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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

散歩と運動

(うーん…)
 ぼくって運動不足なのかも、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 健康な身体を作るためには、まずは運動。軽く身体を動かすだとか、少し多めに歩くとか。同じ道を歩いてゆくにしたって、早足で行けば運動になる。急いだ分だけ、使うエネルギー。
 とにかく日頃の運動が大切、それが体力づくりの秘訣。
(ぼくって、身体が弱いけど…)
 生まれつきの体質なのだけれども、改善の余地はあるかもしれない。
 直ぐに寝込んだり、風邪を引いたり、弱すぎる身体。前の自分とそっくり同じに。もしも丈夫な身体になれたら、学校を休まなくていい。「ハーレイに会えなかった」と思わなくて済む。
(学校、バスで行ってるし…)
 体育の授業も見学が多いし、運動不足なのかもしれない。いわゆる運動は殆どやらずに過ごしているから。やりたくても出来ない身体だから。
(走ったら、直ぐに疲れちゃって…)
 もう駄目だ、と手を挙げて見学するのが体育の授業。たまに頑張ったら、後で寝込んだり。
 そうならないよう、運動は控えているのけれども、控えすぎて逆に弱いのだろうか。運動不足になってしまって、少しも丈夫になれないだとか。
(ありそうだよね…)
 運動しようと自分で思ったことが無い。いつだって「無理」と考えるだけ。
 これでは健康になれはしないし、自分は間違っていたかもしれない。体力づくりをしないから。運動不足な日々を重ねているだけだから。



 日頃の運動が大切なのだ、と書いてある記事。スポーツや体操も記者のお勧めなのだけど。
(散歩しましょう、って…)
 走ったり、体操したりといった運動が向かない人は。無理をしないで自分のペースで、のんびり出掛けてゆく散歩。それがピッタリだという話。
(最初は家の近くから始めて…)
 少しずつ距離を伸ばしていったら、かなり運動になるらしい。散歩する距離も時間も伸びるし、その分、体力もついてゆく。始めた頃より、ぐんぐんと。
(五分歩くのと三十分だと、それだけで全然違うよね…)
 難しい計算をしなくても分かる、散歩の理屈。確かに運動になるだろう。体力もついて、健康な身体が作れそう。バス通学をやめて、徒歩で通えるようになる日も来るかもしれない。
(でも、散歩…)
 魅力的だけれど、帰って直ぐに散歩に出ないと、ハーレイが来てしまいそう。仕事帰りに寄ってくれる日は予告無しだし、「今日は大丈夫」と言い切れないから。
(おやつを食べて、ゆっくりしてたら…)
 知らない間に経っている時間。それから歩いて出掛けて行ったら、帰る時間は当然、遅い。沢山歩けない間だったら、五分で戻って来られるけれど…。
(歩く時間と距離が伸びたら…)
 五分の散歩が三十分になって、もっと増えたりするかもしれない。今日は沢山散歩したから、と胸を張って家まで帰って来たら、ハーレイの車が…。
(ガレージに停まっていそうだよ…)
 それは困る、と思った散歩。体力づくりは大切だけれど、ハーレイと過ごす時間も大切。一分も無駄にしたくはないから、ハーレイを待たせてしまうだなんて、とんでもない。



 おやつの後で散歩に行くのは駄目となったら、逆にするしかないだろう。
(先に散歩して、おやつは家に帰ってから…)
 それなら無理なく散歩に行ける。ハーレイが訪ねて来るよりも前に。
 けれど、散歩の後におやつを食べてしまったら、今度は胃袋の方が問題。美味しく食べて自分の部屋に戻った途端に、鳴りそうなチャイム。
(ハーレイが来たら、お茶とお菓子で…)
 母が部屋まで運んでくれる。その時のお菓子が入りそうにない。おやつでお腹一杯だから。
(お茶も、殆ど飲めないかも…)
 せっかくハーレイと二人きりなのに、食べられないお菓子。飲めないお茶。それは寂しいから、避けたいコース。特に、お菓子がハーレイの好物のパウンドケーキだった時には。
(逆にするのは駄目みたい…)
 やっぱり、おやつの時間が先。おやつを食べてから出掛ける散歩。
 のんびりゆっくり食べていないで、「御馳走様」と立ち上がって。「行って来ます」と颯爽と。
 最初は家の近くから。無理をしないよう、少しずつ距離を伸ばして歩いて、体力づくり。



