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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

合成品のトマト

「んー…」
 上手く描けない、とハーレイの向かいでブルーがついた溜息。
 今日は土曜日、ブルーの家を訪ねて来たのだけれど。午前中から二人で過ごしたブルーの部屋。其処で昼食、出て来た料理はオムライス。
 それを食べようとしていた所で、ブルーの手にはケチャップの容器。オムライスにケチャップで描こうとした絵。「ぼくとハーレイは、ウサギのカップルなんだから」と。
 つまりウサギを描きたかったらしい。ブルーも自分もウサギ年の生まれで、ウサギのカップル。
「…それがウサギってか?」
 ウサギの顔の筈だよな、と眺めたブルーのオムライスの上。下手な落書きにしか見えない絵。
「やっぱり変?」
 耳も口も上手くいかないよ、とブルーも残念そう。「これじゃウサギに見えないよね」と。
「ウサギなあ…。描くなら、こうだな」
 まずは顔から耳を生やして、とケチャップで描いてゆくウサギの輪郭。クルンと引いて、二本の耳も。ウサギの顔の形が出来たら、お次は目。つぶらな瞳をケチャップで丸く。
(…でもって、鼻をこう描いて、と…)
 チョンと絞り出してやったケチャップ。鼻が出来たら、ウサギらしい口も。
 そうやって器用に描き上げたウサギ。「俺ならこうだ」と。
「ハーレイ、凄い!」
 ぼくのウサギと全然違うよ、ホントにウサギ。凄く上手いね、ケチャップの絵。
「なあに、ケーキのデコレーションの要領だってな」
 ウサギくらいは簡単だぞ。お前、ケーキ作りは手伝わないのか?
 どうなんだ、と尋ねてみたら、口ごもったブルー。
「…ママが作ってるの、たまに手伝うけど、飾りの方は…」
 やってないんだよ、小さい頃に何度も失敗したから。模様を描くのも、絞るだけのも。
 薔薇の花びらを作る練習とかも、ママと一緒にやったんだけどね…。



 ちっとも上手くいかなかった、とブルーは小さく肩を竦めた。「だから飾りは手伝わない」と。
 ケーキ作りを手伝った時も、デコレーションは母に任せているらしい。今のブルーなら、手先も器用になっただろうに、お任せのまま。それでは上手になるわけがない。
 デコレーションの方はもちろん、ケチャップで絵を描くことも。どちらも要領は同じだから。
「やってないのか、デコレーション…。それなら下手でも仕方ないな」
 こいつも一種の修行だから。…経験ってヤツがものを言うんだ、ケチャップの絵も。
 修行を積まないと上手く描けんぞ、と指差したブルーのオムライス。「そうなっちまう」と。
「分かった、頑張る…!」
 練習するよ、とブルーが握ったケチャップの容器。もう一度絵を描くつもりで。
「おいおい、ケチャップまみれになるぞ。せっかくの美味いオムライスが」
 味だって台無しになるじゃないか、とブルーを止めた。適量だからこそ、美味しいケチャップ。
「でも、練習…」
 練習しないと上手くならない、って言ったの、ハーレイじゃない!
 だから練習したいのに…。ケチャップで上手に絵を描く練習。
「またにしておけ、お母さんにも失礼だろうが」
 食べ始めてから胡椒を振るとか、ケチャップを少し増やすとか…。そういうのならいいんだが。
 自分の好みの味にするのは問題無い。だが、一口も食べない間に入れるというのは失礼だ。
 マナー違反だぞ、「お好みでどうぞ」と勧められても、食べる前なら控えめにだ。
 今からケチャップを増やしちゃいかん。練習は次の機会にだな。
 ケチャップで模様を描ける料理が出た時にしろ、とテーブルに置かせたケチャップの容器。
「うー…」
 ホントに練習したかったのに…。ハーレイだって、修行を積めって言ったのに…。
 今から描いたら、練習、一回出来るんだけどな…。



