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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧
「おーい、ブルー!」
 今度の土曜日は暇なのか、と訊かれたブルー。学校が終わって、帰ろうとしていた所で。
 声を掛けて来たのは、いつものランチ仲間の一人。誘われたことは嬉しいけれども、日が問題。土曜日はきっと、ハーレイが来てくれる筈だから…。
「えーっと…。今度の土曜日は…」
「そうか、ハーレイ先生な!」
 羨ましいな、と弾けた笑顔。ハーレイは生徒に人気が高くて、柔道部員の生徒でなくても、声を掛けたくなる先生。その先生と、週末を家で過ごしているのが自分。ハーレイが用事で来られない時を除いたら。
 「ブルーが来られないんだったら、俺たちだけで行って来るけど…」と、続けた友達。
 「ハーレイ先生に何か用事が入った時には、来てくれればいい」と。
「土曜日に公園で集合だから…。時間までに来れば、俺たちと一緒に行けるしな」
 あそこの公園、と教えて貰った待ち合わせ場所。それに集合する時間も。
「何処に行くの?」
「俺の親戚の家だけど…。子猫が生まれたから、会いに行くんだ」
 生まれた子猫の予約会かな、という説明。五匹いるから、今から貰い手を決めておくのだとか。お母さん猫から離れてもいい頃になったら、予約した子猫を連れて帰れる仕組み。
「子猫…。まだ小さいのが五匹もいるの?」
「おう! 白いのも黒いのもいるんだぜ。どれも可愛いんだ!」
 ハーレイ先生、断って俺たちと一緒に来るか、と尋ねられた。「今なら選び放題だぜ?」と。
「子猫はとっても好きなんだけど…。見てみたいけど、うちじゃ飼えないから…」
 可愛くても無理、と肩を落とした。
 子猫はもちろん、大きくなった猫も大好きだけれど、家では猫はとても飼えない。弱く生まれた自分だけでも、充分に手がかかるのだから。
(すぐに寝込むし、病院に行かなきゃ駄目な時もあるし…)
 母には迷惑をかけてばかりで、この上、猫までいるとなったら大変だろう。猫の分まで、食事の世話など。それに自分が学校に出掛けて留守の間は、子猫の面倒を見るのは母。
 子猫がそこそこ大きくなるまで、寂しがったりしないくらいに育つまで。



 駄目だよね、と諦めざるを得ないのが子猫を飼うこと。どんなに可愛い子猫でも。
「お前の家、駄目か…。でも、飼えなくっても、見る価値あるぜ?」
 好きなんだったら、遊ぶだけでも、と友達は気前がいいけれど。子猫たちの飼い主も、お客様は歓迎らしいのだけれど…。
「ううん、いい…。どうせ飼えないし、欲しくなったら困るから…」
 行って来たら子猫の写真でも見せて、と断って、後にした教室。友達は他のランチ仲間の方へと走って行った。きっと土曜日の打ち合わせだろう。
(…子猫、ホントに飼えないし…)
 いいんだけどね、と向かったバス停。少し待ったらバスが来たから、乗り込んだ。いつもの席に座っている間に、もう着いた家の近くのバス停。其処から歩いて、帰った家。
 母がおやつを用意してくれて、ダイニングのテーブルで頬張ったケーキ。母の手作り。
(子猫に会いに行くだけだったら…)
 本当の所は、出掛けてみたい。白いのも黒いのもいるという五匹、きっと可愛いだろう子猫に。
 貰い手でなくても、子猫たちとは遊べるのだから。誰かが予約を入れた子猫でも、「ぼくも」と抱いたり、撫でてやったり。
(だけど、土曜日だったから…)
 子猫たちに会いに出掛けるのならば、ハーレイと会うのを断るしかない。「その日は駄目」と。
 恋人が来るのを断るだなんて、そんな悲しいことは出来ない。二人きりで会える週末の土曜日、それを自分から断るなんて。
 「もっと別の日に誘ってくれれば良かったのに」と、残念な気分。
 五匹の子猫に会いに行く日が別の日だったら、自分も一緒に行けただろうに。
(でも、土曜日と日曜日は駄目…)
 週末になったら、ハーレイが訪ねて来てくれるのが当たり前。誘ってくれた友達だって、直ぐに分かってくれたくらいに。「ハーレイ先生が来る日だよな」と。
 ハーレイに特に用事が無ければ、午前中から家に来てくれる。天気のいい日は歩いたりして。
(学校のある日も、放課後に来てくれたりするし…)
 考えてみたら、「行けそうな日」がまるで無い自分。
 子猫に会いに行かないか、と誘って貰っても。五匹の子猫と遊びたくても。



 空いている日は無いみたい、と戻った二階の自分の部屋。空になったケーキのお皿やカップを、キッチンの母に返してから。
(今日も時間は空いてるけれど…)
 学校が終わった後に予定は入っていないし、のんびりおやつを食べていたくらい。面白い記事が載っていないか、新聞を広げてみたりもして。
 自由に出来る時間はたっぷり、これからも予定は無いのだけれど。こんな日だったら、放課後に「行こう」と誘われたならば、子猫たちに会いに行けるのだけれど…。
(みんなと子猫を見に行ってたら…)
 きっと帰りは遅くなる。子猫たちと遊んだり、「この子を下さい」と予約する友達を眺めたり。飼い主の人も、おやつを出してくれたりもして「ごゆっくりどうぞ」と、大歓迎だと思うから…。
(じきに時間が経っちゃうよね?)
 放課後だから少しだけ、と思って行っても、アッと言う間に経つ時間。いつもより、ずっと遅くなるだろう帰宅。もしかしたら、すっかり日が暮れて暗くなってしまっているほどに。
(遅くなっちゃった、って家に帰ったら…)
 玄関を開けて「ただいま」と声を掛けた途端に、母に言われるかもしれない。「ハーレイ先生がいらしてたわよ」と、「おかえりなさい」の声の続きに。
(そんなの、困るよ…)
 ハーレイが部屋で待っていてくれたらいいのだけれども、とっくに帰ってしまっていたら。
 「ブルー君はお留守でしたか」と、そのまま戻って、停めてあった車に乗り込んで。
(何時に帰るか分かんないんだし、何処に行ったのか、ママも知らないし…)
 ハーレイは帰ってしまうのだろう。「来てみたが、今日は留守だったか」と、人影の無い二階の窓を見上げて。「あそこがブルーの部屋だよな」と、小さく呟いたりもして。
(ぼくが子猫と遊んでいる間に、そうなっちゃって…)
 家に帰ったら、いないハーレイ。
 子猫に会いに出掛けなかったら、ハーレイと過ごせていた筈なのに。この部屋で二人でゆっくり話して、両親も一緒に夕食を食べられる筈だったのに。
(…ぼくが出掛けていたせいで…)
 逃してしまった、ハーレイと二人でいられる時間。せっかくハーレイが来てくれたのに。



 そうなるのが嫌で、いつも放課後は家にいる自分。何処かに出掛けて行きはしないで。美容室に髪を切りに行ったりした日も、終われば急いで家に帰って。
 いつハーレイが来ても、「留守か」と言われないように。帰ってしまわれないように。
(今のぼくの時間…)
 まるで、ハーレイを中心に動いているよう。
 ハーレイが来るとは限らない日も、こうして家にいるのだから。「子猫たちに会いに行こう」と誘われたって、きっと「行かない」と断って。
(放課後に行こう、って話だったとしたって、行っちゃったら…)
 そういう日に限って、来そうなハーレイ。平日に家を訪ねて来る日は、予告なんかは全く無い。仕事が早く終わった時には来てくれるけれど、そうでない日は駄目だというだけ。
(学校で会っても、そういうことは何も話してくれないし…)
 「今日は帰りに寄れそうだ」とか、「行けそうにない」といった類のことは話してくれない。
 他の生徒もいるからだろうか、「ハーレイ先生」が大好きな生徒たち。彼らが「いいな」と指をくわえて見ていたのでは、なんだか可哀相だから。
(ぼくだけ特別扱いだものね?)
 いくら聖痕を持っている子で、ハーレイがその守り役でも。「時間が許す限りは、側にいる」という役目を背負っている立場でも。
(他の子から見たら、羨ましいだけで…)
 「ハーレイ先生を一人占め」なのが、今の自分。それが表に出過ぎないよう、学校の中では他の生徒と同じ扱い。「今日は帰りに寄ってやるから」とは言ってくれずに。
(そうなんだろうと思うけど…)
 お蔭で分からない、ハーレイの予定。家に来てくれるのか、そうでないのか。
 分からないから、毎日のように待つことになる。「来てくれるといいな」と窓の方を見て。
 ハーレイがチャイムを鳴らさないかと、耳を澄ませて。
(遊びに行こうって誘われたって、断っちゃって…)
 家に帰って、ただハーレイを待っている。来るか来ないか、まるで分からない恋人を。
 もしもウッカリ出掛けてしまって、会えるチャンスを逃したならば、悲しくなってしまうから。
 週末ともなれば、もう絶対に入れない予定。今日も、子猫の予約会を断って帰ったように。



 考えるほどに、ハーレイを中心に回っているのが自分の時間。
 週末はもちろん、今日のような平日の放課後だって。ハーレイに会える機会を逃さないように、自分だけの予定は一つも入れないで。
(ぼくの時間は、ハーレイを中心にして回ってて…)
 ハーレイの方でも、似たようなもの。
 仕事をしている大人なのだし、子供の自分ほどには「縛られていない」というだけで。あくまで大人の世界が優先、教師としても、「ハーレイ」という一人の人間にしても。
(先生同士のお付き合いとか、ハーレイの古い友達だとか…)
 柔道や水泳の先輩なども、チビの恋人より優先されることだろう。ハーレイが使える時間の中でやりくりするなら、チビの自分は後回し。
(ちゃんと「恋人です」って紹介できる恋人だったら、もうちょっと…)
 優先順位が上がりそうだけれど、今の所は「ただの教え子」。…聖痕を持っている子供だから、他の生徒よりは「側にいて貰える」というだけのことで。
(だけど、順番は後の方でも…)
 ハーレイが使う時間の中では、今の自分も軸の一つになっている。自分を中心に回る時もある、ハーレイの時間。
 週末は出来るだけ、予定を入れないようにして。平日だって時間を作って、仕事の帰りに家まで来てくれたりもして。
(なんだか、待ち合わせをしているみたい…)
 自分も、それにハーレイも。
 週末はともかく、今日のような平日はそうかもしれない。会えるかどうかは分からないままで。
(ハーレイの仕事が早く終わって、ぼくが家にいたら…)
 この部屋で会えて、ゆっくり話して、夕食は両親も一緒に食べる。食後のお茶を此処で飲む日も珍しくない。ハーレイが「またな」と立ち上がるまでは、二人きりで。
(そういう時間があったらいいな、って…)
 思いながらの待ち合わせ。
 本当に待ち合わせをするのだったら、時間も場所も決めるのだけれど、それは謎のままで。
 場所は「この家」でいいとは言っても、家の前とか、そういったことは決めていないのだから。



 お互い、相手に「会えるといいな」と思いながらの待ち合わせ。
 ハーレイは待っているのではなくて、「来る」のだけれど。自分は家で「待つだけ」だけれど。
 そうして会えたら、とても嬉しくて、駄目ならガッカリ。待ち合わせの約束はしていなくても。
(ハーレイが来てくれなかったら、ぼくはガッカリだし…)
 そのハーレイの方も、訪ねて来た時に「留守」だったならば、ガッカリだろう。子猫と遊ぼうと出掛けてしまって、家に帰っていないとか。…母も一緒に家を空けていて、誰もいないとか。
(そんなの、ハーレイに悪いから…)
 こうして今日のように待つ。何も予定を入れはしないで、「来てくれないかな?」と。
 ハーレイは、どうだか知らないけれど。今日は予定が入ってしまって、来られないとか。長引く会議に出席中とか、他の先生たちと食事を食べに行くことになったとか。
 そうなっていたら残念だけれど、ハーレイの予定は分からない。学校で会っても、何も話してはくれないから。「今日は行くから」とも、「行けない」とも。
(前のぼくたちだった頃には…)
 待ち合わせなどはしなかった。今のようなものも、本当の意味での待ち合わせも。
 恋人同士になった後にも、前の自分は、青の間でハーレイを待っていただけ。前のハーレイが、ブリッジでの勤務を終えて報告にやって来るのを。…キャプテンとしての一日の締め括りを。
(航宙日誌とかも、ちゃんと書いてから…)
 青の間を訪れていたキャプテン。報告を終えたら、もうキャプテンではなくなるから。
 恋人同士で過ごす時間で、次の日の朝まで、「キャプテン・ハーレイ」はいなくなるから。
(前のぼくは、待ってるだけで良くって…)
 待ち合わせなどはしていない。何処かに出掛けて待っていなくても、ハーレイは必ず来てくれたから。夜になったら、青の間まで。
 「来ないのだろうか」と心配することも無くて、どんなに遅くなった時でも、ハーレイは来た。前の自分が疲れてしまって、先に眠ってしまっていても。
 来てくれて当然だったハーレイ。だから待ち合わせはしていない。ただの一度も。
(視察に行く時にも…)
 ハーレイが迎えにやって来たから、やっぱりしていない待ち合わせ。
 ソルジャーとしても、ハーレイの恋人としても、前の自分はハーレイを待っていただけで…。



(やっぱり今と同じじゃない!)
 待ち合わせをしていなかっただけで、と気が付いた。前の自分も今と変わらない、と。
 今と同じに、ハーレイを中心に動いていた時間。意識していなくても、毎日がそう。前の自分のためだけにあった、あの青の間で一人、ただハーレイを待っていた。
 来る日も来る日も、夜になったら。
 「まだ来ない」だとか、「もうすぐだ」とか、サイオンを使ってハーレイの様子を探りながら。
 そして、あの頃のハーレイは…。
(ぼくを中心には動いてなかった…)
 ソルジャーだった前の自分はともかく、ハーレイの恋人だった方の自分は違う。前のハーレイが使う時間の中心ではなくて、いつも後回しにされていた。ハーレイはキャプテンだったから。
(夜までかかる仕事があったら…)
 当然のように、そちらが優先。恋人の所に駆け付けるよりも、シャングリラの方が大切だから。
 そうやって仕事を終えた時間が遅くなければ、報告のために急いで青の間に来ていたけれど…。
(あの報告を急いでいたのは、ソルジャーのためで…)
 翌朝まで報告を持ち越すよりは、と急ぎ足で通路を歩いていただけ。時には走ったりもして。
 「ソルジャー」が待っているのでなければ、ハーレイは急ぎはしなかっただろう。通路を走って来ることも。
 たとえ恋人を待たせていたって、キャプテンの仕事が最優先。忙しい日なら、訪ねられないまま終わったとしても仕方ない。「遅くなるから」と思念で一言、詫びておくだけで。
(謝った後は仕事に戻って、帰って行く先もキャプテンの部屋で…)
 ぐっすり眠って疲れを癒して、次の日に備えたのかもしれない。恋人の所に出掛けてゆくより、休息を取ることが大切だから、と。
(前のハーレイは、キャプテンだったから…)
 恋人同士になるよりも前から、「朝食はソルジャーと一緒に青の間で」という習慣が船に出来ていた。一日の予定などの報告を兼ねて、ソルジャーとキャプテンの二人で朝食。
 その習慣があったお蔭で、遅い時間になった時でも、ハーレイは青の間にやって来た。とっくに恋人は眠った後でも、次の日の朝に、朝食を一緒に摂るために。
 恋人が「ソルジャー」だったからこそ、来ていた青の間。キャプテンの部屋で眠る代わりに。



 前の自分が「ただの恋人」なら、前のハーレイの時間を縛れはしなかっただろう。自分を中心に時間をやりくりして貰うなどは、夢のまた夢で。
 白いシャングリラを預かるキャプテン、その職はとても多忙だから。恋人のために時間を割けはしなくて、「今日も行けない」と謝ってばかりの毎日だっただろうから。
(だけど、今だと…)
 ハーレイはチビの恋人のために動いてくれる。本当にチビで「キスも出来ない」自分のために。
 会いに行くための時間を作ろうと、懸命に。週末はもちろん、仕事がある日も。
(どうしても駄目な日も、多いんだけど…)
 待っていたって、チャイムが鳴らずに終わる平日も多いのだけれど。…そうでない日は、時間を作ってくれたということ。自分と出会うよりも前なら、ハーレイが好きに使っていただろう時間。それを恋人のために使って、この家を訪ねて来てくれる。
(ドライブに行ったり、ジムに出掛けたり…)
 幾らでもあった、ハーレイの時間の使い方。この家を訪ねて来ないのだったら、好きに使ってもいい時間は沢山。
 けれど、ハーレイはそうしない。仕事が早く終わった時には、必ず訪ねてくれるのだから。
 そう考えると、なんて幸せなのだろう。前の自分だった頃とは違って、ハーレイの時間を縛れる自分。「ソルジャー」ではなくて、「恋人」として。
(チビで、キスもして貰えないけど…)
 幸せだよね、と改めて思った自分のこと。
 「留守の間に、ハーレイが来たら大変だから」と待ってばかりで、放課後に友達と一緒に遊びに行けはしなくても。…「行こう」と誘われても、子猫に会いには行けなくても。
(子猫、可愛いだろうけど…)
 誘われた日が土曜日ではなくて、平日の放課後だったなら、と思わないではないけれど。子猫に会いに出掛けていたなら、駄目になりそうな待ち合わせ。
 時間も場所も決めていなくても、毎日がハーレイと待ち合わせのようなものだから。
(来てくれた時に家にいなかったら、ハーレイ、帰ってしまうから…)
 そうなるよりかは、こうして待っていたいと思う。子猫には会いに行かないで。
 今度は「恋人」の自分のために、時間を作ってくれるハーレイを。家を訪ねて来てくれる人を。



 ハーレイが来ない日になったとしても、「留守にしている間に来た」と後で知らされるよりは、ずっといい。友達と出掛けて留守の間に、訪ねて来て「留守か」と帰られるよりは。
(子猫と楽しく遊んだ後に、帰って来たら…)
 ハーレイも帰ってしまった後。母から「ブルーは留守です」と聞いて、車に乗って。ドライブに行くか、ジムに行くのか、ハーレイの好きに時間を使いに。
(そう聞いちゃったら、ガッカリで…)
 楽しく遊んだことも忘れて、気分がすっかり落ち込むのだろう。「行かなきゃ良かった」と。
 どうして遊びに行ってしまったのかと、子猫たちの可愛さも頭の中から消えてしまって。
(ホントにそうなっちゃうんだよ…)
 自分の頭をポカポカ叩いて、「ぼくの馬鹿!」などと怒ったりして。もしかしたらポロポロ涙も流して、「どうして遊びに行っちゃったの…?」とベッドの上で膝を抱えて。
 きっとそうだ、と考えていたら、聞こえたチャイム。窓に駆け寄ってみると、ハーレイが大きく手を振っている。門扉の向こうで。
(ハーレイが来るの、待ってて良かった…!)
 やっぱり子猫を見に行ってちゃ駄目、と弾ける喜び。誘われたのが土曜日でなくても、放課後に行ける平日だとしても、出掛けて行ったら後悔しそう。こんな風にハーレイが来る日だったら。
(きちんと家で待っていなくちゃ…)
 待っていたから会えるんだよ、と嬉しくてたまらない気分。「家にいて良かった」と。
 嬉しい気持ちは顔にも出るから、ハーレイとテーブルを挟んで向かい合うなり、問われたこと。
「お前、なんだか嬉しそうだな」
 今日はやたらと、顔が輝いてるように見えるんだが…。俺の気のせいか?
「違うよ、ホントに嬉しいんだよ。だって、ハーレイが来てくれたんだもの」
 それで嬉しくない筈がないでしょ、ハーレイはぼくの恋人だものね。…ずっと昔から。
 今のぼくたちになる前からね、と言ったのだけれど、ハーレイは怪訝そうな顔。
「恋人同士なのは間違いないが…。俺は何度も来てると思うぞ、この家に」
 しかし、今日みたいに嬉しそうな顔は、そうそう見ない。何かいいこと、あったのか?
「いいことって…。どっちかって言うと、その逆だけど…」
 とても素敵な話があったの、断って帰って来たんだけれど…。



 土曜日に子猫を見に出掛けるのを断ったのだ、と話したら。「それが放課後でも、行かない」と今の自分の気持ちを、ハーレイに正直に説明したら…。
「断ったって? お前、子猫と遊びたかったんだろう?」
 今からでも別に遅くはないしな、土曜日に出掛けてくればいいのに…。
 待ち合わせの場所と時間は聞いたんだろうが、その時間に行けば、まだ充分に間に合うぞ?
 素敵な話だと思うんだったら、行くべきだと俺は思うがな…?
 子猫を飼うのは無理にしたって、とハーレイは「行け」と勧めてくれた。五匹もいるという子猫たち。白いのも黒いのも、どの子猫たちも可愛い盛り。「遊ぶだけでも楽しいだろう」と。
「でも、ハーレイと会えなくなっちゃう…」
 土曜日はハーレイが来てくれる日だよ、予定があるとは聞いてないもの。
 子猫の予約会に行ってしまったら、土曜日はハーレイに会えないままだよ。ぼくは留守だから。
 来てくれたって家にいないんだもの、と瞬かせた瞳。「この部屋は朝から空っぽだってば」と。
「俺か? 俺は放っておけばいいだろ、子供ってわけじゃないんだから」
 お前が友達と出掛けるんなら、俺も何処かに出掛けるとしよう。行き先は幾つもあるからな。
 気ままにドライブするのもいいし、道場で指導するのもいいし…。
 どれにするかな、とハーレイが指を折り始めたから、「駄目だってば!」と止めにかかった。
「ハーレイには何も用事が無いのに、ぼくがいないからって出掛けるなんて…」
 会えないで土曜日が終わっちゃうなんて、そんなのは嫌。
 今日みたいに此処で会える日は全部、ぼくはハーレイに会いたいんだから…!
 「平日だって、ぼくは出掛けないよ」と、膨らませた頬。誘われたのが今日の放課後だったら、大変なことになっていたから。
 五匹の子猫とたっぷり遊んで、御機嫌で家まで帰って来たら、母が「おかえりなさい」の続きに告げること。「ハーレイ先生がおいでだったわよ」と。
 けれど、そのハーレイは帰って行った後。訪ねて来たのに、目当ての恋人が留守だったから。
「それはまあ…。そうなるだろうな、お前が留守なら」
 じきに帰ると言うんだったら、お母さんだって、客間や此処に通してくれるだろうが…。
 何処に行ったか分からない上に、戻る時間もまるで分からないとなったなら…。
 お母さんは俺を引き止められんし、俺の方でも居座るわけにはいかないってな。



 そんな図々しい真似が出来るか、とハーレイは帰ってしまうらしい。予想した通り、留守の間に来てしまった時は。…行き先も、家に戻る時間も分からない時は。
「ほらね、やっぱり帰るんじゃない…。ぼくが出掛けてしまっていたら」
 それは嫌だから、家にいようと思ったんだよ。今日みたいな日の放課後だって。
 ハーレイを家で待つのがいいよ、って考えていたら、ハーレイが来てくれたから…。
 ぼくの考え、間違ってなんかいなかったよね、って、とても嬉しくなって…。それでハーレイに訊かれちゃった。「何かいいこと、あったのか?」って。
 ホントはその逆だったんだけど、と残念ではある「子猫たちに会いに行けない」こと。この家でハーレイを待つのだったら、これから先もチャンスは無さそうだから。
「そうだったのか…。嬉しい反面、残念な気持ちもあるってことだな」
 俺には会えても、子猫たちには会えないから。…俺が来るのを待とうとしたら。
 まあ、その内にチャンスが巡って来ないとも言い切れないが…。俺に仕事が入っちまった時は、週末でも駄目な時はある。そういう時に、また誘われたりしたならな。
 それなら遊びに行けるだろうが、とハーレイは慰めてくれた。「俺の代わりに子猫と遊べ」と、「貰われて行くまでには、まだまだ日があるだろうしな」と。
「…そうかもね…。予約会なんだから、まだ暫くはお母さん猫と暮らすんだろうし…」
 もしもハーレイが来られない日になりそうだったら、あの友達に頼んでみるよ。子猫たちを見に行ってもいいのか、親戚の人に訊いてみて、って。
 でも、子猫たちと遊ぶよりかは、ハーレイを待っていられる日の方がいいかな…。
 だってね、今のハーレイだと…。
「俺がどうかしたか?」
 子猫に比べりゃ、可愛さってヤツがまるで無いんだが。…でっかく育っちまったから。
 見ての通りの図体なんだし、見た目も可愛いって年じゃないよな。ガキの頃なら、今よりは多少マシだったとは思うんだが…。
 それでも可愛くはなかったぞ、とハーレイは可笑しそうな顔で笑っている。子猫の方がずっと、可愛らしくてお得だろう、と。
 「こんな俺なんかを待っているより、子猫だ、子猫」と。
 白いのも黒いのもいる子猫たちに会いに行く方が素敵だろうと、ハーレイは笑うのだけれど…。



「…可愛さだったら、子猫の方がハーレイよりも上だと思うけど…」
 ぼくよりも可愛い筈だけれども、でも、ハーレイは子猫たちより素敵なんだよ。ずっと遥かに。
 恋人だから、っていうだけじゃなくて、今のハーレイだからこそ。今のハーレイにしか出来ないことだよ、ぼくが素敵だと思うことはね。
 今のハーレイは、前のハーレイと違って、ぼくのためにだけ時間を作ってくれるから…。
 週末もそうだし、今日だってそう。
 ぼくに会いに来るために、時間をやりくりしてくれてるでしょ、仕事を早く終わらせたりして。
 他の誰かのためじゃなくって…、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。前のハーレイなら、恋人の方の自分は後回しだったから。「ソルジャー・ブルー」は優先されても。
「そういや、そうか…。前の俺だと、ソルジャーのお前が優先か…」
 お前がソルジャーだったお蔭で、それで不自由は無かったんだが…。ソルジャーのために時間を割いたら、お前のために割いているのと同じだったから。
 報告に出掛けてゆくにしたって、お前の所へ急いで走って行くにしたって、同じことだったな。
 しかし、お前がソルジャーじゃなくて、他の仲間たちと同じミュウの中の一人だったら…。
 俺はキャプテンだったわけだし、そうそうかまってやれないか…。
 いつも「後でな」と後回しにして、「遅くなった」と謝ってばかりの毎日になって。
 前の俺たちのようにはいかないかもな、とハーレイは顎に手を当てた。「キャプテンだったら、恋人のために時間は割けん」と、「ソルジャーしか優先出来そうにないな」と。
「でしょ? 前のハーレイには無理だったんだよ」
 ぼくのためだけに、時間を作るのは。…キャプテンの時間を、恋人用にやりくりすることは。
 前のぼくはソルジャーだったお蔭で、ハーレイの時間を貰っていただけ…。
 ハーレイが時間を使う時には、その中心にいられただけ。恋人じゃなくて、ソルジャーだから。
 でもね、今だと、ハーレイの時間をぼくのものに出来る時もあるでしょ?
 普段は仕事や、ハーレイの先輩や友達なんかが、ハーレイの時間の中心になっていたってね。
 チビのぼくでも、ちゃんとハーレイに時間を作って貰えるから…。
 ソルジャーじゃなくて、ただの生徒で、ハーレイの教え子の中の一人でも。
 前のぼくには出来なかったことだよ、恋人用にハーレイの時間を貰うってことは。
 どう頑張っても無理なことだったし、前のハーレイだって、そうしないものね…?



