シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「こう、昔から…」
恋人に逃げられちまった時は…、とブルーのクラスで始まった雑談。
もちろんハーレイ、古典の時間の真っ最中に。集中力が切れてきそうな生徒たちの心を掴んで、授業の方へと引き戻すために。
居眠りしていた生徒だって起きる、雑談の時間。面白い話や怖い話や、中身は色々。聞かないと損だと皆が思うから、何処のクラスでもハーレイは人気。
今日の授業は恋の物語が題材だったし、それに因んだ雑談らしい。恋人に振られる話は多いし、この先はどう続くのだろう?
(追い掛けるのかな…?)
それともプレゼントをするのだろうか、と考えたのに、ハーレイは…。
「恋人を取り戻す色々なまじないがあったわけだが、中には凄いのもあって…」
一番とんでもないのが、だ…。あまりの凄さに、能の題材にまでなっちまった。能だぞ、能。
丑の刻参りを知っているか、と教室の前のボードに書かれた文字。「橋姫」と「鉄輪」。橋姫というのは人の名前で、鉄輪の方が能のタイトル。「かなわ」と読む、とボードを叩いたハーレイ。
こいつが丑の刻参りの起源なんだ、と。
橋姫は恋人を奪われてしまい、嫉妬に狂って生きながら鬼になった人。憎い女性を殺すために。
二十一日間、夜中に鬼のような姿で走って、宇治川という川に浸かった。
頭に被った鉄輪に松明、口にも咥えていた松明。顔や身体を真っ赤に塗って、長い髪を角の形に結って。闇の中を走るその姿だけで、出会った人はショック死したという。鬼だと思って。
そうやって二十一日間、走り続けて、川に浸かって、本物の鬼になった橋姫。
最初は憎い女性を殺して、次はその女性の縁者を殺した。恋人だった男の縁者も端から殺して、ついには誰彼かまわずに。…愛した筈の恋人さえも。
そこまでしなくても良さそうだけれど、昔から怖いのが恋の恨みだ、とハーレイが指差す橋姫の名前。彼女の真似をして、藁人形に釘を打つのが丑の刻参りというわけだ、と。
丑の刻参りは深夜にするもの。橋姫と同じ。松明の代わりに櫛を咥えたりもしたらしい。頭には松明ならぬ蝋燭、それを灯すには鉄輪を被る。橋姫がやっていたように。
「今の時代は無いわけだがなあ、ここまで凄い恋の恨みは」
大事な恋人を盗られちまった、と殺しに行くような人間はいない。…鬼の姿にならなくても。
ミュウの便利な所だな、これは。
恋人と心がすれ違っても、せいぜい喧嘩で、じきに仲直りしちまうから。
こじれた時でも、きちんと思念で話し合ったら、解決するのがミュウならではだ。
残念なことに、俺が教えている古典。此処まで古い言葉でなくても、言葉や手紙じゃ伝わらないことも多いってな。…どんなに努力してみても。
その点、思念は間違いが無い。思った通りのことを伝えて、それの返事も来るんだから。
お蔭で橋姫のようなことをするヤツはいない、とハーレイが言う通り、今は平和な時代。恋人と喧嘩になってしまっても、ちゃんと仲直りが出来るから。
けれど、昔は違ったという。人間がミュウではなかった頃は。
人類は思念波を持たなかったし、こじれてしまえば恋は壊れておしまいだった。
(スウェナだって、離婚したものね…)
自由アルテメシア放送を立ち上げ、国家主席だったキースのメッセージを全宇宙に届けた女性。今の時代も名前が伝わる、ジャーナリストのスウェナ・ダールトン。
元はキースのステーション時代の友人だった。恋を選んで、結婚のためにステーションを離れたスウェナ。子供も育てていたというのに、捨ててしまった恋人と一緒に暮らす生活。
(…子供だったレティシアのことは、大切に思っていたらしいけど…)
夫の方は歴史に名前が残ってはいない。スウェナにとっては、要らない存在だったから。
かつて恋した人だったのに。…メンバーズへの道も捨てたくらいに、愛していたのに。
何処かで起こった、きっと小さなすれ違い。それがこじれて、元に戻せずに、恋は終わった。
