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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

注射の方法
「クシャン!」
 ブルーの口から、いきなり飛び出したクシャミ。
 それもハーレイと一緒に過ごす土曜日、午前中のお茶の時間に突然に。
「大丈夫か?」
 ハーレイが心配そうな顔をするから、「平気だよ」と笑顔で答えた。
「ちょっとムズムズしちゃっただけ…。ホントに平気」
 もう出ないでしょ、と言ったのに。
「どうなんだか…。昨夜は少し冷えたからなあ、風邪引いてないか?」
 メギドの夢は見なかったようだが、身体を冷やしちまったかもな。知らない間に。
 午後のお茶も此処にするべきだろう。庭じゃなくって。
「えーっ!?」
 そんな、と見開いてしまった瞳。
 いい天気だから、午後は庭のテーブルに行こうと考えていた。庭で一番大きな木の下、真っ白な椅子とテーブルがある。初めてのデートの思い出の場所が。
 其処で過ごそうと思っていたのに、駄目だなんて。
 ハーレイにも「行こうね」とウキウキ話して、とても楽しみにしていたのに。
 けれど「当然だろう」という顔のハーレイ。「今のクシャミを聞いちまうとな」と。
「お前、身体が弱いんだから…。気を付けないと」
 用心に越したことはないんだ、今日は一日、お前の部屋だな。
 庭のテーブルと椅子は逃げやしないし、次の機会でいいじゃないか。



 そうするべきだ、とハーレイは譲らない。庭は駄目だ、と。
 たった一回クシャミが出ただけ、繰り返してはいないのに。それに空には雲一つ無くて、絶好のデート日和なのに。
 庭のテーブルと椅子は特別な場所。デート気分になれる場所。諦めるなんて、とんでもない。
 だから…。
「…ママに注文しておいたのに…。ハーレイの好きなパウンドケーキ…」
 あそこで初めてのデートをした時も、パウンドケーキを食べたでしょ?
 飲み物は冷たいレモネードだったけど、今の季節にはママは作ってくれないから…。
 ケーキだけでも同じにしたくて、昨日からママに頼んでたのに…。
 ちゃんと準備をしたんだよ、と真剣な顔で訴えたけれど。
「パウンドケーキなら、此処でも食える。…そうか、あれを頼んでくれたんだな」
 楽しみだなあ、お前のお母さんのパウンドケーキは絶品だしな?
 お母さんには昼飯の時に言えばいいだろ、午後のお茶は此処に変更だ、と。
 運ぶ先が此処に変わるだけのことだ、何の問題も無いだろうが。
 部屋でお茶だ、とハーレイの意見は変わらなかった。「お母さんには俺が言ってやる」と。
「ママにはまだ言っていないんだよ」
 パウンドケーキは頼んだけれども、何処で食べるかは言っていないから…。
「そうだったのか?」
 俺はてっきり、昨日からかと…。パウンドケーキを頼んだついでに言ったんだろう、と。
「お天気がどうなるか分からないでしょ? 天気予報が外れる日だってあるもんね」
 それに朝はちょっぴり雲があったよ、ぼくが朝御飯を食べてた時は。
 曇ったら駄目だし、お昼御飯の後で頼めばいいよね、って…。
 ママがお皿を下げに来た時に、午後のお茶は庭のテーブルがいいな、って言えばいいから。



