シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(ふうん…?)
知らなかった、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
スイートピーの花に似ている、桃色の花。写真に添えられた説明によると、豆の花らしい。その花の記事につけられた見出しが…。
(最初の植物…)
青い地球が宇宙に蘇った時、一番最初に地球の大地に根付いた植物。それがこの豆。
テラフォーミング用の植物たちではないのに、たっての希望で植えられたもの。植物が根付いていない惑星、其処で育つよう改良された色々な植物たちと一緒に。
今の青い地球の最初の植物、そう呼ばれる花。テラフォーミング用の植物だったら、様々な星で最初に育つものだから。いわば基本の植物たちで、あって当然。
それとは別に育った植物、まるで奇跡であるかのように。青く蘇った水の星の上で。
(豆だったんだ…)
地球に根を張った最初の植物。
死の星だった地球が燃え上がった後、戻って来た澄んだ青い空と海。清らかな水が流れる大地。まだ生命の影が無くても、それらが生きてゆける環境。
もう大丈夫、とテラフォーミングが始まった時に、この豆も一緒にやって来た。蘇った地球で、青い星の上で育つようにと、専用の植物たちに混じって。
遠い昔に、赤いナスカで一番最初に根付いた植物。メギドの炎で滅ぼされた星。
ミュウが手に入れた、打ち捨てられた植民惑星。何を育てようかと若い世代が色々試して、この豆が立派に根を張った。赤い大地でも生きてゆける、と。
(とっても強い植物だから…)
赤いナスカで産声を上げた、初めての自然出産児。SD体制の時代に生まれた「本物の」子供。
トォニィがこの世に誕生した時、母のカリナに夫のユウイが被せてやった花冠。豆の花を編んで作り上げて。「この豆はとても強いから」と。
その話ならば、今のハーレイからも聞いたのだけれど…。
(パパのお花…)
桃色の花を咲かせる豆には、そういう名前があるらしい。「パパのお花」と呼ばれる豆。
トォニィがそう呼んでいたから、と書かれた記事。
幼かった頃に、父のユウイをシャングリラでの事故で亡くした後に。
(ユウイが育てた豆だったから…)
葬儀の時に、トォニィが摘んで来て墓標の前に置いた花。「パパのお花、一杯、咲いてた」と。
赤いナスカが無くなった後も、トォニィはそれを忘れなかった。
桃色の花を咲かせる豆は、ナスカに根付いた最初の植物。父のユウイが育てたのだ、と。
ミュウと人類が和解した後、残された聖地、死の星の地球。人間が生まれた母なる星。
地殻変動が続く地球には、誰一人降りることは出来ない。あまりにも危険で、降りたとしても、人に出来ることは何も無いから。
白いシャングリラも地球を離れて去ったけれども、そのシャングリラにあった桃色の花。ただの平凡な豆の花でも、トォニィにとっては父の思い出の花だった。赤いナスカで咲いていた花。
トォニィはそれを、どうしても地球に根付かせたかった。父がナスカでそうしたように。
いつの日か、地球が蘇ったら。
青い水の星が宇宙に戻って来たなら、この豆を地球に植えたいと。
父の、ナスカの思い出のために。地球を目指しての旅の途中で、死んでいった多くの仲間たち。彼らの、ミュウたちの思いをこめて、地球の大地に父が育てた豆を植えようと。
(ぼくの名前も入ってる…)
遠い昔に、トォニィが悼んで名前を挙げた、白いシャングリラの仲間たちの中に。
カリナやユウイの名前と並んで、ソルジャー・ブルーも、ジョミーも、ハーレイたちも。
けれど、トォニィが生きている間には、ついに叶わなかった夢。
もちろん、白いシャングリラが宇宙を飛んでいた間にも。
(…シャングリラの解体、トォニィが決めたことだったもんね…)
箱舟の役目はもう終わったから、とシャングリラを解体させたトォニィ。もう要らない、と。
