シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
羊の夢
(羊の毛刈り…)
そんなのあるんだ、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
ふわふわ、モコモコの毛皮の羊。その毛を刈って使うことは知っていたけれど…。
(一年に一回か、二回…)
人間が毛を刈ってやる。バリカンや手バサミなどを使って、すっきりと。毛を刈った後の羊は、丸裸のような身体になってしまうから。毛皮を持ってはいないものだから、季節を選んで。
(風邪を引いちゃったら、大変だものね?)
雪が降るような寒い季節に、丸裸では風邪を引くだろう。だから毛刈りは春や秋のもの。沢山の羊たちの毛を順番に刈ってゆくのが、牧場の人たち。次はこの羊、と。
それを体験させてくれる牧場があるらしい。予約が必要な所もあれば、その季節に行けば誰でも出来る牧場だって。親子で挑戦して下さい、と大人用と子供用の作業服がある牧場も。
一人で一頭刈るのだったら、一時間半くらいと書かれているけれど。
(でも、下手くそ…)
毛刈りをするのは、素人だから。羊の毛なんか刈ったこともない、初心者ばかり。
慣れた人が刈ったら、繋がった一枚の毛皮が出来上がるのに、そうはいかない挑戦者たち。毛の塊が幾つもフワフワ、転がることになるという。羊が着ていた毛皮の分だけ。
けれど毛を刈る前と後では、別の生き物のようになる羊。モコモコだった身体がほっそり、顔も尖って見えてしまって。
なんだか楽しそうではある。羊の毛を刈ってみるということ。
(ハーレイだったら上手かな?)
身体が大きいから、余裕たっぷりで刈ってゆけそう。手の届く範囲がうんと広いし、羊の方でも大人しくしそう。「こんな相手じゃ、逃げられないよ」と。
(いつか行くのもいいかもね?)
ハーレイと二人で、羊の毛刈り。親子用の作業服とは違って、大きいサイズと小さめサイズで。
いつかデートに行ける日が来たら、二人で暮らし始めたら。
毛刈りをさせて貰える季節に、ハーレイの車で出掛ける牧場。刈った毛をお土産に貰える牧場もあるというから、其処が楽しいかもしれない。毛の使い道を、すぐには思い付かないけれど。
ちょっといいよね、と思った羊の毛刈り。牧場だったら、美味しい物も食べられそう。
(覚えておこうっと…)
いつかハーレイと行きたいから、と考えながら戻った二階の部屋。おやつを美味しく食べ終えた後で、キッチンの母に空のカップやお皿を返して。
勉強机の前に座って、さっきの記事を思い出す。毛刈りの他にも羊のことが書かれていた。
とても昔から、人間に飼われていた羊。フワフワの毛が沢山採れるし、肉にもなるし、おまけに乳でチーズも作れる。なんとも便利で、役に立つ家畜。
ただ、人間が飼育している羊は、改良されてしまっているから、毛を刈らないと…。
(生きていけない、って…)
毛皮が重くなりすぎて。動き辛いし、伸びすぎた毛が原因で病気になることもある。絡み合った毛は、勝手に抜け落ちてくれないから。人間が刈ることを前提に改良されているから。
牧場にいるのは、そういう羊。其処から勝手に逃げた羊は、とんでもないことになるという。
誰も毛刈りをしてくれないから、毛の塊のようになってしまって。保護されて毛を刈って貰えることになっても、もう簡単には刈れない毛。プロ中のプロを呼んでこないと。
(毛が採れて、美味しいチーズも作れて…)
その上、肉にもなる羊。もっとも羊の乳というのは、牛乳のように飲むには向かない味らしい。加工してチーズにするのが一番、そうすればグンと美味しくなる乳。
フワフワの毛とチーズと、それから肉と。牛よりも素敵に思える羊。牛だと乳と肉だけだから。
(…なんで、シャングリラで飼わなかったわけ?)
とても便利な動物なのに、と思った羊。
船の仲間たちの衣服を賄えるだけの数は無理だとしたって、何頭か飼えば良さそうなもの。皆に行き渡る分が無くても、順番待ちにすればいい。希望者を募って、羊の毛から作った手袋とか。
子供たちの教材にも、きっとピッタリの羊。さっき新聞で読んだみたいに、毛刈りの体験。
(植物の綿を育てていたんだから…)
綿の実から生まれる、天然の綿。植物が作り出す天然の繊維。それが採れたら、糸紡ぎまで手でしていたほど。遠い昔の紡ぎ車を、ちゃんと再現して作って。
あれはヒルマンの提案だったし、羊の名前も挙がりそう。「教材にいいと思うんだがね?」と。羊を何頭か飼っていたなら、子供たちだって喜ぶから、と。
けれどシャングリラにモコモコの羊はいなかった。白い鯨で飼われていたのは、牛や鶏といった動物。毛と肉と乳が役立つ羊は、ただの一頭もいなかった船。
(羊も飼えば良かったのに…)
どうして飼わなかったのだろう。大人しい羊は、凶暴な動物とは違うのに。子供たちが毛刈りをしに出掛けたって、蹴ったり噛んだりはしないだろうに。
それなのに船にいなかった羊。白いシャングリラなら充分に飼えた筈だけど、と不思議に思っていたら聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、訊くことにした。
テーブルを挟んで向かい合わせで、まずは毛刈りの話から。いつか二人で行きたい牧場。
「あのね、ハーレイ…。羊の毛刈りをしたことがある?」
牧場で飼ってる、モコモコの羊。毛刈りの季節に牧場に行けば、刈らせて貰えるらしいけど…。
小さな子供も出来るみたい、と持ち出した話題。「ハーレイもやったことがある?」と。
「いや、無いが…。話には聞いてるんだがな」
生憎と俺は体験してない。牧場で羊を見たことはあるが、それで終わりだ。毛は刈っていない。
そういう季節じゃなかったかもな、という答え。羊が風邪を引く季節ならば、毛刈りは無理。
「ハーレイ、やっていないんだ…。面白そうだよ、新聞に載っていたんだけれど」
いつかハーレイと行ってみたいな、羊の毛刈りが出来る牧場。お土産に毛を貰える所がいいよ。毛の使い道は、まだ考えてはいないんだけど…。
「未来のデートの約束か。羊の毛刈りなあ…。確かにユニークではあるが…」
お前、自分で刈れるのか、と尋ねられた。「羊はデカイぞ?」と。小さく見えても、側に行けば大きいのが羊。人間が背中に乗れるくらいに。
「出来なかったら替わって貰うよ、ハーレイに」
一頭刈るのに、一時間半くらいなんだって…。疲れちゃった時は、ハーレイ、お願い。
駄目かな、と強請るように見上げた恋人の顔。「ぼくが途中で疲れちゃったら、替わって」と。
「お前のことだし、そんなトコだとは思ったが…。いいだろう、連れて行ってやる」
二人で一頭刈ることにするか、俺がお前の分まで刈ることになって一人で二頭分の毛刈りか…。
俺はどっちでもかまわないがな、お前がやってみたいのならば。
お安い御用だ、と引き受けてくれた、頼もしいハーレイ。牧場までのドライブだって。
約束できた未来の計画。ハーレイと羊の毛刈りに行くこと。挑戦できる季節になったら。毛皮を刈られた後の羊が、風邪を引かない季節が来たら。
「ありがとう! いつか行こうね、羊の牧場。うんと楽しみにしてるから」
でもね…。不思議なんだよ、羊のこと。今じゃなくって、前のぼくたちの頃なんだけど…。
羊は毛が採れて、肉にもなるでしょ。新聞にはチーズも作れるんだって書いてあったよ、牛乳のようには飲めないけれども、乳からチーズ。
牛だと、お肉とミルクだけ…。皮も使えるけど、羊みたいに何回も毛は採れないし…。
羊、とっても役に立つのに、どうしてシャングリラにいなかったのかな…?
ヒルマンが言い出しそうなのに…。「この船で羊を飼いたいのだがね」って、会議の時に。
だってそうでしょ、子供たちの教材にピッタリだよ、羊。
植物の綿を育てたみたいに、羊を飼って毛刈りをしたら、フカフカの毛が採れるから…。それを紡げば糸が出来るもの、綿と同じで。
紡ぎ車もあったんだから、と今のハーレイにぶつけた疑問。白い鯨にモコモコの羊がいなかった理由は、何故なのか。船で飼ったら、きっと素敵な教材になっていたのだろうに、と。
そうしたら…。
「お前はいつでもそう言うな。…今も昔も、羊となったら」
「え?」
どういう意味、とキョトンと見開いた瞳。前にハーレイと羊の話をしたろうか。シャングリラに羊がいなかったことか、あるいは役に立つという方なのか。まるで覚えていないけれども。
(…ハーレイと羊の話なんか、した?)
毛刈りの記事は今日が初めて、牧場で体験できることすら知らなかった。羊の乳がチーズ作りに向いていたって、飲むには不向きだということも。他にどういう羊の話をしたのだろう…?
「間違えるなよ、今のお前じゃない。前のお前だ、ソルジャー・ブルーだった頃だな」
前のお前も言い出したんだ。羊がいい、と。…覚えていないか?
今日と全く同じに羊、と口にされても分からない。前の自分と羊の関係が、欠片さえも。
「羊って…。それって、いつ?」
前のぼくだよね、羊がいいって言ったわけ…?
毛刈りをしようとか、教材にいいとか、今とおんなじことを言ったの…?
