シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
行きたい散歩
(んーと…)
たまにはこっちに行ってみよう、とブルーが曲がった道。学校からの帰りに、バス停から家まで歩く途中で。
いつもの道とは違うけれども、そちらに行っても家には帰れる。少し遠回りになるけれど。
(ハーレイが仕事の帰りに来てくれるとしても、まだ早いから…)
時間はたっぷり余裕がある筈。回り道してから家に帰って、のんびりおやつを食べていたって。
だから安心、家の近くを散歩しようという気分。天気が良くて綺麗な青空、心地良い気温。
(こんな日は散歩したくもなるよね?)
帰るついでに、と歩き始めた普段とはまるで違う道。知らない場所とは言わないけれど、滅多に通らない道を歩いてゆくから、何を見たって新鮮な感じ。
あちこちキョロキョロ眺め回して、目に付いた花を観察したり、出て来た犬に手を振ったり。
(ホントに、いつもと全然違う…)
道沿いの家も、庭の木なども。面白いから、もっと色々見たくなる。「次はこっち」と行きたい方へと角を曲がって、どんどん家から離れていって。
下の学校に通っていた頃は、この辺りでもよく遊んだ。友達の家まで行く途中だとか、公園から何処かへ行く時などに。
(犬と遊んだこともあったし…)
おやつを貰ったこともある。何人かで賑やかに歩いていたら、「丁度良かった」と、焼き立てのクッキーをくれた奥さん。「沢山作ったから、持って行ってね」と。
(他にも色々…)
思い出が一杯、と歩いてゆく道。転んで泣いてしまった場所やら、友達の家に続く道やら。
(こっちに行ったら…)
着くんだけどな、と友達の顔が浮かぶけれども、出掛けて行ったら、きっと帰して貰えない。
「上がって行けよ」と引き止められて、制服のままで家に上がって、おやつを食べて、遊んだりしてアッと言う間に時間が経って…。
(家に帰ったら、ママが「ハーレイ先生がいらしてたわよ」って…)
そのハーレイは、とっくに帰ってしまった後。「なんだ、留守か」と、ガレージに停めておいた車の方へと戻って行って。エンジンをかけて、そのまま自分の家に向かって。
それは困るから、友達の家の方には行かない。途中でバッタリ出会ったとしたら、「来いよ」と誘われてしまうから。誘われたならば断われなくて、家に上がって時間が経って…。
楽しく遊んで家に帰ったら、「帰った後」かもしれないハーレイ。そんなのは困る。
(君子危うきに近寄らず…)
そう言うものね、と別の方へと角を曲がって、家に繋がる道に入った。遠回りしたから、バス停から直接家に帰るのとは逆の方向。そっちから歩いて家へと向かう。
(反対側から歩いて行くと…)
家の見え方も変わっちゃうよ、と馴染んだ我が家を目指して歩いて…。
(ちょっぴりだったけど、立派に散歩!)
帰りに沢山歩いちゃった、と門扉を開けて庭に入った。いつもの何倍歩いただろう、と表の道を振り返りながら。二倍くらいでは、きっと足りない。三倍、もっと歩いただろうか?
制服を脱いで、ダイニングでおやつを食べる間も、庭を眺めて上機嫌。
「あっちの方から帰って来たよ」と、帰りに歩いた方の生垣などを眺めて。
(いつもは真っ直ぐ帰って来るけど、今日は散歩をしてたから…)
健康にもいいことだろう。ほんの少しの距離にしたって、普段よりも多めに歩いたのだから。
ハーレイのようにジョギングするのは無理でも、散歩も身体にいい影響を与える筈。足を動かす筋肉を使って、前へ前へと進んでゆくのだから。
(散歩も運動の内だよね?)
身体に負担をかけない運動。自分のように弱い身体でも、無理なく出来る運動が散歩。運動した分、背が伸びるといいな、と考えたりも。
(ぼくの背、ちっとも伸びてくれなくて…)
チビのまんま、と零れる溜息。
前の自分と同じ背丈に育たない限り、ハーレイはキスをしてくれない。恋人同士の唇へのキスは貰えないままで、キスは額と頬にだけ。
それが悔しくて、とても悲しくて、早く大きくなりたいのに…。
(一ミリも伸びてくれないんだよ…!)
ハーレイと再会した五月の三日から、まるで伸びてはくれない背丈。百五十センチのままで春も夏も過ぎて、制服も小さくならなくて…。
いつまでもチビでいたくはない。少しでも早く背を伸ばしたい。あと二十センチ。
(今日の散歩で、背が伸びるかな?)
伸びるといいな、と考えながら戻った二階の自分の部屋。空になったカップやケーキのお皿を、キッチンの母に返してから。
(帰りに余計に歩いた分だけ…)
運動したよ、と勉強机の前に座って、歩いた道を思い出す。新鮮に思えた帰り道の散歩。景色も道順も、何もかもが。
あれだけ歩いて運動をして、家に帰ったらおやつも食べた。きっと身体の栄養になるし、背丈も伸びてくれるかもしれない。散歩という名の軽い運動と、おやつの分だけ。
(散歩は身体にいいんだものね)
きちんと歩けば育つんだよ、と思った所で気が付いた。そういう言葉を前に聞いたよ、と。
(ブラウとエラ…)
遠く遥かな時の彼方で、まだ若かった彼女たちに言われた。「散歩は身体にいいのだから」と。前の自分が、今の自分と変わらない姿のチビだった時に。
アルタミラの檻で長く暮らした前の自分は、心も身体も成長を止めてしまっていた。本当の年はブラウたちよりも遥かに上で、子供などではなかったのに。
(だけど、育っても何もいいことは無いし…)
人体実験だけの日々では、未来も希望も見えては来ない。自分でも気付いていなかったけれど、深い絶望に覆われた心は、「育ってゆく」ことを放棄した。身体を「育ててゆく」ことも。
外見の年齢を止めることが出来るミュウの特性、それが悪い方へと働いた結果。成長するより、「今のままで」と考えた心。
(十四歳の誕生日が来たから、成人検査で…)
大人の社会へ旅立つのだ、と前の自分も考えた筈。順調に育って来たからこその成人検査。
けれども、其処で失くした「未来」。成人検査をパスする代わりに、ミュウと判断された自分。
(…育たなかったら、成人検査を受けることもなくて…)
地獄のような日々が始まることも無かったわけだし、「育つ」ことを捨てもするだろう。一人で檻に閉じ込められて、人体実験ばかりの日々では。
来る日も来る日も苦しみばかりで、未来など見えもしない中では、育つだけ無駄。
前の自分は育つことをやめて、心も育ちはしなかった。「脱出しよう」とも思わないまま、檻の中に蹲っていたというだけ。研究施設で誰よりも長く暮らしていたのに、子供のままで。
ブラウやエラや、前のハーレイたちは、成長を止めはしなかったのに。
成人検査を通過できずに檻に入れられても、酷い実験を繰り返されても、彼らは「諦める」道を選ばなかった。「いつか必ず此処を出てやる」と、見えもしない「未来」を見詰め続けて。
彼らはそうして成長したから、前の自分と出会った時には「子供がいる」と思ったらしい。成人検査を受けて間もない、十四歳になったばかりの子供なのだ、と。
(あの船の中で、ぼくだけがチビで…)
子供として可愛がられる間に、本当のことが判明した。「心も身体も子供だけれども、実年齢は船の誰よりも上だ」ということが。
そうなった理由に、前のハーレイたちは直ぐに気付いて、前の自分を育てることに力を入れた。これからは未来も希望もあるから、「大きく育ってゆかないと」と。
(育つためには、運動しなきゃ、って…)
ブラウとエラに、船の中を散歩に連れてゆかれた。「運動するのが一番だよ」と、選んで貰った運動が「散歩」。今と同じに弱い身体だから、無理なく運動するなら「散歩」がいいだろうと。
白い鯨になる前の船は、「シャングリラ」と言っても名前だけの楽園。
公園も無ければ、緑さえも無かったような船。散歩に出掛けてゆくと言っても、船の中を歩いてゆくだけのことで、通路を辿って進むだけ。「次はこっち」と曲がったりして。
ずいぶん味気ない散歩だけれども、あれも散歩には違いなかった。幾つものフロアを順に回って歩いた時やら、船で一番長い通路を何度も往復した時やら。
(ブラウたちと散歩をしてる間に、育ち始めて…)
再び成長を始めた身体。少しずつ背が伸び、チビの子供から、いつしか大人の姿へと。
散歩のお蔭で大きくなれたし、今日の散歩もきっと効果があるのだろう、と思ったけれど。背が伸びるかも、と夢を描いたけれど…。
(そんなに沢山、歩いてないよ…)
今日のぼくは、と散歩した距離を考えてみたら分かったこと。前の自分が散歩した距離、それに比べれば僅かなものだ、と。
白い鯨ではなかった頃でも、充分に大きかった船。大勢の仲間が暮らしていた船。
あの頃にしていた散歩の分を、家の近くで歩くなら…。
(…公園の方まで行かなくちゃ駄目?)