 まだ計画を話していない、と説明したら、ハーレイは「なるほど」と頷いたけれど。
「最初から天気次第だったというわけか。お前の計画」
 それなら雨が降ったと思えば、諦めやすいというもんだ。確かに朝は雲もあったし…。
 曇って雨になっちまったら、庭に出るのは無理なんだから。
 やめておくんだな、と窓の向こうを見るハーレイ。「いい天気でないと外は無理だ」と。
「今はとってもいい天気じゃない!」
 天気予報でも一日晴れだし、雨なんか絶対、降らないよ!
 ぼくのクシャミは一回だけでしょ、今日は庭でデートしたいんだってば!
「何と言おうが、駄目なものは駄目だ。俺はクシャミを聞いたんだから」
 クシャミしているお前も見たしな、動かぬ証拠というヤツだろうが。
 庭でお茶など、俺は許さん。お前が風邪を引きたいのならば、話は別になるんだが…。
 風邪を引いたら病院で注射になっちまうぞ、と脅された。
 もちろん学校は欠席になるし、注射をされて薬を貰ってベッドの住人。そっちが好きか、と。
 学校を休む方はともかく、注射と薬。「お前は注射が好きだったのか?」と。
「注射も薬も大嫌いだよ!」
 知っているでしょ、ぼくがどっちも嫌いなこと!
 だから病院は嫌いなんだよ、行ったら注射をされるんだから!
「ほら見ろ、行きたくないんだろうが。病院ってトコに」
 風邪を引いたら病院行きだぞ、お前の場合は。こじらせちまうと厄介だからな、弱いから。
 そうならないよう、予防するのが一番の薬というもんだ。庭に出たりはしないでな。
 しかし、一向に治らんなあ…。お前の注射嫌いというヤツ。
「だって筋金入りだもの…」
 うんと小さい頃からそうだよ、注射は痛くて大嫌い。平気な人が信じられないよ。
「分かっちゃいるが…。今のお前もそうだってことは」
 前のお前の時からだしなあ、そう簡単には治らんだろうな。…その注射嫌い。



 フウとハーレイがついた溜息。「チビはともかく、注射嫌いのソルジャーなんて」と。
「今のお前は、まだチビだから…。苦手な子供もたまにいるしな」
 お前よりもっと大きな子だって、「痛いですか?」と心配そうに訊くヤツがいる。それも男で。
 だから、お前はいいんだが…。問題は前のお前の方だな、あれは酷かった。
 注射が嫌いだったというのを、知ってる仲間は少なかったが…。
 ノルディが注射を始めた頃には、もう医務室が出来ていたからな。専用の部屋が。
 あそこで「嫌だ」と叫んでいたって、お前の悲鳴は外には聞こえん。
 まだソルジャーじゃなくてリーダーだったが、外まで聞こえていないんだから…。
 お前が注射が苦手だってことは、ヒルマンたちしか知らんだろうな。ブラウにエラにゼル、あの四人の他には一人もいない筈だぞ。
 リーダーだった頃の悲鳴を聞かれなくって良かったな。
 お蔭でソルジャーが上げた悲鳴も、誰も知らないままなんだから。
「うー…」
 医務室があって良かったと思うよ、ノルディが注射を打ち始めた時に。
 ぼくの部屋でも打たれたけれども、診察に行っても打たれたから…。「嫌だよ」って言っても、勝手に用意を始めちゃって。…「これですっかり治るから」って。
 いつも「嫌だ」って騒いでたけど、あの悲鳴…。外に聞こえてたら大変だよね…。
 後でソルジャーになった時に、と今の自分でも分かること。
 仲間たちに悲鳴を聞かれていたなら、ソルジャーになっても威厳も何も無かっただろう。エラがどんなに旗を振っても、ヒルマンたちがせっせと祭り上げても。
 立派な制服を作って着せても、所詮は注射を嫌がる子供。身体だけ大きく育っていたって、心は子供と変わっていない、と。
 中の声が漏れない医務室が無ければ、仲間たちにも聞こえる悲鳴。「注射は嫌だ」と大騒ぎで。
 幸い、そうはならずに済んだのだけれど。知っている仲間はゼルたちだけだったけれど。