(だけど、おやつを食べたら直ぐに散歩に行くなんて…)
 難しそうだよ、と零れる溜息。おやつの余韻を楽しみたいのに、そうする代わりに歩くなんて。紅茶の香りもケーキの匂いも、全部投げ捨てて行くなんて。
(…もっとゆっくりしたいのに…)
 今みたいに、新聞なんかも読んで。母とお喋りしたりもして。
 それをしないで出掛けたとしても、気分を上手く切り替えられても…。
(今度は、寄り道…)
 散歩の途中で猫に会ったら、声を掛けて撫でて、遊んでいそう。時間が経つのを忘れたままで。綺麗な花が咲いていたって、同じようなことになるだろう。その家の人が庭にいたなら、ついつい話し込んでしまって。「何の花なの?」と訊いた後には、あれこれお喋り。
 そういう散歩を楽しんだ後で家に帰ったら、ガレージに停まっていそうなハーレイの車。
(待たせちゃってて、ママがハーレイとお喋りしてて…)
 きっとガッカリするのだろう。もっと急いで帰って来れば良かった、と。
(散歩、ホントに無理そうだよ…)
 ハーレイを待たせてしまうことになるか、二人きりのお茶の時間を満喫出来ない羽目に陥るか。二つに一つで、どちらになっても悲しい結末。
(駄目だよね…)
 それに、散歩にお勧めだと書かれている休日。好きな時間に出掛けられるから、平日は無理だという人も是非、と。
 その休日はハーレイと二人で過ごしているから、散歩に出掛ける時間は無い。ハーレイを放って散歩だなんて、と考えたけれど。
(…ちょっと待ってよ…?)
 使えるかも、と気付いた散歩。
 運動不足だから、休日くらいは散歩したい、と言えばハーレイと二人で出掛けられるかも…!



 いいアイデアだ、と頷いて帰った自分の部屋。空になったお皿やカップをキッチンの母に返した後で。足取りも軽く階段を上って。
(ハーレイと散歩…)
 素敵だよね、と座った勉強机の前。ハーレイと二人で散歩に行けたらいいな、と。
 きっと、ちょっとしたデートの気分。手を繋いでは歩けなくても、二人並んで歩くだけでも。
(ご近所さんに、「恋人です」って紹介するのは無理だけど…)
 尋ねられても、「ぼくの学校の先生です」としか言えないけれど。
 それでも、ハーレイと散歩したなら、きっと楽しい。体力づくりに出掛ける散歩。
(一時間くらいは歩きましょう、って書いてあったし…)
 休日に出掛ける散歩の目安は一時間。ただでも運動しない日なのだし、そのくらい、と。
 一時間もあれば、色々な所へ歩いてゆける。少し離れた公園だとか、普段は行かない方だとか。
 ハーレイが此処まで歩いて来る道を、逆に辿ってみることだって。
(三十分あったら、何処まで歩いて行けるかな?)
 いつもハーレイが見ながら歩いて来る景色。それをどのくらい楽しめるだろう、三十分の間に。道は何通りもあるらしいから、見られる景色も選んだコースで変わる筈。
(喉が渇いたら、一休みだって…)
 喫茶店には入れなくても、缶ジュースを買って飲むだけのことでも、立派にデート。二人一緒に散歩に出掛けて、あちこち歩いて、お喋りもして。
(これなら、ハーレイも断らないよね?)
 体力づくりのための散歩で、健康な身体を作るための散歩。弱い身体も丈夫になりそう。
 もしもハーレイが来てくれたならば、早速、提案してみよう。休日は二人で散歩に行こうと。



