シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
カテゴリー「ハレブル」の記事一覧
(降り出しそう…)
大丈夫かな、とブルーが眺めた窓の外。学校から帰る途中の、路線バスの中で。
今にも降り出しそうな空。大粒の雨か、小雨になるかは分からないけれど。
(…ホントに降りそう…)
こんなに暗くなっちゃうなんて、と雲を眺めて不安で一杯。「降り始めたら、どうしよう」と。
学校を出る時、「曇ってるよ」と思ってはいた。最後の授業が始まる頃から曇り始めて、授業が終わる頃には無かった青空。広い空の何処を探しても。
けれど、朝、家を出る前の天気予報では、雨だとは言っていなかった。午後は「曇り時々晴れ」だったのだし、降らないだろうと考えた。単に曇っているだけで。
(じきにお日様が顔を出すとか、お日様無しでも…)
青空が見えて来ないだけだよ、と終礼の後は真っ直ぐバス停に向かった。グラウンドの横を通り過ぎてから、校門を抜けて。
いつも帰りに使うバス停、其処に立って待った路線バス。その間にも空はどんどん暗さを増していったけれど、雨の予報は出ていなかったし…。
(降るにしたって、まだ平気、って…)
まだ当分は降らないだろう、と思った自分。夕方から降るとか、夜が雨だとか、そんな具合で。
何の根拠も無いというのに、「大丈夫」などと楽観的に。
そう思ったから、「傘を借りよう」と学校に戻りはしなかった。急な雨の日には、貸して貰える学校の傘。降り始める前なら、まだ充分に数がある筈なのに。
(家に帰る方が、ずっと早いよ、って…)
バス停にある時刻表を見て、出した結論。もうすぐバスがやって来る。それに乗ったら、幾つかバス停を通った後に、家の近くのバス停に着く。
(傘を借りに、学校に戻っていたら…)
そのバスは行ってしまうだろう。次のバスを待つことになるから、その間に…。
(雨が降り始めて、傘の出番で…)
帰りの道は雨の中になるかもしれない。
じきに来るバスに乗って帰れば、雨に遭わずに帰れても。…一粒の雨にも出会わないまま、家の中に入ることが出来ても。
傘を借りに戻って行ったばかりに、雨になっては馬鹿々々しい。それに降らない可能性も充分。だから要らない、と傘は借りずに、バスに乗り込む道を選んだ。
なのに、すっかり降りそうな空。こんなに暗くなるなんて。
(……傘……)
雨の予報が出ていなかったから、折り畳み傘も持ってはいない。あったら心強いのに。
ここまで空が暗くなるなら、やっぱり学校に戻れば良かった。「降りそうですから、傘を貸して下さい」と、頼めば直ぐに借りられたのに。
(ぼくの馬鹿…)
道を間違えちゃったかも、と窓から暗い空を仰いで、祈るような気持ち。「降らないで」と。
今にも降りそうな空だけれども、もう少しだけ降らないでいて欲しい、と。
(家に帰るまで…)
なんとか降らずに持ってくれれば、と祈り続けて、ようやく着いた家の近所のバス停。普段より長く感じた道のり、バスはいつもと同じ速さで走っていたのに。
(まだ大丈夫…)
降っていないよ、とバスから降りた途端に、ポツリと頭に落ちた雨粒。まるで降りるのを待っていたかのように。
冷たい、と頭に手をやる間に、もう次の粒が降って来た。その手に、足の下の地面に。
(降って来ちゃった…!)
止まないかな、と空を見上げたら、顔にも落ちて来た雨粒。パラッと降っただけで通り過ぎる雨ではなさそうな感じ。
(ママが迎えに来てくれたら…)
いいんだけどな、と急ぎ足で家を目指して歩いた。「ママ、お願い」と。
母が迎えに来てくれないなら、道沿いの家の誰かが気付いて、「持って行きなさい」と傘を一本貸してくれるとか。「返してくれるのは、いつでもいいよ」と。
(だけど、降り出しちゃったから…)
庭には誰も出ていない。庭仕事をしていた人も、とうに家へと入っただろう。
降って来る雨を防ぎたくても、不器用なサイオンではシールドは無理。走って帰っても、時間が少し短くなるだけ。濡れてしまうのは変わらないから、体力を無駄に費やすだけ。
下手に疲れてしまうよりは、と降る雨の中をトボトボ歩いて、家に着いたら、しっとりと濡れてしまった制服。すっかり湿って、雨の雫が落ちそうな髪。
門扉を開けて庭を横切る間も雨で、玄関の扉を濡れた手で開けた。扉をパタンと閉めてから…。
「ただいま、ママ…」
タオルちょうだい、と奥に向かって呼び掛けた。このままでは家に上がれない。靴下まで濡れているわけなのだし、歩いた後に水の雫が点々と落ちもするだろうから。
「おかえりなさい、ブルー! タオルって…?」
濡れちゃったの、とタオルを持って来た母は、きっと鞄が濡れたと思っていたのだろう。傘では防ぎきれなかった雨粒、それが濡らした通学鞄。
ところが玄関先にいたのは、びしょ濡れの息子。鞄どころか、髪も制服も、何もかもが。
母は見るなり「大変!」と叫んで、タオルで頭を拭くように言った。追加のタオルを取ってくる間、髪だけでもしっかり拭くように、と。
パタパタと奥へ走って行った母が、大きなバスタオルを持って戻って来て…。
「ブルー、早くお風呂に入りなさい」
これを羽織って、とバスタオルで身体を包まれた。「床は濡れてもいいから、上がって」とも。
「お風呂って…?」
「身体がすっかり冷えているでしょ、こういう時には、お風呂が一番」
ああ、でも、お湯を入れなくちゃ…。お風呂の準備には早い時間だから、お湯がまだ…。
だけど、シャワーを浴びてる間に、お湯も溜まるわ、と連れて行かれたバスルーム。大きなバスタオルにくるまれたままで、通学鞄を取り上げられて。
バスルームに着いたら、手前の部屋で制服を脱がされ、母がコックを捻ったシャワー。熱そうな湯気が立っているそれと、バスタブに落とし込まれるお湯と。
「ほら、ブルー。早く入って、シャワーから浴び始めなさい」
着替えはママが用意しておくから、しっかり中で温まるのよ。
お湯が溜まるまではシャワーを浴びて、溜まってきたら、ゆっくり浸かって。
そうしなさい、と母は大慌てで、「早く」と急かすものだから…。
「はーい…」
ちゃんと温まるよ、大丈夫。…ごめんなさい、ママをビックリさせて…。
そう謝ってから、「着替え、お願い」と頼んで入ったお風呂。バスタブのお湯は、まだ底の方に溜まり始めているだけだから…。
(もっと溜まるまで、シャワーを浴びて…)
温まらなくちゃ、と浴びたら、「熱い!」と悲鳴を上げそうになった。思わずお湯の温度を確認したくらいに。「ママ、慌てていて、間違えちゃった?」と。
(…いつもとおんなじ…)
だけど熱い、と感じるシャワー。熱湯を浴びているかのように。
バスタブに落とし込まれるお湯も、溜まり始めているお湯も熱い。本当に火傷しそうなくらい。
普段の温度と変わらないなら、自分の方が冷えたのだろう。いつもお風呂に入る時より、遥かに下がってしまった体温。
(中まで冷えてしまっているのか、外側だけか…)
其処までは分からないけれど。体温を測ってはいないけれども、冷えたのは確か。心地良い筈のお湯の温度を、「熱すぎる」と思うくらいにまで。
(風邪を引いちゃったら大変だから…)
しっかり温まらないと、と我慢して熱いシャワーを浴びた。バスタブにお湯が満ち始めるまで。
(半分ほどは溜まったから…)
もういいかな、と足を踏み入れてみて「熱い!」と引っ込め、けれど浸からないと温まらない。少しずつ慣らして、そうっと入って、ゆっくりと身体を沈めていって…。
(ホントに熱すぎ…)
お鍋で茹でられているみたい、と思うけれども、それは気のせい。冷えた身体が「熱い」と錯覚しているだけ。「熱すぎるから」と水で温度を下げてしまったら…。
(お風呂でも冷えて、もう本当に…)
風邪を引くのに決まっているから、溜まってゆくお湯に肩まで浸かった。立ち昇る湯気で顔まで熱いけれども、これだって我慢しなくては。
(……右手……)
右手もちゃんと温めないと、とバスタブの中で何度もキュッと固く握った。
前の生の最後に、メギドで冷たく凍えた右手。ハーレイの温もりを失くしてしまって、悲しみの中で死んでいった前の自分。あの時の悪夢を呼ばないように、右手を温めてやらなくては。
溜まったお湯にゆっくり浸かって、のぼせるくらいに温まってから、手に取ったタオル。身体の水気を軽く拭って、「次はバスタオル」と浴室を出たら。
(パジャマ…?)
着替え用にと置かれていたのは、服ではなくて寝る時のパジャマ。それから、パジャマの上から羽織れるようにと大きめの上着。
夜だったなら分かるけれども、まだ日が沈んでもいない時間。パジャマを着るには早すぎる。
そう思ったから、廊下に顔だけ出して叫んだ。
「ママ、なんでパジャマ!?」
ぼくが着る服は何処へ行ったの、此処にあるのはパジャマじゃない!
服を持って来て、と呼び掛けたけれど、やって来た母は何も持ってはいなかった。
「パジャマでいいのよ。寝なきゃ駄目でしょ、風邪を引いちゃうから」
あんなに濡れてしまっていたのよ、制服もシャツも、びしょ濡れだったわ。身体の芯まで冷えている筈よ、お風呂だけでは足りないの。
ベッドに入って寝ていなさい、と母が言うから抗議した。
「平気だってば!」
お風呂、ちょっぴり熱かったけれど、ちゃんと我慢して浸かったし…。もう平気。
服をちょうだい、パジャマでベッドじゃ、病気になったみたいじゃない!
ぼくは平気、と頬を膨らませたのに、母は許してくれなくて。
「駄目よ、暖かくして寝ていないと…。おやつだったら、部屋に運んであげるから」
先に帰って待っていなさい、と強引に二階に追い上げられた。仕方なく行くしかなかった部屋。扉を開けて中に入ったら、母が届けに来たケーキのお皿と、ホットミルクと。
湯気を立てているカップの中身は、前にハーレイが教えてくれたシロエ風。風邪の予防にいいというマヌカの蜂蜜たっぷり、それにシナモンを振りかけてあるホットミルク。
(…風邪を引きそうだから、シロエ風…)
此処までされたら、どうしようもない。濡れて帰った自分が悪い。
(昼間からパジャマで、風邪でもないのにベッドの中…)
仕方ないけど、と椅子に腰掛けてケーキを頬張る。いつも以上に熱く思えるホットミルクも。
やはり身体の内側まで冷えているのだろう。シロエ風のミルクが熱いのならば。
シュンとしながら、食べ終えたおやつ。母が見張っている中で。
「御馳走様」と空になったカップを置いたら、ベッドに入るように言われた。上掛けもすっぽり肩まで引き上げられて。
「出ちゃ駄目よ? ベッドで本を読むのも駄目」
また冷えちゃうから、と本まで禁じられる始末。これでは本当に「寝ている」しかない。宿題は出ていないけれども、その宿題で思い出した。学校と関係がある恋人を。
「ママ、ハーレイは…?」
来てくれるかどうか分からないけど、もし来てくれたら、起きてもいい?
ちゃんと服を着て暖かくするから、起きて話をしてもいいでしょ…?
いつものテーブルと椅子の所で、と窓辺のテーブルを指差した。上掛けの下から、手の先だけを覗かせて。
「起きるって…。あんなに濡れて冷えちゃったんでしょ、大事を取って寝ていなさい」
今日は一日、ベッドにいること。そのくらいしないと駄目なのは、分かっているでしょう?
ブルーは身体が弱いんだから、と母が心配すのも分かる。弱い身体は直ぐに熱を出すし、風邪を引くことも珍しくない。帰り道に雨でずぶ濡れだなんて、母は心臓が縮み上がったに違いない。
けれど、気になるハーレイのこと。
このままベッドの住人だったら、ハーレイが仕事の帰りに訪ねて来てくれたって…。
「ぼくが寝てたら、晩御飯、どうなっちゃうの?」
今はいいけど、晩御飯…。おやつは此処で食べられたけど…。
「食べられそうなら、此処で食べればいいでしょ。おやつと同じよ、ママが運んであげるから」
温まりそうなメニューにしなくっちゃ、と母は思案をしているよう。夕食の支度まで、段取りが狂ってしまったろうか。母が思っていた料理は中止で、別の料理になるだとか。
母には迷惑を掛けっ放しで、それは悪いと思うのだけれど…。
「…ママ、ハーレイの晩御飯は?」
来てくれた時は、ハーレイ、何処で食べるの?
晩御飯を食べずに帰ることはないでしょ、せっかく来てくれるんだから…。
だけど、ぼくがベッドで寝たままだったら、ハーレイの御飯…。
ぼくの晩御飯は此処になるなら、ハーレイは何処で晩御飯なの…?
それが心配になって尋ねた。母に料理で迷惑をかけることよりも先に、恋人が気になるのは我儘だけれど、本当に気掛かりなのだから。
「ハーレイ先生なら、その時次第ね。…先生が来て下さるかどうか、そっちが先でしょ?」
いらっしゃったら、晩御飯は食べて帰って頂くけれど…。先生、お一人暮らしだから。
ブルーが此処で晩御飯なんだし、先生も此処になるかしら?
先生が此処は嫌だと仰らなければね。
お嫌だったら、先生にはダイニングで召し上がって頂くわ、と母が言うから声を上げた。
「ハーレイ、そんなの言うわけないよ!」
ぼくと一緒に食べるのは嫌なんて、絶対に言いやしないんだから!
ハーレイも此処で晩御飯だよ、ハーレイの分も運んで来てよ。土曜日とかのお昼御飯みたいに。
ちゃんと二人分、此処に運んで来て、と頼んだけれど。ハーレイも此処で夕食なのだ、とホッと安心したのだけれど…。
「…どうかしら? ブルーはベッドで寝てるわけだし…」
ブルーが病気で寝込んでいる時は、ハーレイ先生、いつもママたちと食事をなさってるわよ?
野菜スープを作りに来て下さっても、先生のお食事はダイニングじゃない。
此処で食べてはいらっしゃらないわ、と母に指摘された。「いつもそうでしょ?」と。
「……そうだっけ……」
ぼくは病気で起きられないから、御飯、一緒に食べられなくて…。
野菜スープを持って来てくれても、ハーレイの御飯は持って来ていないね…。
「ほら、ごらんなさい。暖かくして寝ていることね」
ハーレイ先生と一緒に御飯を食べたいのなら。
本当に風邪を引いてしまったら、晩御飯どころじゃないでしょう…?
ベッドで本を読むのも駄目よ、と念を押してから、母は部屋から出て行った。空になったカップなどを載せたトレイを手に持って。
(…風邪を引いちゃったら、ホントに病気…)
夕食までに具合が悪くなったら、この部屋でハーレイと二人で食べることは出来ない。
ハーレイが見守る中で一人きりで食べるか、野菜スープのシャングリラ風を作って貰うのか。
病人だったら、ベッドを出られはしないから。…椅子に座らせて貰えないから。
ハーレイは両親と夕食を食べて、自分は此処で一人の夕食。ハーレイと同じメニューでも、下のダイニングに下りては行けない。
(ぼくだけ先に食べて、ハーレイは後でママたちと…)
きっとそうなることだろう。そうでなければ、野菜スープのシャングリラ風が今夜の夕食。前の生から好んだ素朴なスープで、ハーレイが作ってくれるのだけれど…。
(一人で御飯も、シャングリラ風も、どっちも嫌だよ…)
晩御飯を食べるなら、ハーレイと一緒に食べたいんだもの、とベッドの中で丸くなる。今の間に温まらないと、晩御飯が駄目になってしまいそう。雨に濡れたせいで、風邪を引いてしまって。
(…風邪引いたら、嫌だ…)
引きたくないよ、と考える内に、ウトウトと落ちた眠りの淵。暖かなベッドは気持ちいいから、いつしか瞼を閉じてしまって。
夢も見ないでぐっすり眠って、時間が静かに流れて行って…。
「おい、ブルー?」
耳に届いた優しい声。気遣うような響きの、大好きでたまらないハーレイの声。
「あれっ、ハーレイ?」
ふと目を開けたら、ハーレイが側で見下ろしていた。ベッドの脇で、大きな身体を屈めて。
「すまんな、起こしちまったか? よく寝てるとは思ったんだが…」
ちょっと声だけ掛けてみるかな、と思ったら、起こしちまったようだ。…声がデカすぎたか。
それはともかく、お前、帰りに濡れちまったって?
帰る途中で雨に降られて、家に帰った時にはびしょ濡れ。…頭の天辺から足の先まで。
玄関に靴が干してあったぞ、よく乾くように水を吸い取る紙を沢山詰め込んで。
お前の靴だろ、あんなになるまで濡れたのか…?
濡れた服は此処には無いようだがな、とハーレイが部屋を見回しているから頷いた。
「…うん…。制服とかはママが洗濯してると思う…」
ぼくの鞄も下じゃないかな、濡れちゃったから…。鞄、その辺に置いてある…?
通学鞄、と身体を起こして探そうとしたら、叱られた。
「こら、起きるな。風邪を引くだろうが」
お前の鞄なあ…。見当たらないなあ、やっぱり何処かで干してるんじゃないか?
そう簡単には乾かんからな、とハーレイは部屋を眺めて、「無いな」と鞄探しを放棄した。母が何処かに干しているなら、此処で見付かるわけがないから。
「鞄は無いが、中身の方は無事だと思うぞ。学校指定の鞄ってヤツは、優れものだから」
外側はすっかり濡れちまっても、教科書やノートなんかは濡れない。…雨に降られた程度なら。池や川なんかにドボンと落ちたら、流石に防ぎ切れないんだがな。
明日の朝には鞄もすっかり乾くだろうさ、とハーレイは保証してくれた。乾いた鞄に明日の分の教科書やノートを詰めて、登校できるといいんだが、と。
「そうしたいよ、ぼくも…。時間割、ちゃんと準備しないと…」
明日の授業は何だっけ、と勉強机の方を見ようとして、また止められた。「お前は寝てろ」と。
「俺が見てやる。あれだな、明日の時間割」
よし、とハーレイは勉強机の所まで行って、時間割表を確かめてくれた。ついでに必要な教科書も引き出しから出して、勉強机の上に揃えて…。
「あれでいいだろ、登校できそうなら鞄の中身はあんな所だ」
今日と同じ教科のヤツは抜けてるから、ちゃんと忘れずに入れるんだぞ?
それにノートだ、お前のノートを勝手に見るというのもなあ…。ノートは自分で追加してくれ。
学校に来られるようならな、とハーレイは椅子を運んで来た。窓際に置いてあった、ハーレイの指定席の椅子。それをベッドの脇に持って来て、「さて」と座って…。
「明日の準備はしてやったから、大人しくベッドで寝てるんだぞ?」
ノートと抜けてる分の教科書、明日の朝、自分で足せるといいな。…乾いた鞄に入れるために。
「ありがとう、ハーレイ…。行きたいな、学校…」
このまま風邪を引くのは嫌だよ、とハーレイの顔を見上げた。「休みたくない」と。
「その心意気があれば、気持ちの面では大丈夫だな」
元気でいるぞ、という心構えも大切なんだ。「病は気から」と言うだろう?
しかし、お前が濡れちまったのは本当で…。
靴も鞄もびしょ濡れってトコが心配だ。寒気、しないか?
寒くないか、とハーレイが訊くから「大丈夫だよ」と微笑んだ。
「今はちっとも…。ベッドの中は暖かいから」
帰って直ぐにお風呂に入って、おやつの後はずっとベッドで寝ていたしね。
お風呂は熱すぎたんだけど、と正直に白状しておいた。いつもの温度で火傷しそうだったほど、冷えていたのは本当だから。
「だけど、きちんとお湯に浸かって温まったし…。その後はベッドの中だから…」
今は少しも寒くなんかないよ、寒気なんかもしないから…。ぼくなら、平気。
「それなら、いいが…。唇も紫色になっちゃいないし、冷え切っちまった分は取り戻したか」
お母さんから聞かされた時は、正直、寿命が縮んだぞ。お前がずぶ濡れになっただなんて。
俺もウッカリしていたな…。お前の守り役、失格らしい。恋人の方も怪しいもんだ。
ただでも身体が弱いお前を、ずぶ濡れにしちまったんだから。
俺のせいだ、とハーレイが溜息をつくから、首を傾げた。何のことか、まるで分からないから。
「え? 失格って…」
なんでハーレイが失格になるの、守り役も、それに恋人の方も…?
ぼくは一人で家に帰って、帰りに雨が降って来ただけで…。ハーレイは何も悪くはないよ…?
「それがそうでもないってな。…お前が気付いていなかっただけで」
俺はお前が帰って行くのを見てたんだ。たまたまグラウンドを通り掛かった時に。
雨が降りそうなのは分かってたんだし、傘を持ってるのか訊けば良かった。…追い掛けてな。
お前、用意はいい方だから、折り畳みの傘、鞄に入れているのかと思ったんだが…。
前に忘れたことがあったし、とハーレイは覚えていてくれた。雨の予報を知っていたのに、鞄に折り畳みの傘を入れるのを忘れて登校した日。
(学校で借りられる傘、全部なくなっちゃってて…)
ハーレイに傘を借りに行ったら、バス停まで送ってくれたのだった。貸してくれた傘とは別に、ハーレイの傘に入れて貰って、相合傘で。…幸せだった、相合傘の思い出。
「折り畳みの傘、雨の予報が出ていない日は持っていないよ」
今日の予報は曇り時々晴れだったから…。傘は鞄に入れなかったし、帰りもきっと大丈夫、って思い込んでて、学校の傘、借りて来なくって…。
「そうだったのか…。確かに予報じゃ、そうなってたな」
俺も降らないと思ってたんだが、午後から雲行きが変わっちまった。…降りそうな方へ。
次からは気を付けんとな。お前が傘を持たずに歩いていたなら、呼び止めて傘を持たせないと。
今日みたいに、急に降りそうな日には、お前を見掛けたら追い掛けてって。
ずぶ濡れになってからでは遅いんだ、とハーレイは「すまん」と謝ってくれた。ハーレイは何も悪くないのに、何度も、何度も。
「お前の手も冷えちまっただろ? 身体中、すっかり濡れたんではなあ…」
今は温かくなってるが、と上掛けの下でハーレイの手に包み込まれた右手。前の生の終わりに、メギドで冷たく凍えた右の手。
その手にハーレイが温もりを移してくれる。「温めてよ」と頼まなくても、右手だけを上掛けの下から出さなくても。
「ごめんね、心配かけちゃって…」
ハーレイに何度も謝らせちゃって。…ハーレイは悪くなんかないのに…。
ぼく、学校の傘のことを考えてたのに、「家に帰った方が早いよ」ってバスに乗っちゃって…。
借りに戻って行けば良かった。バスが一本遅くなっても、帰る時間は遅くならないのに…。
悪いのは、ぼくの方なんだよ、と謝った。実際、そうだと思うから。
学校で傘を借りずに帰ったばかりに、母にも、ハーレイにも心配をかけた。母には、うんと迷惑までも。「大変!」と悲鳴を上げさせた上に、お風呂の用意に、靴や鞄の手入れもさせて…。
「そう思うんなら、風邪を引かずにいることだ。ベッドでしっかり温まって」
お母さんも俺も、其処が一番心配だからな。お前が寝込んでしまわないかと、気が気じゃない。
だからベッドの中で過ごして、明日は元気に登校してくれ。そいつが一番嬉しいな、うん。
晩飯、此処で食ってやるから。
お前と一緒に此処で食うさ、とハーレイが浮かべた穏やかな笑み。「それでいいだろ?」と。
「ホント?」
ハーレイも此処で食べてくれるの、パパやママと一緒に下で食べずに…?
ぼくは下では食べられないから、この部屋で…?
「ああ。お母さんから聞いたしな」
ずぶ濡れになっちまった話の続きに、晩飯のことを教えて貰った。
お前がベッドに押し込まれた時、晩飯の心配をしていた、とな。
俺が仕事の帰りに寄ったら、飯を御馳走になるもんだから…。その場所が何処になるのか、と。
お前さえ元気でいてくれるんなら、晩飯を此処で食うってくらいは何でもない。
晩飯を食える元気があるなら、俺はそれだけでホッとするから。
お前と一緒に食べるくらいはお安い御用だ、と言われて気付いたこと。
ハーレイとは何度も一緒に食事をしたけれど、この部屋で夕食を食べたことは一度も無い、と。
夕食はいつも、両親も交えてダイニングで和やかに食べるもの。そういう決まり。
(決まりがあるってわけじゃないけど…)
ごくごく自然にそうなった。
ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイが恋人同士だったことを、両親は知らない。ただの友達だと思っているから、今の自分が十四歳にしかならない子供なせいで…。
(ハーレイが子供の相手をするのは大変だろう、って…)
そう考えたのが両親だった。「子供のお相手ばかりをさせては申し訳ない」と。
だから夕食は両親も一緒にダイニングで。…ハーレイが年相応の話し相手と寛げるように。
その決まりが今夜は崩れるらしい。ハーレイが此処で食事だったら、初めての二人きりの夕食。夏休みに星を見ながら庭で食べたのと、お月見の夜を除いたら。
「ねえ、ハーレイ…。晩御飯を此処で二人で食べるの、初めてだね」
お昼御飯はいつも二人だけれども、晩御飯はママが呼びに来るから…。用意が出来た、って。
パパもママも一緒にダイニングでしか食べていないよ、この部屋は一度も無いんだよ。
「そういや、そうだな」
お前にスープを食わせに来たりしているもんで、気が付かなかった。
寝ているお前を起こしたりして、何度も食わせたモンだから…。野菜スープのシャングリラ風。
いいか、しっかり温まっておけよ?
俺と一緒に、此処で晩飯を食いたかったら。
野菜スープのシャングリラ風じゃなくて、お前のお母さんが作る料理を。
「分かってる…。風邪を引いちゃったら、ハーレイのスープになっちゃうってことは…」
具合が悪くなってしまったら、そうなるんでしょ…?
「その通りだ。病人が食うのは病人食だと決まってる。特にお前は、食欲が落ちやすいから…」
前のお前だった頃から、あの野菜スープしか食えなくなるんだ。
そうならないよう、夜まで大人しく寝ていることだな、ベッドから出ずに。
冷えた身体をきちんと温めておいてやったら、風邪だって逃げて行くだろう。
退屈だったら、俺が話を聞かせてやるから。
そしてハーレイが聞かせてくれた、色々な話。ベッドの中で退屈しないようにと。
子供時代の思い出話や、悪ガキだった頃の武勇伝やら。ハーレイの父と釣りに出掛けた時の話も沢山、ハーレイの母が庭で育てる花などの話も。
(…こういう時間も幸せだよね…)
ぼくはベッドから出られないけど、と思う間に、訪れた眠気。ずぶ濡れになった疲れが出たか、冷えた身体が温まったせいで眠くなったのか。
なんだか眠い、と欠伸を幾つか、それきり眠ってしまったらしくて…。
「…ブルー?」
そっと額に当てられた手。ふうわりと浮上する意識。「ハーレイの手だ」と、直ぐに分かって。
目を覚ましたら、ハーレイが側で微笑んでいた。ベッドに屈み込むようにして。
「熱は無いようだな、よく寝ていたぞ。…元気が出たか?」
大丈夫なようなら、飯にするかな。お母さんが運んで来てくれたから。
ほらな、とハーレイが示した窓辺のテーブル。其処にハーレイの椅子はまだ無いけれども、上に載せられた湯気を立てる器。温かいスープかシチューだろうか、食欲をそそる匂いもする。
「…起きていいの?」
ママ、起きていいって言っていた?
それともベッドで食べなきゃ駄目なの、病気になってる時みたいに…?
ぼくは此処かな、と上掛けを被ったままで問い掛けた。ハーレイの椅子はベッドの側だし、その椅子で食べるつもりだろうか、と。テーブルの上から、料理だけを此処へ持って来て。
「起きていいぞ。お母さんもそう言っていたしな」
熱が無いなら、ベッドから出て食べてもいいと。…だが、冷えちまったら駄目だから…。
パジャマだけだと身体が冷えるし、暖かくして起きるんだぞ。
そら、これを着ろ、とハーレイが手にした上着。母が渡して行ったのだろう。お風呂を出た後に羽織ったものより、ずっと大きな父の服。
(うわあ、大きい…)
ベッドから下りて袖を通したら、本当にダブダブ。けれど腰の下まで丈があるから暖かい。
ハーレイが「こりゃ大きいな」と袖口を折り返してくれて、袖丈は余らなくなった。それを着て窓際の椅子に腰を下ろしたら、「これもだ」と膝に母のストール。暖かな膝掛け。
足には靴下とスリッパも履いて、少しも寒いと感じない部屋。陽だまりのような暖かさ。
「ふむ。これで良し、と…」
寒くないな、とハーレイが自分の椅子を運んで来たから、向かい合わせで囲んだテーブル。上に夕食が載っているけれど、両親が一緒ではない食卓。
(ママ、温かい食事にしてくれたんだ…)
クリームシチューに、ボリュームたっぷりの焼き野菜。沢山食べるハーレイ用にと、母が考えた料理だろう。野菜の他に鶏肉やソーセージも鏤められたオーブン用の皿。
「熱い内に食えよ? 冷めちまったら、お母さんの心遣いが台無しだからな」
俺も遠慮なく頂くとするか、とハーレイが取り分けている焼き野菜。思った通りに豪快に。
「ハーレイ、沢山食べるんだね…」
お肉とソーセージが一杯…。野菜の量も凄いけど…。ぼくだと、其処のジャガイモだけで…。
お腹が一杯になっちゃいそう、と見詰めるジャガイモ。小ぶりのものに幾つも切り込みを入れて焼いてあるから、一切れがジャガイモ一個分。
「これか? とりあえず、これが一皿目だが?」
俺が食べる量、お前、いつでも見てるだろうが。…お母さんだって承知だってな。
で、お前、そんなに少しでいいのか、もっと沢山食わないと…。栄養をつけんと風邪を引くぞ?
今日は頑張って食っておけ、と焼き野菜を皿に追加された。ジャガイモも、それに鶏肉も。
「…こんなに沢山?」
シチューだけでも充分なのに、と言ったけれども、ハーレイは至極真面目に答えた。
「駄目だな、身体が冷えちまった時は栄養補給も大切なんだ」
しっかり食べればエネルギーになるし、身体を内側から温めてくれる。そのくらいは食え。
ソーセージまでは入れてないんだ、文句を言わずによく噛みながら食うんだな。
風邪を引きたいのか、と軽く睨まれたら、とても言い返せない。
ハーレイにも母にも心配をかけたし、此処で本当に風邪を引いたら、ハーレイは自分の責任だと考えそうだから。「俺がついていたのに、無理をさせた」と。
(ママだって、起きて御飯を食べさせたから、って…)
自分を責めるに決まっているから、風邪などは引いていられない。部屋でハーレイと食べたいと頼んだ以上は、きちんと食べねば。…栄養不足で風邪を引かないように。
頑張らなくちゃ、と口に運んだ焼き野菜。シチューをスプーンで掬う合間に、少しずつ。
(ジャガイモ、一個でいいんだけどな…)
そう思っても、ハーレイがじっと見据えているから、追加されたジャガイモも食べてゆく。切り込み通りに薄く切っては、頬張って。
「ジャガイモ、ちょっぴり多すぎるけど…。なんだか幸せ…」
夜なのに、ハーレイと二人で御飯。パパもママもいなくて、二人きりだよ。
ハーレイが見張っているけどね、と焼き野菜の皿の鶏肉をフォークでつついた。こんなに沢山、食べられそうもないんだけれど、と。
「食えと言っただろ、そのくらいは。…ソーセージも追加されたいのか?」
恨むんだったら、雨を恨むんだな。お前を頭からずぶ濡れにした、今日の帰りの雨を。
とっくに止んでしまっているが、とハーレイは可笑しそうに笑った。天気予報に無かった雨は、一時間ほどで止んだのだという。言われてみれば、お風呂の後で部屋に戻った時には…。
(…雨の音、聞こえていなかった…?)
窓の向こうは見ていないけれど、青空が覗いていたろうか。曇り時々晴れの予報通りに。
「あの雨、止んでしまってたんだ…。ぼくはずぶ濡れになったのに…」
「運が無かったというわけだな。傘を借りずに帰っちまったことといい…」
今日のお前はツイていなかったが、今、幸せなら、「終わり良ければ全て良し」ってな。
ただし、いくら幸せだからって、余計なことを考えるなよ?
お前がベッドの住人になりそうな危機だからこそ、今夜は此処で晩飯なんだ。
其処の所を忘れるな、と釘を刺されても、幸せな気分は止まらない。夕食の時にハーレイと二人きりになるなど、家の中では初めてだから。
(星を見た時も、お月見も、外…)
庭のテーブルと椅子だったわけで、家の中にいる両親からも見える場所。
けれども今は自分の部屋で、両親はダイニングで食事中。
(ぼくとハーレイ、二人きりだよ…)
おまけに夕食、と思うと顔が綻ぶ。
今は夕食の席に両親がいるのが当たり前だけれど、いつかはハーレイと二人きりで食べる夕食。結婚して一緒に暮らし始めたら、夕食は二人で。
その時間を少し先取りしたようで、心がじんわり温かくなる。今は本当に二人きりだから。
「余計なことを考えるな、って言うけれど…。でも…」
結婚したら、いつもこうでしょ、ハーレイと二人で晩御飯。…パパもママもいなくて。
「まあな。…そうなることは否定はしない」
もっとも、お前はパジャマなんかを着てはいないと思うんだが…。
俺が仕事から帰って来るような時間は、まだ充分に起きている筈だ。欠伸もしないで。
たまには帰りを待っていられなくて、寝ちまってる日もあるかもしれんが。
晩飯も先に食っちまってな、とハーレイが言うから、目を丸くした。
「…そんなに遅くなる日もあるの?」
学校のお仕事、ずいぶん遅くまであるんだね…。ぼくが寝ちゃっているほどなんて…。
「仕事とはちょっと違うだろうな。他の先生との付き合いってヤツだ、酒や食事や」
俺は車で仕事に行くから、酒は飲まずに運転手だが…。
けっこう遅くなっちまうってな、大いに盛り上がった時なんかは。
「そうなんだ…」
お仕事だったら仕方ないよね、他の先生たちと出掛けるのも大切なんだもの。それは分かるよ、きっとシャングリラの頃と同じこと。
他の人たちと仲良くしないと、どんな仕事も上手くいかないのは当たり前だよね…?
そういうことなら我慢するよ、と笑顔を見せた。「一人で先に晩御飯でも」と。
「分かってくれるというのがいいなあ、前のお前の記憶に感謝だ」
見た目通りのチビの恋人なら、今頃は「酷い!」と怒って膨れていそうだから。
とはいえ、お前が家にいる以上は、早く帰れるようにはするが。
お前を寂しがらせたくはないしな、「お先に失礼」と帰る日だって、あってもいいだろう。先に帰りたいヤツらだけを乗せて、一足お先に帰っちまう日。
「先に帰るって…。お酒は飲まなくても、他の先生たちと一緒に食事でしょ?」
毎日だったら寂しいけれども、滅多に無いことなんだから…。
たまには楽しんで来てくれていいよ、ぼくは一人で晩御飯を食べて、先に寝てるから。
「みんなでワイワイやるのもいいが…。お前の側が一番なんだ、と知ってるだろう?」
前の俺だった頃からそうだし、今だってそうだ。…早く帰りたい日だってあるさ。
だが、今の所は、俺もだな…。
帰らなきゃいけない家があるから、とハーレイは苦笑しているけれども、二人きりの夕食。
両親はいなくて、幸せな時間。
まるで未来に来てしまったように、ハーレイと二人で暮らしている家に来たかのように。
(ぼくの部屋だけど、ぼくの部屋だっていう感じがしないよ…)
とても心が満たされているし、今夜はきっと、メギドの悪夢も襲っては来ない。雨に濡れていた身体はすっかり温まったし、心も温まったから。
(ハーレイが「食べろ」って、沢山ぼくに食べさせちゃって…)
身体の内側からも温まったし、右手が凍えてもいない。身体中、もうポカポカと暖かい気分。
それに、こうして二人で向かい合っていたら、どんな悪夢も逃げてゆくから。
メギドの悪夢は遠い昔で、今の自分には幸せな未来が待っているのだから。
(また帰り道で雨に降られて、ずぶ濡れになってしまった時は…)
こんな日だって悪くない。
パジャマの上から父の大きな服を羽織って、膝の上には母のストールでも。
食事が済んだら、「冷えちまう前に、ベッドに戻れよ?」とハーレイに注意される夜でも。
そうは言っても、この次からはハーレイが追って来そうだけれど。
空模様が怪しい日に、校門に向かって歩いていたなら、「傘は持ったか?」と。
(そっちも、うんと幸せだよね…?)
傘を持たされたら、もうずぶ濡れにはなれないけれども、きっと幸せ。
ハーレイが気にかけていてくれるという証拠だから。
仕事を放って追って来てくれて、「持って帰れ」と傘を渡してくれるのだから。
今日はずぶ濡れになってしまったけれども、きっと風邪など引いたりはしない。
(身体も心も、こんなにポカポカあったかいから…)
大丈夫、と勉強机の上を眺める。ハーレイが出して揃えてくれた、明日の授業の教科書を。
明日の朝には、あれとノートを通学鞄に詰め込もう。母が乾かしてくれた鞄に。
そして元気に学校に行こう、ハーレイにも母にも、心配なんかをかけないように…。
雨に濡れても・了
※帰り道で、雨に降られてしまったブルー。傘を持っていなかったせいで、濡れた全身。
家に着いたら直ぐにお風呂で、ベッドで寝かされる羽目に。けれど、ハーレイと幸せな時間。
ハレブル別館は、次回から月に1度の更新になります。
毎月、第3月曜に更新、よろしくお願いします。
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大丈夫かな、とブルーが眺めた窓の外。学校から帰る途中の、路線バスの中で。
今にも降り出しそうな空。大粒の雨か、小雨になるかは分からないけれど。
(…ホントに降りそう…)
こんなに暗くなっちゃうなんて、と雲を眺めて不安で一杯。「降り始めたら、どうしよう」と。
学校を出る時、「曇ってるよ」と思ってはいた。最後の授業が始まる頃から曇り始めて、授業が終わる頃には無かった青空。広い空の何処を探しても。
けれど、朝、家を出る前の天気予報では、雨だとは言っていなかった。午後は「曇り時々晴れ」だったのだし、降らないだろうと考えた。単に曇っているだけで。
(じきにお日様が顔を出すとか、お日様無しでも…)
青空が見えて来ないだけだよ、と終礼の後は真っ直ぐバス停に向かった。グラウンドの横を通り過ぎてから、校門を抜けて。
いつも帰りに使うバス停、其処に立って待った路線バス。その間にも空はどんどん暗さを増していったけれど、雨の予報は出ていなかったし…。
(降るにしたって、まだ平気、って…)
まだ当分は降らないだろう、と思った自分。夕方から降るとか、夜が雨だとか、そんな具合で。
何の根拠も無いというのに、「大丈夫」などと楽観的に。
そう思ったから、「傘を借りよう」と学校に戻りはしなかった。急な雨の日には、貸して貰える学校の傘。降り始める前なら、まだ充分に数がある筈なのに。
(家に帰る方が、ずっと早いよ、って…)
バス停にある時刻表を見て、出した結論。もうすぐバスがやって来る。それに乗ったら、幾つかバス停を通った後に、家の近くのバス停に着く。
(傘を借りに、学校に戻っていたら…)
そのバスは行ってしまうだろう。次のバスを待つことになるから、その間に…。
(雨が降り始めて、傘の出番で…)
帰りの道は雨の中になるかもしれない。
じきに来るバスに乗って帰れば、雨に遭わずに帰れても。…一粒の雨にも出会わないまま、家の中に入ることが出来ても。
傘を借りに戻って行ったばかりに、雨になっては馬鹿々々しい。それに降らない可能性も充分。だから要らない、と傘は借りずに、バスに乗り込む道を選んだ。
なのに、すっかり降りそうな空。こんなに暗くなるなんて。
(……傘……)
雨の予報が出ていなかったから、折り畳み傘も持ってはいない。あったら心強いのに。
ここまで空が暗くなるなら、やっぱり学校に戻れば良かった。「降りそうですから、傘を貸して下さい」と、頼めば直ぐに借りられたのに。
(ぼくの馬鹿…)
道を間違えちゃったかも、と窓から暗い空を仰いで、祈るような気持ち。「降らないで」と。
今にも降りそうな空だけれども、もう少しだけ降らないでいて欲しい、と。
(家に帰るまで…)
なんとか降らずに持ってくれれば、と祈り続けて、ようやく着いた家の近所のバス停。普段より長く感じた道のり、バスはいつもと同じ速さで走っていたのに。
(まだ大丈夫…)
降っていないよ、とバスから降りた途端に、ポツリと頭に落ちた雨粒。まるで降りるのを待っていたかのように。
冷たい、と頭に手をやる間に、もう次の粒が降って来た。その手に、足の下の地面に。
(降って来ちゃった…!)
止まないかな、と空を見上げたら、顔にも落ちて来た雨粒。パラッと降っただけで通り過ぎる雨ではなさそうな感じ。
(ママが迎えに来てくれたら…)
いいんだけどな、と急ぎ足で家を目指して歩いた。「ママ、お願い」と。
母が迎えに来てくれないなら、道沿いの家の誰かが気付いて、「持って行きなさい」と傘を一本貸してくれるとか。「返してくれるのは、いつでもいいよ」と。
(だけど、降り出しちゃったから…)
庭には誰も出ていない。庭仕事をしていた人も、とうに家へと入っただろう。
降って来る雨を防ぎたくても、不器用なサイオンではシールドは無理。走って帰っても、時間が少し短くなるだけ。濡れてしまうのは変わらないから、体力を無駄に費やすだけ。
下手に疲れてしまうよりは、と降る雨の中をトボトボ歩いて、家に着いたら、しっとりと濡れてしまった制服。すっかり湿って、雨の雫が落ちそうな髪。
門扉を開けて庭を横切る間も雨で、玄関の扉を濡れた手で開けた。扉をパタンと閉めてから…。
「ただいま、ママ…」
タオルちょうだい、と奥に向かって呼び掛けた。このままでは家に上がれない。靴下まで濡れているわけなのだし、歩いた後に水の雫が点々と落ちもするだろうから。
「おかえりなさい、ブルー! タオルって…?」
濡れちゃったの、とタオルを持って来た母は、きっと鞄が濡れたと思っていたのだろう。傘では防ぎきれなかった雨粒、それが濡らした通学鞄。
ところが玄関先にいたのは、びしょ濡れの息子。鞄どころか、髪も制服も、何もかもが。
母は見るなり「大変!」と叫んで、タオルで頭を拭くように言った。追加のタオルを取ってくる間、髪だけでもしっかり拭くように、と。
パタパタと奥へ走って行った母が、大きなバスタオルを持って戻って来て…。
「ブルー、早くお風呂に入りなさい」
これを羽織って、とバスタオルで身体を包まれた。「床は濡れてもいいから、上がって」とも。
「お風呂って…?」
「身体がすっかり冷えているでしょ、こういう時には、お風呂が一番」
ああ、でも、お湯を入れなくちゃ…。お風呂の準備には早い時間だから、お湯がまだ…。
だけど、シャワーを浴びてる間に、お湯も溜まるわ、と連れて行かれたバスルーム。大きなバスタオルにくるまれたままで、通学鞄を取り上げられて。
バスルームに着いたら、手前の部屋で制服を脱がされ、母がコックを捻ったシャワー。熱そうな湯気が立っているそれと、バスタブに落とし込まれるお湯と。
「ほら、ブルー。早く入って、シャワーから浴び始めなさい」
着替えはママが用意しておくから、しっかり中で温まるのよ。
お湯が溜まるまではシャワーを浴びて、溜まってきたら、ゆっくり浸かって。
そうしなさい、と母は大慌てで、「早く」と急かすものだから…。
「はーい…」
ちゃんと温まるよ、大丈夫。…ごめんなさい、ママをビックリさせて…。
そう謝ってから、「着替え、お願い」と頼んで入ったお風呂。バスタブのお湯は、まだ底の方に溜まり始めているだけだから…。
(もっと溜まるまで、シャワーを浴びて…)
温まらなくちゃ、と浴びたら、「熱い!」と悲鳴を上げそうになった。思わずお湯の温度を確認したくらいに。「ママ、慌てていて、間違えちゃった?」と。
(…いつもとおんなじ…)
だけど熱い、と感じるシャワー。熱湯を浴びているかのように。
バスタブに落とし込まれるお湯も、溜まり始めているお湯も熱い。本当に火傷しそうなくらい。
普段の温度と変わらないなら、自分の方が冷えたのだろう。いつもお風呂に入る時より、遥かに下がってしまった体温。
(中まで冷えてしまっているのか、外側だけか…)
其処までは分からないけれど。体温を測ってはいないけれども、冷えたのは確か。心地良い筈のお湯の温度を、「熱すぎる」と思うくらいにまで。
(風邪を引いちゃったら大変だから…)
しっかり温まらないと、と我慢して熱いシャワーを浴びた。バスタブにお湯が満ち始めるまで。
(半分ほどは溜まったから…)
もういいかな、と足を踏み入れてみて「熱い!」と引っ込め、けれど浸からないと温まらない。少しずつ慣らして、そうっと入って、ゆっくりと身体を沈めていって…。
(ホントに熱すぎ…)
お鍋で茹でられているみたい、と思うけれども、それは気のせい。冷えた身体が「熱い」と錯覚しているだけ。「熱すぎるから」と水で温度を下げてしまったら…。
(お風呂でも冷えて、もう本当に…)
風邪を引くのに決まっているから、溜まってゆくお湯に肩まで浸かった。立ち昇る湯気で顔まで熱いけれども、これだって我慢しなくては。
(……右手……)
右手もちゃんと温めないと、とバスタブの中で何度もキュッと固く握った。
前の生の最後に、メギドで冷たく凍えた右手。ハーレイの温もりを失くしてしまって、悲しみの中で死んでいった前の自分。あの時の悪夢を呼ばないように、右手を温めてやらなくては。
溜まったお湯にゆっくり浸かって、のぼせるくらいに温まってから、手に取ったタオル。身体の水気を軽く拭って、「次はバスタオル」と浴室を出たら。
(パジャマ…?)
着替え用にと置かれていたのは、服ではなくて寝る時のパジャマ。それから、パジャマの上から羽織れるようにと大きめの上着。
夜だったなら分かるけれども、まだ日が沈んでもいない時間。パジャマを着るには早すぎる。
そう思ったから、廊下に顔だけ出して叫んだ。
「ママ、なんでパジャマ!?」
ぼくが着る服は何処へ行ったの、此処にあるのはパジャマじゃない!
服を持って来て、と呼び掛けたけれど、やって来た母は何も持ってはいなかった。
「パジャマでいいのよ。寝なきゃ駄目でしょ、風邪を引いちゃうから」
あんなに濡れてしまっていたのよ、制服もシャツも、びしょ濡れだったわ。身体の芯まで冷えている筈よ、お風呂だけでは足りないの。
ベッドに入って寝ていなさい、と母が言うから抗議した。
「平気だってば!」
お風呂、ちょっぴり熱かったけれど、ちゃんと我慢して浸かったし…。もう平気。
服をちょうだい、パジャマでベッドじゃ、病気になったみたいじゃない!
ぼくは平気、と頬を膨らませたのに、母は許してくれなくて。
「駄目よ、暖かくして寝ていないと…。おやつだったら、部屋に運んであげるから」
先に帰って待っていなさい、と強引に二階に追い上げられた。仕方なく行くしかなかった部屋。扉を開けて中に入ったら、母が届けに来たケーキのお皿と、ホットミルクと。
湯気を立てているカップの中身は、前にハーレイが教えてくれたシロエ風。風邪の予防にいいというマヌカの蜂蜜たっぷり、それにシナモンを振りかけてあるホットミルク。
(…風邪を引きそうだから、シロエ風…)
此処までされたら、どうしようもない。濡れて帰った自分が悪い。
(昼間からパジャマで、風邪でもないのにベッドの中…)
仕方ないけど、と椅子に腰掛けてケーキを頬張る。いつも以上に熱く思えるホットミルクも。
やはり身体の内側まで冷えているのだろう。シロエ風のミルクが熱いのならば。
シュンとしながら、食べ終えたおやつ。母が見張っている中で。
「御馳走様」と空になったカップを置いたら、ベッドに入るように言われた。上掛けもすっぽり肩まで引き上げられて。
「出ちゃ駄目よ? ベッドで本を読むのも駄目」
また冷えちゃうから、と本まで禁じられる始末。これでは本当に「寝ている」しかない。宿題は出ていないけれども、その宿題で思い出した。学校と関係がある恋人を。
「ママ、ハーレイは…?」
来てくれるかどうか分からないけど、もし来てくれたら、起きてもいい?