前の自分が生きた時代は、そういう時代。スウェナの他にも、離婚した人はいたのだろう。
人類の世界では、心が通じ合わなかったから。思いをきちんと伝える術が無かったから。
今の時代なら、簡単なのに。思念を伝えて、伝えて貰って、それで解決出来るのに。
(だけど、思念波を持ってなかったら、離婚ってことになっちゃうよね…)
もっと酷かったら橋姫だよ、と納得していたら、「そこでだ…」と切り替わったハーレイの話。
橋姫は恋人さえも殺したけれども、そうする代わりに、恋人を取り戻すための、おまじない。
「日本にも色々あったんだが…」と断ってから、「お勧めはコレだ」と出て来たもの。
(…スカボローフェア…)
遠く遥かな昔の地球。人間が地球しか知らなかった時代に、イギリスで生まれた不思議な恋歌。
とても出来そうもない無理難題を幾つも並べて、ハーブの名前を織り込んで歌う。
パセリ、セージ、ローズマリーにタイム。
四つのハーブのおまじない。スカボローフェアは古い恋歌だから、それに因んで。
新月から次の新月を迎えるまでの間、二十八日間、毎日食べ続ける四つのハーブ。歌の通りに。
パセリとセージとローズマリーにタイム、それで恋人が戻るという。忘れずに食べれば。
「いいか、橋姫は二十一日間で鬼になっちまった」
それも毎晩、鬼のような格好をして川まで走って、水に浸かって。…鬼になるのも大変だよな?
しかし、こっちは二十八日間、四つのハーブを食べるだけでいいというわけで…。
食べるための決まりは全く無いから、好きに料理をすればいい。…ハーブを使った美味いのを。
四種類を入れればいいんだしなあ、肉料理だろうが、魚だろうが、何でもかまわん。
鬼になるために二十一日間も毎晩走るか、二十八日間、美味い料理を食べ続けるか…。
どっちがお得だと思う、と訊かれたから、ワッと盛り上がったクラス。男子も、女子も。
毎晩、夜中に走り続けるより、美味しく作ったハーブの料理。日替わりで色々な料理を作って、食べた方がいいに決まっていると。絶対そっち、と。
(ハーレイ…?)
ぼくに訊いてるの、と見詰めた恋人。教室を見回して、「食う方だよな?」と頷くハーレイ。
本当は自分に訊いたのだろうか、「お前なら、どっちを選ぶんだ?」と。
もしもハーレイが離れて行ったら、殺してしまうか、それともハーブのおまじないか。どちらを選ぶか、それを訊かれているのだろうか、と。
(ぼくなら、絶対、殺さないけど…)
ハーレイの心が離れたとしても。他の誰かに心を移して、去って行こうとしていても。
前の自分も、今の自分も、けしてハーレイを殺しはしない。
「俺の心を取り戻したいなら、こうするんだな」と、スカボローフェアの恋歌のような、それは難しい無理難題を吹っ掛けられても。
縫い目の無いシャツを作るどころか、波と波打ち際の間に一エーカーの土地を見付けるだとか。
水も湧かなければ雨も降らない、涸れた井戸でシャツを洗うとか。
(…やれって言われたら、何だってするよ…)
もちろん四種類のハーブを二十八日間、毎日食べることだって。料理しないで、生のままでも。
そう思うけれど、そのハーレイは、こちらを熱心に見てはくれなくて…。
(生徒を見る目…)
にこやかな笑顔で、「お前もか?」という顔で。「断然、食った方がいいよな」と。
偶然だろうか、スカボローフェアのおまじない。四つのハーブで取り戻す恋人。
ハーレイが雑談の種に選んだ歌が、前の自分たちの恋歌なのは。
(…前のハーレイがふざけて歌っていたから、縫い目も針跡も無い亜麻のシャツ…)
それを作って贈った自分。ソルジャー・ブルーと呼ばれた頃に。
縫い目も針跡も無いシャツを作れたら、真の恋人らしいから。スカボローフェアは、そう歌っていたものだから。
(あんなシャツ、ぼくには作れないけど…)
サイオンの扱いが不器用な自分に、奇跡のシャツは作れない。どう頑張っても出来ないこと。