 帰りに寄ってくれるといいんだけれど、と胸を高鳴らせていたら、聞こえたチャイム。
(やった…!)
 チャンス到来、と顔を輝かせてハーレイを待った。母の案内で部屋に来るのを。お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合うなり、ぶつけた質問。
「あのね…。運動不足は良くないよね?」
 今日の新聞にも書いてあったけど、運動不足は身体に良くないんでしょ?
「運動不足か…。あまり感心したことではないな、そいつはな」
 身体ってヤツは、動かしてやらんと駄目になる。日頃から自分で気を付けないとな。
「やっぱり…。それじゃ、散歩に行ってくれない?」
 お休みの日だったら、一時間くらいがお勧めだって。散歩する時間。
「俺なら、ジョギングしているが?」
 わざわざ散歩に出掛けなくても、普段から。休みの日だって、走る時は走る。
 早く目が覚めたらジョギングなんだし、そいつが無くても、此処まで歩いて来ているんだぞ?
 散歩は必要無いってな。俺は運動不足じゃないし。
「ハーレイじゃなくて、ぼくだってば!」
 運動不足みたいなんだよ、学校はバスで行ってるし…。体育は殆ど見学だから。
 これじゃ丈夫になれやしないよ、ちっとも運動しないんだもの。
 健康な身体を作るためには、運動するのが大切だって書いてあったよ、新聞に。
 今のままだと、ぼくの身体は弱いまま。
 だけどスポーツとかは無理だし、散歩が一番良さそうだから…。



 お休みの日は二人で散歩しようよ、と切り出した。時間がたっぷりある休日。
「学校がある日は、散歩は難しそうだから…」
 ぼくが散歩をしている間に、ハーレイが家に来ちゃうとか…。待たせちゃったら悪いでしょ?
 だから、お休みの日に二人で散歩。それなら待たせる心配も無いし…。
「お前なあ…。散歩というのは口実だろうが」
 体力づくりだの、健康な身体がどうのと言ったら、俺が賛成しそうだからな?
 「そいつはいいな」とアッサリ信じて、もう今週の土曜日からでも二人で散歩に行きそうだ。
 しかし、お前の狙いは違うという気がするが?
 俺とのデートが目的だろうが、体力づくりにかこつけて。二人きりで外を歩こう、とな。
「なんで分かったの!?」
 散歩しようって言っただけだよ、どうして其処まで分かっちゃったの?
 ぼくの心が零れていたとか、顔にそう書いてあったとか…?
「大当たりってヤツか…。散歩だと誘って、本音はデート、と」
 そんな所じゃないかと思って、カマをかけてみただけなんだが…。
 お前が思い付きそうなことは、俺だって思い付くってな。心が零れていなくても。
「ハーレイ、酷い…!」
 ぼくを騙して、本当のことを言わせるなんて…!
 散歩に行きたいと思ってる理由、ちゃんと秘密にしてたのに…。
 体力づくりのための散歩で、ハーレイだって運動不足は良くないって認めていたくせに…!



 運動不足は駄目なんでしょ、と詰め寄ってみても、ハーレイは腕組みをしているだけ。
 「それとこれとは話が別だ」と、眉間の皺まで少し深くして。
「俺とのデートが目的だったら、散歩に付き合う必要は無いな」
 デートは断固、御免蒙る。傍目には散歩に見えたとしても。
「…ぼくが運動不足なのに?」
 丈夫な身体を作りたくって、運動しようと思ってるのに…。運動不足じゃ駄目なのに。
「足りているだろうが、お前の運動」
 休みの日に散歩しなくても。それも一時間も歩こうだなんて、やり過ぎってもんだ。
「足りていないよ、足りるわけがないよ!」
 学校だって、歩いて通っていないんだし…。体育の授業も見学ばっかり…。
 一時間くらいは歩かなくちゃ駄目だよ、運動不足なんだから…!
「お前が健康だったらな。…バス通学をしているくらいに弱いんだぞ、お前」
 体育だってそうだ。丈夫な生徒がサボろうとしても、見学の許可は下りないぞ。お前が弱いのが分かっているから、授業の途中でも抜けられる。手を挙げるだけで。
 それと同じで、運動の量にも個人差ってヤツがあるってな。
 今のお前には、今の生活で丁度いいんだ。運動の量は充分、足りてる。
 本当に運動不足だったら、それだけで病気になっちまったりするんだから。