そのトォニィは、豆の種子を残しておくことにした。
トォニィには予感があったのだろうか、後の世代に託すことになるかもしれない、と。
「いつか」と保存用のケースに密閉した豆。いつか地球へ、と。
白いシャングリラで育てていた豆が、最後に結んだ種たちを入れて。
(…あの船で採れた最後の豆…)
シャングリラが解体された後にも、豆はあちこちの星で育ったけれど。船の仲間たちが豆の種を運んで、様々な場所で育てたけれど。
白い船で採れた最後の豆は、ケースで保存され続けた。誰も蒔かずに、植えることなく。
トォニィがいなくなった後にも、いつか地球へと運ぶ日のために。
それがトォニィの望みだったから。…ミュウの思いを、と託した種子だったから。
長い歳月と共に、少しずつ命を取り戻した地球。毒素をすっかり洗い流して、澄んだ海と空とを蘇らせて。地形は変わってしまったけれども、生命が生きてゆける大地も。
(地球が昔みたいに青い星になって…)
テラフォーミングを始めることが決まった時。
トォニィの願いを叶えなければ、と種子の一部が取り出された。密閉されていたケースから。
全部の種子を植えてしまったら、駄目になった時に取り返しがつかないことになる。トォニィが残した豆だからこそ、地球に植える意味があるのだから。
(他の星におんなじ豆があっても、あの豆の子孫っていうだけだもんね?)
見た目は全く同じ豆でも、トォニィが託した豆とは違う。重さが、意味が、存在意義が。
誰もが充分に分かっていたから、ケースを開いて、その一部だけを取り出した豆。
試験的にと、テラフォーミング用の植物たちと一緒に、豆は地球へと運ばれて行った。根付いてくれればいいのだが、と研究者たちの祈りを乗せて。
(…後の手順は、普通のテラフォーミングと同じ…)
地球の生命力に任せて、其処で育てる植物たち。人間は手を加えることなく、見守るだけで。
そうして地球が幾つもの命を育て始めて、最初の植生調査が行われた時。
豆は立派に根付いていた。
青い地球の上に、トォニィが望んでいた通りに。
丁度、花が咲く季節だったという。桃色の豆の花が開いて、風に揺れていたと。
(残りの豆も運んだんだ…)
豆たちは地球で生きてゆけると分かったから。トォニィの夢が叶ったから。
今がその時だと、ケースから出された残りの種子。
白いシャングリラがあった時代を、今の時代の礎になったミュウたちの思いを地球に運ぼうと。
豆たちは地球の大地に蒔かれて、幾つもの花を咲かせたという。
花が咲いたら実を結んでは、どんどん増えていった豆たち。青い地球の上で。
(だけど、見ないよ?)
パパのお花は、この辺りで見掛けたことが無い。郊外の野原でも、林や森の中でも。
この町には咲いていないみたい、と記事を読み進めたら。
(咲いている地域、違うんだ…)
パパのお花が咲いているのは、マードック大佐とパイパー少尉の墓碑がある辺り。
そういう遠く離れた地域で、自然に咲く花になっていた。広い野原や、河原などで。
生命力が強い豆だから、何処でも育つらしいけれども、あえて広げることもない、と。
一番最初に、その花が確認された場所。其処で咲かせておくのがいいと、自然に咲いて広がってゆくのが似合いの豆だと。
(この辺で、パパのお花を見るなら…)
植物園に出掛けてゆくか、種を買って花壇で育てるか。
それ以外に見られる方法は無くて、何処にも自生していない。パパのお花は、遠く離れた地域で咲いているものだから。その場所でしか、自然の中にはいないのだから。
植物園に行くか、種から自分で育てるか。それが桃色の豆の花を此処で見る方法。
種は園芸店に行ったら、手に入ると書かれているけれど…。
(パパのお花かあ…)
そこまで頑張って花を見なくても、という気もするから。植物園まで見に出掛けるのも、自分で種を蒔いて育てるのも、どちらも少し面倒だから。
(あの豆に、別にこだわり、無いしね…?)