ちゃんと服を着て暖かくするから、起きて話をしてもいいでしょ…?
いつものテーブルと椅子の所で、と窓辺のテーブルを指差した。上掛けの下から、手の先だけを覗かせて。
「起きるって…。あんなに濡れて冷えちゃったんでしょ、大事を取って寝ていなさい」
今日は一日、ベッドにいること。そのくらいしないと駄目なのは、分かっているでしょう?
ブルーは身体が弱いんだから、と母が心配すのも分かる。弱い身体は直ぐに熱を出すし、風邪を引くことも珍しくない。帰り道に雨でずぶ濡れだなんて、母は心臓が縮み上がったに違いない。
けれど、気になるハーレイのこと。
このままベッドの住人だったら、ハーレイが仕事の帰りに訪ねて来てくれたって…。
「ぼくが寝てたら、晩御飯、どうなっちゃうの?」
今はいいけど、晩御飯…。おやつは此処で食べられたけど…。
「食べられそうなら、此処で食べればいいでしょ。おやつと同じよ、ママが運んであげるから」
温まりそうなメニューにしなくっちゃ、と母は思案をしているよう。夕食の支度まで、段取りが狂ってしまったろうか。母が思っていた料理は中止で、別の料理になるだとか。
母には迷惑を掛けっ放しで、それは悪いと思うのだけれど…。
「…ママ、ハーレイの晩御飯は?」
来てくれた時は、ハーレイ、何処で食べるの?
晩御飯を食べずに帰ることはないでしょ、せっかく来てくれるんだから…。
だけど、ぼくがベッドで寝たままだったら、ハーレイの御飯…。
ぼくの晩御飯は此処になるなら、ハーレイは何処で晩御飯なの…?
それが心配になって尋ねた。母に料理で迷惑をかけることよりも先に、恋人が気になるのは我儘だけれど、本当に気掛かりなのだから。
「ハーレイ先生なら、その時次第ね。…先生が来て下さるかどうか、そっちが先でしょ?」
いらっしゃったら、晩御飯は食べて帰って頂くけれど…。先生、お一人暮らしだから。
ブルーが此処で晩御飯なんだし、先生も此処になるかしら?
先生が此処は嫌だと仰らなければね。
お嫌だったら、先生にはダイニングで召し上がって頂くわ、と母が言うから声を上げた。
「ハーレイ、そんなの言うわけないよ!」
ぼくと一緒に食べるのは嫌なんて、絶対に言いやしないんだから!
ハーレイも此処で晩御飯だよ、ハーレイの分も運んで来てよ。土曜日とかのお昼御飯みたいに。
ちゃんと二人分、此処に運んで来て、と頼んだけれど。ハーレイも此処で夕食なのだ、とホッと安心したのだけれど…。
「…どうかしら? ブルーはベッドで寝てるわけだし…」
ブルーが病気で寝込んでいる時は、ハーレイ先生、いつもママたちと食事をなさってるわよ?
野菜スープを作りに来て下さっても、先生のお食事はダイニングじゃない。
此処で食べてはいらっしゃらないわ、と母に指摘された。「いつもそうでしょ?」と。
「……そうだっけ……」
ぼくは病気で起きられないから、御飯、一緒に食べられなくて…。
野菜スープを持って来てくれても、ハーレイの御飯は持って来ていないね…。
「ほら、ごらんなさい。暖かくして寝ていることね」
ハーレイ先生と一緒に御飯を食べたいのなら。
本当に風邪を引いてしまったら、晩御飯どころじゃないでしょう…?
ベッドで本を読むのも駄目よ、と念を押してから、母は部屋から出て行った。空になったカップなどを載せたトレイを手に持って。
(…風邪を引いちゃったら、ホントに病気…)
夕食までに具合が悪くなったら、この部屋でハーレイと二人で食べることは出来ない。
ハーレイが見守る中で一人きりで食べるか、野菜スープのシャングリラ風を作って貰うのか。
病人だったら、ベッドを出られはしないから。…椅子に座らせて貰えないから。
ハーレイは両親と夕食を食べて、自分は此処で一人の夕食。ハーレイと同じメニューでも、下のダイニングに下りては行けない。
(ぼくだけ先に食べて、ハーレイは後でママたちと…)
きっとそうなることだろう。そうでなければ、野菜スープのシャングリラ風が今夜の夕食。前の生から好んだ素朴なスープで、ハーレイが作ってくれるのだけれど…。
(一人で御飯も、シャングリラ風も、どっちも嫌だよ…)
晩御飯を食べるなら、ハーレイと一緒に食べたいんだもの、とベッドの中で丸くなる。今の間に温まらないと、晩御飯が駄目になってしまいそう。雨に濡れたせいで、風邪を引いてしまって。
(…風邪引いたら、嫌だ…)
引きたくないよ、と考える内に、ウトウトと落ちた眠りの淵。暖かなベッドは気持ちいいから、いつしか瞼を閉じてしまって。
夢も見ないでぐっすり眠って、時間が静かに流れて行って…。
「おい、ブルー?」
耳に届いた優しい声。気遣うような響きの、大好きでたまらないハーレイの声。
「あれっ、ハーレイ?」
ふと目を開けたら、ハーレイが側で見下ろしていた。ベッドの脇で、大きな身体を屈めて。
「すまんな、起こしちまったか? よく寝てるとは思ったんだが…」
ちょっと声だけ掛けてみるかな、と思ったら、起こしちまったようだ。…声がデカすぎたか。
それはともかく、お前、帰りに濡れちまったって?
帰る途中で雨に降られて、家に帰った時にはびしょ濡れ。…頭の天辺から足の先まで。
玄関に靴が干してあったぞ、よく乾くように水を吸い取る紙を沢山詰め込んで。
お前の靴だろ、あんなになるまで濡れたのか…?
濡れた服は此処には無いようだがな、とハーレイが部屋を見回しているから頷いた。
「…うん…。制服とかはママが洗濯してると思う…」
ぼくの鞄も下じゃないかな、濡れちゃったから…。鞄、その辺に置いてある…?
通学鞄、と身体を起こして探そうとしたら、叱られた。
「こら、起きるな。風邪を引くだろうが」
お前の鞄なあ…。見当たらないなあ、やっぱり何処かで干してるんじゃないか?
そう簡単には乾かんからな、とハーレイは部屋を眺めて、「無いな」と鞄探しを放棄した。母が何処かに干しているなら、此処で見付かるわけがないから。
「鞄は無いが、中身の方は無事だと思うぞ。学校指定の鞄ってヤツは、優れものだから」
外側はすっかり濡れちまっても、教科書やノートなんかは濡れない。…雨に降られた程度なら。池や川なんかにドボンと落ちたら、流石に防ぎ切れないんだがな。
明日の朝には鞄もすっかり乾くだろうさ、とハーレイは保証してくれた。乾いた鞄に明日の分の教科書やノートを詰めて、登校できるといいんだが、と。
「そうしたいよ、ぼくも…。時間割、ちゃんと準備しないと…」
明日の授業は何だっけ、と勉強机の方を見ようとして、また止められた。「お前は寝てろ」と。
「俺が見てやる。あれだな、明日の時間割」
よし、とハーレイは勉強机の所まで行って、時間割表を確かめてくれた。ついでに必要な教科書も引き出しから出して、勉強机の上に揃えて…。
「あれでいいだろ、登校できそうなら鞄の中身はあんな所だ」
今日と同じ教科のヤツは抜けてるから、ちゃんと忘れずに入れるんだぞ?
それにノートだ、お前のノートを勝手に見るというのもなあ…。ノートは自分で追加してくれ。
学校に来られるようならな、とハーレイは椅子を運んで来た。窓際に置いてあった、ハーレイの指定席の椅子。それをベッドの脇に持って来て、「さて」と座って…。
「明日の準備はしてやったから、大人しくベッドで寝てるんだぞ?」
ノートと抜けてる分の教科書、明日の朝、自分で足せるといいな。…乾いた鞄に入れるために。
「ありがとう、ハーレイ…。行きたいな、学校…」
このまま風邪を引くのは嫌だよ、とハーレイの顔を見上げた。「休みたくない」と。
「その心意気があれば、気持ちの面では大丈夫だな」
元気でいるぞ、という心構えも大切なんだ。「病は気から」と言うだろう?
しかし、お前が濡れちまったのは本当で…。
靴も鞄もびしょ濡れってトコが心配だ。寒気、しないか?
寒くないか、とハーレイが訊くから「大丈夫だよ」と微笑んだ。
「今はちっとも…。ベッドの中は暖かいから」
帰って直ぐにお風呂に入って、おやつの後はずっとベッドで寝ていたしね。
お風呂は熱すぎたんだけど、と正直に白状しておいた。いつもの温度で火傷しそうだったほど、冷えていたのは本当だから。
「だけど、きちんとお湯に浸かって温まったし…。その後はベッドの中だから…」
今は少しも寒くなんかないよ、寒気なんかもしないから…。ぼくなら、平気。
「それなら、いいが…。唇も紫色になっちゃいないし、冷え切っちまった分は取り戻したか」
お母さんから聞かされた時は、正直、寿命が縮んだぞ。お前がずぶ濡れになっただなんて。
俺もウッカリしていたな…。お前の守り役、失格らしい。恋人の方も怪しいもんだ。
ただでも身体が弱いお前を、ずぶ濡れにしちまったんだから。
俺のせいだ、とハーレイが溜息をつくから、首を傾げた。何のことか、まるで分からないから。
「え? 失格って…」
なんでハーレイが失格になるの、守り役も、それに恋人の方も…?
ぼくは一人で家に帰って、帰りに雨が降って来ただけで…。ハーレイは何も悪くはないよ…?
「それがそうでもないってな。…お前が気付いていなかっただけで」
俺はお前が帰って行くのを見てたんだ。たまたまグラウンドを通り掛かった時に。
雨が降りそうなのは分かってたんだし、傘を持ってるのか訊けば良かった。…追い掛けてな。
お前、用意はいい方だから、折り畳みの傘、鞄に入れているのかと思ったんだが…。
前に忘れたことがあったし、とハーレイは覚えていてくれた。雨の予報を知っていたのに、鞄に折り畳みの傘を入れるのを忘れて登校した日。
(学校で借りられる傘、全部なくなっちゃってて…)
ハーレイに傘を借りに行ったら、バス停まで送ってくれたのだった。貸してくれた傘とは別に、ハーレイの傘に入れて貰って、相合傘で。…幸せだった、相合傘の思い出。
「折り畳みの傘、雨の予報が出ていない日は持っていないよ」
今日の予報は曇り時々晴れだったから…。傘は鞄に入れなかったし、帰りもきっと大丈夫、って思い込んでて、学校の傘、借りて来なくって…。
「そうだったのか…。確かに予報じゃ、そうなってたな」
俺も降らないと思ってたんだが、午後から雲行きが変わっちまった。…降りそうな方へ。
次からは気を付けんとな。お前が傘を持たずに歩いていたなら、呼び止めて傘を持たせないと。
今日みたいに、急に降りそうな日には、お前を見掛けたら追い掛けてって。
ずぶ濡れになってからでは遅いんだ、とハーレイは「すまん」と謝ってくれた。ハーレイは何も悪くないのに、何度も、何度も。
「お前の手も冷えちまっただろ? 身体中、すっかり濡れたんではなあ…」
今は温かくなってるが、と上掛けの下でハーレイの手に包み込まれた右手。前の生の終わりに、メギドで冷たく凍えた右の手。
その手にハーレイが温もりを移してくれる。「温めてよ」と頼まなくても、右手だけを上掛けの下から出さなくても。
「ごめんね、心配かけちゃって…」
ハーレイに何度も謝らせちゃって。…ハーレイは悪くなんかないのに…。
ぼく、学校の傘のことを考えてたのに、「家に帰った方が早いよ」ってバスに乗っちゃって…。
借りに戻って行けば良かった。バスが一本遅くなっても、帰る時間は遅くならないのに…。
悪いのは、ぼくの方なんだよ、と謝った。実際、そうだと思うから。
学校で傘を借りずに帰ったばかりに、母にも、ハーレイにも心配をかけた。母には、うんと迷惑までも。「大変!」と悲鳴を上げさせた上に、お風呂の用意に、靴や鞄の手入れもさせて…。
「そう思うんなら、風邪を引かずにいることだ。ベッドでしっかり温まって」
お母さんも俺も、其処が一番心配だからな。お前が寝込んでしまわないかと、気が気じゃない。
だからベッドの中で過ごして、明日は元気に登校してくれ。そいつが一番嬉しいな、うん。
晩飯、此処で食ってやるから。
お前と一緒に此処で食うさ、とハーレイが浮かべた穏やかな笑み。「それでいいだろ?」と。
「ホント?」
ハーレイも此処で食べてくれるの、パパやママと一緒に下で食べずに…?
ぼくは下では食べられないから、この部屋で…?
「ああ。お母さんから聞いたしな」
ずぶ濡れになっちまった話の続きに、晩飯のことを教えて貰った。
お前がベッドに押し込まれた時、晩飯の心配をしていた、とな。
俺が仕事の帰りに寄ったら、飯を御馳走になるもんだから…。その場所が何処になるのか、と。
お前さえ元気でいてくれるんなら、晩飯を此処で食うってくらいは何でもない。
晩飯を食える元気があるなら、俺はそれだけでホッとするから。
お前と一緒に食べるくらいはお安い御用だ、と言われて気付いたこと。
ハーレイとは何度も一緒に食事をしたけれど、この部屋で夕食を食べたことは一度も無い、と。
夕食はいつも、両親も交えてダイニングで和やかに食べるもの。そういう決まり。
(決まりがあるってわけじゃないけど…)
ごくごく自然にそうなった。
ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイが恋人同士だったことを、両親は知らない。ただの友達だと思っているから、今の自分が十四歳にしかならない子供なせいで…。
(ハーレイが子供の相手をするのは大変だろう、って…)
そう考えたのが両親だった。「子供のお相手ばかりをさせては申し訳ない」と。
だから夕食は両親も一緒にダイニングで。…ハーレイが年相応の話し相手と寛げるように。
その決まりが今夜は崩れるらしい。ハーレイが此処で食事だったら、初めての二人きりの夕食。夏休みに星を見ながら庭で食べたのと、お月見の夜を除いたら。
「ねえ、ハーレイ…。晩御飯を此処で二人で食べるの、初めてだね」
お昼御飯はいつも二人だけれども、晩御飯はママが呼びに来るから…。用意が出来た、って。
パパもママも一緒にダイニングでしか食べていないよ、この部屋は一度も無いんだよ。
「そういや、そうだな」
お前にスープを食わせに来たりしているもんで、気が付かなかった。
寝ているお前を起こしたりして、何度も食わせたモンだから…。野菜スープのシャングリラ風。
いいか、しっかり温まっておけよ?
俺と一緒に、此処で晩飯を食いたかったら。
野菜スープのシャングリラ風じゃなくて、お前のお母さんが作る料理を。
「分かってる…。風邪を引いちゃったら、ハーレイのスープになっちゃうってことは…」
具合が悪くなってしまったら、そうなるんでしょ…?
「その通りだ。病人が食うのは病人食だと決まってる。特にお前は、食欲が落ちやすいから…」
前のお前だった頃から、あの野菜スープしか食えなくなるんだ。
そうならないよう、夜まで大人しく寝ていることだな、ベッドから出ずに。
冷えた身体をきちんと温めておいてやったら、風邪だって逃げて行くだろう。
退屈だったら、俺が話を聞かせてやるから。
そしてハーレイが聞かせてくれた、色々な話。ベッドの中で退屈しないようにと。
子供時代の思い出話や、悪ガキだった頃の武勇伝やら。ハーレイの父と釣りに出掛けた時の話も沢山、ハーレイの母が庭で育てる花などの話も。
(…こういう時間も幸せだよね…)
ぼくはベッドから出られないけど、と思う間に、訪れた眠気。ずぶ濡れになった疲れが出たか、冷えた身体が温まったせいで眠くなったのか。
なんだか眠い、と欠伸を幾つか、それきり眠ってしまったらしくて…。
「…ブルー?」
そっと額に当てられた手。ふうわりと浮上する意識。「ハーレイの手だ」と、直ぐに分かって。
目を覚ましたら、ハーレイが側で微笑んでいた。ベッドに屈み込むようにして。
「熱は無いようだな、よく寝ていたぞ。…元気が出たか?」
大丈夫なようなら、飯にするかな。お母さんが運んで来てくれたから。
ほらな、とハーレイが示した窓辺のテーブル。其処にハーレイの椅子はまだ無いけれども、上に載せられた湯気を立てる器。温かいスープかシチューだろうか、食欲をそそる匂いもする。
「…起きていいの?」
ママ、起きていいって言っていた?
それともベッドで食べなきゃ駄目なの、病気になってる時みたいに…?
ぼくは此処かな、と上掛けを被ったままで問い掛けた。ハーレイの椅子はベッドの側だし、その椅子で食べるつもりだろうか、と。テーブルの上から、料理だけを此処へ持って来て。
「起きていいぞ。お母さんもそう言っていたしな」
熱が無いなら、ベッドから出て食べてもいいと。…だが、冷えちまったら駄目だから…。
パジャマだけだと身体が冷えるし、暖かくして起きるんだぞ。
そら、これを着ろ、とハーレイが手にした上着。母が渡して行ったのだろう。お風呂を出た後に羽織ったものより、ずっと大きな父の服。
(うわあ、大きい…)
ベッドから下りて袖を通したら、本当にダブダブ。けれど腰の下まで丈があるから暖かい。
ハーレイが「こりゃ大きいな」と袖口を折り返してくれて、袖丈は余らなくなった。それを着て窓際の椅子に腰を下ろしたら、「これもだ」と膝に母のストール。暖かな膝掛け。
足には靴下とスリッパも履いて、少しも寒いと感じない部屋。陽だまりのような暖かさ。
「ふむ。これで良し、と…」
寒くないな、とハーレイが自分の椅子を運んで来たから、向かい合わせで囲んだテーブル。上に夕食が載っているけれど、両親が一緒ではない食卓。
(ママ、温かい食事にしてくれたんだ…)
クリームシチューに、ボリュームたっぷりの焼き野菜。沢山食べるハーレイ用にと、母が考えた料理だろう。野菜の他に鶏肉やソーセージも鏤められたオーブン用の皿。
「熱い内に食えよ? 冷めちまったら、お母さんの心遣いが台無しだからな」
俺も遠慮なく頂くとするか、とハーレイが取り分けている焼き野菜。思った通りに豪快に。
「ハーレイ、沢山食べるんだね…」
お肉とソーセージが一杯…。野菜の量も凄いけど…。ぼくだと、其処のジャガイモだけで…。
お腹が一杯になっちゃいそう、と見詰めるジャガイモ。小ぶりのものに幾つも切り込みを入れて焼いてあるから、一切れがジャガイモ一個分。
「これか? とりあえず、これが一皿目だが?」
俺が食べる量、お前、いつでも見てるだろうが。…お母さんだって承知だってな。
で、お前、そんなに少しでいいのか、もっと沢山食わないと…。栄養をつけんと風邪を引くぞ?
今日は頑張って食っておけ、と焼き野菜を皿に追加された。ジャガイモも、それに鶏肉も。
「…こんなに沢山?」
シチューだけでも充分なのに、と言ったけれども、ハーレイは至極真面目に答えた。
「駄目だな、身体が冷えちまった時は栄養補給も大切なんだ」
しっかり食べればエネルギーになるし、身体を内側から温めてくれる。そのくらいは食え。
ソーセージまでは入れてないんだ、文句を言わずによく噛みながら食うんだな。
風邪を引きたいのか、と軽く睨まれたら、とても言い返せない。
ハーレイにも母にも心配をかけたし、此処で本当に風邪を引いたら、ハーレイは自分の責任だと考えそうだから。「俺がついていたのに、無理をさせた」と。
(ママだって、起きて御飯を食べさせたから、って…)
自分を責めるに決まっているから、風邪などは引いていられない。部屋でハーレイと食べたいと頼んだ以上は、きちんと食べねば。…栄養不足で風邪を引かないように。
頑張らなくちゃ、と口に運んだ焼き野菜。シチューをスプーンで掬う合間に、少しずつ。
(ジャガイモ、一個でいいんだけどな…)
そう思っても、ハーレイがじっと見据えているから、追加されたジャガイモも食べてゆく。切り込み通りに薄く切っては、頬張って。
「ジャガイモ、ちょっぴり多すぎるけど…。なんだか幸せ…」
夜なのに、ハーレイと二人で御飯。パパもママもいなくて、二人きりだよ。
ハーレイが見張っているけどね、と焼き野菜の皿の鶏肉をフォークでつついた。こんなに沢山、食べられそうもないんだけれど、と。
「食えと言っただろ、そのくらいは。…ソーセージも追加されたいのか?」
恨むんだったら、雨を恨むんだな。お前を頭からずぶ濡れにした、今日の帰りの雨を。
とっくに止んでしまっているが、とハーレイは可笑しそうに笑った。天気予報に無かった雨は、一時間ほどで止んだのだという。言われてみれば、お風呂の後で部屋に戻った時には…。
(…雨の音、聞こえていなかった…?)
窓の向こうは見ていないけれど、青空が覗いていたろうか。曇り時々晴れの予報通りに。
「あの雨、止んでしまってたんだ…。ぼくはずぶ濡れになったのに…」
「運が無かったというわけだな。傘を借りずに帰っちまったことといい…」
今日のお前はツイていなかったが、今、幸せなら、「終わり良ければ全て良し」ってな。
ただし、いくら幸せだからって、余計なことを考えるなよ?
お前がベッドの住人になりそうな危機だからこそ、今夜は此処で晩飯なんだ。
其処の所を忘れるな、と釘を刺されても、幸せな気分は止まらない。夕食の時にハーレイと二人きりになるなど、家の中では初めてだから。
(星を見た時も、お月見も、外…)
庭のテーブルと椅子だったわけで、家の中にいる両親からも見える場所。
けれども今は自分の部屋で、両親はダイニングで食事中。
(ぼくとハーレイ、二人きりだよ…)
おまけに夕食、と思うと顔が綻ぶ。
今は夕食の席に両親がいるのが当たり前だけれど、いつかはハーレイと二人きりで食べる夕食。結婚して一緒に暮らし始めたら、夕食は二人で。
その時間を少し先取りしたようで、心がじんわり温かくなる。今は本当に二人きりだから。
「余計なことを考えるな、って言うけれど…。でも…」
結婚したら、いつもこうでしょ、ハーレイと二人で晩御飯。…パパもママもいなくて。
「まあな。…そうなることは否定はしない」
もっとも、お前はパジャマなんかを着てはいないと思うんだが…。
俺が仕事から帰って来るような時間は、まだ充分に起きている筈だ。欠伸もしないで。
たまには帰りを待っていられなくて、寝ちまってる日もあるかもしれんが。
晩飯も先に食っちまってな、とハーレイが言うから、目を丸くした。
「…そんなに遅くなる日もあるの?」
学校のお仕事、ずいぶん遅くまであるんだね…。ぼくが寝ちゃっているほどなんて…。
「仕事とはちょっと違うだろうな。他の先生との付き合いってヤツだ、酒や食事や」
俺は車で仕事に行くから、酒は飲まずに運転手だが…。
けっこう遅くなっちまうってな、大いに盛り上がった時なんかは。
「そうなんだ…」
お仕事だったら仕方ないよね、他の先生たちと出掛けるのも大切なんだもの。それは分かるよ、きっとシャングリラの頃と同じこと。
他の人たちと仲良くしないと、どんな仕事も上手くいかないのは当たり前だよね…?
そういうことなら我慢するよ、と笑顔を見せた。「一人で先に晩御飯でも」と。
「分かってくれるというのがいいなあ、前のお前の記憶に感謝だ」
見た目通りのチビの恋人なら、今頃は「酷い!」と怒って膨れていそうだから。
とはいえ、お前が家にいる以上は、早く帰れるようにはするが。
お前を寂しがらせたくはないしな、「お先に失礼」と帰る日だって、あってもいいだろう。先に帰りたいヤツらだけを乗せて、一足お先に帰っちまう日。
「先に帰るって…。お酒は飲まなくても、他の先生たちと一緒に食事でしょ?」
毎日だったら寂しいけれども、滅多に無いことなんだから…。
たまには楽しんで来てくれていいよ、ぼくは一人で晩御飯を食べて、先に寝てるから。
「みんなでワイワイやるのもいいが…。お前の側が一番なんだ、と知ってるだろう?」
前の俺だった頃からそうだし、今だってそうだ。…早く帰りたい日だってあるさ。
だが、今の所は、俺もだな…。
帰らなきゃいけない家があるから、とハーレイは苦笑しているけれども、二人きりの夕食。
両親はいなくて、幸せな時間。
まるで未来に来てしまったように、ハーレイと二人で暮らしている家に来たかのように。
(ぼくの部屋だけど、ぼくの部屋だっていう感じがしないよ…)
とても心が満たされているし、今夜はきっと、メギドの悪夢も襲っては来ない。雨に濡れていた身体はすっかり温まったし、心も温まったから。
(ハーレイが「食べろ」って、沢山ぼくに食べさせちゃって…)
身体の内側からも温まったし、右手が凍えてもいない。身体中、もうポカポカと暖かい気分。
それに、こうして二人で向かい合っていたら、どんな悪夢も逃げてゆくから。
メギドの悪夢は遠い昔で、今の自分には幸せな未来が待っているのだから。
(また帰り道で雨に降られて、ずぶ濡れになってしまった時は…)
こんな日だって悪くない。
パジャマの上から父の大きな服を羽織って、膝の上には母のストールでも。
食事が済んだら、「冷えちまう前に、ベッドに戻れよ?」とハーレイに注意される夜でも。
そうは言っても、この次からはハーレイが追って来そうだけれど。
空模様が怪しい日に、校門に向かって歩いていたなら、「傘は持ったか?」と。
(そっちも、うんと幸せだよね…?)
傘を持たされたら、もうずぶ濡れにはなれないけれども、きっと幸せ。
ハーレイが気にかけていてくれるという証拠だから。
仕事を放って追って来てくれて、「持って帰れ」と傘を渡してくれるのだから。
今日はずぶ濡れになってしまったけれども、きっと風邪など引いたりはしない。
(身体も心も、こんなにポカポカあったかいから…)
大丈夫、と勉強机の上を眺める。ハーレイが出して揃えてくれた、明日の授業の教科書を。
明日の朝には、あれとノートを通学鞄に詰め込もう。母が乾かしてくれた鞄に。
そして元気に学校に行こう、ハーレイにも母にも、心配なんかをかけないように…。
雨に濡れても・了
※帰り道で、雨に降られてしまったブルー。傘を持っていなかったせいで、濡れた全身。
家に着いたら直ぐにお風呂で、ベッドで寝かされる羽目に。けれど、ハーレイと幸せな時間。
ハレブル別館は、次回から月に1度の更新になります。
毎月、第3月曜に更新、よろしくお願いします。
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(そっか、遠足…)
その帰りなんだ、とブルーが眺めた下の学校の生徒たち。学校からの帰りに、バス停から家まで歩く途中で目にした光景。少し前の方を賑やかに歩いてゆく姿。
普段だったら、この時間にはあまり見かけない。遊んでいる子供たちには出会うけれども、下校してゆく子たちの方は。
リュックサックを背負った子供たち。遠足の続きみたいにはしゃいで、笑い合いながら。水筒の中身を飲んだりもして。
(中身、ジュースなんだ…)
驚いたけれど、話の内容からして、水筒に詰まった中身はジュース。自分が通っていた頃は禁止だったけれども、今は許されているのだろうか?
「先生、気が付かなかったね!」
「大丈夫だって言っただろ? バレやしない、って」
先生の近くで飲まなかったら大丈夫だ、と得意そうな顔の男の子。如何にもヤンチャそうな顔。
(…常習犯…)
いつもやってる子供なんだ、とポカンとしてから気が付いた。やっぱり今でも水筒にジュースは駄目なんじゃない、と。
遠足の時も、普段の時も、水筒の中身はお茶か水だけ。下の学校はそういう決まり。
(お茶の種類は決まってないから…)
麦茶の子もいたし、他にも色々。紅茶を入れていた子は知らないけれど…。
(ミルクティーとかでなければ、良かったのかな?)
紅茶も「お茶」には違いないから、たっぷりのミルクと砂糖入りでなければ許されそう。普通に淹れただけの紅茶で、過剰な味付けをしていないなら。
(甘いミルクティーだと、ジュースとおんなじ…)
それを水筒に詰めていたなら、きっと先生に叱られる。「水筒の中身はお茶と水だけ!」と。
(だけど、ジュースを入れてくる子は…)
自分の周りにも何人かいた。常習犯も、「遠足の時だけ」だった友達も。
遠足となれば楽しみたいから、ジュースを詰めたくなるのも分かる。広々とした野原や、視界が開ける山の天辺。其処でお弁当を食べる時には、お供はジュース、と。
(ふふっ…)
今の子たちも、みんな同じ、と微笑みながら帰った家。リュックの子たちを追い抜いて。
制服を脱いで、ダイニングでおやつを頬張りながら考える。さっきのジュースと水筒のこと。
今の学校では遠足に行っていないのだけれど…。
(学校に水筒を持って行くなら…)
ジュースを中に詰めてゆくのは、やっぱり禁止。下の学校の頃と同じに。
食堂でジュースを買うことだったら、許されるのに。お昼休みに飲んでいたって、叱られない。もちろん放課後も、他の短い休み時間でも。
(なんでかな…?)
学校でジュースが売られているのに、禁止されるのが水筒のジュース。買って飲むのも、持ってくるのも同じだろうに。
ジュースの味が変わりはしないし、冷たい温度も保っておける容器が水筒。
(誰も持っては来ないけれどね…)
水筒を持って来ている生徒は、きちんとお茶を詰めてくる。先生に叱られないように。それに、同じジュースを飲むのだったら、水筒に入れて持って来るより買う方がいい。
昼休みと帰りで違うジュースが飲めるし、その時の気分で選びも出来る。どれにしようか悩んでみたり、新しい味に挑戦したり。
(だけど、遠足とかに行くなら…)
水筒にジュースを入れる生徒も現れるだろう。下の学校の子が、今もそうしているように。
今の所は、遠足の予定は無いけれど。…水筒の出番がありそうな行事も。
それでもいつか行くとなったら、ジュースを詰める子は絶対にいる。先生がどんなに「駄目」と言っても、持ち物リストに「ジュースは禁止」と書かれていても。
(水筒のジュース…)
なんで駄目なの、と考えてみても出て来ない答え。
学校に行けばジュースが買えるし、自分だって何度も飲んでいる。お昼休みや、夏の暑い頃には短い休み時間にだって。
なのに水筒にジュースを詰めてゆくのは禁止で、先生にバレたら叱られる。規則を破って詰める子たちは、今も大勢いるというのに。ジュースは人気が高い飲み物で、今は学校でも買えるのに。
分からないよ、と考えながら戻った二階の自分の部屋。おやつを美味しく食べ終えてから。
(水筒の中身…)
お茶でなくても、ジュースでもかまわないように思う。下の学校の頃ならともかく、今の学校の方ならば。
(下の学校だと、ジュースは売っていなくって…)
食堂も無かったほどなのだから、「ジュースは禁止」も分からないではない。水筒の中身として禁止する前に、学校そのものがジュースが飲めない場所だったから。
(小さい子供は、好きなものばかり欲しがるから…)
健康のことなどを考慮した上で、ジュースは禁止だったのだろう。「美味しいから」と甘いものばかり飲んでいたのでは、身体に悪いし、虫歯の原因にもなりそう。
けれども、今の学校は違う。もっと育った子たちが行く場所、義務教育の最終段階。卒業したら十八歳だし、結婚だって許される年。
(自分のことには、自分で責任…)
きちんと考えて行動するよう教えられるし、ジュースを買って飲むのも自由。飲み過ぎないよう注意しながら、自分で好きに選んで買って。
それが許されているというのに、どうして水筒にジュースを詰めては駄目なのだろう。禁止する理由が、いったい何処にあるのだろう…?
(買って飲むのも、水筒に入れて持って行くのも…)
同じなのに、と思えるジュース。
どちらかと言えば、水筒に詰めて家から持って行く方が…。
(健康的だと思うんだけど…)
朝に搾ったオレンジのジュースや、作ったばかりの野菜のジュース。冷やしたままで放課後まで持つし、買ったジュースよりも身体に良さそう。
(食堂でもジュースは売っているけど…)
生徒の数が多いのだから、その場でオレンジを搾ってはいない。野菜ジュースも、沢山の野菜をミキサーで砕いて作ってはいない。店で売られているジュースと同じ種類のジュースで…。
(注文したら、コップに注いでくれるってだけで…)
家で作るのとは全然違う。健康的だと言えそうなのは、家で作ったジュースの方。
考えるほどに、水筒に詰めて持って行く方が良さそうなジュース。野菜ジュースも、オレンジを搾ったジュースでも。その日の間に飲んでしまうなら、きっと傷みはしないから。
(絶対、そっちが良さそうなのに…)
水筒にジュースを詰めてゆくのは禁止で、ジュースは学校で買って飲むもの。なんとも不思議で奇妙な決まり。下の学校ならまだ分かるけれど、今、通っている学校では。
(ハーレイだったら知ってるかな?)
ジュースを詰めてはいけない理由。禁止する方の教師なのだし、知らない方がおかしいだろう。
何故、禁止なのか、訊いてみたいな、と思っていたら聞こえたチャイム。そのハーレイが仕事の帰りに来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、ハーレイ…。水筒にジュースは、なんで駄目なの?」
「はあ? ジュースって…?」
何の話だ、とハーレイは目を丸くした。「水筒がどうかしたのか?」と。
「水筒にジュース…。今日の帰りに、下の学校の子たちを見掛けたんだよ。遠足だったみたい」
みんなリュックを背負っていてね、とても賑やかだったんだけど…。
その子供たちが、水筒にジュースを入れていたんだよ。お茶の代わりに。
水筒にジュースは禁止だったけど、今も禁止のままなんだけど…。それでも入れていた子たち。
ああいうの、今のハーレイも、やった?
ぼくは一度もやってないけど…。ママに頼んだことも無いけど…。
ジュースを入れて欲しいだなんて、と下の学校の頃のことを話して、ハーレイの答えはどうかと待った。水筒にジュースを入れていたのか、規則を守ってお茶や水だったか。
「俺か? 俺が学校に行ってた頃だな、下の学校」
水筒の中身はジュースだったか、そうでないかと訊かれると…。
デカイ声ではとても言えんがなあ…。これでも一応、今は教師というヤツだから。
とはいえ、お前も知っての通りの悪ガキだ。武勇伝は幾つも聞いてるだろう?
その辺で察しがつかないか、とハーレイが浮かべた悪戯っ子のような表情。悪ガキだったという子供時代は、ハーレイだって水筒にジュースを入れていた。
遠足などに行く時ばかりか、普通に登校する日でも。
搾り立てのオレンジジュースでなくても、冷蔵庫にあった市販のジュースの類も。
健康的ではなさそうなジュースも、水筒に入れた子供時代のハーレイ。遠足でなくても、普通の日でも。「ジュースが飲みたい」と思った時には、迷いもしないで。
「それ、駄目なんでしょ。ハーレイが行ってた学校だって」
入れてもいいっていう学校なら、大きな声で話せるものね。「悪ガキだから」って言わなくてもいいし、誰に喋っても良さそうだもの。
そのジュース…。今の学校でも禁止されてるけど、どうしてなの?
ジュースだったら、学校で売られているじゃない。食堂にもあるし、自動販売機だって。
わざわざ水筒に詰めなくっても、いろんなジュースが飲めちゃうよ。昼休みと放課後で違うのを買ったら、水筒で持って行くよりも楽しそうだけど…。水筒だとジュースは一種類だけ。
それに、水筒に詰めるんだったら、健康的なジュースを持って行けるじゃない。家でお母さんが作ってくれたオレンジジュースや、野菜ジュースとかを。
そっちの方が身体に良さそう、とジュースについての意見を述べた。禁止するより、家で作ったジュースの持ち込みを許せばいいのに、と。
そうしたら…。
「ああ、それはな…。お前が言うのも、確かに一理あるんだが…」
ジュースの種類が問題なんだ。水筒に詰める中身ってヤツが。
禁止されてる理由はそれだ、とハーレイが言うから驚いた。家からジュースを持って行く方が、いいことが沢山ありそうなのに。
「えっ、どうして?」
家で作ったジュースだったら、うんと新鮮だし、栄養だってたっぷりだよ?
オレンジジュースなら搾ったばかりで、野菜ジュースもミキサーで作ったばかりなんだし…。
学校の食堂で買えるジュースより、ずっと健康にいいと思うよ。食堂のジュースは、工場とかで作ったジュースをコップに入れてるだけなんだから。
買ったジュースを詰めるにしたって、そっちはそっちで、お小遣いが減らなくなるもんね?
ジュースを買うお金、払わなくてもいいんだもの。家から水筒で持って行ったら。
そうでしょ、ハーレイ?
ジュースの種類が問題だって言うんだったら、決まりを作ればいいじゃない。こういうジュースだったらいい、ってメーカーを指定するだとか…。
その方法なら、市販のジュースも絞り込める。学校の食堂や自動販売機で買えるジュースと同じものだけ、などと指定してやれば。
家で作るジュースは栄養豊富に決まっているから、問題になるのはきっと市販のジュース。味は良くても栄養のバランスが良くないものとか、学校としては勧められないものも多いだろう。
てっきりそうだと思ったけれども、ハーレイは「違うな」と苦笑い。
「下の学校でジュースが禁止な理由は、栄養バランスなんかも絡んでいるんだが…」
お前が通っている学校だと、ちょいと事情が変わってくる。そう単純ではないってな。
栄養面とか、小遣いのことを考えるんなら、ジュースの持ち込みも許してやれるんだが…。
通ってる生徒の顔ぶれってヤツを思ってみろ。一番上の学年だったら、十八歳の子だっている。誕生日が四月のヤツらなんかは、もう早々に十八歳だな、一番上になった途端に。
あの学年が卒業したら、上の学校に行くわけで…。
上の学校に行けば、ちょっぴり大人の仲間入りってことになるだろう?
二十歳になれば大人だからな、とハーレイが言う、今の時代の「成人」の年。二十歳になったら立派な大人で、酒を飲むことも許される。
上の学校には二十歳になった先輩も大勢通っている上、二年も経てば自分たちも二十歳を迎えて大人。そういう学校に入れる時を、間近に控えているものだから…。
一番上の学年の生徒たちの場合は、大人になる日をちょっと先取り、アルコール入りのジュースなんかを飲んでみたくもなるという。
アルコールと言っても、ほんの少しだけ。酔っぱらうほどでもないジュース。
「学校としては、そういうジュースを、水筒に入れて持ってこられちゃ困るしな?」
見た目だけだと、普通のジュースとまるで区別がつかないから…。
元のジュースの入れ物があれば、直ぐに酒だと分かるんだがなあ…。水筒に詰められたら、もう分からん。「ちょっと寄越せ」と、取り上げて味見しない限りは。
だから禁止だ、とハーレイは怖い顔をした。「学校で酒は論外だぞ」と。
「お酒って…。水筒にジュースを入れちゃ駄目なの、そんな理由なの?」
絶対に駄目、って言っておいたら、誰もしないと思うけど…。お酒は二十歳からだもの。
誰でもきちんと知ってることだし、学校になんか持ってこないよ。
ジュースがあったらそれで充分、お酒まで飲もうとしなくたってね。
第一、学校は勉強の場所、と瞳を瞬かせた。其処に酒など持ち込まなくても、飲みたいのならば家でコッソリ飲めばいい、と。
「そう思わない? 家なら、先生にバレて叱られたりもしないし…」
好きな時間に部屋でコッソリ、それが安全。…ぼくは飲みたいとは思わないけれど。
「お前だったら、そうなるのかもしれないが…。馬鹿にしちゃいかんぞ、誘惑ってヤツを」
あと一年で上の学校なんだ、と思い始めたら、飲んでみたくなるヤツらも出てくる。
どうせだったら一人で飲むより、友達と飲みたくなるモンだ。水筒に入れて回し飲みとか、同じ日に揃って持ってくるとか。
どんな味なのか、ワクワクしながら飲むアルコールは格別だってな。…学校って場所で。
先生にバレたら大変なんだが、と話すハーレイは「悪ガキ」のような顔にも見える。今は教師で叱り付ける方の立場にいるのに、それとは逆の立場の悪ガキ。
「…ハーレイ、経験ありそうだね」
学校に水筒を持って出掛けて、中身はお酒が混じったジュース。…下の学校でジュースを入れて行っていたなら、次の学校でも似たようなことをやりそうだけど…?
そういう経験は一度も無いの、と興味津々。「ハーレイなら、やっていそうだよ」と。
「無いとは言わんな、悪ガキだしな?」
駄目だと言われりゃ、余計に挑戦してみたくなる。規則を破るのもスリル満点というヤツで…。
だが、勘違いをしてくれるなよ?
悪さをするのも大好きだったが、やるべきことはきちんとやってた。勉強も、もちろん宿題も。
そういや、水筒にジュースってか…。
同じ理由で禁止だったな、あの船でも。
「船?」
何処の船なの、学校から乗りに行くような船…?
ぼくの学校では行ってないけど、学校によっては色々あるよね。船に乗り込んで、湖を回って、水質検査の体験をしたりする学校とか…。帆船で沖に出て行くだとか。
「体験学習用の船だな、お前が言うのは」
その手の船でも、もちろん水筒にジュースを詰めるのは禁止だろう。
乗っていく子供が下の学校の子でも、お前と同じ学校でも。しかしだな…。
俺が言う船はそれじゃない、とハーレイは穏やかな笑みを浮かべた。「シャングリラだ」と。
「シャングリラと言えば、前の俺たちが乗ってた船だ。…白い鯨だ」
覚えていないか、あの船の決まり。水筒とジュースで何かを思い出さないか…?
「えーっと…?」
シャングリラだよね、白い鯨の方の…。あの船で水筒とジュースって…?
ジュースは食堂に行けば飲めたよ、とキョトンとした。白い鯨に改造する前の船の頃でも、何か飲むなら食堂で注文。「これが飲みたい」と係に言えば、出て来た色々な種類の飲み物。
「基本は食堂、そうでなければ休憩室だな。飲み物が欲しくなった時には」
休憩室にもジュースなんかは揃っていたから、自分で好きに選んで飲めば良かったんだが…。
それが出来ない時もあったろ、休憩室とか食堂に出掛ける時間が無い時。届けて貰うという手もあったが、もっと手軽に飲み物を持って行きたいのなら…。
水筒だったぞ、と挙がった容器の名前。
持ち場に飲み物を運んで行きたい時には、休憩室か食堂で詰めてゆくのがシャングリラの規則。水筒の中身を詰める時には、必ず其処で。…自分の部屋で詰めるのではなくて。
「そうだっけ…!」
水筒、そういう決まりだっけね、白い鯨になった後には。
それまでは、水筒を持って行かなきゃいけないくらいに、大きな船じゃなかったから…。仕事の途中で喉が乾いたら、ちょっと戻って休憩室とか、食堂だとか…。
其処で飲めたよ、と今も覚えている飲み物。改造前の船の頃には、水筒の出番は殆ど無かった。忙しい時に一部の仲間が使っただけで、出番が少ないなら決まりも要らない。
ところが、改造した後の船は、改造前とは比較にならない巨大な船。食堂や休憩室はあっても、其処まで出掛ける時間が惜しい、と思う者やら、持ち場を離れられない者やら。
お蔭で水筒が脚光を浴びた。
持ち場を離れず、食事する者も少なくなかったから。メンテナンスなどに入った時は。
それに機関部など、高温になる区画も増えた。船が大きくなった分だけ。
食堂や休憩室に足を運ばず、何処ででも水分を摂れる水筒。飲みたい時に蓋を開ければ、欲しい量だけ飲むことが出来る。紅茶だろうがコーヒーだろうが、ジュースだろうが。
けれど、水筒には決まりがあった。白いシャングリラだけのための規則が。
水筒を持って出掛けてゆくなら、自分の部屋では詰められない中身。ジュースにしても、紅茶やコーヒーにしても。
中身は必ず、食堂や休憩室で詰めてゆくこと。普通の飲み物を入れる代わりに、仕事中には禁止されている酒を詰められたら大変だから。
合成の酒しか無かった船でも、酒は酒。飲みたい仲間は少なくないし、水筒という便利な容器が出来れば、持ち運びたい者も現れかねない。「仕事中にも一杯やろう」と。
「俺が思うに、今も昔も変わっちゃいないな、其処の所は」
水筒にジュースを入れちゃいかん、と言っておかないと、アルコール入りのジュースを持ち込む生徒が出ちまう学校だとか…。
中身を詰めるなら食堂と休憩室にしろ、と規則を作って決めておかないと、自分の持ち場で酒を飲みかねないヤツらが乗ってた船だとか。
ずいぶん時が流れちまって、地球がすっかり青くなっても、水筒の中身は変わらないらしい。
決まりが無ければ、ろくでもないことを考え付くヤツらがいるってこった。
学校だろうが、白い鯨だろうが…、とハーレイは懐かしそうな顔。白いシャングリラが、今でも見えているかのように。
「シャングリラの水筒、そうだったね…。ジュースじゃなくて、お酒だったけど」
お酒を詰めて仕事に行っちゃう仲間が出たら、大変だから…。中身を詰められる場所が決まっていて、自分の部屋からは詰めて行けない仕組み。必ず食堂か休憩室で、って。
あんな決まりを作らなくても、前のぼくなら、お酒なんかは詰めないけれど…。
水筒を持って何処かに行くなら、中身はジュースか紅茶だけれど…。
ぼくはコーヒーも苦手だから、と顔を顰めた。「お酒も駄目だけど、コーヒーも駄目」と。
「お前の場合は、酒を飲んだら酔っ払っちまっていたからなあ…」
ほんのちょっぴり舐めただけでも、真っ赤な顔になっちまうくらいに酒に弱くて。
あれじゃ水筒に酒を入れたら、船の何処かで行き倒れだな。
飲んだら倒れて眠っちまって、俺たちが探しに行く羽目になるんだ。行方不明のソルジャーを。
眠っていたんじゃ、思念波だって返って来ないし、さぞかし苦労したろうさ。探し出すまでに。
お前はそのくらいに酒が駄目だったし、水筒に酒を入れようとも思わなかっただろうが…。
酒好きだった、前の俺なんかになるとだな…。
欲しいと思うこともあった、と語るハーレイ。「水筒にコッソリ詰めてでもな」と。
ブリッジでの勤務が長く続いた日ともなったら、帰り際には一杯やりたい気分だった、と。
「ゼルやブラウと「お疲れ様」と飲むってわけだ」
あの二人もいける口だったしなあ、部屋に戻る前に、ちょいと飲みたいじゃないか。
誰かの部屋へ飲みに行くんじゃ、余計な時間がかかっちまうし…。軽く一杯、一口だけな。
そういう酒が欲しいじゃないか、と今のハーレイは言うのだけれど。
「でも…。お酒なんかは飲んでないでしょ?」
前のハーレイも、ゼルも、ブラウも。…誰かの部屋で飲んではいたって、ブリッジなんかじゃ。
「それがだな…」
やはり大きな声では言えんが、とハーレイがクッと漏らした笑い。教師になった今のハーレイの悪ガキ時代と同じくらいに、大きな声では言えないこと。
前のハーレイが生きた時代に、白いシャングリラのブリッジで起きていた出来事。明らかに遅くなりそうな日には…。
「ゼルがお酒を持ってたの!?」
部屋から持って来てたって言うの、知らん顔してブリッジまで…?