けれど、ハーレイは今の自分に、あの恋歌とシャツの話をしてくれた。「覚えてるか?」と。
スカボローフェアも歌ってくれたというのに、今は本当に生徒を見る目。
(授業中だものね…)
よく考えたら、恋のメッセージが来るわけがない。此処は学校で、教室だから。
ハーレイは教師で、自分は生徒。
スカボローフェアの話はただの偶然、たまたま雑談に出て来ただけ。
(…ぬか喜び…)
ぼくに訊かれたわけじゃなかった、と少し悲しい気持ちだけれど。
でも殺さない、と見詰めるハーレイ、今は教師の愛おしい人。前の生から愛した恋人。
たとえハーレイが去ったとしても、殺す道など選ばない。
憎い恋敵から殺し始めて、恋人までも殺してしまうような道。そんな道など選びはしない。
そうするよりは、四つのハーブのおまじない。「ハーレイが戻りますように」と。
ハーレイの雑談は其処で終わって、戻った授業。「ちゃんと聞けよ?」と、古典の続き。
次の時間は別の授業で、放課後になって、家に帰って。
おやつを食べて部屋に戻ったら、思い出したのがハーレイの雑談。四つのハーブのおまじない。
勉強机の前に座って、きちんと考えてみることにした。…あの時は授業中だったから。
(ハーレイを誰かに盗られちゃったら…)
憎しみで鬼になってしまって、ハーレイまで殺してしまうだろうか。橋姫のように。
それとも、おまじないに頼るだろうか。四つのハーブを、毎日食べるおまじない。
(おまじないだよね…?)
クラスメイトたちは「お得だから」と、そちらを選んでいたけれど。
毎晩せっせと走り続けて川に浸かるよりも、美味しく食べる方がいい。ずっと楽だし、ハーブの料理は舌も心も楽しませるから。
(お得かどうかで考えなくても…)
鬼になる道なんかは選ばないよ、と改めて思う。授業の時にも考えたけれど。
今のハーレイはともかくとして、前のハーレイ。…大勢の仲間たちが周りにいたキャプテン。
ハーレイがヒルマンと去って行っても、ゼルに心を奪われても。
エラやブラウと行ってしまっても、シドやヤエと激しい恋に落ちても。
前の自分が一人残されても、ハーレイが青の間に来なくなっても…。
(きっと、ハーブのおまじない…)
そちらを選ぶことだろう。鬼になるより、ハーレイまでも憎しみで殺してしまう道より。
白いシャングリラが長く潜んだ、雲海の星、アルテメシア。
あの星に月は無かったけれども、月があった地球の暦を調べて、二十八日。新月から次の新月になるまで、月が満ちて、また欠けてゆくまで。
スカボローフェアの恋歌に歌われたハーブ、パセリ、セージ、ローズマリーにタイム。
四種類のハーブを毎日農場からコッソリ盗んで、青の間で食べることだろう。
部屋付きの係が運んで来る食事、それに合わない時があっても。どうやって料理すればいいのか分からなくても、生で頬張るしか無かったとしても。
ハーレイが戻ってくれるのならば、と二十八日間、毎日、ハーブ。一日も欠かさず、ハーレイの姿を思い浮かべながら。
(それで駄目でも…)
ハーレイの心を取り戻せなくても、また新月から二十八日。それが駄目でも、また新月から。
きっとそうして頑張り続ける。四つのハーブを来る日も来る日も、祈りをこめて食べ続ける。
ハーレイの心が戻らなくても、鬼になって殺しにゆきはしないで。
どんなに辛くて悲しい日々が続いたとしても、鬼になる道は選ばない。鬼になったら、恋人まで殺してしまうから。…好きだった筈のハーレイまで。
(そんなの嫌だよ…)
殺したら、もうハーレイに会えはしないから。
鳶色の瞳も、褐色の肌も、金色の髪も、もう見られない。恋した人に二度と会えない。
そんな思いをするくらいならば、自分が耐える方がいい。胸が張り裂けそうな日々でも、溢れる涙が止まらなくても、ハーレイの姿を眺めていたい。
他の誰かのものになっても、ハーレイには生きていて欲しい。
きっと姿を見られるだけでも、愛おしく思うだろうから。悲しい思いを抱えたままでも、恋した人を眺められたら、幸せだった頃を思い出せるから。