 駄目だなんて、とガッカリしたブルー。「こんなのじゃ上手くならないよ」と。
 オムライスを頬張り始めた後にも、食べながらチラチラとケチャップの容器を見たりしている。目の端の方で、「あそこにケチャップ…」と未練がましく。
(…また描き始めるんじゃなかろうな?)
 まだケチャップがついていないトコとか、皿とかに、と心配になってくるくらい。ケチャップで絵を描きたいブルーは、まだまだ未練たっぷりだから。…ケチャップ修行に。
 やろうとしたら止めないと、と考えていたら、不意に頭を掠めた記憶。赤いケチャップ。
(ケチャップだと…?)
 遠く遥かな時の彼方から来た記憶。前のブルーと、それにケチャップ。
 まるで繋がりそうもないのに、何故、と首を捻るよりも先に気が付いた。そのままだった、と。
 前のブルーもケチャップで絵を描いていたもの。朝食がオムレツだった時には。
 白いシャングリラでの朝の習慣。青の間で食べた、ソルジャーとキャプテンとしての朝食。係にオムレツを注文したら、ブルーはケチャップで絵を描こうとした。描きたい気分になった朝には。
「…お前、今も昔も変わらんなあ…」
 そう口にすると、キョトンとしたブルー。オムライスを掬ったスプーンを持って。
「変わらないって…。何が?」
 今も昔も、って言うんだったら、前のぼくでしょ?
 いったい何が変わらないの、とブルーはオムライスを頬張った。パクンとそれは美味しそうに。
「オムライスではなかったんだが…。ケチャップで絵を描いていただろ」
 青の間でもよく描いてたもんだが、それよりも前も。…白い鯨になる前の船で。
 食堂でケチャップを使う場面があったら、お前、描こうとしてたんだ。
「ああ…!」
 ホントだ、ケチャップ…。前のぼくもケチャップで描いていたっけ、色々なものに。
 青の間だったら、朝のオムレツだったよね。



 思い出した、と煌めいたブルーの瞳。「前のぼく、あれが好きだったよ」と。
「ケチャップで描くの、気に入ってたけど…。誰が教えてくれたんだっけ?」
 アルタミラの檻で生きてた頃には、ケチャップの絵なんか描けるわけがないし…。
 子供の頃の記憶は失くしちゃったし、覚えていそうにないんだけれど…。描いてたとしても。
 だから誰かに教わった筈、とブルーの記憶はまだ中途半端。曖昧な部分があるらしい。
「お前に教えたのは、前の俺だな。こうして食べると面白いぞ、と」
 まだ厨房にいた頃だから…。ずいぶんと古い話だってな。
 俺もケチャップで絵を描いたという記憶は、まるで残っていなかったんだが…。
 思い付いたんだ、と指で示したケチャップの容器。「前の俺がこいつを見ていた時に」と。
 名前だけは「シャングリラ」と立派だった船。
 其処の厨房で料理をしていた時代に、ふと閃いたのがケチャップの容器の使い方。赤いトマトを煮詰めて作った、ケチャップを絞り出せるから…。
(上手く使えば、絵が描けそうだと思ったんだよな)
 ケーキなどに使うデコレーション。…ケーキは作っていなかったけれど、データベースで料理を色々と調べる間に、そういう知識も仕入れていた。「絞り出したら、絵が描ける」こと。
 それを生かして、ただケチャップを塗るよりは、とブルーの料理の上に書いてやった。ブルーの名前を、赤いケチャップで。
 最初はそれだ、と教えてやったら、ブルーの記憶も戻って来た。「そうだっけね」と。
「ハーレイが書いてくれたんだっけ…。ぼくの名前を」
 嬉しかったんだよ、このお皿の料理はぼくだけの、って気分になって。…誰も取らないけど。
 でもね、名前が書いてあるだけで、特別な気分がするじゃない。
「お前、はしゃいでいたからなあ…。あれで気に入って、次から色々リクエストして…」
 他にも何か描いて欲しい、と俺に注文したもんだ。いわゆるケチャップのデコレーションを。
 文字だけじゃなくて、絵も描いてくれ、と。…その内に自分で描き始めたが。
「楽しそうだし、自分でもやりたくなってくるもの」
 すっかりぼくのお気に入りだよ、ケチャップで何か描くってこと。…字とか、絵だとか。