白いシャングリラには、いなかったモコモコの毛をした羊。何故いなかったのか、ハーレイなら知っていそうだと思って訊いたのに。キャプテンの記憶をアテにしたのに、貰った返事は予想外。
前の自分が羊の話をしたと言われても、本当に欠片も思い出せない。
「どうやら忘れちまったようだな、羊を飼い損なったから。…お前が提案した羊なのに」
悔しさのあまり忘れちまったか、仕方ないからと諦めてそれっきりだったのか…。
前のお前なら諦めた方だな、悔しがるようなタイプじゃなかったから。物分かりが良すぎて。
お前が羊だと言い出したのは、牛たちの飼育が軌道に乗ってからだった。新鮮なミルクが充分に採れて、バターもチーズも毎朝、食堂で出るようになって…。
そんな頃だな、会議の席でこう言ったんだ。「次は羊を飼わないかい?」と。
俺やヒルマンたちが揃う会議だ、と指摘されたら蘇った記憶。前の自分と、船で羊を飼う話。
「思い出した…!」
ホントだ、今と全く同じ…。さっきハーレイが言った通りに、今のぼくと同じ考えだったよ。
前のぼくは新聞を読んでたわけじゃないけど…。自分で調べていたんだけれど…。
羊はとっても役に立つこと、と遠く遥かな時の彼方に思いを馳せた。前の自分が生きた時代に。
白いシャングリラのライブラリー。其処で目にした、羊のデータ。
(…羊って、どんな動物だろう、って…)
元々、聖書で気になっていた。前の自分が生きた頃にも、唯一、残っていた神が書かれた聖書。本を読んでいても出てくるのが聖書、どういうものかと読んでもみた。神の言葉や預言などを。
その聖書の中に繰り返し出て来た、神様の羊。
クリスマスに馬小屋で生まれた神様、その神様を子羊に例えているのが聖書の言葉。人間たちを救うためにと、神が遣わした救い主。
人間の姿になった神様は、育った後に十字架の上で殺された。罪深い人間たちに代わって、その罪を全て贖うために。自らの身体で、自らの血と、かけがえのない命とで。
神様は後に復活して天に昇ったけれども、人間のために犠牲になった神様だから、生贄の子羊の姿で出てくる。聖書の中に。「屠られたと見える子羊」などという言い回しで。
つまり、神様は羊の姿。そして人間も「迷える子羊」。
神様は牧者で、沢山の羊を飼っている。人間という多くの羊たちを。一頭でも迷子になった羊がいるなら、神様は何処までも探しにゆく。姿が見えなくなった羊を、無事に見付け出すまで。
神様も人間も、羊に例えられるのが聖書。そして神様が馬小屋で生まれたことを、神様の使いが知らせにゆくのは羊飼いの所。夜に羊の番をしていた者たちが出会った、神様を称える天使たち。
人間たちを代表して知らせを貰う人たちも羊を飼っていたのだし、きっと羊という動物は…。
(とても大切な動物だったんだろう、って…)
そう思ったから調べたデータ。姿は写真や絵などで知っていたけれど、もっと詳しく、と。
羊はどういう生き物なのか。人間とどんな具合に関わり、生活にどう役立ったのか。遠い昔から飼われていたのは、もう間違いない生き物だから。聖書の中にも、羊飼いが登場するほどに。
興味津々で調べてみたら、大いに役立ちそうなのが羊。
一頭の羊から何度も毛皮が採れる。纏っている毛を刈ってやったら、また次の毛が生えて来て。
肉にもなるし、雌の羊なら乳も搾れる。飲むには不向きな味らしいけれど、チーズにしたなら、それは美味しいものが出来るとあったから…。
(みんなの服を作るだけの毛は無理だけど…)
それだけの羊を飼うとなったら大変だけれど、教材用なら何頭かいれば充分だろう。子供たちが毛を刈ることが出来て、その毛で色々なものを作れる羊。きっと素敵だろう生き物。
(フワフワの毛を刈って、加工して…)
チーズ作りも、子供たちの役目にするのもいい。船の食堂で供するだけの量は無理だし、チーズ作りをした子供たちが分けて食べるのが一番。余るようなら、希望者を募ってクジ引きで配る。
(そんな風にしたら、誰も文句は言わないし…)
教材用にと飼う羊でも、世話をしてくれる仲間も現れる筈。子供好きの仲間たちも多いし、動物好きの仲間たちだって。
そう考えたから、会議の席で提案した。次は羊を飼わないか、と。
「羊じゃと?」
なんでまた、とゼルが最初に声を上げたから、「いいと思うんだけどね?」と微笑んだ。
「ヒルマンが言い出さないのが不思議なくらいに、羊は素晴らしそうだけど…」
このシャングリラで飼ってみるには、似合いの生き物だと思う。
自給自足で生きてゆくのが、今のこの船の方針だろう?
人類の船から物資を奪う時代は終わって、船で全てを賄う時代。牛が飼えるなら、羊も飼える。
そして羊は、牛よりも素敵な所があるように思うものだから…。
子供たちの教材に飼ってみるにはピッタリだ、と会議に出ていた皆に話した。前のハーレイと、長老と呼ばれ始めていた四人とに。
羊がいたなら、毛刈りをしたり、刈った毛で色々なものを作ってみたり。繊維を針などで絡めてやったら、塊になってフェルトが出来る。紡いでやったら毛糸が作れる。
フェルトも毛糸も、其処から加工してゆけるもの。色々なものを作り出せるし、牛の毛などとは全く違う。鶏たちが纏う羽根とも。
羊の乳は飲めないけれども、代わりに美味しいチーズが出来る。牛たちのように肉も採れるし、如何にも役に立ちそうな羊。何度も毛皮を刈れるだけでも、もう充分に。
「とても素敵だと思うんだよ。飼ってみれば、きっと」
毛皮と肉とチーズだからね、と羊の利用方法を説いた。牛よりもずっと幅が広い、と。
「なるほどねえ…。面白いかもね、あたしは賛成だ」
乗り気になってくれたのがブラウで、ゼルも賛成した。「わしもじゃ」と髭を引っ張りながら。
「なかなか良さそうな生き物じゃて。毛皮に肉にチーズとなれば」
牛からは毛は採れんからのう、皮だけで。それも一回限りで終わりじゃ、皮は一頭の牛に一枚と決まっておるんじゃから。しかし羊は、毛皮を何回採っても問題ないんじゃし…。
どうして今まで羊を飼おうと思い付かんのじゃ、とゼルはヒルマンを睨み付けた。船で飼うには丁度いい羊、それを思い付きさえしないとは、それでもお前は「教授」なのかと。
ヒルマンの渾名は「教授」で通っていたものだから。…博識なせいで、誰からともなく呼ばれた名前。そういう渾名を持っていながら、羊を思い付かないとは、とゼルが責めたのだけれど。
「…羊なら、私も考えてみたよ。とうの昔に、エラと二人で」
そうだったね、とヒルマンはエラに同意を求めた。「羊の飼育も、何度か検討した筈だ」と。
「ええ。…ソルジャーが仰る通りの理由で、役立ちそうだと思ったのですが…」
ヒルマンと調べてゆけばゆくほど、この船には向かない動物なのです。羊というのは。
羊は群れたがる性質があって、群れが大きいほど安心するとか。…小さな群れでいるよりも。
とてもストレスに弱い生き物で、そのせいで群れを作るのですよ。
群れていないとパニックに陥ることもあるほど、羊は仲間といたがるそうです。
一頭や二頭で飼っていたなら、怯えて病気になるくらいに…、というのがエラの説明だった。
羊の健康を考えるならば、群れを作れるだけの数を集めて飼わねばならない。しかも群れの形で行動するから、充分に広い放牧用のスペースを確保しなければ、とも。
シャングリラの中で羊を飼おうと言うなら、群れを形成できるだけの数で。その上、その群れが草を食めるだけの場所が要る。草は人工飼料にしたって、牛のような飼育方法は無理。ストレスで病気になるのを防ぐためには、群れで暮らせる広大な場所が要るのだから。
「今、エラが言った通りだよ。教材用にと、少しだけ飼うのは難しいのが羊でね…」
かと言って、本格的に飼うとなったら、今度は飼育が大変だ。群れでしか飼えない動物だから。
それだけの手間暇をかけてやる価値が、あるかどうかとなったらだね…。
どうなんだね、とヒルマンに言われなくとも分かる。肉なら牛と鶏がいるし、チーズは牛の乳で充分。バターもチーズも足りているから、羊の乳まで無くてもいい。
羊の毛側も、船では特に必要ではない。繊維は合成品で間に合っているし、ストレスに弱い羊を育てるメリットはまるで無い状態。毛刈りや紡ぐ手間がかかって、却って負担が増すだけの船。
ヒルマンの言葉を継ぐような形で、エラまでがこう口にした。
「そういった理由で、羊は飼わないことにしようと決めたのですが…。この船では」
子供たちの教材にする程度の数の羊では、とても上手くはゆきません。
遠い昔には、牧場から逃げて暮らす羊もいたようですが…。森の中などで、一頭だけで。
けれど、そういう強い羊は稀なのです。ペットにしようと一頭飼っても、弱ってしまうのが殆どだったそうですから。…群れを作れる仲間がいなくて、心細くて。
そんな厄介な羊を飼おうということでしたら、羽根枕用のグースも飼いたいくらいです。
反対されて諦めましたが…、とエラが持ち出したグースの話。羽根枕などの材料に使う、水鳥の羽毛が採れるのがグース。
(…ソルジャー専用の羽根枕だとか、羽根布団だとか…)
高級な寝具が欲しかったエラ。そのためにグースを飼いたがったけれど、水鳥の飼育には必要な池や、池から上がった時に休憩するスペースなど。
鶏とは比べ物にならない手間がかかるのがグースで、飼わないと決まったのだった。
(グースなんかと一緒にされたら…)
羊を飼うのは夢物語だというのが分かる。役立つようでも、現実的ではない羊。
どうやらシャングリラには向かない生き物、群れを作るだとか、群れで行動したがるだとか。
飼えない理由を並べられたら、前の自分も諦めざるを得なかった。羊を飼うということを。
先に考えていたヒルマンとエラが、「無理だ」と結論付けたのなら。博識な二人が熟慮した末に出した結論、それが「飼わない」ことだったなら。
遠く遥かな時の彼方で、とても残念に思ったこと。せっかく素敵な羊を見付け出したのに、白いシャングリラでは飼えないなんて、と。
フカフカの毛皮とチーズと肉を与えてくれる、役に立つ家畜。牛よりもいいと考えたのに。
「…そうだったっけ…。前のぼく、ホントにおんなじことを言ってた…」
シャングリラで飼うにはピッタリだよ、って会議でみんなに言ったのに…。
ゼルもブラウも賛成だったのに、ヒルマンとエラに「羊は無理だ」って言われておしまい…。
前のハーレイだって、何も言ってはいなかったけれど、ヒルマンとエラの味方なんでしょ?