辛くても、ハーレイを殺しはしない。それよりは、ハーブのおまじない。
ハーレイの心が戻るようにと、新月の日から二十八日、食べるおまじないの繰り返し。農場から四種類のハーブを盗み出しては、食事に混ぜたり、生で食べたり。
(うん、頑張る…)
お腹を壊したって食べ続けるよ、と思っていたら、聞こえたチャイム。仕事の帰りにハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり、切り出した。
「あのね、ぼくはハーレイを殺さないよ」
「はあ?」
なんだそりゃ、と鳶色の瞳が丸くなったから、ガッカリした。「通じなかった」と。
「…やっぱり、ただの雑談だったんだ…」
今日の授業の時の雑談…。橋姫の話と、スカボローフェアのおまじない…。
ぼくに向かって訊いているのかと思ったけれども、ハーレイ、普通の顔をしてたし…。
「ああ、あれなあ…」
俺としたことが、ウッカリしてた。やっちまったというヤツだ。
他のクラスで披露しようと思っていたのに…。持ち出すネタを間違えたってな。
気付いた時には、お前が俺を見てたんだ。じっと見詰めて、そりゃあ真剣な顔付きでな。
「…ぼくがいるって気が付いたのに、そのまま話を続けたわけ?」
やめるって選択肢は無かったの?
途中でやめたら、ぼくだって、ハーレイを見るのをやめるのに…。
前を見るのはやめないけれども、「ぼくに話してるの?」って目で訊いたりはしないのに…。
「やめるって…。そいつは駄目だな、話にオチがつかないだろうが」
食うおまじないの方が断然お得だ、って所に持って行かんとな。
でないと、ただの怖い話で終わっちまうじゃないか、丑の刻参りの起源ってヤツで。
色気より食い気って言うほどだしなあ、美味い話で終わらせないと。
おっと、この「美味い」は食い物の方の「美味い」だからな。上手って意味の方ではなくて。
オチのある話は其処まで話してこそなんだ、というのがハーレイの持論。
だから最後まで話したらしい。前の自分たちの思い出の歌を、スカボローフェアの恋歌に纏わる四つのハーブのまじないを。
見詰めていた自分には、気付かないふりで。…本当は途中で気付いたくせに。
「酷いよ、ぼくが見詰めてたのに…」
ぼくに訊いてるの、って本気で思ったくらいなのに。
スカボローフェアの歌だったから…。あれに出て来るハーブのおまじないなんだから。
鬼になって殺すか、ハーブを食べるか。
…授業中だけど、ぼくに向かって訊いてるのかな、って…。
「それで酷いと言ってるわけだな、授業中の俺が取った態度が」
だったら、俺を殺すのか?
恋の恨みには違いないなあ、浮気をしたってわけではないが…。
目の前に恋人がいるというのに、知らん顔をして放っておいたのが俺なんだから。
「…殺さないけど…」
意地悪だよね、って思うけれども、殺さないよ。…鬼になろうとは思わないから。
「そりゃ良かった」
えらいことになった、と焦ったんだよな、お前がいるって気付いた時は。
案の定、まじまじ見るもんだから…。
こいつは酷く恨まれそうだ、と考えたくせに、綺麗サッパリ忘れちまってた。
だから、お前が「殺さないよ」と言い出した時に、間抜けな返事をしちまったわけで…。
殺されたって仕方ないんだが、そうか、殺さずにいてくれるんだな。
命拾いをしたらしい、とハーレイが大袈裟に肩を竦めてみせるから。
「危うく死んじまう所だった」と手を広げるから、「殺さないよ」と繰り返した。
「今のぼくだって、殺さないけれど…。前のぼくだって、殺さないよ」
ハーレイを殺したりはしないよ、絶対に。
お腹を壊しても、ハーブ、食べるよ。…スカボローフェアの四つのハーブを、前のぼくだって。
「前のお前だと?」
どうして前のお前になるんだ、この話で。
俺が恋の恨みを買いそうになったのは、今日の授業で、お前の視線を無視したからで…。
前のお前の出番なんかは、何処にも無いと思うんだがな?