 医務室のお蔭でバレずに済んでも、慣れることだけは無かった注射。アルタミラでの恐怖が心に深く刻まれ、どうしても消えなかったから。
 人体実験の時に打たれた注射。血を抜く時にも刺された針。そういった日々を生きていたから、注射は怖いものでしかない。いつまで経っても、長い年月が流れ去っても。
「前のぼく…。注射、青の間が出来ても嫌だったしね」
 ノルディが診察に来るようになって、メディカル・ルームには滅多に行かなくなっても。
 それでも嫌なものは嫌だし、何処で打たれても、注射は注射なんだから。
「青の間なあ…。其処は「最後まで」と言うべきだぞ」
 前のお前は、最後まで注射嫌いのままだったんだ。ジョミーが来たって、変わらなかった。
 ジョミーもやっぱり知らなかったが、お前は注射嫌いのままで…。
 そういや、ナスカでは注射、していないのか?
 あそこで目覚めて、キースが逃げるのを止めようとしていただろうが。格納庫で。
 トォニィとセットで、メディカル・ルームに搬送されてた筈なんだが…。
 あの時は注射はどうだったんだ、しないで済んだとは思えないが?
「されたよ、青の間に戻ってからね」
 メディカル・ルームでは応急手当で、それから青の間に戻されて…。
 注射はしないで済むんだな、って安心してたら、ノルディが来ちゃったんだよ…!
 トォニィの手術は無事に済んだから、今度はこっち、って!
「ほほう…。やっぱり最後まで注射だったのか」
 俺がいないのに、よく頑張ったな。最後の注射。…ノルディの例の戦法か?
 お前が逃げ出さないように。
「そうだよ!」
 他に方法なんか無いでしょ、ぼくに注射をしたかったら…!
「確かにな。あれは効くよな、いいアイデアだ」
 ノルディは優れた策士でもあったということだな。注射嫌いのソルジャーの件に関しては。
「笑わないでよ…!」
 ぼくにとっては笑い事じゃなかったんだよ、あれは!
 どんなに注射は嫌だと言っても、あれをやられたら逃げられないから…!



 今でも鮮やかに思い出せること。遠く遥かな時の彼方で、注射を嫌った前の自分。ソルジャーになってもそれは変わらず、注射嫌いは治らなかった。
 ノルディが注射をしようとしたって、ハーレイが側にいないと打たせなかったほど。「嫌だ」と突っぱね、ノルディに「出て行け」と命令したり。
 どう頑張っても、怖くて我慢出来ないから。針が刺さるのが嫌でたまらないから。
 けれど、ハーレイはキャプテンで多忙。ブリッジにいたり、データのチェックをしていたり。
 「来て」と思念を飛ばしてみたって、来られない時も珍しくない。注射の付き添いよりも重要な仕事、それがハーレイを待っていたなら。キャプテンの仕事の真っ最中なら。
 だからと言って、ハーレイがいないのに注射を打つなど耐えられない。絶対に嫌で、腕に針など刺されたくない。いくらソルジャーでも、皆の長という立場でも。
 そんな調子だから、注射を打つべきタイミングを逃してしまうことも多かった。早期治療で治る所を、こじらせて寝込んでしまうだとか。
 シャングリラが白い鯨になったら、余計に増えたそういうケース。船が大きくなり、自給自足で生きる形に変わったから。それに伴って、キャプテンの仕事も多くなったから。
 注射を拒否してこじらせた場合、何日もベッドから離れられない。ノルディが診察にやって来る度、お決まりの台詞はこうだった。
「ソルジャー、これで懲りてらっしゃると思いますから…。次は早めに治療を受けて下さい」
 単に診察を受けるのではなくて、注射です。「打ちましょう」と私が言った時には。
 キャプテンがおいでになれないから、と断ったり、後回しにしたりはせずに。
「それが出来るなら苦労はしないよ」
 ぼくだってね、とノルディに背中を向けていた自分。まるで聞く耳を持たないで。
 病気になったら自分も辛いし、酷い時には、起き上がることさえ出来ないほど。ハーレイが作る野菜のスープも、横になったまま飲んでいたほどに。
 けれども、注射はもっと怖くて恐ろしい。病気で辛い思いをするより、熱や痛みで苦しむより。
 病気の苦痛は、その内に消えるものだから。我慢していれば、いずれ消え失せるから。
 そういう風には消えなかったのが、アルタミラで打たれた注射の苦痛。直接流し込まれた毒物もあれば、実験の前段階として打たれた薬品もあった。気を失うまで続いた苦痛。注射のせいで。
 それがあるから、嫌だった注射。「大丈夫ですよ」と言うハーレイが側にいなければ。
 「これは怖くない注射なんだ」と分かる言葉が貰えなければ。