 それに気付いたから幸せなのだ、と笑顔で話した。ハーレイが来る前に考えたことを。
 今はお互い、待ち合わせをしているようなもの。「会えたらいいな」と二人揃って。
 時間と場所とが決まっていないだけで、毎日、待ち合わせているみたいじゃない、と。
「そう思わない? ぼくはこの家でハーレイを待ってて、待っていたくて…」
 来てくれるかどうか分からなくても、留守にしたくはないんだもの。ハーレイが来た時に、家にいないと後でガッカリしちゃうから。
 ぼくはそうやってハーレイを待って、ハーレイの方も待ち合わせに急いでいるんでしょ?
 約束なんかはしていなくっても、ぼくに会えたら二人で話が出来るから…。今日みたいにね。
 待ち合わせの場所は決めてなくても、会えたらいいな、って仕事を早く終わらせたりして。
「ふうむ…。時間も場所も、決まってはいない待ち合わせなのか…」
 俺たちがこうして出会える時には、お互い、待ち合わせをしてるわけだな?
 場所はお前の家なんだが…。決まっているような気がしないわけでもないんだが…。
 そうか、待ち合わせか、お前と俺が会う時には。
 お前は俺が来るのを待ってて、俺はお前が待ってる所へ行こうと時間をやりくりしてる、と。
 上手くいったら会えるんだな、とハーレイも頷く「待ち合わせ」。会えずに終わってしまう日も多いけれども、今日のように会える時もあるから。
 ハーレイが時間を作りさえすれば、待っている自分が何処かに出掛けてしまわなければ。
「うん、待ち合わせ…。何も決めてはいないけれどね」
 ハーレイも、ぼくも、何処で会うのか、何時に会うのか、場所も、時間も。
 それでも会える時には会えるし、ちゃんと立派に待ち合わせだよ。自分の時間をどう使うのか、恋人を中心に考えていって。…ぼくも、ハーレイも、他の予定を入れないで。
 …前のぼくたちは、本物の待ち合わせもしていないけどね。恋人同士の待ち合わせは。
 何処で会うとか、何処に行くとか…、と前の自分たちが生きた時代を思う。白いシャングリラで暮らした頃には、無理だった。ハーレイと二人、恋人同士で待ち合わせをして会うことは。
 あの船がどんなに広くても。
 船で生きていた他の仲間たちが、公園などで恋を語らっていても。
 ソルジャーとキャプテンが船の中で二人一緒にいるなら、友達としてか、あるいは視察か。他に理由を作れはしない。恋人同士で出掛けたくても、待ち合わせなどをしたくても。



 長く二人で生きていたのに、誰にも言えなかった恋。明かせないままで終わってしまって、暗い宇宙に消えた恋。待ち合わせさえも一度も出来ずに、それきりになった恋人同士。
「前の俺たちは、難しい立場にいたからなあ…。シャングリラでは」
 ソルジャーとキャプテンが恋人同士なんだと知れたら、あの船はおしまいだったから。
 誰一人として、俺たちの意見を真面目に聞いてはくれなくて。…皆がそっぽを向いちまって。
 そうならないよう、恋を隠すしかなかったが…。待ち合わせなんぞは出来もしないで。
 しかし今度は出来るわけだな、今も待ち合わせをしてるんだから。
 時間も場所も決めちゃいないが…、とハーレイが笑む。「今日も、お前は待ってたっけな」と、「俺も待ち合わせに間に合ったようだ」と。
「そうだよ、毎日が待ち合わせ。…時間も場所も決めてなくても、恋人同士で待ち合わせだよ」
 ハーレイが来ないで終わっちゃった日は、ガッカリだけど…。
 子猫と遊びに出掛けた方が良かったのかな、と思っちゃう日もありそうだけど…。
「すまんな、そういう日も多いから…」
 こればっかりは仕事の都合で、俺の付き合いというヤツもある。…他の先生と食事だとかな。
 その日に決まることも多いし、どうすることも出来ないんだが…。
 学校でお前に言ってやろうにも、他の生徒が羨ましそうに見そうだからなあ、「会うんだ」と。会えない日の方が多いにしたって、会える日の方が断然、目立つだろ?
 それに「会える」と話した後でだ、何か用事が入っちまったら、待ちぼうけをさせてしまうってわけで…。だから予告は出来ない、と。
 もっとも、それも今だけのことだ。
 お前が大きくなった時には、もう待ち合わせは要らないからな、とハーレイが言うから驚いた。
「え? 要らないって…。どういうこと?」
 ぼくが大きくなった時でしょ、前のぼくと同じ背丈になって…?
 それならデートに行くんだろうし、そういう時には、待ち合わせ、しない?
 いろんな所で、恋人と待ち合わせをしている人たち、いるじゃない。
 公園の入口とか、喫茶店とか…、と思い付いた場所を挙げてみた。そういった所は、カップルの待ち合わせ場所の定番。チビの自分でも知っているほどに、恋人たちを見掛ける場所。
 デートに行く前に時間を決めて、お互い、其処へと出掛けて行く。二人で過ごす一日のために。



 今の自分も大きくなったら、そうするのだろうと思ったのに。
 ハーレイとデートに出掛ける時には、恋人同士で待ち合わせなのだと考えたのに…。
「俺がお前を待たせるわけがないだろう。…公園にしても、喫茶店にしても」
 お前を待たせる暇があったら、家まで迎えに来るもんだ。俺が早めに家を出て来て。
 車でドライブってわけじゃなくても、此処まで迎えに来ないとな。デートの時には、俺が必ず。
 そいつが俺の役目だろうが、とハーレイは迎えに来るつもり。待ち合わせをする代わりに、この家のチャイムを鳴らして、「さあ、行こうか」と。
「迎えに来るって…。本当に?」
 そんなの、ハーレイ、面倒じゃないの?
 ドライブに出掛けて行く時だったら、迎えに来るのが普通かもだけど…。そうじゃない時まで、家に迎えに来なくても…。ぼくの方なら、待ち合わせでかまわないんだけれど…?
 公園でもいいし、喫茶店でも、と思ったままを口にした。待ち合わせも、きっと幸せだから。
 約束の時間より早く着いても、ハーレイが来そうな方を眺めて待つ。「遅いよ!」などと怒りはしないで、「もうすぐ来るかな?」とワクワクしながら。
「待ち合わせ自体はいいんだが…。お前、丈夫じゃないからなあ…」
 前と同じに弱い身体に生まれちまったし、これからも弱いままなんだろうし…。
 待ち合わせ場所まで出て来いだなんて、言えるもんか。
 此処は地球だぞ、シャングリラの中とは違うんだ。待ってる間や、其処まで行く間に、いきなり雨が降って来るとか、思ってたよりも寒い日になってしまうとか…。
 それじゃ駄目だろ、お前の身体が悲鳴を上げちまう。デートに出掛けるよりも前にな。
 用心のためにも、俺が此処まで迎えに来る、という言葉。
 車で出掛けるわけではない日も、場合によっては車を出して。「この方がいい」と判断したら。
 待ち合わせをしない代わりに臨機応変、どんな時でも、恋人の身体に負担をかけないように。
 そして結婚した後は…。
 やはり無いという待ち合わせ。ハーレイは自信たっぷりで言った。
 「待ち合わせは、もう要らんだろう」と。「いつも一緒だし、必要ないぞ」と。
「でも、ハーレイの仕事の帰りとかに…」
 待っているっていうのは駄目なの、仕事に行く時は、ハーレイは一人なんだから…。



 ちょっと何処かで待ってみたいよ、とハーレイにぶつけてみた、おねだり。
 学校の近くの喫茶店で待って、一緒に食事に出掛けてゆくとか、そういう幸せな待ち合わせ。
「近くの店なあ…。お前が待ってみたいんだったら、それも悪くはないんだが…」
 俺が家まで迎えに帰った方が良くないか?
 仕事に行くなら車なんだし、家に帰るのも早いから。…お前もその方が楽だぞ、きっと。
 用意だけして家で待ってろ、とハーレイは言ってくれるのだけれど、待ち合わせだってしたいと思う。結婚前には出来ないのならば、結婚した後でかまわないから。
「ううん、たまには待ってみたいよ。…でも、結婚前のデートの時には駄目なんでしょ?」
 それなら、結婚しちゃった後。ハーレイが仕事に行っている日に、待ち合わせ。
 今のぼくだと、今日みたいに待っているんだもの。時間も場所も決めないままで。
 そんな待ち合わせが終わった後には、もう待ち合わせが無いなんて…。つまらないでしょ、前のぼくたちは待ち合わせをしていないんだから。…恋人同士の待ち合わせをね。
 だからやりたい、と強請った待ち合わせ。結婚して二人で暮らし始めたら、ハーレイが出掛けた仕事先の近くの、何処かで待って。
「お前がしたいと言うのなら…。「駄目だ」と止めるわけにはいかんな」
 だったら、お前が元気な時で、天気のいい日。そういう時なら許してやろう。待っているのを。
 それでいいなら、仕事の帰りに待ち合わせをして出掛けてやるが…。
 あくまで俺の車でだぞ、と念を押された。「もう遅いんだから、歩くのは駄目だ」と。
「いいよ、ハーレイの車でも。…ぼくは何処かで待っているから」
 喫茶店がいいかな、って思っていたけど、本屋さんも退屈しなくていいかも…。
 ハーレイの仕事が終わる時間まで待っているから、会えたら一緒に出掛けようよ。遅くなっても平気だから。…ハーレイ、ちゃんと来てくれるしね。
「遅くなっても、って…。お前、無理はするなよ?」
 待ってる間に気分が悪くなったら、帰っちまっていいんだぞ?
 店の人に伝言を頼んでおくとか、学校に電話してくるとかして。…「先に帰る」と。
「無理なんか、ぼくはしないってば!」
 駄目だと思った時は帰るよ、我慢していつまでも待っていないで。
 家に帰って大人しくするから、そうじゃない時は二人で出掛けなくっちゃね…!



 無理をして待ったりは絶対しない、と約束をした。
 具合が悪くなりそうだったら、諦めて家に帰るから、と。待ち合わせは次のお楽しみにして。
(せっかくハーレイと出掛けるんだし、その後で、ぼくが寝込んじゃったら大変…)
 ハーレイは「俺のせいだ」と慌てそうだから、そうならないよう、気を付けよう。余計な心配をかけないように、「また行こうな」と言って貰えるように。
 今も待ち合わせのような毎日だけれど、いつかは本物の待ち合わせをしたい。
 お互いの時間の都合を合わせて、食事やドライブに出掛けてゆく。ハーレイと二人で。
 シャングリラでは一度も出来なかったから、きっと楽しいに違いない。
 ハーレイが遅れてやって来たって、自分が早く着きすぎたって。
 出会えた後には、二人きりで出掛けてゆくのだから。
 好きに時間を使えるわけだし、恋人同士の素敵な時間が始まる合図が待ち合わせだから…。



            待ちたい時間・了


※前のブルーも、今のブルーも「ハーレイを待っている」わけですけど、違った状況。
 ハーレイの時間が「本当の意味で」ブルーを中心に回っているのは、平和な時代だからこそ。
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(天才作曲家…)
 うーん、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 SD体制の時代よりも遥かな昔に、「神童」と呼ばれたモーツァルト。前の自分も、彼の名前は知っていた。「かつて、そういう作曲家がいた」と。
 神童だけあって、最初の作曲は五歳の時。誰が聞いても幼児な年齢、今も昔も。
(この時代だから、天才作曲家になれたんだ…)
 新聞には、そう書いてある。天才作曲家が生まれた背景について。
 モーツァルトが生きた頃の時代は、人間は地球しか知らなかった。空を飛ぶ術も無かった時代。もちろん子供は自然出産、養父母ならぬ乳母や養育係に育てられた子もいたのだけれど…。
(才能を見せた子供を、そのまま親が育ててたから…)
 天才作曲家が誕生した。他の分野にも大勢の天才、早くに親元を離れた子でも。親を亡くして、あちこちの家を転々とした子供でも。
 彼らに共通していたことは、「記憶を失わなかった」こと。生まれた時からの一切を。
 けれど、SD体制の時代では、そうはいかない。十四歳になった子供は記憶を処理され、大人の社会へ旅立ってゆく。生まれ育った故郷を離れて。
 幼少期に見せた優れた才能、それについては、機械が記憶を消去する時に…。
(消さずに残しておいたけれども、才能、上手く開花しなくて…)
 どんな分野にも、群を抜いた天才は出なかった。後の時代にも称えられるほどの才能を持った、優れた者は。
(SD体制が終わったら…)
 現れるようになった神童たち。モーツァルトのように、幼少期からの才能を伸ばし続けて、その名声を轟かせる者。様々な分野で頭角を現し、語り継がれる偉大な天才たち。音楽家や、画家や。
(SD体制は文化と相性が悪かったものね?)
 多様な文化を消してしまって、一つに統一していた機械。その方が統治しやすいから。
 文化と相性が悪い時代なら、芸術の天才が現れないのも当然だろう。芸術は文化なのだから。
 芸術でなくても、きっと多くの才能の芽を摘んでしまったに違いない。
 記事には書かれていないけれども、一事が万事。子供時代に示した才能、それを見事に咲かせる代わりに、凡庸な人生を歩んだだろう人類たち。…どの分野でも。



 天才が生まれて来なかった時代。機械が統治していたせいで。
(記憶処理なんかをするからだよ)
 きちんと記憶が残っていれば、結果は違っていたんだから、と戻った二階の自分の部屋。新聞を閉じて、空になったカップやお皿をキッチンの母に返しに行って。
(…記憶がきちんと残っているのと、消えちゃったのとでは…)
 その後も変わってくるだろう。人は幾つもの経験を積んで、才能を開花させるもの。自分の力で道を見付けて、「これが自分にピッタリの道」と。
 機械が記憶を消した時代は、そうではなかった。才能を見せた子供がいたなら、それを生かせる道を機械が選ぶけれども、持っては行けない子供時代の記憶の全て。
(技術とかならそれでもいいけど、芸術の方は…)
 成人検査を境に途切れる、天才への道。どれほどの才能を持っていようとも、子供時代の記憶を失くせば消える天才の資質。才能を育んだ過去と一緒に、基盤が消えてしまうのだから。
(どういう切っ掛けで、どういう風に…)
 作曲したのか、絵を描いたのか。それが消えれば、どうにもならない。
 魂を失くしているのと同じで、もう蘇りはしない過去。インスピレーションも、何もかもが。
(そうなっちゃったら、誰だって…)
 神童と呼ばれた頃の才能は引き継げない。開花させてゆくことも出来ない。
 「自分」という人間が何者なのか、それも掴めない状態では。「今の自分」が出来上がるまでの記憶を消された、根無し草では。
(機械は上手にやったつもりでも、人間の心というヤツは…)
 そう単純じゃないんだから、と前の自分は知っている。
 成人検査で過去の記憶を消してしまうのは、機械に都合がいいというだけ。人間には、何の益も無いこと。…人間の方に、そういう自覚が無かっただけで。
(SD体制に疑問を持ったりしないように…)
 記憶を消去し、御しやすくしたのが成人検査。
 機械はそれで良かったけれども、幾つもの弊害が生まれ続けた。そしてどうやら、神童さえもが才能の芽を摘まれたらしい。
 ミュウが端から滅ぼされたのとは別の次元で、あの忌まわしい機械のせいで。



 SD体制が敷かれた時代は、出ずに終わった天才たち。消えてしまった優れた才能。
 前の自分たちは、成人検査と過酷な人体実験のせいで、子供時代の記憶を全て失くした。検査をパスした人類以上に、何もかもを、全部。
(なんにも思い出せなくて…)
 養父母の顔も、生まれた家も、おぼろにさえも浮かばないまま。
 メギドの炎で燃えるアルタミラから逃げ出したミュウは、一人残らずそうだった。誰も覚えてはいなかった過去。何処で育ったのか、どういう暮らしをしていたのかも。
(前のぼくたちだって、記憶を失くしていなかったなら…)
 凄い芸術家が、船で生まれたりもしたのだろうか。画家や音楽家や、他にも色々な才能が。
 ミュウの船では、行われなかった成人検査。白いシャングリラに来た子供たちは、機械に記憶を消されはしない。ミュウの世界に、成人検査は無いのだから。
 あの船にいた子供たちと同じに、前の自分たちも、子供時代の記憶を一つも失うことなく、船で暮らしていたならば…、と、考えてみた。
 誰か芸術家になっていたかも、と古参の者たちの顔ぶれを。ゼルやブラウや、ヒルマンたちを。
 芸術とは無縁な彼らだったけれど、記憶を失くしていなかったなら…。
(…ゼルたちでなくても、アルタミラから一緒だった仲間の中の誰かが…)
 とても見事な絵を描いたとか、作曲の才能を持っていたとか。その可能性はゼロとは言えない。成人検査と人体実験が記憶を白紙にしなかったならば、いたかもしれない芸術家。
(…芸術家…?)
 そういえば、と思い出したこと。
 芸術家に心当たりは無いのだけれども、発表の場ならあったっけ、と。
 白いシャングリラにあった劇場。ブリッジが見える船で一番広い公園、あそこに劇場が作られていた。野外劇場といった趣の、階段状になった観客席を設けたものが。
(古代ギリシャ風とか、ローマ風とか…)
 遠い昔の半円形の劇場、それに似ていたシャングリラの劇場。白い石で出来ていた観客席。
 船の中だから屋根は要らないし、観客席だけがあれば良かった。階段状になった席から、舞台を見下ろすことが出来れば。…催し物を楽しむことが出来れば。
 劇場は、芸術の発表の場所。音楽にしても、演劇にしても、踊りにしても。



 公園にあった、白い野外劇場。あれはいったい、誰が作ろうと声を上げたのだろう?
 発表の場ではあったけれども、あの劇場を思い付いた者は誰だったのか。
(ぼくは劇場では、何もしてないし…)
 子供たちが主役の芝居や、歌の発表会を見に行っただけ。観客席に座って眺めただけ。其処から拍手を送ってみたり、舞台の子たちに手を振ったりして。
 観客だっただけで、何も発表していなかった前の自分。歌いもしないし、芝居に出演したことも無い。舞台に立ちたいと思ったことも。
(自分が出たいと思わないなら、劇場なんか…)
 作ろうと言いはしないだろう。それが欲しいと思いはしないし、芸術とも無縁だったのだから。
 前の自分はそういった風で、ゼルたちも同じだったと思う。劇場で歌を歌いはしないし、芝居で舞台に立つことも無くて。
(それとも、忘れちゃってるだけ…?)
 今の自分に生まれ変わる時に、何処かに落としてしまった記憶。あるいは埋もれている記憶。
 そのせいで「知らない」と考えるだけで、本当はゼルたちも劇場の舞台で歌っていたとか、演劇などに出ていただとか。自分が覚えていないからといって、「無かった」と言うのは難しい。
(劇場は、ちゃんとあったんだしね…)
 それが必要だと思った誰かが、あの船にいた。白い鯨になる前の船に。
 誰だったのかは分からないけれど、芸術を愛していたのだろう誰か。発表の場になる劇場が船にあればいいのに、と考えた誰か。
(設計段階から組み込まないと、劇場は無理…)
 公園の斜面を利用する形で設けられていた、階段状の観客席。古代の劇場を真似た形の。
 白かった石は、何処かの星から採取して来た、本物の大理石だっただろう。本物が手に入るのであれば、合成品などは使わないのが改造の時の方針だから。
(あれだけの量の大理石だと…)
 纏めて採掘、それから加工。劇場の舞台と、観客席とを築き上げるために。
 一日や二日で出来るわけがない、採掘と加工と、劇場の建設。斜面の傾斜に合わせて石を積み、観客席の形に仕上げてゆくことは。
 それだけの工事が必要なのだし、後から作ってはいないと思う。公園と同時に出来ていた筈。



 きっとそうだ、と今の自分でも分かること。あの劇場は最初から公園にあったものだ、と。
(白い鯨になってからだと、色々、大変なんだから…)
 部屋の改築とは比較にならない手間がかかるのが、大理石を使った劇場作り。船に大理石の用意などは無いし、採掘から始めなければいけない。大理石がある星を探して。
(アルテメシアに着いてしまったら、もう探しには行かないし…)
 それよりも前の時期にしたって、劇場作りのためだけに航路を変更したりはしないだろう。行き先を決めない旅の途中でも、「大理石が欲しい」というだけのことで、採掘の旅を始めるなどは。
(やっぱり、最初からあったんだよね…?)
 どう考えても、それが一番自然なこと。公園を整備してゆく時に、劇場も其処に組み込むのが。
 けれど、劇場を思い付いたのは誰なのか。誰が「作ろう」と提案したのか、その辺りが謎。
(言い出しっぺは、誰だったわけ…?)
 芸術などとは無縁そうな船で、「劇場が欲しい」と考えた仲間。劇場の舞台で歌いたかったか、芝居をしようと夢を見たのか。
(歌も、お芝居も…)
 記憶にあるのは子供たちばかり。アルテメシアで船に迎えた、ミュウの子供たち。機械に記憶を消されはしないで、船で育った子供たちしか思い出せない。
(だけど、誰かが言い出さないと…)
 船に劇場は無かった筈。子供たちを船に迎えてからでは、あの劇場を作れはしない。野外劇場のような立派な劇場を公園に作るのは無理で、歌や芝居の発表会をしたいなら…。
(天体の間を使えばいい、って…)
 誰かが口にしただろう。元々、集会の場として設けた部屋だし、充分、使える。階段もあって、上の階から下を見下ろす観客席も可能な構造。
(同じ高さのフロアにしたって…)
 前の方の仲間は直接床に座らせたならば、幾らでも作れる観客席。舞台代わりになるスペースを決めて、その周りを区切っていったなら。椅子を並べたり、敷物を敷いてみたりもして。
(子供たちの発表会なんだから…)
 それで充分。劇場を新しく作らなくても、天体の間で出来る発表会。
 子供たちが船に来てからだったら、そうなったろう。「発表会なら、天体の間で」と。