ナスカの時代を自分は知らない。深い眠りに就いていたから、パパのお花も目にしてはいない。その花を編んで、ユウイが作った花冠も。
前の自分とは縁が無いのがパパのお花で、「地球に最初に根付いた植物」と新しい知識が増えただけ。赤いナスカの最初の植物、それが地球でも一番最初、と。
それだけだから、「いつか本物を見られたらいいな」と思う程度で帰っていった自分の部屋。
勉強机の前に座って、広げたシャングリラの写真集。ハーレイとお揃いの豪華版。
(パパのお花…)
咲いてるのかな、と写真をチェックしていったけれど、公園には無い桃色の花。季節が違うかもしれないけれども、写真を撮らせたのはトォニィ。
(…パパのお花が、無いわけないよね?)
いつか地球に、と種子を託したトォニィだから。
パパのお花が咲いていない時期に、写真を撮らせた筈がないから。
きっとカメラマンを何度も呼んでまででも、花の咲く季節に撮らせると思う。ミュウたちの命を乗せた箱舟、其処で開いたパパのお花を。
白いシャングリラの写真を後世に伝えるのならば、パパのお花も忘れたりせずに。
何処かに咲いている筈だから、と思い浮かべたシャングリラ。
幾つもあった公園の他に、植物が育つ場所といったら…。
(…農場かな?)
パパのお花は、豆科の植物。今の時代は観賞用でも、あの時代ならば食用に育てていただろう。野原や河原に咲くのではなくて、実を食べるために農場の何処か。
(…ウッカリしてた…)
今のぼくのつもりで考えてたよ、とページをめくって開いた農場の写真。懐かしいな、と大きな写真を眺めて、「あった」と見付けた小さな桃色。
広い農場の隅っこの方に、豆らしき畑が写っていた。其処に桃色の花が幾つも。
ルーペを使って拡大してみたら、新聞で見た写真そっくりの豆。パパのお花という名前の豆。
(トォニィ、大事に育ててたんだね…)
自給自足で生きる時代が終わった後にも、白いシャングリラでパパのお花を。
豆を食べるなら、好きに選べる時代になっても。シャングリラを降りて店に出掛けたら、新鮮な豆も調理した豆も、選び放題の時代が来ても。
父のユウイが育てていた豆、それをいつの日か青い地球へ、と。
蘇った青い地球に植えようと、その時まで大切に育ててゆこうと。
(…シャングリラ育ちの豆でないとね…)
地球まで運ぶ意味が無いから、白い鯨を解体するまで育て続けていたトォニイ。
写真を撮らせる時期も決めたに違いない。農場の写真を撮るのだったら、この花の時期、と。
トォニィらしい、と写真集を閉じて、棚に戻して。
(パパのお花かあ…)
もっとトォニィと話したかったよ、と考えていたら聞こえたチャイム。仕事の帰りにハーレイが訪ねて来てくれたから、お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで問い掛けた。
「あのね、ハーレイ…。パパのお花は知ってるよね?」
「はあ?」
なんだそりゃ、と鳶色の目が丸くなったから、「パパのお花」と繰り返した。
「トォニィのパパのお花だよ。桃色の豆の花だったんでしょ?」
前にハーレイが教えてくれたよ、ナスカに最初に根付いたんだ、って。
トォニィが生まれた時に、ユウイがカリナに贈った花冠の花もその豆だった、って…。
「あれか…。そういや、今じゃそういう名前だな」
パパのお花と呼んでるらしいな、あの豆のことを。
「そのパパのお花…。地球に最初に運ばれたってこと、知っていた?」
トォニィが種を保存させてて、それを地球まで持ってったって…。
シャングリラで育てた最後の種が、今の地球に最初に植えられたんだ、って…。
「そりゃまあ…。けっこう有名な話だからな」
前の俺の記憶が戻る前から知っていたなあ、あれが最初の花だってことは。
テラフォーミング用の植物以外じゃ、一番最初に地球に根付いたヤツなんだ、と。
「ぼくは今日まで知らなかったよ」
新聞にパパのお花が載ってて、写真も、記事も…。それで分かったんだよ、パパのお花のこと。
この地域だと咲いてないから、話を聞けるチャンスも無いし…。
「まあ、学校でも教えないしな」
義務教育の範囲じゃないから、お前の年じゃまだ知らんだろう。
お前が今日の新聞で読んだみたいに、いつの間にか覚えていくもんだ。あれが最初、と。
パパのお花が咲いてる地域じゃ、事情は少し違っているかもしれないが…。
学校に行ったら一番最初に、習う話かもしれないけどな。
蘇った地球に来たユウイの豆。トォニィが種を保存させたお蔭で、パパのお花が地球で開いた。今の地球の最初の植物として。シャングリラ育ちの豆が芽吹いて。
「トォニィ、とっても偉いよね…」
色々なものを、ちゃんと伝えていったよ。今の時代まで。
アルテラがボトルに書いたメッセージも残しておいたし、前のハーレイの木彫りだって。
「…そいつは例のウサギだな?」
宇宙遺産になっちまった、俺のナキネズミ。あれはウサギじゃないっていうのに。
お前までウサギにしか見えないと言うが、俺が彫ったのはナキネズミなんだ…!
