいるならいいけど、学校でも渾名で呼ぶなんて。
廊下とかで会った時ならいいけど、授業中に渾名は、みんなに笑われそうだよね…?
渾名で呼ばれる子もいるけれど、とクスクス笑った。クラスのムードメーカーなんかは、名簿の名前で呼ばれる代わりに渾名のことも多いから。…茶目っ気の多い先生ならば。
ハーレイも渾名を使うけれども、「ソルジャー・ブルーごっこ」の名前はどうかと思う。学校で呼ぶべき名前ではなくて、聖痕を持った自分の守り役の時に使う名前だから。
「まったくだ。…俺がお前を「ブルー」と呼んだら、「また間違えた」と生徒が笑うぞ」
俺の威厳が台無しだよなあ、何度も間違えちまっていたら。
しかし俺には、お前は「ブルー」なんだから…。切り替えようとしても難しいだろう。
そうならないよう、神様は色々と考えた上で、今のお前に本当の姿を最初から下さったんだ。
アルビノの子だから「ブルー」になるよう、途中で色素を失くしてしまって困らないように。
もっとも、お前が金色の髪と水色の瞳に未練があるなら、いつか髪の毛を染めてもいいが。
銀色だから綺麗に染まる筈だぞ、というハーレイの案。今の学校の生徒の間は無理だけれども、卒業してハーレイと暮らし始めたら、髪を染めてもいいらしい。前の自分が持っていた色に。
「金髪に染めるの? 瞳の色は…?」
赤いままだと、前のぼくの色にならないんだけど…。水色でなくちゃ。
「色がついてるレンズを入れれば水色になるぞ。そうしてみたいか?」
前のお前の瞳の水色、レンズで再現できそうだがな…?
そういう色を持ってた頃より、大きく育っちまっているが、とハーレイが持ち出した、瞳の色を変えられるレンズ。今の赤から、前の自分が持っていたあの水色に。
「えーっと…。別人になってしまいそうだけど、ちょっと興味はあるかな、それ…」
今のぼくが知らない色をしたぼく、と瞳を輝かせた。今の自分はその色を持っていないから。
「そういうお前とデートするのも楽しそうだな、前の俺が知らない色だしなあ…」
その色を持った前のお前に、直接会ってはいないから。…その色を知っているってだけで。
機会があったらやってみるか、とハーレイが笑顔を向けてくれるから、いつかやってみようか。
髪を金色に染めて、水色の瞳になるレンズ。そういう色になって、「ねえ、似合う?」と。
銀色の髪に赤い瞳の今の姿も好きだけれども、ソルジャー・ブルーではない自分。
前の自分とは違った色をした、「似ていない自分」になってみるのも悪くない。
金色の髪と水色の瞳に姿を変えた自分になっても、ハーレイなら好きでいてくれるから。
「今日は別人のお前とデートなんだな」と、おどけた顔で腕を差し出してくれそうだから…。
違っていた色・了
※今のブルーは生まれた時からアルビノですけど、前のブルーは、元は金髪で水色の瞳。
今度もその色を持っていたなら、事情が色々、違っていたかもしれません。聖痕で変化とか。
(んーと…)
今日はハーレイが来てくれますように、と祈ったブルー。
学校から帰っておやつの後で、戻った二階の自分の部屋で。窓の外を見て、空の上に向かって。神様がいるのは空の上だし、お祈りするならこれが一番、と。
今日はハーレイに会いたい気分だから。仕事の帰りに寄って欲しいと思うから。
(学校でも、ちゃんと会えたけど…)
挨拶できて、声だって掛けて貰えたけれども、ちょっぴり欲張り。神様にお願い。仕事の帰りに家を訪ねてくれますように、と。
週の半ばだから、一日一緒にゆっくり過ごせる週末はまだ。あと何日か待たないと。
けれどハーレイのことが好きだし、「今日だって二人で話したいよ」と。この部屋の中で、二人きりで。誰にも邪魔をされないで。
(なんでもいいから、お喋りだけで…)
お茶とお菓子をお供に過ごす、夕食までの時間が欲しい。それを持てたら、うんと幸せ。
キスは駄目でも、話せるだけで。ハーレイと向かい合わせで座って、顔を見て、大好きな温かい声が聞けたなら。
(神様、お願い…)
ハーレイのこと、と念を押すように空にお祈りしてから、座った勉強机の前。
頬杖をついて考える。「今のお祈り、叶うといいな」と。神様が祈りを叶えてくれたら、仕事の帰りにハーレイが来てくれる筈。門扉の脇のチャイムを鳴らして。
空に向かって頼んだこと。神様に「お願い」と捧げた祈り。神様は叶えてくれるだろうか?
(ぼくの勝手なお願いだけれど、神様だものね?)
神様だから大丈夫、という気がする。
聖痕を持っている今の自分。神様が負った傷と同じなのが聖痕だけれど、自分の場合はそれとは違って、前の自分が負った傷跡。メギドでキースに撃たれた時に。
その聖痕が現れた時に、ハーレイと出会って記憶が戻った。前の自分は誰だったのかを、それにハーレイも同じに思い出した記憶。
お蔭で再び巡り会えたし、またハーレイに恋をしている。ハーレイも恋をしてくれている。
前の自分たちの恋の続きを生きている今。時の彼方に消えてしまった、恋の続きを。
ハーレイに会わせてくれた聖痕。前の自分たちの記憶を戻してくれた聖痕。
とても痛くて気を失ってしまったけれども、傷跡だから仕方ない。前の自分も痛かった。痛みのあまりに、右手に持っていたハーレイの温もりを失くしたほどに。
その聖痕をくれた神様なのだし、きっと優しい神様の筈。我儘な祈りも叶えてくれそう。今日はハーレイが来てくれますように、と空に捧げたお祈りだって。
(きっとホントに優しい神様…)
聖痕をくれたこともそうだし、前の自分も祈った神様。アルタミラの地獄から逃れた後に。
SD体制が敷かれた時代は、消されてしまった多様な文化。機械が統治しやすいように。神様も同じに消されてしまって、一人だけしか残らなかった。
十字架に架けられた神様だけが残った時代で、今の自分がハーレイのことを頼んだ神様も、同じ神様。空の上の天国にいる神様。
(教会には行っていないけど…)
お祈りするなら、その神様に。前の自分の記憶が戻った今では、前よりもずっと。
それまでだったら、特に意識はしなかったのに。ただ「神様」とだけで、願い事や祈りを叶えてくれるのだったら、誰でも良かったかもしれない。今の時代は神様の数も多いから。
けれど聖痕を貰って記憶が戻れば、その神様に頼みたくなる。お願いするなら、この神様、と。
(ホントは教会にも行かなくちゃ駄目?)
日曜日はお祈りの集まりがあるし、それに出ないと駄目なのだろうか。チビの自分も。
ハーレイが来てくれる時間よりも前に、教会に出掛けてきちんとお祈り。聖歌も歌って。
(…でも、行かなくても大丈夫だよね?)
神様は怒ったりしない筈だものね、と考える。
前の自分が生きた時代は、お祈りの作法も無かった時代。ただ「神様がいた」というだけ。
それでも神様は願いや祈りを聞いてくれたし、きっと今だって大丈夫、と。
(ミツバチの蝋燭を灯しておくとか、お祈りのための鐘を鳴らすだけでも…)
願いを叶えてくれた神様。白いシャングリラで暮らしたミュウたちが捧げる祈りを。
誰も正式な作法で祈りはしなかったのに。祈りの言葉は自分の言葉で、聖歌も歌わなかった船。祈りたい時には鐘を鳴らして静かに祈るか、蜜蝋で作った蝋燭を部屋で灯して祈るか。
それがシャングリラにいた仲間たちの祈り。前の自分も、その中の一人。
自分たちの流儀で祈っていたって、神様は願いを叶えてくれた。地球への道を開いてくれたし、ミュウが殺されない平和な世界も作ってくれた。船の仲間たちや、前の自分が願ったように。
あれだけの願いが叶ったのだし、今の自分も部屋で祈るだけでいいだろう。空に向かって、祈る言葉も「神様、お願い」と我儘たっぷりでも。
とても頼もしい神様だよね、と思う神様。
クリスマスに馬小屋で生まれた神様、人間の姿で地上に降りたと伝わる神様なのだけど…。
(あれ?)
なんだか、ちょっぴりキースみたい、と気付いた神様。馬小屋だっけ、と考えたら。
人間の姿で生まれた神様、馬小屋で生まれた赤ん坊には、ちゃんと両親が揃ってはいても…。
(お母さんは本物のお母さんだけど、神様を産んだっていうだけで…)
自然出産だから、お腹で育てて生んだのだけれど、その神様のお父さん。身重だったお母さんを連れて旅をして、馬小屋を宿に貸して貰ったお父さんは、「お母さんの夫」なだけ。
お母さんと婚約していた間に、お母さんのお腹に宿った神様。天国にいる神様の子供として。
神様のお父さんは天国にいたから、お母さんとは結婚していない。結婚したのは、婚約者だったお父さん。その時にはもう、お母さんのお腹の中には神様がいた。
(…神様、無から生まれて来ちゃった?)
そういう風にも受け取れる。
自然出産には違いなくても、神様にはいない「お父さん」。お母さんだって、「お腹で育てて」産んだというだけ。お腹の中で神様を「作って」はいない。
(…お父さんとお母さんが結婚しないと…)
子供を作ろうと考えないと、子供が出来はしない筈。精子と卵子が結び付かないと、受精卵にはならないから。…そうでなければ、赤ちゃんの命は芽生えては来ない。どう転んでも。
けれど、神様は違ったらしい。「何もしないのに」、お母さんのお腹に宿ったのだから。
(…お父さんはいなくて、お母さんはお腹で育てて産んだってだけで…)
それならキースも似たようなもの。
神の領域を機械が侵して、無から作った生命だけれど。
三十億もの塩基対を繋いで、紡いだDNAという名の鎖。そうやってキースの命を作って、人工子宮の中で育てた。機械が思う通りの年まで、ずっと胎児の状態のままで。
何処か重なる、と思った生命。クリスマスに生まれて来た神様と、無から生まれて来たキース。
(うーん…)
実は似ているのだろうか、という気になってしまうキースと神様。
全く逆の存在でも。
神が自ら作った命と、神の領域を侵した機械が無から作った生命と。
生まれは全く逆になるのだし、本当は似てはいない筈。神に祝福された命と、そうではない命。
けれど、どちらも「無から」生まれた。本来だったら、宿る筈などない生命。
(…ハーレイに言ったら、怒りそうだけど…)
キースをとても嫌っているのがハーレイなのだし、「神様に似てる」などと話したら顔を顰めることだろう。「あいつの何処が神様なんだ」と、眉間に深い皺まで刻んで。
そうは思っても、大発見。神様とキースが似ていること。
今日の話題はこれに決めた、と考える。神様が願いを叶えてくれたら、ハーレイが仕事の帰りに訪ねて来てくれたなら。
其処へ聞こえたチャイムの音。願いが叶って、部屋に来てくれた愛おしい人。
神様の話をしなくちゃね、とテーブルを挟んで向かい合うなり問い掛けた。ハーレイが怒っても気にしないもの、とワクワクと胸を躍らせて。
「あのね、ハーレイ…。神様のことは知っている?」
「神様だって?」
どの神様だ、と尋ねた恋人。「今の時代は、神様も大勢いらっしゃるからな?」と。
「えっと…。前のぼくたちが生きてた頃にも、消えずに残っていた神様だよ」
「あの神様か…。お前に聖痕を下さった神様だな?」
聖痕と言えば、あの神様しかいらっしゃらないそうだから。…前の俺たちが生きた時代は、聖痕なんかは無かったんだが…。
あれは敬虔な信者の人しか貰えない傷跡らしいしな、とハーレイも詳しい聖痕現象。自分の目で見て、おまけに恋人が持っているとなれば当然だろう。
それに聖痕が再発しないよう、今の自分についた「守り役」。そういう立場にいるハーレイ。
神様が誰かはこれできちんと伝わったから、次は本題に入るべき。
ハーレイが顔を顰めようとも、「キースだって?」と眉間に皺を刻もうとも。
よし、と見詰めた恋人の顔。テーブルの向かいに座るハーレイに、こう切り出した。
「その神様のことなんだけど…。神様、キースに似ていない?」
キース・アニアン、とハーレイが嫌いな名を出したから、案の定、ピクンと動いた眉。
「なんだって?」
神様の何処がキースに似てると言うんだ、あの罰当たりな野郎なんかに?
前のお前を撃った野郎で、ナスカを滅ぼした極悪人だぞ。それから後にも、ミュウの仲間を至る所でせっせと殺していやがったんだが…。「殺せ」と部下どもに命令しては。
あんな野郎が神様に似ているわけがない。どちらかと言えば悪魔の方だろ、地獄の使いの。
メギドも持って来やがったしな、とハーレイは不快そうな顔。「あれは地獄の劫火だった」と。確かに皆はそう呼んでいた。アルタミラがメギドに焼かれた時から、「地獄の劫火」と。
「キースがミュウを殺してたことは本当だけど…。前のぼくを撃ったのも本当だけど…」
でもね、それと神様に似ている話は関係無いんだよ。キースの生まれのことだから。
神様もキースも、どっちも無から生まれたものだと思うんだけど…。
キースは機械が作った命で、神様は神様が作ったけどね。誰が作ったかは全く別なんだけど…。
でも、似ていると思うんだよ。神様もキースも。
こんな具合に、と説明をした。ハーレイが来る前に気付いたことを。
神様には本当の意味での両親がいなくて、母親のお腹で育ってはいても、自然出産児とは違っていた生まれ。「無から生まれた」と言っていい命、生命を紡ぐ行為は無かったのだから。
キースは機械が無から作って、人工子宮で育てた人間。胎児の時代を過ぎた後にも、人工子宮の中に留めて。…人類の指導者に相応しい知識を与え続けて、外の世界から遮断して。
神様とキース、まるで違った二人だけれども、生まれは似ているように思える、と話したら…。
「お前なあ…。神様に叱られるぞ、そんな考え」
キースの野郎と神様を一緒にするなんて。
しかも生まれが似ているだなんて、罰当たりすぎだ。
いいか、よくよく考えてみろよ。神様はどうして人間の世界に生まれることになったんだ?
そのまま天国で暮らしていれば、苦しいことなんか何も無かった。
貧しい大工の子供じゃないし、十字架に架けられるような羽目にも陥らないってな。
それでも神様は人間の罪を背負うためにだ、この世界に来て下さったんだが…?
キースとは心構えが違う、とハーレイは苦い顔をした。
神は自分の命を捧げて、人間の罪を贖った者。それに比べてキースはどうかと、ミュウを端から殺した悪党で極悪人だった、と。
「あいつは本当に悪魔のようなヤツだった。…人類はともかく、俺たちミュウにとってはな」
キースのせいで何人死んだか、俺は考えたくもない。
前のお前が死んだ後にも、あいつはミュウを殺し続けた。アルテメシアが陥落したら、実験体のミュウも一部を除いて皆殺しだぞ?
お前にも話してやった筈だが、とハーレイが呻く大虐殺。それまではミュウの研究施設が幾つもあった。育英都市を擁する星の上などに。
ミュウを発見したら処分していた時代とはいえ、実験動物としてのミュウも必要。ミュウを研究してゆかなければ、有効な対策が立てられないから。効率的な処分方法などの。
そのために生かしてあったミュウまで、キースは処分させてしまった。「ミュウは危険だ」と。
白いシャングリラが辿り着いた星で、前のハーレイたちは仲間の救出に向かったけれど…。
(…何処の星でも、檻は空っぽ…)
ミュウを恐れた担当者たちが逃げ出した星しか、生き残りのミュウはいなかった。皆、殺されてしまった後で。…彼らが処分されたのはいつか、そういうデータが辛うじて残っていただけで。
「…それはハーレイから聞いたけど…。でも、仕方ないことじゃない」
その命令を出した頃のキースは、まだ人類の方についていたから。
マツカを側に置いてはいたって、グランド・マザーの命令に従い続けていた頃で…。
そんな時期だと、ミュウを殺すのがキースの役目。心の中では、何を考えていたとしたって。
あれこれ色々考え続けて、出した答えがグランド・マザーに逆らうこと。
…SD体制を壊すことだったよ、時代遅れのシステムなんだ、って皆にメッセージを伝えてね。
だからキースは、今では英雄。
ジョミーや前のハーレイたちと一緒に、ちゃんとお墓があるじゃない。記念墓地に。
そうだ、キースも死んじゃったんだし…。
死んでしまったっていう所までが、神様に似てると思わない?
神様は人間のために死んだけど、キースも同じ。
SD体制とグランド・マザーを倒して、人類とミュウが生きてゆける世界を作ったんだから。
キースも人間のために死んだよ、と神様の死と比べてみた。
神様は人間の罪を背負って十字架の上で死んだけれども、キースはミュウと人類が共に暮らせる世界を作るために死んだ。地球の地の底で、トォニィや部下たちに自分の思いを伝えて。
「人類とミュウは手を取り合え、ってキースはトォニィに言ったんでしょ?」
それをキースが言ってくれなきゃ、もっと混乱してたかも…。SD体制が崩壊した後は。
キースも人間のために死んでしまったわけだから…。神様に似てると思うんだけどな。
十字架の出番は無かったけどね、と肩を竦めた。それにキースは英雄だけれど、神様扱いをする人は誰もいないから。…長い時が流れた今になっても。
キースのためにと祈る人はいても、願い事をする人などはいない。神様だったら、人はあれこれ願い事をするものなのに。今の時代は大勢になった、色々な種類の神様たちに。
「キースも人間のために死んだってか? 其処も神様に似てると、お前は言うんだな」
しかしだ、あいつは死んで終わりで、復活してはいないんだが?
神様の方は、十字架で死んだ後に復活して天に昇って行った。そして今でも天におられる。
前の俺たちが生きた時代も、神様はずっと天国にいらっしゃったんだ。人間のために命を捨てた後にも、人間を救い続けるために。
だがな、キースはそうじゃない。復活して天に昇っちゃいないし、神様とは大違いだな。
あいつは死んだだけじゃないか、とハーレイは共感してもくれない。キースも神様と同じように死んでいったのに。…キースのお蔭で、ミュウが生きられる平和な時代が訪れたのに。
「…それはキースが、本物の神様じゃなかったから…」
天国から来た神様とは違って、無から生まれた生命でも人間だったから…。
ただの人間には復活なんかは出来やしないよ、死んだら其処でおしまいだから。…どんなに偉い人にしたって、みんなに惜しまれる人にしたって。
復活は無理、と分かってはいる。キースが神様ではないことも。
誰もキースに願い事をしたりはしないし、キースのために祈るだけ。記念墓地の墓碑に祈る人もいれば、写真に向かって祈る人たちもいるのだろう。今の平和への感謝をこめて。
「ほら見ろ、ただの人間だったら、それは偽物だということだ。…神様じゃなくて」
あいつの何処が神様なんだ、ミュウにとっては疫病神ではあったがな。
神様だと言うならそっちの方だ。災厄をもたらす嫌われ者の疫病神でしかなかったろうが。
キースが神様に似ているなどとは、俺は認めん、とハーレイの眉間の皺が深くなる。
思った通りにハーレイは否定し続けるだけで、「疫病神」とまで口にしたのだけれど。
「…いや、待てよ…。キースの野郎が神様か…」
それはともかく、フィシスはミュウの女神だったな。生まれはキースと同じだったが…。
機械が無から作った命だ、とハーレイが挙げたフィシスのこと。青い地球を抱いていた女神。
彼女も機械が無から作って、地球の映像を持たせていた。水槽の中に浮かぶ少女に、胎児よりも大きく育った子に。
「そうだよ、フィシスもキースと同じ。…だけどフィシスはミュウの女神で、大切な存在」
前のぼくがサイオンを与えて、フィシスをミュウにしちゃったから…。
フィシスの青い地球が欲しくて、船の仲間をみんな騙して連れて来たから…。
青い地球の記憶を持っていた上に、未来まで読める凄いミュウだよ?
ミュウの女神になりもするでしょ、誰が見たって女神様なんだから。他のミュウとは違ってね。
前のぼくでなくても女神と呼ぶと思うんだけど、と瞬かせた瞳。
率先してそう呼ばせなくても、フィシスは「女神」だったから。白いシャングリラの仲間たちは皆、彼女を「女神」と呼んでいたから。
「そのフィシスだ。…フィシスの遺伝子データを継いでいたのがキースなんだし…」
自然出産の時代で言ったら、親子のような関係になるな。フィシスとキースは。
キースの野郎が、ミュウの女神の子供だということになったら…。
女神の子供は何になるんだ、と尋ねられたから、「神様でしょ?」と即答した。考えなくても、神様の子供ならば神様。女神の子供も、やはり神様。
「神話の中の女神の子供は神様だよ。…何処の神話でも同じじゃないの?」
人間の血が混じっていたって、半分は神様みたいなものでしょ。人間には無い力を持ってて。
そういう英雄の話も幾つもある筈だよね、と神話の時代に思いを馳せる。神と女神の間の子供は全て神だし、人間と女神の間に生まれた子供も、半分は神。
「うーむ…。女神の子は神だということか…」
キースがフィシスの遺伝子データを継いでいるなら、ミュウの女神の子だから神になるのか…。
あいつが神様に似ているという、お前の説。
それには反対したい所なんだが、ちと厄介かもしれないなあ…。
ミュウの女神だったフィシスが絡むとなると…、とハーレイは腕組みをした。
「そうなってくると、頭から否定も出来んか」と。
「…キースの野郎は大嫌いだしな、神様だなんて呼びたくもないが…」
疫病神で充分だろうと思うわけだが、フィシスがキースの母親という点を考えるとだ…。
本物の母親ではないんだがな、と難しい顔。「遺伝子上のデータに過ぎないんだが」とも。
「認めてくれるの? 女神の子だから神様だ、って」
ミュウにとっては疫病神でも、神様には違いなかった、って。…それで厄介だと言うの?