水筒の中身を詰めるんだったら、休憩室か食堂で、って決まっていたのに、それを破って…?
「そうなるな。…決まりは決まりで、ゼルは破っていたことになる」
もちろん百も承知の上で、マントの下にコッソリ隠して持って来ていたな。
酒専用の水筒と言うか、ちょいとレトロなアイテムと言うか…。
ゼルのお手製だぞ、こういうので…。スキットルという名前なんだが。
携帯用の酒の容器だ、歴史はけっこう長くてだな…。
尻ポケットに突っ込んでおくのに都合のいい形に出来てるんだ、とハーレイが両手で示した形。
「こんな厚みで、こう曲がってて…」と教えて貰ったスキットル。
水筒を平たい形に潰して湾曲させたら、それに似た感じになるのだろうか。真鍮で出来ていたという、ゼルお手製のスキットルの形。
見たような気がしないでもない。遠く遥かな時の彼方で、白いシャングリラで。
ハーレイの仕事はまだ終わらないかと、青の間から思念でブリッジを探った時に。
そのスキットルを、マントの下から取り出すゼルを。
遠い記憶を手繰り寄せてみれば、やはり見ていたスキットル。「変わった形の水筒だ」と思って眺めていたのだけれども、注目したのは形だけ。「ゼルの趣味かな?」と。
水筒だけに、中身はゼルの好みのジュースかコーヒーなどだと、前の自分は信じていたのに…。
「あれって、中身はお酒だったの!?」
おまけに今のハーレイの話じゃ、水筒そのものがお酒専用…。
SD体制が始まるよりも、ずっと昔の時代からあったのがスキットルで…。ゼル、そんなものを作っていたんだ…。ブリッジにお酒を持ち込むために…。
「雰囲気ってヤツが大切なんじゃ、とゼルは何度も言ってたぞ」
昔の地球の船乗りたちも、スキットルに酒を入れていたんだ、と。携帯用だから、船乗りだって持っていただろう。…人間が地球しか知らなかったような時代から。
船を操りながら一杯やるならコレに限る、と作って来たのがスキットルだ。
もっとも、ゼルがスキットルを持っていたのは、俺とブラウとゼルだけの秘密だったがな。
エラは知らんぞ、そういうものがあったことさえ。
ゼルのマントの下まで調べちゃいないからな、とハーレイは軽く肩を竦めた。「とても言えん」などと、シャングリラで一番うるさかったエラの名前を挙げて。
「当然じゃない。ブリッジにお酒を持ち込むなんて…。お酒専用の水筒だなんて」
バレたら怒るよ、エラだったら。…眉を吊り上げて、凄い勢いで。
普通の水筒を持って行くのも、全部禁止になっちゃいそう…。飲み物を飲むなら食堂に行くか、休憩室のどちらかで、って決まりが出来て。
エラならきっとそうするよ、と光景が目に浮かぶよう。「今日から水筒は禁止です!」と厳しい顔で宣言するエラ。皆が集まる食堂か何処かで、仁王立ちして。
「お前だって、そう思うだろ? エラは怖いと」
俺もゼルたちも、そいつは充分、分かっていたさ。だからだな…。
バレないように気を付けてたぞ、と前のハーレイたちは用心していたらしい。ゼルがコッソリと持ち込んでいたスキットル。それがバレたら、水筒が禁止になりかねない。シャングリラ中で。
そうならないよう、エラがブリッジから引き揚げない日は、飲めなかった酒。
一杯やりたい気分になっても、どれほど疲れた日であっても。
エラが「お先に」と姿を消してくれたら、「お疲れ様」と回し飲み。スキットルを出して。
前のハーレイたちが飲んでいた酒。白いシャングリラのブリッジで。
ゼルがマントの下に隠したスキットルを出したら、蓋を開けて、順に回していって。
「回し飲みって…。いいんだ、それで…?」
キャプテンと機関長と航海長なのに、ブリッジでお酒…。専用の水筒まで出して…。
そんなのでいいわけ、他のブリッジクルーがいても…?
一番怖いエラにバレなきゃ、水筒の中身がお酒になっちゃってても…?
みんなに示しがつかないんじゃあ…、と心配になった、前のハーレイたちがエラに内緒でやっていたこと。水筒の中に酒を入れて持ち込み、ブリッジで順に回し飲み。
いくら仕事が終わった後でも、ブリッジで酒。しかも水筒の中に仕込んで、船の決まりを破っていたのがゼルなのだから。
「ブリッジのヤツらか? そっちは気付いていないと思うぞ、スキットルなんて」
コアブリッジでは飲んでないからな。…俺たちが飲んでいたのは出口だ、出口。
あそこだったら誰の目にも入るわけがない、と前のハーレイたちは酒を飲む場所も選んでいた。船の航行の中心になるのが、ハーレイたちの席があった中央。コアブリッジと呼ばれた船の心臓。
コアブリッジを囲むようにして、他のクルーたちが配置されていた。操舵を担当する者も。
其処を離れれば、常駐する者は誰もいなかったブリッジという所。白いシャングリラで一番広い公園、その端に浮かぶ「方舟」の名を持つブリッジ自体は、無人の場所が多かった。
仕事が終わればコアブリッジを出て、もうアルコールの匂いも上までは届かない出口の近くで、コッソリと開けるスキットル。…ゼルがマントの下から出して。
それが前のハーレイたちの楽しみ。遅くまで仕事をしていた時には、ブリッジで酒。
「…ぼくにも今日まで内緒だったんだね?」
エラに内緒にしておいたのは、正しいことだと思うけど…。
バレてしまったら、シャングリラ中から水筒が無くなりそうだけど…。でも、前のぼくは…。
其処までうるさくなかったのに、と面白くない。「ぼくにも内緒だっただなんて」と。
「お前が気付かなかっただけだろ、俺もわざわざ話しちゃいないが…」
隠しておこうとも思っちゃいない。だから、お前が見ようと思えば見られた筈だぞ、水筒の中。
実は酒だということくらい…、と言われれば、そんな気もしてきた。
前のハーレイは「見るな」と止めなかったし、ゼルもブラウも何も気にしていなかった。
「ソルジャーに見られているかもしれない」とは、二人とも言わなかったのだから。
ゼルとブラウと、前のハーレイ。ブリッジで酒を飲んでいた三人。
彼らが恐れたのはエラの視線で、ソルジャー・ブルーの目ではなかった。ソルジャー・ブルーに覗き見されたら、どんな悪事も筒抜けなのに。サイオンの目は壁を通すし、サイオンの耳はどんな音でも聞き逃さない。…見聞きしようとしさえしたなら。
(前のぼくの方が、エラよりもずっと簡単に…)
ゼルたちの秘密を知ることが出来た。マントの下のスキットルとか、その中身だとか。
わざわざブリッジまで出向かなくても、青の間から覗くだけでいい。ゼルがマントの下に隠したスキットルを見付け出したら、中身の方は…。
(ハーレイたちの会話を聞いてみるとか、ゼルの部屋を監視してみるだとか…)
そうすれば分かったことだろう。「あの水筒に酒を詰めている」と。
(前のぼく、なんで気付かなかったわけ…?)
ハーレイたちがブリッジでお酒を飲んでいたことに…、と手繰ってみた記憶。前の自分は、どう思ったのか。ゼルたちの怪しい行動を。
(…スキットルっていう名前は知らなかったけど…)
妙な形をした水筒だったら、知っていた。普通の水筒を押し潰したような、平たい水筒。ゼルがマントの下から出すのも、何度もサイオンで見ていたと思う。
けれども、ゼルの趣味だとばかり考えていた。あの水筒の形も、マントの下に隠していたのも。
仕事の途中に飲むのだったら、ブリッジにだって飲み物はある。休憩室から運ぶ時やら、食堂に出前を頼む時やら。多忙な時には、食事もブリッジで摂っていたほど。
(そんな場所だったし、普通の水筒だと、仕事気分が抜けないから、って…)
ゼルが特別に作った水筒、それがスキットルだと信じていた。スキットルの名は知らないで。
マントの下に隠しているのも、仕事とプライベートな時間の切り替えのため。仕事が終わったら出して飲もう、というゼルの考え方だろう、と前の自分は思い込んだ。
(それで話が繋がっちゃうから…)
疑いさえもしなかった、スキットルの中身。
あの水筒の中身は、ゼルが食堂か休憩室で詰めて貰ったものだ、と。
まさか部屋から詰めて来たとは思いもしないし、酒だと気付く筈もない。仕事の後で、ハーレイたちが順に回して飲んでいたって。…その場所にエラの姿が無いのが、常だって。
もう少し気を付けさえしたなら、きっと分かっていたのだろう。スキットルの中身が何なのか。白いシャングリラを預かるキャプテン・ハーレイが、ゼルたちと何を飲んでいたのか。
「…前のぼく、ちょっぴり間抜けだったかも…」
スキットルのことは知っていたのに、変な形の水筒だとしか思ってなくて…。
水筒なんだし、中身はジュースかコーヒーなんだ、って思い込んでて、信じたままで…。
ジュースだったら、仕事の後で回し飲みなんかしないよね…。コーヒーとかでも。
部屋に帰ったらゆっくり飲めるし、休憩室とか食堂に寄ってもいいんだから。
あんな所で飲まなくたって…、と溜息をついた、前の自分の間抜けっぷり。何度も現場を見たというのに、酒だと見抜けなかったのだから。
「そのようだな。…キャプテンが酒を飲んでたのになあ、ブリッジで」
航海長も機関長も一緒に、出口とはいえ、ブリッジで酒だ。…しかも禁止されてる水筒の中身。絶対に酒を入れちゃならん、と決まりも作っていたわけで…。
思い込みとは酷いもんだな、と笑われた。「お前は酒が苦手だったが、間抜けすぎるぞ」と。
「うーん…。ホントに間抜けで、ソルジャー失格…」
ハーレイたちを叱るつもりはないけど、気付かないのは、あんまりだしね。
船のみんなに気を配っているつもりでいたって、お酒にも気付かないようじゃ、駄目だってば。
でも…。前のハーレイたちでも水筒にお酒だったら、今の学校の生徒たち…。
「持って来そうだろ、アルコール入りのジュースってヤツを」
水筒にジュースを入れて来るのを許可した時には、ジュースみたいなふりをして。
背伸びしてみたい年頃なんだし、好奇心の方も一杯だ。「酒というのは、どんな味か」と。
今の俺でも、ちゃんと覚えがあるんだぞ?
悪ガキとはいえ、今は教師になっているような俺でもな。…他のヤツらは言わずもがなだ。
「ジュースは駄目だ」と禁止してても、コッソリと入れて持ってくるのが生徒ってヤツで…。
前の俺たちの時代みたいに、毎日が命懸けの日々じゃないから、余計にな。
決まりを破って、アルコール入りのジュースを飲みたくなるってモンだ、と聞かされた話。今のハーレイの体験談も交えて、水筒とジュースの関係について。
「そうみたい…」
持って来たくもなっちゃうね、それ…。水筒にジュースを入れていいなら。
そういう理由で水筒にジュースは禁止なのか、と納得した。
前のハーレイたちでさえもが、ブリッジでコッソリと飲んでいた酒。ゼルお手製のスキットルという酒専用の水筒に入れて、仕事の後に。
あの船でも水筒に酒だったならば、今の時代の学校だったら、もう充分にありそうなこと。上の学校への進学を控えた最上級生たちが、水筒に酒を忍ばせること。
「どうだ、分かったか?」
水筒にジュースを入れて来るのが、学校で禁止されてる理由。
下の学校だと事情が違うが、ジュースが買える学校に上がっても、駄目な理由は酒なんだ。
前の俺たちみたいな輩は、何処にでもいる。…時代がすっかり変わっちまっても。
それと知らずに、今の俺もやってしまったようだが…、とハーレイは可笑しそうな顔。ブリッジならぬ学校へ酒を持って行ったのが、今のハーレイ。アルコール入りのジュースを水筒に入れて。
「分かったけど…。前のハーレイたちがやってたことは…」
どうなるって言うの、シャングリラの決まりを破ってたんだよ?
前のぼくは気付いていなかったんだし、どうすることも出来ないけれど…。エラが気付いてたら大変なんだよ、ブリッジの中でお酒だなんて。
シャングリラ中の水筒が禁止になっちゃいそうだし、ハーレイたちも凄く叱られそう…。
「時効だ、時効。…何年経ったと思ってるんだ?」
地球がすっかり青くなるほど、とんでもない時が流れた後だぞ。とっくに時効というヤツだ。
それに、酒のせいでヘマをやってはいないしな。俺も、ブラウも、もちろんゼルも。
シャングリラは立派に地球まで行った、と言われたらグウの音も出ない。仕事の後にはコッソリ酒でも、ゼルの水筒の中身が酒でも、前のハーレイたちは役目を果たしたのだから。
それにハーレイは、恋人だった前の自分をメギドで失くしてしまった後は…。
(独りぼっちで辛かったんだし、お酒くらいは…)
大目に見ないといけないだろう。
悲しくて辛くて、眠れない夜も幾つもあったに違いない。それでも夜が明けたら仕事で、制服を着込んでブリッジに立った。シャングリラの指揮を執るために。
夜遅くまで仕事をしたなら、「お疲れ様」とゼルたちと一杯やって別れて、また独りぼっち。
一人きりの部屋に帰る前には、酒くらい飲んでいたっていい。水筒の中に隠した酒でも。
そう思ったから、ハーレイの瞳を真っ直ぐ見詰めて謝った。
「ごめんね、ハーレイ…」
「なんだ、どうした?」
いきなり何を謝ってるんだ、お前、なんにもしてないだろうが。
それともアレか、水筒にジュースを入れていたのか、コッソリと…?
酒なんか入れて行く筈がないし、学校には無いお気に入りのジュース、持ち込んだのか…?
何のジュースだ、とハーレイが勘違いしたものだから、「前のぼくだよ」と俯いた。
「…前のぼく、いなくなっちゃって…。ハーレイを独りぼっちにしちゃって…」
ジョミーを支えてあげてくれ、って言わなかったら、ハーレイの好きに出来たのに…。
前のぼくがハーレイを縛ってしまって、シャングリラを地球まで運ばせちゃって…。
お酒くらい無いといられないよね、独りぼっちで残されちゃったら。ブリッジの仕事が終わった後も、ハーレイは独りぼっちだし…。ゼルのお酒を分けて貰って、息抜きしなくちゃ…。
「馬鹿にするなよ、キャプテン・ハーレイを。…あの時は酒に逃げてはいない」
どんなに辛い毎日だろうが、ブリッジでは普段通りの俺だ。顔にも出しちゃいなかった。
ゼルが「どうじゃ」とスキットルを出しても、「お疲れ様」の一杯程度で終わりだったな。
もっと飲もうとしてはいないぞ、ただの一度も。勝ち戦の時は、ゼルもブラウも御機嫌になって「もうちょっと」などと、二人で飲んでいたもんだが…。俺にも「もっと飲め」とか言って。
しかしだ、前のお前に頼まれたことを果たすためには、俺がきちんと頑張らないと。
勝ち戦で祝勝気分の時でも、コッソリ水筒に隠してあるような酒は、一杯分で充分なんだ。
そして前の俺が地球まで我慢した分、今では酒も飲み放題で…。
青い地球の水で仕込んだ酒だぞ、ゼルが持ってた合成の酒の何万倍も美味いってな。
お前も帰って来てくれたんだし、もう最高の気分で飲める。お前と行きたかった地球の酒をだ。
ただなあ…。その最高に美味いと思っている酒…。
お前と飲めないのが残念だがな、とハーレイが言うものだから。本当に残念そうな顔だから…。
(お酒、やっぱり…)
今度のぼくは飲めるといいな、と心から思う。
前の自分が酒が苦手で、飲むと悪酔いしていたけれど。…ハーレイと飲めはしなかったけれど。
けれど、今度は飲めたらいい。今のハーレイも気に入りの酒を、いつか二人で。
(今のぼくだと、学校に本物のジュースを持って行くのがせいぜいで…)
アルコール入りのジュースなどは絶対に無理だけれども、もっと大きくなったなら。
学校に酒を持っては行かないけれども、前の自分と同じ背丈に育った時には、酒が飲める体質になれたらいいと思ってしまう。
ハーレイと暮らせるようになったら、二人で飲んでみたいから。
「お前と飲めないのが残念だがな」と、ハーレイを寂しそうな顔にさせたくないから。
乾杯をしたり、「お疲れ様」と、ハーレイのグラスに注いだりして、楽しむ酒。
そんな時間が持てたらいい。今も昔も、酒が大好きなハーレイのために。
きっと幸せな時間になるから、ほんの一杯でも酒が飲めたら嬉しい。
「美味しいね」と微笑み交わして、キスを交わして。
青い地球の水で仕込んだ酒を酌み交わしながら、二人きりの時をゆっくり過ごせたならば…。
水筒と中身・了
※白いシャングリラで決められていた、水筒の中身。詰める場所まで指定していたほど。
なのに、ブリッジでコッソリ飲まれていた酒。前のハーレイとゼルとブラウだけの、息抜き。
先月も書いていた通り、ハレブル別館の月2更新は、今月で最後です。
来年の1月からは月に1度の更新、第3月曜のみになります。よろしくお願いします。
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その帰りなんだ、とブルーが眺めた下の学校の生徒たち。学校からの帰りに、バス停から家まで歩く途中で目にした光景。少し前の方を賑やかに歩いてゆく姿。
普段だったら、この時間にはあまり見かけない。遊んでいる子供たちには出会うけれども、下校してゆく子たちの方は。
リュックサックを背負った子供たち。遠足の続きみたいにはしゃいで、笑い合いながら。水筒の中身を飲んだりもして。
(中身、ジュースなんだ…)
驚いたけれど、話の内容からして、水筒に詰まった中身はジュース。自分が通っていた頃は禁止だったけれども、今は許されているのだろうか?
「先生、気が付かなかったね!」
「大丈夫だって言っただろ? バレやしない、って」
先生の近くで飲まなかったら大丈夫だ、と得意そうな顔の男の子。如何にもヤンチャそうな顔。
(…常習犯…)
いつもやってる子供なんだ、とポカンとしてから気が付いた。やっぱり今でも水筒にジュースは駄目なんじゃない、と。
遠足の時も、普段の時も、水筒の中身はお茶か水だけ。下の学校はそういう決まり。
(お茶の種類は決まってないから…)
麦茶の子もいたし、他にも色々。紅茶を入れていた子は知らないけれど…。
(ミルクティーとかでなければ、良かったのかな?)
紅茶も「お茶」には違いないから、たっぷりのミルクと砂糖入りでなければ許されそう。普通に淹れただけの紅茶で、過剰な味付けをしていないなら。
(甘いミルクティーだと、ジュースとおんなじ…)
それを水筒に詰めていたなら、きっと先生に叱られる。「水筒の中身はお茶と水だけ!」と。
(だけど、ジュースを入れてくる子は…)
自分の周りにも何人かいた。常習犯も、「遠足の時だけ」だった友達も。
遠足となれば楽しみたいから、ジュースを詰めたくなるのも分かる。広々とした野原や、視界が開ける山の天辺。其処でお弁当を食べる時には、お供はジュース、と。
(ふふっ…)
今の子たちも、みんな同じ、と微笑みながら帰った家。リュックの子たちを追い抜いて。
制服を脱いで、ダイニングでおやつを頬張りながら考える。さっきのジュースと水筒のこと。
今の学校では遠足に行っていないのだけれど…。
(学校に水筒を持って行くなら…)
ジュースを中に詰めてゆくのは、やっぱり禁止。下の学校の頃と同じに。
食堂でジュースを買うことだったら、許されるのに。お昼休みに飲んでいたって、叱られない。もちろん放課後も、他の短い休み時間でも。
(なんでかな…?)
学校でジュースが売られているのに、禁止されるのが水筒のジュース。買って飲むのも、持ってくるのも同じだろうに。
ジュースの味が変わりはしないし、冷たい温度も保っておける容器が水筒。
(誰も持っては来ないけれどね…)
水筒を持って来ている生徒は、きちんとお茶を詰めてくる。先生に叱られないように。それに、同じジュースを飲むのだったら、水筒に入れて持って来るより買う方がいい。
昼休みと帰りで違うジュースが飲めるし、その時の気分で選びも出来る。どれにしようか悩んでみたり、新しい味に挑戦したり。
(だけど、遠足とかに行くなら…)
水筒にジュースを入れる生徒も現れるだろう。下の学校の子が、今もそうしているように。
今の所は、遠足の予定は無いけれど。…水筒の出番がありそうな行事も。
それでもいつか行くとなったら、ジュースを詰める子は絶対にいる。先生がどんなに「駄目」と言っても、持ち物リストに「ジュースは禁止」と書かれていても。
(水筒のジュース…)
なんで駄目なの、と考えてみても出て来ない答え。
学校に行けばジュースが買えるし、自分だって何度も飲んでいる。お昼休みや、夏の暑い頃には短い休み時間にだって。
なのに水筒にジュースを詰めてゆくのは禁止で、先生にバレたら叱られる。規則を破って詰める子たちは、今も大勢いるというのに。ジュースは人気が高い飲み物で、今は学校でも買えるのに。
分からないよ、と考えながら戻った二階の自分の部屋。おやつを美味しく食べ終えてから。
(水筒の中身…)
お茶でなくても、ジュースでもかまわないように思う。下の学校の頃ならともかく、今の学校の方ならば。
(下の学校だと、ジュースは売っていなくって…)
食堂も無かったほどなのだから、「ジュースは禁止」も分からないではない。水筒の中身として禁止する前に、学校そのものがジュースが飲めない場所だったから。
(小さい子供は、好きなものばかり欲しがるから…)
健康のことなどを考慮した上で、ジュースは禁止だったのだろう。「美味しいから」と甘いものばかり飲んでいたのでは、身体に悪いし、虫歯の原因にもなりそう。
けれども、今の学校は違う。もっと育った子たちが行く場所、義務教育の最終段階。卒業したら十八歳だし、結婚だって許される年。
(自分のことには、自分で責任…)
きちんと考えて行動するよう教えられるし、ジュースを買って飲むのも自由。飲み過ぎないよう注意しながら、自分で好きに選んで買って。
それが許されているというのに、どうして水筒にジュースを詰めては駄目なのだろう。禁止する理由が、いったい何処にあるのだろう…?
(買って飲むのも、水筒に入れて持って行くのも…)
同じなのに、と思えるジュース。
どちらかと言えば、水筒に詰めて家から持って行く方が…。
(健康的だと思うんだけど…)
朝に搾ったオレンジのジュースや、作ったばかりの野菜のジュース。冷やしたままで放課後まで持つし、買ったジュースよりも身体に良さそう。
(食堂でもジュースは売っているけど…)
生徒の数が多いのだから、その場でオレンジを搾ってはいない。野菜ジュースも、沢山の野菜をミキサーで砕いて作ってはいない。店で売られているジュースと同じ種類のジュースで…。
(注文したら、コップに注いでくれるってだけで…)
家で作るのとは全然違う。健康的だと言えそうなのは、家で作ったジュースの方。
考えるほどに、水筒に詰めて持って行く方が良さそうなジュース。野菜ジュースも、オレンジを搾ったジュースでも。その日の間に飲んでしまうなら、きっと傷みはしないから。
(絶対、そっちが良さそうなのに…)
水筒にジュースを詰めてゆくのは禁止で、ジュースは学校で買って飲むもの。なんとも不思議で奇妙な決まり。下の学校ならまだ分かるけれど、今、通っている学校では。
(ハーレイだったら知ってるかな?)
ジュースを詰めてはいけない理由。禁止する方の教師なのだし、知らない方がおかしいだろう。
何故、禁止なのか、訊いてみたいな、と思っていたら聞こえたチャイム。そのハーレイが仕事の帰りに来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、ハーレイ…。水筒にジュースは、なんで駄目なの?」
「はあ? ジュースって…?」
何の話だ、とハーレイは目を丸くした。「水筒がどうかしたのか?」と。
「水筒にジュース…。今日の帰りに、下の学校の子たちを見掛けたんだよ。遠足だったみたい」
みんなリュックを背負っていてね、とても賑やかだったんだけど…。
その子供たちが、水筒にジュースを入れていたんだよ。お茶の代わりに。
水筒にジュースは禁止だったけど、今も禁止のままなんだけど…。それでも入れていた子たち。
ああいうの、今のハーレイも、やった?
ぼくは一度もやってないけど…。ママに頼んだことも無いけど…。
ジュースを入れて欲しいだなんて、と下の学校の頃のことを話して、ハーレイの答えはどうかと待った。水筒にジュースを入れていたのか、規則を守ってお茶や水だったか。
「俺か? 俺が学校に行ってた頃だな、下の学校」
水筒の中身はジュースだったか、そうでないかと訊かれると…。
デカイ声ではとても言えんがなあ…。これでも一応、今は教師というヤツだから。
とはいえ、お前も知っての通りの悪ガキだ。武勇伝は幾つも聞いてるだろう?
その辺で察しがつかないか、とハーレイが浮かべた悪戯っ子のような表情。悪ガキだったという子供時代は、ハーレイだって水筒にジュースを入れていた。
遠足などに行く時ばかりか、普通に登校する日でも。
搾り立てのオレンジジュースでなくても、冷蔵庫にあった市販のジュースの類も。
健康的ではなさそうなジュースも、水筒に入れた子供時代のハーレイ。遠足でなくても、普通の日でも。「ジュースが飲みたい」と思った時には、迷いもしないで。
「それ、駄目なんでしょ。ハーレイが行ってた学校だって」
入れてもいいっていう学校なら、大きな声で話せるものね。「悪ガキだから」って言わなくてもいいし、誰に喋っても良さそうだもの。
そのジュース…。今の学校でも禁止されてるけど、どうしてなの?
ジュースだったら、学校で売られているじゃない。食堂にもあるし、自動販売機だって。
わざわざ水筒に詰めなくっても、いろんなジュースが飲めちゃうよ。昼休みと放課後で違うのを買ったら、水筒で持って行くよりも楽しそうだけど…。水筒だとジュースは一種類だけ。
それに、水筒に詰めるんだったら、健康的なジュースを持って行けるじゃない。家でお母さんが作ってくれたオレンジジュースや、野菜ジュースとかを。
そっちの方が身体に良さそう、とジュースについての意見を述べた。禁止するより、家で作ったジュースの持ち込みを許せばいいのに、と。
そうしたら…。
「ああ、それはな…。お前が言うのも、確かに一理あるんだが…」
ジュースの種類が問題なんだ。水筒に詰める中身ってヤツが。
禁止されてる理由はそれだ、とハーレイが言うから驚いた。家からジュースを持って行く方が、いいことが沢山ありそうなのに。
「えっ、どうして?」
家で作ったジュースだったら、うんと新鮮だし、栄養だってたっぷりだよ?
オレンジジュースなら搾ったばかりで、野菜ジュースもミキサーで作ったばかりなんだし…。
学校の食堂で買えるジュースより、ずっと健康にいいと思うよ。食堂のジュースは、工場とかで作ったジュースをコップに入れてるだけなんだから。
買ったジュースを詰めるにしたって、そっちはそっちで、お小遣いが減らなくなるもんね?
ジュースを買うお金、払わなくてもいいんだもの。家から水筒で持って行ったら。
そうでしょ、ハーレイ?
ジュースの種類が問題だって言うんだったら、決まりを作ればいいじゃない。こういうジュースだったらいい、ってメーカーを指定するだとか…。
その方法なら、市販のジュースも絞り込める。学校の食堂や自動販売機で買えるジュースと同じものだけ、などと指定してやれば。
家で作るジュースは栄養豊富に決まっているから、問題になるのはきっと市販のジュース。味は良くても栄養のバランスが良くないものとか、学校としては勧められないものも多いだろう。
てっきりそうだと思ったけれども、ハーレイは「違うな」と苦笑い。
「下の学校でジュースが禁止な理由は、栄養バランスなんかも絡んでいるんだが…」
お前が通っている学校だと、ちょいと事情が変わってくる。そう単純ではないってな。
栄養面とか、小遣いのことを考えるんなら、ジュースの持ち込みも許してやれるんだが…。
通ってる生徒の顔ぶれってヤツを思ってみろ。一番上の学年だったら、十八歳の子だっている。誕生日が四月のヤツらなんかは、もう早々に十八歳だな、一番上になった途端に。
あの学年が卒業したら、上の学校に行くわけで…。
上の学校に行けば、ちょっぴり大人の仲間入りってことになるだろう?
二十歳になれば大人だからな、とハーレイが言う、今の時代の「成人」の年。二十歳になったら立派な大人で、酒を飲むことも許される。
上の学校には二十歳になった先輩も大勢通っている上、二年も経てば自分たちも二十歳を迎えて大人。そういう学校に入れる時を、間近に控えているものだから…。
一番上の学年の生徒たちの場合は、大人になる日をちょっと先取り、アルコール入りのジュースなんかを飲んでみたくもなるという。
アルコールと言っても、ほんの少しだけ。酔っぱらうほどでもないジュース。
「学校としては、そういうジュースを、水筒に入れて持ってこられちゃ困るしな?」
見た目だけだと、普通のジュースとまるで区別がつかないから…。
元のジュースの入れ物があれば、直ぐに酒だと分かるんだがなあ…。水筒に詰められたら、もう分からん。「ちょっと寄越せ」と、取り上げて味見しない限りは。
だから禁止だ、とハーレイは怖い顔をした。「学校で酒は論外だぞ」と。
「お酒って…。水筒にジュースを入れちゃ駄目なの、そんな理由なの?」
絶対に駄目、って言っておいたら、誰もしないと思うけど…。お酒は二十歳からだもの。
誰でもきちんと知ってることだし、学校になんか持ってこないよ。
ジュースがあったらそれで充分、お酒まで飲もうとしなくたってね。
第一、学校は勉強の場所、と瞳を瞬かせた。其処に酒など持ち込まなくても、飲みたいのならば家でコッソリ飲めばいい、と。
「そう思わない? 家なら、先生にバレて叱られたりもしないし…」
好きな時間に部屋でコッソリ、それが安全。…ぼくは飲みたいとは思わないけれど。
「お前だったら、そうなるのかもしれないが…。馬鹿にしちゃいかんぞ、誘惑ってヤツを」
あと一年で上の学校なんだ、と思い始めたら、飲んでみたくなるヤツらも出てくる。
どうせだったら一人で飲むより、友達と飲みたくなるモンだ。水筒に入れて回し飲みとか、同じ日に揃って持ってくるとか。
どんな味なのか、ワクワクしながら飲むアルコールは格別だってな。…学校って場所で。
先生にバレたら大変なんだが、と話すハーレイは「悪ガキ」のような顔にも見える。今は教師で叱り付ける方の立場にいるのに、それとは逆の立場の悪ガキ。
「…ハーレイ、経験ありそうだね」
学校に水筒を持って出掛けて、中身はお酒が混じったジュース。…下の学校でジュースを入れて行っていたなら、次の学校でも似たようなことをやりそうだけど…?
そういう経験は一度も無いの、と興味津々。「ハーレイなら、やっていそうだよ」と。
「無いとは言わんな、悪ガキだしな?」
駄目だと言われりゃ、余計に挑戦してみたくなる。規則を破るのもスリル満点というヤツで…。
だが、勘違いをしてくれるなよ?
悪さをするのも大好きだったが、やるべきことはきちんとやってた。勉強も、もちろん宿題も。
そういや、水筒にジュースってか…。
同じ理由で禁止だったな、あの船でも。
「船?」
何処の船なの、学校から乗りに行くような船…?
ぼくの学校では行ってないけど、学校によっては色々あるよね。船に乗り込んで、湖を回って、水質検査の体験をしたりする学校とか…。帆船で沖に出て行くだとか。
「体験学習用の船だな、お前が言うのは」
その手の船でも、もちろん水筒にジュースを詰めるのは禁止だろう。
乗っていく子供が下の学校の子でも、お前と同じ学校でも。しかしだな…。
俺が言う船はそれじゃない、とハーレイは穏やかな笑みを浮かべた。「シャングリラだ」と。
「シャングリラと言えば、前の俺たちが乗ってた船だ。…白い鯨だ」
覚えていないか、あの船の決まり。水筒とジュースで何かを思い出さないか…?
「えーっと…?」
シャングリラだよね、白い鯨の方の…。あの船で水筒とジュースって…?
ジュースは食堂に行けば飲めたよ、とキョトンとした。白い鯨に改造する前の船の頃でも、何か飲むなら食堂で注文。「これが飲みたい」と係に言えば、出て来た色々な種類の飲み物。
「基本は食堂、そうでなければ休憩室だな。飲み物が欲しくなった時には」
休憩室にもジュースなんかは揃っていたから、自分で好きに選んで飲めば良かったんだが…。
それが出来ない時もあったろ、休憩室とか食堂に出掛ける時間が無い時。届けて貰うという手もあったが、もっと手軽に飲み物を持って行きたいのなら…。
水筒だったぞ、と挙がった容器の名前。
持ち場に飲み物を運んで行きたい時には、休憩室か食堂で詰めてゆくのがシャングリラの規則。水筒の中身を詰める時には、必ず其処で。…自分の部屋で詰めるのではなくて。
「そうだっけ…!」
水筒、そういう決まりだっけね、白い鯨になった後には。
それまでは、水筒を持って行かなきゃいけないくらいに、大きな船じゃなかったから…。仕事の途中で喉が乾いたら、ちょっと戻って休憩室とか、食堂だとか…。
其処で飲めたよ、と今も覚えている飲み物。改造前の船の頃には、水筒の出番は殆ど無かった。忙しい時に一部の仲間が使っただけで、出番が少ないなら決まりも要らない。
ところが、改造した後の船は、改造前とは比較にならない巨大な船。食堂や休憩室はあっても、其処まで出掛ける時間が惜しい、と思う者やら、持ち場を離れられない者やら。
お蔭で水筒が脚光を浴びた。
持ち場を離れず、食事する者も少なくなかったから。メンテナンスなどに入った時は。
それに機関部など、高温になる区画も増えた。船が大きくなった分だけ。
食堂や休憩室に足を運ばず、何処ででも水分を摂れる水筒。飲みたい時に蓋を開ければ、欲しい量だけ飲むことが出来る。紅茶だろうがコーヒーだろうが、ジュースだろうが。
けれど、水筒には決まりがあった。白いシャングリラだけのための規則が。
水筒を持って出掛けてゆくなら、自分の部屋では詰められない中身。ジュースにしても、紅茶やコーヒーにしても。
中身は必ず、食堂や休憩室で詰めてゆくこと。普通の飲み物を入れる代わりに、仕事中には禁止されている酒を詰められたら大変だから。
合成の酒しか無かった船でも、酒は酒。飲みたい仲間は少なくないし、水筒という便利な容器が出来れば、持ち運びたい者も現れかねない。「仕事中にも一杯やろう」と。
「俺が思うに、今も昔も変わっちゃいないな、其処の所は」
水筒にジュースを入れちゃいかん、と言っておかないと、アルコール入りのジュースを持ち込む生徒が出ちまう学校だとか…。
中身を詰めるなら食堂と休憩室にしろ、と規則を作って決めておかないと、自分の持ち場で酒を飲みかねないヤツらが乗ってた船だとか。
ずいぶん時が流れちまって、地球がすっかり青くなっても、水筒の中身は変わらないらしい。
決まりが無ければ、ろくでもないことを考え付くヤツらがいるってこった。
学校だろうが、白い鯨だろうが…、とハーレイは懐かしそうな顔。白いシャングリラが、今でも見えているかのように。
「シャングリラの水筒、そうだったね…。ジュースじゃなくて、お酒だったけど」
お酒を詰めて仕事に行っちゃう仲間が出たら、大変だから…。中身を詰められる場所が決まっていて、自分の部屋からは詰めて行けない仕組み。必ず食堂か休憩室で、って。
あんな決まりを作らなくても、前のぼくなら、お酒なんかは詰めないけれど…。
水筒を持って何処かに行くなら、中身はジュースか紅茶だけれど…。
ぼくはコーヒーも苦手だから、と顔を顰めた。「お酒も駄目だけど、コーヒーも駄目」と。
「お前の場合は、酒を飲んだら酔っ払っちまっていたからなあ…」
ほんのちょっぴり舐めただけでも、真っ赤な顔になっちまうくらいに酒に弱くて。
あれじゃ水筒に酒を入れたら、船の何処かで行き倒れだな。
飲んだら倒れて眠っちまって、俺たちが探しに行く羽目になるんだ。行方不明のソルジャーを。
眠っていたんじゃ、思念波だって返って来ないし、さぞかし苦労したろうさ。探し出すまでに。
お前はそのくらいに酒が駄目だったし、水筒に酒を入れようとも思わなかっただろうが…。
酒好きだった、前の俺なんかになるとだな…。
欲しいと思うこともあった、と語るハーレイ。「水筒にコッソリ詰めてでもな」と。
ブリッジでの勤務が長く続いた日ともなったら、帰り際には一杯やりたい気分だった、と。
「ゼルやブラウと「お疲れ様」と飲むってわけだ」
あの二人もいける口だったしなあ、部屋に戻る前に、ちょいと飲みたいじゃないか。
誰かの部屋へ飲みに行くんじゃ、余計な時間がかかっちまうし…。軽く一杯、一口だけな。
そういう酒が欲しいじゃないか、と今のハーレイは言うのだけれど。
「でも…。お酒なんかは飲んでないでしょ?」
前のハーレイも、ゼルも、ブラウも。…誰かの部屋で飲んではいたって、ブリッジなんかじゃ。
「それがだな…」
やはり大きな声では言えんが、とハーレイがクッと漏らした笑い。教師になった今のハーレイの悪ガキ時代と同じくらいに、大きな声では言えないこと。
前のハーレイが生きた時代に、白いシャングリラのブリッジで起きていた出来事。明らかに遅くなりそうな日には…。
「ゼルがお酒を持ってたの!?」
部屋から持って来てたって言うの、知らん顔してブリッジまで…?
水筒の中身を詰めるんだったら、休憩室か食堂で、って決まっていたのに、それを破って…?
「そうなるな。…決まりは決まりで、ゼルは破っていたことになる」
もちろん百も承知の上で、マントの下にコッソリ隠して持って来ていたな。
酒専用の水筒と言うか、ちょいとレトロなアイテムと言うか…。
ゼルのお手製だぞ、こういうので…。スキットルという名前なんだが。
携帯用の酒の容器だ、歴史はけっこう長くてだな…。
尻ポケットに突っ込んでおくのに都合のいい形に出来てるんだ、とハーレイが両手で示した形。
「こんな厚みで、こう曲がってて…」と教えて貰ったスキットル。
水筒を平たい形に潰して湾曲させたら、それに似た感じになるのだろうか。真鍮で出来ていたという、ゼルお手製のスキットルの形。
見たような気がしないでもない。遠く遥かな時の彼方で、白いシャングリラで。
ハーレイの仕事はまだ終わらないかと、青の間から思念でブリッジを探った時に。
そのスキットルを、マントの下から取り出すゼルを。
遠い記憶を手繰り寄せてみれば、やはり見ていたスキットル。「変わった形の水筒だ」と思って眺めていたのだけれども、注目したのは形だけ。「ゼルの趣味かな?」と。
水筒だけに、中身はゼルの好みのジュースかコーヒーなどだと、前の自分は信じていたのに…。
「あれって、中身はお酒だったの!?」
おまけに今のハーレイの話じゃ、水筒そのものがお酒専用…。
SD体制が始まるよりも、ずっと昔の時代からあったのがスキットルで…。ゼル、そんなものを作っていたんだ…。ブリッジにお酒を持ち込むために…。
「雰囲気ってヤツが大切なんじゃ、とゼルは何度も言ってたぞ」
昔の地球の船乗りたちも、スキットルに酒を入れていたんだ、と。携帯用だから、船乗りだって持っていただろう。…人間が地球しか知らなかったような時代から。
船を操りながら一杯やるならコレに限る、と作って来たのがスキットルだ。
もっとも、ゼルがスキットルを持っていたのは、俺とブラウとゼルだけの秘密だったがな。
エラは知らんぞ、そういうものがあったことさえ。
ゼルのマントの下まで調べちゃいないからな、とハーレイは軽く肩を竦めた。「とても言えん」などと、シャングリラで一番うるさかったエラの名前を挙げて。
「当然じゃない。ブリッジにお酒を持ち込むなんて…。お酒専用の水筒だなんて」
バレたら怒るよ、エラだったら。…眉を吊り上げて、凄い勢いで。
普通の水筒を持って行くのも、全部禁止になっちゃいそう…。飲み物を飲むなら食堂に行くか、休憩室のどちらかで、って決まりが出来て。
エラならきっとそうするよ、と光景が目に浮かぶよう。「今日から水筒は禁止です!」と厳しい顔で宣言するエラ。皆が集まる食堂か何処かで、仁王立ちして。
「お前だって、そう思うだろ? エラは怖いと」
俺もゼルたちも、そいつは充分、分かっていたさ。だからだな…。
バレないように気を付けてたぞ、と前のハーレイたちは用心していたらしい。ゼルがコッソリと持ち込んでいたスキットル。それがバレたら、水筒が禁止になりかねない。シャングリラ中で。
そうならないよう、エラがブリッジから引き揚げない日は、飲めなかった酒。
一杯やりたい気分になっても、どれほど疲れた日であっても。
エラが「お先に」と姿を消してくれたら、「お疲れ様」と回し飲み。スキットルを出して。
前のハーレイたちが飲んでいた酒。白いシャングリラのブリッジで。
ゼルがマントの下に隠したスキットルを出したら、蓋を開けて、順に回していって。
「回し飲みって…。いいんだ、それで…?」
キャプテンと機関長と航海長なのに、ブリッジでお酒…。専用の水筒まで出して…。
そんなのでいいわけ、他のブリッジクルーがいても…?
一番怖いエラにバレなきゃ、水筒の中身がお酒になっちゃってても…?
みんなに示しがつかないんじゃあ…、と心配になった、前のハーレイたちがエラに内緒でやっていたこと。水筒の中に酒を入れて持ち込み、ブリッジで順に回し飲み。
いくら仕事が終わった後でも、ブリッジで酒。しかも水筒の中に仕込んで、船の決まりを破っていたのがゼルなのだから。
「ブリッジのヤツらか? そっちは気付いていないと思うぞ、スキットルなんて」
コアブリッジでは飲んでないからな。…俺たちが飲んでいたのは出口だ、出口。
あそこだったら誰の目にも入るわけがない、と前のハーレイたちは酒を飲む場所も選んでいた。船の航行の中心になるのが、ハーレイたちの席があった中央。コアブリッジと呼ばれた船の心臓。
コアブリッジを囲むようにして、他のクルーたちが配置されていた。操舵を担当する者も。
其処を離れれば、常駐する者は誰もいなかったブリッジという所。白いシャングリラで一番広い公園、その端に浮かぶ「方舟」の名を持つブリッジ自体は、無人の場所が多かった。
仕事が終わればコアブリッジを出て、もうアルコールの匂いも上までは届かない出口の近くで、コッソリと開けるスキットル。…ゼルがマントの下から出して。
それが前のハーレイたちの楽しみ。遅くまで仕事をしていた時には、ブリッジで酒。
「…ぼくにも今日まで内緒だったんだね?」
エラに内緒にしておいたのは、正しいことだと思うけど…。
バレてしまったら、シャングリラ中から水筒が無くなりそうだけど…。でも、前のぼくは…。
其処までうるさくなかったのに、と面白くない。「ぼくにも内緒だっただなんて」と。
「お前が気付かなかっただけだろ、俺もわざわざ話しちゃいないが…」
隠しておこうとも思っちゃいない。だから、お前が見ようと思えば見られた筈だぞ、水筒の中。
実は酒だということくらい…、と言われれば、そんな気もしてきた。
前のハーレイは「見るな」と止めなかったし、ゼルもブラウも何も気にしていなかった。
「ソルジャーに見られているかもしれない」とは、二人とも言わなかったのだから。
ゼルとブラウと、前のハーレイ。ブリッジで酒を飲んでいた三人。
彼らが恐れたのはエラの視線で、ソルジャー・ブルーの目ではなかった。ソルジャー・ブルーに覗き見されたら、どんな悪事も筒抜けなのに。サイオンの目は壁を通すし、サイオンの耳はどんな音でも聞き逃さない。…見聞きしようとしさえしたなら。
(前のぼくの方が、エラよりもずっと簡単に…)
ゼルたちの秘密を知ることが出来た。マントの下のスキットルとか、その中身だとか。
わざわざブリッジまで出向かなくても、青の間から覗くだけでいい。ゼルがマントの下に隠したスキットルを見付け出したら、中身の方は…。
(ハーレイたちの会話を聞いてみるとか、ゼルの部屋を監視してみるだとか…)
そうすれば分かったことだろう。「あの水筒に酒を詰めている」と。
(前のぼく、なんで気付かなかったわけ…?)
ハーレイたちがブリッジでお酒を飲んでいたことに…、と手繰ってみた記憶。前の自分は、どう思ったのか。ゼルたちの怪しい行動を。
(…スキットルっていう名前は知らなかったけど…)
妙な形をした水筒だったら、知っていた。普通の水筒を押し潰したような、平たい水筒。ゼルがマントの下から出すのも、何度もサイオンで見ていたと思う。
けれども、ゼルの趣味だとばかり考えていた。あの水筒の形も、マントの下に隠していたのも。
仕事の途中に飲むのだったら、ブリッジにだって飲み物はある。休憩室から運ぶ時やら、食堂に出前を頼む時やら。多忙な時には、食事もブリッジで摂っていたほど。
(そんな場所だったし、普通の水筒だと、仕事気分が抜けないから、って…)
ゼルが特別に作った水筒、それがスキットルだと信じていた。スキットルの名は知らないで。
マントの下に隠しているのも、仕事とプライベートな時間の切り替えのため。仕事が終わったら出して飲もう、というゼルの考え方だろう、と前の自分は思い込んだ。
(それで話が繋がっちゃうから…)
疑いさえもしなかった、スキットルの中身。
あの水筒の中身は、ゼルが食堂か休憩室で詰めて貰ったものだ、と。
まさか部屋から詰めて来たとは思いもしないし、酒だと気付く筈もない。仕事の後で、ハーレイたちが順に回して飲んでいたって。…その場所にエラの姿が無いのが、常だって。
もう少し気を付けさえしたなら、きっと分かっていたのだろう。スキットルの中身が何なのか。白いシャングリラを預かるキャプテン・ハーレイが、ゼルたちと何を飲んでいたのか。
「…前のぼく、ちょっぴり間抜けだったかも…」
スキットルのことは知っていたのに、変な形の水筒だとしか思ってなくて…。
水筒なんだし、中身はジュースかコーヒーなんだ、って思い込んでて、信じたままで…。
ジュースだったら、仕事の後で回し飲みなんかしないよね…。コーヒーとかでも。
部屋に帰ったらゆっくり飲めるし、休憩室とか食堂に寄ってもいいんだから。
あんな所で飲まなくたって…、と溜息をついた、前の自分の間抜けっぷり。何度も現場を見たというのに、酒だと見抜けなかったのだから。
「そのようだな。…キャプテンが酒を飲んでたのになあ、ブリッジで」
航海長も機関長も一緒に、出口とはいえ、ブリッジで酒だ。…しかも禁止されてる水筒の中身。絶対に酒を入れちゃならん、と決まりも作っていたわけで…。
思い込みとは酷いもんだな、と笑われた。「お前は酒が苦手だったが、間抜けすぎるぞ」と。
「うーん…。ホントに間抜けで、ソルジャー失格…」
ハーレイたちを叱るつもりはないけど、気付かないのは、あんまりだしね。
船のみんなに気を配っているつもりでいたって、お酒にも気付かないようじゃ、駄目だってば。
でも…。前のハーレイたちでも水筒にお酒だったら、今の学校の生徒たち…。
「持って来そうだろ、アルコール入りのジュースってヤツを」
水筒にジュースを入れて来るのを許可した時には、ジュースみたいなふりをして。
背伸びしてみたい年頃なんだし、好奇心の方も一杯だ。「酒というのは、どんな味か」と。
今の俺でも、ちゃんと覚えがあるんだぞ?