 なのに、シャングリラにあった劇場。子供たちの姿がまだ無い頃から、アルテメシアに辿り着く前から。…劇場で何か発表したいと、考えそうな者がいない頃から。
(ホントに誰だったんだろう…?)
 劇場を作ろうと思った仲間。それが欲しいと言い出した誰か。
 いくら記憶を手繰ってみても、まるで見えない「誰か」の面影。「ホントに謎だ」と頭を抱えてしまった所へ、聞こえたチャイム。上手い具合に、仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、早速、訊いてみることにした。テーブルを挟んで、向かい合わせで。
「あのね、ハーレイ…。劇場のことを覚えてる?」
「劇場だって?」
 何処の劇場だ、とハーレイは怪訝そうな顔。「劇場と言っても色々あるが」と、今の時代にある劇場を思い浮かべているようだから…。
「今のじゃなくって、シャングリラのだよ。公園に作ってあったでしょ?」
 ずっと昔の野外劇場みたいなヤツが。白い大理石で、階段みたいな観客席になってた劇場。
「ああ、あれか。…もちろん、俺も覚えているが?」
 ブリッジからもよく見えていたしな、忘れるわけがないだろう。あれは立派な劇場だったし…。
 あそこで何かやってる時には、ブリッジまで声が聞こえたもんだ。歌も、芝居も。
 子供たちが賑やかにやっていたよな、とハーレイも懐かしんでいる。劇場のことを。
「あの劇場…。誰が言い出したか、覚えていない?」
 きっと最初から、公園にあったと思うんだけど…。子供たちが来てから作ったんじゃなくて。
 後から作るのは大変そうだし、そうするよりかは、天体の間を使った方が早そうだから…。
 子供たちの歌やお芝居だけなら、天体の間があれば充分だしね。
 だから劇場は最初からあって、白い鯨に改造する時に「作ろう」って決めて作ったもの。それを言ったの、誰だったのかを覚えてないかな、ハーレイだったら…?
 ぼくは忘れてしまったみたい、と項垂れた。「少しも思い出せないんだよ」と。
「それはまあ…。改造計画の中心だったのは、ゼルやヒルマンたちだしなあ…」
 ソルジャーのお前は、報告を聞くとか、そういった立場だったから…。
 忘れちまっても無理はあるまい、細かいことは。どういう具合に進めていたかも。
 俺の場合はキャプテンだったし、そんなわけにはいかないが…。船全体を掴んでいないとな。



 劇場のことも覚えているぞ、とハーレイは大きく頷いた。「忘れちゃいない」と。
「あれを作るんだ、と言い出したヤツも覚えてる。最初から船にあったこともな」
 今のお前が言ってる通りに、あの劇場は公園と一緒に作ったヤツだ。後からじゃなくて、公園の計画を立てた時には組み込まれてた。此処に劇場、というプランがあって。
「…それ、誰だったの?」
 公園に劇場を作る計画を立てたのは?
 まだ子供たちもいなかった船だよ、劇場を作って、何をしようとしていたわけ…?
 歌やお芝居の発表会かな、と傾げた首。そういうものしか思い付かないし、前の自分が観客席に座って観たのも、子供たちの歌や演劇などだったから。
「モノが劇場なんだから…。好きそうなのは誰か、お前だって見当がつくと思うが?」
 ああいったものが好きだったヤツだ、あの船の中で。…アルタミラからの脱出組でな。
 俺ではないが、とハーレイが除外した「自分」。前のハーレイではないらしい。劇場で何か披露したいと考えた「誰か」は、ハーレイを除いた仲間の中の一人。
「…ゼルだったのかな?」
 そうなのかも、と挙げてみた名前。若かった頃のゼルの姿が浮かんだから。
「ゼルだって? どうしてゼルの名前が出るんだ」
 よりにもよって、という言葉からして、ゼルではなかったのだろう。公園を作りたがった仲間は他の誰かで、ゼルではない。
「だって、ゼル…。若い頃には、よく歌っていたから…」
 気分がいい時は、でたらめな歌を。「俺が一番強い」とかね。ハーレイも忘れていないでしょ?
 ゼルが何度も歌ってたこと、と理由を話した。「だからゼルかと思っちゃった」と。
「歌なあ…。確かに上機嫌で歌ってはいたが、それだけだったぞ」
 あれは芸術とは言えなかったな。芸術とは呼べない代物だったと俺は思うが…?
「芸術?」
「そうだ、芸術だ。劇場で披露するとなったら、やはり芸術が相応しい」
 ゼルが好き勝手に歌ってた歌では、まるで話にならないってな。
 同じ歌でも、きちんとしたヤツ。ずっと昔から歌い継がれた歌を歌うとか、そんなのでないと。
 あの劇場が生まれた理由は、芸術の発表の場としてだから。



 芸術的な歌を歌えないゼルは全く無関係だ、とハーレイが切って捨てたゼル。楽しそうに歌っていただけのゼルは、芸術とは無縁の輩なのだ、と。
「いいか、あそこに劇場を作った理由は、だ…。前のお前が絵本を残させたのと同じだ」
 絵本を読む子供は誰もいないのに、お前、絵本を残させていただろう?
 「これを読む子が、いつか来るかもしれないから」と。…古くなった絵本も、ちゃんと大切に。
 それと同じで、ミュウの未来を見詰めていたのがヒルマンとエラで…。
 絵本の話で、あいつらも思い付いたんだろう。シャングリラの未来の可能性ってヤツを。
 いつか子供たちが船に来ると言うなら、情操教育も必要になる、と言い出したわけで…。
 其処から劇場に繋がったぞ、というハーレイの話で蘇った記憶。前の自分も出ていた会議の席。
「思い出したよ…!」
 エラとヒルマンだったっけね。劇場が欲しいって言い出したのは。
 ブリッジの周りの広いスペース、本当は何も作らない予定だったのに…。危ないから。
 船が攻撃された時には、ブリッジの辺りは集中的に狙われるだろうし、何も作らずに放っておくつもりだったのに…。みんなが公園を欲しがっちゃって…。
 それで公園が出来ちゃった、と浮かべた苦笑。
 公園は本来、避難場所にもなるべき空間。危険な区域を公園にするなど言語道断、どんなに広いスペースだろうと、ブリッジの周りは無人の区画にしておくべき。
 けれど、緑の大切さを知った船の仲間たちは、「公園にしたい」と譲らなかった。避難場所には使えなくても、攻撃されたら退避しかない公園でもかまわないから、と。
 其処まで皆が望むのならば、とブリッジの周りは公園として整備することになった。何処よりも広い空間を持った、シャングリラ最大の公園に。
(それが決まったら、ヒルマンとエラが…)
 公園に欲しい、と言い出したのが劇場だった。
 「そんなに広い公園を作ると言うのだったら、其処に劇場を作りたい」と。
 スペースは充分すぎるほどにあるし、憩いの公園の中に劇場。それがあったら役立つだろうし、公園ならば観客も多く集まりやすい。「何かやっている」と気付けば、行けばいいのだから。
 わざわざ皆を呼び集めずとも、観客の方から舞台を覗きに来てくれる。公園という場所に作っておいたら、居合わせた者たちが気軽に、気楽に。



 ヒルマンとエラが出した案。一番広い公園の中に、皆が立ち寄れる劇場を一つ作ること。
「劇場じゃと? その劇場でワシが歌うのか?」
 歌うのはワシも好きじゃがのう…、と応じたゼル。「じゃが、ワシの歌で人が集まるか?」と。
「ゼルの歌だけじゃ無理だろうさ。お世辞にも上手くないからねえ…」
 あたしたちも歌うことになるのかい、とブラウが尋ねた。ゼルの歌だけで人は集まらないから、他にも歌い手が必要なのか、と半ばおどけて。
「それは好き好きだが…。ゼルもブラウも、歌いたいなら歌ってくれればいい」
 劇場を作るということになれば、誰が使うのも自由だろう。公園は公共のスペースだから。
 それに今の船では、これという才能を持った仲間もいないのだがね…。
 歌にしても、演劇などにしても…、とヒルマンは実に正直だった。劇場を作って貰えるくらいに素晴らしい才能、「それは船には無いのだ」と。
 けれども、それは今だけのこと。アルタミラから脱出して来た者たちの中には「いない」だけ。
 「いつか子供たちを、この船に迎えられたなら…」と、話したヒルマン。
 機械に記憶を消されていない子供が来たなら、目を瞠るような才能が育つ可能性がある、と。
「才能だって…?」
 それはどういう意味なんだい、と前の自分は問い返した。「才能」という言葉の意味なら分かるけれども、ヒルマンの意図が掴めない。
 機械に記憶を消されていない子供だったら、どんな才能を持つと言うのか。才能は個人が持っているもので、それぞれの資質の問題なのでは、と。
「言葉通りに才能です、ソルジャー。…私たちの仮説に過ぎないのですが…」
 ヒルマンと考えてみたのです、とエラがヒルマンの代わりに答えた。
 遠い昔には何人もいた、「神童」と呼ばれた子供たち。幼い頃から、飛び抜けた才能を輝かせる子供。とても小さな手で大人顔負けの演奏をしたり、作曲をしたり。
 誰もが驚く、見事な絵を描く子供たちもいた。彼らは長じて天才と呼ばれ、後の時代にも名前を残した。天才画家とか、天才作曲家などと褒め称えられて。
 ところが、SD体制の時代に入った後には、途絶える記録。
 何百年も経っているのに、一人も現れない天才。どの分野にも、優れた才能を持った人物は誰も姿を現さないまま。皆が等しく教育を受けて、才能を生かせる道に進んでいる筈なのに。



 SD体制が始まってからは、見られなくなった「天才」たち。かつては何人もいたというのに、今の時代ならば、より才能を上手く伸ばせる筈なのに。
「もしかしたら、と考えたのだよ。…天才と呼ばれた人物の多くは、神童だった」
 中には遅咲きの天才もいたし、全てがそうだとは言わない。だが、遅咲きの天才も、神童だった天才の方も、共通していることはある。…彼らは誰も、子供時代を失くしてはいない。
 今の時代は、機械が記憶を処理してしまう。成人検査で、子供時代の記憶の殆どを曖昧にして。
 それが影響しているのかもしれない、と思ってね…。
 才能が芽生えた子供時代を、機械が処理してしまうから…。才能は残したつもりでいても、人の心は複雑なものだ。記憶の全てが揃っていてこそ、天才になれると思わないかね…?
 あらゆる要素が絡み合って初めて、天才と呼べる才能がこの世に生まれるのでは、とヒルマンは自分の見解を述べた。「今の時代のシステムの中では、天才は生まれそうにない」と。
「私も同じ考えです。ヒルマンと何度も話し合う内に、そうではないかと思い始めました」
 ですから、いつか私たちの船に、子供たちを迎えられたなら…。
 記憶処理をされていない子たちを迎えられたら、素晴らしい才能が目を覚ますかもしれません。
 その時に備えて、劇場が欲しいと思うのですが…。ヒルマンも、私も。
 公園の中に作りたいのです、とエラは願ったし、ヒルマンも「欲しい」と望んだ劇場。
 ブリッジの周りに広い公園を作るのだったら、劇場も其処に作っておきたい、と。
「同じ作るのなら、古代風の劇場にするのがいいと思うのだがね?」
 人間が自然と共に暮らして、芸術を愛した昔のような劇場がいいね、どうせなら。
 古代ギリシャや、ローマといった時代の劇場が似合いそうだよ。公園の中に作るのならば。
 観客席が階段のようになっていてね…、とヒルマンは具体的なイメージを既に頭に描いていた。白い大理石を使った劇場がいいと、遠い昔の劇場の姿を真似てみようと。
「ほほう…。悪くないのう、気に入ったわい」
 これならば手間もさほど要らんし、とゼルが賛成した古代風の劇場。
 大理石の採掘や加工は必要だけれど、他には特にかからない手間。公園の端の方に出来る斜面を利用し、階段のように客席を作ってゆくだけだから。
 舞台も大理石を敷くだけでいいし、天井も壁も必要としない。それでいて、威厳がある佇まい。
 古代風の白亜の劇場となれば、小さいながらも、きっと立派なものになるから。



「そっか…。ヒルマンの意見で、古代風の劇場になったんだっけ…」
 すっかり忘れてしまっていたけど、ちゃんと理由があったんだね。ずっと昔の劇場風に、って。
 ああいう劇場、今の時代の劇場とは全く違うけど…。
 シャングリラの写真集しか知らない人だと、説明を読まないと、何の施設か分からないかも…。
 完全に古代風ってわけでもないし、と思い浮かべてみた劇場。本物の古代ギリシャやローマ風の劇場だったら、半円形にすべきだから。ただの階段状ではなくて。
「前の俺たちが生きてた時代にだって、ああいう劇場は無かった筈だぞ」
 劇場と言ったら建物の中だ、SD体制の時代には。…野外劇場なんかは無かった。
 今の時代なら、古代風のも探せば無いことはないだろう。野外劇場も珍しくない時代だから。
 それに平和な時代だからな、とハーレイが笑む。「文化も沢山復活してるし、古代風のが好きな人たちも多いから」と。
「今の時代なら、昔のとそっくりに作れそうだけど…。ちゃんと半円形にして」
 でも、シャングリラだと真似事だったね、其処まで凄いのは作れなくって。
 だけど、それでも文化を復活させてたことになるのかな…。ぼくたちの船で。
 昔の通りには作れなくても、古代風の劇場を目指して作って、それを使っていたんなら…。
「そうなるな。…一足お先に、文化の復活をやっていたようだ」
 ミュウの時代も来ない内から、ずいぶんと気の早い話だが…。
 子供たちさえ来ていなかった船で、いったい何をしてたんだかな…?
 使い道も特に思い付かない劇場なんて…、と今のハーレイでも思う劇場。船の改造の必要性なら皆が感じていたことなのだし、誰も不思議に思いはしない。公園を作る計画も。
 けれど、皆が望んだ、船で一番大きな公園。ブリッジの周りのスペースを生かした、何処よりも広い公園の中に「劇場が出来る」と聞いた仲間たちは驚いた。
 其処で何をすればいいのだろう、と。
 劇場などとは無縁だったのが船の仲間で、使い方さえピンと来ないのだから。
 どうすれば、と途惑う仲間たちを前にして、前の自分は微笑んだ。
 「思い付いた人が、好きに使えばいいと思うよ」と。
 音楽だろうが、芝居だろうが、誰もが好きに使ってこそ。公園の中に設けるのだから、使い方は皆のアイデア次第。娯楽用の施設なのだし、観客になるのも、演じるのも好きにすればいい、と。



 そうは言っても、それまでが芸術とは全く無縁だった船。才能を持つ者もいなかった。
 白いシャングリラが無事に完成して、公園も劇場も出来たけれども、船にあったのは歌くらい。その歌だって、あくまで個人の趣味のもの。機嫌がいい日に口ずさんでいるという程度。
 楽器を演奏する者もいないし、芝居をしたい者もいなかった船。それでは、誰も舞台に立とうと考えはしない。誰も舞台に立たないのだから、観客が集まる筈もない。
 白い大理石で築かれた劇場、それは放っておかれたまま。観客の代わりに、公園を訪れた誰かが座って休憩するとか、そんな具合に使われ続けた観客席。
 そういった日々が長く続いて、劇場はただの「階段」と化していたのだけれど…。
「子供たちが来てから変わったんだっけね、あの劇場も」
 公園の中の階段みたいになっていたのに、ちゃんと本物の劇場になったよ。
 観客席に何人も人が座って、拍手をしたり、応援したりで。
「うむ。ヒルマンが発表会を計画したのが最初だったな、子供たちを集めて」
 あそこは劇場なんだから、と練習もさせて、発表会の日には、船中の仲間たちにも知らせて。
 「是非、見に来てくれ」と言われなくても、誰だって興味はあるもんだから…。
 大入り満員というヤツだったな、とハーレイが懐かしむ、一番最初の発表会。子供たちの歌や、踊りや、演劇。初めて使われた白亜の劇場。
 それが評判になったお蔭で、劇場は子供たちの発表の場になった。歌だけの時や、芝居などや。
 いつも観客が入るわけだし、ヒルマンの指導にも熱が入ってゆくというもの。
 そして指導をするとなったら、エラもブラウも張り切った。大の子供好きだったゼルだって。
 普段はヒルマン任せの教育、其処に何度も顔を出しては、批評や助言や、色々なことをしていたゼルたち。ヒルマンも「実に貴重な意見だ」と、彼らを見守ったものだから…。
「客演だってしてたっけ…。ゼルやブラウたち」
 歌は一緒に歌ってないけど、劇に出てるのは何度も見たよ。とても楽しそうに。
「誘われるからな、子供たちに。…何度も顔を出してる内に」
 俺だって危なかったんだが…。指導に出掛けたわけじゃなくって、視察だったのに。
 これもキャプテンの仕事の内だ、と見に行く間に誘われちまった。「一緒に出てよ」と。
 前のお前も、そうだっただろ?
 子供たちと一緒に遊ぶのが好きで、それを自分の仕事みたいにしていたからな。



 劇場に出るよう、誘われてたぞ、というハーレイの指摘。「お前もだが?」と。
「えーっと…? 前のぼくって…?」
 いつも客席で観ていただけだよ、と答えたけれども、そういえば誘われたのだった。子供たちと一緒に遊んでいたら、「ソルジャーも出る?」と。
 発表会の準備を兼ねての遊びの時間に、子供たちと鳴らしたタンバリン。それを舞台で鳴らすというだけ、音楽に合わせて軽やかに。
(とても簡単だし、出てみたくって…)
 子供たちと劇場の舞台に立とう、と胸を躍らせたのに、ヒルマンとエラに止められた。すっかりその気で練習していたら、それは厳しい顔つきで。
 「ソルジャーの威厳が台無しだ」と苦言を呈した二人。タンバリンを叩いている所に現れて。
「…出ては駄目だって…。どうしてだい?」
 こうして練習しているじゃないか、本番で失敗しないようにと。大丈夫、ちゃんと鳴らすから。
 此処でタンタンと二回叩いて、シャンと鳴らして、その次は…。
 こうだろう、と子供たちと揃って打ち鳴らしたのに、ヒルマンとエラは頷かなかった。
「いいえ、ソルジャー。…タンバリンや鈴などはいけません」
 それはオモチャのような楽器で、とても高尚とは言えませんから。誰でも鳴らせる楽器ですし。
「皆が驚くような楽器だったらいいのだがね…」
 流石はソルジャー、と驚いて貰えるような楽器を演奏しようと言うのだったら。
 しかし、タンバリンや鈴の類は…、と二人が揃って否定するから、面白くなくて訊き返した。
「どういう楽器ならいいと言うんだい?」
「バイオリンやピアノでしたら、よろしいかと。ソルジャーにも、とてもお似合いです」
 舞台でも良く映えますから、とエラが真顔で答えた。そういう楽器が相応しいのです、と。
「バイオリンやピアノって…。そんな楽器は、船に無いじゃないか!」
「ソルジャーが演奏なさるのでしたら、船の者たちに作らせますが?」
 手先の器用な者たちもおります、きっと作ってくれるでしょう。バイオリンも、ピアノも。
 ただし、上手に演奏して頂きませんと…。流れるように美しく、とエラは難しい注文をつけた。ソルジャーたるもの、何処からも文句の出ない演奏をしなくては、と。
「無理に決まっているだろう!」
 それが出来るなら、とっくにしている! タンバリンなんかを叩いていないで!



 無茶を言うな、と怒ったけれども、許してくれなかったエラ。…それにヒルマンも。
 タンバリンや鈴では駄目だと言うから、出損ねてしまった、劇場での音楽発表会。それと同じで芝居の方も出られなかった。
 ゼルやブラウは客演できても、ソルジャーが出たら「ソルジャーの威厳が台無し」だから。
「あの船、ホントにうるさかったよ…。ソルジャーの威厳がどうのこうの、って…」
 ぼくは劇場に出たかっただけで、タンバリンでも鈴でも気にしないのに。
 バイオリンとかピアノなんかじゃなくても、全然かまわなかったのに…。
 それにお芝居の方もそうだよ、どんな役でも良かったんだけどな…。子供たちと一緒に発表会に出て、あそこの舞台に立てるのならね。
 だけど一度も立てなかった、と零した溜息。「とうとう一度も立てなかったよ」と。
「劇場の舞台に立っていないのは、俺の方だって同じだぞ。いつも客席で観ていただけだ」
 俺の場合は、威厳がどうのとヒルマンたちに言われはしていないんだが…。
 キャプテンって仕事は何でもアリだし、舞台に立っても特に問題無かっただろう。威厳とかより船の雰囲気が大切だから。
 そいつは充分承知だったが、俺の方から断ったんだ。才能が無いのは分かっていたしな。
 お前みたいに無邪気に遊べはしなかったから…。自分の限界ってヤツが見えちまって。
 下手でもいいから舞台に立ちたいとは思わなかった、というのが前のハーレイ。せっかく劇場があったというのに、出演したくはなかったらしい。前の自分とは逆様で。
「才能なんかは、ぼくにも無かったけれど…。でも、出たかったよ、発表会…」
 だって、子供たちと遊んでいると幸せだったんだもの。みんなキラキラ光って見えて。
 誰もが宝石の原石みたいで、未来がぎっしり詰まった塊。ミュウの未来っていう名前の宝石。
 でも…。あの船の中では、凄い才能…。出なかったね。
 劇場まで作って、それが出るのを待っていたのに…。
 機械に記憶を消されていない子供たちなら、凄い天才にもなれただろうに…。
 一人も出て来なかったんだよね、と今の自分だから言えること。子供たちと船で遊んだ頃には、まだまだ未来というものがあった。
 「この子たちの中から、凄い天才が生まれるのかも」と、「きっと、いつか」と。
 寿命が尽きると分かった後にも、見ていた夢。白いシャングリラから、いつか生まれる天才。



 前の自分が夢見た天才、それは一人も現れなかった。SD体制の時代が終わって、あの白い船が役目を終えるまで。…ミュウの箱舟が、ただの宇宙船になる時代が来るまで。
「…なんで、天才、出なかったのかな…」
 ヒルマンもエラも、きっと出るだろうって言っていたのに。
 SD体制が終わった後には、天才っていう人、昔みたいに、また何人も出始めたのに…。
「仕方ないだろう、元の素質の問題だ」
 天才ってヤツは、滅多にいない人間だからこそ、天才なんだ。…神童にしても。
 前の俺たちはミュウの子供を何人も船に迎え入れたが、その中に天才がいなかったってな。
 アルフレートが出たというだけでも奇跡だろうが、あいつが作った曲は今も残っているからな。
 それだけで我慢しておくことだ、と今のハーレイは言うのだけれど。
「アルフレートが作った曲…。確かに残っているけれど…」
 名曲として…っていうわけじゃないでしょ、あれは。
 前のぼくやフィシスが聴いていた曲で、シャングリラで演奏されていた曲。そういう曲だから、うんと人気で、ハープを弾く人たちが習っているだけで…。
 名曲じゃないよね、と思うアルフレートの曲の扱い。今の時代も演奏されてはいるけれど。
「それはどうだか分らんぞ。…アルフレートは天才だったかもしれないからな」
 天才作曲家とは言われていないが、ミュウの最初の作曲家ではある。
 船には無かったハープを欲しがって、そいつを貰って、ちゃんと演奏していた子供だ。ハープを弾く子は、船に一人もいなかったのにな?
 英才教育を施していたら、アルフレートの才能は、もっと伸びたのかもしれん。それこそ神童と呼ばれるレベルで、後には天才になれるくらいに。
 ただ、そのための才能がだな…。残念なことに、船に無かったというだけで。
 教えてやれる師匠がいなかったぞ、とハーレイが浮かべた苦笑い。「それでは駄目だ」と。
 いくら天性の資質があろうと、それを伸ばすには導きが要る。才能を見出し、より良い方へと、その才能を伸ばしてやれる誰かが必要。
「そうだね…。あの船には、ハープや音楽のプロは、何処を探しても…」
 いなかったっけね、そういうのが得意だった人。
 ヒルマンは何でも知っていたけど、ハープや音楽が得意かって言うと、違ったから…。