「…もしも、っていう話だよ。前のハーレイとぼくの恋のお話」
ハーレイがゼルやヒルマンとかに恋をして、ぼくの前からいなくなったら。
…エラやブラウたちと行っちゃったら。
それでも恨んで殺しはしないし、頑張ってハーブを食べ続けるだけ。一度で駄目でも、また次の新月から食べ始めて。…それを何回でも、いつまででも。
「おいおい、前の俺には、前のお前しかいなかったんだが…」
他に恋したヤツはいないし、恋をしようとも思わなかったぞ。ただの一度も。
「でも…。分かんないでしょ?」
そういう機会が無かったってだけで、もしかしたら恋をしていたのかも…。
何処かで出会いがあったとしたら、前のハーレイが素敵だと思う誰かに出会っていたら。
ハーレイが誰かに恋をしたなら、ぼくはハーブを食べるんだよ。…農場から毎日、盗んで来て。
「いや、無いな。…俺にはお前だけだった」
お前しか好きにならなかったし、お前は最初から特別だった。
…アルタミラで初めて出会った時から、お前は俺の特別ってヤツで、前の俺の一目惚れなんだ。
恋だと気付くまでの時間が、うんと長かったというだけでな。
だが…。
スカボローフェアのまじないか…、とハーレイが眉間に寄せた皺。
そのまじないを知っていたなら、と。
「…今となっては、どうすることも出来ないんだが…」
ハーブの名前は知ってたんだし、手に入れることも出来たろうにな。…四つとも、全部。
「え…?」
おまじない、知っているじゃない。…だから雑談の時に話したんでしょ?
話すクラスを間違えちゃったみたいだけれど…。ぼくのクラスで喋っちゃったけど。
「そいつは今の俺だろうが。…俺が言うのは、前の俺のことだ」
スカボローフェアは知っていたくせに、生憎と、肝心のまじないの方を知らなかった。
知っていたなら、食い続けたのに。
新月から次の新月までの間、パセリもセージも、ローズマリーもタイムもな。
それこそ新月が来る度に。もう何回でも、二十八日間、食って食い続けていたんだろうに…。
「食べるって…。それ、恋人が戻るおまじないでしょ?」
ハーレイが食べてどうするの。
前のぼく、ハーレイの他に恋人、作っていないよ?
ハーレイしか好きにならなかったし、最後までハーレイ一人だけだよ。
「…其処だ、其処」
俺も最後までお前だけを想っていたんだが…。
お前は先に逝ってしまって、俺は一人で残されちまった。…シャングリラにな。
「ジョミーを支えてやってくれ」と言われちまったら、生きていくしかないだろうが。
いくらお前を追いたくても。…お前の側に行きたくても…。
だから、まじないが欲しかった、と鳶色の瞳がゆっくりと一つ瞬きをした。
「それをやったら、恋人が戻って来るんだろうが」と。
「…俺がまじないをしたかったのは、お前がいなくなっちまった後だ」
恋人の心を取り戻せるなら、魂だって呼べるのかもしれん。…死んでしまった恋人のな。
スカボローフェアは古い歌だし、俺たちの思い出の歌でもあった。
前のお前が作ってくれたろ、縫い目も針跡も無かった亜麻のシャツを。…着るには向いていないシャツでも、あれは俺の宝物だった。歌の通りに、お前が作り上げたんだから。
あんなシャツまであった歌だぞ、それを使ったまじないだったら効きそうじゃないか。
頑張ればお前が帰って来そうだ、俺がハーブを食い続けたら。
パセリとセージと、ローズマリーにタイム。…一日だって欠かさないでな。
「ぼくの魂って…。幽霊だよ?」
身体はメギドで無くなっちゃったし、もう思念体とは呼べないんだから。
ハーレイに呼ばれて戻って来たって、ぼく、幽霊でしかないんだけれど…。
「幽霊だろうが、思念体よりも霞んで透けていようが、それでも良かった。…お前ならな」
俺はお前に会いたかったんだ。…いなくなっちまった、前のお前に。