「苛めるつもりじゃないんだってば。ウサギはどうでもいいんだよ、今は」
トォニィはきちんと残したよね、っていう話。ハーレイの木彫りも、パパのお花も。
パパのお花が一番凄いよ、シャングリラ育ちの種をそのまま、ケースで保存させたんだから。
畑で育てていくんだったら簡単だけれど、毎年、種が採れるけれども…。
それじゃ駄目だ、ってシャングリラがあった時代の種。
地球が青くなるのは、いつになるかも分からないのに…。それまで残しておいてくれ、って。
トォニィがいなくなった後にも、約束を守って貰えるように。
「それはまあ…。偉いソルジャーではあったんだろう」
あいつが最後のソルジャーだったし、それに相応しい立派な人間に育ってくれた。導いてくれる大人は誰もいなかったのにな、若い世代のヤツらばかりで。
しかしだ…。
間違って伝わっちまったよな、とハーレイが口にした不思議な言葉。
どういう意味で言っているのか、まるで分からない言葉の中身。木彫りのナキネズミがウサギに化けてしまったように、他にも何かあるのだろうか?
「…間違ったって…。何が?」
ウサギの他にも間違っているの、トォニィが残してくれた何かが…?
「そんなトコだな、間違ってるのはパパのお花だ」
パパのお花で知られているのに、丸ごと間違いなんだから。
「間違いって…。パパのお花は、パパのお花だよ?」
トォニィのパパのユウイが育てていた豆。食べるための豆が、普通の花になっちゃったけど…。
それは時代の流れなんだし、間違いなんかじゃないと思うよ。
あの豆を育てて船で食べてたミュウの思い出で、ナスカの思い出。
みんなの思い出が詰まっているけど、トォニィのパパが育てていたから、今はパパのお花。
「パパのお花と呼ばれちゃいるが、だ…」
それ以前に、お前の思い出だろうが。ユウイやトォニィが出て来る前に。
あいつらより古い世代のお前で、前のお前の思い出なんだ。
「…前のぼく?」
パパのお花が咲いてた時には、ぼくは眠ってしまっていたよ…?
ユウイがカリナに被せてあげた花冠も、ユウイのお葬式も、何も知らずに…。
なのにどうして思い出なの、とキョトンと瞳を見開いたら。
「前のぼくには関係ないよ」と、鳶色の瞳の恋人の顔を見ていたら…。
「お前、忘れてしまったのか…」
あの豆、誰が作ったのか。
パパのお花と呼ばれている豆、前のお前が作ったのにな…?