悪ガキとはいえ、今は教師になっているような俺でもな。…他のヤツらは言わずもがなだ。
「ジュースは駄目だ」と禁止してても、コッソリと入れて持ってくるのが生徒ってヤツで…。
前の俺たちの時代みたいに、毎日が命懸けの日々じゃないから、余計にな。
決まりを破って、アルコール入りのジュースを飲みたくなるってモンだ、と聞かされた話。今のハーレイの体験談も交えて、水筒とジュースの関係について。
「そうみたい…」
持って来たくもなっちゃうね、それ…。水筒にジュースを入れていいなら。
そういう理由で水筒にジュースは禁止なのか、と納得した。
前のハーレイたちでさえもが、ブリッジでコッソリと飲んでいた酒。ゼルお手製のスキットルという酒専用の水筒に入れて、仕事の後に。
あの船でも水筒に酒だったならば、今の時代の学校だったら、もう充分にありそうなこと。上の学校への進学を控えた最上級生たちが、水筒に酒を忍ばせること。
「どうだ、分かったか?」
水筒にジュースを入れて来るのが、学校で禁止されてる理由。
下の学校だと事情が違うが、ジュースが買える学校に上がっても、駄目な理由は酒なんだ。
前の俺たちみたいな輩は、何処にでもいる。…時代がすっかり変わっちまっても。
それと知らずに、今の俺もやってしまったようだが…、とハーレイは可笑しそうな顔。ブリッジならぬ学校へ酒を持って行ったのが、今のハーレイ。アルコール入りのジュースを水筒に入れて。
「分かったけど…。前のハーレイたちがやってたことは…」
どうなるって言うの、シャングリラの決まりを破ってたんだよ?
前のぼくは気付いていなかったんだし、どうすることも出来ないけれど…。エラが気付いてたら大変なんだよ、ブリッジの中でお酒だなんて。
シャングリラ中の水筒が禁止になっちゃいそうだし、ハーレイたちも凄く叱られそう…。
「時効だ、時効。…何年経ったと思ってるんだ?」
地球がすっかり青くなるほど、とんでもない時が流れた後だぞ。とっくに時効というヤツだ。
それに、酒のせいでヘマをやってはいないしな。俺も、ブラウも、もちろんゼルも。
シャングリラは立派に地球まで行った、と言われたらグウの音も出ない。仕事の後にはコッソリ酒でも、ゼルの水筒の中身が酒でも、前のハーレイたちは役目を果たしたのだから。
それにハーレイは、恋人だった前の自分をメギドで失くしてしまった後は…。
(独りぼっちで辛かったんだし、お酒くらいは…)
大目に見ないといけないだろう。
悲しくて辛くて、眠れない夜も幾つもあったに違いない。それでも夜が明けたら仕事で、制服を着込んでブリッジに立った。シャングリラの指揮を執るために。
夜遅くまで仕事をしたなら、「お疲れ様」とゼルたちと一杯やって別れて、また独りぼっち。
一人きりの部屋に帰る前には、酒くらい飲んでいたっていい。水筒の中に隠した酒でも。
そう思ったから、ハーレイの瞳を真っ直ぐ見詰めて謝った。
「ごめんね、ハーレイ…」
「なんだ、どうした?」
いきなり何を謝ってるんだ、お前、なんにもしてないだろうが。
それともアレか、水筒にジュースを入れていたのか、コッソリと…?
酒なんか入れて行く筈がないし、学校には無いお気に入りのジュース、持ち込んだのか…?
何のジュースだ、とハーレイが勘違いしたものだから、「前のぼくだよ」と俯いた。
「…前のぼく、いなくなっちゃって…。ハーレイを独りぼっちにしちゃって…」
ジョミーを支えてあげてくれ、って言わなかったら、ハーレイの好きに出来たのに…。
前のぼくがハーレイを縛ってしまって、シャングリラを地球まで運ばせちゃって…。
お酒くらい無いといられないよね、独りぼっちで残されちゃったら。ブリッジの仕事が終わった後も、ハーレイは独りぼっちだし…。ゼルのお酒を分けて貰って、息抜きしなくちゃ…。
「馬鹿にするなよ、キャプテン・ハーレイを。…あの時は酒に逃げてはいない」
どんなに辛い毎日だろうが、ブリッジでは普段通りの俺だ。顔にも出しちゃいなかった。
ゼルが「どうじゃ」とスキットルを出しても、「お疲れ様」の一杯程度で終わりだったな。
もっと飲もうとしてはいないぞ、ただの一度も。勝ち戦の時は、ゼルもブラウも御機嫌になって「もうちょっと」などと、二人で飲んでいたもんだが…。俺にも「もっと飲め」とか言って。
しかしだ、前のお前に頼まれたことを果たすためには、俺がきちんと頑張らないと。
勝ち戦で祝勝気分の時でも、コッソリ水筒に隠してあるような酒は、一杯分で充分なんだ。
そして前の俺が地球まで我慢した分、今では酒も飲み放題で…。
青い地球の水で仕込んだ酒だぞ、ゼルが持ってた合成の酒の何万倍も美味いってな。
お前も帰って来てくれたんだし、もう最高の気分で飲める。お前と行きたかった地球の酒をだ。
ただなあ…。その最高に美味いと思っている酒…。
お前と飲めないのが残念だがな、とハーレイが言うものだから。本当に残念そうな顔だから…。
(お酒、やっぱり…)
今度のぼくは飲めるといいな、と心から思う。
前の自分が酒が苦手で、飲むと悪酔いしていたけれど。…ハーレイと飲めはしなかったけれど。
けれど、今度は飲めたらいい。今のハーレイも気に入りの酒を、いつか二人で。
(今のぼくだと、学校に本物のジュースを持って行くのがせいぜいで…)
アルコール入りのジュースなどは絶対に無理だけれども、もっと大きくなったなら。
学校に酒を持っては行かないけれども、前の自分と同じ背丈に育った時には、酒が飲める体質になれたらいいと思ってしまう。
ハーレイと暮らせるようになったら、二人で飲んでみたいから。
「お前と飲めないのが残念だがな」と、ハーレイを寂しそうな顔にさせたくないから。
乾杯をしたり、「お疲れ様」と、ハーレイのグラスに注いだりして、楽しむ酒。
そんな時間が持てたらいい。今も昔も、酒が大好きなハーレイのために。
きっと幸せな時間になるから、ほんの一杯でも酒が飲めたら嬉しい。
「美味しいね」と微笑み交わして、キスを交わして。
青い地球の水で仕込んだ酒を酌み交わしながら、二人きりの時をゆっくり過ごせたならば…。
水筒と中身・了
※白いシャングリラで決められていた、水筒の中身。詰める場所まで指定していたほど。
なのに、ブリッジでコッソリ飲まれていた酒。前のハーレイとゼルとブラウだけの、息抜き。
先月も書いていた通り、ハレブル別館の月2更新は、今月で最後です。
来年の1月からは月に1度の更新、第3月曜のみになります。よろしくお願いします。
(んーと…)
たまにはこっちに行ってみよう、とブルーが曲がった道。学校からの帰りに、バス停から家まで歩く途中で。
いつもの道とは違うけれども、そちらに行っても家には帰れる。少し遠回りになるけれど。
(ハーレイが仕事の帰りに来てくれるとしても、まだ早いから…)
時間はたっぷり余裕がある筈。回り道してから家に帰って、のんびりおやつを食べていたって。
だから安心、家の近くを散歩しようという気分。天気が良くて綺麗な青空、心地良い気温。
(こんな日は散歩したくもなるよね?)
帰るついでに、と歩き始めた普段とはまるで違う道。知らない場所とは言わないけれど、滅多に通らない道を歩いてゆくから、何を見たって新鮮な感じ。
あちこちキョロキョロ眺め回して、目に付いた花を観察したり、出て来た犬に手を振ったり。
(ホントに、いつもと全然違う…)
道沿いの家も、庭の木なども。面白いから、もっと色々見たくなる。「次はこっち」と行きたい方へと角を曲がって、どんどん家から離れていって。
下の学校に通っていた頃は、この辺りでもよく遊んだ。友達の家まで行く途中だとか、公園から何処かへ行く時などに。
(犬と遊んだこともあったし…)
おやつを貰ったこともある。何人かで賑やかに歩いていたら、「丁度良かった」と、焼き立てのクッキーをくれた奥さん。「沢山作ったから、持って行ってね」と。
(他にも色々…)
思い出が一杯、と歩いてゆく道。転んで泣いてしまった場所やら、友達の家に続く道やら。
(こっちに行ったら…)
着くんだけどな、と友達の顔が浮かぶけれども、出掛けて行ったら、きっと帰して貰えない。
「上がって行けよ」と引き止められて、制服のままで家に上がって、おやつを食べて、遊んだりしてアッと言う間に時間が経って…。
(家に帰ったら、ママが「ハーレイ先生がいらしてたわよ」って…)
そのハーレイは、とっくに帰ってしまった後。「なんだ、留守か」と、ガレージに停めておいた車の方へと戻って行って。エンジンをかけて、そのまま自分の家に向かって。
それは困るから、友達の家の方には行かない。途中でバッタリ出会ったとしたら、「来いよ」と誘われてしまうから。誘われたならば断われなくて、家に上がって時間が経って…。
楽しく遊んで家に帰ったら、「帰った後」かもしれないハーレイ。そんなのは困る。
(君子危うきに近寄らず…)
そう言うものね、と別の方へと角を曲がって、家に繋がる道に入った。遠回りしたから、バス停から直接家に帰るのとは逆の方向。そっちから歩いて家へと向かう。
(反対側から歩いて行くと…)
家の見え方も変わっちゃうよ、と馴染んだ我が家を目指して歩いて…。
(ちょっぴりだったけど、立派に散歩!)
帰りに沢山歩いちゃった、と門扉を開けて庭に入った。いつもの何倍歩いただろう、と表の道を振り返りながら。二倍くらいでは、きっと足りない。三倍、もっと歩いただろうか?
制服を脱いで、ダイニングでおやつを食べる間も、庭を眺めて上機嫌。
「あっちの方から帰って来たよ」と、帰りに歩いた方の生垣などを眺めて。
(いつもは真っ直ぐ帰って来るけど、今日は散歩をしてたから…)
健康にもいいことだろう。ほんの少しの距離にしたって、普段よりも多めに歩いたのだから。
ハーレイのようにジョギングするのは無理でも、散歩も身体にいい影響を与える筈。足を動かす筋肉を使って、前へ前へと進んでゆくのだから。
(散歩も運動の内だよね?)
身体に負担をかけない運動。自分のように弱い身体でも、無理なく出来る運動が散歩。運動した分、背が伸びるといいな、と考えたりも。
(ぼくの背、ちっとも伸びてくれなくて…)
チビのまんま、と零れる溜息。
前の自分と同じ背丈に育たない限り、ハーレイはキスをしてくれない。恋人同士の唇へのキスは貰えないままで、キスは額と頬にだけ。
それが悔しくて、とても悲しくて、早く大きくなりたいのに…。
(一ミリも伸びてくれないんだよ…!)
ハーレイと再会した五月の三日から、まるで伸びてはくれない背丈。百五十センチのままで春も夏も過ぎて、制服も小さくならなくて…。
いつまでもチビでいたくはない。少しでも早く背を伸ばしたい。あと二十センチ。
(今日の散歩で、背が伸びるかな?)
伸びるといいな、と考えながら戻った二階の自分の部屋。空になったカップやケーキのお皿を、キッチンの母に返してから。
(帰りに余計に歩いた分だけ…)
運動したよ、と勉強机の前に座って、歩いた道を思い出す。新鮮に思えた帰り道の散歩。景色も道順も、何もかもが。
あれだけ歩いて運動をして、家に帰ったらおやつも食べた。きっと身体の栄養になるし、背丈も伸びてくれるかもしれない。散歩という名の軽い運動と、おやつの分だけ。
(散歩は身体にいいんだものね)
きちんと歩けば育つんだよ、と思った所で気が付いた。そういう言葉を前に聞いたよ、と。
(ブラウとエラ…)
遠く遥かな時の彼方で、まだ若かった彼女たちに言われた。「散歩は身体にいいのだから」と。前の自分が、今の自分と変わらない姿のチビだった時に。
アルタミラの檻で長く暮らした前の自分は、心も身体も成長を止めてしまっていた。本当の年はブラウたちよりも遥かに上で、子供などではなかったのに。
(だけど、育っても何もいいことは無いし…)
人体実験だけの日々では、未来も希望も見えては来ない。自分でも気付いていなかったけれど、深い絶望に覆われた心は、「育ってゆく」ことを放棄した。身体を「育ててゆく」ことも。
外見の年齢を止めることが出来るミュウの特性、それが悪い方へと働いた結果。成長するより、「今のままで」と考えた心。
(十四歳の誕生日が来たから、成人検査で…)
大人の社会へ旅立つのだ、と前の自分も考えた筈。順調に育って来たからこその成人検査。
けれども、其処で失くした「未来」。成人検査をパスする代わりに、ミュウと判断された自分。
(…育たなかったら、成人検査を受けることもなくて…)
地獄のような日々が始まることも無かったわけだし、「育つ」ことを捨てもするだろう。一人で檻に閉じ込められて、人体実験ばかりの日々では。
来る日も来る日も苦しみばかりで、未来など見えもしない中では、育つだけ無駄。
前の自分は育つことをやめて、心も育ちはしなかった。「脱出しよう」とも思わないまま、檻の中に蹲っていたというだけ。研究施設で誰よりも長く暮らしていたのに、子供のままで。
ブラウやエラや、前のハーレイたちは、成長を止めはしなかったのに。
成人検査を通過できずに檻に入れられても、酷い実験を繰り返されても、彼らは「諦める」道を選ばなかった。「いつか必ず此処を出てやる」と、見えもしない「未来」を見詰め続けて。
彼らはそうして成長したから、前の自分と出会った時には「子供がいる」と思ったらしい。成人検査を受けて間もない、十四歳になったばかりの子供なのだ、と。
(あの船の中で、ぼくだけがチビで…)
子供として可愛がられる間に、本当のことが判明した。「心も身体も子供だけれども、実年齢は船の誰よりも上だ」ということが。
そうなった理由に、前のハーレイたちは直ぐに気付いて、前の自分を育てることに力を入れた。これからは未来も希望もあるから、「大きく育ってゆかないと」と。
(育つためには、運動しなきゃ、って…)
ブラウとエラに、船の中を散歩に連れてゆかれた。「運動するのが一番だよ」と、選んで貰った運動が「散歩」。今と同じに弱い身体だから、無理なく運動するなら「散歩」がいいだろうと。
白い鯨になる前の船は、「シャングリラ」と言っても名前だけの楽園。
公園も無ければ、緑さえも無かったような船。散歩に出掛けてゆくと言っても、船の中を歩いてゆくだけのことで、通路を辿って進むだけ。「次はこっち」と曲がったりして。
ずいぶん味気ない散歩だけれども、あれも散歩には違いなかった。幾つものフロアを順に回って歩いた時やら、船で一番長い通路を何度も往復した時やら。
(ブラウたちと散歩をしてる間に、育ち始めて…)
再び成長を始めた身体。少しずつ背が伸び、チビの子供から、いつしか大人の姿へと。
散歩のお蔭で大きくなれたし、今日の散歩もきっと効果があるのだろう、と思ったけれど。背が伸びるかも、と夢を描いたけれど…。
(そんなに沢山、歩いてないよ…)
今日のぼくは、と散歩した距離を考えてみたら分かったこと。前の自分が散歩した距離、それに比べれば僅かなものだ、と。
白い鯨ではなかった頃でも、充分に大きかった船。大勢の仲間が暮らしていた船。
あの頃にしていた散歩の分を、家の近くで歩くなら…。
(…公園の方まで行かなくちゃ駄目?)
其処まで行ったら遠すぎるから、と行かずに帰って来た公園。夏休みの間は、朝に体操をやっているほどだから、公園としては大きい部類。大勢の人が一度に体操出来る広さがある公園。
その辺りまで行って来ないと足りないらしい、と気付いた散歩の距離。軽い運動と言える散歩をするのだったら、今日の散歩は充分ではない。もっと遠くまで行かないと。
けれど、いくら近所で散歩と言っても、一人でトコトコ歩いてゆくのは…。
(きっと途中で飽きてしまうし、ハーレイだって…)
前に「散歩に行こう」と誘ったら、「それはデートだ」と断られた。恋人同士で散歩するなら、デートということになるらしい。家の近所を歩くだけでも。
そうやって断られてしまわなければ、一緒に歩いて欲しかったのに。
今日は行かずに帰った公園、そっちの方まで行くだとか。もっと遠くの川の方まで、休みながら歩いてゆくだとか。…川に着いたら河原で休憩、帰りも散歩で、歩いて家まで。
前の自分がしていた散歩は、川までの散歩には敵わなくても、公園までなら充分にあった。毎日ブラウやエラと歩いて、大きく育っていったのだから…。
(今のぼくって、運動不足…)
明らかに足りていない運動。前の自分がチビだった頃に比べたら。
それで自分は、いくら経っても育たないのに違いない。運動の量が足りないせいで、チビのまま伸びてくれない背丈。
(これじゃ大きくなれないよ…)
そうは思っても、一人で散歩はつまらない。歩く距離が長くなればなるほど。
おまけに、一人で歩く間に、ウッカリ友達に出会ったら…。
(遊んで行けよ、って…)
そのまま家に連れて行かれて、ゲームをするとか、一緒におやつを食べるとか。友達によっては家にペットがいたりもするから、夢中で遊んでいる内に…。
(すっかり遅くなっちゃって…)
「さよなら!」と手を振って家に帰ったら、母に言われるかもしれない。ハーレイが家に来て、「ブルー君はお留守ですか」と、帰って行ってしまった、と。
散歩に出掛けて行ってそのまま、いつまで経っても家に戻らなかったのだから。
一人で散歩は、つまらない上に危険が一杯。友達と遊ぶのは楽しいけれども、ハーレイと二人で過ごせる方がずっといい。毎日のように来てくれるとは限らないから、その分、余計に。
(散歩に出掛けて、そのまま留守にしちゃうよりかは…)
ハーレイを巻き込むべきだろう。前は「駄目だ」と言われた散歩に、ハーレイも一緒に出掛けてくれるようにと、きちんと頼んで。
(デートじゃなくって、運動なんだし…)
断られないかも、という気がする。前に散歩に誘った時には、運動の話を出してはいない。あの時は散歩に行きたかっただけで、「ハーレイと二人で歩く」ことが目当て。二人並んで、いろんな話をしたりしながら。
(ただ歩きたいって言うのと、運動したいって言うのとでは…)
ずいぶん違う、と自分でも分かる。運動だったら、ハーレイは乗り気になるかもしれない。
(夏休みに公園でやってた体操…)
「行きたいんだったら、付き合うが?」と誘われたことを覚えている。毎朝、家まで迎えに来るとも言っていた。朝の体操に出掛けるのなら。
(もしも体操に行っていたなら、毎朝、公園まで二人で散歩…)
行きも帰りも二人で歩いて、公園に着いたら他の人たちも一緒に体操。「健康的だぞ」と勧めていたハーレイだし、運動のための散歩となったら、断らない可能性だって。
(頼んでみなきゃね…?)
ハーレイが来てくれた時に、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。
「あのね、ハーレイ…。散歩に連れて行って欲しいんだけど」
ぼくのお願い。ぼくと一緒に散歩をしてよ。この家の近くだけでいいから。
「はあ? 散歩って…」
何を言うんだ、前に断ったと思うがな?
お前と散歩に行けばデートになっちまうから、そいつは駄目だと。…デートにはまだ早いしな。
忘れたのか、とハーレイに軽く睨まれたけれど、此処で引き下がるわけにはいかない。
「デートの散歩じゃないってば! 運動だよ!」
でないと、ちっとも育たないんだよ、いつまでもチビのままなんだから…!
前のぼくは散歩のお蔭で大きく育ったんだもの、という説明から始めることにした。前の自分を育てた運動、それがブラウたちとの散歩だった、と。
「船の中の通路を歩いていたでしょ、前のハーレイが横を走って行ってたじゃない」
前のハーレイは走って運動、ぼくはブラウやエラたちと散歩。
あれのお蔭で大きくなれたよ、それまでは育っていなかったのに…。アルタミラの檻で暮らした間は、少しも育ちはしなかったのに。
エラもブラウも、ぼくに言ったよ、「運動しなきゃ」って。
運動したら身体も育つし、船の中の散歩も大切だから、って毎日のように連れてってくれて…。
前のぼくは散歩のお蔭で育ち始めて、ちゃんと大きくなれたんだってば。
でも、今のぼくは、ハーレイと会ってから少しも育たなくって…。一ミリも背が伸びなくて…。
これって、運動不足だからだよ、前と同じで。
ぼくの運動が足りていないせいで、ちっとも大きくなれないんだよ。…チビのまんまで。
だから散歩に連れて行って、と頭を下げた。「運動不足じゃなくなるように」と。
「運動不足で育たないだと? 今のお前がか?」
そいつは違うと思うがなあ…。どう考えても、運動不足だとは思わんが?
なにしろ今のお前だからな、とハーレイは至極真面目な顔。「デートは駄目だ」と切って捨てる代わりに、「運動不足ではない」と来た。
「運動不足じゃないなんて…。なんで?」
どうしてハッキリそう言えちゃうの、今のぼくのことも知ってるくせに。
ぼくは今でも身体が弱くて、ろくに運動してなくて…。
学校だってバス通学になってるくらいで、他の子みたいに歩いて通っていないのに…。
自転車で通う子だっているよ、と挙げた運動不足の一例。学校までは歩ける距離で、自転車でも軽く走ってゆける。身体さえ丈夫に出来ていたなら、普通はそう。…体力自慢の猛者ともなれば、学校まで一気に走り抜くほど。「これくらい軽い」と、ギリギリの時間に家を出て。
「それだ、それ。バス通学になってる所が大切だ」
歩いて学校に通うように、とは誰も言ったりしないだろうが。先生は大勢いるのにな?
お前はお前の身体に見合った運動をしてるってわけだ、バス停から家まで歩くってトコで。
後は学校で校舎の中を移動するとか、もうそれだけで充分なんだということだな。
体育だって、見学してない時もあるだろ、と指摘された。
見学が多い体育だけれど、体操服を着ている時だってある。身体が悲鳴を上げない程度に、他の生徒とグラウンドを駆けている時だって。
「そうだけど…。でも、途中から見学になっちゃう時も多いよ?」
サッカーの途中で抜けてしまったり、走ってる途中で座り込んだり。
無理をし過ぎたら、後で寝込んでしまうから…。それは困るし、ちゃんと用心しているもの…。
だから運動、足りていないよ。他のみんなと同じくらいに走ったりなんかは出来ないから。
それなのに、学校に行く時までバスで通っているなんて…。もっと運動しなくっちゃ…。
前のぼくみたいに散歩しないと、と頼み込んだ。「ハーレイ、一緒に散歩してよ」と。
「分かっちゃいないな、お前ってヤツは。本当に運動不足だと言うんだったら、その辺はだ…」
きちんと周りが考えるってな、出来る範囲でお前が運動するように。
散歩もそうだし、他にも軽い運動ってヤツは幾つもある。この部屋で出来るようなのも。
しかし、お前は、お医者さんにも何も言われちゃいないだろ?
「毎日これだけ歩くように」だとか、「こういう体操をするように」とかは…?
どうなんだ、と尋ねられたから、素直に答えた。「お医者さんは何も言わないよ」と。
「体育の授業も、学校に行く時も、無理しないように、って言われてるだけ…」
家でも、あんまり無理しちゃ駄目だ、って。…具合が悪くなった時には、直ぐに寝ないと…。
そのくらいかな、と考えてみる。散歩も体操も、医師からは何も言われないから。
「ほら見ろ、やっぱり運動不足じゃないってな。それだけしか言われていないってことは」
医者って仕事は、患者の健康管理ってヤツも考えないと駄目だから…。
必要だったら、運動の内容を指示されるぞ。場合によっては、そのための教室なんかの紹介も。水泳がいいと思った場合は、患者が集まる水泳教室。体操の方も同じだな。
本物の運動不足となったら、医者はそこまでするもんだ。でないと治らない病気もあるから。
運動ってヤツを馬鹿にするなよ、とハーレイは運動の大切さを説いた。運動不足が酷くなったら悪化する病気もあるらしい。そうなった時は、とにかく運動。医師の指示通りに。
「それに比べたら、お前はきちんと運動している」というのがハーレイの意見。バス通学でも、体育は見学ばかりの日々でも、運動は足りているらしい。
散歩なんかは必要ない、とも言われてしまった。「お前の運動、充分だろう?」と。
運動不足などではなくて、散歩の必要も無いらしい自分。確かに主治医には何も言われないし、両親も「運動しなさい」などとは言わない。ただの一度も。
けれども自分は育たないわけで、アルタミラの檻の中でもないのに、一ミリも背が伸びない今。幸せな日々を過ごしているのに、食事もおやつも足りているのに。
「運動不足じゃないなんて…。それじゃ、どうして背が伸びないわけ?」
前のぼくの背が伸びなかった頃は、ずっと檻の中で暮らしてて…。
ハーレイたちみたいに強くなくって、ぼくは育たなかったんだよ。大きくなっても、いいことは何も無いんだから。…ぼくに自覚は無かったけれど。
お蔭でぼくだけチビの子供で、前のハーレイたちが育ててくれて…。身体も、中身の心の方も。
でも、今のぼくは檻で暮らしていないから…。ぐんぐん育つと思わない?
それがちっとも育たないのは、運動不足で、散歩に行かないからじゃないかな…?
前のぼくは散歩をしてたんだから、と食い下がったけれど、ハーレイは笑うだけだった。
「そいつは、お前の考え違いというヤツだ。…そうでなければ、思い込みだな」
散歩に行ったら背が伸びるだろう、と前のお前を重ねちまって、夢を見てるといった所か。
だがな、本当はそうじゃない。
いつも言ってるだろ、今のお前がチビのままなのは、神様のお考えだろう、と。
前のお前が失くしちまった子供時代を、今のお前は体験中だ。前よりも、ずっと素敵な世界で。
成人検査なんかは何処にも無い上、血の繋がった本物のお父さんとお母さんがいて…。
幸せ一杯に過ごしてるわけで、それが出来るのは今だけだ。…お前がチビの子供の間。
背が伸びて大きくなっちまったら、今みたいに甘えられないぞ?
お父さんやお母さんたちにとっては、いつまでも「可愛い一人息子」だろうが、周りの目というヤツもあるから…。家では良くても、外ではなあ…?
我儘を言ったり出来なくなるぞ、と言われてみれば、その通り。
前の自分のような姿に育った時には、両親と何処かに出掛けたとしても…。
(パパが食べてるお料理、とっても美味しそうでも…)
「それ、ちょうだい!」と手を伸ばせはしない。一切れ欲しい、とフォークで突き刺すことは。
母の方でもそれは同じで、「これも美味しいわよ。食べてみる?」と、お皿に載せてはくれないだろう。スプーンで掬って、「食べる?」と差し出してくれることだって。
チビの自分だから出来ること。家の外でも、両親に甘えて過ごせる自分。…まだ子供だから。
けれど大きくなってしまったら、他の人たちの目があるだろう。甘えたくても、甘えたい気分になった時でも。
(家で御飯を食べてる時なら、「それ、ちょうだい!」って言えるけど…)
レストランでは、とても言えない。喫茶店でも言えはしないし、言える場所など何処にも無い。食事だけではなくて、一休みしたい時だって…。
(今のぼくなら、「疲れちゃった」って…)
ペタンと座り込んでしまっていたら、両親がせっせと世話してくれる。ジュースを飲ませたり、甘い物を買いに走ったり。チビの自分はチョコンと座って、小さな王様みたいだけれど…。
(大きくなった姿だったら、偉そうに見えるか、頼りなさそうか…)
どっちにしたって、いい評価は得られそうもない。「身体ばっかり大きいんだな」と、ジロジロ眺められたりもして。
そう考えると、ハーレイの言葉が正しいのだろう。チビの自分はとても幸せで、満ち足りた今を過ごしているから。…大きくなったら出来ないことも、今の自分は出来るのだから。
育ってしまえばそれでおしまい、チビの姿には戻れない。「あの頃の方が楽しかったよ」などと思ってみたって、身体は縮んでくれたりしない。
でも…。
「ハーレイと散歩、行きたいんだけどな…」
運動不足になってるんなら、散歩に行けると思ったのに…。デートじゃなくって運動だから。
そっちの方なら、ハーレイは断らないんだろうし…。
散歩に連れてってくれていたでしょ、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。「どうなるの?」と。
「お前が運動不足だったら、そりゃまあ、断ったりはしないな」
健康のために散歩をしたい、と言うんだったら、俺も断るような真似はしないぞ。
もっとも、デートじゃないわけなんだし、其処をきちんと詰めないと…。
デート気分で散歩されたら、俺の方は愉快じゃないからな。運動はあくまで運動なんだし、俺は手抜きをしない主義だ。こと、運動に関しては。
ダテに柔道部だの、水泳部だのの顧問をやってはいない。
お前を散歩に連れて行くにしても、きちんとコースを決めるだろうな、時間なんかも。
運動不足で散歩となったら、俺はコーチだ、とハーレイは厳しい顔をしてみせた。手加減なしでビシバシやるぞ、と。
「お前が嫌だと言い出したって、引き摺って出掛けて行くかもなあ…。ほら、行くぞ、と」
そういう散歩は、お前も嬉しくないだろう?
「うん…。ハーレイと二人で散歩するのはいいけれど…」
今日のコースはもっと先まで、って歩かされるとか、行きたくない日も行かされるとか…。
そんなのは嫌だし、ホントに普通の散歩がいい。…ハーレイがコーチにならない散歩。その日の気分で好きに歩けて、好きな所で家に帰って来られる散歩が。
でも駄目みたい…、と肩を落とした。自分は運動不足ではなくて、ハーレイと散歩に行くことは無理。それに運動不足だとしても、その時はコーチのハーレイの指導で散歩になるから。
「今は駄目だが、いずれは俺と散歩に行けるさ」
シャンと背筋を伸ばして歩け、なんてことは言わない俺と一緒に。…それこそデート気分でな。
しかし、散歩か…。前のお前は、いつも散歩をしていたが…。
船の中をな、とハーレイが顎に手を当てているから、首を傾げた。
「どうかしたの?」
前のぼくの散歩、今のハーレイだと気に入らないとか…?
もっとシャキシャキ歩くべきだとか、歩いてた距離が足りないだとか…。コーチをしよう、っていう今のハーレイの目で見てみたら、あんな散歩じゃ駄目だった…?
ハーレイは運動のプロだものね、と分からないではない気分。今のハーレイは柔道と水泳で鍛え続けて、プロの選手の道まで開けていたほどの腕。トレーニングにも詳しいだろうし、散歩という軽い運動にしても、歩き方などに理想の形があるだろうから。
「いや、そういうのじゃないんだが…。前のお前は頑張っていたし」
あの船の中じゃ、あれだけ出来れば上等だ。今の平和な時代だったら、色々と注文するんだが。
平らな所ばかりを歩かず、少しは坂も歩いてみろとか、歩くペースの配分なんかも。
今の地球なら、どんなコースでも選び放題だが、前のお前が歩いていたのは宇宙船の中で…。
なんともデカイ船だったよな、と思ってな。
白い鯨になる前の船でも、あれは相当にデカかったんだ。船の中で散歩が出来るくらいに。
前のお前が散歩していた距離は、かなりのモンだぞ。毎日、歩いていたわけだがな。
景色も無いような船の通路を飽きもしないで…、と今のハーレイが感心している散歩。そこそこ距離があった筈だと、「この辺りであれだけ歩くとなったら、何処までだろうな?」と。
「お前の家から歩き始めたら、かなり遠くへ行けるんじゃないか?」
夏休みに朝の体操をしていた公園、あそこまでは充分、行けそうだ。前のお前の散歩の距離。
「あっ、ハーレイも気が付いた?」
前のぼくの散歩、うんと長い距離を歩いてたんだ、っていう所。船の中しか歩いてないのに…。
だけど散歩にかかった時間はけっこうあったし、あの距離はかなり長いよね、って…。
そのせいで散歩だと思ったんだよ、と「運動不足だ」と散歩を頼んだ理由を話した。学校からの帰りに、バス停から家まで真っ直ぐ帰らず、散歩したこと。いつもの道を外れていって。
あちこち歩いて満足したのに、後から思い返してみたなら、前の自分が散歩をした頃に比べて、相当に短かった距離。
それに気付いて、「今の自分は運動不足だ」と考えたのだ、と。何もしていないのに、いきなり散歩や運動不足という言葉などを、ポンと思い付いたわけではない、と。
「そうだったのか…。前のお前の散歩と比べていたんだな、お前」
あれに比べりゃ、今のお前は運動不足な気もするだろう。歩いている距離が違い過ぎるから。
しかしだ、今のお前は他にも色々と動いているから、何の心配も要らないってな。
前のお前に体育の授業は無かったんだし、それだけでも大きく違うってモンだ。見学の時が多い授業でも、まるで無いよりは遥かにマシなものなんだから。
前のお前は船の中を歩いて、運動代わりにしていたが…。前の俺たちは、けっこう歩いていたと思うぞ、地面なんか何処にも無かった割には。
お前はともかく、俺の方はだ、よく頑張って歩いてたよなあ…。
「え? ハーレイって…」
前のハーレイは散歩じゃないでしょ、いつも船の中を走っていたよ。ジョギングみたいに。
ぼくやブラウが歩いてる横を、凄い速さで追い越して行って…。
行っちゃった、って見送っていたら、違う方から走って戻って来たりもして。
ついていける人は誰もいなかったでしょ、と前のハーレイを思い出す。一緒に走ろうとしていた仲間は、皆、置き去りにされるのが常。ハーレイが走り去ってしまって。
だからハーレイが「頑張った」ものは、走ることだと考えたのに…。
「あの船じゃなくて、白い鯨になった後だな。…シャングリラには違いないんだが」
俺が頑張って歩いていたのは、そっちの船だ、とハーレイは手を広げてみせた。
「とんでもなくデカイ船だったぞ?」と、「どれだけの大きさがあったんだ、アレは?」と。
言われてみれば、白いシャングリラは巨大な船。人類軍さえ、あれほどの巨艦は持たなかった。民間船もそこまで大きくはなくて、宇宙最大の船でもあったシャングリラ。
「大きかったね、シャングリラは…。白い鯨になった後には」
もっと大きく出来る筈だ、っていう案を取り入れていって、ああいう船になったから…。
船の端から端まで歩いて行くのは大変だから、ってコミューターまで走っていたくらいに。
最初の頃には、たまに止まってしまったけどね、と船の中を結んでいた乗り物を懐かしむ。皆が使っていたのだけれども、止まった時には歩く以外に移動手段が無いものだから…。
(早く直して、みんなが使えるようにしないと…)
大変なことになってしまう、とゼルが自転車で走っていた。修理の指揮を執るために。少しでも早く現場に着こうと、倉庫から引っ張り出してきた古い自転車で。
ゼルが現場に急ぐ時には、前のハーレイも同じに走った。やはり自転車で、船の通路を。背中のマントを翻しながら、せっせとペダルを踏み続けて。
「自転車なあ…。ああいう便利なものもあったが、壊れちまったら、それっきりでだ…」
もうコミューターも安定してたし、誰も作りやしなかった。新しい自転車というヤツは。
そういうやたらとデカかった船で、前の俺は仕事柄、あちこちにだな…。
テクテク歩いて出掛けたもんだ、というハーレイの言葉は間違っていない。コミューターが無い所にだって、キャプテンの仕事はあったのだから。
「そうだね、農場の見回りだったら、端から端まで歩くんだし…」
やっと終わった、と思った途端に、機関部の奥に呼ばれちゃったら、また歩くしか…。
「そういうことだな、キャプテン稼業は忙しいんだ」
何も無ければ、ブリッジだけで一日が終わる時だってあるが…。
そうじゃない日は、どれだけの距離を歩いたんだか…。下手なミュウなら参っちまうぞ。
同じ船でも、前のお前は視察くらいでしか歩いちゃいないが。
「うん。瞬間移動でズルもしてたし…」
ハーレイみたいに真面目に通路を歩いていないよ、前のぼくはね。
コミューターも使わなかった時があるもの、とクスクス笑った。あんな乗り物で移動するより、瞬間移動の方が遥かに速い。何処へ行くにも、一瞬だったから。
「前のぼくは瞬間移動で飛んで行くことが多かったけど…」
青の間からブリッジ、かなり遠いね。…ブリッジの入口までしか、瞬間移動はしていないけど。
あそこまでの距離って、ぼくの家からバス停まで行くより遠くない…?
もう一つ向こうのバス停まで行けてしまえそう、と頭の中に描いた距離。それとも、もっと遠いだろうか。バス停で二つほど向こうにあるのがブリッジだろうか、此処が青の間なら…?
「バス停か…。それより向こうにあるっていうのは確かだろうな、ブリッジは」
次のバス停までになるのか、もう一つ向こうか、その辺は直ぐにはピンと来ないが…。
あの通りを歩いて来る日もあるんだがなあ、お前の家まで歩く時には。
シャングリラってヤツは、実に馬鹿デカイ船だった。その中を歩いていたのが俺か…。
いったいどれだけ歩いたのやら、とハーレイが回想している「忙しかった日」。船のあちこちでキャプテンが呼ばれて、シャングリラの中を歩き回って終わっていた日。
「…シャングリラの中って…。全部歩いたら、どのくらいかかるものだったのかな?」
船の端から端まで回って、全部の通路を歩いていたら。
「それは時間を訊いているのか?」
全部歩くのにかかる時間は、どれほどかという質問なのか?
「そうだけど…。どのくらいなの?」
青の間からブリッジまでの距離でも、バス停の所を通り過ぎていってしまうんでしょ?
全部の通路を歩いて行ったら、時間はどのくらいかかるのかなあ、って思ったんだけど…。
ホントに大きな船だったから、と白いシャングリラの姿を思い浮かべる。前の自分が思念の糸を張り巡らせていた巨大な船。その中を歩いて通って行くなら、どのくらいの時間が要るのかと。
「さてなあ…?」
前の俺も一度に歩いちゃいないし、実際の所はよく分からん。
キャプテンのくせに、と言われそうだが、とても歩けるような船ではなかったからな。
俺の身体は一つだけだし、一日の間に行ける範囲は限られている。どうしても無理だと判断した時は、伝令を走らせることもあったし…。
日を改めて行くことにする、と後回しにした案件だって多いってな。
だがデータなら、と挙げられた数字。白いシャングリラの桁外れな巨大さを示すもの。
船の端から端までの長さを示すものはともかく、通路を全て繋いだ距離は、どれほどなのか。
「シャングリラの通路って…。全部繋いだら、そんなにあったの?」
前のぼくも、多分、一度くらいは耳にしたことがあっただろうけど…。
ハーレイと違って、その数字を使うことが無いから、何も覚えていなかったよ。船の中だなんて信じられないくらい…。一つの町がスッポリ入ってしまいそう…。
「当たり前だろ、船だけでもデカイわけだから」
その中を結ぶ通路となったら、全長ってヤツの何倍になるか、外からは想像もつかないってな。
全部の通路を走ることになれば、マラソンどころの距離じゃないんだ。
前の俺でも、あの船の方だと、とてもじゃないが全部を走ろうって気にはなれんぞ。
ダウンしちまう、とハーレイでさえも白旗を掲げる白いシャングリラの通路。全部を繋いだ距離など走ってゆけはしないと。
「そうみたいだね…。今のハーレイなら、走れるようにも思うけど…」
走れたとしても相当かかるね、走り始めてからゴールインまでに。
「うむ。やってやれないことは無いとは思うんだがなあ、ダテに鍛えちゃいないから」
とはいえ、給水ポイントと軽い何かが食える所は欲しいモンだな。
走った分だけエネルギーを使うし、水分だって抜けていくから補給しないと。
お前じゃとても歩けやしないぞ、あれだけの距離は。…途中で何度も休むにしたって。
前のお前は歩いちゃいないが、と苦笑している今のハーレイ。「いつも瞬間移動だっけな」と。
「そうだよ、楽で速かったからね」
だから歩こうとは一度も思わなかったけど…。歩いてみたことも無いんだけれど…。
今なら、歩いてみたいかな。とんでもない距離になるみたいだけど…。
「なんだって?」
歩くって、何処を歩くんだ?
シャングリラはもう宇宙の何処にも無いんだが、とハーレイは怪訝そうな顔をするけれど。
「分かってるってば、本物はもう無いってことは。でもね…」
代わりに青い地球があるでしょ、ぼくたちが生きてる今の地球が。
その地球の上で、おんなじ距離を歩いてみるんだよ。ハーレイが言った、さっきの距離をね。
同じ歩くのなら、この町の中で、ハーレイと一緒に。
青の間から出発したつもりになって、ずっと歩いて同じ距離をゆく。白いシャングリラの通路を全て繋いだ距離だけ、二本の足で歩き続けて。
「ふうむ…。あの距離を歩いてみようってか?」
面白いかもしれないな、それは。…シャングリラのデカさを俺と二人で体験する、と。
しかし、お前は参っちまうぞ、それだけの距離を歩くとなると。もはや散歩とも言えないし…。
かなりハードな運動になると思うんだが、とハーレイは心配そうだけれども、その心配は多分、要らない。此処は地球の上で、シャングリラの中ではないのだから。
「大丈夫。休憩する場所、幾つもあるでしょ」
この町の中を歩いていくだけで、シャングリラの中とは違うんだから。
喫茶店もあるし、ジュースを売ってるお店も沢山。食事が出来るお店だってね。
「なるほどなあ…。確かに船の中とは違うな、休める場所はドッサリある、と」
そいつを星座のように繋いで、あれだけの距離を歩くってか。お前が疲れてしまわない程度に。
歩き疲れた時には休んで、飯を食ったりなんかもして。
「いい方法だと思うんだけど…。シャングリラの中を二人で歩く方法」
船は無いけど、視察気分で、散歩でデート。こんなのはどう?
此処まで来たね、って、シャングリラの中なら何処になるのか考えたりして。
「それも悪くはないかもしれん。お前が参ってしまわないなら」
最初の間は参っちまっても、何度も出掛けて、少しずつ距離を伸ばすつもりだな…?
全部を歩くつもりだろうが、とハーレイが訊くから頷いた。
「そう! いつかは全部を歩くんだよ」
シャングリラの中の通路を全部、繋いだだけの距離を歩いて散歩。
走ったんなら一日で行けても、散歩だったら、一日じゃ無理な気もするけれど…。
それにホントは、今すぐにだって行きたいんだけど…。
「今は駄目だな、デートにはまだ早いと言ったぞ」
連れては行けん、とハーレイが睨むから、小さな声で言ってみた。
「ぼくの背、伸ばしたいんだけど…」
運動不足で背が伸びないなら、散歩で伸びてくれそうだけど…。駄目…?
やっぱり駄目かな、と縋るような視線を向けたけれども、ハーレイはフンと鼻で笑った。
「さっきも言ったが、今のお前の運動の量は足りている。充分にな」
だから散歩の必要は無くて、俺と一緒に歩かなくても安心だ。運動不足になってはいない。
俺と結婚した後にだって、運動不足を解消するより、体力作りの方の散歩だな。その視察は。
シャングリラの中を歩くつもりの長い散歩は…、とハーレイが言うから心配になった。コーチの方のハーレイが出てくるのだろうか、と。
「ハーレイ、ぼくを鍛えるつもり?」
散歩をするならシャキシャキ歩け、って号令したり、「背筋を伸ばせ」って叱ったり。
そういうコーチになったハーレイと一緒に歩くの、シャングリラの中を歩くつもりの散歩は…?
「お前なあ…。それじゃお前が楽しくないだろ、コーチと歩いて行くなんて」
体力作りはそのままの意味だ、少しでも風邪を引かない身体になるように。
お前に体力をつけさせようにも、ジョギングは、お前、無理だから…。
シャングリラの中を歩いていると思えば、長い距離でも楽しい気分で歩けるだろ?
無理をしないで、お前のペースで…、という提案にホッとした。それなら歩けそうだから。
「言い出したのは、ぼくだしね…。運動不足だから散歩したい、って…」
じゃあ、運動…。体力作りのために、ハーレイと散歩。
最初にぼくが思っていたより、とんでもない距離になっちゃったけど…。でも、歩くよ。
「よし、決まりだな。そうとなったら…」
シャングリラの設計図と町を重ねてみるかな、最初は船の端から端まで歩いてみよう。
それで距離感を掴んだ後には、距離を伸ばして、通路を全部繋いだ長さを歩いてゆく、と。
休憩場所を幾つも挟んで、二人でルートを決めようじゃないか、とハーレイが言うから、今から楽しみでたまらない散歩。この町の中を、ハーレイと歩いてゆける時。
いつか二人で出掛けてみよう、長い散歩に。一日ではとても歩き切れない距離のコースを。
白い鯨の巨大さを二人で実感できて、身体も健康になる散歩。
疲れたら休んで、無理はしないで。
少しずつ距離を伸ばしてゆけたら、きっと幸せ一杯だろう。
ハーレイに「頑張ったな」と褒めて貰えて、「もっと歩くよ」と歩き続けて。
白いシャングリラの中を歩く代わりに、青い地球の上で、手をしっかりと繋ぎ合って…。
行きたい散歩・了
※白い鯨と呼ばれたシャングリラ。船の通路を全て繋げば、町が丸ごと入るくらいに。
もうシャングリラは無いのですけど、ハーレイとブルーで、いつか散歩に行ってみたい距離。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
たまにはこっちに行ってみよう、とブルーが曲がった道。学校からの帰りに、バス停から家まで歩く途中で。
いつもの道とは違うけれども、そちらに行っても家には帰れる。少し遠回りになるけれど。
(ハーレイが仕事の帰りに来てくれるとしても、まだ早いから…)
時間はたっぷり余裕がある筈。回り道してから家に帰って、のんびりおやつを食べていたって。
だから安心、家の近くを散歩しようという気分。天気が良くて綺麗な青空、心地良い気温。
(こんな日は散歩したくもなるよね?)
帰るついでに、と歩き始めた普段とはまるで違う道。知らない場所とは言わないけれど、滅多に通らない道を歩いてゆくから、何を見たって新鮮な感じ。
あちこちキョロキョロ眺め回して、目に付いた花を観察したり、出て来た犬に手を振ったり。
(ホントに、いつもと全然違う…)
道沿いの家も、庭の木なども。面白いから、もっと色々見たくなる。「次はこっち」と行きたい方へと角を曲がって、どんどん家から離れていって。
下の学校に通っていた頃は、この辺りでもよく遊んだ。友達の家まで行く途中だとか、公園から何処かへ行く時などに。
(犬と遊んだこともあったし…)
おやつを貰ったこともある。何人かで賑やかに歩いていたら、「丁度良かった」と、焼き立てのクッキーをくれた奥さん。「沢山作ったから、持って行ってね」と。
(他にも色々…)
思い出が一杯、と歩いてゆく道。転んで泣いてしまった場所やら、友達の家に続く道やら。
(こっちに行ったら…)
着くんだけどな、と友達の顔が浮かぶけれども、出掛けて行ったら、きっと帰して貰えない。
「上がって行けよ」と引き止められて、制服のままで家に上がって、おやつを食べて、遊んだりしてアッと言う間に時間が経って…。
(家に帰ったら、ママが「ハーレイ先生がいらしてたわよ」って…)
そのハーレイは、とっくに帰ってしまった後。「なんだ、留守か」と、ガレージに停めておいた車の方へと戻って行って。エンジンをかけて、そのまま自分の家に向かって。
それは困るから、友達の家の方には行かない。途中でバッタリ出会ったとしたら、「来いよ」と誘われてしまうから。誘われたならば断われなくて、家に上がって時間が経って…。
楽しく遊んで家に帰ったら、「帰った後」かもしれないハーレイ。そんなのは困る。
(君子危うきに近寄らず…)
そう言うものね、と別の方へと角を曲がって、家に繋がる道に入った。遠回りしたから、バス停から直接家に帰るのとは逆の方向。そっちから歩いて家へと向かう。
(反対側から歩いて行くと…)
家の見え方も変わっちゃうよ、と馴染んだ我が家を目指して歩いて…。
(ちょっぴりだったけど、立派に散歩!)
帰りに沢山歩いちゃった、と門扉を開けて庭に入った。いつもの何倍歩いただろう、と表の道を振り返りながら。二倍くらいでは、きっと足りない。三倍、もっと歩いただろうか?