 平気で注射を打てる仲間たち、彼らが英雄に見えたほど。「なんと心が強いのだろう」と。
 自分にはとても無理だから。彼らのように「早く治したいから、注射を打ちに」と、ノルディの所を訪ねようとも思わないから。
 注射は嫌で、恐ろしいもの。出来れば打たずに済ませたいもの。
 そう考える日々を送っていたら、ある日、ハーレイがやって来た。いつもならブリッジで仕事をしている筈の時間に、青の間まで。
「ソルジャー、視察のお時間です」
 参りましょう、と言われたけれども、まるで覚えの無い予定。視察だなどと。
「視察って…。ぼくは聞いてはいないけれども?」
 誰からも何も聞いていないし、君だって何も話さなかったよ?
 朝食の時に、と指摘した。ソルジャーとキャプテンの朝食の時間、表向きは朝の報告の時間。
 ハーレイとは既に恋人同士だったけれども、一日の予定は朝食の時に聞くことも多い。こういう予定になっております、とハーレイが念を押す形で。
 それを聞いてはいなかった。視察があるなら、行き先や時間の確認をする筈なのに。
「朝にはございませんでした。…今日になってから、急に決まりましたので…」
 ご一緒にお出掛け頂けませんか、こういう視察はソルジャーのお仕事の一つですから。
「そういうことなら、嫌だと言いはしないけど…。緊急事態じゃないだろうね?」
「視察ですから、ごくごく平和なものですよ」
 ご心配には及びません、と穏やかな笑みを浮かべたハーレイ。「参りましょうか」と。
「何処へ行くんだい?」
 ぼくの都合もあるからね、と尋ねた行き先。ハーレイと視察に出掛ける時には、自分の方が先に立って通路を歩くから。キャプテンを従えるという形で。
 行き先によって道順も変わるし、何処へ行くのかと訊いたのだけれど。
「本日はメディカル・ルームの視察になります」
「え…?」
 メディカル・ルームの視察って…。それはまた珍しい話だね?
 誰かのお見舞いに行くと言うなら分かるけれども、そんな所で視察だなんて…。



 新しい医療機器でも出来たのかい、と質問したら、「いいえ」と返って来た返事。ただの視察に行くだけのことで、たまにはメディカル・ルームの方も、と。
(普段の視察ルートじゃないし…)
 頻繁に覗く場所ではないから、こういうこともあるだろう。急に決まった話だとはいえ、前から依頼があったとか。…ハーレイがそれに割ける時間が無かっただけで。
 そうなのだろう、と考えながら、ハーレイと一緒に出掛けて行った。誰に出会うかも分からない通路、恋人同士の会話は無しで。ソルジャーとキャプテンらしい話を交わしながら。
 船の中を結ぶ乗り物、コミューターの中でも、誰もいないのに真面目な顔で。
 そうやって着いたメディカル・ルーム。
 ハーレイが「どうぞ」と、扉の脇の開扉ボタンを押した途端に…。
「痛いの、嫌ーっ!」
 いきなり聞こえて来た悲鳴。幼い子供たちが騒いでいた。ヒルマンが一緒にいるのだけれども、嫌だと叫んで、走ったりもして。
「これは…?」
 いったい何が始まるんだい、と丸くなった目。子供たちは何故、こんな所に集められたのか。
 涙を浮かべて泣いている子も、何人もいるものだから驚いた。何をしようというのだろう、と。
「ようこそ、ソルジャー。是非一度、御覧になって頂きたいと思いまして…」
 予防接種の日ですから、とノルディが答えて、ヒルマンも「そういうことでね…」と頷いた。
「付き添いなのだよ、私はね。子供たちだけだと、収拾がつかないものだから…」
 見ての通りだ、いつも逃げようと大騒ぎでねえ…。目を離すと逃げてしまうのだよ。
 看護師たちが見張っていたって、子供は実にすばしっこいから。
「教授のお蔭で助かっていますよ。…教授の言い付けは、子供たちも守りますからね」
 それでも騒ぎになりますが…。注射の日だというだけで。
 困ったものです、とノルディが漏らした溜息。「けれど、必要なことですから」と。
 白い鯨になったシャングリラは、アルテメシアからこういう子たちを救い出す。ミュウだと判断された子供を、処分される前に。
 彼らを助け出すのを仕事としている潜入班や救出班。所属する者たちは外の世界と接触するし、救い出された子供も船の外からやって来る。
 つまり外界からのウイルスの侵入、それの危険があるのが今。