 前のブルーが描いていたケチャップの絵や、文字やら。上手く描けたら、大喜びで眺めていた。
 ソルジャーの尊称がついた後にも、せっせと描いていたブルー。
 白い鯨になる前の船でも、青の間でも。ケチャップで絵を描ける料理があったら、絵を描こうと思い立ったなら。
 ケチャップはいつも船にあったし、描くのは好きに出来たのだけれど…。
(待てよ…?)
 そのケチャップで、心に引っ掛かったこと。「合成品」と。
(合成品のトマトケチャップなら…)
 白い鯨が完成してから、暫くの間、作っていた。自給自足で生きてゆく船を目指したけれども、栽培が軌道に乗ってくれるまでの期間は、トマトが足りなかったから。
 もちろんトマトは採れたのだけれど、形を残したい料理の方に優先的に回すもの。形が無くても問題無いなら、合成品を使っていた。トマトケチャップや、トマトペーストならば合成品。
(だよなあ…?)
 合成品のトマトと言ったら、あの時期だけだった筈なんだが、と思うのにまだ引っ掛かる。一時しのぎにと作られていた、合成品のトマトケチャップが。
 ほんの短い間だけだった、合成品のトマトケチャップ。白い鯨になった直後の一時期だけ。
 トマトの栽培は至って簡単なもので、充分な量の苗を育てられるようになったら、合成品は姿を消した。本物のトマトが次から次へと実る船では、もう必要が無かったから。
 あったことすら忘れていたほどの、合成品のトマトケチャップ。
 なのにどうして引っ掛かるのか、自分でもまるで分からない。相手はただのトマトケチャップ。
(何故だ…?)
 合成だろうが、本物だろうが、見た目では区別がつかなかった出来。
 それに不味くもなかったわけだし、キャプテンとしては及第点を出せる代物。ずっと合成品しか無かったのなら「駄目だ」と切り捨てるけれど。「ケチャップも作れない船だった」と。
 トマトの栽培に失敗していれば、そういう結末。ケチャップの原料に回せるだけのトマトが無い船、なんとも情けないシャングリラ。自給自足を謳っていたって、合成品が出回る船。
 けれども、そうはならなかったし、何の問題も無かった筈。…トマトケチャップに関しては。



 いったい何処が引っ掛かるんだ、と捻った首。「あれで良かった筈なんだが」と。
 トマトが沢山採れない間は、合成品を使うこと。きちんと会議にかけて決めたし、事前に試食もしていたほど。皆が「不味い」と言い出さないよう、船の改造を始める前から。
(分からんな…)
 まるで謎だ、とオムライスを口に突っ込んでみても分からない。ケチャップの味も、記憶の鍵を運んで来てはくれない。「合成品でも、充分こういう味だったよな」と思う程度で。
「…ハーレイ、どうかした?」
 何か気になることでもあるの、とブルーに訊かれた。「急に黙って、どうしちゃったの?」と。
「すまん、つい…。合成品のトマトが気になってだな…」
 待て、それだ!
 合成のトマトが問題だったんだ、と蘇った記憶。言葉に出したら、遠い記憶の海の底から。
「何の話?」
 合成品のトマトって…、とブルーは怪訝そうな顔。ブルーにとっても、合成品のトマトと言えば一時しのぎの物だろう。ほんの一時期、白い鯨で作られただけの。
 けれど…。
「ナスカだ。あそこで起こっちまった対立…」
 古い世代と、ナスカにこだわった若い世代と。あの対立が激しくなった原因…。
 元はトマトだ、と瞠った目。
 あれから目に見えてこじれ始めた、と思い出した出来事。トマトと、合成品のトマトと。
「トマト…。ナスカでも採れた野菜だよね?」
 前のぼくは食べ損なったんだけど、とブルーの赤い瞳が瞬く。古い世代はナスカの野菜を嫌っていたから、前のブルーにも供されなかった。十五年もの長い眠りから覚めても、当然のように。
「うむ。あの星の最初の収穫だった」
 トマトとキュウリと、タマネギにニンジン。
 それを籠に入れて、「受け取って下さい」とルリが差し出したっけな、ジョミーに。
 ナスカで最初の収穫です、と嬉しそうな顔で。
 ジョミーはトマトに齧り付いてだ、「美味しい! 太陽の味がする」と言ったんだが…。
 同じトマトを、ゼルがだな…。