制服を脱いで、ダイニングでおやつを食べる間も、庭を眺めて上機嫌。
「あっちの方から帰って来たよ」と、帰りに歩いた方の生垣などを眺めて。
(いつもは真っ直ぐ帰って来るけど、今日は散歩をしてたから…)
健康にもいいことだろう。ほんの少しの距離にしたって、普段よりも多めに歩いたのだから。
ハーレイのようにジョギングするのは無理でも、散歩も身体にいい影響を与える筈。足を動かす筋肉を使って、前へ前へと進んでゆくのだから。
(散歩も運動の内だよね?)
身体に負担をかけない運動。自分のように弱い身体でも、無理なく出来る運動が散歩。運動した分、背が伸びるといいな、と考えたりも。
(ぼくの背、ちっとも伸びてくれなくて…)
チビのまんま、と零れる溜息。
前の自分と同じ背丈に育たない限り、ハーレイはキスをしてくれない。恋人同士の唇へのキスは貰えないままで、キスは額と頬にだけ。
それが悔しくて、とても悲しくて、早く大きくなりたいのに…。
(一ミリも伸びてくれないんだよ…!)
ハーレイと再会した五月の三日から、まるで伸びてはくれない背丈。百五十センチのままで春も夏も過ぎて、制服も小さくならなくて…。
いつまでもチビでいたくはない。少しでも早く背を伸ばしたい。あと二十センチ。
(今日の散歩で、背が伸びるかな?)
伸びるといいな、と考えながら戻った二階の自分の部屋。空になったカップやケーキのお皿を、キッチンの母に返してから。
(帰りに余計に歩いた分だけ…)
運動したよ、と勉強机の前に座って、歩いた道を思い出す。新鮮に思えた帰り道の散歩。景色も道順も、何もかもが。
あれだけ歩いて運動をして、家に帰ったらおやつも食べた。きっと身体の栄養になるし、背丈も伸びてくれるかもしれない。散歩という名の軽い運動と、おやつの分だけ。
(散歩は身体にいいんだものね)
きちんと歩けば育つんだよ、と思った所で気が付いた。そういう言葉を前に聞いたよ、と。
(ブラウとエラ…)
遠く遥かな時の彼方で、まだ若かった彼女たちに言われた。「散歩は身体にいいのだから」と。前の自分が、今の自分と変わらない姿のチビだった時に。
アルタミラの檻で長く暮らした前の自分は、心も身体も成長を止めてしまっていた。本当の年はブラウたちよりも遥かに上で、子供などではなかったのに。
(だけど、育っても何もいいことは無いし…)
人体実験だけの日々では、未来も希望も見えては来ない。自分でも気付いていなかったけれど、深い絶望に覆われた心は、「育ってゆく」ことを放棄した。身体を「育ててゆく」ことも。
外見の年齢を止めることが出来るミュウの特性、それが悪い方へと働いた結果。成長するより、「今のままで」と考えた心。
(十四歳の誕生日が来たから、成人検査で…)
大人の社会へ旅立つのだ、と前の自分も考えた筈。順調に育って来たからこその成人検査。
けれども、其処で失くした「未来」。成人検査をパスする代わりに、ミュウと判断された自分。
(…育たなかったら、成人検査を受けることもなくて…)
地獄のような日々が始まることも無かったわけだし、「育つ」ことを捨てもするだろう。一人で檻に閉じ込められて、人体実験ばかりの日々では。
来る日も来る日も苦しみばかりで、未来など見えもしない中では、育つだけ無駄。
前の自分は育つことをやめて、心も育ちはしなかった。「脱出しよう」とも思わないまま、檻の中に蹲っていたというだけ。研究施設で誰よりも長く暮らしていたのに、子供のままで。
ブラウやエラや、前のハーレイたちは、成長を止めはしなかったのに。
成人検査を通過できずに檻に入れられても、酷い実験を繰り返されても、彼らは「諦める」道を選ばなかった。「いつか必ず此処を出てやる」と、見えもしない「未来」を見詰め続けて。
彼らはそうして成長したから、前の自分と出会った時には「子供がいる」と思ったらしい。成人検査を受けて間もない、十四歳になったばかりの子供なのだ、と。
(あの船の中で、ぼくだけがチビで…)
子供として可愛がられる間に、本当のことが判明した。「心も身体も子供だけれども、実年齢は船の誰よりも上だ」ということが。
そうなった理由に、前のハーレイたちは直ぐに気付いて、前の自分を育てることに力を入れた。これからは未来も希望もあるから、「大きく育ってゆかないと」と。
(育つためには、運動しなきゃ、って…)
ブラウとエラに、船の中を散歩に連れてゆかれた。「運動するのが一番だよ」と、選んで貰った運動が「散歩」。今と同じに弱い身体だから、無理なく運動するなら「散歩」がいいだろうと。
白い鯨になる前の船は、「シャングリラ」と言っても名前だけの楽園。
公園も無ければ、緑さえも無かったような船。散歩に出掛けてゆくと言っても、船の中を歩いてゆくだけのことで、通路を辿って進むだけ。「次はこっち」と曲がったりして。
ずいぶん味気ない散歩だけれども、あれも散歩には違いなかった。幾つものフロアを順に回って歩いた時やら、船で一番長い通路を何度も往復した時やら。
(ブラウたちと散歩をしてる間に、育ち始めて…)
再び成長を始めた身体。少しずつ背が伸び、チビの子供から、いつしか大人の姿へと。
散歩のお蔭で大きくなれたし、今日の散歩もきっと効果があるのだろう、と思ったけれど。背が伸びるかも、と夢を描いたけれど…。
(そんなに沢山、歩いてないよ…)
今日のぼくは、と散歩した距離を考えてみたら分かったこと。前の自分が散歩した距離、それに比べれば僅かなものだ、と。
白い鯨ではなかった頃でも、充分に大きかった船。大勢の仲間が暮らしていた船。
あの頃にしていた散歩の分を、家の近くで歩くなら…。
(…公園の方まで行かなくちゃ駄目?)
其処まで行ったら遠すぎるから、と行かずに帰って来た公園。夏休みの間は、朝に体操をやっているほどだから、公園としては大きい部類。大勢の人が一度に体操出来る広さがある公園。
その辺りまで行って来ないと足りないらしい、と気付いた散歩の距離。軽い運動と言える散歩をするのだったら、今日の散歩は充分ではない。もっと遠くまで行かないと。
けれど、いくら近所で散歩と言っても、一人でトコトコ歩いてゆくのは…。
(きっと途中で飽きてしまうし、ハーレイだって…)
前に「散歩に行こう」と誘ったら、「それはデートだ」と断られた。恋人同士で散歩するなら、デートということになるらしい。家の近所を歩くだけでも。
そうやって断られてしまわなければ、一緒に歩いて欲しかったのに。
今日は行かずに帰った公園、そっちの方まで行くだとか。もっと遠くの川の方まで、休みながら歩いてゆくだとか。…川に着いたら河原で休憩、帰りも散歩で、歩いて家まで。
前の自分がしていた散歩は、川までの散歩には敵わなくても、公園までなら充分にあった。毎日ブラウやエラと歩いて、大きく育っていったのだから…。
(今のぼくって、運動不足…)
明らかに足りていない運動。前の自分がチビだった頃に比べたら。
それで自分は、いくら経っても育たないのに違いない。運動の量が足りないせいで、チビのまま伸びてくれない背丈。
(これじゃ大きくなれないよ…)
そうは思っても、一人で散歩はつまらない。歩く距離が長くなればなるほど。
おまけに、一人で歩く間に、ウッカリ友達に出会ったら…。
(遊んで行けよ、って…)
そのまま家に連れて行かれて、ゲームをするとか、一緒におやつを食べるとか。友達によっては家にペットがいたりもするから、夢中で遊んでいる内に…。
(すっかり遅くなっちゃって…)
「さよなら!」と手を振って家に帰ったら、母に言われるかもしれない。ハーレイが家に来て、「ブルー君はお留守ですか」と、帰って行ってしまった、と。
散歩に出掛けて行ってそのまま、いつまで経っても家に戻らなかったのだから。
一人で散歩は、つまらない上に危険が一杯。友達と遊ぶのは楽しいけれども、ハーレイと二人で過ごせる方がずっといい。毎日のように来てくれるとは限らないから、その分、余計に。
(散歩に出掛けて、そのまま留守にしちゃうよりかは…)
ハーレイを巻き込むべきだろう。前は「駄目だ」と言われた散歩に、ハーレイも一緒に出掛けてくれるようにと、きちんと頼んで。
(デートじゃなくって、運動なんだし…)
断られないかも、という気がする。前に散歩に誘った時には、運動の話を出してはいない。あの時は散歩に行きたかっただけで、「ハーレイと二人で歩く」ことが目当て。二人並んで、いろんな話をしたりしながら。
(ただ歩きたいって言うのと、運動したいって言うのとでは…)
ずいぶん違う、と自分でも分かる。運動だったら、ハーレイは乗り気になるかもしれない。
(夏休みに公園でやってた体操…)
「行きたいんだったら、付き合うが?」と誘われたことを覚えている。毎朝、家まで迎えに来るとも言っていた。朝の体操に出掛けるのなら。
(もしも体操に行っていたなら、毎朝、公園まで二人で散歩…)
行きも帰りも二人で歩いて、公園に着いたら他の人たちも一緒に体操。「健康的だぞ」と勧めていたハーレイだし、運動のための散歩となったら、断らない可能性だって。
(頼んでみなきゃね…?)
ハーレイが来てくれた時に、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。
「あのね、ハーレイ…。散歩に連れて行って欲しいんだけど」
ぼくのお願い。ぼくと一緒に散歩をしてよ。この家の近くだけでいいから。
「はあ? 散歩って…」
何を言うんだ、前に断ったと思うがな?
お前と散歩に行けばデートになっちまうから、そいつは駄目だと。…デートにはまだ早いしな。
忘れたのか、とハーレイに軽く睨まれたけれど、此処で引き下がるわけにはいかない。
「デートの散歩じゃないってば! 運動だよ!」
でないと、ちっとも育たないんだよ、いつまでもチビのままなんだから…!
前のぼくは散歩のお蔭で大きく育ったんだもの、という説明から始めることにした。前の自分を育てた運動、それがブラウたちとの散歩だった、と。
「船の中の通路を歩いていたでしょ、前のハーレイが横を走って行ってたじゃない」
前のハーレイは走って運動、ぼくはブラウやエラたちと散歩。
あれのお蔭で大きくなれたよ、それまでは育っていなかったのに…。アルタミラの檻で暮らした間は、少しも育ちはしなかったのに。
エラもブラウも、ぼくに言ったよ、「運動しなきゃ」って。
運動したら身体も育つし、船の中の散歩も大切だから、って毎日のように連れてってくれて…。
前のぼくは散歩のお蔭で育ち始めて、ちゃんと大きくなれたんだってば。
でも、今のぼくは、ハーレイと会ってから少しも育たなくって…。一ミリも背が伸びなくて…。
これって、運動不足だからだよ、前と同じで。
ぼくの運動が足りていないせいで、ちっとも大きくなれないんだよ。…チビのまんまで。
だから散歩に連れて行って、と頭を下げた。「運動不足じゃなくなるように」と。
「運動不足で育たないだと? 今のお前がか?」
そいつは違うと思うがなあ…。どう考えても、運動不足だとは思わんが?
なにしろ今のお前だからな、とハーレイは至極真面目な顔。「デートは駄目だ」と切って捨てる代わりに、「運動不足ではない」と来た。
「運動不足じゃないなんて…。なんで?」
どうしてハッキリそう言えちゃうの、今のぼくのことも知ってるくせに。
ぼくは今でも身体が弱くて、ろくに運動してなくて…。
学校だってバス通学になってるくらいで、他の子みたいに歩いて通っていないのに…。
自転車で通う子だっているよ、と挙げた運動不足の一例。学校までは歩ける距離で、自転車でも軽く走ってゆける。身体さえ丈夫に出来ていたなら、普通はそう。…体力自慢の猛者ともなれば、学校まで一気に走り抜くほど。「これくらい軽い」と、ギリギリの時間に家を出て。
「それだ、それ。バス通学になってる所が大切だ」
歩いて学校に通うように、とは誰も言ったりしないだろうが。先生は大勢いるのにな?
お前はお前の身体に見合った運動をしてるってわけだ、バス停から家まで歩くってトコで。
後は学校で校舎の中を移動するとか、もうそれだけで充分なんだということだな。
体育だって、見学してない時もあるだろ、と指摘された。
見学が多い体育だけれど、体操服を着ている時だってある。身体が悲鳴を上げない程度に、他の生徒とグラウンドを駆けている時だって。
「そうだけど…。でも、途中から見学になっちゃう時も多いよ?」
サッカーの途中で抜けてしまったり、走ってる途中で座り込んだり。
無理をし過ぎたら、後で寝込んでしまうから…。それは困るし、ちゃんと用心しているもの…。
だから運動、足りていないよ。他のみんなと同じくらいに走ったりなんかは出来ないから。
それなのに、学校に行く時までバスで通っているなんて…。もっと運動しなくっちゃ…。
前のぼくみたいに散歩しないと、と頼み込んだ。「ハーレイ、一緒に散歩してよ」と。
「分かっちゃいないな、お前ってヤツは。本当に運動不足だと言うんだったら、その辺はだ…」
きちんと周りが考えるってな、出来る範囲でお前が運動するように。
散歩もそうだし、他にも軽い運動ってヤツは幾つもある。この部屋で出来るようなのも。
しかし、お前は、お医者さんにも何も言われちゃいないだろ?
「毎日これだけ歩くように」だとか、「こういう体操をするように」とかは…?
どうなんだ、と尋ねられたから、素直に答えた。「お医者さんは何も言わないよ」と。
「体育の授業も、学校に行く時も、無理しないように、って言われてるだけ…」
家でも、あんまり無理しちゃ駄目だ、って。…具合が悪くなった時には、直ぐに寝ないと…。
そのくらいかな、と考えてみる。散歩も体操も、医師からは何も言われないから。
「ほら見ろ、やっぱり運動不足じゃないってな。それだけしか言われていないってことは」
医者って仕事は、患者の健康管理ってヤツも考えないと駄目だから…。
必要だったら、運動の内容を指示されるぞ。場合によっては、そのための教室なんかの紹介も。水泳がいいと思った場合は、患者が集まる水泳教室。体操の方も同じだな。
本物の運動不足となったら、医者はそこまでするもんだ。でないと治らない病気もあるから。
運動ってヤツを馬鹿にするなよ、とハーレイは運動の大切さを説いた。運動不足が酷くなったら悪化する病気もあるらしい。そうなった時は、とにかく運動。医師の指示通りに。
「それに比べたら、お前はきちんと運動している」というのがハーレイの意見。バス通学でも、体育は見学ばかりの日々でも、運動は足りているらしい。
散歩なんかは必要ない、とも言われてしまった。「お前の運動、充分だろう?」と。
運動不足などではなくて、散歩の必要も無いらしい自分。確かに主治医には何も言われないし、両親も「運動しなさい」などとは言わない。ただの一度も。
けれども自分は育たないわけで、アルタミラの檻の中でもないのに、一ミリも背が伸びない今。幸せな日々を過ごしているのに、食事もおやつも足りているのに。
「運動不足じゃないなんて…。それじゃ、どうして背が伸びないわけ?」
前のぼくの背が伸びなかった頃は、ずっと檻の中で暮らしてて…。
ハーレイたちみたいに強くなくって、ぼくは育たなかったんだよ。大きくなっても、いいことは何も無いんだから。…ぼくに自覚は無かったけれど。
お蔭でぼくだけチビの子供で、前のハーレイたちが育ててくれて…。身体も、中身の心の方も。
でも、今のぼくは檻で暮らしていないから…。ぐんぐん育つと思わない?
それがちっとも育たないのは、運動不足で、散歩に行かないからじゃないかな…?
前のぼくは散歩をしてたんだから、と食い下がったけれど、ハーレイは笑うだけだった。
「そいつは、お前の考え違いというヤツだ。…そうでなければ、思い込みだな」
散歩に行ったら背が伸びるだろう、と前のお前を重ねちまって、夢を見てるといった所か。
だがな、本当はそうじゃない。
いつも言ってるだろ、今のお前がチビのままなのは、神様のお考えだろう、と。
前のお前が失くしちまった子供時代を、今のお前は体験中だ。前よりも、ずっと素敵な世界で。
成人検査なんかは何処にも無い上、血の繋がった本物のお父さんとお母さんがいて…。
幸せ一杯に過ごしてるわけで、それが出来るのは今だけだ。…お前がチビの子供の間。
背が伸びて大きくなっちまったら、今みたいに甘えられないぞ?
お父さんやお母さんたちにとっては、いつまでも「可愛い一人息子」だろうが、周りの目というヤツもあるから…。家では良くても、外ではなあ…?
我儘を言ったり出来なくなるぞ、と言われてみれば、その通り。
前の自分のような姿に育った時には、両親と何処かに出掛けたとしても…。
(パパが食べてるお料理、とっても美味しそうでも…)
「それ、ちょうだい!」と手を伸ばせはしない。一切れ欲しい、とフォークで突き刺すことは。
母の方でもそれは同じで、「これも美味しいわよ。食べてみる?」と、お皿に載せてはくれないだろう。スプーンで掬って、「食べる?」と差し出してくれることだって。
チビの自分だから出来ること。家の外でも、両親に甘えて過ごせる自分。…まだ子供だから。
けれど大きくなってしまったら、他の人たちの目があるだろう。甘えたくても、甘えたい気分になった時でも。
(家で御飯を食べてる時なら、「それ、ちょうだい!」って言えるけど…)
レストランでは、とても言えない。喫茶店でも言えはしないし、言える場所など何処にも無い。食事だけではなくて、一休みしたい時だって…。
(今のぼくなら、「疲れちゃった」って…)
ペタンと座り込んでしまっていたら、両親がせっせと世話してくれる。ジュースを飲ませたり、甘い物を買いに走ったり。チビの自分はチョコンと座って、小さな王様みたいだけれど…。
(大きくなった姿だったら、偉そうに見えるか、頼りなさそうか…)
どっちにしたって、いい評価は得られそうもない。「身体ばっかり大きいんだな」と、ジロジロ眺められたりもして。
そう考えると、ハーレイの言葉が正しいのだろう。チビの自分はとても幸せで、満ち足りた今を過ごしているから。…大きくなったら出来ないことも、今の自分は出来るのだから。
育ってしまえばそれでおしまい、チビの姿には戻れない。「あの頃の方が楽しかったよ」などと思ってみたって、身体は縮んでくれたりしない。
でも…。
「ハーレイと散歩、行きたいんだけどな…」
運動不足になってるんなら、散歩に行けると思ったのに…。デートじゃなくって運動だから。
そっちの方なら、ハーレイは断らないんだろうし…。
散歩に連れてってくれていたでしょ、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。「どうなるの?」と。
「お前が運動不足だったら、そりゃまあ、断ったりはしないな」
健康のために散歩をしたい、と言うんだったら、俺も断るような真似はしないぞ。
もっとも、デートじゃないわけなんだし、其処をきちんと詰めないと…。
デート気分で散歩されたら、俺の方は愉快じゃないからな。運動はあくまで運動なんだし、俺は手抜きをしない主義だ。こと、運動に関しては。
ダテに柔道部だの、水泳部だのの顧問をやってはいない。
お前を散歩に連れて行くにしても、きちんとコースを決めるだろうな、時間なんかも。
運動不足で散歩となったら、俺はコーチだ、とハーレイは厳しい顔をしてみせた。手加減なしでビシバシやるぞ、と。
「お前が嫌だと言い出したって、引き摺って出掛けて行くかもなあ…。ほら、行くぞ、と」
そういう散歩は、お前も嬉しくないだろう?
「うん…。ハーレイと二人で散歩するのはいいけれど…」
今日のコースはもっと先まで、って歩かされるとか、行きたくない日も行かされるとか…。
そんなのは嫌だし、ホントに普通の散歩がいい。…ハーレイがコーチにならない散歩。その日の気分で好きに歩けて、好きな所で家に帰って来られる散歩が。
でも駄目みたい…、と肩を落とした。自分は運動不足ではなくて、ハーレイと散歩に行くことは無理。それに運動不足だとしても、その時はコーチのハーレイの指導で散歩になるから。
「今は駄目だが、いずれは俺と散歩に行けるさ」
シャンと背筋を伸ばして歩け、なんてことは言わない俺と一緒に。…それこそデート気分でな。
しかし、散歩か…。前のお前は、いつも散歩をしていたが…。
船の中をな、とハーレイが顎に手を当てているから、首を傾げた。
「どうかしたの?」
前のぼくの散歩、今のハーレイだと気に入らないとか…?
もっとシャキシャキ歩くべきだとか、歩いてた距離が足りないだとか…。コーチをしよう、っていう今のハーレイの目で見てみたら、あんな散歩じゃ駄目だった…?
ハーレイは運動のプロだものね、と分からないではない気分。今のハーレイは柔道と水泳で鍛え続けて、プロの選手の道まで開けていたほどの腕。トレーニングにも詳しいだろうし、散歩という軽い運動にしても、歩き方などに理想の形があるだろうから。
「いや、そういうのじゃないんだが…。前のお前は頑張っていたし」
あの船の中じゃ、あれだけ出来れば上等だ。今の平和な時代だったら、色々と注文するんだが。
平らな所ばかりを歩かず、少しは坂も歩いてみろとか、歩くペースの配分なんかも。
今の地球なら、どんなコースでも選び放題だが、前のお前が歩いていたのは宇宙船の中で…。
なんともデカイ船だったよな、と思ってな。
白い鯨になる前の船でも、あれは相当にデカかったんだ。船の中で散歩が出来るくらいに。
前のお前が散歩していた距離は、かなりのモンだぞ。毎日、歩いていたわけだがな。
景色も無いような船の通路を飽きもしないで…、と今のハーレイが感心している散歩。そこそこ距離があった筈だと、「この辺りであれだけ歩くとなったら、何処までだろうな?」と。
「お前の家から歩き始めたら、かなり遠くへ行けるんじゃないか?」
夏休みに朝の体操をしていた公園、あそこまでは充分、行けそうだ。前のお前の散歩の距離。
「あっ、ハーレイも気が付いた?」
前のぼくの散歩、うんと長い距離を歩いてたんだ、っていう所。船の中しか歩いてないのに…。
だけど散歩にかかった時間はけっこうあったし、あの距離はかなり長いよね、って…。
そのせいで散歩だと思ったんだよ、と「運動不足だ」と散歩を頼んだ理由を話した。学校からの帰りに、バス停から家まで真っ直ぐ帰らず、散歩したこと。いつもの道を外れていって。
あちこち歩いて満足したのに、後から思い返してみたなら、前の自分が散歩をした頃に比べて、相当に短かった距離。
それに気付いて、「今の自分は運動不足だ」と考えたのだ、と。何もしていないのに、いきなり散歩や運動不足という言葉などを、ポンと思い付いたわけではない、と。
「そうだったのか…。前のお前の散歩と比べていたんだな、お前」
あれに比べりゃ、今のお前は運動不足な気もするだろう。歩いている距離が違い過ぎるから。
しかしだ、今のお前は他にも色々と動いているから、何の心配も要らないってな。
前のお前に体育の授業は無かったんだし、それだけでも大きく違うってモンだ。見学の時が多い授業でも、まるで無いよりは遥かにマシなものなんだから。
前のお前は船の中を歩いて、運動代わりにしていたが…。前の俺たちは、けっこう歩いていたと思うぞ、地面なんか何処にも無かった割には。
お前はともかく、俺の方はだ、よく頑張って歩いてたよなあ…。
「え? ハーレイって…」
前のハーレイは散歩じゃないでしょ、いつも船の中を走っていたよ。ジョギングみたいに。
ぼくやブラウが歩いてる横を、凄い速さで追い越して行って…。
行っちゃった、って見送っていたら、違う方から走って戻って来たりもして。
ついていける人は誰もいなかったでしょ、と前のハーレイを思い出す。一緒に走ろうとしていた仲間は、皆、置き去りにされるのが常。ハーレイが走り去ってしまって。
だからハーレイが「頑張った」ものは、走ることだと考えたのに…。
「あの船じゃなくて、白い鯨になった後だな。…シャングリラには違いないんだが」
俺が頑張って歩いていたのは、そっちの船だ、とハーレイは手を広げてみせた。
「とんでもなくデカイ船だったぞ?」と、「どれだけの大きさがあったんだ、アレは?」と。
言われてみれば、白いシャングリラは巨大な船。人類軍さえ、あれほどの巨艦は持たなかった。民間船もそこまで大きくはなくて、宇宙最大の船でもあったシャングリラ。
「大きかったね、シャングリラは…。白い鯨になった後には」
もっと大きく出来る筈だ、っていう案を取り入れていって、ああいう船になったから…。
船の端から端まで歩いて行くのは大変だから、ってコミューターまで走っていたくらいに。
最初の頃には、たまに止まってしまったけどね、と船の中を結んでいた乗り物を懐かしむ。皆が使っていたのだけれども、止まった時には歩く以外に移動手段が無いものだから…。
(早く直して、みんなが使えるようにしないと…)
大変なことになってしまう、とゼルが自転車で走っていた。修理の指揮を執るために。少しでも早く現場に着こうと、倉庫から引っ張り出してきた古い自転車で。
ゼルが現場に急ぐ時には、前のハーレイも同じに走った。やはり自転車で、船の通路を。背中のマントを翻しながら、せっせとペダルを踏み続けて。
「自転車なあ…。ああいう便利なものもあったが、壊れちまったら、それっきりでだ…」
もうコミューターも安定してたし、誰も作りやしなかった。新しい自転車というヤツは。
そういうやたらとデカかった船で、前の俺は仕事柄、あちこちにだな…。
テクテク歩いて出掛けたもんだ、というハーレイの言葉は間違っていない。コミューターが無い所にだって、キャプテンの仕事はあったのだから。
「そうだね、農場の見回りだったら、端から端まで歩くんだし…」
やっと終わった、と思った途端に、機関部の奥に呼ばれちゃったら、また歩くしか…。
「そういうことだな、キャプテン稼業は忙しいんだ」
何も無ければ、ブリッジだけで一日が終わる時だってあるが…。
そうじゃない日は、どれだけの距離を歩いたんだか…。下手なミュウなら参っちまうぞ。
同じ船でも、前のお前は視察くらいでしか歩いちゃいないが。
「うん。瞬間移動でズルもしてたし…」
ハーレイみたいに真面目に通路を歩いていないよ、前のぼくはね。
コミューターも使わなかった時があるもの、とクスクス笑った。あんな乗り物で移動するより、瞬間移動の方が遥かに速い。何処へ行くにも、一瞬だったから。
「前のぼくは瞬間移動で飛んで行くことが多かったけど…」
青の間からブリッジ、かなり遠いね。…ブリッジの入口までしか、瞬間移動はしていないけど。
あそこまでの距離って、ぼくの家からバス停まで行くより遠くない…?
もう一つ向こうのバス停まで行けてしまえそう、と頭の中に描いた距離。それとも、もっと遠いだろうか。バス停で二つほど向こうにあるのがブリッジだろうか、此処が青の間なら…?
「バス停か…。それより向こうにあるっていうのは確かだろうな、ブリッジは」
次のバス停までになるのか、もう一つ向こうか、その辺は直ぐにはピンと来ないが…。
あの通りを歩いて来る日もあるんだがなあ、お前の家まで歩く時には。
シャングリラってヤツは、実に馬鹿デカイ船だった。その中を歩いていたのが俺か…。
いったいどれだけ歩いたのやら、とハーレイが回想している「忙しかった日」。船のあちこちでキャプテンが呼ばれて、シャングリラの中を歩き回って終わっていた日。
「…シャングリラの中って…。全部歩いたら、どのくらいかかるものだったのかな?」
船の端から端まで回って、全部の通路を歩いていたら。
「それは時間を訊いているのか?」
全部歩くのにかかる時間は、どれほどかという質問なのか?
「そうだけど…。どのくらいなの?」
青の間からブリッジまでの距離でも、バス停の所を通り過ぎていってしまうんでしょ?
全部の通路を歩いて行ったら、時間はどのくらいかかるのかなあ、って思ったんだけど…。
ホントに大きな船だったから、と白いシャングリラの姿を思い浮かべる。前の自分が思念の糸を張り巡らせていた巨大な船。その中を歩いて通って行くなら、どのくらいの時間が要るのかと。
「さてなあ…?」
前の俺も一度に歩いちゃいないし、実際の所はよく分からん。
キャプテンのくせに、と言われそうだが、とても歩けるような船ではなかったからな。
俺の身体は一つだけだし、一日の間に行ける範囲は限られている。どうしても無理だと判断した時は、伝令を走らせることもあったし…。
日を改めて行くことにする、と後回しにした案件だって多いってな。
だがデータなら、と挙げられた数字。白いシャングリラの桁外れな巨大さを示すもの。
船の端から端までの長さを示すものはともかく、通路を全て繋いだ距離は、どれほどなのか。
「シャングリラの通路って…。全部繋いだら、そんなにあったの?」
前のぼくも、多分、一度くらいは耳にしたことがあっただろうけど…。
ハーレイと違って、その数字を使うことが無いから、何も覚えていなかったよ。船の中だなんて信じられないくらい…。一つの町がスッポリ入ってしまいそう…。
「当たり前だろ、船だけでもデカイわけだから」
その中を結ぶ通路となったら、全長ってヤツの何倍になるか、外からは想像もつかないってな。
全部の通路を走ることになれば、マラソンどころの距離じゃないんだ。
前の俺でも、あの船の方だと、とてもじゃないが全部を走ろうって気にはなれんぞ。
ダウンしちまう、とハーレイでさえも白旗を掲げる白いシャングリラの通路。全部を繋いだ距離など走ってゆけはしないと。
「そうみたいだね…。今のハーレイなら、走れるようにも思うけど…」
走れたとしても相当かかるね、走り始めてからゴールインまでに。
「うむ。やってやれないことは無いとは思うんだがなあ、ダテに鍛えちゃいないから」
とはいえ、給水ポイントと軽い何かが食える所は欲しいモンだな。
走った分だけエネルギーを使うし、水分だって抜けていくから補給しないと。
お前じゃとても歩けやしないぞ、あれだけの距離は。…途中で何度も休むにしたって。
前のお前は歩いちゃいないが、と苦笑している今のハーレイ。「いつも瞬間移動だっけな」と。
「そうだよ、楽で速かったからね」
だから歩こうとは一度も思わなかったけど…。歩いてみたことも無いんだけれど…。
今なら、歩いてみたいかな。とんでもない距離になるみたいだけど…。
「なんだって?」
歩くって、何処を歩くんだ?
シャングリラはもう宇宙の何処にも無いんだが、とハーレイは怪訝そうな顔をするけれど。
「分かってるってば、本物はもう無いってことは。でもね…」
代わりに青い地球があるでしょ、ぼくたちが生きてる今の地球が。
その地球の上で、おんなじ距離を歩いてみるんだよ。ハーレイが言った、さっきの距離をね。
同じ歩くのなら、この町の中で、ハーレイと一緒に。
青の間から出発したつもりになって、ずっと歩いて同じ距離をゆく。白いシャングリラの通路を全て繋いだ距離だけ、二本の足で歩き続けて。
「ふうむ…。あの距離を歩いてみようってか?」
面白いかもしれないな、それは。…シャングリラのデカさを俺と二人で体験する、と。
しかし、お前は参っちまうぞ、それだけの距離を歩くとなると。もはや散歩とも言えないし…。
かなりハードな運動になると思うんだが、とハーレイは心配そうだけれども、その心配は多分、要らない。此処は地球の上で、シャングリラの中ではないのだから。
「大丈夫。休憩する場所、幾つもあるでしょ」
この町の中を歩いていくだけで、シャングリラの中とは違うんだから。
喫茶店もあるし、ジュースを売ってるお店も沢山。食事が出来るお店だってね。
「なるほどなあ…。確かに船の中とは違うな、休める場所はドッサリある、と」
そいつを星座のように繋いで、あれだけの距離を歩くってか。お前が疲れてしまわない程度に。
歩き疲れた時には休んで、飯を食ったりなんかもして。
「いい方法だと思うんだけど…。シャングリラの中を二人で歩く方法」
船は無いけど、視察気分で、散歩でデート。こんなのはどう?
此処まで来たね、って、シャングリラの中なら何処になるのか考えたりして。
「それも悪くはないかもしれん。お前が参ってしまわないなら」
最初の間は参っちまっても、何度も出掛けて、少しずつ距離を伸ばすつもりだな…?
全部を歩くつもりだろうが、とハーレイが訊くから頷いた。
「そう! いつかは全部を歩くんだよ」
シャングリラの中の通路を全部、繋いだだけの距離を歩いて散歩。
走ったんなら一日で行けても、散歩だったら、一日じゃ無理な気もするけれど…。
それにホントは、今すぐにだって行きたいんだけど…。
「今は駄目だな、デートにはまだ早いと言ったぞ」
連れては行けん、とハーレイが睨むから、小さな声で言ってみた。
「ぼくの背、伸ばしたいんだけど…」
運動不足で背が伸びないなら、散歩で伸びてくれそうだけど…。駄目…?
やっぱり駄目かな、と縋るような視線を向けたけれども、ハーレイはフンと鼻で笑った。
「さっきも言ったが、今のお前の運動の量は足りている。充分にな」
だから散歩の必要は無くて、俺と一緒に歩かなくても安心だ。運動不足になってはいない。
俺と結婚した後にだって、運動不足を解消するより、体力作りの方の散歩だな。その視察は。
シャングリラの中を歩くつもりの長い散歩は…、とハーレイが言うから心配になった。コーチの方のハーレイが出てくるのだろうか、と。
「ハーレイ、ぼくを鍛えるつもり?」
散歩をするならシャキシャキ歩け、って号令したり、「背筋を伸ばせ」って叱ったり。
そういうコーチになったハーレイと一緒に歩くの、シャングリラの中を歩くつもりの散歩は…?
「お前なあ…。それじゃお前が楽しくないだろ、コーチと歩いて行くなんて」
体力作りはそのままの意味だ、少しでも風邪を引かない身体になるように。
お前に体力をつけさせようにも、ジョギングは、お前、無理だから…。
シャングリラの中を歩いていると思えば、長い距離でも楽しい気分で歩けるだろ?
無理をしないで、お前のペースで…、という提案にホッとした。それなら歩けそうだから。
「言い出したのは、ぼくだしね…。運動不足だから散歩したい、って…」
じゃあ、運動…。体力作りのために、ハーレイと散歩。
最初にぼくが思っていたより、とんでもない距離になっちゃったけど…。でも、歩くよ。
「よし、決まりだな。そうとなったら…」
シャングリラの設計図と町を重ねてみるかな、最初は船の端から端まで歩いてみよう。
それで距離感を掴んだ後には、距離を伸ばして、通路を全部繋いだ長さを歩いてゆく、と。
休憩場所を幾つも挟んで、二人でルートを決めようじゃないか、とハーレイが言うから、今から楽しみでたまらない散歩。この町の中を、ハーレイと歩いてゆける時。
いつか二人で出掛けてみよう、長い散歩に。一日ではとても歩き切れない距離のコースを。
白い鯨の巨大さを二人で実感できて、身体も健康になる散歩。
疲れたら休んで、無理はしないで。
少しずつ距離を伸ばしてゆけたら、きっと幸せ一杯だろう。
ハーレイに「頑張ったな」と褒めて貰えて、「もっと歩くよ」と歩き続けて。
白いシャングリラの中を歩く代わりに、青い地球の上で、手をしっかりと繋ぎ合って…。
行きたい散歩・了
※白い鯨と呼ばれたシャングリラ。船の通路を全て繋げば、町が丸ごと入るくらいに。
もうシャングリラは無いのですけど、ハーレイとブルーで、いつか散歩に行ってみたい距離。
(今日はちょっぴり…)
暑いかな、とブルーが見上げた太陽。学校の帰りに、バス停から家まで歩く途中で。
今日は快晴、そのせいなのか、この季節にしては強く感じる日射し。燦々と照っているように。
(夏みたい…)
今日のお日様、と思うくらいに眩しい太陽。照らされていたら、頬が痛いという気もする。気のせいなのか、本当に日射しが強すぎるのか。
頬っぺたが痛いのは嬉しくないから、影の中に入ることにした。道に木たちが落としている影。そうして日射しが遮られたら、頬の痛さは無くなった。さっきまで感じていた暑さも。
(これでピッタリ…)
痛くもないし、暑くもないよ、とホッと息をついた木の影の中。何処の家にも庭木があるから、道まで影が差している。上手い具合に、途切れないように。
そういう日陰を選んでいこう、と歩き始めた帰り道。丁度いい具合の日陰という場所。家までは遠くないのだけれども、同じ歩くなら心地良い方がずっといいから。
大きく道に張り出した枝が作る影やら、背の高い木が落とす影やら。その中を通って、日射しを避けて家まで帰り着いたのだけれど…。
(あれ?)
生垣の所の門扉を開けようとして、ハタと気付いた。気持ちがいい、と選んで歩いて来た日陰。木たちの影が落ちている場所を、ずっと家まで来たのだけれど。
日陰という場所、それを寒いと感じる日もある。今の季節はそうではなくても、冬になったら。
(おんなじ日陰なんだけど…)
寒い時には、とっても寒いよ、と歩いて来た道を振り返ってみた。同じ日陰でも、真冬になれば雪が残ったり、一日中、ツルツルに凍っていたり。太陽が当たらないせいで。
そんな時には、日向を選んで歩きたくなるもの。少しでも暖かい方がいいから。
(あっちの方とか、よく凍っているしね…)
ツルリと滑るのは面白いけれど、直ぐに日向へ出たくなる。少し遊んで、満足したら。
残っている雪で遊ぶ時も同じ。「まだ残ってる」と、足や傘なんかでつついてみたって、日向に戻ってゆきたくなる。「此処は寒いよ」と、暖かな太陽の光の中へ。
同じ道路で、同じように日陰なんだけど、と見てみる道。「今日は日陰がいいんだけどな」と。
門扉を開けて庭に入って、「ただいま」と帰り着いた家。制服を脱いだら、ダイニングに行っておやつの時間なのだけど。
(えーっと…)
日向と日陰と、自分はどっちが好きなんだろう、と首を捻った。母が焼いたケーキを頬張って。
ダイニングの大きなガラス窓の向こう、庭にも見える日向と日陰。太陽が明るく照らす日向と、影に入っている日陰。
庭で一番大きな木の下、其処に据えられた、お気に入りの白いテーブルと椅子。木の下だから、今はもちろん、日陰に置かれているけれど…。
(お天気のいい日は、日向に出して…)
ハーレイと午後のお茶を楽しむこともある。二人でゆっくり過ごせる週末、その日がいい天気で晴れていたなら。日射しも今日ほど強くない日で、柔らかな光だったなら。
(だけど、あのテーブルと椅子が届いた夏の間は…)
お茶にする時は、必ず日陰。木陰から出しはしなかった。
父が白いテーブルと椅子を買うよりも前は、ハーレイが愛車で運んで来てくれた、キャンプ用の椅子とテーブルでお茶。そのテーブルたちを、ハーレイが最初に据えたのも…。
(あそこの木の下…)
日射しが強くて、飲み物だって冷えたレモネードだったような季節。日向だったら、弱い身体が悲鳴を上げる。「こんな場所には、とてもいられない」と。
お蔭で庭のテーブルと椅子は、今でも庭で一番大きな木の下が定位置のまま。お茶にする時は、その日の気分で日向を選びもするけれど…。
(それは今だからで、夏の間は絶対に無理で…)
日向でお茶など、とんでもない。今日よりもずっと眩しくて肌に痛い日射しが、上からジリジリ照り付けるから。…ハーレイとお茶を楽しむどころか、それではまるで我慢大会。
(ぼくって、どっちが好きなのかな…?)
日向と日陰と、どちらか一つを選ぶなら。
今日の帰り道は、日陰を選んだのだけど。そちらがいいと思ったけれども、季節で変わるだろう自分の好み。日向がいいのか、日陰が好きか。
お気に入りの白いテーブルと椅子でも、日によってそれを置きたい場所が変わるのだから。
簡単に決められはしないよね、と考えながら戻った二階の自分の部屋。空になったお皿やカップなんかを、キッチンの母に「御馳走様」と返してから。
(日向と日陰かあ…)
部屋の窓から見下ろしてみても、両方がある家の庭。日が当たる場所と、当たらない場所。同じ芝生でも変わる表情、日向か、日陰か、どっちなのかで。
(日が当たってたら、うんと明るい緑色で…)
とても元気そうに見えるのが芝生。日陰の方だと、少し弱々しい感じ。どちらもきちんと手入れしてあるし、見た目は変わらない筈なのに。
なんとも面白いのが日向と日陰で、それを考えてみたくなる。勉強机の前に座って。
(今のぼくだと、その日の気分で変わるんだけど…)
日向と日陰を選ぶ時。暑い日だったら断然、日陰。寒い日だったら、日向を選びたい気分。融け残った雪で遊んでみようと、日陰に入る時はあっても。
(前のぼくだと、どっちが好き?)
ソルジャー・ブルーと呼ばれた頃なら、どちらを好んでいたのだろう。日向か、日陰か。
白いシャングリラで長く暮らした、青の間は薄暗かったけれども。
(あれは、前のぼくが暗くしていたわけじゃなくって…)
青の間を広く見せるためにと、勝手に決められた明るさだった。薄暗くして、照明の数を絞っておいたら、部屋の全貌は見渡せない。サイオンを使って見ない限りは。
「ソルジャーの部屋は広いほどいい」と、演出のために暗くされてしまった青の間。部屋の壁が見えてしまっているより、壁も天井も見えない方が広く感じられるから。
(部屋を作る時には、あんな暗さじゃ作業できないから…)
工事用にと明るい照明もあったというのに、完成したら取り外された。「もう要らない」と。
お蔭で、青の間は昼でも薄暗いまま。深い海の底にあるかのように。
(暗い方がいいよ、って前のぼくは思っていなかったのに…)
仕方なく諦めていただけのことで、あれは自分の好みではない。もっと明るい方が良かった。
暮らす分には、特に不自由は無かったけれども、こけおどしの演出で暗い部屋よりは…。
(全体が見えて、みんながビックリしない部屋…)
そういう部屋が欲しかった。「ソルジャーの部屋はこうか」と思える、親しみやすい部屋が。
青の間の薄暗さを、前の自分が好んだわけではないのなら。好きでああいう照明にした、という話などまるで無いのなら…。
(前のぼくが好きなの、日向なのかな?)
日陰よりは、と遠い記憶を探ってみる。青の間とは逆の、明るい場所が好きだったろうか、と。
アルテメシアに降りた時には、日射しの中にいたことが多い。太陽の光を浴びられる場所に。
(太陽の下にいるっていうのが、とても嬉しくて…)
その光の中にいようとしたから、前の自分は、きっと日向が好きだった。日向か日陰か、好みで選び取るならば。好きに選んでいいのなら。
でも…。
(シャングリラの中には、日向、無かった…)
それに日陰も、何処にも無かった。
青の間でなくても、あの船の中で一番広かった公園でも。…ブリッジが見えた、シャングリラの皆が大好きだった大きな公園。あそこでさえも、無かった日向。
白いシャングリラに太陽は無くて、人工の照明が作る影だと、その向きさえもバラバラだった。日陰を選んで歩きたくても、きちんと並んではいなかった影。同じ方へと、同じ角度では。
その上、本物の太陽ではなくて照明だから…。
(日向も日陰も、選べないよ…)
暑すぎるだとか、寒すぎるだとか、そういったことは無かった船。公園の温度は季節に合わせて調整されたし、照明の明るさや強さなどとは無関係。
本物の太陽が照らしていたなら、眩しすぎる日もあっただろうに。逆に日陰では寒いと感じて、日向に出たいと思う時だって。
けれど船には無かった太陽。日向も日陰も出来はしない船。
だから日向が好きだったろうか、前の自分は?
シャングリラの外に出掛けた時には、太陽の下を好んだろうか。本物の太陽の明るい日射しを。
(地球の太陽ではなかったけれど…)
太陽と呼ばれる恒星の一つではあった、アルテメシアの空に輝く太陽。朝に昇って、夜は沈んでしまう本物の「太陽」があって、それの下にいるのが好きだった自分。
だとしたら…。
船の外へと出られた自分。ソルジャーとしての役目を果たしに、アルテメシアに何度も降りた。ミュウの子供の救出作戦を手伝うだとか、人類側の動きを探るためなどに。
前の自分は、そうやって外に出られたけれど。外に出た時に太陽があれば、日射しを浴びられる日向にいたりしたけれど…。
(シャングリラの外に出られなかった、ハーレイたちは…)
前の自分よりも、もっと太陽に憧れたろうか。日向に出たいと、太陽の下に立ってみたいと。
日向も日陰も、無かった船にいたのでは。公園の温度が低めに設定された冬にも、日向ぼっこも出来ないような船で暮らしていたのでは。
(公園の温度が低すぎるから、って…)
凍えてしまうことなどは無いし、日向ぼっこの必要は無い。けれど、代わりに太陽も無い。太陽さえ空に輝いていたら、冬でもあるのが日向と日陰。暖かい日向と、寒い日陰と。
(そっちの方が、断然いいよね?)
此処は寒い、と日向を求めることになっても、人工の光の公園よりは。…暑すぎる夏は、日陰を探して入らなければ、肌に光が痛いほどでも。
(空にお日様があるんなら…)
きっと光を浴びたくなる。前の自分がそうだったように、船から外に出られたならば。
そうする機会が無いとなったら、増してゆくだろう太陽への憧れ。船の仲間たちは、そう考えていたのだろうか。「太陽の下に立ってみたい」と、「日向に出たい」と。
(そうだったの…?)
まるで考えてもみなかった。
白いシャングリラの中だけで暮らした、ミュウの仲間たちの太陽への思い。
(外の世界で暮らしたいだろう、って…)
踏みしめる地面を求めたけれども、そのために地球を目指したけれど。
地面があるなら、もちろん空には太陽がある。夜の間は沈むけれども、朝になったら東の空から昇って来て。
夏には避けたくなるほどの日射し、冬には恋しくなる陽だまり。
それらをもたらす太陽の光、その下に立つ日を夢見た仲間は、きっと少なくなかっただろう。
前の自分は思いもしなくて、ただ地面だけを求めたけれど。宙に浮いたままの箱舟よりは、と。
ようやく気付いた、仲間たちの気持ち。「日向に出たかったかもしれない」と。
もっとも、日向を手に入れるのなら、やはり地面が必要だけれど。…足の下に踏みしめる地面が無ければ、日向や日陰を作る太陽も無いのだけれど。
(だけど、お日様、欲しかったよね…?)
前のハーレイたちもそうだよ、と前の自分と重ねてみる。アルテメシアに降りた時には、太陽の下を好んだ自分。「日向が好きだ」という自覚は無くても、自然とそちらを選んでいた。
ならば、船から外に出られなかった前のハーレイや、船の仲間たちは…。
(ぼくよりもずっと、日向が大好き…)
願っても手に入らない分だけ、憧れも増したことだろう。輝く太陽の下に立つこと、日向に出て日射しを浴びること。たとえ肌には痛かったとしても、それが本物の太陽ならば。
きっとそうだ、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「あのね、ハーレイ…。日向と日陰と、どっちが好き?」
ハーレイが好きなのはどっちなのかな、日向か、日陰か。
「はあ? どっちかって…」
何の話だ、とハーレイは怪訝そうな顔。「日向か日陰かって、どういう意味だ?」と。
「そのままだってば、お日様のことだよ。お日様があれば、出来るでしょ?」
日向も、それに日陰だってね。ハーレイはどっちの方が好きなの、日向と日陰じゃ…?
「そりゃ日向だなあ、選ぶとなれば。外で泳ぐんなら、断然、日向だ」
海にしたって、プールにしたって、お日様ってヤツが似合うじゃないか。水飛沫には。
こうキラキラと光って弾けて、「泳いでるんだ」と実感できる。太陽の下で。
もっとも、海だと、日陰なんぞは無いに等しいようなモンだが…。浜辺以外では。
ついでに無駄に暑い時には、日陰が恋しくなったりもするな。ちょいと休憩しようって時には、日陰に入ることだってある。「こりゃ、たまらんぞ」と日射しを避けて。
「同じだね、ぼくと」
その日の気分で、日向か日陰か、好きな方を選んでるんだけど…。
庭のテーブルと椅子もそうでしょ、木の下でお茶を飲む時もあるし、日向に出す時も。
ハーレイも、今だとぼくと同じみたいだけど、前のハーレイだったら、どう…?