其処まで行ったら遠すぎるから、と行かずに帰って来た公園。夏休みの間は、朝に体操をやっているほどだから、公園としては大きい部類。大勢の人が一度に体操出来る広さがある公園。
その辺りまで行って来ないと足りないらしい、と気付いた散歩の距離。軽い運動と言える散歩をするのだったら、今日の散歩は充分ではない。もっと遠くまで行かないと。
けれど、いくら近所で散歩と言っても、一人でトコトコ歩いてゆくのは…。
(きっと途中で飽きてしまうし、ハーレイだって…)
前に「散歩に行こう」と誘ったら、「それはデートだ」と断られた。恋人同士で散歩するなら、デートということになるらしい。家の近所を歩くだけでも。
そうやって断られてしまわなければ、一緒に歩いて欲しかったのに。
今日は行かずに帰った公園、そっちの方まで行くだとか。もっと遠くの川の方まで、休みながら歩いてゆくだとか。…川に着いたら河原で休憩、帰りも散歩で、歩いて家まで。
前の自分がしていた散歩は、川までの散歩には敵わなくても、公園までなら充分にあった。毎日ブラウやエラと歩いて、大きく育っていったのだから…。
(今のぼくって、運動不足…)
明らかに足りていない運動。前の自分がチビだった頃に比べたら。
それで自分は、いくら経っても育たないのに違いない。運動の量が足りないせいで、チビのまま伸びてくれない背丈。
(これじゃ大きくなれないよ…)
そうは思っても、一人で散歩はつまらない。歩く距離が長くなればなるほど。
おまけに、一人で歩く間に、ウッカリ友達に出会ったら…。
(遊んで行けよ、って…)
そのまま家に連れて行かれて、ゲームをするとか、一緒におやつを食べるとか。友達によっては家にペットがいたりもするから、夢中で遊んでいる内に…。
(すっかり遅くなっちゃって…)
「さよなら!」と手を振って家に帰ったら、母に言われるかもしれない。ハーレイが家に来て、「ブルー君はお留守ですか」と、帰って行ってしまった、と。
散歩に出掛けて行ってそのまま、いつまで経っても家に戻らなかったのだから。
一人で散歩は、つまらない上に危険が一杯。友達と遊ぶのは楽しいけれども、ハーレイと二人で過ごせる方がずっといい。毎日のように来てくれるとは限らないから、その分、余計に。
(散歩に出掛けて、そのまま留守にしちゃうよりかは…)
ハーレイを巻き込むべきだろう。前は「駄目だ」と言われた散歩に、ハーレイも一緒に出掛けてくれるようにと、きちんと頼んで。
(デートじゃなくって、運動なんだし…)
断られないかも、という気がする。前に散歩に誘った時には、運動の話を出してはいない。あの時は散歩に行きたかっただけで、「ハーレイと二人で歩く」ことが目当て。二人並んで、いろんな話をしたりしながら。
(ただ歩きたいって言うのと、運動したいって言うのとでは…)
ずいぶん違う、と自分でも分かる。運動だったら、ハーレイは乗り気になるかもしれない。
(夏休みに公園でやってた体操…)
「行きたいんだったら、付き合うが?」と誘われたことを覚えている。毎朝、家まで迎えに来るとも言っていた。朝の体操に出掛けるのなら。
(もしも体操に行っていたなら、毎朝、公園まで二人で散歩…)
行きも帰りも二人で歩いて、公園に着いたら他の人たちも一緒に体操。「健康的だぞ」と勧めていたハーレイだし、運動のための散歩となったら、断らない可能性だって。
(頼んでみなきゃね…?)
ハーレイが来てくれた時に、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。
「あのね、ハーレイ…。散歩に連れて行って欲しいんだけど」
ぼくのお願い。ぼくと一緒に散歩をしてよ。この家の近くだけでいいから。
「はあ? 散歩って…」
何を言うんだ、前に断ったと思うがな?
お前と散歩に行けばデートになっちまうから、そいつは駄目だと。…デートにはまだ早いしな。
忘れたのか、とハーレイに軽く睨まれたけれど、此処で引き下がるわけにはいかない。
「デートの散歩じゃないってば! 運動だよ!」
でないと、ちっとも育たないんだよ、いつまでもチビのままなんだから…!
前のぼくは散歩のお蔭で大きく育ったんだもの、という説明から始めることにした。前の自分を育てた運動、それがブラウたちとの散歩だった、と。
「船の中の通路を歩いていたでしょ、前のハーレイが横を走って行ってたじゃない」
前のハーレイは走って運動、ぼくはブラウやエラたちと散歩。
あれのお蔭で大きくなれたよ、それまでは育っていなかったのに…。アルタミラの檻で暮らした間は、少しも育ちはしなかったのに。
エラもブラウも、ぼくに言ったよ、「運動しなきゃ」って。
運動したら身体も育つし、船の中の散歩も大切だから、って毎日のように連れてってくれて…。
前のぼくは散歩のお蔭で育ち始めて、ちゃんと大きくなれたんだってば。
でも、今のぼくは、ハーレイと会ってから少しも育たなくって…。一ミリも背が伸びなくて…。
これって、運動不足だからだよ、前と同じで。
ぼくの運動が足りていないせいで、ちっとも大きくなれないんだよ。…チビのまんまで。
だから散歩に連れて行って、と頭を下げた。「運動不足じゃなくなるように」と。
「運動不足で育たないだと? 今のお前がか?」
そいつは違うと思うがなあ…。どう考えても、運動不足だとは思わんが?
なにしろ今のお前だからな、とハーレイは至極真面目な顔。「デートは駄目だ」と切って捨てる代わりに、「運動不足ではない」と来た。
「運動不足じゃないなんて…。なんで?」
どうしてハッキリそう言えちゃうの、今のぼくのことも知ってるくせに。
ぼくは今でも身体が弱くて、ろくに運動してなくて…。
学校だってバス通学になってるくらいで、他の子みたいに歩いて通っていないのに…。
自転車で通う子だっているよ、と挙げた運動不足の一例。学校までは歩ける距離で、自転車でも軽く走ってゆける。身体さえ丈夫に出来ていたなら、普通はそう。…体力自慢の猛者ともなれば、学校まで一気に走り抜くほど。「これくらい軽い」と、ギリギリの時間に家を出て。
「それだ、それ。バス通学になってる所が大切だ」
歩いて学校に通うように、とは誰も言ったりしないだろうが。先生は大勢いるのにな?
お前はお前の身体に見合った運動をしてるってわけだ、バス停から家まで歩くってトコで。
後は学校で校舎の中を移動するとか、もうそれだけで充分なんだということだな。
体育だって、見学してない時もあるだろ、と指摘された。
見学が多い体育だけれど、体操服を着ている時だってある。身体が悲鳴を上げない程度に、他の生徒とグラウンドを駆けている時だって。
「そうだけど…。でも、途中から見学になっちゃう時も多いよ?」
サッカーの途中で抜けてしまったり、走ってる途中で座り込んだり。
無理をし過ぎたら、後で寝込んでしまうから…。それは困るし、ちゃんと用心しているもの…。
だから運動、足りていないよ。他のみんなと同じくらいに走ったりなんかは出来ないから。
それなのに、学校に行く時までバスで通っているなんて…。もっと運動しなくっちゃ…。
前のぼくみたいに散歩しないと、と頼み込んだ。「ハーレイ、一緒に散歩してよ」と。
「分かっちゃいないな、お前ってヤツは。本当に運動不足だと言うんだったら、その辺はだ…」
きちんと周りが考えるってな、出来る範囲でお前が運動するように。
散歩もそうだし、他にも軽い運動ってヤツは幾つもある。この部屋で出来るようなのも。
しかし、お前は、お医者さんにも何も言われちゃいないだろ?
「毎日これだけ歩くように」だとか、「こういう体操をするように」とかは…?
どうなんだ、と尋ねられたから、素直に答えた。「お医者さんは何も言わないよ」と。
「体育の授業も、学校に行く時も、無理しないように、って言われてるだけ…」
家でも、あんまり無理しちゃ駄目だ、って。…具合が悪くなった時には、直ぐに寝ないと…。
そのくらいかな、と考えてみる。散歩も体操も、医師からは何も言われないから。
「ほら見ろ、やっぱり運動不足じゃないってな。それだけしか言われていないってことは」
医者って仕事は、患者の健康管理ってヤツも考えないと駄目だから…。
必要だったら、運動の内容を指示されるぞ。場合によっては、そのための教室なんかの紹介も。水泳がいいと思った場合は、患者が集まる水泳教室。体操の方も同じだな。
本物の運動不足となったら、医者はそこまでするもんだ。でないと治らない病気もあるから。
運動ってヤツを馬鹿にするなよ、とハーレイは運動の大切さを説いた。運動不足が酷くなったら悪化する病気もあるらしい。そうなった時は、とにかく運動。医師の指示通りに。
「それに比べたら、お前はきちんと運動している」というのがハーレイの意見。バス通学でも、体育は見学ばかりの日々でも、運動は足りているらしい。
散歩なんかは必要ない、とも言われてしまった。「お前の運動、充分だろう?」と。
運動不足などではなくて、散歩の必要も無いらしい自分。確かに主治医には何も言われないし、両親も「運動しなさい」などとは言わない。ただの一度も。
けれども自分は育たないわけで、アルタミラの檻の中でもないのに、一ミリも背が伸びない今。幸せな日々を過ごしているのに、食事もおやつも足りているのに。
「運動不足じゃないなんて…。それじゃ、どうして背が伸びないわけ?」
前のぼくの背が伸びなかった頃は、ずっと檻の中で暮らしてて…。
ハーレイたちみたいに強くなくって、ぼくは育たなかったんだよ。大きくなっても、いいことは何も無いんだから。…ぼくに自覚は無かったけれど。
お蔭でぼくだけチビの子供で、前のハーレイたちが育ててくれて…。身体も、中身の心の方も。
でも、今のぼくは檻で暮らしていないから…。ぐんぐん育つと思わない?
それがちっとも育たないのは、運動不足で、散歩に行かないからじゃないかな…?
前のぼくは散歩をしてたんだから、と食い下がったけれど、ハーレイは笑うだけだった。
「そいつは、お前の考え違いというヤツだ。…そうでなければ、思い込みだな」
散歩に行ったら背が伸びるだろう、と前のお前を重ねちまって、夢を見てるといった所か。
だがな、本当はそうじゃない。
いつも言ってるだろ、今のお前がチビのままなのは、神様のお考えだろう、と。
前のお前が失くしちまった子供時代を、今のお前は体験中だ。前よりも、ずっと素敵な世界で。
成人検査なんかは何処にも無い上、血の繋がった本物のお父さんとお母さんがいて…。
幸せ一杯に過ごしてるわけで、それが出来るのは今だけだ。…お前がチビの子供の間。
背が伸びて大きくなっちまったら、今みたいに甘えられないぞ?