フィシスの子供ってことになると…、と傾げた首。
疫病神が生まれたのなら、確かに厄介そうではある。「ミュウの女神」と皆が崇めたフィシス。その女神の子が疫病神のキースで、ミュウに災厄をもたらしたなら。
「…そうじゃない。疫病神なキースの方じゃないんだ、フィシスの方が問題だ」
ミュウの女神で、キースの母親になるフィシス。そっちが大いに問題だってな、この話では。
キースは神様に似てるかどうかという話だ、とハーレイが言うものだから。
「フィシスって…。キースのお母さんって他にも、まだ何かあるの?」
遺伝子上のお母さんなだけで、キースを産んではいないけど…。でも、お母さんはお母さん。
今の時代なら、遺伝子データを継いでいるのは、お母さんのお腹から生まれた子供だものね。
「其処だ、其処。…キースの野郎が、お前が言ってる神様に似ているんだとすると…」
聖母まで揃っていたんだったな、と思ってな。
あんな野郎にはもったいない話になっちまうが、とハーレイがフウとついた溜息。「厄介な」とでも言うように。
「聖母って…?」
神様のお母さんのことだよね、聖母。…マリア様のこと。それもキースに揃ってたわけ…?
それって誰、と尋ねたけれども、答えは「フィシス」なのだろう。遺伝子上だけの話とはいえ、キースはフィシスの子になるから。…二人は親子と言えるのだから。
「もちろん、フィシスだ。…他には誰もいないだろうが」
キースの親だと言える人間、フィシスの他にはいない筈だぞ。あいつには親は無いからな。
フィシスにしたって、本当の親じゃないんだが…。
直接、細胞を採取したとか、そういうのとは違うから。遺伝子データを使っていただけで。
そのフィシスがだ…、とハーレイが指先でトンと叩いたテーブル。「聖母なんだ」と。
「考えようによっては立派に聖母で、誰も反論できなくなるぞ」
お前が言ってた、キースの生まれと神様の生まれが似ているという論法で行けば。…フィシスは聖母で、キースを産んだ。神の子になるキースをな。
復活も出来ない偽物の神様だったわけだが…、とハーレイが言うキースの母。聖母になるというフィシス。神の子を産んだ、聖母マリアのような立場に。
「えっと、それって…。フィシスがミュウの女神だから?」
女神の子供は神様になるんだし、キースも神様。…そういう考え方をするから、聖母になるの?
フィシスの遺伝子データを継いでる神様のキース、そのお母さんになるってことで…?
神様を産んだ女神だったから聖母なの、と整理してみた自分の考え。キースが神様に似ているのならば、フィシスは聖母になるのかと。
そうしたら…。
「神様の母親で、女神って所も確かにあるが…。それだけじゃないんだ、聖母となると」
聖母も普通の人間ではないという考え方がある。神様と同じで、特別な人間。
子供が出来なかった人間が神様に祈って出来た子供で、生まれる前から特別だった、と。
だから聖母は神様みたいに天に昇って行っちまった、と聞かされてみれば、そういう有名な絵があった。人間が地球しか知らなかった時代に描かれた名画。「聖母被昇天」というタイトルの。
死を迎えた時、大勢の天使に取り囲まれて天に昇ってゆく聖母。
(…天国に昇って行っちゃったんだし、お墓は無し…)
前の自分の知識の中に、微かに残っていた欠片。
ライブラリーにあった本で読んだか、ヒルマンにでも聞いたのか。聖母は身体ごと天に昇って、地上には何も残さなかった。聖母が産んだ子供のキリスト、彼がそうやって天に帰ったように。
聖母が天に昇ってゆく時、帯が地上に落ちたという。それだけが聖母が残したもの。
普通の人間が死んだ時には、亡骸が残るものなのに。跡形もなく燃えてしまったとか、そういう場合を除いては。
(身体ごと天国に行っちゃうだなんて、普通じゃないよね?)
ならばハーレイが言った通りに、聖母も特別な人間だったというのだろうか。聖母が産んだ子がそうだったように、神の世界から来た人間だと…?
前の自分の知識は其処まで。知らなかったのか、生まれ変わる時に記憶を落として来たか。
探ってみても分からないから、ハーレイに訊いてみることにした。聖母のことを。
「聖母も特別な人間だった、って…。そうだったの?」
天国に昇ってゆく聖母の絵は覚えているけれど…。「聖母被昇天」っていう名前の有名な絵を。
前のぼくたちが生きた時代は、もう本物の絵は無かったけれど…。データが残っていただけで。
身体ごと天国に行っちゃったことは思い出したけど、それ以上は無理。…覚えていないよ。
どういう風に特別なの、と尋ねた聖母マリアのこと。フィシスと重なるのかもしれない聖母。
「チビのお前には、少し難しくなるんだが…。前のお前の知識があるなら、大丈夫だろう」
聖母のことを「無原罪の御宿り」と呼んだ時代があった。今も教会に行けば使っているかもな。
原罪ってヤツは知っているだろ、人間なら誰でも背負っている罪。…生まれた時から。アダムとイブが神に背いて、エデンの園を追われた時の罪のことだな。
人間は誰でもアダムとイブの子孫になるから、その罪からは逃れられない。どう足掻いても。
しかし聖母は、その原罪を背負わずに生まれたという意味なんだ。「無原罪の御宿り」は。
生まれる前から選ばれた存在で、神様の母親に相応しい女性。だから原罪など持っていない、と言われてた。神の子を産むために生まれた女性だ、と。
幼い頃から神殿で育てられたくらいに…、とハーレイが教えてくれたこと。人間だったら、必ず背負っている原罪。それを持たないという聖母。
「…本当に? 聖母って、そこまで特別だったの?」
生まれた時から特別だったら、神様のお母さんになるのも不思議じゃないけれど…。死んだ後に身体ごと天国に行くのも、当たり前だっていう気がするけれど…。
凄く特別で人間離れしている感じ…。聖母そのものが神様みたい…。
産んだ子供も神様だけど、と驚かされた聖母の特別さ。神の母になるには相応しいけれど。
「どうなんだかなあ…。あまりにも聖母が特別すぎてだ、神様が掠んじまうから…」
教会の中でも考え方が分かれちまって、認める教会と認めない教会、どっちも存在したらしい。今の時代はどうなってるのか、俺も詳しくないんだが…。教会に通っちゃいないから。
しかし聖母の生まれのことで揉めた時代も、特別なんだと認める人たちは多かった。
原罪を背負わずに生まれて来たから、神様の母親で天国の女王様なんだ、と。
神様と同じに、お祈りすれば必ず助けてくれる人だと、聖母に縋った人たちが大勢いたってな。
聖母が無原罪の御宿りならば…、とハーレイが口にしたフィシスの名前。「似てるかもな」と。
「俺も神様に叱られそうだが、フィシスは原罪を背負っちゃいない。…其処が似ている」
原罪を背負うのはアダムとイブの子孫だけだし、そうでないなら最初から持っちゃいないんだ。
フィシスは無から生まれたんだろ、機械が作り出したんだから。
それまでに生まれた誰の子孫でもない、誰の血も引いていない人間。アダムもイブも関係ない。誰の子孫でもないと言うなら、原罪も持っていないだろうが。
違うのか、と問われたフィシスの生まれ。機械が無から作った生命。原罪を持っていない存在。
それがフィシスで、さながら聖母のようだった女性。
彼女の遺伝子データを継いで生まれたキースも同じで、やはり原罪を背負ってはいない。まるで神の子であるかのように。
「凄いじゃない! フィシスが聖母で、キースが聖母の子供だなんて…」
それに原罪も持ってはいなかったなんて、やっぱり神様みたいなものだよ。…キース、ホントに神様に似ているってば。
無から生まれて来て、原罪は無し。それだけでもうんと凄いことだよ、復活は無理でも。機械が作った人間ってだけで、他の所は普通の人間と変わらなくても…。
身体ごと天国には行けなくてもね、とキースと神様が似ていることに感激した。もしかしたら、機械は計算したかもしれないから。
アダムとイブの子孫ではない、原罪を持たない人間を作り出すということ。それを作れたなら、新たな時代の聖母や神が誕生する。人類の指導者に相応しい者が、命ある神が。
機械はそれを狙ったろうか、と勢い込んで問い掛けた。「神様を作る気だったのかな?」と。
「どうなんだか…。俺には其処まで分かりはしないし、そういうデータも無さそうだが…」
神を作ろうとしていたのならば、今の時代には解き明かされていそうだが…。機械の思惑。
それに機械が其処まで計算して作ったなら、キースの人生は別のになっていたんじゃないか?
疫病神じゃない人生に…、とハーレイが顎に手を当てる。「きっと、そうだな」と。
「えっ、どうして?」
キースの人生が変わってしまうって、どんな具合に?
機械が作った生命って所は同じなんだよ、神様を作るつもりでいようが、指導者を作るつもりで塩基対を合成していようが。…どっちにしても、出来上がるのは同じ人間なんだと思うけど…。
本物の神様は作れないでしょ、と考えなくても分かること。機械がどんなに努力しようと、何度実験を繰り返そうとも、本物の神は作れない。原罪を持たない者は作れても、神そのものは。
それこそ神の領域だから。…機械が神を作ることなど、本物の神は、けして許しはしないから。
「だってそうでしょ、神様は本当にいるんだもの。…ぼくに聖痕をくれた神様」
その神様が許さないから、キースを神様にするのは無理。…生まれなんかは似せられても。
どう頑張っても、あのキースしか作れはしないと思うんだけど…。
だから生き方もおんなじだよね、とキースの人生を思い浮かべる。ミュウを滅ぼそうとメギドを持ち出した、グランド・マザーに忠実なキース。その陰でマツカを生かしながらも。
ナスカの後にも大勢のミュウを殺し続けて、けれど最後にはグランド・マザーに反旗を翻した。それをしたなら、キースの命も無いというのに。…粛清されてしまうだろうに。
けれどキースは「未来」に賭けた。
時代遅れのマザー・システム、機械が人間を支配し続ける歪んだ時代を終わらせようと。人類とミュウが手を取り合ったならば、きっと時代を変えられると。
そうして時代は変わったのだし、どう生きたってキースはキース。
理想の指導者として作り出されようが、新たな時代の神として生を享けようが。
「それはどうだか…。神として作り出されていたなら、人生だって変わっていたと思うがな?」
神としての心構えってヤツも、機械は叩き込む筈だ。結果なんかは考えもせずに。
機械は心を持たないものだし、感情だって持ってはいない。ただ計算をしてゆくだけのことで、神を作れば人は従うと考えるのが関の山ってトコだな。
そうやって自分が作り出した「神」が、どう動くのかは考えないで。…機械の思惑通りに上手く動く人間、それが出来ると信じ込んで。
だが、作られた「神」の方では、そうはいかない。神として育てられた以上は、神らしく生きてゆこうとする。人間としての感情も心も、神としての自分に相応しく律し続けてな。
そういうキースを作り出したなら、ミュウを端から滅ぼす代わりに、助ける方へと動いたろう。
マツカだけを生かしておくんじゃなくてだ、ミュウと聞いたら漏れなく生かす方向へ。
そう生きてこその神様だろうが、機械が作った神様にしても。
自分を作った機械に何度脅されようとも、自分が正しいと信じる道を行くもんだ。「殺すぞ」と警告され続けようが、本当に消される瞬間までな。
命を落とすと分かっていても、そう生きるのが神様だ、とハーレイが語るキースの生き方。
機械が神として作っていたなら、ミュウを端から殺す代わりに、生かそうと努力を重ねる人生。その結果として、自分が粛清されようと。…自分を作った機械に命を奪われようと。
「そう思わないか? 神様と言えば救い主だぞ、前の俺たちが生きた時代の神様は」
他に神様などいなかったんだし、原罪を持たない神を作ろうとしたんだったら、出来上がるのは救い主でしかない。機械の思惑に従いもせずに、ミュウの命を救い続ける神様だな。
しかし、キースはそうじゃなかった。ナスカはメギドに焼かれちまったし、アルテメシアが陥落した後は、実験体だったミュウを皆殺しだ。兵器の開発に必要な分を除いてな。
あんなヤツの何処が神様で救い主なんだ、とハーレイは苦々しい顔だけれども、キースは最後にそのように生きた。まるで神の子であったかのように。
「そうだけど…。キースは酷いことをしたけど、でも、最後にはちゃんと世界を…」
ミュウも人類と同じ人間なんだ、っていうことを明かして、あるべき形に戻してくれたよ。
時代遅れのマザー・システムはもう要らない、ってメッセージを流して、ミュウのことだって、進化の必然だったんだ、って人類にちゃんと説明して。
キースがそれをやってくれてたから、SD体制を思った以上の速さで完全に倒せたんだよ?
グランド・マザーを倒しただけだと、マザー・ネットワークは破壊出来ないんだから。…宇宙に散らばる端末を壊さないと駄目。それをするには、人類とミュウが手を取り合わないと。
キースは神様のようだったよ、とハーレイの鳶色の瞳を見詰める。
自らの命が危うくなるのに、人類に向けて真実を全て語ったキース。自分の命を犠牲に捧げて、世界を救った「無から作られた」生命体。
さながら神の子のように。…十字架に架かって、人の子の罪をその血で贖った救い主のように。
「それは機械の計算外だ。想定していなかった出来事だったと思うがな…?」
最初からそういう人間として、キースを作ったわけじゃない。もしもそうなら、ミュウを端から殺し続けた極悪人など、存在しなかったことになるからな。
ナスカに来やがった、あの疫病神。
前のお前をなぶり殺しにしやがった上に、ナスカをメギドで焼き払った悪魔。
あんな野郎は神なんかじゃない、機械が神として作っていたなら、それらしいのが出来るから。
機械が「殺せ」と命令したって、ミュウを救おうと頑張り続ける人間がな。
キースは断じて「神」などではない、とハーレイは怒っているけれど。死の星だった地球が蘇るほどの時が流れても、まだ許そうとはしないのだけれど。
「…だったら、キースの頑張りじゃないの? SD体制を倒したことは」
神様みたいに生きてやろう、って決心して。…自分の生まれを知った後には、それらしく。
知識は沢山持ってた筈だし、自分が原罪を背負っていないことも分かるだろうから…。そういう風に生まれたんなら、神様らしく生きてゆくこと。
それが自分の役目なんだ、って気付いて頑張ったんじゃないかな…?
「おいおいおい…。そいつは時間がずいぶんズレてしまっているぞ?」
考え方としては悪くないがな、ヤツの人生をきちんと考えてみろ。E-1077を処分した後、何年、ミュウと戦っていやがったんだ。実験体まで処分させちまって、血も涙もない戦いを。
ジュピター上空での決戦までに何年あった、と問われればそう。
E-1077で自分の生まれを知った後にも、キースはミュウを殺し続けた。それまでの日々と全く同じに、容赦なく。マツカ以外は、一人の例外も作りはせずに。
けれどキースは人生の最後に、人類を、ミュウを、全て救った。マザー・システムという悪魔の手から。歪んだ力で長く世界を支配し続けた、忌まわしい機械の軛から。
「でも、キース…。神様らしく生きたような気がするんだけどな…」
それまでにやったことはともかく、SD体制を倒した時は。…ミュウは進化の必然なんだ、って人類に向かって呼び掛けた時は。
あんなことをしたら、グランド・マザーを怒らせてしまうだけなのに。…地下に降りた途端に、殺されたって不思議じゃないのに、キースはメッセージを託したんだよ。スウェナにね。
きっと分かっていたんじゃないかな、どう生きるべきか。死ぬと分かってても、自分のやるべきことをしなければ、って。
神様だってそうだったでしょ、と十字架に架かった神様の最期を思い出す。弟子の一人が裏切ることも、自分が十字架に架けられることも知っていた神。未来を見通す力で、自分の最期を。
けれども、神は逃げ出さなかった。苦痛に満ちた死を迎えると気付いていても。
「あいつに分かっていたとは思えんが? 神様のような生き方なんていう立派なものが」
お前があいつの肩を持ちたがるだけだ。どういうわけだか、お前はあいつを嫌わないから。
とんでもない目に遭ったというのに、いつも俺から庇い続けて。
俺があいつの悪口を言う度に庇うよな、とハーレイはフンと鼻を鳴らした。「あんなヤツ」と、それは忌々しそうに。
「キースの野郎が神の子だなんて、俺は絶対、認めんぞ」
神として作られた生命だというのも、認める気にはなれないな。あいつは地獄の使いだったし、最後の最後に悔い改めても、それまでの悪行を帳消しにしは出来ん。
もっとも、あいつが奇跡を起こして見せてくれれば別だがな。神様には奇跡がつきものだ。
神だと言うなら奇跡を頼む、という注文。キースに向けて。
「奇跡って?」
聖痕はもう貰っちゃったし、どんな奇跡を起こせって言うの?
海が割れるとか、天から食べ物が降って来るとか、水がワインに変わるだとか…。ほんの少しのパンと魚で、大勢の人がお腹一杯になるっていうのもあったっけ…。
どんなのがいいの、とハーレイに訊いた。神様の奇跡は山ほどあるから、どれをキースにやって見せろと言っているのか、と。
「なあに、簡単なことだってな。神様として俺の前に姿を現したならば、認めてやろう」
こいつは間違いなく神の子だな、と俺が納得できる姿で。場所は選ばんから、何処でもいいぞ。
今すぐでもいいし、俺が自分の家に帰ってからでもいいが…。
そうは言っても、似ても似つかん顔立ちだったし、無理そうだがな。俺に納得させるのは。
あいつの顔の何処が神様に似ているんだ、と辛辣な評価。「濃い色の髪だけじゃないか?」と。
「…神様に似てはいなかったよね…」
髭を生やしたら少しは似るかな、だけど目の色が違うから…。アイスブルーの瞳の神様、一度も絵では見たことが無いし…。神様の目の色、青じゃないよね…。
うーん、と考え込んでしまった神様の顔とキースの顔。
馬小屋生まれの神様の顔は、誰が描いても見事な髭面のものばかり。赤ん坊時代や、少年時代を描いた絵ならば髭は無いけれど。
(…キース、髭面じゃないだけでも不利…)
たとえ姿を見せた所で、ハーレイは納得しそうにない。「幽霊だな」とでも笑い飛ばして。
けして神だと認めはしなくて、知らん顔。髭面ではないというだけで。
フィシスの方なら、聖母のモデルになっても綺麗に収まりそうなのに。金髪を持った聖母でも。
なんとも不利だ、と思う、キースが「神の子」だった時。
本物の神の子とは違うけれども、機械が新たな「神」として作り上げた生命。原罪を背負わず、無から生まれた生命だから、そのように生きてゆけるだろうと。
キースはそれらしく生きた気がするのに、生憎と生やしていなかった髭。神様の絵には漏れなく描かれた、濃い色の髭。
「…キース、やっぱり神様とは違うのかな…」
聖痕をくれた神様は絶対にキースじゃないし、今日のお願いを聞いてくれたのだって…。
キースじゃない方の神様だよね、と分かってはいる。本物の「神の子」の方だ、と。
「お願いだって? お前がか?」
そしてそいつは叶ったのか、とハーレイが訊くから頷いた。「うん」と、笑顔で。
「学校から帰って、この部屋でお願いしたんだよ。ハーレイが来てくれますように、って」
「なるほど、叶ってはいるな。俺が今、此処に座っているということは」
その願い事をキースの野郎が叶えるとは、とても思えんが?
あいつは神様なんかじゃないしな、どう頑張っても願いを叶える力なんぞは無いだろう。死んで天国に行けたとしたって、下っ端の天使にも敵わんだろうさ。
所詮は人だ、とハーレイは冷たく切り捨てる。けして神などでは有り得ない、と。
「それは分かっているんだけれど…。神様だとしても、機械が作った神様だよね、って…」
前のぼくたちやキースが生きてた時代も、神様は別にいたんだものね。…キースの他に。
ぼくに聖痕をくれた神様がいたし、キースは本物の神様になれるわけなんかなくて…。
あれっ、でも…。
神様は一人で、一人しかいない筈なのに…。だけど、馬小屋で生まれた神様のお父さん、天国にいる神様で…。それに聖霊も入れて三人、そんなにいるなら、もっと神様、いるのかな…。
キースも神様の内に入れるのかな、と抱えた頭。機械が無から作ったものでも、神ならば。
「そのくらいにしておけ、罰当たりな話は。父と子と聖霊は三位一体だろうが」
余計なことまで考えていると、チビのお前は知恵熱を出すぞ。脳味噌がすっかり煮えちまって。
キースと神様をじっくり考えたばかりに、明日は学校、休みだとかな。
俺はそれでもかまわないが、とハーレイが浮かべた意地悪い笑み。
「キースの野郎の話に散々付き合わされたし、明日はのんびりしたいもんだ」と。
知恵熱を出して休んでおけ、とキース嫌いの恋人は冷たい。「俺も明日は真っ直ぐ帰宅だ」と。此処には寄らずに家に帰って、コーヒーでも淹れてゆっくりしよう、と。
「それは嫌だよ! お休みだなんて、嫌だからね!」
ハーレイもお見舞いに来てくれないなんて、酷すぎるから!