 それに運動の方も、やり過ぎると毒だ、と叱られた。お前は知らないだろうがな、と。
「運動部のヤツらにしたって、そうだ。お前の何倍も運動してるが…」
 お前から見たら、健康そうに見えているんだろうが…。あれだって加減が必要なんだぞ?
 やり過ぎちまうと身体を壊す。鍛えるつもりが逆になるんだ。
「…そうなの?」
 毎日、沢山運動してたら、うんと丈夫になれそうだけど…。
 柔道部の人だって、柔道の他に走り込みとかもしているし…。凄く丈夫に見えるのに…。
「其処が落とし穴になるわけだ。もっと頑張れば成果が出る、と思い込んじまって」
 走り込みでも、誰でも同じようにはいかん。長い距離を走るのが得意なのもいれば、短い距離を凄い速さで走り抜くのが得意なヤツとか。マラソン選手と、短距離の違いは分かるだろ?
 柔道部のヤツらも、マラソン向けのと、短距離向けのがいるってな。
 そいつらに同じ指導は出来ん。根性でやれ、と怒鳴り付けても、いい結果なんか出ないんだ。
 走り込みもそうだし、柔道の練習も体力に合わせてやらないと…。
 いくら生徒が「まだ出来ます」と言っていたって、適当な所で休ませるとか、色々とな。
 それだけ注意をしてやっていても、無理をする馬鹿もいるんだが…。
 今日はここまで、と言っておいても、自主練習を勝手に始めちまって、やり過ぎる馬鹿が。
 ん…?



 待てよ、とハーレイが傾げた首。運動のし過ぎと、それから散歩、と。
「…運動をし過ぎる馬鹿は沢山…。それに散歩で…」
 引っ掛かるな、と顎に手を当てるから。
「どうかしたの?」
 誰か、そういう生徒がいたの?
 運動だけじゃ足りないから、って散歩もしていて、やり過ぎちゃった…?
「いや、ちょっと…。俺の教え子に限っては…」
 運動のし過ぎの方はともかく、散歩でトドメを刺すようなヤツはいないと思うんだが…。
 誰かに聞いた話かもしれん、他のクラブの先生から。運動部は色々あるからな。
 その辺の山とかを登るクラブの生徒だったら、自主練習で散歩してるってことも…。
 違う、生徒の話じゃなかった。…前のお前だ。
「前のぼく…?」
 ぼく、何かやった?
 運動のやり過ぎなんかは、一度も無いと思うけど…。散歩でトドメを刺すことだって。
 今のぼくと同じで弱かったんだし、どっちも絶対、やっていないよ。
「いいや、お前が忘れちまっているだけだ」
 お前は俺の真似をしたんだ、挙句にやり過ぎちまったってな。お前には無理なことだったのに。
「ハーレイの真似って…。何の真似?」
 料理じゃないよね、やり過ぎるんなら。…それに散歩もついて来るなら。
「さっきからの話そのままだ。運動ってヤツだ」
 運動のし過ぎだ、俺の真似をして。前の俺も頑丈だったから。
「…やっていないと思うけど…。運動なんか…」
 前のぼくだって、今と同じで運動不足。運動もしないし、散歩もしないよ。歩いていたのは視察くらいで、運動なんか…。それに散歩も、していないってば。
「やってただろうが、最初の頃に。…チビだった頃に」
 ブラウたちと一緒に船の中の散歩。シャングリラという名前だけだった船の頃だな。
「ああ…!」
 歩いてたっけね、ブラウたちと。今日はこっち、って連れて行かれて。