お父さんやお母さんたちにとっては、いつまでも「可愛い一人息子」だろうが、周りの目というヤツもあるから…。家では良くても、外ではなあ…?
我儘を言ったり出来なくなるぞ、と言われてみれば、その通り。
前の自分のような姿に育った時には、両親と何処かに出掛けたとしても…。
(パパが食べてるお料理、とっても美味しそうでも…)
「それ、ちょうだい!」と手を伸ばせはしない。一切れ欲しい、とフォークで突き刺すことは。
母の方でもそれは同じで、「これも美味しいわよ。食べてみる?」と、お皿に載せてはくれないだろう。スプーンで掬って、「食べる?」と差し出してくれることだって。
チビの自分だから出来ること。家の外でも、両親に甘えて過ごせる自分。…まだ子供だから。
けれど大きくなってしまったら、他の人たちの目があるだろう。甘えたくても、甘えたい気分になった時でも。
(家で御飯を食べてる時なら、「それ、ちょうだい!」って言えるけど…)
レストランでは、とても言えない。喫茶店でも言えはしないし、言える場所など何処にも無い。食事だけではなくて、一休みしたい時だって…。
(今のぼくなら、「疲れちゃった」って…)
ペタンと座り込んでしまっていたら、両親がせっせと世話してくれる。ジュースを飲ませたり、甘い物を買いに走ったり。チビの自分はチョコンと座って、小さな王様みたいだけれど…。
(大きくなった姿だったら、偉そうに見えるか、頼りなさそうか…)
どっちにしたって、いい評価は得られそうもない。「身体ばっかり大きいんだな」と、ジロジロ眺められたりもして。
そう考えると、ハーレイの言葉が正しいのだろう。チビの自分はとても幸せで、満ち足りた今を過ごしているから。…大きくなったら出来ないことも、今の自分は出来るのだから。
育ってしまえばそれでおしまい、チビの姿には戻れない。「あの頃の方が楽しかったよ」などと思ってみたって、身体は縮んでくれたりしない。
でも…。
「ハーレイと散歩、行きたいんだけどな…」
運動不足になってるんなら、散歩に行けると思ったのに…。デートじゃなくって運動だから。
そっちの方なら、ハーレイは断らないんだろうし…。
散歩に連れてってくれていたでしょ、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。「どうなるの?」と。
「お前が運動不足だったら、そりゃまあ、断ったりはしないな」
健康のために散歩をしたい、と言うんだったら、俺も断るような真似はしないぞ。
もっとも、デートじゃないわけなんだし、其処をきちんと詰めないと…。
デート気分で散歩されたら、俺の方は愉快じゃないからな。運動はあくまで運動なんだし、俺は手抜きをしない主義だ。こと、運動に関しては。
ダテに柔道部だの、水泳部だのの顧問をやってはいない。
お前を散歩に連れて行くにしても、きちんとコースを決めるだろうな、時間なんかも。
運動不足で散歩となったら、俺はコーチだ、とハーレイは厳しい顔をしてみせた。手加減なしでビシバシやるぞ、と。
「お前が嫌だと言い出したって、引き摺って出掛けて行くかもなあ…。ほら、行くぞ、と」
そういう散歩は、お前も嬉しくないだろう?
「うん…。ハーレイと二人で散歩するのはいいけれど…」
今日のコースはもっと先まで、って歩かされるとか、行きたくない日も行かされるとか…。
そんなのは嫌だし、ホントに普通の散歩がいい。…ハーレイがコーチにならない散歩。その日の気分で好きに歩けて、好きな所で家に帰って来られる散歩が。
でも駄目みたい…、と肩を落とした。自分は運動不足ではなくて、ハーレイと散歩に行くことは無理。それに運動不足だとしても、その時はコーチのハーレイの指導で散歩になるから。
「今は駄目だが、いずれは俺と散歩に行けるさ」
シャンと背筋を伸ばして歩け、なんてことは言わない俺と一緒に。…それこそデート気分でな。
しかし、散歩か…。前のお前は、いつも散歩をしていたが…。
船の中をな、とハーレイが顎に手を当てているから、首を傾げた。
「どうかしたの?」
前のぼくの散歩、今のハーレイだと気に入らないとか…?
もっとシャキシャキ歩くべきだとか、歩いてた距離が足りないだとか…。コーチをしよう、っていう今のハーレイの目で見てみたら、あんな散歩じゃ駄目だった…?
ハーレイは運動のプロだものね、と分からないではない気分。今のハーレイは柔道と水泳で鍛え続けて、プロの選手の道まで開けていたほどの腕。トレーニングにも詳しいだろうし、散歩という軽い運動にしても、歩き方などに理想の形があるだろうから。
「いや、そういうのじゃないんだが…。前のお前は頑張っていたし」
あの船の中じゃ、あれだけ出来れば上等だ。今の平和な時代だったら、色々と注文するんだが。
平らな所ばかりを歩かず、少しは坂も歩いてみろとか、歩くペースの配分なんかも。
今の地球なら、どんなコースでも選び放題だが、前のお前が歩いていたのは宇宙船の中で…。
なんともデカイ船だったよな、と思ってな。
白い鯨になる前の船でも、あれは相当にデカかったんだ。船の中で散歩が出来るくらいに。
前のお前が散歩していた距離は、かなりのモンだぞ。毎日、歩いていたわけだがな。
景色も無いような船の通路を飽きもしないで…、と今のハーレイが感心している散歩。そこそこ距離があった筈だと、「この辺りであれだけ歩くとなったら、何処までだろうな?」と。
「お前の家から歩き始めたら、かなり遠くへ行けるんじゃないか?」
夏休みに朝の体操をしていた公園、あそこまでは充分、行けそうだ。前のお前の散歩の距離。
「あっ、ハーレイも気が付いた?」
前のぼくの散歩、うんと長い距離を歩いてたんだ、っていう所。船の中しか歩いてないのに…。
だけど散歩にかかった時間はけっこうあったし、あの距離はかなり長いよね、って…。
そのせいで散歩だと思ったんだよ、と「運動不足だ」と散歩を頼んだ理由を話した。学校からの帰りに、バス停から家まで真っ直ぐ帰らず、散歩したこと。いつもの道を外れていって。
あちこち歩いて満足したのに、後から思い返してみたなら、前の自分が散歩をした頃に比べて、相当に短かった距離。
それに気付いて、「今の自分は運動不足だ」と考えたのだ、と。何もしていないのに、いきなり散歩や運動不足という言葉などを、ポンと思い付いたわけではない、と。
「そうだったのか…。前のお前の散歩と比べていたんだな、お前」
あれに比べりゃ、今のお前は運動不足な気もするだろう。歩いている距離が違い過ぎるから。
しかしだ、今のお前は他にも色々と動いているから、何の心配も要らないってな。
前のお前に体育の授業は無かったんだし、それだけでも大きく違うってモンだ。見学の時が多い授業でも、まるで無いよりは遥かにマシなものなんだから。
前のお前は船の中を歩いて、運動代わりにしていたが…。前の俺たちは、けっこう歩いていたと思うぞ、地面なんか何処にも無かった割には。
お前はともかく、俺の方はだ、よく頑張って歩いてたよなあ…。
「え? ハーレイって…」
前のハーレイは散歩じゃないでしょ、いつも船の中を走っていたよ。ジョギングみたいに。
ぼくやブラウが歩いてる横を、凄い速さで追い越して行って…。
行っちゃった、って見送っていたら、違う方から走って戻って来たりもして。
ついていける人は誰もいなかったでしょ、と前のハーレイを思い出す。一緒に走ろうとしていた仲間は、皆、置き去りにされるのが常。ハーレイが走り去ってしまって。
だからハーレイが「頑張った」ものは、走ることだと考えたのに…。
「あの船じゃなくて、白い鯨になった後だな。…シャングリラには違いないんだが」
俺が頑張って歩いていたのは、そっちの船だ、とハーレイは手を広げてみせた。
「とんでもなくデカイ船だったぞ?」と、「どれだけの大きさがあったんだ、アレは?」と。
言われてみれば、白いシャングリラは巨大な船。人類軍さえ、あれほどの巨艦は持たなかった。民間船もそこまで大きくはなくて、宇宙最大の船でもあったシャングリラ。
「大きかったね、シャングリラは…。白い鯨になった後には」
もっと大きく出来る筈だ、っていう案を取り入れていって、ああいう船になったから…。
船の端から端まで歩いて行くのは大変だから、ってコミューターまで走っていたくらいに。
最初の頃には、たまに止まってしまったけどね、と船の中を結んでいた乗り物を懐かしむ。皆が使っていたのだけれども、止まった時には歩く以外に移動手段が無いものだから…。
(早く直して、みんなが使えるようにしないと…)
大変なことになってしまう、とゼルが自転車で走っていた。修理の指揮を執るために。少しでも早く現場に着こうと、倉庫から引っ張り出してきた古い自転車で。
ゼルが現場に急ぐ時には、前のハーレイも同じに走った。やはり自転車で、船の通路を。背中のマントを翻しながら、せっせとペダルを踏み続けて。
「自転車なあ…。ああいう便利なものもあったが、壊れちまったら、それっきりでだ…」
もうコミューターも安定してたし、誰も作りやしなかった。新しい自転車というヤツは。
そういうやたらとデカかった船で、前の俺は仕事柄、あちこちにだな…。
テクテク歩いて出掛けたもんだ、というハーレイの言葉は間違っていない。コミューターが無い所にだって、キャプテンの仕事はあったのだから。
「そうだね、農場の見回りだったら、端から端まで歩くんだし…」
やっと終わった、と思った途端に、機関部の奥に呼ばれちゃったら、また歩くしか…。
「そういうことだな、キャプテン稼業は忙しいんだ」
何も無ければ、ブリッジだけで一日が終わる時だってあるが…。
そうじゃない日は、どれだけの距離を歩いたんだか…。下手なミュウなら参っちまうぞ。
同じ船でも、前のお前は視察くらいでしか歩いちゃいないが。
「うん。瞬間移動でズルもしてたし…」
ハーレイみたいに真面目に通路を歩いていないよ、前のぼくはね。
コミューターも使わなかった時があるもの、とクスクス笑った。あんな乗り物で移動するより、瞬間移動の方が遥かに速い。何処へ行くにも、一瞬だったから。
「前のぼくは瞬間移動で飛んで行くことが多かったけど…」
青の間からブリッジ、かなり遠いね。…ブリッジの入口までしか、瞬間移動はしていないけど。
あそこまでの距離って、ぼくの家からバス停まで行くより遠くない…?