そんなの嫌だし、もう神様の話はしないから…。キースは神様に似てるって話…。
もうやらないよ、と神様の話は諦めたけれど。キースもフィシスも、神様ではないと、ちゃんと分かってはいるけれど…。
(だけど、ちょっぴり…)
何処か似ている。原罪を背負っていなかったことも、キースが最後に自分を犠牲にしたことも。
機械が「神を作ろう」と計算したなら、凄いのだけれど。神が出来たのなら、凄いけれども。
きっと機械は考えないから、ただの偶然。
神を作ろうと思うよりかは、自分が神になろうとするのが機械の思考だろうから。
そういう歪んだ機械の時代を、壊したのがキースだったから。
(だけど、機械の言いなりになるような神様、作ろうとして失敗したのなら…)
本物の神様のような人間が出来てしまったという結末だったら、面白い。
ミュウを端から殺したキースが、神の使命に目覚めたのなら。神らしい最期を迎えたのなら。
けれどハーレイには言わないでおこう、神様の話は、もうこれ以上。
せっかく訪ねて来てくれたのに、不機嫌な顔はさせたくないから。
神様がプレゼントしてくれた幸せな時間は、本物の神様に感謝しながら笑顔で使いたい。
ハーレイと二人、幸せに笑って過ごしていたなら、きっと神様も空の上で喜んでくれるから…。
神とキースと・了
※神様とキースは似ているかも、と考えたブルー。思った以上に、類似点が多そうです。
ハーレイは否定するのですけど、神様のような人間が出来てしまったのが、キースなのかも。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
今日はハーレイが来てくれますように、と祈ったブルー。
学校から帰っておやつの後で、戻った二階の自分の部屋で。窓の外を見て、空の上に向かって。神様がいるのは空の上だし、お祈りするならこれが一番、と。
今日はハーレイに会いたい気分だから。仕事の帰りに寄って欲しいと思うから。
(学校でも、ちゃんと会えたけど…)
挨拶できて、声だって掛けて貰えたけれども、ちょっぴり欲張り。神様にお願い。仕事の帰りに家を訪ねてくれますように、と。
週の半ばだから、一日一緒にゆっくり過ごせる週末はまだ。あと何日か待たないと。
けれどハーレイのことが好きだし、「今日だって二人で話したいよ」と。この部屋の中で、二人きりで。誰にも邪魔をされないで。
(なんでもいいから、お喋りだけで…)
お茶とお菓子をお供に過ごす、夕食までの時間が欲しい。それを持てたら、うんと幸せ。
キスは駄目でも、話せるだけで。ハーレイと向かい合わせで座って、顔を見て、大好きな温かい声が聞けたなら。
(神様、お願い…)
ハーレイのこと、と念を押すように空にお祈りしてから、座った勉強机の前。
頬杖をついて考える。「今のお祈り、叶うといいな」と。神様が祈りを叶えてくれたら、仕事の帰りにハーレイが来てくれる筈。門扉の脇のチャイムを鳴らして。
空に向かって頼んだこと。神様に「お願い」と捧げた祈り。神様は叶えてくれるだろうか?
(ぼくの勝手なお願いだけれど、神様だものね?)
神様だから大丈夫、という気がする。
聖痕を持っている今の自分。神様が負った傷と同じなのが聖痕だけれど、自分の場合はそれとは違って、前の自分が負った傷跡。メギドでキースに撃たれた時に。
その聖痕が現れた時に、ハーレイと出会って記憶が戻った。前の自分は誰だったのかを、それにハーレイも同じに思い出した記憶。
お蔭で再び巡り会えたし、またハーレイに恋をしている。ハーレイも恋をしてくれている。
前の自分たちの恋の続きを生きている今。時の彼方に消えてしまった、恋の続きを。
ハーレイに会わせてくれた聖痕。前の自分たちの記憶を戻してくれた聖痕。
とても痛くて気を失ってしまったけれども、傷跡だから仕方ない。前の自分も痛かった。痛みのあまりに、右手に持っていたハーレイの温もりを失くしたほどに。
その聖痕をくれた神様なのだし、きっと優しい神様の筈。我儘な祈りも叶えてくれそう。今日はハーレイが来てくれますように、と空に捧げたお祈りだって。
(きっとホントに優しい神様…)
聖痕をくれたこともそうだし、前の自分も祈った神様。アルタミラの地獄から逃れた後に。
SD体制が敷かれた時代は、消されてしまった多様な文化。機械が統治しやすいように。神様も同じに消されてしまって、一人だけしか残らなかった。
十字架に架けられた神様だけが残った時代で、今の自分がハーレイのことを頼んだ神様も、同じ神様。空の上の天国にいる神様。
(教会には行っていないけど…)
お祈りするなら、その神様に。前の自分の記憶が戻った今では、前よりもずっと。
それまでだったら、特に意識はしなかったのに。ただ「神様」とだけで、願い事や祈りを叶えてくれるのだったら、誰でも良かったかもしれない。今の時代は神様の数も多いから。
けれど聖痕を貰って記憶が戻れば、その神様に頼みたくなる。お願いするなら、この神様、と。
(ホントは教会にも行かなくちゃ駄目?)
日曜日はお祈りの集まりがあるし、それに出ないと駄目なのだろうか。チビの自分も。
ハーレイが来てくれる時間よりも前に、教会に出掛けてきちんとお祈り。聖歌も歌って。
(…でも、行かなくても大丈夫だよね?)
神様は怒ったりしない筈だものね、と考える。
前の自分が生きた時代は、お祈りの作法も無かった時代。ただ「神様がいた」というだけ。
それでも神様は願いや祈りを聞いてくれたし、きっと今だって大丈夫、と。
(ミツバチの蝋燭を灯しておくとか、お祈りのための鐘を鳴らすだけでも…)
願いを叶えてくれた神様。白いシャングリラで暮らしたミュウたちが捧げる祈りを。
誰も正式な作法で祈りはしなかったのに。祈りの言葉は自分の言葉で、聖歌も歌わなかった船。祈りたい時には鐘を鳴らして静かに祈るか、蜜蝋で作った蝋燭を部屋で灯して祈るか。
それがシャングリラにいた仲間たちの祈り。前の自分も、その中の一人。
自分たちの流儀で祈っていたって、神様は願いを叶えてくれた。地球への道を開いてくれたし、ミュウが殺されない平和な世界も作ってくれた。船の仲間たちや、前の自分が願ったように。
あれだけの願いが叶ったのだし、今の自分も部屋で祈るだけでいいだろう。空に向かって、祈る言葉も「神様、お願い」と我儘たっぷりでも。
とても頼もしい神様だよね、と思う神様。
クリスマスに馬小屋で生まれた神様、人間の姿で地上に降りたと伝わる神様なのだけど…。
(あれ?)
なんだか、ちょっぴりキースみたい、と気付いた神様。馬小屋だっけ、と考えたら。
人間の姿で生まれた神様、馬小屋で生まれた赤ん坊には、ちゃんと両親が揃ってはいても…。
(お母さんは本物のお母さんだけど、神様を産んだっていうだけで…)
自然出産だから、お腹で育てて生んだのだけれど、その神様のお父さん。身重だったお母さんを連れて旅をして、馬小屋を宿に貸して貰ったお父さんは、「お母さんの夫」なだけ。
お母さんと婚約していた間に、お母さんのお腹に宿った神様。天国にいる神様の子供として。
神様のお父さんは天国にいたから、お母さんとは結婚していない。結婚したのは、婚約者だったお父さん。その時にはもう、お母さんのお腹の中には神様がいた。
(…神様、無から生まれて来ちゃった?)
そういう風にも受け取れる。
自然出産には違いなくても、神様にはいない「お父さん」。お母さんだって、「お腹で育てて」産んだというだけ。お腹の中で神様を「作って」はいない。
(…お父さんとお母さんが結婚しないと…)
子供を作ろうと考えないと、子供が出来はしない筈。精子と卵子が結び付かないと、受精卵にはならないから。…そうでなければ、赤ちゃんの命は芽生えては来ない。どう転んでも。
けれど、神様は違ったらしい。「何もしないのに」、お母さんのお腹に宿ったのだから。
(…お父さんはいなくて、お母さんはお腹で育てて産んだってだけで…)
それならキースも似たようなもの。
神の領域を機械が侵して、無から作った生命だけれど。
三十億もの塩基対を繋いで、紡いだDNAという名の鎖。そうやってキースの命を作って、人工子宮の中で育てた。機械が思う通りの年まで、ずっと胎児の状態のままで。
何処か重なる、と思った生命。クリスマスに生まれて来た神様と、無から生まれて来たキース。
(うーん…)
実は似ているのだろうか、という気になってしまうキースと神様。
全く逆の存在でも。
神が自ら作った命と、神の領域を侵した機械が無から作った生命と。
生まれは全く逆になるのだし、本当は似てはいない筈。神に祝福された命と、そうではない命。
けれど、どちらも「無から」生まれた。本来だったら、宿る筈などない生命。
(…ハーレイに言ったら、怒りそうだけど…)
キースをとても嫌っているのがハーレイなのだし、「神様に似てる」などと話したら顔を顰めることだろう。「あいつの何処が神様なんだ」と、眉間に深い皺まで刻んで。
そうは思っても、大発見。神様とキースが似ていること。
今日の話題はこれに決めた、と考える。神様が願いを叶えてくれたら、ハーレイが仕事の帰りに訪ねて来てくれたなら。
其処へ聞こえたチャイムの音。願いが叶って、部屋に来てくれた愛おしい人。
神様の話をしなくちゃね、とテーブルを挟んで向かい合うなり問い掛けた。ハーレイが怒っても気にしないもの、とワクワクと胸を躍らせて。
「あのね、ハーレイ…。神様のことは知っている?」
「神様だって?」
どの神様だ、と尋ねた恋人。「今の時代は、神様も大勢いらっしゃるからな?」と。
「えっと…。前のぼくたちが生きてた頃にも、消えずに残っていた神様だよ」
「あの神様か…。お前に聖痕を下さった神様だな?」
聖痕と言えば、あの神様しかいらっしゃらないそうだから。…前の俺たちが生きた時代は、聖痕なんかは無かったんだが…。
あれは敬虔な信者の人しか貰えない傷跡らしいしな、とハーレイも詳しい聖痕現象。自分の目で見て、おまけに恋人が持っているとなれば当然だろう。
それに聖痕が再発しないよう、今の自分についた「守り役」。そういう立場にいるハーレイ。
神様が誰かはこれできちんと伝わったから、次は本題に入るべき。
ハーレイが顔を顰めようとも、「キースだって?」と眉間に皺を刻もうとも。
よし、と見詰めた恋人の顔。テーブルの向かいに座るハーレイに、こう切り出した。
「その神様のことなんだけど…。神様、キースに似ていない?」
キース・アニアン、とハーレイが嫌いな名を出したから、案の定、ピクンと動いた眉。
「なんだって?」
神様の何処がキースに似てると言うんだ、あの罰当たりな野郎なんかに?
前のお前を撃った野郎で、ナスカを滅ぼした極悪人だぞ。それから後にも、ミュウの仲間を至る所でせっせと殺していやがったんだが…。「殺せ」と部下どもに命令しては。
あんな野郎が神様に似ているわけがない。どちらかと言えば悪魔の方だろ、地獄の使いの。
メギドも持って来やがったしな、とハーレイは不快そうな顔。「あれは地獄の劫火だった」と。確かに皆はそう呼んでいた。アルタミラがメギドに焼かれた時から、「地獄の劫火」と。
「キースがミュウを殺してたことは本当だけど…。前のぼくを撃ったのも本当だけど…」
でもね、それと神様に似ている話は関係無いんだよ。キースの生まれのことだから。
神様もキースも、どっちも無から生まれたものだと思うんだけど…。
キースは機械が作った命で、神様は神様が作ったけどね。誰が作ったかは全く別なんだけど…。
でも、似ていると思うんだよ。神様もキースも。
こんな具合に、と説明をした。ハーレイが来る前に気付いたことを。
神様には本当の意味での両親がいなくて、母親のお腹で育ってはいても、自然出産児とは違っていた生まれ。「無から生まれた」と言っていい命、生命を紡ぐ行為は無かったのだから。
キースは機械が無から作って、人工子宮で育てた人間。胎児の時代を過ぎた後にも、人工子宮の中に留めて。…人類の指導者に相応しい知識を与え続けて、外の世界から遮断して。
神様とキース、まるで違った二人だけれども、生まれは似ているように思える、と話したら…。
「お前なあ…。神様に叱られるぞ、そんな考え」
キースの野郎と神様を一緒にするなんて。
しかも生まれが似ているだなんて、罰当たりすぎだ。
いいか、よくよく考えてみろよ。神様はどうして人間の世界に生まれることになったんだ?
そのまま天国で暮らしていれば、苦しいことなんか何も無かった。
貧しい大工の子供じゃないし、十字架に架けられるような羽目にも陥らないってな。
それでも神様は人間の罪を背負うためにだ、この世界に来て下さったんだが…?
キースとは心構えが違う、とハーレイは苦い顔をした。
神は自分の命を捧げて、人間の罪を贖った者。それに比べてキースはどうかと、ミュウを端から殺した悪党で極悪人だった、と。
「あいつは本当に悪魔のようなヤツだった。…人類はともかく、俺たちミュウにとってはな」
キースのせいで何人死んだか、俺は考えたくもない。
前のお前が死んだ後にも、あいつはミュウを殺し続けた。アルテメシアが陥落したら、実験体のミュウも一部を除いて皆殺しだぞ?
お前にも話してやった筈だが、とハーレイが呻く大虐殺。それまではミュウの研究施設が幾つもあった。育英都市を擁する星の上などに。
ミュウを発見したら処分していた時代とはいえ、実験動物としてのミュウも必要。ミュウを研究してゆかなければ、有効な対策が立てられないから。効率的な処分方法などの。
そのために生かしてあったミュウまで、キースは処分させてしまった。「ミュウは危険だ」と。
白いシャングリラが辿り着いた星で、前のハーレイたちは仲間の救出に向かったけれど…。
(…何処の星でも、檻は空っぽ…)
ミュウを恐れた担当者たちが逃げ出した星しか、生き残りのミュウはいなかった。皆、殺されてしまった後で。…彼らが処分されたのはいつか、そういうデータが辛うじて残っていただけで。
「…それはハーレイから聞いたけど…。でも、仕方ないことじゃない」
その命令を出した頃のキースは、まだ人類の方についていたから。
マツカを側に置いてはいたって、グランド・マザーの命令に従い続けていた頃で…。
そんな時期だと、ミュウを殺すのがキースの役目。心の中では、何を考えていたとしたって。
あれこれ色々考え続けて、出した答えがグランド・マザーに逆らうこと。
…SD体制を壊すことだったよ、時代遅れのシステムなんだ、って皆にメッセージを伝えてね。
だからキースは、今では英雄。
ジョミーや前のハーレイたちと一緒に、ちゃんとお墓があるじゃない。記念墓地に。
そうだ、キースも死んじゃったんだし…。
死んでしまったっていう所までが、神様に似てると思わない?
神様は人間のために死んだけど、キースも同じ。
SD体制とグランド・マザーを倒して、人類とミュウが生きてゆける世界を作ったんだから。
キースも人間のために死んだよ、と神様の死と比べてみた。
神様は人間の罪を背負って十字架の上で死んだけれども、キースはミュウと人類が共に暮らせる世界を作るために死んだ。地球の地の底で、トォニィや部下たちに自分の思いを伝えて。
「人類とミュウは手を取り合え、ってキースはトォニィに言ったんでしょ?」
それをキースが言ってくれなきゃ、もっと混乱してたかも…。SD体制が崩壊した後は。
キースも人間のために死んでしまったわけだから…。神様に似てると思うんだけどな。
十字架の出番は無かったけどね、と肩を竦めた。それにキースは英雄だけれど、神様扱いをする人は誰もいないから。…長い時が流れた今になっても。
キースのためにと祈る人はいても、願い事をする人などはいない。神様だったら、人はあれこれ願い事をするものなのに。今の時代は大勢になった、色々な種類の神様たちに。
「キースも人間のために死んだってか? 其処も神様に似てると、お前は言うんだな」
しかしだ、あいつは死んで終わりで、復活してはいないんだが?
神様の方は、十字架で死んだ後に復活して天に昇って行った。そして今でも天におられる。
前の俺たちが生きた時代も、神様はずっと天国にいらっしゃったんだ。人間のために命を捨てた後にも、人間を救い続けるために。
だがな、キースはそうじゃない。復活して天に昇っちゃいないし、神様とは大違いだな。
あいつは死んだだけじゃないか、とハーレイは共感してもくれない。キースも神様と同じように死んでいったのに。…キースのお蔭で、ミュウが生きられる平和な時代が訪れたのに。
「…それはキースが、本物の神様じゃなかったから…」
天国から来た神様とは違って、無から生まれた生命でも人間だったから…。
ただの人間には復活なんかは出来やしないよ、死んだら其処でおしまいだから。…どんなに偉い人にしたって、みんなに惜しまれる人にしたって。
復活は無理、と分かってはいる。キースが神様ではないことも。
誰もキースに願い事をしたりはしないし、キースのために祈るだけ。記念墓地の墓碑に祈る人もいれば、写真に向かって祈る人たちもいるのだろう。今の平和への感謝をこめて。
「ほら見ろ、ただの人間だったら、それは偽物だということだ。…神様じゃなくて」
あいつの何処が神様なんだ、ミュウにとっては疫病神ではあったがな。
神様だと言うならそっちの方だ。災厄をもたらす嫌われ者の疫病神でしかなかったろうが。
キースが神様に似ているなどとは、俺は認めん、とハーレイの眉間の皺が深くなる。
思った通りにハーレイは否定し続けるだけで、「疫病神」とまで口にしたのだけれど。
「…いや、待てよ…。キースの野郎が神様か…」
それはともかく、フィシスはミュウの女神だったな。生まれはキースと同じだったが…。
機械が無から作った命だ、とハーレイが挙げたフィシスのこと。青い地球を抱いていた女神。
彼女も機械が無から作って、地球の映像を持たせていた。水槽の中に浮かぶ少女に、胎児よりも大きく育った子に。
「そうだよ、フィシスもキースと同じ。…だけどフィシスはミュウの女神で、大切な存在」
前のぼくがサイオンを与えて、フィシスをミュウにしちゃったから…。
フィシスの青い地球が欲しくて、船の仲間をみんな騙して連れて来たから…。
青い地球の記憶を持っていた上に、未来まで読める凄いミュウだよ?
ミュウの女神になりもするでしょ、誰が見たって女神様なんだから。他のミュウとは違ってね。
前のぼくでなくても女神と呼ぶと思うんだけど、と瞬かせた瞳。
率先してそう呼ばせなくても、フィシスは「女神」だったから。白いシャングリラの仲間たちは皆、彼女を「女神」と呼んでいたから。
「そのフィシスだ。…フィシスの遺伝子データを継いでいたのがキースなんだし…」
自然出産の時代で言ったら、親子のような関係になるな。フィシスとキースは。
キースの野郎が、ミュウの女神の子供だということになったら…。
女神の子供は何になるんだ、と尋ねられたから、「神様でしょ?」と即答した。考えなくても、神様の子供ならば神様。女神の子供も、やはり神様。
「神話の中の女神の子供は神様だよ。…何処の神話でも同じじゃないの?」
人間の血が混じっていたって、半分は神様みたいなものでしょ。人間には無い力を持ってて。
そういう英雄の話も幾つもある筈だよね、と神話の時代に思いを馳せる。神と女神の間の子供は全て神だし、人間と女神の間に生まれた子供も、半分は神。
「うーむ…。女神の子は神だということか…」
キースがフィシスの遺伝子データを継いでいるなら、ミュウの女神の子だから神になるのか…。
あいつが神様に似ているという、お前の説。
それには反対したい所なんだが、ちと厄介かもしれないなあ…。
ミュウの女神だったフィシスが絡むとなると…、とハーレイは腕組みをした。
「そうなってくると、頭から否定も出来んか」と。
「…キースの野郎は大嫌いだしな、神様だなんて呼びたくもないが…」
疫病神で充分だろうと思うわけだが、フィシスがキースの母親という点を考えるとだ…。
本物の母親ではないんだがな、と難しい顔。「遺伝子上のデータに過ぎないんだが」とも。
「認めてくれるの? 女神の子だから神様だ、って」
ミュウにとっては疫病神でも、神様には違いなかった、って。…それで厄介だと言うの?