 虚弱な者が多いミュウだけれども、幼い子供たちは更に身体が弱いもの。病気になったら治りが遅いし、重症化することだって。
 そうならないよう、予防接種をするのだという。定期的に集めて、全員に注射。
(……注射だなんて……)
 聞いただけでも、震え上がってしまった前の自分。ソルジャーだけに顔には出なかったけれど、心の中では逃げ出したいほど。自分が打たれるわけではなくても。
 見るのも嫌だ、と思っているのに、予防接種を見届けるのが視察で、ソルジャーの仕事。逃げて帰れはしないのが自分。
 平静な顔を装って立って、子供たちを眺めているしかなかった。「嫌だ」と騒ぐ子供たちを。
 逃げようとする子は、ヒルマンが「止まりなさい」と呼び止めて叱る。すぐ終わるから、並んで順番を待つように、とも。
 嫌がる子たちは順に並ばされ、一人ずつ注射をされていった。「痛いよ」と泣き叫びながら。
「大丈夫よ、ほら、痛くないでしょ?」
 もう終わったわ、と看護師たちが慰めていた。注射を受ける子供たちを。
 注射の前には「痛くないから」と言い聞かせてやって、真っ最中には「我慢してね」と。
(ぼくも、あんな感じでハーレイに…)
 慰めて貰っているんだから、と見ていた予防接種の光景。
 やっぱり注射は怖いじゃないか、と。
 アルタミラの地獄を知らない子たちも、「嫌だ」と恐れるのが注射。チクリと刺さる針だけで。それが刺さっても、恐ろしいことは何も起こらないのに。
(病気の予防で、治療みたいなものなのに…)
 それでも「怖い」と大騒ぎする子供たち。ヒルマンがいないと脱走する子もいるほどに。
 ならば、注射で酷い目に遭った自分が嫌がるのは至極当然なこと。視察する立場でも怖くなる。あそこで注射を受けているのが自分なら、と。
 順に並んで注射だなんて、考えただけでも恐ろしすぎる。自分の番がやって来るのを、ブルブル震えて待つなんて。一人終わったら、順番が一つ進むだなんて。



 子供たちの予防接種が済んだら、青の間に帰るだけだったけれど。ハーレイはブリッジの方へは行かずに、そのまま後ろについて来たから、チャンスとばかりに苦情を言った。
 ベッドが置かれたスペースまで辿り着いた途端に、クルリと後ろを振り返って。
「…ハーレイ。今の視察のことなんだけれど…。どうしてあんな視察の予定を入れたんだい?」
 ぼくが注射が嫌いなことは、百も承知の筈だけれどね?
 君も、ノルディも、ずっと前から知っている筈だ。注射をどれだけ嫌っているか。
 予防接種の視察だなんて…。ぼくが見るのも嫌がるだろうと、君たちは考えなかったとでも?
 怖くてたまらなかったんだけどね、と睨み付けた。どういった意図であの視察を、と。
 きっとハーレイは詫びるだろうと考えたのに。「私の配慮が足りませんでした」と、謝る筈だと思ったのに…。
 まるで違っていた反応。「そうでしょうとも」と笑みを宿した鳶色の瞳。
「ですから、視察にお連れしました」
 あれは嫌だ、と仰ることは最初から分かっておりますからね。…だからこそです。
「どういうことだい?」
 君の嫌がらせか、それともノルディの方なのか…。ぼくは君たちの恨みを買ったのかい?
 全く覚えが無いんだけれどね、嫌がらせをされるような覚えは何も無いんだけれど…?
「視察だと申し上げました。嫌がらせのために、そんな手の込んだことは致しません」
 復讐でしたら、もっと私的に攻撃させて頂きます。…私も、ノルディも。
 よろしいですか、先ほどの視察は、子供たちの予防接種に立ち会うというのが目的です。他には意図はございません。
 ただ、いつか…。十年もすれば、あの子供たちの中の誰かが、看護師になる日も来そうです。
 それでもお逃げになりますか?
 ノルディが看護師になった子供を連れて来ていても、注射は嫌だと。
 今と同じに「嫌いだから」と、私がお側にいない時には、ノルディを追い出したりもして…?
「…そ、それは……」
 あの子供たちの中から看護師が?
 ノルディが連れて来ると言うのかい、ぼくに注射をする時の助手に…?