 思い出した、と蘇って来た遠い遠い記憶。白い鯨ではなかった船で暮らし始めた頃の自分。
 燃えるアルタミラから脱出した船で、ハーレイが作ってくれた友達。「俺の一番古い友達だ」と連れて回って、紹介して。子供の姿と強すぎるサイオン、孤立しても不思議ではなかったのに。
 エラとブラウも、その中にいた。子供だった自分を心配してくれた二人。
(いつも、「散歩に行こう」って…)
 船のあちこちを連れ回された、散歩の時間。運動不足は良くないから、と健康のために。子供のままで成長を止めた身体が、もう一度育ち始めるように。
「…前のぼく、散歩してたっけ…。ブラウたちと一緒に」
 いろんなコースで歩いていたけど、メインの通路を必ず一度は通るんだよ。一番長いし、これが散歩のコースの基本、って。
「思い出したか? お前が散歩をしている時に、だ」
 その横を走って通り過ぎて行くのが俺だった。色々な場所で。
「うん…。歩いていたら、ハーレイが走って来るんだよ」
 後ろから来て追い越してったり、前の方から走って来たり。
 ぼくたちはゆっくり歩いているのに、ハーレイはアッと言う間に通り過ぎちゃって…。
 行っちゃった、って見送っていたら、また後ろから走って来るとか、走って戻って来るだとか。



 体力づくりにと通路を走っていたハーレイ。「身体がなまっちまうしな?」と。
 散歩している間にすれ違ったり、何度も追い越されたりするものだから。いつ出会っても、風のように走り去ってゆくから、ある日、ハーレイを捕まえて訊いた。
「ハーレイ、いつもどのくらい走っているの?」
 ぼくたちの横を何度も通って行くけど、コースが短いわけじゃないよね?
 走っているから、ぼくよりもずっと長い筈だよね。ハーレイがいつも走るコースは…?
「そうだな…。俺が走っている距離か…」
 足の向くまま、気の向くままって感じだし…。これだけだ、と決めてるわけじゃないんだが…。
 お前の散歩程度のコースだったら、三倍は軽く走っているな。
 調子が良ければ、五倍って日もあるんだぞ。今日はいける、と思った時は。
「三倍も…?」
 それに五倍も走る時があるの、歩くだけでも大変なのに…。そんなに長いコースだったら。
 ぼく、そんなには走れないよ。散歩するだけで精一杯だよ。
「だろうな、お前は丈夫じゃないし…。それにチビだし」
 無理をしない程度に、頑張って散歩するんだぞ。運動不足にならないように。
 ちゃんと大きく育たないとな、しっかり身体を動かして。
 長い間、あんな狭い檻で暮らしていた上、成長まで止めていたんだから。
「分かってるよ」
 この船で子供はぼくだけなんだし、早く大きくならなくちゃ…。
 ハーレイみたいに大きくなるのは無理だろうけど、ぼくだって育つ筈なんだもの。



 アルタミラの檻で長く成長を止めていた分、早くみんなに追い付きたい。大人になりたい。
 そう思ったから、伸ばそうとした散歩の距離。
 成長するには運動なのだと分かっていたから、ハーレイに三倍と聞いた翌日、いきなりに。
「ブルー、散歩の時間は終わりだよ?」
 まだ歩くのかい、此処で終わりにしておかないで?
 あたしとエラは休憩だけどね、とブラウが訊くから、「ちょっとだけだよ」と笑顔で答えた。
「もう少し、一人で歩いてくる。早く大きくなりたいから」
 ハーレイは、ぼくたちの三倍も走っているんだって。今日はまだ会っていないけど…。
 そんなに走れるハーレイだから、きっとあんなに大きいんだよ。
 だから、ぼくだって頑張らなくちゃ。走れない分、少しでも歩いた方がいいでしょ?
 ぼくだけ子供でチビなんだもの、とブラウたちと別れて歩き始めた。
 今日のコース、と自分で選んで、張り切って。
 ハーレイは三倍と言っていたのだし、自分も三倍、歩いてみようと。
 それだけ歩けば、きっと体力づくりになる筈。もっと健康な身体になれるし、背も伸びる筈。
 今の散歩を続けてゆくより、遥かに効果があるだろうから。