 アルフレートが得意としていた、ハープの達人がいなかった船。プロの音楽家も。
 そういう人材が船にいたなら、アルフレートも名声を馳せていたのだろうか?
 記憶を消されていない子供だったのだし、神童として育って、天才になって。あの船に作られた劇場で見事な演奏を何度も披露し、今の時代まで称え続けられる天才作曲家に…?
「…前のぼくたち、失敗したかな? アルフレートの育て方…」
 凄い才能を持つ子供が来たのに、上手く才能を伸ばせなくって。…天才に育て損なっちゃって。
「今となっては分からないんだが…。可能性ってヤツはあるだろう」
 劇場を作っておいただけでは足りないんだなあ、才能を伸ばそうと思ったら。
 本物の神童をきちんと育てて、天才を送り出したかったら…。
「そうみたい…。ホントに失敗しちゃったのかもね、アルフレートの育て方は」
 今は神童、ちゃんと沢山いるんだから。…ヒルマンとエラが言ってた通りに。
「お前は違うみたいだな? 神童ってヤツとは」
 普通のチビにしか見えないが…、とハーレイが顔を覗き込むから、尖らせた唇。
「ぼくは普通だけど、ハーレイもでしょ?」
 神童だったって話は聞いていないよ、柔道と水泳の腕は凄かったらしいけれども…。違うの?
 そっちの道では神童だったの、と睨んでやった。上目遣いに、「神童だった?」と。
「いや、神童ってトコまでは…。これは一本取られたな」
 俺の腕前は、其処までじゃない。天才と呼んで貰えるほどには凄くないんだ、残念ながら。
 柔道も、それに水泳もな。…もっとも今じゃ、その方が良かったようにも思うわけだが。
 俺たちは普通でいいじゃないか、とハーレイが笑う。
 「神童だったら忙しすぎて、ゆっくり会ってもいられないぞ」と。
 もしもハーレイが神童で天才だったとしたなら、此処にはいないことだろう。プロの選手の道に進んで、宇宙のあちこちを転戦中で。…天才となれば、誰もが放っておかないから。
 そして自分が神童だとしても、やっぱりとても忙しくなる。
(バイオリンだとか、ピアノとか…)
 弱い身体でも出来るものなら、きっとそういう音楽の道。神童と呼ばれる子供だったら、毎日が練習の日々だろう。ハーレイとお茶を飲むより、練習。この時間だって、きっと練習。
 ハーレイが側で聴いていてくれても、練習ばかりの日々では恋もゆっくり語れないから…。



「そうだよね…。ぼくたち、普通で丁度いいよね」
 ハーレイも、ぼくも、神童でも天才でもない方がいいよ。
 その方がずっと幸せだものね、こうして話していられるから。…練習や試合に行かなくても。
「うむ。普通の人生ってヤツが一番だってな」
 もちろん、前の俺たちのことも内緒のままで。…話そうと思う時が来たなら、それは別として。
 普通の人生を生きてゆこうじゃないか、とハーレイも言うから、二人でのんびり生きてゆこう。
 神童でなくても、天才でなくても、今の自分たちの新しい人生を、幸せに。
 芸術も文化も、山のようにある今の時代。
 お互い、才能は無かったけれども、平和な時代に二人で生まれて来られたから。
 神童たちが再び現れる時代に、青く蘇った水の星の上に。
 それだけで、とても幸せなこと。
 天才とは呼んで貰えなくても、誰もが羨む才能は持たない人生でも…。



              天才と才能・了


※天才が一人も現れなかった、SD体制の時代。神童が出て来なかったせいなのかも。
 シャングリラの公園にあった劇場は、いつか迎える子供たちの才能のために、作られた施設。
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(うーん…)
 これがそうか、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 目を引いたものは、記事に添えられた写真。知っているけれど、一度も訪れたことが無い場所。
(記念墓地…)
 SD体制を倒し、機械の時代を終わらせた英雄たちの墓地。前の自分の墓碑もある場所。宇宙のあちこちにあるのだけれども、ノアとアルテメシアのものが有名。
 当時の首都惑星だったノアに最初に作られ、アルテメシアにもほぼ同時に出来た。記事の写真はアルテメシアの墓地の方だという。ミュウの歴史の始まりの星。
(…シャングリラの森は?)
 トォニィがシャングリラの解体を決断した時、船にあった木たちを移植した森。アルテメシアの記念墓地の側へと。沢山の木があった船だから、木たちは直ぐに森を作って、代替わりだって。
 今も木たちの子孫が沢山茂っている筈。シャングリラの森に行ったなら。
 その森もあると書かれているのだけれども、写真は無い。残念なことに。
 記事の中心は記念墓地だし、シャングリラの森とは直接関係無いものだから。
(記念墓地の写真は何度も見たけど…)
 下の学校でも歴史の授業で教わったけれど、前の自分の記憶が戻ってからは、こうして見るのは初めてかもしれない。白いシャングリラの写真集には入っていないし、新聞記事などになることも一度も無かったから。
(何かの記念日ってわけでもないんだね)
 ミュウと人類の戦いに纏わる記念日だとか、そういったもの。
 単なる紹介、記者が取材のために出掛けて行っただけ。幾つもの墓碑に花を供えて、英雄たちに祈りを捧げて、それから写真撮影も。
(花が一杯…)
 記者が捧げた花がどれだか、分からないほどに。
 花束や花輪や、一輪ずつ供えられた花やら。
 誰の墓碑にも添えられた花。ミュウはもちろん、人類側だったキースの墓碑にも。
 どれも萎れてなどはいなくて、捧げられたばかりの花だと分かる。古くなった花は、記念墓地の管理係が毎日、きちんと片付けてゆくのだろう。見苦しいことにならないように。



 毎日のように片付けをしても、減らない花たち。次から次へと、誰かが捧げてゆくものだから。
 花束も花輪も、前の自分の墓碑に供えられたものが、断然多いのだけれど。
(前のぼくの人気がとても高いのか、無視できないのか…)
 どっちだろう、と考えてしまう。
 記念墓地の一番奥に、偉そうに立っている墓碑なのだし、他の墓碑に花を供えに行くなら、無視することは難しいかもしれない。
 本当はジョミーに供えたい人も、キースのファンだという人も。
(そういうことって、あるかもね?)
 記念墓地の主役であるかのように、一番奥に立つソルジャー・ブルーの墓碑。
 誰の墓碑を目当てにやって来たって、嫌でもそれが目に入る。「ぼくに挨拶は?」という風に。
 知らん顔をして、他の墓碑だけに花を供えるのは…。
(なんだか悪い、って思っちゃうかも…)
 たとえキースのファンの人でも。…ジョミーに花を、と墓地を訪れた人も。
 お目当ての墓碑に一番立派な花を捧げるにしても、ソルジャー・ブルーの墓碑にも花。それほど豪華なものでなくても、一輪だけの花にしたって。
 そういったわけで、捧げられた花が一番多いのがソルジャー・ブルーということもある。人気が高いからだけではなくて、大勢の人が「挨拶代わりに」供えてゆくものだから。
(ハーレイも花を貰ってるよね…)
 ちゃんとあるね、と写真で確認した、ハーレイの墓碑に供えられた花輪や花束。シャングリラを地球まで運んだキャプテンなのだし、花を貰えないわけがない。偉大なキャプテン・ハーレイが。
(写真集は出して貰ってないけど…)
 ハーレイの写真だけを集めた写真集は編まれていないのだけれど、この花の数。
 今のハーレイの行きつけだという理髪店の店主みたいに、ファンは何人もいるのだろう。あまり目立っていないだけのことで。
 それに英雄になったキャプテン、あやかりたいと思うパイロットたちも多い筈。
(きっとそういう人たちなんだよ)
 花を供えに来る人は…、と見詰めた写真。ハーレイのためだけに供えられた花たち。
 ハーレイも人気、と笑みを浮かべる。花輪も花束も、其処に幾つもあったから。



 前のハーレイのお墓にだって花が沢山、と大満足で戻った二階の自分の部屋。空になったお皿やカップをキッチンの母に返して、新聞を閉じて。
 勉強机の前に座って、幸せな気分。「やっぱりハーレイは凄いんだから」と。
 前の自分が恋をした人は、今の時代も立派に評価されている。死の星だった地球が青い水の星に蘇るほどの長い歳月、気の遠くなるような時が流れた今も。
(ちゃんと花輪に、花束に…)
 幾つもあった、と嬉しい気持ちになる花たち。キャプテン・ハーレイの墓碑を彩る花。
 前の自分ほどではなかったけれども、充分な数。前のハーレイのことを思ってくれる人が、今も大勢いる証拠。記念墓地まで足を運んで、花を捧げてくれるくらいに。
 素敵だよね、と頬が緩んだ所で、ハタと気付いた。キャプテン・ハーレイに供えられた花たち。墓碑に捧げられた花束や花輪、さっき新聞で見た花たちの中には…。
(薔薇の花だって…)
 混じっていた。白だけではなくて、供えた人の好みで色とりどりに。
 花輪にも、それに花束にも。…控えめに一輪、リボンを結んで置かれていた薔薇の姿もあった。毎日供えに来る人だろうか、毎日ともなれば、花束や花輪だと凄い値段になってしまうから。
(それとも、恥ずかしがり屋さん…?)
 パイロットの卵で、花束や花輪を抱えて来るのは、恥ずかしい気がする若者だとか。そういった花を抱えて道を歩けば、どうしても目立つものだから。
 そんな人なのか、毎日のように来る人なのか。思いをこめて置かれていた薔薇。一輪だけでも、花輪や花束に負けないもの。けれど、その薔薇。花輪や花束に入った薔薇も…。
(薔薇の花、前のハーレイには…)
 似合わないと噂されていたものだった。白いシャングリラがあった頃には。
 人類との戦いが始まる前には、ミュウの楽園だった船。白い鯨の姿の箱舟。其処で開いた薔薇の花びら、それを使って作られたジャム。萎れかけた花びらたちを集めて。
 いい香りがしたジャムだったけれど、沢山の数は作れない。ソルジャーだった前の自分には一瓶届いたけれども、他の仲間はクジ引きだった。
 そのクジが入った、クジ引きの箱。それを抱えた女性はブリッジにも行ったというのに、クジの箱は前のハーレイの前を素通りしてゆくのが常。ゼルでさえもクジを引いていたって。



 そうなった理由は、「キャプテンには、薔薇は似合わない」という思い込み。薔薇の花びらから作るジャムも同じに似合いはしない、と考えていた女性たち。なんとも酷い話だけれど。
(だけど今だと、ハーレイのお墓にも薔薇の花…)
 供えている人がいるわけなのだし、本当は似合っていたのだろう。前のハーレイにも、ああいう薔薇の花たちが。…大切そうに、一輪だけ捧げられた薔薇もあったのだから。
(今の時代の人たちの方が、ずっと見る目があるんだよ)
 白いシャングリラで暮らした仲間たちより、遥かに値打ちが分かっている。前のハーレイという人の素晴らしさが。キャプテン・ハーレイの偉大さが。
 ハーレイのお墓に薔薇を供えてくれるんだしね、と悦に入っていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。
「あのね…。今のハーレイ、薔薇の花束も貰えるんだね」
 とても綺麗なのを。薔薇を沢山束ねたヤツとか、薔薇の花が混ざっているヤツだとか。
「それがどうかしたか?」
 薔薇を貰っちゃいかんのか、と返った返事。まるで「貰うのが当たり前」のように。
「貰っちゃ駄目かって…。知ってたの?」
 花束の中に薔薇があること、ハーレイ、ちゃんと知ってるの…?
「おいおい…。俺が貰った花束の話じゃないのか、それは?」
「そうだけど? ハーレイが貰った花束のことだよ」
 薔薇の花が混ざっている花束も、薔薇が中心みたいなヤツも。…どれもハーレイのだけれど?
「そうなんだったら、知ってるも何も…。俺が貰った花束なんだぞ?」
 俺はともかく、お前が知ってる方が不思議だ、とハーレイに逆に尋ねられた。何故、花の種類を知っているのかと。
 「俺が貰った花束の話、花の種類も話したっけか…?」と。
「えっと…?」
 ハーレイと花束の話って…。そんな話があったかな…?
「その話だろうが、何を妙なことを言っているんだか…。俺が貰った薔薇の花束だろ?」
 優勝した時なんかに貰った花束、そりゃあ沢山あったもんだが…。
 薔薇の花のは定番だ。なんたって見た目が豪華だからなあ、薔薇ばかりじゃない花束にしても。



 他の花と一緒に束ねてあっても、薔薇は華やかなモンだから、とハーレイが口にする花束。今のハーレイが貰ったもので、柔道や水泳の試合や大会、そういった時に贈られたもの。
 そういう花束もあったっけ、と思い出したから、勘違いを正しておかないといけないらしい。
「違うよ、今のハーレイじゃなくて…」
 前のハーレイの方だってば。薔薇の花束を貰ってるのは。…薔薇が混じっている花束もね。
「薔薇の花束って…。前の俺なら貰っていないぞ?」
 そんなのは一度も貰っていないな、前の俺は。それにお前は、「今のハーレイ」と言ってたが?
 そいつは俺のことだろうが、とハーレイが指差す自分の顔。「今のハーレイの方なら俺だ」と。
「えっとね…。前のハーレイだけれど、今のハーレイ…」
 記念墓地にあるお墓だってば、アルテメシアの記念墓地とか。…ノアとかにもある記念墓地。
 新聞に写真が載っていたよ、と説明をした。前のハーレイの墓碑のこと。幾つも供えられていた花輪や花束、薔薇の花だって供えてあった、と。
「なんだ、そっちの方なのか。…前の俺でも、今の俺には違いないな」
 今の時代まで墓碑があるんだし、本物の俺が此処にいることは、誰も知らないわけなんだし…。
 普通の人が今の俺のことを考える時は、あそこの墓碑になるんだろうなあ…。
 前の俺は死んでしまったからな、とハーレイが浮かべた苦笑い。
 「あれが今の俺か」と、「薔薇の花束も確かに貰っているな」と。花輪もあるぞ、という話も。
 新聞の写真には無かったけれども、薔薇を連ねた花輪が供えられる時もあるらしい。誰が供えた花輪なのかは、まるで分からないらしいのだけれど。
「花輪に花束…。知ってはいたの?」
 前のハーレイのお墓に、花が沢山供えてあること。薔薇の花も混じっているヤツなんかが。
 ぼくは今日まで知らなかったんだけど…、と瞬かせた瞳。記念墓地の写真を目にしていないと、前の自分の記憶が戻ってからは一度も、と。
「それはまあ…。俺の場合は、お前よりかは色々と調べているからな」
 ダテにお前より年上じゃないし、興味があることは調べたくなる性分でもある。…元からな。
 シャングリラの森のことも教えてやっただろう。アルテメシアの記念墓地の側にある、と。
 ああいうのを調べているほどなんだし、記念墓地の方も、何度も写真を目にしてる。
 誰かが供えてくれてるんだな、と嬉しい気分になるよな、あれは。…花輪や花束。



 一輪だけの花でも嬉しいもんだ、とハーレイは目を細めている。今の時代も、覚えていてくれる人たちがいるという証。それを表す花や、花輪や花束などや。
 本物のキャプテン・ハーレイが生きた時代が遠くなっても、直接知る人がいなくなっても。
「なかなか覚えていちゃ貰えんぞ? 今でも花を供えて貰えるくらいには」
 ずっと昔は、王様だとか有名人だとか…。そういった人の墓碑に花束とかを供えていたらしい。
 しかし、SD体制の時代になったら、地球と一緒に無くなっちまって…。
 誰とも血縁関係の無い人間ばかりが生きた時代だ、そんな墓碑まで宇宙に移設したりはしない。その時代まで墓碑があったかどうかも、正確な記録は残っていないし…。
 地球が滅びに向かった頃には、忘れられていたかもしれないな。植物が自然に育たなくなって、花というものが貴重だったから。…個人の家の庭では咲きもしないし。
 とうの昔にいない人にまで、花束なんぞを贈れるものか、と言われてみればそうかもしれない。生きている人でさえ、本物の花を家に飾ることは贅沢だったという時代。この世にいない人たちの墓碑には、造花があれば上等だろう。何年経っても枯れない花が。
 そうやって人は忘れ去られて、墓碑は地球の上に置いてゆかれた。機械が治める時代になったら不要なのだし、わざわざ移す必要は無い、と。
「そうなんだ…。じゃあ、今のぼくたちは王様並みだね、ずっと昔の」
 大勢の人が花を供えてくれるし、記念墓地にも来てくれるんだし。…ぼくたちはとっくに死んでいるのに、知り合いに会いに行くみたいに。
 それだけでも凄く嬉しいけれども、もっと嬉しいことがあったよ。今日のぼくには。
 前のハーレイ…。ううん、今の時代の人にとっては、「今のハーレイ」。
 記念墓地にお墓があるハーレイは、薔薇の花も供えて貰っているでしょ、ハーレイなのに。
 薔薇の花だよ、と念を押したけれど、ハーレイには通じなかったらしくて。
「お前、さっきから何が言いたいんだ?」
 やたら薔薇だと繰り返してるが、薔薇の花だと何か特別な意味でもあるのか?
 今の俺には馴染みの花だぞ、今でこそ試合とかには出ないし、縁遠い花になっちまったが…。
 現役時代は、それはドッサリ貰ったもんだ。
 持って帰って、おふくろに生けて貰ったっけな。俺じゃ上手に生けられないから。
 沢山の花束、おふくろが上手にアレンジしてたぞ、家にあった花瓶なんかに合わせて。



 特に珍しくもなかったが、とハーレイが言う薔薇の花束。一輪ではなく、ドッサリ束ねた薔薇を貰っていたらしい。ハーレイの試合を応援しに来た人たちから。
「今の俺だと、貰うチャンスは無いんだが…。あの薔薇の花が何だと言うんだ」
 貰おうと思えば、多分、今でも貰えないことは無いだろう。大きな試合に出さえすればな。
 柔道部のヤツらが応援に来てくれるから…。卒業生なら、小遣いだって沢山持ってる。何人かが寄れば、薔薇の花束も充分買えるし、そいつを貰えるだけの戦果は挙げられるぞ?
 貰って来いと言うなら、ちょいと登録してくるが、とハーレイは真顔。
 「試合の日は此処に来られないから、お前が寂しい思いをするがな」と。けれど、薔薇の花束は貰えるだろうし、それを楽しみにしているといい、と。
「いいんだってば、そんなのは…。試合に出てまで、花束、貰ってくれなくても」
 ハーレイだったら貰えるだろう、って分かるもの。柔道も水泳も、プロの選手になろうと思えばなれたんだから。…今でも充分、強い筈だし。
 そっちじゃなくって、ぼくが言うのは、ハーレイのお墓に花を供えてくれる人だよ。
 今の人たちは見る目があるよね、って思って、とっても嬉しかった。シャングリラで暮らしてた仲間たちより、よっぽど値打ちが分かってるってば。…ハーレイのね。
 だって、お墓に薔薇の花を供えてくれるんだよ?
 前のハーレイは、薔薇の花びらで作ったジャムも、薔薇の花も似合わないって言われてたのに。
 薔薇のジャムを配る時のクジ引き、ハーレイの前だけ箱が素通りしちゃったくらいに。
 みんなホントに酷いんだから…、と尖らせた唇。
 前のハーレイは今よりもずっと立派な英雄。その筈なのに「薔薇は似合わない」と酷評していた女性たち。キャプテン・ハーレイがどれほど偉大か、船にいたなら分かるだろうに。
「あれか…。シャングリラの薔薇で作ったジャムだな」
 前のお前には似合うってことで、いつも一瓶届いてたんだ。クジ引きなんかをしなくても。
 お前がジャムを貰った時には、俺も食わせて貰ってたっけな。…お前の部屋で。
 あれが似合わないと評判の俺が、クジも引かずに、前のお前のお相伴で。
「別にいいじゃない。…ぼくが貰ったジャムなんだから」
 どう食べるのも、誰と食べるのも、ぼくの自由だと思うけど?
 スコーンに乗っけて食べるのが好きで、いつもスコーンで食べてたっけね、ハーレイと。



 白いシャングリラの薔薇で作られたジャム。盛りを過ぎた薔薇たちを朽ちさせるよりは、有効に使った方がいい、と女性たちが花びらを集めて回って。
 香り高い品種を育てていたから、萎れかけた花から作ったジャムでも、充分に薔薇の香りがしていた。口に含めば、ふわりと広がった薔薇たちの香気。薔薇の花を食べているかのように。
「薔薇のジャムにはスコーンなんだよ、トーストなんかに塗るよりも」
 あれが一番合うと思ったし、ホントに美味しかったから…。薔薇の香りを損なわなくて。
 ハーレイと食べるの、好きだったっけ…。ジャムを貰ったら、厨房でスコーンを焼いて貰って、ぼくが紅茶を淹れたりしてね。
「あのジャムなあ…。とても言えないよな、前のお前にジャムをくれてたヤツらには」
 俺には似合わないジャムなんだ、とクジ引きの箱も持って来ないで知らん顔だったヤツらだぞ?
 ゼルでもクジを引いてたのにな、「運試しじゃ」と手を突っ込んで。
 そうやって仲間外れにされてた俺がだ、クジも引かずに美味しくジャムを食ってたなんて。
 …とはいえ、今も似合わんとは思っているんだがな。薔薇の花びらのジャムというヤツは。
 薔薇の花束だったらともかく、ジャムの方はまるで似合わんだろう、と苦笑しているハーレイ。
 「其処の所は今も変わらん」と、「生まれ変わっても、俺は俺だ」と。
「薔薇の花びらのジャム…。今でも駄目かな?」
 うんと平和な時代になったし、ハーレイだって薔薇の花束を貰えるんだよ?
 今のハーレイなら試合で山ほど貰ったわけだし、前のハーレイだって、お墓に薔薇の花が沢山。ぼくが見た写真には無かったけれども、薔薇だけの花輪もあったんでしょ?
 ハーレイ、見たと言っていたよね、と記念墓地の写真を思い出す。自分が見た写真のハーレイの墓碑には無かったけれども、前の自分の墓碑にはあった。薔薇だけを編んだ立派な花輪が。
 今のハーレイが見た写真の花輪も、きっとそういうものだったろう。
 白い薔薇だったか、赤い薔薇なのか、とりどりの薔薇を編み上げたものかは知らないけれど。
「薔薇だけの花輪なあ…。俺が見た写真には写っていたな」
 ずいぶんと豪華なのをくれたな、と見ていたもんだ。
 前の俺のファンが置いて行ったのか、パイロットの卵の連中なのかは分からんが。
 パイロットを目指すヤツらにとっては、俺は大先輩だから…。
 卒業か何かの節目の時に、供えに来ることがあるかもしれん。みんなで金を出し合ってな。



 誰からの花輪だったのだろう、とハーレイは首を捻っている。前のハーレイの墓碑に捧げられた薔薇の花輪は、誰が贈ってくれたのだろうかと。
「くれたヤツには申し訳ないが、やはり似合わん気がするなあ…。薔薇の花輪は」
 なんと言っても、薔薇の花びらのジャムが似合わなかったのが俺だから。
 シャングリラで暮らした女性の間じゃ、そいつが常識だったんだし…。ジャムを希望者に分けるクジ引きだって、俺だけがクジを引いていないんだぞ?
 誰一人として、「キャプテンにも」と言いやしなかった。新しくブリッジに来たヤツだって。
 その顔は今も変わっていないんだから…、とハーレイが示す自分の顔。「前と同じだ」と。
 キャプテン・ハーレイだった頃とそっくり変わらない顔で、背格好だってまるで区別がつかない姿。この顔に薔薇の花びらのジャムが似合うのか、と。
「似合わないっていうことはないでしょ。薔薇の花束、今なら貰えるんだから」
 試合に行ったらきっと勝てるし、そしたらハーレイの教え子だった人たちから薔薇の花束だよ。
 その人たちが似合わないって思うんだったら、そんなの、用意しないだろうし…。
 ハーレイも貰える自信があるから、「貰って来ようか」って言うんじゃない。此処に来ないで、試合に行って。…どんな相手にも負けはしないで、優勝して。
 今のハーレイならきっと似合うよ、と微笑んだ。薔薇の花束も、薔薇の花びらのジャムも。
 そうしたら…。
「お前、本気で言っているのか、その台詞を…?」
 薔薇の花束の方なら、俺も頭から否定はせんが…。当たり前のように貰った時代があるからな。
 しかし、薔薇の花びらのジャムとなったら、話は別だ。
 俺に似合うと思うのか、お前?
 あれを食ったら、暫くの間は薔薇の香りがするんだぞ。…俺自身には自覚が無くても。
 前のお前は、俺が食う時には一緒に食っていたから、気付かなかったかもしれないが…。
 俺は一日中、青の間にいたってわけじゃない。ブリッジに詰めているのが普通で、夜になるまで青の間には行けない日だって山ほどあっただろうが。
 そうやって俺がいない間に、お前が一人で薔薇のジャムを食ってた日も多かった。夕食の後に、ほんの少しとか。
 そんな時には、お前から薔薇の香りがしたんだ。…ジャムの香りが残っていて。