シャングリラのキャプテンだったんだものね、と視線を向けたら、ハーレイは否定しなかった。
「そんなトコだな、キャプテンである以上はな…?」
より良い船を作ってゆくのが、キャプテンの仕事なんだから…。羊を飼ったら船がどうなるか、其処が一番大切なことだ。いい船になるのか、その逆なのか。
前のお前も直ぐに羊を諦めたんだし、どっちだったかは分かるよな。羊がいるといい船なのか、困った船になっちまうのか。…前のお前は、ソルジャー・ブルーだったんだから。
羊がいる船はどうなんだ、と尋ねられたから、肩を落として返した返事。「困った船だよ」と。
「…羊の群れを飼ってしまったら、専用のスペースを作らなきゃ…」
船で一番大きな公園、羊にあげてしまうとか…。空きスペースを全部潰して、羊用にするとか。
それでもきっと足りないだろうね、群れになって移動していくんだから…。
今日はこっちの公園が良くて、明日はあっちに行きたいよ、って…。
船が羊に占領されちゃう、とチビの自分でも分かること。仲間たちの憩いの場所だった船で一番広い公園、其処を奪ってしまうのが羊。モコモコと群れて、芝生も端から食べてしまって。
前の自分も、そう思ったから諦めた。仲間たちのために作った公園、それを羊には譲れない。
「キャプテンの俺も、シャングリラを困った船にはしたくなかったからなあ…」
羊の件では、ヒルマンとエラから何も聞いてはいなかったんだが…。
俺に相談するまでもなく、「無理だ」と答えを出したんだろう。あの二人だけで。
なのに、お前が持ち出しちまった。データベースで羊の話を見付けて、嬉しくなって。
毛皮にチーズに肉となったら、確かにいいことずくめなんだが…。
それよりも前に、羊の性質が問題だったというわけだ。少しの数では飼えないってトコが。
俺は黙っているしかないだろ、ただでもガッカリしているお前に反対したくなければ。
黙っているのが一番だよな、と今のハーレイが話してくれた昔のこと。白いシャングリラで羊の話を持ち出した時に、前のハーレイが守った沈黙の意味。反対でもなく、賛成でもなく。
キャプテンの立場では、とても賛成できない「船で羊を飼う」ということ。
けれども、それを口にしたなら、飼いたがった前の自分の心を傷つける。「ハーレイもだ」と。反対する理由が分かっていたって、キャプテンとしては正しいと直ぐに気が付いたって。
「…ハーレイ、黙っていてくれたんだ…。前のぼくのために」
羊を飼うのは賛成できません、って言ったりしないで、黙っていただけ…。前のぼくがガッカリしちゃっていたから、もっとガッカリさせないように。
ありがとう、とペコリと頭を下げた。あの日の前の自分の代わりに。
もしもハーレイまでが「駄目です」と口を揃えていたなら、本当に悲しかっただろうから。
羊は無理だと、諦めるのが正しい道だと分かってはいても、会議室から出てゆく時には、悲しい気持ちで胸が一杯だったろうから。
「礼を言われるほどのことじゃないんだが…。俺はお前を守りたかっただけだ」
お前の肩を持ってやれないなら、俺に出来ることは「何も言わない」ことだけだろうが。
あそこで俺がヒルマンとエラに賛成したなら、お前の心は傷ついちまう。
いくらソルジャーでも、中身はお前で、ちゃんと心があるんだから…。素敵な思い付きだと胸を弾ませて、羊を飼おうと言ったんだから。
まさか駄目だと言われるだなんて、お前、思ってもいなかっただろう…?
違うのか、と向けられた穏やかな笑み。「羊、飼えると思っていたんだろ?」と。
「うん…。データベースで調べた時には、其処まで見てはいなかったから…」
ずっと昔から人間が飼ってた家畜の一つで、うんと歴史が長い動物。
だから簡単に飼えそうだよね、って思い込んでて、どういう風に飼育するかは見てなくて…。
子供を産ませて増やせる程度の羊がいればいいんだよね、って…。
そう思ってた、と打ち明けた前の自分の思い違い。羊にまるで詳しくなかった前の自分。
「仕方ないよな、お前は家畜のプロじゃないから」
家畜飼育部の連中だったら、そっちの方まで調べなければと思うんだろうが…。
ヒルマンとエラも、飼育を検討していたからこそ、其処まで辿り着いたわけだが…。
ソルジャーだったお前の仕事は、それじゃない。調べなかったのも無理はないよな、羊の性質。
素人だったら誰でもそうなる、と慰めてくれた今のハーレイ。「ゼルとブラウもだ」と。
彼らも羊に賛成だったし、羊の飼育が難しいことを知らなかったら船で飼いたくもなる、と。
「前の俺だって、キャプテンという立場でなければ、あそこで賛成していただろう」
良さそうじゃないか、と思っていたのは間違いない。試しに少し飼ってみるのも悪くない、と。
しかし迂闊なことは言えんし、話の流れが定まってから…、と様子を見てたら、ああなった。
俺も反対するしかないのが羊で、飼う方向へと行きそうだったら止めるしかない流れにな。
幸い、そうはならなかったし、俺は黙っていることにした。…お前をガッカリさせないために。
お前は羊をシャングリラで飼いたかったのにな…、と今のハーレイは味方してくれる。あの船で羊を飼おうと思って、生まれ変わっても同じことを思ったソルジャー・ブルーに。
「ハーレイ、最初は賛成だったんだね。羊がどういう生き物なのか、知らずに聞いていた時は」
だけどシャングリラじゃ無理だったんだよ、羊を飼うっていうことは。
モコモコの群れで暮らしていないと、羊は生きてゆけないから…。少しだけでは飼えないから。
でも、本当に羊はストレスに弱い生き物なの…?
大勢の仲間と群れていないと駄目なくらいに、寂しがり屋で弱虫なの…?
逃げ出して森の中で暮らした羊もいるんだよね、とエラの言葉を思い出す。それに新聞で読んだことも。人間が毛を刈ってやらないと、大変なことになる羊。毛の塊になってしまって。
そういう羊が発見されたら、プロの中のプロが毛を刈るしかない。すっかり絡んでしまった毛の塊には、並みの人では歯が立たないから。刈ろうとバリカンを手にしてみても。
今も話題になるほどなのだし、逃げる羊もいるのだろう。群れを離れて一頭だけで。仲間の所に帰りもしないで、伸び放題になった重い毛を身体に抱えて、逞しく生き抜く強い羊が。
「どうなんだか…。今の俺も前の俺と同じで、羊には詳しくないんだが…」
しかしだ、羊を飼ってる所じゃ、何処でも群れになってるぞ。バラバラじゃなくて。
この地域だと、でっかい群れで飼ってる所は少ないが…。
牧場の柵で囲った範囲で放牧してるし、そんなに大きな群れを作れはしないんだが…。同じ羊を飼うにしたって、昔から羊に馴染んでいた地域の文化を復活させた所だと、事情が違うようだな。
牧羊犬っていうのを、お前も聞いたことくらいはあるだろう?
人間の手伝いをする専用の犬を飼うほどなんだし、羊の群れも桁違いだ。人間様の力だけでは、とても面倒を見切れない数。それだけの羊の群れを引き連れて、あちこち移動して行くんだから。
牧羊犬は名前通りに、羊の群れを纏める手伝いをする犬たち。羊たちが群れをはぐれないよう、好きな方へ行ってしまわないよう、吠えたり走り回ったりして大忙し。
そんな犬たちを使うような地域に行ったら、それは大きな羊の群れ。この地域の牧場で見られる群れとは、まるで違った羊の数。数え切れないくらいの羊。
道路をゆくのも羊が優先、彼らが道を渡り始めたら、車は止まって通過を待つ。モコモコの羊が次から次へと渡ってゆくのを、モコモコの群れが通り過ぎるのを。
「そんなに大きな群れなんだ…。ちょっと想像がつかないけれど」
道路をいつまでも塞いでいるほど、次々に羊が出てくるなんて。きっと目の前、真っ白だよね。
無理に車で通ろうとしたら、羊の海に捕まっちゃうかな…?
前も後ろも羊だらけで…、と尋ねてみたら、「そうらしいぞ?」と笑うハーレイ。無理やり車を進めたら最後、本当に羊の海の中。前も後ろも、横も羊で埋まってしまって。
「車なんかは岩くらいにしか見えていないんだろうな。避けて通ればいいだろう、と」
そして本当に巻き込まれるわけで、身動き出来なくなっちまうのが車と中の人間様だ。出たいと思ってドアを開けようにも、次から次へと羊がやって来るんだから。
群れているのが好きだからこそ、そうなるんだろうな。邪魔な車が道路にあっても、先に行った仲間と一緒に行きたいもんだから。…ちょっと止まって待とうとは思わないわけだ。
そういや、マザー牧場の羊か…。まさにそうだな、羊の群れは。
大きな群れになればなるほど、マザー牧場って感じだよなあ…。上手いことを言う。
きっと本物の羊の群れなんか知らなかっただろうに、とハーレイが感心している言葉。いったい何を指しているのか、誰が語った言葉なのか。
「なに、それ?」
マザー牧場の羊っていうのは何なの、何処の牧場?
ぼくは聞いたこともないけれど…、と首を傾げたマザー牧場という名前。其処の羊は、他の羊と違うのだろうか。群れているなら、その性質は普通の羊と同じに思えるのだけれど。
「知らないか? マザー牧場の羊って言葉」
シロエさ、前の俺たちと同じ時代に生きてたセキ・レイ・シロエ。
あのシロエがそう言ったんだ。
E-1077にいた他の候補生たちのことを、マザー牧場の羊だとな。
初めて耳にした言葉。「マザー牧場の羊」と口にしたのがシロエだったら、マザーが何かは直ぐ分かる。シロエが嫌ったマザー・イライザのことだろうと。
「…それ、有名な言葉なの?」
マザー牧場の羊って…。マザーはマザー・イライザなんでしょ、候補生たちが羊なんだ…?
群れだったの、と訊いてみた。ステーションでは個室で暮らしていた筈なのに、群れを作るのが不思議だから。どうやって群れになっていたのか、謎だから。
「本物の群れってわけじゃない。シロエが皮肉を言っていただけだ」
羊の群れみたいに、マザー・イライザに飼い慣らされて従ってる、と。大人しく言われた通りにして。群れからはぐれようともせずに。
…シロエが本物の羊の群れだの、性質だのを知っていたとは思えんが…。
それにしたって、上手い具合に言い当てたよな、と思わんか?