フィシスの子供ってことになると…、と傾げた首。
疫病神が生まれたのなら、確かに厄介そうではある。「ミュウの女神」と皆が崇めたフィシス。その女神の子が疫病神のキースで、ミュウに災厄をもたらしたなら。
「…そうじゃない。疫病神なキースの方じゃないんだ、フィシスの方が問題だ」
ミュウの女神で、キースの母親になるフィシス。そっちが大いに問題だってな、この話では。
キースは神様に似てるかどうかという話だ、とハーレイが言うものだから。
「フィシスって…。キースのお母さんって他にも、まだ何かあるの?」
遺伝子上のお母さんなだけで、キースを産んではいないけど…。でも、お母さんはお母さん。
今の時代なら、遺伝子データを継いでいるのは、お母さんのお腹から生まれた子供だものね。
「其処だ、其処。…キースの野郎が、お前が言ってる神様に似ているんだとすると…」
聖母まで揃っていたんだったな、と思ってな。
あんな野郎にはもったいない話になっちまうが、とハーレイがフウとついた溜息。「厄介な」とでも言うように。
「聖母って…?」
神様のお母さんのことだよね、聖母。…マリア様のこと。それもキースに揃ってたわけ…?
それって誰、と尋ねたけれども、答えは「フィシス」なのだろう。遺伝子上だけの話とはいえ、キースはフィシスの子になるから。…二人は親子と言えるのだから。
「もちろん、フィシスだ。…他には誰もいないだろうが」
キースの親だと言える人間、フィシスの他にはいない筈だぞ。あいつには親は無いからな。
フィシスにしたって、本当の親じゃないんだが…。
直接、細胞を採取したとか、そういうのとは違うから。遺伝子データを使っていただけで。
そのフィシスがだ…、とハーレイが指先でトンと叩いたテーブル。「聖母なんだ」と。
「考えようによっては立派に聖母で、誰も反論できなくなるぞ」
お前が言ってた、キースの生まれと神様の生まれが似ているという論法で行けば。…フィシスは聖母で、キースを産んだ。神の子になるキースをな。
復活も出来ない偽物の神様だったわけだが…、とハーレイが言うキースの母。聖母になるというフィシス。神の子を産んだ、聖母マリアのような立場に。
「えっと、それって…。フィシスがミュウの女神だから?」
女神の子供は神様になるんだし、キースも神様。…そういう考え方をするから、聖母になるの?
フィシスの遺伝子データを継いでる神様のキース、そのお母さんになるってことで…?
神様を産んだ女神だったから聖母なの、と整理してみた自分の考え。キースが神様に似ているのならば、フィシスは聖母になるのかと。
そうしたら…。
「神様の母親で、女神って所も確かにあるが…。それだけじゃないんだ、聖母となると」
聖母も普通の人間ではないという考え方がある。神様と同じで、特別な人間。
子供が出来なかった人間が神様に祈って出来た子供で、生まれる前から特別だった、と。
だから聖母は神様みたいに天に昇って行っちまった、と聞かされてみれば、そういう有名な絵があった。人間が地球しか知らなかった時代に描かれた名画。「聖母被昇天」というタイトルの。
死を迎えた時、大勢の天使に取り囲まれて天に昇ってゆく聖母。
(…天国に昇って行っちゃったんだし、お墓は無し…)
前の自分の知識の中に、微かに残っていた欠片。
ライブラリーにあった本で読んだか、ヒルマンにでも聞いたのか。聖母は身体ごと天に昇って、地上には何も残さなかった。聖母が産んだ子供のキリスト、彼がそうやって天に帰ったように。
聖母が天に昇ってゆく時、帯が地上に落ちたという。それだけが聖母が残したもの。
普通の人間が死んだ時には、亡骸が残るものなのに。跡形もなく燃えてしまったとか、そういう場合を除いては。
(身体ごと天国に行っちゃうだなんて、普通じゃないよね?)
ならばハーレイが言った通りに、聖母も特別な人間だったというのだろうか。聖母が産んだ子がそうだったように、神の世界から来た人間だと…?
前の自分の知識は其処まで。知らなかったのか、生まれ変わる時に記憶を落として来たか。
探ってみても分からないから、ハーレイに訊いてみることにした。聖母のことを。
「聖母も特別な人間だった、って…。そうだったの?」
天国に昇ってゆく聖母の絵は覚えているけれど…。「聖母被昇天」っていう名前の有名な絵を。
前のぼくたちが生きた時代は、もう本物の絵は無かったけれど…。データが残っていただけで。
身体ごと天国に行っちゃったことは思い出したけど、それ以上は無理。…覚えていないよ。
どういう風に特別なの、と尋ねた聖母マリアのこと。フィシスと重なるのかもしれない聖母。
「チビのお前には、少し難しくなるんだが…。前のお前の知識があるなら、大丈夫だろう」
聖母のことを「無原罪の御宿り」と呼んだ時代があった。今も教会に行けば使っているかもな。
原罪ってヤツは知っているだろ、人間なら誰でも背負っている罪。…生まれた時から。アダムとイブが神に背いて、エデンの園を追われた時の罪のことだな。
人間は誰でもアダムとイブの子孫になるから、その罪からは逃れられない。どう足掻いても。
しかし聖母は、その原罪を背負わずに生まれたという意味なんだ。「無原罪の御宿り」は。
生まれる前から選ばれた存在で、神様の母親に相応しい女性。だから原罪など持っていない、と言われてた。神の子を産むために生まれた女性だ、と。
幼い頃から神殿で育てられたくらいに…、とハーレイが教えてくれたこと。人間だったら、必ず背負っている原罪。それを持たないという聖母。
「…本当に? 聖母って、そこまで特別だったの?」
生まれた時から特別だったら、神様のお母さんになるのも不思議じゃないけれど…。死んだ後に身体ごと天国に行くのも、当たり前だっていう気がするけれど…。
凄く特別で人間離れしている感じ…。聖母そのものが神様みたい…。
産んだ子供も神様だけど、と驚かされた聖母の特別さ。神の母になるには相応しいけれど。
「どうなんだかなあ…。あまりにも聖母が特別すぎてだ、神様が掠んじまうから…」
教会の中でも考え方が分かれちまって、認める教会と認めない教会、どっちも存在したらしい。今の時代はどうなってるのか、俺も詳しくないんだが…。教会に通っちゃいないから。
しかし聖母の生まれのことで揉めた時代も、特別なんだと認める人たちは多かった。
原罪を背負わずに生まれて来たから、神様の母親で天国の女王様なんだ、と。
神様と同じに、お祈りすれば必ず助けてくれる人だと、聖母に縋った人たちが大勢いたってな。
聖母が無原罪の御宿りならば…、とハーレイが口にしたフィシスの名前。「似てるかもな」と。
「俺も神様に叱られそうだが、フィシスは原罪を背負っちゃいない。…其処が似ている」
原罪を背負うのはアダムとイブの子孫だけだし、そうでないなら最初から持っちゃいないんだ。
フィシスは無から生まれたんだろ、機械が作り出したんだから。
それまでに生まれた誰の子孫でもない、誰の血も引いていない人間。アダムもイブも関係ない。誰の子孫でもないと言うなら、原罪も持っていないだろうが。
違うのか、と問われたフィシスの生まれ。機械が無から作った生命。原罪を持っていない存在。
それがフィシスで、さながら聖母のようだった女性。
彼女の遺伝子データを継いで生まれたキースも同じで、やはり原罪を背負ってはいない。まるで神の子であるかのように。
「凄いじゃない! フィシスが聖母で、キースが聖母の子供だなんて…」
それに原罪も持ってはいなかったなんて、やっぱり神様みたいなものだよ。…キース、ホントに神様に似ているってば。
無から生まれて来て、原罪は無し。それだけでもうんと凄いことだよ、復活は無理でも。機械が作った人間ってだけで、他の所は普通の人間と変わらなくても…。
身体ごと天国には行けなくてもね、とキースと神様が似ていることに感激した。もしかしたら、機械は計算したかもしれないから。
アダムとイブの子孫ではない、原罪を持たない人間を作り出すということ。それを作れたなら、新たな時代の聖母や神が誕生する。人類の指導者に相応しい者が、命ある神が。
機械はそれを狙ったろうか、と勢い込んで問い掛けた。「神様を作る気だったのかな?」と。
「どうなんだか…。俺には其処まで分かりはしないし、そういうデータも無さそうだが…」
神を作ろうとしていたのならば、今の時代には解き明かされていそうだが…。機械の思惑。
それに機械が其処まで計算して作ったなら、キースの人生は別のになっていたんじゃないか?
疫病神じゃない人生に…、とハーレイが顎に手を当てる。「きっと、そうだな」と。
「えっ、どうして?」
キースの人生が変わってしまうって、どんな具合に?
機械が作った生命って所は同じなんだよ、神様を作るつもりでいようが、指導者を作るつもりで塩基対を合成していようが。…どっちにしても、出来上がるのは同じ人間なんだと思うけど…。
本物の神様は作れないでしょ、と考えなくても分かること。機械がどんなに努力しようと、何度実験を繰り返そうとも、本物の神は作れない。原罪を持たない者は作れても、神そのものは。
それこそ神の領域だから。…機械が神を作ることなど、本物の神は、けして許しはしないから。
「だってそうでしょ、神様は本当にいるんだもの。…ぼくに聖痕をくれた神様」
その神様が許さないから、キースを神様にするのは無理。…生まれなんかは似せられても。
どう頑張っても、あのキースしか作れはしないと思うんだけど…。
だから生き方もおんなじだよね、とキースの人生を思い浮かべる。ミュウを滅ぼそうとメギドを持ち出した、グランド・マザーに忠実なキース。その陰でマツカを生かしながらも。
ナスカの後にも大勢のミュウを殺し続けて、けれど最後にはグランド・マザーに反旗を翻した。それをしたなら、キースの命も無いというのに。…粛清されてしまうだろうに。
けれどキースは「未来」に賭けた。
時代遅れのマザー・システム、機械が人間を支配し続ける歪んだ時代を終わらせようと。人類とミュウが手を取り合ったならば、きっと時代を変えられると。
そうして時代は変わったのだし、どう生きたってキースはキース。
理想の指導者として作り出されようが、新たな時代の神として生を享けようが。
「それはどうだか…。神として作り出されていたなら、人生だって変わっていたと思うがな?」
神としての心構えってヤツも、機械は叩き込む筈だ。結果なんかは考えもせずに。
機械は心を持たないものだし、感情だって持ってはいない。ただ計算をしてゆくだけのことで、神を作れば人は従うと考えるのが関の山ってトコだな。
そうやって自分が作り出した「神」が、どう動くのかは考えないで。…機械の思惑通りに上手く動く人間、それが出来ると信じ込んで。
だが、作られた「神」の方では、そうはいかない。神として育てられた以上は、神らしく生きてゆこうとする。人間としての感情も心も、神としての自分に相応しく律し続けてな。
そういうキースを作り出したなら、ミュウを端から滅ぼす代わりに、助ける方へと動いたろう。
マツカだけを生かしておくんじゃなくてだ、ミュウと聞いたら漏れなく生かす方向へ。
そう生きてこその神様だろうが、機械が作った神様にしても。
自分を作った機械に何度脅されようとも、自分が正しいと信じる道を行くもんだ。「殺すぞ」と警告され続けようが、本当に消される瞬間までな。
命を落とすと分かっていても、そう生きるのが神様だ、とハーレイが語るキースの生き方。
機械が神として作っていたなら、ミュウを端から殺す代わりに、生かそうと努力を重ねる人生。その結果として、自分が粛清されようと。…自分を作った機械に命を奪われようと。
「そう思わないか? 神様と言えば救い主だぞ、前の俺たちが生きた時代の神様は」
他に神様などいなかったんだし、原罪を持たない神を作ろうとしたんだったら、出来上がるのは救い主でしかない。機械の思惑に従いもせずに、ミュウの命を救い続ける神様だな。
しかし、キースはそうじゃなかった。ナスカはメギドに焼かれちまったし、アルテメシアが陥落した後は、実験体だったミュウを皆殺しだ。兵器の開発に必要な分を除いてな。
あんなヤツの何処が神様で救い主なんだ、とハーレイは苦々しい顔だけれども、キースは最後にそのように生きた。まるで神の子であったかのように。
「そうだけど…。キースは酷いことをしたけど、でも、最後にはちゃんと世界を…」
ミュウも人類と同じ人間なんだ、っていうことを明かして、あるべき形に戻してくれたよ。
時代遅れのマザー・システムはもう要らない、ってメッセージを流して、ミュウのことだって、進化の必然だったんだ、って人類にちゃんと説明して。
キースがそれをやってくれてたから、SD体制を思った以上の速さで完全に倒せたんだよ?
グランド・マザーを倒しただけだと、マザー・ネットワークは破壊出来ないんだから。…宇宙に散らばる端末を壊さないと駄目。それをするには、人類とミュウが手を取り合わないと。
キースは神様のようだったよ、とハーレイの鳶色の瞳を見詰める。
自らの命が危うくなるのに、人類に向けて真実を全て語ったキース。自分の命を犠牲に捧げて、世界を救った「無から作られた」生命体。
さながら神の子のように。…十字架に架かって、人の子の罪をその血で贖った救い主のように。
「それは機械の計算外だ。想定していなかった出来事だったと思うがな…?」
最初からそういう人間として、キースを作ったわけじゃない。もしもそうなら、ミュウを端から殺し続けた極悪人など、存在しなかったことになるからな。
ナスカに来やがった、あの疫病神。
前のお前をなぶり殺しにしやがった上に、ナスカをメギドで焼き払った悪魔。
あんな野郎は神なんかじゃない、機械が神として作っていたなら、それらしいのが出来るから。
機械が「殺せ」と命令したって、ミュウを救おうと頑張り続ける人間がな。
キースは断じて「神」などではない、とハーレイは怒っているけれど。死の星だった地球が蘇るほどの時が流れても、まだ許そうとはしないのだけれど。
「…だったら、キースの頑張りじゃないの? SD体制を倒したことは」
神様みたいに生きてやろう、って決心して。…自分の生まれを知った後には、それらしく。
知識は沢山持ってた筈だし、自分が原罪を背負っていないことも分かるだろうから…。そういう風に生まれたんなら、神様らしく生きてゆくこと。
それが自分の役目なんだ、って気付いて頑張ったんじゃないかな…?
「おいおいおい…。そいつは時間がずいぶんズレてしまっているぞ?」
考え方としては悪くないがな、ヤツの人生をきちんと考えてみろ。E-1077を処分した後、何年、ミュウと戦っていやがったんだ。実験体まで処分させちまって、血も涙もない戦いを。
ジュピター上空での決戦までに何年あった、と問われればそう。
E-1077で自分の生まれを知った後にも、キースはミュウを殺し続けた。それまでの日々と全く同じに、容赦なく。マツカ以外は、一人の例外も作りはせずに。
けれどキースは人生の最後に、人類を、ミュウを、全て救った。マザー・システムという悪魔の手から。歪んだ力で長く世界を支配し続けた、忌まわしい機械の軛から。
「でも、キース…。神様らしく生きたような気がするんだけどな…」
それまでにやったことはともかく、SD体制を倒した時は。…ミュウは進化の必然なんだ、って人類に向かって呼び掛けた時は。
あんなことをしたら、グランド・マザーを怒らせてしまうだけなのに。…地下に降りた途端に、殺されたって不思議じゃないのに、キースはメッセージを託したんだよ。スウェナにね。
きっと分かっていたんじゃないかな、どう生きるべきか。死ぬと分かってても、自分のやるべきことをしなければ、って。
神様だってそうだったでしょ、と十字架に架かった神様の最期を思い出す。弟子の一人が裏切ることも、自分が十字架に架けられることも知っていた神。未来を見通す力で、自分の最期を。
けれども、神は逃げ出さなかった。苦痛に満ちた死を迎えると気付いていても。
「あいつに分かっていたとは思えんが? 神様のような生き方なんていう立派なものが」
お前があいつの肩を持ちたがるだけだ。どういうわけだか、お前はあいつを嫌わないから。
とんでもない目に遭ったというのに、いつも俺から庇い続けて。
俺があいつの悪口を言う度に庇うよな、とハーレイはフンと鼻を鳴らした。「あんなヤツ」と、それは忌々しそうに。
「キースの野郎が神の子だなんて、俺は絶対、認めんぞ」
神として作られた生命だというのも、認める気にはなれないな。あいつは地獄の使いだったし、最後の最後に悔い改めても、それまでの悪行を帳消しにしは出来ん。
もっとも、あいつが奇跡を起こして見せてくれれば別だがな。神様には奇跡がつきものだ。
神だと言うなら奇跡を頼む、という注文。キースに向けて。
「奇跡って?」
聖痕はもう貰っちゃったし、どんな奇跡を起こせって言うの?
海が割れるとか、天から食べ物が降って来るとか、水がワインに変わるだとか…。ほんの少しのパンと魚で、大勢の人がお腹一杯になるっていうのもあったっけ…。
どんなのがいいの、とハーレイに訊いた。神様の奇跡は山ほどあるから、どれをキースにやって見せろと言っているのか、と。
「なあに、簡単なことだってな。神様として俺の前に姿を現したならば、認めてやろう」
こいつは間違いなく神の子だな、と俺が納得できる姿で。場所は選ばんから、何処でもいいぞ。
今すぐでもいいし、俺が自分の家に帰ってからでもいいが…。
そうは言っても、似ても似つかん顔立ちだったし、無理そうだがな。俺に納得させるのは。
あいつの顔の何処が神様に似ているんだ、と辛辣な評価。「濃い色の髪だけじゃないか?」と。
「…神様に似てはいなかったよね…」
髭を生やしたら少しは似るかな、だけど目の色が違うから…。アイスブルーの瞳の神様、一度も絵では見たことが無いし…。神様の目の色、青じゃないよね…。
うーん、と考え込んでしまった神様の顔とキースの顔。
馬小屋生まれの神様の顔は、誰が描いても見事な髭面のものばかり。赤ん坊時代や、少年時代を描いた絵ならば髭は無いけれど。
(…キース、髭面じゃないだけでも不利…)
たとえ姿を見せた所で、ハーレイは納得しそうにない。「幽霊だな」とでも笑い飛ばして。
けして神だと認めはしなくて、知らん顔。髭面ではないというだけで。
フィシスの方なら、聖母のモデルになっても綺麗に収まりそうなのに。金髪を持った聖母でも。
なんとも不利だ、と思う、キースが「神の子」だった時。
本物の神の子とは違うけれども、機械が新たな「神」として作り上げた生命。原罪を背負わず、無から生まれた生命だから、そのように生きてゆけるだろうと。
キースはそれらしく生きた気がするのに、生憎と生やしていなかった髭。神様の絵には漏れなく描かれた、濃い色の髭。
「…キース、やっぱり神様とは違うのかな…」
聖痕をくれた神様は絶対にキースじゃないし、今日のお願いを聞いてくれたのだって…。
キースじゃない方の神様だよね、と分かってはいる。本物の「神の子」の方だ、と。
「お願いだって? お前がか?」
そしてそいつは叶ったのか、とハーレイが訊くから頷いた。「うん」と、笑顔で。
「学校から帰って、この部屋でお願いしたんだよ。ハーレイが来てくれますように、って」
「なるほど、叶ってはいるな。俺が今、此処に座っているということは」
その願い事をキースの野郎が叶えるとは、とても思えんが?
あいつは神様なんかじゃないしな、どう頑張っても願いを叶える力なんぞは無いだろう。死んで天国に行けたとしたって、下っ端の天使にも敵わんだろうさ。
所詮は人だ、とハーレイは冷たく切り捨てる。けして神などでは有り得ない、と。
「それは分かっているんだけれど…。神様だとしても、機械が作った神様だよね、って…」
前のぼくたちやキースが生きてた時代も、神様は別にいたんだものね。…キースの他に。
ぼくに聖痕をくれた神様がいたし、キースは本物の神様になれるわけなんかなくて…。
あれっ、でも…。
神様は一人で、一人しかいない筈なのに…。だけど、馬小屋で生まれた神様のお父さん、天国にいる神様で…。それに聖霊も入れて三人、そんなにいるなら、もっと神様、いるのかな…。
キースも神様の内に入れるのかな、と抱えた頭。機械が無から作ったものでも、神ならば。
「そのくらいにしておけ、罰当たりな話は。父と子と聖霊は三位一体だろうが」
余計なことまで考えていると、チビのお前は知恵熱を出すぞ。脳味噌がすっかり煮えちまって。
キースと神様をじっくり考えたばかりに、明日は学校、休みだとかな。
俺はそれでもかまわないが、とハーレイが浮かべた意地悪い笑み。
「キースの野郎の話に散々付き合わされたし、明日はのんびりしたいもんだ」と。
知恵熱を出して休んでおけ、とキース嫌いの恋人は冷たい。「俺も明日は真っ直ぐ帰宅だ」と。此処には寄らずに家に帰って、コーヒーでも淹れてゆっくりしよう、と。
「それは嫌だよ! お休みだなんて、嫌だからね!」
ハーレイもお見舞いに来てくれないなんて、酷すぎるから!