 齧るなり床に叩き付けた、とブルーに話した。「この話、前にもしたんだが…」と。
「だが、あの時はトマトの話だけでだ…。問題の根はもっと深かったんだ」
 やっと思い出した、今になってな。ゼルが怒って怒鳴った言葉が、実に厄介だったこと。
 ゼルはトマトを叩き付けるなり、こう言ったんだ。「こんな臭い物が食えるか」と。
 合成の方がまだマシだ、とな。
「…それって酷い…」
 みんなが頑張って作ったトマトを捨てちゃうなんて。…味に文句をつけるだなんて。
 それで対立しないわけがないよ、若い世代を頭から否定したんだから。
「ゼルがやったことも酷いんだが…。褒められたことじゃなかったんだが…」
 言葉の方がもっと酷かった。…結果的には、そうなったんだ。
 あれで誤解が生まれちまった、「合成の方がマシだ」と言ったモンだから。
「…どういう意味?」
 誤解って、とブルーはオムライスを頬張りながら尋ねた。「いったい何が誤解されたの?」と。
 ゼルがトマトを投げ捨てただけで充分酷いし、誤解も何も、とブルーは言うのだけれど。
「そのトマトだ。…お前、合成トマトなんかがあると思うか?」
 あったと思うか、と言い換えてもいい。トマトそのものの形をしていた、合成品のトマト。
 そんな代物、あのシャングリラに存在してたか、ほんの一時期だけにしたって…?
「トマトの形の合成品って…。あるわけないでしょ、そんなヘンテコなもの」
 白い鯨に改造した後、トマトが充分採れなくっても、丸ごとの形で合成したりはしなかったよ。
 足りなかった時は、本物のトマトは無しで、合成品のケチャップとかトマトペーストの出番。
 そういうので出来る料理を作っていたでしょ、「トマトは暫く我慢してくれ」って。
 農場でトマトが採れ始めるまでは、トマト風味のお料理で我慢。
 みんな分かってくれていたから、文句を言う人は誰もいなかったよ。
 白い鯨で丸ごとのトマトが出て来た時には、いつも本物。…太陽の味はしなくってもね。



 人工の照明で育てたものでも、トマトはトマト、と答えたブルー。トマトの形の合成品などは、一度も作っていなかった、と。
「そうでしょ、ハーレイ? 本物のトマトは船でも作れたんだから」
 最初の間は量が足りなくて、ケチャップとかを合成したけれど…。丸ごとのトマトは本物だけ。
 合成のトマトなんかは作っていないよ、作ろうって話も出なかったけれど…?
「そうなんだが…。其処の所を誤解したのが若いヤツらだ」
 合成トマトケチャップがあった時代を知らなかったからな、若い連中は。
 シャングリラにもトマトはちゃんとあるのに、「合成の方がマシだ」と言われちまったんだぞ?
 ゼルにしてみれば、合成ケチャップのトマトの方が、という意味なんだが…。
 それを知らないヤツらが聞いたら、どういう意味に取れると思う?
「…言いがかりにしか聞こえないよね?」
 シャングリラのトマトよりも、ずっと酷い味。…合成した方がマシなくらいだ、って。
 合成品のトマトは作ってないけど、こんなトマトより、それを開発した方がマシ、って言われてしまったみたい…。お話にならない味のトマトだ、って。
「そういうこった。…若いヤツらは、その通りの意味に受け取ったんだ」
 お前が言った通りにな。ありもしない合成のトマトの方がマシだ、と罵倒されたと考えた。
 話はたちまち広がっちまって、対立が酷くなる切っ掛けになっちまったんだ。
 俺も事情を把握してはいたが、あえて説明しなかったから…。ゼルの言葉の本当の意味。
「なんで?」
 教えてあげれば良かったのに、とブルーは不思議そうだけれども。
「…自分で歴史を紐解けば良かろう、と考えたんだ」
 合成のトマトで腹を立てたなら、あの船に合成品が溢れていた時代を調べるがいい、と。
 最初からトマトが充分にあったか、他の作物はどうだったのか。
 コーヒーやチョコレートの代用品だったキャロブにしたって、初めの間は船には無かった。
 あれはゼルの一言で来た植物だぞ、「子供たちに合成品のチョコレートを食べさせたくない」と言ってくれたお蔭で。
 トマトの件で「合成の方がマシだ」と言ったのは、そのゼルだ。…白い鯨を作ったのも。
 合成トマトを切っ掛けにして、色々なことを知ってくれればいい、と思ったんだが…。