もう一つ向こうのバス停まで行けてしまえそう、と頭の中に描いた距離。それとも、もっと遠いだろうか。バス停で二つほど向こうにあるのがブリッジだろうか、此処が青の間なら…?
「バス停か…。それより向こうにあるっていうのは確かだろうな、ブリッジは」
次のバス停までになるのか、もう一つ向こうか、その辺は直ぐにはピンと来ないが…。
あの通りを歩いて来る日もあるんだがなあ、お前の家まで歩く時には。
シャングリラってヤツは、実に馬鹿デカイ船だった。その中を歩いていたのが俺か…。
いったいどれだけ歩いたのやら、とハーレイが回想している「忙しかった日」。船のあちこちでキャプテンが呼ばれて、シャングリラの中を歩き回って終わっていた日。
「…シャングリラの中って…。全部歩いたら、どのくらいかかるものだったのかな?」
船の端から端まで回って、全部の通路を歩いていたら。
「それは時間を訊いているのか?」
全部歩くのにかかる時間は、どれほどかという質問なのか?
「そうだけど…。どのくらいなの?」
青の間からブリッジまでの距離でも、バス停の所を通り過ぎていってしまうんでしょ?
全部の通路を歩いて行ったら、時間はどのくらいかかるのかなあ、って思ったんだけど…。
ホントに大きな船だったから、と白いシャングリラの姿を思い浮かべる。前の自分が思念の糸を張り巡らせていた巨大な船。その中を歩いて通って行くなら、どのくらいの時間が要るのかと。
「さてなあ…?」
前の俺も一度に歩いちゃいないし、実際の所はよく分からん。
キャプテンのくせに、と言われそうだが、とても歩けるような船ではなかったからな。
俺の身体は一つだけだし、一日の間に行ける範囲は限られている。どうしても無理だと判断した時は、伝令を走らせることもあったし…。
日を改めて行くことにする、と後回しにした案件だって多いってな。
だがデータなら、と挙げられた数字。白いシャングリラの桁外れな巨大さを示すもの。
船の端から端までの長さを示すものはともかく、通路を全て繋いだ距離は、どれほどなのか。
「シャングリラの通路って…。全部繋いだら、そんなにあったの?」
前のぼくも、多分、一度くらいは耳にしたことがあっただろうけど…。
ハーレイと違って、その数字を使うことが無いから、何も覚えていなかったよ。船の中だなんて信じられないくらい…。一つの町がスッポリ入ってしまいそう…。
「当たり前だろ、船だけでもデカイわけだから」
その中を結ぶ通路となったら、全長ってヤツの何倍になるか、外からは想像もつかないってな。
全部の通路を走ることになれば、マラソンどころの距離じゃないんだ。
前の俺でも、あの船の方だと、とてもじゃないが全部を走ろうって気にはなれんぞ。
ダウンしちまう、とハーレイでさえも白旗を掲げる白いシャングリラの通路。全部を繋いだ距離など走ってゆけはしないと。
「そうみたいだね…。今のハーレイなら、走れるようにも思うけど…」
走れたとしても相当かかるね、走り始めてからゴールインまでに。
「うむ。やってやれないことは無いとは思うんだがなあ、ダテに鍛えちゃいないから」
とはいえ、給水ポイントと軽い何かが食える所は欲しいモンだな。
走った分だけエネルギーを使うし、水分だって抜けていくから補給しないと。
お前じゃとても歩けやしないぞ、あれだけの距離は。…途中で何度も休むにしたって。
前のお前は歩いちゃいないが、と苦笑している今のハーレイ。「いつも瞬間移動だっけな」と。
「そうだよ、楽で速かったからね」
だから歩こうとは一度も思わなかったけど…。歩いてみたことも無いんだけれど…。
今なら、歩いてみたいかな。とんでもない距離になるみたいだけど…。
「なんだって?」
歩くって、何処を歩くんだ?
シャングリラはもう宇宙の何処にも無いんだが、とハーレイは怪訝そうな顔をするけれど。
「分かってるってば、本物はもう無いってことは。でもね…」
代わりに青い地球があるでしょ、ぼくたちが生きてる今の地球が。
その地球の上で、おんなじ距離を歩いてみるんだよ。ハーレイが言った、さっきの距離をね。
同じ歩くのなら、この町の中で、ハーレイと一緒に。
青の間から出発したつもりになって、ずっと歩いて同じ距離をゆく。白いシャングリラの通路を全て繋いだ距離だけ、二本の足で歩き続けて。
「ふうむ…。あの距離を歩いてみようってか?」
面白いかもしれないな、それは。…シャングリラのデカさを俺と二人で体験する、と。
しかし、お前は参っちまうぞ、それだけの距離を歩くとなると。もはや散歩とも言えないし…。
かなりハードな運動になると思うんだが、とハーレイは心配そうだけれども、その心配は多分、要らない。此処は地球の上で、シャングリラの中ではないのだから。
「大丈夫。休憩する場所、幾つもあるでしょ」
この町の中を歩いていくだけで、シャングリラの中とは違うんだから。
喫茶店もあるし、ジュースを売ってるお店も沢山。食事が出来るお店だってね。
「なるほどなあ…。確かに船の中とは違うな、休める場所はドッサリある、と」
そいつを星座のように繋いで、あれだけの距離を歩くってか。お前が疲れてしまわない程度に。
歩き疲れた時には休んで、飯を食ったりなんかもして。
「いい方法だと思うんだけど…。シャングリラの中を二人で歩く方法」
船は無いけど、視察気分で、散歩でデート。こんなのはどう?
此処まで来たね、って、シャングリラの中なら何処になるのか考えたりして。
「それも悪くはないかもしれん。お前が参ってしまわないなら」
最初の間は参っちまっても、何度も出掛けて、少しずつ距離を伸ばすつもりだな…?
全部を歩くつもりだろうが、とハーレイが訊くから頷いた。
「そう! いつかは全部を歩くんだよ」
シャングリラの中の通路を全部、繋いだだけの距離を歩いて散歩。
走ったんなら一日で行けても、散歩だったら、一日じゃ無理な気もするけれど…。
それにホントは、今すぐにだって行きたいんだけど…。
「今は駄目だな、デートにはまだ早いと言ったぞ」
連れては行けん、とハーレイが睨むから、小さな声で言ってみた。
「ぼくの背、伸ばしたいんだけど…」
運動不足で背が伸びないなら、散歩で伸びてくれそうだけど…。駄目…?
やっぱり駄目かな、と縋るような視線を向けたけれども、ハーレイはフンと鼻で笑った。
「さっきも言ったが、今のお前の運動の量は足りている。充分にな」
だから散歩の必要は無くて、俺と一緒に歩かなくても安心だ。運動不足になってはいない。
俺と結婚した後にだって、運動不足を解消するより、体力作りの方の散歩だな。その視察は。
シャングリラの中を歩くつもりの長い散歩は…、とハーレイが言うから心配になった。コーチの方のハーレイが出てくるのだろうか、と。
「ハーレイ、ぼくを鍛えるつもり?」
散歩をするならシャキシャキ歩け、って号令したり、「背筋を伸ばせ」って叱ったり。
そういうコーチになったハーレイと一緒に歩くの、シャングリラの中を歩くつもりの散歩は…?
「お前なあ…。それじゃお前が楽しくないだろ、コーチと歩いて行くなんて」
体力作りはそのままの意味だ、少しでも風邪を引かない身体になるように。
お前に体力をつけさせようにも、ジョギングは、お前、無理だから…。
シャングリラの中を歩いていると思えば、長い距離でも楽しい気分で歩けるだろ?
無理をしないで、お前のペースで…、という提案にホッとした。それなら歩けそうだから。
「言い出したのは、ぼくだしね…。運動不足だから散歩したい、って…」
じゃあ、運動…。体力作りのために、ハーレイと散歩。
最初にぼくが思っていたより、とんでもない距離になっちゃったけど…。でも、歩くよ。
「よし、決まりだな。そうとなったら…」
シャングリラの設計図と町を重ねてみるかな、最初は船の端から端まで歩いてみよう。
それで距離感を掴んだ後には、距離を伸ばして、通路を全部繋いだ長さを歩いてゆく、と。
休憩場所を幾つも挟んで、二人でルートを決めようじゃないか、とハーレイが言うから、今から楽しみでたまらない散歩。この町の中を、ハーレイと歩いてゆける時。
いつか二人で出掛けてみよう、長い散歩に。一日ではとても歩き切れない距離のコースを。
白い鯨の巨大さを二人で実感できて、身体も健康になる散歩。
疲れたら休んで、無理はしないで。
少しずつ距離を伸ばしてゆけたら、きっと幸せ一杯だろう。
ハーレイに「頑張ったな」と褒めて貰えて、「もっと歩くよ」と歩き続けて。
白いシャングリラの中を歩く代わりに、青い地球の上で、手をしっかりと繋ぎ合って…。
行きたい散歩・了
※白い鯨と呼ばれたシャングリラ。船の通路を全て繋げば、町が丸ごと入るくらいに。
もうシャングリラは無いのですけど、ハーレイとブルーで、いつか散歩に行ってみたい距離。
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たまにはこっちに行ってみよう、とブルーが曲がった道。学校からの帰りに、バス停から家まで歩く途中で。
いつもの道とは違うけれども、そちらに行っても家には帰れる。少し遠回りになるけれど。
(ハーレイが仕事の帰りに来てくれるとしても、まだ早いから…)
時間はたっぷり余裕がある筈。回り道してから家に帰って、のんびりおやつを食べていたって。
だから安心、家の近くを散歩しようという気分。天気が良くて綺麗な青空、心地良い気温。
(こんな日は散歩したくもなるよね?)