そんなの嫌だし、もう神様の話はしないから…。キースは神様に似てるって話…。
もうやらないよ、と神様の話は諦めたけれど。キースもフィシスも、神様ではないと、ちゃんと分かってはいるけれど…。
(だけど、ちょっぴり…)
何処か似ている。原罪を背負っていなかったことも、キースが最後に自分を犠牲にしたことも。
機械が「神を作ろう」と計算したなら、凄いのだけれど。神が出来たのなら、凄いけれども。
きっと機械は考えないから、ただの偶然。
神を作ろうと思うよりかは、自分が神になろうとするのが機械の思考だろうから。
そういう歪んだ機械の時代を、壊したのがキースだったから。
(だけど、機械の言いなりになるような神様、作ろうとして失敗したのなら…)
本物の神様のような人間が出来てしまったという結末だったら、面白い。
ミュウを端から殺したキースが、神の使命に目覚めたのなら。神らしい最期を迎えたのなら。
けれどハーレイには言わないでおこう、神様の話は、もうこれ以上。
せっかく訪ねて来てくれたのに、不機嫌な顔はさせたくないから。
神様がプレゼントしてくれた幸せな時間は、本物の神様に感謝しながら笑顔で使いたい。
ハーレイと二人、幸せに笑って過ごしていたなら、きっと神様も空の上で喜んでくれるから…。
神とキースと・了
※神様とキースは似ているかも、と考えたブルー。思った以上に、類似点が多そうです。
ハーレイは否定するのですけど、神様のような人間が出来てしまったのが、キースなのかも。
(あれ…?)
雨かな、とブルーが気付いた音。目覚めたベッドで。
ポツリ、ポツリと落ちる雨音。屋根や軒を打つ雨粒の音。それに地面に滴る音も。耳に届く音はそのようにしか聞こえない。どう聞いてみても雨の音。
(今日は土曜日…)
ハーレイが来る日だ、と気が付いた。学校は休みで、午前中からハーレイが家に来てくれる日。昨夜はそれを楽しみにベッドに入って、天気予報は見ていなかった。雨とも、晴れとも。
けれど雨音が聞こえるのならば、雨なのだろう。窓の向こうや天井の上で、こういう音を立てるものは他に無いのだから。
ベッドから出てカーテンを開けたら、やっぱり雨。しとしとと空から落ちてくる雨。
(ハーレイ、車だ…)
それが最初に思ったこと。こんな日は車で来るハーレイ。
天気のいい週末は、家から歩いて来るのが習慣。何ブロックも離れているのに、まるで散歩でもするかのように。実際、散歩なのだろう。回り道して歩いて来る日も多いから。
ハーレイにとっては「軽い運動」の散歩だけれども、雨の日は流石に歩いては来ない。本降りになってしまったりしたら、靴やズボンの裾が濡れるから。
だから雨なら車の出番。来るのを窓から見ようと思う。ハーレイの愛車が走って来るのを。
(平日は車なんだけど…)
仕事の帰りに来てくれる時は、いつでも車。ハーレイの通勤は車だから。
車は度々やって来るけれど、走って来る所は滅多に見ない。数えるほどしか目にしてはいない。いつもチャイムで「ハーレイが来た」と気付くわけだし、車はガレージに入った後。
(帰る時には暗くなっちゃってるし…)
もう見えはしない車の色。夜の闇が車を覆ってしまって、夜だけの色に変えるから。
おまけに家の表まで出掛けて、其処で見送り。遠ざかってゆくテールライトに懸命に手を振る。また来てね、と精一杯の思いをこめて。
帰ってゆく車を部屋の窓から見るのは、病気で寝込んでいる時だけ。
ハーレイに「寝てろ」と言われてしまうし、両親だって許してくれない。具合が悪いのに、外に出るなど。仕方ないから窓から見るだけ。去ってゆく車のテールライトを。
この窓からは殆ど見ていない、濃い緑色をした車。前のハーレイのマントとそっくり同じ色。
それが走って来るのを見られるチャンスが、朝から雨が降っている今日。ハーレイは車でやって来る筈で、それよりも前に窓の所で待っていたなら出会える車。姿を見せる所から。
(よーし…)
ハーレイの車を見なくっちゃ、と張り切って顔を洗いに出掛けた。それから着替えて朝御飯。
両親と一緒に食べる間も、「ご馳走様」と部屋に戻って掃除する間も、弾んだ気分。ハーレイの車を見るんだから、と。
掃除の仕上げは、窓辺のテーブルを綺麗に拭くこと。いつもハーレイと使うテーブル。二人分の椅子も位置を確かめ、大満足で済ませた掃除。「これでおしまい」と。
それから座った椅子の片方。ハーレイが座る椅子とは違って、自分用だと決めている椅子。
其処に座れば窓の向こうがよく見えるのだし、車を待つにはお誂え向き。まだ少し早いと思いはしても、此処で車を待ちたい気分。
(ハーレイの車、もうじき走って来るんだから…)
今日はしっかり見なくっちゃ、と雨に濡れた庭の向こうを眺める。生垣を隔てた所に道路。
ハーレイの車は、学校にある駐車場でも見るけれど。乗せて貰ったこともあるけれど、こうして車を待っている間も高鳴る胸。前のハーレイのマントの色の車なんだよ、と思っただけで。
空は雨雲に覆われているし、雨だって降っているけれど。太陽の光は射さないけれども、夜とは違って明るい今。車の色はよく見える筈。ハーレイも好きな車の色が。
(不思議だよね…)
今のハーレイが車を買う時、あの色の車を選んだこと。「この色がいい」と。
記憶は戻っていなかったのに。前のハーレイの記憶など無くて、今のハーレイだったのに。車を買いに出掛けた時にも、どの色にしようかと考えた時も。
(白もいいけど、乗りたくなかったって…)
前にハーレイはそう言っていた。白い車も勧められたし、「気に入った」とも思ったらしい。
けれど「欲しい」という気がしなくて、選んだ車は濃い緑色。「自分らしい」と考えて。
若いハーレイには渋すぎる色で、友人たちにも驚かれたのだという車。もっと鮮やかな色の方がいいと、「黄色なんかも似合いそうだぞ?」と。
白ならば、誰も「渋い」とは言わなかっただろうに。「白が好みか」と思うだけで。
どうしたわけだか、白い車を避けたハーレイ。気が乗らなくて、欲しい気分になれなくて。
「きっと、シャングリラの色だったからなんだろうな」とハーレイは前に話していた。
遠く遥かな時の彼方で、前のハーレイと暮らした船。白いシャングリラで長く共に生きて、死という別れに引き裂かれた。前の自分がメギドに向かって飛び去った時に。
(ハーレイ、独りぼっちになっちゃって…)
それでも地球へと進むしかなくて、白いシャングリラを運んで行った。キャプテンとして、舵を握って。恋人はもういなくなった船、二度と戻って来はしない船を。
その悲しみをハーレイは覚えていたのだろう。記憶が戻って来なくても。心の何処か深い所で。
代わりに選んだ、キャプテンのマントと同じ色の車。「これが自分に似合いの色だ」と。
(ホントに不思議なんだけど…)
生まれ変わって来たほどなのだし、そういったこともあるのだろう。記憶が無くても、心に深く刻まれたもの。「白は悲しい色だから」と白い車を避けたくらいに。
けれどハーレイは「次の車は白がいいよな」と言っていた。まだ何年も先だけれども、次の車を買う時が来たら、白にしようと。
その頃には車の助手席に座っているのが自分。前の自分と同じに育って、ハーレイの隣に。
いつか二人でドライブに出掛けるようになったら、白い車に乗ることになる。最初の間は、今の車に乗るけれど。ハーレイが大切にしている車は、まだ何年も頼もしく走ってくれそうだから。
大切に乗って走った車にお別れしたなら、ハーレイの車はシャングリラの色になるけれど…。
(今の車も、ぼくたちのシャングリラになってくれるんだよ)
濃い緑色の車でも。白いシャングリラとは違う色でも。
ハーレイと二人で出掛けるのならば、それが自分たちのシャングリラ。宇宙船ではなくて、何の変哲もない車だけれど。同じ形の車だったら、きっと山ほどあるだろうけれど。
(それでも、あれはシャングリラになる車なんだから…)
白くなくても、鯨の形をしていなくても。
ハーレイと二人で乗ってゆくなら、それが自分たちのシャングリラ。
仲間たちは抜きで、二人きりで。ソルジャーもキャプテンも要らない車で、ハーレイと走る。
舵の代わりにハンドルを握ったハーレイと。キャプテンの制服ではないハーレイと。
その日の気分で、行きたい場所へと走らせる車。地球を目指しての旅ではなくて。
素敵だよね、と夢見るハーレイと出掛けるドライブ。いつか助手席に乗れる日が来たら。
(早く来ないかな…)
ドライブに行ける日も来て欲しいけれど、今日の所は、ハーレイが乗った未来のシャングリラ。濃い緑色の車が見たくて、庭の向こうを眺めて待つ。「まだ来ないかな?」と雨を見ながら。
空から雨が降って来るから、今日は車で来るハーレイ。「軽い運動だ」と歩く代わりに。足元が濡れてしまわないよう、いつも学校に乗ってゆく車で。
(今はハーレイが一人で乗ってて…)
一人で運転している車。助手席には誰も乗っていないし、後部座席の方も空っぽ。乗せる人などいないから。この家に来るのはハーレイ一人だけだから。
ハーレイだけが乗った車、と考えてみると、まるで独りぼっちだった頃のハーレイのよう。前の自分を失くしてしまって、独りきりになってしまったハーレイ。白いシャングリラで。
仲間たちが大勢乗っていたって、ハーレイの心には絶望と孤独。
恋人はいなくて、追ってゆくことも出来ないまま。それでも行かねばならなかった地球。それが恋人の望みだったから。「ジョミーを支えてやってくれ」と頼まれたから。
心は独りぼっちのままで、遠い地球まで行ったハーレイ。白いシャングリラに一人きりで。
今のハーレイも、今日は一人で車を運転して来るけれど…。
(此処に着いたら、ぼくがいるしね?)
前のハーレイが失くした恋人、ソルジャー・ブルーの生まれ変わりの自分。チビだけれども。
十四歳にしかならない子供で、ハーレイはキスさえしてくれないチビ。
けれど恋人には違いないのだし、その恋人の家を目指して走らせる車。ハンドルを握って、前を見詰めて。だからハーレイは独りぼっちで車の中に乗っていたって…。
(寂しくなんかないんだよ)
今は一人でも、道路を走れば恋人の家に着くのだから。
まだドライブには一緒に行けないチビの恋人でも、前のハーレイが愛した人の生まれ変わり。
(チビでも、ちゃんと恋人だから…)
恋人に会いに走ってゆくなら、寂しいと思う筈がない。「一緒だったらいいのにな」と、夢見ることはあったとしても。
「まだ当分は一人だよな」と、「あいつとドライブはまだ出来ないな」と思いはしても。
いつか助手席に乗るだろう恋人、その日を心に思い描いて走らせる車。運転席に一人きりでも。
(そういう旅なら楽しいよね?)
前のハーレイが歩んだ地球までの道と違って。辛くて長い旅路ではなくて、きっと心が弾む旅。ほんの短い距離にしたって、同じ町の中を此処まで走るだけにしたって。
(それにハーレイが乗ってる車は、未来のシャングリラなんだから…)
二人で乗る日を、ハーレイも待っているだろう。早くその日が来ないものかと、自分と同じに。
口では何と言っていたって、心の中では。
何かと言ったら「チビのくせに」と、「今のお前はまだ子供だ」などと叱っていても。
そのハーレイも、待っているのに違いない。チビの自分が前の自分と同じに育って、隣に座ってくれる日を。助手席に乗せて、一緒にドライブに行ける日を。
前のハーレイのマントの色をしている車。濃い緑色のシャングリラで。
(シャングリラと車じゃ、運転のやり方、全然違っているけれど…)
車は空を飛びはしないし、もちろん宇宙も飛んでゆけない。地面の上を走るだけ。それも道路がある所だけを。…ハーレイの車は普通の車で、道路の無い場所を走れはしないから。
運転するにも、ハンドルと舵輪は全く違う。同じように円を描いてはいても。
「面舵いっぱーい!」と回す舵輪と、ハンドルを右に切るのとは違う。右の方へと向かう所は、どちらも同じなのだけど。
白いシャングリラと車はまるで違うけれども、いつかシャングリラになる予定の車。ハーレイと自分と、二人きりで乗るシャングリラ。
それを走らせて来るのだったら、鼻歌交じりのドライブだろうか。ハーレイの家から此処までの道は。何ブロックも離れたハーレイの家。其処のガレージを出た後には。
(そうなのかも…)
鼻歌交じりでハンドルを握っているハーレイ。「もうすぐブルーに会えるんだしな?」と。
恋人の家に向かっているなら、鼻歌だって飛び出しそう。心が浮き立つドライブなのだし、今のハーレイの気に入りのメロディ。
記憶が戻って来る前だったら、一人でドライブを楽しみながら、きっと鼻歌。それは御機嫌で。
歌も歌ったかもしれない。
その頃だったら、気ままにドライブしていたのだから。「今日は行くぞ」と車に乗って。
ハーレイが車を運転しながら歌う鼻歌。気分がいい日は、ハンドルを右へ左へと切って。
今日も歌っているかもしれない。此処への道を走る車で、「ブルーに会える」と楽しそうに。
(ぼくと一緒に乗っていく時も…)
二人きりのシャングリラになった車でドライブの時も、鼻歌が飛び出すかもしれない。助手席に座って、耳を澄ませていたならば。
(お喋りしてたら、鼻歌どころじゃないけれど…)
綺麗な景色に見惚れてしまって会話が無いとか、助手席の自分がウトウト眠りかけているとか。そういう時なら、ハーレイの鼻歌が聞こえて来そう。楽しげな歌が運転席から。
それも素敵、と思ったけれど。聴いてみたいと考えたけれど…。
(シャングリラ…)
本物だった方のシャングリラ。巨大な白い鯨のようにも見えた船。人類軍も、あの白い船に名を付けた。「モビー・ディック」と、遠い昔の小説に出てくる白鯨の名を。
誰が見たって鯨に見えた白い船。ミュウの母船だと知らない人類は、「宇宙鯨」と呼んでいた。暗い宇宙を彷徨う鯨で、異星人が乗っているのだとも。
そのシャングリラの舵を握っていたハーレイ。主任操舵士のシドがいたって、ハーレイが自分で舵を握る日も多かった。誰よりも船に詳しかったし、癖も掴んでいたのだから。
そうやって舵を握っている時、ハーレイはいつも真剣だった。ただ真っ直ぐに前を見据えて。
シャングリラの舵輪を動かす時には、鼻歌交じりなどではなかった。どんな時でも。
(人類の船なんか、何処にもいなくて…)
安全なのだと分かっていたって、生真面目な顔をしていたハーレイ。鼻歌などは歌いもせずに。舵輪をしっかり握り締めて立って、背筋をしゃんと伸ばした姿で。
(同じシャングリラでも、船と車じゃ違うよね…)
形も違えば機能も違うし、動かし方もまるで違っている。シャングリラと名前を付けたって。
ハーレイと自分の二人が乗るから、車を「シャングリラ」と呼んだって。
何もかもが違う、船と車のシャングリラ。巨大な白い鯨の姿か、濃い緑色をしている車か。
二つのシャングリラを比べてみたなら、きっと車の方が楽しい。
ハーレイが一人で乗っていたって、鼻歌が飛び出す素敵な車。一人きりでのドライブでも。
白い鯨の方だったならば、鼻歌なんかは一度も出番が無かったのだから。
車の方が楽しい筈だよね、と考えていたら、窓から見えた緑の車。ハーレイの愛車。
それを見間違えるわけがないから、「あれだ!」と胸の鼓動が高鳴る。待っていた甲斐があった車で、あれにハーレイが乗っている。此処からはよく見えないけれど。
(運転席には、ハーレイが乗ってて…)
あそこに見える影がハーレイ、と思う間に車は家の表で止まって、ガレージの方へ。空から雨が降る中を。降りしきる雨に濡れながらも。
ガレージに車をきちんと停めたら、ハーレイがバタンと開けたドア。運転席の側を。
(降りるハーレイも楽しそう…)
パッと広げた紳士用の雨傘。それを差したら、大股で歩いて門扉の所へ。足取りも軽く。
門扉の横にあるチャイムを鳴らすと、部屋でも聞こえたいつもの音。ハーレイはこの部屋の窓を見上げて、こちらに向かって手を振ってくれた。傘を持ってはいない方の手で。
応えて大きく振り返した手。「ぼくは此処だよ」と、「待っていたよ」と。
(ぼくが待ってたから、一人でも平気…)
車の中でも、ハーレイの家から此処までの道も。
記憶が戻る前のハーレイも、車を楽しんでいた筈だよね、と思うから。鼻歌交じりにハンドルを切って、きっと走っていただろうから、訊いてみた。ハーレイと部屋で向かい合うなり。
「ねえ、ハーレイ。車は楽しい?」
今日は車で此処に来たでしょ、ハーレイは車を楽しいと思う…?
「はあ? 車って…」
楽しいと思うか、と言われてもだな…。
それはいったいどういう意味だ、と問い返された。「楽しいと言っても色々あるが」と。
「えっとね…。車、ぼくは運転できないけれども、楽しいの?」
車を走らせるっていうこと。今日みたいに此処まで走って来るとか、ドライブだとか…。
楽しそうだよね、っていう気がしたから、ハーレイに訊いてみたんだけれど…。
「そりゃまあ…なあ?」
楽しくないわけがないだろう。でなきゃ車に乗っていないぞ、路線バスとか俺の足さえあったら何も困りはしないしな。…ちょっとした距離なら歩けばいいし、遠い場所なら他の乗り物。
自分の車を持ってなくても、何処かへ行くには方法が幾つもあるんだから。
車を持っていない人も多いだろうが、と言われてみればその通り。乗りたいという気持ちが全く無い人だったら、自分の車を持ってはいない。公共の交通機関だけで充分、と。
「そっか…。ハーレイの仕事は、車が無ければ困る仕事じゃないんだし…」
乗ってるってことは好きだからだよね、車に乗るのが。好きで乗ってるなら、楽しくて当然。
その車だけど、シャングリラと、どっちが楽しいと思う?
シャングリラも車も、ハーレイは動かせるんだけど、と問い掛けた。どちらの方が楽しいかと。
「そいつは今の俺の場合か?」
俺が考えたらどっちになるのか、それをお前は知りたいのか…?
そうなのか、と瞳を覗き込まれた。鳶色の瞳で、「今の俺が楽しいと思う方なのか?」と。
「うん。どっちなのかと思ったから…」
シャングリラはとても大きな宇宙船だし、車はうんと小さいけれど…。
運転のやり方も違うけれども、ハーレイはどっちの方が好きなの、楽しいのはどっち…?
「今の俺なら、断然、車って所だが…」
実に気楽に運転できるし、責任だって背負っちゃいないから。…交通ルールを守ることだけで。
後は誰かを乗せてる時だな、安全運転で行きたいじゃないか。余所見なんかはしてないで。
もっとも、ちょっと景色を見るのは御愛嬌といったトコだがな。
あれは余所見とは言わんだろう、と茶目っ気たっぷりの返事が返った。運転中に車の外の景色をチラリと見るのはいいらしい。運転とはまるで関係なくても、首を横へと向けていても。
「やっぱり車の方なんだ…!」
そうじゃないかと思っていたけど、ホントに車。今日のハーレイも楽しそうだったから…。
車が来るのを待ってたんだよ、此処の窓から下を見ながら。雨の日はハーレイ、車だものね。
ガレージに停めて、傘を広げて降りる時にも楽しそうに見えたよ、ホントだよ?
きっと車が好きなんだよね、と思ったんだけど…。それで当たっていたんだけれど…。
だけど、前のハーレイだったら違うの?
前のハーレイのつもりで答えるんなら、別の答えになっちゃうの…?
「そうなっちまうな。なにしろ前の俺の場合は、だ…」
シャングリラだけしか知らなかったからな、車は運転しちゃいない。
人類との戦いが始まった後も、運転できる機会は無かった。乗る機会は幾つもあったんだがな。
あの船だけしか知らなかったが…、とハーレイは穏やかな笑みを浮かべた。「楽しかった」と。
「俺にとっては、あのシャングリラは最高の船で相棒だったな」
あれしか知らない船とは言っても、本当に好きな船だった。今の俺にとっての車と同じで。
責任ってヤツは重かったがな、と言われなくても分かること。今のハーレイの車だったら、交通ルールを守って走るだけでいい。危険が溢れる宇宙を飛んではいないから。
それに車に乗れる人数、そちらの方も限られてくる。車には詳しくないのだけれども、あの車に乗れるのは六人くらいだろうか。それとも五人といった所か。
白いシャングリラには、二千人ものミュウの仲間が乗っていたのに。
前のハーレイはキャプテンなのだし、皆の命に責任があった。二千人いれば、二千人分の。
それだけの重い責任があっても、ハーレイはシャングリラが好きだったと言う。あの白い船が。ミュウの仲間たちを乗せた箱舟、皆の世界の全てだった船が。
「でも、ハーレイ…。責任とかはいいにしたって、前のハーレイには普通のことにしたって…」
最後は独りぼっちになった船だよ、前のぼくがいなくなってしまって。
ハーレイが一番守りたかった人は消えてしまって、それでも仲間たちの命を守るしかなくて…。
独りぼっちで地球までの旅をするしかなくって、とっても寂しかった船。
そのせいで、今も白い車じゃないんでしょ?