 馬鹿な選択をしたもんだ、と零した溜息。オムライスの最後の一口をスプーンで頬張って。
「前の俺も、つくづく馬鹿だった。何に期待をしていたんだか…」
 ナスカに夢中の若いヤツらが、シャングリラの過去を振り返るわけがないのにな。
 古い世代に腹を立てていたなら、なおのことだ。
 俺としたことが…、と皿に置いたスプーン。「御馳走様」と。
「それじゃ、みんなは誤解したまま?」
 合成トマトの方がマシだ、ってゼルが悪口を言ったんだ、っていう風に。
 ありもしない合成トマトなんかと比べられた、って酷い悪口だと思い込んだまま…?
 そうだったの、とブルーが見上げてくる。オムライスを口に運びながら。
「恐らく、そうだったんだろう。…トマトの件は違うようだ、と噂が流れはしなかったから」
 そしてゼルたちはナスカの野菜を酷く嫌って、食べることさえ無かったし…。
 余計にこじれる一方だったというわけだな。若い世代と古い世代の対立ってヤツは。
「…ハーレイ、みんなに教えてあげれば良かったね。合成トマトは誤解なんだ、って」
 ゼルだって言葉不足だよ。
 合成のトマトケチャップの方がよっぽどマシだ、って言えば通じた筈なのに…。
 それでもみんなは怒っただろうけど、言い返すことは出来たと思う。失礼な、ってね。
 合成品なんかを作らなくても、これからはナスカで沢山のトマトが実るんだから、って…。
「そうだな、お前が言う通りかもしれないな…」
 合成のトマトというのが何のことなのか、それだけでも皆に通じていたら…。
 きちんと意味を把握していたら、同じ怒りでも別の方へと行っただろう。
 合成品のケチャップよりも美味いケチャップ、そいつをナスカのトマトで作ってみせるとか。
 「いつか作るから、それを食べてから文句を言え」と噛み付くだとか。
 そうすりゃ、こじれはしなかったんだ。…対立したって、ライバル意識の塊ってだけで。
 古い世代をいつか見返してやる、と前向きに努力するだけだから。



 合成品よりも美味いナスカのケチャップが出来たかもな、と思い返さずにはいられない。対立の方向が違っていたなら、結果も違っていたのだろうに。
「あそこにヒルマンがいたならな…」
 こじれずに済んでいたかもしれん。あの時、あいつが一緒だったら。
 あいつだったら…、と思い浮かべた博識な友。皆が「教授」と呼んだくらいに。
「ヒルマン?」
 騒ぎの時にはいなかったの?
 初めての収穫をジョミーに渡そうっていう時なんだし、ヒルマンも一緒にいそうなのに…。
 ハーレイたちの方じゃなくって、ルリたちの方に。…みんなヒルマンの教え子だから。
「カリナに子供が生まれるからなあ、準備で忙しかったんだ」
 とうにナスカでの暮らしがメインで、其処はお前の読み通りだが…。
 生憎、あの場にはいなかった。ノルディと二人で調べ物の最中だったか、育児環境を整える方で走り回っていたんだか…。
 もしもヒルマンがゼルの言葉を聞いていたなら、その場で注意しただろう。ゼルに向かって。
 「その言い回しは誤解される」と、「合成品はケチャップだっただろう」とな。
 それだけで空気が変わったのになあ…。「なんだ、トマトじゃなかったのか」と。
「だけど、エラだっていたんでしょ?」
 エラだってピンと来ていた筈だよ、ヒルマンみたいに。「これはマズイ」って。
「それがだな…。エラは、ヒルマンのように柔軟な考え方は持っていなかった」
 ジョミーが自然出産を提案した時も、真っ先に反対したのがエラだ。それは倫理に反する、と。
 そういう考え方なわけだし、ゼルがトマトを不味いと言ったら、同じ方に考えが行っただろう。
 合成品のトマトケチャップがあった、と納得しちまっておしまいだ。
 「あれよりも美味しくないらしい」と、ゼルの肩を持ってしまったわけだな。
 合成品のケチャップを知らない若い世代が、言葉の意味を誤解するかも、とは考えないで。
「そっか…。そうなっちゃうかもね…」
 エラはけっこう頑固だったし、ヒルマンみたいに子供たちと過ごしたわけでもないし…。
 気が付かないままになっちゃいそうだね、合成品のケチャップとトマトの違いに。