帰るついでに、と歩き始めた普段とはまるで違う道。知らない場所とは言わないけれど、滅多に通らない道を歩いてゆくから、何を見たって新鮮な感じ。
あちこちキョロキョロ眺め回して、目に付いた花を観察したり、出て来た犬に手を振ったり。
(ホントに、いつもと全然違う…)
道沿いの家も、庭の木なども。面白いから、もっと色々見たくなる。「次はこっち」と行きたい方へと角を曲がって、どんどん家から離れていって。
下の学校に通っていた頃は、この辺りでもよく遊んだ。友達の家まで行く途中だとか、公園から何処かへ行く時などに。
(犬と遊んだこともあったし…)
おやつを貰ったこともある。何人かで賑やかに歩いていたら、「丁度良かった」と、焼き立てのクッキーをくれた奥さん。「沢山作ったから、持って行ってね」と。
(他にも色々…)
思い出が一杯、と歩いてゆく道。転んで泣いてしまった場所やら、友達の家に続く道やら。
(こっちに行ったら…)
着くんだけどな、と友達の顔が浮かぶけれども、出掛けて行ったら、きっと帰して貰えない。
「上がって行けよ」と引き止められて、制服のままで家に上がって、おやつを食べて、遊んだりしてアッと言う間に時間が経って…。
(家に帰ったら、ママが「ハーレイ先生がいらしてたわよ」って…)
そのハーレイは、とっくに帰ってしまった後。「なんだ、留守か」と、ガレージに停めておいた車の方へと戻って行って。エンジンをかけて、そのまま自分の家に向かって。
それは困るから、友達の家の方には行かない。途中でバッタリ出会ったとしたら、「来いよ」と誘われてしまうから。誘われたならば断われなくて、家に上がって時間が経って…。
楽しく遊んで家に帰ったら、「帰った後」かもしれないハーレイ。そんなのは困る。
(君子危うきに近寄らず…)
そう言うものね、と別の方へと角を曲がって、家に繋がる道に入った。遠回りしたから、バス停から直接家に帰るのとは逆の方向。そっちから歩いて家へと向かう。
(反対側から歩いて行くと…)
家の見え方も変わっちゃうよ、と馴染んだ我が家を目指して歩いて…。
(ちょっぴりだったけど、立派に散歩!)
帰りに沢山歩いちゃった、と門扉を開けて庭に入った。いつもの何倍歩いただろう、と表の道を振り返りながら。二倍くらいでは、きっと足りない。三倍、もっと歩いただろうか?
制服を脱いで、ダイニングでおやつを食べる間も、庭を眺めて上機嫌。
「あっちの方から帰って来たよ」と、帰りに歩いた方の生垣などを眺めて。
(いつもは真っ直ぐ帰って来るけど、今日は散歩をしてたから…)
健康にもいいことだろう。ほんの少しの距離にしたって、普段よりも多めに歩いたのだから。
ハーレイのようにジョギングするのは無理でも、散歩も身体にいい影響を与える筈。足を動かす筋肉を使って、前へ前へと進んでゆくのだから。
(散歩も運動の内だよね?)
身体に負担をかけない運動。自分のように弱い身体でも、無理なく出来る運動が散歩。運動した分、背が伸びるといいな、と考えたりも。
(ぼくの背、ちっとも伸びてくれなくて…)
チビのまんま、と零れる溜息。
前の自分と同じ背丈に育たない限り、ハーレイはキスをしてくれない。恋人同士の唇へのキスは貰えないままで、キスは額と頬にだけ。
それが悔しくて、とても悲しくて、早く大きくなりたいのに…。
(一ミリも伸びてくれないんだよ…!)
ハーレイと再会した五月の三日から、まるで伸びてはくれない背丈。百五十センチのままで春も夏も過ぎて、制服も小さくならなくて…。
いつまでもチビでいたくはない。少しでも早く背を伸ばしたい。あと二十センチ。
(今日の散歩で、背が伸びるかな?)
伸びるといいな、と考えながら戻った二階の自分の部屋。空になったカップやケーキのお皿を、キッチンの母に返してから。
(帰りに余計に歩いた分だけ…)
運動したよ、と勉強机の前に座って、歩いた道を思い出す。新鮮に思えた帰り道の散歩。景色も道順も、何もかもが。
あれだけ歩いて運動をして、家に帰ったらおやつも食べた。きっと身体の栄養になるし、背丈も伸びてくれるかもしれない。散歩という名の軽い運動と、おやつの分だけ。
(散歩は身体にいいんだものね)
きちんと歩けば育つんだよ、と思った所で気が付いた。そういう言葉を前に聞いたよ、と。
(ブラウとエラ…)
遠く遥かな時の彼方で、まだ若かった彼女たちに言われた。「散歩は身体にいいのだから」と。前の自分が、今の自分と変わらない姿のチビだった時に。
アルタミラの檻で長く暮らした前の自分は、心も身体も成長を止めてしまっていた。本当の年はブラウたちよりも遥かに上で、子供などではなかったのに。
(だけど、育っても何もいいことは無いし…)
人体実験だけの日々では、未来も希望も見えては来ない。自分でも気付いていなかったけれど、深い絶望に覆われた心は、「育ってゆく」ことを放棄した。身体を「育ててゆく」ことも。
外見の年齢を止めることが出来るミュウの特性、それが悪い方へと働いた結果。成長するより、「今のままで」と考えた心。
(十四歳の誕生日が来たから、成人検査で…)
大人の社会へ旅立つのだ、と前の自分も考えた筈。順調に育って来たからこその成人検査。
けれども、其処で失くした「未来」。成人検査をパスする代わりに、ミュウと判断された自分。
(…育たなかったら、成人検査を受けることもなくて…)
地獄のような日々が始まることも無かったわけだし、「育つ」ことを捨てもするだろう。一人で檻に閉じ込められて、人体実験ばかりの日々では。
来る日も来る日も苦しみばかりで、未来など見えもしない中では、育つだけ無駄。
前の自分は育つことをやめて、心も育ちはしなかった。「脱出しよう」とも思わないまま、檻の中に蹲っていたというだけ。研究施設で誰よりも長く暮らしていたのに、子供のままで。
ブラウやエラや、前のハーレイたちは、成長を止めはしなかったのに。
成人検査を通過できずに檻に入れられても、酷い実験を繰り返されても、彼らは「諦める」道を選ばなかった。「いつか必ず此処を出てやる」と、見えもしない「未来」を見詰め続けて。
彼らはそうして成長したから、前の自分と出会った時には「子供がいる」と思ったらしい。成人検査を受けて間もない、十四歳になったばかりの子供なのだ、と。
(あの船の中で、ぼくだけがチビで…)
子供として可愛がられる間に、本当のことが判明した。「心も身体も子供だけれども、実年齢は船の誰よりも上だ」ということが。
そうなった理由に、前のハーレイたちは直ぐに気付いて、前の自分を育てることに力を入れた。これからは未来も希望もあるから、「大きく育ってゆかないと」と。
(育つためには、運動しなきゃ、って…)
ブラウとエラに、船の中を散歩に連れてゆかれた。「運動するのが一番だよ」と、選んで貰った運動が「散歩」。今と同じに弱い身体だから、無理なく運動するなら「散歩」がいいだろうと。
白い鯨になる前の船は、「シャングリラ」と言っても名前だけの楽園。
公園も無ければ、緑さえも無かったような船。散歩に出掛けてゆくと言っても、船の中を歩いてゆくだけのことで、通路を辿って進むだけ。「次はこっち」と曲がったりして。
ずいぶん味気ない散歩だけれども、あれも散歩には違いなかった。幾つものフロアを順に回って歩いた時やら、船で一番長い通路を何度も往復した時やら。
(ブラウたちと散歩をしてる間に、育ち始めて…)
再び成長を始めた身体。少しずつ背が伸び、チビの子供から、いつしか大人の姿へと。
散歩のお蔭で大きくなれたし、今日の散歩もきっと効果があるのだろう、と思ったけれど。背が伸びるかも、と夢を描いたけれど…。
(そんなに沢山、歩いてないよ…)
今日のぼくは、と散歩した距離を考えてみたら分かったこと。前の自分が散歩した距離、それに比べれば僅かなものだ、と。
白い鯨ではなかった頃でも、充分に大きかった船。大勢の仲間が暮らしていた船。
あの頃にしていた散歩の分を、家の近くで歩くなら…。
(…公園の方まで行かなくちゃ駄目?)