 一人きりで歩き始めた通路。メインの通路を真っ直ぐ進んで、其処から次のフロアへと。
 ブラウたちとの散歩と違って一人なのだし、少し大人に近付いた気分。面倒を見てくれる大人がついていなくても大丈夫、と。
 一人で歩ける、と始めた散歩。いつもの距離よりもっと長くと、三倍歩いて行かなくちゃ、と。
(二回目までは…)
 普段と変わりなく歩いてゆけた。疲れもしないで、足がだるいとも思わないで。
 三回目は少し疲れたけれども、ゴールしたら急に出て来た欲。これで三倍、と思ったら。
(調子のいい日は、五倍って言ってた…)
 いつも三倍の距離を走ってゆくハーレイ。誰よりも頑丈な身体のハーレイ。
 そのハーレイをお手本にしたら、きっと今より丈夫になれる。背だって早く伸びるだろう。
(ぼくだって、五倍…)
 歩けそうだよ、と眺めた通路。三倍の距離を歩いたのだし、五倍までは残り二回だから。
 きっと調子がいい日なんだ、と歩きたくなった五倍の距離。
 今日はハーレイと全く出会わないけれど、それだけ歩いていれば会えそうな気もしたから。
(ハーレイが走って来たら、自慢しなくちゃ…)
 頑張って三倍歩いたんだよ、とチビの自分の成長ぶりを。こんなに沢山歩けるんだから、と。
(凄いな、って褒めてくれるよ、きっと…)
 だから残りも頑張らなくちゃ、と四回目を歩いて、どうしようかと悩んだ五回目のコース。
 身体が重くて足も疲れているのだけれども、これを歩けば五倍になる。いつもの五倍。
(…ハーレイは五倍も走るんだから…)
 ぼくは歩いているだけだから、と自分自身を励ました。走るより歩く方が楽、と。



 歩ける筈だ、と足を前へ進めて、あと少しだけ、あと少しだけ、と頑張って歩き続けたコース。やっとの思いで辿り着いたゴール。
 其処から自分の部屋まで歩いて、すっかり疲れ果ててしまった身体。足は重くて鉛のよう。息も切れるし、身体はだるくて重たいし…。
(ハーレイ、一度も会えなかった…)
 食事の時には一緒だったけれど、散歩していた最中に。散歩の時には、よく出会うのに。通路を走るハーレイに。自分の三倍や五倍のコースを、軽々と走ってゆくハーレイに。
(会いたかったな…)
 せっかく今日は頑張ったのに。会ったら自慢したかったのに。
 「今で三倍だよ」とか、「五倍なんだよ」とか。誇らしげに告げて、「凄いな」と褒めて貰えていたなら、きっと身体も軽かったのに。心がグンと元気になって、それと一緒に。
 けれど、ハーレイには会えないまま。
 頑張る自分を見て貰えないまま、ゴールした上に、今は自分の部屋。終わってしまった五倍もの散歩。足も身体も重いし、だるい。
 疲れちゃった、と座ったベッド。
 座ったら、横になりたくなった。ちょっと休めば、楽になりそうな身体。
 ベッドなら足をしっかり支えてくれるし、身体ごと受け止めてくれるから。シーツの海に沈んでいたなら、息切れもきっと治るから。



 少しだけベッドで休んでいよう、と靴を脱いで身体を投げ出した。ふんわり沈んだ、気持ちいい海。ひやりとしたシーツが肌に心地良くて、そのまま瞼を閉じてしまって…。
「おい、ブルー?」
 不意に上から聞こえて来た声。
「…ハーレイ…?」
 どうしたの、と瞼を開けたら、暗かった部屋。とうに夜だと分かる、常夜灯だけが灯った部屋。船の外は漆黒の宇宙だけれども、昼と夜で変わる中の明るさ。夜になったことを示す照明。
 それでもハーレイの姿は見えたし、覗き込まれていることも分かった。
「灯りも点けずにどうしたんだ、お前」
 倒れてるのかと思ったら…。ベッドで昼寝か、そのまま夜になっちまったんだな。
「疲れちゃって、寝てた…」
 ちょっとだけのつもりだったのに…。もう夜なんだ?
「いったい何をやったんだか…。疲れただなんて」
 飯の時間だぞ、来ないから呼びに来てやったんだ。ほら、起きろ。
「うん、行くよ」
 ごめんね、ぐっすり眠っちゃってて…。
 ほんのちょっぴりだけのつもりで、夜になったのも知らなかったよ。