 そんな所から亀裂が大きくなっただなんて、とブルーは悲しげな顔でオムライスの残りを綺麗に食べた。「御馳走様」とスプーンも置いて、ケチャップの容器をチラと眺めて…。
「…合成品のケチャップ、ほんの少しの間だけしか無かったのにね…」
 そのケチャップのせいで、とんでもないことになっちゃった。
 若い仲間は知らなかったから。…トマトは船で沢山採れてて、ケチャップも本物だったから。
 前のぼくが目を覚ましていたなら、みんなの誤解に気が付いたのに…。
「だろうな、お前の所にも俺が報告に行っただろうし…」
 合成トマトの件はきちんと皆に説明したのか、と俺に訊いたんだろうな、前のお前は。
「そう。最初はゼルを呼び出して叱るんだろうけど…」
 トマトを投げ捨てたことだけ叱って、それでおしまいだろうけど。
 ゼルがみんなに言った言葉は知らないんだから、合成トマトなんて思いもしないよ。
 でも、対立が酷くなったなら…。
 ナスカの様子も青の間から思念で探り始めるから、誤解にだって気が付くってば。
 合成のトマトなんだと勘違いをして、みんなが怒り始めたことにね。
 前のぼくなら誤解なんだって分かったけれども、ジョミーじゃ、其処まで無理だったよね…。
「…ジョミーが知らなかったからなあ、合成トマトの正体を」
 船に来た時は、普通のケチャップだったんだから。…トマトペーストも本物だったし、気付けと言う方が無理ってモンだ。
 ずっと昔は本当に合成品のトマトがあって、そいつはケチャップやペーストなんかのトマト味。それで料理を作ってたなんて、ジョミーに分かるわけがない。
 いくらソルジャーを継いだとはいえ、あれはソルジャーとして必要な知識じゃないからな。
「…ジョミー、何だと思っていたんだろう?」
 ゼルがナスカのトマトよりマシだ、って言った合成のトマト。
 ジョミーも一緒に聞いていたんだし、若い仲間たちと同じように誤解したのかな…?
「まず間違いなく、そのコースだな。ゼルの悪口で嫌がらせだと」
 まさか本当に合成トマトが存在したとは、ジョミーは全く知らないんだし…。
 俺も教えはしなかったからな、若いヤツらに種明かしをしてはいかんと思って。
 ジョミーが答えを知っていたんじゃ、誰も勉強しやしない。シャングリラの歴史というヤツを。



 教えておけば良かったんだがな…、と後悔しても、もう戻せない時。ゼルの言葉に端を発した、若い世代の合成トマトへの誤解。
 元を辿れば、白い鯨が完成した後、一時しのぎに作られたトマト味をした合成品。トマトの形もしていないかった物で、ケチャップやトマトペーストのこと。トマト風味になるように、と。
「…俺も本当に馬鹿だったよなあ…」
 合成トマトの正体ってヤツを早めにバラしておいたら、派手にこじれはしなかったのに。
 若いヤツらが過去を勉強しないことにしたって、よく考えれば気付けたのにな。
 失敗だった、と広げた両手。「今頃になってぼやいてみたって、とうに手遅れなんだがな」と。
「ナスカも、ナスカで出来たトマトも、とっくに無いしね…」
 ホントに怖いね、誤解って…。合成トマトは、ケチャップとかのことだったのに。
 ケチャップなんだって分かっていたなら、若い仲間も考え方が違っていたと思うよ。当たり前のように船で食べてたケチャップ、それで苦労した時代も昔はあったんだ、ってね。
「まったくだ。…古い世代の苦労を知ったら、ヤツらも変わっていただろう」
 俺はそいつを狙ったわけだが、結果的には大失敗だ。学ぶどころか、対立が酷くなる一方で。
 挙句にヤツらがナスカに残って、逃げようとしなかったモンだから…。
 そうなったせいで、前のお前を失くしちまう羽目に陥ったのかと思うとな…。
「全部トマトのせいだ、って?」
 ナスカで大勢の仲間が死んじゃったのも、前のぼくがメギドに行ったのも。
「そうなるのかもしれないなあ…。元は一個のトマトだった、と」
 ゼルが齧って、臭いと投げ捨てちまったトマト。
 あれが全ての元凶かもなあ、トマトに罪は無いんだが…。
 ついでに合成トマトの方にも、罪は全く無いってな。あれは大いに役立ったから。
 白い鯨で充分な量のトマトが採れ始めるまで、あれで色々な料理を作れた。合成ケチャップと、合成トマトペーストと。
 あれが無かったら、もっと不満が出ていたろう。トマトベースの料理はけっこう多いんだから。
 しかしだな…。