広いシャングリラの何処を探しても、お前はいなかったんだから。
お前の幽霊を見たという仲間も、誰一人としていなかった。…ミュウの箱舟だったのに。
ミュウは精神の生き物なんだし、幽霊がいれば誰かが気付く。誰の幽霊なのかもな。
なのに、お前は船に戻りはしなかったんだ。…魂まで何処かへ行っちまって。
俺がどんなに会いたがっても、お前の名前を呼び続けても…。
青の間で、キャプテンの部屋で泣き続けたという前のハーレイ。ただ一人きりで。
逝ってしまった前の自分は、幽霊の姿になってさえも、戻って来なかったから。ハーレイだけを船に残して、二度と戻りはしなかったから。
「…ぼくの幽霊…。おまじないでも無理だったんじゃないかな?」
ハーレイが頑張ってハーブを食べても、会えないままになったと思うよ。
きっと、ぼくだって、会いたかったと思うから…。
ハーレイの所に帰りたかったと思うから。…幽霊になってしまっていても。
だけど、戻らなかったんだから…。戻る方法が無かったんだよ、いくら探しても。
「分からんぞ?」
もしもお前が言う通りならば、余計にまじないが効きそうだ。戻る方法が無かったんなら。
お前の力では戻れないなら、俺がお前を呼べばいい。…ハーブを使ったまじないでな。
恋人の心を呼び戻すためのまじないだったら、魂も呼べると思わんか?
お前が何処にいたとしたって、「戻って来い」と。…「俺は此処だ」と。
強い思いは奇跡を起こすと、お前だって知っているだろう?
前のお前がナスカまで生きて辿り着けたのは、ジョミーの思いが強かったからだ。
ジョミーが「生きて」と願ったお蔭で、前のお前は死なずに生きた。本当だったら、十五年間も生きられるわけがなかったのに…。
深い眠りに就いていたって、持ち堪えられはしなかったのに。
「そうだね…」
思った以上に長く生きた上に、最後は大暴れまでしたんだものね…。
あの時、ジョミーが願わなかったら、ぼくの命はアルテメシアで終わっていたよ。寿命の残り、ほんの少ししか無かったから…。ジョミーを追い掛けて飛び出した時は。
だけど、ジョミーが増やしてくれた。…メギドまで沈められたくらいに。
ジョミーを追うのが精一杯だった筈の命も力も、信じられないほど増えちゃった…。
ナスカからジルベスター・エイトまで飛んで、メギドも沈めてしまったなんて。
…メギドの炎も受け止めていたし、ぼくの力、ホントに凄かったよね…。
強い思いが起こした奇跡。前の自分は、確かにそれを知っていた。ジョミーのお蔭で。
それと同じで、ハーレイがハーブを食べていたなら、呼ばれただろうか。「戻って来い」と。
パセリとセージ、ローズマリーにタイム。
前の自分たちの思い出の恋歌、其処に織り込まれた四つのハーブ。新月から次の新月までの間、二十八日間、食べ続けたならば恋人の心が戻るという。
前のハーレイが「戻って来い」とハーブを食べたら、何処にいたってハーレイの声が届くなら。
スカボローフェアのハーブのまじない、それがハーレイの声を届けてくれるなら…。
(…呼んでるんだ、って気付いたら…)
どんな道でも、懸命に戻って行っただろう。ハーレイの許へ、自分を呼ぶ声がする方へ。
戻る方法が見付からなくても、探し出すまで諦めない。
ハーレイの声が届くのだったら、きっと方法はある筈だから。…何処かに道が隠れているから。
その道を行くには、途方もない苦労が伴うとしても。
メギドでの死と同じくらいに、魂が血を流すとしても。
それでも、きっと戻って行った。
道を一足踏みしめる度に、切り裂くような痛みが突き上げて来ても。
歩いた後には血が流れ出して、道が真っ赤に染まったとしても。
(…サイオンなんか使えなくって、シールドも無理で、血だらけだって…)