 起き上がってベッドから下りようとしたら、グラリと揺れて回った天井。身体が傾いで、アッと言う間に倒れ込んだベッド。手をつく暇さえも無いまま、ドサリと。
「どうした、ブルー!?」
 よろけたのか、とハーレイが慌てて戻って来た。出ようとしていた扉の方から。
「なんだか変…」
 身体に力が入らないみたい…。重くて、だるくて…。
 起きられないよ、と言っている間に、額に当てられた大きな手。冷たい、と首を竦めたら…。
「熱があるじゃないか…!」
 かなり高いぞ、待ってろよ、ブルー!?
 直ぐにヒルマンを呼んで来るから、そのまま寝てろ!
 起きるんじゃないぞ、と飛び出して行ったハーレイが連れて戻ったヒルマン。熱を測られ、何をしたのか質問された。風邪などとは違うようだから、と。
「…散歩しただけ…。ちょっと頑張って…」
 いつものコースの五倍ほど…。今日は調子が良さそうだから、って…。
「それは散歩と言わないよ、ブルー。…無理のし過ぎだ」
 身体が疲れすぎたんだ。急に体力を使いすぎたから、身体が驚いてしまって熱が出ている。
 ハーレイのように頑丈だったらともかく、元々、身体が弱いわけだし…。
 散歩は、ほどほどにしておかないとね。
 運動のし過ぎは、逆に身体を壊してしまう。これに懲りたら、無理はしないことだ。



 当分は部屋で寝ていなさい、と処方された薬と、ハーレイが運んで来てくれた夕食のトレイ。
 ベッドの上に起こして貰って、嫌いな薬と、食べられそうもない夕食をぼんやり見ていたら…。
「すまん、俺のせいだな」
 お前が薬を飲む羽目になっちまったのも、飯を食えそうにないのも、全部。
 …本当にすまん。
 俺のせいだ、とハーレイが何度も繰り返すから。
「なんでハーレイが謝るの?」
 熱が出たのは、ぼくが無理して歩いたからだよ。ヒルマンもそう言っていたでしょ?
「その散歩…。俺の真似をして歩いていたんだろうが」
 いつものコースの五倍と言ったろ、その話は昨日お前にしたばかりなんだ。
 俺はどれだけ走っているのか、お前が訊いて来たもんだから…。
 調子が良ければ五倍だと答えて、頑張って散歩するように言った。運動しろとな。
 お前、そのせいで歩くつもりになったんだろうが。いきなり、いつものコースの五倍も。
「そうだけど…」
 ハーレイの話で思い付いたけれど、やろうと決めたのはぼくなんだよ?
 途中でやめずに、頑張って最後まで歩いてたのも。
「その時間に走りに行けば良かった。…今日に限って、俺は走らなかったんだ」
 料理の試作に夢中になってて、たまにはいいかと…。走らない日もあるからな。
 明日に纏めて走ればいい、と料理の方を続けちまった。
 そいつも含めて俺のせいなんだ、お前が倒れてしまったのは。