すっかり忘れちまったんだな、と言われたけれども、忘れるも何も、不可能なこと。前の自分が如何に強くても、最強のタイプ・ブルーでも。
「作るって…。ぼくは植物、作れないよ?」
前のぼくのサイオンがいくら強くても、神様じゃなかったんだもの。
エラがどんなに「ソルジャーは偉い人ですから」って宣伝したって、神様になんかなれないよ。
だから無理だよ、植物を作り出すなんて。…パパのお花を作るだなんて。
「確かに一から作れやしない。それはお前の言う通りだが…」
パパのお花は、前のお前が改良したんだ。
シャングリラの中でも元気に育って、ナスカでも地球でも立派に根を張る植物にな。
「え…?」
改良って…。そういうのは係がいたじゃない。品種改良が専門の仲間。
シャングリラでも丈夫に育つように、って色々な工夫をしていたよ。
ヒルマンだって研究してたし、前のぼくの出番は無い筈だけど…?
「専門の係もヒルマンもいたが…。そいつが上手くいかなかったんだ」
パパのお花になっちまった豆に関しては。
あの時代はまだ、ヒルマンが研究の中心だったな、白い鯨じゃなかったから。
覚えていないか、育ててた豆が全部枯れそうになってしまって…。
「ああ…!」
思い出したよ、枯れそうだった豆。うんと弱くて、ホントに枯れそう…。
あったんだっけ、と蘇って来た遠い昔の記憶。前の自分と豆の思い出。
パパのお花は、前の自分が作り出した奇跡の豆だった。…本当かどうかはともかくとして。
シャングリラを白い鯨に改造する前、将来を見据えて試験的に作っていた畑。自給自足で生きてゆくための船にするなら、そういう技術も必要だから。
其処で育てていた農作物。小麦にジャガイモ、キャベツやトマトも作ったけれど…。
「どうしても豆が上手くいかんのう…」
サッパリ駄目じゃ、とゼルがぼやいた会議の席。豆の栽培だけは難しい、と。
「船ってヤツと、相性が悪いんじゃないのかい?」
宇宙船だしさ、とブラウが即座に言ったくらいに、駄目だったのが豆の栽培。ヒルマンも溜息をつくばかりだった。
「豆は本来、強い植物の筈なのだがね…」
どういうわけだか、この船では順調に育ってくれないようだ。豆は保存にも向いているのだし、出来れば上手く育てたいのだが…。
世代交代させるどころか、蒔いた種を成長させるだけでも精一杯だし…。
諦めるしかないのだろうかね、ブルーが奪って来てくれた種が尽きるようなら。
出来る限りは頑張ってみるが、とヒルマンが条件を色々と変えて育ててみた豆。
けれども、豆はどんどん弱くなっていって、これが最後だと蒔いた種さえ…。
「ハーレイ、聞いたよ。豆が枯れそうなんだって?」
前の自分の耳にも届いた、豆たちの噂。最後の豆を蒔いたけれども、駄目なようだと。
「そのようです。日に日に弱っていきまして…」
ソルジャーも御覧になりますか?
今の苗が最後の種ですから。…これが枯れたら、豆の栽培はもう致しませんので…。
「…そうなるだろうね、船では生きられないようだから…」
無駄な労力はかけられない。最後の豆なら、ぼくも苗を見ておきたいよ。
「分かりました。ご案内させて頂きます」
この通りです、とハーレイが連れて行ってくれた、豆を植えた畑。他の作物が立派に育っている中、見るからに元気の無い豆の苗たち。
ヒョロリと細い茎をしていて、育ちそうもない弱々しさ。何処から見ても。
「…枯れそうだと噂が流れるわけだね、こんな姿だと…」
生きて欲しいと思うけれども…。この苗が無事に育ってくれたら、この船でも豆が採れるのに。
「我々もそう願っていますが、難しいでしょう」
今までで一番、発芽状態も悪いそうです。
宇宙船という環境が悪いのでしょうか、豆の種には悪影響を及ぼすのかもしれません。
最初の頃に植えた分の種は、もう少し丈夫でしたから…。
あれも育ちはしませんでしたが、次の代の種を収穫できるくらいにまでは…。
この船で豆は無理なようです、とハーレイがついた深い溜息。
苗を眺めても育ちそうになくて、明日にでも枯れてしまいそうだけれど。なんとか無事に育ってくれないだろうか、と見ている内に思い付いたこと。
「この苗に触ってもいいかい?」
傷めないよう、気を付けるから。…ほんの少しだけ。
「どうなさるのです?」
怪訝そうな顔をしたハーレイに、「励ますんだよ」と声を返した。
「元気づけようかと思ってね…。この苗たちを」
本で読んだよ、植物は声を掛けてやれば元気に育つんだろう?