 香水とは少し違うんだがな、とハーレイが覚えているらしい薔薇の残り香。より正確に言えば、薔薇の花びらのジャムが残した、その香り。
 ハーレイは何度も出会ったという。薔薇の香りがするソルジャー・ブルーに、前の自分に。
「お前から薔薇の香りがしたなら、俺の方でも同じだった筈だ。…あのジャムを食えば」
 口中が薔薇の香りで一杯になっちまうようなジャムだったしなあ…。香りも充分、残るだろう。
 お前はともかく、俺から薔薇の香りとなったら、どういう具合に見えると思う…?
 キャプテン・ハーレイから薔薇の香りがするんだが、とハーレイが軽く広げた両手。
 「こういう顔で、こういう姿の男から薔薇の香りだぞ?」と、「薔薇の花は持ってないのにな」などと。薔薇の花束を手にしていたなら、薔薇の香りの元は花束だと思えるけれど…。
「…ハーレイから薔薇の香りって…。なんだか似合わないかもね…」
 薔薇の花束だったら似合いそうだけど、花束は無しで、ハーレイから薔薇の香りがするのは。
 そういう匂いの香水なのかな、って眺めちゃうけど、他の匂いの方が良さそう…。
 ハーレイは香水を使ってないけど、男の人向けの香水なんかもあるものね?
 きっとそっちの方が似合うよ、と思った男性向けの香水。具体的な香りは考え付かないけれど。
「ほらな。俺だって、そう思うんだ」
 香水とまではいかないにしても、俺に似合いの香りとなったら、ボディーソープか石鹸だな。
 あの手の爽やかな匂いだったら、前の俺でも似合わないことはなかっただろう。「朝っぱらから風呂に入って来たらしいな」と思われるだけで。
 実際、そうしていたんだし…。お前と同じベッドで眠って起きたら、まずはシャワーだ。
 その後に飯を食っていたから、匂いが消えてしまっただけで。ソルジャーとキャプテンが一緒に朝食を食うっていうのは、青の間が出来て直ぐの頃からの習慣だったしな。
 そういったわけで、俺の顔には、薔薇の香りは似合わない。…薔薇のジャムを食ったら、薔薇の香りが漂うわけだし、そいつも駄目だ。
 前の俺の墓に薔薇を供えて貰った場合も、結果は似たようなモンだと思うが…。
 俺から薔薇の香りだから、というのがハーレイの言い分。
 「幸い、墓碑だし、俺の姿が無いってだけだ」と。
 記念墓地にあるのは、誰の墓碑も名などが刻まれたもの。生前の姿は刻まれていない。もちろん写真もついていなくて、ただ墓碑だけ。ソルジャー・ブルーも、キャプテン・ハーレイも。



 墓碑にハーレイの姿が無いから、なんとかなるのが薔薇の花束。それに花輪や、一輪だけ捧げてある薔薇や。…どれも薔薇だから香りは高い。一輪だけの薔薇にしたって。
 ハーレイはそう言いたいらしくて、「似合わないぞ」と眉間に皺。「俺なんだから」と。
「俺の姿がどんなだったか、墓碑だけじゃ分からないからなあ…」
 お蔭で薔薇の花束が来ても、花輪があっても、似合わないとは誰も思わん。…俺がいないから。
 薔薇の花を供えてくれるヤツらは、俺の姿を百も千も承知なんだろうとは思うが…。
 本物の俺が其処にいたなら、「別の花の方がいいだろうな」と、交換しに戻って行きそうだぞ。薔薇の花束とかを買った花屋へ、「これと取り替えて貰えませんか」と。
 何の花を持ってくるかは知らんが…、と愉快そうにも見えるハーレイ。「薔薇は駄目だな」と、「俺に似合いの地味な花とか、そういうのを持って来ないとな」と。
「花を交換しに戻って行くって…。薔薇の花だと、そうなっちゃうわけ?」
 ハーレイの姿が記念墓地にあったら、花を持って来た人、戻って行くの…?
 薔薇の花だと似合わないから、他の何かと替えて貰いに、花屋さんに戻って行っちゃうわけ…?
 何も其処までしなくても…、と思うのだけれど。薔薇の花でいいのに、と考えたけれど。
「いいか、墓碑だと思っているから駄目なんだ。見た目に惑わされちまって」
 あそこにあるのは、俺の身体だと考えてみろ。…もちろん、生きてはいないんだが。
 死んでしまった俺の身体が、そのまま保存されていたとして…。傷跡とかは抜きにしてな。
 生きていた時の姿そのままで、キャプテン・ハーレイの身体が横たわっていたとする。遠い昔の英雄なんだし、そういう保存をしていたとしてもおかしくはない。
 そいつの周りを、薔薇の花で飾りたくなるか?
 ガラスの柩か何かは知らんが、俺の姿がそっくりそのまま見える状態、其処に薔薇だな。
 顔の周りに飾るにしても、身体の上に載せるにしても…、と言われて想像してみた光景。沢山の花に埋もれたハーレイ。それだけならばいいのだけれども、その花たちが薔薇だったなら…。
(…薔薇の香りもするんだよね?)
 ハーレイの身体を包むようにして、あの薔薇のジャムと同じ香りが。
 シャングリラの女性たちを魅了していた、高貴で気高い薔薇たちの香り。それを纏って横たわるハーレイ、キャプテンの制服をカッチリと着て。
 二度と目覚めない眠りとはいえ、薔薇の香りが漂うキャプテン・ハーレイは…。



 確かに似合わないかもしれない、と頷かざるを得ない薔薇の花。墓碑だけだったら、薔薇の花が幾つ供えてあっても大丈夫なのに。花束も花輪も、一輪だけの薔薇も似合うのに。
「…ホントだ、ハーレイの身体があるんだったら、薔薇の花はちょっと…」
 似合わないかもしれないね。さっきからハーレイが言ってる通りに。
 薔薇の花束を持って来た人も、他の何かと替えて貰いに、花屋さんに戻って行っちゃいそう…。墓碑の代わりに前のハーレイの身体があったら、回れ右して。
 もっとハーレイに似合う花とね…、とは言ってみたものの、何がいいかは分からない。どういう花を選べばいいのか、薔薇が駄目なら、同じような値段でハーレイに似合う花があるのかどうか。
 ハーレイも其処を思っているのか、こんな台詞が飛び出した。
「前のお前なら似合うんだがなあ…。花で埋め尽くされていたって」
 薔薇でも百合でも、それこそ、どんな花だって。…俺の場合は、似合いそうな花を探すのに苦労しそうなんだが…。交換して来よう、と花屋に戻ったヤツらも、それを任された花屋の方も。
 しかしだ、前のお前だったら何の心配も要らん。花なら何でも似合うからなあ、綺麗だったら。
 盛りの花ならどれでも似合う、とハーレイは穏やかな笑みを浮かべた。華やかな花でも、地味な色合いの小さな花でも、どれも似合うに決まっていると。
「前のぼくって…。今はハーレイと薔薇の話をしてたんじゃあ…?」
 どうしてぼくの話になるの、とキョトンと見開いた瞳。前の自分の墓碑に供えられた花束などは他の誰よりも多いわけだし、そのことを言っているのだろうか…?
「俺の話で思い出したんだ。…前の俺の身体を花で飾ろうって話からだな」
 薔薇はもちろん、他の花でも似合いそうにないのが俺なんだが…。前のお前の場合は違った。
 そりゃあ美しくて、誰もが見惚れたもんだ。俺たちの自慢のソルジャーだった。…俺にとっては大事な恋人だったし、花で埋め尽くしてやりたかったから…。いつか、お前が逝っちまった時は。
 そうするつもりでいたんだがな、と聞かされた話に驚いた。
 ハーレイが言うのは、前の自分の葬儀のこと。…ソルジャー・ブルーと呼ばれた頃の。
 アルテメシアの雲海に長く潜む間に、少しずつ弱り始めた身体。寿命を迎えつつあった肉体。
 生きて地球には辿り着けない、と諦め、涙していた自分。ハーレイとの別れも、とても辛くて。
 そんな自分に、ハーレイは何度も誓ってくれた。「お一人で逝かせはしませんから」と。
 後継者としてシドを選んで、着々と準備を進めてもいた。…ソルジャーを送る葬儀のことも。



 前のハーレイが思い描いていた、ソルジャー・ブルーを見送る時。船の仲間たちと共に、逝ってしまったソルジャーを悼む葬儀の場などをどうするか。
 魂が飛び去った後の器を、沢山の花で囲むこと。それがハーレイの計画の一つ。
「船中の花を集めてやろうと思っていた。…お前のために」
 普段は摘むのを許されない花も、咲いたばかりの花も、どれも残らず。
 お前を送るための花なら、誰も文句は言わないからな。子供たちだって手伝うだろうさ、公園の花を端から摘んで。…ソルジャー・ブルーの身体を花で埋め尽くすために。
 花に囲まれたお前を送って、葬儀が済んだら追って行こうと俺は思っていたのにな…。
 ずいぶん前から決めていたのに、お前は戻って来なかった。一人きりでメギドに飛んじまって。
 俺はお前の葬儀どころか、後を追うことさえ出来ずじまいだ。
 …後を追えないなら、せめて葬儀をしたかったのに…。船中の花で、お前を飾って。
 それが出来ていたなら、どんなにか…、とハーレイが悔む気持ちは分かる。亡骸さえも残さず、前の自分は消えたから。
 ハーレイの前から永遠に消えて、二度と戻りはしなかったから。
「ごめんね…。前のぼく、戻らなくって…」
 前にもこういう話をしたけど、あの時は鶴のつがいの話だったけど…。
 前のぼくの身体だけでも戻っていたなら、ハーレイの悲しさ、ちょっぴりは減っていたんだよ。
 そんなこと、何も考えてなくて、形見さえも残して行かなくて…。
 ホントにごめんね、前のハーレイに辛い思いをさせちゃって…。
「いや、いいんだ。…お前が謝ることはない。前のお前も、あの時はとても辛かったんだしな」
 それにお前は、こうして戻って来てくれた。
 チビの姿になっちまったが、それでもお前は俺のブルーだ。…前のお前と変わっちゃいない。
 お前が戻ってくれたお蔭で、墓の話をすることも出来る。
 前の俺の墓には、似合いもしない薔薇が幾つも供えてあるとか、そういったことを。
 同じ花でも、前のお前なら何でも似合って、船中の花を集めて、お前の葬儀をしたかったとか。
 どっちの話も、生きていないと出来やしないぞ。
 死んじまっていたら、俺もお前も、墓に入るしかないわけだしな?
 前のお前の葬儀にしたって、お互い、死んでちゃ、どうにもこうにもならないじゃないか。



 生きていてこそ出来る話だ、とハーレイは自信たっぷりだけれど、二人で生まれ変わる前。
 ハーレイと天国で暮らした間は、どんな風に過ごしていたのだろう?
 雲の上にある別の世界の天国、其処で青い地球が蘇る日を待っていた間なら…。
「死んでいたって、こういう話をしていたのかもしれないよ?」
 ぼくもハーレイも、きっと一緒にいた筈だから。
 天国から下の世界を眺めて、「ハーレイに薔薇を供えに来た人がまた一人」って数えたりして。
 記念墓地の景色が見えているなら、そういうのも分かると思うんだけど…。
 薔薇の花束が来ても、薔薇の花輪でも…、と話してみた。「数えてみるのも楽しいかも」と。
「うーむ…。俺には似合わない、薔薇の花が届けられる所か…」
 天国からなら、よく見えそうだな。ノアの記念墓地も、アルテメシアの方も。
「そう思うでしょ? それに、もしかしたら天国にも届くのかもね」
 墓碑に供えて貰った花がそのまま、雲の上にポンと届いちゃうとか…。供えて貰ったら直ぐに。
 薔薇でも花輪でも、花束でも、全部。…誰かが置いてくれたら、そっくり同じのが天国にね。
 でないと供える意味が無いでしょ、と考えてみる。せっかく墓碑に供えて貰った、豪華な花束や清楚なものや。雲の上から見ているだけでは、絵に描いた餅でしかないのだから。
「なるほどなあ…。神様のお計らいで全く同じのが来るってわけだな、俺たちの所に」
 するとお前は花輪や花束まみれの毎日ってヤツで、俺にも薔薇の花だってか?
 似合わないなんて誰も思っちゃいないし、薔薇の花束や花輪が供えられちまった時は…?
 俺の所に薔薇の花輪なあ…、とハーレイは目を丸くする。「似合わなくても届くんだな?」と。
「そうじゃないかな、届くんならね」
 神様が届けてくれるんだったら、ハーレイにも薔薇が届くんだよ。誰かが供えてくれた時には。
 薔薇の花がドッサリ届いちゃったら、ハーレイがジャムにしてたかも…。
 萎れて駄目になっちゃうよりかは、ジャムにした方がいいじゃない。シャングリラではジャムにしてたんだものね、天国でもジャムにするのがいいよ。薔薇の花が沢山あるのなら。
 有効活用しなくっちゃ、と頭に思い浮かべた薔薇。萎れて駄目になるよりはジャム、と。
「そのジャム、俺が作るってか?」
 俺はシャングリラじゃ作っていないぞ、薔薇の花びらのジャムなんかは。
 あの頃にはとっくにキャプテンだったし、厨房とは無縁の日々だったんだが…?



 第一、レシピも知りやしない、とハーレイは顔を顰めるけれど。薔薇の花びらでジャムを作っていたのは、一部の女性たちだったのだけれど…。
「ぼくが頼んだなら、作ったでしょ?」
 薔薇の花を沢山貰ってしまって、ハーレイの分と、ぼくの分とでホントに山ほど。
 飾って毎日眺めていたって、その内に萎れてしまうんだろうし…。そうする間も、次から次へと新しい薔薇が届きそうだし…。
 きっと思い出すよ、薔薇の花びらで作ったジャムのこと。ハーレイと一緒に食べていたことも。
 薔薇のジャム、とっても懐かしいよね、っていう話をしたなら、作ってくれると思うけど…。
 レシピを知らないジャムにしたって、ハーレイなら作れそうだけど…?
 何度か試作をしている間に、きちんとしたのが出来そうだよ、と前のハーレイの料理の腕前と、舌の確かさを考えてみる。果物のジャムなら厨房時代に作ったのだし、薔薇の花びらのジャムも、作れないことはなさそうだから。…青の間で何度も食べていたから、その味わいも覚えている筈。
「俺が天国で薔薇のジャム作りってか…」
 貰っちまった薔薇の花輪や花束、どんどん増える一方だから…。次々に天国に届けられて。
 でもって、そいつが駄目になる前に、ジャムにしろって言うんだな…?
 俺には似合わない薔薇の花びらのジャムってヤツに…、とハーレイは困り顔だけど。似合わないジャムを作るなんて、と呻くけれども、「しかし、作っていたかもな」とも。
 恋人からの注文なのだし、せっかくの薔薇を無駄にしないよう、花びらを煮詰めて試作から。
 上手く作れるようになったら、薔薇の花が沢山届いた時には、せっせと薔薇のジャム作り。
「そういうのも、きっと楽しいよ」
 天国に花が届くんだったら、ハーレイにジャムを作って貰って、昔話もしなくっちゃ。
 シャングリラでも食べた薔薇のジャムだし、「またハーレイと二人で食べられるね」って。
 そうだ、スコーンもハーレイに作って貰わないと…。薔薇のジャムにはスコーンが一番。
 薔薇の香りを損なわないから、スコーンもお願い、と言ったのだけれど。
「薔薇のジャムには、スコーンだっけな…」
 そいつを焼くのは別にかまわないが、天国でそうして暮らすよりかは…。
 此処に生きていてこそだろう。…この地球の上に。
 花束も花輪も此処には無いが、お前と二人で過ごせるんだから。お前の言う、昔話もして。



 それに未来の話も出来るし…、とハーレイの鳶色の瞳が優しく瞬く。
 「人間、生きてこそだと思うぞ」と、「お前も俺も、此処に生きてるだろうが」と。
「ぼくは、どっちでもいいけれど…。ハーレイと二人でいられるんなら」
 今は一緒に暮らしてないけど、ちゃんと二人で話してるよ、此処で。…ぼくの部屋でね。
 場所は何処でも、ぼくはちっとも気にならないから、天国の方でもかまわないかな。
 ハーレイはどう…?
 二人だったら、何処でもいいと思わない、と尋ねてみた。地球でも、雲の上にある天国でも。
「其処に関しちゃ、否定はしない。お前と二人でいられるんなら、俺も何処でもいいんだが…」
 だがなあ、今は生きてるんだし、貰った命を楽しまないと。…お前も、俺も。
 生きてりゃ薔薇のジャムも作れる、とハーレイがパチンと瞑った片目。
 「天国で薔薇が届くのを待ってなくても、地球に咲いてる薔薇で幾らでも作れるしな?」と。
 白いシャングリラの思い出の味と言うのだったら、似合わなくても作って食べる、と。
「薔薇の花びらで作ったジャム…。買おうっていう話もあったよね?」
 前に薔薇のジャムの話をした時、いつか二人で買いに行こう、って。
「買いに行くのもいいんだが…。作ろうって気がして来たぞ、俺は」
 俺には似合わない薔薇の話をたっぷりとして、天国でも作っていたかもしれん、っていうことになっちまったら。薔薇の花輪や花束がドッサリ届いた時には、作ったのかもしれないなら。
 薔薇のジャムがお前のリクエストだというなら作ろう、とハーレイが引き受けてくれたから。
 今のハーレイも料理はとても得意なのだから、いつか薔薇のジャムを頼んでみようか。
 ハーレイには似合わないジャムらしいけれど、「作ってよ」と薔薇のジャムをおねだり。
 いつか結婚して、二人で暮らし始めたら。
 薔薇のジャムを二人で食べる時間を持てる生活、それがハーレイの家で始まったら。
 いい香りのする薔薇をドッサリと買って、愛でた後には薔薇のジャム。
 「萎れて来たからジャムにしてよ」と、「シャングリラでは、薔薇はそうしてたよね?」と…。



           記念墓地の薔薇・了


※薔薇の花びらで作ったジャムは似合わない、と評されていたのがキャプテン・ハーレイ。
 けれど今では、記念墓地の墓碑に沢山の薔薇が。青い地球の上で、薔薇のジャムも作れそう。
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(あれ…?)
 一枚だけ黄色、とブルーが見上げた木の葉。学校からの帰り、バス停から家まで歩く途中に。
 黄色く色づいている葉っぱ。他の葉はまだ緑色なのに、一枚だけが。
 気の早い紅葉、楓ではなくて桜だけれど。葉っぱの形も、佇まいだって楓とは違う木だけれど。
(紅葉の季節…)
 もう少ししたら、木々が色づく季節。
 一年中、緑色の葉をしている木たち以外は、どの木の葉っぱも染まってゆく。綺麗な色に。赤や黄色や、その木ならではの色合いに。
(やっぱり楓が一番だよね)
 あれが紅葉の代表だよ、と思い浮かべた楓の木。「モミジ」と呼ばれるのが楓。人によっては、モミジという言葉が「楓」の名前だと信じているほど。
 そうなるだけあって、楓の紅葉は美しい。赤く染まった木は、さながら紅葉の女王のよう。他の木々には出せない色合い、重なり合う葉が描き出す濃さや、鮮やかさや。
 それも葉っぱが小さい楓が最高、と楓の木たちを探しながら歩く。道沿いにある家の庭の中に。
 葉が小さいと、繊細に色づくものだから。葉っぱの数だけ、違った色も生まれるから。
 家に着くまでに見た楓は幾つも、家の庭にもある楓。
 制服を脱いで、おやつを食べながらダイニングの窓の向こうに眺めて、その後には二階の自分の部屋の窓からも。
(あの種類の楓が、一番綺麗に見えるんだよ)
 いつだったか、母が教えてくれた。
 楓の種類は多いけれども、葉が小さいほど色づいた時が綺麗なのだと。品良く、小さな葉を持つ楓。小さい葉だから、見た目も繊細。庭に植えたのも、そういう楓、と。
(楓の種類、ホントに沢山…)
 赤ちゃんの手を思わせるような楓の葉。「紅葉のような手」と言うほどだから。
 帰り道に見た楓も色々、どの木も楓ならではの葉っぱ。人の手のような。
 大きな葉をした楓の木やら、他にも様々な種類がある。最初から葉が赤くて、「もう紅葉?」と驚かされるものやら、葉っぱの縁がノコギリのようにギザギザになっている楓やら。



 種類が沢山ある楓。庭の持ち主の好みに合わせて、選んで植えてある木たち。今の自分には楓は普通で、紅葉の季節になれば目につく。「あそこにもある」と、何処に行った時でも。
(シャングリラには、楓、無かったけれど…)
 今の自分には馴染み深い木、紅葉の代表格の楓は。
 白いシャングリラにあった公園、あそこで紅葉していた木たちは、他の木だった。人の手の形の葉を持つ楓ではなくて。
(楓の木、とても綺麗なのにね?)
 紅葉の季節を迎えなくても、青楓と呼ばれる青葉の季節。それを眺めに行く人も多い。幾重にも重なる、繊細な葉を。写真を撮ろうと、カメラを構える人だって。
 けれど、そういう楓の木。白いシャングリラに無かったばかりか、一度も見かけなかったような気がする。アルテメシアで地上に降りた時にも。
 育英都市の街路樹はもちろん、テラフォーミングされていた山の中にも無かった楓。見ていないように思える楓。前の自分は、ただの一度も。
(なんで…?)
 覚えていないのか、本当に無かったものなのか。
 綺麗な木だけに、あっても良かったと思うんだけど、と不思議な気分。SD体制の時代でも。
(別に、邪魔にはならないよね…?)
 楓の木くらい、機械の時代の邪魔にはならない。ただの木なのだし、不都合は何も無いだろう。公園に植えても、テラフォーミングした山に植えても。
(…ぼくが忘れてしまったのかな…?)
 楓に関心が無かったものか、愛でる余裕が無かったのか。どうなのだろう、と首を捻った所へ、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、早速、訊くことにした。
 テーブルを挟んで向かい合わせで、ハーレイが腰を落ち着けるなり。
「あのね、楓の木は無かった?」
 紅葉って言うでしょ、楓のこと。あの楓の木は無かったかな…?
「はあ? 楓って…?」
 無かったか、って俺の家の庭のことを言ってるのか?
 無いことはないぞ、お前が気付いていなかっただけで。



 俺の家の庭にも楓はある、と答えたハーレイ。庭の何処かに植えてあるらしい。
 ハーレイの家の庭にもある楓。どんな楓か、そちらも訊いてみたいのだけれど、今はそれよりも楓が問題。前の自分が見ていないように思う楓が。
「ごめん。今の時代じゃなくって、シャングリラ…」
 前のぼくたちが生きてた頃だよ、SD体制の時代の話。楓の木、植えていたのかな、って…。
「シャングリラには植えていなかったぞ」
 どの公園にも楓は無かった。いろんな公園を作った船だが、楓は一本も無かったっけな。
 キャプテンの俺が言ってるんだし、間違いはない、と断言された。やはり無かった楓の木。白いシャングリラの何処を探しても。
「それは分かっているけれど…。前のぼくの記憶に残っていないから」
 あの船で楓を見たんだったら、覚えていそう。忘れたにしても、思い出せると思うんだよ。
 でもね、前のぼく…。アルテメシアに降りた時にも、見ていない気がして来ちゃって…。
 あそこの街路樹、秋には紅葉していたのにね。山に植えられてた、色々な木も。
 だけど楓の記憶が無くて…。何処かの家とか公園だったら、植えていたかもしれないけれど…。
 前のぼくが其処には行かなかっただけで、と説明した。「楓の木を見た覚えが無い」と。
「なんだ、そっちの方なのか。シャングリラの中だけの話じゃなくて」
 そりゃ無いだろうな、楓の木なんか。あの時代なら、アルテメシアには無いさ。
 他の星でも無理じゃないか、と返った答え。いとも簡単に、「無かっただろう」と。
「え? 無かったって…」
 アルテメシアに無いだけじゃなくて、他の星にも無いって言うの?
 テラフォーミングの時の都合で、アルテメシアには向かなかった木だったわけじゃなくって…?
「そうなるな。楓の木は何処にあるものなんだ?」
 特別に栽培するのでなければ…、という質問。どういう所で育つ木なのか。
「…日本とか?」
 今のぼくたちが住んでる地域。ずっと昔は、日本っていう島国があった場所…。
「その通りだ。俺たちがモミジって呼んでる楓は、この地域じゃありふれた木なんだが…」
 イロハカエデが有名なんだが、そいつはこの辺りに分布しているわけだ。
 お前も充分、承知しているように、地球の上には様々な植物があってだな…。