 無理だ、と震えてしまった声。「それだと、ぼくは逃げられない」と。
 メディカル・ルームで泣き叫んでいた子供たち。予防接種は、注射は嫌だと。ヒルマンが睨みを利かせていたって、逃げようとする子がいたほどに。
 あの子供たちが大きくなっても、ソルジャーの自分は今と同じに特別な存在。シャングリラを、ミュウを導く唯一の者で、誰もが敬意を表する相手。
(…今は一緒に遊んでることもあるけれど…。大きくなったら、ソルジャーの意味も…)
 分かってくるのが子供たち。自分たちとは違うのだ、と。他の仲間たちとも全く違う、と。雲の上の人のような存在、そうなるようにとエラたちが仕向けたのがソルジャー。
 そのソルジャーが、注射が嫌いで逃げ回るなどは有り得ない。
 「ハーレイがいないと絶対に嫌だ」と、悲鳴を上げることだって。
 とても特別な存在なのだし、幼い子供と同じことなどする筈が無い。白いシャングリラを束ねるソルジャー、偉大なミュウの長ともなれば。
 成長した子供たちが看護師としてやって来たなら、逃げ場を失うのが自分。ノルディの手には、大嫌いな注射器があったって。「注射します」と宣言されたって。
「…逃げられないじゃないか、あの子たちを連れて来られたら…!」
 ソルジャーは注射が苦手なんだ、と呆れられるか、船中に噂が広がるか…。
 そうなったらエラたちがいくら頑張っても、ぼくの威厳は台無しで…。それを避けたいなら…。
 黙って注射されるしか、と酷い顔色で言ったけれども、ハーレイの方は動じなかった。
「お分かり頂けて何よりです。これはノルディのアイデアでして…」
 子供たちが育って看護師の道を選んでくれたら、ソルジャーに注射をする時の助手に選ぶとか。
 何度も注射を打ち損ねましたからねえ、あなたが逃げてしまわれるので…。
 ですから、助手をつけるそうです。この方法なら、あなたに逃げ場はありませんから。
「ぼくは困るよ…!」
 注射は嫌いだと何度も言ったし、今も逃げ回っているんだけれど…!
 病気で寝込んだ方がマシだよ、無理やり注射をされるよりかは…!



 なんという酷いアイデアなのだ、と嘆いたけれども、それが実行に移される日がやって来た。
 ノルディの希望で、子供たちのための予防接種を何度となく視察させられる内に。
 ある日、体調を崩した自分。軽い眩暈と発熱だけれど、ノルディが診察に来たものだから、横になったままで釘を刺しておいた。「注射はお断りだからね」と。
「ちょっと眩暈がするだけなんだよ、注射は要らない」
 本当は薬も嫌だけれども、そっちは我慢して飲んでおくから。…注射は無しで。
「分かっております」
 キャプテンはお留守のようですからね、と答えたくせに、ノルディが思念で呼び寄せた看護師。何年か前には幼い少女で、注射を嫌がって泣いていた女性。
 見覚えがある、と思う間も無く、彼女はベッドの直ぐ側に来た。
「ソルジャー、注射の前に消毒しますので…」
 腕を出して頂けますでしょうか、と微笑んだ看護師。かつて遊んでやっていた少女。注射嫌いの相手とも知らず、それはにこやかな白衣の天使。
(ハーレイに…)
 来てくれるように連絡してから、なんとか時間稼ぎをしよう、とハーレイの居場所を探るまでもなく、ノルディから飛んで来た思念。看護師の女性には分からないよう、相手を絞って。
 「キャプテンはお忙しいですから」と。
 此処へはお越し頂けませんと、手が空くまでには二時間ほどはかかるでしょう、とも。
(そんな…!)
 嘘だろう、と思念で船の中を探れば、本当に忙しくしていたハーレイ。機関部の者と何かを打ち合わせながら、メインエンジンに近い区画で見ている図面。
 これは駄目だ、と一目で分かった。
 エンジントラブルとは違うけれども、オーバーホールに向けての調整中。どのタイミングで実施するのか、その間の船の航路をどう設定するべきなのかなど。
 二時間で済んだらまだ早い方で、下手をしたなら夜までかかる。休憩や食事の時間は取れても、青の間までは来られない。たかが注射の付き添いには。