それに音楽も聴くらしいからね、思念波も届くかもしれない。だから…。
頑張って、と順に触れていった豆の苗たち。弱々しい茎を損ねないよう、指先でそっと。
ぼくがいるから大丈夫、と思念で語って、「強くなって」と。
枯れてしまわないで元気に生きてと、心からの祈りをこめて思念を。
聞こえているなら生きて欲しいと、きっと元気になれる筈だと。
そうしたら…。
祈るような気持ちで豆の畑を後にしてから、何日か過ぎて訪ねて来たハーレイ。
まだ青の間では
なかったけれども、ソルジャーとして住んでいた部屋に。
「ソルジャー、どんな魔法をお使いになったのです?」
そう言われたから驚いた。ハーレイが何を言っているのか、まるで分からなかったから。
「魔法?」
何処から魔法になるんだい?
最近は物資を奪いに出ていないから…。サイオンも殆ど使っていないと思うけれどね?
「先日の豆です、枯れそうだった豆の苗です」
ソルジャーが触っておられた苗が…。
あの苗たちが、見違えるように元気に育ち始めて…。
御覧下さい、と促すハーレイと畑に出掛けて行ったら、他の者たちも騒いでいた。
奇跡のようだと、枯れそうだった豆が生き返ったと。
本当に元気になっていた豆。これがあの時の苗だろうか、と目を瞠ったほどに。
「…ぼくは何もしていないけど…」
思念で励ましてやっただけだよ、一本ずつ。「頑張って」とね。
生きて欲しい、と豆たちに伝えてやっただけで…。
「それではやはり、サイオンでしょうか?」
ソルジャーのサイオンが豆たちに作用したのでしょうか、それで元気に生き返ったと?
この通り、とても生き生きとした丈夫な姿をしておりますが…。
「さあ…?」
それは、ぼくにも分からないよ。
ただ励ましてやっただけだし、言葉を掛けるのと同じ。
偶然なんじゃないのかな…。この苗たちは、元から強い豆だったのかもしれないよ。
最初の間はひ弱そうでも、育つ時期が来たら丈夫になるとか。
たまたまだろう、と言ったのだけれど、ぐんぐん育っていった豆。日毎に大きく、蔓を伸ばして花も咲かせて。
やがて次々と実った豆たち、どの豆も充分に次の世代を育てられそうなものばかり。立派な豆を選んで蒔いたら、次の代からも健康そのもの。
そうして代を重ねる間に、どれよりも強い作物になった。どんな畑でも育つ豆。畑のスペースが足りないから、と畝の間に蒔かれた時も。
「お前、忘れていたようだが…。だからこそナスカに行ったんだ、アレが」
何を植えればいいだろうか、って話になったら、あの豆に限る。
「そうだったんだ…」
ユウイが植えたの、あの豆が丈夫な豆だったから…。
「選ばれて当然の作物だろうが、何処に植えても育つ豆だぞ。畝の間の固い土でも」
お前は眠っちまっていたから知らないだろうが、誰が見たって強い豆だし…。
ナスカで一番最初に根付いたことも、何の不思議もないってな。元々、丈夫な豆なんだから。
白いシャングリラの時代になったら、豆は強くて当たり前だった。植えておいたら、育って茎を伸ばすもの。ぐんぐんと伸びて花を咲かせて、ドッサリと実をつけるもの。
若い世代も増えていったから、とうに誰もが忘れ去っていた「生き返った」こと。
頑丈な豆の初代は弱くて、今にも枯れそうな苗だったのに。駄目だと皆が思っていたのに。
「あの豆なあ…。今から思えば、本当にお前のサイオンじゃないか?」
生き返って丈夫になっちまった理由。
前のお前をジョミーが生かしたみたいにな。…アルテメシアで。
「そっか、そういうのもあったっけね…」
ぼくの命、あそこでおしまいになる筈だったのに…。
ジョミーが「生きて」って願ってくれたお蔭で延びたよ、ナスカまで行けたくらいにね。