前のハーレイなら、どうだったの、と投げ掛けた問い。「どっちの方が好きだった?」と。
「ハーレイがシャングリラで暮らした頃だよ、好きだったのは、どっち?」
日向だったか、それとも日陰か。前のハーレイだと、どっちになるの…?
「前の俺だって? キャプテン・ハーレイだった頃の、俺の好みのことだよな…?」
改めて、そう訊かれても…。そもそも太陽が無かったからなあ、あの船じゃ…。
農場用だとか、公園用にと、それらしい光を作っちゃいたが…。自然光に似せた照明ってヤツはあったが、あれは所詮は照明だ。日向や日陰は出来なかったな、船の中では。
そういったことを考えてみると、日向の方になるのかもしれん。どちらかを一つ選ぶなら。
日陰に入れば、太陽の光を直接浴びるのは無理だから…。遮られちまって、届かなくて。
空に太陽があるんだったら、そいつの光をたっぷりと浴びてみたいじゃないか。暑すぎようが、クラクラするほど眩しかろうが。
そうだな、やはり日向だよなあ、前の俺なら…。
選ぶなら日向の方だろう、と返った答え。前のハーレイが憧れたものは、やはり太陽の光。踏みしめられる地面の上に立つのと同じに、太陽の下に立ってみたかった、と。
「そうなんだ…。やっぱり、思った通りだったよ…」
日向か日陰か、前のぼくはどっちが好きだったのか、思い出してみていたんだけれど…。
前のぼくも日向が大好きだった。アルテメシアに降りた時には、太陽の下にいようとしてた…。
それで、前のハーレイや船の仲間も、そうだったかも、って気が付いて…。
ぼくの考えで合ってたんだね、前のハーレイも日向が好き。太陽の光が当たってる場所が。
前のぼくはちっとも気付いていなくて、地面のことばかり考えていたよ。シャングリラは降りる地面が無かった船だし、「この船は宙に浮いているんだ」って。
いつか降りられる地面が欲しくて、そればかり思っていたけれど…。
地面だけじゃなくて、お日様だって欲しかったよね。地面に降りたら、太陽も一緒についてくるもので、手に入れることは出来るんだけど…。ミュウが地面に降りられたなら。
だけど、其処まで考えが回っていなくって…。
ごめんね、前のハーレイたちの気持ちも知らずに、あの船の中に閉じ込めちゃって。
お日様の光も当たらない船で、日向も日陰も出来ない船。
みんな、太陽が欲しかったんだろうと思うのに…。地面のことばかり言うような、ぼくで…。
何も分かっていないソルジャーだったよ、と項垂れた。
船の仲間たちが焦がれているもの、それが太陽だと気付きもしない、愚かなソルジャー。いつか地球へと繰り返しはしても、目指していたものは地面だけ。ミュウが踏みしめられる地面で、その上を照らす太陽の方には、まるで関心が無いままで。
「ホントにごめん…。太陽が無かった船だったのに、ぼくは地面の方ばかり見てて…」
船のこと、分かっていなかったかも…。船のみんなが、何を求めていたのかも…。
あの船だけで満足しちゃって、と零した溜息。「足りないものは地面だけだ」と、地球に辿り着く日を夢見ていたとは、どれほど愚かだったのか、と。
白いシャングリラは、地面ばかりか太陽も持たない船だったのに。皆が焦がれただろう日向は、船の何処にも無かったのに。
「何を言うんだ、シャングリラは立派な船だったのに…。ただの船じゃなくて、箱舟だぞ」
人類に追われるミュウたちを乗せて、いつか地面に降りられる日まで、命を繋ぐための箱舟。
乗りさえしたなら、殺されずに生きてゆけるんだ。箱舟だからな。
それだけでも素晴らしい船だというのに、名前通りに楽園だったぞ?
船の中だけで全て賄えて、自給自足で飛んでいられる船。前の俺たちには充分すぎる船だった。あれよりも凄い船が欲しいと言うようなヤツは、ただの一人もいなかったろうと思うがな…?
そんな贅沢な仲間は知らん、とハーレイは自信たっぷりだった。船を預かるキャプテンとして、皆の要望にも目を通し続けていたわけだから。
「でも、お日様…」
誰も文句を言わない船でも、お日様が無かったことは本当。
農場も公園も、何処も人工の照明ばかりで、温度の調節と照明は別…。
本物の太陽があるんだったら、太陽の熱が必ず関係してくるのにね。季節の移り変わりにも。
だけど、シャングリラはそうじゃなくって…。
太陽が無いから、日向も日陰も出来なかった船で、前のハーレイだって日向が憧れ…。
選べるんなら、日向が良かった、って言ったでしょ?
前のハーレイがそう思うんなら、他のみんなが考えたことも同じだろうし…。
それでも、あの船は充分すぎる船だって言うの?
地面も無ければ、太陽も無いような船の中だけが、みんなの世界の全部になっていたんだよ…?
大切なものが欠けちゃっていた楽園じゃない、と挙げた地面と太陽。白いシャングリラが持っていなかったもの。「楽園」という名を持っていようと、所詮は箱舟。
「そんな船でも良かったって言うの、前のハーレイだって、太陽の光が欲しかったんでしょ?」
日向が好きだ、って言えるくらいに、太陽の下に立ちたかったのに…。
それなのに太陽が無かった船、と挙げた欠点。地面ばかりか、太陽も無かったシャングリラ。
「まあな。…それについては否定はせんが…」
前の俺だって、太陽の光は欲しかった。アルテメシアの太陽でもいい、思い切り浴びられる日が来たならば、と考えたことが無かったとは言わん。…お前と違って、外には出られなかったから。
前のお前と、潜入班のヤツら以外は、太陽の下には立てやしなかった。いつも船の中で。
しかし、そういう日々だったからこそ、前の俺たちは地球を目指せたんだ。
前のお前がいつも言ってた、踏みしめられる地面。…宙に浮いていない世界で生きたかったし、空には輝く太陽が欲しい。地球に着いたら、それが手に入るんだから。
地面と太陽、何処かの星の上で暮らしていたなら、当たり前に其処にある筈だろう?
地球はもちろん、アルテメシアでも、ノアでも、人間が生きられる星だったなら、何処だって。
それを持てずにいたのがミュウだ。前の俺たちは、どちらも持っていなかった。地面も、地面を照らす太陽も、船の中では手に入らない。
そのせいでナスカが余計に素晴らしく見えたんだろうな、若いヤツらには。
地球とは違う星だというのに、すっかり魅せられちまったわけだ。欲しかったものが、ナスカの上にあったお蔭で。…古い世代なら、そいつを地球に求めるんだが。
地面も太陽も、地球でこそだ、とハーレイは苦い顔をする。「ナスカは仮の宿に過ぎん」と。
「そっか、お日様…。ナスカに降りたら、太陽もついてくるものね」
地面に降りて、其処で暮らして、野菜を育てて、トォニィたちも生まれたけれど…。
あのナスカには、地面の他にも大切なものがあったんだね。…船のみんなが欲しかったものが。
空には本物の太陽があって、それが地面を照らしてて…。
「地球じゃないから、太陽は二つあったがな」
二つもあるのはどうかと思うが、若いヤツらは気にしちゃいなかったんだろう。
ナスカはこうだ、と思ってしまえば、一つだろうと、二つだろうと…。
太陽には違いないんだからなあ、燦々と光を降らせてくれれば、充分なように思えたんだな。
すっかり惑わされちまって…、とハーレイが嘆くナスカという星。地球とは違った赤い惑星。
おまけに輝く二つの太陽、ジルベスター星系の中心の星は連星だった。地球を擁するソル太陽系なら、太陽は一つきりなのに。アルテメシアがあったクリサリス星系でも、そうだったのに。
それでも太陽には違いないから、地面の上に出来た日向や日陰。
ナスカの夏には眩しい日射しが照り付けていたし、冬には暖かな陽だまりがあった。太陽が二つある星とはいえ、その恵みを受けて育つ作物。外にいれば降り注ぐ太陽の光。
(…ハーレイは、惑わされたって言うけど…)
誰もが長く焦がれていたもの、それが目の前に現れたならば、誰だって夢中になるだろう。古い世代なら、ミュウの未来を憂えるけれども、若い世代が思うミュウの未来は…。
(自分たちの未来で、ミュウ全体のことじゃないよね?)
いくら歴史を教えられても、若い世代はアルタミラの惨劇に出会ってはいない。燃える炎の中を走って、地獄で命を拾ってはいない。過酷な人体実験も知らず、人類に追われた経験さえも…。
(シャングリラに来る前に、ユニバーサルの保安部隊に追われた程度で…)
幸運な者は、それさえ知らない始末。早い段階で救出されたら、保安部隊の姿すらも目にせず、小型艇で船に連れて来られただけなのだから。
そういう世代に、「他のミュウたちのことを思え」と、説くだけ無駄というものだろう。彼らは言わば井の中の蛙、自分たちが見聞きしたことが全て。
(他の星でもミュウが生まれ続けてて、なんとかしないと、みんな殺されるだけで…)
それを止めるには「地球に行き着く」ことしか無い、と唱えたところで分かる筈もない。安全に暮らせる場所があるのに、どうして危険を冒さなければいけないのか、と考えるだけ。
「ナスカにいれば安全なのに」と、「此処で生きればいいじゃないか」と。
踏みしめられる地面もあれば、空に輝く太陽もある。日向も日陰も生まれる世界。
(此処でなら、生きていける、って…)
思ってしまえば、他のことはもう、頭には入らないだろう。
ナスカを持たない頃だったならば、「いつか地球へ」と、古い世代と同じに思って育っても。
地面と太陽が欲しいのだったら、地球へ行かねば、と考えていても。
(どっちも手に入れたんだから…)
もう地球に行く必要は無い。自分たちだけの未来だったら、ナスカがあれば充分だから。
そう考えた末に、彼らは道を誤った。天国のようだと思ったナスカに魅せられすぎて。赤い星に魂を奪われすぎて、取り戻すことが出来なくて。
「ナスカって…。若い世代には、地球みたいに見えていたんだと思うよ」
地面があって、太陽もあって、欲しかったものが一度に手に入った星。…シャングリラの中には無かったものがね。地球に行かなきゃ、手に入らないと思ったものが。
いろんな意味で、とても大事な星になってしまっていたんだと思う。地球でなくても、ナスカで何でも手に入るんだ、って。地面も、それに太陽も。
それにトォニィたちまで生まれちゃったら、ますますナスカを手放せないよ。地球よりも素敵に思えていたかも、ミュウの故郷みたいにね。
そうじゃないかな、と問い掛けてみたら、ハーレイも否定しなかった。
「地球とは違う、ってことを除けば、人間らしく生きられる場所ではあったな。…あの星は」
足の下には地面があって、頭の上には太陽だから。…どっちも船には無かったものだ。
やっと普通の暮らしが出来る、と若いヤツらは飛び付いちまって、夢中になって…。仮の宿だということさえも、いつの間にやら忘れちまった。あまりに居心地が良かったから。
ただし、そいつにこだわり過ぎると、命を落としちまうんだが…。
キースの野郎がやって来た時点で、危ないと思うべきなのに。しかもキースは逃げてしまって、どう動くのかも分からない。…普通だったら、逃げようと考えそうなモンだが…。
それさえも思い付かないくらいに、ナスカという星は魅力的だったというわけか…。
撤収しろ、と出された命令を、古い世代の陰謀みたいに考えるほどに。
これが船なら、直ぐに危険に気付くんだが…、とハーレイがフウと零した溜息。実際、船なら、皆はそうしただろうから。
白いシャングリラで警戒警報が鳴って、「総員退避」と繰り返されたら、誰だって逃げる。船の中央の安全な場所へ、先を争うようにして。
「そうだね、船なら、そうなってたね…」
キースが逃げたっていう話が無くても、警報だけで逃げ出すよ。これは危ない、って。
だけどナスカは、船の中とは違ってたから…。
とても素敵な星を手に入れて、まだまだ夢も一杯あって…。そっちに頭が向いちゃった。
「此処で逃げたら、全部失くしてしまう」って。行きたくもない地球に行くしかない、って。
勘違いをした若い世代。赤いナスカを離れ難くて、「手放したくない」としがみついて。
冷静になって考えさえすれば、身の安全が第一なのに。今はどういう状況なのか把握したなら、誰だって直ぐに危険だと気付く。逃げたキースは、メンバーズエリートなのだから。
けれど彼らは、ナスカという星に酔っていた。其処での暮らしにすっかり魅せられ、何処よりも安全で、素晴らしい場所だと思い込んで。
「シェルターに入れば安全だ、って考えていても、メギドには敵わないんだけれど…」
ミサイルだって、直撃されたら、シェルターなんかは一瞬で壊れてしまうんだけど…。
それも分からずに、みんなナスカに残ってしまって…。船で警戒警報が鳴ってる時より、ずっと危ないことにも気が付かないままで…。
地面とお日様があった場所だし、きっと気が緩んでいたんだね。「此処なら絶対、大丈夫」っていう風に。…ミュウが手に入れた星だったから。
そうなっちゃったのも分かる気がするよ、ソルジャーじゃない、今のぼくなら。
お日様の光はとても素敵だもの、日向も日陰も好きに選べて。
こっちがいいな、って選びさえすれば、暖かくもなるし、涼しくもなるし…。地面もいいけど、太陽も素敵。ナスカだったら、太陽は二つらしいけれどね?
前のぼくは見ていないけど、と苦笑したナスカの二つの太陽。赤いナスカには降りていないし、太陽を目にすることは無かった。その太陽が作る、日向も日陰も。
「日向と日陰か…。今なら選び放題だよなあ、本物の地球の太陽で」
どっちが好みか決める時にも、その日の気分で選んでいいんだ。一日の内にも、何回も。
のんびり日光浴も出来れば、涼しい日陰で過ごすことも出来る。
前の俺だと、どっちも出来はしなかったんだが…。シャングリラには太陽が無かったからな。
ナスカには二つもあったとはいえ、キャプテンの立場じゃ、ナスカに肩入れすることは出来ん。俺が率先してナスカ暮らしを楽しんでいたら、若い世代が「お墨付きを貰った」と思うしな?
ゼルたちが何と言っていようが、「キャプテンもナスカがお好きだから」と。
「そうなっちゃうよね、ハーレイがナスカ暮らしだと…」
キャプテンも船を降りたんだから、って勝手に噂が流れていそう。
「地球に行くのは止めたらしい」だとか、「みんなシャングリラを降りるんだ」とか。
ハーレイの立場じゃ動けないよね、どんなにナスカで日光浴をしたくても。
「本当にやってみたかったの?」と尋ねてみた、ナスカでの日光浴。キャプテン・ハーレイは、そのキャプテンという立場のせいで、日光浴のチャンスを逃したのか、と。
「おいおい、まさか…。前の俺だぞ、思い付きさえしなかっただけだ」
日光浴ってヤツを考え付いたら、試してみていた可能性はある。どんなモンかと、日向の地面にゴロンと転がったりしてな。
健康的ではあるだろうが、と笑うハーレイなら、確かに試したかもしれない。せっかくナスカを手に入れたのだし、太陽の光を存分に浴びるためにはコレだ、と日光浴を。
「…前のハーレイが、日光浴を思い付かなかったということは…」
やってた仲間がいなかったんだね、ハーレイの目につく所では。…それならいいかな、やろうと思ってても無理だったんなら、前のハーレイが可哀相だから…。
今のハーレイなら、日光浴もしていそうだけれど。
「していないわけがないだろう? 俺の趣味の一つは水泳だぞ」
海や屋外プールだったら、水から上がれば甲羅干しだってしたくなる。いい天気ならな。それが醍醐味というヤツだろうが、外で泳いでいる時の。
前の俺の記憶が戻っていない頃からな、とハーレイはとても嬉しそう。たった今、日光浴をして来たみたいな笑顔で。「日光浴は気持ちいいぞ」と、「髪だって直ぐに乾いちまうし」と。
「ハーレイ、日光浴が好きなんだ…。外で泳ぐんなら、そうなるだろうけど」
幸せそうな顔をしてるよ、「本当に日光浴が大好き」って、見ただけで分かるような顔。
記憶が戻った今なら、前よりもずっと幸せなんだと思うけど…。お日様、地球のお日様だから。
「うむ。夏にたっぷり満喫したなあ、地球の太陽」
お前の所に通っていたから、去年までのようにはいかなかったが…。
一人で海までドライブしてって、泳いだ後には日光浴、っていうのが定番だったんだが。
それをやってちゃ、お前が膨れちまうから…。「どうして来てくれなかったの?」と怒って。
「当たり前だよ、仕事なら仕方ないけれど…」
そうじゃないのに、一人で海までドライブだなんて、酷すぎるから!
ぼくでなくても怒ると思うよ、そんな恋人。
一緒にドライブするならいいけど、一人で出掛けて、おまけに日光浴なんて…!
許すわけないでしょ、と尖らせた唇。いくらハーレイのことが好きでも、膨れたくもなる。海に一人で出掛けるだなんて、ドライブに日光浴なんて。
「ほらな、やっぱり膨れたろうが。…だから今年は、俺一人では行っていないんだが…」
柔道部のヤツらを連れてっただけで、日光浴はそのついでだ。好きなんだがなあ、日光浴。
とはいえ、お前はどうなんだか…。
サイオンはとことん不器用らしいが、アルビノを補えるだけの分なら働いているようだから…。
日焼けなんぞはしないんだろうな、日光浴をしてみても。
俺みたいに浜辺に寝転んでても、とハーレイが言うから、首を傾げた。
「どうだろう? 夏に海に行けば日焼けするかも…」
日光浴ほどに頑張らなくても、遊んでるだけで。夏は暑いし、あんまり外には出ていないから。
でも、ハーレイみたいな肌になるのは無理だけれどね。ぼくの肌、元が白すぎるもの。
そういう色にはなれそうにないよ、と見詰めた恋人の褐色の肌。如何にも健康そうな色。
「これは生まれつきだ、日焼けじゃないぞ」
生まれた時からこういう色だし、日光浴で日焼けしたわけじゃない。勘違いしてくれるなよ?
俺の肌はこうだ、とハーレイが指差す自分の顔。「身体中、この色なんだがな?」と。
「前のハーレイもそういう肌だったから、そうだろうとは思うけど…」
もっと黒くはならないの?
ブラウほどにはならなくっても、もっと色の濃い肌になるとか…?
日光浴を沢山してたらどうなるの、と興味津々。日焼けしたハーレイも気になるから。この家をせっせと訪ねて来ていなかったら、ハーレイの夏は海で日光浴らしいから。
「日光浴の効果ってヤツか…」
人によっては効果てきめん、小麦色になるヤツも多いが…。
俺の場合はこのままだよなあ、元の肌の色がこういう具合なモンだから。
ガキの頃から其処は同じだ、夏休み中、外を駆け回っていても真っ黒になりはしなかった。俺と一緒に遊んだヤツらが、こんがりと日焼けしちまっても。
あれはちょっぴり残念だったな、子供心に。
夏休みに遊んだ思い出ってヤツが、俺の肌には残ってくれないわけだから。
日焼けした友達が羨ましかった、と子供時代を懐かしむハーレイ。悪ガキだったと何度も聞いているから、活動的な夏休みだったのだろう。肌の色が元から濃くなかったら、小麦色にこんがりと日焼けするほどに。
「俺は日焼けは無理なんだが…。お前だったら、日焼け出来るかもしれないな」
元が真っ白でも、ほんの少しなら。小麦色とはいかなくても。
真っ白ではなくなるかもしれん、とハーレイが顔を覗き込むから、想像してみた日焼けした顔。今の肌の色が日焼けしたなら、どうなるのかと。
ほんのちょっぴり、肌に乗せてみた小麦色。ランチ仲間たちの肌の色などを参考にして。
(んーと…?)
ぼくじゃないよ、と思った自分の顔立ち。肌の色が白くなくなっただけで。
「…白くない、ぼく…。印象、変わってしまいそう…」
なんだかヤンチャそうな感じで、悪戯だってしていそう…。ハーレイの子供時代みたいに。
ケガをしそうな遊びなんかは、ぼくにはとても出来ないけれど…。
「ふうむ…。そう言われれば、そうかもなあ…。お前が白くなくなったらな」
チビのお前だと、悪戯小僧って気もしないではないが…。それはお前がチビだからで、だ。
もっと育ったお前だったら、健康的でいい感じかもしれないな。ひ弱そうには見えないから。
一度、日焼けをしてみるか?
お前が大きく育ったら…、という提案。「健康的に日焼けしちゃどうだ?」と。
「日焼けって…。海で?」
ハーレイがドライブに連れてってくれて、海で泳いで、日光浴も…?
ぼくも一緒に日光浴なの、浜辺なんかで寝転がって…?
「その通りだが? やるんだったら、俺がオイルを塗ってやるから」
日光浴用のオイルがあるんだ、健康的に日焼けするための。…愛用している人も多いぞ。
「日焼け用って…。日焼け止めじゃなくって、日焼け用なの?」
「夏の海辺じゃ、人気のアイテムなんだがな? その手のオイルは」
日焼けしたいなら、ムラにならないよう、心をこめて塗ってやる。
見たい気分になって来たしな、日焼けしたお前。
そんなお前は、前の俺だって知りやしないし、見てみたい気持ちもしてくるだろうが。
小麦色とはいかなくても…、とハーレイも想像しているらしい。チビではなくて、育った恋人が日焼けしたなら、どうなるか。どんな印象になるものなのか、と。
(育ったぼくだし、ソルジャー・ブルーが日焼けした顔になるんだよね?)
思い描いた、大きく育った自分の顔。真っ白な肌の色を変えたら、ソルジャー・ブルーは消えてしまった。同じ目の色と髪の色でも、まるで変わってしまう印象。
だから…。
「ぼくも、ちょっぴり見てみたいかも…」
日焼けしちゃった顔になったら、ソルジャー・ブルーに見えないみたい。別の顔だよ。
面白そうだし、日焼けもいいかも…。ハーレイにオイルを塗って貰って、浜辺で日光浴をして。
そしたら日焼けするんだよね、と乗り気になった日焼け作戦。いつか大きくなった時には、海に出掛けて泳いで、日焼け、と。
「おっ、やろうって気になったか? だが、ほどほどにしておけよ?」
お前の想像、小麦色の肌のソルジャー・ブルーみたいだが…。そこまでの日焼けは無理だろう。元が白いし、とてもじゃないが焼けやしないぞ。
それに欲張って日焼けをすると痛いんだ。少しずつなら大丈夫でも。
適度な所で切り上げないと…、とハーレイに教えられた日焼けのコツ。欲張らないこと。
「欲張るなって…。ホントに痛いの、欲張ったら?」
もうちょっと、って頑張っていたら、日焼けで痛くなっちゃうの…?
「お前、サイオンが不器用だからな…。上手い具合にカバー出来るって気がしなくてなあ…」
アルビノの方なら生まれつきだし、きちんとサイオンが働いてるが…。日光浴だと、サイオンはまるで働かないかもしれないぞ。日焼け、したことないだろう?
普通はガキの間に学んで、自然と加減が出来るようになっていくんだが…。
お前の場合は、サイオンが不器用なのに加えて、サイオン抜きだと肌が弱い筈のアルビノだ。
うっかり日焼けを欲張った時は、「痛い」と騒いでいそうでなあ…。
その辺のガキなら子供時代にとっくに済ませているのを、今頃になって。
「…そうなのかも…」
言われてみれば、そういう友達、いたような気が…。
うんと小さい頃だけれども、日焼けしちゃって、触っただけでヒリヒリする、って…。
おぼろげだけれど、覚えていること。「痛い」とベソをかいていた友達。あれは幼稚園の頃で、どうやら普通は、その年くらいで覚えるらしい。日焼けと、それをサイオンでカバーする方法。
けれど自分に経験は無くて、おまけにアルビノ。下手に日焼けをしたならば…。
「でも…。ぼくが日焼けして痛くなったら、ハーレイが面倒見てくれるんでしょ?」
とっても痛い、って言い出した時は、きちんと手当て。
「手当って…。日焼けのか?」
あれは病気じゃないんだが…。赤くなった後は、ヒリヒリ痛みはするんだがな?
後は個人差だな、皮が剥けるってタイプもあれば、剥けないヤツもいるわけで…。お前の場合はどっちだろうなあ、アルビノの日焼けの話は知らんし…。
「火傷みたいなものでしょ、日焼けは! 手当てしてよ!」
ぼくは痛くてたまらないんだし、冷やすとか、薬を塗ってくれるとか!
「うーむ…。日焼けしたお前は見てみたいんだが、そういったリスクを考えるとだ…」
日焼け、やめておく方がいいよな、そうなっちまう前に。痛くなったら辛いんだから。
痛い目に遭うのはお前だぞ、とハーレイは止める方に回った。「日焼けしてみろ」という意見を変えて。さっきまで日焼けを勧めていたのに。
「ぼくも痛いのは嫌だけど…。でも、ハーレイと海には行きたいし…」
日光浴をするハーレイも見たいよ、海で泳いでいるハーレイもね。だから日焼けも我慢する…。
「俺と一緒に海だってか? それならパラソルを借りることにしよう」
お前はそいつの陰にいろ。日陰だったら安心だからな、日焼けもしないし。
「やだ!」
ハーレイが海で泳ぐんだったら、ぼくだって、ついて行きたいってば!
日焼けをしたってかまわないから、日陰で留守番なんかはしないよ!
絶対に嫌だ、と拒否した留守番。パラソルの陰がいくら安全でも、一人でポツンと待つなんて。
きっと賑わっているだろう海辺、其処で一人でハーレイを待っているなんて。
「お前なあ…。俺は沖まで泳いで行っちまうんだぞ?」
そんな所まで、お前、ついては来られんだろうが。
ただでも水には長い間、入っていられない身体らしいしな?
ちゃんと大人しく浜辺で待ってろ、パラソルの陰で本でも読んで。
日光浴もするんじゃないぞ、とハーレイは諦めさせようとしているけれど。泳いで沖から戻ってくるまで、待たせるつもりらしいのだけど…。
「浮き輪を持つから、大丈夫だよ」
上に乗っかって一休みすれば、そんなに身体は冷えないから…。
うんと大きな浮き輪があるでしょ、上に乗っても大丈夫な形をしているヤツが。
イルカの形とか、色々なのが…、と思い浮かべた頼もしい浮き輪。あれがあったら、沖の方まで一緒に行っても大丈夫、と。
「デカイ浮き輪か…。あれを抱えてついてくるってか、俺と一緒に?」
そこまで言うなら、ゴムボート、曳いて泳いでやろうか?
ゴムボートの上なら疲れないしな、浮き輪を抱えてせっせと泳いで行くよりは。
ずいぶん楽になる筈だぞ、とゴムボートに乗せて曳いて行ってくれるらしいから…。
「ゴムボートって…。いいの?」
ぼくを乗っけて引っ張るだなんて、ハーレイ、疲れてしまわない?
沖まで行くなら、とても大変だと思うけど…。ホントに乗せて行ってくれるの?
「俺を誰だと思っているんだ、大したことではないってな。お前を連れて泳ぐくらいは」
だが、パラソルまではついて来ないぞ、ゴムボートには。
日焼けしちまってもいいと言うなら、一緒に沖まで行こうじゃないか。
後で「痛い」と泣くんじゃないぞ、と脅された日焼け。日陰が無いなら、本当に日焼けしそうな気がしないでもないけれど…。
「痛くなっても我慢するよ!」
日向も日陰も、本物の地球のお日様のお蔭で出来てるんだし…。日焼けも、そのせい。
だから日焼けで痛くなっても、ぼくは後悔しないってば!
ハーレイと一緒に沖に出られるなら、お日様で日焼けしてもいい、と宣言した。
その時が来たら、「日陰がいい」と注文するのも忘れて、ゴムボートの上で揺られていそう。
「地球のお日様だよ」とニコニコしながら、燦々と夏の日射しを浴びて。
そのせいで、後で「痛い」と泣く羽目になっても、ハーレイと沖まで出掛けてみたい。
地球の太陽を一杯に浴びて、真っ青な真夏の地球の海の上を。
二人きりの世界を満喫しながら、日陰すら無い日向の世界を、青い水平線に向かって…。
日向と日陰・了
※前のブルーがこだわっていた、踏みしめるための地面。ミュウは持っていない、と。
けれど同じに持っていなかったものが、太陽。必要なものは、地面だけではなかったのです。
ところで、ハレブル別館ですけど、アニテラ自体が、既にニーズが皆無な今。
来年は月に1度の更新に変えて、もう1年だけ続けてみます。その後は、未定。
毎日更新のシャングリラ学園場外編の方は、やめる予定はありませんので、よろしくです。
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暑いかな、とブルーが見上げた太陽。学校の帰りに、バス停から家まで歩く途中で。
今日は快晴、そのせいなのか、この季節にしては強く感じる日射し。燦々と照っているように。
(夏みたい…)
今日のお日様、と思うくらいに眩しい太陽。照らされていたら、頬が痛いという気もする。気のせいなのか、本当に日射しが強すぎるのか。
頬っぺたが痛いのは嬉しくないから、影の中に入ることにした。道に木たちが落としている影。そうして日射しが遮られたら、頬の痛さは無くなった。さっきまで感じていた暑さも。
(これでピッタリ…)
痛くもないし、暑くもないよ、とホッと息をついた木の影の中。何処の家にも庭木があるから、道まで影が差している。上手い具合に、途切れないように。
そういう日陰を選んでいこう、と歩き始めた帰り道。丁度いい具合の日陰という場所。家までは遠くないのだけれども、同じ歩くなら心地良い方がずっといいから。
大きく道に張り出した枝が作る影やら、背の高い木が落とす影やら。その中を通って、日射しを避けて家まで帰り着いたのだけれど…。
(あれ?)
生垣の所の門扉を開けようとして、ハタと気付いた。気持ちがいい、と選んで歩いて来た日陰。木たちの影が落ちている場所を、ずっと家まで来たのだけれど。
日陰という場所、それを寒いと感じる日もある。今の季節はそうではなくても、冬になったら。
(おんなじ日陰なんだけど…)
寒い時には、とっても寒いよ、と歩いて来た道を振り返ってみた。同じ日陰でも、真冬になれば雪が残ったり、一日中、ツルツルに凍っていたり。太陽が当たらないせいで。
そんな時には、日向を選んで歩きたくなるもの。少しでも暖かい方がいいから。
(あっちの方とか、よく凍っているしね…)
ツルリと滑るのは面白いけれど、直ぐに日向へ出たくなる。少し遊んで、満足したら。
残っている雪で遊ぶ時も同じ。「まだ残ってる」と、足や傘なんかでつついてみたって、日向に戻ってゆきたくなる。「此処は寒いよ」と、暖かな太陽の光の中へ。
同じ道路で、同じように日陰なんだけど、と見てみる道。「今日は日陰がいいんだけどな」と。
門扉を開けて庭に入って、「ただいま」と帰り着いた家。制服を脱いだら、ダイニングに行っておやつの時間なのだけど。
(えーっと…)
日向と日陰と、自分はどっちが好きなんだろう、と首を捻った。母が焼いたケーキを頬張って。
ダイニングの大きなガラス窓の向こう、庭にも見える日向と日陰。太陽が明るく照らす日向と、影に入っている日陰。
庭で一番大きな木の下、其処に据えられた、お気に入りの白いテーブルと椅子。木の下だから、今はもちろん、日陰に置かれているけれど…。
(お天気のいい日は、日向に出して…)
ハーレイと午後のお茶を楽しむこともある。二人でゆっくり過ごせる週末、その日がいい天気で晴れていたなら。日射しも今日ほど強くない日で、柔らかな光だったなら。
(だけど、あのテーブルと椅子が届いた夏の間は…)
お茶にする時は、必ず日陰。木陰から出しはしなかった。
父が白いテーブルと椅子を買うよりも前は、ハーレイが愛車で運んで来てくれた、キャンプ用の椅子とテーブルでお茶。そのテーブルたちを、ハーレイが最初に据えたのも…。
(あそこの木の下…)
日射しが強くて、飲み物だって冷えたレモネードだったような季節。日向だったら、弱い身体が悲鳴を上げる。「こんな場所には、とてもいられない」と。
お蔭で庭のテーブルと椅子は、今でも庭で一番大きな木の下が定位置のまま。お茶にする時は、その日の気分で日向を選びもするけれど…。
(それは今だからで、夏の間は絶対に無理で…)
日向でお茶など、とんでもない。今日よりもずっと眩しくて肌に痛い日射しが、上からジリジリ照り付けるから。…ハーレイとお茶を楽しむどころか、それではまるで我慢大会。
(ぼくって、どっちが好きなのかな…?)
日向と日陰と、どちらか一つを選ぶなら。
今日の帰り道は、日陰を選んだのだけど。そちらがいいと思ったけれども、季節で変わるだろう自分の好み。日向がいいのか、日陰が好きか。
お気に入りの白いテーブルと椅子でも、日によってそれを置きたい場所が変わるのだから。
簡単に決められはしないよね、と考えながら戻った二階の自分の部屋。空になったお皿やカップなんかを、キッチンの母に「御馳走様」と返してから。
(日向と日陰かあ…)
部屋の窓から見下ろしてみても、両方がある家の庭。日が当たる場所と、当たらない場所。同じ芝生でも変わる表情、日向か、日陰か、どっちなのかで。
(日が当たってたら、うんと明るい緑色で…)
とても元気そうに見えるのが芝生。日陰の方だと、少し弱々しい感じ。どちらもきちんと手入れしてあるし、見た目は変わらない筈なのに。
なんとも面白いのが日向と日陰で、それを考えてみたくなる。勉強机の前に座って。
(今のぼくだと、その日の気分で変わるんだけど…)
日向と日陰を選ぶ時。暑い日だったら断然、日陰。寒い日だったら、日向を選びたい気分。融け残った雪で遊んでみようと、日陰に入る時はあっても。
(前のぼくだと、どっちが好き?)
ソルジャー・ブルーと呼ばれた頃なら、どちらを好んでいたのだろう。日向か、日陰か。
白いシャングリラで長く暮らした、青の間は薄暗かったけれども。
(あれは、前のぼくが暗くしていたわけじゃなくって…)
青の間を広く見せるためにと、勝手に決められた明るさだった。薄暗くして、照明の数を絞っておいたら、部屋の全貌は見渡せない。サイオンを使って見ない限りは。
「ソルジャーの部屋は広いほどいい」と、演出のために暗くされてしまった青の間。部屋の壁が見えてしまっているより、壁も天井も見えない方が広く感じられるから。
(部屋を作る時には、あんな暗さじゃ作業できないから…)
工事用にと明るい照明もあったというのに、完成したら取り外された。「もう要らない」と。
お蔭で、青の間は昼でも薄暗いまま。深い海の底にあるかのように。
(暗い方がいいよ、って前のぼくは思っていなかったのに…)
仕方なく諦めていただけのことで、あれは自分の好みではない。もっと明るい方が良かった。
暮らす分には、特に不自由は無かったけれども、こけおどしの演出で暗い部屋よりは…。
(全体が見えて、みんながビックリしない部屋…)
そういう部屋が欲しかった。「ソルジャーの部屋はこうか」と思える、親しみやすい部屋が。
青の間の薄暗さを、前の自分が好んだわけではないのなら。好きでああいう照明にした、という話などまるで無いのなら…。
(前のぼくが好きなの、日向なのかな?)
日陰よりは、と遠い記憶を探ってみる。青の間とは逆の、明るい場所が好きだったろうか、と。
アルテメシアに降りた時には、日射しの中にいたことが多い。太陽の光を浴びられる場所に。
(太陽の下にいるっていうのが、とても嬉しくて…)
その光の中にいようとしたから、前の自分は、きっと日向が好きだった。日向か日陰か、好みで選び取るならば。好きに選んでいいのなら。
でも…。
(シャングリラの中には、日向、無かった…)
それに日陰も、何処にも無かった。
青の間でなくても、あの船の中で一番広かった公園でも。…ブリッジが見えた、シャングリラの皆が大好きだった大きな公園。あそこでさえも、無かった日向。
白いシャングリラに太陽は無くて、人工の照明が作る影だと、その向きさえもバラバラだった。日陰を選んで歩きたくても、きちんと並んではいなかった影。同じ方へと、同じ角度では。
その上、本物の太陽ではなくて照明だから…。
(日向も日陰も、選べないよ…)
暑すぎるだとか、寒すぎるだとか、そういったことは無かった船。公園の温度は季節に合わせて調整されたし、照明の明るさや強さなどとは無関係。
本物の太陽が照らしていたなら、眩しすぎる日もあっただろうに。逆に日陰では寒いと感じて、日向に出たいと思う時だって。
けれど船には無かった太陽。日向も日陰も出来はしない船。
だから日向が好きだったろうか、前の自分は?
シャングリラの外に出掛けた時には、太陽の下を好んだろうか。本物の太陽の明るい日射しを。
(地球の太陽ではなかったけれど…)
太陽と呼ばれる恒星の一つではあった、アルテメシアの空に輝く太陽。朝に昇って、夜は沈んでしまう本物の「太陽」があって、それの下にいるのが好きだった自分。
だとしたら…。
船の外へと出られた自分。ソルジャーとしての役目を果たしに、アルテメシアに何度も降りた。ミュウの子供の救出作戦を手伝うだとか、人類側の動きを探るためなどに。
前の自分は、そうやって外に出られたけれど。外に出た時に太陽があれば、日射しを浴びられる日向にいたりしたけれど…。
(シャングリラの外に出られなかった、ハーレイたちは…)
前の自分よりも、もっと太陽に憧れたろうか。日向に出たいと、太陽の下に立ってみたいと。
日向も日陰も、無かった船にいたのでは。公園の温度が低めに設定された冬にも、日向ぼっこも出来ないような船で暮らしていたのでは。
(公園の温度が低すぎるから、って…)
凍えてしまうことなどは無いし、日向ぼっこの必要は無い。けれど、代わりに太陽も無い。太陽さえ空に輝いていたら、冬でもあるのが日向と日陰。暖かい日向と、寒い日陰と。
(そっちの方が、断然いいよね?)
此処は寒い、と日向を求めることになっても、人工の光の公園よりは。…暑すぎる夏は、日陰を探して入らなければ、肌に光が痛いほどでも。
(空にお日様があるんなら…)
きっと光を浴びたくなる。前の自分がそうだったように、船から外に出られたならば。
そうする機会が無いとなったら、増してゆくだろう太陽への憧れ。船の仲間たちは、そう考えていたのだろうか。「太陽の下に立ってみたい」と、「日向に出たい」と。
(そうだったの…?)
まるで考えてもみなかった。
白いシャングリラの中だけで暮らした、ミュウの仲間たちの太陽への思い。
(外の世界で暮らしたいだろう、って…)
踏みしめる地面を求めたけれども、そのために地球を目指したけれど。
地面があるなら、もちろん空には太陽がある。夜の間は沈むけれども、朝になったら東の空から昇って来て。
夏には避けたくなるほどの日射し、冬には恋しくなる陽だまり。
それらをもたらす太陽の光、その下に立つ日を夢見た仲間は、きっと少なくなかっただろう。
前の自分は思いもしなくて、ただ地面だけを求めたけれど。宙に浮いたままの箱舟よりは、と。
ようやく気付いた、仲間たちの気持ち。「日向に出たかったかもしれない」と。
もっとも、日向を手に入れるのなら、やはり地面が必要だけれど。…足の下に踏みしめる地面が無ければ、日向や日陰を作る太陽も無いのだけれど。
(だけど、お日様、欲しかったよね…?)
前のハーレイたちもそうだよ、と前の自分と重ねてみる。アルテメシアに降りた時には、太陽の下を好んだ自分。「日向が好きだ」という自覚は無くても、自然とそちらを選んでいた。
ならば、船から外に出られなかった前のハーレイや、船の仲間たちは…。
(ぼくよりもずっと、日向が大好き…)
願っても手に入らない分だけ、憧れも増したことだろう。輝く太陽の下に立つこと、日向に出て日射しを浴びること。たとえ肌には痛かったとしても、それが本物の太陽ならば。
きっとそうだ、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「あのね、ハーレイ…。日向と日陰と、どっちが好き?」
ハーレイが好きなのはどっちなのかな、日向か、日陰か。
「はあ? どっちかって…」
何の話だ、とハーレイは怪訝そうな顔。「日向か日陰かって、どういう意味だ?」と。
「そのままだってば、お日様のことだよ。お日様があれば、出来るでしょ?」
日向も、それに日陰だってね。ハーレイはどっちの方が好きなの、日向と日陰じゃ…?
「そりゃ日向だなあ、選ぶとなれば。外で泳ぐんなら、断然、日向だ」
海にしたって、プールにしたって、お日様ってヤツが似合うじゃないか。水飛沫には。
こうキラキラと光って弾けて、「泳いでるんだ」と実感できる。太陽の下で。
もっとも、海だと、日陰なんぞは無いに等しいようなモンだが…。浜辺以外では。
ついでに無駄に暑い時には、日陰が恋しくなったりもするな。ちょいと休憩しようって時には、日陰に入ることだってある。「こりゃ、たまらんぞ」と日射しを避けて。
「同じだね、ぼくと」
その日の気分で、日向か日陰か、好きな方を選んでるんだけど…。
庭のテーブルと椅子もそうでしょ、木の下でお茶を飲む時もあるし、日向に出す時も。
ハーレイも、今だとぼくと同じみたいだけど、前のハーレイだったら、どう…?
前のハーレイなら、どうだったの、と投げ掛けた問い。「どっちの方が好きだった?」と。
「ハーレイがシャングリラで暮らした頃だよ、好きだったのは、どっち?」
日向だったか、それとも日陰か。前のハーレイだと、どっちになるの…?
「前の俺だって? キャプテン・ハーレイだった頃の、俺の好みのことだよな…?」
改めて、そう訊かれても…。そもそも太陽が無かったからなあ、あの船じゃ…。
農場用だとか、公園用にと、それらしい光を作っちゃいたが…。自然光に似せた照明ってヤツはあったが、あれは所詮は照明だ。日向や日陰は出来なかったな、船の中では。
そういったことを考えてみると、日向の方になるのかもしれん。どちらかを一つ選ぶなら。
日陰に入れば、太陽の光を直接浴びるのは無理だから…。遮られちまって、届かなくて。
空に太陽があるんだったら、そいつの光をたっぷりと浴びてみたいじゃないか。暑すぎようが、クラクラするほど眩しかろうが。
そうだな、やはり日向だよなあ、前の俺なら…。
選ぶなら日向の方だろう、と返った答え。前のハーレイが憧れたものは、やはり太陽の光。踏みしめられる地面の上に立つのと同じに、太陽の下に立ってみたかった、と。
「そうなんだ…。やっぱり、思った通りだったよ…」
日向か日陰か、前のぼくはどっちが好きだったのか、思い出してみていたんだけれど…。
前のぼくも日向が大好きだった。アルテメシアに降りた時には、太陽の下にいようとしてた…。
それで、前のハーレイや船の仲間も、そうだったかも、って気が付いて…。
ぼくの考えで合ってたんだね、前のハーレイも日向が好き。太陽の光が当たってる場所が。
前のぼくはちっとも気付いていなくて、地面のことばかり考えていたよ。シャングリラは降りる地面が無かった船だし、「この船は宙に浮いているんだ」って。
いつか降りられる地面が欲しくて、そればかり思っていたけれど…。
地面だけじゃなくて、お日様だって欲しかったよね。地面に降りたら、太陽も一緒についてくるもので、手に入れることは出来るんだけど…。ミュウが地面に降りられたなら。
だけど、其処まで考えが回っていなくって…。
ごめんね、前のハーレイたちの気持ちも知らずに、あの船の中に閉じ込めちゃって。
お日様の光も当たらない船で、日向も日陰も出来ない船。
みんな、太陽が欲しかったんだろうと思うのに…。地面のことばかり言うような、ぼくで…。
何も分かっていないソルジャーだったよ、と項垂れた。
船の仲間たちが焦がれているもの、それが太陽だと気付きもしない、愚かなソルジャー。いつか地球へと繰り返しはしても、目指していたものは地面だけ。ミュウが踏みしめられる地面で、その上を照らす太陽の方には、まるで関心が無いままで。
「ホントにごめん…。太陽が無かった船だったのに、ぼくは地面の方ばかり見てて…」
船のこと、分かっていなかったかも…。船のみんなが、何を求めていたのかも…。
あの船だけで満足しちゃって、と零した溜息。「足りないものは地面だけだ」と、地球に辿り着く日を夢見ていたとは、どれほど愚かだったのか、と。
白いシャングリラは、地面ばかりか太陽も持たない船だったのに。皆が焦がれただろう日向は、船の何処にも無かったのに。
「何を言うんだ、シャングリラは立派な船だったのに…。ただの船じゃなくて、箱舟だぞ」
人類に追われるミュウたちを乗せて、いつか地面に降りられる日まで、命を繋ぐための箱舟。
乗りさえしたなら、殺されずに生きてゆけるんだ。箱舟だからな。
それだけでも素晴らしい船だというのに、名前通りに楽園だったぞ?
船の中だけで全て賄えて、自給自足で飛んでいられる船。前の俺たちには充分すぎる船だった。あれよりも凄い船が欲しいと言うようなヤツは、ただの一人もいなかったろうと思うがな…?
そんな贅沢な仲間は知らん、とハーレイは自信たっぷりだった。船を預かるキャプテンとして、皆の要望にも目を通し続けていたわけだから。
「でも、お日様…」
誰も文句を言わない船でも、お日様が無かったことは本当。
農場も公園も、何処も人工の照明ばかりで、温度の調節と照明は別…。
本物の太陽があるんだったら、太陽の熱が必ず関係してくるのにね。季節の移り変わりにも。
だけど、シャングリラはそうじゃなくって…。
太陽が無いから、日向も日陰も出来なかった船で、前のハーレイだって日向が憧れ…。
選べるんなら、日向が良かった、って言ったでしょ?
前のハーレイがそう思うんなら、他のみんなが考えたことも同じだろうし…。
それでも、あの船は充分すぎる船だって言うの?
地面も無ければ、太陽も無いような船の中だけが、みんなの世界の全部になっていたんだよ…?
大切なものが欠けちゃっていた楽園じゃない、と挙げた地面と太陽。白いシャングリラが持っていなかったもの。「楽園」という名を持っていようと、所詮は箱舟。
「そんな船でも良かったって言うの、前のハーレイだって、太陽の光が欲しかったんでしょ?」
日向が好きだ、って言えるくらいに、太陽の下に立ちたかったのに…。
それなのに太陽が無かった船、と挙げた欠点。地面ばかりか、太陽も無かったシャングリラ。
「まあな。…それについては否定はせんが…」
前の俺だって、太陽の光は欲しかった。アルテメシアの太陽でもいい、思い切り浴びられる日が来たならば、と考えたことが無かったとは言わん。…お前と違って、外には出られなかったから。
前のお前と、潜入班のヤツら以外は、太陽の下には立てやしなかった。いつも船の中で。
しかし、そういう日々だったからこそ、前の俺たちは地球を目指せたんだ。
前のお前がいつも言ってた、踏みしめられる地面。…宙に浮いていない世界で生きたかったし、空には輝く太陽が欲しい。地球に着いたら、それが手に入るんだから。
地面と太陽、何処かの星の上で暮らしていたなら、当たり前に其処にある筈だろう?
地球はもちろん、アルテメシアでも、ノアでも、人間が生きられる星だったなら、何処だって。
それを持てずにいたのがミュウだ。前の俺たちは、どちらも持っていなかった。地面も、地面を照らす太陽も、船の中では手に入らない。
そのせいでナスカが余計に素晴らしく見えたんだろうな、若いヤツらには。
地球とは違う星だというのに、すっかり魅せられちまったわけだ。欲しかったものが、ナスカの上にあったお蔭で。…古い世代なら、そいつを地球に求めるんだが。
地面も太陽も、地球でこそだ、とハーレイは苦い顔をする。「ナスカは仮の宿に過ぎん」と。
「そっか、お日様…。ナスカに降りたら、太陽もついてくるものね」
地面に降りて、其処で暮らして、野菜を育てて、トォニィたちも生まれたけれど…。
あのナスカには、地面の他にも大切なものがあったんだね。…船のみんなが欲しかったものが。
空には本物の太陽があって、それが地面を照らしてて…。
「地球じゃないから、太陽は二つあったがな」
二つもあるのはどうかと思うが、若いヤツらは気にしちゃいなかったんだろう。
ナスカはこうだ、と思ってしまえば、一つだろうと、二つだろうと…。
太陽には違いないんだからなあ、燦々と光を降らせてくれれば、充分なように思えたんだな。
すっかり惑わされちまって…、とハーレイが嘆くナスカという星。地球とは違った赤い惑星。
おまけに輝く二つの太陽、ジルベスター星系の中心の星は連星だった。地球を擁するソル太陽系なら、太陽は一つきりなのに。アルテメシアがあったクリサリス星系でも、そうだったのに。
それでも太陽には違いないから、地面の上に出来た日向や日陰。
ナスカの夏には眩しい日射しが照り付けていたし、冬には暖かな陽だまりがあった。太陽が二つある星とはいえ、その恵みを受けて育つ作物。外にいれば降り注ぐ太陽の光。
(…ハーレイは、惑わされたって言うけど…)
誰もが長く焦がれていたもの、それが目の前に現れたならば、誰だって夢中になるだろう。古い世代なら、ミュウの未来を憂えるけれども、若い世代が思うミュウの未来は…。
(自分たちの未来で、ミュウ全体のことじゃないよね?)