ハーレイの所へ戻れるのならば、歯を食いしばって歩いただろう。息が切れても、何度も倒れてしまっても。…行けども行けども、道の果てが見えて来なくても。
(…いつかは、帰れるんだから…)
険しくて辛いだけの道でも、其処を抜けたらハーレイに会える。魂だけになっていたって、手を握り合うことも叶わない幽霊になっていたって。
きっと歩いて歩き続けて、辿り着いたと思うから…。
パセリとセージ、ローズマリーにタイム。新月の日から二十八日間、食べれば恋人の心が戻るというハーブ。…前のハーレイがそれを食べてくれたなら…。
「ぼく、戻ったよ。…ハーレイが呼んでくれてたら」
戻って来い、って前のぼくを呼ぶのが聞こえたら。…スカボローフェアのハーブを食べて、前のぼくの心を呼んでいたなら。
ぼくの方でも、頑張らなくっちゃいけなくっても。
四種類のハーブを入れた料理を食べる代わりに、ずっと難しそうなこと。橋姫みたいに、夜中に走って川に浸かるより、もっと大変なことが必要でも。
前のぼくでも苦労しそうな、とんでもない道を歩かないと戻れなかったとしても。
…だって、戻ったら、またハーレイに会えるから…。幽霊になってても、会えるんだから。
「そうか…。お前、戻って来てくれたのか…」
お前まで努力が必要だとしても、俺の所へ。…俺がお前を呼んでいたなら。
知っていれば良かったな、あのまじない。
スカボローフェアの歌は知っていたんだし、もっと調べておけば良かった。あの歌のことを。
前のお前に教えてやった後に、データベースできちんとな。
縫い目も針跡も無いシャツを貰った記念に、あの歌に纏わる言い伝えを全部。
そうしていたなら、まじないだって、きっと見付かったんだろう。
恋人の心を取り戻すには、二十八日間、四つのハーブを食べ続ければいいんだ、とな。
…お前が誰かに恋をして去って行くんだったら、俺は止めたりしなかったろうが…。
お前の幸せを祈って黙って身を引いたろうが、お前がいなくなったというなら話は別だ。
いなくなったお前を呼び戻すために、俺は食い続けていたんだろう。
「俺は此処だ」と、「戻って来い」と、農場で四つのハーブを毟って、きっとその場で。
美味い料理にするよりもずっと、効きそうな感じがするからなあ…。
生のままで食う方が効果的だろう、とハーレイは大真面目だけれど。
「前の俺がそれを知っていたなら、農場に通って食い続けた」と言うのだけれど。
「…ううん、知らなくて良かったんだよ」
スカボローフェアのおまじないは。…前のぼくを、それで呼べたとしても。
幽霊のぼくが戻ったとしても、知らなかった方が良かったと思う。
恋人の心を取り戻すための方法、魂にも使えたとしても…。
「何故だ?」
お前、とんでもない苦労をしたって、戻って来ると言っただろうが。
俺の方だって、生のハーブで腹を壊そうが、胃を傷めようが、気にせんぞ?
それでお前と出会えるんなら、お前が戻って来るのなら。
うんと頼りなくて、触ることさえ出来ない透けた幽霊でも、俺はかまわん。…お前だったら。
「ぼくだって、ハーレイに会いたいけれど…」
会いたかったと思うけれども、頑張って戻って行きそうだけれど…。
もしも戻って会えていたなら、今のぼくたち、此処にいないと思わない?
幽霊のぼくと、生きているハーレイが会ったとしたって、キスも出来そうにないけれど…。
それでも会えて、ずっと一緒にいられるんだよ?
前のハーレイが地球に行くまで、幽霊のぼくはハーレイと一緒。
ハーレイが死んでしまった後には、ちゃんと手を繋いで、天国か何処かに行くんだし…。
もう一緒だから、これでいいよ、って。
生まれ変わって次の命を貰わなくても、充分幸せ、って思っていそう…。
「どうだかなあ…?」
お前、今でも欲張りな上に我儘だしな?