其処まで行ったら遠すぎるから、と行かずに帰って来た公園。夏休みの間は、朝に体操をやっているほどだから、公園としては大きい部類。大勢の人が一度に体操出来る広さがある公園。
その辺りまで行って来ないと足りないらしい、と気付いた散歩の距離。軽い運動と言える散歩をするのだったら、今日の散歩は充分ではない。もっと遠くまで行かないと。
けれど、いくら近所で散歩と言っても、一人でトコトコ歩いてゆくのは…。
(きっと途中で飽きてしまうし、ハーレイだって…)
前に「散歩に行こう」と誘ったら、「それはデートだ」と断られた。恋人同士で散歩するなら、デートということになるらしい。家の近所を歩くだけでも。
そうやって断られてしまわなければ、一緒に歩いて欲しかったのに。
今日は行かずに帰った公園、そっちの方まで行くだとか。もっと遠くの川の方まで、休みながら歩いてゆくだとか。…川に着いたら河原で休憩、帰りも散歩で、歩いて家まで。
前の自分がしていた散歩は、川までの散歩には敵わなくても、公園までなら充分にあった。毎日ブラウやエラと歩いて、大きく育っていったのだから…。
(今のぼくって、運動不足…)
明らかに足りていない運動。前の自分がチビだった頃に比べたら。
それで自分は、いくら経っても育たないのに違いない。運動の量が足りないせいで、チビのまま伸びてくれない背丈。
(これじゃ大きくなれないよ…)
そうは思っても、一人で散歩はつまらない。歩く距離が長くなればなるほど。
おまけに、一人で歩く間に、ウッカリ友達に出会ったら…。
(遊んで行けよ、って…)
そのまま家に連れて行かれて、ゲームをするとか、一緒におやつを食べるとか。友達によっては家にペットがいたりもするから、夢中で遊んでいる内に…。
(すっかり遅くなっちゃって…)
「さよなら!」と手を振って家に帰ったら、母に言われるかもしれない。ハーレイが家に来て、「ブルー君はお留守ですか」と、帰って行ってしまった、と。
散歩に出掛けて行ってそのまま、いつまで経っても家に戻らなかったのだから。
一人で散歩は、つまらない上に危険が一杯。友達と遊ぶのは楽しいけれども、ハーレイと二人で過ごせる方がずっといい。毎日のように来てくれるとは限らないから、その分、余計に。
(散歩に出掛けて、そのまま留守にしちゃうよりかは…)
ハーレイを巻き込むべきだろう。前は「駄目だ」と言われた散歩に、ハーレイも一緒に出掛けてくれるようにと、きちんと頼んで。
(デートじゃなくって、運動なんだし…)
断られないかも、という気がする。前に散歩に誘った時には、運動の話を出してはいない。あの時は散歩に行きたかっただけで、「ハーレイと二人で歩く」ことが目当て。二人並んで、いろんな話をしたりしながら。
(ただ歩きたいって言うのと、運動したいって言うのとでは…)
ずいぶん違う、と自分でも分かる。運動だったら、ハーレイは乗り気になるかもしれない。
(夏休みに公園でやってた体操…)
「行きたいんだったら、付き合うが?」と誘われたことを覚えている。毎朝、家まで迎えに来るとも言っていた。朝の体操に出掛けるのなら。
(もしも体操に行っていたなら、毎朝、公園まで二人で散歩…)
行きも帰りも二人で歩いて、公園に着いたら他の人たちも一緒に体操。「健康的だぞ」と勧めていたハーレイだし、運動のための散歩となったら、断らない可能性だって。
(頼んでみなきゃね…?)
ハーレイが来てくれた時に、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。
「あのね、ハーレイ…。散歩に連れて行って欲しいんだけど」
ぼくのお願い。ぼくと一緒に散歩をしてよ。この家の近くだけでいいから。
「はあ? 散歩って…」
何を言うんだ、前に断ったと思うがな?
お前と散歩に行けばデートになっちまうから、そいつは駄目だと。…デートにはまだ早いしな。
忘れたのか、とハーレイに軽く睨まれたけれど、此処で引き下がるわけにはいかない。
「デートの散歩じゃないってば! 運動だよ!」
でないと、ちっとも育たないんだよ、いつまでもチビのままなんだから…!
前のぼくは散歩のお蔭で大きく育ったんだもの、という説明から始めることにした。前の自分を育てた運動、それがブラウたちとの散歩だった、と。
「船の中の通路を歩いていたでしょ、前のハーレイが横を走って行ってたじゃない」
前のハーレイは走って運動、ぼくはブラウやエラたちと散歩。
あれのお蔭で大きくなれたよ、それまでは育っていなかったのに…。アルタミラの檻で暮らした間は、少しも育ちはしなかったのに。
エラもブラウも、ぼくに言ったよ、「運動しなきゃ」って。
運動したら身体も育つし、船の中の散歩も大切だから、って毎日のように連れてってくれて…。
前のぼくは散歩のお蔭で育ち始めて、ちゃんと大きくなれたんだってば。
でも、今のぼくは、ハーレイと会ってから少しも育たなくって…。一ミリも背が伸びなくて…。
これって、運動不足だからだよ、前と同じで。
ぼくの運動が足りていないせいで、ちっとも大きくなれないんだよ。…チビのまんまで。
だから散歩に連れて行って、と頭を下げた。「運動不足じゃなくなるように」と。
「運動不足で育たないだと? 今のお前がか?」
そいつは違うと思うがなあ…。どう考えても、運動不足だとは思わんが?
なにしろ今のお前だからな、とハーレイは至極真面目な顔。「デートは駄目だ」と切って捨てる代わりに、「運動不足ではない」と来た。
「運動不足じゃないなんて…。なんで?」
どうしてハッキリそう言えちゃうの、今のぼくのことも知ってるくせに。
ぼくは今でも身体が弱くて、ろくに運動してなくて…。
学校だってバス通学になってるくらいで、他の子みたいに歩いて通っていないのに…。
自転車で通う子だっているよ、と挙げた運動不足の一例。学校までは歩ける距離で、自転車でも軽く走ってゆける。身体さえ丈夫に出来ていたなら、普通はそう。…体力自慢の猛者ともなれば、学校まで一気に走り抜くほど。「これくらい軽い」と、ギリギリの時間に家を出て。
「それだ、それ。バス通学になってる所が大切だ」
歩いて学校に通うように、とは誰も言ったりしないだろうが。先生は大勢いるのにな?
お前はお前の身体に見合った運動をしてるってわけだ、バス停から家まで歩くってトコで。
後は学校で校舎の中を移動するとか、もうそれだけで充分なんだということだな。
体育だって、見学してない時もあるだろ、と指摘された。
見学が多い体育だけれど、体操服を着ている時だってある。身体が悲鳴を上げない程度に、他の生徒とグラウンドを駆けている時だって。
「そうだけど…。でも、途中から見学になっちゃう時も多いよ?」
サッカーの途中で抜けてしまったり、走ってる途中で座り込んだり。
無理をし過ぎたら、後で寝込んでしまうから…。それは困るし、ちゃんと用心しているもの…。
だから運動、足りていないよ。他のみんなと同じくらいに走ったりなんかは出来ないから。
それなのに、学校に行く時までバスで通っているなんて…。もっと運動しなくっちゃ…。
前のぼくみたいに散歩しないと、と頼み込んだ。「ハーレイ、一緒に散歩してよ」と。
「分かっちゃいないな、お前ってヤツは。本当に運動不足だと言うんだったら、その辺はだ…」
きちんと周りが考えるってな、出来る範囲でお前が運動するように。
散歩もそうだし、他にも軽い運動ってヤツは幾つもある。この部屋で出来るようなのも。
しかし、お前は、お医者さんにも何も言われちゃいないだろ?
「毎日これだけ歩くように」だとか、「こういう体操をするように」とかは…?
どうなんだ、と尋ねられたから、素直に答えた。「お医者さんは何も言わないよ」と。
「体育の授業も、学校に行く時も、無理しないように、って言われてるだけ…」
家でも、あんまり無理しちゃ駄目だ、って。…具合が悪くなった時には、直ぐに寝ないと…。
そのくらいかな、と考えてみる。散歩も体操も、医師からは何も言われないから。
「ほら見ろ、やっぱり運動不足じゃないってな。それだけしか言われていないってことは」
医者って仕事は、患者の健康管理ってヤツも考えないと駄目だから…。
必要だったら、運動の内容を指示されるぞ。場合によっては、そのための教室なんかの紹介も。水泳がいいと思った場合は、患者が集まる水泳教室。体操の方も同じだな。
本物の運動不足となったら、医者はそこまでするもんだ。でないと治らない病気もあるから。
運動ってヤツを馬鹿にするなよ、とハーレイは運動の大切さを説いた。運動不足が酷くなったら悪化する病気もあるらしい。そうなった時は、とにかく運動。医師の指示通りに。
「それに比べたら、お前はきちんと運動している」というのがハーレイの意見。バス通学でも、体育は見学ばかりの日々でも、運動は足りているらしい。
散歩なんかは必要ない、とも言われてしまった。「お前の運動、充分だろう?」と。
運動不足などではなくて、散歩の必要も無いらしい自分。確かに主治医には何も言われないし、両親も「運動しなさい」などとは言わない。ただの一度も。
けれども自分は育たないわけで、アルタミラの檻の中でもないのに、一ミリも背が伸びない今。幸せな日々を過ごしているのに、食事もおやつも足りているのに。
「運動不足じゃないなんて…。それじゃ、どうして背が伸びないわけ?」
前のぼくの背が伸びなかった頃は、ずっと檻の中で暮らしてて…。
ハーレイたちみたいに強くなくって、ぼくは育たなかったんだよ。大きくなっても、いいことは何も無いんだから。…ぼくに自覚は無かったけれど。
お蔭でぼくだけチビの子供で、前のハーレイたちが育ててくれて…。身体も、中身の心の方も。
でも、今のぼくは檻で暮らしていないから…。ぐんぐん育つと思わない?
それがちっとも育たないのは、運動不足で、散歩に行かないからじゃないかな…?
前のぼくは散歩をしてたんだから、と食い下がったけれど、ハーレイは笑うだけだった。
「そいつは、お前の考え違いというヤツだ。…そうでなければ、思い込みだな」
散歩に行ったら背が伸びるだろう、と前のお前を重ねちまって、夢を見てるといった所か。
だがな、本当はそうじゃない。
いつも言ってるだろ、今のお前がチビのままなのは、神様のお考えだろう、と。
前のお前が失くしちまった子供時代を、今のお前は体験中だ。前よりも、ずっと素敵な世界で。
成人検査なんかは何処にも無い上、血の繋がった本物のお父さんとお母さんがいて…。
幸せ一杯に過ごしてるわけで、それが出来るのは今だけだ。…お前がチビの子供の間。
背が伸びて大きくなっちまったら、今みたいに甘えられないぞ?