いくら歴史を教えられても、若い世代はアルタミラの惨劇に出会ってはいない。燃える炎の中を走って、地獄で命を拾ってはいない。過酷な人体実験も知らず、人類に追われた経験さえも…。
(シャングリラに来る前に、ユニバーサルの保安部隊に追われた程度で…)
幸運な者は、それさえ知らない始末。早い段階で救出されたら、保安部隊の姿すらも目にせず、小型艇で船に連れて来られただけなのだから。
そういう世代に、「他のミュウたちのことを思え」と、説くだけ無駄というものだろう。彼らは言わば井の中の蛙、自分たちが見聞きしたことが全て。
(他の星でもミュウが生まれ続けてて、なんとかしないと、みんな殺されるだけで…)
それを止めるには「地球に行き着く」ことしか無い、と唱えたところで分かる筈もない。安全に暮らせる場所があるのに、どうして危険を冒さなければいけないのか、と考えるだけ。
「ナスカにいれば安全なのに」と、「此処で生きればいいじゃないか」と。
踏みしめられる地面もあれば、空に輝く太陽もある。日向も日陰も生まれる世界。
(此処でなら、生きていける、って…)
思ってしまえば、他のことはもう、頭には入らないだろう。
ナスカを持たない頃だったならば、「いつか地球へ」と、古い世代と同じに思って育っても。
地面と太陽が欲しいのだったら、地球へ行かねば、と考えていても。
(どっちも手に入れたんだから…)
もう地球に行く必要は無い。自分たちだけの未来だったら、ナスカがあれば充分だから。
そう考えた末に、彼らは道を誤った。天国のようだと思ったナスカに魅せられすぎて。赤い星に魂を奪われすぎて、取り戻すことが出来なくて。
「ナスカって…。若い世代には、地球みたいに見えていたんだと思うよ」
地面があって、太陽もあって、欲しかったものが一度に手に入った星。…シャングリラの中には無かったものがね。地球に行かなきゃ、手に入らないと思ったものが。
いろんな意味で、とても大事な星になってしまっていたんだと思う。地球でなくても、ナスカで何でも手に入るんだ、って。地面も、それに太陽も。
それにトォニィたちまで生まれちゃったら、ますますナスカを手放せないよ。地球よりも素敵に思えていたかも、ミュウの故郷みたいにね。
そうじゃないかな、と問い掛けてみたら、ハーレイも否定しなかった。
「地球とは違う、ってことを除けば、人間らしく生きられる場所ではあったな。…あの星は」
足の下には地面があって、頭の上には太陽だから。…どっちも船には無かったものだ。
やっと普通の暮らしが出来る、と若いヤツらは飛び付いちまって、夢中になって…。仮の宿だということさえも、いつの間にやら忘れちまった。あまりに居心地が良かったから。
ただし、そいつにこだわり過ぎると、命を落としちまうんだが…。
キースの野郎がやって来た時点で、危ないと思うべきなのに。しかもキースは逃げてしまって、どう動くのかも分からない。…普通だったら、逃げようと考えそうなモンだが…。
それさえも思い付かないくらいに、ナスカという星は魅力的だったというわけか…。
撤収しろ、と出された命令を、古い世代の陰謀みたいに考えるほどに。
これが船なら、直ぐに危険に気付くんだが…、とハーレイがフウと零した溜息。実際、船なら、皆はそうしただろうから。
白いシャングリラで警戒警報が鳴って、「総員退避」と繰り返されたら、誰だって逃げる。船の中央の安全な場所へ、先を争うようにして。
「そうだね、船なら、そうなってたね…」
キースが逃げたっていう話が無くても、警報だけで逃げ出すよ。これは危ない、って。
だけどナスカは、船の中とは違ってたから…。
とても素敵な星を手に入れて、まだまだ夢も一杯あって…。そっちに頭が向いちゃった。
「此処で逃げたら、全部失くしてしまう」って。行きたくもない地球に行くしかない、って。
勘違いをした若い世代。赤いナスカを離れ難くて、「手放したくない」としがみついて。
冷静になって考えさえすれば、身の安全が第一なのに。今はどういう状況なのか把握したなら、誰だって直ぐに危険だと気付く。逃げたキースは、メンバーズエリートなのだから。
けれど彼らは、ナスカという星に酔っていた。其処での暮らしにすっかり魅せられ、何処よりも安全で、素晴らしい場所だと思い込んで。
「シェルターに入れば安全だ、って考えていても、メギドには敵わないんだけれど…」
ミサイルだって、直撃されたら、シェルターなんかは一瞬で壊れてしまうんだけど…。
それも分からずに、みんなナスカに残ってしまって…。船で警戒警報が鳴ってる時より、ずっと危ないことにも気が付かないままで…。
地面とお日様があった場所だし、きっと気が緩んでいたんだね。「此処なら絶対、大丈夫」っていう風に。…ミュウが手に入れた星だったから。
そうなっちゃったのも分かる気がするよ、ソルジャーじゃない、今のぼくなら。
お日様の光はとても素敵だもの、日向も日陰も好きに選べて。
こっちがいいな、って選びさえすれば、暖かくもなるし、涼しくもなるし…。地面もいいけど、太陽も素敵。ナスカだったら、太陽は二つらしいけれどね?
前のぼくは見ていないけど、と苦笑したナスカの二つの太陽。赤いナスカには降りていないし、太陽を目にすることは無かった。その太陽が作る、日向も日陰も。
「日向と日陰か…。今なら選び放題だよなあ、本物の地球の太陽で」
どっちが好みか決める時にも、その日の気分で選んでいいんだ。一日の内にも、何回も。
のんびり日光浴も出来れば、涼しい日陰で過ごすことも出来る。
前の俺だと、どっちも出来はしなかったんだが…。シャングリラには太陽が無かったからな。
ナスカには二つもあったとはいえ、キャプテンの立場じゃ、ナスカに肩入れすることは出来ん。俺が率先してナスカ暮らしを楽しんでいたら、若い世代が「お墨付きを貰った」と思うしな?
ゼルたちが何と言っていようが、「キャプテンもナスカがお好きだから」と。
「そうなっちゃうよね、ハーレイがナスカ暮らしだと…」
キャプテンも船を降りたんだから、って勝手に噂が流れていそう。
「地球に行くのは止めたらしい」だとか、「みんなシャングリラを降りるんだ」とか。
ハーレイの立場じゃ動けないよね、どんなにナスカで日光浴をしたくても。
「本当にやってみたかったの?」と尋ねてみた、ナスカでの日光浴。キャプテン・ハーレイは、そのキャプテンという立場のせいで、日光浴のチャンスを逃したのか、と。
「おいおい、まさか…。前の俺だぞ、思い付きさえしなかっただけだ」
日光浴ってヤツを考え付いたら、試してみていた可能性はある。どんなモンかと、日向の地面にゴロンと転がったりしてな。
健康的ではあるだろうが、と笑うハーレイなら、確かに試したかもしれない。せっかくナスカを手に入れたのだし、太陽の光を存分に浴びるためにはコレだ、と日光浴を。
「…前のハーレイが、日光浴を思い付かなかったということは…」
やってた仲間がいなかったんだね、ハーレイの目につく所では。…それならいいかな、やろうと思ってても無理だったんなら、前のハーレイが可哀相だから…。
今のハーレイなら、日光浴もしていそうだけれど。
「していないわけがないだろう? 俺の趣味の一つは水泳だぞ」
海や屋外プールだったら、水から上がれば甲羅干しだってしたくなる。いい天気ならな。それが醍醐味というヤツだろうが、外で泳いでいる時の。
前の俺の記憶が戻っていない頃からな、とハーレイはとても嬉しそう。たった今、日光浴をして来たみたいな笑顔で。「日光浴は気持ちいいぞ」と、「髪だって直ぐに乾いちまうし」と。
「ハーレイ、日光浴が好きなんだ…。外で泳ぐんなら、そうなるだろうけど」
幸せそうな顔をしてるよ、「本当に日光浴が大好き」って、見ただけで分かるような顔。
記憶が戻った今なら、前よりもずっと幸せなんだと思うけど…。お日様、地球のお日様だから。
「うむ。夏にたっぷり満喫したなあ、地球の太陽」
お前の所に通っていたから、去年までのようにはいかなかったが…。
一人で海までドライブしてって、泳いだ後には日光浴、っていうのが定番だったんだが。
それをやってちゃ、お前が膨れちまうから…。「どうして来てくれなかったの?」と怒って。
「当たり前だよ、仕事なら仕方ないけれど…」
そうじゃないのに、一人で海までドライブだなんて、酷すぎるから!
ぼくでなくても怒ると思うよ、そんな恋人。
一緒にドライブするならいいけど、一人で出掛けて、おまけに日光浴なんて…!
許すわけないでしょ、と尖らせた唇。いくらハーレイのことが好きでも、膨れたくもなる。海に一人で出掛けるだなんて、ドライブに日光浴なんて。
「ほらな、やっぱり膨れたろうが。…だから今年は、俺一人では行っていないんだが…」
柔道部のヤツらを連れてっただけで、日光浴はそのついでだ。好きなんだがなあ、日光浴。
とはいえ、お前はどうなんだか…。
サイオンはとことん不器用らしいが、アルビノを補えるだけの分なら働いているようだから…。
日焼けなんぞはしないんだろうな、日光浴をしてみても。
俺みたいに浜辺に寝転んでても、とハーレイが言うから、首を傾げた。
「どうだろう? 夏に海に行けば日焼けするかも…」
日光浴ほどに頑張らなくても、遊んでるだけで。夏は暑いし、あんまり外には出ていないから。
でも、ハーレイみたいな肌になるのは無理だけれどね。ぼくの肌、元が白すぎるもの。
そういう色にはなれそうにないよ、と見詰めた恋人の褐色の肌。如何にも健康そうな色。
「これは生まれつきだ、日焼けじゃないぞ」
生まれた時からこういう色だし、日光浴で日焼けしたわけじゃない。勘違いしてくれるなよ?
俺の肌はこうだ、とハーレイが指差す自分の顔。「身体中、この色なんだがな?」と。
「前のハーレイもそういう肌だったから、そうだろうとは思うけど…」
もっと黒くはならないの?
ブラウほどにはならなくっても、もっと色の濃い肌になるとか…?
日光浴を沢山してたらどうなるの、と興味津々。日焼けしたハーレイも気になるから。この家をせっせと訪ねて来ていなかったら、ハーレイの夏は海で日光浴らしいから。
「日光浴の効果ってヤツか…」
人によっては効果てきめん、小麦色になるヤツも多いが…。
俺の場合はこのままだよなあ、元の肌の色がこういう具合なモンだから。
ガキの頃から其処は同じだ、夏休み中、外を駆け回っていても真っ黒になりはしなかった。俺と一緒に遊んだヤツらが、こんがりと日焼けしちまっても。
あれはちょっぴり残念だったな、子供心に。
夏休みに遊んだ思い出ってヤツが、俺の肌には残ってくれないわけだから。
日焼けした友達が羨ましかった、と子供時代を懐かしむハーレイ。悪ガキだったと何度も聞いているから、活動的な夏休みだったのだろう。肌の色が元から濃くなかったら、小麦色にこんがりと日焼けするほどに。
「俺は日焼けは無理なんだが…。お前だったら、日焼け出来るかもしれないな」
元が真っ白でも、ほんの少しなら。小麦色とはいかなくても。
真っ白ではなくなるかもしれん、とハーレイが顔を覗き込むから、想像してみた日焼けした顔。今の肌の色が日焼けしたなら、どうなるのかと。
ほんのちょっぴり、肌に乗せてみた小麦色。ランチ仲間たちの肌の色などを参考にして。
(んーと…?)
ぼくじゃないよ、と思った自分の顔立ち。肌の色が白くなくなっただけで。
「…白くない、ぼく…。印象、変わってしまいそう…」
なんだかヤンチャそうな感じで、悪戯だってしていそう…。ハーレイの子供時代みたいに。
ケガをしそうな遊びなんかは、ぼくにはとても出来ないけれど…。
「ふうむ…。そう言われれば、そうかもなあ…。お前が白くなくなったらな」
チビのお前だと、悪戯小僧って気もしないではないが…。それはお前がチビだからで、だ。
もっと育ったお前だったら、健康的でいい感じかもしれないな。ひ弱そうには見えないから。
一度、日焼けをしてみるか?
お前が大きく育ったら…、という提案。「健康的に日焼けしちゃどうだ?」と。
「日焼けって…。海で?」
ハーレイがドライブに連れてってくれて、海で泳いで、日光浴も…?
ぼくも一緒に日光浴なの、浜辺なんかで寝転がって…?
「その通りだが? やるんだったら、俺がオイルを塗ってやるから」
日光浴用のオイルがあるんだ、健康的に日焼けするための。…愛用している人も多いぞ。
「日焼け用って…。日焼け止めじゃなくって、日焼け用なの?」
「夏の海辺じゃ、人気のアイテムなんだがな? その手のオイルは」
日焼けしたいなら、ムラにならないよう、心をこめて塗ってやる。
見たい気分になって来たしな、日焼けしたお前。
そんなお前は、前の俺だって知りやしないし、見てみたい気持ちもしてくるだろうが。
小麦色とはいかなくても…、とハーレイも想像しているらしい。チビではなくて、育った恋人が日焼けしたなら、どうなるか。どんな印象になるものなのか、と。
(育ったぼくだし、ソルジャー・ブルーが日焼けした顔になるんだよね?)
思い描いた、大きく育った自分の顔。真っ白な肌の色を変えたら、ソルジャー・ブルーは消えてしまった。同じ目の色と髪の色でも、まるで変わってしまう印象。
だから…。
「ぼくも、ちょっぴり見てみたいかも…」
日焼けしちゃった顔になったら、ソルジャー・ブルーに見えないみたい。別の顔だよ。
面白そうだし、日焼けもいいかも…。ハーレイにオイルを塗って貰って、浜辺で日光浴をして。
そしたら日焼けするんだよね、と乗り気になった日焼け作戦。いつか大きくなった時には、海に出掛けて泳いで、日焼け、と。
「おっ、やろうって気になったか? だが、ほどほどにしておけよ?」
お前の想像、小麦色の肌のソルジャー・ブルーみたいだが…。そこまでの日焼けは無理だろう。元が白いし、とてもじゃないが焼けやしないぞ。
それに欲張って日焼けをすると痛いんだ。少しずつなら大丈夫でも。
適度な所で切り上げないと…、とハーレイに教えられた日焼けのコツ。欲張らないこと。
「欲張るなって…。ホントに痛いの、欲張ったら?」
もうちょっと、って頑張っていたら、日焼けで痛くなっちゃうの…?
「お前、サイオンが不器用だからな…。上手い具合にカバー出来るって気がしなくてなあ…」
アルビノの方なら生まれつきだし、きちんとサイオンが働いてるが…。日光浴だと、サイオンはまるで働かないかもしれないぞ。日焼け、したことないだろう?
普通はガキの間に学んで、自然と加減が出来るようになっていくんだが…。
お前の場合は、サイオンが不器用なのに加えて、サイオン抜きだと肌が弱い筈のアルビノだ。
うっかり日焼けを欲張った時は、「痛い」と騒いでいそうでなあ…。
その辺のガキなら子供時代にとっくに済ませているのを、今頃になって。
「…そうなのかも…」
言われてみれば、そういう友達、いたような気が…。
うんと小さい頃だけれども、日焼けしちゃって、触っただけでヒリヒリする、って…。
おぼろげだけれど、覚えていること。「痛い」とベソをかいていた友達。あれは幼稚園の頃で、どうやら普通は、その年くらいで覚えるらしい。日焼けと、それをサイオンでカバーする方法。
けれど自分に経験は無くて、おまけにアルビノ。下手に日焼けをしたならば…。
「でも…。ぼくが日焼けして痛くなったら、ハーレイが面倒見てくれるんでしょ?」
とっても痛い、って言い出した時は、きちんと手当て。
「手当って…。日焼けのか?」
あれは病気じゃないんだが…。赤くなった後は、ヒリヒリ痛みはするんだがな?
後は個人差だな、皮が剥けるってタイプもあれば、剥けないヤツもいるわけで…。お前の場合はどっちだろうなあ、アルビノの日焼けの話は知らんし…。
「火傷みたいなものでしょ、日焼けは! 手当てしてよ!」
ぼくは痛くてたまらないんだし、冷やすとか、薬を塗ってくれるとか!
「うーむ…。日焼けしたお前は見てみたいんだが、そういったリスクを考えるとだ…」
日焼け、やめておく方がいいよな、そうなっちまう前に。痛くなったら辛いんだから。
痛い目に遭うのはお前だぞ、とハーレイは止める方に回った。「日焼けしてみろ」という意見を変えて。さっきまで日焼けを勧めていたのに。
「ぼくも痛いのは嫌だけど…。でも、ハーレイと海には行きたいし…」
日光浴をするハーレイも見たいよ、海で泳いでいるハーレイもね。だから日焼けも我慢する…。
「俺と一緒に海だってか? それならパラソルを借りることにしよう」
お前はそいつの陰にいろ。日陰だったら安心だからな、日焼けもしないし。
「やだ!」
ハーレイが海で泳ぐんだったら、ぼくだって、ついて行きたいってば!
日焼けをしたってかまわないから、日陰で留守番なんかはしないよ!
絶対に嫌だ、と拒否した留守番。パラソルの陰がいくら安全でも、一人でポツンと待つなんて。
きっと賑わっているだろう海辺、其処で一人でハーレイを待っているなんて。
「お前なあ…。俺は沖まで泳いで行っちまうんだぞ?」
そんな所まで、お前、ついては来られんだろうが。
ただでも水には長い間、入っていられない身体らしいしな?
ちゃんと大人しく浜辺で待ってろ、パラソルの陰で本でも読んで。
日光浴もするんじゃないぞ、とハーレイは諦めさせようとしているけれど。泳いで沖から戻ってくるまで、待たせるつもりらしいのだけど…。
「浮き輪を持つから、大丈夫だよ」
上に乗っかって一休みすれば、そんなに身体は冷えないから…。
うんと大きな浮き輪があるでしょ、上に乗っても大丈夫な形をしているヤツが。
イルカの形とか、色々なのが…、と思い浮かべた頼もしい浮き輪。あれがあったら、沖の方まで一緒に行っても大丈夫、と。
「デカイ浮き輪か…。あれを抱えてついてくるってか、俺と一緒に?」
そこまで言うなら、ゴムボート、曳いて泳いでやろうか?
ゴムボートの上なら疲れないしな、浮き輪を抱えてせっせと泳いで行くよりは。
ずいぶん楽になる筈だぞ、とゴムボートに乗せて曳いて行ってくれるらしいから…。
「ゴムボートって…。いいの?」
ぼくを乗っけて引っ張るだなんて、ハーレイ、疲れてしまわない?
沖まで行くなら、とても大変だと思うけど…。ホントに乗せて行ってくれるの?
「俺を誰だと思っているんだ、大したことではないってな。お前を連れて泳ぐくらいは」
だが、パラソルまではついて来ないぞ、ゴムボートには。
日焼けしちまってもいいと言うなら、一緒に沖まで行こうじゃないか。
後で「痛い」と泣くんじゃないぞ、と脅された日焼け。日陰が無いなら、本当に日焼けしそうな気がしないでもないけれど…。
「痛くなっても我慢するよ!」
日向も日陰も、本物の地球のお日様のお蔭で出来てるんだし…。日焼けも、そのせい。
だから日焼けで痛くなっても、ぼくは後悔しないってば!
ハーレイと一緒に沖に出られるなら、お日様で日焼けしてもいい、と宣言した。
その時が来たら、「日陰がいい」と注文するのも忘れて、ゴムボートの上で揺られていそう。
「地球のお日様だよ」とニコニコしながら、燦々と夏の日射しを浴びて。
そのせいで、後で「痛い」と泣く羽目になっても、ハーレイと沖まで出掛けてみたい。
地球の太陽を一杯に浴びて、真っ青な真夏の地球の海の上を。
二人きりの世界を満喫しながら、日陰すら無い日向の世界を、青い水平線に向かって…。
日向と日陰・了
※前のブルーがこだわっていた、踏みしめるための地面。ミュウは持っていない、と。
けれど同じに持っていなかったものが、太陽。必要なものは、地面だけではなかったのです。
ところで、ハレブル別館ですけど、アニテラ自体が、既にニーズが皆無な今。
来年は月に1度の更新に変えて、もう1年だけ続けてみます。その後は、未定。
毎日更新のシャングリラ学園場外編の方は、やめる予定はありませんので、よろしくです。
「おーい、ブルー!」
今度の土曜日は暇なのか、と訊かれたブルー。学校が終わって、帰ろうとしていた所で。
声を掛けて来たのは、いつものランチ仲間の一人。誘われたことは嬉しいけれども、日が問題。土曜日はきっと、ハーレイが来てくれる筈だから…。
「えーっと…。今度の土曜日は…」
「そうか、ハーレイ先生な!」
羨ましいな、と弾けた笑顔。ハーレイは生徒に人気が高くて、柔道部員の生徒でなくても、声を掛けたくなる先生。その先生と、週末を家で過ごしているのが自分。ハーレイが用事で来られない時を除いたら。
「ブルーが来られないんだったら、俺たちだけで行って来るけど…」と、続けた友達。
「ハーレイ先生に何か用事が入った時には、来てくれればいい」と。
「土曜日に公園で集合だから…。時間までに来れば、俺たちと一緒に行けるしな」
あそこの公園、と教えて貰った待ち合わせ場所。それに集合する時間も。
「何処に行くの?」
「俺の親戚の家だけど…。子猫が生まれたから、会いに行くんだ」
生まれた子猫の予約会かな、という説明。五匹いるから、今から貰い手を決めておくのだとか。お母さん猫から離れてもいい頃になったら、予約した子猫を連れて帰れる仕組み。
「子猫…。まだ小さいのが五匹もいるの?」
「おう! 白いのも黒いのもいるんだぜ。どれも可愛いんだ!」
ハーレイ先生、断って俺たちと一緒に来るか、と尋ねられた。「今なら選び放題だぜ?」と。
「子猫はとっても好きなんだけど…。見てみたいけど、うちじゃ飼えないから…」
可愛くても無理、と肩を落とした。
子猫はもちろん、大きくなった猫も大好きだけれど、家では猫はとても飼えない。弱く生まれた自分だけでも、充分に手がかかるのだから。
(すぐに寝込むし、病院に行かなきゃ駄目な時もあるし…)
母には迷惑をかけてばかりで、この上、猫までいるとなったら大変だろう。猫の分まで、食事の世話など。それに自分が学校に出掛けて留守の間は、子猫の面倒を見るのは母。
子猫がそこそこ大きくなるまで、寂しがったりしないくらいに育つまで。
駄目だよね、と諦めざるを得ないのが子猫を飼うこと。どんなに可愛い子猫でも。
「お前の家、駄目か…。でも、飼えなくっても、見る価値あるぜ?」
好きなんだったら、遊ぶだけでも、と友達は気前がいいけれど。子猫たちの飼い主も、お客様は歓迎らしいのだけれど…。
「ううん、いい…。どうせ飼えないし、欲しくなったら困るから…」
行って来たら子猫の写真でも見せて、と断って、後にした教室。友達は他のランチ仲間の方へと走って行った。きっと土曜日の打ち合わせだろう。
(…子猫、ホントに飼えないし…)
いいんだけどね、と向かったバス停。少し待ったらバスが来たから、乗り込んだ。いつもの席に座っている間に、もう着いた家の近くのバス停。其処から歩いて、帰った家。
母がおやつを用意してくれて、ダイニングのテーブルで頬張ったケーキ。母の手作り。
(子猫に会いに行くだけだったら…)
本当の所は、出掛けてみたい。白いのも黒いのもいるという五匹、きっと可愛いだろう子猫に。
貰い手でなくても、子猫たちとは遊べるのだから。誰かが予約を入れた子猫でも、「ぼくも」と抱いたり、撫でてやったり。
(だけど、土曜日だったから…)
子猫たちに会いに出掛けるのならば、ハーレイと会うのを断るしかない。「その日は駄目」と。
恋人が来るのを断るだなんて、そんな悲しいことは出来ない。二人きりで会える週末の土曜日、それを自分から断るなんて。
「もっと別の日に誘ってくれれば良かったのに」と、残念な気分。
五匹の子猫に会いに行く日が別の日だったら、自分も一緒に行けただろうに。
(でも、土曜日と日曜日は駄目…)
週末になったら、ハーレイが訪ねて来てくれるのが当たり前。誘ってくれた友達だって、直ぐに分かってくれたくらいに。「ハーレイ先生が来る日だよな」と。
ハーレイに特に用事が無ければ、午前中から家に来てくれる。天気のいい日は歩いたりして。
(学校のある日も、放課後に来てくれたりするし…)
考えてみたら、「行けそうな日」がまるで無い自分。
子猫に会いに行かないか、と誘って貰っても。五匹の子猫と遊びたくても。
空いている日は無いみたい、と戻った二階の自分の部屋。空になったケーキのお皿やカップを、キッチンの母に返してから。
(今日も時間は空いてるけれど…)
学校が終わった後に予定は入っていないし、のんびりおやつを食べていたくらい。面白い記事が載っていないか、新聞を広げてみたりもして。
自由に出来る時間はたっぷり、これからも予定は無いのだけれど。こんな日だったら、放課後に「行こう」と誘われたならば、子猫たちに会いに行けるのだけれど…。
(みんなと子猫を見に行ってたら…)
きっと帰りは遅くなる。子猫たちと遊んだり、「この子を下さい」と予約する友達を眺めたり。飼い主の人も、おやつを出してくれたりもして「ごゆっくりどうぞ」と、大歓迎だと思うから…。
(じきに時間が経っちゃうよね?)
放課後だから少しだけ、と思って行っても、アッと言う間に経つ時間。いつもより、ずっと遅くなるだろう帰宅。もしかしたら、すっかり日が暮れて暗くなってしまっているほどに。
(遅くなっちゃった、って家に帰ったら…)
玄関を開けて「ただいま」と声を掛けた途端に、母に言われるかもしれない。「ハーレイ先生がいらしてたわよ」と、「おかえりなさい」の声の続きに。
(そんなの、困るよ…)
ハーレイが部屋で待っていてくれたらいいのだけれども、とっくに帰ってしまっていたら。
「ブルー君はお留守でしたか」と、そのまま戻って、停めてあった車に乗り込んで。
(何時に帰るか分かんないんだし、何処に行ったのか、ママも知らないし…)
ハーレイは帰ってしまうのだろう。「来てみたが、今日は留守だったか」と、人影の無い二階の窓を見上げて。「あそこがブルーの部屋だよな」と、小さく呟いたりもして。
(ぼくが子猫と遊んでいる間に、そうなっちゃって…)
家に帰ったら、いないハーレイ。
子猫に会いに出掛けなかったら、ハーレイと過ごせていた筈なのに。この部屋で二人でゆっくり話して、両親も一緒に夕食を食べられる筈だったのに。
(…ぼくが出掛けていたせいで…)
逃してしまった、ハーレイと二人でいられる時間。せっかくハーレイが来てくれたのに。
そうなるのが嫌で、いつも放課後は家にいる自分。何処かに出掛けて行きはしないで。美容室に髪を切りに行ったりした日も、終われば急いで家に帰って。
いつハーレイが来ても、「留守か」と言われないように。帰ってしまわれないように。
(今のぼくの時間…)
まるで、ハーレイを中心に動いているよう。
ハーレイが来るとは限らない日も、こうして家にいるのだから。「子猫たちに会いに行こう」と誘われたって、きっと「行かない」と断って。
(放課後に行こう、って話だったとしたって、行っちゃったら…)
そういう日に限って、来そうなハーレイ。平日に家を訪ねて来る日は、予告なんかは全く無い。仕事が早く終わった時には来てくれるけれど、そうでない日は駄目だというだけ。
(学校で会っても、そういうことは何も話してくれないし…)
「今日は帰りに寄れそうだ」とか、「行けそうにない」といった類のことは話してくれない。
他の生徒もいるからだろうか、「ハーレイ先生」が大好きな生徒たち。彼らが「いいな」と指をくわえて見ていたのでは、なんだか可哀相だから。
(ぼくだけ特別扱いだものね?)
いくら聖痕を持っている子で、ハーレイがその守り役でも。「時間が許す限りは、側にいる」という役目を背負っている立場でも。
(他の子から見たら、羨ましいだけで…)
「ハーレイ先生を一人占め」なのが、今の自分。それが表に出過ぎないよう、学校の中では他の生徒と同じ扱い。「今日は帰りに寄ってやるから」とは言ってくれずに。
(そうなんだろうと思うけど…)
お蔭で分からない、ハーレイの予定。家に来てくれるのか、そうでないのか。
分からないから、毎日のように待つことになる。「来てくれるといいな」と窓の方を見て。
ハーレイがチャイムを鳴らさないかと、耳を澄ませて。
(遊びに行こうって誘われたって、断っちゃって…)
家に帰って、ただハーレイを待っている。来るか来ないか、まるで分からない恋人を。
もしもウッカリ出掛けてしまって、会えるチャンスを逃したならば、悲しくなってしまうから。
週末ともなれば、もう絶対に入れない予定。今日も、子猫の予約会を断って帰ったように。
考えるほどに、ハーレイを中心に回っているのが自分の時間。
週末はもちろん、今日のような平日の放課後だって。ハーレイに会える機会を逃さないように、自分だけの予定は一つも入れないで。
(ぼくの時間は、ハーレイを中心にして回ってて…)
ハーレイの方でも、似たようなもの。
仕事をしている大人なのだし、子供の自分ほどには「縛られていない」というだけで。あくまで大人の世界が優先、教師としても、「ハーレイ」という一人の人間にしても。
(先生同士のお付き合いとか、ハーレイの古い友達だとか…)
柔道や水泳の先輩なども、チビの恋人より優先されることだろう。ハーレイが使える時間の中でやりくりするなら、チビの自分は後回し。
(ちゃんと「恋人です」って紹介できる恋人だったら、もうちょっと…)
優先順位が上がりそうだけれど、今の所は「ただの教え子」。…聖痕を持っている子供だから、他の生徒よりは「側にいて貰える」というだけのことで。
(だけど、順番は後の方でも…)
ハーレイが使う時間の中では、今の自分も軸の一つになっている。自分を中心に回る時もある、ハーレイの時間。
週末は出来るだけ、予定を入れないようにして。平日だって時間を作って、仕事の帰りに家まで来てくれたりもして。
(なんだか、待ち合わせをしているみたい…)
自分も、それにハーレイも。
週末はともかく、今日のような平日はそうかもしれない。会えるかどうかは分からないままで。
(ハーレイの仕事が早く終わって、ぼくが家にいたら…)
この部屋で会えて、ゆっくり話して、夕食は両親も一緒に食べる。食後のお茶を此処で飲む日も珍しくない。ハーレイが「またな」と立ち上がるまでは、二人きりで。
(そういう時間があったらいいな、って…)
思いながらの待ち合わせ。
本当に待ち合わせをするのだったら、時間も場所も決めるのだけれど、それは謎のままで。
場所は「この家」でいいとは言っても、家の前とか、そういったことは決めていないのだから。
お互い、相手に「会えるといいな」と思いながらの待ち合わせ。
ハーレイは待っているのではなくて、「来る」のだけれど。自分は家で「待つだけ」だけれど。
そうして会えたら、とても嬉しくて、駄目ならガッカリ。待ち合わせの約束はしていなくても。
(ハーレイが来てくれなかったら、ぼくはガッカリだし…)
そのハーレイの方も、訪ねて来た時に「留守」だったならば、ガッカリだろう。子猫と遊ぼうと出掛けてしまって、家に帰っていないとか。…母も一緒に家を空けていて、誰もいないとか。
(そんなの、ハーレイに悪いから…)
こうして今日のように待つ。何も予定を入れはしないで、「来てくれないかな?」と。
ハーレイは、どうだか知らないけれど。今日は予定が入ってしまって、来られないとか。長引く会議に出席中とか、他の先生たちと食事を食べに行くことになったとか。
そうなっていたら残念だけれど、ハーレイの予定は分からない。学校で会っても、何も話してはくれないから。「今日は行くから」とも、「行けない」とも。
(前のぼくたちだった頃には…)
待ち合わせなどはしなかった。今のようなものも、本当の意味での待ち合わせも。
恋人同士になった後にも、前の自分は、青の間でハーレイを待っていただけ。前のハーレイが、ブリッジでの勤務を終えて報告にやって来るのを。…キャプテンとしての一日の締め括りを。
(航宙日誌とかも、ちゃんと書いてから…)
青の間を訪れていたキャプテン。報告を終えたら、もうキャプテンではなくなるから。
恋人同士で過ごす時間で、次の日の朝まで、「キャプテン・ハーレイ」はいなくなるから。
(前のぼくは、待ってるだけで良くって…)
待ち合わせなどはしていない。何処かに出掛けて待っていなくても、ハーレイは必ず来てくれたから。夜になったら、青の間まで。
「来ないのだろうか」と心配することも無くて、どんなに遅くなった時でも、ハーレイは来た。前の自分が疲れてしまって、先に眠ってしまっていても。
来てくれて当然だったハーレイ。だから待ち合わせはしていない。ただの一度も。
(視察に行く時にも…)
ハーレイが迎えにやって来たから、やっぱりしていない待ち合わせ。
ソルジャーとしても、ハーレイの恋人としても、前の自分はハーレイを待っていただけで…。
(やっぱり今と同じじゃない!)
待ち合わせをしていなかっただけで、と気が付いた。前の自分も今と変わらない、と。
今と同じに、ハーレイを中心に動いていた時間。意識していなくても、毎日がそう。前の自分のためだけにあった、あの青の間で一人、ただハーレイを待っていた。
来る日も来る日も、夜になったら。
「まだ来ない」だとか、「もうすぐだ」とか、サイオンを使ってハーレイの様子を探りながら。
そして、あの頃のハーレイは…。
(ぼくを中心には動いてなかった…)
ソルジャーだった前の自分はともかく、ハーレイの恋人だった方の自分は違う。前のハーレイが使う時間の中心ではなくて、いつも後回しにされていた。ハーレイはキャプテンだったから。
(夜までかかる仕事があったら…)
当然のように、そちらが優先。恋人の所に駆け付けるよりも、シャングリラの方が大切だから。
そうやって仕事を終えた時間が遅くなければ、報告のために急いで青の間に来ていたけれど…。
(あの報告を急いでいたのは、ソルジャーのためで…)
翌朝まで報告を持ち越すよりは、と急ぎ足で通路を歩いていただけ。時には走ったりもして。
「ソルジャー」が待っているのでなければ、ハーレイは急ぎはしなかっただろう。通路を走って来ることも。
たとえ恋人を待たせていたって、キャプテンの仕事が最優先。忙しい日なら、訪ねられないまま終わったとしても仕方ない。「遅くなるから」と思念で一言、詫びておくだけで。
(謝った後は仕事に戻って、帰って行く先もキャプテンの部屋で…)
ぐっすり眠って疲れを癒して、次の日に備えたのかもしれない。恋人の所に出掛けてゆくより、休息を取ることが大切だから、と。
(前のハーレイは、キャプテンだったから…)
恋人同士になるよりも前から、「朝食はソルジャーと一緒に青の間で」という習慣が船に出来ていた。一日の予定などの報告を兼ねて、ソルジャーとキャプテンの二人で朝食。
その習慣があったお蔭で、遅い時間になった時でも、ハーレイは青の間にやって来た。とっくに恋人は眠った後でも、次の日の朝に、朝食を一緒に摂るために。
恋人が「ソルジャー」だったからこそ、来ていた青の間。キャプテンの部屋で眠る代わりに。
前の自分が「ただの恋人」なら、前のハーレイの時間を縛れはしなかっただろう。自分を中心に時間をやりくりして貰うなどは、夢のまた夢で。
白いシャングリラを預かるキャプテン、その職はとても多忙だから。恋人のために時間を割けはしなくて、「今日も行けない」と謝ってばかりの毎日だっただろうから。
(だけど、今だと…)
ハーレイはチビの恋人のために動いてくれる。本当にチビで「キスも出来ない」自分のために。
会いに行くための時間を作ろうと、懸命に。週末はもちろん、仕事がある日も。
(どうしても駄目な日も、多いんだけど…)
待っていたって、チャイムが鳴らずに終わる平日も多いのだけれど。…そうでない日は、時間を作ってくれたということ。自分と出会うよりも前なら、ハーレイが好きに使っていただろう時間。それを恋人のために使って、この家を訪ねて来てくれる。
(ドライブに行ったり、ジムに出掛けたり…)
幾らでもあった、ハーレイの時間の使い方。この家を訪ねて来ないのだったら、好きに使ってもいい時間は沢山。
けれど、ハーレイはそうしない。仕事が早く終わった時には、必ず訪ねてくれるのだから。
そう考えると、なんて幸せなのだろう。前の自分だった頃とは違って、ハーレイの時間を縛れる自分。「ソルジャー」ではなくて、「恋人」として。
(チビで、キスもして貰えないけど…)
幸せだよね、と改めて思った自分のこと。
「留守の間に、ハーレイが来たら大変だから」と待ってばかりで、放課後に友達と一緒に遊びに行けはしなくても。…「行こう」と誘われても、子猫に会いには行けなくても。
(子猫、可愛いだろうけど…)
誘われた日が土曜日ではなくて、平日の放課後だったなら、と思わないではないけれど。子猫に会いに出掛けていたなら、駄目になりそうな待ち合わせ。
時間も場所も決めていなくても、毎日がハーレイと待ち合わせのようなものだから。
(来てくれた時に家にいなかったら、ハーレイ、帰ってしまうから…)
そうなるよりかは、こうして待っていたいと思う。子猫には会いに行かないで。
今度は「恋人」の自分のために、時間を作ってくれるハーレイを。家を訪ねて来てくれる人を。
ハーレイが来ない日になったとしても、「留守にしている間に来た」と後で知らされるよりは、ずっといい。友達と出掛けて留守の間に、訪ねて来て「留守か」と帰られるよりは。
(子猫と楽しく遊んだ後に、帰って来たら…)
ハーレイも帰ってしまった後。母から「ブルーは留守です」と聞いて、車に乗って。ドライブに行くか、ジムに行くのか、ハーレイの好きに時間を使いに。
(そう聞いちゃったら、ガッカリで…)
楽しく遊んだことも忘れて、気分がすっかり落ち込むのだろう。「行かなきゃ良かった」と。
どうして遊びに行ってしまったのかと、子猫たちの可愛さも頭の中から消えてしまって。
(ホントにそうなっちゃうんだよ…)
自分の頭をポカポカ叩いて、「ぼくの馬鹿!」などと怒ったりして。もしかしたらポロポロ涙も流して、「どうして遊びに行っちゃったの…?」とベッドの上で膝を抱えて。
きっとそうだ、と考えていたら、聞こえたチャイム。窓に駆け寄ってみると、ハーレイが大きく手を振っている。門扉の向こうで。
(ハーレイが来るの、待ってて良かった…!)
やっぱり子猫を見に行ってちゃ駄目、と弾ける喜び。誘われたのが土曜日でなくても、放課後に行ける平日だとしても、出掛けて行ったら後悔しそう。こんな風にハーレイが来る日だったら。
(きちんと家で待っていなくちゃ…)
待っていたから会えるんだよ、と嬉しくてたまらない気分。「家にいて良かった」と。
嬉しい気持ちは顔にも出るから、ハーレイとテーブルを挟んで向かい合うなり、問われたこと。
「お前、なんだか嬉しそうだな」
今日はやたらと、顔が輝いてるように見えるんだが…。俺の気のせいか?
「違うよ、ホントに嬉しいんだよ。だって、ハーレイが来てくれたんだもの」
それで嬉しくない筈がないでしょ、ハーレイはぼくの恋人だものね。…ずっと昔から。
今のぼくたちになる前からね、と言ったのだけれど、ハーレイは怪訝そうな顔。
「恋人同士なのは間違いないが…。俺は何度も来てると思うぞ、この家に」
しかし、今日みたいに嬉しそうな顔は、そうそう見ない。何かいいこと、あったのか?
「いいことって…。どっちかって言うと、その逆だけど…」
とても素敵な話があったの、断って帰って来たんだけれど…。
土曜日に子猫を見に出掛けるのを断ったのだ、と話したら。「それが放課後でも、行かない」と今の自分の気持ちを、ハーレイに正直に説明したら…。
「断ったって? お前、子猫と遊びたかったんだろう?」
今からでも別に遅くはないしな、土曜日に出掛けてくればいいのに…。
待ち合わせの場所と時間は聞いたんだろうが、その時間に行けば、まだ充分に間に合うぞ?
素敵な話だと思うんだったら、行くべきだと俺は思うがな…?
子猫を飼うのは無理にしたって、とハーレイは「行け」と勧めてくれた。五匹もいるという子猫たち。白いのも黒いのも、どの子猫たちも可愛い盛り。「遊ぶだけでも楽しいだろう」と。
「でも、ハーレイと会えなくなっちゃう…」
土曜日はハーレイが来てくれる日だよ、予定があるとは聞いてないもの。
子猫の予約会に行ってしまったら、土曜日はハーレイに会えないままだよ。ぼくは留守だから。
来てくれたって家にいないんだもの、と瞬かせた瞳。「この部屋は朝から空っぽだってば」と。
「俺か? 俺は放っておけばいいだろ、子供ってわけじゃないんだから」
お前が友達と出掛けるんなら、俺も何処かに出掛けるとしよう。行き先は幾つもあるからな。
気ままにドライブするのもいいし、道場で指導するのもいいし…。
どれにするかな、とハーレイが指を折り始めたから、「駄目だってば!」と止めにかかった。
「ハーレイには何も用事が無いのに、ぼくがいないからって出掛けるなんて…」
会えないで土曜日が終わっちゃうなんて、そんなのは嫌。
今日みたいに此処で会える日は全部、ぼくはハーレイに会いたいんだから…!
「平日だって、ぼくは出掛けないよ」と、膨らませた頬。誘われたのが今日の放課後だったら、大変なことになっていたから。
五匹の子猫とたっぷり遊んで、御機嫌で家まで帰って来たら、母が「おかえりなさい」の続きに告げること。「ハーレイ先生がおいでだったわよ」と。
けれど、そのハーレイは帰って行った後。訪ねて来たのに、目当ての恋人が留守だったから。
「それはまあ…。そうなるだろうな、お前が留守なら」
じきに帰ると言うんだったら、お母さんだって、客間や此処に通してくれるだろうが…。
何処に行ったか分からない上に、戻る時間もまるで分からないとなったなら…。
お母さんは俺を引き止められんし、俺の方でも居座るわけにはいかないってな。
そんな図々しい真似が出来るか、とハーレイは帰ってしまうらしい。予想した通り、留守の間に来てしまった時は。…行き先も、家に戻る時間も分からない時は。
「ほらね、やっぱり帰るんじゃない…。ぼくが出掛けてしまっていたら」
それは嫌だから、家にいようと思ったんだよ。今日みたいな日の放課後だって。
ハーレイを家で待つのがいいよ、って考えていたら、ハーレイが来てくれたから…。
ぼくの考え、間違ってなんかいなかったよね、って、とても嬉しくなって…。それでハーレイに訊かれちゃった。「何かいいこと、あったのか?」って。
ホントはその逆だったんだけど、と残念ではある「子猫たちに会いに行けない」こと。この家でハーレイを待つのだったら、これから先もチャンスは無さそうだから。
「そうだったのか…。嬉しい反面、残念な気持ちもあるってことだな」
俺には会えても、子猫たちには会えないから。…俺が来るのを待とうとしたら。
まあ、その内にチャンスが巡って来ないとも言い切れないが…。俺に仕事が入っちまった時は、週末でも駄目な時はある。そういう時に、また誘われたりしたならな。
それなら遊びに行けるだろうが、とハーレイは慰めてくれた。「俺の代わりに子猫と遊べ」と、「貰われて行くまでには、まだまだ日があるだろうしな」と。
「…そうかもね…。予約会なんだから、まだ暫くはお母さん猫と暮らすんだろうし…」
もしもハーレイが来られない日になりそうだったら、あの友達に頼んでみるよ。子猫たちを見に行ってもいいのか、親戚の人に訊いてみて、って。
でも、子猫たちと遊ぶよりかは、ハーレイを待っていられる日の方がいいかな…。
だってね、今のハーレイだと…。
「俺がどうかしたか?」
子猫に比べりゃ、可愛さってヤツがまるで無いんだが。…でっかく育っちまったから。
見ての通りの図体なんだし、見た目も可愛いって年じゃないよな。ガキの頃なら、今よりは多少マシだったとは思うんだが…。
それでも可愛くはなかったぞ、とハーレイは可笑しそうな顔で笑っている。子猫の方がずっと、可愛らしくてお得だろう、と。
「こんな俺なんかを待っているより、子猫だ、子猫」と。
白いのも黒いのもいる子猫たちに会いに行く方が素敵だろうと、ハーレイは笑うのだけれど…。
「…可愛さだったら、子猫の方がハーレイよりも上だと思うけど…」
ぼくよりも可愛い筈だけれども、でも、ハーレイは子猫たちより素敵なんだよ。ずっと遥かに。
恋人だから、っていうだけじゃなくて、今のハーレイだからこそ。今のハーレイにしか出来ないことだよ、ぼくが素敵だと思うことはね。
今のハーレイは、前のハーレイと違って、ぼくのためにだけ時間を作ってくれるから…。
週末もそうだし、今日だってそう。
ぼくに会いに来るために、時間をやりくりしてくれてるでしょ、仕事を早く終わらせたりして。
他の誰かのためじゃなくって…、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。前のハーレイなら、恋人の方の自分は後回しだったから。「ソルジャー・ブルー」は優先されても。
「そういや、そうか…。前の俺だと、ソルジャーのお前が優先か…」
お前がソルジャーだったお蔭で、それで不自由は無かったんだが…。ソルジャーのために時間を割いたら、お前のために割いているのと同じだったから。
報告に出掛けてゆくにしたって、お前の所へ急いで走って行くにしたって、同じことだったな。
しかし、お前がソルジャーじゃなくて、他の仲間たちと同じミュウの中の一人だったら…。
俺はキャプテンだったわけだし、そうそうかまってやれないか…。
いつも「後でな」と後回しにして、「遅くなった」と謝ってばかりの毎日になって。
前の俺たちのようにはいかないかもな、とハーレイは顎に手を当てた。「キャプテンだったら、恋人のために時間は割けん」と、「ソルジャーしか優先出来そうにないな」と。
「でしょ? 前のハーレイには無理だったんだよ」
ぼくのためだけに、時間を作るのは。…キャプテンの時間を、恋人用にやりくりすることは。
前のぼくはソルジャーだったお蔭で、ハーレイの時間を貰っていただけ…。
ハーレイが時間を使う時には、その中心にいられただけ。恋人じゃなくて、ソルジャーだから。
でもね、今だと、ハーレイの時間をぼくのものに出来る時もあるでしょ?
普段は仕事や、ハーレイの先輩や友達なんかが、ハーレイの時間の中心になっていたってね。
チビのぼくでも、ちゃんとハーレイに時間を作って貰えるから…。
ソルジャーじゃなくて、ただの生徒で、ハーレイの教え子の中の一人でも。
前のぼくには出来なかったことだよ、恋人用にハーレイの時間を貰うってことは。
どう頑張っても無理なことだったし、前のハーレイだって、そうしないものね…?