 合成トマトが一人歩きをしちまった、と眺めたケチャップの容器。
 遠い昔にゼルが言い放った、「合成のトマトの方がマシだ」という言葉。合成のトマトの正体は丸ごとのトマトではなくて、ケチャップやトマトペーストだったのに。
 若い仲間がその正体に気付いてくれたら、全ては変わっていた筈なのに…。
「…俺は合成ケチャップのせいで、前のお前を失くしたのか…?」
 そうでなきゃ、たった一個のトマト。ゼルに合成トマトと言わせた、あのトマトのせいで。
 どちらにも罪は無いんだがな、と零れた溜息。「ゼルもそこまで思っちゃいまい」と。
 あの言葉を口にした時には。「合成のトマトの方がマシだ」と詰った時には、ゼルにも分かっていなかったろう。それがどういう結果を招くか、どんな悲劇を引き寄せるのか。
「いいじゃない、トマトでもケチャップでも」
 原因がどっちだったにしたって、ぼくはハーレイの所に帰って来たよ?
 それにケチャップで絵だって描けるよ、さっきウサギを描いていたでしょ?
 オムライスにね、と微笑むブルーの皿の上には、もうスプーンだけ。ケチャップの絵はすっかり食べてしまって、何処にも残っていないから。
「ウサギの絵なあ…。上手く描けてはいなかったがな」
 あの絵の何処がウサギなんだか、と苦笑するしかない今のブルーの腕前。前のブルーは、上手に色々描いていたのに。…食堂でも、それに青の間でも。
「前のぼくは上手だったんだけど…」
 今よりもずっと上手に描けていたのに、あの腕、何処に行っちゃったのかな…?
「年季が違うというヤツだ。前のお前は、何年ケチャップで絵を描いたんだか…」
 うんと修行を積んでいたしな、お前が敵うわけがない。十四年しか生きていないんだから。
 そういや、ナスカでも描いたか、アレ?
 前のお前が目覚めた後だな、飯は食ってたと聞いてるんだが…。
「えーっと…?」
 ケチャップで絵を描いてたのか、っていうことだよね?
 朝のオムレツとか、ケチャップで絵を描けそうな料理が出て来た時に…?



 どうだったろう、と記憶を手繰り始めたブルーの瞳に滲んだ涙。微かに光った涙の粒は、直ぐに盛り上がって目から零れた。もう留まっていられなくて、頬を伝ってポロリと一粒。
「おい、どうした?」
 いきなり泣いちまうなんて、とブルーの顔を覗き込んだら、また溢れ出した真珠の涙。
「…書いたんだよ…。絵じゃなくて、字を…」
 前のぼく、最後にケチャップで、ハーレイの名前…。
「なんだって!?」
 俺の名前か、と問い返したら、ポロポロと零れ続ける涙。前のブルーが泣いているかのように。
 小さなブルーは溢れる涙を拭おうともせずに、涙交じりの声で続けた。
「メギドに行った日の朝御飯の時に、オムレツに書いていたんだよ…」
 もうハーレイと朝御飯は食べられなかったから…。ハーレイ、忙しかったから。
 こんなに上手に書けたよね、って一人で眺めて、それからオムレツ、食べたんだよ…。
 ハーレイのことが好きだったよ、って…。名前もちゃんと綺麗に書ける、って。
「そうだったのか…」
 すまん、朝飯には行くべきだった。…前のソルジャーでも、きちんと朝の報告に。
 お前と朝飯を食うべきだったな、その時間ならあったんだ。俺だって飯は食うんだから。
「…ジョミーの所に行っていたんじゃないの?」
 キャプテンはソルジャーと朝御飯を食べるものだったでしょ、とブルーは言うのだけれど。
「その習慣はもう無かったんだ。…ナスカの頃には、とっくにな」
 ジョミーがソルジャーになった後にも、続けるべきだという声は多かったんだがな…。
 肝心のジョミーが嫌がっちまって、それっきりだった。
 つまり朝飯を食うためだったら、お前の所に行けたわけだな、堂々と。
 目覚めたばかりの前のソルジャーに、色々なことを報告しに行くんだから。…前と同じに。
 畜生、どうしてそいつを思い付かなかったんだか…。
 お前と二人で過ごせた上に、ケチャップで書いてくれたっていう俺の名前も見られたのにな…。