前に聞いたよ、車を買いに出掛けた時の話をね。白い車もいいと思ったけど、それは買わないで今の車になったんだ、って…。
前のハーレイの記憶が何処かにあったせいでしょ、と口にした。白いシャングリラが悲しい船になっていたから、白い車を選ぶ気になれなかったんだよね、と。
「それは確かにあったんだが…。今の俺まで引きずるくらいに、寂しくて辛い思いはしたが…」
だが、シャングリラに罪は無い。あの船には何の罪も無いんだ、ミュウの箱舟なんだから。
それにお前が守った船だ。
最後は命を捨てちまってまで、前のお前は船を守った。メギドを沈めて、あのシャングリラを。
そうなる前にも、お前は船を守り続けていただろう?
人類軍との戦いは無くても、船中に思念の糸を張り巡らせてて、何かあったら動けるように。
そんなお前に託された船でもあったわけだし、あれはあれで大事だったんだ。
寂しかったのは間違いないから、楽しかったとは言わんがな。
前のお前がいなくなった後は、寂しくて悲しい船だった、とハーレイが語るシャングリラ。
生まれ変わった後に選んだ車も白ではないほど、前のハーレイの心に深い悲しみと痛みを残した船。白い車が気に入っていても、「乗りたくない」と別の色の車を選んだほどに。
そんな悲しい思いをしたのに、「好きな船だった」とハーレイが言うものだから…。
「…あの船が楽しかった時代もあるの?」
悲しい思い出ばかりの船でも、ハーレイは大事だと言ったけど…。楽しかった時は無かったの?
白い車が欲しくなるような、うんと素敵な思い出とかは…?
今のハーレイの車は白じゃないしね、と悲しい気持ちに包まれる。前の自分がいなくなった後、独りぼっちで生きたハーレイ。好きな船の色さえ選べなくなるほど、辛い日々だったようだから。
「お前なあ…。何を寝言を言っているんだ、まだ半分ほど寝てるのか?」
昨夜は遅くまで夜更かししたとか、寝付けなくって睡眠時間が足りないだとか。
分かっていないな、お前ってヤツは。前のお前と沢山の夢を見ていただろうが、あの船で。
お前の寿命が尽きてしまうと分かる前には、山ほどの夢を持ってたろうが。…俺も、お前も。
地球に着いたら船を離れて、二人きりで暮らしてゆこうとか…。
ヒマラヤまで青いケシを見に行くとか、森に咲くスズランの花を探しに行こうとか。前のお前の夢の朝飯、そいつも食べに行くんだっけな。本物のメープルシロップをたっぷりとかけて、地球の草で育った牛のミルクのバターを乗っけたホットケーキを。
ああいった夢を見ていた頃には、俺だってうんと楽しかったぞ。未来への夢が一杯だ。
お前の夢を叶えるためには、まずは地球まで行かないと…。俺がシャングリラを動かしてな。
俺たちを夢の星まで連れてってくれる、頼もしい相棒があの船だったわけだから…。
楽しくなかった筈がないだろう、とハーレイが挙げた「楽しかった時代」。シャングリラでの。
それは確かに存在していた。前の自分の未来が無限に思えた頃には。
「…そうだけど…。楽しかった時代も、沢山あったみたいだけれど…」
だけどハーレイ、鼻歌なんかは一度も歌っていなかったよ…?
「鼻歌だって?」
いったい何処から鼻歌ってヤツの話になるんだ、ますますもって謎なんだが…。
今日のお前は車の話を持ち出すかと思えば、今度は鼻歌。
シャングリラと鼻歌、どういう具合に結び付くのか、俺に説明して欲しいんだが…?
その言い方ではサッパリ分からん、とハーレイは怪訝そうな顔。「何故、鼻歌だ?」と。
「ごめん…。ぼくの頭の中では、話がとっくに出来上がっていて…」
通じているような気になってたけど、鼻歌の話はしていなかったよ。車の話をしていただけで。
鼻歌と車はセットなんだよ、今のハーレイが車が好きなら、鼻歌も歌っていそうだから…。
楽しく運転している時には、ハンドルを握りながら鼻歌。楽しいとそういう気分になるでしょ?
でも、シャングリラでは、鼻歌、歌っていなかったから…。
楽しかったって言ってた頃にしたって、ハーレイ、歌っていなかったじゃない。
前のぼくは一度も聞いていないよ、と思い浮かべたブリッジの光景。シャングリラの舵を握っていたハーレイは、鼻歌を歌いはしなかった。いつも背筋をしゃんと伸ばして立っていただけで。
「おいおいおい…。車を運転するならともかく、シャングリラの方で鼻歌だってか?」
あのシャングリラの舵を握って、俺が鼻歌を歌うのか?
お前、よくよく考えてみたか、前の俺の立場というヤツを。シャングリラでの俺は、キャプテンなんだぞ。車の運転手じゃなくて。…主任操舵士よりも上の立場で、俺よりも上はいなかった。
前のお前は俺よりも上のソルジャーだったが、船の航行には無関係だし…。
つまりは俺がトップの立場だ、シャングリラって船に関しては。キャプテンであった以上はな。
そのキャプテンがだ、鼻歌なんかを歌ってられると思うのか?
どんなに気分がいいにしたって…、と呆れたような口調のハーレイ。「鼻歌だぞ?」と。
「…そうかもね…」
ブリッジ以外の所だったら、鼻歌でもいいんだろうけれど…。歌ってることもあったけど…。
そうじゃない時は、鼻歌だったらマズイかも…。シャングリラの舵を握っている時なんかは。
楽しい気分になっていたって、キャプテンが鼻歌を歌っていたなら、エラが怒っていたかもね。もっと真面目にやって下さい、って凄い勢いで。
見た目に真面目とは言えないし…、と思った鼻歌。今のハーレイなら自分の車の運転なのだし、交通ルールを守りさえすれば、何をするのもハーレイの自由。鼻歌交じりの運転だって。
けれども、前のハーレイは違う。白いシャングリラを預かるキャプテン、船の仲間を纏め上げる立場。皆の模範になるべき存在、ブリッジで仕事をしている時は。
鼻歌交じりのキャプテン・ハーレイなど、それは如何にも不真面目な感じ。
白いシャングリラはミュウの箱舟で、SD体制の枠からはみ出た海賊船ではないのだから。
確かに駄目だ、と分かった事情。前のハーレイが鼻歌を歌っていなかった理由。
「…キャプテンが鼻歌を歌いながら操舵してたら、海賊船みたいになっちゃうものね…」
楽しそうだけど、見た目に不真面目。どんなにきちんと操舵してても、それが台無し。遊んでるように見えちゃうから…。シャングリラっていう船を動かす遊び。
きっとホントにエラが怒るよ、と肩を竦めた。「キャプテン!」と叱る声が耳に届いたようで。
「海賊船なあ…。前の俺たちが生きてた時代も、海賊ってヤツはいたんだが…」
マザー・システムなんぞに従えるか、と宇宙で好きに生きてた連中。略奪なんかもやらかして。
略奪だったら白い鯨になる前の船じゃお馴染みだったし、マザー・システムには従えない、ってトコも同じだな、前の俺たちと海賊とは。
そういう意味ではシャングリラも似たような立場だったが、こっちは未来がかかってたしな?
ミュウの未来を手に入れなければ駄目な俺たちと、その場限りで面白おかしく生きれば良かった海賊とは違う。同じようにはみ出し者の船でも、シャングリラは海賊船にはなれん。
そのシャングリラで旅をしていた以上は、鼻歌交じりの気楽な旅とはいかないさ。今の俺なら、鼻歌交じりにドライブするのも自由だがな。
キャプテンの俺だとそうはいかない、と苦笑しているハーレイ。キャプテンが不真面目でもいい船だったら、そいつはただの海賊船だ、と。
「そうだよね…。ハーレイが真面目にやっていたって、鼻歌を聞かれちゃ駄目だから…」
歌えないよね、あのシャングリラのブリッジだと。楽しい気持ちで船で暮らした頃だって。
…ぼくとハーレイ、二人きりなら鼻歌だって歌ってくれた?
他に仲間は乗っていなくて、二人きりで地球を目指してたなら。…あのシャングリラで。
「もちろんだ。鼻歌だって飛び出すだろうな、お前と二人きりの船なら」
それに地球まで行くんだったら、毎日が鼻歌気分だろう。もう楽しくて仕方がなくて。
船が先へと進んだ分だけ、俺たちは地球に近付くんだから…。今日は昨日よりも地球が近くて、明日になったらもっと近付く。船が進めば進むほどにな。
きっと気分が良かっただろう、とハーレイも頷く夢の船旅。白いシャングリラに乗っているのは二人だけ。前のハーレイと自分の二人で、目指してゆく先は青く輝く地球。そういう旅路。
どんなに心が躍っただろうか、鼻歌交じりの一日が過ぎてゆく度に。
白いシャングリラが飛んだ分だけ、青い地球が近くなるのだから。夢の星まで、一日分ずつ。
そうは思っても、所詮は夢。白いシャングリラを二人きりで作れるわけがない。あんなに巨大な白い鯨を、人類軍の船より優れた機能を幾つも搭載していた船を。
その上、青い地球も無かった。二人きりで地球に辿り着いても、夢が無残に砕け散るだけ。青い水の星は何処にも存在しなくて、死の星があっただけなのだから。
「…ハーレイと二人きりの旅なら、本当に素敵だっただろうけど…。幸せだったと思うけど…」
だけど夢だね、ぼくとハーレイだけの力じゃ、白いシャングリラは作れないから。
それに地球まで辿り着けても、青い星は何処にも無かったから…。
前のぼくたちの本当の旅は、他の仲間が大勢一緒で、ハーレイの仕事も沢山あって…。
キャプテンの責任はうんと重くて、鼻歌だって歌えやしない旅。どんなに気分がいい時だって、シャングリラの舵を握っているなら、鼻歌は無理…。
「そういうことだ。今の俺のようにはいかなかったな、前の俺だと」
好きな船でも、俺の持ち物ではなかったから…。俺はあの船を預かっていただけのことだから。
持ち主は船に乗ってた仲間で、みんなの物だった船がシャングリラだ。俺の車とは違うってな。今の俺なら、俺の車を好きなようにしていいんだが…。何処へ行くにも、どう使うのも。
真面目だろうが、不真面目だろうが…、とハーレイが笑っている通り。今のハーレイが走らせる車は、ハーレイが持っている車。白い車を選ぶ代わりに、濃い緑色の車を買って。
「ハーレイ、今の車だと鼻歌、歌っているの?」
今の車なら、怒る人は誰もいないしね…。エラが文句を言うことも無いし、ハーレイは自由。
楽しい時には歌ったりもするの、前のハーレイがブリッジで歌えなかった鼻歌を…?
「歌ってる時もあったりするな。それこそ俺の知らない内に」
前の俺なら意識して気分を引き締めていたが、今の俺だと、その必要は無いわけだから…。
誰にも文句を言われやしないし、何よりも俺のための車だ。他の誰かの持ち物じゃなくて。
そいつを楽しく運転してれば、ついつい歌が飛び出したりもするもんだ。鼻歌はもちろん、声に出してる時だってある。いわゆる本物の歌ってヤツを。
歌詞がついてる歌のことだな、とハーレイは笑顔。「お前だって歌う日、あるだろう?」と。
車を運転する時に限らず、気分が良ければ歌いたい気分になるものが歌。鼻歌も、色々な歌詞がついた本物の歌だって。
言われてみれば、今朝も歌ったかもしれない。部屋の掃除をしていた間に、御機嫌になって。
歌ったかもね、と思う歌。「ハーレイの車が見られるよ」と心が弾んでいたのだから。雨の日は車で来てくれるのだし、部屋の窓からそれを見ようと。
「歌…。今朝のぼくも何か歌っていたかも…。いい気分で掃除をしていたから」
ハーレイの方は今日はどうなの、車の中で歌ってた…?
今の車なら歌うんでしょ、と興味津々。そういうハーレイを思い浮かべて、車が来るのを待っていた自分。きっと鼻歌交じりだろうと、今のハーレイが運転している車の到着を。
「歌いながらは来ていないんだが…。もしかしたら鼻歌、出ていたかもな」
もうすぐお前に会えるんだから、と上機嫌で運転していたんだし…。自分でも気付かない内に。
前の俺ならエラに叱られる所だが…、とハーレイが軽く広げた両手。「不真面目だしな?」と。白いシャングリラでは鼻歌は無理だと、今なら歌い放題だが、と。
「それ、聞きたいな…。ハーレイが御機嫌で歌う鼻歌」
前のハーレイは操舵の時には歌っていないし、どんな感じか知りたいんだけど…。運転しながら歌う鼻歌。いい気分の時に飛び出すヤツを。
だけど、此処だと無理だよね…。ぼくのリクエストで鼻歌を歌って貰うのは。
「歌う気は無い、と言いはしないが、お前が聞きたいヤツとは別のになるだろう。俺の鼻歌」
お前の頼みで歌うとなったら、余所行きの歌になっちまうから。
同じ鼻歌でも、めかしこんだ歌って所だな。お前にいい所を見せないと、と構えちまうだろ?
そんな鼻歌しか歌ってやれん、と遠回しに断られてしまった鼻歌。「此処じゃ駄目だ」と。
「うーん…。余所行きの鼻歌になっちゃうわけ?」
車の中で歌っていたなら、普段着の鼻歌なんだろうけど…。此処で歌ったら余所行きの鼻歌。
ぼくがいたって駄目だって言うの、ハーレイの機嫌はいい筈だよね?
ぼくに会うために車を運転してたら、いい気分になって鼻歌なんだし…。いい気分になる理由は恋人のぼくでしょ、ぼくがいるだけじゃ鼻歌は無理…?
この顔で御機嫌になれないの、と指差してみた自分の顔。「前のぼくよりチビだけどね」と。
さっきハーレイと語った夢の船旅、前の自分と二人きりで地球を目指す旅。そういう旅に二人で出たなら、前のハーレイも鼻歌を歌ったらしいから。白いシャングリラの舵を握って。
だから自分の顔さえあれば、と少しばかり年が足りない顔を示してみせた。今のハーレイでも、この顔が好きな筈だから。きっと御機嫌になれる顔だと思ったから。
この顔のぼくに聞かせて欲しいんだけど、と強請った鼻歌。今のハーレイが車で歌う鼻歌。
御機嫌になれば飛び出す歌なら、恋人がいれば出てくるだろうと考えたのに…。
「さっきも言った筈だがな? 此処で歌えば余所行きの鼻歌になっちまう、と」
俺にわざわざ頼まなくても、いつか聞ける日、来る筈だぞ。俺とドライブに行くんだろう…?
本物のシャングリラは無くなっちまったが、今度は俺たちのシャングリラで。…俺の車で。
俺たちだけのためのシャングリラだぞ、と念を押された。「他のヤツらの物じゃないんだ」と。二人だけのためにある車なのだし、誰にも遠慮は要らないから、と。…運転中の鼻歌だって。
「それまでは無理?」
頼んでも歌ってくれないって言うの、今のハーレイの御機嫌な鼻歌…。普段着の方の。
余所行きになってる鼻歌じゃなくて、いつもハーレイが歌っているヤツ…。
聞きたいんだけどな、と上目遣いに見上げたけれども、「欲張るなよ?」と返された。御機嫌な鼻歌を歌う代わりに、「フン」と鼻まで鳴らされて。
「チビのお前も確かに好きだが、こうして会ってしまうとなあ…。チビの姿が引き立っちまう」
会う前だったら、「俺のブルーに会いに行くんだ」と胸がワクワクしてるんだがな。今のお前はチビだってことが分かっていたって、ついつい前のお前みたいに思ったりもして。
だからだ、今のお前の顔だと、そう御機嫌にはなれないかもなあ、チビだから。…諦めておけ。
その代わり、チビのお前がいつか大きくなったなら…。前のお前と同じ姿に育ったら。
今日みたいに雨が降っていたって、お前と一緒に出掛けられるぞ。俺の車があるんだから。
歩くには少し遠い場所でも、車なら濡れずに行けるだろうが。
ついでに俺の鼻歌もついてくるってな、と髪をクシャリと撫でられた。その日が来るまで、今は我慢をすることだ、と。
「…ハーレイの鼻歌、聞きたいのに…。前のハーレイの鼻歌は聞けなかったから」
もちろん鼻歌は聞いていたけど、ブリッジでは歌っていなかったから…。運転中に歌っていたらどんな感じか、前のぼくだって知らないんだよ…!
今のハーレイの鼻歌でお願い、と頼んだけれども、ハーレイは「駄目だ」の一点張り。その歌は未来に取っておくべきだと、「大きくなった時のお楽しみだ」と。
いつかドライブに出掛けたならば、鼻歌はきっと飛び出すから。
ハンドルを握っているハーレイはきっと、御機嫌で鼻歌を歌うだろうから。雨の日だって。
その雨だがな…、とハーレイは窓の外を見た。「今も相変わらず降ってるな」と。
「此処が本物のシャングリラだったら、船がデカかったもんだから…」
傘を差さずに外に出たって、うんと遠くまで濡れずに行けたぞ。何処まで行っても天井だから。
船が丸ごとデッカイ傘だ、という冗談。
シャングリラの大きさはともかくとして、あの船に雨は降らなかったのに。白い船体を叩く雨の粒は、中に降り注ぎはしなかったのに。
とはいえ、確かに巨大だった船。あの中で雨が降っていたなら、どうなったろう…?
「シャングリラの端から端までだったら、凄い距離だよ?」
傘の代わりの天井が無くて、ザアザア雨が降っていたなら、雨の日、とっても大変だね。端まで歩いて行こうとしたら、靴とかが濡れてしまいそう…。
前のぼくのソルジャーのブーツだったら、雨でも大丈夫だけれど。
他のみんなの靴だと水が入ったかな…、と想像してみる。シャングリラの端まで歩く間に、雨に降られてビショ濡れになっている仲間たちを。シールドで防がなかったらビショ濡れ、と。
「そうだろう? とびきりデカい船だったんだよなあ、シャングリラは」
俺の車が何台並べられるやら…。あの船の中に。
青の間だけでも何台も置けるぞ、スロープに順に停めていったら。…なんてデカさだ。そういう船に作ったとはいえ、デカすぎだよな。あのシャングリラは。
「シャングリラ、小さくなっちゃったよね…」
今のぼくたちのシャングリラは、ハーレイが乗ってる車だから…。青の間に幾つも置けるヤツ。
ホントのホントにうんと小さくて、同じシャングリラでもまるで違うよ。
でも、そのシャングリラに乗りたいけれど…、と将来の夢を口にした。小さいシャングリラでもかまわないから、ハーレイと二人で乗りたいのだ、と。
そうしたら…。
「小さくなったのはシャングリラだけじゃないってな」
俺たちも小さくなっただろうが、前よりもずっと。…シャングリラが小さくなったみたいに。
今の俺たちも小さくなった、と言われてキョトンと見開いた瞳。
「えっ、ハーレイは小さくないでしょ?」
ぼくは小さいけど、前よりもチビになっちゃったけど…。ハーレイは変わっていないってば。
前とそっくり同じじゃない、と恋人の顔をまじまじと見た。前のハーレイと同じ顔だし、背丈も前と変わらない筈。シャングリラの誰よりも頑丈だった体格だって。
「外見は変わっちゃいないんだが…。中身だ、いわゆる人間ってヤツ。人物とも言うな」
今の俺はただの古典の教師で、英雄のキャプテン・ハーレイじゃない。似てるってだけで。前の俺の記憶を持っていたって、俺に出来ることはたかが知れてる。
だから小さくなったと言うんだ、今のお前も同じだろうが。…それとも前と変わらないのか?