 これまでだったら、こういう時でも逃げられた。「注射は嫌だ」とノルディを追い払って。注射するならハーレイと一緒に出直して来いと、絶対に腕は出さないから、と。
 ところが、今の自分の状況。
 ベッドの側には看護師の女性、以前は幼い少女だった彼女。「ソルジャー?」と首を傾げている女性は何も知らない。注射嫌いなソルジャーのことも、ノルディの恐ろしい計画のことも。
 ハーレイを呼んでも、来てくれる可能性はゼロ。
 そして看護師の女性の仕事は、ノルディの注射を手伝うこと。手際よく腕を消毒して。
(…仕方ない…)
 注射は怖くて嫌だなどと此処で言えはしないし、差し出した腕。手袋はしていなかった。具合の悪い日は外しているから、看護師は袖をめくるだけ。肘の上まで。
 「この辺りですね」と消毒をされて、ノルディが鞄から出した注射器。それに薬液も。
 看護師に「後は私が」と言って代わると、しっかりと掴まれてしまった腕。
「やはりソルジャーには、私が注射致しませんと…」
 看護師も注射は打てるのですが、失礼があってはいけませんから。
 下手だからとても痛かっただとか、後からアザになったとか…。
 他の者ならよろしいのですが、ソルジャーの腕では練習させられませんし。
 では、と打たれてしまった注射。
 頼みの綱のハーレイ無しで。「大丈夫ですよ」と安心させてくれる、付き添いは無しで。
(…痛いのは誰でも同じだよ…!)
 ノルディがやっても、看護師でも、と心の中だけで上げていた悲鳴。
 上手でも下手でも変わりはしないと、針が刺さるこれが嫌なんだから、と。
 アルタミラでは、容赦なく針を刺されていたから。研究者たちの注射の腕など、気にしたことは無かったから。
 どんな注射でも、必ず苦痛をもたらすだけ。上手く刺さろうが、下手で何度も刺し直そうが。
 注射針への恐怖は今でも消えないまま。
 病気が治る注射なのだと分かっていたって、腕に刺さる針はアルタミラと同じなのだから。



 首尾よく注射を打ったノルディは、薬を処方して帰って行った。「お大事に」と看護師の女性と共に。「夜には熱も下がりますよ」と。
 夕方までに熱は下がったけれども、注射のお蔭だとは思いたくない。本当に酷い目に遭わされた上に、注射針がとても嫌だったから。
 部屋付きの係が届けた夕食、それを食べてから薬を飲んで、ベッドでウトウトしていたら…。
「ソルジャー、遅くなりました」
 お加減の方は如何ですか、とハーレイがやって来たものだから…。
「遅すぎだよ!」
 具合が悪いと知っていたなら、もっと急いで走って来ればいいだろう!
 お蔭で、ぼくは注射を打たれてしまったじゃないか、と文句をぶつけた。
 「君が来ないから、それは酷い目に遭ったんだ」と。
 ノルディが勝手に注射を打ったと、逃げられないように助手の看護師まで連れて、と。
「遅くなったことはお詫び致しますが…。注射の件なら、前から申し上げておりましたよ」
 子供たちの予防接種の視察に、初めてお連れした時から。
 何度もお供をしておりますから、ソルジャーも覚悟はしておられたかと…。
 今日のような時には、看護師の出番が来るのだと。…違いますか?
 御存知だった筈ですが、と鳶色の瞳は揺らがなかった。ひたと上から見下ろすだけで。
「それは確かに聞いたけれども…!」
 注射の計画は知っていたけど、まさか実行するなんて…!
「計画は実行してこそです。ノルディも喜んでおりました。これからはきちんと注射出来ると」
 私も早く治って頂けるとなれば嬉しいですよ。こじらせたりはなさらないで。
 今までは酷くなられる度に、私が忙しくしていたせいだ、と胸を痛めておりましたから…。
 早めに注射をしておられたら、と何度思ったか分かりません。
 ですが、これからは…。大丈夫ですね、とハーレイの顔に安堵の色。「良かった」と。
「君が自分を責める必要なんかは無いから、前の通りにして欲しいけど…!」
 ノルディが助手付きで注射を打つのは、ぼくには怖いだけなんだから…!
「いえ、駄目です」
 大切なのはソルジャーのお身体ですからね。…充分に自覚なさって下さい、お立場を。
 ソルジャーの代わりになれる者など、この船には誰もいないのですから。