 歩いているお前を見付けたら、きっと止めていたんだ、とハーレイが強く噛んだ唇。
 こうなったのは、走りに行かなかった俺の責任だ、と。
「…料理なんか放って走れば良かった。そうすりゃ、お前を止められたんだ」
 五倍も歩いてしまうより前に。…三倍くらいは歩いちまった後だったかもしれないが。
「なんで分かるの、止めるだなんて」
 ぼくがしてるの、ただの散歩かもしれないよ?
 …ハーレイに会ったら自慢しなくちゃ、と思ってたけど、その前に分かるわけないじゃない。
 いつもより沢山歩いているのか、いつもの散歩か。
「分かるさ、そのくらいは簡単にな」
 お前、一人じゃ散歩しないだろ。いつだって、エラやブラウが一緒だ。
 あいつらがいれば、普段通りだと分かる。いないんだったら、何かが変だ。
 俺は止まって、お前の話を聞くべきだろうが。…歩いてるんだ、と自慢話をされるにしても。
「そっか…。そうだね、変だったかもね…」
 ぼくが一人で散歩してたら、それだけで。
 自慢しなくても、ハーレイに色々訊かれそう…。それに叱られてしまいそうだよ。
「叱りはしないが…。俺のせいで始めたことなんだから」
 しかし、止めなきゃならないことは確かだな。お前の身体は弱いんだから。
 ヒルマンもお前に話していたろう、無理のし過ぎは良くないと。
 運動は身体にいいことなんだが、やり過ぎちまうと、逆に身体を壊すんだ。
 お前には軽い散歩が似合いで、俺の真似はただの無茶でしかない。それをお前に伝え忘れた。
 どれだけ走るの、と訊かれた時にだ、ちゃんと教えておけば良かった…。



 本当に俺のせいなんだ、と悔やみながら看病してくれたハーレイ。喉を通りそうな食事を口まで運んでくれて、苦手だった薬も「嫌いでも飲めよ」と飲ませてくれて。
 幸い、熱は翌日の朝には微熱に下がって、数日ですっかり治ったけれど…。
「前のお前もやらかしたってな、運動不足は良くないと言って」
 俺に向かって言ってはいないが、勝手に自分で思い込んじまった結果がアレだ。
 同じことを二回もやらなくていい。運動のし過ぎは身体に毒だ。
 ただの散歩でも過ぎれば毒だし、わざわざ俺と散歩をしてまで無理をすることはないってな。
 お前は運動不足じゃない。さっきも言った通りに足りてる、充分にな。
「でも、散歩…。ハーレイと一緒に歩きたいのに…!」
 きっとデートの気分になれるよ、その辺を散歩するだけでも…!
 ちょっと離れた公園までとか、一時間もあれば色々な所へ行けるんだから…!
「分かった、分かった。…俺と一緒に散歩なんだな」
 いずれ、お前が無理をしないよう、様子を見ながら連れてってやる。
 コースはもちろん、時間の配分なんかも考えてな。此処で休憩を五分だとか。
「ホント?」
 連れてってくれるの、ぼくを散歩に?
 色々とコースを考えてくれて、休憩時間も挟んでくれて…?
「本当だ。…ただし、お前と結婚したらな」
 散歩でデートと洒落込もうじゃないか、お洒落なカフェに寄ったりもして。
 今よりもずっと楽しい散歩が出来るってもんだ、手だって繋いで歩けるしな?
「ハーレイのケチ…!」
 散歩、今でも行けるのに…!
 ハーレイのことを「恋人です」って言えなくっても、この辺を歩きに行けるのに…!
 喫茶店とかには入れなくても、ぼくは缶ジュースで充分なのに…!



 それでいいから連れて行ってよ、と強請っても「駄目だ」の一点張り。
 「運動のし過ぎは良くないからな」と、「前のお前も散歩で寝込んでしまったろうが」と。
 どう頑張っても、許して貰えない散歩。
 運動は充分に足りているから、弱い身体には無理をしないのが一番だから。
(…体力づくりも駄目なんて…)
 これならいけると思ったのに、と悔しいけれども、いつかは連れて行って貰える散歩。
 結婚したなら、もう「駄目だ」とは言われずに。
 散歩がしたい気分になったら、ハーレイが色々と考えてくれて。
 その時はハーレイと二人で歩こう、無理をしないよう決めて貰ったコースや時間で。
 「今日は歩いてデートなんだね」と、カフェで休憩したりしながら。
 歩く時には、二人、しっかり手を繋ぎ合って。
 二人ならきっと、幸せに歩いてゆけるから。
 普通の散歩の五倍の距離でも、きっと少しも疲れもしないで、幸せも元気も一杯だから…。




              散歩と運動・了


※運動不足は良くないから、とハーレイと散歩に行こうとしたブルー。デートは無理でも、と。
 断られた上に、前の生でやった無茶の話も出て来る始末。散歩は、育ってからのお楽しみ。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv











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