今のお前も前と同じに振る舞えるのか、と言われたら無理。前の自分のようにはいかない。
「無理だよ、前のぼくみたいなのは…!」
今の平和な時代でなければ、ぼくなんか直ぐに殺されちゃう…。うんと弱虫で泣き虫だから。
大きくなっても強くなれなくて、ハーレイのお嫁さんになれるくらいで…。
前のぼくのようには生きられないよ、と悲鳴を上げた。「あんなのは無理」と。
「そうだろ、だから俺たちには小さなシャングリラで丁度いいんだ」
本物の白い鯨の中なら、幾つ置けるか想像もつかない、今の俺が乗ってるあの車で。
青の間だけでも何台も置けてしまう小さな車なんだが、俺たちにピッタリのサイズじゃないか。
俺たちが小さくなっちまったなら、シャングリラも小さくならないとな。
おまけに二人きりで乗って行くとなったら…、とハーレイがパチンと瞑った片目。小さい車でも似合いの船だと、「船ではなくて車なんだがな」と。
「本当だ…! ぼくたちにピッタリのシャングリラだね。今のハーレイの車」
早く乗りたいな、シャングリラに…。今のぼくたちが二人きりで乗れる、うんと小さなサイズになったシャングリラ。
きっと楽しいだろうから…。ハーレイも今の車がとっても好きらしいから。
早く乗せてね、と頼んだけれども、こればっかりは神様次第。背が伸びないと乗せて貰えない。
そうは言っても、その日は必ずやって来るから、今は楽しみに待つことにしよう。
小さくなったシャングリラが似合いの今の自分たち。
いつかハーレイと二人で乗ろう。今のハーレイが好きなシャングリラに、ハーレイの愛車に。
ハーレイの御機嫌な鼻歌を聞いて、時には二人で声を合わせて歌ったりもして。
気分が良ければ、ハーレイも歌うらしいから。歌詞のあるちゃんとした歌を。
天気のいい日は窓だって開けて、歌いながら何処までも走ってゆこう。この地球の上を。
小さくなったシャングリラで。今の自分たちに似合いのサイズの、同じ名前の車に乗って…。
車と鼻歌・了
※キャプテンだった頃のハーレイには、持ち場で歌えなかった鼻歌。どんなに御機嫌でも。
けれど今では、車の運転中に鼻歌。それを聞きたいブルーですけど、まだまだ先になりそう。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
雨かな、とブルーが気付いた音。目覚めたベッドで。
ポツリ、ポツリと落ちる雨音。屋根や軒を打つ雨粒の音。それに地面に滴る音も。耳に届く音はそのようにしか聞こえない。どう聞いてみても雨の音。
(今日は土曜日…)
ハーレイが来る日だ、と気が付いた。学校は休みで、午前中からハーレイが家に来てくれる日。昨夜はそれを楽しみにベッドに入って、天気予報は見ていなかった。雨とも、晴れとも。
けれど雨音が聞こえるのならば、雨なのだろう。窓の向こうや天井の上で、こういう音を立てるものは他に無いのだから。
ベッドから出てカーテンを開けたら、やっぱり雨。しとしとと空から落ちてくる雨。
(ハーレイ、車だ…)
それが最初に思ったこと。こんな日は車で来るハーレイ。
天気のいい週末は、家から歩いて来るのが習慣。何ブロックも離れているのに、まるで散歩でもするかのように。実際、散歩なのだろう。回り道して歩いて来る日も多いから。
ハーレイにとっては「軽い運動」の散歩だけれども、雨の日は流石に歩いては来ない。本降りになってしまったりしたら、靴やズボンの裾が濡れるから。
だから雨なら車の出番。来るのを窓から見ようと思う。ハーレイの愛車が走って来るのを。
(平日は車なんだけど…)
仕事の帰りに来てくれる時は、いつでも車。ハーレイの通勤は車だから。
車は度々やって来るけれど、走って来る所は滅多に見ない。数えるほどしか目にしてはいない。いつもチャイムで「ハーレイが来た」と気付くわけだし、車はガレージに入った後。
(帰る時には暗くなっちゃってるし…)
もう見えはしない車の色。夜の闇が車を覆ってしまって、夜だけの色に変えるから。
おまけに家の表まで出掛けて、其処で見送り。遠ざかってゆくテールライトに懸命に手を振る。また来てね、と精一杯の思いをこめて。
帰ってゆく車を部屋の窓から見るのは、病気で寝込んでいる時だけ。
ハーレイに「寝てろ」と言われてしまうし、両親だって許してくれない。具合が悪いのに、外に出るなど。仕方ないから窓から見るだけ。去ってゆく車のテールライトを。
この窓からは殆ど見ていない、濃い緑色をした車。前のハーレイのマントとそっくり同じ色。
それが走って来るのを見られるチャンスが、朝から雨が降っている今日。ハーレイは車でやって来る筈で、それよりも前に窓の所で待っていたなら出会える車。姿を見せる所から。
(よーし…)
ハーレイの車を見なくっちゃ、と張り切って顔を洗いに出掛けた。それから着替えて朝御飯。
両親と一緒に食べる間も、「ご馳走様」と部屋に戻って掃除する間も、弾んだ気分。ハーレイの車を見るんだから、と。
掃除の仕上げは、窓辺のテーブルを綺麗に拭くこと。いつもハーレイと使うテーブル。二人分の椅子も位置を確かめ、大満足で済ませた掃除。「これでおしまい」と。
それから座った椅子の片方。ハーレイが座る椅子とは違って、自分用だと決めている椅子。
其処に座れば窓の向こうがよく見えるのだし、車を待つにはお誂え向き。まだ少し早いと思いはしても、此処で車を待ちたい気分。
(ハーレイの車、もうじき走って来るんだから…)
今日はしっかり見なくっちゃ、と雨に濡れた庭の向こうを眺める。生垣を隔てた所に道路。
ハーレイの車は、学校にある駐車場でも見るけれど。乗せて貰ったこともあるけれど、こうして車を待っている間も高鳴る胸。前のハーレイのマントの色の車なんだよ、と思っただけで。
空は雨雲に覆われているし、雨だって降っているけれど。太陽の光は射さないけれども、夜とは違って明るい今。車の色はよく見える筈。ハーレイも好きな車の色が。
(不思議だよね…)
今のハーレイが車を買う時、あの色の車を選んだこと。「この色がいい」と。
記憶は戻っていなかったのに。前のハーレイの記憶など無くて、今のハーレイだったのに。車を買いに出掛けた時にも、どの色にしようかと考えた時も。
(白もいいけど、乗りたくなかったって…)
前にハーレイはそう言っていた。白い車も勧められたし、「気に入った」とも思ったらしい。
けれど「欲しい」という気がしなくて、選んだ車は濃い緑色。「自分らしい」と考えて。
若いハーレイには渋すぎる色で、友人たちにも驚かれたのだという車。もっと鮮やかな色の方がいいと、「黄色なんかも似合いそうだぞ?」と。
白ならば、誰も「渋い」とは言わなかっただろうに。「白が好みか」と思うだけで。
どうしたわけだか、白い車を避けたハーレイ。気が乗らなくて、欲しい気分になれなくて。
「きっと、シャングリラの色だったからなんだろうな」とハーレイは前に話していた。
遠く遥かな時の彼方で、前のハーレイと暮らした船。白いシャングリラで長く共に生きて、死という別れに引き裂かれた。前の自分がメギドに向かって飛び去った時に。
(ハーレイ、独りぼっちになっちゃって…)
それでも地球へと進むしかなくて、白いシャングリラを運んで行った。キャプテンとして、舵を握って。恋人はもういなくなった船、二度と戻って来はしない船を。
その悲しみをハーレイは覚えていたのだろう。記憶が戻って来なくても。心の何処か深い所で。
代わりに選んだ、キャプテンのマントと同じ色の車。「これが自分に似合いの色だ」と。
(ホントに不思議なんだけど…)
生まれ変わって来たほどなのだし、そういったこともあるのだろう。記憶が無くても、心に深く刻まれたもの。「白は悲しい色だから」と白い車を避けたくらいに。
けれどハーレイは「次の車は白がいいよな」と言っていた。まだ何年も先だけれども、次の車を買う時が来たら、白にしようと。
その頃には車の助手席に座っているのが自分。前の自分と同じに育って、ハーレイの隣に。
いつか二人でドライブに出掛けるようになったら、白い車に乗ることになる。最初の間は、今の車に乗るけれど。ハーレイが大切にしている車は、まだ何年も頼もしく走ってくれそうだから。
大切に乗って走った車にお別れしたなら、ハーレイの車はシャングリラの色になるけれど…。
(今の車も、ぼくたちのシャングリラになってくれるんだよ)
濃い緑色の車でも。白いシャングリラとは違う色でも。
ハーレイと二人で出掛けるのならば、それが自分たちのシャングリラ。宇宙船ではなくて、何の変哲もない車だけれど。同じ形の車だったら、きっと山ほどあるだろうけれど。
(それでも、あれはシャングリラになる車なんだから…)
白くなくても、鯨の形をしていなくても。
ハーレイと二人で乗ってゆくなら、それが自分たちのシャングリラ。
仲間たちは抜きで、二人きりで。ソルジャーもキャプテンも要らない車で、ハーレイと走る。
舵の代わりにハンドルを握ったハーレイと。キャプテンの制服ではないハーレイと。
その日の気分で、行きたい場所へと走らせる車。地球を目指しての旅ではなくて。
素敵だよね、と夢見るハーレイと出掛けるドライブ。いつか助手席に乗れる日が来たら。
(早く来ないかな…)
ドライブに行ける日も来て欲しいけれど、今日の所は、ハーレイが乗った未来のシャングリラ。濃い緑色の車が見たくて、庭の向こうを眺めて待つ。「まだ来ないかな?」と雨を見ながら。
空から雨が降って来るから、今日は車で来るハーレイ。「軽い運動だ」と歩く代わりに。足元が濡れてしまわないよう、いつも学校に乗ってゆく車で。
(今はハーレイが一人で乗ってて…)
一人で運転している車。助手席には誰も乗っていないし、後部座席の方も空っぽ。乗せる人などいないから。この家に来るのはハーレイ一人だけだから。
ハーレイだけが乗った車、と考えてみると、まるで独りぼっちだった頃のハーレイのよう。前の自分を失くしてしまって、独りきりになってしまったハーレイ。白いシャングリラで。
仲間たちが大勢乗っていたって、ハーレイの心には絶望と孤独。
恋人はいなくて、追ってゆくことも出来ないまま。それでも行かねばならなかった地球。それが恋人の望みだったから。「ジョミーを支えてやってくれ」と頼まれたから。
心は独りぼっちのままで、遠い地球まで行ったハーレイ。白いシャングリラに一人きりで。
今のハーレイも、今日は一人で車を運転して来るけれど…。
(此処に着いたら、ぼくがいるしね?)
前のハーレイが失くした恋人、ソルジャー・ブルーの生まれ変わりの自分。チビだけれども。
十四歳にしかならない子供で、ハーレイはキスさえしてくれないチビ。
けれど恋人には違いないのだし、その恋人の家を目指して走らせる車。ハンドルを握って、前を見詰めて。だからハーレイは独りぼっちで車の中に乗っていたって…。
(寂しくなんかないんだよ)
今は一人でも、道路を走れば恋人の家に着くのだから。
まだドライブには一緒に行けないチビの恋人でも、前のハーレイが愛した人の生まれ変わり。
(チビでも、ちゃんと恋人だから…)
恋人に会いに走ってゆくなら、寂しいと思う筈がない。「一緒だったらいいのにな」と、夢見ることはあったとしても。
「まだ当分は一人だよな」と、「あいつとドライブはまだ出来ないな」と思いはしても。
いつか助手席に乗るだろう恋人、その日を心に思い描いて走らせる車。運転席に一人きりでも。
(そういう旅なら楽しいよね?)
前のハーレイが歩んだ地球までの道と違って。辛くて長い旅路ではなくて、きっと心が弾む旅。ほんの短い距離にしたって、同じ町の中を此処まで走るだけにしたって。
(それにハーレイが乗ってる車は、未来のシャングリラなんだから…)
二人で乗る日を、ハーレイも待っているだろう。早くその日が来ないものかと、自分と同じに。
口では何と言っていたって、心の中では。
何かと言ったら「チビのくせに」と、「今のお前はまだ子供だ」などと叱っていても。
そのハーレイも、待っているのに違いない。チビの自分が前の自分と同じに育って、隣に座ってくれる日を。助手席に乗せて、一緒にドライブに行ける日を。
前のハーレイのマントの色をしている車。濃い緑色のシャングリラで。
(シャングリラと車じゃ、運転のやり方、全然違っているけれど…)
車は空を飛びはしないし、もちろん宇宙も飛んでゆけない。地面の上を走るだけ。それも道路がある所だけを。…ハーレイの車は普通の車で、道路の無い場所を走れはしないから。
運転するにも、ハンドルと舵輪は全く違う。同じように円を描いてはいても。
「面舵いっぱーい!」と回す舵輪と、ハンドルを右に切るのとは違う。右の方へと向かう所は、どちらも同じなのだけど。
白いシャングリラと車はまるで違うけれども、いつかシャングリラになる予定の車。ハーレイと自分と、二人きりで乗るシャングリラ。
それを走らせて来るのだったら、鼻歌交じりのドライブだろうか。ハーレイの家から此処までの道は。何ブロックも離れたハーレイの家。其処のガレージを出た後には。
(そうなのかも…)
鼻歌交じりでハンドルを握っているハーレイ。「もうすぐブルーに会えるんだしな?」と。
恋人の家に向かっているなら、鼻歌だって飛び出しそう。心が浮き立つドライブなのだし、今のハーレイの気に入りのメロディ。
記憶が戻って来る前だったら、一人でドライブを楽しみながら、きっと鼻歌。それは御機嫌で。
歌も歌ったかもしれない。
その頃だったら、気ままにドライブしていたのだから。「今日は行くぞ」と車に乗って。
ハーレイが車を運転しながら歌う鼻歌。気分がいい日は、ハンドルを右へ左へと切って。
今日も歌っているかもしれない。此処への道を走る車で、「ブルーに会える」と楽しそうに。
(ぼくと一緒に乗っていく時も…)
二人きりのシャングリラになった車でドライブの時も、鼻歌が飛び出すかもしれない。助手席に座って、耳を澄ませていたならば。
(お喋りしてたら、鼻歌どころじゃないけれど…)
綺麗な景色に見惚れてしまって会話が無いとか、助手席の自分がウトウト眠りかけているとか。そういう時なら、ハーレイの鼻歌が聞こえて来そう。楽しげな歌が運転席から。
それも素敵、と思ったけれど。聴いてみたいと考えたけれど…。
(シャングリラ…)
本物だった方のシャングリラ。巨大な白い鯨のようにも見えた船。人類軍も、あの白い船に名を付けた。「モビー・ディック」と、遠い昔の小説に出てくる白鯨の名を。
誰が見たって鯨に見えた白い船。ミュウの母船だと知らない人類は、「宇宙鯨」と呼んでいた。暗い宇宙を彷徨う鯨で、異星人が乗っているのだとも。
そのシャングリラの舵を握っていたハーレイ。主任操舵士のシドがいたって、ハーレイが自分で舵を握る日も多かった。誰よりも船に詳しかったし、癖も掴んでいたのだから。
そうやって舵を握っている時、ハーレイはいつも真剣だった。ただ真っ直ぐに前を見据えて。
シャングリラの舵輪を動かす時には、鼻歌交じりなどではなかった。どんな時でも。
(人類の船なんか、何処にもいなくて…)
安全なのだと分かっていたって、生真面目な顔をしていたハーレイ。鼻歌などは歌いもせずに。舵輪をしっかり握り締めて立って、背筋をしゃんと伸ばした姿で。
(同じシャングリラでも、船と車じゃ違うよね…)
形も違えば機能も違うし、動かし方もまるで違っている。シャングリラと名前を付けたって。
ハーレイと自分の二人が乗るから、車を「シャングリラ」と呼んだって。
何もかもが違う、船と車のシャングリラ。巨大な白い鯨の姿か、濃い緑色をしている車か。
二つのシャングリラを比べてみたなら、きっと車の方が楽しい。
ハーレイが一人で乗っていたって、鼻歌が飛び出す素敵な車。一人きりでのドライブでも。
白い鯨の方だったならば、鼻歌なんかは一度も出番が無かったのだから。
車の方が楽しい筈だよね、と考えていたら、窓から見えた緑の車。ハーレイの愛車。
それを見間違えるわけがないから、「あれだ!」と胸の鼓動が高鳴る。待っていた甲斐があった車で、あれにハーレイが乗っている。此処からはよく見えないけれど。
(運転席には、ハーレイが乗ってて…)
あそこに見える影がハーレイ、と思う間に車は家の表で止まって、ガレージの方へ。空から雨が降る中を。降りしきる雨に濡れながらも。
ガレージに車をきちんと停めたら、ハーレイがバタンと開けたドア。運転席の側を。
(降りるハーレイも楽しそう…)
パッと広げた紳士用の雨傘。それを差したら、大股で歩いて門扉の所へ。足取りも軽く。
門扉の横にあるチャイムを鳴らすと、部屋でも聞こえたいつもの音。ハーレイはこの部屋の窓を見上げて、こちらに向かって手を振ってくれた。傘を持ってはいない方の手で。
応えて大きく振り返した手。「ぼくは此処だよ」と、「待っていたよ」と。
(ぼくが待ってたから、一人でも平気…)
車の中でも、ハーレイの家から此処までの道も。
記憶が戻る前のハーレイも、車を楽しんでいた筈だよね、と思うから。鼻歌交じりにハンドルを切って、きっと走っていただろうから、訊いてみた。ハーレイと部屋で向かい合うなり。
「ねえ、ハーレイ。車は楽しい?」
今日は車で此処に来たでしょ、ハーレイは車を楽しいと思う…?
「はあ? 車って…」
楽しいと思うか、と言われてもだな…。
それはいったいどういう意味だ、と問い返された。「楽しいと言っても色々あるが」と。
「えっとね…。車、ぼくは運転できないけれども、楽しいの?」
車を走らせるっていうこと。今日みたいに此処まで走って来るとか、ドライブだとか…。
楽しそうだよね、っていう気がしたから、ハーレイに訊いてみたんだけれど…。
「そりゃまあ…なあ?」
楽しくないわけがないだろう。でなきゃ車に乗っていないぞ、路線バスとか俺の足さえあったら何も困りはしないしな。…ちょっとした距離なら歩けばいいし、遠い場所なら他の乗り物。
自分の車を持ってなくても、何処かへ行くには方法が幾つもあるんだから。
車を持っていない人も多いだろうが、と言われてみればその通り。乗りたいという気持ちが全く無い人だったら、自分の車を持ってはいない。公共の交通機関だけで充分、と。
「そっか…。ハーレイの仕事は、車が無ければ困る仕事じゃないんだし…」
乗ってるってことは好きだからだよね、車に乗るのが。好きで乗ってるなら、楽しくて当然。
その車だけど、シャングリラと、どっちが楽しいと思う?
シャングリラも車も、ハーレイは動かせるんだけど、と問い掛けた。どちらの方が楽しいかと。
「そいつは今の俺の場合か?」
俺が考えたらどっちになるのか、それをお前は知りたいのか…?
そうなのか、と瞳を覗き込まれた。鳶色の瞳で、「今の俺が楽しいと思う方なのか?」と。
「うん。どっちなのかと思ったから…」
シャングリラはとても大きな宇宙船だし、車はうんと小さいけれど…。
運転のやり方も違うけれども、ハーレイはどっちの方が好きなの、楽しいのはどっち…?
「今の俺なら、断然、車って所だが…」
実に気楽に運転できるし、責任だって背負っちゃいないから。…交通ルールを守ることだけで。
後は誰かを乗せてる時だな、安全運転で行きたいじゃないか。余所見なんかはしてないで。
もっとも、ちょっと景色を見るのは御愛嬌といったトコだがな。
あれは余所見とは言わんだろう、と茶目っ気たっぷりの返事が返った。運転中に車の外の景色をチラリと見るのはいいらしい。運転とはまるで関係なくても、首を横へと向けていても。
「やっぱり車の方なんだ…!」
そうじゃないかと思っていたけど、ホントに車。今日のハーレイも楽しそうだったから…。
車が来るのを待ってたんだよ、此処の窓から下を見ながら。雨の日はハーレイ、車だものね。
ガレージに停めて、傘を広げて降りる時にも楽しそうに見えたよ、ホントだよ?
きっと車が好きなんだよね、と思ったんだけど…。それで当たっていたんだけれど…。
だけど、前のハーレイだったら違うの?
前のハーレイのつもりで答えるんなら、別の答えになっちゃうの…?
「そうなっちまうな。なにしろ前の俺の場合は、だ…」
シャングリラだけしか知らなかったからな、車は運転しちゃいない。
人類との戦いが始まった後も、運転できる機会は無かった。乗る機会は幾つもあったんだがな。
あの船だけしか知らなかったが…、とハーレイは穏やかな笑みを浮かべた。「楽しかった」と。
「俺にとっては、あのシャングリラは最高の船で相棒だったな」
あれしか知らない船とは言っても、本当に好きな船だった。今の俺にとっての車と同じで。
責任ってヤツは重かったがな、と言われなくても分かること。今のハーレイの車だったら、交通ルールを守って走るだけでいい。危険が溢れる宇宙を飛んではいないから。
それに車に乗れる人数、そちらの方も限られてくる。車には詳しくないのだけれども、あの車に乗れるのは六人くらいだろうか。それとも五人といった所か。
白いシャングリラには、二千人ものミュウの仲間が乗っていたのに。
前のハーレイはキャプテンなのだし、皆の命に責任があった。二千人いれば、二千人分の。
それだけの重い責任があっても、ハーレイはシャングリラが好きだったと言う。あの白い船が。ミュウの仲間たちを乗せた箱舟、皆の世界の全てだった船が。
「でも、ハーレイ…。責任とかはいいにしたって、前のハーレイには普通のことにしたって…」
最後は独りぼっちになった船だよ、前のぼくがいなくなってしまって。
ハーレイが一番守りたかった人は消えてしまって、それでも仲間たちの命を守るしかなくて…。
独りぼっちで地球までの旅をするしかなくって、とっても寂しかった船。
そのせいで、今も白い車じゃないんでしょ?
前に聞いたよ、車を買いに出掛けた時の話をね。白い車もいいと思ったけど、それは買わないで今の車になったんだ、って…。
前のハーレイの記憶が何処かにあったせいでしょ、と口にした。白いシャングリラが悲しい船になっていたから、白い車を選ぶ気になれなかったんだよね、と。
「それは確かにあったんだが…。今の俺まで引きずるくらいに、寂しくて辛い思いはしたが…」
だが、シャングリラに罪は無い。あの船には何の罪も無いんだ、ミュウの箱舟なんだから。
それにお前が守った船だ。
最後は命を捨てちまってまで、前のお前は船を守った。メギドを沈めて、あのシャングリラを。
そうなる前にも、お前は船を守り続けていただろう?