お父さんやお母さんたちにとっては、いつまでも「可愛い一人息子」だろうが、周りの目というヤツもあるから…。家では良くても、外ではなあ…?
我儘を言ったり出来なくなるぞ、と言われてみれば、その通り。
前の自分のような姿に育った時には、両親と何処かに出掛けたとしても…。
(パパが食べてるお料理、とっても美味しそうでも…)
「それ、ちょうだい!」と手を伸ばせはしない。一切れ欲しい、とフォークで突き刺すことは。
母の方でもそれは同じで、「これも美味しいわよ。食べてみる?」と、お皿に載せてはくれないだろう。スプーンで掬って、「食べる?」と差し出してくれることだって。
チビの自分だから出来ること。家の外でも、両親に甘えて過ごせる自分。…まだ子供だから。
けれど大きくなってしまったら、他の人たちの目があるだろう。甘えたくても、甘えたい気分になった時でも。
(家で御飯を食べてる時なら、「それ、ちょうだい!」って言えるけど…)
レストランでは、とても言えない。喫茶店でも言えはしないし、言える場所など何処にも無い。食事だけではなくて、一休みしたい時だって…。
(今のぼくなら、「疲れちゃった」って…)
ペタンと座り込んでしまっていたら、両親がせっせと世話してくれる。ジュースを飲ませたり、甘い物を買いに走ったり。チビの自分はチョコンと座って、小さな王様みたいだけれど…。
(大きくなった姿だったら、偉そうに見えるか、頼りなさそうか…)
どっちにしたって、いい評価は得られそうもない。「身体ばっかり大きいんだな」と、ジロジロ眺められたりもして。
そう考えると、ハーレイの言葉が正しいのだろう。チビの自分はとても幸せで、満ち足りた今を過ごしているから。…大きくなったら出来ないことも、今の自分は出来るのだから。
育ってしまえばそれでおしまい、チビの姿には戻れない。「あの頃の方が楽しかったよ」などと思ってみたって、身体は縮んでくれたりしない。
でも…。
「ハーレイと散歩、行きたいんだけどな…」
運動不足になってるんなら、散歩に行けると思ったのに…。デートじゃなくって運動だから。
そっちの方なら、ハーレイは断らないんだろうし…。
散歩に連れてってくれていたでしょ、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。「どうなるの?」と。
「お前が運動不足だったら、そりゃまあ、断ったりはしないな」
健康のために散歩をしたい、と言うんだったら、俺も断るような真似はしないぞ。
もっとも、デートじゃないわけなんだし、其処をきちんと詰めないと…。
デート気分で散歩されたら、俺の方は愉快じゃないからな。運動はあくまで運動なんだし、俺は手抜きをしない主義だ。こと、運動に関しては。
ダテに柔道部だの、水泳部だのの顧問をやってはいない。
お前を散歩に連れて行くにしても、きちんとコースを決めるだろうな、時間なんかも。
運動不足で散歩となったら、俺はコーチだ、とハーレイは厳しい顔をしてみせた。手加減なしでビシバシやるぞ、と。
「お前が嫌だと言い出したって、引き摺って出掛けて行くかもなあ…。ほら、行くぞ、と」
そういう散歩は、お前も嬉しくないだろう?
「うん…。ハーレイと二人で散歩するのはいいけれど…」
今日のコースはもっと先まで、って歩かされるとか、行きたくない日も行かされるとか…。
そんなのは嫌だし、ホントに普通の散歩がいい。…ハーレイがコーチにならない散歩。その日の気分で好きに歩けて、好きな所で家に帰って来られる散歩が。
でも駄目みたい…、と肩を落とした。自分は運動不足ではなくて、ハーレイと散歩に行くことは無理。それに運動不足だとしても、その時はコーチのハーレイの指導で散歩になるから。
「今は駄目だが、いずれは俺と散歩に行けるさ」
シャンと背筋を伸ばして歩け、なんてことは言わない俺と一緒に。…それこそデート気分でな。
しかし、散歩か…。前のお前は、いつも散歩をしていたが…。
船の中をな、とハーレイが顎に手を当てているから、首を傾げた。
「どうかしたの?」
前のぼくの散歩、今のハーレイだと気に入らないとか…?
もっとシャキシャキ歩くべきだとか、歩いてた距離が足りないだとか…。コーチをしよう、っていう今のハーレイの目で見てみたら、あんな散歩じゃ駄目だった…?
ハーレイは運動のプロだものね、と分からないではない気分。今のハーレイは柔道と水泳で鍛え続けて、プロの選手の道まで開けていたほどの腕。トレーニングにも詳しいだろうし、散歩という軽い運動にしても、歩き方などに理想の形があるだろうから。
「いや、そういうのじゃないんだが…。前のお前は頑張っていたし」
あの船の中じゃ、あれだけ出来れば上等だ。今の平和な時代だったら、色々と注文するんだが。
平らな所ばかりを歩かず、少しは坂も歩いてみろとか、歩くペースの配分なんかも。
今の地球なら、どんなコースでも選び放題だが、前のお前が歩いていたのは宇宙船の中で…。
なんともデカイ船だったよな、と思ってな。
白い鯨になる前の船でも、あれは相当にデカかったんだ。船の中で散歩が出来るくらいに。
前のお前が散歩していた距離は、かなりのモンだぞ。毎日、歩いていたわけだがな。
景色も無いような船の通路を飽きもしないで…、と今のハーレイが感心している散歩。そこそこ距離があった筈だと、「この辺りであれだけ歩くとなったら、何処までだろうな?」と。
「お前の家から歩き始めたら、かなり遠くへ行けるんじゃないか?」
夏休みに朝の体操をしていた公園、あそこまでは充分、行けそうだ。前のお前の散歩の距離。
「あっ、ハーレイも気が付いた?」
前のぼくの散歩、うんと長い距離を歩いてたんだ、っていう所。船の中しか歩いてないのに…。
だけど散歩にかかった時間はけっこうあったし、あの距離はかなり長いよね、って…。
そのせいで散歩だと思ったんだよ、と「運動不足だ」と散歩を頼んだ理由を話した。学校からの帰りに、バス停から家まで真っ直ぐ帰らず、散歩したこと。いつもの道を外れていって。
あちこち歩いて満足したのに、後から思い返してみたなら、前の自分が散歩をした頃に比べて、相当に短かった距離。
それに気付いて、「今の自分は運動不足だ」と考えたのだ、と。何もしていないのに、いきなり散歩や運動不足という言葉などを、ポンと思い付いたわけではない、と。
「そうだったのか…。前のお前の散歩と比べていたんだな、お前」
あれに比べりゃ、今のお前は運動不足な気もするだろう。歩いている距離が違い過ぎるから。
しかしだ、今のお前は他にも色々と動いているから、何の心配も要らないってな。
前のお前に体育の授業は無かったんだし、それだけでも大きく違うってモンだ。見学の時が多い授業でも、まるで無いよりは遥かにマシなものなんだから。
前のお前は船の中を歩いて、運動代わりにしていたが…。前の俺たちは、けっこう歩いていたと思うぞ、地面なんか何処にも無かった割には。
お前はともかく、俺の方はだ、よく頑張って歩いてたよなあ…。
「え? ハーレイって…」
前のハーレイは散歩じゃないでしょ、いつも船の中を走っていたよ。ジョギングみたいに。
ぼくやブラウが歩いてる横を、凄い速さで追い越して行って…。
行っちゃった、って見送っていたら、違う方から走って戻って来たりもして。
ついていける人は誰もいなかったでしょ、と前のハーレイを思い出す。一緒に走ろうとしていた仲間は、皆、置き去りにされるのが常。ハーレイが走り去ってしまって。
だからハーレイが「頑張った」ものは、走ることだと考えたのに…。
「あの船じゃなくて、白い鯨になった後だな。…シャングリラには違いないんだが」
俺が頑張って歩いていたのは、そっちの船だ、とハーレイは手を広げてみせた。
「とんでもなくデカイ船だったぞ?」と、「どれだけの大きさがあったんだ、アレは?」と。
言われてみれば、白いシャングリラは巨大な船。人類軍さえ、あれほどの巨艦は持たなかった。民間船もそこまで大きくはなくて、宇宙最大の船でもあったシャングリラ。
「大きかったね、シャングリラは…。白い鯨になった後には」
もっと大きく出来る筈だ、っていう案を取り入れていって、ああいう船になったから…。
船の端から端まで歩いて行くのは大変だから、ってコミューターまで走っていたくらいに。
最初の頃には、たまに止まってしまったけどね、と船の中を結んでいた乗り物を懐かしむ。皆が使っていたのだけれども、止まった時には歩く以外に移動手段が無いものだから…。
(早く直して、みんなが使えるようにしないと…)
大変なことになってしまう、とゼルが自転車で走っていた。修理の指揮を執るために。少しでも早く現場に着こうと、倉庫から引っ張り出してきた古い自転車で。
ゼルが現場に急ぐ時には、前のハーレイも同じに走った。やはり自転車で、船の通路を。背中のマントを翻しながら、せっせとペダルを踏み続けて。
「自転車なあ…。ああいう便利なものもあったが、壊れちまったら、それっきりでだ…」
もうコミューターも安定してたし、誰も作りやしなかった。新しい自転車というヤツは。
そういうやたらとデカかった船で、前の俺は仕事柄、あちこちにだな…。
テクテク歩いて出掛けたもんだ、というハーレイの言葉は間違っていない。コミューターが無い所にだって、キャプテンの仕事はあったのだから。
「そうだね、農場の見回りだったら、端から端まで歩くんだし…」
やっと終わった、と思った途端に、機関部の奥に呼ばれちゃったら、また歩くしか…。
「そういうことだな、キャプテン稼業は忙しいんだ」
何も無ければ、ブリッジだけで一日が終わる時だってあるが…。
そうじゃない日は、どれだけの距離を歩いたんだか…。下手なミュウなら参っちまうぞ。
同じ船でも、前のお前は視察くらいでしか歩いちゃいないが。
「うん。瞬間移動でズルもしてたし…」
ハーレイみたいに真面目に通路を歩いていないよ、前のぼくはね。
コミューターも使わなかった時があるもの、とクスクス笑った。あんな乗り物で移動するより、瞬間移動の方が遥かに速い。何処へ行くにも、一瞬だったから。
「前のぼくは瞬間移動で飛んで行くことが多かったけど…」
青の間からブリッジ、かなり遠いね。…ブリッジの入口までしか、瞬間移動はしていないけど。
あそこまでの距離って、ぼくの家からバス停まで行くより遠くない…?