羊は群れから離れちまったら、ストレスでパニックになっちまう生き物なんだから。他の仲間と違う生き方は出来やしないのが普通の羊だ。…逃げ出して森で暮らす羊は別にして。
マザー牧場の羊、シロエを調べりゃ、必ず出会うってほどに有名な言葉になってるんだが…。
その調子だと、お前は調べちゃいないんだな、と尋ねられたから頷いた。
「だって…。前のぼく、シロエを捕まえ損なったから…」
シロエの船をキースが撃ち落とした時に、シロエの思念がシャングリラを通り過ぎたんでしょ?
前のぼく、それに気付いてたのに…。「誰かの声だ」って。
だけどシロエだと思っていなくて、捕まえようともしなかったから…。シロエが最期に紡いでた思い、ぼくは受け止め損なったんだよ。
シロエは誰かに思いを届けたかったのに…。受け止めていたら、色々なことが変わったのに。
だから調べていないんだよ、と俯いた。
セキ・レイ・シロエという名の少年のことは、未だに調べられないまま。歴史の授業で教わったことと、今のハーレイから聞いたことが全て。
彼の存在を考えただけで悲しくなるから、調べようという気持ちになれない。
今のハーレイが教えてくれた、マヌカの蜂蜜を入れたシロエ風のホットミルクを、風邪の予防に何度も飲んでいたって。
シロエが好んだ母の手作りのブラウニーのことを、新聞で読んだお菓子の記事で知ったって。
調べていないことは知りようがない。「マザー牧場の羊」という言葉。シロエが皮肉たっぷりに評した、候補生たちの姿は薄々分かるけれども。…前の自分は同じ時代に生きていたから。
「なるほどな…。シロエのことは調べていないから知らない、と」
チビのお前なら、まだ知らなくてもいいだろう。…歴史の授業にも出てこないから。
マザー牧場の羊ってトコまで教えていたなら、歴史の時間が幾つあっても足りないからな。
今のお前は、丁度シロエと同じような年頃になるんだが…。マザー牧場の羊と言ってた頃の。
キースと出会って直ぐの頃に言ったらしいから、というハーレイの指摘で気が付いた。キースと出会った頃のシロエなら、今の自分と変わらない。十四歳にしかならない子供。
あの時代なら、十四歳は大人の入口だけれど。…成人検査で、養父母とも別れた後だけれども。
「そういえば、そうだね。…今のぼくって、その時のシロエと同い年だね…」
ぼくはあんなに強くないけど…。シロエみたいに、独りぼっちで生きられないけど。
群れから離れた羊なんて…、とシロエが駆け抜けた短い生涯を思うと胸が締め付けられるよう。他の候補生たちを「マザー牧場の羊」と詰ったシロエは、群れを離れた羊だったのだろう。
羊は仲間と群れていないと、生きてゆくのも難しいのに。パニックに陥るほどなのに。
けれどシロエは群れを離れて、独りぼっちで生きて死んでいった。まるで牧場から逃げた、森で暮らしている羊のように。誰も毛刈りをしてくれないのに、一頭で強く生き抜く羊。
そのまま一頭で暮らしていたなら、いつか命の灯が消えるのに。刈って貰えない重たい毛皮が、自分の命を奪い去るのに。
「あの頃とは時代が違うだろ? 前のお前は強かったじゃないか」
ずいぶんと時が流れた今になっても、ソルジャー・ブルーと言えば大英雄だ。メギドを沈めて、ミュウの未来を拓いた英雄。
シロエなんかに負けちゃいないさ、前のお前も。…いや、シロエよりも遥かに強かった。お前と同じ時代に生きてた、前の俺がそいつを保証してやる。
時代が違うのは分かる筈だぞ、今のお前は羊の毛刈りに行きたいと言い出すチビの子供だ。羊に夢を見られる時代と、飼うことも出来なかった船で暮らした時代じゃ、まるで違うというもんだ。
マザー牧場の羊も今ではいないしな、と言われたけれど。本当に今は一頭もいないけれども。
「そうなんだけど…」
いいのかな、羊に夢を見ちゃって…。毛刈りに行きたい、なんて思って、はしゃいじゃって…。
同じ羊でもシロエだと…、と悲しい気持ちに包まれる。シロエはどんな思いでマザー牧場の羊と言ったか、羊の群れをどれほど嫌っていたことか、と。
「こらこら、しょげているんじゃない。マザー牧場の羊なんかは、もういないんだ」
お前は今を生きているんだから、遠慮しないで羊の夢を追い掛ければいいと思うがな?
青い地球まで来たんだろうが、とハーレイにポンと叩かれた頭。「此処は地球だぞ?」と。
「でも…。シロエも地球に行きたかったのに…」
自由になって地球に行くんだ、って思いながら死んだ筈なのに…。独りぼっちで…。
マザー牧場から逃げ出したせいで殺されちゃった、とシロエの悲しい思念波のことを思い出す。深い眠りの底にいてさえ、感じた切ないまでの憧れと想い。地球に向けての。
「昔のことに捕まるんじゃない。シロエの思念を捉えていたのは、前のお前だ」
此処にいるのは今のお前で、前のお前とは別のお前で…。俺と一緒に羊の毛刈りに行くんだろ?
結婚したら、俺の車で羊の毛刈りをさせて貰える牧場へ。刈った毛をお土産に貰える所に。
それに他の地域にも旅をするなら、デカイ羊の群れにも何処かで出会えそうだぞ。
まだ通り過ぎてくれないな、と待たなきゃいけない羊の群れ。次から次へと道路に出て来て。
同じ羊なら、そっちの方の夢を見てくれ。前のお前が生きてた時代の、マザー牧場の羊なんかを気にしていないで。…今の時代の、幸せな羊の夢を沢山。
「…いいのかな、それで…?」
ぼくだけ地球に来ちゃったのに、と拭えない胸の罪悪感。シロエの地球への強い想いに、確かに触れた前の自分。「ぼくは自由だ」と叫んで、飛び去ったシロエ。…暗い宇宙に。
「気にしちゃ駄目だと言っているだろう。あれからどれだけの時が経ったと思ってるんだ?」
シロエだって、きっと地球まで来ているさ。前も言ったろ、もう人間に生まれただろうと。
羊の毛刈りも体験済みかもしれないぞ。俺たちよりも、一足お先に。
何処かの牧場に出掛けて行って…、とハーレイが話してくれるシロエの姿。憧れていた地球に、人間の姿で生まれたシロエ。もしかしたら、とっくに牧場にも行って。
「そうだといいな、今度は本物の羊。…マザー牧場の羊じゃなくて」
本物の羊にちゃんと会えたら、シロエも羊を大好きになってくれるよね。嫌わないで。
モコモコの羊はうんと可愛くて、毛だってフカフカなんだから…。
ぼくだって毛刈りに行きたくなるほど、羊のいる牧場、うんと素敵な場所なんだから…。
夢が一杯の牧場なんだよ、と本物の牧場に描いた夢。マザー牧場の羊ではなくて、大きな群れになっているモコモコの羊。この地域のだと、大きいと言っても群れの羊は少なめだけれど。
シロエも羊を好きになっていてくれるといいな、と勢い込んだら、ハーレイが返して来た言葉。
「それなんだがな…。上手く毛刈りが出来たら、じゃないか?」
失敗してたら羊が嫌いになるかもしれん、というハーレイの読みに、二人で声を上げて笑った。羊の毛を上手く刈れなくて怒る、シロエの姿を想像して。
「羊なんか、大っ嫌いだ!」とプンプン怒って当たり散らしている、毛刈りに失敗したシロエ。足元には塊になった毛がコロコロ幾つも転がっていて、あちこちが禿げた羊が一頭。
「ふふっ…。きっとシロエは、まだ子供だね」
お父さんと一緒に挑戦したけど、上手く刈れずにカンカンだとか。
「そうだな、ジョミーが出会った頃みたいな、小さなシロエなんだろう」
失敗したことを、いつまでも忘れずに覚えてるんだぞ。成人検査はもう無いから。羊は嫌いだと思い続けて大きくなるのか、いつか復讐を果たそうとするか…。
シロエのことだし、負けん気だけは強そうだから…。きっと復讐に行くんだろうなあ、羊たちのいる牧場まで。「今度は負けない」と、大きくなったら。
なんと言っても、あのシロエだから…、と言われれば目に浮かぶよう。羊に敵愾心を燃やして、再挑戦に出掛けてゆくシロエが。歴史の教科書でお馴染みのシロエの姿だけれど。
「それじゃ、育ったら牧場に勤めて毛刈りのプロになるのかな?」
誰よりも上手く毛を刈れるような名人になって、プロの中のプロ。逃げ出しちゃって、毛の塊になってしまった羊の毛だって、上手に刈ってしまえるような…。
「どうなんだろうなあ、相手はシロエだからなあ…」
羊を捕まえてはブスブス注射していく獣医かもな、というハーレイの想像も面白い。今の時代は誰もがミュウだし、あの姿のシロエが白衣の獣医になっていたって可笑しくない世界。
「こらっ!」と、「逃げるな!」と羊に叫んで、端から注射してゆくシロエ。幼かった頃に毛を刈ろうとして失敗したから、その復讐に。
「ぼくは羊に負けないんだから」と、「全部まとめて注射してやる!」と。
きっと羊は逃げ回るのだろう、白衣のシロエを目にしたら。注射嫌いの今の自分と同じで、羊も痛い注射は苦手で嫌だろうから。
もしもシロエが地球に来ていたなら、本物の羊に会ったなら。モコモコの群れに出会ったら。
今度は好きになっていて欲しい、羊たちが作る大きな群れを。
マザー牧場の羊ではない、本当に本物の羊たち。毛刈りに出掛けて失敗したって、復讐のために戦って欲しい。毛刈りのプロを目指してもいいし、白衣の獣医になるのもいい。
今の自分も、今度は羊の夢を追うから。
白いシャングリラでは飼えなかった羊に会いに出掛けて、ハーレイと毛を刈るのだから。
平和な時代は、本物の羊のモコモコの群れに出会える時代。
シロエも自分もフワフワの羊の毛を刈るためにと、ハサミで挑戦できるのだから…。
羊の夢・了
※シャングリラでは飼えなかった動物が羊。その性質のせいですけど、マザー牧場の羊。
そう言ったシロエは、羊の性質を知っていたかどうか。そのシロエも、きっと今は幸せな筈。
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そんなのあるんだ、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
ふわふわ、モコモコの毛皮の羊。その毛を刈って使うことは知っていたけれど…。
(一年に一回か、二回…)
人間が毛を刈ってやる。バリカンや手バサミなどを使って、すっきりと。毛を刈った後の羊は、丸裸のような身体になってしまうから。毛皮を持ってはいないものだから、季節を選んで。
(風邪を引いちゃったら、大変だものね?)