 青く蘇った地球も、滅びる前の青かった地球も、それは様々な植生があった。地球のあちこち、其処ならではの植物たちが育つもの。自然の中では。
 遠い昔に、SD体制の時代の文化の基本に選ばれた地域。機械が統治しやすいようにと、多様な文化が消された世界がSD体制の時代の宇宙。
 此処の文化を元にして世界を組み立てよう、と機械が選び出した地域に、楓の木は全く無かったらしい。人の手の形の小さな葉を持つ、今の自分に馴染みの木は。
「なんと言っても、日本風の庭が似合いの木だからなあ…。楓ってヤツは」
 お前の家や俺の家にあるような庭でも、植えておいたら見栄えはするが…。
 一番しっくり来そうな場所は、日本風の庭だと思わんか?
 どう思う、と尋ねられたから頷いた。実際、楓の名所と言ったら、その手の庭になるのだから。
「そうだね、そういう庭が似合うよ。あんまり沢山無いけれど…」
 日本風です、っていう大きな公園とかに行かなきゃ、本格的なのは見られないけれど。
「家がこういう造りだからなあ…。日本風の庭にしちまったら、今一つ似合わなくなるし…」
 やたら庭だけ浮いちまうだとか、家がおかしく見えるとか…。本格的な庭は無理だぞ。
 個人の家で作ろうとしたら難しい、とハーレイが指摘する通り。絵に描いたような日本風だと、家まで日本風の造りにしないと似合わない。遠い昔にそうだったように。
 ハーレイが教える古典の世界の時代だったら、庭にも山にも似合った楓。日本だったら。
 けれどSD体制の時代の基本になった文化には合わず、その文化があった地域にも無かった木。楓を愛でる文化が無いなら、植える必要も無いだろう、と考えたのがグランド・マザー。
 機械が「要らない」と判断したから、楓は何処にも植えられなかった。いつか地球が蘇った時に備えて、専用の施設で保存されてはいても。…「楓」という種を絶やさないように。
「そうなんだ…。今だと、山にも沢山生えているのにね」
 楓の木、と思い浮かべる紅葉の名所。木々の錦が染め上げる山には、楓の紅葉も混じるもの。
「そのように再現したからな。地球で植物がまた育つようになった時代に」
 もっとも、いくら楓の紅葉が綺麗だと言っても、楓ばかりが植わっている山は無いんだが…。
 俺たちが住んでる地域の中には、楓だけだという山は無い。森や林にしたってそうだ。
 本物の日本だった頃から、色々な木たちが育っていたわけで、そいつを元に戻したんだから。
 この地域の植生を再現しようと、もう一度、日本に似合いの山や林を作ろうとな。



 ところが、他の地域に行くと…、とハーレイが話してくれたこと。
 他の地域にもある紅葉の季節。楓を指すモミジのことではなくて、木々の葉が色づく紅葉の方。
「同じ紅葉でも、この地域のとはまるで違っているらしい。もちろん、地域によるんだが…」
 其処に生えてる木の種類によっては、味気ないほど同じ色で塗り潰されてしまうそうだぞ。
 この辺りだと、赤や黄色や、それは色々な色が混じっているんだが…。
 古典の時代から「紅葉の錦」と呼んでたくらいに、色とりどりなのが紅葉なんだがな。
「おんなじ色って…。そんな景色になっちゃうの?」
 ちょっと想像できないけれど…。街路樹とかなら、どれも揃って黄色や赤になるけれど…。
 山や森とかが同じ色って、同じ種類の木ばかりだったら、そういうことになっちゃうのかな…?
 ぼくが知ってる紅葉じゃないよ、と驚いたけれど、写真で見たようにも思う。他の地域で誰かが撮影した写真。一面の黄色に染まった森と、それを映した湖と。
 今の青い地球の上の何処かに、そんな景色もあるのだろう。揃って同じ色に染まる山や森やら。
「其処で暮らしている人間にすれば、そっちが普通なんだがな。色とりどりの紅葉じゃなくて」
 それだけ地球が広いってことだ、紅葉だけでも景色がすっかり違うくらいに。
 もっとも機械はお気に召さなくて、統一しちまっていたわけだが…。山で育てる木の種類まで。
 楓は似合わない世界なんだ、と判断したなら、公園からも除外しちまって。
 味気ない時代だったよな、とハーレイがフウとついた溜息。「前の俺たちには普通だが」と。
「楓が無いよ、って気付きもしていなかったしね…。前のぼくでも」
 あの頃だったら、楓とは違った一面の色の紅葉も、きっと何処にも無いね。山も林も、すっかりおんなじ色に塗り潰されちゃうような紅葉…。
「そこまで見事にテラフォーミングしていた、星が存在しなかったからな」
 あくまで人間が暮らす範囲を整える、というのが基本だから…。それ以外の場所は手つかずで。
 一番テラフォーミングが進んだ、ノアでもそいつは無理だったろう。見渡す限りの紅葉はな。
 しかし今では、この地球の上で見ることが出来る。
 そういう紅葉が普通になってる地域に行ったら、誰だって。…俺も、お前も。
 もっとも、俺は同じ色に染まる紅葉よりかは、この地域の紅葉が好きなんだが…。
 赤や黄色や、同じ赤でも、木によって違う色になっちまう山。
 色とりどりの山が好きだな、紅葉を眺めに出掛けてゆくってことになったら。



 紅葉は錦に限るんだ、と話すハーレイの好みは様々な色に染まる山。同じ楓も赤は色々、其処に黄色や橙色の葉を持つ木たちが混じる。まるで絵具のパレットのように。
「錦ってヤツは一色じゃないだろ、色が一つしか無きゃ錦とは呼ばん」
 それに錦秋とも言うわけで…。秋は錦に染まってこそだ。山も林も、色とりどりにな。
 紅葉を見るなら錦でないと、とハーレイがこだわる、様々な色に染まる秋。他の地域だと、違う所もあるらしいのに。一面の紅葉がそっくり同じ色に染まって。
「ハーレイがそう思うのは…。それは古典の先生だから?」
 錦に限る、って言ってるのは。古典の世界の時代の紅葉は、今と同じで錦だから…。色々な色が混じってるもので、一色だけの紅葉じゃないから。
 前のハーレイだと、紅葉どころじゃないけれど…、と付け加えた。白いシャングリラの公園でも色づいた、冬に葉を落とす落葉樹たち。船の中で人工的に作っていた秋、その頃になれば。
 けれど、紅葉狩りに出掛けられるほどの規模ではなかった。あの船で生きたミュウたちの中で、紅葉見物をしていたのは前の自分だけ。アルテメシアに降りた季節が秋だったなら。
「俺の紅葉についての意見ってヤツか? どうだかなあ…」
 古典の教師は、あまり関係なさそうだが…。言葉の方なら、色々と知ってるんだがな。
 紅葉を詠み込んだ和歌や俳句や、そういったものも馴染み深くはあるんだが…。
 錦に限る、と思っちまうのは、ガキの頃から見慣れた景色だからだろう。前の俺だと、あの船の中で見ていた紅葉が全てだったが…。楓なんかは無かった船で。
 そういや、楓か…。今じゃ紅葉は楓なんだな、前の俺たちの頃には無かった楓。
 主役が変わっちまったのか、とハーレイは顎に手を当てる。「楓だな…」と、考え込むように。
「どうかしたの?」
 今は確かに、紅葉は楓なんだけど…。楓のことを「モミジ」って呼んでる人までいるくらいに。
 面白いよね、前のぼくたちが生きてた頃には、楓は何処にも無かったのにね。
 地球が蘇った時に備えて、保存してあっただけなんでしょ、と今のハーレイに習った知識を確認するように口にした。前の自分が楓を一度も見なかったのは、記憶違いではなかったから。
「いや、楓だと思ってな…」
 今の俺には紅葉と言ったら錦なわけで、そういう紅葉を見ようと思えば、この地域の山だ。
 楓が自然に育っている山、赤や黄色で色とりどりの山が好みになっちまうんだが…。



 その楓…、とハーレイは「楓だ」と繰り返した。「楓にも色々な種類があるのが地球だ」と。
「俺たちが知ってる楓となったら、さっきから話している楓。それになるのが今なんだが…」
 一面の黄色や赤の紅葉になっちまう地域、其処にも楓はちゃんとあるな、と思ってな。
 前のお前が行きたがってた砂糖カエデの森がある辺りも、そういう紅葉になるらしいから。
 色が混ざっていない紅葉だな、同じ種類の木ばかりが生えているせいで。
 お前が行きたがってた頃には、その森だって無かったんだが、と言われた砂糖カエデの森。前の自分が夢見た地球は、本当は青くなかったから。蘇る兆しさえも持たない、死の星のままで。
「ホントなの? 砂糖カエデの森がある辺りは、同じ色をした紅葉になるの…?」
 この辺りとは違うんだ、と目を丸くした。砂糖カエデの森がある地域には詳しくない。いつかは行きたい場所だけれども、まだ下調べもしていないから。
「そうらしいんだが…。俺もこの目で見ちゃいないがな」
 で、その砂糖カエデの森。…よく考えてみろよ、前のお前の夢の森だろうが。その森で採れた、本物のメープルシロップをかけて、ホットケーキの朝飯を食うというヤツが。
 前のお前は行き損ねたから、今度は俺と行くんだっけな。結婚して旅行が出来るようになれば。
 出来立てのシロップでキャンディーも作って食うんだろう、とハーレイは忘れずにいてくれた。前の自分が描いた夢より、もっと大きくなった夢。今の自分が抱いた夢。
 メープルシロップを作る季節は、まだ森の中に雪がたっぷり。その雪に煮詰めた樹液を流せば、柔らかなキャンディーが出来るという。メープルシロップと同じ風味のキャンディーが。
 それが食べたくて「行くなら、そういう季節がいいな」と注文したのが今の自分。冬に積もった雪が解け始める、メープルシロップの材料の樹液を集める季節に旅をしよう、と。
「ハーレイ、覚えていてくれたんだ…。キャンディーのことも」
 砂糖カエデの話は何度もしていたけれど、そっちは前のぼくの頃からの夢だから…。今のぼくの夢はキャンディーの方で、前のぼくの夢に、ちょっぴりオマケ。
 砂糖カエデの森もやっぱり、一面のおんなじ色の紅葉になるのかな…?
 黄色くなるのか、赤くなるのか、ぼくはちっとも知らないけれど。
「赤いらしいぞ。ずっと昔は、国旗の模様にもなっていたんだ」
 砂糖カエデが名物だった国の国旗のド真ん中には、赤く染まった砂糖カエデの葉だったから。
 つまり一面の赤になるわけだな、砂糖カエデの森へ紅葉の季節に行けば。



 赤だけじゃ錦にならないが…、と今のハーレイの好みではない色なのが砂糖カエデの森が染まる秋。様々な色が入り混じってこその錦なのだし、砂糖カエデの森の紅葉は失格。
「俺の好みの紅葉にはなってくれないわけだが、その砂糖カエデを考えてみろ」
 紅葉は抜きで、メープルシロップもホットケーキも、キャンディーの夢も抜きにして。
 砂糖カエデっていうくらいだから、楓とついているよな、名前に。
 いわゆる紅葉の楓と同じに楓の文字、と言われてみれば、その通り。砂糖カエデの名前の中には楓の文字が含まれている。紅葉の楓と同じ響きが。
「うん…。でも、楓とは違うよね?」
 今のぼくたちが知ってる、紅葉の楓。あれは昔の日本の辺りにあった楓で…。今でもそう。
 SD体制の時代には無かった楓なんだし、砂糖カエデとは違うものだよ。砂糖カエデの方なら、ちゃんとあったんだもの。…メープルシロップは消えていなかったから。
 シャングリラには本物のメープルシロップは無かったけどね、と苦笑する。船の中では、育てることは無理だった砂糖カエデの木。
 だから「地球で」と夢を見ていた。いつか地球まで辿り着いたら、砂糖カエデから採れた本物のメープルシロップをかけて、ホットケーキを食べようと。地球の草で育った牛のミルクのバターも添えて、それは贅沢な朝食を。
「砂糖カエデは健在だったな、前の俺たちの時代にも。文化が消されていなかったから」
 ホットケーキは馴染みの食べ物なんだし、メープルシロップが欠かせない。砂糖カエデを育てて作っていかないと。…シャングリラでは無理で、合成品しか無かったんだが。
 それでもメープルシロップを作っていたほど、前の俺たちにも馴染み深かったのが砂糖カエデというヤツだ。前のお前が憧れていたくらいにな。
 その砂糖カエデの木なんだが…。
 お前が言うように種類は全く違うものだが、同じ楓には違いない。砂糖カエデの方だって。
 楓と名前がついている以上は、楓の内だ、とハーレイは話すのだけれど。
「んーと…。確かに名前は、ちゃんと楓とつくけれど…」
 別のものでしょ、紅葉の楓と砂糖カエデは。
 だって少しも似ていないじゃない、前のぼくだってデータくらいしか知らないけれど…。
 紅葉の楓と違うってことは直ぐに分かるよ、育つ地域が違うにしたって。



 名前に楓とつくだけだよね、と砂糖カエデを頭に描いた。前の自分が夢見た木だから、葉っぱの形くらいは分かる。紅葉の楓に似ているようでも、まるで違った木なのだと。
 けれど…。
「そうでもないんだ、どっちも同じに楓だから。…砂糖カエデも、紅葉の楓も」
 名前に楓とつくだけじゃない。紅葉の楓と砂糖カエデは、無縁ってわけじゃないってな。
 この地域だと砂糖カエデは生えてはいないが、紅葉の楓なら幾らでも生えて育ってくる。山でも森でも、林でも。…種が散らばりさえすれば。
 その楓から蜜が採れるらしいぞ、花の蜜ではなくて樹液だ。砂糖カエデの樹液みたいに。
 楓の幹に穴を開ければ採れるそうだ、と聞かされてキョトンと見開いた瞳。
 幹から樹液を集めるのならば、メープルシロップと変わらない。砂糖カエデの樹液を煮詰めて、濃くしたものがメープルシロップ。樹液が一番多く流れる、雪解けの季節に集める樹液。
「それ、本当?」
 紅葉の楓から蜜が採れるって…。樹液だなんて、そんなの、聞いていないけど…。
 楓の木は何処の山にもあるけど、あれは山の中に好きに生えてるだけで…。
 雪解けの季節に樹液を集めに行く人なんかは、何処の山にもいないんじゃないの?
 いるんだったら、楓の樹液で出来ている蜜がお店に並んでいそうだから…。メープルシロップの瓶の隣に、楓の木から採れたシロップの瓶。
 だけど、一度も見たことないし…。ぼくのママだって、買ってこないし…。
 採れるんだったら、ぼくも食べたことがある筈だよ、と疑わしい気持ち。ハーレイが嘘をついているとは思わないけれど、元の情報が間違っていたら、嘘ではなくても嘘になる。間違った情報を信じてしまって、それを話しているのでは、と考えたりもしてしまう。楓の樹液などは知らない。
「お前が疑っちまう気持ちも、分からないではないんだが…」
 この辺りの山じゃ集めてないしな、楓の樹液というヤツを。もちろん、専門の人だっていない。
 だが、俺は嘘など言ってはいないぞ。楓の木からも樹液は採れる。蜜と呼べるほど甘いのが。
 楓の種類と、その木が育っている環境によるって話なんだが…。
 どの楓でも採れるというわけじゃないし、同じ種類の楓の木でも、場所が違えば駄目らしい。
 砂糖カエデが生えている森は、冬になったらうんと寒くなる場所にあるだろう?
 それと同じに、寒い山の中がいいって話だ。…砂糖カエデの森ほどには寒くないそうだがな。



 本当に嘘じゃないんだぞ、とハーレイは念を押すように言った。「俺が嘘などつくもんか」と。
「嘘をつくなら、もっと上手な嘘をつく。お前が疑わないような嘘を」
 ただし、そういう嘘をつくなら、お前のためになる嘘だ。お前を騙した方がいいと思った時に。
 もちろん、嘘だと話しはしない。嘘をつく理由が要らなくなって、嘘だと明かせる時までは。
 お前のためになる時だけしか、俺は嘘などついたりしない。それは分かっているんだろう…?
 違うのか、と瞳を覗き込まれた。「前の俺の頃から、そうだったが」と。
「…そうだけど…。前のハーレイが嘘をついていた時は、いつだって、そう…」
 ぼくが本当のことを知ったら、悲しくなってしまう時とか、泣いてしまいそうな時だとか。
 ハーレイの気持ちは分かっていたから、心を読んだりはしなかったよ。嘘を信じておくだけで。話して貰える時が来たなら、ハーレイは話してくれるから…。
 だけど、楓の話なんかは、そんなものとは違うでしょ?
 「お前、アッサリ騙されたな」って、今すぐにだって笑い飛ばせそう。ただの楓のことだから。
 冗談に決まっているだろう、って言われちゃっても、おかしくないし…。
 ぼくが砂糖カエデの森にこだわってるのは本当だもの、と鳶色の瞳を見詰め返した。とびきりの冗談を言われたのではと、もっともらしい嘘の話では…、と。
「冗談なあ…。それも悪くはないんだが…。今のお前はチビだしな?」
 今のは嘘だ、と俺が言ったら、きっとプンプン怒るんだろう。「酷いよ!」と膨れて、唇だって尖らせて。そんなお前も可愛らしいし、やってみたいような気もするが…。
 残念なことに、楓の話は嘘じゃない。楓と名前がつくだけあって、砂糖カエデと似てるんだ。
 この地域にもある楓の木から採れるってだけで、甘い樹液には違いない。そいつを集めてやって煮詰めれば、立派なシロップが出来上がる。
 本物のメープルシロップにも負けない、楓の樹液から作るシロップがな。
「えーっ!?」
 ホントに本物のメープルシロップが出来ちゃうの?
 砂糖カエデの木とは違った楓でも…?
 ぼくたちがモミジって呼んでる楓からでも、メープルシロップが採れるだなんて…。
 ハーレイが嘘を言ってないなら、それ、本当のことなんだよね…?
 冗談でもないって言うんだったら、楓の木からも、メープルシロップ、採れるんだ…。



 前のぼくの夢だったメープルシロップ、この地域にもあったわけ、と目をパチクリと瞬かせた。
 砂糖カエデの木が生えている森は、此処からはずっと遠い地域にある。紅葉の色合いが此処とは全く違うくらいに、遠く離れた海の向こう。
 この地域の紅葉は色とりどりの錦だけれども、砂糖カエデの森の辺りは何処まで行っても一面の赤。他の色の葉は混じっていなくて、砂糖カエデの葉の赤い色だけ。他の種類の木の森だったら、一面の黄色にもなるのだろう。その色だけで塗り潰されて。
 錦のような紅葉を見慣れた今の自分には、想像もつかないその光景。それほどに遠い、何もかも違う気候と風土の、砂糖カエデの森が広がる場所。
 わざわざ其処まで出掛けなくても、メープルシロップに出会えるらしい。砂糖カエデの樹液から出来る、シロップにこだわらないのなら。
「…普通の楓のシロップでいいなら、メープルシロップ、此処にもあるんだ…」
 海の向こうまで出掛けなくても、楓の木がちゃんと生えているから。…種類が違う楓でも。
 庭に生えてる楓みたいなヤツだよね、と指差した庭。母が「この種類が綺麗だから」と植えた、小さな葉をつける楓の木を。
「あれの仲間になるんだろうなあ、楓だと書いてあったから」
 どういう名前の楓なのかは、詳しく書かれちゃいなかった。其処まで書かなくても、写真だけで楓だと分かるような楓だったから…。
 俺たちが見れば、ただの楓にしか見えないんだろう。楓に詳しい人くらいしか、区別がつかないようなヤツだな。こういう葉だからコレだ、と名前が出てくるような人でなければ。
 俺もたまたま、思い付いて調べていたんだが…。楓だっけな、と。
 お前とメープルシロップの話をした後、何かのはずみに、砂糖カエデだと気が付いた。楓という名前がついているなと、だったら普通に生えてる楓はどうなんだ、と。
 同じ楓なら採れそうな気がするじゃないか、とハーレイが言うメープルシロップ。砂糖カエデの木とは違っても、楓には違いないのだから。
「ハーレイ、それで調べてみたの…?」
 この地域に生えてる楓の木からも、メープルシロップが採れるかどうか。
 そんなの、ぼくは思い付きさえしなかったよ。だって楓は楓なんだし、砂糖カエデとは別の木になってしまうから…。第一、ぼくにとってはモミジで、楓はモミジなんだってば。



 秋になったら綺麗に色づくのが楓、と思い込んでいた今の自分。前の自分が生きた頃には、目にしなかった楓の木を。…秋の山や庭を鮮やかに彩る木だと、「楓」の名には気も留めないで。
 考えてみれば、砂糖カエデにも「楓」と名前がついているのに。同じ「楓」の名前を持つなら、同じ性質を持っていたとしても、不思議なことなど何もないのに。
「…ぼく、モミジだと思い込んじゃってた…。楓のこと…」
 砂糖カエデも楓なのにね、モミジの楓とおんなじ楓。同じ名前がついているなら、モミジの楓が砂糖カエデと似てたとしたって、少しもおかしくないんだけれど…。
 気付かなかったよ、と前の自分の夢の一つを思い出す。青い地球まで辿り着いたら、あるだろう砂糖カエデの森。その森で採れる本物のメープルシロップをかけて、ホットケーキを食べる夢。
「俺はお前より、二十四年ほど長く生きてるからな。…ついでに古典の教師でもある」
 古典を生徒に教えるからには、言葉ってヤツに敏感だ。ピンとくるのが早いってな。
 砂糖カエデとモミジの楓の共通点にも、気付いちまったというわけで…。
 前のお前がメープルシロップにこだわっていたっけな、と調べてみたのがモミジの楓だ。楓には違いないからなあ…。もしかしたら、アレからもメープルシロップが採れるのかもしれん、と。
 それで調べて見付けたんだが、それっきり忘れちまってた。
 お前と話すことは多いが、話題も多いもんだから…。それに、採れるのは北の方だし。
 この辺りの山で採れるんだったら、俺も覚えていたろうが、とハーレイの指が叩いた自分の額。「ウッカリ者め」と、「調べたのはかなり前だろうが」と。
「北の方…。場所を選ぶって言っていたよね、この辺りの山じゃ採れないの?」
 うんと寒い所へ行かなきゃ無理なの、楓の木からメープルシロップを作るのは…?
 砂糖カエデの森があるのと同じくらいに、冬は寒くて夏は涼しい所でないと…?
「どうなんだかなあ…。この近くにも、雪がドッサリ積もるような場所もあるんだが…」
 平均したなら、暖かすぎるってことになるのか、気温の差が小さすぎるのか。
 楓の樹液を集めようって人は誰もいないし、山に行っても採ってる所は見かけんな。
 きちんと探せば、採れる場所だって、まるで無いことはないんだろうが…。
 何処かの山の斜面だったら大丈夫だとか、この谷ならば、って場所があるだとか。
 楓の木からメープルシロップを作ってみよう、と思い立った人が調べさえすれば、それに適した場所や木なんかは、見付かりそうではあるんだが…。この辺りの山でも、何本かは。