もう一つ向こうのバス停まで行けてしまえそう、と頭の中に描いた距離。それとも、もっと遠いだろうか。バス停で二つほど向こうにあるのがブリッジだろうか、此処が青の間なら…?
「バス停か…。それより向こうにあるっていうのは確かだろうな、ブリッジは」
次のバス停までになるのか、もう一つ向こうか、その辺は直ぐにはピンと来ないが…。
あの通りを歩いて来る日もあるんだがなあ、お前の家まで歩く時には。
シャングリラってヤツは、実に馬鹿デカイ船だった。その中を歩いていたのが俺か…。
いったいどれだけ歩いたのやら、とハーレイが回想している「忙しかった日」。船のあちこちでキャプテンが呼ばれて、シャングリラの中を歩き回って終わっていた日。
「…シャングリラの中って…。全部歩いたら、どのくらいかかるものだったのかな?」
船の端から端まで回って、全部の通路を歩いていたら。
「それは時間を訊いているのか?」
全部歩くのにかかる時間は、どれほどかという質問なのか?
「そうだけど…。どのくらいなの?」
青の間からブリッジまでの距離でも、バス停の所を通り過ぎていってしまうんでしょ?
全部の通路を歩いて行ったら、時間はどのくらいかかるのかなあ、って思ったんだけど…。
ホントに大きな船だったから、と白いシャングリラの姿を思い浮かべる。前の自分が思念の糸を張り巡らせていた巨大な船。その中を歩いて通って行くなら、どのくらいの時間が要るのかと。
「さてなあ…?」
前の俺も一度に歩いちゃいないし、実際の所はよく分からん。
キャプテンのくせに、と言われそうだが、とても歩けるような船ではなかったからな。
俺の身体は一つだけだし、一日の間に行ける範囲は限られている。どうしても無理だと判断した時は、伝令を走らせることもあったし…。
日を改めて行くことにする、と後回しにした案件だって多いってな。
だがデータなら、と挙げられた数字。白いシャングリラの桁外れな巨大さを示すもの。
船の端から端までの長さを示すものはともかく、通路を全て繋いだ距離は、どれほどなのか。
「シャングリラの通路って…。全部繋いだら、そんなにあったの?」
前のぼくも、多分、一度くらいは耳にしたことがあっただろうけど…。
ハーレイと違って、その数字を使うことが無いから、何も覚えていなかったよ。船の中だなんて信じられないくらい…。一つの町がスッポリ入ってしまいそう…。
「当たり前だろ、船だけでもデカイわけだから」
その中を結ぶ通路となったら、全長ってヤツの何倍になるか、外からは想像もつかないってな。
全部の通路を走ることになれば、マラソンどころの距離じゃないんだ。
前の俺でも、あの船の方だと、とてもじゃないが全部を走ろうって気にはなれんぞ。
ダウンしちまう、とハーレイでさえも白旗を掲げる白いシャングリラの通路。全部を繋いだ距離など走ってゆけはしないと。
「そうみたいだね…。今のハーレイなら、走れるようにも思うけど…」
走れたとしても相当かかるね、走り始めてからゴールインまでに。
「うむ。やってやれないことは無いとは思うんだがなあ、ダテに鍛えちゃいないから」
とはいえ、給水ポイントと軽い何かが食える所は欲しいモンだな。
走った分だけエネルギーを使うし、水分だって抜けていくから補給しないと。
お前じゃとても歩けやしないぞ、あれだけの距離は。…途中で何度も休むにしたって。
前のお前は歩いちゃいないが、と苦笑している今のハーレイ。「いつも瞬間移動だっけな」と。
「そうだよ、楽で速かったからね」
だから歩こうとは一度も思わなかったけど…。歩いてみたことも無いんだけれど…。
今なら、歩いてみたいかな。とんでもない距離になるみたいだけど…。
「なんだって?」
歩くって、何処を歩くんだ?
シャングリラはもう宇宙の何処にも無いんだが、とハーレイは怪訝そうな顔をするけれど。
「分かってるってば、本物はもう無いってことは。でもね…」
代わりに青い地球があるでしょ、ぼくたちが生きてる今の地球が。
その地球の上で、おんなじ距離を歩いてみるんだよ。ハーレイが言った、さっきの距離をね。
同じ歩くのなら、この町の中で、ハーレイと一緒に。
青の間から出発したつもりになって、ずっと歩いて同じ距離をゆく。白いシャングリラの通路を全て繋いだ距離だけ、二本の足で歩き続けて。
「ふうむ…。あの距離を歩いてみようってか?」
面白いかもしれないな、それは。…シャングリラのデカさを俺と二人で体験する、と。
しかし、お前は参っちまうぞ、それだけの距離を歩くとなると。もはや散歩とも言えないし…。
かなりハードな運動になると思うんだが、とハーレイは心配そうだけれども、その心配は多分、要らない。此処は地球の上で、シャングリラの中ではないのだから。
「大丈夫。休憩する場所、幾つもあるでしょ」
この町の中を歩いていくだけで、シャングリラの中とは違うんだから。
喫茶店もあるし、ジュースを売ってるお店も沢山。食事が出来るお店だってね。
「なるほどなあ…。確かに船の中とは違うな、休める場所はドッサリある、と」
そいつを星座のように繋いで、あれだけの距離を歩くってか。お前が疲れてしまわない程度に。
歩き疲れた時には休んで、飯を食ったりなんかもして。
「いい方法だと思うんだけど…。シャングリラの中を二人で歩く方法」
船は無いけど、視察気分で、散歩でデート。こんなのはどう?
此処まで来たね、って、シャングリラの中なら何処になるのか考えたりして。
「それも悪くはないかもしれん。お前が参ってしまわないなら」
最初の間は参っちまっても、何度も出掛けて、少しずつ距離を伸ばすつもりだな…?
全部を歩くつもりだろうが、とハーレイが訊くから頷いた。
「そう! いつかは全部を歩くんだよ」
シャングリラの中の通路を全部、繋いだだけの距離を歩いて散歩。
走ったんなら一日で行けても、散歩だったら、一日じゃ無理な気もするけれど…。
それにホントは、今すぐにだって行きたいんだけど…。
「今は駄目だな、デートにはまだ早いと言ったぞ」
連れては行けん、とハーレイが睨むから、小さな声で言ってみた。
「ぼくの背、伸ばしたいんだけど…」
運動不足で背が伸びないなら、散歩で伸びてくれそうだけど…。駄目…?
やっぱり駄目かな、と縋るような視線を向けたけれども、ハーレイはフンと鼻で笑った。
「さっきも言ったが、今のお前の運動の量は足りている。充分にな」
だから散歩の必要は無くて、俺と一緒に歩かなくても安心だ。運動不足になってはいない。
俺と結婚した後にだって、運動不足を解消するより、体力作りの方の散歩だな。その視察は。
シャングリラの中を歩くつもりの長い散歩は…、とハーレイが言うから心配になった。コーチの方のハーレイが出てくるのだろうか、と。
「ハーレイ、ぼくを鍛えるつもり?」
散歩をするならシャキシャキ歩け、って号令したり、「背筋を伸ばせ」って叱ったり。
そういうコーチになったハーレイと一緒に歩くの、シャングリラの中を歩くつもりの散歩は…?
「お前なあ…。それじゃお前が楽しくないだろ、コーチと歩いて行くなんて」
体力作りはそのままの意味だ、少しでも風邪を引かない身体になるように。
お前に体力をつけさせようにも、ジョギングは、お前、無理だから…。
シャングリラの中を歩いていると思えば、長い距離でも楽しい気分で歩けるだろ?
無理をしないで、お前のペースで…、という提案にホッとした。それなら歩けそうだから。
「言い出したのは、ぼくだしね…。運動不足だから散歩したい、って…」
じゃあ、運動…。体力作りのために、ハーレイと散歩。
最初にぼくが思っていたより、とんでもない距離になっちゃったけど…。でも、歩くよ。
「よし、決まりだな。そうとなったら…」
シャングリラの設計図と町を重ねてみるかな、最初は船の端から端まで歩いてみよう。
それで距離感を掴んだ後には、距離を伸ばして、通路を全部繋いだ長さを歩いてゆく、と。
休憩場所を幾つも挟んで、二人でルートを決めようじゃないか、とハーレイが言うから、今から楽しみでたまらない散歩。この町の中を、ハーレイと歩いてゆける時。
いつか二人で出掛けてみよう、長い散歩に。一日ではとても歩き切れない距離のコースを。
白い鯨の巨大さを二人で実感できて、身体も健康になる散歩。
疲れたら休んで、無理はしないで。
少しずつ距離を伸ばしてゆけたら、きっと幸せ一杯だろう。
ハーレイに「頑張ったな」と褒めて貰えて、「もっと歩くよ」と歩き続けて。
白いシャングリラの中を歩く代わりに、青い地球の上で、手をしっかりと繋ぎ合って…。
行きたい散歩・了
※白い鯨と呼ばれたシャングリラ。船の通路を全て繋げば、町が丸ごと入るくらいに。
もうシャングリラは無いのですけど、ハーレイとブルーで、いつか散歩に行ってみたい距離。
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