あれと同じだね、豆の苗が元気に生き返ったの…。
強い祈りは奇跡を起こすから。…前のぼくだって、生きられたから。
だから、あの豆の苗たちも、弱っていたのに元気になって…。
強くなって、って願っていたから、本当に強くなっちゃった。
シャングリラで一番丈夫な作物はアレだ、って畑の係が思うくらいに。
「まったくだ。…前の俺だって、そういうつもりになっていたしな」
たまに、キャプテンの指示を仰いでくることがあった。…農場担当のヤツらがな。
空いたスペースに何を植えるか、候補を幾つも並べ立てて。
そういった時に豆がリストに入っていたなら、迷わなかったな。豆だ、と指示を飛ばしてた。
他の作物なら出来が悪くなることもあるが、豆だけは優秀だったんだから。
何処に植えてもドッサリ実るし、豆は保存に向いているしな。
そのシャングリラの丈夫な豆…、とハーレイが浮かべた穏やかな笑み。
「あれは、お前の豆なんだ」と。
「前のお前が、一番最初にあの豆を作り出したのに…。初代はお前が生み出したのに…」
お前がいなけりゃ、あの苗は枯れて、シャングリラに豆は無い筈だった。
船と相性が悪い作物、頑張るだけ労力の無駄なんだから。
なのに、お前が豆を作った。…凄すぎる豆を。
そうやって、ナスカでも地球でも根付くような豆が出来たのに…。頑丈な豆が生まれたのに。
誰もが綺麗に忘れちまって、トォニィの時代は誰も覚えていなかったってな。
最初はお前の豆だったことも、生き返った奇跡の豆だったことも。
お蔭で今ではパパのお花になっちまったぞ、お前の豆。
あれをユウイが育てられたのも、前のお前が丈夫すぎる豆を作り出したお蔭だったのに…。
「パパのお花でかまわないよ。ぼくも忘れていたんだから」
新聞で読んでも、「凄い」って感動していただけ。
トォニィがシャングリラで採れた最後の豆を、地球のために残しておいてくれたこととか…。
その豆がホントに地球に運ばれて、一番最初に根付いたこととか。
とても凄くて、夢みたいな話なんだもの。
シャングリラで最後に採れた豆が地球に来たんだよ?
ちゃんと地球まで運んで貰って、テラフォーミング用の植物でもないのに立派に育って…。
植生調査の時には花が咲いていたなんて、もう本当に夢みたい…。
だからね、パパのお花でいいよ。
ユウイが育てた豆だったから、トォニィは種を残しておいて地球まで運ばせてくれた。
前のぼくが作ったシャングリラの豆を、ミュウの自慢の丈夫な豆をね。
もしもユウイが豆を育てなかったら、種は残っていないよ、きっと。
地球で最初に根付いた植物、別の何かになったんだよ。
ユウイが育てて、トォニィが残して、あの豆は地球まで旅をしちゃった。
青くなった地球で一番最初に、頑張って花を咲かせるように。
種を落として次の世代も、ちゃんと生まれて次々に育っていけるようにね…。
パパのお花のままでいいよ、と微笑んだけれど。それでかまわないと思うけれども…。
「…でも、残念。パパのお花は、ぼくたちの地域じゃ咲いていないから…」
いつか見たいな、咲いているトコ。
今は食べるための豆じゃなくって、花を楽しむ植物になっているみたいだけれど…。
「あれを見たいって…。植物園か?」
何処の植物園にも、パパのお花はあると思うが…。この町でも、他の町のでも。
有名な花だし、もしかしたらだ、一年中、咲かせているかもしれないな。
ほんの少し気温を弄ってやったら、いくらでも育つ豆なんだから。…元が頑丈な豆なわけだし。
「ううん、植物園じゃなくって…」
本当に自然に生えている場所。種を落として、その種からまた生えて来る場所。