 ただし採れても、趣味の範囲を出ないだろうな、とハーレイが浮かべた苦笑い。自分用にと少し採るならともかく、商売になるほどは採れないだろう、と。
「商売って…。この辺りの山だと、趣味の範囲だって言うんなら…」
 ハーレイが言ってる、北の方で採れる楓のメープルシロップ、ちゃんと商売になってるの?
 お店で見かけたことは無いけど、何処か大きな食料品のお店に行ったら、それ、売られてる…?
 売ってるんなら欲しいんだけど、と出て来た欲。
 本物の砂糖カエデのメープルシロップは家の食卓でもお馴染みだけれど、楓のシロップの方には出会っていない。この地域で採れる楓のメープルシロップがあると言うなら、そちらも是非とも、味わいたいもの。ホットケーキにたっぷりとかけて。
「残念なことに、其処に行かなきゃ買えないってな」
 なにしろ採れる所が限られてるから、大々的には売り出していない。蘇った青い地球の恵みは、欲張って沢山採り過ぎないのが今の時代の約束事だぞ。
 美味いシロップが評判を呼んで、飛ぶように売れることになったら、沢山作る方法は何だ?
 その山に生えてる他の木を切って、楓ばかりを植えることだろうが。それもメープルシロップが採れる種類の楓だけだな、他の種類の楓は無しで。
 それじゃ、昔の人類と何も変わらない。地球の自然を自分たちの都合に合わせて、好きなようにした人類と。…山を削って、木を切り倒して、原野を切り拓いていった挙句に何が残った…?
 地球の滅びは、そういう所から始まったんだ。最初は生きるための開墾、それがどんどん進んでいったら、手が付けられなくなっちまった。自然は滅びて、元に戻せなくなってしまって。
 そうならないよう、今の時代は、地球の恵みを欲張って奪わないのが約束だから…。
 楓の木から採れるメープルシロップにしても、同じことだな。その年に其処で採れた分だけを、近くの店で売っている。…その程度だったら、採り過ぎちまうことは無いから。
 欲しい人は出掛けて行って買うのだ、と教えられた。
 店で売られているシロップの他に、それを使ったお菓子やホットケーキが食べられる店も設けてあるという。けれど、あくまで「其処まで訪ねて来た人」にだけ。
 いくら気に入っても、頼んで取り寄せることは出来ないらしい。また欲しいのなら、その場所へ出掛けて手に入れること。…お菓子もホットケーキも同じで、其処だけでしか味わえない。
 どんなに美味しいと思っても。…其処まで行くのに、どれほど時間がかかろうとも。



 楓の木から採れるメープルシロップ。この地域でも採れる、砂糖カエデではない楓のシロップ。あると聞いたら食べてみたいのに、この町では手に入らない。其処まで出掛けて行かないと。
「…そうなんだ…。楓のシロップ、食べてみたかったのに…」
 お店に行っても売っていなくて、取り寄せることも出来ないだなんて…。
 北の方まで行くのは遠いよ、ぼくの家からだと旅行になっちゃう。泊まりがけでしか、無理…。砂糖カエデの森がある場所も遠いけれども、楓のシロップが食べられる所も遠いってば。
 せっかく教えて貰ったのに…、とガックリと肩を落としてしまった。
 前の自分が知らなかった楓、その楓から採れる甘いメープルシロップ。一度でいいから、どんな味なのか舐めてみたいのに。…買えるものなら、瓶だって買ってみたいのに。
「こらこら、しょげるな。今は食べられない、っていうことくらいで」
 いつか俺と一緒に行けばいいだろ、そっちの方も。…砂糖カエデの森を目指すみたいに。
 俺の車で出掛けてゆくか、他の交通手段を使うか、それはその時に考えるとして…。
 お前が食べてみたいんだったら、旅行に行くとしようじゃないか。せっかくだから、楓の木から樹液が採れる季節にな。…そしたら、出来立てを食えるんだから。
 雪の上に流して作るキャンディーまでは、あるかどうかは知らないが…、とハーレイが提案してくれた旅行。楓の木から採れるメープルシロップ、それを味わいに行ける旅。
「連れてってくれるの?」
 メープルシロップくらいしか無いような場所でも、ぼくを旅行に連れてってくれる…?
 周りはホントに山があるだけで、観光地とは違っても。…見に行くものは何も無くても…?
「当然だろうが。旅の目的は楓の木のメープルシロップなんだぞ?」
 他にも観光しようだなんて、欲張らなくても充分だ。お前の笑顔が見られさえすれば。
 それに遠くても、同じ地域の中だから…。
 砂糖カエデの森に行くよりは、ずっと近くて簡単だからな。思い立った時に出掛ければいいし、宿だって直ぐに見付かるだろう。他の地域じゃないんだから。
 お安い御用だ、とハーレイは頼もしい言葉をくれた。「俺が旅行に連れてってやる」と。
「ありがとう!」
 ハーレイと一緒だったら、うんと楽しい旅行になるよね。
 凄い田舎で、周りに何にも無くっても。…泊まる場所だって、とても小さいホテルでも…。



 きっとハーレイなら、いつか連れて行ってくれるだろう。楓の木から採れるメープルシロップ、それを味わえる所まで。其処でしか売られていないシロップの瓶を、お土産に買える所まで。
(でも、あの楓からメープルシロップが採れるだなんて…)
 ずっとモミジだと思っていたよ、と庭の楓の木を眺める。母が選んだ、小さな葉の楓。その方が繊細で綺麗だから、と幾つもの種類の中から選んで。
 メープルシロップが採れる楓は、あの楓の木と似ているだろうか。もっと大きい葉の楓だとか、背が高いだとか、何か特徴があるのだろうか…?
(ハーレイは、普通の楓みたいだ、って…)
 話していたから、見た目はさほど変わらない楓なのだろう。「モミジの楓だ」と思う程度で。
 そんな楓から、甘い樹液が採れるという。
 砂糖カエデの森でなくても、メープルシロップが出来上がる。樹液を集めて煮詰めされすれば。
 なんとも不思議な星が地球だ、と思わないではいられない。メープルシロップは砂糖カエデから採れるものだと信じていたのに、前の自分は楓も知らなかったのに。
「ねえ、ハーレイ。…地球って凄いね、楓からもメープルシロップが採れるだなんて」
 砂糖カエデの森からは遠く離れていたって、この地域でもメープルシロップ…。
 同じ楓の仲間の木だから、モミジの楓からも甘いシロップが採れるんだね。楓の種類と、気候がきちんと揃っていれば。
「そうだろう? 地球も凄いし、前の俺たちが知らなかったことも山ほどだ」
 楓の木は何処にも無かっただとか、紅葉を眺めに出掛けてゆくことだとか…。前の俺たちには、思いもよらないことばかりだよな、今の時代は。
 それに、今の俺たちが知らないことも沢山ある。
 楓の木から採れるメープルシロップの味は、今の俺だって知らないし…。あるらしい、と知っているだけのことで、食ってみたことは無いんだから。
 お前と一緒に色々と探して見付けていこうな、そういったもの。
 今ならではの味も文化も、楽しみ方も。…いつか二人で暮らし始めたら。
 幾つも見付けていかないとな、とハーレイが微笑むから、大きく頷いた。笑みを浮かべて。
「うんっ!」
 ハーレイと幾つも見付けていこうね、いろんなものを。…前のぼくたちが知らなかったこと。


 北の方にある、メープルシロップが採れる場所にも行こうね、と約束をした。指切りをして。
 いつか大きくなった時には、ハーレイと二人で出掛けてゆこう。楓の木から樹液が採れる季節を選んで、泊まりがけで。どんな味がするのか、ワクワクしながら。
 そして本物の砂糖カエデの森にも行こう。錦のような紅葉ではなくて、赤一色に染まる森。秋に行っても出来立てのメープルシロップは食べられないから、雪解けの頃に。
 前の自分の夢を叶えに、今の自分のキャンディー作りの夢も叶えに。
 幾つもの夢を叶えてくれる、青い地球。蘇った青い水の星。
 夢がどんどん増えてゆく地球に、ハーレイと二人で生まれて来たから、今の自分は幸せ一杯。
 砂糖カエデの森の他にも、メープルシロップが採れる場所に出掛けてゆけるから。
 前の自分は見たこともなかった楓の木から、甘いシロップが採れるそうだから。
 口に含んだら、きっと幸せの味がするだろう、楓の木の樹液のメープルシロップ。
 ハーレイと二人で旅に出掛けて、ホットケーキやお菓子を味わってみたら。
 そしてお土産に、瓶に入ったシロップも買おう。
 其処でしか買えない幸せの味を、青い地球の恵みの、楓の木のメープルシロップを…。



             楓のシロップ・了


※前のブルーが憧れた、砂糖カエデから採れるメープルシロップ。地球に描いた夢の一つ。
 ところが今では、別の楓からも作れるのだとか。ハーレイと行きたい所が、また増えました。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv











「開かずの間だとか、開かずの扉というのがあってだな…」
 今の時代には無いようだがな、と始まったハーレイお得意の雑談。ブルーのクラスで。
 生徒たちの集中力が切れて来た時は、雑談で気分を切り替えさせる。人気でもある、ハーレイが話す色々なこと。今日のテーマは「開かずの間」。
 遠い昔は、そう呼ばれる部屋があちこちにあった。「開かずの扉」というものも。部屋も扉も、開けると良くないことが起きると思われていた。不吉な場所だと。
 けれども、度胸試しで入って、御褒美を貰った人もいたらしい。人間が宇宙を知らなかった頃、ずっと昔の日本のお城の天守閣で。
 白鷺城の名で知られたお城。天守閣には、人間ではないお姫様が住んでいたという。恐れて誰も入らない中、一人の小姓が上った階段。彼はお姫様に度胸を褒められ、入った証を貰って帰った。
「そういうわけでだ、彼は出世を遂げたらしいぞ。並みの人間より度胸があるから」
 立派な人物になったんだろうな、なにしろ武士の時代だから。
「でも、先生…。開かずの間は、開けちゃ駄目なんですよね?」
 その天守閣も駄目なんじゃあ…、という質問。生徒の一人が手を挙げて。
「本来はな。だから恐れられて、開かずの間だと言われるんだが…」
 白鷺城で入った小姓は、其処の主に気に入られたんだ。
 そんな時には、不吉なことが起こる代わりに、力を貸して貰えたりもする。面白いことにな。
 必ずしも、開けたら駄目なものとも限らんようだ、という解説。
 今の時代は、開かずの扉も、開かずの間なども無いそうだけれど。地球にも、他の惑星にも。
「先生、いつ頃まであったんですか?」
「そうだな…。人間が目には見えないものを信じていた時代までだから…」
 SD体制の時代に入っちまったら、駄目だったろうな。
 白鷺城はもう無かっただろうが、何処かに他の何かが存在していたとしても。
 SD体制だと、機械が最高権力者だったわけだから…。国家主席も機械が選んでいたんだし。
 機械が開かずの間だの扉だのを、許しておくと思うのか?
 どう考えても無理だろうが、という、もっともな話。
 もしもあったら、爆破して開けて、それでおしまいだったろう。機械は効率しか求めないから。誰も開けられない部屋や扉は、非効率的な代物だから。



 そう言い切られた「開かずの間」。開けてはならない「開かずの扉」も。
 機械だったら、強引に開ける。中にお姫様が住んでいようと、不吉なことが起こる扉だろうと。
 開けてしまえば、もう問題は起こらないから。開けっ放しになった部屋では、怪異の類は二度と起こりはしないのだから。
(あの時代じゃね…)
 そうなっちゃうよ、と納得できる。「ハーレイが言うと、説得力があるよ」とも。
 前のハーレイは、機械の時代を生きたのだから。それも機械が殲滅しようとしていた、異分子の側のミュウとして。ミュウの仲間たちを乗せた箱舟、白いシャングリラのキャプテンとして。
 けれど、ハーレイの正体は秘密。誰も知らない、「キャプテン・ハーレイ」だったこと。今ではただの古典の教師で、この学校で教えているだけ。
 開かずの間について語った後には、「授業に戻るぞ」とやっているのだから。教科書を広げて、教室の生徒を見回して。
(開かずの間の話は、これでおしまい…)
 ぼくも授業、と切り替えた気持ち。前の自分たちが生きた時代の話も此処まで、と。
 そうやって授業に戻った後には、忘れてしまった開かずの間。放課後になっても思い出さずに、学校の門を出て、路線バスに乗って帰った家。
 制服を脱いで、おやつを食べても、やっぱり同じに忘れたまま。おやつと、母との話に夢中で。
 食べ終えた後で、「御馳走様」と戻った二階の自分の部屋。扉を開けて入ろうとした途端、例の話を思い出した。開けてはならない、開かずの間。…開かずの扉。
(ちゃんと開くけど…)
 ぼくの部屋のは、と開けて入って、座った勉強机の前。この家に開かずの間などは無い。何処の扉も簡単に開くし、入れない部屋は一つも無い。他所の家にも無さそうだけれど…。
(ずっと昔はあったんだよね?)
 ハーレイはそう言っていた。
 お城の天守閣でなくても、あちこちにあった開かずの間。
 今の時代は消えてしまって、もう無いらしい。人間ではないお姫様が住む天守閣だの、開けたら不吉なことを呼び込む扉だのは。
 SD体制が敷かれた時代を挟んだせいで、宇宙からすっかり消し去られて。



(機械が許さない、開かずの間かあ…)
 確かにそうだ、という気がする。機械ならばそうするのだろう、と。
 前の自分が押し込められた、アルタミラにあった狭い檻。大勢のミュウが殺されていった、檻が並んでいた研究所。檻から外に出された時には、人体実験の対象になる。誰であろうと、ミュウと判断されたなら。
(酷い実験、幾らでもあって…)
 殺された仲間の残留思念を、前の自分は感じていた。実験室に連れてゆかれる度に。
 嬲り殺しにされた者やら、「死にたくない」と叫びながら死んでいった者やら。彼らの無念は、あそこに残ったかもしれない。前の自分が知らなかっただけで。
 アルタミラの研究所はメギドの炎で星ごと焼かれたけれども、他の惑星にもミュウを閉じ込める施設はあった。育英都市から移送されたミュウを、研究のために「飼っていた」場所も。
 そういう施設なら、開かずの間も出来ていたろうか。ミュウは精神の生き物だから…。
(…思念体みたいな形で残って、幽霊になって…)
 死んだ後にも蹲っている檻があるとか、死んだ筈のミュウが彷徨い歩く実験室とか。
 あっても不思議ではない、幽霊が出る檻や、実験室や。…研究者たちも気味悪がって、入ろうとしない実験室。覗きたがらない、幾つかの檻。
(だけど、部屋ごと…)
 爆破されちゃって終わりだよね、とハーレイの話と重ねてみる。授業の時間に聞いた雑談。
 効率だけしか求めない機械は、開かずの間など許さない。研究者たちが入りたがらない実験室は役に立たないし、覗きたがらない檻でも同じ。その檻は使えないのだから。
(幽霊が出るから、って噂が立ったら…)
 実験室も檻も、爆破しそうなマザー・システム。
 誰も恐れて近寄らないなら、遠隔操作で破壊することも出来たろう。機械ならではの方法で。
(監視カメラとかが幾つもあるから…)
 その回線を転用したなら、送れるだろう爆破の命令。人間が爆破出来ないのならば、爆発物だけ仕掛けさせておいて、機械が起爆させるだけ。
 マザー・システムなら、そうするだろう。開かずの間など木っ端微塵にしてしまって。
 幽霊になっても消されるミュウ。人類は恐れて近寄らなくても、機械は何も恐れないから。



 人類の世界だと、消されてしまう開かずの間。ミュウの幽霊が蹲っていたり、彷徨い歩くと噂の部屋。機械はそれを良しとしないし、端から爆破してしまって。
(シャングリラには幽霊、出なかったけど…)
 あの船だったら、開かずの間も出来ていたろうか。
 誰かが其処に住み着いたなら。思いを残して幽霊になって、船にいたいと考えたなら。
(…ハンス…)
 真っ先に浮かんで来た名前。アルタミラから脱出する時、命を落としてしまったハンス。ゼルの弟。宇宙船など、誰も動かしたことが無かったせいで起こった事故。
 「離陸する時は乗降口を閉める」ということ、基本中の基本も知らなかった前の自分たち。
 ハンスは其処から放り出されて、燃える地獄に落下していった。ゼルが必死に握っていた手が、力を失ってしまった時に。「兄さん!」と叫ぶ声を残して。
 ハンスが投げ出された乗降口は、二度と使われはしなかった。何処にも着陸しなかった船だし、使う必要など無かったから。誰も降りたり、乗ったりはしない船だから。
 開きも閉じもしなかったけれど、考えようによっては、あの扉は…。
(開かずの扉…)
 扉はあっても開かないのだから、開かずの扉と呼ぶことも出来る。「開かずの間」だとか、扉の話があった時代なら、それに纏わる話も出来そう。
 扉を開けば、ハンスの幽霊が出るだとか。そうなった時は、ゼルが喜んで開けそうだけれど。
 他の仲間たちは避けていたって、ゼルだけが宇宙服を着込んで。命綱もつけて。
 誰もいない時を見計らっては、開けてみる扉。「今日もハンスに会えるだろうか」と。
 けれど、開かずの扉は無かった。乗降口は閉まっていただけ、一度も開かなかっただけ。
(ハンスの幽霊、出なかったしね…)
 ゼルは「会いたい」と言っていたけれど、出会えたと耳にしたことはない。開かずの扉になっていた乗降口、あの辺りに何度も行っていたのに。…ハンスを探し求めるように。
(だけど、ハンスは出て来ないままで…)
 ハンスの他にも、幽霊の話を聞いてはいない。
 ミュウの箱舟なら、機械に支配されてはいないし、幽霊が出ても消されないのに。開かずの間も扉も、あの船だったら立派に存在できたのに。



 なのに出なかった、誰かの幽霊。聞いたことが無い、幽霊の噂。もちろん開かずの間など無い。開かずの扉も、船には無かった。白いシャングリラにも、改造前の船にも、一つも。
 前の自分があの船からいなくなった後にも、幽霊が出たとは聞いていないけれど…。
(もしかして、出た…?)
 ナスカで死んだ仲間たち。メギドの犠牲になった者たち。
 彼らが船に現れたろうか、赤いナスカはもう無かったから。彼らが残りたがっていた星、手放すことを拒んだ星。それはメギドの炎に焼かれて、砕けて宇宙に散ってしまった。どんなにナスカに残りたくても、砕けた星には留まれない。星が壊れて消えた後には。
 行き場所を失くしてしまった彼ら。ナスカで命を落とした者たち、彼らは船に戻ったろうか。
 白いシャングリラの居住区の中に、彼らの部屋は暫くはあった筈だから。ナスカにあった家とは別に、以前から暮らしていた部屋が。
(其処に戻って来ていたら…)
 出会う仲間も現れた筈。掃除のために入っていったら、死んだ筈の者がいただとか。夜が更けて照明を暗くした通路を、歩く姿を見かけたとか。
 誰かの幽霊が出るとなったら、出来そうなのが開かずの間。通路は通らねばならない場所だし、封鎖することは出来ないけれども、部屋なら閉じてしまえばいい。厳重に扉をロックして。
(入れないようにするのが一番…)
 そうすれば出会わない幽霊。誰も入りはしないのだったら、部屋の住人にも出会わないから。
 白いシャングリラにあっただろうか、幽霊が出ると評判の部屋。施錠されたままの開かずの間。
(どうなんだろう…?)
 今の時代には多分、伝わっていない。そういう部屋があったとしても。
 シャングリラはとうに解体されて、時の彼方に消え失せた船。写真集が編まれるくらいに人気の高い船だけれども、細部の構造までを知っているのは専門の研究者たちくらいだろう。
(そんな人たちが調べる資料に、幽霊の出る話なんかは…)
 恐らく記されてはいない。船の設計図にも、補修などの際のデータなどにも。
 超一級の歴史資料で、シャングリラや初代のミュウについて調べる時には参考にされる、有名な本。前のハーレイが綴り続けた航宙日誌。あの中にもきっと、書かれてはいない。
 幽霊が出る部屋があったとしても。…シャングリラに開かずの間があっても。



 キャプテン・ハーレイが綴った日誌の中身は、日々の出来事を書き留めたもの。シャングリラを纏め上げていたキャプテンの視点で、ただ淡々と。
(幽霊が出る、って噂なんかは…)
 書きそうにないし、開かずの間が出来てしまったとしても、封鎖した事実を書き記すだけ。どの区画の何処を閉鎖したのか、原因の方は何も書かずに。
(でも、ハーレイなら…)
 幽霊が出たなら知っているよね、と考えなくても分かること。たとえ噂でも、その結果として、船に開かずの間が出来たなら。閉鎖された部屋があったなら。
 気になって仕方ないものだから、訊いてみたいと思っていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、ハーレイ…。今日の授業で、開かずの間の話をしてたでしょ?」
 シャングリラの中にも、ああいう部屋があったかな、って…。開かずの間、あった?
「はあ? 開かずの間って…。シャングリラにか?」
 なんでまた、とハーレイは怪訝そうな顔。「あればお前も知ってるだろうが」と。
「前のぼくが生きてた間だったら、もちろん知っているけれど…。その後だってば」
 入ったら良くない部屋っていうのが、開かずの間でしょ。人間じゃないお姫様が住んでるとか。
 シャングリラにだって、ナスカが壊れてしまった後ならありそうだよね、って…。
 ナスカで死んだ仲間の幽霊が出るから、誰も入らないように閉めた部屋とか。
 そういう開かずの間なんだけど、と尋ねたけれども、ハーレイは「無いな」と直ぐに答えた。
「生憎と、幽霊の話は無かった。出ると噂になった部屋もな」
 ナスカで死んだ連中はみんな、真っ直ぐ天国に行ったんだろう。あの船にまた戻って来るより、天国の方がいいに決まってる。もう戦いは無いんだから。
 誰も戻って来やしなかったし、幽霊を見たという話も聞いてはいない。
 出るんだったら、今のお前が言ってる通りに、開かずの間にすることも検討するんだがな。他の仲間の不安を煽っちゃ、地球までの道が厄介になる。
 「入っちゃいかん」と閉鎖するのが一番だ。幽霊の噂が船に広がって、誰もが怯え始める前に。
 不安ってヤツは、ミュウの場合は、ぐんぐん広がっちまうから…。
 一人が怖いと思い始めたら、思念波のせいで、アッと言う間に誰もに伝染しちまうからな。



 ミュウの長所であると同時に、弱点でもあった思念波というもの。瞬時に伝達可能な感情、負の感情ほど広がりやすい。怯えや恐怖といった類の、皆の不安を煽るものほど。
 だからハーレイの判断は正しい。幽霊が出ると噂が立ったら、その場所を閉鎖してしまうこと。誰も立ち入らない部屋になったら、もう幽霊には出会わない。開かずの間が船に生まれるだけで。
「やっぱり、開かずの間にしちゃうんだ…。シャングリラに幽霊が出る部屋があったら」
 だけど幽霊、出ていないんだね。…みんな天国に行っちゃったから。
「そういうこった。ナスカを離れろと指示を出しても、残ったようなヤツらだけにな」
 シャングリラに戻って地球を目指すより、天国に行こうと思うだろうさ。
 前のお前なら、メギドにいたかもしれないが…。前に話をしてたみたいに、ポツンと一人で。
 …って、あったじゃないか、開かずの間が。シャングリラにも。
 思い出したぞ、とポンと手を打ったハーレイ。「そうだ、あの船にもあったんだ」と。
「あったって…。何処に?」
 幽霊なんかは出なかった、って言ったじゃない。それなのに、なんで開かずの間なの?
 そんな部屋がいったい何処にあったの、と興味津々。前の自分が知らないからには、死んだ後に出来た開かずの間。ナスカの悲劇とは別の原因、それで生まれた閉鎖された部屋。
 居住区の中か、まるで関係ない場所か。…開かずの間は何処にあったのだろう?
「何処にって…。お前も知ってる筈なんだが?」
 もちろん今のお前と違って、前のお前だ。ソルジャー・ブルーだった頃のことだな。
 それは立派な開かずの間がだ、白い鯨にあったわけだが…?
 お前もよくよく知ってる部屋だ、と言われても何も思い出せない。白いシャングリラの幾つもの部屋を頭の中に描き出してみても、船の構造図を描いてみても。
「開かずの間って…。そんな部屋、ぼくは知らないよ?」
 今のぼくは何も覚えていないし、前のぼくの記憶の中もおんなじ。
 シャングリラにあった部屋を端から数えてみたって、「これだ」っていう部屋、無いけれど…。
 居住区の中の誰かの部屋なら、忘れちゃったかもしれないけれど…。
「やれやれ、灯台下暗しか…」
 馴染み深すぎて、ピンと来ないって所だな。
 立派な部屋だと話してやっても、よくよく知ってる部屋だと説明してやっても。



 今日の俺の話をきちんと思い出してみろ、とハーレイが挙げた例の雑談。遠い昔の日本にあった開かずの間。白鷺城の天守閣のこと。
 とうの昔に、時の流れに消えてしまった白鷺城。天守閣には人間ではないお姫様がいた。迂闊に入ると祟るのだけれど、御褒美を貰った小姓もいた場所。
「えっと…。天守閣の話がどうかしたの?」
 面白いとは思うけど…。普通の人は祟られちゃうのに、御褒美を貰った人がいたなんてね。
「その天守閣だ。そっくりじゃないか、シャングリラにあった開かずの間と」
 シャングリラの方のも、天守閣と言ってもいい場所だしな。
 ああいう形はしちゃいなかったが、そう呼んだっておかしくなかった場所だ。開かずの間は。
 天守閣だ、とハーレイが繰り返すから、首を傾げた。心当たりが無かったから。
「…天守閣って…。ブリッジは誰でも入れたよ?」
 ブリッジクルーじゃない人だって、立ち入り禁止じゃなかったもの。非常時は入れないけれど。
 それとも、そっちを言ってるの?
 普通の仲間は入れない時があったりするから、ブリッジのことを「開かずの間だ」って…?
「ブリッジなあ…。確かに入れない時はあったが、あのブリッジは天守閣とは言わんだろう」
 天守閣は城の中でも一番立派なんだが、城のシンボルみたいなモンだ。
 どんなに立派に作ってみたって、戦争の時には役立たなかった。…ブリッジと違って。
 もっとも、シャングリラの天守閣の方は、守りの力にはなっていたんだが…。
 本物の天守閣に比べりゃ、船の役には立ったんだがな。
 見た目だけってことは無かったぞ、と言われても、やはり分からない。天守閣のようだと思える部屋も、開かずの間になっていそうな部屋も。
「ハーレイ、それって…。何処のことなの?」
 いくら考えても答えが出ないよ、天守閣だった開かずの間って、どの部屋の話…?
「なあに、簡単なことだってな。白い鯨で一番立派で、天守閣のような部屋なんだから…」
 前のお前が暮らしてた頃の青の間だ。…立派だったろ、とても広くて。
 そして、お前がお姫様だな。天守閣に住んでた、祟りがあると評判の綺麗なお姫様だ。
「えっ…?」
 青の間が天守閣っていうのはいいけど、お姫様って…。どうして、ぼくがお姫様なの…?