 お分かりですね、と言い聞かせられて、逆らえなかった前の自分。
 注射の付き添いは、ハーレイから看護師に変わってしまった。ハーレイが忙しい時は。どんなに呼んでも、来てくれそうにない時には。
 「大丈夫ですよ」と優しい言葉をくれるハーレイは来なくて、代わりに看護師。シャングリラに来た頃は幼い子だった、今は育った看護師たち。
 彼女たちは何も知らなかったから、ノルディの助手を務めるだけ。注射嫌いのソルジャーの心が叫んでいるとも知らないで。「注射は嫌だ」と、「助けて、ハーレイ!」と。
 ソルジャーの心は遮蔽されていて、思念は漏れはしないから。どんなに悲鳴を上げていたって。
「…あれ、酷かったよ…。ノルディと、前のハーレイと…」
 言い出したのはノルディだけれども、ハーレイが賛成しなかったら出来ない計画じゃない!
 ぼくは嫌だと言っていたのに、あの方法で何度も注射…。
「そうか? 早く治って良かったじゃないか、こじらせる前に」
 いい手だったと俺は思っていたんだが…。ああでもしないと、お前は逃げてしまうから。
 だが、今のお前には使えない手だな。
 正真正銘、本物のチビで、注射は嫌だと泣き叫んだって、誰も変には思わないしなあ…。
「そうだよ、それに注射は今のぼくも嫌いで、苦手なんだよ!」
 注射なんかはされたくもないし、病院も薬も嫌いだってば…!
 前のぼくの記憶が残ってるんだよ、ぼくも分からないような何処かに…!
「そうなんだろうな、その点は大いに同情するが…」
 注射は嫌だと分かっているなら、午後のお茶は部屋にしようじゃないか。
 お前が風邪を引いちまったら、待っているのは注射なんだしな?
 庭のテーブルでお茶にするのは次でいいだろ、今日は大事を取るんだな。クシャミが出たし。
「ハーレイ、酷い…!」
 あれからクシャミは出ていないじゃない、一回しかしていないのに…!
 クシャミ、一回くらいだったら、小さな埃を吸っただけでも出ちゃうのに…!



 意地悪、と頬を膨らませたけれど、ハーレイは「駄目だ」の一点張り。
 庭のテーブルでお茶は駄目だと、「お前に風邪は引かせられないからな」と。
 「ハーレイのケチ!」と怒ったけれども、そのハーレイ。
 今のハーレイも、注射の付き添いはしてくれない。まだ家族ではないのだから。前のハーレイのように忙しくなくても、仕事が入っていない時でも。
 それを思うと、やっぱり注射は避けたい気分。庭のテーブルでお茶にしたくても。
 ハーレイの好きなパウンドケーキで、庭でデートと洒落込みたくても。
(…風邪を引いたら、注射だから…)
 午後のお茶の場所は、この部屋で我慢しておこう。本当は庭に出たいのだけれど。
 懐かしい記憶が戻って来たって、嫌な注射は嫌なまま。今の自分も、注射は嫌いなのだから…。
 注射をする羽目に陥らないよう、この部屋で大人しく過ごすことにしよう。
 ハーレイと二人で過ごせる土曜日、それだけで充分幸せだから。
 風邪さえ引いていなかったならば、明日は二人で庭にも出られるだろうから…。




            注射の方法・了

※今のブルーも注射が嫌いですけど、そうなったのは前の生で繰り返された人体実験のせい。
 注射嫌いだったソルジャー用に、ノルディが考えた助手をつけること。逃げられませんよね。
 パソコンが壊れたため、実際のUPが2月5日になったことをお詫びいたします。
 修理期間中、「シャングリラ学園生徒会室」の方で、経過報告を続けていました。
 予告なしに更新が止まる時があったら、そちらのチェックをお願いします。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










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