雪が降るような寒い季節に、丸裸では風邪を引くだろう。だから毛刈りは春や秋のもの。沢山の羊たちの毛を順番に刈ってゆくのが、牧場の人たち。次はこの羊、と。
それを体験させてくれる牧場があるらしい。予約が必要な所もあれば、その季節に行けば誰でも出来る牧場だって。親子で挑戦して下さい、と大人用と子供用の作業服がある牧場も。
一人で一頭刈るのだったら、一時間半くらいと書かれているけれど。
(でも、下手くそ…)
毛刈りをするのは、素人だから。羊の毛なんか刈ったこともない、初心者ばかり。
慣れた人が刈ったら、繋がった一枚の毛皮が出来上がるのに、そうはいかない挑戦者たち。毛の塊が幾つもフワフワ、転がることになるという。羊が着ていた毛皮の分だけ。
けれど毛を刈る前と後では、別の生き物のようになる羊。モコモコだった身体がほっそり、顔も尖って見えてしまって。
なんだか楽しそうではある。羊の毛を刈ってみるということ。
(ハーレイだったら上手かな?)
身体が大きいから、余裕たっぷりで刈ってゆけそう。手の届く範囲がうんと広いし、羊の方でも大人しくしそう。「こんな相手じゃ、逃げられないよ」と。
(いつか行くのもいいかもね?)
ハーレイと二人で、羊の毛刈り。親子用の作業服とは違って、大きいサイズと小さめサイズで。
いつかデートに行ける日が来たら、二人で暮らし始めたら。
毛刈りをさせて貰える季節に、ハーレイの車で出掛ける牧場。刈った毛をお土産に貰える牧場もあるというから、其処が楽しいかもしれない。毛の使い道を、すぐには思い付かないけれど。
ちょっといいよね、と思った羊の毛刈り。牧場だったら、美味しい物も食べられそう。
(覚えておこうっと…)
いつかハーレイと行きたいから、と考えながら戻った二階の部屋。おやつを美味しく食べ終えた後で、キッチンの母に空のカップやお皿を返して。
勉強机の前に座って、さっきの記事を思い出す。毛刈りの他にも羊のことが書かれていた。
とても昔から、人間に飼われていた羊。フワフワの毛が沢山採れるし、肉にもなるし、おまけに乳でチーズも作れる。なんとも便利で、役に立つ家畜。
ただ、人間が飼育している羊は、改良されてしまっているから、毛を刈らないと…。
(生きていけない、って…)
毛皮が重くなりすぎて。動き辛いし、伸びすぎた毛が原因で病気になることもある。絡み合った毛は、勝手に抜け落ちてくれないから。人間が刈ることを前提に改良されているから。
牧場にいるのは、そういう羊。其処から勝手に逃げた羊は、とんでもないことになるという。
誰も毛刈りをしてくれないから、毛の塊のようになってしまって。保護されて毛を刈って貰えることになっても、もう簡単には刈れない毛。プロ中のプロを呼んでこないと。
(毛が採れて、美味しいチーズも作れて…)
その上、肉にもなる羊。もっとも羊の乳というのは、牛乳のように飲むには向かない味らしい。加工してチーズにするのが一番、そうすればグンと美味しくなる乳。
フワフワの毛とチーズと、それから肉と。牛よりも素敵に思える羊。牛だと乳と肉だけだから。
(…なんで、シャングリラで飼わなかったわけ?)
とても便利な動物なのに、と思った羊。
船の仲間たちの衣服を賄えるだけの数は無理だとしたって、何頭か飼えば良さそうなもの。皆に行き渡る分が無くても、順番待ちにすればいい。希望者を募って、羊の毛から作った手袋とか。
子供たちの教材にも、きっとピッタリの羊。さっき新聞で読んだみたいに、毛刈りの体験。
(植物の綿を育てていたんだから…)
綿の実から生まれる、天然の綿。植物が作り出す天然の繊維。それが採れたら、糸紡ぎまで手でしていたほど。遠い昔の紡ぎ車を、ちゃんと再現して作って。
あれはヒルマンの提案だったし、羊の名前も挙がりそう。「教材にいいと思うんだがね?」と。羊を何頭か飼っていたなら、子供たちだって喜ぶから、と。
けれどシャングリラにモコモコの羊はいなかった。白い鯨で飼われていたのは、牛や鶏といった動物。毛と肉と乳が役立つ羊は、ただの一頭もいなかった船。
(羊も飼えば良かったのに…)
どうして飼わなかったのだろう。大人しい羊は、凶暴な動物とは違うのに。子供たちが毛刈りをしに出掛けたって、蹴ったり噛んだりはしないだろうに。
それなのに船にいなかった羊。白いシャングリラなら充分に飼えた筈だけど、と不思議に思っていたら聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、訊くことにした。
テーブルを挟んで向かい合わせで、まずは毛刈りの話から。いつか二人で行きたい牧場。
「あのね、ハーレイ…。羊の毛刈りをしたことがある?」
牧場で飼ってる、モコモコの羊。毛刈りの季節に牧場に行けば、刈らせて貰えるらしいけど…。
小さな子供も出来るみたい、と持ち出した話題。「ハーレイもやったことがある?」と。
「いや、無いが…。話には聞いてるんだがな」
生憎と俺は体験してない。牧場で羊を見たことはあるが、それで終わりだ。毛は刈っていない。
そういう季節じゃなかったかもな、という答え。羊が風邪を引く季節ならば、毛刈りは無理。
「ハーレイ、やっていないんだ…。面白そうだよ、新聞に載っていたんだけれど」
いつかハーレイと行ってみたいな、羊の毛刈りが出来る牧場。お土産に毛を貰える所がいいよ。毛の使い道は、まだ考えてはいないんだけど…。
「未来のデートの約束か。羊の毛刈りなあ…。確かにユニークではあるが…」
お前、自分で刈れるのか、と尋ねられた。「羊はデカイぞ?」と。小さく見えても、側に行けば大きいのが羊。人間が背中に乗れるくらいに。
「出来なかったら替わって貰うよ、ハーレイに」
一頭刈るのに、一時間半くらいなんだって…。疲れちゃった時は、ハーレイ、お願い。
駄目かな、と強請るように見上げた恋人の顔。「ぼくが途中で疲れちゃったら、替わって」と。
「お前のことだし、そんなトコだとは思ったが…。いいだろう、連れて行ってやる」
二人で一頭刈ることにするか、俺がお前の分まで刈ることになって一人で二頭分の毛刈りか…。
俺はどっちでもかまわないがな、お前がやってみたいのならば。
お安い御用だ、と引き受けてくれた、頼もしいハーレイ。牧場までのドライブだって。
約束できた未来の計画。ハーレイと羊の毛刈りに行くこと。挑戦できる季節になったら。毛皮を刈られた後の羊が、風邪を引かない季節が来たら。
「ありがとう! いつか行こうね、羊の牧場。うんと楽しみにしてるから」
でもね…。不思議なんだよ、羊のこと。今じゃなくって、前のぼくたちの頃なんだけど…。
羊は毛が採れて、肉にもなるでしょ。新聞にはチーズも作れるんだって書いてあったよ、牛乳のようには飲めないけれども、乳からチーズ。
牛だと、お肉とミルクだけ…。皮も使えるけど、羊みたいに何回も毛は採れないし…。
羊、とっても役に立つのに、どうしてシャングリラにいなかったのかな…?
ヒルマンが言い出しそうなのに…。「この船で羊を飼いたいのだがね」って、会議の時に。
だってそうでしょ、子供たちの教材にピッタリだよ、羊。
植物の綿を育てたみたいに、羊を飼って毛刈りをしたら、フカフカの毛が採れるから…。それを紡げば糸が出来るもの、綿と同じで。
紡ぎ車もあったんだから、と今のハーレイにぶつけた疑問。白い鯨にモコモコの羊がいなかった理由は、何故なのか。船で飼ったら、きっと素敵な教材になっていたのだろうに、と。
そうしたら…。
「お前はいつでもそう言うな。…今も昔も、羊となったら」
「え?」
どういう意味、とキョトンと見開いた瞳。前にハーレイと羊の話をしたろうか。シャングリラに羊がいなかったことか、あるいは役に立つという方なのか。まるで覚えていないけれども。
(…ハーレイと羊の話なんか、した?)
毛刈りの記事は今日が初めて、牧場で体験できることすら知らなかった。羊の乳がチーズ作りに向いていたって、飲むには不向きだということも。他にどういう羊の話をしたのだろう…?
「間違えるなよ、今のお前じゃない。前のお前だ、ソルジャー・ブルーだった頃だな」
前のお前も言い出したんだ。羊がいい、と。…覚えていないか?
今日と全く同じに羊、と口にされても分からない。前の自分と羊の関係が、欠片さえも。
「羊って…。それって、いつ?」
前のぼくだよね、羊がいいって言ったわけ…?
毛刈りをしようとか、教材にいいとか、今とおんなじことを言ったの…?