それに気付いたから幸せなのだ、と笑顔で話した。ハーレイが来る前に考えたことを。
今はお互い、待ち合わせをしているようなもの。「会えたらいいな」と二人揃って。
時間と場所とが決まっていないだけで、毎日、待ち合わせているみたいじゃない、と。
「そう思わない? ぼくはこの家でハーレイを待ってて、待っていたくて…」
来てくれるかどうか分からなくても、留守にしたくはないんだもの。ハーレイが来た時に、家にいないと後でガッカリしちゃうから。
ぼくはそうやってハーレイを待って、ハーレイの方も待ち合わせに急いでいるんでしょ?
約束なんかはしていなくっても、ぼくに会えたら二人で話が出来るから…。今日みたいにね。
待ち合わせの場所は決めてなくても、会えたらいいな、って仕事を早く終わらせたりして。
「ふうむ…。時間も場所も、決まってはいない待ち合わせなのか…」
俺たちがこうして出会える時には、お互い、待ち合わせをしてるわけだな?
場所はお前の家なんだが…。決まっているような気がしないわけでもないんだが…。
そうか、待ち合わせか、お前と俺が会う時には。
お前は俺が来るのを待ってて、俺はお前が待ってる所へ行こうと時間をやりくりしてる、と。
上手くいったら会えるんだな、とハーレイも頷く「待ち合わせ」。会えずに終わってしまう日も多いけれども、今日のように会える時もあるから。
ハーレイが時間を作りさえすれば、待っている自分が何処かに出掛けてしまわなければ。
「うん、待ち合わせ…。何も決めてはいないけれどね」
ハーレイも、ぼくも、何処で会うのか、何時に会うのか、場所も、時間も。
それでも会える時には会えるし、ちゃんと立派に待ち合わせだよ。自分の時間をどう使うのか、恋人を中心に考えていって。…ぼくも、ハーレイも、他の予定を入れないで。
…前のぼくたちは、本物の待ち合わせもしていないけどね。恋人同士の待ち合わせは。
何処で会うとか、何処に行くとか…、と前の自分たちが生きた時代を思う。白いシャングリラで暮らした頃には、無理だった。ハーレイと二人、恋人同士で待ち合わせをして会うことは。
あの船がどんなに広くても。
船で生きていた他の仲間たちが、公園などで恋を語らっていても。
ソルジャーとキャプテンが船の中で二人一緒にいるなら、友達としてか、あるいは視察か。他に理由を作れはしない。恋人同士で出掛けたくても、待ち合わせなどをしたくても。
長く二人で生きていたのに、誰にも言えなかった恋。明かせないままで終わってしまって、暗い宇宙に消えた恋。待ち合わせさえも一度も出来ずに、それきりになった恋人同士。
「前の俺たちは、難しい立場にいたからなあ…。シャングリラでは」
ソルジャーとキャプテンが恋人同士なんだと知れたら、あの船はおしまいだったから。
誰一人として、俺たちの意見を真面目に聞いてはくれなくて。…皆がそっぽを向いちまって。
そうならないよう、恋を隠すしかなかったが…。待ち合わせなんぞは出来もしないで。
しかし今度は出来るわけだな、今も待ち合わせをしてるんだから。
時間も場所も決めちゃいないが…、とハーレイが笑む。「今日も、お前は待ってたっけな」と、「俺も待ち合わせに間に合ったようだ」と。
「そうだよ、毎日が待ち合わせ。…時間も場所も決めてなくても、恋人同士で待ち合わせだよ」
ハーレイが来ないで終わっちゃった日は、ガッカリだけど…。
子猫と遊びに出掛けた方が良かったのかな、と思っちゃう日もありそうだけど…。
「すまんな、そういう日も多いから…」
こればっかりは仕事の都合で、俺の付き合いというヤツもある。…他の先生と食事だとかな。
その日に決まることも多いし、どうすることも出来ないんだが…。
学校でお前に言ってやろうにも、他の生徒が羨ましそうに見そうだからなあ、「会うんだ」と。会えない日の方が多いにしたって、会える日の方が断然、目立つだろ?
それに「会える」と話した後でだ、何か用事が入っちまったら、待ちぼうけをさせてしまうってわけで…。だから予告は出来ない、と。
もっとも、それも今だけのことだ。
お前が大きくなった時には、もう待ち合わせは要らないからな、とハーレイが言うから驚いた。
「え? 要らないって…。どういうこと?」
ぼくが大きくなった時でしょ、前のぼくと同じ背丈になって…?
それならデートに行くんだろうし、そういう時には、待ち合わせ、しない?
いろんな所で、恋人と待ち合わせをしている人たち、いるじゃない。
公園の入口とか、喫茶店とか…、と思い付いた場所を挙げてみた。そういった所は、カップルの待ち合わせ場所の定番。チビの自分でも知っているほどに、恋人たちを見掛ける場所。
デートに行く前に時間を決めて、お互い、其処へと出掛けて行く。二人で過ごす一日のために。
今の自分も大きくなったら、そうするのだろうと思ったのに。
ハーレイとデートに出掛ける時には、恋人同士で待ち合わせなのだと考えたのに…。
「俺がお前を待たせるわけがないだろう。…公園にしても、喫茶店にしても」
お前を待たせる暇があったら、家まで迎えに来るもんだ。俺が早めに家を出て来て。
車でドライブってわけじゃなくても、此処まで迎えに来ないとな。デートの時には、俺が必ず。
そいつが俺の役目だろうが、とハーレイは迎えに来るつもり。待ち合わせをする代わりに、この家のチャイムを鳴らして、「さあ、行こうか」と。
「迎えに来るって…。本当に?」
そんなの、ハーレイ、面倒じゃないの?
ドライブに出掛けて行く時だったら、迎えに来るのが普通かもだけど…。そうじゃない時まで、家に迎えに来なくても…。ぼくの方なら、待ち合わせでかまわないんだけれど…?
公園でもいいし、喫茶店でも、と思ったままを口にした。待ち合わせも、きっと幸せだから。
約束の時間より早く着いても、ハーレイが来そうな方を眺めて待つ。「遅いよ!」などと怒りはしないで、「もうすぐ来るかな?」とワクワクしながら。
「待ち合わせ自体はいいんだが…。お前、丈夫じゃないからなあ…」
前と同じに弱い身体に生まれちまったし、これからも弱いままなんだろうし…。
待ち合わせ場所まで出て来いだなんて、言えるもんか。
此処は地球だぞ、シャングリラの中とは違うんだ。待ってる間や、其処まで行く間に、いきなり雨が降って来るとか、思ってたよりも寒い日になってしまうとか…。
それじゃ駄目だろ、お前の身体が悲鳴を上げちまう。デートに出掛けるよりも前にな。
用心のためにも、俺が此処まで迎えに来る、という言葉。
車で出掛けるわけではない日も、場合によっては車を出して。「この方がいい」と判断したら。
待ち合わせをしない代わりに臨機応変、どんな時でも、恋人の身体に負担をかけないように。
そして結婚した後は…。
やはり無いという待ち合わせ。ハーレイは自信たっぷりで言った。
「待ち合わせは、もう要らんだろう」と。「いつも一緒だし、必要ないぞ」と。
「でも、ハーレイの仕事の帰りとかに…」
待っているっていうのは駄目なの、仕事に行く時は、ハーレイは一人なんだから…。
ちょっと何処かで待ってみたいよ、とハーレイにぶつけてみた、おねだり。
学校の近くの喫茶店で待って、一緒に食事に出掛けてゆくとか、そういう幸せな待ち合わせ。
「近くの店なあ…。お前が待ってみたいんだったら、それも悪くはないんだが…」
俺が家まで迎えに帰った方が良くないか?
仕事に行くなら車なんだし、家に帰るのも早いから。…お前もその方が楽だぞ、きっと。
用意だけして家で待ってろ、とハーレイは言ってくれるのだけれど、待ち合わせだってしたいと思う。結婚前には出来ないのならば、結婚した後でかまわないから。
「ううん、たまには待ってみたいよ。…でも、結婚前のデートの時には駄目なんでしょ?」
それなら、結婚しちゃった後。ハーレイが仕事に行っている日に、待ち合わせ。
今のぼくだと、今日みたいに待っているんだもの。時間も場所も決めないままで。
そんな待ち合わせが終わった後には、もう待ち合わせが無いなんて…。つまらないでしょ、前のぼくたちは待ち合わせをしていないんだから。…恋人同士の待ち合わせをね。
だからやりたい、と強請った待ち合わせ。結婚して二人で暮らし始めたら、ハーレイが出掛けた仕事先の近くの、何処かで待って。
「お前がしたいと言うのなら…。「駄目だ」と止めるわけにはいかんな」
だったら、お前が元気な時で、天気のいい日。そういう時なら許してやろう。待っているのを。
それでいいなら、仕事の帰りに待ち合わせをして出掛けてやるが…。
あくまで俺の車でだぞ、と念を押された。「もう遅いんだから、歩くのは駄目だ」と。
「いいよ、ハーレイの車でも。…ぼくは何処かで待っているから」
喫茶店がいいかな、って思っていたけど、本屋さんも退屈しなくていいかも…。
ハーレイの仕事が終わる時間まで待っているから、会えたら一緒に出掛けようよ。遅くなっても平気だから。…ハーレイ、ちゃんと来てくれるしね。
「遅くなっても、って…。お前、無理はするなよ?」
待ってる間に気分が悪くなったら、帰っちまっていいんだぞ?
店の人に伝言を頼んでおくとか、学校に電話してくるとかして。…「先に帰る」と。
「無理なんか、ぼくはしないってば!」
駄目だと思った時は帰るよ、我慢していつまでも待っていないで。
家に帰って大人しくするから、そうじゃない時は二人で出掛けなくっちゃね…!
無理をして待ったりは絶対しない、と約束をした。
具合が悪くなりそうだったら、諦めて家に帰るから、と。待ち合わせは次のお楽しみにして。
(せっかくハーレイと出掛けるんだし、その後で、ぼくが寝込んじゃったら大変…)
ハーレイは「俺のせいだ」と慌てそうだから、そうならないよう、気を付けよう。余計な心配をかけないように、「また行こうな」と言って貰えるように。
今も待ち合わせのような毎日だけれど、いつかは本物の待ち合わせをしたい。
お互いの時間の都合を合わせて、食事やドライブに出掛けてゆく。ハーレイと二人で。
シャングリラでは一度も出来なかったから、きっと楽しいに違いない。
ハーレイが遅れてやって来たって、自分が早く着きすぎたって。
出会えた後には、二人きりで出掛けてゆくのだから。
好きに時間を使えるわけだし、恋人同士の素敵な時間が始まる合図が待ち合わせだから…。
待ちたい時間・了
※前のブルーも、今のブルーも「ハーレイを待っている」わけですけど、違った状況。
ハーレイの時間が「本当の意味で」ブルーを中心に回っているのは、平和な時代だからこそ。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
今度の土曜日は暇なのか、と訊かれたブルー。学校が終わって、帰ろうとしていた所で。
声を掛けて来たのは、いつものランチ仲間の一人。誘われたことは嬉しいけれども、日が問題。土曜日はきっと、ハーレイが来てくれる筈だから…。
「えーっと…。今度の土曜日は…」
「そうか、ハーレイ先生な!」
羨ましいな、と弾けた笑顔。ハーレイは生徒に人気が高くて、柔道部員の生徒でなくても、声を掛けたくなる先生。その先生と、週末を家で過ごしているのが自分。ハーレイが用事で来られない時を除いたら。
「ブルーが来られないんだったら、俺たちだけで行って来るけど…」と、続けた友達。
「ハーレイ先生に何か用事が入った時には、来てくれればいい」と。
「土曜日に公園で集合だから…。時間までに来れば、俺たちと一緒に行けるしな」
あそこの公園、と教えて貰った待ち合わせ場所。それに集合する時間も。
「何処に行くの?」
「俺の親戚の家だけど…。子猫が生まれたから、会いに行くんだ」
生まれた子猫の予約会かな、という説明。五匹いるから、今から貰い手を決めておくのだとか。お母さん猫から離れてもいい頃になったら、予約した子猫を連れて帰れる仕組み。
「子猫…。まだ小さいのが五匹もいるの?」
「おう! 白いのも黒いのもいるんだぜ。どれも可愛いんだ!」
ハーレイ先生、断って俺たちと一緒に来るか、と尋ねられた。「今なら選び放題だぜ?」と。
「子猫はとっても好きなんだけど…。見てみたいけど、うちじゃ飼えないから…」
可愛くても無理、と肩を落とした。
子猫はもちろん、大きくなった猫も大好きだけれど、家では猫はとても飼えない。弱く生まれた自分だけでも、充分に手がかかるのだから。
(すぐに寝込むし、病院に行かなきゃ駄目な時もあるし…)
母には迷惑をかけてばかりで、この上、猫までいるとなったら大変だろう。猫の分まで、食事の世話など。それに自分が学校に出掛けて留守の間は、子猫の面倒を見るのは母。
子猫がそこそこ大きくなるまで、寂しがったりしないくらいに育つまで。
駄目だよね、と諦めざるを得ないのが子猫を飼うこと。どんなに可愛い子猫でも。
「お前の家、駄目か…。でも、飼えなくっても、見る価値あるぜ?」
好きなんだったら、遊ぶだけでも、と友達は気前がいいけれど。子猫たちの飼い主も、お客様は歓迎らしいのだけれど…。
「ううん、いい…。どうせ飼えないし、欲しくなったら困るから…」
行って来たら子猫の写真でも見せて、と断って、後にした教室。友達は他のランチ仲間の方へと走って行った。きっと土曜日の打ち合わせだろう。
(…子猫、ホントに飼えないし…)
いいんだけどね、と向かったバス停。少し待ったらバスが来たから、乗り込んだ。いつもの席に座っている間に、もう着いた家の近くのバス停。其処から歩いて、帰った家。
母がおやつを用意してくれて、ダイニングのテーブルで頬張ったケーキ。母の手作り。
(子猫に会いに行くだけだったら…)
本当の所は、出掛けてみたい。白いのも黒いのもいるという五匹、きっと可愛いだろう子猫に。
貰い手でなくても、子猫たちとは遊べるのだから。誰かが予約を入れた子猫でも、「ぼくも」と抱いたり、撫でてやったり。
(だけど、土曜日だったから…)
子猫たちに会いに出掛けるのならば、ハーレイと会うのを断るしかない。「その日は駄目」と。
恋人が来るのを断るだなんて、そんな悲しいことは出来ない。二人きりで会える週末の土曜日、それを自分から断るなんて。
「もっと別の日に誘ってくれれば良かったのに」と、残念な気分。
五匹の子猫に会いに行く日が別の日だったら、自分も一緒に行けただろうに。
(でも、土曜日と日曜日は駄目…)
週末になったら、ハーレイが訪ねて来てくれるのが当たり前。誘ってくれた友達だって、直ぐに分かってくれたくらいに。「ハーレイ先生が来る日だよな」と。
ハーレイに特に用事が無ければ、午前中から家に来てくれる。天気のいい日は歩いたりして。
(学校のある日も、放課後に来てくれたりするし…)
考えてみたら、「行けそうな日」がまるで無い自分。
子猫に会いに行かないか、と誘って貰っても。五匹の子猫と遊びたくても。
空いている日は無いみたい、と戻った二階の自分の部屋。空になったケーキのお皿やカップを、キッチンの母に返してから。
(今日も時間は空いてるけれど…)
学校が終わった後に予定は入っていないし、のんびりおやつを食べていたくらい。面白い記事が載っていないか、新聞を広げてみたりもして。
自由に出来る時間はたっぷり、これからも予定は無いのだけれど。こんな日だったら、放課後に「行こう」と誘われたならば、子猫たちに会いに行けるのだけれど…。
(みんなと子猫を見に行ってたら…)
きっと帰りは遅くなる。子猫たちと遊んだり、「この子を下さい」と予約する友達を眺めたり。飼い主の人も、おやつを出してくれたりもして「ごゆっくりどうぞ」と、大歓迎だと思うから…。
(じきに時間が経っちゃうよね?)
放課後だから少しだけ、と思って行っても、アッと言う間に経つ時間。いつもより、ずっと遅くなるだろう帰宅。もしかしたら、すっかり日が暮れて暗くなってしまっているほどに。
(遅くなっちゃった、って家に帰ったら…)
玄関を開けて「ただいま」と声を掛けた途端に、母に言われるかもしれない。「ハーレイ先生がいらしてたわよ」と、「おかえりなさい」の声の続きに。
(そんなの、困るよ…)
ハーレイが部屋で待っていてくれたらいいのだけれども、とっくに帰ってしまっていたら。
「ブルー君はお留守でしたか」と、そのまま戻って、停めてあった車に乗り込んで。
(何時に帰るか分かんないんだし、何処に行ったのか、ママも知らないし…)
ハーレイは帰ってしまうのだろう。「来てみたが、今日は留守だったか」と、人影の無い二階の窓を見上げて。「あそこがブルーの部屋だよな」と、小さく呟いたりもして。
(ぼくが子猫と遊んでいる間に、そうなっちゃって…)
家に帰ったら、いないハーレイ。
子猫に会いに出掛けなかったら、ハーレイと過ごせていた筈なのに。この部屋で二人でゆっくり話して、両親も一緒に夕食を食べられる筈だったのに。
(…ぼくが出掛けていたせいで…)
逃してしまった、ハーレイと二人でいられる時間。せっかくハーレイが来てくれたのに。
そうなるのが嫌で、いつも放課後は家にいる自分。何処かに出掛けて行きはしないで。美容室に髪を切りに行ったりした日も、終われば急いで家に帰って。
いつハーレイが来ても、「留守か」と言われないように。帰ってしまわれないように。
(今のぼくの時間…)
まるで、ハーレイを中心に動いているよう。
ハーレイが来るとは限らない日も、こうして家にいるのだから。「子猫たちに会いに行こう」と誘われたって、きっと「行かない」と断って。
(放課後に行こう、って話だったとしたって、行っちゃったら…)
そういう日に限って、来そうなハーレイ。平日に家を訪ねて来る日は、予告なんかは全く無い。仕事が早く終わった時には来てくれるけれど、そうでない日は駄目だというだけ。
(学校で会っても、そういうことは何も話してくれないし…)
「今日は帰りに寄れそうだ」とか、「行けそうにない」といった類のことは話してくれない。
他の生徒もいるからだろうか、「ハーレイ先生」が大好きな生徒たち。彼らが「いいな」と指をくわえて見ていたのでは、なんだか可哀相だから。
(ぼくだけ特別扱いだものね?)
いくら聖痕を持っている子で、ハーレイがその守り役でも。「時間が許す限りは、側にいる」という役目を背負っている立場でも。
(他の子から見たら、羨ましいだけで…)
「ハーレイ先生を一人占め」なのが、今の自分。それが表に出過ぎないよう、学校の中では他の生徒と同じ扱い。「今日は帰りに寄ってやるから」とは言ってくれずに。
(そうなんだろうと思うけど…)
お蔭で分からない、ハーレイの予定。家に来てくれるのか、そうでないのか。
分からないから、毎日のように待つことになる。「来てくれるといいな」と窓の方を見て。
ハーレイがチャイムを鳴らさないかと、耳を澄ませて。
(遊びに行こうって誘われたって、断っちゃって…)
家に帰って、ただハーレイを待っている。来るか来ないか、まるで分からない恋人を。
もしもウッカリ出掛けてしまって、会えるチャンスを逃したならば、悲しくなってしまうから。
週末ともなれば、もう絶対に入れない予定。今日も、子猫の予約会を断って帰ったように。
考えるほどに、ハーレイを中心に回っているのが自分の時間。
週末はもちろん、今日のような平日の放課後だって。ハーレイに会える機会を逃さないように、自分だけの予定は一つも入れないで。
(ぼくの時間は、ハーレイを中心にして回ってて…)
ハーレイの方でも、似たようなもの。
仕事をしている大人なのだし、子供の自分ほどには「縛られていない」というだけで。あくまで大人の世界が優先、教師としても、「ハーレイ」という一人の人間にしても。
(先生同士のお付き合いとか、ハーレイの古い友達だとか…)
柔道や水泳の先輩なども、チビの恋人より優先されることだろう。ハーレイが使える時間の中でやりくりするなら、チビの自分は後回し。
(ちゃんと「恋人です」って紹介できる恋人だったら、もうちょっと…)
優先順位が上がりそうだけれど、今の所は「ただの教え子」。…聖痕を持っている子供だから、他の生徒よりは「側にいて貰える」というだけのことで。
(だけど、順番は後の方でも…)
ハーレイが使う時間の中では、今の自分も軸の一つになっている。自分を中心に回る時もある、ハーレイの時間。
週末は出来るだけ、予定を入れないようにして。平日だって時間を作って、仕事の帰りに家まで来てくれたりもして。
(なんだか、待ち合わせをしているみたい…)
自分も、それにハーレイも。
週末はともかく、今日のような平日はそうかもしれない。会えるかどうかは分からないままで。
(ハーレイの仕事が早く終わって、ぼくが家にいたら…)
この部屋で会えて、ゆっくり話して、夕食は両親も一緒に食べる。食後のお茶を此処で飲む日も珍しくない。ハーレイが「またな」と立ち上がるまでは、二人きりで。
(そういう時間があったらいいな、って…)
思いながらの待ち合わせ。
本当に待ち合わせをするのだったら、時間も場所も決めるのだけれど、それは謎のままで。
場所は「この家」でいいとは言っても、家の前とか、そういったことは決めていないのだから。
お互い、相手に「会えるといいな」と思いながらの待ち合わせ。
ハーレイは待っているのではなくて、「来る」のだけれど。自分は家で「待つだけ」だけれど。
そうして会えたら、とても嬉しくて、駄目ならガッカリ。待ち合わせの約束はしていなくても。
(ハーレイが来てくれなかったら、ぼくはガッカリだし…)
そのハーレイの方も、訪ねて来た時に「留守」だったならば、ガッカリだろう。子猫と遊ぼうと出掛けてしまって、家に帰っていないとか。…母も一緒に家を空けていて、誰もいないとか。
(そんなの、ハーレイに悪いから…)
こうして今日のように待つ。何も予定を入れはしないで、「来てくれないかな?」と。
ハーレイは、どうだか知らないけれど。今日は予定が入ってしまって、来られないとか。長引く会議に出席中とか、他の先生たちと食事を食べに行くことになったとか。
そうなっていたら残念だけれど、ハーレイの予定は分からない。学校で会っても、何も話してはくれないから。「今日は行くから」とも、「行けない」とも。
(前のぼくたちだった頃には…)
待ち合わせなどはしなかった。今のようなものも、本当の意味での待ち合わせも。
恋人同士になった後にも、前の自分は、青の間でハーレイを待っていただけ。前のハーレイが、ブリッジでの勤務を終えて報告にやって来るのを。…キャプテンとしての一日の締め括りを。
(航宙日誌とかも、ちゃんと書いてから…)
青の間を訪れていたキャプテン。報告を終えたら、もうキャプテンではなくなるから。
恋人同士で過ごす時間で、次の日の朝まで、「キャプテン・ハーレイ」はいなくなるから。
(前のぼくは、待ってるだけで良くって…)
待ち合わせなどはしていない。何処かに出掛けて待っていなくても、ハーレイは必ず来てくれたから。夜になったら、青の間まで。
「来ないのだろうか」と心配することも無くて、どんなに遅くなった時でも、ハーレイは来た。前の自分が疲れてしまって、先に眠ってしまっていても。
来てくれて当然だったハーレイ。だから待ち合わせはしていない。ただの一度も。
(視察に行く時にも…)
ハーレイが迎えにやって来たから、やっぱりしていない待ち合わせ。
ソルジャーとしても、ハーレイの恋人としても、前の自分はハーレイを待っていただけで…。
(やっぱり今と同じじゃない!)
待ち合わせをしていなかっただけで、と気が付いた。前の自分も今と変わらない、と。
今と同じに、ハーレイを中心に動いていた時間。意識していなくても、毎日がそう。前の自分のためだけにあった、あの青の間で一人、ただハーレイを待っていた。
来る日も来る日も、夜になったら。
「まだ来ない」だとか、「もうすぐだ」とか、サイオンを使ってハーレイの様子を探りながら。
そして、あの頃のハーレイは…。
(ぼくを中心には動いてなかった…)
ソルジャーだった前の自分はともかく、ハーレイの恋人だった方の自分は違う。前のハーレイが使う時間の中心ではなくて、いつも後回しにされていた。ハーレイはキャプテンだったから。
(夜までかかる仕事があったら…)
当然のように、そちらが優先。恋人の所に駆け付けるよりも、シャングリラの方が大切だから。
そうやって仕事を終えた時間が遅くなければ、報告のために急いで青の間に来ていたけれど…。
(あの報告を急いでいたのは、ソルジャーのためで…)
翌朝まで報告を持ち越すよりは、と急ぎ足で通路を歩いていただけ。時には走ったりもして。
「ソルジャー」が待っているのでなければ、ハーレイは急ぎはしなかっただろう。通路を走って来ることも。
たとえ恋人を待たせていたって、キャプテンの仕事が最優先。忙しい日なら、訪ねられないまま終わったとしても仕方ない。「遅くなるから」と思念で一言、詫びておくだけで。
(謝った後は仕事に戻って、帰って行く先もキャプテンの部屋で…)
ぐっすり眠って疲れを癒して、次の日に備えたのかもしれない。恋人の所に出掛けてゆくより、休息を取ることが大切だから、と。
(前のハーレイは、キャプテンだったから…)
恋人同士になるよりも前から、「朝食はソルジャーと一緒に青の間で」という習慣が船に出来ていた。一日の予定などの報告を兼ねて、ソルジャーとキャプテンの二人で朝食。
その習慣があったお蔭で、遅い時間になった時でも、ハーレイは青の間にやって来た。とっくに恋人は眠った後でも、次の日の朝に、朝食を一緒に摂るために。
恋人が「ソルジャー」だったからこそ、来ていた青の間。キャプテンの部屋で眠る代わりに。
前の自分が「ただの恋人」なら、前のハーレイの時間を縛れはしなかっただろう。自分を中心に時間をやりくりして貰うなどは、夢のまた夢で。
白いシャングリラを預かるキャプテン、その職はとても多忙だから。恋人のために時間を割けはしなくて、「今日も行けない」と謝ってばかりの毎日だっただろうから。
(だけど、今だと…)
ハーレイはチビの恋人のために動いてくれる。本当にチビで「キスも出来ない」自分のために。
会いに行くための時間を作ろうと、懸命に。週末はもちろん、仕事がある日も。
(どうしても駄目な日も、多いんだけど…)
待っていたって、チャイムが鳴らずに終わる平日も多いのだけれど。…そうでない日は、時間を作ってくれたということ。自分と出会うよりも前なら、ハーレイが好きに使っていただろう時間。それを恋人のために使って、この家を訪ねて来てくれる。
(ドライブに行ったり、ジムに出掛けたり…)
幾らでもあった、ハーレイの時間の使い方。この家を訪ねて来ないのだったら、好きに使ってもいい時間は沢山。
けれど、ハーレイはそうしない。仕事が早く終わった時には、必ず訪ねてくれるのだから。
そう考えると、なんて幸せなのだろう。前の自分だった頃とは違って、ハーレイの時間を縛れる自分。「ソルジャー」ではなくて、「恋人」として。
(チビで、キスもして貰えないけど…)
幸せだよね、と改めて思った自分のこと。
「留守の間に、ハーレイが来たら大変だから」と待ってばかりで、放課後に友達と一緒に遊びに行けはしなくても。…「行こう」と誘われても、子猫に会いには行けなくても。
(子猫、可愛いだろうけど…)
誘われた日が土曜日ではなくて、平日の放課後だったなら、と思わないではないけれど。子猫に会いに出掛けていたなら、駄目になりそうな待ち合わせ。
時間も場所も決めていなくても、毎日がハーレイと待ち合わせのようなものだから。
(来てくれた時に家にいなかったら、ハーレイ、帰ってしまうから…)
そうなるよりかは、こうして待っていたいと思う。子猫には会いに行かないで。
今度は「恋人」の自分のために、時間を作ってくれるハーレイを。家を訪ねて来てくれる人を。
ハーレイが来ない日になったとしても、「留守にしている間に来た」と後で知らされるよりは、ずっといい。友達と出掛けて留守の間に、訪ねて来て「留守か」と帰られるよりは。
(子猫と楽しく遊んだ後に、帰って来たら…)
ハーレイも帰ってしまった後。母から「ブルーは留守です」と聞いて、車に乗って。ドライブに行くか、ジムに行くのか、ハーレイの好きに時間を使いに。
(そう聞いちゃったら、ガッカリで…)
楽しく遊んだことも忘れて、気分がすっかり落ち込むのだろう。「行かなきゃ良かった」と。
どうして遊びに行ってしまったのかと、子猫たちの可愛さも頭の中から消えてしまって。
(ホントにそうなっちゃうんだよ…)
自分の頭をポカポカ叩いて、「ぼくの馬鹿!」などと怒ったりして。もしかしたらポロポロ涙も流して、「どうして遊びに行っちゃったの…?」とベッドの上で膝を抱えて。
きっとそうだ、と考えていたら、聞こえたチャイム。窓に駆け寄ってみると、ハーレイが大きく手を振っている。門扉の向こうで。
(ハーレイが来るの、待ってて良かった…!)
やっぱり子猫を見に行ってちゃ駄目、と弾ける喜び。誘われたのが土曜日でなくても、放課後に行ける平日だとしても、出掛けて行ったら後悔しそう。こんな風にハーレイが来る日だったら。
(きちんと家で待っていなくちゃ…)
待っていたから会えるんだよ、と嬉しくてたまらない気分。「家にいて良かった」と。
嬉しい気持ちは顔にも出るから、ハーレイとテーブルを挟んで向かい合うなり、問われたこと。
「お前、なんだか嬉しそうだな」
今日はやたらと、顔が輝いてるように見えるんだが…。俺の気のせいか?
「違うよ、ホントに嬉しいんだよ。だって、ハーレイが来てくれたんだもの」
それで嬉しくない筈がないでしょ、ハーレイはぼくの恋人だものね。…ずっと昔から。
今のぼくたちになる前からね、と言ったのだけれど、ハーレイは怪訝そうな顔。
「恋人同士なのは間違いないが…。俺は何度も来てると思うぞ、この家に」
しかし、今日みたいに嬉しそうな顔は、そうそう見ない。何かいいこと、あったのか?
「いいことって…。どっちかって言うと、その逆だけど…」
とても素敵な話があったの、断って帰って来たんだけれど…。
土曜日に子猫を見に出掛けるのを断ったのだ、と話したら。「それが放課後でも、行かない」と今の自分の気持ちを、ハーレイに正直に説明したら…。
「断ったって? お前、子猫と遊びたかったんだろう?」
今からでも別に遅くはないしな、土曜日に出掛けてくればいいのに…。
待ち合わせの場所と時間は聞いたんだろうが、その時間に行けば、まだ充分に間に合うぞ?
素敵な話だと思うんだったら、行くべきだと俺は思うがな…?
子猫を飼うのは無理にしたって、とハーレイは「行け」と勧めてくれた。五匹もいるという子猫たち。白いのも黒いのも、どの子猫たちも可愛い盛り。「遊ぶだけでも楽しいだろう」と。
「でも、ハーレイと会えなくなっちゃう…」
土曜日はハーレイが来てくれる日だよ、予定があるとは聞いてないもの。
子猫の予約会に行ってしまったら、土曜日はハーレイに会えないままだよ。ぼくは留守だから。
来てくれたって家にいないんだもの、と瞬かせた瞳。「この部屋は朝から空っぽだってば」と。
「俺か? 俺は放っておけばいいだろ、子供ってわけじゃないんだから」
お前が友達と出掛けるんなら、俺も何処かに出掛けるとしよう。行き先は幾つもあるからな。
気ままにドライブするのもいいし、道場で指導するのもいいし…。
どれにするかな、とハーレイが指を折り始めたから、「駄目だってば!」と止めにかかった。
「ハーレイには何も用事が無いのに、ぼくがいないからって出掛けるなんて…」
会えないで土曜日が終わっちゃうなんて、そんなのは嫌。
今日みたいに此処で会える日は全部、ぼくはハーレイに会いたいんだから…!
「平日だって、ぼくは出掛けないよ」と、膨らませた頬。誘われたのが今日の放課後だったら、大変なことになっていたから。
五匹の子猫とたっぷり遊んで、御機嫌で家まで帰って来たら、母が「おかえりなさい」の続きに告げること。「ハーレイ先生がおいでだったわよ」と。
けれど、そのハーレイは帰って行った後。訪ねて来たのに、目当ての恋人が留守だったから。
「それはまあ…。そうなるだろうな、お前が留守なら」
じきに帰ると言うんだったら、お母さんだって、客間や此処に通してくれるだろうが…。
何処に行ったか分からない上に、戻る時間もまるで分からないとなったなら…。
お母さんは俺を引き止められんし、俺の方でも居座るわけにはいかないってな。
そんな図々しい真似が出来るか、とハーレイは帰ってしまうらしい。予想した通り、留守の間に来てしまった時は。…行き先も、家に戻る時間も分からない時は。
「ほらね、やっぱり帰るんじゃない…。ぼくが出掛けてしまっていたら」
それは嫌だから、家にいようと思ったんだよ。今日みたいな日の放課後だって。
ハーレイを家で待つのがいいよ、って考えていたら、ハーレイが来てくれたから…。
ぼくの考え、間違ってなんかいなかったよね、って、とても嬉しくなって…。それでハーレイに訊かれちゃった。「何かいいこと、あったのか?」って。
ホントはその逆だったんだけど、と残念ではある「子猫たちに会いに行けない」こと。この家でハーレイを待つのだったら、これから先もチャンスは無さそうだから。
「そうだったのか…。嬉しい反面、残念な気持ちもあるってことだな」
俺には会えても、子猫たちには会えないから。…俺が来るのを待とうとしたら。
まあ、その内にチャンスが巡って来ないとも言い切れないが…。俺に仕事が入っちまった時は、週末でも駄目な時はある。そういう時に、また誘われたりしたならな。
それなら遊びに行けるだろうが、とハーレイは慰めてくれた。「俺の代わりに子猫と遊べ」と、「貰われて行くまでには、まだまだ日があるだろうしな」と。
「…そうかもね…。予約会なんだから、まだ暫くはお母さん猫と暮らすんだろうし…」
もしもハーレイが来られない日になりそうだったら、あの友達に頼んでみるよ。子猫たちを見に行ってもいいのか、親戚の人に訊いてみて、って。
でも、子猫たちと遊ぶよりかは、ハーレイを待っていられる日の方がいいかな…。
だってね、今のハーレイだと…。
「俺がどうかしたか?」
子猫に比べりゃ、可愛さってヤツがまるで無いんだが。…でっかく育っちまったから。
見ての通りの図体なんだし、見た目も可愛いって年じゃないよな。ガキの頃なら、今よりは多少マシだったとは思うんだが…。
それでも可愛くはなかったぞ、とハーレイは可笑しそうな顔で笑っている。子猫の方がずっと、可愛らしくてお得だろう、と。
「こんな俺なんかを待っているより、子猫だ、子猫」と。
白いのも黒いのもいる子猫たちに会いに行く方が素敵だろうと、ハーレイは笑うのだけれど…。
「…可愛さだったら、子猫の方がハーレイよりも上だと思うけど…」
ぼくよりも可愛い筈だけれども、でも、ハーレイは子猫たちより素敵なんだよ。ずっと遥かに。
恋人だから、っていうだけじゃなくて、今のハーレイだからこそ。今のハーレイにしか出来ないことだよ、ぼくが素敵だと思うことはね。
今のハーレイは、前のハーレイと違って、ぼくのためにだけ時間を作ってくれるから…。
週末もそうだし、今日だってそう。
ぼくに会いに来るために、時間をやりくりしてくれてるでしょ、仕事を早く終わらせたりして。
他の誰かのためじゃなくって…、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。前のハーレイなら、恋人の方の自分は後回しだったから。「ソルジャー・ブルー」は優先されても。
「そういや、そうか…。前の俺だと、ソルジャーのお前が優先か…」
お前がソルジャーだったお蔭で、それで不自由は無かったんだが…。ソルジャーのために時間を割いたら、お前のために割いているのと同じだったから。
報告に出掛けてゆくにしたって、お前の所へ急いで走って行くにしたって、同じことだったな。
しかし、お前がソルジャーじゃなくて、他の仲間たちと同じミュウの中の一人だったら…。
俺はキャプテンだったわけだし、そうそうかまってやれないか…。
いつも「後でな」と後回しにして、「遅くなった」と謝ってばかりの毎日になって。
前の俺たちのようにはいかないかもな、とハーレイは顎に手を当てた。「キャプテンだったら、恋人のために時間は割けん」と、「ソルジャーしか優先出来そうにないな」と。
「でしょ? 前のハーレイには無理だったんだよ」
ぼくのためだけに、時間を作るのは。…キャプテンの時間を、恋人用にやりくりすることは。
前のぼくはソルジャーだったお蔭で、ハーレイの時間を貰っていただけ…。
ハーレイが時間を使う時には、その中心にいられただけ。恋人じゃなくて、ソルジャーだから。
でもね、今だと、ハーレイの時間をぼくのものに出来る時もあるでしょ?
普段は仕事や、ハーレイの先輩や友達なんかが、ハーレイの時間の中心になっていたってね。
チビのぼくでも、ちゃんとハーレイに時間を作って貰えるから…。
ソルジャーじゃなくて、ただの生徒で、ハーレイの教え子の中の一人でも。
前のぼくには出来なかったことだよ、恋人用にハーレイの時間を貰うってことは。
どう頑張っても無理なことだったし、前のハーレイだって、そうしないものね…?
それに気付いたから幸せなのだ、と笑顔で話した。ハーレイが来る前に考えたことを。
今はお互い、待ち合わせをしているようなもの。「会えたらいいな」と二人揃って。
時間と場所とが決まっていないだけで、毎日、待ち合わせているみたいじゃない、と。
「そう思わない? ぼくはこの家でハーレイを待ってて、待っていたくて…」
来てくれるかどうか分からなくても、留守にしたくはないんだもの。ハーレイが来た時に、家にいないと後でガッカリしちゃうから。
ぼくはそうやってハーレイを待って、ハーレイの方も待ち合わせに急いでいるんでしょ?
約束なんかはしていなくっても、ぼくに会えたら二人で話が出来るから…。今日みたいにね。
待ち合わせの場所は決めてなくても、会えたらいいな、って仕事を早く終わらせたりして。
「ふうむ…。時間も場所も、決まってはいない待ち合わせなのか…」
俺たちがこうして出会える時には、お互い、待ち合わせをしてるわけだな?
場所はお前の家なんだが…。決まっているような気がしないわけでもないんだが…。
そうか、待ち合わせか、お前と俺が会う時には。
お前は俺が来るのを待ってて、俺はお前が待ってる所へ行こうと時間をやりくりしてる、と。
上手くいったら会えるんだな、とハーレイも頷く「待ち合わせ」。会えずに終わってしまう日も多いけれども、今日のように会える時もあるから。
ハーレイが時間を作りさえすれば、待っている自分が何処かに出掛けてしまわなければ。
「うん、待ち合わせ…。何も決めてはいないけれどね」
ハーレイも、ぼくも、何処で会うのか、何時に会うのか、場所も、時間も。
それでも会える時には会えるし、ちゃんと立派に待ち合わせだよ。自分の時間をどう使うのか、恋人を中心に考えていって。…ぼくも、ハーレイも、他の予定を入れないで。
…前のぼくたちは、本物の待ち合わせもしていないけどね。恋人同士の待ち合わせは。
何処で会うとか、何処に行くとか…、と前の自分たちが生きた時代を思う。白いシャングリラで暮らした頃には、無理だった。ハーレイと二人、恋人同士で待ち合わせをして会うことは。
あの船がどんなに広くても。
船で生きていた他の仲間たちが、公園などで恋を語らっていても。
ソルジャーとキャプテンが船の中で二人一緒にいるなら、友達としてか、あるいは視察か。他に理由を作れはしない。恋人同士で出掛けたくても、待ち合わせなどをしたくても。
長く二人で生きていたのに、誰にも言えなかった恋。明かせないままで終わってしまって、暗い宇宙に消えた恋。待ち合わせさえも一度も出来ずに、それきりになった恋人同士。
「前の俺たちは、難しい立場にいたからなあ…。シャングリラでは」
ソルジャーとキャプテンが恋人同士なんだと知れたら、あの船はおしまいだったから。
誰一人として、俺たちの意見を真面目に聞いてはくれなくて。…皆がそっぽを向いちまって。
そうならないよう、恋を隠すしかなかったが…。待ち合わせなんぞは出来もしないで。
しかし今度は出来るわけだな、今も待ち合わせをしてるんだから。
時間も場所も決めちゃいないが…、とハーレイが笑む。「今日も、お前は待ってたっけな」と、「俺も待ち合わせに間に合ったようだ」と。
「そうだよ、毎日が待ち合わせ。…時間も場所も決めてなくても、恋人同士で待ち合わせだよ」
ハーレイが来ないで終わっちゃった日は、ガッカリだけど…。
子猫と遊びに出掛けた方が良かったのかな、と思っちゃう日もありそうだけど…。
「すまんな、そういう日も多いから…」
こればっかりは仕事の都合で、俺の付き合いというヤツもある。…他の先生と食事だとかな。
その日に決まることも多いし、どうすることも出来ないんだが…。
学校でお前に言ってやろうにも、他の生徒が羨ましそうに見そうだからなあ、「会うんだ」と。会えない日の方が多いにしたって、会える日の方が断然、目立つだろ?
それに「会える」と話した後でだ、何か用事が入っちまったら、待ちぼうけをさせてしまうってわけで…。だから予告は出来ない、と。
もっとも、それも今だけのことだ。
お前が大きくなった時には、もう待ち合わせは要らないからな、とハーレイが言うから驚いた。
「え? 要らないって…。どういうこと?」
ぼくが大きくなった時でしょ、前のぼくと同じ背丈になって…?
それならデートに行くんだろうし、そういう時には、待ち合わせ、しない?
いろんな所で、恋人と待ち合わせをしている人たち、いるじゃない。
公園の入口とか、喫茶店とか…、と思い付いた場所を挙げてみた。そういった所は、カップルの待ち合わせ場所の定番。チビの自分でも知っているほどに、恋人たちを見掛ける場所。
デートに行く前に時間を決めて、お互い、其処へと出掛けて行く。二人で過ごす一日のために。
今の自分も大きくなったら、そうするのだろうと思ったのに。
ハーレイとデートに出掛ける時には、恋人同士で待ち合わせなのだと考えたのに…。
「俺がお前を待たせるわけがないだろう。…公園にしても、喫茶店にしても」
お前を待たせる暇があったら、家まで迎えに来るもんだ。俺が早めに家を出て来て。
車でドライブってわけじゃなくても、此処まで迎えに来ないとな。デートの時には、俺が必ず。
そいつが俺の役目だろうが、とハーレイは迎えに来るつもり。待ち合わせをする代わりに、この家のチャイムを鳴らして、「さあ、行こうか」と。
「迎えに来るって…。本当に?」
そんなの、ハーレイ、面倒じゃないの?
ドライブに出掛けて行く時だったら、迎えに来るのが普通かもだけど…。そうじゃない時まで、家に迎えに来なくても…。ぼくの方なら、待ち合わせでかまわないんだけれど…?
公園でもいいし、喫茶店でも、と思ったままを口にした。待ち合わせも、きっと幸せだから。
約束の時間より早く着いても、ハーレイが来そうな方を眺めて待つ。「遅いよ!」などと怒りはしないで、「もうすぐ来るかな?」とワクワクしながら。
「待ち合わせ自体はいいんだが…。お前、丈夫じゃないからなあ…」
前と同じに弱い身体に生まれちまったし、これからも弱いままなんだろうし…。
待ち合わせ場所まで出て来いだなんて、言えるもんか。
此処は地球だぞ、シャングリラの中とは違うんだ。待ってる間や、其処まで行く間に、いきなり雨が降って来るとか、思ってたよりも寒い日になってしまうとか…。
それじゃ駄目だろ、お前の身体が悲鳴を上げちまう。デートに出掛けるよりも前にな。
用心のためにも、俺が此処まで迎えに来る、という言葉。
車で出掛けるわけではない日も、場合によっては車を出して。「この方がいい」と判断したら。
待ち合わせをしない代わりに臨機応変、どんな時でも、恋人の身体に負担をかけないように。
そして結婚した後は…。
やはり無いという待ち合わせ。ハーレイは自信たっぷりで言った。
「待ち合わせは、もう要らんだろう」と。「いつも一緒だし、必要ないぞ」と。
「でも、ハーレイの仕事の帰りとかに…」
待っているっていうのは駄目なの、仕事に行く時は、ハーレイは一人なんだから…。
ちょっと何処かで待ってみたいよ、とハーレイにぶつけてみた、おねだり。
学校の近くの喫茶店で待って、一緒に食事に出掛けてゆくとか、そういう幸せな待ち合わせ。
「近くの店なあ…。お前が待ってみたいんだったら、それも悪くはないんだが…」
俺が家まで迎えに帰った方が良くないか?
仕事に行くなら車なんだし、家に帰るのも早いから。…お前もその方が楽だぞ、きっと。
用意だけして家で待ってろ、とハーレイは言ってくれるのだけれど、待ち合わせだってしたいと思う。結婚前には出来ないのならば、結婚した後でかまわないから。
「ううん、たまには待ってみたいよ。…でも、結婚前のデートの時には駄目なんでしょ?」
それなら、結婚しちゃった後。ハーレイが仕事に行っている日に、待ち合わせ。
今のぼくだと、今日みたいに待っているんだもの。時間も場所も決めないままで。
そんな待ち合わせが終わった後には、もう待ち合わせが無いなんて…。つまらないでしょ、前のぼくたちは待ち合わせをしていないんだから。…恋人同士の待ち合わせをね。
だからやりたい、と強請った待ち合わせ。結婚して二人で暮らし始めたら、ハーレイが出掛けた仕事先の近くの、何処かで待って。
「お前がしたいと言うのなら…。「駄目だ」と止めるわけにはいかんな」
だったら、お前が元気な時で、天気のいい日。そういう時なら許してやろう。待っているのを。
それでいいなら、仕事の帰りに待ち合わせをして出掛けてやるが…。
あくまで俺の車でだぞ、と念を押された。「もう遅いんだから、歩くのは駄目だ」と。
「いいよ、ハーレイの車でも。…ぼくは何処かで待っているから」
喫茶店がいいかな、って思っていたけど、本屋さんも退屈しなくていいかも…。
ハーレイの仕事が終わる時間まで待っているから、会えたら一緒に出掛けようよ。遅くなっても平気だから。…ハーレイ、ちゃんと来てくれるしね。
「遅くなっても、って…。お前、無理はするなよ?」
待ってる間に気分が悪くなったら、帰っちまっていいんだぞ?
店の人に伝言を頼んでおくとか、学校に電話してくるとかして。…「先に帰る」と。
「無理なんか、ぼくはしないってば!」
駄目だと思った時は帰るよ、我慢していつまでも待っていないで。
家に帰って大人しくするから、そうじゃない時は二人で出掛けなくっちゃね…!
無理をして待ったりは絶対しない、と約束をした。
具合が悪くなりそうだったら、諦めて家に帰るから、と。待ち合わせは次のお楽しみにして。
(せっかくハーレイと出掛けるんだし、その後で、ぼくが寝込んじゃったら大変…)
ハーレイは「俺のせいだ」と慌てそうだから、そうならないよう、気を付けよう。余計な心配をかけないように、「また行こうな」と言って貰えるように。
今も待ち合わせのような毎日だけれど、いつかは本物の待ち合わせをしたい。
お互いの時間の都合を合わせて、食事やドライブに出掛けてゆく。ハーレイと二人で。
シャングリラでは一度も出来なかったから、きっと楽しいに違いない。
ハーレイが遅れてやって来たって、自分が早く着きすぎたって。
出会えた後には、二人きりで出掛けてゆくのだから。
好きに時間を使えるわけだし、恋人同士の素敵な時間が始まる合図が待ち合わせだから…。
待ちたい時間・了
※前のブルーも、今のブルーも「ハーレイを待っている」わけですけど、違った状況。
ハーレイの時間が「本当の意味で」ブルーを中心に回っているのは、平和な時代だからこそ。