キスは駄目だと何度言っても、懲りずに強請ってくるんだし…。
幽霊になって俺と再会していたとしても、むくむくと欲が出るんじゃないか?
青い地球が宇宙に蘇ったら、「あそこに行こう」と俺に言うとか、俺の手を引いて、ずんずんと歩いて行っちまうとか。
「早く行こう」と、「今度は地球で暮らすんだから」と、勝手に一人で決めちまってな。
「分からないぞ?」とハーレイは疑っているけれど。「お前だしな?」とも言われたけれど。
我儘なチビの自分はともかく、前のハーレイと再会するなら、前の自分の幽霊だから。
メギドでハーレイの温もりを失くしてしまって、泣きじゃくりながら死んでいったのだから…。
(…どんなに大変な道を歩いて、ハーレイの所へ戻ったとしても…)
血だらけの足で辿り着いても、きっと満足していただろう。ハーレイの顔を見た瞬間に。
パセリとセージとローズマリーにタイム、四つのハーブを頬張るハーレイに会った途端に。
(足が痛かったことも、すっかり忘れちゃって…)
触れられなくても、大きな身体に飛び付くようにして、抱き付くのだろう。
「会いたかった」と、「もう離れない」と。
ハーレイが血だらけの足に気付いて何か言っても、「痛くないよ」と微笑むのだろう。
本当に痛くない筈だから。…ハーレイに会えた喜びだけで、胸が一杯だろうから。
そうして再び巡り会えたら、それ以上は何も望まない。
青い地球まで行けなくても。シャングリラでようやく辿り着いた地球が、死の星のままで、青くなくても。
ハーレイと二人でいられるだけで、充分だから。ずっと離れずにいられるから。
そう思ったから、ハーレイに向かって微笑み掛けた。
スカボローフェアのハーブを使った、恋人の心を取り戻す方法を教室で語った愛おしい人に。
「…前のハーレイは、おまじないを知らなかったけど…」
本当に、それで良かったんだよ。…こうして地球に来られたから。
前のぼくは、ハーレイの所へ戻れなかったんだけど…。幽霊になって戻り損なったけど…。
今はとっても幸せだから。
ハーレイと二人で生まれ変わって、ちゃんと青い地球の上で会えたから。
だからいいんだよ、この方が、ずっと。
幽霊になって戻っていくより、もう一度、二人で生きられる方が…。
「そうだな、お互い、幸せだよな…」
今のお前はまだまだチビだが、いずれ結婚するんだし…。
二人で一緒に生きてゆけるし、幽霊のお前が戻って来るより、お得だな。
橋姫よりもハーブがお得だろう、ってネタを間違えて披露しちまうのも、生きてればこそか。
俺がお前のクラスに出掛けて、大失敗をしちまうのもな…。
今度は幸せに生きていこうな、とハーレイがキュッと握ってくれた手。
遠く遥かな時の彼方で、メギドで冷たく凍えた右手。
あの時、絆が切れてしまったと泣いたけれども、今もこうしてハーレイと一緒。
心はこれからも離れない。
ハーブのおまじないで恋人の心を取り戻すことも、しなくてもいい。
前の生の終わりに一度は離れてしまったけれども、絆は切れなかったから。
ちゃんと二人で地球に来たから、これから先だって、ハーレイと一緒。
前の自分が作り上げたような、縫い目も針跡も無い亜麻のシャツはまるで作れなくても。
スカボローフェアの無理難題をこなせなくても、ハーレイは許してくれるから。
いつまでも二人、幸せに歩いてゆけるのだから。
だから、四つのハーブを使ったおまじないは二人とも、使いはしない。
パセリとセージ、ローズマリーにタイム。
四つのハーブを使うのだったら、きっと二人で食べるための料理。
いつか二人で暮らし始めたら、ハーレイに一度、強請ってみよう。
「あれを使って、何か作って」と。
「スカボローフェアの四つのハーブ」と、「おまじないだってあるんだよね?」と…。
恋歌のハーブ・了
※前のハーレイには分からなかった、前のブルーの魂を呼び戻すための方法。会いたいのに。
けれど、魂を呼び戻せていたら、今の生は無かったかもしれないのです。それだけで満足で。
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