白いシャングリラには、いなかったモコモコの毛をした羊。何故いなかったのか、ハーレイなら知っていそうだと思って訊いたのに。キャプテンの記憶をアテにしたのに、貰った返事は予想外。
前の自分が羊の話をしたと言われても、本当に欠片も思い出せない。
「どうやら忘れちまったようだな、羊を飼い損なったから。…お前が提案した羊なのに」
悔しさのあまり忘れちまったか、仕方ないからと諦めてそれっきりだったのか…。
前のお前なら諦めた方だな、悔しがるようなタイプじゃなかったから。物分かりが良すぎて。
お前が羊だと言い出したのは、牛たちの飼育が軌道に乗ってからだった。新鮮なミルクが充分に採れて、バターもチーズも毎朝、食堂で出るようになって…。
そんな頃だな、会議の席でこう言ったんだ。「次は羊を飼わないかい?」と。
俺やヒルマンたちが揃う会議だ、と指摘されたら蘇った記憶。前の自分と、船で羊を飼う話。
「思い出した…!」
ホントだ、今と全く同じ…。さっきハーレイが言った通りに、今のぼくと同じ考えだったよ。
前のぼくは新聞を読んでたわけじゃないけど…。自分で調べていたんだけれど…。
羊はとっても役に立つこと、と遠く遥かな時の彼方に思いを馳せた。前の自分が生きた時代に。
白いシャングリラのライブラリー。其処で目にした、羊のデータ。
(…羊って、どんな動物だろう、って…)
元々、聖書で気になっていた。前の自分が生きた頃にも、唯一、残っていた神が書かれた聖書。本を読んでいても出てくるのが聖書、どういうものかと読んでもみた。神の言葉や預言などを。
その聖書の中に繰り返し出て来た、神様の羊。
クリスマスに馬小屋で生まれた神様、その神様を子羊に例えているのが聖書の言葉。人間たちを救うためにと、神が遣わした救い主。
人間の姿になった神様は、育った後に十字架の上で殺された。罪深い人間たちに代わって、その罪を全て贖うために。自らの身体で、自らの血と、かけがえのない命とで。
神様は後に復活して天に昇ったけれども、人間のために犠牲になった神様だから、生贄の子羊の姿で出てくる。聖書の中に。「屠られたと見える子羊」などという言い回しで。
つまり、神様は羊の姿。そして人間も「迷える子羊」。
神様は牧者で、沢山の羊を飼っている。人間という多くの羊たちを。一頭でも迷子になった羊がいるなら、神様は何処までも探しにゆく。姿が見えなくなった羊を、無事に見付け出すまで。
神様も人間も、羊に例えられるのが聖書。そして神様が馬小屋で生まれたことを、神様の使いが知らせにゆくのは羊飼いの所。夜に羊の番をしていた者たちが出会った、神様を称える天使たち。
人間たちを代表して知らせを貰う人たちも羊を飼っていたのだし、きっと羊という動物は…。
(とても大切な動物だったんだろう、って…)
そう思ったから調べたデータ。姿は写真や絵などで知っていたけれど、もっと詳しく、と。
羊はどういう生き物なのか。人間とどんな具合に関わり、生活にどう役立ったのか。遠い昔から飼われていたのは、もう間違いない生き物だから。聖書の中にも、羊飼いが登場するほどに。
興味津々で調べてみたら、大いに役立ちそうなのが羊。
一頭の羊から何度も毛皮が採れる。纏っている毛を刈ってやったら、また次の毛が生えて来て。
肉にもなるし、雌の羊なら乳も搾れる。飲むには不向きな味らしいけれど、チーズにしたなら、それは美味しいものが出来るとあったから…。
(みんなの服を作るだけの毛は無理だけど…)
それだけの羊を飼うとなったら大変だけれど、教材用なら何頭かいれば充分だろう。子供たちが毛を刈ることが出来て、その毛で色々なものを作れる羊。きっと素敵だろう生き物。
(フワフワの毛を刈って、加工して…)
チーズ作りも、子供たちの役目にするのもいい。船の食堂で供するだけの量は無理だし、チーズ作りをした子供たちが分けて食べるのが一番。余るようなら、希望者を募ってクジ引きで配る。
(そんな風にしたら、誰も文句は言わないし…)
教材用にと飼う羊でも、世話をしてくれる仲間も現れる筈。子供好きの仲間たちも多いし、動物好きの仲間たちだって。
そう考えたから、会議の席で提案した。次は羊を飼わないか、と。
「羊じゃと?」
なんでまた、とゼルが最初に声を上げたから、「いいと思うんだけどね?」と微笑んだ。
「ヒルマンが言い出さないのが不思議なくらいに、羊は素晴らしそうだけど…」
このシャングリラで飼ってみるには、似合いの生き物だと思う。
自給自足で生きてゆくのが、今のこの船の方針だろう?
人類の船から物資を奪う時代は終わって、船で全てを賄う時代。牛が飼えるなら、羊も飼える。
そして羊は、牛よりも素敵な所があるように思うものだから…。
子供たちの教材に飼ってみるにはピッタリだ、と会議に出ていた皆に話した。前のハーレイと、長老と呼ばれ始めていた四人とに。
羊がいたなら、毛刈りをしたり、刈った毛で色々なものを作ってみたり。繊維を針などで絡めてやったら、塊になってフェルトが出来る。紡いでやったら毛糸が作れる。
フェルトも毛糸も、其処から加工してゆけるもの。色々なものを作り出せるし、牛の毛などとは全く違う。鶏たちが纏う羽根とも。
羊の乳は飲めないけれども、代わりに美味しいチーズが出来る。牛たちのように肉も採れるし、如何にも役に立ちそうな羊。何度も毛皮を刈れるだけでも、もう充分に。
「とても素敵だと思うんだよ。飼ってみれば、きっと」
毛皮と肉とチーズだからね、と羊の利用方法を説いた。牛よりもずっと幅が広い、と。
「なるほどねえ…。面白いかもね、あたしは賛成だ」
乗り気になってくれたのがブラウで、ゼルも賛成した。「わしもじゃ」と髭を引っ張りながら。
「なかなか良さそうな生き物じゃて。毛皮に肉にチーズとなれば」
牛からは毛は採れんからのう、皮だけで。それも一回限りで終わりじゃ、皮は一頭の牛に一枚と決まっておるんじゃから。しかし羊は、毛皮を何回採っても問題ないんじゃし…。
どうして今まで羊を飼おうと思い付かんのじゃ、とゼルはヒルマンを睨み付けた。船で飼うには丁度いい羊、それを思い付きさえしないとは、それでもお前は「教授」なのかと。
ヒルマンの渾名は「教授」で通っていたものだから。…博識なせいで、誰からともなく呼ばれた名前。そういう渾名を持っていながら、羊を思い付かないとは、とゼルが責めたのだけれど。
「…羊なら、私も考えてみたよ。とうの昔に、エラと二人で」
そうだったね、とヒルマンはエラに同意を求めた。「羊の飼育も、何度か検討した筈だ」と。
「ええ。…ソルジャーが仰る通りの理由で、役立ちそうだと思ったのですが…」
ヒルマンと調べてゆけばゆくほど、この船には向かない動物なのです。羊というのは。
羊は群れたがる性質があって、群れが大きいほど安心するとか。…小さな群れでいるよりも。
とてもストレスに弱い生き物で、そのせいで群れを作るのですよ。
群れていないとパニックに陥ることもあるほど、羊は仲間といたがるそうです。
一頭や二頭で飼っていたなら、怯えて病気になるくらいに…、というのがエラの説明だった。
羊の健康を考えるならば、群れを作れるだけの数を集めて飼わねばならない。しかも群れの形で行動するから、充分に広い放牧用のスペースを確保しなければ、とも。
シャングリラの中で羊を飼おうと言うなら、群れを形成できるだけの数で。その上、その群れが草を食めるだけの場所が要る。草は人工飼料にしたって、牛のような飼育方法は無理。ストレスで病気になるのを防ぐためには、群れで暮らせる広大な場所が要るのだから。
「今、エラが言った通りだよ。教材用にと、少しだけ飼うのは難しいのが羊でね…」
かと言って、本格的に飼うとなったら、今度は飼育が大変だ。群れでしか飼えない動物だから。
それだけの手間暇をかけてやる価値が、あるかどうかとなったらだね…。
どうなんだね、とヒルマンに言われなくとも分かる。肉なら牛と鶏がいるし、チーズは牛の乳で充分。バターもチーズも足りているから、羊の乳まで無くてもいい。
羊の毛側も、船では特に必要ではない。繊維は合成品で間に合っているし、ストレスに弱い羊を育てるメリットはまるで無い状態。毛刈りや紡ぐ手間がかかって、却って負担が増すだけの船。
ヒルマンの言葉を継ぐような形で、エラまでがこう口にした。
「そういった理由で、羊は飼わないことにしようと決めたのですが…。この船では」
子供たちの教材にする程度の数の羊では、とても上手くはゆきません。
遠い昔には、牧場から逃げて暮らす羊もいたようですが…。森の中などで、一頭だけで。
けれど、そういう強い羊は稀なのです。ペットにしようと一頭飼っても、弱ってしまうのが殆どだったそうですから。…群れを作れる仲間がいなくて、心細くて。
そんな厄介な羊を飼おうということでしたら、羽根枕用のグースも飼いたいくらいです。
反対されて諦めましたが…、とエラが持ち出したグースの話。羽根枕などの材料に使う、水鳥の羽毛が採れるのがグース。
(…ソルジャー専用の羽根枕だとか、羽根布団だとか…)
高級な寝具が欲しかったエラ。そのためにグースを飼いたがったけれど、水鳥の飼育には必要な池や、池から上がった時に休憩するスペースなど。
鶏とは比べ物にならない手間がかかるのがグースで、飼わないと決まったのだった。
(グースなんかと一緒にされたら…)
羊を飼うのは夢物語だというのが分かる。役立つようでも、現実的ではない羊。
どうやらシャングリラには向かない生き物、群れを作るだとか、群れで行動したがるだとか。
飼えない理由を並べられたら、前の自分も諦めざるを得なかった。羊を飼うということを。
先に考えていたヒルマンとエラが、「無理だ」と結論付けたのなら。博識な二人が熟慮した末に出した結論、それが「飼わない」ことだったなら。
遠く遥かな時の彼方で、とても残念に思ったこと。せっかく素敵な羊を見付け出したのに、白いシャングリラでは飼えないなんて、と。
フカフカの毛皮とチーズと肉を与えてくれる、役に立つ家畜。牛よりもいいと考えたのに。
「…そうだったっけ…。前のぼく、ホントにおんなじことを言ってた…」
シャングリラで飼うにはピッタリだよ、って会議でみんなに言ったのに…。
ゼルもブラウも賛成だったのに、ヒルマンとエラに「羊は無理だ」って言われておしまい…。
前のハーレイだって、何も言ってはいなかったけれど、ヒルマンとエラの味方なんでしょ?