人類軍との戦いは無くても、船中に思念の糸を張り巡らせてて、何かあったら動けるように。
そんなお前に託された船でもあったわけだし、あれはあれで大事だったんだ。
寂しかったのは間違いないから、楽しかったとは言わんがな。
前のお前がいなくなった後は、寂しくて悲しい船だった、とハーレイが語るシャングリラ。
生まれ変わった後に選んだ車も白ではないほど、前のハーレイの心に深い悲しみと痛みを残した船。白い車が気に入っていても、「乗りたくない」と別の色の車を選んだほどに。
そんな悲しい思いをしたのに、「好きな船だった」とハーレイが言うものだから…。
「…あの船が楽しかった時代もあるの?」
悲しい思い出ばかりの船でも、ハーレイは大事だと言ったけど…。楽しかった時は無かったの?
白い車が欲しくなるような、うんと素敵な思い出とかは…?
今のハーレイの車は白じゃないしね、と悲しい気持ちに包まれる。前の自分がいなくなった後、独りぼっちで生きたハーレイ。好きな船の色さえ選べなくなるほど、辛い日々だったようだから。
「お前なあ…。何を寝言を言っているんだ、まだ半分ほど寝てるのか?」
昨夜は遅くまで夜更かししたとか、寝付けなくって睡眠時間が足りないだとか。
分かっていないな、お前ってヤツは。前のお前と沢山の夢を見ていただろうが、あの船で。
お前の寿命が尽きてしまうと分かる前には、山ほどの夢を持ってたろうが。…俺も、お前も。
地球に着いたら船を離れて、二人きりで暮らしてゆこうとか…。
ヒマラヤまで青いケシを見に行くとか、森に咲くスズランの花を探しに行こうとか。前のお前の夢の朝飯、そいつも食べに行くんだっけな。本物のメープルシロップをたっぷりとかけて、地球の草で育った牛のミルクのバターを乗っけたホットケーキを。
ああいった夢を見ていた頃には、俺だってうんと楽しかったぞ。未来への夢が一杯だ。
お前の夢を叶えるためには、まずは地球まで行かないと…。俺がシャングリラを動かしてな。
俺たちを夢の星まで連れてってくれる、頼もしい相棒があの船だったわけだから…。
楽しくなかった筈がないだろう、とハーレイが挙げた「楽しかった時代」。シャングリラでの。
それは確かに存在していた。前の自分の未来が無限に思えた頃には。
「…そうだけど…。楽しかった時代も、沢山あったみたいだけれど…」
だけどハーレイ、鼻歌なんかは一度も歌っていなかったよ…?
「鼻歌だって?」
いったい何処から鼻歌ってヤツの話になるんだ、ますますもって謎なんだが…。
今日のお前は車の話を持ち出すかと思えば、今度は鼻歌。
シャングリラと鼻歌、どういう具合に結び付くのか、俺に説明して欲しいんだが…?
その言い方ではサッパリ分からん、とハーレイは怪訝そうな顔。「何故、鼻歌だ?」と。
「ごめん…。ぼくの頭の中では、話がとっくに出来上がっていて…」
通じているような気になってたけど、鼻歌の話はしていなかったよ。車の話をしていただけで。
鼻歌と車はセットなんだよ、今のハーレイが車が好きなら、鼻歌も歌っていそうだから…。
楽しく運転している時には、ハンドルを握りながら鼻歌。楽しいとそういう気分になるでしょ?
でも、シャングリラでは、鼻歌、歌っていなかったから…。
楽しかったって言ってた頃にしたって、ハーレイ、歌っていなかったじゃない。
前のぼくは一度も聞いていないよ、と思い浮かべたブリッジの光景。シャングリラの舵を握っていたハーレイは、鼻歌を歌いはしなかった。いつも背筋をしゃんと伸ばして立っていただけで。
「おいおいおい…。車を運転するならともかく、シャングリラの方で鼻歌だってか?」
あのシャングリラの舵を握って、俺が鼻歌を歌うのか?
お前、よくよく考えてみたか、前の俺の立場というヤツを。シャングリラでの俺は、キャプテンなんだぞ。車の運転手じゃなくて。…主任操舵士よりも上の立場で、俺よりも上はいなかった。
前のお前は俺よりも上のソルジャーだったが、船の航行には無関係だし…。
つまりは俺がトップの立場だ、シャングリラって船に関しては。キャプテンであった以上はな。
そのキャプテンがだ、鼻歌なんかを歌ってられると思うのか?
どんなに気分がいいにしたって…、と呆れたような口調のハーレイ。「鼻歌だぞ?」と。
「…そうかもね…」
ブリッジ以外の所だったら、鼻歌でもいいんだろうけれど…。歌ってることもあったけど…。
そうじゃない時は、鼻歌だったらマズイかも…。シャングリラの舵を握っている時なんかは。
楽しい気分になっていたって、キャプテンが鼻歌を歌っていたなら、エラが怒っていたかもね。もっと真面目にやって下さい、って凄い勢いで。
見た目に真面目とは言えないし…、と思った鼻歌。今のハーレイなら自分の車の運転なのだし、交通ルールを守りさえすれば、何をするのもハーレイの自由。鼻歌交じりの運転だって。
けれども、前のハーレイは違う。白いシャングリラを預かるキャプテン、船の仲間を纏め上げる立場。皆の模範になるべき存在、ブリッジで仕事をしている時は。
鼻歌交じりのキャプテン・ハーレイなど、それは如何にも不真面目な感じ。
白いシャングリラはミュウの箱舟で、SD体制の枠からはみ出た海賊船ではないのだから。
確かに駄目だ、と分かった事情。前のハーレイが鼻歌を歌っていなかった理由。
「…キャプテンが鼻歌を歌いながら操舵してたら、海賊船みたいになっちゃうものね…」
楽しそうだけど、見た目に不真面目。どんなにきちんと操舵してても、それが台無し。遊んでるように見えちゃうから…。シャングリラっていう船を動かす遊び。
きっとホントにエラが怒るよ、と肩を竦めた。「キャプテン!」と叱る声が耳に届いたようで。
「海賊船なあ…。前の俺たちが生きてた時代も、海賊ってヤツはいたんだが…」
マザー・システムなんぞに従えるか、と宇宙で好きに生きてた連中。略奪なんかもやらかして。
略奪だったら白い鯨になる前の船じゃお馴染みだったし、マザー・システムには従えない、ってトコも同じだな、前の俺たちと海賊とは。
そういう意味ではシャングリラも似たような立場だったが、こっちは未来がかかってたしな?
ミュウの未来を手に入れなければ駄目な俺たちと、その場限りで面白おかしく生きれば良かった海賊とは違う。同じようにはみ出し者の船でも、シャングリラは海賊船にはなれん。
そのシャングリラで旅をしていた以上は、鼻歌交じりの気楽な旅とはいかないさ。今の俺なら、鼻歌交じりにドライブするのも自由だがな。
キャプテンの俺だとそうはいかない、と苦笑しているハーレイ。キャプテンが不真面目でもいい船だったら、そいつはただの海賊船だ、と。
「そうだよね…。ハーレイが真面目にやっていたって、鼻歌を聞かれちゃ駄目だから…」
歌えないよね、あのシャングリラのブリッジだと。楽しい気持ちで船で暮らした頃だって。
…ぼくとハーレイ、二人きりなら鼻歌だって歌ってくれた?
他に仲間は乗っていなくて、二人きりで地球を目指してたなら。…あのシャングリラで。
「もちろんだ。鼻歌だって飛び出すだろうな、お前と二人きりの船なら」
それに地球まで行くんだったら、毎日が鼻歌気分だろう。もう楽しくて仕方がなくて。
船が先へと進んだ分だけ、俺たちは地球に近付くんだから…。今日は昨日よりも地球が近くて、明日になったらもっと近付く。船が進めば進むほどにな。
きっと気分が良かっただろう、とハーレイも頷く夢の船旅。白いシャングリラに乗っているのは二人だけ。前のハーレイと自分の二人で、目指してゆく先は青く輝く地球。そういう旅路。
どんなに心が躍っただろうか、鼻歌交じりの一日が過ぎてゆく度に。
白いシャングリラが飛んだ分だけ、青い地球が近くなるのだから。夢の星まで、一日分ずつ。
そうは思っても、所詮は夢。白いシャングリラを二人きりで作れるわけがない。あんなに巨大な白い鯨を、人類軍の船より優れた機能を幾つも搭載していた船を。
その上、青い地球も無かった。二人きりで地球に辿り着いても、夢が無残に砕け散るだけ。青い水の星は何処にも存在しなくて、死の星があっただけなのだから。
「…ハーレイと二人きりの旅なら、本当に素敵だっただろうけど…。幸せだったと思うけど…」
だけど夢だね、ぼくとハーレイだけの力じゃ、白いシャングリラは作れないから。
それに地球まで辿り着けても、青い星は何処にも無かったから…。
前のぼくたちの本当の旅は、他の仲間が大勢一緒で、ハーレイの仕事も沢山あって…。
キャプテンの責任はうんと重くて、鼻歌だって歌えやしない旅。どんなに気分がいい時だって、シャングリラの舵を握っているなら、鼻歌は無理…。
「そういうことだ。今の俺のようにはいかなかったな、前の俺だと」
好きな船でも、俺の持ち物ではなかったから…。俺はあの船を預かっていただけのことだから。
持ち主は船に乗ってた仲間で、みんなの物だった船がシャングリラだ。俺の車とは違うってな。今の俺なら、俺の車を好きなようにしていいんだが…。何処へ行くにも、どう使うのも。
真面目だろうが、不真面目だろうが…、とハーレイが笑っている通り。今のハーレイが走らせる車は、ハーレイが持っている車。白い車を選ぶ代わりに、濃い緑色の車を買って。
「ハーレイ、今の車だと鼻歌、歌っているの?」
今の車なら、怒る人は誰もいないしね…。エラが文句を言うことも無いし、ハーレイは自由。
楽しい時には歌ったりもするの、前のハーレイがブリッジで歌えなかった鼻歌を…?
「歌ってる時もあったりするな。それこそ俺の知らない内に」
前の俺なら意識して気分を引き締めていたが、今の俺だと、その必要は無いわけだから…。
誰にも文句を言われやしないし、何よりも俺のための車だ。他の誰かの持ち物じゃなくて。
そいつを楽しく運転してれば、ついつい歌が飛び出したりもするもんだ。鼻歌はもちろん、声に出してる時だってある。いわゆる本物の歌ってヤツを。
歌詞がついてる歌のことだな、とハーレイは笑顔。「お前だって歌う日、あるだろう?」と。
車を運転する時に限らず、気分が良ければ歌いたい気分になるものが歌。鼻歌も、色々な歌詞がついた本物の歌だって。
言われてみれば、今朝も歌ったかもしれない。部屋の掃除をしていた間に、御機嫌になって。
歌ったかもね、と思う歌。「ハーレイの車が見られるよ」と心が弾んでいたのだから。雨の日は車で来てくれるのだし、部屋の窓からそれを見ようと。
「歌…。今朝のぼくも何か歌っていたかも…。いい気分で掃除をしていたから」
ハーレイの方は今日はどうなの、車の中で歌ってた…?
今の車なら歌うんでしょ、と興味津々。そういうハーレイを思い浮かべて、車が来るのを待っていた自分。きっと鼻歌交じりだろうと、今のハーレイが運転している車の到着を。
「歌いながらは来ていないんだが…。もしかしたら鼻歌、出ていたかもな」
もうすぐお前に会えるんだから、と上機嫌で運転していたんだし…。自分でも気付かない内に。
前の俺ならエラに叱られる所だが…、とハーレイが軽く広げた両手。「不真面目だしな?」と。白いシャングリラでは鼻歌は無理だと、今なら歌い放題だが、と。
「それ、聞きたいな…。ハーレイが御機嫌で歌う鼻歌」
前のハーレイは操舵の時には歌っていないし、どんな感じか知りたいんだけど…。運転しながら歌う鼻歌。いい気分の時に飛び出すヤツを。
だけど、此処だと無理だよね…。ぼくのリクエストで鼻歌を歌って貰うのは。
「歌う気は無い、と言いはしないが、お前が聞きたいヤツとは別のになるだろう。俺の鼻歌」
お前の頼みで歌うとなったら、余所行きの歌になっちまうから。
同じ鼻歌でも、めかしこんだ歌って所だな。お前にいい所を見せないと、と構えちまうだろ?
そんな鼻歌しか歌ってやれん、と遠回しに断られてしまった鼻歌。「此処じゃ駄目だ」と。
「うーん…。余所行きの鼻歌になっちゃうわけ?」
車の中で歌っていたなら、普段着の鼻歌なんだろうけど…。此処で歌ったら余所行きの鼻歌。
ぼくがいたって駄目だって言うの、ハーレイの機嫌はいい筈だよね?
ぼくに会うために車を運転してたら、いい気分になって鼻歌なんだし…。いい気分になる理由は恋人のぼくでしょ、ぼくがいるだけじゃ鼻歌は無理…?
この顔で御機嫌になれないの、と指差してみた自分の顔。「前のぼくよりチビだけどね」と。
さっきハーレイと語った夢の船旅、前の自分と二人きりで地球を目指す旅。そういう旅に二人で出たなら、前のハーレイも鼻歌を歌ったらしいから。白いシャングリラの舵を握って。
だから自分の顔さえあれば、と少しばかり年が足りない顔を示してみせた。今のハーレイでも、この顔が好きな筈だから。きっと御機嫌になれる顔だと思ったから。
この顔のぼくに聞かせて欲しいんだけど、と強請った鼻歌。今のハーレイが車で歌う鼻歌。
御機嫌になれば飛び出す歌なら、恋人がいれば出てくるだろうと考えたのに…。
「さっきも言った筈だがな? 此処で歌えば余所行きの鼻歌になっちまう、と」
俺にわざわざ頼まなくても、いつか聞ける日、来る筈だぞ。俺とドライブに行くんだろう…?
本物のシャングリラは無くなっちまったが、今度は俺たちのシャングリラで。…俺の車で。
俺たちだけのためのシャングリラだぞ、と念を押された。「他のヤツらの物じゃないんだ」と。二人だけのためにある車なのだし、誰にも遠慮は要らないから、と。…運転中の鼻歌だって。
「それまでは無理?」
頼んでも歌ってくれないって言うの、今のハーレイの御機嫌な鼻歌…。普段着の方の。
余所行きになってる鼻歌じゃなくて、いつもハーレイが歌っているヤツ…。
聞きたいんだけどな、と上目遣いに見上げたけれども、「欲張るなよ?」と返された。御機嫌な鼻歌を歌う代わりに、「フン」と鼻まで鳴らされて。
「チビのお前も確かに好きだが、こうして会ってしまうとなあ…。チビの姿が引き立っちまう」
会う前だったら、「俺のブルーに会いに行くんだ」と胸がワクワクしてるんだがな。今のお前はチビだってことが分かっていたって、ついつい前のお前みたいに思ったりもして。
だからだ、今のお前の顔だと、そう御機嫌にはなれないかもなあ、チビだから。…諦めておけ。
その代わり、チビのお前がいつか大きくなったなら…。前のお前と同じ姿に育ったら。
今日みたいに雨が降っていたって、お前と一緒に出掛けられるぞ。俺の車があるんだから。
歩くには少し遠い場所でも、車なら濡れずに行けるだろうが。
ついでに俺の鼻歌もついてくるってな、と髪をクシャリと撫でられた。その日が来るまで、今は我慢をすることだ、と。
「…ハーレイの鼻歌、聞きたいのに…。前のハーレイの鼻歌は聞けなかったから」
もちろん鼻歌は聞いていたけど、ブリッジでは歌っていなかったから…。運転中に歌っていたらどんな感じか、前のぼくだって知らないんだよ…!
今のハーレイの鼻歌でお願い、と頼んだけれども、ハーレイは「駄目だ」の一点張り。その歌は未来に取っておくべきだと、「大きくなった時のお楽しみだ」と。
いつかドライブに出掛けたならば、鼻歌はきっと飛び出すから。
ハンドルを握っているハーレイはきっと、御機嫌で鼻歌を歌うだろうから。雨の日だって。
その雨だがな…、とハーレイは窓の外を見た。「今も相変わらず降ってるな」と。
「此処が本物のシャングリラだったら、船がデカかったもんだから…」
傘を差さずに外に出たって、うんと遠くまで濡れずに行けたぞ。何処まで行っても天井だから。
船が丸ごとデッカイ傘だ、という冗談。
シャングリラの大きさはともかくとして、あの船に雨は降らなかったのに。白い船体を叩く雨の粒は、中に降り注ぎはしなかったのに。
とはいえ、確かに巨大だった船。あの中で雨が降っていたなら、どうなったろう…?
「シャングリラの端から端までだったら、凄い距離だよ?」
傘の代わりの天井が無くて、ザアザア雨が降っていたなら、雨の日、とっても大変だね。端まで歩いて行こうとしたら、靴とかが濡れてしまいそう…。
前のぼくのソルジャーのブーツだったら、雨でも大丈夫だけれど。
他のみんなの靴だと水が入ったかな…、と想像してみる。シャングリラの端まで歩く間に、雨に降られてビショ濡れになっている仲間たちを。シールドで防がなかったらビショ濡れ、と。
「そうだろう? とびきりデカい船だったんだよなあ、シャングリラは」
俺の車が何台並べられるやら…。あの船の中に。
青の間だけでも何台も置けるぞ、スロープに順に停めていったら。…なんてデカさだ。そういう船に作ったとはいえ、デカすぎだよな。あのシャングリラは。
「シャングリラ、小さくなっちゃったよね…」
今のぼくたちのシャングリラは、ハーレイが乗ってる車だから…。青の間に幾つも置けるヤツ。
ホントのホントにうんと小さくて、同じシャングリラでもまるで違うよ。
でも、そのシャングリラに乗りたいけれど…、と将来の夢を口にした。小さいシャングリラでもかまわないから、ハーレイと二人で乗りたいのだ、と。
そうしたら…。
「小さくなったのはシャングリラだけじゃないってな」
俺たちも小さくなっただろうが、前よりもずっと。…シャングリラが小さくなったみたいに。
今の俺たちも小さくなった、と言われてキョトンと見開いた瞳。
「えっ、ハーレイは小さくないでしょ?」
ぼくは小さいけど、前よりもチビになっちゃったけど…。ハーレイは変わっていないってば。
前とそっくり同じじゃない、と恋人の顔をまじまじと見た。前のハーレイと同じ顔だし、背丈も前と変わらない筈。シャングリラの誰よりも頑丈だった体格だって。
「外見は変わっちゃいないんだが…。中身だ、いわゆる人間ってヤツ。人物とも言うな」
今の俺はただの古典の教師で、英雄のキャプテン・ハーレイじゃない。似てるってだけで。前の俺の記憶を持っていたって、俺に出来ることはたかが知れてる。
だから小さくなったと言うんだ、今のお前も同じだろうが。…それとも前と変わらないのか?
今のお前も前と同じに振る舞えるのか、と言われたら無理。前の自分のようにはいかない。
「無理だよ、前のぼくみたいなのは…!」
今の平和な時代でなければ、ぼくなんか直ぐに殺されちゃう…。うんと弱虫で泣き虫だから。
大きくなっても強くなれなくて、ハーレイのお嫁さんになれるくらいで…。
前のぼくのようには生きられないよ、と悲鳴を上げた。「あんなのは無理」と。
「そうだろ、だから俺たちには小さなシャングリラで丁度いいんだ」
本物の白い鯨の中なら、幾つ置けるか想像もつかない、今の俺が乗ってるあの車で。
青の間だけでも何台も置けてしまう小さな車なんだが、俺たちにピッタリのサイズじゃないか。
俺たちが小さくなっちまったなら、シャングリラも小さくならないとな。
おまけに二人きりで乗って行くとなったら…、とハーレイがパチンと瞑った片目。小さい車でも似合いの船だと、「船ではなくて車なんだがな」と。
「本当だ…! ぼくたちにピッタリのシャングリラだね。今のハーレイの車」
早く乗りたいな、シャングリラに…。今のぼくたちが二人きりで乗れる、うんと小さなサイズになったシャングリラ。
きっと楽しいだろうから…。ハーレイも今の車がとっても好きらしいから。
早く乗せてね、と頼んだけれども、こればっかりは神様次第。背が伸びないと乗せて貰えない。
そうは言っても、その日は必ずやって来るから、今は楽しみに待つことにしよう。
小さくなったシャングリラが似合いの今の自分たち。
いつかハーレイと二人で乗ろう。今のハーレイが好きなシャングリラに、ハーレイの愛車に。
ハーレイの御機嫌な鼻歌を聞いて、時には二人で声を合わせて歌ったりもして。
気分が良ければ、ハーレイも歌うらしいから。歌詞のあるちゃんとした歌を。
天気のいい日は窓だって開けて、歌いながら何処までも走ってゆこう。この地球の上を。
小さくなったシャングリラで。今の自分たちに似合いのサイズの、同じ名前の車に乗って…。
車と鼻歌・了
※キャプテンだった頃のハーレイには、持ち場で歌えなかった鼻歌。どんなに御機嫌でも。
けれど今では、車の運転中に鼻歌。それを聞きたいブルーですけど、まだまだ先になりそう。