 ぼくは祟ったりしてないよ、と目をパチクリと瞬かせた。
 青の間で暮らしたソルジャー・ブルー。部屋付きの係が設けられたほど、大きかった部屋で。
 ソルジャーと皆に敬われはしても、青の間に来る者を拒みはしない。むしろ来客は歓迎な方で、誰でも自由に来て欲しかった。ソルジャーだから、と遠慮しないで、もっと気軽に。
 そうは思っても、滅多に来てくれはしなかったけれど。…一緒に遊んだ子供たちでさえ。
「前のぼく、祟るわけじゃないのに…。みんな、あんまり来てくれなくて…」
 寂しかったよ、ハーレイたちがあんな部屋を作るから…。こけおどしの貯水槽までつけて。
 ソルジャーはとても偉いんだから、って敬うように仕向けてしまって、ぼくは独りぼっち。青の間にいる時にはね。…誰も遊びに来てくれなくて。
 子供たちだって、滅多に来てくれなかったから、と今のハーレイに文句を言った。そういう風にしてしまったのは、前のハーレイと長老たちなのだから。
「其処だ、其処。…お前の部屋と、開かずの間が良く似ている所」
 青の間はソルジャーの部屋で恐れ多いから、係以外は立ち入らない。部屋付きの係や食事係や、メンテナンスの担当者やら。
 そういう係のヤツを除けば、出入りするのは俺やゼルたちや、フィシスといった所だし…。
 他のヤツらが入る時には、許可を得ようとしていたっけな。
 今は入ってもいい時間なのか、入っても咎められないか。お前の都合を確認していたわけだが、祟りを避けているようじゃないか。下手に入って、お前の機嫌を損ねないように。
 お前は別に祟りやしないし、機嫌も損ねはしないんだがな…、とハーレイは笑う。
 「天守閣のお姫様のようじゃないか」と、「誰もが入るのを遠慮するんだから」と。
「…言われてみれば、そのお話に似てるかも…」
 前のぼくは何にも言ってないのに、勝手に遠慮されてしまって。…誰も来なくて。
 誰でも好きに入っていいのに、そんなの、分かって貰えなくって…。
 子供たちだって、ヒルマンやエラが叱ってたんだよ、「青の間で騒いじゃいけません」ってね。そう言われたら、そうそう遊びに来ないよね…。子供たちは賑やかに遊びたいんだから。
 大きな声で笑って、駆け回って…、と零れる溜息。それが自由に出来ない場所には、子供たちは遊びに来てくれない。余程でなければ、子供たちの方から「ソルジャー!」とは。
 どうしても直ぐに知らせたい何かや、一緒に遊びたいことでも出来ない限りは。



 無邪気な幼い子供たちさえ、そういう有様。ソルジャーの部屋に遊びに来てはくれない。船中を走り回っていたって、その続きには入って来ない。青の間だけは避けて通って。
 大人ともなれば、子供たち以上に遠慮したのがソルジャーの居室。入りたいなら、許可など必要無かったというのに、いつも部屋付きの係が訊きに来た。
 「こういう用件で、お会いしたい者が来ておりますが」と、用件と客の名前を告げて。青の間に通していいかどうかを、ソルジャーの機嫌を窺うように。
 わざわざ自分に尋ねなくても、答えは決まっていたというのに。「いいよ」と答えていた自分。いつも答えは「いいよ」ばかりで、「駄目だ」と言いはしなかったのに。
(係が訊きにやって来るのは、まだマシな方で…)
 そうでなければ、係が用件を取り次ぐだけ。客は直接入って来ないで、返事だけを貰って帰ってゆく。…それで充分、満足して。「ソルジャーにお答え頂けた」と。
「…青の間、開かずの間になっちゃってたんだ…。鍵はかかっていなかったけど…」
 開けても何にも起こらないけど、ホントに開かずの間みたいな場所。
 ハーレイが「天守閣に似た部屋だ」って言うのも分かるよ、ソルジャーが暮らす部屋だものね。
 ソルジャーはミュウの長だったんだし、シンボルみたいなものだから…。
 それに青の間、前のぼくがサイオンを使えさえしたら、船を丸ごとシールドしたりも…。外には一歩も出て行かなくても、あの部屋に、ぼくがいさえしたらね。
「うむ。本物の天守閣よりも役立つ部屋だったよなあ、あの青の間は」
 貯水槽はこけおどしに過ぎなかったが、お前の力が凄かったから。最強のミュウで、一人きりのタイプ・ブルーでな。
 お姫様の代わりに、そういうお前が住んでいた、と…。シャングリラにあった開かずの間には。
 ついでに、度胸試しの小姓も突っ込んで行ったじゃないか。
 白鷺城の話と同じにな…、とハーレイは可笑しそうだけれども、小姓とは誰のことだろう?
「度胸試しって…。誰が?」
 子供たちの中の誰かなのかな。それとも、子供たちなら誰でも、度胸試しの小姓だとか…?
「もっと大きな子供だったぞ。ジョミーだ、ジョミー」
 突っ込んで行って、ちゃんと褒美も貰ってたように思うんだが…。
 前のお前の前で怒鳴って、家に帰して貰ったじゃないか。



 二度と帰れない筈の家にな、とハーレイがニヤリと笑ってみせる。「あれこそ度胸試しだ」と。
 あんな度胸は誰も持たないと、「誰があそこから入るんだ?」と。
「そうだ、あの時のジョミーの通路…!」
 普通じゃなかったんだっけ…。ちゃんと青の間までやって来たけど、ジョミーが来た場所…。
 思い出したよ、と鮮やかに蘇った記憶。
 白いシャングリラで苛立ち、孤立していたジョミーを、青の間に来るよう、呼び寄せた時。
 「ソルジャー・ブルー」の姿を探し求めて走るジョミーに、二通りの入口の情報を送った。彼が読み取る思念の中に織り交ぜて。
 緩やかな弧を描くスロープ、その端にある誰もが通ってくる入口。ハーレイたちも、部屋付きの係も、たまに入ってくる来客も。
 それが一つ目の入口の情報、もう一つは非常用通路の方。緊急事態に備えて設けられたもので、スロープの途中に出て来られる。スロープを歩いて上らなくても、エレベーターのように。
 どちらの通路の入口にだって、警備員などが詰めてはいない。係が見張っているわけでもない。
 とはいえ、遠慮するべき通路が非常用のもの。
 ソルジャーの生活空間に繋がるスロープ、それを省いて入り込むなどは無礼だから。一刻を争う時ならともかく、そうでないなら、スロープを歩いて上るべき。急ぎの用があったとしても。
「前のぼく、ジョミーに、入口を二つ教えたのに…」
 スロープの下から入ってくる方と、途中に出られる非常用のと。
 どういう具合に使い分けるのか、それも送った筈なのに…。非常用の通路は使われない、って。
 便利で早く来られるけれども、みんなが遠慮する通路。
 ハーレイたちだって使わないんだ、ってジョミーに送ったんだけど…。いくら酷く怒っていたにしたって、読み取れないことは無さそうなのに…。
 ジョミーの力なら充分、読めたよ、と前の自分が読み取らせた思念の中身を思う。
 初めて自分の意志で心を読んでいたジョミー、そんな彼でもきちんと読めていた筈だ、と。
「迷いもしないで、真っ直ぐ突っ込んで来たんだろ?」
 非常用の方の通路から。
 前の俺でさえ、遠慮して使いはしなかったヤツ。
 どんなに気持ちが焦っていたって、ソルジャーのお前に、無礼な真似は出来ないからなあ…。



 お前を待たせちまった時でも使っていない、と苦笑するハーレイ。「キャプテンだしな?」と。
 夜になったら、青の間へ一日の報告に来ていたキャプテン。報告が終われば、ただのハーレイ。前の自分と恋人同士で、二人きりの甘い時間を過ごした。キスを交わして、愛を交わして。
 だから急いでくれてもいいのに、ハーレイは「キャプテンとして」礼儀作法を守った。非常用の通路を使いはしないで、代わりにスロープを走って上ったりもして。
「そうだね…。ハーレイは、いつも走っていたね」
 非常用の通路で来れば早いのに、ちゃんと入口から入って来て。「遅くなりました」って、前のぼくに謝ったりもして…。
「そりゃまあ…なあ? お前はソルジャーなんだから」
 俺の恋人である前にソルジャー、そして俺だってキャプテンだ。其処の所はきちんとしないと。下手に甘える癖がついたら、何かのはずみに出ちまうから。…他のヤツらが見てる時にな。
 そいつはマズイ、と今のハーレイが口にする通り。ソルジャーとキャプテンが恋人同士だと皆に知られるわけにはいかない。白いシャングリラを、仲間たちを纏めてゆくためには。
 だからハーレイは常に敬語で話し続けて、非常用の通路も使わなかった。遅くなった夜は、早く青の間に来て欲しいのに。…そんな夜更けに、誰も見咎めはしないのに。
「分かってるけど…。でも、ハーレイでも使っていなかった通路…」
 それをジョミーが使うだなんてね、迷いもせずに。…どういう通路か、承知の上で。
 ジョミーなら、やると思ったけれど。
 真面目にスロープなんかを上って、会いに来るとは思っていなかったけど…。
 ジョミー、本当にやっちゃった、と今でも思い出せる、あの日の光景。スロープの途中に開いた非常用の通路と、其処から姿を現したジョミー。皆が使う入口を通りもせずに。
「お前に礼なんかを取っていられるか、っていうクソ度胸だよな」
 後からお前に話を聞いて、みんなが呆れ返ったもんだ。俺も、ヒルマンも、ゼルたちも。
 エラは「なんて無礼な!」と顔を顰めたし、ヒルマンは自分の教育不足を嘆いてたっけな。船で一番偉いのは誰か、それを厳しく教えておくべきだった、と。
 ジョミーはお前とは初対面だったし、それだけでも礼を取るべきなのに…。
 その上、お前はミュウの長だぞ。
 いくらジョミーが「自分はミュウじゃない」と、思い込んでいたにしたってなあ…。



 年長者だとか、目上の人への礼儀ってヤツはどうなったんだ、とハーレイが軽く広げた両手。
 SD体制の時代といえども、そういった礼儀はあったから。学校の教師や目上の人には、敬語で話す。初対面なら、きちんと挨拶。育英都市でも徹底された、基本の基本。
 ジョミーは、それらを綺麗に無視した。挨拶はもちろん、敬語も使いはしなかった。スロープの途中に現れるほどだし、敬意の欠片も抱いてはいない。「ソルジャー・ブルー」に。
 シャングリラで暮らす仲間たちなら、恐れ多くて入れないのが青の間なのに。子供たちでさえ、遠慮していた部屋だったのに。
「前のぼくはジョミーに恨まれてたから、ああなって当然なんだけど…」
 ぼくが成人検査を妨害したせいで、酷い目に遭ったと思い込んじゃっていたんだから…。
 その憎いぼくを怒鳴りに来ようって言うんだものね。礼儀作法なんかは無視だってば。
 それにしても、凄い度胸だったけど…。
 普通は誰も使わない、って教えた方の通路を選んで、青の間に突っ込んで来ちゃったからね。
 ジョミーらしい、って嬉しかったよ。…怒る気なんかは、まるで無くって。
 自分の心を信じているから、そういうことが出来るんだもの。周りに何と言われていても。
 そんなジョミーなら、きっと立派なソルジャーになる、って思ったから…。
 嬉しくて、褒めてあげたいくらいで、ずっとこの強さを持ってて欲しい、って…。
「それで褒美に家に帰してやったってか?」
 度胸試しに出掛けた小姓は、お姫様から、天守閣に来たという証拠の品を貰ったんだが…。
 それを皆に見せて、度胸を認めて貰ったわけだが、ジョミーは家に帰れたんだな?
 お姫様のお前に褒めて貰って…、とハーレイが訊くから、「まさか」と肩を竦めてみせた。
「違うこと、知っているんでしょ」
 家に帰したのは、前のぼくの計算だったってこと。…帰っても、家には何も無いから。
 ジョミーがお母さんたちと暮らした痕跡、ユニバーサルの職員がすっかり消してしまって。何も無い家を見てしまったら、ジョミーも船に戻るだろう、って…。
「その話は、前の俺だって聞いて知ってはいるが…」
 しかし、ジョミーの方にしてみりゃ、褒美ってヤツだ。
 青の間まで突っ込んで行った甲斐があった、と思って満足していたろうさ。
 度胸試しの小姓じゃないがだ、もう本当に最高の褒美を手に入れた、って具合でな。

 意気揚々と帰って行っただろうが、というハーレイの指摘は間違っていない。
 前の自分の意図に気付かなかったジョミーは、「せいせいした」という顔だった。自分の人生を滅茶苦茶にしてしまった、ミュウの長に「勝った」わけだから。
 お蔭で家に帰ってゆけるし、もうシャングリラにいなくてもいい。ミュウの船に閉じ込められた日々は終わりで、自由を手に入れたのだから。
(うーん…)
 あれが開かずの間だったのか、と気付いた青の間。…前の自分が暮らしていた部屋。
 船の仲間たちの多くにとっては、入ることさえ恐れ多かった開かずの間。おまけに、ハーレイが授業の時に話した白鷺城の天守閣よろしく、度胸試しに来た小姓まで。
「そっか、青の間…。ホントに開かずの間だったんだ…」
 前のぼくは鍵なんかかけてないのに、「入るな」とも言っていないのに…。
 ハーレイたちが「ソルジャーは偉い」って言い続けたせいで、開かずの間になってしまってて。
 なんだか酷い、と寂しい気分。前の自分は生きていたのに、まるで人ではなかったかのよう。
 誰も部屋には来てくれないなら、度胸試しの小姓しかやって来ないなら。
 白鷺城の天守閣に住んでいたお姫様のように、ひっそりと其処にいるというだけ。皆と変わらず生きているのに、ソルジャーだったというだけなのに。
「仕方ないだろう、前のお前はそういう立場にいたんだから」
 ソルジャーのお前がいてくれたからこそ、皆の心を一つに出来た。…どんな時でも。
 そうするためには、お前が普通のミュウのようではマズイんだ。皆の気持ちが弛んじまって。
 お前には気の毒なことをしちまったが、あの時代だから仕方ない。お前も分かっていただろう?
 それに、青の間。…お前がいなくなった後には、立派に開かずの間になったぞ。
 正真正銘、開かずの間だな。ジョミーは引越ししなかったから。
 誰も暮らしていない部屋だし、普段は立ち入ることもないし…、と言われた青の間。前の自分がいなくなった直後は、ベッドの寝具も片付けられていたという。枠だけを残して。
 それでは寂しすぎるから、と暫くしてから、元の通りに戻されたけれど。
 部屋の主が今もいるかのように、枕も上掛けも整えられて。
 そうなった部屋は、誰が入って行っても良かった。もうソルジャーはいないのだから。
 けれども人の出入りは見られず、前のハーレイが訪れた時も、ナキネズミしかいなかった部屋。



 どうして、そうなったのだろう。前の自分がいないのだったら、入っても誰も咎めはしない。
 部屋付きの係を通さなくても、ソルジャーの都合を確かめなくても。
「…なんで開かずの間になっちゃったの?」
 ジョミーが引越ししていないんなら、好きに見学すればいいのに…。出入りは自由なんだから。
 まさか、ぼくの幽霊が出るって噂でも立った…?
 そういうことなら、ハーレイが閉鎖させなくっても、誰も行かないだろうけど…。
 元から開かずの間みたいな部屋だったしね、と瞳を瞬かせた。幽霊が出るなら、開かずの間にもなるだろう。ソルジャー・ブルーの幽霊にしても、幽霊には違いないのだから。
「いや、そんな噂は立っていないが…。お前の幽霊なんかはな」
 お前の幽霊が出ると言うなら、俺が真っ先に会いに出掛ける。キャプテンの役目だとか、上手いことを言って。…幽霊になった、お前に会いに。
 そうしたかったが、お前は出てはくれなくて…。俺はいつでも一人だったな、あの部屋で。
 たまにレインが来ていたくらいで、昔話をしていたもんだ。いなくなっちまったお前のことを。
 それ以外だと、会議なんかでも使っちゃいたが…。
 前のお前がソルジャーだった頃は、あそこで会議をしていたこともあったしな。シャングリラの天守閣みたいな部屋とも言えるし、重要なことを決める会議にはお誂え向きだ。
 そうは言っても、部屋の主がいないわけだから…。前のお前が暮らしているような感じだよな。
 ベッドも元のままで置いてあるんだし、ちょっと部屋を留守にしているっていうだけで。
 …だから、トォニィがシャングリラを解体させていなかったら。
 お前、あそこにいたんじゃないか?
 そう問われたから、キョトンとした。前の自分が、青の間にいるということは…。
「ぼくに、メギドから引越せって?」
 前のぼくは、メギドで幽霊になって座っていたかもしれないから…。
 シャングリラはいつ通るんだろう、ってポツンと一人で、残骸に座って、ぼんやりと。
 前のハーレイが迎えに来てくれて、天国に行ったと思っていたけど…。
 そうする代わりに、青の間に一人で引越すの?
 トォニィたちが、メギドの残骸を片付けにやって来た時に。
 ハーレイは迎えに来てくれてなくて、仕方ないから、シャングリラの方に引越すわけ…?



 あんまりじゃない、と睨んだ恋人の鳶色の瞳。「幽霊になった、ぼくを放っておくなんて」と。
「ぼくにシャングリラに引越せだなんて…。酷すぎない?」
 いくら青の間があるって言っても、開かずの間になって残っていても…。
 ハーレイと離れて独りぼっちで、そんな所で暮らしていくなんて…。
「そうじゃない。ちゃんとお前を迎えには行くが、そうじゃなくてだ…」
 青の間にお前はいないというのに、勝手に「いる」ことになっちまうんだな。青の間がそのまま残っているから、ミュウの神様みたいになって。
 お前の魂は青の間に住んでいるってことになるんだ、というハーレイの話に驚かされた。本当は其処にいないというのに、「いる」ことになるソルジャー・ブルー。神様のように。
「…記念墓地より凄いね、それ…」
 青の間を貰って、神様みたいに住んでるなんて。…前のぼくは、とっくに死んでいるのに。魂もハーレイと一緒に行ってしまって、青の間の中は空っぽなのに…。
「しかし、無いとは言えんだろう? お前は伝説のソルジャーなんだ」
 ミュウの時代の礎になった初代のソルジャーで、今の時代も大英雄だぞ?
 シャングリラが宇宙に残り続けていたなら、ソルジャーも代替わりしてゆくし…。ソルジャーと言っても名前だけだが、トォニィが次の誰かを指名して、また次の代も。
 そうやってソルジャーが継がれていったら、青の間に住む前のお前の所にはだな…。
 代々のソルジャーが挨拶に行くとか、そんな習慣まで生まれそうだぞ。
「挨拶って…?」
 何をするの、と傾げた首。開かずの間に住む初代のソルジャーに挨拶なんて、と。
「もう文字通りに挨拶だな。白鷺城の天守閣にいた、お姫様の場合はそうだったんだ」
 毎年、城の主がきちんと挨拶に行く。今年もよろしくお願いします、と礼を尽くして。すると、お姫様が城の未来を話してくれた。こういうことが起こるだろう、と。
 お前も未来を告げるんじゃないか、というのがハーレイの読み。ソルジャー・ブルーが青の間に住んで、開かずの間になっていたならば。…青の間に「いる」と思われていたら。
「シャングリラの未来を、ぼくが話すの…?」
 それって、フィシスの役目なんだと思うけど…。
 前のぼくは漠然と未来が見える程度で、予知なんかまるで無理だったけど…?



 それなのに未来を話すわけ、と質問したら、「そうなるかもな」という返事。
「時が流れりゃ、話はどんどん変わってゆくから…。お前が青の間にいるって話と同じでな」
 初代のソルジャーが今もいるとなったら、話に枝葉がついていくんだ。
 そして代々のソルジャーの方も、そのつもりで挨拶に行くわけだから…。お前の姿を見たんだと思うソルジャーだって出てくるだろう。見えてようやく一人前とか、色々と。
 シャングリラが解体されなかったら、お前、本当に青の間に住んでたかもな。伝説になって。
 本当はとっくに天国に行ってしまって、何処を探しても「いない」のに。
 青の間に行けば、今もソルジャー・ブルーが其処に暮らしている、と誰もが信じていて。
 伝説っていうのは、そういうもんだ。…何処からか生まれて、皆が信じて、伝わってゆく。
 シャングリラ、トォニィの代で解体されてて良かったな。変な伝説が出来なくて。
 流石に今の時代までは残っていやしないが、とハーレイが語るシャングリラ。解体されずに残り続けたなら、伝説が出来ていたかもしれない。青の間に住む、前の自分の伝説が。
「うん…。トォニィに感謝しなくっちゃ」
 前のぼくは神様なんかじゃないしね、そんな伝説が出来ても困るよ。シャングリラの未来を読むことだって出来ないし…。挨拶に来て貰っても。
 トォニィ、ホントにいい決断をしてくれたよね…。シャングリラ・リングも残してくれたから。
 ただ解体して終わりじゃなくて…、と思いを馳せた白い船。
 白いシャングリラは今も生き続けている。結婚指輪に姿を変えて、その船体の一部分が。
「そうだな、シャングリラ・リングがあるからなあ…」
 頑張って抽選で当てないと。申し込むチャンスは一度きりだが、お前ならきっと当てられるさ。
 なんと言っても、シャングリラの開かずの間の主なんだから、とハーレイが瞑った片目。
 「お前のためにあったような船だし、きっとお前なら当てられる」と。
 開かずの間の主になっていた方は、別にどうでもいいけれど。青の間にも未練は無いけれど。
 白いシャングリラが姿を変えた、結婚指輪を引き当てることが出来るなら…。
 青の間で生きた、前の自分に期待したい。シャングリラをきっと呼んでくれると。
 シャングリラ・リングをハーレイと嵌めて、幸せに生きてゆきたいから。
 平和になった今の時代にとても相応しい、白く輝く結婚指輪。
 出来るなら、それを左手に嵌めたい。ハーレイと幸せに生きてゆける証の指輪を、薬指に…。



             開かずの間・了


※まるで開かずの間のようだった、ソルジャー・ブルーが暮らす青の間。それも生前から。
 皆が遠慮して入らないのに、ジョミーは突入したのです。度胸試しに出掛けた小姓みたいに。
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