シャングリラのキャプテンだったんだものね、と視線を向けたら、ハーレイは否定しなかった。
「そんなトコだな、キャプテンである以上はな…?」
より良い船を作ってゆくのが、キャプテンの仕事なんだから…。羊を飼ったら船がどうなるか、其処が一番大切なことだ。いい船になるのか、その逆なのか。
前のお前も直ぐに羊を諦めたんだし、どっちだったかは分かるよな。羊がいるといい船なのか、困った船になっちまうのか。…前のお前は、ソルジャー・ブルーだったんだから。
羊がいる船はどうなんだ、と尋ねられたから、肩を落として返した返事。「困った船だよ」と。
「…羊の群れを飼ってしまったら、専用のスペースを作らなきゃ…」
船で一番大きな公園、羊にあげてしまうとか…。空きスペースを全部潰して、羊用にするとか。
それでもきっと足りないだろうね、群れになって移動していくんだから…。
今日はこっちの公園が良くて、明日はあっちに行きたいよ、って…。
船が羊に占領されちゃう、とチビの自分でも分かること。仲間たちの憩いの場所だった船で一番広い公園、其処を奪ってしまうのが羊。モコモコと群れて、芝生も端から食べてしまって。
前の自分も、そう思ったから諦めた。仲間たちのために作った公園、それを羊には譲れない。
「キャプテンの俺も、シャングリラを困った船にはしたくなかったからなあ…」
羊の件では、ヒルマンとエラから何も聞いてはいなかったんだが…。
俺に相談するまでもなく、「無理だ」と答えを出したんだろう。あの二人だけで。
なのに、お前が持ち出しちまった。データベースで羊の話を見付けて、嬉しくなって。
毛皮にチーズに肉となったら、確かにいいことずくめなんだが…。
それよりも前に、羊の性質が問題だったというわけだ。少しの数では飼えないってトコが。
俺は黙っているしかないだろ、ただでもガッカリしているお前に反対したくなければ。
黙っているのが一番だよな、と今のハーレイが話してくれた昔のこと。白いシャングリラで羊の話を持ち出した時に、前のハーレイが守った沈黙の意味。反対でもなく、賛成でもなく。
キャプテンの立場では、とても賛成できない「船で羊を飼う」ということ。
けれども、それを口にしたなら、飼いたがった前の自分の心を傷つける。「ハーレイもだ」と。反対する理由が分かっていたって、キャプテンとしては正しいと直ぐに気が付いたって。
「…ハーレイ、黙っていてくれたんだ…。前のぼくのために」
羊を飼うのは賛成できません、って言ったりしないで、黙っていただけ…。前のぼくがガッカリしちゃっていたから、もっとガッカリさせないように。
ありがとう、とペコリと頭を下げた。あの日の前の自分の代わりに。
もしもハーレイまでが「駄目です」と口を揃えていたなら、本当に悲しかっただろうから。
羊は無理だと、諦めるのが正しい道だと分かってはいても、会議室から出てゆく時には、悲しい気持ちで胸が一杯だったろうから。
「礼を言われるほどのことじゃないんだが…。俺はお前を守りたかっただけだ」
お前の肩を持ってやれないなら、俺に出来ることは「何も言わない」ことだけだろうが。
あそこで俺がヒルマンとエラに賛成したなら、お前の心は傷ついちまう。
いくらソルジャーでも、中身はお前で、ちゃんと心があるんだから…。素敵な思い付きだと胸を弾ませて、羊を飼おうと言ったんだから。
まさか駄目だと言われるだなんて、お前、思ってもいなかっただろう…?
違うのか、と向けられた穏やかな笑み。「羊、飼えると思っていたんだろ?」と。
「うん…。データベースで調べた時には、其処まで見てはいなかったから…」
ずっと昔から人間が飼ってた家畜の一つで、うんと歴史が長い動物。
だから簡単に飼えそうだよね、って思い込んでて、どういう風に飼育するかは見てなくて…。
子供を産ませて増やせる程度の羊がいればいいんだよね、って…。
そう思ってた、と打ち明けた前の自分の思い違い。羊にまるで詳しくなかった前の自分。
「仕方ないよな、お前は家畜のプロじゃないから」
家畜飼育部の連中だったら、そっちの方まで調べなければと思うんだろうが…。
ヒルマンとエラも、飼育を検討していたからこそ、其処まで辿り着いたわけだが…。
ソルジャーだったお前の仕事は、それじゃない。調べなかったのも無理はないよな、羊の性質。
素人だったら誰でもそうなる、と慰めてくれた今のハーレイ。「ゼルとブラウもだ」と。
彼らも羊に賛成だったし、羊の飼育が難しいことを知らなかったら船で飼いたくもなる、と。
「前の俺だって、キャプテンという立場でなければ、あそこで賛成していただろう」
良さそうじゃないか、と思っていたのは間違いない。試しに少し飼ってみるのも悪くない、と。
しかし迂闊なことは言えんし、話の流れが定まってから…、と様子を見てたら、ああなった。
俺も反対するしかないのが羊で、飼う方向へと行きそうだったら止めるしかない流れにな。
幸い、そうはならなかったし、俺は黙っていることにした。…お前をガッカリさせないために。
お前は羊をシャングリラで飼いたかったのにな…、と今のハーレイは味方してくれる。あの船で羊を飼おうと思って、生まれ変わっても同じことを思ったソルジャー・ブルーに。
「ハーレイ、最初は賛成だったんだね。羊がどういう生き物なのか、知らずに聞いていた時は」
だけどシャングリラじゃ無理だったんだよ、羊を飼うっていうことは。
モコモコの群れで暮らしていないと、羊は生きてゆけないから…。少しだけでは飼えないから。
でも、本当に羊はストレスに弱い生き物なの…?
大勢の仲間と群れていないと駄目なくらいに、寂しがり屋で弱虫なの…?
逃げ出して森の中で暮らした羊もいるんだよね、とエラの言葉を思い出す。それに新聞で読んだことも。人間が毛を刈ってやらないと、大変なことになる羊。毛の塊になってしまって。
そういう羊が発見されたら、プロの中のプロが毛を刈るしかない。すっかり絡んでしまった毛の塊には、並みの人では歯が立たないから。刈ろうとバリカンを手にしてみても。
今も話題になるほどなのだし、逃げる羊もいるのだろう。群れを離れて一頭だけで。仲間の所に帰りもしないで、伸び放題になった重い毛を身体に抱えて、逞しく生き抜く強い羊が。
「どうなんだか…。今の俺も前の俺と同じで、羊には詳しくないんだが…」
しかしだ、羊を飼ってる所じゃ、何処でも群れになってるぞ。バラバラじゃなくて。
この地域だと、でっかい群れで飼ってる所は少ないが…。
牧場の柵で囲った範囲で放牧してるし、そんなに大きな群れを作れはしないんだが…。同じ羊を飼うにしたって、昔から羊に馴染んでいた地域の文化を復活させた所だと、事情が違うようだな。
牧羊犬っていうのを、お前も聞いたことくらいはあるだろう?
人間の手伝いをする専用の犬を飼うほどなんだし、羊の群れも桁違いだ。人間様の力だけでは、とても面倒を見切れない数。それだけの羊の群れを引き連れて、あちこち移動して行くんだから。
牧羊犬は名前通りに、羊の群れを纏める手伝いをする犬たち。羊たちが群れをはぐれないよう、好きな方へ行ってしまわないよう、吠えたり走り回ったりして大忙し。
そんな犬たちを使うような地域に行ったら、それは大きな羊の群れ。この地域の牧場で見られる群れとは、まるで違った羊の数。数え切れないくらいの羊。
道路をゆくのも羊が優先、彼らが道を渡り始めたら、車は止まって通過を待つ。モコモコの羊が次から次へと渡ってゆくのを、モコモコの群れが通り過ぎるのを。
「そんなに大きな群れなんだ…。ちょっと想像がつかないけれど」
道路をいつまでも塞いでいるほど、次々に羊が出てくるなんて。きっと目の前、真っ白だよね。
無理に車で通ろうとしたら、羊の海に捕まっちゃうかな…?
前も後ろも羊だらけで…、と尋ねてみたら、「そうらしいぞ?」と笑うハーレイ。無理やり車を進めたら最後、本当に羊の海の中。前も後ろも、横も羊で埋まってしまって。
「車なんかは岩くらいにしか見えていないんだろうな。避けて通ればいいだろう、と」
そして本当に巻き込まれるわけで、身動き出来なくなっちまうのが車と中の人間様だ。出たいと思ってドアを開けようにも、次から次へと羊がやって来るんだから。
群れているのが好きだからこそ、そうなるんだろうな。邪魔な車が道路にあっても、先に行った仲間と一緒に行きたいもんだから。…ちょっと止まって待とうとは思わないわけだ。
そういや、マザー牧場の羊か…。まさにそうだな、羊の群れは。
大きな群れになればなるほど、マザー牧場って感じだよなあ…。上手いことを言う。
きっと本物の羊の群れなんか知らなかっただろうに、とハーレイが感心している言葉。いったい何を指しているのか、誰が語った言葉なのか。
「なに、それ?」
マザー牧場の羊っていうのは何なの、何処の牧場?
ぼくは聞いたこともないけれど…、と首を傾げたマザー牧場という名前。其処の羊は、他の羊と違うのだろうか。群れているなら、その性質は普通の羊と同じに思えるのだけれど。
「知らないか? マザー牧場の羊って言葉」
シロエさ、前の俺たちと同じ時代に生きてたセキ・レイ・シロエ。
あのシロエがそう言ったんだ。
E-1077にいた他の候補生たちのことを、マザー牧場の羊だとな。
初めて耳にした言葉。「マザー牧場の羊」と口にしたのがシロエだったら、マザーが何かは直ぐ分かる。シロエが嫌ったマザー・イライザのことだろうと。
「…それ、有名な言葉なの?」
マザー牧場の羊って…。マザーはマザー・イライザなんでしょ、候補生たちが羊なんだ…?
群れだったの、と訊いてみた。ステーションでは個室で暮らしていた筈なのに、群れを作るのが不思議だから。どうやって群れになっていたのか、謎だから。
「本物の群れってわけじゃない。シロエが皮肉を言っていただけだ」
羊の群れみたいに、マザー・イライザに飼い慣らされて従ってる、と。大人しく言われた通りにして。群れからはぐれようともせずに。
…シロエが本物の羊の群れだの、性質だのを知っていたとは思えんが…。
それにしたって、上手い具合に言い当てたよな、と思わんか?