其処で見たいな、ちょっぴり遠い場所だけど…。
マードック大佐とパイパー少尉の墓碑がある場所、その辺りの地域の花らしいから。
「そうだな、いつか行くとするかな」
元々は前のお前が作り出した豆で、お前の豆と呼ぶのが正しい豆なんだし…。
そいつが一番最初に地球に根付いたわけだし、それが咲くのを見に行かないって手はないな。
きっと綺麗だぞ、広い野原に一面にアレが咲いていたなら。
それにだ、マードック大佐とパイパー少尉の墓碑と言ったら、恋人たちの名所じゃないか。
結婚式を挙げたカップルが花を捧げに行くって場所。
最後まで一緒だった二人にあやかりたいから、と墓碑がある森の入口までな。
俺たちも豆を見に出掛けたら、二人に報告しようじゃないか。
お蔭で地球まで来られましたと、今は幸せですから、とな。
いつか二人で行ってみような、とハーレイも頷いてくれたから。ハーレイは決して約束を破りはしないから…。
前の自分とそっくり同じ背丈に育って結婚したら、二人であの豆を見に出掛けよう。
此処からは遠い地域だけれども、桃色の花を咲かせる季節に、パパのお花を。
マードック大佐とパイパー少尉の墓碑にも、二人で挨拶をして。
「ねえ、ハーレイ…。いつか行こうね、パパのお花が咲いてる季節に」
一番綺麗に咲いている時に、二人で散歩。…パパのお花で一杯の野原。
豆が実ってる時期じゃ駄目だよ、パパのお花を見に行かなくちゃ。名前はパパのお花だもの。
「パパのお花ってことでいいのか、本当に…?」
元はお前が作り出した豆で、ブルーの豆とか、ソルジャー・ブルーの豆なんだろうに…。
そっちの名前はなくなっちまって、豆は食べずに花を見る植物になっちまったのに。
「いいんだってば、今はそういうことみたいだから」
ぼくも新聞で感動しちゃったくらいだよ?
トォニィはとっても素敵なことをしてくれたんだ、って。
それにね、豆は、うんと美味しいのが山ほど採れる時代だから…。
パパのお花の豆を食べなくても、食べる豆、選び放題だから…。
豆じゃなくって、パパのお花がピッタリだよ、名前。
だから二人で花を見るんだよ、パパのお花は眺めて楽しむ植物だものね。
きっと行こうね、とハーレイと交わした、パパのお花を見に行く約束。
青く蘇った水の星の上に、一番最初に根付いた植物。
トォニィの思いを受け継いだ花で、シャングリラから地球までやって来た花。
元は丈夫な豆だったけれど、優秀な作物だったのだけれど。
今の時代は、パパのお花の名前通りに、花を愛でるのが桃色の花を咲かせる豆。
花が咲く季節に出会えた時には、摘んだりしないで、ハーレイと二人で眺めよう。
桃色の花が風に揺れるのを、パパのお花が咲いているのを。
前の自分が作り出した豆、トォニィが地球に植えて欲しいと残した豆。
豆よりもずっと遅くなったけれど、ハーレイと一緒に青い地球まで来られたから。
今度は幸せに生きてゆけるから、パパのお花は摘んだりしない。
パパのお花にも、幸せに咲いて欲しいから。
咲いた後には種を落として、青い地球の上で、いつまでも咲き続けていて欲しいから。
パパのお花に負けないくらいに幸せになろう、地球に着くのは遅れたけれど。
きっと遅れて着いた分だけ、幸せのオマケも増えるだろうから、幸せに歩いてゆくのだから…。
ナスカの豆・了
※蘇った地球で最初に育った植物は、トォニィが保存させていた豆。名前は「パパのお花」。
けれど、その豆を最初に作り出したのは、前のブルーだったのです。丈夫になった奇跡の豆。
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