 俺としたことが、と前の自分の迂闊さがとても悔しいけれど。
 オムレツにケチャップで字を書いていた前のブルーの心を思うと、悲しくてたまらないけれど。
「…ハーレイ、そんな顔をしないで」
 ごめんね、とブルーがグイと拭った涙。「もう泣かないよ」と健気に笑んで。
「泣かないって…。しかし、お前は…」
 前のお前は、朝飯の時まで独りぼっちで…。俺の名前をオムレツに書くくらいしか…。
 せっかく上手に書いてみたって、俺はお前の側にいなくて…。
 俺のせいだ、と詫びたけれども、ブルーは「ううん」と首を横に振った。
「ハーレイのせいなんかじゃないよ。…トマトのせいでもないし、合成トマトの方だって…」
 ぼくが勝手に泣いちゃっただけで、それは前のぼくのことを思い出したから…。
 オムレツにハーレイの名前を書いていたのが、ついさっきみたいな気がしちゃったから…。
 でもね、ぼくなら大丈夫。
 今はハーレイと一緒なんだし、幸せだから。こうして御飯も食べられるから…。
 オムライス、すっかり食べちゃったけど。…お皿、空っぽになっちゃったけれど。
 ぼくは平気、とブルーの涙は止まって笑顔に変わったから。
「そうだな、今度はこれから修行なんだな、ケチャップの絵は」
 今のお前はウサギも描けない有様なんだし、前のお前の腕前までは遠そうだ。
 頑張って腕を上げることだな、前のお前に負けないように。
 コツコツと努力の積み重ねだぞ、とケチャップの容器を指差した。「練習あるのみ」と、日々の努力が大切だから、と。
「努力もいいけど…。またハーレイにコツを教わるよ」
 今のぼくだと、朝御飯の時にハーレイの名前は書けないから…。
 そんなの書いたら、パパやママが変に思うでしょ?
 だから結婚してから修行、とブルーが浮かべた笑み。「今はまだ無理」と。
「ふうむ…。そういうことなら、いつかケーキ作りも一緒にするか?」
 今のお前はデコレーションは下手くそらしいし、俺が一から教えてやるから。
「もちろんだよ!」
 ハーレイと一緒にケーキを作るの、やりたいに決まっているじゃない…!



 でも、その前に毎朝のケチャップからだね、とブルーは幸せそうだから。
 「結婚したら、朝はオムレツにハーレイの名前なんだよ」と、ケチャップで書く気満々だから。
(…うん、今の俺たちには、ケチャップはだな…)
 前と同じに絵を描いたりして楽しめるもの。オムレツやオムライスに、ウサギや文字を。
 赤いケチャップで好きに描けるし、ブルーにコツも教えてやれる。
 「こうだぞ」とケチャップの容器を手にして、手本を描いて。もっと上手になりたいブルーに、ケーキのデコレーションの技も伝授して。
(前のあいつより、ずっと上手になれるだろうなあ…)
 綺麗にケーキを飾れるようになったなら。ケチャップの絵よりも難しい技を、ブルーがマスターしたならば。
 きっとそうなるに決まっているから、合成トマトの悲しい誤解は、もう遠い過去でいいだろう。
 前の自分が失くしたブルーは、ちゃんと帰って来てくれたから。
 今度は地球で育ったトマトのケチャップ、それで二人で好きなように絵を描けるのだから…。




            合成品のトマト・了


※ナスカで採れたトマトにゼルがぶつけた、「合成のトマトの方がマシ」という酷い言葉。
 若い世代との対立を悪化させたそれは、誤解が原因。合成したのはケチャップだったのです。
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