羊は群れから離れちまったら、ストレスでパニックになっちまう生き物なんだから。他の仲間と違う生き方は出来やしないのが普通の羊だ。…逃げ出して森で暮らす羊は別にして。
マザー牧場の羊、シロエを調べりゃ、必ず出会うってほどに有名な言葉になってるんだが…。
その調子だと、お前は調べちゃいないんだな、と尋ねられたから頷いた。
「だって…。前のぼく、シロエを捕まえ損なったから…」
シロエの船をキースが撃ち落とした時に、シロエの思念がシャングリラを通り過ぎたんでしょ?
前のぼく、それに気付いてたのに…。「誰かの声だ」って。
だけどシロエだと思っていなくて、捕まえようともしなかったから…。シロエが最期に紡いでた思い、ぼくは受け止め損なったんだよ。
シロエは誰かに思いを届けたかったのに…。受け止めていたら、色々なことが変わったのに。
だから調べていないんだよ、と俯いた。
セキ・レイ・シロエという名の少年のことは、未だに調べられないまま。歴史の授業で教わったことと、今のハーレイから聞いたことが全て。
彼の存在を考えただけで悲しくなるから、調べようという気持ちになれない。
今のハーレイが教えてくれた、マヌカの蜂蜜を入れたシロエ風のホットミルクを、風邪の予防に何度も飲んでいたって。
シロエが好んだ母の手作りのブラウニーのことを、新聞で読んだお菓子の記事で知ったって。
調べていないことは知りようがない。「マザー牧場の羊」という言葉。シロエが皮肉たっぷりに評した、候補生たちの姿は薄々分かるけれども。…前の自分は同じ時代に生きていたから。
「なるほどな…。シロエのことは調べていないから知らない、と」
チビのお前なら、まだ知らなくてもいいだろう。…歴史の授業にも出てこないから。
マザー牧場の羊ってトコまで教えていたなら、歴史の時間が幾つあっても足りないからな。
今のお前は、丁度シロエと同じような年頃になるんだが…。マザー牧場の羊と言ってた頃の。
キースと出会って直ぐの頃に言ったらしいから、というハーレイの指摘で気が付いた。キースと出会った頃のシロエなら、今の自分と変わらない。十四歳にしかならない子供。
あの時代なら、十四歳は大人の入口だけれど。…成人検査で、養父母とも別れた後だけれども。
「そういえば、そうだね。…今のぼくって、その時のシロエと同い年だね…」
ぼくはあんなに強くないけど…。シロエみたいに、独りぼっちで生きられないけど。
群れから離れた羊なんて…、とシロエが駆け抜けた短い生涯を思うと胸が締め付けられるよう。他の候補生たちを「マザー牧場の羊」と詰ったシロエは、群れを離れた羊だったのだろう。
羊は仲間と群れていないと、生きてゆくのも難しいのに。パニックに陥るほどなのに。
けれどシロエは群れを離れて、独りぼっちで生きて死んでいった。まるで牧場から逃げた、森で暮らしている羊のように。誰も毛刈りをしてくれないのに、一頭で強く生き抜く羊。
そのまま一頭で暮らしていたなら、いつか命の灯が消えるのに。刈って貰えない重たい毛皮が、自分の命を奪い去るのに。
「あの頃とは時代が違うだろ? 前のお前は強かったじゃないか」
ずいぶんと時が流れた今になっても、ソルジャー・ブルーと言えば大英雄だ。メギドを沈めて、ミュウの未来を拓いた英雄。
シロエなんかに負けちゃいないさ、前のお前も。…いや、シロエよりも遥かに強かった。お前と同じ時代に生きてた、前の俺がそいつを保証してやる。
時代が違うのは分かる筈だぞ、今のお前は羊の毛刈りに行きたいと言い出すチビの子供だ。羊に夢を見られる時代と、飼うことも出来なかった船で暮らした時代じゃ、まるで違うというもんだ。
マザー牧場の羊も今ではいないしな、と言われたけれど。本当に今は一頭もいないけれども。
「そうなんだけど…」
いいのかな、羊に夢を見ちゃって…。毛刈りに行きたい、なんて思って、はしゃいじゃって…。
同じ羊でもシロエだと…、と悲しい気持ちに包まれる。シロエはどんな思いでマザー牧場の羊と言ったか、羊の群れをどれほど嫌っていたことか、と。
「こらこら、しょげているんじゃない。マザー牧場の羊なんかは、もういないんだ」
お前は今を生きているんだから、遠慮しないで羊の夢を追い掛ければいいと思うがな?
青い地球まで来たんだろうが、とハーレイにポンと叩かれた頭。「此処は地球だぞ?」と。
「でも…。シロエも地球に行きたかったのに…」
自由になって地球に行くんだ、って思いながら死んだ筈なのに…。独りぼっちで…。
マザー牧場から逃げ出したせいで殺されちゃった、とシロエの悲しい思念波のことを思い出す。深い眠りの底にいてさえ、感じた切ないまでの憧れと想い。地球に向けての。
「昔のことに捕まるんじゃない。シロエの思念を捉えていたのは、前のお前だ」
此処にいるのは今のお前で、前のお前とは別のお前で…。俺と一緒に羊の毛刈りに行くんだろ?
結婚したら、俺の車で羊の毛刈りをさせて貰える牧場へ。刈った毛をお土産に貰える所に。
それに他の地域にも旅をするなら、デカイ羊の群れにも何処かで出会えそうだぞ。
まだ通り過ぎてくれないな、と待たなきゃいけない羊の群れ。次から次へと道路に出て来て。
同じ羊なら、そっちの方の夢を見てくれ。前のお前が生きてた時代の、マザー牧場の羊なんかを気にしていないで。…今の時代の、幸せな羊の夢を沢山。
「…いいのかな、それで…?」
ぼくだけ地球に来ちゃったのに、と拭えない胸の罪悪感。シロエの地球への強い想いに、確かに触れた前の自分。「ぼくは自由だ」と叫んで、飛び去ったシロエ。…暗い宇宙に。
「気にしちゃ駄目だと言っているだろう。あれからどれだけの時が経ったと思ってるんだ?」
シロエだって、きっと地球まで来ているさ。前も言ったろ、もう人間に生まれただろうと。
羊の毛刈りも体験済みかもしれないぞ。俺たちよりも、一足お先に。
何処かの牧場に出掛けて行って…、とハーレイが話してくれるシロエの姿。憧れていた地球に、人間の姿で生まれたシロエ。もしかしたら、とっくに牧場にも行って。
「そうだといいな、今度は本物の羊。…マザー牧場の羊じゃなくて」
本物の羊にちゃんと会えたら、シロエも羊を大好きになってくれるよね。嫌わないで。
モコモコの羊はうんと可愛くて、毛だってフカフカなんだから…。
ぼくだって毛刈りに行きたくなるほど、羊のいる牧場、うんと素敵な場所なんだから…。
夢が一杯の牧場なんだよ、と本物の牧場に描いた夢。マザー牧場の羊ではなくて、大きな群れになっているモコモコの羊。この地域のだと、大きいと言っても群れの羊は少なめだけれど。
シロエも羊を好きになっていてくれるといいな、と勢い込んだら、ハーレイが返して来た言葉。
「それなんだがな…。上手く毛刈りが出来たら、じゃないか?」
失敗してたら羊が嫌いになるかもしれん、というハーレイの読みに、二人で声を上げて笑った。羊の毛を上手く刈れなくて怒る、シロエの姿を想像して。
「羊なんか、大っ嫌いだ!」とプンプン怒って当たり散らしている、毛刈りに失敗したシロエ。足元には塊になった毛がコロコロ幾つも転がっていて、あちこちが禿げた羊が一頭。
「ふふっ…。きっとシロエは、まだ子供だね」
お父さんと一緒に挑戦したけど、上手く刈れずにカンカンだとか。
「そうだな、ジョミーが出会った頃みたいな、小さなシロエなんだろう」
失敗したことを、いつまでも忘れずに覚えてるんだぞ。成人検査はもう無いから。羊は嫌いだと思い続けて大きくなるのか、いつか復讐を果たそうとするか…。
シロエのことだし、負けん気だけは強そうだから…。きっと復讐に行くんだろうなあ、羊たちのいる牧場まで。「今度は負けない」と、大きくなったら。
なんと言っても、あのシロエだから…、と言われれば目に浮かぶよう。羊に敵愾心を燃やして、再挑戦に出掛けてゆくシロエが。歴史の教科書でお馴染みのシロエの姿だけれど。
「それじゃ、育ったら牧場に勤めて毛刈りのプロになるのかな?」
誰よりも上手く毛を刈れるような名人になって、プロの中のプロ。逃げ出しちゃって、毛の塊になってしまった羊の毛だって、上手に刈ってしまえるような…。
「どうなんだろうなあ、相手はシロエだからなあ…」
羊を捕まえてはブスブス注射していく獣医かもな、というハーレイの想像も面白い。今の時代は誰もがミュウだし、あの姿のシロエが白衣の獣医になっていたって可笑しくない世界。
「こらっ!」と、「逃げるな!」と羊に叫んで、端から注射してゆくシロエ。幼かった頃に毛を刈ろうとして失敗したから、その復讐に。
「ぼくは羊に負けないんだから」と、「全部まとめて注射してやる!」と。
きっと羊は逃げ回るのだろう、白衣のシロエを目にしたら。注射嫌いの今の自分と同じで、羊も痛い注射は苦手で嫌だろうから。
もしもシロエが地球に来ていたなら、本物の羊に会ったなら。モコモコの群れに出会ったら。
今度は好きになっていて欲しい、羊たちが作る大きな群れを。
マザー牧場の羊ではない、本当に本物の羊たち。毛刈りに出掛けて失敗したって、復讐のために戦って欲しい。毛刈りのプロを目指してもいいし、白衣の獣医になるのもいい。
今の自分も、今度は羊の夢を追うから。
白いシャングリラでは飼えなかった羊に会いに出掛けて、ハーレイと毛を刈るのだから。
平和な時代は、本物の羊のモコモコの群れに出会える時代。
シロエも自分もフワフワの羊の毛を刈るためにと、ハサミで挑戦できるのだから…。
羊の夢・了
※シャングリラでは飼えなかった動物が羊。その性質のせいですけど、マザー牧場の羊。
そう言ったシロエは、羊の性質を知っていたかどうか。そのシロエも、きっと今は幸せな筈。
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